正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

聖典を読む―『臨済録』―鎌 田  茂 雄ー

     聖典を読む―『臨済録』―

                   東京大学教授 鎌 田  茂 雄

一九二七年、神奈川県鎌倉市生まれ。帝国陸軍軍人より復員後、円覚寺で参禅し、駒澤大学仏教学部に進む。その後、東京大学大学院に進み、華厳学を専攻した。その後、東京大学教授となり、NHKの「こころの時代」で講師を務める傍ら、古巣の駒澤大学や、筑波大学九州大学大阪大学富山大学大正大学などで非常勤講師として指導に携わり、東京大学を定年退官後、名誉教授となり、愛知学院大学へ転任し、国際仏教学大学院大学の設立に理事として関わり、開校後は教授として指導に当たった。著書に『中国華厳思想史の研究』『禅とはなにか』『中国仏教史』『禅と合気道』『仏教伝来』『観音のきた道』ほか。二○○一年没。

 

                   き き て  松 村  賢 一

松村:  今月は、仏教の聖典をずっと読んでまいりました。今日は『臨済録(りんざいろく)』を味わったみたいと思います。『臨済録(りんざいろく)』と言いますのは、中国の唐の時代に活躍した臨済禅師(中国唐の禅僧で、臨済宗の開祖:?-867)の言行録―言葉とか行いを綴ったもので、さまざまなエピソードを交えて臨済禅の面目が生き生きと伝えられております。お話は東京大学教授で中国仏教がご専門の鎌田茂雄さんに伺います。どうぞよろしくお願い致します。

まず臨済の生きた時代、唐の時代とご紹介したんですが、仏教史の上で言いますと、どんな時代だったんですか。

 

鎌田:  そうですね。ちょうど中国の仏教が一番盛んなのは、隋から唐の時代ですが、隋から唐にいろんな宗派ができまして、法相宗(ほっそうしゅう)とか華厳宗(けごんしゅう)とか、その時代のそういう仏教は難しい哲学的な理論仏教です。それを支えたのが唐の王様だったり、国家権力を背景にしてそういう宗派があったわけです。ところが唐の中頃安史(あんし)の乱(755年)というのが起こりまして、中央の支配体制がだんだん弱くなりまして、地方の軍閥がいろんなところで割拠するようになりますね。そんなような軍閥の時代、節度使(せつどし)が独裁して、そういう支配していた時代に、臨済が生まれたわけです。仏教史の方からいいますと、八四五年なんですが、「会昌(かいしょう)の廃仏」という仏教を弾圧する事件が起こりまして、大体二十六万人ぐらいの坊さんが、坊さんを止めて還俗(げんぞく)させられたわけですね。そのことは円仁(えんにん)(第三代天台座主。慈覚大師(じかくだいし)ともいう:794-867)さんの旅行記『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』なんかにも詳しく書いてあります。そういう頃居たわけですから、大変な動乱の時代ですね。それで場所は華北(かほく)ですから、北の方ですね。南の揚子江流域の地域とは違って、非常に厳しい風土のところですね。そこで臨済は活躍したわけです。

 

松村:  動乱の時代で、しかも仏教からいうと受難の時代でもあったわけですね。

 

鎌田:  そうです。大変な迫害の時代ですね。臨済が死んだのは、八六七年と言われておりますので、それを経験していると思うんですね。華北まで廃仏が及んだかどうかわかりませんけどね。そういうとにかく動乱の時代に生き抜いた人だということは言えるかと思いますね。

 

松村:  その生い立ちなんですけれども、どういう生い立ちをした人なんですか。

 

鎌田:  あんまり生い立ちははっきりわからないんですね。生まれた年もちょっとはっきりわからないんですが、まあ九世紀の初め頃生まれたんだろうと思います。そしていろんな詳しいことを自分で語っておりませんのでよくわかりません。断片的な、どこへ行って悟りを開いたとか、どこの寺へ住持(じゅうじ)したとか、そういう記録はありますけどね。

 

松村:  そうしますと、そういうものを窺い知るのは、その『臨済録』の中の言葉に頼るわけしかないわけですね。

 

鎌田:  そうですね。後から書いた伝記のようなものがありますけど、彼自身が自分自身を振り返って、「儂はこういう生活をしたんだ」と言っているのが、『臨済録』の中に断片的に出てくるわけですね。

 

松村:  じゃ、それをちょっと見てみましょうか。

 

鎌田: 

大徳(だいとく)、因循(いんじゅん)として日を過ごすこと莫(なか)れ。

山僧(さんそう)往日(そのかみ)、未だ見処(けんしょ)有らざりし時、

黒漫漫地(こくまんまんじ)なりき。

光陰は空(むな)しく過ごすべからず、

腹熱(ねっ)し心忙(いそが)わしく、奔波(ほんぱ)して道を訪(おとな)う。

 

「因循(いんじゅん)として日を過ごすこと莫れ」と言っておりますが、毎日ぐずぐずしていい加減に日を送ってはいけないんだと。「山僧(さんそう)往日(そのかみ)」というのは、自分のことですね。自分は昔、「未だ見処(けんしょ)有らざりし時」というのは、まだはっきり悟りを開いていない時、わからなかった時、「黒漫漫地(こくまんまんじ)なりき」これは真っ暗闇なんですね。もうまったく気持ちが真っ暗で、どこにも光りを見出すことができない。そういう中で時間を虚しく過ごしちゃいかんと。何とか救いを求めたいと。大変なノイローゼ気味で、「腹熱(ねっ)し心忙(いそが)わしく」大変なノイローゼと申しますか、何とか救いを得たいと。「奔波(ほんぱ)して道を訪(おとな)う」というのがいいですね。あっちの先生がこういう教えを説いていると言えば、飛んで行き、あっちこっちとできるだけ行ったわけですね。ですから大変な青年時代だと思います。青年時代は当然勉強したんですね。それでとにかく自分の疑問、悩みを解決するために、仏教の本を読んだんですね、あるいは戒律を勉強した。それで華厳とか唯識とか、難しい本があるんですよ。そういうものを一生懸命やったと思うんですね。ところがなかなか救いが得られないというのが、青年時代だと思います。まっすぐに何かを掴みたかったんですね。自分の心を安んずるものを何としても見つけたかったというのが、青年時代だと思いますね。

 

松村:  その内面の苦悩ぶりがまざまざと伝わってくるような文章ですね。

 

鎌田:  そうです。ですから非常に簡単に自分の過去を振り返って言っているんですが、ここに彼の青年時代のことがはっきり現れていますね。それで黄檗(おうばく)禅師(黄檗希運。中国唐代の禅僧。臨済宗開祖の臨済義玄の師:?-850)のところに行くわけですが、「行業(ぎょうごう)純一(じゅんいち)なり」と『臨済録』に書いてあるわけです。非常に真面目に修行したんだと思うんです。ですから純粋に道を求めたのが、彼の青年の時の姿だと思いますね。

 

松村:  それで今お話が出ました黄檗という、これは師に当たるわけですね。

 

鎌田:  そうです。

 

松村:  そこで修行をして、で、どんな悟りの内容に至ったんですか。

 

鎌田:  そうですね。黄檗のところで修行していまして、それで「仏教の一番大切なギリギリは何かと質問して来い」と先輩に言われましてね、そして質問するんですが、パッと打たれるわけですね。三度質問して、やっぱり打たれてしまう。ここに居てもしょうがないと思って、黄檗のところへ挨拶に行ったんですね。「お前、大愚のところへ行ってみろ」と。大愚和尚のところへ行きまして、そこで初めて黄檗の言っていることが何であるのか、黄檗の本当の仏教を悟った。それが彼の一つの悟りですね。それを『臨済録』で書いているわけですね。一番悟りの核心は何だと、こう言っているわけですね。それが「真正(しんしょう)の見解(けんげ)」という言葉でありますが、それを見てみましょう。

 

今時(こんじ)、仏法を学(がく)する者は、

但(しばら)く真正(しんしょう)の見解(けんげ)を求めんことを要す。

若(も)し真正の見解を得ば、生死(しょうじ)に染(そ)まず、

去住自由なり。

 

要するに、只今仏法を学ぶ者は、真正(しんしょう)の見解(けんげ)を求めることが必要だ。それ以外にないんだと。真正(しんしょう)の見解(けんげ)さえそれがきちんと得られれば、生死の迷うに染まることもないし、そして行くもとどまっていても、それは全部自由だと。この言葉の中で一番重要なのは、「自由」という言葉です。この「自由」というのは、現代語の「自由」ということではまったくありません。どういうことかというと、これは「自ら由(よ)る」んです。自らによって立つ。ですからそれが自由だということですね。この「自由」という言葉も、初期の禅の他のグループにもあるかも知れませんが、臨済が使っているのは強烈ですね。自らに依る。他に依らないんだ、というのが、自由だと。ですからそういう真正(しんしょう)の見解(けんげ)を得れば、自らに由って立つことができるんだ、ということですね。

 

松村:  そうすると、真正(しんしょう)の見解(けんげ)というのは、一体どういうことなのか、というのが非常に大事なポイントになると思うんですが、どういうことなんでしょうか。

 

鎌田:  はい。とにかく真正(しんしょう)の見解(けんげ)によって自由が得られるわけですから、真正(しんしょう)の見解(けんげ)とは何か、ということを『臨済録』の中で定義をしております。それをちょっと見てみましょう。

 

唯(ただ)、聴法(ちょうぼう)無依(むえ)の道人(どうにん)のみ有り、

是れ諸仏の母なり。

所以(ゆえ)に仏は無依(むえ)より生ず。

若し無依を悟れば、仏も亦(また)無得(むとく)なり。

若し是(かく)の如く見得(けんとく)せば、

是れ真正の見解(けんげ)なり。

 

これは大変な、ちょっと読んだだけではよく意味が取れませんが、彼の本当のことを言っているんですね。一番最初は、いろいろ仏とはどこにいるんだとか、仏を求めたいとか、我々考えますね。ところが一番大事なのは、「聴法(ちょうぼう)」というのは、今俺の話を聞いているお前たち、ということですね。お前こそが無依(むえ)の道人(どうにん)なんだと。それこそが諸仏の母だと、こう言っているわけです。そうしますと、仏は無依(むえ)から生ず。若し無依を悟れば、仏もまたあらためて求める必要がないんだと。こういうようなことがよくわかれば、これこそが真正の見解だと。そうなりますと、一番重要な言葉は、ここでは「無依(むえ)」なんです。

 

松村:  どういうことですか。

 

鎌田:  「無依(むえ)」というのは、何ものにも頼らない、ということなんですね。何ものにも頼らない。私たちはどうしても仏さんに頼って救われたいとか、あるいは友人に頼ってなんかしたいとか、あるいは現代の世の中のようだと、家族に頼ったり、さまざま頼るものを持ちますね。ところが臨済は、無依だと言うんです。仏は無依だと。何ものにも頼らないことが仏なんだ、と言っているわけですね。しかも別に仏というのがどっか遠くにいるわけではなくて、「そこで私と話しているお前さんが、お前さんこそが仏さんなんだ」と、こう言ったわけですね。こういう話を聞いているのは、大体軍閥の連中でしょう。ビックリしちゃうわけですよね。今までの常識で考えると、仏様というのは、尊いところにいらっしゃるんだとか、そうありますね。あるいは絶対的なものだとか、我々の寄せ付けないものだとか、ところがそこで儂と話している、儂の説法を聞いているお前さんこそが無依の道人、即ち仏なんだと、こう言っているわけですね。ですから何にも頼らないことが無依ということなんです。一切頼るものなし、ということですね。だから大変な力強いことで、先ほどのだから自由が得られる。自ら由るところが得られるというのは、無依が仏である、ということがわかればいいわけですね。

 

松村:  無依が即ち仏だ、と。

 

鎌田:  そうです。仏は無依より生ず。無依ということから仏様が生ずるのであって、無依が根本。ですから普通の常識ではまったく考えられないことですね。一切何ものにも頼らないというのが無依ですから。私たち、どうしても拠り所を持ちたがりますね。権威によったり、財産によったり、あるいは肩書きによったり、いろんな拠り所を持っているわけです。あるいは家庭も拠り所ですね。自分の子も拠り所。子は親が拠り所。夫婦はお互いに寄り合っているわけですね。ところがそういうものを一切持たないということですね。現実に人間は集団生活をしているわけですから、臨済は禅者で家族はありませんけどね。しかしそういう中であって、尚かつ一切の拠り所を持たない。しかも現実の人間の関係だけではなくて、この絶対的な天地を支配する神様、そういうようなものも自分は持たないんだと。頼らないんだ、ということを言っているんですね。ちょうど宮本武蔵もそれと似たようなことを言っているわけです。自分は神仏は尊い。けれども、神仏に頼らずと。まったく宮本武蔵臨済とは、なんの関係もありませんがね。片っ方は兵法者あり、片っ方は禅者でありますね。しかし宮本武蔵も、「神仏は尊い。しかし自分は神仏に頼らず」と、こう言っているわけですね。ですからある意味で共通面があるわけですね。ですからここで一番重要なのは、「仏様を他に求めてもしょうがないんだ。そこに私の話を聞いているお前さんが仏なんだ」と、はっきり言い切ったわけです。こういうことを言い切るのは、今までのとはまったく違いますからね。彼の言うことはもう革命的ですね。

 

松村:  そうですね。私も言葉でわかりますけども、ほんとに腹に落ちるにはなかなかわかりにくいですが、また別の表現でもう少しいろいろな形で深めていっているようですから、もう少し他の文章もご紹介頂きましょうか。

 

鎌田:  そうですね。『臨済録』の言葉を何か見てみましょう。

 

無事(ぶじ)是れ貴人(きにん)、但(ただ)、造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ、

祇(ただ)是れ平常(びょうじょう)なり。

汝(なんじ)、外に向って、

傍家(ぼうけ)に求過(ぐか)して脚手(きゃくしゅ)を覓(もと)めんと擬(ぎ)す。

錯(あやま)り了(おわ)れり。

 

「脚手(きゃくしゅ)」は、手掛かりを求めようとしようと。「擬(ぎ)す」というのは、「しよう」ということですね。「傍家(ぼうけ)に求過(ぐか)して」とありますが、「傍家(ぼうけ)」というのは、脇道・傍らですね。そういうところを追い求めてはいけない、ということです。そうしますと、意味はどうなるかと申しますと、無事であること、それこそがもっとも尊い。無事の人こそが尊いんだと。そして無事であるためには、「但(ただ)、造作(ぞうさ)すること莫(なか)れ」何かを求めてはいけないんだ、ということなんですね。「無事(ぶじ)」という言葉自体が、これは非常に面白い言葉で、初期の禅の語録や仏教では、「無心(むしん)」ということを言うんです。「無心」とか、インドの仏教だと「無我(むが)」とか言うんですが、この「無事」ということは非常に中国的なんです。これは例えば中国人は、朝起きて太陽が上がれば畑に行って耕す。それで太陽が落ちて夜になれば帰って休むと。そしてご飯が喉へ通って、それに水が飲めればいいんだと。昔の中国の農民はそう考えていたわけですね。それが無事なんですが、「無事」という言葉をここで使ったのは、臨済の一つの大きな、やっぱり革命的な言葉だと思うんです。「無心」というと、何か哲学的なニュアンスが残りますが、「無事」というと、もうそのままでわかるわけです。これは「何も求めるものなし」というのが「無事」ということで、「一切他に造作しないんだ。他に追い求めないんだ」と。そして「平常そのままが無事でなくちゃいけないんだ」ということですね。外に向かって、いろんなものを私たちは、何か手掛かりを得ようとして一生懸命求めるわけでしょう、いろんなことで。心に悩みがあれば、それを解決しようと思って、いろんな神様を拝んだり、なんか追い求めていくわけです。そういうことは一切必要はないんだと。それは誤りだ、とはっきり言っているんですね。

 

松村:  「錯(あやま)り了(おわ)れり」大変断定的に言っていますね。

 

鎌田:  そうです。それこそが間違いだ、と言っているわけですね。だから「無事(ぶじ)是れ貴人(きにん)」ということがしっかりわかればいいというんですが、しかし普通「無事」というのと、先ほどの「自由」なんていうことと、結び付かないように見えますが、これやっぱり同じことを言っているんです。求めるものなし。求めてはいけないと。特に外に追い求めてはいけないと、こういうことを言っているわけですね。

 

松村:  ちょっと聞きますと、要するに無事というのは、何もしなければいい、というふうにも聞こえるんですけども。

 

鎌田:  そうですね。これをただそのまま受け取ると、そういうことになります。そうじゃないんですね。このギリギリの求め抜いた修行の極限において、ギリギリにおいて、「無事(ぶじ)是れ貴人(きにん)」と言えるわけで、何もしないで寝ていればいいんだ。ただご飯食べていればいいんだ。それで何にもないのがいいんだ、というのとは全然違うんです。そこに「平常(びょうじょう)」という言葉がありますね。現代語では「へいじょう」ですが、禅でも「平常心(びょうじょうしん)」と言いますが、これを持てるということは大変なことなんです。我々もちゃんとなんかあると、平常心というのは保てませんでしょう。すぐおたおたするでしょう。なんか事故が遭ったり、家族が病気になったりしても、あるいはいろんなこと、ありとあらゆる人間人事、そういうものでみんな普段の心を失われるでしょう。だから平常心を持つということは、よほど修練を加えないとできないわけですね。ですからここに書いてあることも非常に重要だと思います。修行のギリギリの求め抜いた極地において無事(ぶじ)是れ貴人(きにん)であると断定したんだと思いますね。

 

松村:  そうすると、そういう心境にどういう心構えで到達できるんでしょうかね。

 

鎌田:  そうですね。「自由」ということですね。自分に由る。他に頼るな、ということですね。自らに由るんだと。自らのことを自らによって立つんだ、ということですね。それを『臨済録』でよく普通言われるのは、「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となる」という言葉が出てくるわけです。至るところにおいて、自分が主人公になるんだと。それを「随所に主となる」と。それをちょっと見てみましょうか。

 

古人(こじん)云く、外に向って工夫を作(な)す、

総(そう)に是れ癡頑(ちがん)の漢(かん)、と。

汝(なんじ)、且(しばら)く随所(ずいしょ)に主(しゅ)となれば、

立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり。

 

「古人」というのは、北宗禅(ほくしゅうぜん)の南嶽の懶?(らいさん)和尚であると言われておりますが、まあ誰でもいいんですが、そういう先輩の禅者が言ったわけですね。外に向かっていろいろ求める。「工夫を作(な)す」というのは、求めることです。ああかなあ、こうかなあといろいろ思い煩うことですね。そういうことをする。そんなものは、みんな「癡頑(ちがん)の漢(かん)」大馬鹿野郎だと。とんでもない奴だと。そんな外に向かってなんかいろいろ思い煩ったり、外に向かって求めたりしている奴は、大馬鹿野郎だ、と断定したわけですね、その人は。その人もまた凄い人ですよ。こういうことをガァっと言いますからね。そしてその次は臨済の言葉ですね。だから「?(なんじ)」お前さんたちも、「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となれば、立処(りっしょ)皆(みな)真(しん)なり」と。この自分がいる処、至るところで自分が自分の主体性をしっかりと確立して、自分の主体で生きる。そうなれば「立処(りっしょ)」というのは、自分がいるところですね。自分の立つところ、それがみな本当の世界がそこから開けるんだと。だから「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となる」ということが非常に重要なんです。私たち、随所に主となれませんでしょう。周りにいろんな事件が起これば、それに引きずり回されるでしょう。そしてどんなことが起きても、自分が主体性を失わないということはできないんですよ。いい加減な修行でできる筈がない。「不動心」という言葉がありますがね。動かない心、そういう不動心ですね。そういうものを持ち得るなんてできっこないでしょう。我々はあらゆる周りの事件、人間関係、ありとあらゆるものに振り回されて生きているわけです。それのないという社会はないわけですよね。この世の中に生きているということは、なんか煩わしいものと関わっているということでしょう。そういうふうに関わりながら、尚かつ絶対に自由というものを失わない。自ら立つ場所を失わない、ということが、この「随所に主となる、立処皆真だ」と。こういう言葉も、中国の古い仏教の思想史の中にも、こういう考え方があるのを、こういう言葉で端的に言ったのは、臨済が初めてですね。こうなると、中国仏教の行き着くところをこういう言葉で端的に言っているんですね。難しい教理やなんかで説いているんじゃないんですね。普通の俗語でそういう軍閥連中を相手にこうして説法したり、お弟子さんに説法したりしているわけでしょう。ですから生きた言葉で、誰にもわかる―当時の俗語ですね、それでカァッと断定するわけです。力強いといえば、これほど力強いものもちょっとないですね。

 

松村:  先生の解説ぶりもまた大変力が籠もっておりますけれども、その臨済の気迫が伝わってくるようですけどもね。「随所(ずいしょ)に主(しゅ)となる」というのが非常に大事なポイントだと思うんですが、自分自身が主になる。これは私なんかの生活のレベルに引き戻して伺いたいんですけども、例えば他人の生き方を見ていると、どうもこちらがそれに左右されたり、あるいは他人の目が気になって、他人の評価とか、そういうことがいつも気になるんですよね。そういうことじゃいかんということで考えてもいいわけですか。

 

鎌田:  そうです。普通に考えればそれでかまわないと思います。とにかくまあ若いうちはどうしても他人の目を気を付けて生きなければなりませんがね。だんだん晩年になっていけば、そういうことは何にもないんですね。自分は自分、他人は他人。自分の本当にやりたいもの、自分の本当に求めたいもの、それをだんだんとやっていけばいいんじゃないですかね。若いうちはなかなかそうはいきませんが、臨済だって若いうちはいろんなお師匠さんを求めたり、勉強したりしていたわけですが、自分の立場を確立するとこれはまったく自由です。自らに立っている。そうなりますと、本当の自在ですよね。自在に生きられる。

 

松村:  「自由自在」というのは、そういうことですか。

 

鎌田:  現代語で言っているのとは、ニュアンスは違いますけどね。「自在」というのは、まったく束縛されない。これは大変なことです。束縛があっても束縛されないんですね。束縛のない世界というのは、世の中生きている限りありません。しかし束縛があっても束縛されない。そういうところがやはり核心になるんじゃないでしょうか。だからこの臨済の宗教というのは、中国の宗教史を見ても革命的なものだと思います。そういう動乱の時代を背景にしまして、こういう本当に中国人らしい、しかも足が大地にこうがっちり付いているわけですね。決して頭だけでやっているんじゃないんですね。若い時本当に勉強に打ち込みましたね。だからこそこういうものを捨て去ることもまたできたわけですね。勉強に本当に打ち込んだからそれを捨て去って、こういう大地から足が出てきている宗教ですね。

 

松村:  「無心」とか、「無我」と言わずに、「無事」という言葉一つにも現れているわけですね。

 

鎌田:  そうです。これは中国の大地そのものから生えたものですね。日本のものとも、インドの仏教ともまた違うものだと思いますね。

 

松村:  この『臨済録』の中には、さまざまな非常に興味深いエピソードもまたたくさん出てくるんですけれども、そういう面目が躍如するような、臨済の人となりが躍如するような行動面では、何かご紹介して頂けますか。

 

鎌田:  そうですね。『臨済録』の中で有名な言葉で、「殺仏殺祖(さつぶつさっそ)」と。仏を殺し、祖を殺す、というような言葉がでますが、具体的な彼の行動の中で、それ一体どうなのかと。彼は、『臨済録』の中にもありますけど、達磨さんというと禅宗の開祖ですね。その禅宗の開祖である達磨さんのお墓詣りするんですよ。

 

師、達磨(だるま)の塔頭(たっちゅう)に到る。

塔主(たっす)云く、長老(ちょうろう)、先ず仏を礼(らい)せんか。

先ず祖を礼せんか。

師云く、仏祖倶(とも)に礼せず。

塔主云く、仏祖と長老と

是れ什麼(なん)の寃家(おんけ)ぞ。

師便ち払袖(ふっしゅう)して出(い)ず。

 

達磨というのは、禅宗の開祖ですね。「塔頭(たっちゅう)」というのは、お墓でしょう。現在塔頭(たっちゅう)というと、禅宗の大きな本山の周りにある庵ですね。それを塔頭(たっちゅう)と呼びますが、ここでは達磨の墓所―お墓でしょう。ですから「師」というのは臨済のことですね。臨済が達磨さんのお墓に行ったんですね。そのお墓は、河南省(かなんしょう)の熊耳山(ゆうじざん)定林寺(じょうりんじ)にある墓だと、昔から云われておりますが、とにかくそこへ行ったわけです。そうしますと、「塔主(たっす)」というのは、塔頭(たっちゅう)の和尚さんですね。あるいはお墓守りをしている和尚さんですね。その和尚さんが言ったわけです。「長老(ちょうろう)、先ず仏を礼(らい)せんか。先ず祖を礼せんか」長老というのは、臨済のことを呼び掛けたわけですね。和尚さん、先ず最初に仏様に礼拝しますか、それとも最初に禅宗の祖師である達磨さんの方にお詣りしますか、とこう言ったわけです。ごく普通の話ですね。それで中国のお寺では仏さんが大体大法殿に飾ってあるわけですよ。大法殿へ行ってお詣りするんですか、お墓に直に行って達磨さんの方をお詣りするんですか、とこう言ったわけですね。そうしましたら、臨済の次の言葉がふるっているんです。「仏祖倶(とも)に礼せず」と。自分は仏さんも達磨さんも両方ともそんなもの拝まないんだ、と言ったわけですね。そうしましたら、墓守の和尚さんがビックリしちゃったわけです。それで「仏祖と長老と是れ什麼(なん)の寃家(おんけ)ぞ」仏さんや達磨さんは、あんたさんとどうして仇同士なんだと。どうして怨み合いをしているんだと。仇同士なのか、と、こう言ったわけですよ。その後がいいです。それを言った途端に、臨済は、袖をパッと払って、パッと帰ったんだと思いますが、そして出て行ってしまったんですね。これが臨済の行動の一断面なんですね。普通の常識では考えられないことですね。我々が行けば、先ず仏様も拝むし、そして禅宗の開祖のお墓があれば、そこで額ずいて礼拝してお経を読むのが普通でしょう。ところがこれを見るとそうじゃないんですよね。拝むつもりで行ったんでしょうけどね、墓守の坊さんが、そのようなことを聞くからパッと帰ってしまったんですね。臨済自身は、仏を外へ求めちゃいけないと。そこで教えを聞いているお前たちそのものが仏なんだ、とやっているでしょう。だから当然ほんとは拝む理由がないんですね。

 

松村:  臨済のこのエピソードにおける臨済の真意はどういうところにあるでしょうか。

 

鎌田:  仏さんも達磨もそういうものが本当の仏じゃない。仏を外に求めても、達磨も外に求めてはいけないと。彼は外に求めるなと。自分自身それが仏なんだ、とこう言っていますからね。達磨を外に求めて、それに礼拝する理由もないわけですよね。

 

松村:  しかしそういう仏を拝まないで、そういう無信心で成り立つんですかね。

 

鎌田:  普通の常識から言いますと、「なんだ。仏さんも拝まないんじゃもう宗教じゃないんじゃないか」と思いますが、そうじゃないんですね。仏様にとらわれてはいけないんだと。私たち、仏様に何とか救って頂きたいと思って仏様を拝みますね。それは仏にとらわれていることなんだと。臨済が目指したものは、何ものにもとらわれない。そうすると、仏様につかまってもいけないんですね。悪魔につかまってもいけないんですね。ですから一切何ものにもとらわれない。それで自由に生きると。自らの立つところ、由るところによって生きると。その自らに由るところというのは、さっきあったように、「無依(むえ)」でしょう。頼むものなし、というところですよね。拠り所なし。それは無想です。「空」というインドの仏教の言葉を使ってもいいですが、本当の形のない、何にもないところですね。そこに立って生きようとしたわけです。そして袖をパッと振って山を下りていくんでしょう。その姿というのは、これはまったく広野に一人こう歩いて行くわけでしょう。まったく理解する人もいないですよ。そして「何だ、あの人は」「何だ、あの坊さんは」と思われるわけでしょう。そういう中で自分一人でその広野を歩いていくわけです。大地を踏みしめてね。ですからある意味では、「臨済将軍」と華々しく言われておりますが、後世にはね。ある面ではほんとに孤独に徹したと思いますね。「孤独」というような言葉じゃなくて、もう個に徹し過ぎて、そして個を突き破って、中国の大地そのものと一緒に生きたんだと思いますね。ですからもう強烈な意志と言いますか、エネルギーと言いますか、そういうものをもっていなければこういう生き方はできないと思うんですよ。世間の思惑や従来の既成の仏教の観念や、あるいは長安(ちょうあん)辺りで大きな寺がいっぱいあります、当時もね。そういうところで貴族に囲まれて法要ばっかりやっている仏教、そういうものと華北の片隅で生きた、全然比較にならないと思いますね。しかしやはり臨済の言っていることは、真実ですね。本当の人間とは何か、それを究めたい、と言っているわけですね。ですからもう一つ聖なるものをして、今仏様を拝まなかったという逸話ですね。もう一つは、今度は菩薩を拝まないんですよ。菩薩と申しますと、文殊菩薩とか、普賢菩薩観音菩薩とありますでしょう。華北の馴染みだと文殊菩薩が、山西省(さんせいしょう)の五台山(ごだいさん)にいるわけです。山西省の五台山は文殊の霊地とされまして、昔から文殊菩薩の本当のお姿を見るためにずっとみな訪ねていくわけです。その文殊菩薩をみんな求めるために五台山に入って行くんですが、そういう文殊菩薩を求めていく人たちを臨済は見て笑うわけですよ。「五台山には文殊なんていないよ」と言ってね。彼の臨済という名前は、?陀河(こだがわ)という川があるんですが、そこの渡しの側に自分の院があったわけです、住んでいる草庵が。ですからいつも?陀河(こだがわ)を見ているわけです。ところが?陀河(こだがわ)という川は、五台山の北側に源を発していて、五台山をずっと迂回しながら流れている川で、五台山の台懐鎮(だいかいちん)というところが中心街にありますが、そこに清水河(せいすいがわ)というのがありまして、それが?陀河(こだがわ)に合流している。ですから五台山に行くには、?陀河(こだがわ)に沿って、それで清水河(せいすいがわ)に沿って入って行くわけです。日本の円仁なんかもみなそれで行ったわけですね。ちょうど円仁が行ったのが、八四○年頃五台山に上がっています。だからちょうどその頃いつも臨済は?陀河(こだがわ)の側にいて、五台山に文殊菩薩を求めて巡礼のようにみんなが行くのでしょう。坊さんも行くし、信者も行くし、そういう姿を見て、「五台山に文殊はいない」と。それがちゃんと『臨済録』に出てくるわけですよ。それを見てみましょう。

 

汝(なんじ)若し聖(しょう)を愛せば、

聖というは聖の名なり。

一般の学人有って、五台山

裏に向って文殊を求む。

早く錯(あやま)り了(おわ)れり。

五台山に文殊無し。

 

この「五台山に文殊無し」というのは良いですよ。こんなことを言ったらみんなカンカンに怒りますね。五台山というのは、文殊菩薩霊場で、それは北魏の時代から、そして唐の時代になりますと、日本の坊さんも行くし、それからインドの坊さんまで、みんな五台山に文殊菩薩の姿を見に行っているわけです。ですから「五台山に文殊無し」なんて言い切る臨済の腹では、そんな五台山に行って文殊菩薩を求める、それは外に向かって求めることになるでしょう。そうじゃなくて、「お前さん自身が文殊なんだ。自分自身が文殊であることを先ず知れ」と、そういうことを言いたいんでしょうね。ところが普通の人は、文殊菩薩を拝んで、文殊菩薩の霊験を受けて、そして何か安心を得たいと思って行くわけです。だから「五台山に文殊無し」なんて言ったんじゃ、これ叩き殺されちゃう。こんなこと言っていたらね。みんな五台山に文殊菩薩の姿を拝むために行っているわけで、真容院(しんよういん)というのが五台山の小さな丘の上にありますが、そこの上にいて拝み続けていますと、ブロッケン現象(太陽などの光が背後からさしこみ、影の側にある雲粒や霧粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに、虹と似た光の輪となって現れる大気光学現象)が起きて仏像が現れるんですね、雲の間に。そういう気候の特異なところが五台山ですので、みんなそこへ行くわけです。臨済は行きもしないし、行く人に向かって、「五台山には文殊はいない」と。この文章の一番最初に「聖(しょう)を愛せば」とか、「聖の名なり」聖というのは名だけだと。「汝(なんじ)若し聖(しょう)を愛せば、聖というは聖の名なり」聖人である、聖者である、仏である、菩薩であるというようなものに執着していますと、そんなものは、聖というのは名だけだと。実体はないんだと。だから仏とか、菩薩とかいうと有り難いでしょう。そういうものを求めて行くというのは、それは名だけで、実体は何にもないんだと。それで普通の人たちは、「一般の学人有って」普通の人たちはみんな五台山に上って文殊を求めて行くわけです。それを根本に否定したわけですね。さっきは仏というものも否定した、今度は菩薩も否定したわけですね。もう普通の宗教ではこういうことになりますと、宗教ではないんじゃないか、とお考えになると思うんですね。

 

松村:  そうですね。まさに臨済は、宗教を否定した人じゃないかというふうに、私は思われるんですけど、そういう意味で仏も菩薩も否定して、果たしてこれ宗教なんですかね。

 

鎌田:  臨済にとっては宗教なんですね。仏を求めると仏に縛られる。菩薩を求めると菩薩に縛られる。一切外に向かって求めてはいけないと、こういうことになるわけですね。

 

松村:  悪魔に縛られたり、お金とか名声に縛られるのはいけないと思うんですけれども、仏とか菩薩に縛られるのは、むしろそれは良いことじゃないんですか。

 

鎌田:  まあ普通考えると良いことですけどね。しかしそれは邪魔なんですよ、臨済にとってはね。仏や菩薩なんていうのは、おることが邪魔なんですよね。だからまったく無依の世界に生きたわけです。普通はどうしても仏様に頼ったりしますが、そういうところ、拠り所なしと。これは凄まじい宗教ですよね。

 

松村:  またもの凄い強靱な精神力ですね。

 

鎌田:  そうです。普通ではとてもそんなことはできません。ですから強者と言いますか、本当の強者の、そしてまた本当のことですね。それは嘘ではないし、また臨済がこうして激しく言っているわけですが、それは私は本当のことを言っているんだと思いますね。それでは仏も否定した、菩薩も否定した、達磨さんも否定した。それを「殺仏殺祖(さつぶつさっそ)」という言葉で言うんですが、それを有名な言葉ですので、別にここまで言ってくれば、そういうのを挙げなくても、臨済が何を目指しているかということははっきりしているわけですけど、一応『臨済録』の言葉を見てみましょう。

 

汝(なんじ)如法(にょほう)の見解(けんげ)を得んと欲せば、

但(ただ)人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ。・・・

仏に逢うては仏を殺し、

祖に逢うては祖を殺し、・・・

初めて解脱を得ん。

 

これも有名な言葉でありますね。「如法(にょほう)の見解(けんげ)」そのような本当の真正(しんしょう)の見解(けんげ)を得ようとすれば非常に簡単だ、と言うんですね。「但(ただ)人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ」人惑というのは、他人に惑(まど)わされることですね。仏に惑わされたり、他人に惑わされたり、そういうようなことを一切受けてはならないと。そして自分の内においても、外においても、そういういろんなものに逢えばすぐそれを叩き殺せ、ということを言っていて、その後に「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し」と。普通「仏を殺し」と言ったらビックリしちゃうわけですよ。でも本当にこの間の文化大革命のように、仏像の首を切ったり、手をもいだり、そういう意味では全然ないわけですね。これはほんとに仏像を壊せという意味では全然ありませんので、一切自分を縛るもの、あるいは外にあるもの、そういうものは直ちにそれを排除する。そういうものにとらわれない、という意味です。あるいは受け身に考えれば、束縛を受けない。ですから仏さんであろうと、祖であろうと、その後点々のところは、羅漢であろうと、父母(ぶも)であろうと、親類とか、いろいろ出てくるわけですね。これは当時のそういう自分の環境世界の人間関係を言っているんでしょう。仏や祖は宗教的世界でありますが、父母であるとか、親類、現代で言えば、それはあらゆる人間関係ですね。今で言えば、会社の人間関係、あるいは家庭、そういうもの。それから神仏、そういうものの束縛を一切受けないんだと。だからそういうものに逢えばたちどころにそれを排除する。殺せば良いと。要するに、自分の目的意識は自由によって生きることでしょう。自らに由って。それを邪魔するもの、そういうものは全部排除していくわけですね。排除というと、言葉の語弊がありますが、仏・祖というものに縛られてはいけないということです。

 

松村:  これはしかしそういう「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」というのは、「とらわれない」というふうにおっしゃいましたけれども、そういう心境こそが実は仏の境地に他ならないということにもなるんでしょうか。

 

鎌田:  そうです。そういう境地そのものが仏。だから臨済が言う仏というのは、外に求めないわけです。絶対的な尊いところにいらっしゃる仏でもないわけですね。それは自分自身に、そしてそれは「真人(しんにん)」というような言葉を使いますが、本当の人、本当の人間、人間の真実、人間のギリギリ、そういうものこそが仏である、と言っているわけですね。だから普通の常識から考えると、かなり取っ付きにくいわけですね。普通、禅宗であれば坐禅をする宗派であると思われますね。臨済は、あんまり坐禅ばっかりやっているようなものもよくないということを言うんですね。仏も祖も要らない。坐禅もあんまり要らない。そうすると、何だ、ということですね。

 

松村:  非常に自己にしか頼るものはないと。自己を頼れと。人間の驕り、そういうものを助長するようなことはないんですか。

 

鎌田:  普通常識的に考えますと、自己に依るというと、自我みたいになっていくでしょう。強烈な自我。そうじゃないんです。強烈な自我で生きれば、そういうふうにならないですね。むしろ強烈な自我そのものを透明にしていくわけです。それは自我自身を透明に、無想に空じていくわけですね。だから「透脱自在(とうだつじざい)」というような言葉を使うんですよ。「透脱自在」透き通って抜けてしまっている。まあ当時の禅者にはそういう人が多いんですよ。透脱自在、普通の常識から見ると奇想天外な人もいるわけです。例えば普化(ふけ)(生没年不明。盤山宝積(ばんざんほうしゃく)禅師の法嗣であり、馬祖道一禅師の孫弟子にあたる。普化宗の宗祖とされる奇僧として有名な和尚である)なんていう人は、臨済と初め一緒にやっていたんですが、まあ大変な人です。街を鈴振って歩いているんですがね。それで臨済と仲間三人ぐらいで話をしていたんですよ。「あの普化という奴は、あれは聖人なのか、凡人なのか」聖者か凡人なのかと噂していた。噂した途端にムッと顔出した。自分で、「俺は聖人か凡人か」と、こうやったわけです。臨済はビックリしちゃった。臨済はいきなり「カッ!」とやったわけ。そうしましたら、普化が笑って、「臨済はまだまだこれは小わっぱだと。但しこれは小わっぱであるけれども、ちっとばかり見込みもある奴だ」と、こう言ったわけですよ。とんでもない人が当時いろいろいたわけですよ。普化なんていうのは、面白いですよ。死ぬのが面白い。それである時街へ行って、「俺に衣を布施してくださいよ」と。ぼろ着ていたんでしょう。そういうふうに言ったら、街の人が可哀相に思って、「じゃ、これをどうぞ、和尚さん」とくれるわけです。そうしましたら、「要らない、要らない」と。「なんだ。衣を布施してくれというのに要らない、要らないとは、何事だ」と、みんな思うでしょう。その話を聞いた臨済が、「よしッ!」と言って、棺桶を作らした。それで普化を掴まえて、棺桶を「お前のこれは衣だよ」と言ったら、そうしたら普化が喜んで、その棺桶を担いで街の東の門の外のところで、「おーい! みんな、俺は今からこの中に入って死ぬんだ」と。村の人や街の人がみんな見にいくわけです。そうしたら、「今日は止めた」というんですよ。また明日になると、「俺は今度は南の門で死ぬよ」という。そうすると、みんなぞろぞろと付いていくでしょう。そうしましたら、また「今日は止めた」。そんなのが何日か続きましてね。それでみんなあきれて、「普化の言うことは信用できないよ」と。「あんな奴の言うことで付いて行く理由がない」と。そうしましたら、今度は一人でそれを担いで、ほんとに中へ入って、側を通りかかった人に、「棺桶を打ってくれ」と言って、釘を打たせた。それで死んだわけですね。それで人々がビックリして、それで棺桶を開けたら空っぽで、何にもないんです。空に鈴の音が、「チリチリリン」と鳴ったわけですよ。そういうことが『臨済録』に書いてありますがね。それでまあ普化と臨済というのは、大変許し合った人たちなんでしょうね。似たようなものですよ。

 

松村:  そのエピソードは何を物語っているんですかね。

 

鎌田:  中国の神仙なんかがそのようなことをやっているでしょうけど、いろいろ理由や説明付ければありますがね。ただ良いですよ、空に鈴が鳴っているというのは。死体が消えて、何にもないんですよ、鈴の音だけ。それで臨済の方は、『臨済録』という語録が後の人たちが作って残っているけど、普化は鈴の音だけ。臨済の方は、『臨済録』というのが残っているから、後の人がそれを読んで、素晴らしいものだと。そして革命的な書ですよ。ジッと睨んでいますと、仏教の最高の哲学である華厳(けごん)哲学とか、唯識(ゆいしき)哲学の匂いが『臨済録』にはしているんです。しかしそういうものを中に含みながらも、あんまり外に出さず、端的に人間の宗教を書いているわけですね。普化は、ただ鈴の音を残したんですよ。それはどっちが良い、どっちが悪いなんていうものではなくて、当時の本当に自在に生きた人、何のとらわれなく生きた人、そういう人たちがそこに描かれているわけですね。ですから普化が居ないと臨済も引き立たないんですね。ですから両方相和して、当時「自由」自らによって立った自由の人、それからまた自在の人、そして何のとらわれもなく生きた人、どうしてそんなことが可能だったかということはよくわかりませんがね。そういう軍閥政治の、地方の軍閥の中で、それを思い切って生きた人、それが臨済だったと思いますね。今の世の中じゃ、とてもこういう生き方はできませんが、しかしその臨済の生きた生き方を、我々はまた学ぶ必要があるんじゃないかと思いますね。

 

松村:  その点どうなんでしょう。そういう仏も菩薩も祖も否定する。こういう臨済の考え方の現代的な意味と言いますかね。

 

鎌田:  そうですね。現代の我々は弱いですからね。なかなか真似もできません。しかし現代でも心の世界からみますと、どこに根拠を求めて生きていいのかわからない、一種の混乱期ですよね、今も。そういう混乱期の中で、こういう臨済のような生き方というのは、学ぶことがあると思います。私は、一番学ぶべきことは「無依」だと思いますね。一切に頼るものはない。人間というのは、所詮頼るものないんですよ。それで生まれ落ちて、確実にわかっていることは死ぬることでしょう。死ぬることだけ目指して、我々はこうやって朝から晩まで働いたり、笑ったり、騒いだりして生きているわけですが、それだけのことですよね。そういう中で本当の自分は何なんだ、と考えますと、この臨済の生き方を少し味わう必要があると思うんです。私たちはあんまり頼り過ぎているでしょう。あらゆるものに寄り掛かって生きている。人間というのは、寄り掛からなければ生きられませんよ。しかしあまりに頼るものを持つと、頼っているものが無くなった時に困るでしょう。頼っているものがあるうちはいいですよ。それが一切ない。そういう時に、如何にその中で生きていくのか、ということが大切だと思いますね。現代のサラリーマンの社会は、私はあまり知りませんけど、おそらく大変な管理社会だと思うんですね、雁字搦めの。そういう中で臨済のような生き方をしていると言ったら、これは摘み出されてしまうかも知れませんが、しかし心構えはできると思うんですね。一切に頼るなと。自らに依るしかないんだ、と思って歩むことは可能であろうという感じは持ちますね。如何でしょうかね。

 

松村:  そうですね。どうしても我々サラリーマンの場合には、仲間がどう見ているかとか、上司の評価がどうなんだろうかとか、どうしても外側に価値の尺度を求めてしまうんですけども、ずっとお話が伺っていて、私自身が―自分の主人は自分しかいないんだよ、いうのは、もの凄い自信と言いますか、生き方をこれから考えていく上で、非常に自由度が広がってくると言いますか、そういう感じを受けたんですけどね。

 

鎌田:  『臨済録』の中でも、「自信」ということをよく言います。自らを信ずる。自信をしっかりと持たなければいけないんだ、ということですね。だから今の世の中には、ちょっと表面から見ると、臨済のような生き方は不可能だと断定し易いんですが、私は、心では持てると思うんですよ、この生き方をね。臨済のような境地には達せられません。しかしその自分がこれを学んで、心の中にそう思って、自分の人生を決めていくことはできると思いますね。

 

松村:  具体的な、どういう修行と言いますかね、どういうことを積み重ねていけばそういう境地に達せられるものでしょうかね。

 

鎌田:  一番大切なのは、「一つに打ち込む」ことですね。目的なり、何かをしっかりと見定めて、一つに打ち込む。それをやるしかないと思うんです。それから「今に打ち込む」ことですね。未来というのはわかりません。明日のことなんか全然わかりません。過去を過ぎたことはもうそれで終わりですね。だからそうなると、「今を大切に、今に打ち込む」。それから一筋道を誰でも持つ必要があるんじゃないか、と思いますね。それは仕事でも、事業でも、学問でも、何でも、そういうふうにしていれば、臨済の生き方の少しでも味わえるんじゃないかという感じは持ちますね。ですからこれから二十一世紀を目指していくわけですが、こういうしっかりした個の確立、そういう人が出てこないとダメなんじゃないかという感じは強く持つ次第です。

 

松村:  しかし当時彼が生きた時代も非常に権威があったわけですけども、そういうものは依らないで、「無依」ということで、宣言をして生きた人間がいたということは非常に勇気付けられますね。

 

鎌田:  と思います。

 

松村:  どうも有り難うございました。

 

     これは、昭和六十三年三月二十日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである。

 

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm ライブラリーよりコピーし一部改変ワード化したものである。