正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵仏経

正法眼蔵第四十七 仏経

このなかに、教菩薩法あり、教諸佛法あり。おなじくこれ大道の調度なり。調度ぬしにしたがふ、ぬし調度をつかふ。これによりて、西天東地の佛祖、かならず或從知識、或從經巻の正當恁麼時、おのおの發意修行證果、かつて間隙あらざるものなり。發意も經巻知識により、修行も經巻知識による、證果も經巻知識に一親なり。機先句後、おなじく經巻知識に同參なり。機中句裏、おなじく經巻知識に同參なり。

七十五巻本に対する配列ですが、『無情説法』巻の次に配置するのではなく、『仏道』巻の前後どちらかに配列した方が「正法眼蔵」全体に対する聯関的視準から云っても最善だと思われます(詮慧和尚『聞書』冒頭には「先の無情説法と今の仏経と只同一なり、聊かも其心不可違」と記され配列の妥当性を云う)。『仏道』巻での主眼は禅宗を自称し五家(雲門・法眼・潙仰・臨済・曹洞)による接化法(三玄三要・三句・五位等)を振り回す凡流に対する言句の警策、または臨済・徳山に対する如浄との比較でしたが、「当巻」に於いても先師如浄による法語を基軸に四料簡等による接化の不都合や、臨済・雲門に対する如浄との斉肩などの文体構成は、一目瞭然で両巻に通底する趣意が窺い知れるものですが、同じような論理性から前巻の『無情説法』巻の最後部に添語された「臨済徳山のともがらしるべからず」の言句からも寛元元年(1243)九月から十月に掛けての道元禅師の心情が汲み取れます。

「この中に、教菩薩法あり、教諸仏法あり。同じくこれ大道の調度なり。調度主に従う、主調度を使う」

「この中」とは、仏経の中には菩薩や諸仏の法が有ると意識されるが、諸仏が上位で菩薩が下位と云った浅深の関係が有るわけではない。二つ共に大道、つまり仏祖の法に於ける調度(経巻)が必要である。経巻は読誦する主人が有ってこそ経巻として存在し、読経する主人は経巻が有ればこそ、功徳が積めると云った関係性が生じますから、主客能所の一体経巻の理を、このように表現されるものです。

「これに依りて、西天東地の仏祖、必ず或従知識、或従経巻の正当恁麼時、おのおの発意修行証果、かつて間隙非ざるものなり」

西天東地の仏祖、つまり摩訶迦葉菩提達磨たちは、指導者に従い(或従知識)経巻に従い(或従経巻)とは修行の仕方の具象事例を示したものです。その時点では発意(心)・修行・証果の区別はなく、発意の中には修行証果が包含され、修行の時点に於いては修行証果が包接すると云った具合に同時進行形である事を、「間隙なし」と云うもので、決して発展段階的論法で以ての非を説くもので、汝得皮肉骨髄の例言からもしられる喩えになります。

「発意も経巻知識により、修行も経巻知識による、証果も経巻知識に一親なり。機先句後、同じく経巻知識に同参なり。機中句裏、同じく経巻知識に同参なり」

先に言う「間隙なし」を経巻知識を以て細分しての説明になります。発意・修行・証果は経巻知識の修行形態で行うのですが、経巻知識を「先後」と「中裏」に分節し、先経巻知識・後経巻知識・中経巻知識・裏経巻知識等々と各分節毎に「先後中裏」を付加する事で、分節語句は増産されますが、つまりは「只経巻知識が経巻知識と同参なり」を言わんが為の論法になります。

知識はかならず經巻を通利す。通利すといふは、經巻を國土とし、經巻を身心とす。經巻を爲佗の施設とせり、經巻を坐臥經行とせり。經巻を父母とし、經巻を兒孫とせり。經巻を行解とせるがゆゑに、これ知識の經巻を參究せるなり。知識の洗面喫茶、これ古經なり。經巻の知識を出生するといふは、黄蘗の六十柱杖よく兒孫を生長せしめ、黄梅の打參杖よく傳衣附法せしむるのみにあらず、桃花をみて悟道し、竹響をきゝて悟道する、および見明星悟道、みなこれ經巻の知識を生長せしむるなり。あるいはまなこをえて經巻をうる皮袋拳頭あり、あるいは經巻をえてまなこをうる木杓漆桶あり。

「知識は必ず経巻を通利す。通利すと云うは、経巻を国土とし、経巻を身心とす」

「知識」とは学人を示唆するものですが、学人が経巻に通暁するのではなく経巻(尽十方真実)が国土であり、経巻(真実人体)を身心とす。との意であり、経巻を巻子経文として解するは見当違いになります。

「経巻を為他の施設とせり、経巻を坐臥経行とせり。経巻を父母とし、経巻を児孫とせり。経巻を行解とせるが故に、これ知識の経巻を参究せるなり。知識の洗面喫茶、これ古経なり」

続けて経巻と云う真実態を言わんとし「為他・施設・坐臥経行・父母・児孫」、さらに「洗面喫茶」で以て全体事象とし、経巻の知識と位置づけるものです。

「経巻の知識を出生すると云うは、黄蘗の六十柱杖よく児孫を生長せしめ、黄梅の打参杖よく伝衣附法せしむるのみに非ず、桃花を見て悟道し、竹響を聞きて悟道する、及び見明星悟道、みなこれ経巻の知識を生長せしむるなり。あるいは眼を得て経巻を得る皮袋拳頭あり、或るいは経巻を得て眼を得る木杓漆桶あり」

「経巻の知識を出生する」とは、知識(学人)と経巻(真実底)の一体性を表するもので、その具体例を黄蘗→臨済・五祖弘忍→六祖慧能・見桃花→霊雲・竹響→香厳・見明星→釈尊とこれらは、「皆これ経巻の知識を生長せしむ」との一味態を唱えますが、云うなれば冒頭で説いた「調度主に従う、主調度を使う」の関係性と考えたら分かり易く思われます。或いは真実体を見る眼を得てから経巻を会得する者(皮袋拳頭)や、経巻を読誦する事で真実態を見る眼を聞く者(木杓漆桶)も有る。と言うように真実(経巻)と知識(学人)との連動性を細密に説かれるものです。

いはゆる經巻は、盡十方界これなり。經巻にあらざる時處なし。勝義諦の文字をもちゐ、世俗諦の文字をもちゐ、あるいは天上の文字をもちゐ、あるいは人間の文字をもちゐ、あるいは畜生道の文字をもちゐ、あるいは修羅道の文字をもちゐ、あるいは百草の文字をもちゐ、あるいは萬木の文字をもちゐる。このゆゑに、盡十方界に森々として羅列せる長短方圓、青黄赤白、しかしながら經巻の文字なり、經巻の表面なり。これを大道の調度とし、佛家の經巻とせり。

「いわゆる経巻は、尽十方界これなり。経巻に非ざる時処なし」

ここで改めて世間で云う経巻との差異を述べるものです。ここで云う経巻は尽十方界つまりは存在事物事象は各々名称を伴い意味聯関の中で概念化されますが、経巻=尽十方界とは意味分節以前に喩えるものです。言語解析論ではシニフィアンシニフィエエクリチュールパロールの関係をも解体した原初的カオス領域を指すものですから、「経巻に非ざる時処なし」と逆説的文体で以て経巻の未分節を説明するものです。

「勝義諦の文字を用い、世俗諦の文字を用い、或いは天上の文字を用い、或いは人間の文字を用い、或いは畜生道の文字を用い、或いは修羅道の文字を用い、或いは百草の文字を用い、或いは万木の文字を用いる」

経文は文字の配列ですから、文字の様々なな形態を尽十方界に喩えて、「勝義諦(真諦)の文字」以下「万木の文字」まで羅列し、尽十方界にはあらゆる文字体型が有るが、シャッフリングし同一態に導く論法です。

「この故に、尽十方界に森々として羅列せる長短方円、青黄赤白、しかしながら経巻の文字なり、経巻の表面なり。これを大道の調度とし、仏家の経巻とせり」

先には文字の形態を天上・人間・畜生・修羅の垂直方向にて説かれましたが、次には水平方向にての長短方円の幾何態・青黄赤白の色覚態を文字に比して文飾し、これらが全て真実の表出であり、大道つまり仏祖の調度でなくてはならないものである。との経巻の位置づけになります。

この經巻、よく蓋時に流布し、蓋國に流通す。教人の門をひらきて盡地の人家をすてず、教物の門をひらきと盡地の物類をすくふ。教諸佛し、教菩薩するに、盡地盡界なるなり。開方便門し、開住位門して、一箇半箇をすてず、示眞實相するなり。この正恁麼時、あるいは諸佛、あるいは菩薩の慮知念覺と無慮知念覺と、みづからおのおの強爲にあらざれども、この經巻をうるを、各面の大期とせり。

「この経巻、よく蓋時に流布し、蓋国に流通す」

経巻(真実尽界)に対する更なる説明となり、「蓋時」とは時を蓋うと云う事ですから時全体と解し、「蓋国」は国土全体を指しますから、蓋時蓋国で時空、つまり尽十方界に過去・現在・未来をも内包した経巻の実態を説かれます。

「教人の門を開きて尽地の人家を捨てず、教物の門をひ開きと尽地の物類を救う」

人を教えると云う時も尽地の人家は悉経巻であり、物を教えると云う時も尽地の物類は皆経巻の意になります。

「教諸仏し、教菩薩するに、尽地尽界なるなり。開方便門し、開住位門して、一箇半箇を捨てず、示真実相するなり」

此の巻の冒頭「教菩薩法あり、教諸仏法あり」を援用し、経巻には諸仏・菩薩の別は無く、尽地尽界つまり尽十方世界に満ち満ちる事実を説くものです。

「開方便門・示真実相」は『妙法蓮華経』十・法師品からの引用ですが、『諸法実相』巻では「開方便門というは、示真実相なり。示真実相は蓋時にして、初中後際断なり。その開方便門の正当門の道理は、尽十方界に開方便門するなり」と、ここで説く経巻(真実相)は尽十方界と脈動する趣旨と通底する説き方のようです。

当巻での「開方便門」は修行の方法を示唆し「開住位門」は正しいあり方と解し、「一箇半箇を捨てず」とは全てを救い上げる事ですが、「開住位門」は法華経文には無く、道元禅師の創作語となります。

「この正恁麼時、或いは諸仏、あるいは菩薩の慮知念覚と無慮知念覚と、みづから各々強為に非ざれども、この経巻を得るを、各面の大期とせり」

「正恁麼時」とは示真実相ですから、先程からの諸仏・菩薩は各物ではなく共に真実相と見、さらに「慮知念覚」は日常の意識作用、「無慮知念覚」はそれ以外の意識作用つまりは深層意識から表層意識に至るまで、強いて成すに非ざれどもは「只此の経巻の道理、無始本有の理なる所を斯く云う也」(『御抄』と経豪和尚の解釈を一助とします。さらなる助言を求めるなら「大期と云っても、極位を置いて待つには非ず、只この理の現れる所を大期ととは仕う也」と云われますが、敢えて云うなら自然体に任せよとの意になりましょうか。

必得是經のときは、古今にあらず、古今は得經の時節なるがゆゑに。盡十方界の目前に現前せるは、これ得是經なり。この經を讀誦通利するに、佛智、自然智、無師智、こゝろよりさきに現成し、身よりさきに現成す。このとき、新條の特地とあやしむことなし。この經のわれらに受持讀誦せらるゝは、經のわれらを接取するなり。文先句外、向下節上の消息、すみやかに散花貫花なり。

「必得是経の時は、古今にあらず、古今は得経の時節なるが故に。尽十方界の目前に現前せるは、これ得是経なり」

「必得是経」は『妙法蓮華経』二十八・普賢菩薩勧発品「四者発救一切衆生 之心。善男子善女人。如是成就四法。於如來滅後必得是経。爾時普賢菩薩白仏言」からのものですが、『法華経』全品を検索しても、この一か所のみの記載になります。「必得是経」とは尽十方界森々として羅列する姿を「得是経」と解します。

「この経を読誦通利するに、仏智、自然智、無師智、心より先に現成し、身より先に現成す。この時、新条の特地と怪しむ事なし」

先ず「仏智、自然智、無師智」の出典は『妙法蓮華経』三・比喩品「求一切智仏智自然智無師智如来知見力無所畏」からのものですが、『法性』巻(寛元元年(1243)孟冬(十月)示衆)には「生知にあうて生知を習学するなり。無師智自然智にあうて、無師智自然智を正伝するなり。もし生知にあらざれば、経巻知識にあふといへども、法性を聞くこと得ず、法性を証すること得ざるなり」と経巻知識を例言にしての提唱であり、道元禅師の論述意図が俯瞰視される思いです。

ここに云う「仏智・自然智・無師智」は、身心以前の智。真実相に比定されるもので、我々の感覚以前の般若智とも云い換えられます。ですから、これよりは古く、これよりは新しくなどと(新条特地)沙汰する事柄ではないのです。

「この経の我らに受持読誦せらるるは、経の我らを接取するなり。文先句外、向下節上の消息、速やかに散花貫花なり」

「この経」とは尽十方界を表体し、「我ら」と尽十方界は一心同体、包接の関係にありますから、先と言うも外と言うも此の経(真実相)なる道理を「散花貫花」と言うのである。この「散花貫花」とは、尽十方界に森々と羅列する綾模様と考えても構いません。

この經をすなはち法となづく。これに八萬四千の説法蘊あり。この經のなかに、成等正覺の諸佛なる文字あり、現住世間の諸佛なる文字あり、入般涅槃の諸佛なる文字あり。如來如去、ともに經中の文字なり、法上の法文なり。拈花瞬目、微笑破顔、すなはち七佛正傳の古經なり。腰雪斷臂、禮拝得髓、まさしく師資相承の古經なり。つひにすなはち傳法附衣する、これすなはち廣文全巻を附囑せしむる時節至なり。みたび臼をうち、みたび箕の米をひる、經の經を出手せしめ、經の經に正嗣するなり。

「この経を即ち法と名づく。これに八万四千の説法蘊あり。この経の中に、成等正覚の諸仏なる文字あり、現住世間の諸佛なる文字あり、入般涅槃の諸佛なる文字あり」

「この経」とは尽十方界を遍満する真実相を「八万四千説法蘊」とも「成等正覚」の姿とも「現住世間」「入般涅槃」の当体総称を「法」と名づくと説かれます。「文字あり」を連続語称するのは経(巻)について説いているので、このように言われます。

如来如去、ともに経中の文字なり、法上の法文なり。拈花瞬目、微笑破顔、即ち七仏正伝の古経なり。腰雪断臂、礼拝得髄、まさしく師資相承の古経なり」

如来の来に対比させる為、如去としますが、すでに『大般泥洹経』(「大正蔵」十二・八八八・中)等多くの経典に頻出されます。

如来梵語ではタターガタと云い「かく来たりし者」の意で、ここでは来去ともに経に包蓄され、法上の法文・拈花瞬目・微笑破顔を一セットにした常套語ですが、これらを皆正伝の古経と定義されますが、ここで「微笑破顔」とと述べられるのは、語順としては破顔微笑が通常の語法でしょうが、敢えて世態の概念化を嫌う為、微笑を句頭に破顔を尾句に語順転換をしたものと推察されます。続けて達磨と慧可とのセットフレーズ「腰雪断臂・礼拝得髄」を師資、師匠と弟子の相い承くものとしての古経と定め、当に経文を縦横無尽に渉猟されます。

「ついに即ち伝法附衣する、これ即ち広文全巻を附嘱せしむる時節至なり。三たび臼を打ち、たび箕の米を篩る、経の経を出手せしめ、経の経に正嗣するなり」

この例言は五祖弘忍から六祖慧能に嗣続された因縁譚を以て、これまで縷々述べてきた様々な姿が「経の経を出手し、経の経に正嗣する」と談ずるもので、つまり述べんとする趣旨は能所の関係の無差別化・別のことばで云えば、分節意味付けされた言句を未分節の根源状態に還元する事により、「経の経を・経の経に」と同質化する訳です。

しかのみにあらず、是什麼物恁麼來、これ教諸佛の千經なり、教菩薩の萬經なり。説似一物即不中、よく八萬蘊をとき、十二部をとく。いはんや拳頭脚跟、柱杖拂子、すなはち古經新經なり、有經空經なり。在衆辦道、功夫坐禪、もとより頭正也佛經なり、尾正也佛經なり。菩提葉に經し、虚空面に經す。おほよそ佛祖の一動兩靜、あはせて把定放行、おのれづから佛經の巻舒なり。窮極あらざるを、窮極の標準と參學するゆゑに、鼻孔より受經出經す、脚尖よりも受經出經す。父母未生前にも受經出經あり、威音王已前にも受經出經あり。山河大地をもて經をうけ經をとく。日月星辰をもて經をうけ經をとく。あるいは空劫已前の自己をして經を持し經をさづく。あるいは面目已前の身心をもて經を持し經をさづく。かくのごとくの經は、微塵を破して出現せしむ、法界を破していださしむるなり。

「しかのみにあらず、是什麼物恁麼来、これ教諸仏の千経なり、教菩薩の万経なり。説似一物即不中、よく八万蘊を説き、十二部を説く」

先に五祖六祖の因縁時節を説きましたから、六祖・南嶽との相見得悟を「是什麼物恁麼来」に内包される教諸仏千経・教菩薩万経と、什麼物に無限定値を表する為「千万」を用いるわけです。さらに「説似一物即不中」の一物に八万蘊の無限底な集合態を説き、説似には十二部(教)である「一者素呾纜、二者祇夜、三者和伽羅那、四者伽陀、五者憂陀那、六者尼陀那、七者波陀那、八者伊帝目多伽、九者闍陀伽、十者毘仏略、十一者阿浮陀達磨、十二者優婆提舎」(『仏教』巻)をも包含される理象を不中の語で以て一物に限定せずをあたらずと万経千経の例言とするものです。

「いわんや拳頭脚跟、柱杖払子、即ち古経新経なり、有経空経なり。在衆辦道、功夫坐禅、もとより頭正也仏経なり、尾正也仏経なり。菩提葉に経し、虚空面に経す」

「拳頭脚跟」で身体つまり尽十方界真実人体を、「柱杖払子」で以て日常の調度を表徴させ、それらの真実相が「古経新経」との提唱ですが、勿論この新古は相対視観ではなく、古経の上の新古とし同時に「有経空経」とも説かれますが、これは理経とも談じ得るものです。

「辦道・功夫坐禅」は頭正尾正に至る全体の姿が皆共々経巻の真実態である。「菩提葉」は貝多羅葉(ばいたらよう)を云い、古代インドなどでは紙の代替として、ヤシの葉を加工して経文を保存した事から「菩提葉に経し」と記し、さらに経文は菩提葉にとの固着性を払う為に、「虚空面に経す」との多義解釈にするものです。

「おおよそ仏祖の一動両静、合わせて把定放行、おのれづから仏経の巻舒なり。窮極あらざるを、窮極の標準と参学する故に、鼻孔より受経出経す、脚尖よりも受経出経す」

所詮(つまり)仏祖と表する真実の一挙手一投足それ自身が、真実相である仏経の巻舒(けんじょ・巻いたりのばしたりする事)とは、経巻との始めと終わりを形容する言葉ですが、例言としての尽十方界を表徴するものです。

仏法には「窮極」という事実はなく、究極の無き道理を以て究極とする表現として「窮極の標準と参学」と提言し、例言としては「鼻孔脚尖」を以ての比喩で全態を表し、仏経の同類語義と説くのです。

「父母未生前にも受経出経あり、威音王已前にも受経出経あり。山河大地をもて経を受け経を説く。日月星辰をもて経を受け経を説く。或いは空劫已前の自己をして経を持し経を授く。或いは面目已前の身心をもて経を持し経を授く。かくの如くの経は、微塵を破して出現せしむ、法界を破して出ださしむるなり」

仏法世界では、「父母未生前・威音王已前」つまり永劫より現成真実相として、経(真理)の名に於いての出入(受経出経)を説き、さらに「山河大地・日月星辰」の理で以て先程の受経出経を「受経説経」とニュアンスを変えての説き方ですが、この場合の受は伝受の意味は無く、説も能説所説の説く説かれるの意は有りません。

先の「父母未生前」同様に「空劫已前・面目已前」の喩えで経巻の広大性を示し、これら縷々述べてきた「経」は極小世界の「微塵」から極大世界の「法界」まで十方界に森々と遍在する示真実相である「経巻」を説く多少長めの主眼文でした。

 

    二

二十七祖般若多羅尊者道、貧道出息不隨衆縁、入息不居蘊界。常轉如是經、百千萬億巻。非但一巻兩巻。かくのごとくの祖師道を聞取して、出息入息のところに轉經せらるゝことを參學すべし。轉經をしるがごときは、在經のところをしるべきなり。能轉所轉、轉經經轉なるがゆゑに、悉知悉見なるべきなり。

総論的提唱は一区切りし、これから本則話頭に対する拈提となります。

この本則の出典は『宗門統要集』一・二十頁(『禅学典籍叢刊』第一・臨川書店刊)が一字一句とも合致します。又この経典は『真字正法眼蔵』でも多く引用される実績があります。他には『祖堂集』にも同文が見られますが、最後の「一巻両巻」の両巻に当たる語句が確認出来ません。読みは「貧道は出息衆縁に随わず、入息蘊界に居せず。常に如是経を転ずるは、百千万億巻なり。但だ一巻両巻に非ず。」

「かくの如くの祖師道を聞取して、出息入息の処に転経せらるる事を参学すべし。転経を知るが如きは、在経の処を知るべきなり。能転所転、転経経転なるが故に、悉知悉見なるべきなり」

『聞書』の詮慧和尚によれば、本則自体の言葉が心得難しと云われますが、「出息不随衆縁は尽十方界真実人体・入息不居蘊界は諸法実相なるべし」と、「在経の処を知るべきなり」とは「右に経巻を国土とし身心とし、また坐臥経行・父母児孫とも云い、尽十方界の目前に現前せる得是経」と心得なさいと。更には「悉知悉見」については「この悉は悉有仏性の悉で、経悉知せられ経に悉見せられ、経を他処に置いて、人が悉く知り見るにてはなき也」と各々註解されますが、霧中散策するような思いです。

先師尋常道、我箇裏、不用燒香禮拝念佛修懺看經、祗管打坐、辦道功夫、身心脱落。

かくのごとくの道取、あきらむるともがらまれなり。ゆゑはいかん。看經をよんで看經とすれば觸す、よんで看經とせざればそむく。不得有語、不得無語。速道、速道。この道理、參學すべし。この宗旨あるゆゑに、古人云、看經須具看經眼。

「先師尋常道」の本則は如浄和尚によるものですが、該当する文献は『如浄語録』等には見当たりませんが、酒井得元老師「正法眼蔵会テープ」によると、如浄の晩年にての説法だろうとの見解です。読みは「我が箇裏、焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず、祗管に打坐し、辦道功夫して身心脱落す」

「かくの如くの道取、明らむる輩稀なり。故は如何。看経を喚んで看経とすれば触す、喚んで看経とせざれば背く。不得有語、不得無語。速道、速道。この道理、参学すべし。この宗旨ある故に、古人云、看経須具看経眼」

「かくの如くの道取」の意は、焼香・礼拝・念仏・修懺・看経は用いずではなく、不用焼香・不用礼拝・乃至不要辦道功夫と読み解き、焼香・礼拝等の姿が悉く経巻であると理解しなさい。と言う道取になるわけです。

「触す・背く」は共に看経の真実態を表すもので、「不得有語・不得無語」つまりは一切合切が看経で有るとの拈提になり、聴講衆に対し速やかに道えと発破を掛けられますが、今日この場で参学究明に心懸ける我々に対する老婆親切語でも有るわけです。

ですから古人(雲門文偃)が云った「看経須らく看経の眼を具するべし」『雲門録』下(大正蔵)四七・五七二・下)との言葉も有るわけで、言う処の趣旨は看経の時節には看経の眼の外には余眼は有るべからずとの事です。

まさにしるべし、古今にもし經なくは、かくのごときの道取あるべからず。脱落の看經あり、不用の看經あること、參學すべきなり。しかあればすなはち、參學の一箇半箇、かならず佛經を傳持して佛子なるべし。いたづらに外道の邪見をまなぶことなかれ。いま現成せる正法眼藏はすなはち佛經なるがゆゑに、あらゆる佛經は正法眼藏なり。一異にあらず、自佗にあらず。しるべし、正法眼藏そこばくおほしといへども、なんだちことごとく開明せず。しかあれども、正法眼藏を開演す、信ぜざることなし。佛經もしかあるべし。そこばくおほしといへども、信受奉行せんこと、一偈一句なるべし。八萬を解會すべからず、佛經の達者にあらざればとて、みだりに佛經は佛法にあらずといふことなかれ。なんだちが佛祖の骨髓を稱じきこゆるも、正眼をもてこれをみれば、依文の晩進なり。一句一偈を受持せるにひとしかるべし、一句一偈の受持におよばざることもあるべし。この薄解をたのんで、佛正法を謗ずることなかれ。聲色の佛經よりも功徳なるあるべからず。聲色のなんぢを惑亂する、なほもとめむさぼる。佛經のなんぢを惑亂せざる、信ぜずして謗ずることなかれ。

「当に知るべし、古今にもし経なくは、かくの如きの道取あるべからず。脱落の看経あり、不用の看経あること、参学すべきなり」

永劫(古今)から経と云う真実現成が遍在するから、先の如浄による説法も有るわけである。拈提では「脱落」と「不用」との同類同義性を説くもので、脱落も不用も意識以前の状態、つまり言語分節以前の未分節に於ける絶対境涯を云うものです。

「しか有れば即ち、参学の一箇半箇、必ず仏経を伝持して仏子なるべし。いたずらに外道の邪見を学ぶ事なかれ」

現成する真実相に於いては、実存価値に於ける優劣は有り得ませんから、「参学の一箇半箇」であっても参学の十聖三賢と同じく、「仏経を伝持する仏子」であると述べるわけです。

シェーマ図式を護持する外道の邪見を勉強してはだめだとの事ですが、発展段階的なピラミッド型思考法を導入する方が、導く方も導かれる方も成果を期待できる為に魅惑を覚えますが、この処が無所得・無所悟の違いで、道元禅師の強調する所です。

「いま現成せる正法眼藏は即ち仏経なるが故に、あらゆる仏経は正法眼蔵なり。一異にあらず、自佗にあらず。知るべし、正法眼蔵そこばく多しと云えども、汝達悉く開明せず。しか有れども、正法眼蔵を開演す、信ぜざる事なし」

ここでは「正法眼蔵」と「仏経」を同義類語にする理論付けは、ともに真実相を示す現成態ですから、遍満する意味分節の正法眼蔵と仏経を未分節に分類するもので、その正法眼蔵は全体を称して云わしめるものですから、「一異・自・他」にあらずと、能所の分類を除くのです。

そこで正法眼蔵は一面体を説くと共に、未分節から分節に到る多面体をも表意しますから、「そこばく(幾許)多しの言になり、無限に広がる分節能全てを開明する事は出来ず、又開明する必要もありません。そうでは有るが、未分節の真実態は、尽界と共々開演する事実を信じない訳にはいかないだろうと、心の奥底に迫る文言です。

「仏経もしか有るべし。そこばく多しと云えども、信受奉行せんこと、一偈一句なるべし。八万を解会すべからず、仏経の達者にあらざればとて、妄りに仏経は仏法にあらずと云う事なかれ」

仏経を表す現成真実相は無限に意味分節されていますが、我々が生きてる事実それ自体が「信受奉行」している証拠で、眼前の現成は限定された「一偈一句」と言う意味です。

「八万」は全体を指すものですから、全てを理解する事は出来ないからと云って、仏経と仏法と別物と考えてはならない。

「汝達が仏祖の骨随を称じ聞こゆるも、正眼をもてこれを見れば、依文の晩進なり。一句一偈を受持せるに等しかるべし、一句一偈の受持に及ばざる事も有るべし」

世間に禅僧と称し、「仏祖の骨随を得たる」との人物を見れば、ただ物知りの域を出るものではなく、「依文の晩進」つまり文字面上の内容に精通する後進との意になります。そのような人と「一句一偈」だけを精通する人とには差異はなく、逆に依文の晩進が一句一偈の人にも及ばない事実を見るべきである。

「この薄解を頼んで、仏正法を謗ずる事なかれ声色の仏経よりも功徳なるあるべからず。声色の汝を惑乱する、なお求め貪る。仏経の汝を惑乱せざる、信ぜずして謗ずる事なかれ」

「この薄解(依文の晩進)」のような理解で、仏正法を謗ってはならない。「声色の仏経」とは読経によるパフォーマンスを指し、そのような形態化した世体の仏経より、真実態を指す仏経の功徳は計りようもない。「声色」の概略は、阿頼耶識・未那識(未分節)の無意識状態から湧出する六識(眼耳鼻舌身意・分節)、さらには五感覚(前五識・再分節)を頼りにする意識状態を「声色」とするものですから、その我執に満ちた妄想が「なんじを惑乱」させ、更なる妄執へと連なる悪循環を云うものですが、それに対し仏経(未分節状態の阿頼耶識)で表徴される示真実相は汝を惑乱させるものではなく、自然一味態である事実を信じ謗ってはいけない。と如浄の説く「不用の看経・脱落の看経」に対する拈提でした。

 

    三

しかあるに、大宋國の一二百餘年の前後にあらゆる杜撰の臭皮袋いはく、祖師の言句、なほこゝろにおくべからず。いはんや經教は、ながくみるべからず、もちゐるべからず。たゞ身心をして枯木死灰のごとくなるべし。破木杓、脱底桶のごとくなるべし。かくのごとくのともがら、いたづらに外道天魔の流類となれり。もちゐるべからざるをもとめてもちゐる、これによりて、佛祖の法むなしく狂顛の法となれり。あはれむべし、かなしむべし。たとひ破木杓、脱底桶も、すなはち佛祖の古經なり。この經の巻數部帙、きはむる佛祖まれなるなり。佛經を佛法にあらずといふは、佛祖の經をもちゐし時節をうかゞはず、佛祖の從經出の時節を參學せず、佛祖と佛經との親疎の量をしらざるなり。かくのごとくの杜撰のやから、稻麻竹葦のごとし。獅子の座にのぼり、人天の師として、天下に叢林をなせり。杜撰は杜撰に學せるがゆゑに、杜撰にあらざる道理をしらず、しらざればねがはず。從冥入於冥、あはれむべし。いまだかつて佛法の身心なければ、身儀心操、いかにあるべしとしらず。有空のむねあきらめざれば、人もし問取するとき、みだりに拳頭をたつ。しかあれども、たつる宗旨にくらし。正邪のみちあきらめざれば、人もし問取すれば、拂子をあぐ。しかあれども、あぐる宗旨にあきらかならず。あるいは爲人の手をさづけんとするには、臨濟の四料簡四照用、雲門の三句、洞山の三路五位等を擧して、學道の標準とせり。

先には如浄和尚の話頭に対する概略的拈提に終始しましたが、これからの拈提では、具体的に臨済・雲門などを手掛かりに詳細に其の人となりが説かれます。

「しか有るに、大宋国の一二百餘年の前後にあらゆる杜撰の臭皮袋云わく、祖師の言句、なお心に置くべからず。云わんや経教は、長く見るべからず、用いるべからず。ただ身心をして枯木死灰の如くなるべし。破木杓、脱底桶の如くなるべし」

「七十五巻正法眼蔵」に於いては『坐禅箴』『仏向上事』『山水経』『葛藤』『諸法実相』『仏道』『大修行』各巻にて「杜撰」に関連する用語が見られ、この『仏経』巻では杜撰の語句が九回使用され、最も多用されます。亦「一二百餘年」云々に関しては、『諸法実相』巻(寛元元年(1243)九月吉峰寺示衆)では「二三百年の長老のともがら、すべて不見道来実相なり」と『大修行』巻(寛元二年(1244)三月九日吉峰古精舎示衆)には「二三百年来の杜撰長老等、そこばくの野狐ならん」などと、述べられる事情を勘案すると、相当にこの杜撰と称される族の存在には、苦々しさすら感じられる文体です。

「大宋国の一二百餘年の前後」とありますが、提唱時を1240年とし、その百年前は南宋建国の1127年になり、その百年前は北宋末期に当たります。その頃「棒喝」などを接化した僧侶は、道元禅師からは四代前に当たる大慧宋杲(1089―1163)仏照徳光(1121―1203)浙翁如琰(1151―1225)無際了派(1149―1229)、さらには長霊守卓(1065―1123)育王介諶(1080―1148)雪庵従瑾(1117―1200)等々に関係する人物を「杜撰の臭皮袋」と呼び、彼らが云う所説「身心をして枯木死灰の如くなるべし」は、『辦道話』第十問答にも通底するものです。

「かくの如くの輩、いたづらに外道天魔の流類となれり。用いるべからざるを求めて用いる、これによりて、仏祖の法虚しく狂顛の法となれり。憐れむべし、悲しむべし。たとい破木杓、脱底桶も、即ち仏祖の古経なり」

身心を「枯木死灰・破木杓・脱底桶」の如くなるべしと云う連中は、外道天魔の類いと称し、憐れむべし悲しむべし。と言いながら「破木杓・脱底桶も仏祖の古経」とは矛盾した論述のように思われますが、『諸悪莫作』巻(延応二年(1240)八月一五日)にての「諸悪は此界の悪と他界の悪と同不同あり、天上の悪と人間の悪と同不同なり。善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず」この一文から類推すると、外道天魔の把捉する破木杓と、古経が把定する破木杓では天地の隔差が有るようです。

「この経の巻数部帙、究むる仏祖稀なる也。仏経を仏法に非ずと云うは、仏祖の経を用いし時節を窺わず、仏祖の従経出の時節を参学せず、仏祖と仏経との親疎の量を知らざる也」

経には「巻数部帙」と云う状態が有りますが、これらは時々刻々々状態では有りませんから、「究める仏祖は稀なり」と指摘し、仏経の個別真実態を仏法に非ずと云うのは、仏祖との聯関性が無いからで、仏祖の渾身に説く真実の経より出る(従経出)事実(時節)を参究学道しないから、「仏祖と仏経との親疎の量」つまり、違いがわからないのである。と天魔外道に対する仏祖と仏経の基礎的知識の言明です。

「かくの如くの杜撰の族、稲麻竹葦の如し。獅子の座に陞り、人天の師として、天下に叢林をなせり。杜撰は杜撰に学せるが故に、杜撰にあらざる道理を知らず、知らざれば願わず」

このような凡庸・杜撰な連中は当時(過去一・二百年)到る所に居た事を「稲麻竹葦の如し」とし、そういう連中が「須弥壇に陞り、人天の師として天下に叢林を成せり」とは『仏道』巻で説かれる「先師いはく、いま諸方獅子の座にのぼるものおほし、人天の師とあるものおほしといへども、知得佛法道理箇渾無」に脈絡する関係性からも、『仏経』『仏道』各巻は通時共時ともに相補的補完関係に位置付けられると考えられます。

「従冥入於冥、憐れむべし。未だ曾て仏法の身心なければ、身儀心操、如何に有るべしと知らず。有空の旨明らめざれば、人もし問取する時、妄りに拳頭を立つ」

杜撰の連中は同類にしか学んでいない為、杜撰以外の道理を知らないから、冥より冥に入る(従冥入於冥・『妙法蓮華経』七・化城喩品)しか出来ない連中である為に、「憐れむべし」と嘆かれます。彼らには仏法の身心・つまり身儀心操の如何用ありようを知らないから、商量・問答の時には意味も知らずに、得意気に拳を上げハッタリも繰り返すのである。

「しか有れども、立つる宗旨に暗し。正邪のみち明らめざれば、人もし問取すれば、払子を上ぐ。しか有れども、上ぐる宗旨に明らかならず。或いは為人の手を授けんとするには、臨済の四料簡四照用、雲門の三句、洞山の三路五位等を挙して、学道の標準とせり」

得意気に握り拳を上げる禅坊主と自称する杜撰の連中は、その拳を上げる動作は他人の真似事つまりは猿マネですから、その立てるという宗旨(趣意)に暗い。同様に払子の取り扱い方も明瞭ではなく恐らくは、そういう連中は払子の元来の意味合いも知らないから、法会・儀式での道具(アクセサリー)と思っている事だろうから、「宗旨明らかならず」なのです。

「為人の手を授けん」とは、人を導く為の方法で、その「臨済の四料簡四照用」は「奪人不奪境・奪境不奪人・人境両俱奪、先照後用・先用後照・照用同時・照用不同時」を云い、「雲門の三句」は「函蓋乾坤・目機銖両・不渉万縁」を云い、「洞山の三路五位」は「鳥道・玄路・展手・正中偏・偏中正・正中来・偏中至・兼中到」これらの接化法で以て、学人を化導したとするものですが、『仏道』巻にても「切忌すらくは五家の乱称を記持することなかれ、五家の門風を記号することなかれ。いはんや三玄三要四料簡四照用九帯等あらんや。いはんや三句五位、十同真智あらんや」との提唱で、『人天眼目』からの接化法には、「人天の眼目をくらまし、正法眼蔵の功徳なし」と説かれ、拈提と通脈する文体になります。

 

先師天童和尚、よのつねにこれをわらうていはく、學佛あにかくのごとくならんや。佛祖正傳する大道、おほく心にかうぶらしめ、身にかうぶらしむ。これを參學するに、參究せんと擬するにいとまあらず。なんの閑暇ありてか晩進の言句をいれん。まことにしるべし、諸方長老無道心にして、佛法の身心を參學せざることあきらけし。先師の示衆かくのごとし。まことに臨濟は黄蘗の會下に後生なり。六十柱杖をかうぶりて、つひに大愚に參ず。老婆心話のしたに、從來の行履を照顧して、さらに黄蘗にかへる。このこと、雷聞せるゆゑに、黄蘗の佛法は臨濟ひとり相傳せりとおもへり。あまりさへ黄蘗にもすぐれたりとおもへり。またくしかにはあらざるなり。臨濟はわづかに黄蘗の會にありて隨衆すといへども、陳尊宿すゝむるとき、なにごとをとふべしとしらずといふ。大事未明のとき、參學の玄侶として、立地聽法せんに、あにしかのごとく茫然とあらんや。しるべし、上々の機にあらざることを。また臨濟かつて勝師の志気あらず、過師の言句きこえず。黄蘗は勝師の道取あり、過師の大智あり。佛未道の道を道得せり、祖未會の法を會得せり。黄蘗は超越古今の古佛なり。百丈よりも尊長なり、馬祖よりも英俊なり。臨濟にかくのごとくの秀気あらざるなり。ゆゑはいかん。古來未道の句、ゆめにもいまだいはず。たゞ多を會して一をわすれ、一を達して多にわづらふがごとし。あに四料簡等に道味ありとして、學法の指南とせんや。雲門は雪峰の門人なり。人天の大師に堪爲なりとも、なほ學地といふつべし。これらをもて得本とせん、たゞこれ愁末なるべし。臨濟いまだきたらず、雲門いまだいでざりし時は、佛祖なにをもてか學道の標準とせし。かるがゆゑにしるべし、かれらが屋裏に佛家の道業つたはれざるなり。憑據すべきところなきがゆゑに、みだりにかくのごとく胡亂説道するなり。このともがら、みだりに佛經をさみす。人、これにしたがはざれ。もし佛經なげすつべくは、臨濟雲門をもなげすつべし。佛經もしもちゐるべからずは、のむべき水もなし、くむべき杓もなし。また高祖の三路五位は節目にて、杜撰のしるべき境界にあらず。宗旨正傳し、佛業直指せり。あへて餘門にひとしからざるなり。

これより具体的人名を挙げての解説註解です。

「先師天童和尚、世の常にこれを笑うて云わく、学仏豈かくの如くならんや。仏祖正伝する大道、多く心に蒙ぶらしめ、身に蒙ぶらしむ。これを参学するに、参究せんと擬するにいとまあらず。何の閑暇ありてか晩進の言句を入れん。誠に知るべし、諸方長老無道心にして、仏法の身心を参学せざる事明らけし。先師の示衆かくの如し」

ここでの如浄による本則底本の出所はわかりませんが、「長老無道心」に関するものとしては『行持』下巻・如浄章(仁治三年(1242)四月五日)にて「衲子を教訓するに云く、参禅学道は第一有道心、これ学道のはじめなり。いま二百来年、祖師道廃れたり、悲しむべし。いわんや一句を道得せる皮袋すくなし。某甲そのかみ径山に掛錫するに、光仏照その時の粥飯頭なりき。上堂して云く、仏法禅道必ずしも佗人の言句を求むべからず、たゞ各自理会。かくの如く云て、僧堂裏都不管なりき。雲来兄弟也都不管なり。祗管与官客相見追尋するのみなり。仏照、ことに仏法の機関を知らず、ひとえに貪名愛利のみなり。仏法もし各自理会ならば、如何でか尋師訪道の老古錐あらん。真箇是光仏照、不曾参禅也。いま諸方長老無道心なる、たゞ光仏照箇児子也」

また『嗣書』巻(仁治二年(1241)三月)では「先師古仏、上堂するに、常に諸方を戒めて云く、近来多く祖道に名をかれるやから、妄りに法衣を搭し、長髪を好み、師号に署するを出世の舟航とせり。憐れむべし、たれかこれを救わん。恨むらくは、諸方長老無道心にして学道せざる事を」これらは各々提唱の時処は違いますが、相互補完的説明である事明らかで、聯関一体連続性を有する眼蔵思考です。

「誠に臨済は黄蘗の会下に後生なり。六十柱杖を蒙ぶりて、遂に大愚に参ず。老婆心話の舌に、従来の行履を照顧して、さらに黄蘗に帰る。この事、雷聞せる故に、黄蘗の仏法は臨済ひとり相伝せりと思えり。餘りさえ黄蘗にも勝れたりと思えり。全くしかにはあらざるなり。臨済はわづかに黄蘗の会にありて随衆すと云えども、陳尊宿勧むる時、何ごとを問うべしと知らずと云う。大事未明の時、参学の玄侶として、立地聴法せんに、豈しかの如く茫然と有らんや。知るべし、上々の機にあらざる事を」

この文章は『行持』上巻や『真字正法眼蔵』上・二七則等を参考にしたものですが、底本は『臨済録』行録(「大正蔵」四七・五〇四・下)だと考えられます。

四人の間柄は臨済義玄(―868)の師に黄蘗希運(―856)で、その師は百丈懐海(749―814)になり、その師が馬祖道一(709―788)になります。高安大愚(生没年不詳)は馬祖の弟子の帰宗智常(生没年不詳)の弟子になり、黄蘗とは従兄弟関係に当たります。陳尊宿(生没年不詳)は黄蘗の第一弟子になり、臨済の兄弟子になる関係です。

また黄蘗が臨済に対し、大愚会処行きを命じた背景には、「馬大師下有八十四人坐道場、得馬師正眼者、止三両人、盧山和尚是其一人」(「大正蔵」五一・二六六・下)との上堂語録の、盧山帰宗寺の智常を高く評価する事情から、臨済には盧山の帰宗智常の愛弟子の高安大愚に託したものと思われる。

文章はそのまま読解されますが、先の『行持』下巻では「行業純一にして行持抜群せりという」との如く臨済を高く評価するものでしたが、当『仏経』巻にては「参学の玄侶として、上々の機にあらざる事を」と先程とは正反対の評価に終始されます。

「また臨済曾て勝師の志気あらず、過師の言句聞こえず。黄蘗は勝師の道取あり、過師の大智あり。仏未道の道を道得せり、祖未会の法を会得せり。黄蘗は超越古今の古仏なり。百丈よりも尊長なり、馬祖よりも英俊なり。臨済にかくの如くの秀気あらざるなり。故は如何。古来未道の句、夢にも未だ云わず。たゞ多を会して一を忘れ、一を達して多に煩うが如し。あに四料簡等に道味ありとして、学法の指南とせんや」

臨済には師(黄蘗)に勝る志気もなく、師を過ぐる言句も聞こえないと。逆に「元来黄蘗仏法無多子」などと云った、驕慢とも受け留められる多子無し(造作ない・わけないの意)で言下に大悟とは、思い上がりも甚だしきの語感が含意された文体です。

臨済の粗暴さに続いては、「黄蘗は勝師の道取あり・過師の大智・超越古今の古仏・百丈よりも尊長・馬祖よりも英俊」と臨済とは真逆な評価ですが、「七十五巻正法眼蔵」では『仏性』『行持』『仏向上事』『山水経』『仏道』『面授』『大修行』『自証三昧』各巻にて黄蘗を肯定的に提唱拈提されます。また『真字正法眼蔵』にても計七則が黄蘗に関する話頭になります。因みに先程の黄蘗に対する評価に関しては、『仏向上事』巻(仁治三年(1242)三月二十三日興聖寺示衆)にて「黄蘗恁麼道の従上来事は、従上仏々祖々、正伝しきたる事なり。これを正法眼蔵涅槃妙心といふー中略ー黄蘗は百丈の法子として百丈よりもすぐれ、馬祖の法孫として馬祖よりもすぐれたり」との一貫した黄蘗に対する感慨です。

再度、尿床鬼子(臨済)について口唇緩めづ、臨済には黄蘗のような秀でた気概なく、只多を会得しては一を忘れ、逆に一に達しては多を煩うように、全体把握が出来ないのである。どうして四料簡等の接化法を以て、学仏法の指南と出来ようか。との厳しい人物評価になります。この所を経豪和尚註解書『御抄』では「(臨済)未だ説かざる所ありと、先師(道元禅師)の御心地には許されざるか」との推察です。

「雲門は雪峰の門人なり。人天の大師に堪為なりとも、なお学地と云いつべし。これらをもて得本とせん、ただこれ愁末なるべし。臨済未だ来たらず、雲門未だ出でざりし時は、仏祖何をもてか学道の標準とせし。かるが故に知るべし、かれらが屋裏に仏家の道業伝われざるなり。憑拠すべき処なきが故に、妄りにかくの如く胡乱説道するなり。このともがら、妄りに仏経をさみす。人、これに従わざれ。もし仏経投げ棄つべくは、臨済雲門をも投げ棄つべし。仏経もし用いるべからずは、飲むべき水もなし、汲むべき杓もなし。また高祖の三路五位は節目にて、杜撰の知るべき境界にあらず。宗旨正伝し、仏業直指せり。敢えて餘門に等しからざるなり」

雲門文偃(864―949)についての説明になりますが、雪峰義存(822―908)の門人であり人天の大師として堪えた人物だが、学地(未だ学修する余地を残した修行の境地)と云ってよい学人である。これで本を得た(得本)とするのは、末節にこだわる(愁末)者である。と雲門に対する概略的説明です。臨済や雲門が居なかった時には、四料簡や三句も無い訳ですから、仏祖師は何を以て学道の標準としたのだろうか。ですから彼ら(臨済・雲門)の屋裏(会処)には仏法は伝わらない。憑り拠が無いから胡乱説道(根拠の無いことを云う)するのである。このともがら(雲門・臨済)は仏経を軽んずる(さみす)のであるから、彼らには従属してはならない。もし仏経(経巻)うぃ投棄するなら、主体である臨済・雲門自身も投棄したら良さそうであるが、仏経は経巻であると同時に、尽界に遍在現成する真実相ですから、これを用いてはならないと云うなら、日常底に遍満する水も杓も真実相の一形態ですから、仏経を投げ棄てる事は、日常底なる仏法をも棄てる事になるとの論述になります。

また高祖(洞山良价)の三路五位(鳥道・正中偏等)は節目(細密な説明)であり、杜撰な連中の知るべき境涯にはなく、宗旨(趣旨)を正伝し、仏祖の道業を直接指示し、他の門流とは等しくないのである。との言にて洞山に対しては、三路五位を認める言明で、これは臨済・雲門に対比させる為の手法と考えられますが、道元禅師の真意には『春秋』巻(寛元二年(1244)示衆)にての「あやまりて洞山に偏正等の五位ありて人を接すという」に有る処を、敢えて能所的識見での文体構成にしたものと思われます。

 

    四

また杜撰のともがらいはく、道教儒教釋教、ともにその極致は一揆なるべし。しばらく入門の別あるのみなり。あるいはこれを鼎の三脚にたとふ。これいまの大宋國の諸僧のさかりに談ずるむねなり。もしかくのごとくいはば、これらのともがらがうへには、佛法すでに地をはらうて滅没せり。また佛法かつて微塵のごとくばかりもきたらずといふべし。かくのごとくのともがら、みだりに佛法の通塞を道取せんとして、あやまりて佛經は不中用なり、祖師の門下に別傳の宗旨ありといふ。少量の機根なり。佛道の邊際をうかゞはざるゆゑなり。佛經もちゐるべからずといはば、祖經あらんとき、もちゐるや、もちゐるべからずや。祖道に佛經のごとくなる法おほし。用捨いかん。もし佛道のほかに祖道ありといはば、たれか祖道を信ぜん。祖師の祖師とあることは、佛道を正傳するによりてなり。佛道を正傳せざらん祖師、たれか祖師といはん。初祖を崇敬することは、第二十八祖なるゆゑなり。佛道のほかに祖道をいはば、十祖二十祖たてがたからん。嫡々相承するによりて、祖師を恭敬するゆゑは、佛道のおもきによりてなり。佛道を正傳せざらん祖師は、なんの面目ありてか人天と相見せん。いはんやほとけをしたふしふかきこゝろざしをひるがへして、あらたに佛道にあらざらん祖師にしたがひがたきなり。いま杜撰の狂者、いたづらに佛道を輕忽するは、佛道所有の法を決擇することあたはざるによりてなり。しばらくかの道教儒教をもて佛教に比する愚癡のかなしむべきのみにあらず、罪業の因縁なり、國土の衰弊なり。三寶の陵夷なるがゆゑに。孔老の道、いまだ阿羅漢に同ずべからず。いはんや等覺妙覺におよばんや。孔老の教は、わづかに聖人の視聽を大地乾坤の大象にわきまふとも、大聖の因果を一生多生にあきらめがたし。わづかに身心の動靜を無爲の爲にわきまふとも、盡十方界の眞實を無盡際斷にあきらむべからず。

これからは杜撰と三教(道教儒教・釈教)についての考察に入ります。

「また杜撰の輩云く、道教儒教釈教、共にその極致は一揆なるべし。しばらく入門の別あるのみなり。或いはこれを鼎の三脚に喩う」

『諸法実相』巻(寛元元年(1243)九月吉峰寺示衆)にも「近来大宋国杜撰のともがら、落処を知らず、宝所を見ず。実相の言を虚説の如くし、さらに老子荘子の言句を学す。これをもて、仏祖の大道に一斎なりと云う。また三教は一致なるべしと云う。あるいは三教は鼎の三脚の如し、ひとつもなければくつがへるべしといふ。愚癡のはなはだしき、たとひをとるに物あらず」との説示の如くに、越前志比庄に移錫されての九月示衆提唱(『説心説性』『諸法実相』『仏道』『密語』『仏経』)各巻は特に聯関性が認められる文体構造になっているものと思われます。

「これ今の大宋国の諸僧の盛りに談ずる旨なり。もしかくの如く云わば、これらの輩が上には、仏法すでに地を払うて滅没せり。また仏法かつて微塵の如くばかりも来たらずと云うべし」

文意は何ら難しい箇所は無く、在宋当時の様子が推察されますが、『永平広録』三八三則(建長二年(1250)七月頃)には「何れの祖師か孔子老子の涕唾を嘗めて仏祖の甘露と為ん者や。今、大宋の諸僧、頻りに三教一致の言を談ず、最も非なり。苦しき哉、大宋の仏法、地を払って衰えたりー以下略」との上堂説法が残されています。

この上堂の直接的契機は『四禅比丘』巻だと思われます。とかく道元禅師の思考法は、鎌倉行化を境に二分されたとする見方も有りますが、この処に関して云うなら連続・一貫性が認め得るものです。

「かくの如くの輩、妄りに仏法の通塞を道取せんとして、誤りて仏経は不中用なり、祖師の門下に別伝の宗旨ありと云う。少量の機根なり。仏道の辺際を窺わざる故なり」

三教一致説を云う連中は、自分たちは仏法に通暁(通塞)しているとし、仏経は用いる事はなく、(不中用)、祖師の門下には教外別伝の宗旨が有ると云うのである。そういうともがらは、器量の小さい人間である。これは仏道の大きさ(辺際)を知らないからである。

「仏経用いるべからずと云わば、祖経あらん時、用いるや、用いるべからずや。祖道に仏経の如くなる法多し。用捨いかん。もし仏道のほかに祖道ありと云わば、誰か祖道を信ぜん。祖師の祖師とある事は、仏道を正伝するによりてなり。仏道を正伝せざらん祖師、たれか祖師と云わん」

仏経を用いるなと云うなら、祖師の説いたお経なら用いるか、用いないのか。祖師が道うものには、仏経のような法は多く有るが、用いるのか捨てるのか。もしも仏道のほかに祖道が有るなら、誰が祖道を信じるか。祖道と云うのは、仏道を正伝した結果の事で、仏道を正伝しない祖師を、誰が祖師と云うものか。と祖道と仏道との融合性を説かれます。

「初祖を崇敬する事は、第二十八祖なる故なり。仏道のほかに祖道を云わば、十祖二十祖立てがたからん。嫡々相承するによりて、祖師を恭敬する故は、仏道の重きによりてなり。仏道を正伝せざらん祖師は、なんの面目ありてか人天と相見せん。云わんや仏を慕うし深き志を翻して、新たに仏道にあらざらん祖師に従い難きなり」

震旦初祖つまり達磨大師は、第二十八祖と嫡々相承と連綿する事実に、崇敬するのである。逆に、仏道を正伝しない祖師には、従う事は出来ないとの言説になりますが、杜撰との違いを、ここでは愚直に伝持する歴実性を強調されます。

「いま杜撰の狂者、いたづらに仏道を軽忽するは、仏道所有の法を決択する事能わざるによりてなり。しばらくかの道教儒教をもて仏教に比する愚癡の悲しむべきのみに非ず、罪業の因縁なり、国土の衰弊なり。三宝の陵夷なるが故に」

ここに来て、杜撰を狂者と一段と舌鋒が鋭敏になります。こういう杜撰の連中は仏道を軽んじ、ないがしろ(軽忽)にするのは、見究める眼力を具有していないからで、彼らは仏教と道教儒教の比較さへ出来ない悲しむべき者以上に、罪業の因縁を背負う事は国土衰弊、つまり仏法僧の衰え(陵夷)に他ならない。

「孔老の道、いまだ阿羅漢に同ずべからず。云わんや等覚妙覚に及ばんや。孔老の教は、わづかに聖人の視聴を大地乾坤の大象に弁うとも、大聖の因果を一生多生に明らめ難し。わづかに身心の動静を無為の為に弁うとも、尽十方界の真実を無尽際断に明らむべからず」

孔子老子の教えは、阿羅漢(上座部の最高位)や等覚妙覚(大乗部の菩薩)に及ぶものではない。彼らの教えは視覚聴覚で以て大自然(大地乾坤)の大きな象(かたち)を説明したとしても、大聖の因果つまり仏の説く因果の法は一生涯、多生涯を過ごしても明解には出来ないだろう。

彼らにも坐法のような、無為の境致目指す瞑想法(道徳経)は有るものの、尽十方界の真実を無尽際断に明らかにする只管打坐法は無いのであると、孔老との差違には次元の相違を述べるものです。

 

おほよそ孔老の教の佛教よりも劣なること、天地懸隔の論におよばざるなり。これをみだりに一揆に論ずるは、謗佛法なり、謗孔老なり。たとひ孔老の教に精微ありとも、近來の長老等、いかにしてかその少分をもあきらめん。いはんや萬期に大柄をとらんや。かれにも教訓あり、修練あり。いまの庸流たやすくすべきにあらず。修しこゝろむるともがら、なほあるべからず。一微塵なほ佗塵に同ずべからず。いはんや佛經の奥玄ある、いまの晩進、いかでか辦肯することあらん。兩頭ともにあきらかならざるに、いたづらに一致の胡説亂道するのみなり。大宋いまかくのごとくのともがら、師号に署し、師職にをり、古今に無慚なるをもて、おろかに佛道を亂辦す。佛法ありと聽許しがたし。しかのごとくの長老等、かれこれともにいはく、佛經は佛道の本意にあらず、祖傳これ本意なり。祖傳に奇特玄妙つたはれり。かくのごとくの言句は、至愚のはなはだしきなり、狂顛のいふところなり。祖師の正傳に、またく一言半句としても、佛經に違せる奇特あらざるなり。佛經と祖道と、おなじくこれ釋迦牟尼佛より正傳流布しきたれるのみなり。たゞし祖傳は、嫡々相承せるのみなり。しかあれども、佛經をいかでかしらざらん、いかでかあきらめざらん、いかでか讀誦せざらん。古徳いはく、なんぢ經にまどふ、經なんぢをまよはさず。古徳看經の因縁おほし。杜撰にむかうていふべし、なんぢがいふがごとく、佛經もしなげすつべくは、佛心もなげすつべし、佛身もなげすつべし。佛身心なげすつべくは、佛子なげすつべし。佛子なげすつべくは、佛道なげすつべし。佛道なげすつべくは、祖道なげすてざらんや。佛道祖道ともになげすてば、一枚の禿子の百姓ならん。たれかなんぢを喫棒の分なしといはん。たゞ王臣の驅使のみにあらず、閻老のせめあるべし。近來の長老等、わづかに王臣の帖をたづさへて、梵刹の主人といふをもて、かくのごとくの狂言あり。是非を辨ずるに人なし。ひとり先師のみこのともがらをわらふ。餘山の長老等、すべてしらざるところなり。

「おおよそ孔老の教の仏教よりも劣なる事、天地懸隔の論に及ばざるなり。これを妄りに一揆に論ずるは、謗仏法なり、謗孔老なり。たとい孔老の教に精微ありとも、近来の長老等、如何にしてかその少分をも明らめん。云わんや万期に大柄を取らんや」

孔老と仏教との差違を天地懸隔以上であり、これを一緒に論ずる事自体が、仏法にも孔老をも侮蔑的である。例えば孔老の教えに精細微妙な教義が有っても、今頃の杜撰な長老などは、その精微な孔老の云い分をも明示できる者は居ない。ですからそれらの長老たちは、万期(永遠)に大きな柄つまり要旨を捉える事は出来ないだろう。

「彼にも教訓あり、修練あり。今の庸流たやすくすべきに非ず。修し試むる輩、なお有るべからず。一微塵なほ他塵に同ずべからず。云わんや仏経の奥玄ある、今の晩進、如何でか辦肯する事有らん。両頭共に明らかならざるに、いたづらに一致の胡説乱道するのみなり」

孔老の教えにも教訓や修練が有るが、現今の凡庸な人が容易に出来るものではない。修練しようと志す人も居ない現況である。どんな小さな存在(一微塵)でも他に代替(他塵)出来るものではない。ましてや仏教に奥玄ある事など、今の後輩(晩進)が辦じ肯う事が出来ようか。杜撰な長老等は両頭(仏・孔老)二つながら、わかりもしないのに、三教一致と虚言する実態を胡説乱道と批評するものです。

なお『思想』九六〇号(「中国禅の形成」石井公成・「朱子学と禅」土田健次郎)には禅に関する論考多数掲載あり。石井論文では三教一致の過程を「中国禅が禅宗らしさを増してゆく過程、すなわち、中国禅の形成過程は、禅宗がインドくささを捨てて中国らしさを強める過程、中国の思想や習俗への習合を強める中国化の過程にほかならない」と見、土田論文にては朱子学との対比から「禅宗側は宋以後の官僚社会にあっては、官僚及び官僚予備軍である士大夫への積極的な布教を行ったが、その際に士大夫が遵法する忠孝などの世俗的価値への接近を見せることになった」また「宋以後の三教一致論は、心の場での三教の一致を説くものが主流である。この滔々たる流れの中に禅宗もからまっていくが、もとをただせば、道学自体が禅宗から影響を受けているのである」と概観されます。

「大宋今かくの如くの輩、師号に署し、師職に居り、古今に無慚なるをもて、愚かに仏道を乱辦す。仏法ありと聴許し難し。しかの如くの長老等、かれこれ共に云く、仏経は仏道の本意にあらず、祖伝これ本意なり。祖伝に奇特玄妙伝われり」

杜撰の長老達の名聞利養的行為うぃ、「師号に署し、師職に居ること聴許し難し」と非難されますが、この言動は『行持下』巻「六代の祖師、おのおの師号あるは、みな滅後の勅謚なり、在世の愛名にあらず。しかあれば、すみやかに生死の愛名をすてて、仏祖の行持をねがふべし」、『礼拝得髄』巻「不聞仏法の愚痴のたぐひおもはくは、われは大比丘なり、年少の得法を拝すべからず、われは久修練行なり、得法の晩学を拝すべからず、われは師号に署せり、師号なきを拝すべからず。―中略ーかくのごとくの癡人、いたづらに父国をはなれて他国の道路に跉跰するによりて、仏道を見聞せざるなり」、『洗浄』巻「近来二三百年、祖師道癈せるゆゑにしかのごとくのともがらおほし。かくのごとくのやから、寺院の主人となり、師号に署して為衆の相をなす」、『三十七品菩提分法』巻「二三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほくいはく、在家の学道と出家の学道と、これ一等なりといふ。これたゞ在家人の屎尿を飲食とせんがために狗子となれる類族なり。あるいは国王大臣にむかひていはく、万機の心はすなはち祖仏心なり、さらに別心あらずといふ。王臣いまだ正説正法をわきまへず、大悦して師号等をたまふ。かくのごとくの道ある諸僧は調達なり」と縷々書き出しましたが、一貫してこれら三教一致を説くような無慚な連中を非難されるものですが、これは遠く海を隔てた話題ではなく、視聴する随喜衆に対する訓告である事も承知すべきものです。

その彼らの常套句が祖伝には「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」なる奇特玄妙が伝持されていると云った、いわゆる臨済系的言辞を説くことからも、山内に共住する旧達磨宗徒に対する警句の意味も含まれているものと考えられます。

「かくの如くの言句は、至愚の甚だしきなり、狂顛の云う処なり。祖師の正伝に、またく一言半句としても、仏経に違せる奇特あらざるなり。仏経と祖道と、同じくこれ釈迦牟尼仏より正伝流布し来たれるのみなり。但し祖伝は、嫡々相承せるのみなり。しかあれども、仏経を如何で知らざらん、如何でか明らめざらん、如何でか読誦せざらん」

これまでの重言になり文の如く解されますが、、仏経と祖道の不可分の関係、嫡々相承という連続態が強調される文意です。

「古徳云く、汝経に惑う、経汝を迷わさず。古徳看経の因縁多し。杜撰に向かいて云うべし、汝が云うが如く、仏経もし投げつ棄べくは、仏心も投げ棄つべし、仏身も投げ棄つべし。仏身心投げ棄つべくは、仏子投げ棄つべし。仏子投げ棄つべくは、仏道投げ棄つべし。仏道投げ棄つべくは、祖道投げ棄てざらんや。仏道祖道ともに投げ棄てば、一枚の禿子の百姓ならん。誰か汝を喫棒の分なしと云わん。ただ王臣の駆使のみにあらず、閻老の責め有るべし。近来の長老等、わづかに王臣の帖を携えて、梵刹の主人と云うをもて、かくの如くの狂言あり。是非を辨ずるに人なし。一人先師のみこの輩を笑う。餘山の長老等、全て知らざる処なり」

ここに言う「古徳」は六祖慧能を示唆し、「汝経に惑う、経汝を迷わさず」は「心迷法華転、心悟転法華(心迷は法華に転ぜられ、心悟は法華を転ず)」(『景徳伝灯録』五・五一・二三八・上)捩ったものと思われます。

杜撰に対する言句は省略し、仏道・祖道二つながら放棄するなら、一人の在家人に成ってしまう事情を「一枚の禿子の百姓」と表現されます。

ただ単に王臣に駆使されるのみで、仏法王法相依的自覚が欠損している為、王臣による住持任命書(帖)持参を持っての梵刹の主人が帰結点となり、「三教一致」や「仏経は仏道の本意にあらず」と云った狂言が発言されるのであるが、これらを一笑したのが天童の如浄和尚というわけですが、この話の筋は『宝慶記』第二十則による「諸方長老の妄談は是れ胡乱作来の長老のみ」にも通ずる拈提のようです。

 

おほよそ異域の僧侶なれば、あきらむる道かならずあるらんとおもひ、大國の帝師なれば、達せるところさだめてあるらんとおもふべからず。異域の衆生かならずしも僧種にたへず。善衆生は善なり、惡衆生は惡なり。法界のいく三界も、衆生の種品おなじかるべきなり。

また大國の帝師となること、かならずしも有道をえらばれず。帝者また有道をしりがたし、わづかに臣の擧をきゝて登用するのみなり。古今に有道の帝師あり、有道にあらざる帝師おほし。にごれる代に登用せらるゝは無道の人なり、にごれる世に登用せられざるは有道の人なり。そのゆゑはいかん。知人のとき、不知人のとき、あるゆゑなり。黄梅のむかし、神秀あることをわすれざるべし。神秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に説法す。しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。黄梅のむかし、盧行者あること、信ずべし。樵夫より行者にうつる、搬柴をのがるとも、なほ碓米を職とす。卑賤の身、うらむべしといへども、出俗越僧、得法傳衣、かつていまだむかしもきかざるところ、西天にもなし、ひとり東地にのこれる希代の高躅なり。七百の高僧もかたを比せず、天下の龍象あとをたづぬる分なきがごとし。まさしく第三十三代の祖位を嗣續して佛嫡なり。五祖、知人の知識にあらずは、いかでかかくのごとくならん。かくのごとくの道理、しづかに思惟すべし、卒爾にすることなかれ。知人のちからをえんことをこひねがふべし。人をしらざるは自佗の大患なり、天下の大患なり。廣學措大は要にあらず。知人のまなこ、知人の力量、いそぎてもとむべし。もし知人のちからなくは、曠劫に沈淪すべきなり。しかあればすなはち、佛道にさだめて佛經あることをしり、廣文深義を山海に參學して、辦道の標準とすべきなり。

終結論部になりますが、前後する「眼蔵」との対比からも、やや起承転結的メリハリに欠ける文体構成であると感じられますが、最後は六祖慧能に前後する人物での拈提です。

「おおよそ異域の僧侶なれば、明らむる道必ず有るらんと思い、大国の帝師なれば、達せる処定めて有るらんと思うべからず。異域の衆生必ずしも僧種に耐えず。善衆生は善なり、悪衆生は悪なり。法界の幾三界も、衆生の種品同じかるべきなり」

この喩えは日本人から外国人を評しているもので、特にこの場合は中国(宋)社会を対象にしたものです。外国(異域)と云うレッテルを貼られるだけで、徳を有すると思う田舎根性を云うもので、細分化(人種)した人間をホモサピエンスとして把握すれば、何ら分別の対象には成りません。

「また大国の帝師と成る事、必ずしも有道を選ばれず。帝者また有道を知り難し、僅かに臣の挙を聞きて登用するのみなり。古今に有道の帝師あり、有道にあらざる帝師多し。濁れる代に登用せらるるは無道の人なり、濁れる世に登用せられざるは有道の人なり。その故は如何。知人の時、不知人の時、ある故なり」

これは「易姓革命」と「嫡々相承・単伝」とを対比させてのもので、世法である帝位には断滅あるも、仏法正伝に於いては嗣続する連脈態を説くものです。

「黄梅の昔、神秀有る事を忘れざるべし。神秀は帝師なり。簾前に講法す、箔前に説法す。しかのみにあらず、七百高僧の上座なり。黄梅の昔、盧行者有る事、信ずべし。樵夫より行者に遷る、搬柴を逃るとも、なお碓米を職とす。卑賤の身、恨むべしと云えども、出俗越僧、得法伝衣、曾て未だ昔も聞かざる処、西天にもなし、ひとり東地に残れる希代の高躅なり。七百の高僧も肩を比せず、天下の龍象あとを尋ぬる分なきが如し。まさしく第三十三代の祖位を嗣続して仏嫡なり。五祖、知人の知識にあらずは、如何でかかくの如くならん」

ここは五祖大満弘忍(601―674)門下に於ける両頭について述べられます。先ず神秀(―706)は「帝の師」と有りますが、武則天・中宗(ちゅうそう)・睿宗(えいそう)に仕えた事情から帝師と表記されます。当時五祖門下には七百人もの雲衲が居家する中で、第一座と云われ最上位に列した事から神秀上座と呼ばれたようです。一方盧行者(あんじゃ)とは、慧能の出身が盧氏であり未嗣法である為に、盧行者と称されます。樵夫(きこり)から寺の雑用係の行者と転身し、薪売りから東山での精米業へと職を変更したと云うものです。このように俗態から第三十三祖を嗣続する例はインド(西天)でも事例がなく、このように仏嫡が正伝されるのは希代の高躅であるが、師である五祖弘忍の指導者(知識)の存在が並存されたからである。と云う正師の所在する処には嫡々相承の現成が通底する事象を述べるものです。

因みに神秀からは普寂(651―739)―道璿―行表(722―797)―最澄(767―822)と嗣続され、六祖慧能からは青原・南嶽の両頭が輩出され、現今に云われる禅宗の基礎が築かれましたが、これは六祖の弟子に当たる荷沢神会(684―758)による慧能を正統派に導き、自身を七祖に仕立てる巧妙な運動があったようです。

「かくの如くの道理、静かに思惟すべし、卒爾にする事なかれ。知人の力を得ん事を冀うべし。人を知らざるは自他の大患なり、天下の大患なり。広学措大は要にあらず。知人のまなこ、知人の力量、急ぎて求むべし。もし知人の力なくは、曠劫に沈淪すべきなり。しかあれば即ち、仏道に定めて仏経ある事を知り、広文深義を山海に参学して、辦道の標準とすべきなり」

天下の病気(大患)である「広学措大」は博学な粗人と訳し、そのような者は必要ない。人を知得する眼力・力量を早急に希求すべきであるが、その見究める力量が無いなら未来永劫(曠劫)に沈淪するであろう。

そういうわけですから、仏道には間違いなく仏経つまり真実ある事実を知り、広大深円な文字と其の意味(広文深義)を尽十方界の山海に参学して、辦道の標準としなければならないと、この最後の一行を言わんが為に縷々言辞を重ねて来たもので、今一度確認するに、この場合の「知人」とは、全ての場合に於いて真実を見出すのが知人であり、その事実・事象が仏経であるわけですから、その無尽蔵な真実現成を山海の絶対不可分と同義態に辦道精進する事が「仏経あることを知る」と言ったものです。