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現代人による正法眼蔵解説

清涼山 天龍寺略史

      清涼山 天龍寺略史

青園謙三郎 著

 

       松岡藩の創設

 清涼山天龍寺は松岡藩の初代藩主・松平昌勝によって建立された。従って天龍寺の略史について触れようとすれば、まず松岡藩の創設に関するいきさつから始めなければならない。

松岡へ藩が 設けられたのは江戸時代初期の正保二年(1645)十一月である。福井藩三代目の藩主・松平忠昌がこの年八月に江戸で亡くなった。四十九歳であった。とこりが忠昌には腹違いの男の子が三人あった。一番大きいのは仙菊(母は白石氏の娘)、次は万千代(母は正妻道姫、広橋大納言の娘)、三番目は辰之助(母は奈津、浦上氏の娘)である。こ ことゆえ、家老たちが話し合って藩政に専念すべし・・」と異例の申し渡しをしたが、二ヵ月余りたった十一月十九日(一説には十月十九日ともいう)になって幕府から仙菊には松岡に、辰之助には吉江(現鯖江市・旧丹生郡立待村吉江)にそれぞれ藩を創設するよう命令が下された。松岡藩の領分は五万石、吉江藩は二万五千石ということになった。つまり万千代(四代目藩主松平光通)の相続分から、合計七万五千石が削られ、福井藩領は約四十五万石になったわけである。

 といっても、それぞれの藩主はまだ幼少であった。最年長の仙菊は数え年わずかに十歳、万千代はそれより四ヵ月若かったし、辰之助に至ってはさらに年少だったから、藩士の間にはかなりの派閥争いがあったものと推察される。

 仙菊は寛永十三年(1636)三月十一日、江戸浅草の屋敷で生まれた。母は白石左ヱ門信久の娘で、名を菊(本名木曽)と云い、身分の低い女だったようである。死後は「寿証院」と号した。幕命によって松平五万石の藩主になった仙菊は、藩の創設に」当たることになる。もちろん、実際には重臣たちが采配を振るったものであろう。

 「国事叢記」によれば、松岡藩に配属が決まった高禄の藩士は、磯野石見(千七百石)、平岡右近(千四百五十石)、蜷川殿助(五百石)ら四十数人に上っているが、このほか下級武士を含めれば二百七十五人、さらに医師、料理人、坊主などの関係者を含めれば三百人以上の大世帯になった。これら松岡藩から給与をもらっていた者の名簿は「松岡御家中分限帳」や「松岡様御給帳」などに詳しいが、それらの点は「松岡町史(上巻)=昭和五十三年刊」に記載されているので省略しよう。

 しかし松岡藩になった者の中には、幕末、明治維新後、各方面で活躍した人物の先祖がたくさんいる。「越前国名蹟考」の著者として有名な井上翼章、松平春嶽の補佐役として活躍した中根雪江、維新政府に参与として五箇条御誓文の起草に当たった由利公正(三岡八郎)、海軍大将加藤寛治、元首相で海軍大将の岡田啓介、養蚕界の権威者佐々木長淳、佐々木忠次郎父子らの先祖は、いずれも松平藩士であった。

 松岡五万石の藩領は、吉田郡内五十カ村(一万六千七百石)、が中心になっていたものの、丹生郡(三十三カ村、一万二千二百石)、坂井郡(二十三カ村、一万八百七十一石)、今立郡(三カ村、三千七百五石)、大野郡(六カ村、三千二百七十二石)、南条郡(十一カ村、二千六十一石)、足羽郡(四カ村、千三百十六石)など七郡に分かれていた。

 なお「松岡」の地名については、藩の創設と同時に付けられたように云われているが、それよりも数十年前の永禄年間、この地にいた刀鍛冶が作った刀の銘に「越州松岡住・・」と彫ったものがある事から推測すると、それより以前から「芝原庄」の一部に松岡の名が用いられていたのではなかろうか。

 

初代藩主・松平昌勝

 正保二年(1645)十一月十九日、数え年わずか十歳で松岡藩主になった仙菊は、藩主とはいえ未だ城も館もない為、越前在勤中は福井の志比口に設けられた屋敷に住んでいたらしい。

 慶安元年(1648)十二月三日、松岡に「御館」が作られる事になり、この年十二月末日、仙菊は元服して名を中務大輔昌勝と改めた。数え年十三歳の時である。すでに平和な時代に入っていたので、城の構築は許可されず、藩主の館だけが許された為、さっそく工事に着手し、承応二年(1653)まで約五年の歳月をかけて藩主の館や家中屋敷など城下町の建設が行われた。清涼山天龍寺が建立されたのも承応二年であった。

 ようやく城下町の形態が完成したので、松平昌勝は承応三年(1654)江戸から松岡へ初めて赴任して来た。数え年十九歳であった。江戸には浅草に寛文二年(1662)に幕府からもらった屋敷が出来たので、昌勝は参勤交代の時は江戸浅草の屋敷に居住し、その他は松岡の御館に住み、四十九年の長きにわたって藩政を整えてきた。元禄六年(1693)七月二十七日、昌勝は江戸で死亡した。数え年五十八歳であった。品川の天龍寺に葬られたが、戒名は「見性院殿従四位下前中書鉄関了無大居士」である。

松平昌勝には正妻および側室との間に十一人の子供があった。

綱昌、長男、万治三年(1660)五月八日、江戸浅草で生まれる。母は正妻松平昌勝遠江守定行の娘、菊姫(専光院)。幼名仙菊丸、延宝二年(1674)五月十三日福井藩松平昌親の養子となり、同四年(1676)七月二十一日、六代目福井藩主となる。元禄十二年(1699)二月二十一日没、江戸深川霊岸寺に葬る。三十九歳。清浄院従四位下羽林次将越前刺吏明達光岩照徹大居士。

鍋千代、二男、早世、母は側室、中根孫ヱ門好貞の娘(実相院)。寛文十一年(1671)十一月四日没。量玄院殿遷無大童子、松岡天龍寺に葬る。

菊姫、母は実相院。諏訪安芸守忠虎の室となる。元禄十年(1697)八月四日没、三十一歳。玄珠院殿勝光如大姉、仏日山東禅寺に葬る。

昌平(宗昌)、三男、延宝三年(1675)六月二十三日松岡で生まれる。母は実相院。幼名仙鉄丸。昌平、昌興。元禄三年(1690)十二月元服従五位内匠頭、元禄六年(1693)九月松岡藩主。享保六年(1721)十二月十一日福井藩九代目藩主、十五日宗昌と改める。享保九年(1724)四月二十七日江戸で没。西久保天徳寺に葬る。五十歳。豊仙院殿従四位下前拾遺補闕円誉照元安住大居士。

昌純、四男。幼名菊千代、のち内記。延宝五年(1677)生まれる。母は実相院。宝永元年(1704)六月十日没。品川天龍寺に葬る。的了院殿智箭弓大居士。二十八歳。

千之助、五男。延宝六年(1678)五月七日没。母は上坂氏(越前笈松勘兵衛の孫の由)。品川天龍寺に葬る。

昌尚(吉邦)、六男。延宝八年(1680)十二月十二日江戸浅草の邸で生まれる(由あって一ヵ月後の天和元年一月十二日生まれとする由)。母は秋山安太夫の娘和久(知高院)。幼名伊織、元禄十四年(1701)三月五日、福井藩七代藩主松平吉品の養子となり、四品大炊頭に叙せられ昌尚と改める。同十六年(1703)正月昌邦と改め、宝永元年(1704)十月二十七日吉邦と改める。同七年(1710)七月五日、家督二十五万石を相続、八代目福井藩主となる。享保六年(1721)十二月四日没。福井運正寺に葬る。昇安院殿中大夫前羽林次将住誉和真本栄大居士。

昌貢、七男。母は実相院。幼名重千代、のち采女杢。天和二年(1682)生まれる。宝永二年(1705)昌重と改める。宝永六年(1709)二月十日没。二十八歳。品川天龍寺に葬る。禅翁院殿釣雲祖月大居士。

興つ姫(津や姫)、母は実相院。大田原飛騨守丹治国清の室となる。宝永二年(1705)正月二日没。江戸山谷正法寺に葬る。晴雲院殿妙相日乗大姉。

菅姫、母は上坂氏。松平出羽守吉透の室となる。享保二年(1717)閏三月二日没。江戸四谷戒行寺に葬る。清寿院殿。

理世姫、母は上坂氏、天和元年(1681)十月二十三日没。六歳。真光浄天童女、松岡天龍寺に葬る。

 

松岡の廃藩

 初代藩主・松平昌勝が元禄六年(1693)七月二十七日江戸で死亡したため、三男の昌平が二代目藩主になった。これには複雑な事情がある。というのは福井藩四代藩主松平光通が延宝二年(1674)自殺し、遺言によって先に分家して吉江藩二万五千石の藩主になっていた昌親が五代目藩主となった。この異例の本家相続は福井藩内でもかなり不満の声があり、一部の藩士は昌親に仕える事を拒否して江戸に出た者もあったほどだった。昌親自身もまた、本来ならば腹違いの兄、松平昌勝が本家を相続すべきものと考えたので、自分の養子には兄昌勝の長男綱昌をもらい、延宝四年(1676)には隠居して福井藩主の地位を綱昌に譲ってしまった。ところが綱昌は貞享三年(1686)発狂したため福井藩主の地位を追われ、所領は半減の二十五万石になり、いったん藩主を譲って隠居していた昌親が再び七代目藩主となって吉品(よしのり)と改名した。

 自分の実子が福井藩主になったばかりに所領が半減されたのを知って、松岡藩主松平昌勝はどれだけ悲しんだかわからない。だがどうする事も出来ず、昌勝は七年後に悲嘆のうちに死んだ。二男の鍋千代がすでに早世していた為、昌勝の三男、昌平が松岡藩主の二代目藩主になった。数え年十九歳であった。

 一方、福井藩の第七代藩主として再勤した松平吉品(昌親を改名)は、今度は松岡藩主昌平の弟・伊織(松平初代藩主昌勝の六男)を元禄十四年(1701)を養子に迎える事にした。伊織は二十一歳になっていた。まもなく伊織は四品大炊頭に叙せられ昌尚と改名した。二年後の元禄十六年(1703)正月、昌邦と改め、さらに宝永元年(1704)十月二十七日、吉邦と改名、宝永七年(1710)七月五日、七代藩主松平吉品が隠居した為、八代目藩主になった。二度も福井藩主として心身ともに苦労を重ねた松平吉品は、翌正徳元年(1711)七十二歳で死亡した。

 ところが八代目福井藩主になった松平吉邦も、十一年後の享保六年(1721)十二月、中風にかかって四十二歳で急死した。このため幕府では九代目の福井藩主に松岡藩の二代藩主松平昌平を任命する事になった。そして松岡藩を廃止し、領地五万石は福井藩領に合併と決定した。この時点で正保二年(1645)に創立された松岡藩は七十五年で幕を閉じる事になった。

 昌平はこのとき数え年四十七歳になっていた。松岡藩主として二十八年余にわたる治世を行なってきたが、幕命は如何ともし難く、松岡五万石を併せて福井藩三十万石の藩主になった。名も将軍吉宗の諱(いみな)を一字もらって宗昌と改めた。そして実子が有ったにも拘らず、松平仙次郎(結城秀康の子直基の子孫に当る)を養子にするよう幕府から命令された。だが宗昌は福井藩主になってから三年後の享保九年(1724)四月二十七日、数え年五十歳で死んだ。第十代目の福井藩主には養子の仙次郎が就任、宗矩と名乗った。一回ぐらい読んでも分からぬ程、複雑な内部事情である。とにかく、松岡藩初代藩主松平昌勝の子が三人までも相次いで福井藩主になり、ついに廃藩となってしまったのである。

 

清涼院のこと

 曹洞宗清涼山天龍寺(松岡町春日一丁目、本町十七号十二番地)が建立されたのは承応二年(1653)と伝えられている。承応二年は松岡藩が創設された正保二年(1645)から八年後であり、城下町の構築がほぼ完成に近づいた頃である。初代藩主松平昌勝は数え年十八歳になっていた。おそらく天龍寺建立の意思は、それより二、三年前と思われるので、承応二年は伽藍完成の年と考えてよいのではなかろうか。松平昌勝は翌承応三年(1654)六月になって初めて江戸から松岡に入封している。

 寺伝によると、清涼山天龍寺は昌勝が祖母である清涼院の冥福を祈る為に建立し、初代の住職には江戸品川天龍寺の三世・斧山宝鈯を招いて開山したと伝えられている。開祖になった斧山宝鈯は、自分がそれまで住職をしていた天龍寺の寺号を取り、清涼院の院号を併せて清涼山天龍寺命名したらしい。ところで松平昌勝が一寺を建立して菩提を弔った祖母・清涼院とは、どのような女性であったのであろうか。

 清涼院殿久窓貞昌大姉は寛永十七年(1640)江戸で没したが、その年齢は全くわからない。越前藩の初代藩主結城秀康の側室の一人で、二代藩主松平忠直、女子(のち毛利氏の妻)、三代藩主松平忠昌と、二男一女を生んでいる。最初の子供・松平忠直を生んだ年(文禄四年、1595)に二十歳ぐらいだったと仮定すると、六十五歳前後で亡くなったと推定される。

 彼女の出自については二通りの資料があって、どちらが正しいのかよくわからない。すなわち、中川出雲守一元の娘(井上翼章の越系余筆)とする説と、中川出雲守一茂の妹(その他の資料)という説がある。備前国で生まれ、岡山君と称したが、実名は不明。結城秀康の側室の一人となり、文禄四年(1595)六月十日、忠直を生み、その次に女の子(生年不詳)を生んだ(この女の子は二代将軍徳川秀忠に養われて、のち毛利家に嫁いでいる)。慶長二年(1597)十二月十四日には忠昌を生んだ。三人相次いで年子という事になる。慶長六年(1601)五月、結城秀康が初めて越前へ入国した時も、一緒について来た。

 慶長十二年(1607)閏四月八日、結城秀康が数え年三十四歳で死亡したので、彼女もまた落飾して清涼院と号した。おそらく三十歳ぐらいであったと推測される。

 実子松平忠直が二代目越前北の庄藩主になったが、忠直が大阪夏の陣のあと問題を起こして幕府に咎められ、元和九年(1623)二月、九州の萩原(はぎばる)に左遷される事になった。もしさらに、事件を拡大しては大変と心配した清涼院は、二月二十七日にはるばる江戸から越前北の庄へ駆けつけ、忠直を浄光院(のちの運正寺、結城秀康墓所)へ呼びつけて、懇ろに諭したので、忠直はおとなしく九州へ配流されたという。時に忠直は二十九歳、清涼院は五十歳ぐらいであった。

 寛永元年(1624)第三代越前藩主として、越後国高田藩主から転封された松平忠昌も、清涼院が生んだ子である。彼女としては心から喜んだに相違ない。そして忠昌の長男として仙菊(のちの松岡藩主松平昌勝)が生まれた時、清涼院は自分の孫の成長に期待をかけた。昌勝はのちに、祖母・清涼院の為に天龍寺を建立するほどだから、祖母は孫の仙菊をとても可愛がったものと思われる。しかし清涼院は寛永十七年(1640)七月二十一日、江戸で没した。仙菊は数え年五歳であった。

 彼女は「清涼院殿久窓貞昌大姉」とおくり名され、渋谷の長谷寺(一名・祥雲寺)に葬られた。「越系余筆」(井上翼章著)によると、この寺は貧しかったので、後に品川の天龍寺へ改葬されたという。以上が調査の結果わかった「清涼院」に関する概略である。

(注)福井は結城秀康松平忠直松平忠昌まで「北の庄」と呼ばれていた。忠昌が寛永元年(1624)北の庄城主になった時、地名を「福居」と改めた。それが元禄年間から「福井」と変遷した。

 

    天龍寺の開山(斧山宝鈯)

 さてそれでは天龍寺の開山となった斧山宝鈯とは、どのような人物だったのか。天龍寺には残念ながら「寺史」と呼ぶべき史資料がほとんどない。明治維新後の廃仏毀釈の嵐によって、多くの文書が散逸したものと思われるが、僅かに残されているものを拾い集めながら、組み立ててみよう。

 二代住職雄峰智英が記録した「清涼山指南録」によると、開山の略歴が次のように書かれている。現在のところ、これが最も古い資料である。(本文は漢文だが現代文に読み替える)

「当院の開山・斧山和尚、諱は宝鈯、越中射水郡の人なり。その家、世々猪股氏の股耾なり。薙髪ののち、故有りて厚く清涼院の撫育をこうむる。これにより前中書法名鉄関公(松平昌勝)当院を創立す。請うて開祖となす。初め武陽(武蔵国品川県天龍寺に住みて第四世なり。天龍は駿府大谷県大祥寺の四世・一庭和尚の開きし所にして、大源和尚の法流なり。当院の開闢は承応二年(巳の年)、いま元禄十六年未に至るまで、すべて五十年か、開山の示寂は寛文五年(乙巳)六月七月日なり」

 この記録は元禄十六年(1703)に書かれたものであり、唯一の古い資料だが、厳密にいうと必ずしも正確とは云い難い。筆者の雄峰和尚自身「右は伝説によりて記す。前住の入院年号、在住年算、おそらく差誤あらん。官公簿書を考え、即ち明らかに指掌を加えんことを請う」と末尾で書いているように、間違いがあるかも知れないと記しているからである。事実「品川天龍寺の四世」と書いているが、品川の天龍寺で調べたところ、斧山宝鈯和尚は天龍寺の三世であった。

 もう一つ、明治二十九年(1896)十二月に、天龍寺の十八世住職東野玉竜和尚が書いた「斧山宝鈯和尚伝」がある。これも「二世智英和尚ノ記録ニ拠リ明亮了ナル限リ相認メ伸仕候也」と記録しているように、大同小異である。

 斧山宝鈯の亡くなった年月日については、「清涼山指南録」には寛文五年六月七日と書かれているが、年齢は書かれていない。しかし「斧山宝鈯和尚伝」には「世寿七十有九、法臘六十二載」と記載され、これから逆算すると天正十六年(1588)の生まれで、慶長十年(1605)数え年十八歳で出家したことになる。しかし「斧山宝鈯和尚伝」を書いた東野玉竜和尚が、出典をどこに求めたかは明示されていないので、よくわからない。

 もう一つ、斧山宝鈯和尚の出自について「越中射水郡の人」であること「その家、世々猪股氏の股耾なり」と書いてあるが、猪股氏というのは、戦国大名の中にはその名を見い出されない事から、大した家柄ではなかったものと思われる。「薙髪ののち、故有りて厚く清涼院の撫育をこうむる」と、清涼院から可愛がられた事になっているが、推定によると斧山宝鈯は清涼院から一四、五歳若いことになる。清涼院が結城秀康の死後、三十歳ぐらいで落飾して夫の菩提を弔っている時、出家したばかりの斧山宝鈯と何処かで出会い、それから交流が続いていたのかも知れない。

 斧山宝鈯が承応二年、松岡初代藩主松平昌勝に請われて、清涼山天龍寺の住職になったのは数え年六十六歳の時である。重複する部分も多いが、東野玉竜和尚が書いた「斧山宝鈯和尚伝」の全文を紹介しよう。

 斧山宝鈯和尚伝

 師諱ハ宝鈯、斧山と号ス、越中射水郡ノ人ニシテ、其家世々猪股氏ノ股耾タリ、幼ニシテ剃髪納戒、毎ニ終日竟夜、持呪礼仏空過アル事ナシ、故有テ厚ク、松平秀康公(家康公ノ第三子ナリ)の令室、法号清涼院殿ノ為ニ撫育セラレ、長而溌草瞻風、偏ネク大方ノ宗匠ニ見へ、後チ養山和尚ニ就テ得法シ、尋デ師蹟ヲ董ス、実ニ大源下拾二世ノ法孫ニシテ、武州品川天龍寺第三世ナリ、承応二癸巳年、当国吉田郡松岡城主松平昌勝公(秀康公ノ孫ニシテ台命ニ依リ分封、五万石ヲ領シ松岡城ヲ創ム)其祖母清涼院殿ノ為メ、領地ニ於テ、一大梵刹ヲ創建シ、乃チ祖母ニ縁故アル師ヲ請シテ開山トナス、依テ師ガ住地の寺号ト祖母ノ法号トヲ取リ、以テ清涼山天龍寺ト号シ、且ツ荘田二百石ヲ寄附シ僧供ニ充ツ、師則チ錫ヲ此ニ移シテ開堂演法ス、爾シヨリ四来ヲ接得スル事八星霜ナリ、老後当地ニ在テ、閑居ヲ占ムル事二ケ所、併セテ五祀、一ヲ宝岸寺ト云ヒ、一ヲ白竜寺ト云フ、共ニ師ヲ開山トナス、寛文五乙巳年六月七日、微恙ヲ示シ、衆ヲ集メテ苦口遺嘱シ、奄然トシテ化ヲ遷ス、世寿七十有九、法臘六十二載、嗣法二人、宝逸、俊益等ナリ

 法係如左

太源宗真―梅山門本―怒仲天誾―石叟円柱―大巌宗梅―行之正順―寂照宗昕(已上ノ諸師ハ洞上聯燈録ニ詳ナリ)―台州宗鶴(駿州大祥寺三世)―長興官慶(駿州大祥寺四世)―一庭永見(駿州大祥寺五世、品川天龍寺開山)―養山厳育(品川天龍寺二世)―当寺開山斧山宝鈯(品川天龍寺三世)

右ハ本年三月御局達甲第八号ニ依テ拙寺開山ノ伝記取調候処、更ニ詳細ナルモノ無之、依テ開山ノ先住地タル品川天龍寺方ヲモ尋覓仕候へ共、是亦分明ナラス、止ムヲ得ス拙寺二世智英和尚ノ記録ニ拠リ明了ナル限リ相認メ上伸仕候也

       福井県越前国吉田郡松岡村

        随意会天龍寺住職

                東野玉竜

       明治廿九年十二月

 

    宝岸寺と白竜寺

 天龍寺の開山・斧山宝鈯は晩年、松岡に宝岸寺と白竜寺の二寺院を建立して、それぞれの開基となった。「松岡町史」から転載して参考としよう。

 曹洞宗 花岳山 白竜寺

春日一(本第二四号二三番地)にあり。

万治元年(1658)、松平昌勝の庇護により、斧山宝鈯和尚を開山として、井沢某(理昌院殿花岳妙栄大姉)が寺を建てた。昌勝は二十石を寄進し寺領とした。

 曹洞宗 鈯斧山 宝岸寺 

春日三(大字本、春日下三番地ノ一)にあり、天龍寺開山宝鈯和尚の閑居遷化の寺で、万治二年(1659)開基。藩主昌勝より五人扶持、寺領十八石を寄せられた。享保十三年(1728)には二人扶持減ぜられた。

 しかし白竜寺は現在は廃寺となっている。天龍寺二十一世得水靠山が昭和二十四年(1949)十二月、白竜寺の住職を兼ねる事になったが、荒廃した白竜寺の本堂を、昭和二十八年(1953)天龍寺境内へ移築した。二十二世の笹川浩仙和尚は昭和五十四年(1979)、この建物を枯木堂と称し坐禅堂に改築して現在に至っている。

 

    五人の住職代理

     (宝逸・俊益・覚林・海音・大夢)

 天龍寺開山の斧山宝鈯が寛文五年(1665)六月七日、七十九歳で遷化した後、二代住職雄峰智英が住職になって入山する元禄六年(1693)六月二十四日まで二十八年間は、正式な住職が置かれなかった。その理由はわからないが、おそらく松岡藩主松平昌勝によって建立された寺なので、格式が重んじられた為と推測される、戦前までは開山斧山宝鈯の示寂後、すぐ二代雄峰智英が入寺したものと考えられていはが、戦後になって発見された「清涼山指南録」によって、五人の住職代理が歴任していた事が判明したのは幸いである。

 「清涼山指南録」によると、五人の住職代理とは、宝逸、俊益、覚林、海音、大夢の事である。この五人は天龍寺過去帳にも記載されていないが、重要な事なので調査の結果、判明した事も併せて、重複を厭わず紹介しておきたい。

 「清涼山指南録」には「寛文五(1665)巳暦入院、在住八九年之間、因事退院、相次一年、宝岸、白竜両院看院」とある。開山の斧山宝鈯が亡くなった年から住職代理として寺務を執り、寛文十二年(1672)か翌延宝元年(1673)まで、八、九の間在職し、何らかの理由があって他の寺へ移ったものと推定される。「宝逸」という法名から、開山の宝鈯の弟子とも考えられる。おそらく品川天龍寺から松岡へ移って来たのであろう。松岡天龍寺二代雄峰智英は、五人の住職代理の事をいずれも「前住」と書いている点に注目したい。宝逸が去ったあと、約一年間は宝岸寺、白竜寺の住職が寺務を執っていた。

 俊益

 「清涼山指南録」には「延宝二年(1674)入院、在住七年、同七年之冬、移席於若州織田芳春寺」と記載してある。これによって、宝逸のあと俊益が延宝二年から同七年の冬まで天龍寺の住職代理をしていた事がわかる。数えでも六年、満五年しか居なかったのに「在住七年」と書いているのは明らかに間違いだが、俊益は宝岸寺か白竜寺の住職をしながら、天龍寺の住職代理を兼ねて居たのかも知れない。これについては「斧山宝鈯和尚伝」にも、宝鈯和尚の「嗣法二人、宝逸、俊益等ナリ」と書かれているので符合する。俊益は延宝七年「若州織田芳春寺」へ移席した事になっているが、芳春寺は現在、美浜町佐田にあり、曹洞宗であることから「織田」は「佐田」の書き誤りと推定される。芳春寺(福井県三方郡三方町佐田106―8)へ電話で尋ねたところ、俊益和尚は同寺の第四世である事が判明した。しかし、死亡の年月は弘治二年(1556)九月二日(年齢不詳)とされているが、芳春寺は三回も火災に遭っているとの事。記録も焼けた為、間違えたものと思われる。

 覚林

 「清涼山指南録」には「覚林」の下に「瑞」という書体の異なる文字が一字書き加えてあるので、あるいは「覚瑞」が正しいのかも知れない。「延宝七年(1679)自同州中津原少林寺入院、在住三年乎、因事退院、欲移錫於摂州大坂法輪寺、未住而化、相次三年無住、ほうき

看院」とある。つまり覚林は延宝七年に中津原(福井県越前市中津原町67―1)の少林寺から松岡の天龍寺へやって来た。「同州」とは「越州」の事。越前市中津原(旧坂口村中津原)67―1には現在も曹洞宗少林寺があるから間違いはない。三年ほどして大坂(明治になってから大阪と改めた)の法輪寺に移る事になったが、移住しない前に死亡したらしい。その後三年間は宝岸寺の住職が寺務を執っていたようだ。

 海音

 「清涼山指南録」に「天和二(1682)入院、貞亨四年(1687)移席於武陽勢田谷高徳寺」とある。「天和二年」はあとで訂正した文字であり、最初は「延宝三年」と書いてあった。延宝三年(1675)は明らかに間違いと分かって誰かが修正したらしい。つまり海音は何処から来寺したかは不詳ながら、覚林が逝去してから天和二年(1682)に天龍寺の四人目の住職代理となり、五年後、武陽(武蔵国)勢田谷(世田谷)にある豪徳寺(高徳寺は誤り)へ移った。

 大夢

 「清涼山指南録」によると、五人目の住職代理になったのが大夢であり「貞享四年(1687)入院、在住七年、元禄六年(1693)移席於上州木崎大通寺」と記載されている。元禄二年(1689)八月十日、松尾芭蕉が訪ねて来た時に「丸(松の誤字)岡天龍寺の長老、古き因みあれば尋ぬ」として在住して居たのが大夢であった。大夢は元禄六年、上州(群馬県)の木崎にある大通寺は現在も群馬県太田市新田木崎町1391-2にある。私(青園 謙三郎)は昭和三十二、三年ごろ大通寺に大夢について、分かっている事を知らせてほしい・・と照会した所、当時の住職・松尾俊応師(二十二世)から、次のような手紙が届いたので全文を紹介する。

 「御尋ねの大夢和尚についての記録は何も残っておりません。当寺は明治の初年に悪い住職がおりまして、什物も宝物も凡ての記録も散逸して、甚しきは過去帳までフスマの下張りに致した程で、私が明治四十一年に参りました時は伽藍は雨のもり放題。本堂に篠が生えておる大破でありました。五十年かかって、ようやく復興致しました次第であります。

音尋ねの大夢和尚は当山の六世で、五世心峰和尚が元禄五年壬申九月十九日に示寂せられておりますので、其の年か翌六年に当山へ御転任と存じます。そして元禄十三年庚辰七月十四日に示寂せられたのであります。以上の外には何等記録がありませんので、御期待に添えないのが遺憾であります。

            大通寺二十二世

                      松尾俊応」

 この手紙によって、大夢は大通寺の六代目住職となり、元禄十三年(1700)七月十四日に亡くなった事だけでも判明したのは有り難いことだった。残念ながら何歳だったかも分からず、もちろん芭蕉との「古き因み」も全く謎のまま、今日におよんでいる。

 

    二世 雄峰智英

 雄峰智英は元禄六年(1693)六月二十四日、天龍寺の二代目住職になった。「清涼山指南録」によると「現住雄峰、元禄六酉六月念四日入院」(念とは二十のこと)と書いてある。「現住」と雄峰自身が書いているのだから、この期日は間違いなかろう。開山の斧山宝鈯が亡くなってから二十八年後の正式な二代住職である。松岡藩が創設された正保二年(1645)からすでに四十八年が経った。また天龍寺が建立された承応二年(1653)から四十年が過ぎていた。

 初代藩主松平昌勝は雄峰智英が天龍寺へ入って一か月余の七月二十七日、江戸で死んだ。五十八歳であった。「見性院殿従四位下前中書鉄関了無大居士」と諡され、品川の天龍寺に葬られた。当然、松岡の天龍寺にも分骨され、墓がつくられた。「見性院殿鉄関了無大居士」と法名が刻んである。

 松岡藩の二代藩主には昌勝の三男・昌平がこの年(元禄六年)九月就任した。数え年十九歳であった。天龍寺の寺領は昌勝のとき二百石を与えられたが、二代藩主はそのまま寺領を安堵している。

 雄峰智英は天龍寺住職として二十三年、正徳六年(1716)二月二十一日亡くなった。これは天龍寺過去帳に載っているだけで、何歳であったかは記載されていない。「卍山禅師同室人ナリ」と書いてある。卍山道白(まんざんどうはく)というのは江戸時代初期の学僧であった。禅宗辞典から要点を紹介しよう。

 卍山(1635―1714)

 曹洞宗、名は道白、俗姓は藤原氏寛永十二年(1635)生まれる。十歳の時竜興寺に一線によって出家し、尋で一線に随ひて関東に赴き、金峰に止まること二年、更に高秀文春に参じて省あり、王子山観清寺に住し、後月舟宗胡に謁して所解を呈して、その印可を受く。永平寺に出世し、王子山に帰住す。諸方の大刹より請せらるるも総べて応ぜず。夙に宗門の哀傾を憂いて、之を再興せんとす。延宝八年(1680)に大乗寺に請せられ、先師の後席なるが故に喜んで住す。住すること十二年、退きて摂津住吉の興福寺に閑棲す。後禅定寺に遷り、更に山城の鷹峰に遷りて源光庵を営む。元禄十二年(1699)に興聖の梅峰と共に江戸に出でて法系嗣承の紊乱せる積弊を改めんとし、滞留四年にして東叡山公弁法親王に謁して其志を陳べ、親王の援助を乞うて幕府に訴ふ。同十六年(1703)遂に幕府之を裁可す。師「一師印証」の復古を図りてより、万死の地に出入し、百折撓まざる前後四十年、此に至って遂に其志を成し、大に喜びて西帰し、自ら復古道人と称す。正徳四年(1714)八月十九日に寂す。寿八十。遺偈に「超師超仏、満八十年、秋風捲地、孤月遊天」とあり。「広録」四十九巻あり。

 雄峰智英が亡くなったのが正徳六年(1716)であり、卍山道白がそれより二年前の正徳四年(1714)に八十歳で亡くなっている。しかも天龍寺過去帳にある「卍山禅師同室人ナリ」を唯一の資料とするなら、二人は若いころ永平寺か、それとも江戸で修行中に知り合った間柄であったと思われる。そうすれば、雄峰智英も恐らく八十歳前後の長寿を保ったと考えられなくはない。卍山から智英に宛てた書が天龍寺に残っている。智英が卍山の古希を祝った事に対するお礼の詩が書かれており、二人が親友であった事を裏付けている。

 追加―吉庵ハ、今ノ永平寺ノ、主山ノ背ニ当テ、松岡ノ渓ノ奥ナリ、祖菴ノ旧跡アリ。コレモ永平寺ト同前ニテ、古寺ノ跡ナリ。ユヘニ密語巻ノ末ニ、吉峯古精舎トアリ。余行脚ノ時、松岡天龍寺雄峯英公ト、同行シテ登ル。後ニ英公、松岡ノ城主ニ告テ、一庵ヲ再建セラレテ、今ニ相続ス」『建撕記』「訂補本」補注より作成。(補筆・2022年 二谷)

 天龍寺の古文書を調べてみたら、雄峰の筆跡と思われる次のような漢詩が出てきた。

    留別真竜子

  為法未曾踏世境 山川百里随吾来

  平常須護真竜諱 活難侍師不懈陪

            雄峰 誦

 

秋風百里起単時 膽望椅門帰杖遅

雲水雖元無轍迹 思子病身皺老眉

 

  真竜帰錫於此間呈誦玉壌次韻伸善

特々省吾入雪峰 風標活難養真竜

当比踏地千山外 一思開壊喜健客

          雄峰 誦

 

  山中述懐

普請屈指日盈面 霖雨発工勣未成

頂上迅雷雖掩耳 楞厳黙誦仰祈晴

 

  代中子以答

山中不償一茎菜 万鬼蒸雲日自勤

上味醍醐忝喫却 心身清健雲風斤

  右送真竜禅杖

 

  薦無西善男之霊

花纏直入法在家 念々不疑日算沙

其路万程非運歩 西方覚樹多天華 

 

 右のいくつかの漢詩に出てくる「真竜」「真竜子」「真竜禅杖」とは、天龍寺第四世拏雲真竜の事に違いない。この点は後で四世の時に述べよう。

 

    三世 仙竜智鳳

 三世の仙竜智鳳からあと、明治維新ごろまでの、歴代住職に関する記録は「過去帳」に記載されているもの以外はほとんどない。この過去帳自体も、原本は別にあったのだろうが、十八世の東野玉竜時代に新しく作成されたもので、その真実性については多くの問題点がある。その点については改めて指摘するが、とりあえず過去帳を中心に、関連資料を参考にして紹介しょう。

 三世仙竜智鳳については「過去帳」に「享保七年(1722)十二月十八日示寂、二世和尚法子」とある。いつ三世住職に就任したのかはわからない。開山と二世の間に五人の住職代理が歴住した前例があるので疑問は残るが、二世雄峰智英の弟子であったらしいから、雄峰智英が没した正徳六年(1716)から享保七年(1722)まではわずか六年しかないので、おそらくその間に住職代理はなかったものと考えてよかろう。

 仙竜智鳳が亡くなる一年前の享保六年(1721)十二月十一日、二代松岡藩主松平昌平は九代目の福井藩主になり、松岡藩は廃藩と決定した。享保七年(1722)三月十三日、昌平は将軍吉宗の諱を一字もらって宗昌と改めた。天龍寺はすでに寺領二百石を与えられていたものの、廃藩による藩士の福井引っ越しは大きな痛手になったはずである。

天龍寺に残っている古文書のうち二百石を保障された事を示すものが一枚あるが、その「享保三年(1718)十二月日」の年号と日付は、三世住職仙竜智鳳和尚時代であることを示している。当時はまだ松岡藩があり、二代藩主松平昌平の政治の時であった。

 

    四世 拏雲真竜

過去帳」には「宝暦七年(1757)十二月十二日遷化、木橋和尚法子、於于吉峰寺死ス」と記録してあるだけだ。二世雄峰智英智英の作った漢詩の中に「真竜子」というのや「真竜禅杖」などという文字がたくさん出てくる所から推測すると、雄峰の弟子であった可能性もある。

三世仙竜智鳳が没した享保七年(1722)から数えると、三十年近くも住職をしていた事になる。しかし吉峰寺で死亡したと書いてあるから、晩年は隠居して住職を鉄卯智牛に譲り、自分は吉田郡永平寺町吉峰35―2にあった吉峰寺に住んでいたのであろう。

 真竜和尚在任中と思われる寛保二年(1742)には松岡藩初代藩主松平昌勝の五十回忌法要が行われた。当時のメモが残っている。参考のため原文のまま紹介しよう。

 見性院様五十回御忌御法事於松岡天竜

 戊七月廿六日晩より  廿七日之朝迄御執行

 御入用之覚

   廿六日 施餓鬼

   廿七日 懺 法

 御霊供二汁五菜

   (内容は省略)

 御法事奉行明石将監其外共前々之通御役人相詰申候先年御法事有之節ハ御法事奉行初有御用ニ御寺へ相詰候面々并御役人共家来等迄一汁一菜之御賄被下町宿等被仰付候得共今年ハ御倹約被仰出惣而御賄不被下候、尤御代拝并御法事奉行初町宿不被仰付候ニ付何も通勤ニ仕候様にと被仰付候但将監儀ハ松岡ニ有縁之寺方有之ニ付此方へ罷越候而夫より御寺へ朝晩相詰候得ハ手廻し能候由ニ而自分任勝手彼岸ニ致一宿候由ニ而此儀後々之格にも成申間敷候、廿六日晩廿七日朝目付鈴木十左ヱ門、田辺五太夫并御続目付壱人、御坊主壱人宛代りに御寺へ相詰申候、磯野多宮并御帳付壱人、廿七日朝計相揃申候、小算壱人御雑用下代壱人立合組壱人此分ハ諸出家中江膳椀諸色御法事蔵より相廻シ并客殿迎台所板之間土間共莚薄縁敷方等、御用多福井より通勤難仕ニ付戌七月廿五日夕より同廿七日夕迄御扶持方米被下候而御寺へ詰切申候

 この五十回忌法要が行われたのは寛保二年(1742)で戌の年であった事がメモよって判明する。この覚書によって毎年七月二十七日には法要が実施されていた事もわかるし、五十回忌はかなり盛大な行事であったと思われる。しかし、福井藩の財政が苦しかったので、万事節約されていたらしい。以前は松岡へ関係者が前々日から泊まり込みで、、法要の準備をしていたが、今回は福井から毎日通勤し、奉行役の明石将監だけは松岡に泊まり込んでいた事がわかる、貴重な資料と言えよう。

 もう一つ、拏雲真竜が住職をしていた時の物と思われる資料がある。それは松岡藩が廃藩になり、二代目藩主松平昌平が福井藩の九代藩主になった時、記念に「王元珍」が書いた六枚折りの屏風を天龍寺へ寄進した。永らく天龍寺の寺宝になっていたが、明治になって十八世玉竜和尚のとき売却された(この点に関しては十八世の項に詳しく紹介する)。

 

    五世 鉄卯智牛

 「過去帳」には「宝暦六年(1756)十二月二十八日示寂、三世和尚の法子ナリ」と書かれている。三世の仙竜智鳳の弟子であったと推定される。四世の拏雲真竜より一年も早く遷化している。この点から考えても真竜和尚の隠居は案外早かったのかも知れない。

 

    六世 竜童智海

 「過去帳」に「明和五年(1768)十月二十五日示寂、円月大禅師法子」と書かれている。五世鉄卯智牛が亡くなってから十二年後である。円月大禅師とは何処の人物であるかは不明だが、五世の智牛、六世の智海という法名から類推すると、五世の法弟のようにも考えられる。

 五世の遷化後、十二年住職をしていた勘定になるが、ここに興味ある古文書がある。それは宝暦十二年(1762)九月に、永平寺本山から天龍寺に与えられたものだ。六世竜童智海死去の六年前である。当時の永平寺貫主は四十五世の湛海禅師であり、その署名と花押も付いている。その古文書を読むと「駕籠に乗ってもよろしい」という意味の事が書いてあるので、智海和尚は相当の年齢であったものと思われる。しかし天龍寺の記録には竜童智海和尚の世寿に関する記録は全くない。

 

    七世 棟屋智梁

 「過去帳」に「明和八年(1771)二月十日示寂四世拏雲和尚の法子、安木氏生」とある。俗系が書かれているが、安木氏とはどんな家柄かは不明。四世の拏雲真竜和尚の弟子だったとあるが、わずか三年近くの短い住職だった。

 

    八世 鉄核太梅

 「過去帳」に「寛政七年(1795)十月二十五日示寂、六世大和尚法子」と書いてあるだけだ。七世棟屋智梁の遷化後二十四年間住職をしていた事になる。太梅和尚の在任中、松岡藩初代藩主松平昌勝(見性院殿鉄関了無大居士)の百回忌が行われた。百回忌は寛政四年(1792)七月二十七日である。おそらく五十回忌を参考にして盛大な法要が行われたと思われる。太梅和尚はこの機会に旧藩主であり、しかも天龍寺の開基でもある松平昌勝の木像をつくり、その冥福を祈ろうと決意した。当時の記録は失われてしまったが、幸い佛国玉竜が明治三十五年(1902)十二月に虫食いだらけになっていた文書を書き写したものが残っているので紹介しよう。

  御像御出来由緒

   口上以テ奉願候

 一、当寺開基見性院様御木像無之依之来ㇽ子七月二十七日百回御忌御相当被成候ニ付松岡御厚恩ノ名々ヨリ再三御願申上候通リ敬等何卒冥加ノ為メ御木像安置シ奉リ度候間宜敷様被仰上願之通リ仰付被下置難有奉存候、猶別紙口上書相添へ御願申上候  以上

  寛政三亥年三月十四日 

           天竜寺八世

                 太梅 印

  寺社

   御奉行

    口上書

  • 見性院様御尊像ヲ御安置仕度奉願候処御免も被仰付候時は何卒

御宮殿も仕度奉存候得共中々左様の事ハ出来不仕候ニ付是迄の

御霊堂御檀の正面後へ出し仕候て先ニ奉御安置度奉存候荒増之大方蒙入御覧

御尊像の儀ニ付向後

御上へ御苦労かましき願書ハ少も不仕却而是迠之御修覆の所も減少仕候て御不益成事とも少も無之是迠も御霊堂御宮張付の外屋根等も手前にて御修覆仕候事も御座候向後とても左様の御事座候此段ハ

御賢察可被下候右之趣御尋も有之候故如是御座候     以上

   三月十四日

                               天竜

 右の文書でもわかるように、太梅和尚は見性院(松平昌勝)の百回忌にあたり、前年の寛政三年(1791)三月十四日、福井藩寺社奉行を通じて木像をつくる申請をして許可されている。しかし、経費の点から新しく別棟を建てる事は出来ないので、本堂の正面の後ろへ張り出しをつくり、その中へ木像を納める計画を立てて了解を取り付けた。

 一年計画で木像が完成した。いよいよ百回忌の法要であるが、その前に木像の開眼供養が行われた。寛政四年(1792)七月二十一日であった。

 寺社御奉行所

  寛政四子年

     口上

尊像御開眼供養廿一日御修行仕廿六日迠手前にて御法事御修行仕候 廿七日朝御上御取扱の通り御茶湯修行仕候右御達為可申上如此御座候        以上

  七月十六日                       天竜

  右之趣為意得上申達

   七月廿二日                    松岡天竜

 

  御香奠金百疋

  右此度於天竜

見性院様御像被相願此度出来ニ付昨廿一日開眼有之依之御評議之上今朝

御代拝を以て金百疋被供之御用人稲葉織部相勤之

  寛政四子年七月廿二日

 右の記録によって開眼供養も行われ、福井藩からも金百疋の香奠が供えられた事もわかる。しかし、七月二十七日の開基百回忌当日の法要が、どのように行われたかを示す記録は何も残っていない。

 

    九世 雄山秀麟

 「過去帳」には「寛政九年(1797)正月十日示寂、七世和尚法子ナリ」と誌されているだけで、その他の事は全くわからない。前住鉄核太梅和尚の示寂後わずか一年一カ月で亡くなっている。おそらく住職時代も短かったものであろうと思われる。

 

    十世 智賢大寅

 「過去帳」によると「文政八年(1825)三月二十八日示寂、前孝顕寺恒山大和尚法子也、遠州敷知郡宿蘆寺衆徒寮、初住十年、孝顕寺六年、当寺再住五年、葬骸於当寺、法臘五十三年、世寿六十歳」とかなり具体的な内容が記載されている。これから逆算すると明和三年(1766)の生れになる。七歳のとき孝顕寺(福井市足羽1―7―16)の恒山和尚に就いて得度した後、遠州静岡県)の宿蘆寺(浜松市西区庄内町)で修行をし、四十歳ぐらいで松岡天龍寺の十代目の住職となり、約十年間を過ごした。文化二年(1805)ごろから文化十一年(1814)頃までと推定される。そのあと天龍寺の住職を弟弟子の鉄眼に譲って、福井の名刹である孝顕寺の住職になった。文化十一年頃から文政三年(1820)までの六年間である。ところが鉄眼が文政三年九月に死亡した為、再び天龍寺へ戻って住職を約五年勤め、文政八年(1825)三月二十八日に亡くなった。従って天龍寺に葬られたわけだ。

 

    十一世 古梅鉄眼

 「過去帳」によると「文政三年(1820)九月十九日示寂、本国大野産、前孝顕寺恒山大和尚法子、在住七年」と記入してある。十世の智賢大寅の法弟になる。大野の生まれで孝顕寺の恒山和尚について得度した。何処で修行したかは分からないが、文化十一年(1814)ごろ天龍寺の十一代目住職になった。しかし足かけ七年目の文政三年(1820)九月十九日に亡くなったので、再び法兄の智賢大寅が孝顕寺から戻って天龍寺の住職になった事は、先に述べた通りである。

 

    十二世 大渕潜竜

 「過去帳」には「天保七年(1836)五月五日示寂、大本山御香代ニ白竜寺閑居、巨海大和尚、大寅和尚ノ法子、葬骸当院土葬、世寿五十二歳」と書いてある。逆算すると天明五年(1785)の生まれになる。十世の智賢大寅和尚が遷化した文政八年(1825)から何年間か、天龍寺の住職をしていたと推定される。晩年は白竜寺に隠居したと書いてあるので、いつ天龍寺住職を十三世の大麟秀瑞に譲ったのかは不明。

 「永平寺年表」(熊谷忠興著)によると、文政十年(1827)五月二十一日の項に「五十六世雲居(無庵)の葬送を修す。秉炬師宝慶寺、奠湯師天竜寺、起龕師通安寺。(永平寺古記録)」と記載されている。大渕潜竜和尚が永平寺本山五十六世の葬儀に奠湯師を勤めた事がわかる。

 

    十三世 大麟秀瑞

 「過去帳」には「弘化二年(1845)正月二十日示寂、大本山御香通安寺大和尚、本国産大寅和尚法子、世寿五十歳、終葬于於当院火葬」と記載されているので、寛政八年(1796)の生まれと推定される。前住大渕潜竜和尚が白竜寺へ隠居した後を受けて十余年間、天龍寺の住職をしていたらしい。

 大麟秀瑞和尚の時代の注目すべき業績としては、松岡初代藩主松平昌勝(見性院)の百五十回忌が行われた事である。百五十回の遠忌は天保十三年(1842)七月二十七日に予定されていた。ところが天龍寺は創建以来すでに二十七日二百年近くも経って、本堂や庫裡をはじめ多くの建造物が非常に傷んでいた。これではとても遠忌を執行するどころではないというので、天龍寺では天保十二年(1841)奉行所を通じて福井藩へ、本堂・庫裡などの改築を申請した、

 福井藩では古材を使って修理する程度なら善かろうと許可を与えたので、天龍寺では旧松岡藩士や近郷近在へ寄付を求めて改築資金を募った。その時の記録が天龍寺に残っている。貴重な資料なので、前文を原文のまま引用しよう。

  ここに明年秋七月

  御先君様百五拾回御忌

  御相当之処御寺台所年月

  相重リ古損常ならす御法事も

  相勤リ難き次第故無拠

  御奉行所へ願達ニ及ひ候処則

  古木取用ひ御修復可有之

  御積高之御下銀を以御寺引

  請之御普請に取掛り申処

  見聞之通ニ候然ルニ折悪敷

  万物高直之節ニ指向ひ存  

  外之用費中々不容易

  事ニ而迚も難及思慮ニ付時

  節柄察入候得共不得止事御旧

  恩之各々方へ有志之手伝

  頼入候所也何卒無拠談合

  共推察有て相応之出精

  於有之者必す御普請も

  円満に至り御遠回之大

  法会も無滞御修行有之

  時は上之尊霊之冥慮も

  歓喜し玉ふべく且ハ寺門

  之繁昌も増益して十方

  信極之功徳も亦豈浅々

  ならんや

      天竜

         執事記之 印

  茲とし

   天保十二辛丑之孟冬

            穀旦

 寄付目録には次のような記載がある。

  一、米一俵       宝岸寺

  一、杉木三本      白竜寺

     但し五ツ六寸廻り

  一、拾貫目(丑ノ七月)

    御勘定ニテ古木取用御主替之積リ銀高ニテ当寺引受銀

  一、二貫五百目(寅ノ暮)

     諸色高直ニ付御勘定所へ増願御下ケ銀

     当寺檀中分寄付銀

  一、銀七百目      中根靭負

     内二百五十目天保十二丑年入ㇽ

     内二百五十目寅年ニ入ル

     内二百目卯年ニ入ル

  一、同六百目      渋谷権左衛門

     内二百目同丑年入ル

     内二百目寅年ニ入ル

     内二百目卯年ニ入ル

  一、銀五百目      磯野多宮

  一、同三百目      尾高仁兵衛

    内百目天保十二丑年入ㇽ

    内百目寅年暮入ル

    内百目卯暮入ル

  一、同二百五十目    浅井八百里

    内八十三文目同年ニ入ル

    内八十三文目寅年ニ入ル

    内八十四文目卯年ニ入ル

 一、同百五十目     桜井庄九郎

    内五十目同年ニ入ル

    内五十目寅年ニ入ル

  • 同百目        磯野仲衛門

   内三十三文目寅年ニ入ル

 このほか、檀家の武士たちや松岡での寄付目録が多数記入されているが、長くなるので省略する。これらの寄付目録で注目されるのは、一時に納入するのは檀家の武士たちにとっても大変な費用になると見えて、拈から三年がかりで分納している事だ。町人と云えども同様で、分納の者がかなり有り、中には寄付の約束だけしながら、ついに納入しない者も相当の数に上っている。

 とはいえ、浄財もかなり集まったので、いよいよ改築工事に着手したが、本堂・庫裡をはじめ、伽藍などの傷みは予想以上であったらしい。「天保十三寅年開基様百五十回忌御相当ニ付御作事承リ高之写」という資料が残っている。これは百五十回忌に当たっての改修工事の見積書である。果たして、これだけの大改修工事が完全に実施されたのかは、わからないが工事費明細書によると、次のような建物の名称が使われているので、天龍寺の伽藍が相当に大きな規模であった事が推測される。

 本堂・開山堂・御像堂・書院・御膳所(庫裡)・禅堂・衆寮・知客寮・御代拝着の間・侍者寮・大衆の間・山門・鐘楼・渡リ廊下

 これらの建造物のうち、特に破損が酷かったのは本堂で、三十本の柱が以前から垂れ下がっているので、縁板を残らず取り除き、天上も外した上で柱を持ち上げねばならないと、見積書を提出している。また山門の柱も一本が下がっているし、鐘楼の屋根板は腐っている為、全部取り替えねばならない。また本堂から坐禅堂への渡り廊下も下見板を全部張り替える必要がある・・などと、かなり詳しい修理方法が記入されている。このほか畳の表替えなどは相当の数に上っている。もちろん壁の塗り替えも書いてあり、おそらく工事費は巨額に上ったと思われる。とにかく十三世大麟秀瑞和尚の時代、松平昌勝の百五十回忌が行われ、それを機会に天龍寺の大改修工事が実施された事は特筆すべき業績と言えよう。

 もう一つ付け加えねばならないのは、大麟秀瑞和尚在住時、境内に「芭蕉塚」が建てられた事であろう。現在でも建っている「芭蕉翁」と刻んだ石碑がある。「天保甲辰初冬新建之」と側面に彫ってある。天保十五年(1844、この年十二月二日に弘化と改元される)十月に建てられた事がわかる。

 

    十四世 舜隣甫童

 「過去帳」には「万延元年(1860)七月二十日示寂、潜竜和尚の法子、世寿六十一歳」と書いてあるだけだ。逆算すれば寛政十二年(1800)の生れになる。十二世の大渕潜竜の弟子という事だが、十三世大麟秀瑞の没後、十五年間天龍寺の住職をしていたと推定される。

 舜隣甫童はかねてから、松岡藩初代藩主松平昌勝の木像が本堂うしろの狭い厨子に入っているのを見かねて、別殿を新築したいと願っていた。そのため奉行所を通じて福井藩へも申請し、安政六年(1859)福井藩からも許可が下り、銀七十枚を寄進された上、材木も近郷近在から寄進されたので、いよいよ着工しようとしたところ万延元年(1860)七月に亡くなってしまった。やむなく事業は、次の十五世喬運碩叟に引き継がれる訳だが、その別殿(現在の御像堂らしい)がいつ建造されたのかはわからない。この点は十五世喬運碩叟の所で触れる。

 天龍寺の記録にはないが、「福井県教育史」(第三編史料編一)によると、幕末のころ寺子屋が設置されていた場所が詳しく紹介してあるが、その中に「舜隣和尚、吉田郡松岡町、天竜十四代住職、寺子屋創始者と伝う」と書かれている。恐らくこの頃、松岡天龍寺寺子屋が設けられ、舜隣和尚が自から町内の庶民の子弟を集めて教育していたのかもしれない。

 

    十五世 喬運碩叟

 「過去帳」によると「明治二十一年(1888)五月三十日示寂、当山十二世潜竜和尚法子、丹生郡細野村興泉寺ニテ六月一日火葬ス」(注―細野村(旧萩野村)町村制施工に伴い9か村が明治22年4月1日に合併す・興泉寺(丹生郡越前町細野49号23番地)。と記されるが、何歳で亡くなったかは不明。

 「福井県教育史」(第三編史料編一)には「内海良策、松岡町春日、天竜寺、明治二年より含翠小学校の前身」という記載がある。おそらく喬運碩叟の頃も天龍寺寺子屋として使われ、内海良策という人物が教師をしていたものと思われる。のちに松岡に含翠小学校が作られたが、これは天龍寺の伽藍の一部を校舎にして発足したものに違いない。「松岡小学校ホームページ」によると、(1871年明治4年天竜寺内に開設、簡易科を内海良策氏宅に開設。1873年明治6年) - 松岡小学校と名称を決め、敦賀県管内吉田郡字111~112番に設置する。1879年(明治12年)含翠小学校と改称)とあるを転載す。

 十六世の玄林鉄英が明治八年に就任しているので、碩叟和尚は万延元年(1860)から明治八年(1875)まで十五年ほど住職をしていた計算になる。ともあれ碩叟和尚にまず与えられた任務は、前住職舜隣甫童が計画していた松平昌勝の木像を安置する別殿を完成させる事であった。すでに福井藩からは安政六年(1859)銀七十枚が工事費の一部として寄付されていた。舜隣甫童はいよいよ着工という段になって翌万延元年(1860)七月二十日に六十一歳で亡くなってしまった。碩叟は翌年、すなわち文久元年(1861)十月、その建築費を旧藩士や近郷の人々に依頼する為の「寄進帳」を二冊作って勧進を始めた。その「寄進帳」が今も残っていて、前文には次のように書かれている。

  • 当御寺御開基

 見性院様寛政四子秋百回御遠忌

 御相当ニ付松岡御厚恩之御家中并ニ

 町在御免地住居之名々より何卒

 見性院様御木像奉御安置度旨被頼

 出候其節当時八世太梅和尚右等之趣を相

 含ミ則寛政三亥春御奉行所江被相願候所

 願之通被仰付翌子七月十二日

 御木像御安置ニ相成候其砌リ御別殿茂

 早速出来可申趣意にも候得共何分御年回ニ

指当リ候事故被及其儀かたく既ニ六十有余年

之星霜を経候得共御別殿今にでき不申

非常御構ヒも無之故日々夜々不安念いたつ

らに打過申候元来御手せまき御霊屋

之内江数多之御位牌御安置候得は自然

不敬之儀も難計奉恐入候依之当御寺先住

舜隣和尚年来之志願を以御別殿建立被

致度旨御奉行所江被相願候処御上ニも各別之

御厚誼を以一昨安政六未年白銀七拾枚被下置

御普請之儀被仰出依之在々之者より材木等

過半取集メ既ニ御普請にも相運ヒ申候処

不幸に而昨申七月先住被致遷化終ニ趣願も

成就しかたくひたすら残念少からす候然るに

当住日ならすして先代之趣願を相続き

何卒御別殿御造営被致度志願候折から

萬物高価之時節ニ指向ヒ中々以自力ニ及ヒ

かたく然れは迚怠慢ニ相成候而ハ第一奉対

御尊霊御不敬之儀奉恐入且ハ

御上よりの御仁恵にも相背き其外在々有志之

名々より材木寄附之者之思慮も相立不申

就而は松岡御厚恩御家中并御免地住居之

輩御厚恩を存語られ随身相応之丹精

ニも相預り御別殿御成就にも相成候ハ、第一

御開基御尊慮も歓喜し給ふへく先住之

趣願行届当住は猶更之事豈後代迠之

安気いくはくならさらむや

  文久元酉年十月

           清涼峯

          知事 印

募金の明細も書いてあるが、長くなるので省略する。募金は順調とまではいかなかったが米や金で相当の額が集まったとみられる。別殿(現在の御像堂)がいつ建てられたかは記録が残っていないが、文久二年(1862)頃ではないかと推測される。

喬運碩叟の事業としては御像堂の建造が最大の功績であった。明治七年(1874)二百石の寺領が取り上げられた事も大きな痛手となり、碩叟は明治八年(1875)住職を鉄英に譲って引退してしまう。幕末から明治維新にかけて、天下は廃仏毀釈の大暴風が吹き荒れたからである。その頃の寺院経営は刻々と追い打ちをかけてくる廃仏毀釈運動によって、空前の困難に陥った。少し余談になるが、明治維新宗教改革政策について大要を紹介する。

   明治維新廃仏毀釈

 廃仏毀釈の内容を簡単に理解する為に「日本歴史大辞典」の中から「廃仏毀釈」の項目を転載する。

 明治初年政府の宗教政策に基づいて行われた仏教に対する抑圧、および仏教排斥の運動。江戸時代に於ける寺院は、それ自体が封建領主であると同時に、幕府の宗教統制の機関として支配機構に組み込まれていたから、幕藩体制を否定する維新政府の下では何らかの変革を避ける事は出来なかった。 

封建支配の矛盾激化に伴い、腐敗堕落した仏教に対しては、すでに江戸時代から儒学者の一部や国学者の間から批判があったが、平田派国学者の思想的影響も元にあった維新政府は、神道国教政策をとる事によって、幕藩支配と結合した仏教に打撃を与え、天皇の政治的地位を神道に結びつけて確立しようとした。しかし実際の国民の信仰上、古くから神道と仏教とは混淆されて来ているので、まず神仏分離を必要として。

 すなわち政府は慶応四年(1868)三月十三日、祭政一致の方針に基づいて神祇官を再興し、全国の神社および神官を其れに不属させ、ついで十七日、神社所属の社僧の復職を命じ、さらに同月二十七日の太政官布告をもって神仏判然令を出し、仏像を神体とする事を改め、社前の仏像・仏具の取り除きを命令した。これが神仏分離の起こりであり、やがて廃仏毀釈の運動を惹き起こす事になったのである。

 その最も早いものは同年(慶応四年)四月一日比叡山坂本日吉神社の事件であり、平田派国学者で社司の樹下茂国らが実力をもって神仏分離を行ない、神体の仏像・僧像をはじめ、経巻・法器などを破壊し、焼き捨てた。また石清水八幡宮では、社僧はすべて還俗し、山上の諸坊は撤廃され、梵鐘その他の仏具は売却された。筥崎八幡宮でも仏像・仏具を焼き払い、信濃諏訪神社では神祇官の役人が出張して仏堂を撤去した。このほか神仏混淆の羽前羽黒権現。大和金峰山蔵王権現・相模大山寺・遠江秋葉山伯耆大山・越前石徹白社・讃岐金毘羅大権現などは、神社と定められ、仏堂・仏像・仏具などを皆取り払った。

 また地方の諸藩においては、政府の承認のもとで積極的な廃仏政策を採用した所も多く、信州松本藩では明治二年(1869)まず藩士を神葬儀祭に改めさせ、これを庶民にも及ぼそうとし、領内九十二ヵ寺中、七十三ヵ寺を廃止し、土佐藩では寺院総数六百十五中、四百三十九が廃寺とされ、薩摩藩では明治二年十一月、領内寺院廃止の令を出し、そのほか美濃苗木藩・隠岐島でも全廃を命じ、富山藩では一藩一寺に、佐渡島では五百余の寺院を八十ヵ寺に合寺を命じている。これは財政的な変革とも対応しているもので、政府は明治二年には

寺領に課税し、翌年版籍奉還により寺社領も上知を命じ廩米下賜に改め、しかもこれを六ヵ年平均現納米の五割に削減している。諸藩に於ける廃寺合寺は、それだけ財政の節約となったのである。

 一方、教義に関しても政府は明治五年(1872)教導職を定め、三条教則を発布し、神官についで仏教僧侶をも教導職に任じたが、その説教は三条教則をはみ出してはならず、各宗教義の説法は禁止された。明治六年(1873)大教院を設立し、そこでは僧侶にも神道の礼拝を強制した。このような政策は明治八年(1875)十一月に、信教自由の保護が各宗に通達されるまで続けられた。

 廃仏毀釈は主として明治政府の神祇官僚としての国学者、神官、および地方諸藩の官僚の仕事として行われ、隠岐島以外では民衆との結びつきは見られず、かえって明治四年の三河碧海(みかわへきかい)・幡豆(はず)郡や石見(いわみ)安濃(あの)・迩摩(にま)郡などの、また明治六年の越前大野郡・薩摩大口町などの廃仏反対の騒動に民衆が動員されているのをみる。これらの民衆暴動や、キリスト教徒を含む広範な信教自由の主張が、結局廃仏毀釈を中止させた。しかしこの過程で、政府は仏教寺院の封建的特権の多くを奪い、仏教を政治的、思想的にも、新政府に服従させる事に成功した。

    福井県内の廃仏毀釈

 福井藩では明治三年(1870)正月、藩領内の社寺に対して次のような達示を公布した。

今般皇政御復古四海一家の御宏謨相立ち已に三年、府に於て学校御取建追々開化の道御主張相成り、当藩に於ても学校変更人材教育の筋厚く申付候事に候、然るに社家僧侶は元来其道を以て民を説諭し、善に就き悪を去り人生彛倫の道に依らしめ、以て風教の及ばざる所を補うは其当然に候処、流弊の久しき其職分を失うもの少なからず、今より以後銘々自ずから其の本業を修むべきは勿論、又教化の法其宜しきを得て、天朝の御趣意に相協ひ候様勉励致すべし、万一因循偸安旧弊を脱せず、自分に似合はざる世教を害する者は厳重沙汰に及ぶべく候間、心得違ひ之なき様其々申し渡候事

但本職不当の者は郷農、帰商申付候事、尚継目の節は公選の上、民政寮へ伺ひ申すべき事

この福井藩の達示によって推定されるように、中央における維新政府の神仏分離祭政一致政策が次第に地方へも波及した事がわかる。同年(明治三年)五月には、教頭孝顕寺(福井市足羽1-7-16・曹洞宗)、準教頭運正寺(福井市足羽1-18-1・浄土宗寺院)以下九ヵ寺の連署で、領内各寺院に藩の達示を通達すると共に、五月には興宗寺(福井県福井市松本3丁目11-19・浄土真宗本願寺派)を仮教場として授業を始める事になった。神社・仏閣は学校としての性格を兼ね、神官僧侶は教師の任務も与えられる事になったのである。さらに翌明治四年(1871)には政府の命令で、社寺の田畑山林および旧藩から与えられていた禄高は、境内以外のものは全て取り上げられてしまった。従って天龍寺にも旧藩時代に与えられていた二百石の石高は没収され、福井藩からの保護はなくなったのである。

 さらに明治新政府の仏教弾圧は追い打ちをかけてきた。すなわち政府はさきに神祇官を設置して神道を高揚し、排仏を推進してきたものの、仏教側の根強い抵抗にあって思うようにいかなくなった為、明治五年(1872)三月十四日神祇官を廃止する替わりに教部省と名を改め、教憲三条を発令した。教憲三条とは「一、敬神愛国の旨を体すべき事、一、天理人道を明にすべき事、一、皇上を奉体し朝旨を遵守せしむべき事」という内容であった。つまり神道を中心として、この三条の教憲を守らせ、各派仏教の説法を禁止した。神官はもちろん僧侶を教導職に任命し、庶民の教育に当たらせる事にした。

 翌明治六年(1873)になると政府は大教院を東京に設置し、地方には小教院を設けて、僧侶にも神道の礼拝を強要した。このとき僧侶に命令された通達の内容は次のようなものであった。「寺院ハ大小トナク皆教院ニシテ、僧侶ノ私宅ニアラズ、住職僧侶ハ教職教師ニシテ徒食スベキニアラズ、因テ寺院ヲ以テ小教院ト認メ、檀家ヲ勧メテ勧学セシメ、庶民ヲ教導シ風化ヲ賛クベシ」

 大教院には神鏡を安置して仏像を置くことを禁止し、地方においては僧侶の托鉢禁止、無住無檀家寺院の廃合、僧侶に氏名をつけさせること、法談説法の禁止、僧侶の位階廃止、肉食妻帯の解禁など相ついで仏教の基盤をひっくり返すような指令が頻発された。

 このような指令が相次いで発せられた為、ちにおいては流言がが飛び交い、噂は噂を呼んで民衆は不安に陥った。政府が「仏教を禁止することに決めたそうだ」というデマから、今立・大野・坂井郡などでは民衆の一部が暴徒化し、宗教的大騒動が勃発した。

 このような仏教弾圧の嵐の前に、大本山永平寺も例外ではあり得なかったようだ。「永平寺年表」(熊谷忠興著)の中から関係のある部分をピックアップしてみよう。

 明治元年(1868)

  6月6日 太政官、総本山(永平寺)願いの学寮創立、宗門碩徳会議を開いて宗規一新を許可す。

  6月   関三ヵ寺の僧録制を廃す。

  6月   総持寺をして輪番住持制を廃し独住制と為し、永平寺に昇任すべきを命ず。

  9月3日 太政官、宗門制度、宗規一新につき、加賀天徳院栴崖(奕堂)以下十一名の碩徳にて会議公論の旨、永平寺に沙汰す。

  11月  総本山監院、門主を始め直末寺院へ総本寺学寮創立の勅裁及び宗門の制度宗規一新、諸民教化次第、国録、三法幢地免牘について布達す。

 明治2年(1869)

  2月   総本山永平寺「公議集会寺院」と共に「総本山永代会計趣法議定」を定む。

  5月   福井社寺御執事へ、御一新宗門制度、学寮創立の為に平岡山麓の北の方及び吉野境林の両所の内、一ヵ所の借用を願い出る。

 明治3年(1870)

12月26日 太政官、宗門本寺本山をして寺院寮うぃ創設し、宗規僧風の整正を格守せしむ。

 明治4年(1871)

  7月5日   太政官永平寺総持寺をして、転衣、転住、輪番は勿論、法規宗則総        復せしめ、末派への副達等、主意を取違へざるよう注意す。(是歳、窮乏の余り、不老閣等、主な伽藍をたたんで地蔵院に降る)

 明治5年(1872)

  2月18日  霊山院宗続、隠居につき後住に当国天竜寺衆寮の寄運(大綱)を願い出る。(是春、永平寺除地の儀、境内を除いて上地「官地」となる)

  4月25日  政府「僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手」の布告を出す。次いで6月5日、両本山之につき全国末派寺院に諭達す。

  6月2日   政府、教導職心得を出し、三条の教則に悖らざらしむ。

  10月13日 先住遷化につき学寮も中断、しかも諸種の変革にて疲弊、昨年より旧除地も上地となり、その目途を失い、当山伝来の諸私物及び釣鐘、衣類に至るまで二百六十品を売払い、数度に渡り千八百五十二円を県に返納す。残金一万一千九百四十七円余、入金も一切なく、伽藍法器を除いて売払う目途もなく、諸国末派寺院の勧諭金もなき旨を歎願する。(永平寺代理武生金剛院青木隆光らから藤井敦賀県権令への歎願書内容)

  11月7日  禅宗管長永平寺住職大教正細谷環渓等七名「教導職取締条件」を教部大輔宍戸璣に提出す。

  11月8日  六宗管長真宗異論にて、大教院より分離について諸国寺院に通達する。

  12月31日 大教院大講堂より出火して、神殿、鐘楼延焼し、四神御霊代は、東京芝

         大神宮へ遷座する旨を達す。

 明治7年(1874)

  1月1日   両本山より大教院出火(去年12月31日)し、神殿講堂焼失せしことを急達す。

  1月20日  両本山、教部省の御達、大教院よりの普告について配下寺院へ四ヵ条うぃ布達す。

  7月30日  宗務局、教部省より、教導職以上に非ざれば、寺院住職相叶はざる旨ありたりにつき、試補選挙手続方法を普達す。

 この年表を一読しただけで、明治維新政府の仏教弾圧政策がいかに厳しいものであった

か、また教部省、大教院の権限がどれほど強大であったかが推測される。それと同時に永平

寺本山でさえも財政的に困難を極めていた事が偲ばれる。まして末寺に至っては資料こそ

少ないが、その苦しさは想像以上であったと思われる。

 しかし、新政府の極端な政策も、歳月の経過と共にようやく落ち着いてくる。すなわち明

治八年(1875)には大教宣布告の策を変更して、神仏の各宗はそれぞれの説教をする事

を認め、同十年(1877)には教部省を廃止して内務省の社寺局の管轄に置き、神仏を対

等に扱う事にした。

 さらに明治十四年(1881)には教院での葬祭式挙行を禁じ、翌十五年(1882)に

なると神官は教導職の兼務を禁じ、明治十七年(1884)にはついに教導職という制度ま

で廃止した。このように明治二十年頃になってようやく神社・寺院の混乱は収まったが、明

治初年から十七、八年までの混乱は熱病の如くに全国を荒れ狂い、この時代の仏教は、現在

では想像だにしない受難期であった。従って当時、寺の住持者は、それこそ台風の海を小舟

で漕ぎ出すような心持ちであったに違いない。

 

    十六世 玄林鉄英

 天龍寺十六世玄林鉄英は私(青園謙三郎)の実の祖父である。大正十一年(1922)十

月二日、八十二歳で死去した。当時私は数え年四歳であったが、その面影をかなり鮮明に覚

えている。父からは「お前の祖父は吉田郡随一の漢学者であったし、晩年は俳句の宗匠をし

ていて養松軒呼月と名乗っていた。弟子たちから松岡町の春日(柴)神社境内に句碑を建て

てもらった・・」と聞かされ、我が家ではいまでも多くの資料が残っている。

 ところが、私が東京帝大で国史学を専攻し「天竜寺の長老と芭蕉」の調査を始めた時、(昭

和十七、八年ごろ)天龍寺過去帳を見てびっくりした。過去帳には玄林鉄英について、次

のように記述してあったからである。

 「大正十一年(1922)十月二日示寂、行年八十二歳、師ハ十五世の法嗣ニシテ明治八

年(1875)宝岸寺ヨリ昇進シ明治二十年(1887)退院ス、其間吉峰寺ノ建物地所等

を売却シテ其代金ヲ費消ス、加フルニ十八世代中、当時ノ水源ヲ奪ハントシテ法廷ヲ煩ハシ

タレドモ、終ニ敗訴スル等、非行尠カラス、有害無功ノ住職ト謂フベシ、退院後ハ俗界ニ投

シテ俳諧師ト為テ一生ヲ終フ、其長男繁治ハ当地ニ在テ福田家ヲ相続シ、二男豊三郎ハ福井

市ニ住シテ青園家ヲ称ス、師カ遷化ニ際シ祠堂金二十円ヲ納メ、爾来当時ノ檀徒タラント請

フ、依テ之ヲ許ス」(原文はかなり誤字が多いので、読みやすくするため正しく書き直す)

 これを一読した者なら、何ら関係のない読者でも、玄林鉄英はかつてない程の悪徳破戒の

僧であったかの印象を受けると思う。仮に若干の非行があったにしろ、いやしくも過去帳

まで、このような悪意に満ちた文章を書き残す事は、同じ住持職としては、あるまじき行為

だと憤慨した。と同時に、この裏には相当に複雑な問題があるに違いないと判断した。そこ

で真相を究明すべく、それ以来、真実を求めて傍証を集めていた。「天龍寺略史」を書くに

あたり、これまで集積した資料に基づき、十六世玄林鉄英和尚の伝記を客観的に、且正確に

書き残すことにする。

   出自

 玄林鉄英は天保十二年(1841)一月六日、福井藩の下級武士・横山清右エ門明功の二

男に生まれた。女二人、男二人の四人姉弟の末っ子である。幼名はわからない。嘉永五年(1

852)福井藩給帳によると、横山清右エ門は「二人扶持、切米八石」となっているので、

極めて低い地位であった。彼は文久二年(1862)四十六年間の勤務を終えて隠居してる。

 ところが横山家に嘉永四、五年のころ問題が起こった。長男(鉄英の兄)に家名を汚す

行為があったというので、父の清右エ門は長男に切腹を命じ、自から介錯の役を引き受けた。

つまり、父がわが子を殺害したのである。わが家の言い伝えによると、長男が藩の公金を使

い込んだため・・と聞いているが、真相は不明。そして二男を兄の菩提を報わせる為に出さ

せた。これが鉄英である。

 横山家には後を継ぐ男の子がいないので、同藩士南部広矛(なんぶひろほこ)の四男、彦

六(『ウィキペディアWikipedia)』記載あり・注)を後に養子に迎え、横山の家名を継が

せた。南部広矛の妻・余利(より)は横山清右エ門の娘であったから、子供の一人を妻

の実家に戻したわけだ。南部広矛(文政六年1823―大正元年1912)については『福

井人物風土記 : ふくい百年の群像 続』福井県教科書供給所、1973年・芳賀矢一編『南部

広矛翁 : 伝記及び紀行』に収録されるので詳しい紹介は省略するが、福井藩士として十石

三人扶持の軽輩から身を興し、のちに維新政府に抜擢され、大蔵省検査寮の検査助にまで昇

進、大正元年(1912)八月、九十歳で死んだが、橘曙覧の高弟でもあった。(南部広矛

が吾嬬へゆくーわかれには、涙ぞ出づる。丈夫(ますらを)も、人にことなるこゝろもたね

ば・(南部広矛北潟の鮒贈りくれたる)この中に、二つといふものは、ことに能く動くやう

なりければ、物に水いれて放ちおきけるに、日を経て益勢づきけるを見るー静かなる こゝ

ろの友と見をるかな。鰭ふる魚に、我もまじりて(『橘曙覧評伝』折口信夫」より転載・注)。

 南部広矛の子供はみな優秀であった。長男の武一郎(彦夫とももいう)は若くして死んだ

が、二男球吾はシカゴ大学に留学、工学博士となり三菱の重役になった。三男小五郎は寺島

家を継ぎ、司法官となって名古屋控訴院の検事長となり、四男の彦六(慶応2年1866年―

昭和22年1947)は母の実家の横山家を継いで陸軍中将となり、初代陸軍造兵廠長官にな

った。横山彦六の陸軍大学の時の親友・武内徹中将が第五代福井市長となり、福井市に初め

上水道を敷設する事になった。このとき横山彦六は水道工事で最も困難な場所の建設を、

陸軍の技術を駆使して協力したというエピソードもある。横山彦六は慶応二年(1866)

に生まれたので、横山の家名を継いだのは、おそらく明治になってからではあるまいか。

昭和22年、八十二歳の天寿を全うして死んだ。

    出家

 ところで鉄英は、弘化二年(1874)数え年七歳の一月から福井藩士の大西忠平につい

て書道を習い、嘉永元年(1848)八歳で同藩士末松覚平に入門して漢学の勉強を始めた。

ところが、さきに述べたように横山家に突如として大問題が発生した為、父から出家を命ぜ

られて嘉永六年(1853)八月十二日、松岡天龍寺の十四世舜隣甫童和尚から得度を受け

「鉄英」の法名をつけられた。彼は数えで十三歳になっていた。すでに物心もつき、武士に

なる覚悟でいたのに、父の命令で出家させられたのだから、おそらく煩悶も多かったに違い

ない。師匠の舜隣甫童和尚が万延元年(1860)七月二十日、六十一歳で遷化され、十五

代には喬運碩叟和尚が就任したので、鉄英は許しを得て翌年(文久元年1861)七月十五

日、天龍寺を跳び出し、全国行脚に出かけた。数え年二十一歳のときであった。

 同年(1861)八月一日、まず江戸駒込の吉祥寺山内にあった薩摩寮に掛塔(かた)し

て、仏教の経典や道元禅師の正法眼蔵などを学ぶ傍ら、安中藩(現在の群馬県安中市)士の

柳沼維徳、今井芳洲について漢学の勉強を始めた。ここで五年間の勉学修行は鉄英にとって

何よりもおおきな蓄積となった。慶応元年(1865)の冬には赤塚の松月院(東京都板橋

区赤塚にある曹洞宗寺院。萬吉山宝持寺松月院)に行き、恵萼和尚について勉学し、常恒会

初会の首座を勤めるまでになった。

 行脚に出てから満五年を経た鉄英は、慶応二年(1866)の春、再び松岡天龍寺へ戻り、

十五世喬運碩叟和尚のもとで修行を続け、同年八月九日嗣法を受けた。嗣法を受ける

という事は、一寺の住職になる資格を得たことを意味する。このとき鉄英は数え年二十六

歳であった。嗣法を終わった鉄英は、翌慶応三年(1867)二月一日、永平寺へ上山し

転衣する。転衣とは、両本山に瑞世して、従来の黒色の衣を改めて、色衣に転ずるをいう。

転衣した僧は和尚または力生と称される(『禅学大辞典』887頁参照)。鉄英はこれで

「鉄英和尚」になったわけである。

 しかし天下の風雲は急であり、世の中は大変革の兆しが刻々と迫っているようであった。

廃仏毀釈の大波が今にも襲ってくる気配が感じられた。鉄英はもっと修行、勉学を続けな

ければと考え、当時、福井孝顕寺住職の清拙和尚は名僧として知られていたので、彼も清

拙のもとで教えを受けたい願った。ところが、安政五年(1858)から九年余りも孝顕

寺の住持をしていた清拙は、近江国彦根藩主井伊家の慕陀時である清凉寺の住職に迎えら

れることになり、慶応三年(1867)八月、転住してしまった。鉄英は清拙のあとを追

うように、彦根清凉寺に向った。鉄英は慶応三年八月から明治二年(1869)の春ま

での一年五ヵ月ほど清凉寺の清拙和尚のもとで参禅修行していた。そして明治二年(186

9)の春、再び松岡の天龍寺へ戻った。それは師匠の清拙和尚が東京へ呼び出されて教導局

御用掛になったからである。だが、鉄英は清拙和尚から最もおおきな影響を受けた。鉄英の

その後の人生観および行動には、清拙和尚(のちに還俗して鴻雪爪と云う)の思想が大きな

下敷きにねっているのを否定できない。鴻雪爪から鉄英に宛てた手紙が、いまも青園家に残

っている。余談になるが鴻雪爪(おおとりせっそう)について若干紹介する必要がある。

   鴻雪爪について

 鴻雪爪(1814―1904)は文化十一年に備後国広島県因島で生まれた。六歳で

出家し、号を鉄面または清拙と云った。師匠の無底和尚に従って武生の龍泉寺福井県越前

深草1)、大垣の全昌寺(岐阜県大垣市船町2-21)、金沢の大乗寺(石川県金沢市長坂町

ル10番地)を転々とし、弘化三年(1846)三十三歳のとき全昌寺第二十五世住職とな

った。「老人では宇治興聖寺の回天、若手では全昌寺の清拙」と云われた程、その名声は全

国的に知られた。安政五年(1858)には福井孝顕寺の第二十九代住職に成った時には四

十五歳であった。福井藩松平春嶽に請われてやって来たわけだが、清拙の所へは福井藩

由利公正、堤正誼、松平正直ら優れた人物が教えを受けに来た。

 彦根の清涼寺住職として転住することになったが、松平春嶽がなかなか許さず、許可をも

らうのに半年もかかったという。後任の孝顕寺住職に弟子の雪鴻和尚(青蔭雪鴻あおかげ

せっこう・のち永平寺六十二世貫主となる〔大本山永平寺諸禅師略伝に詳細あり・注〕)を

決め、自分も時々戻って来ることを条件に、ようやく許しが出た。慶応四年(1868)三

月、五箇条の御誓文が発表された。清拙はまもなく政府に建白書を提出するが、その内容は

キリスト教は開国を機に解禁すべきである。しかし、日本の仏教と神道は、この際しっか

り国民から信仰されるとう、僧職や神官が努力すべきである」というものだった。だが清拙

の心配したように僧侶の自覚が足りず、廃仏毀釈の大波が寄せてきた。

 明治二年(1869)一月、清拙は政府から呼ばれ東京へ出た。彼は教導局御用掛けの辞

令をもらった。五月九日に初会合が開かれ、清拙の神仏二教連合論に対し、ほとんどは廃仏、

排キリスト論であった。彼は自説を主張しても聞き入れられないと判断して、教導職御用掛

けを辞任して清涼寺へ帰ったが、その住職も明治三年(1870)にやめ、琵琶湖畔の百如

庵に隠居したが、時局は彼を閑居させなかった。

 明治四年(1871)再び上京した清拙は、島地黙雷(1838―1911)・赤松連城

(1841―1919・ともに浄土真宗本願寺派僧侶)らと、宗教問題に対する建白書を作

成し政府へ提出した。慶応四年の建白書と同趣旨だが、特に僧の妻帯を許すこと、学校を作

ること、有為の僧を海外へ派遣する事などを力説するものであった。明治五年(1872)

四月二十五日付けで「僧の肉食妻帯、蓄髪、俗服着用許可」の布告が出て、建白書の一部が

認められたが、同年九月、清拙は太政官から出頭を命ぜられ「左院少議生」に任命されると

共に還俗を命令された。そこで清拙は還俗し、性を鴻(おおとり)と付け、雪爪(せっそう)

と名乗った時には五十九歳であった。彼は神仏大教院長として神道・仏教を国教と定め、青

年僧の教育に当たるなど宗教界の改革を着々と実行したが、三年余りで大教院長の職を辞

し、次いで神道の管長に推されて就任した。その後、神道管長も辞任し、御岳教管長にもな

ったが、明治三十七年(1904)九十一歳で死去した。

 鴻雪爪が最初に禅僧でありながら還俗し、のち神道の管長になった事を批判する人もい

る。殊に僧侶の肉食妻帯を許可するよう建白した事は、僧の堕落の原因を作ったとの理由か

ら厳しく非難する者もいるが、これらは清拙(鴻雪爪)の思想・信条を正しく理解している

とは言い難い。(『福井人物風土記』参照)

   玄林鉄英・天龍寺住職となる

 彦根清凉寺から松岡の天龍寺へ戻った鉄英は、再び喬運碩叟のもとで勉学にいそしみ、

その間に明治六年(1873)三月二十九日には東京まで足を運んで「十三級試補」の辞令

をもらっている。大教院(院長は鴻雪爪)が神官・僧侶に与えた教師としての資格である。

同年八月十五日には「十二級試補」に昇進すると共に、松岡にある宝岸寺(春日三・大字本、

春日下三番地ノ一)の住職になるが、数え年三十三歳であった。

 宝岸寺住職時代の経歴については、青園家に次のような資料が残っている。

 明治六年(1873)の冬、初会を執行した。初会(しょえ)とは法地以上の寺に住職

して初めての結制をすることである。翌明治七年(1874)十月には、敦賀県小教院院長

から教師に任命され、当時の辞令が残っている。

 

     青園鉄英 

   右制中教

   師申付候事

     小教院

       院長 印

   七年十月

 

 この辞令で注目されるのは、この時すでに「青園」の姓を用いている事だ。明治維新政府

は明治三年(1870)九月十九日、平民に禁じられていた苗字を名乗る事を許可したので、

鉄英も間もなく「青園」の姓を付けたものと思われるが、現存する資料ではこれが最も古い

ものである。おそらく「横山」の姓はすでに甥に当たる彦六が南部家から養子になっている

事と、出家した以上は元の姓を名乗る事を、潔しとしなかった事から、新しく青園も姓を作

ったものらしい。鉄英の「鉄」から「青」を連想し、「英」は「花園」に関係するので青園

と付けたと伝えられている。なお敦賀県は明治六年(1873)一月14日から同十四年(1

881)二月七日まで存在した県名である。

 明治八年(1875)一月二十二日、曹洞宗内第二試講究を完了、翌一月二十三日、中教

院第一試講究を修了、二十四日に県官の立会検査を完了した。そして同年三月八日、訓導を

拝命している。これらの履歴は、いづれも新しい宗教改革に伴う諸種の試験を受けた事を示

すに違いないが、その内容はわからない。

 明治八年(1875)五月四日、鉄英は宝岸寺住職から天龍寺の十六世住職に栄転した。

数え年三十五歳の比較的若い住職の誕生である。

 十五世の喬運碩叟和尚は明治二十一年(1888)まで存命しているから、鉄英の住職就

任は禅譲によるものである。なぜ碩叟和尚が辞任したのであろうか。年齢が不明である為に

老齢の為か、病気によるものか、あるいは廃仏毀釈が原因かは、真相はわからない。

 とはいえ、鉄英がわずか三十五歳の若さで名刹天龍寺の住職になった為、かなりの波紋が

広がったようである。碩叟和尚の弟子の中には、鉄英よりも年長者が居たはずだ。学識・禅

道においては鉄英より劣っていても、年輩者を差し置いて若い住職が生まれるのは心中不

快でもあり、嫉妬心が芽生えよう。また、長らく天龍寺だけに安居していた僧たちにとって

は、他国を転々と行脚していた鉄英に住職のポストを攫われたと感じたのも無理からぬ事

であった。まして廃仏毀釈の台風はまだ完全には去っていなかった。寺院の管理経営も難問

山積の時代であった、

 十六世になった鉄英は、かつて彦根の清涼寺で教えを受けた清拙和尚(鴻雪爪)の思想に

共鳴する点が多かったため、今の言葉で云えば進歩的な行動が多かったようだ。

 明治八年(1875)冬、随意初会。

 明治九年(1876)四月二十七日、敦賀県中教院で第二試講究済。

 同年        四月二十九日、教導職従事を申しつけられる。

 同年        六月二十六日、少講義を拝命。

 明治十年(1877)一月十五日より第二号小教院監督兼教師を委任される。

 同年        二月十五日より中庸の講義を開始。

 同年        二月十七日より三経の講義を開始。

 同年        四月二日、教会社頭を申しつけられる。

 同十一年(1878)三月、天龍寺本堂を解体、廃材で庫裡を補強。

 天龍寺過去帳によると、鉄英は「吉峰寺の建物地所等ヲ売却シテ其代金ヲ費消ス・・」

と書かれてあるが、これなどは悪意極まりない中傷非難であって、事実は全く違う。それを

明らかにする文書が、天龍寺の古文書の中に残っているので、原文から紹介する。

   奉歎願書

一、当寺本堂創起以降二百余年ノ日月ヲ経、近年来破損所及雨漏等出来、精々手ヲ尽シ相加

へ候得共、暫次大破ニ相成、終ニ弐拾軒ノ檀家況ヤ旧領主松平家ヨリノ取扱モ稍消耗シ、方

今ニ至テハ修理仕候方法モ不相立、之ニ依テ職分上不相済義ニ御座候得共、不得止先般宗務

局御中へ庫裡ヲ本堂ニ相備ヒ、本堂ヲ取除キ度旨図面相添上願候処、別紙写書ノ通リ御指令

ニ相成、伏奉敬承候得共、前文申上候通リ、大破雨漏等所々有之、柱モ次第ニ傾頽シ棟モ

損シ加之本年一月ノ大雪ニテ数箇所破損、今ニモ顚覆仕様相覚へ、然リ而シテ今回宗務局

ノ御指令ヲ遵奉仕、庫裡ヲ除キ本堂ヲ修理候時ハ、微弱の骨山許多ノ入費ヲ消ス、而巳ナラ

ス本堂修繕ノ落成モ不相遂、庫裡モ烏有ニ属シ、二ツナカラ相失スルノ義ニ御座候間、恐多

候得共、実地御検査ノ上、本願貫徹仕候様本局へ御稟議被成下度、此段連署ヲ以更ニ奉歎願

候   以上

 明治十一年二月二十七日

   石川県越前国吉田郡松岡駅本極町

                  天竜寺住職

                   少講義 青園 鉄英 印

                   檀中総代

                       尾高小太郎 印

                       浅井 常雄 印

                   法類総代

                   法岸寺住職

                    試補 黒田 詮虎 印

     御本山

      監院寮御中

 この資料を分かりやすく書くと、次のような内容である。

 ➀天龍寺の本堂は創建以来二百年以上も経過し、破損雨漏りが甚だしく、精一杯修理を

加えたが、二十軒ほどの檀家の力や旧領主松平家も疲弊して、とてもこれ以上の修理が出来

ない状況であります。

 ➁これでは住職としては申しわけないので、先ごろ宗務局へ申請し、庫裡を本堂に兼ねさ

せ、本堂を解体したいと図面を添えてお願いしましたが、別紙のような御指示があり、本堂

を残し、庫裡を解体すれば、との事でした。

 ➂しかし、これでは本堂の柱も腐った上に傾いており、今年(明治十一年)一月の大雪の

時など、数か所も破損し、今にも倒壊しそうな有様です。その上、宗務局の御指示のように

庫裡を解体して本堂を補強する場合には、莫大な経費を必要とするばかりか、本堂の修繕も

完成ならず、その上、庫裡も失う結果となり、二つとも失敗することになる。

 ➃誠に恐縮ながら、いま一度実地を御調査の上、私どもの希望を達成できるよう、願いた

い。

 この歎願書は永平寺本山の監院寮へ、明治十一年(1878)二月二十七日付で提出され

ている。当時の監院は青蔭雪鴻であった。

 鉄英の陳情は永平寺本山によって許可され、同年三月天龍寺の本堂は解体され、その廃

材で庫裡が補強された。かくして天龍寺の本堂は明治十一年以後姿を消したが、補強された

庫裡(間口八間、奥行六間半)は本堂として昭和四十年頃まで残っていた。現在のコンクリ

ート建ての本堂のある位置である。なお解体された本堂は間口九間、奥行七間半であったこ

とが資料で判明している。以上、資料にもとづく反証によって、過去帳に書かれた鉄英への

非難が全く事実無根である事がわかるのである。

 天龍寺の参道右側に三基の塚が建っている。一番奥に「芭蕉翁」と彫ってあるのが、芭蕉

天龍寺来訪(元禄二年1689)を記念したものである。石碑の側面に「天保甲信辰初冬

新建之」と刻んであるから、これは天保十五年(1844)十月に建てられたものだ。天保

十五年の十二月二日に弘化と改元されているから、天保年号の最後の頃である。天龍寺の記

録には何も残っていないが、十三世大麟秀瑞の時代と推測される。

 あとの二基の塚は芭蕉とは全く関係ないが、簡単に説明すると、真中の「筆塚」は明治十

一年(1878)四月、中村一信という人物の十七回忌法要の時に、門弟たちが建立したも

ので、筆塚とあることから、書道の教師であったと思われるが、中村一信については詳しい

事はわからない。

 一番手前にあるのも「筆塚」である。笏谷石が風化してよく読めないが、明治十四年(1

881)に書道家渋谷氏を顕彰するため門弟たちが建てたもので、碑文も大部分で判読でき

ないが、青園鉄英が誌した事が判読できる。二つの筆塚は共に鉄英の住職中に建てられたも

のであろう。

 明治十一年(1878)六月、大本山永平寺の二祖孤雲懐奘禅師六百回大遠忌で知客職

を申しつけられる。次の辞令が残っている。

   天竜寺住職

     少講義 青園鉄英

     二代尊大遠忌ニ付

     知客職申  

     候事

      明治十一年六月

     大教正 久我環渓 印

 右の辞令の中で大教正久我環渓とあるのも資料としては貴重である。久我環渓禅師は永

平寺本山六十一世の貫主だが、当寺はまだ政府が任命権を持っており、大教正という資格を

与えられていた。二祖孤雲懐奘禅師の六百回大遠忌は明治十一年九月二十二日から三日間

にわたって厳修された。懐奘禅師は弘安三年(1280)八月二十四日、八十三歳で示寂

されたのだから、明治十二年(1879)が六百回忌の年に当るはずだが、どういう理由か

らか、前年に行われている。

 明治十三年(1880)五月、教導取締を命ぜられる。

 青園鉄英自身の残した記録を元に、青園家に現在ある資料には以上のように簡単な経歴

しか書かれていないが、我が家にはかなり人間臭い実話が伝えられている。

   鉄英の人間像

 鉄英は酒が好きであった。晩年はほとんど飲まなかったが、若い頃は托鉢で得た布施で、

米を買わずに酒に換えて飲んでいた事もあったという。僧にも妻帯が許されたので、かれは

天竜寺住職に内妻をつくった。さすがに正式な結婚はしていないが、松岡町の「福田しず」

という女性に四人(男二人、女二人)の子を産ませた。女、男、男、女の順だが、最初の

女子の父親は鉄英ではないようだ。長女は東古市(永平寺町)の玉川又吉と結婚、長男「繁

治」は福田家の跡を継ぎ、二男「豊三郎」は青園家を継ぎ、二女「ひで」は大原長と結婚し

た。私の父豊三郎は明治十八年(1885)四月二十八日の生れだから鉄英の天龍寺住職時

代(鉄英四十五歳)である。兄の繁治は数年年長であるから鉄英は明治の十四、五年には「福

田しず」とは内縁関係であったわけである。かつての師であった清涼寺の清拙和尚(鴻雪爪

)が僧の肉食妻帯を唱えた人物であるから、それに従ったのであろうか。

 戸籍謄本によると、青園豊三郎は「父山田周太郎、母しずの二男」と書かれてあるが、私

は生前、山田周太郎がどのような人物か、全く聞いた事がない。架空の人物のようにも思わ

れる。おそらく当時の役場の戸籍係も、いい加減なものだったのかも知れない。明治三十八

年(1905)十月三十日、豊三郎が数え年二十一歳の時、実父である青園鉄英の養子とし

て戸籍に届け出ているが、徴兵検査のための処置と思われる。

 しかし豊三郎の話では、彼が四、五歳の頃にはすでに鉄英の膝下で育てられ、腕白少年

の豊三郎はいつも鉄英から厳格な躾を受けていたという。父の鉄英を「お師匠さん」とか「方

丈さん」と呼ぶように仕込まれていた。冬の雪の日、行儀が悪いというので両腕を縛られ、

襟首を掴んで庭の雪の中へ抛り投げられ、首まで雪の中に埋まった。姉に謝ってもらい、や

っと助け出されたというエピソードもある。豊三郎が物心ついたころ、鉄英はすでに天龍寺

の住職を辞任していたが、厳格な点は一向に衰えを見せなかった。

 明治十六年(1883)十月二十四日に永平寺本山の六十二世貫主に青蔭雪鴻禅師が選挙

で選ばれた時か、それとも明治十八年(1885)十一月六日に六十三世貫主に滝谷琢宗禅

師が選ばれた時かに、永平寺本山の監院に青園鉄英の就任を懇望された(『永平寺史料全書』

三六一頁には福山堅高(熊本県大慈寺)が明治十九年に監院に就任とあり、その前後では

明治四年から十九年までは長森良範(滋賀県・清涼寺)、明治二十一年から二十四年までは

戸沢春堂(福井県・孝顕寺)がそれぞれ就任するが、両寺ともに玄林鉄英・鴻雪爪・青蔭雪

鴻等が拘わる寺院名が散見される・注)。しかし鉄英は固辞して受けなかった。「禅僧の身で

内縁の妻を持っているから、私にはその資格はない」という理由であった。青蔭雪鴻禅師は

同じ清拙和尚の弟子で、鉄英とも面識があったから、おそらく明治十六年ころの話であろう。

このように玄林鉄英は外部ではかなりの評価を受けていたらしい。

 いくら学識が優れていても、内縁の妻を持っていては天龍寺内では評判の良いわけはな

い。鉄英の去ったあと、又は死亡した後で、天龍寺荒廃の理由を全て彼一人の所業になすり

つけた節がある。その原因は、十七世住職に弟子の谷川達誠和尚を推し、その達誠和尚がわ

ずか二年で金銭上のトラブルで追放された事が理由である。しかし不詳の弟子を後任の住

職に推した道義上の責任が鉄英にも生じ、彼はその責を負わなければならなかった。

   住職を辞任

 明治二十年(1887)五月十一日、鉄英は天龍寺住職を辞任した。数え年四十七歳であ

った。明治八年(1875)に十六世になってから十二年間の在職である。後任住職には弟

子の一人である達誠を推した。俗姓は谷川というだけで詳しい経歴や年齢、出身地、その他

は全く資料がないのでわからない。わが家に伝わる言い伝えでは、信頼していた人物なので、

色々問題もあったが抜擢し、十七世に推薦したが、案に相違して悪行が目立った。住職に対

する非難、批判が檀家から集中し、ついに鉄英は谷川達誠和尚を義絶しなければならなかっ

た。建豪達誠和尚はわずか二年余で住職を辞任した。十八世住職として明治二十二年(18

89)十二月、東野玉竜和尚が就任した。鉄英は達誠和尚の住職中は天龍寺内に同居してい

たが、東野玉竜和尚の時代になったので、翌二十四年一月八日、天龍寺を出てしばらく俳諧

仲間の昌蔵寺(福井県吉田郡永平寺町松岡芝原1丁目109)住職・朝倉一昌家に寄寓してい

たが、同年五月、再び天龍寺の境内に隠居所を建てて、そこへ移った。

 

    十七世 建豪達誠

 十七世建豪達誠については、天龍寺過去帳にも全く記載がない。十六世玄林鉄英に関し

ては、あれほど非難した文章を書き込んでいるのに、どうした事であろうか。本堂の歴代住

職位牌中に「十七世建豪達誠大和尚」というのが発見され、「昭和五年五月一日示寂」とだ

け書いてあった。何歳で亡くたったのかもわからない。しかし明治二十年(1887)に住

職になった時に、仮に三十五歳ぐらいと推定しても、昭和五年(1930)には八十ちかく

の老人であったはずだ。その当時の天龍寺には誰も達誠和尚のことなど記憶する者もいな

かったに違いない。こうなると何とかして調べてみたいという気持ちが湧いて来る。天龍寺

の古い資料を改めて探してみた処、注目すべき二、三の古記録が出てきた。これによると達

誠和尚は谷川という姓であった事がわかる。最初に紹介する資料は、まことに生臭い金銭上

のトラブルを示すものである。

    歎願証

  • 拙僧儀願成寺後住職御引請仕候へ共、今般止ムヲ得ザル事故出来、該寺へ後住職仕兼

候間、何卒貴殿ニ於テ適当ノ後住人御撰挙可被成下候、就テハ拙僧儀兼テ貴殿へ借用仕居候

金弐百五拾円ハ、拙僧ニ於テ到底弁償ノ見込無之候間、特別ノ御慈愛ヲ以テ仕切隠米資トシテ拙僧へ御給賜被成下候テ、借用証御返却ノ程伏テ奉懇願願候、其ノ為メ別紙請待証御返却申上候、尚又此儀御聞済無之候共、前顕之通リ弁金之目途迚モ難相立候間此段篤ク御憐察ノ上是非共右御聴許之程幾重ニモ奉歎願候也

                    天竜寺前住職

                        谷川達誠 印

    明治二十三年五月十六日

      天竜寺住職

       東野玉竜殿

 副啓右金弐百五拾円拙僧へ申請候外ハ天竜寺前々住職青園鉄英ハ勿論拙僧身上ニ付テ後日如何程ノ事故出来候共、貴殿へハ聊カモ御難題相懸間敷候、仍て為念副書仕置候事如件

                    谷川達誠 印

 右の文書の大意は次のようである。

➀願成寺(福井県越前市土山町5-3)の後任住職を引き受けたが行かれず。

➁貴殿(東野玉竜)からお借りした二百五十円は返す見込みがない。

 願成寺―「土山村は武生市の西部、河野村境に近く、日本海に直接注ぎ込む糠川の上流部に位置する。村高は39石余。はじめ福井藩領、うち36石余が1645年(正保2)から1721年(享保6)まで松岡藩領で、以後すべて福井藩領。ただし3石余の願成寺除地があった。1792年(寛政4)の家数9・人数33(『越前国宗門人別御改帳』)・1872年(明治5)には13軒・59人(『足羽県地理誌』)・「デジタルアーカイブ福井」より転載」―部は筆者・注

二百五十円―明治二十年代の250円は今の価値に換算すると500万円に相当する。(1円→2万円)

 谷川達誠は明治二十年(1887)に十七世住職になったものの、わずか二年余りの二十二年十二月には天龍寺住職を辞任している。この点は、先にも触れたように原因の最もおおきな要因は、東野玉竜(当時は願成寺住職)からの借金の返済に滞ったからである。

 返済に困った達誠は、天龍寺住職を東野玉竜に譲り、自分は願成寺住職になる事を条件に、借金の棚上げを考えたようである。天龍寺の寺格は願成寺より上格であるから、玉竜にとっては栄進ではあるが、逆に天龍寺住職から願成寺への転住は格下げであり、このような例はない。達誠にとっては借金返済の為には面子も捨てたのであろう。

 ところが、住職同士の口約束であるから、檀家の間では大騒ぎの事態となった。天龍寺の檀家は十数件ではあるが、達誠和尚への非難が集中し、達誠は願成寺へも出向けず、その上に借金の返済を迫られ、やむを得ず歎願書を提示して、借金の棒引きを謀ったものと観られる。(『永平寺史料全書』には明治18年安居名に「谷川達誠 福井県越前国吉田郡荒谷村 

霊山院住職」と記載あるが、関係があるのか・二谷 2022年 記)

 天龍寺の檀家からは抗議が出たのは当然である。東野玉竜が檀家の了解もなく天龍寺の住職になったというので、檀家総代の大久保市三郎、金具与作、内海源太郎は責任を感じて総代を止めてしまった。これに対し、谷川達誠は明治二十三年(1890)二月一日付で、このような謝罪文を新任の檀家総代へ送っている。

    示談為取替証

  • 自分義今般天竜寺住職退隠致ニ付、後席之義檀中に御協議不尽、自分独撰ヲ以而東野

玉竜ヲ撰定シ、後住続目願ニ在来之檀中総代ヲ自侭ニ押印ヲ与へ願出候処、既ニ宗局ノ任免相成タル処、今回貴殿ニ於テ不協議ヲ責メラレ、該続目願ニ署印ヲナシタル檀中総代大久保市三郎、金具与作、内海源太郎らへ対し、総代取消ノ出願ニ相成リ、不容易場合ニ立至候、其原因タル前顕ノ如ク自分ノ専断上ヨリ生シタル事ニ而、該続目願署名印モ自分

ヨリ強而依頼シタル儀有之、因テ該総代人ニ於テモ今日ニ而ハ後住へ対シ総代辞表モ差出タル筈ニ候間、皆自分ノ専断不都合上ヨリ成立タル儀ニ而御檀中へ対シ無申訳次第、幾重ニモ奉謝候、為後日和議之一証為取替候也

  明治二十三年二月一日

                           谷川達誠

  尾高小太郎殿

  浅井 政綱殿

 これに対し、二月五日付で尾高小太郎、浅井政綱は谷川達誠へ渋々ながら了解する。

その示談証の全文は次の通り。

    示談為取替証

  • 今般松岡天竜寺後住東野玉竜氏任命相成タル儀ハ、曾テ貴僧御取計ニ出テ拙者共へ御協議与カラザルヲ以テ、思想上齟齬ノ点有之、因テ金具与作外二名檀家総代人ノ瑕瑾ヲ鳴シ、勧解エ出頭ニ及ヒシ処、同総代人大久保市三郎、金具与作、内海源太郎等総代辞退ニ相成、行違ノ廉々御指示ニ預リ、拙者共疑惑了解之上ハ、后住ヲ信仰スルハ勿論、前条貴僧ノ御取計ニ於テ聊カ異議申間敷候、依之為後日和議ノ一証為取替候也

明治二十三年二月五日

                 天竜寺檀中総代

                        尾高小太郎

                 同

                        浅井政綱

天竜寺前住職

 谷川 達誠殿

 谷川達誠和尚がどのような経歴の持ち主であるのか、また二百五十円という当時としては大金を何の為に使ったのか、それらを示す資料が全くないのでわからない。谷川達誠が何年何月ごろ天龍寺住職を辞任したのかも定かではないが、青園鉄英の履歴書によると、明治二十二年(1889)に「谷川を義絶」と誌してあり、一方、東野玉竜に関する資料によると、明治二十二年十二月二十六日付で「天竜寺住職に任ぜられた」と書いたものがあるので、おそらく谷川達誠の天龍寺住職辞任は明治二十二年の秋か、暮れごろではなかったかと推測する以外に方法がない。

 それにしても、一人の人間として見る時には、十七世建豪達誠和尚も誠に人間臭い僧侶であったと思われる。

 

    十八世 仏国玉竜

 十八世仏国玉竜は大正十一年(1922)八月六日に亡くなっている。数え年九十歳の長寿を全うした。生年月日が分からないので、逆算すると天保四年(1833)の生れになる。資料によると丹生郡白山村杉本(現越前市・旧武生市)の東野又右衛門の弟と書いたものがあるので、願成寺の近くで生まれたと考えてよい。いつ何処で得度したのか分からないし、どの寺に居たのかも資料がないので不明だが、現在天龍寺に残っている最も古い記録によると、明治二十年十一月十一日付の文書には「願成寺住職」という肩書きがる。このとき東野玉竜はすでに五十五歳になっていた。天龍寺ではこの年、十六世青園鉄英が辞任し、十七世に谷川達誠が就任した。

 谷川達誠の項で紹介したが、達誠和尚が借金の返済に困って天龍寺住職と願成寺住職のトレードを申し出たのが、明治二十二年の秋か暮れごろであった。天龍寺の谷川達誠と願成寺の東野玉竜とが、どのような繋がりが有ったのかは分からないが、とにかく本人同士の口約束だけで、檀家総代の印鑑を押した届け出が大本山永平寺に提出され、間もなく許可されたようである。

 ところがその後に檀家の間で大騒ぎになり、谷川達誠は願成寺住職になる事も不可能になった。一方、東野玉竜は天龍寺の住職に就任する事になったものの、自分が直接に天龍寺へ移ることは当面は遠慮して、弟子でもある金剛寺福井県越前市白崎町19-8)住職の

長谷玉尖(後に天龍寺十九世)を臨時に天龍寺住職代理(監寺・かんす)として松岡に派遣することになる。

 願成寺としても困った。すでに東野玉竜は天龍寺住職に為ってしまって居るのに、後任住職が決まらず宙に浮いている。そこで東野玉竜は織田の禅興寺(福井県丹生郡越前町織田122―26)住職の谷口泰苗に願成寺の「監寺」を依頼している。これらの経緯を示す文書が残っているので紹介する。

    受籍御届

              丹生郡白山村上杉本第七号九番

              平民東野又右衛門弟  玉竜

 右私儀今般都合ニ依リ吉田郡松岡村本第十七号十二番地天竜寺へ分家住居仕度候間、御加籍被成下度、天竜寺檀家惣代連署ヲ以テ此段受籍御届申上候也

              吉田郡松岡町本第十七号十二番地

                  天竜寺住職 東野玉竜

  明治二十三年一月二十七日

                  檀家総代

                        渋谷 篤三郎

                  同     金具 与作

                  同     大久保市三郎

   吉田郡松岡村

    村長 坪川庄蔵殿

 

御届

    松岡村本十七号十二番地

                     天竜寺住職

                        東野 玉竜

 右拙僧儀今般都合ニ依リ他居仕候ニ付不在中ハ松岡村本第十八号三十九番地平民岩佐甚六方寄留長谷玉尖ヲ拙僧代理トシテ監寺致サセ候間、此段連署ヲ以テ御届申上候

   明治二十三年一月二十三日

                     右 東野 玉竜

松岡村本第十八号三十九番地

      岩佐甚六方寄留

長谷 玉尖

   吉田郡松岡村

     村長 坪川庄蔵殿

   (右の監寺届は明治二十三年五月二十八日に解任届が出され消滅している)

 

    監寺御届

 拙僧儀明治二十二年十二月二十六日付ヲ以松岡村天竜寺住職に任セラレ候条、土山村願成寺後住選挙イタシ候処、至急移転ニ付織田村禅興寺住職谷口泰苗へ該寺監寺依頼イタシ置候所、期限相済候ニ付更ニ向六ケ月監寺依任致シ度候間此段御届申上候也

                           松岡村天竜寺住職

                               東野 玉竜

   年月日

 (右の文書だけは草稿らしく、年月日の記入がない。しかしこの草稿で貴重な点は、東野玉竜が天竜寺住職に就任したのが、明治二十二年十二月二十六日と明記してある事である。おそらく玉竜和尚の天龍寺住職就任期日は、これが正確だろうと思われる)。

 天龍寺と願成寺檀家への根回しも済んで、天龍寺監寺の長谷玉尖(当時は金剛寺住職)は玉竜和尚の後任として願成寺の住職になった。いよいよ東野玉竜は正式に十八世天龍寺住職として晋山式を行なうことになる。住職に任命されてから、ほぼ一年後の明治二十三年(1890)十二月十四日であった。玉竜は五十八歳になっていた。貴重な当時の晋山記録が残っている。「明治二十三年十二月吉日、晋山諸控、清涼山」と、表紙に書かれている和紙の帳面は、様々な意味合いで興味深く、全文を掲載する。

 

明治廿三年十二月十四日乗込晋山

先取持ハ長谷玉尖、中村竜潭、高木断竜

本月八日福井檀中并縁檀へ態夫ヲ以テ案内ス、其人名ハ

 渋谷篤三郎、尾高小太郎、浅井政綱、磯野肇、加藤徳士、高久高吉、厚治与三次郎、上坂豊作、浅井マサ、蓮川クマ、平井ミス、樋口悌吉、平田幾郎、横田兵蔵

                 已上

  外ニ御家従へ特別案内状出ス

本月十二日松岡九ヶ町披露進物ハ扇子壱対宛外手拭ヲスルモアリ、尤モ代僧ニシテ僕壱名ナリ

 十三日

早朝村中客残ラス案内状出ス其人名ハ

村長 長尾市五郎、署長 牧良益、外に荒井氏、坪川庄蔵、岩井清太郎、松井五平、柳原一洋、中条清、佐藤五右ヱ門、水野儀太郎、石田屋、白崎万右ヱ門、伊藤弥十郎、熊谷源三、

豊島半之進、同新太郎、江守清五郎、田辺半蔵、松田新八、岩佐甚六、校長織田徳二郎

 已上ハ午前第八時之案内ナリ

 

内海玄策、金具与作、大久保市三郎、大久保新十郎、伊勢ハツ、山本三蔵、島田与平、永平栄助、木村仙吉、伊勢治郎吉、斎藤梅吉、八百カネ、福田シヅ、東栄吉、中村定吉、山岡市十郎

 已上ハ午前第十時ノ案内ナリ

 

松石庵二名、宝林庵、永平栄助、山岡市十郎

 右五名ハ前日ヨリ雇入

 

 寺院ハ

本山専使、万慶方丈、宝慶代理、宗鏡方丈、霊山方丈、如意方丈、多福方丈、義宣方丈、竹峰方丈(不参)、白竜方丈、宝岸方丈、多福閑居、白竜長老

 

 支校生徒六名、

合計七拾四名の案内ナリ

                   已上

 

 献立

坐着

赤飯 胡麻

坪 結こんぶ、里芋、焼豆腐、小皿香々

午時

 精飯 汁、とうふ、青味

 猪口 百合、青合

 坪  糸こん、結ゆば、小椎茸

 皿  べっかう、みかん、大くり、あけもの、みづから、平菓子

 茶碗 胡麻豆腐、あんかけ

酒伴

 大平 人参、ぎんなん、木耳、ゆり、干瓢

 大皿指身 こんにゃく、海そうめん、葛切

 鉢  巻すし

 引饅頭 五つ宛

 台引 あけこんぶ、奈良漬

   已上寺院十二人

   外支校生徒六人并取持僧ハ右ノ内饅頭二つ減スルノミ

 記

  • 金二十銭 血脈料
  • 金十銭  借位牌料
  • 金二十銭 先僧衣
  • 金二十銭 盛物料
  • 金九銭  米料
  •      蝋燭代
  •      人夫
  • 金二十銭 道具料
  • 金七十銭 七々四九迄の供養料
  • 金四十銭 塔婆料八本
  • 金三十五銭 納骨費

右の晋山式の内容を読んで、気が付くことは、多くの僧侶を招待しているのに、前々住職の青園鉄英が近所に住んでいるのに、全く氏名が載っていないことである。青園鉄英は引退したとはいえ、まだ五十歳で元気であった。東野玉竜は五十八歳。十七世谷川達誠から借金の代償として十八世の住職を譲られたので、このときすでに鉄英と玉竜との間には感情的な対立があったものと思われる。これが後に鉄英に対する水攻めとなって衝突する事になる。

  白竜寺の焼失

 天龍寺の末寺の白竜寺は、明治二十二年(1889)八月十七日失火の為に焼失した。

当時の白竜寺住職は十六世青園鉄英の法弟の梅関実応(『永平寺史料全書』によれば明治19年安居者に「華嶽梅関 福井県越前国吉田郡松岡村 白龍寺住職」と記載あり)であった。その焼失した白竜寺本堂の再建工事は四百数十円の経費を投じて明治二十四年(1891)に始まった。檀信徒からの寄付金は百七十円余(現在では340万円)残り二百五十円余(500万円相当)りは梅関和尚の自己負担という事に決定した。永平寺本山への許可も申請して、おそらく翌年ごろ再建が終わったものと見られる。しかし、大正八年(1919)五月六日、七十四歳で亡くなった梅関実応和尚に対する天龍寺過去帳の記述は誠に残酷である。「此人ハ白竜寺大不孝ノ住職、境内ノ竹木不残切荒シ、祠堂金壱百十円ヲ滅却シ、其他寺ノ什物、夜具并単子二棹滅却スルナリ」

 寺の本堂を焼失させた事は失態である。またその再建の財源に、境内の樹木を一部売り払ったかも知れない。しかし青園鉄英や谷川達誠に対する非難と同様、それらの一派に対する憎しみを感じさせる過去帳の記載には、聊か度が過ぎているようである。

   寺宝の売却

 天龍寺の「過去帳」には仏国玉竜和尚についてこう書いてある。「大正十一年(1922)

八月六日示寂、師ハ当国丹生郡白山村願成寺ヨリ移転シ、住スルコト三十四年、先々住以来ノ頽廃ヲ興シ、祠堂金一万円(現在の500万に相当)ヲ貽シテ維持法ヲ確立ス、実ニ当山

中興ノ功績アリ、行年九十歳」

 此の過去帳によると、東野玉竜は名僧のように書かれている。わずか二ヵ月後に死去した十六世玄林鉄英については、過去帳の同じページに、先に紹介したように「有害無功の住職・・」と記しながら、十八世の玉竜に関しては「実に当山中興の功績あり」と褒め讃えることには、大きな疑問を感じる。

 これには何か裏があるに違いないと考えた。十八世玉竜和尚と十六世鉄英和尚に関する

過去帳の筆跡は、明らかに同一人の筆であり、しかも誤字がかなり多いものであるが、これは十九世の大渓玉尖和尚(昭和十年十月二十七日示寂、七十三歳)の筆跡であろうと推測するものである。

 玉尖和尚は大正十一年(1922)には六十歳であった。しかも玉竜和尚の弟子であり、同じ願成寺から天龍寺へ移ってきた人物である。二十世覚道文叡和尚、二十一世得水靠山和尚は、いづれも玉尖和尚の願成寺住職時代の弟子であり、それぞれが天龍寺の住持になった。つまり天龍寺の住職は十八世仏国玉竜和尚以来、二十一世までの四代にわたって願成寺出身によって占有されてきたのである。しかし玉竜和尚を美化したい余り、極端に鉄英を悪者扱いするが、玉竜和尚による不正にも言及する必要があろう。

 その一つとして、玉竜和尚が天龍寺の寺宝を売却している事実を紹介しよう。すなわち明治二十五年(1892)六月十二日、大野の素封家(財産家)であった加納喜右ヱ門(子孫は現在大野市明倫町10-23で美濃喜の屋号で菓子製造業を営む加納貢氏)に六枚折屏風一双を売っている。その時の証文が残っている。

      譲證

 一 王元珍筆大字六枚折屛風  一双

    桃花流水ノ詩六言一首 拾弐枚

  享保三戊冬福井公八代

     豊仙院殿 御寄附

    当寺四世拏雲真竜和尚拝領

    但十世代智賢大寅和尚大破故修覆之

 右ハ這度都合ニ依リ同県大野郡大野町五番加納喜右衛門江正ニ譲渡候  

  明治弐拾五年六月十二日

            福井県越前国吉田郡松岡村本

            松平家御菩提所

              天竜寺住職

                  東野 玉竜 印

                  加納喜右衛門殿

 どれ程の金額で譲ったかはわからぬが、これは天龍寺伝来の宝物であった。譲證の文中にある「福井公八代豊仙院殿」とある豊仙院とは福井藩九代藩主松平宗昌のことである。これは松岡藩二代藩主松平昌平が福井藩主になって宗昌と改名したもので、この時点で松岡藩は廃藩となり福井藩に併藩された。

 この享保三年(1718)はまだ福井藩主になる以前の松岡藩主松平昌平時代の頃である。

また享保三年が正しいとすれば、この時の天龍寺住職は三世の仙竜智鳳であり、いくつかの間違いはあるものの、藩主から天龍寺へ寄付された寺宝の屛風であったことが推察される。

 屛風の文字は「桃花流水、野鳥林間、春風猷新、世外遁跡、間人茅舎、煙光如故」と書かれ「王元珍」のサインがある。加納喜右衛門は、この書が王元珍の真筆かどうかを明治二十六年(1893)二人の鑑定家によって鑑定した結果、「真蹟」であることを証明した「鑑定書」が現在、加納家に屛風・譲證と共に保管されている。玉竜和尚が十八世住職に就任して二年後に、寺の重宝を売り払った事実を、過去帳には全く記載がない。

  開基二百回忌

明治二十五年(1892)七月二十七日は松岡藩初代藩主松平昌勝(見性院)の二百回忌に相当する。玉竜和尚はこの機会に天龍寺の堂塔を修繕し、墓地の改修を計画したが、その費用が八百円(平成の価値で1600万円)も掛かると言うので、取り敢えず同年九月十五日から十七日まで三日二晩の大法要を行った。そして堂塔修繕費八百円の募金目標を立てたが、どのぐらいの金品が集まったのか、その記録が残っていない。大野の加納家へ譲った寺宝の屛風も、寄付金に対するお礼であった可能性も拭い切れず、詳細は不明ながら、計画書の原稿が残存する。

  御像堂転修、御墳墓修繕設計表

 一 金八百円也

    御像堂、御墳墓修栄繕費総額

  内訳

  金二百五十円 御像堂修繕費

   右ハ屋根瓦四方内外壁御厨子障子襖両戸口等悉皆ノ見込

  金二百円 同拝殿建換費

   右ハ従来狭小ニシテ来拝者ノ跪所モナク、且大破ナルガ故ニ更ニ増築ノ見込

  金百五十円 御像堂移転費

   右ハ従来庫裡ヨリ本堂ヲ経テ朝夕拝給スルノ順次ナルニ、先年本堂ヲ毀チ現今ノ仮      堂至ル迠距離五十間ノ白地アルヲ以テ風雨降雪等ノ節ハ通路困難ナルニ付、今回旧本堂ノ跡則チ山門ノ正面へ移転スルノ見込

  金二百円 御墳墓修繕費

   右ハ見性院殿、実相院殿及宗昌公御両子御墳墓ノ修理及石柵石階等修繕ノ見込

合計如高

 此割当

  金五百円 福井市

  金三百円 旧領地

    此外

  作徳二百俵 御像殿霊供米  

   此ノ田地ハ松岡村有志及ビ当住職寄附ノ事

 おそらく募金は意に反したものと思われる。東野玉竜は修繕計画を取りやめ、集まった現

金を「天龍寺祠堂金」として保管し、将来の修繕費に充てる事にしたようである。

   水争い

 水道のなかった時代、飲料水は谷の湧き水か井戸水を利用していたが、天龍寺では裏山か

ら湧き水を溜めて使っていた。しかもこの水は良質で酒づくりにも良いので、近くの酒造家

では天龍寺の水を分けてもらっていたようである。以前から酒造家への分配は習慣として

行われていたが、東野玉竜は新たに契約書を交わして、水の使用と謝礼を明文化した。

   約定中一礼之事

 一 今回自分事酒造業ニ使用スル為メ貴寺飲料水ヲ分水シテ貴寺見性院殿御像堂後ヨリ

筧ヲ埋ミテ自宅へ御附与可相成様屡々御依頼ニ及ビ候処、速ニ御聞届ケニ相成難有頂戴仕

候ニ付テハ筧埋通料トシテ毎年幾部分ヲ献納仕度旨御示談致候処貴寺ニハ更ニ手数料等ヲ

要セスシテ水源ヨリ貴寺水溜マテノ筧其他必要ノ物品等破壊候節ハ該費用全金ノ半額ヲ負

担可致様御発言ニ依リ難有了承仕、自后必ラス前記御発言ノ如ク破壊ノ節ハ費用全部ノ半

額ヲ自分ヨリ速ニ負担可仕候間、分水ハ永世自分方へ御付与被成下度□□日約證一礼テ如

  明治廿五年一月十八日

                   吉田郡松岡村本参番地

                    酒造営業人 佐藤 秀次

                    後見人   佐藤五右ヱ門

                    隣家證人  増山 重吉

   天龍寺御住職

    東野玉竜様

 青園鉄英は、この水の問題で明治三十一年(1898)に東野玉竜と争いを起こす。鉄英

は十八世東野玉竜が住職就任後の、明治二十四年(1891)一月、朝倉一昌(昌蔵寺住職)

の処に寄寓していたが、同年五月、天龍寺に隣接した東側(天龍寺の所有地)に隠居所を

建てて移り住んだ。同年六月には俳諧師として獅子門(各務支考(1665―1731)を祖とす

俳諧の一派)の松岡五代の宗匠(そうしょう)となり、文台を開いた。養松軒呼月と称し、

松岡近郊の民間人に俳諧や漢学を教え糊口を凌いでいた。明治二十六年(1893)九月

には松岡の昌蔵寺内に開かれていた羽水教校(北陸高校の前身)の教諭を兼ねるなど、還俗

はしなかったものの、かなり自由な生活をしていた。元々漢学や俳諧に深い知識があったの

で、庶民の間で鉄英の評判はかなり高く、入門者が近隣からも押し寄せた。しかし鉄英の生

活態度を僧侶にあるまじき行為と感じ、苦々しく思っていた東野玉竜らには面白くない事

であった。

 鉄英の住んでいた隠居所には水がなかった。後任の住職が先住を尊敬していれば、水問題

などは、それ程までには争いの火種にはならなかっただろうが、玉竜は鉄英の隠居所とは無

関係であろうと考え、冷淡であったらしい。自炊するにも水がない。酒造業者に水を分ける

具合であるから、元住職が食事に使う位は当然、分水してくれるものと交渉するが、水量が

少ないとの理由で、天龍寺側からは了解を得られなかった。

 水に困った鉄英も頑固であるから、よく調べてみると、元々の水壷の所在地は昌蔵寺の所

有地である事が発覚した。生来の短気で一徹な性格の鉄英は、勝手に水壷から天龍寺へ通ず

る樋に栓をして、隠居所へ新しい樋を付け、「今後、無断で水壷に手を触れてはならない」

と自分で禁札を立てた。これが水争いの発端である。明治三十一年(1898)五月二十五

日のことである。

 天龍寺側では、突然に水が来なくなったので驚いて調べた所がこの始末で、交渉しても埒

が明かず、双方が実力行使で樋を破壊したり、栓を抜いたり、閉じたりし合う険悪な関係に

なった。天龍寺側では水壷の蓋に鎖で施錠し、今後は蓋に手を触れてはならぬ・・と鉄英に

申し入れたが、鉄英は福井市の藤井浜次郎弁護士を伴なって、九月十六日には水壷の鎖を切

ってしまった。

 現場をこっそり見ていた天龍寺側は松岡警察署に急報、警官によって青園鉄英と藤井浜

次郎が取り調べられたが、すぐに釈放された。腹を立てた鉄英は、水壷の周囲に柴垣を巡ら

して、天龍寺側からは入れないようにしてしまった。そのため第三者が仲裁に入ったものの、

交渉は成立せず、ついに十月二十七日、天龍寺側では東野玉竜が青園鉄英を水利妨害、器物

破却の罪で松岡警察署に告訴した。

 十一月十八日、青園鉄英は福井刑務所の未決監へ収容された。しかし十二月十五日、鉄英

は、不問のまま釈放されている。青園家に伝わる口碑によると、この時の鉄英は何らやまし

い事はないので堂々としており、検事の取り調べにも理路整然と自身の正当性を主張した

ので、起訴にする理由がないとの事で釈放されたという。

 刑務所の未決から帰った青園鉄英は依然として妨害を止めないので、ついに天龍寺側で

福井市の辻岡卓弁護士を代理人とし、明治三十二年(1899)四月、福井区裁判所へ提

訴した。裁判の結果は青園鉄英の敗訴となり、訴訟費用の十三円(平成時代の価値で5万

円?)余は被告の青園鉄英が支払った。関係書類の一部は「水利妨害排除事件顛末」として

天龍寺に保存されている。

 訴訟に敗れた青園鉄英は、その後、俳諧や漢学の弟子たちの執り成しもあって、松岡村椚

地籍に家を建て、ここへ移り住んだ。明治三十四年(1901)のことである。その土地は

天龍寺所有だったが、白崎寛孝、田辺半造(鉄英の弟子たち)が保証人となって天龍寺から

借りたようである。

 しかし、その後八年経っての明治四十年(1907)、今度は勝見海之進が東野玉竜を相

手取って水争いの訴訟を起こすが、裁判の結果は、原告人の請求が却下され、訴訟費用は原

告の負担となっている。

 一方、青園鉄英は大正六年(1917)獅子門俳諧の興隆に功績があったとの理由で、美

濃道統家補佐の辞令をもらった。七十七歳の喜寿の年である。翌大正七年(1918)六月

一日には福井市錦上町(現在順化二丁目)に住んでいた二男の豊三郎の家へ引っ越し、問題

の多かった松岡に別れを告げた。

 しかし、大正十年(1921)には、松岡時代の俳句の門人たちが、彼のために柴神社(通

春日神社)の境内に句碑を建ててくれた。「飛びこんだ音はともあれ鳴かわづ」の句が彫

られている。八十一歳になっていた。そして翌年(大正十一年、1922)十月二日、波乱

の多い一生を終わった。数え年八十二歳であった。

     その他の資料

 東野玉竜和尚には多少の欠点もあったようだが、一方で筆まめで、寺史に関する資料をこ

まめに作成し、大切に保存した功績は高く評価したい。その内の主要なものを年代順に紹介

しておこう。

 第一の資料は明治二十四年(1891)十月三十日付で、天龍寺の所有地約六畝(せ・約

600㎡)余を福井県に売却している文書である。これは松岡の含翠小学校(松岡小学校の

前身)の校地の一部として売却を求められたものと見られる。

    地所分裂売却願添書

 御管下吉田郡松岡村曹洞宗天竜寺所有地之内六畝廿五歩分裂売却之儀別紙願出取調ルニ

郡衙等建設敷地ニ係リ不得止儀ニ有之候条何分之御詮議相成度茲ニ及添書候也

             曹洞宗管長畔上楳仙代理

                        服部元良 印

    明治廿四年十月三十日

   福井県知事牧野伸顕殿

 おそらく含翠小学校は明治二十四、五年に新築落成したはずである。その時には天龍寺

ら二円(現在値で1万円?)を寄付している。

           福井県越前国吉田郡松岡村

                    東野 玉竜

 本村含翠小学校新築費トシテ金弐円寄附候段奇特ニ候事

    明治二十五年六月七日

     福井県知事正五位牧野伸顕 印

 それから二年後、福井区裁判所松岡出張所が設けられる事になり、天龍寺の所有地を含め

八畝の土地を寄付した。その時の感謝状が残っている。

                 福井県越前国吉田郡松岡村

                          東野 玉竜

 福井区裁判所松岡出張所敷地トシテ耕宅地八畝弐拾四歩水野義太郎外三十九名ト共同寄

附候段奇特ニ候事

   明治二十七年三月二十八日

    福井県知事正五位勲五等荒川邦蔵 印

 

 明治二十八年(1895)大本山永平寺の六十四世森田悟由禅師の晋山式が行われた。そ

のとき東野玉竜は「都管」の職を仰せつけられた。都管(とかん・都寺つうすの別名)とは

寺の事務を管理する職で、現在の庶務に相当する役職名である。

                天竜寺住職

                     東野玉竜

 御晋山大礼式執行ニ付都管ニ被命候事

   明治廿八年五月廿五日

     越大本山監院 印

 

 明治三十一年(1898)東野玉竜は教導副取締に任命された。

                              東野玉竜

     任福井県曹洞宗第一号宗務支局管内教導副取締

   明治三十一年五月十七日

 管長畔上楳仙

 

 明治三十九年(1906)東野玉竜は七十四歳になっていた。ここで彼は没後の財産処分

に関する遺言を書いている。この時は病気であったのか、文字もたどたどしく、誤字が多い

が正しく書き直しておく。

    老衲没後遺言規定證

一 明治三十九年一月以往は所持ノ金員及ビ所持物品ハ不残天竜寺へ寄附致置候ニ付病気

  病難ハ無論没後諸人費等ハ一切常住ヨリ支出スル者也

一 老衲落命ノ時モ実家ノ外親戚エ案内ニ不及候也

   附言

 併テ枯淡ヲ専一ニ守リ常住エモ毛頭不都合無之様精々心掛アルベシ

 前顕之通リ一々相守ル可ク様

                  長谷玉尖

                  高木断竜

 右依頼置候者也

   明治三十九年一月十五日

                    天竜寺住職  東野玉竜 印

 またこの年(明治三十九年)四月三十日現在で檀家の名簿を作成している。これによると、

当時の檀家数は合計十戸(戸主十人、家族十七名、合計二十七名)しかなく、七名は檀家を

除籍している事がわかる。これも寺史にとって重要な資料であるから記載する。

 明治三十九年四月三十日調査

檀徒

 福井市尾上々町十四番地     渋谷 篤三郎

 同市手寄上町百六十番地     樋口  悌吉

 同市毛屋町六十七番地      高久  高吉

 同市毛屋町五十番地       平田  幾郎

 足羽郡木田地方八十番地     蓮川  恒男

 吉田郡松岡村椚第三十四号三番地 山岡 市十郎

 同郡同村窪第四十五号三十一番地 金具  与作

 同郡同村椚第三十四号三十三番地 山岡  染吉

 同郡同村椚第四十六号五番地   名子  新蔵

 同郡同村極印第十六号六番地   大久保市三郎

  檀徒、市四戸、村六戸、計十戸 合計二十七人(戸主十人、家族十七人、計二十七人)

 

 除籍之部

檀徒

 津市新町番地不詳          中根  □已

 東京市麹町区平河町五丁目二十五番地 磯野   肇

 北海道釧路国標茶硫黄精煉所     浅井  政綱

 東京市日本橋区森村銀行内      尾高   清

 東京市京橋区越前堀二―二      大久保真十郎

 台湾台北撫台街二丁目三益堂内    厚治  亀雄

 大阪市東区下寺町大蓮寺内      内海  定子

  前記之通中根外六名ノ者ハ他国へ移住セシヨリ拙寺々役等ハ更ニ相勤メサル義ニ付茲ニ除籍致候者也

右明治三十九年四月三十日調査檀家住所姓名戸数相違ナキコトヲ認證ス

                  天竜寺住職 東野 玉竜 印

明治三十九年八月十五日

                  同檀家総代 金具 与作

                        山岡 染吉

                       名子 新藏

曹洞宗宗務院人事部長沖津元機殿

 

 「永平寺年表」(熊谷忠興著)によると、大正五年(1916)の十二月二十日には、玉

竜和尚は特別の計らいで、大野の宝慶寺住職(実際は監寺であろう・注)を兼務している。

八十四歳の時である。弟子の長谷玉尖が明治四十年(1911天龍寺の後任住職に内定し、

大正四年(1915)には玉竜の養子になって東野姓を名乗ったこともあり、おそらく長谷

玉尖が当時、永平寺副監院であった為、職務権限で強く推薦したものであろうか。ともあれ

明治二十三年(1889)から三十二年間も天竜寺十八世住職をしていた東野玉竜は、大正

十一年(1922)八月六日、数え年九十歳で亡くなった。

 

    十九世 大渓玉尖

 十九世大渓玉尖は文久三年(1863)九月一日の生れである。両親の名はわからないが、

武生の有明(現在の越前市)の長谷家に生まれたようである。おそらく願成寺(福井県越前

土山町5-3)の住職をしていた東野玉竜について得度したものと思われる。どの寺で修

行したのか記録がないが、最も古い資料によると、明治十八年(1885)十月十日の記録

で「南条郡白崎村金剛寺住職」とあるから、数え年二十三歳で住職になっている。南条郡

崎村は現在の越前市白崎町(旧王子保村)である。若い時に一寺の住職になっているから優

秀であったのであろう。それに師匠の玉竜からも一目置かれた存在であったのであろうか。

後には東野玉竜の養子となり、東野姓を継いでいる事からも、その師弟関係が窺い知れる。

 明治二十三年(1890)東野玉竜の代理として、松岡天龍寺の監寺を依頼された時は、

まだ金剛寺の住職で、二十八歳のときである。間もなく玉竜和尚が天龍寺住職として晋山式

を挙げた頃には、願成寺の住職に栄転した。しかし玉竜和尚が長く天龍寺の住職を続けてい

たので、玉尖もまた願成寺から動けず、大正八年(1919)までの約三十年間も願成寺の

住持に留まる事になる。だが「永平寺年表」によれば、明治四十五年(1912)には願成

寺住職のまま、永平寺本山の副監院に就任している事がわかった。数え年五十歳のときであ

る。(『永平寺史料全書』では大正三年七月―大正十年・注)

 天龍寺住職の東野玉竜は老齢に達した為か、後継者問題でトラブルを起こすまい、との配

慮から明治四十四年(1911)十九世住職には長谷玉尖を内定する手続きを執った。時に

玉竜は数え年七十九歳、玉尖は数え年四十九歳であった。その当時の手続きを示す資料を示

しておこう。

 

   請待状

明治四十四年三月十六日附ヲ以テ左ノ請待状ヲ受ク

  後住職請證

  福井県吉田郡松岡村天竜寺住職

              東野玉

 拙衲儀老衰ニ及候ニ付当寺干与者一同協議ノ上貴和尚ヲ拙衲没後相続者ニ選定致候条依

テ拙衲命ノ際無異議後住職ニ点頭相成度候茲ニ干与者一同連署ヲ以テ存命ノ内ニ請證呈出

候也

                 右 東野 玉竜

 法類総代 南条郡王子保村白崎金剛寺住職 高木 断竜

 末寺総代 吉田郡松岡村宝岸寺住職    黒田 詮虎

   檀徒総代 松岡村窪区        金具 与作

   同       椚区        山岡 染吉

   同       同         名子 新蔵

  明治四十四年三月十六日

   同県丹生郡白山村土山区

    願成寺住職

     長谷玉尖和尚

 

 これに対し長谷玉尖は次のような承諾書を提出している。

   御請書

 今般貴寺干与者御一同御協議ノ上老宗師御遷化跡住職ノ重任ヲ拙僧エ御指命相成候段不

肖ナガラ謹テ御請仕候也

                 福井県丹生郡白山村土山

                    願成寺住職

                          長谷 玉尖

  明治四十四年四月七日

  同県吉田郡松岡村

    天竜寺御住職

     東野玉竜殿

     外干与者御中

 

 おそらく東野玉竜和尚にとっては、自分が十八世の天龍寺住職に就任する際、いろんな紛

争が有ったのを思い起こしたのであろう。早手まわしの後継者指名であった。ついで大正四

年(1915)七月二日付で、長谷玉尖を東野玉竜の養子として入籍した。この日から長谷

玉尖は東野姓を名乗る事になった。しかし依然として願成寺住職を兼ねながら、大本山永平

寺の副監院をしていた。ところが大正八年(1919)東野玉尖は名古屋市東区布池町の奉

安殿護国寺通称名古屋別院・現在は東区代官町41-32)の住職に決定、願成寺住職は法弟

の高木断竜(金剛寺住職)に譲った。

 大正十一年(1922)八月六日、天龍寺十八世東野玉竜は九十歳で遷化した。かねてか

ら後任住職に内定していた東野玉尖は同年十一月二十四日、数え年六十歳で第十九世住職

に任名の辞令を受けた。永平寺本山の副監院は、その後二年ほどして辞任したようである。

     『永平寺史料全書』「大円覚」によれば

      副監院 長谷 玉尖(東野)福井県 天龍寺

          就任 大正3年7月

          退任 大正10年

     と記されるが、誤まりである。(補筆・二谷)

 

 明治四十五年(1912)ごろから十二年余にわたって、永平寺本山の副監院をしていた

時の記録が「永平寺年表」に散見されるので転載することにする。

 明治四十五年(1912)

  7月8日 副監院長谷玉尖、東京出張所へ直渡宝物帳に記載してあるのに本山に見当

たらぬ分、直八号高祖自讃尊影以下十九点について紹介す。(宝物台帳)(注・長谷玉尖が

年表にでて来るのはこの時が最初で、明治四十四年には北海道小樽区新富町龍徳寺の有田

法宗が副監院に新任している。従って長谷玉尖は明治四十四年から翌四十五年七月までの

間に副監院に就任しているはずである。なお「傘松」に載っている死亡記事によると、副監

院の就任以前には、副寺になったように書かれているが、「永平寺年表」にはこの記録が見

当たらない。(『永平寺史料全書』「大円覚」によれば、副寺 長谷 玉尖(東野)福井県 

願成寺 就任 明治38年 退任 明治45年 と記録される。又『明治期以降曹洞宗人物

誌』(四)川口高風によれば、有田法宗は明治43年4月に永平寺副監院に任命され、45

年1月には大慈寺に特選住職した。と記載あり。補筆・二谷2022年)

 大正2年(1913)

  8月4日 志比谷村長・戸枝津右衛門に永平寺代表副監院・長谷玉尖の資格証明書を願

  い出る。(監院寮記録)

 大正3年(1914)

  2月25日 副監院・長谷玉尖、郡道鳴鹿通り志比谷村京善―下志比村東古市間の路面

  破損につき、修繕の工費四分(金三十円・1円を現在(令和)の4千円と計算すると金

12万円・補筆・二谷 2022年)

  を寄附する旨、吉田郡長・杏百太郎に申し出る。(監院寮記録)

  3月19日 東京出張監院・大仏輔教、御山監院・押野冭寿、同副監院・長谷玉尖へ、

前年度より着手している「紀州植林事業」に関して、将来財団法人を組織する考えの

ある事を通知し、併せて紀州植林費金千八百六十九円十銭(1円を現在の4千円と計算

すると720万円・補筆・二谷 2022年)を送金の旨知らす。(監院寮記録)

  8月26日 監院・押野冭寿、副監院・長谷玉尖、顧問上野瓶城連署名にて、東京出張    

  所監院・大仏輔教に名古屋奉安殿創立より庫院落成に至る金五万六千円(1円を現在の4千円と計算すると金22億4千万円・補筆・二谷 2022年)の不足金について伺いを申し出る。(監院寮記録)

  9月20日 副監院・長谷玉尖、松岡郵便局より照会の永平寺年間参拝旅客人数について回答す。春季授戒会約二万五千人、秋季開山忌約三万人、総計十万五千人。(監院寮記録)

大正4年(1915)

 2月4日 森田悟由(六十四世永平寺貫主・2月9日遷化、世寿八十二歳・補筆・二谷)、

発病の電報にて見舞の為、長谷副監院上京、次いで重体の知らせにて押野監院も上京す。

(監院寮記録)

 3月28日 是日より四月一日までの五日間、投票開審の立合に監院代理として長谷副監院上京す。投票総数一万六百七十一票の内、三百三十票無効、有効一万二百六十七票の

 内六千三百票にて福山黙童当選す。(監院寮記録)

 4月5日 出張所監院と御山副監院、妙厳寺に到り、六日貫主拝請式を行う。(監院寮記録)

大正5年(1916)

 3月31日 午前三時急電に接し、六十五世福山黙堂天草金慶寺にて三十日午後十一時遷化(七十六歳)の報に周章狼狽す。同未明東野副監院天草へ出発す。(監院寮記録)

 5月10日 東京出張所監院大仏輔教・後董貫主選挙投票の開緘審査二十三日より一週間、宗務院にて執行につき、立合の為、監院・副監院の上京を通知せしむ。(監院寮記録)

 5月22日 貫主後董選挙投票開緘に着手す。26日審査了畢す。開緘立合の為、東野副監院上京す。有効票一万九十票、内九千五百三十九票の最大多数で可睡斎・日置黙仙当選す。(監院寮記録)

 5月29日 出張所監院大仏輔教・御山副監院東野玉尖、可睡斎貫主拝請式を挙ぐ。(監院寮記録)

 12月20日 特選を以て、天竜寺東野玉竜に宝慶寺兼務を命ず。(監院寮記録)(青園注、宝慶寺住職は大正七年一月二十五日、遠州普済寺大仏輔教が特選により兼務しているので、東野玉竜はそれまでに辞任しているものと思われる)

大正7年(1918)

 10月23日 役寮の俸給について、東京出張所監院大仏輔教より本山監院橘成典・副監院東野玉尖に書翰届く。(監院寮記録)

大正9年(1920)

 3月3日 永平寺代表東野玉尖、金沢郵便局長村田寅之助に電話。事務開始希望につき陳情書を出す。(監院寮記録)

大正10年(1921)

 2月 永平寺代表東野玉尖、二町三反一畝二十三歩の森林開墾願いを村長に出す。(監院寮記録)

大正14年(1925)

 3月 熊沢泰禅、副監院に就任す。(監院寮記録)(青園注、東野玉尖が辞任した為と思われる。この年玉尖は六十三歳であった)

 東野玉尖は右の年表によって推測されるように、明治四十五年頃から大正十四年初め頃

まで、実に十二年余に渡って永平寺本山の副監院という重責を担って来たことは、天龍寺

係者には誇りに思う所である。(『永平寺史料全書』によれば長谷玉尖(当時は東野姓)は明

治38年から45年まで副寺の役職と記載あり、其時は願成寺からの出向となる。二谷補筆)

 

 大正十二年(1923)三月一日の朝、名古屋の護国院(別院)を出発した東野玉尖は、

同日夕刻松岡天龍寺に到着し無事入山式を終え、同年五月五日を卜して晋山式を行った。玉

尖が自ら執筆したと思われる晋山式の記録が残っている。天龍寺史の資料として重要であ

り、十八世仏国玉竜の晋山式記録と比較する上でも興味があり、全文を転載する。

   晋山式

 大正十二年五月五日晋山式修行順序

 正午十二時大鐘ヲ鳴シ新命身支度ヲ調へ径チニ安下所(宝岸寺)ニ到ル、湯茶ノ式アリ、

新命ヨリ安下所へ土産金二円也(価値換算で6千円・注)前日使僧ヲシテ持参セシム、午後

正一時安下所出発行列如左

 先行(知殿堂行)、楽師(八名)、彩幡(四流)、檀徒総代(三名)、監寺、新命(大傘、拄

杖侍者行者、香台侍者徒弟)

 門頭ニ到テ楽ヲ止メ新命法語了テ手磬撃柝大雷鼓上殿仏殿伽藍開山等法語焼香拝了テ

(拠室視篆略之)殿鐘一会本尊上供了テ祝拝了テ新命帰寮更衣祝国上堂型ノ如シ、白槌ハ

大本山専使ヲ煩ハス、以上晋山式了

 是ヨリ先キ組寺法類等披露ヲ為シ案内状ヲ発ス

霊山院・渡辺寛宗老師(福井県吉田郡永平寺町荒谷38-22)、地蔵院(吉田郡永平寺町

比5-15)、多福庵(吉田郡永平寺町花谷15-5)、吉峰寺・高山大鳳老師(吉田郡永平寺

町吉峰35-13-1)、宝岸寺・黒田玲虎老師(吉田郡永平寺町松岡春日3-15)、白龍寺・

杉本隆禅老師(春日一)已上組寺、但シ如意庵ハ無住ナルカ故ニ之ヲ省ク)、盛景寺・朝倉

雪立老師(越前市春日野町18-5)、西応寺・榎玉振老師、少林寺越前市中津原町67-

1)、禅興寺(丹生郡越前町織田122-26)、洞泉庵(敦賀市五幡38-12)、寛天寺(南

条郡南越前町鯖波18-2)、永春寺(福井市つくも2-17-1)、願成寺・高木断竜老師(越

前市土山町5-3)、金剛寺越前市白崎町19-8)、安穏寺・栗山文叡?(福井市つくも2-18-16)、宗福寺・大柳磊堂老師(小浜市上根来7-11)已上法類、鎭徳寺(福井市日之出1-14-12)、泰清院(福井市西木田4-2-11)、高林寺(越前市西樫尾町26-29)已上道旧、其他遠方ハ之ヲ略ス、(一部の老師名は『永平寺史料全書』「随喜寺院名簿」より作成 2022年 二谷・補筆)

 

 村内及檀中等案内如左

村長1江守忠左エ門、助役2竹内与三エ門、議員3結城市三郎、同4平林茂、同5岩井清作、同6米谷助太郎、同7石田常吉、同8中村岩吉、同9清水仁松、同10豊島舟三、同11江守初五郎、同12江守与右ヱ門、同13田中十次郎、窪区長14西沢与作、椚区長15勝見嘉平次、毘沙門区長16室弥吉、台町区長17石田常吉、本町区長18吉川千百里、極印区長19鈴木清吉、室区長20江守与右ヱ門、観音区長21川端清三郎、松原区長22松村卯助、警察署長23畑初吉、登記署長24岡崎寛一、校長25谷原四郎平、電車駅長26志多野長三郎、郵便局長27松井五兵衛、有志28水野義太郎、有志29佐藤秀次、有志30増山重吉、有志31伊藤弥十郎、有志32白崎寛孝、有志33田辺半造、有志34竹部小重郎、有志35坪川庄蔵、有志36清水久太郎、近所37伊勢憲肆、近所38木村仙吉、近所39西藤梅吉、近所40西藤清五郎、近所41義野大市、近所42永平栄次郎、近所43山本重吉、近所44島田千代松、近所45白崎新右ヱ門、有志46中条進、有志47林次郎、地子48八百さつ、地子49東とせ、地子50林ふみ、地子51青園豊三郎、吉祥講員52荒木直太朗、吉祥講員53小林三作、吉祥講員54山川吉太郎、吉祥講員55山田弥三郎(已上ハ披露風呂敷ト折詰ニ瓶酒)外ニ56稲葉吉兵衛

檀中57大久保真十郎、檀中58山岡俊次、檀中59名子深吉、檀中60山田弥市郎、檀中61金具武、檀中62山岡兼治、檀中63山岡いわ、檀中64山岡確、檀中65山岡与次郎、檀中66大久保はる、檀中67田中多善、檀中68山岡みわ、檀中69田中佐太郎、福井檀中70渋谷篤三郎、福井檀中71蓮川嘉代、福井檀中72浅田たま子(已上ハ出膳)

 親戚73松村安次郎、親戚74小西宇兵衛、親戚75長谷増太郎、親戚76田中権治、親戚77関常二、親戚78大井八十二、親戚79松村安兵衛

 庵住80平野恵山、庵住81中村恵覚、庵住82照石祖明、庵住83福田智禅、庵住84同弟子、竜洞庵85、宝林庵86、柏樹庵87、玉竜寺88等ナリ

 

 献立(寺院檀中親戚)

平(飛竜頭、蓮根、筍子、椎茸干瓢)

皿(うど、蓮根、青ゆば、酢合)

猪口(百合根、ごま合)

汁(糸椎茸、とうふ)

盛合(折詰、巻すし、なし、くるみ、寒てん、高野とうふ)

茶碗(白胡麻豆腐、敷味噌)

吸物(水善寺、じゅんさい

小皿(独活(うど)粕合)

小皿(蕨したし)

台引(揚昆布、奈良漬)

引菓子(押菓子箱入)

 尤モ祝茶、赤飯ノ落着ハ例ノ如シ、以上四十五人

 村有志一般ハ出膳セズ、折詰ニ瓶酒ヲ供ス、約六十名

菓子折一ツ、赤飯一折、盛合折詰(寺院用ノ盛合ト平ト猪口トヲ盛ル)

瓶酒(二合入機械瓶、盃付)

来客祝賀

 金二百八円五十銭ト清酒券一斗

出費総額

 金三百八十五円也 (現在の価値では、1円を2500円に換算すると、96万2500円となる)

   以上

大正十二年五月三十日記焉

        清涼山十九世   玉尖布納 印

 

 東野玉尖はかくして天龍寺第十九世として晋山した。かれの在職時代に、天龍寺の境内に

私立松岡幼稚園が建設された。隠居所も取り壊され、その跡地に幼稚園が作られた。現在の

松岡公園の登り口を含めて東にあったように、私(青園氏)の記憶に残っているが、いつ幼

稚園が創設されたか記録がない。二十世の覚道文叡の時代に松岡幼稚園は町営に移管され

たが、この点は二十世覚道文叡の項に譲る。

 玉尖和尚は天龍寺住職になってから十二年後の昭和十年(1935)十月二十七日、七十

三歳で亡くなった。永平寺本山発行の機関紙「傘松」(九十九号)には次のような死亡記事

が掲載されている。

  東野玉尖師

 曽ては祖山の副寺として又副監院として或は宗会議員として宗門に重きをなしておられ

たる福井県吉田郡松岡町天竜寺住職東野玉尖師は、昨年来四大不調のため臥床中でありま

したが、病勢俄かに改まり去る十月二十七日、世寿七十三歳を以て化を他界に遷されました。

なほ本葬は十一月一日に午後一時より不老閣御代理小原本山副監院老師秉炬の下に取り行

われました。会葬の道俗境内を埋め、多数の弔電弔意あり、特に手に数珠をかけた幼稚園

園児の会葬姿は人目を引き、そぞろに故人の生前が偲ばれました。

 天龍寺過去帳には「昭和十年(1935)十月二十七日示寂、師ハ願成寺ヨリ転住、当山住職中永平寺ニアリ、後副監院トナリ名古屋護国院ノ住職ヲモ勤ム。資質極メテ温厚、為法不為身、誠実勤勉、詩歌ヲ楽シミトセラル。資、文叡、磊堂、靠山、金玦、璞淳」と簡単に記載されているだけで、何歳で亡くなったかも書かれていないし、誤りも多い。筆跡から推定して二十一世得水靠山和尚の筆跡であることは間違いない。どうして二十世の覚道文叡が書かなかったのだろう。いろんな疑問が残るが、二十世のところで若干触れることにしよう。

東野(長谷)玉尖についてインターネットで調べていた所、偶然にも愛知学院大学の紀要に掲載される文章を見つけ、pdfからwordに変換し、重複する箇所はあるものの、ここに引載する次第である。(二谷・2022年・補筆)

大正期の奉安殿護国院  (川口  高風)より抜粋

 

十一世  東野玉尖

  上野瓶城が住職任期満期につき明光寺へ転住した後、願成寺(越前市土山町)住職であった東野玉尖が十一世に就いた。その「住職継目願」には、

住職継目願

     

   護国院住職上野瓶城大正八年二月廿一日、福岡県筑紫郡堅粕町明光寺ヘ転住仕候ニ付、後住ハ福井県丹生郡白山村四等法地願成寺住職東野玉尖ヘ相続スヘキ旨宗法ニ準シ干与者ノ賛同ヲ得テ選挙仕候條、御調査ノ上支吾無之候ハヽ御任命被成下度、乃チ本人履歴書相添此段連署ヲ以テ相願候也

     大本山永平寺御直末

      愛知県名古屋市東区布池町常恒会護国院

右寺法類総代

      愛知県名古屋市東区宝町禅芳寺住職

     

             門  内  大  英㊞  

   大正八年  月  日

      信徒総代

       仝県仝市西区和泉町二丁目七番地

             吹原  九郎三郎㊞  

       仝県仝市中区鉄砲町三丁目四十九番地

             森  本  善  七㊞  

       仝県仝市仝区三丁目十三番地

             大  沢  常太郎㊞  

       仝県仝市仝区古渡町百九十九番戸

                              津  田  蔵太郎㊞  

庶務部長岩山真定殿

  

とあり、正式には大正八年三月七日付である。(「宗報」第五三八号)当時の東野は永平寺副監院でもあり、永平寺に常在していた。三月三日には、永平寺に通信機関として電話が必要であることを金沢郵便局長村田寅之助へ「電話事務開始希望ニ付陳情書」(永平寺蔵)として提出しており、十二月には護国院で細川靠山(後に天龍寺二十一世)に伝法した((1))。また、九月十五日には東向寺(天草市本町)認可僧堂の準師家であった佐藤良運の護国院僧堂への勤務変更を申請している。(護国院蔵)監寺であった門内大英は、明治七年五月十八日より禅芳寺六世に就いていたが、本年九月十日に退隠して法嗣の大岩仙英へ譲った。そのため門内は、住職の東野が不在であっても護国院に常在し実質的運営を行っていたのである。

翌九年十一月には、東野が永平寺代表出願者として信徒総代波

 多野三吾らとともに福井県知事湯地幸平へ、従来の舎利殿を拡大して大祠堂殿建築工事の一部金に福井県よりの補助金の「県費補助願」を申請している。(永平寺蔵)また、翌十年二月にも、永平寺代表者として開墾制限地であった永平寺所有地の福井県吉田郡志比谷志比五五西山二二ノ二の山林を開墾する「森林開墾願」を出している。(永平寺蔵)六月二日には、北野元峰禅師が護国院へ来錫された。北野は前年の十月十八日に永平寺へ晋山されており、愛知吉祥講の法要が名古屋での最初の御親修であった。御親修後の翌三日、千種にある曹洞宗第三中学林での講演に行く途中、学校から四、五丁を距てた鉄路を横断しようとした時、人力車夫の過失から禅師を乗せた車が転覆した。そのため禅師の右肩の骨が折れてしまったのである。直ちに担架に乗せて護国院へ帰られ、門内監寺の機敏なる処置により、愛知病院長の内科の診察を受けられた。しかし、八十歳の高齢にも拘らず、余病は併発しておらず、入院の必要もなく外科医の小島先生による接骨治療のみでよかった。七月十三日まで約四十日間、護国院の不老閣に滞在せられ、同日に全快振舞されて、十五日朝、永平寺東京出張所へ帰られた((2))。その間、門内や信徒総代らの看護及び見舞などを受けており、護国院との深い法縁は、この事故によって結ばれたのであった。

その後、十月十八日から二十四日までの授戒会に御親化され、

 戒弟も一千名余りの大盛況であった。九月十九日に東野が自照寺(小牧市多気東町)住職(山内大慧)へ授戒会の随喜を願った書簡には、

 謹啓  時下秋冷之候に候処、尊堂老宗師益々御清逸に候条何卒不斜奉慶賀候、陳は當山開祖珍牛禅師本年百回忌正當に付、特に不老閣貫首猊下ヲ拝請シ、来ル十月十八日ヨリ同廿四日迄尸羅会ヲ啓建致シ報恩供養相営度候間、萬障御繰合御随喜之程奉懇請候、尚時節柄御展待モ行届不申、且謝儀等モ拝呈致兼候得共、御報恩之思召ヲ以テ御来臨被下候得ハ本懐之至に御座候、先ハ御案内迄得貴意候      匆々敬具

     追而戒会中御随喜被下候得ハ、何カ配役モ御願申度、且時宜ニ依リ一度御焼香ヲモ相願度候間、予シメ御含之上御来山之有無共御一投相煩度候也

大九月十九日 正 十 年護国玉尖九拝

  

   自照尊堂老宗師

とあり、護国院開山瑞岡珍牛の正当百回忌でもあったことがわかる。

  翌十一年八月六日には、東野の本師である東野玉龍天龍寺十 230

八世)が九十歳で示寂した((3))。そのため十一月二十四日付で天龍寺十九世に就くことになった。(「宗報」第六二八号)しかし、護国院の後董はすぐに決まらず、曹洞宗大学林教授や曹洞宗第二中学林長などを歴任して北野禅師の随行長も務めた洞雲寺(大野市清滝)二十八世の大洞良雲が就くことになった。大正十二年一月二十二日に法類総代の禅芳寺住職大岩仙英と信徒総代から出された「兼務住職任命願」(護国院蔵)をみると、

兼務住職任命願

護国院住職東野玉尖儀福井県吉田郡松岡村天龍寺ノ請ヲ受ケ転住ノ処、後任住職ハ已ムヲ得サル事情ニ依リ至急選定致シ難キニ付、福井県大野郡大野町洞雲寺住職大洞良雲ヲ以テ御許可ノ日ヨリ満二ヶ年間兼務住職タラシムヘキ旨宗法ニ準シ干与者ノ賛同ヲ得テ選挙仕候條、御調査ノ上支吾無之候ハヽ御任命被成下度、此段連署ヲ以テ相願候也

     大本山永平寺直末

      名古屋市東区布池町常恒会二十級護国院

       右寺法類総代

      名古屋市東区宝町禅芳寺住職大 岩 仙 英㊞

                    

    大正十二年一月廿二日

      仝市西区和泉町二丁目七番地

       信徒総代     吹原  九郎三郎㊞ 仝市中区鉄砲町三丁目四十九番地

     

仝       森  本  善  七㊞

       

      仝市中区祢宜町五丁目三十四番地

        仝       堀内  茂右衛門㊞ 仝市中区鉄砲町三丁目十三番地

     

        仝       大沢  重右衛門㊞ 仝市中区末広町一丁目二十二番地

     

        仝       村  上  庄  造㊞

    庶務部長祥雲晩成殿

とあり、「已ムヲ得サル事情ニ依リ至急選定致シ難キニ付」とある。この文は「兼務住職任命願」の定型文かもしれないが、大洞は一月二十五日に永平寺副監院となった((4))。護国院住職の先例は永平寺副監院か監院であるところから、大洞も急遽副監院になったのであろうか。それとも副監院に内定していたところから二月一日付で兼務住職に就いたのであろうか詳細は明らかでない。

  三月一日には、東野が「宗報」第六二九号(大正十二年三月一日発行)に

   謹告  名古屋市護国院住職を拝命し居し、迂衲儀今般都合により師跡を襲ふことゝ相成、本日を以て左記へ転住仕候、茲に謹んで従来の御厚誼を感謝し併て将来の御道愛を希上候

 敬具

         福井県吉田郡松岡村天龍寺住職

大正十二年三月一日            東  野  玉  尖

              

と師跡を襲うことから天龍寺へ転住することを広告した。当日  朝、護国院を出発した東野は夕刻に天龍寺へ着き、入仏式を終え、五月五日には晋山式を行った((5))。天龍寺在職中には、境内に私立松岡幼稚園を建設しており、昭和十年十月二十七日に七十三歳で示寂した。「傘松」第九十九号(昭和十年十二月一日発行)に

東野玉尖師

曾ては祖山の副寺として又副監院として或は宗会議員として

宗門に重きをなしてをられたる福井県吉田郡松岡町天龍寺住職東野玉尖師は、昨年来四大御不調のため臥床中でありましたが、病勢俄かに改まり、去る十月廿七日世寿七十三歳を以て化を他界に遷されました。なほ、本葬は十一月一日午後一時より不老閣御代理小原本山副監院老師秉炬の下に取り行はれました。会葬の道俗境内を埋め多数の弔電弔辞あり、特に手に手に数珠をかけた幼稚園々児の会葬姿は人目を引きそぞろに故人の生前が偲ばれました。

と死亡記事が紹介されている。天龍寺過去帳や東野金瑛「一枚の黒衣」(昭和五十四年六月「傘松」第四二九号)によれば、「資質極メテ温厚、為法不為身、誠実勤勉、詩歌ヲ楽シミトセラル」とか六十四世森田悟由禅師から六十七世北野元峰禅師頃まで一生を本山勤めで終え、「法式の神さま」といわれる程、進退や鳴らし物などで一つも間違いなくできる方であったといい伝えられている。

天龍寺福井県吉田郡永平寺町松岡春日)二十一世の細川靠山に伝法したことは、青園謙三郎『天龍寺芭蕉』(昭和五十五年四月  天龍寺)一七五頁の「二十一世得水靠山」の伝記にいう。

北野元峰禅師の事故やその経過などについては、細川道契「故禅師と奉安殿」(昭和八年十二月 「護国」第三号)や細川道契『永平元峰禅師伝歴』(昭和九年四月  永平寺出張所)一五〇、一五一頁に詳しく述べられている。

③青園謙三郎、前掲書一五八頁の「十八世仏国玉竜」による。

④徳巌寺住職の大村良秀「大洞良雲老師」(私家版)の経歴による。

⑤青園謙三郎、前掲書一六五、一六六頁の「十九世大渓玉尖」による。なお、天龍寺晋山式記録なども同書一六六〜一六九頁に紹介されている。

 

   二十世 覚道文叡

 覚道文叡については記録がほとんど残っていない。天龍寺過去帳にも何も記載されていない。そこで天龍寺に伝わる僅かの文書類から断片的な資料を拾い合わせ、繋ぎ合わせて可能な限りの履歴を綴っておく。

 覚道文叡は明治八年(1875)十月五日、栗山家に生まれた。幼名はもちろん両親の氏名、出生地も現在のところ不明。昭和二十一年(1946)二月十五日、福井市の安穏寺(福井市つくも2-18-16)で遷化したという事だから、数え年七十二歳であった。

 最初に出て来る資料には「明治二十五年(1892)五月十八日付」で「願成寺住職長谷玉尖徒弟」と書いてあるから、数え年十八歳のとき、すでに出家していたと推測される。長谷玉尖(天龍寺十九世)は明治二十三年(1890)ころ南条郡白崎村(現在の南越前町)の金剛寺住職から丹生郡白山村(現在の越前市の北西端)の願成寺住職に栄進しているので、文叡が出家したのは金剛寺か願成寺のいずれかに違いない。とにかく長谷玉尖について得度し、覚道文叡という号と法名をもらった。『永平寺史料全書』によれば明治30年春の安居名簿には、「栗山文叡 福井県越前国丹生郡白山村 願成寺徒弟」と記載あり。2022年 二谷 記)

 明治三十五年(1902)五月二十日の資料にも「願成寺住職長谷玉尖徒弟」と書いてあるので、二十八歳ころまでは願成寺に居たことがわかる。ところが明治三十七年(1904)四月二十日付の資料には「遠敷郡遠敷村宗福寺住職栗山文叡」と誌されているのを見ると、数え年三十歳の時には宗福寺(福井県小浜市上根来7-11)の住職になっていたことがわかる。住職になったのは明治三十五年六月から三十七年の四月ころまでの間と推定される。

 その後、明治四十一年(1908)には宗福寺を法弟の大柳磊堂に譲り、遠敷郡旧松永村の隣向院(小浜市東市場45-5)住職になっている。文叡はすでに三十四歳になっていた。その後は隣向院に永く居たのか、他の寺へ移ったのか不詳ながら、大正五年(1916)七月二十二日、彼は福井市若松町(現在つくも2丁目)の安穏寺住職に栄転した。数え年四十二歳であった。

 天龍寺十九世東野玉尖が昭和十年(1935)十月二十七日、数え年七十三歳で亡くなったので、二十世住職として栗山文叡が就任したが、正式な晋山の記録が全く残っていないので、いつ天龍寺へ来たのかも判然としない。とにかく昭和十年は文叡が六十一歳のときである。昭和十六年(1941)八月、天龍寺住職を法弟の細川靠山に譲って引退した後、安穏寺に身を寄せていたが、昭和二十一年(1946)二月十五日、数え年七十二歳で示寂した。(『永平寺史料全書』によれば、昭和15年度御征忌の焼香師を9月27日午前に「福井県 安穏寺 栗山文叡」として記録される・二谷記)

 文叡和尚は生来健康が勝れなかった為か、天龍寺住職としての在任中の五・六年間はほとんど天龍寺にはおらず、安穏寺に居ることの方が多かった。この為に檀家からも不満の声が少なくなかった。在任中の最も大きな問題の一つは、境内に建っていた私立松岡幼稚園を町営に移管した事であった。

 天龍寺境内の東側に、十九世東野玉尖の時代に私立松岡幼稚園が創立された。ところが松岡町では昭和十二年度から、これを町営に移管したいと天龍寺へ申し出た。天龍寺ではこれを協議の結果、建物什器一切を含め金千円で松岡町へ売り渡すことになった。(当時の1円を今の2500円に貨幣換算すれば250万円と算出・2022年現在)。当時の記録の一部分が残っている。

 謹啓時下愈々春暖相催候処、各位益々御清祥之段奉大賀候

陳者今般四月一日より町営幼稚園設置せらるるに就いて、町当局より私立松岡幼稚園移管の件に関し、交渉有之候間緊急評議員会開催の上、至急当方の態度決定仕り度と存じ居り候、然れども拙僧昨今健康晴れず医師の注意に有之、外出等差控へ居る実状に御座候間、甚だ不本意ながら同会議に出席致し兼ね候、就ては拙僧としての意志を別紙に表明致し置き候間、何卒御一覧の上、各位に於いて可然御評議の上、当園としての態度御決定相煩度、此段特に使を以て申上候

         私立松岡幼稚園長

            天竜寺住職

                  栗山 文叡 印

 三月七日

私立松岡幼稚園

 評議員各位

      御中

 希望条件

  • 幼稚園町営移管ノ節ハ前園長東野玉尖生存中、幼稚園移管問題ニ関シ内約認メアル筈ニ付、拙僧トシテハ総テ師匠ノ遺志ヲ尊重シ実行致シ度シ

二、当寺ハ小檀微禄ニ付キ敷地等ハタトへ公共事業ト雖モ無償ニテ提供スル事ヲ得ズ

三、目下県社会課の主唱ノ下ニ郡内各宗寺院聯合ニテ社会事業計画中ニテ何レノ土地ニ於テ如何ナル事業ヲ起スカハ不明ニ付キ現今ノ敷地内ニ於テ新ニ社会事業ヲ計画スル事ハ目下処認メ難シ

四、余ハ総テ円満ニ解決セラレン事ヲ望ム

             私立松岡幼稚園長

               天竜寺住職

                    栗山文叡 印

  昭和十二年三月七日

 いろいろ折衝の末、三月三十一日付で松岡幼稚園の建物および什器一切を千円で松岡町に売却している。土地だけは売らなかったので、現在も松岡小学校の敷地の一部が天龍寺の所有になり毎年、地代が町から天龍寺へ支払われている。しかし、当時の建物等の代金の千円がどのように使われたかは不明である。

 金銭上の問題について云えば、青園家と天龍寺二十世栗山文叡和尚との間に、別件で次のような交渉があったと、我が家の記録にある。

 昭和十三年(1938)十月二日は青園鉄英の十七回忌であった。鉄英の子・青園豊三郎は父の十七回忌に際し、金千円を天龍寺の栗山文叡和尚に委託した。天龍寺は檀家が少ない為、歴代住職が寺の経営に苦労していることを知っていたので、この金で可能な限りの田畑を買って欲しいという条件であった。そうすれば住職の食糧は、最小限度は賄えるとの計算から、必ずこの金で田畑を買ってもらう約束をしたという。わが家では子供たちが集められ「これで子供たちの分まで天龍寺への布施は済んだのだから」と豊三郎は言明している。当時の千円は、個人の寄進としては相当な高額であった。ところがその後、天龍寺ではその金で田畑を買った形跡はない。もし青園豊三郎の申し出条件通り実行されていれば、現在でも若干の寺領が確保されていたはずである。青園豊三郎は昭和十八年(1943)十二月十九日、数え年五十九歳で死んだが、生前は天竜寺住職の約束不履行を時々批判していた。

 

   二十一世 得水靠山

 二十一世得水靠山は明治二十八年(1895)九月三十日、南条郡神山村(現在の越前市中心部の南から南西に接する区域にあたる)松森の細川家の二男に生まれた。同四十一年(1908)十月、数え年十四歳の時、丹生郡白山村土山(現在の越前市の北西端にあたる)の願成寺で長谷玉尖について得度した。

 大正五年(1916)夏、遠敷郡遠敷村(現在の小浜市の南東部)の宗福寺(福井県小浜市上根来7-11)で立身している。このとき二十二歳。時の宗福寺住職は大柳磊堂であった。同八年(1919)十二月には愛知県の護国院(名古屋別院)で長谷玉尖から伝法し、同十五年(1926)には、東洋大学印度哲学科を卒業している。数え年三十二歳、いささか晩学である。(『曹洞宗史料全書』によれば、大正三年秋・大正五年秋の隔年にわたり安居者名簿には「細川靠山 福井県丹生郡白山村 願成寺徒弟」として記載あり。2022年二谷記)。また細川 靠山(大正15年大印哲)昭和28年6月~41年には母校の東洋大学にて歴代支部長を務めたようである。(東洋大学校友会ホームページより)

 靠山はその年(大正十五年)九月、曹洞宗のハワイ開教師を志願してハワイに渡ることになった。ハワイではコナ島の大福寺(79-7241 Mamalahoa Hwy Kealakekua HI 96750)細川靠山(第4世、東京府,在任 1926-1928)、オアフ島の竜仙寺(162 California Avenue Wahiawa HI 96786 U.S.A.)細川靠山(第6世)主任開教師などを歴任、日米の外交関係が次第に険悪化してきた昭和十五年(1940)二月、数え年四十六歳で帰国した。ハワイに渡航するとき結婚したので、十四年間の海外開教師の任務を終えて帰国した時は、妻と四人の子供の合計六人家族であった。

 帰国後、曹洞宗宗務院報国会幹事を任命され、翌昭和十六年(1941)三月には一等教師に昇進した。そのころ天龍寺二十世覚道文叡は健康も勝れない上、檀家からも評判が悪く引退したので、後任の二十一世住職に細川靠山が要請され、昭和十六年八月に晋山した。数え年四十七歳であった。檀家総代からの次のような内容の請待状が残っている。

   請待状

  • 今般天竜寺住職栗山文叡殿移転ニ相成候ニ付、後任ノ義ハ貴師ヲ請待師仕度候、依テ速ニ御点頭被成下度、此段連署ヲ以テ奉願上候也

              昭和十六年七月十五日

               右天竜寺檀家総代

                     山岡 俊次 印

                     名子 深吉 印

                     山岡  確 印

     細川靠山殿

 十八世東野玉竜から始まった願成寺系の住職は十九世東野玉尖、二十世覚道文叡、二十一世得水靠山と四代続いて天龍寺を相続することになったのである。

 靠山和尚は戦争中から戦後にかけて、三十二年間の長い間、天龍寺住職として苦労してきた。檀家が少ない為、一年のうち大半を北海道の布教師おして活躍し、檀家には少しも経済的な負担をかけなかった。しかし晩年は数年間、病臥したままで昭和四十八年(1973)十一月十二日、数え年七十九歳で遷化した。

   遺偈

 夢中説夢 七十七年

 即今転身 乗般若船

      得水靠山大和尚

 私は戦後、細川靠山和尚と交遊があったので、その業績と人となりについて、聊か書き残して置きたい。戦後、荒廃の中で文化運動が各地に興ったとき、松岡町にも「陽ざし文化会」という名称の会合が結成され、町内青年男女の間で文化活動が繰り広げられた。靠山和尚はいつも朗らかで、少しも嫌な顔をせず、青年たちの善き相談相手になっていたのを、いまでも懐かしく思い出す。

 天龍寺の本堂は明治十一年に解体され、庫裡が本堂になったままで、住職の居住所さえもままならぬ有り様であった。その庫裡兼本堂も三百年の歳月を経て、いずれ改築しなければならなくなっていた。その上、開山斧山宝鈯和尚が開基となった白竜寺と宝岸寺のうち、白竜寺にいたっては檀家は東京に一軒あるだけで本堂は荒れ放題であった。靠山和尚は昭和二十四年(1949)十二月、白竜寺の住職を兼務することになったので、白竜寺の本堂を天龍寺境内へ移築すると共に、白竜寺を合併しようと決心した。(『永平寺史料全書』によれば昭和二十四年度随喜寺院の名簿には孤雲閣詰 天龍寺・細川靠山、不老閣 願成寺・山中孝淳、舎利殿 白龍寺・杉本隆禅の寺院名の記載される事実を考えるに、昭和24年まで白竜寺には隆禅和尚が居たが、退任か没したかで年末に住職を兼務することになったのであろうか。二谷 補筆)

 たまたま白竜寺(松岡町本二十四号二十三番地ノ一)の場所へ、松岡町が保育園を建設したいと考えているのを知って、町当局と交渉、白竜寺の本堂を天龍寺境内へ移築する費用一切を松岡町が負担するとの条件で、昭和二十八年(1953)白竜寺の合併と移転を実現した。先代住職の笹川浩仙和尚が坐禅堂に改装した建物は、元白竜寺の本堂である。

 天龍寺の新しい本堂は、昭和四十八年(1973)、天龍寺境内の一部を松岡町の福祉会館建設用地として提供する代わりに、鉄筋コンクリートの建物を町によって新築してもらったものである。この本堂の場所には、それまで創建以来の庫裡が建っていたが、現在では全く往時の面影がない。

 

   二十二世 雲外浩仙

 雲外浩仙は昭和十五年(1940)五月二日、千葉県山武市成東町柴原七十七で笹川庄司、や栄夫婦の子に生まれる。千葉県成東小学校へ昭和二十二年(1947)に入学したが、家庭の事情で昭和二十五年(1950)福岡県若松市立深町小学校へ転校、同二十八年(1953)同校を卒業して福岡県若松市立第二中学校へ入学、昭和三十一年(1956)同中学校を卒業、福岡県立若松高等学校へ入学、同三十四年(1959)同高校を卒業した。

 昭和三十五年(1960)四月八日、福岡県第六十七番建昌寺(北九州市若松区深町2-10-3)住職永野高峰師について得度、法名を浩仙、号を雲外と命名された。翌三十六年(1961)駒沢大学仏教学部禅学科に入学、同四十一年(1966)三月、同大学を卒業後、大本山永平寺に安居、昭和四十五年(1970)六月一日、東京都第三百六十五番慶福寺(西多摩郡日の出町大久野4318)酒井得元老師に僧籍を転師した。

 昭和五十四年(1979)十二月九日、第二十二世天龍寺住職として晋山。

   天龍寺二十二世を拝命して 

 次に笹川浩仙和尚の「天龍寺二十二世を拝命して」の一文を「枯木」第一号より転載する。

 文字通り「貧者にして不徳菲才」の私如き者が、今こうして福井県松岡町の清涼山・天龍寺の二十二世を拝命したことは、真に慚汗の極みであります。何の因果であるのか計り知る由もありませんが、ともかく、先に現永平寺大禅師猊下、他多勢の方々のご援助により僧堂開単成り、このたびまた、本山監院・大島恭龍老師の白槌によって、金槌一撃、獅吼証明せられたことは、不動なる恩顧の渥として、消し難い事実となった訳であります。

 ここに身の重大、且つ深淵なる責任と任務を自覚する者であります。

 さて、思いおこせば、福岡県若松建昌寺三世諦信高峰大和尚のもとで、仏法の種業を受けさせていただいたのが、昭和三十四年四月八日、誕辰十九才の年でありました。

 更に本師、東京都慶福二十九世、慧秀得元大和尚に初めて相見したのは、駒沢大学の竹友舎で、成道会の導師をされておられる雄姿を高く仰ぎ拝した時でした。のち、その室に入って嗣法し今に到るまでの求法の道程が、如何なるものであったか、まさに文筆言舌の境を超えた行道であったことを、一人、感慨に耽るものであります。特に本師のもとで「聞いて、聞いて、聞きまくれ」と聞法に徹し、仏教の骨格、道理を学ばせていただき、『未だ夢にだに思いもつかぬ正法』道元禅師の教えに、より親しませていただく源泉を汲むことができたことが、何よりの法幸と感謝せずにはおられません。

 それにまた、幸せにも、故郷の建昌寺に毎朝欠かすことなく坐禅に通ったことから、仏門に入るご縁をいただき、以後、坐禅をすることの一本槍で、ガムシャラに突き進んできたことがかえって、道元禅師の坐禅につながったように思います。

 そして更に、法を重く生きねばならなくなっていった行程には、深重罪業の故に、旅に放浪し、傘と草鞋で雲遊薄寄したこと。その折、沢木興道老師法服会格正会からの『如法衣』との結びつきが、決定的な正法への方向づけとなり、導きとなったように思えるのです。ところで今、現在、こうして祖山永平寺承陽殿、御真廟で、吾が道元禅師様の膝下に、巾瓶をもって奉侍することの勝縁をいただき、その上、天龍寺枯木堂に衆と共に坐禅するという、この上なき法幸を得て、痛恨、身に迫る念いが一つあります。

 それは『末法を正法に回し五力八解、群生を無生に導きーー』と毎朝耳にし、口にもする言句一節であります。

 本当にかくの如くあり得るのか否かーーー。

 仏教の理想と苦に満ちた現実との両辺の間に独坐して、即今、何をなすべきかと自問自答する時、その湧きおこり思い、道念、躍動してやまない高鳴りは何なのであろうか。それはすなわち『只管打坐』ひたすらにうちすわる道元禅師の仏法の底力、脈々たる正法のいぶき、永平古叢林の法灯、行持道環そのものの活動にあると思い到るのであります。

 今、私如き者をして古刹天龍寺を拝命せられたことが、枯木裡に打成一片、打坐に精魂を弄することによって永平の法灯護持と長久の弥栄あるものとなればと、伏して冀うものであります。

  開池付待月  成池自来月

                                     合掌

 

 

この文章は青園謙三郎氏著作の『天龍寺芭蕉』後半部に収載された文章を、『清涼山 天龍寺略史』としてワードに打ち直したものである。最後は二十二世笹川浩仙和尚章で擱筆としたが、現在は二十三世 大路博法老師が就山され、数年前には晋山も済まされたと聞き及ぶ。明治以降の歴住に関してはインターネットや『永平寺史料全書』等を利用し、大幅に修正・補筆を加えた。最後に松岡に関する資料・願成寺資料は『福井県史』より引載し、明治期から昭和に至る永平寺と関係寺院の資料は『永平寺史料全書』から作成したものである。(2022年 タイ国バンコク近郊にて記す・二谷正信)

 

     幕府と福井藩

      松岡藩と吉江藩

 昌勝は光通と同年で二か月早く生まれたが、妾腹のため嗣子となることができなかった。松岡の地は、初め芝原江上村(「正保郷帳」など)また芝原郷上村(「領知目録」など)といわれていたが、慶安元年十一月三日「松岡御館出来」(大連彦兵衛家文書 資4)と、この地に昌勝の居館が竣工して松岡と改めたらしい。慶安四年には光通や昌親とともに日光家光廟の普請を手伝っている。承応三年初めて入部し、以後この地から参勤するのを例とした。嫡子の綱昌は昌親の養子となっていたので、元禄六年三男の昌平(後の宗昌)が跡を継ぎ、享保六年(一七二一)本藩を継ぐまで存続した。なお、松岡藩が正式に福井藩から離されるのは、福井藩の半知の時とみられ、昌平は正徳二年初めて独自に領知朱印状を賜っている

 昌親が分知されたのは六歳の時であった。慶安元年在所を丹生郡立待郷吉江に願って許され、明暦元年初入部し、以後参勤交代にはこの地と江戸を往復した。万治元年には江戸鳥越に屋敷を拝領したほか、寛文二年に石田西光寺に禁制を発し、同十年には浅草御蔵火消番を蒙っている。吉江藩は、延宝二年昌親の本家相続によって廃された。

 ここで両藩への知行分けについて述べておこう。先に触れたように寛文四年に至っても、両藩の所領は正式には本藩に含められていた。しかし昌勝と昌親が成長するとともに、実際に村付けすることが必要となった。芝原と吉江の地を本拠にすることがまず決められたようで、慶安元年そのことについて幕府の許可を得て、翌二年知行分けが行われている。昌勝の場合、福井藩と松岡藩の家老と奉行人が相談のうえ、寛永十九年から慶安元年までの七年間の村ごとの「平均免」を勘案し、新田高と引高を差し引いて合計五万〇二〇〇石の村が決定したのである。この時の平均免は三割六分一厘四毛七糸、取米は一万八一四六石二斗三升四合とある(「松岡御領御知行分之帳」松平文庫)。昌親にも同じ方法で知行分けが行われたとみてよいが、その帳面は残っていない。今もなお吉江藩の所領を正確には知ることができないのは、そのような事情によっている。

 七万五〇〇〇石分を割くわけだから、給人衆の知行地も割替えを余儀なくされた。慶安二年八月「中書様(松平昌勝)・辰之助様(松平昌親)御両人様へ渡し申す御知行替知」のことが実施され、各給人へ算用所から「替知目録」が与えられている(奈良定一家文書 資3、松平千秋家文書など)。したがって、「正保郷帳」に両藩の所領が光通に含めて記されているのは、いまだ村付が決定していなかったからにほかならない。

 両藩ともに家臣は光通の者が割いて付けられた。「越州御代規録」(松平文庫)によると、知行取だけで昌勝に磯野石見など四七人、昌親には高屋善右衛門など二〇人が付属させられたという。そのため藩の職制や農民支配の仕組など、ほとんど福井藩と変わることはなかった。しかし、先述のように普請役を勤めているほか、敦賀着米の所書に松岡藩と吉江藩がみられることから独自に年貢米を送っていたことが知られ(「寛文雑記」)、また福井藩吉江藩の用水争論に両藩の郡奉行と組頭が出張って処理しており(平井町区有文書)、藩政そのものは福井藩から自立していたことはいうまでもない。

 このような分知による分家の創出は、無嗣による本家の改易を回避するためにとられた方策と考えられている。本家に嗣子が得られない場合、分家から入って本家を継ぐことによって本藩の存続を図ったのであり、諸藩においてもままみられることであった。

 

吉田郡松岡は、正保二年(一六四五)勝山街道沿いの芝原郷上村(芝原江上村)を三つに分けた窪・室・椚の三か村の地に、松平昌勝五万石の城下町として建設された町である。窪・椚・毘沙門・台・本・極印・室・観音の松岡八町があった。元禄十年には総間口二〇五〇間余、家数三五七軒を数えた。しかし、享保六年松岡藩は廃藩となり、それ以降在郷町として変貌していった。城下町時代に作られた松岡八町はおおむね近世末まで存続したが、福井藩は松岡町の衰退をふせぐため、松岡特産の鋳物業や酒造業などの保護に努めるかたわら藩札両替の札場や火薬塩硝類の製造所を設けるなどの振興策をとった。

 天保九年には、松岡八町は観音・極印・本・台・毘沙門の五町と室・椚・窪の三村から成り、町には庄屋と十人頭、村には庄屋と長百姓が置かれていた。駅場のうち上駅は椚村にあって馬八匹、下駅は室村にあって馬一二匹を置いていた。木戸内は一七丁一〇間、家数は三五五軒で町家が二九八軒、百姓家が五七軒、人数は一五一一人であった。商工業の役を納める者は一〇職種あり、この他に酒造人が一一人いた。これらが松岡の産業の中心的な存在となっていたのである(吉野屋文書)。

 

   松岡町は、中世から明治・大正(一九一二~二六)期まで、芝原(志原、新原)・志比境を中心に鋳物師の町として知られていた。福井市左内町の西光寺にある永正十三年(一五一六)鋳造の梵鐘の銘に「鋳師 志原 山岸兵衛尉家次」とあり、大永三年(一五二三)鋳造の越前町小樟の看景寺の梵鐘には「大工 新原住 藤原朝臣彦左衛門吉久」とあり(「越前釜(一)」『越前文化』6号)、また天正八年(一五八〇)の「柴田勝家判物案」(『中世鋳物師史料』)に芝原金屋鋳物師中宛の文書が見られるなど、松岡ではすでに中世から鋳物業が営まれていたことが知られる。

  近世の松岡の鋳物師の主流は、窪村の渡辺藤兵衛と志比境村の清水四郎平であり、明和元年十月と同七年八月の二度、松平重富(十二代福井藩主)が松岡の細工所を視察した時には、藤兵衛と四郎平が麻裃を着用して出迎えている(「永代帳」渡辺禎子家文書)。彼等が、全国の鋳物師を掌握しようとしていた真継家の支配下に入ったのは文政頃のようで、同家からの「鋳物師職免許状」が文政三年に清水四郎平宛に、同六年に渡辺藤兵衛宛に出されている。これらの文書は、幕末に松岡の鋳物師株を購入した坂井郡鷲塚村の久保文苗家に残されている。

 松岡の鋳物師は村の一地域に集まって営業していた。窪村の例を元禄十年の「松岡町家数間数之帳」(吉野屋文書)でみると、藤兵衛(間口一五間)・与惣右衛門(間口一〇間)・次郎兵衛(間口八間三尺)・猪左衛門(間口五間三尺)の四軒が窪の北町に軒を並べており、それぞれが一二〇坪の細工所(金屋屋敷)を家の裏に所有していた。

 渡辺家の「永代帳」には、寛文十年から安永三年までの約一〇〇年間に製作した一三二口の鋳物の種類・目方・寸法・値段・納入先などが記されている。その種類・寸法・口数の概要は表92のとおりである。このうち、大釣鐘は二口で福井の浄光院(差渡し三尺一寸五分)と府中の陽願寺(同三尺五寸)に納入されている。釣鐘七九口のうち最も多いのは差渡し二尺三寸のもので一八口、二尺五寸のもの一〇口であり、半鐘四一口のうち一尺二寸と一尺三寸のものがそれぞれ一〇口であった。百人鍋は台所用と書かれ、値段は二二匁とあるが寸法の記入はない。納入先を郡別に見ると、敦賀郡を除く越前全域に及んでおり、坂井郡が三六か所と最も多く、次いで足羽郡二三、大野郡一六、今立郡一五、丹生郡一三、吉田郡九、南条郡六と続く。越前以外へも移出されたと思われるがここには記載はなく、国外の分は別帳に記録されたのかも知れない。

  志比境村の清水家の得意先も渡辺家と同じ敦賀郡を除く越前全域に及び、さらに加賀・越後からの注文も受けていた。鋳物の種類は、表93のように鐘・釜・鍋のほか種々の物があり、渡辺家が鐘を主に鋳造していたのと比べて相違があったようだ(清水征信家文書)。

  青森県むつ市田名部常念寺に、芝原の鋳物師渡辺甚太夫が正徳二年(一七一二)に鋳造した半鐘が二口現存する(「下北半島における越前文化(上)」『歴史考古学』八号)。口径がそれぞれ三六・五センチメートルと三〇・五センチメートルあり、「大工越前之国柴原之住藤原朝臣家次渡辺甚太夫」と刻されている。同寺には元禄十三年三月越前柴原渡辺藤兵衛鋳造の口径二尺五寸の釣鐘もあったが、今次の戦争で供出されている。同地方には同十一年の渡辺家鋳造の釣鐘がさらに二個あったが、これも供出されている。松岡の鋳物が遠く東北地方に伝えられた一例である。

  近世末になって鋳掛職が鋳物師の職場に多く入り込んできたので、安政五年に志比境村の清水杢右衛門は四郎平・藤兵衛とともに、福井藩の奉行に鋳掛職の取締りと三国湊の大砲職平野屋新右衛門の鋳掛職の分を杢右衛門に支配させてほしいと願い出ている(清水征信家文書 資4)。旧来からの鋳物師は次第に不振になり、嘉永四年清水四郎平は鋳物師株を坂井郡鷲塚村久保庄右衛門に銀二七貫匁で質入れするなどのこともあって(久保文苗家文書)、明治期に入ると松岡鋳物師は衰微していった。

 

      越前における曹洞禅の展開と朝倉氏

 慈眼寺の系統すなわち天真派は、信濃から関東へと進出するとともに、北陸にもかなりの発展をみせている。天真派と朝倉氏との関わりは、坂井郡本郷の竜興寺(現在廃寺、福井市八幡町八幡の山上)が天真の門弟の希明清了により開山されたことによる。同寺は安居の代官藤原清長によって建立された。この地は朝倉氏が南北朝期後半に地頭職を獲得していたから、竜興寺と朝倉氏の関係は深かった。朝倉氏は一乗谷に移ると、その地に孝景(英林)の祖父教景(寛正四年没)の菩提所として心月寺を建立し、開山に竜興寺三世の桃庵禅洞(天真―希明―大見―桃庵と次第)を開山に招いたのである。朝倉氏が天真派を中心に永平寺曹洞宗に保護を加えたのは、同派の寺院が越前に点在しており、新しい拠城の一乗谷から山を越えた所に永平寺が存在していたことによるのであろう。なお、心月寺の末寺の松雲院(義景の法名からの寺号)が近世初頭に一乗谷の城戸内に建てられた。

 朝倉氏の越前支配下において天真派は同氏や一族の外護を受けて、いくつかの寺院を建立している。桃庵の弟子の芥室令拾は永春寺(福井市つくも)の開山となっている。同寺は一族で北庄城主であった頼景が建立した寺院であった。芥室の法孫である勧雄宗学は、やはり北庄城主の朝倉景行の外護を受けて慶相院(福井市つくも)を開山している。芥室と同じく桃庵の弟子で心月寺の二世の海梵覚は泰蔵院(鯖江市南井、慶長八年結城秀康により足羽郡北庄に移され、昭和十八年に三方郡北田の東光寺跡に移る)を開山したが、その弟子で心月寺三世の夫巌智樵は越中松倉城主の椎名氏の外護を受けて越中新川郡東山に雲門寺(現在廃寺)を開山するとともに、越前に英林寺を建立したが、これは朝倉孝景(英林居士)のための寺院であることはいうまでもない。享禄四年(一五三一)七月晦日付の「慈眼寺納所方置米置文」に英林寺の名がみえ(資6 慈眼寺文書七号)、当時の住持は夫巌の弟子の大雄亮であったことが知られる。

 越中においては東に椎名氏、西に神保氏の二大勢力が二分して支配していたが、この置文によれば、越中神保氏の家臣である小島六郎左衛門が置米一五石を寄進している。またこの事実を確認し連署している泰蔵院の夫巌は、前述したように椎名氏の外護を受けて越中雲門寺を建立した人物であり、英林寺の大雄の門弟である。心月寺の大英もその法系の人物であり、椎名氏が外護する越中雲門寺とは深く結びついている人びとであった。また神保氏も天真の弟子で希明と兄弟弟子である機堂の門派を受容していた。つまりともに天真派を受容していたわけであるが、その天真派は当時一年交替で住持を勤める輪住制を展開していたのである。ここに天真派は越前朝倉氏・越中神保氏・同椎名氏との間で生じた問題について、仲介の役割を担いうる立場にあったといえる。

 夫巌の兄弟弟子の竜億祖易が朝倉景高を開基として岫慶寺(大野市日吉町)を天文年間(一五三二~五五)に開いている(「大野領諸宗寺方年代寺領記」)。また心月寺の門流ではないが、天真派で機堂の法孫である越渓麟易が永昌寺(福井市東郷)の開山となっている。一乗谷初代の孝景の室である桂室永昌大姉の菩提のための建立であったことが知られる(「月舟和尚語録」)。さらに越渓の弟子の雷沢宝俊が霊泉寺(福井市東郷、もとは篠尾)の開山となっている。開基は朝倉景儀である。また朝倉氏の関係から、そのもとにあった商人にも曹洞禅は受容された。慈眼寺や心月寺と関係の深い存在であった祥雲寺は、戦国期からの商人であった慶松家の菩提寺であった(資3 慶松勝三家文書四・八・一一号)。大永元年(一五二一)の創建であるという。

 その他の派では、願成寺の開山である芳庵の門弟の昌庵が盛景寺(武生市春日野町)の開山となっている。応永年間(一三九四~一四二八)の成立で開基は朝倉盛景であるとされる。朝倉氏に早い時期から外護を受けたことになる。また通幻の弟子の天徳曇貞の法孫である竹香舜可は、瑞洞院(武生市大虫町)を朝倉孝景(英林)の外護を受け創建している。宝慶寺の寂円派の建綱の法孫である以は曹源寺(大野市明倫町)を開山しており、太源・如仲・真厳派の梅翁存玄は幸松寺(敦賀市莇生野)の開山となっているが、両寺ともに義景の外護を受けた寺院であるとされる。さらに前述したように大野宝慶寺も、大野郡司として当郡を支配した朝倉光玖(玉岩)から所領を安堵されているし(資7 寶慶寺文書四号)、大野の洞雲寺も彼の手厚い保護を受けている(資7 洞雲寺文書五号)。

 

随喜寺院資料

明治三十五年度 遠忌

長谷玉尖・事務員

高木断竜・瑞雲閣接客

黒田詮虎・補典

東野玉竜・法堂都管

 

大正三年度 御征忌(9月29日―29日)随喜寺院

天龍寺・東野玉竜

宝岸寺・黒田詮虎

白龍寺・梅関実応

 

大正六年度 御征忌随喜寺院

維那   願成寺・高木断竜

法堂都管 天龍寺・東野玉竜

宝物係  宝岸寺・黒田詮虎

 

大正八年度 御征忌随喜寺院

法堂都管 天龍寺・東野玉竜

接賓知客 宝岸寺・黒田詮虎

説教師  白龍寺・(不詳)

 

大正十二年 随喜寺院

室侍長 天龍寺・東野玉尖

接賓知客 宝岸寺・黒田玲虎

 

昭和三年度 授戒会

説戒師 天龍寺・東野玉尖

 

昭和六年度 御征忌焼香師

九月二十四日 晡時 願成寺・高木断竜

 

昭和八年度 尸羅会随喜寺院

法堂両班 願成寺・高木断竜

法堂両班 金剛寺

室侍長  天龍寺

 

昭和九年度 春期授戒会

説教部  願成寺

 

昭和十三年度 御征忌随喜寺院

孤雲閣接客  白龍寺・杉本隆禅

祠堂殿代香師 願成寺

尼僧  願成寺(山中孝順)

 

昭和十四年度 御征忌随喜寺院

尼僧・願成寺(山中孝順)

 

昭和十五年度 御征忌随喜

安穏寺・栗山文叡

 

昭和十五年度 御征忌随喜寺院

尼僧・願成寺(山中孝順)

 

昭和十六年度 尸羅会随喜寺院

小庫院 尼僧・願成寺(山中孝順)

 

昭和十七年度 随喜寺院

副典 白龍寺・杉本隆禅

菩接 宝岸寺・講神知原

小庫院 尼僧・願成寺(山中孝順)

 

昭和十八年度 尸羅会随喜寺院

舎両 白龍寺・杉本隆禅

舎代 願成寺・高木断竜

菩接 宝岸寺・講神知原

小庫院 尼僧・願成寺(山中孝順)

 

昭和二十一年度 尸羅会随喜寺院

補壇 天龍寺・細川靠山

 

昭和二十二年度 春尸羅会随喜寺院

孤雲閣詰 願成寺・山中孝淳

 

昭和二十三年度 春尸羅会随喜寺院

孤雲閣詰 天龍寺・細川靠山

 

昭和二十四年度 随喜寺院

孤雲閣詰 天龍寺・ 細川 靠山

不老閣  願成寺・山中孝淳

舎利殿  白龍寺・杉本隆禅

 

昭和二十五年度 春尸羅会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和二十六年度 春尸羅会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和二十八年度 春尸羅会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

説教師 願成寺・山中孝淳

 

昭和二十九年度 授戒会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

 

昭和三十年度 授戒会随喜寺院

先導師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和三十年度秋 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

事務  願成寺・山中孝淳

 

昭和三十四年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

 

昭和三十五年度 随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和三十五年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

 

昭和三十六年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和三十七年度 授戒会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

送迎係 願成寺・山中孝淳

 

昭和三十七年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和三十八年度 授戒会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和三十九年度 授戒会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

 

昭和四十年度 御征忌随喜寺院

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和四十一年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

 

昭和四十二年度 授戒会焼香師

四月二十三日 願成寺・藤井定信(昭和12年に願成寺徒弟として安居)

 

昭和四十二年度 授戒会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和四十二年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

不老閣 願成寺・山中孝淳

 

昭和四十三年度 授戒会随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

 

昭和四十三年度 御征忌随喜寺院

説教師 天龍寺・細川靠山

長谷(東野)玉尖 関連資料

大正二年(1913)七月・第九次眼蔵会・副監院長谷老師所感   

葛藤遮莫費心魂。九十五編親口言。溪水潺湲流晝夜。碧雲蓊欝蓋乾坤。

大正三年(1914)七月・第十次眼蔵会・副監院長谷老師所感

開得吉祥無尽蔵。千珍万宝露堂堂。誰知空手還郷曲。響在那頭趣遠長。

大正四年(1915)七月・第十一次眼蔵会・副監院長谷老師所感

深緑圍堂千歳濃。幽溪遶境古今淙。箇中消息無人会。月在玲瓏巌上峰。

大正五年(1916)七月・第十二次眼蔵会・副監院東野老師所感

九十五編正眼蔵。参来究去絶商量。一声杜宇三更月。明暗双双影満場。

大正六年(1917)七月・第十三次眼蔵会・副監院東野老師所感

眼蔵九十有余題。毎夏六旬親唱提。切忌閑人醒似聖。不妨禅者酔如泥。

大正七年(1918)六月・第十四次眼蔵会・副監院東野老師所感

正眼参来正法蔵。言言元是出親膓。箇中消息誰能会。山自高兮水自長。

大正八年(1919)六月・第十五次眼蔵会・副監院東野老師所感

直指単伝正法輪。傘松峰下転来親。耳辺分色非全底。眼裏聞声誰此人。

大正九年(1920)六月・第十六次眼蔵会・副監院東野老師所感

七百年前古佛真。溪声山色至今新。六旬勝会多閑却。可惜歟憐貧道身。

大正十年(1921)六月・第十七次眼蔵会・副監院東野老師所感

眼蔵提唱六旬中。半在他郷聴講空。可惜曇華開現日。閑雲遮蔽影朦朧。