正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

庭前の柏樹子 小川 隆

庭前の柏樹子

―いま禅の語録をどう読むかー

小川 隆

 

一 月をさす指

 「不立文字」を標榜する禅宗は、それにも拘らず、ではなく、それゆえにこそ、膨大な量の「語録」を生み出し、代々それを伝えてきた。特定の教条の定立を拒む以上、真実は常に

時と処に応じつつ、箇々の生きた言行によって、一瞬一瞬に表現されねばならぬからである。現実の一場面において吐かれた個別の一句は、いかなる上位の定義にも回収されず、また、他の如何なる一句によっても、代替されない。

 「如何なるか是れ祖師西来の意」、このような定型かつ常見の問いに対してさえ、歴代の禅者たちは、人により、場面によって、その都度異なる言動を以てこれに応じて来た。そして、それらが語り伝えられ、やがて書物の形で集積されて今日に至っているのが、禅の「語録」に外ならない。「禅」は何処にあるかと問われれば、懇切な禅僧なら、或いは、汝が心に在り、と説くかも知れない。だが古来の営みの内に嘗て確かに存在した、謂わば歴史的事実としての「禅」を知ろうとするならば、我々はそれを「語録」の内に求める外はないであろう。言句の上に解会(知的理解)を為してはならぬとは、禅者の再三説く処ではある。だが、禅者がそう説いて来た事を、今日我々が知り得ること自体、「語録」と云う文字記録なくしては、有り得ぬ事ではなかろうか。

 禅の言葉は、月を指す指に過ぎぬとされる。ならば、なおのこと、「語録」の精確な読解によって、指の指し示す向きを正しく看て取る努力が不可欠であろう。文字に捉われず、自身の参禅体験を拠り所として主体的に語録を読みこなす、と云う言い方があるが、それは所謂「同文同種」に幻想にもたれかかっての言に過ぎず、禅の語録がもし漢字以外の、たとえばアラビア文字やハングル文字で綴られていたならば、誰も実参実修だけで、それが読みこなせるとは言わないはずである。その種の言い方が今日もなお行われているとすれば、それは実は、伝統的な訓読に依存し制約されている事の自己認識が欠如しているだけの事であって、かく、自己の思惟を規定している所与の条件について、自覚的な反省を持ち得ぬ人が、こと禅に関してだけは、あらゆる既成の観念に拘束されず、自由かつ主体的にそれを解し得るとは考え難い。

 

   二 趙州「庭前の柏樹子」

 禅は菩提達磨というインド僧によって、中国にもたらされた。史実か否かの問題ではなく、禅の語録では、ともかく、そうである。それ故、禅問答に於いては、次のような問いが、数かぎりなく発せられる。

 

  ―如何なるか是れ祖師西来の意?―

 

「祖師」とは達磨のこと。「祖師西来意」は単に「祖師意」「西来意」とも言われる。いずれにしても、初祖達磨が西天よりはるばるやってきた意味、それは如何なるものかと云う事で、それを問うと云うことは、すなわち禅の第一義とは何ぞやを問う事である。

 この問いに対する答は、それこそ枚挙に暇がない。そして、それはしばしば酷く難解か、或いはほとんどとりつくシマがないように見える。唐の趙州従諗の「柏樹子」の話は、そうした中で、とりわけよく知られたものの一つであろう。それは今日、最も一般的には、『無門関』第三七則によって、次のような形でしられている。

 

  趙州、因僧問、「如何祖師西来意?」

  州云、「庭前栢樹子」。

 

 「栢」は「柏」の異体字だが、邦語で落葉樹「カシワ」を指すのとは異なり、漢語では常緑の喬木「ヒノキ」「コノテガシワ」の類を云う。「子」が名詞の接尾字で特に実義を持たぬ事、「椅子」や「扇子」の場合と同様である。

 僧、「祖師西来意とは何ぞや」。趙州、「庭さきの栢樹」。これは一体何を意味するのか。眼前の栢樹がそのまま「西来意」の顕現ないし象徴だとでも云うのであろうか。

 

 この問答は、最も古い記録である五代の『祖堂集』では、次のように記されている。今日知り得る限りにおいて、これがこの問答の最も原初的な形と考えられる。

 

問、「如何是祖師西来意」、師云、「亭前栢樹子」。僧云、「和尚、莫将境示人」。師云、「我不将境示人」。僧云、「如何是祖師西来意」師云、「亭前栢樹子」。(巻一八・趙州章)

 

「祖師西来意とは如何なるものぞや」「庭前の栢樹子」。「亭」は「庭」の同音通用で、後の諸本はみな「庭前」に作る。質問の僧は食い下がる。「和尚、境で示すのはお止め下さい」。「境」は認識の客体となる外在の事物・事象。普通はそれに囚われてはならぬ、と戒められるもの。「庭前の栢樹子」は「境」であって、「祖師西来意」とは無縁のものではないか。趙州は云う、「オレは境でなど示さず」。「ならば、祖師西来意とは如何なるものか」。趙州云く、「庭前の栢樹子」。

 

   三 高次の分節

 井筒俊彦「禅における言語的意味の問題」は、この「栢樹子」の話を主たる例として、禅の言葉が「無意味」である事の禅的意味を分析するー

 「存在」そのもの(仏教語では「真如」「一法界」)は「根源的に無限定で、絶対にあるものとして把捉し難い窮極者」である。それは「根源的非限定者」「絶対的無意味性」「絶対的無限定」「絶対的非分節」などとも称される(仏教語で云えば「無相」「一如」という事であろう。むろん、いずれも、本来、言葉によって語り得ぬ所を、説明の為に強いて名づけた「仮名」であるから、論文ではおそらく慎重な用語のもとにーその都度異なった表現が用いられている)。ところが人間はそれを言語=記号(「名字」「言説」)によって分節(「分別」)し、その結果「世界はバラバラに切り離されて独立に存在する事物の集合体として現れる。暗闇の舞台に無数のスポットライトが照らされ、数限りないものが浮び出る。ハイデッカー的に言うと、「存在」は見失われ、「存在者」のみが顕現する」。つまり全一にして無分節なる「存在」は、言語によって分節された箇々の「もの」=「存在者」の世界、すなわち有意味な記号の網(「有相」「差別相」)によって覆いつくされ、そして、人はその覆いの方を実在と見誤る事によって、「存在」を喪失し、迷妄に陥る事になるのである。

 ならば、人がその迷妄を克服し、本来の「存在」そのものに立ち返るには、どうすればよいのか。言語の使用を全面的に停止するしかないのであろうか(維摩の一黙や禅者の「良久(=沈黙))」「棒喝」などはそれであろう。だが禅は、しばしばその逆をゆく。「禅はこの覆いを一挙に取り払うために言語を使用する。言語の意味的志向性によって分節された存在を、瞬間的にもとの非分節の姿に還らせるために分節的言語を逆用するのである」。いわば、言語体系という回路を停電させるのではなく、むしろ逆向きから高圧の電流を通すことで、その回路全体を瞬時に無化すると云う訳であろう。禅者が「祖師西来意」を問われて「栢樹子」と答え、あるいは「仏」を問われて「麻三斤」と答えるような、「答えとしては意味をなさない」「問いと答えの間に難の聯関もない」、一見、意味不明の禅問答を行なうのは、まさにこの為に外ならない。

 だが、禅は、有意味な分節的言語の体系を解体し、「非分節」の「存在」に立ち返る事を以て能事おわれりとするものではない。

 

  ・・なぜなら「山は山にあらず」は、周知のように、決して禅の究極の立場を表すものではないからである。禅本来の見所から言うと、「山は山にあらず」という矛盾命題の

  指示する絶対無意味の次元から、人はさらに翻って又再び「山は山」という有意味性の次元に戻らなくてはならない。但し、今度は山という結晶体を動きの取れない結晶体として只眺めるのではなくて、根源的非結晶体が結晶体に転ずる形而上学的瞬間を通じて山を見るのではあるけれども。この境位においては「山」は山を分節的に指定し指示する、が、同時にそれは山という分節を超えて絶対非分節的な「存在」をも指示する。

 

 かくてはじめて、「無意味」な問答の禅的意味が全うされるのである。

 論文はこのような観点に立って、趙州の「栢樹子」の話を次のように解釈する。

 

 このような境位で、本来的に禅的な形で分節されたものは勿論外的世界にあって「主」と

対立し、その認識の対象となるただのものではない。表面的にこそ現れていないが、人もそこにある。全世界がそっくりそこにある。このことを『趙州録』に見られる柏樹子公案の原話が実にはっきり示している。日き、「時に僧有り、問う『如何なるかこれ祖師西来の意』(仏教から見た絶対的真理、つまり我々のいわゆる禅的無分節の場、とはどんなものか、と問いかける)。師云く、『庭前の柏樹子』(僧はこの答えに不満である)。『和尚、境を将って人に示すこと莫れ』(外的の事物など持ち出してきても答えにならぬ)。師云く、『我、境を将って人に示さず』(わしは外界のもののことなど言っているのではない)。(そこで僧が改めて問う)『如何なるかこれ祖師西来の意』師云く、『庭前の柏樹子』」この問答で質問者が理解している柏樹は普通に分節されたものである。それは我に対立し、他の一切のものに対立して独立する柏樹である。それは我をも他の一切のものを全てを一点に凝集した柏樹である。このように高次の分節によって成立したものを、臨済は「奪人不奪境」と呼ぶ。

 

さきに引いた語をかりて言えば、栢樹という「もの」を分節的に指定し指示しながら、同時に栢樹という分節を超えて、絶対非分節的な「存在」そのものをも指示する語、そのような「高次の分節」の語として「栢樹子」を解すると云う訳である。このことを論文はまた、哲理詩的な韻律を帯びた、次のような表現によっても描き出している。

 

 そこには一旦無化された柏樹が、依然として、柏樹として現存しており、絶対無限定者が刻々に柏樹という形で新しく自己限定していく姿がありありと見える。

 

   四 祖師西来意

 以上のような論理は後に「意識と本質ⅶ」において「分節(ⅰ)→分節(Ⅱ)」とう形に定式化され、さらに『意識の形而上学―《大乗起信論》の哲学』では、『大乗起信論』の理論的再構成という形を借りて、いっそう精緻に集約されている。この論理はおそらく、古(いにしえ)の禅僧たちが直観的に前提としていた存在と認識の構造を、的確かつ明晰に論理化したものと言ってよく、確かに、これを踏まえることで合理的な解釈を与えうる問答も少なくない。だが、趙州が当時そのような論理に沿って「栢樹子」の問答を行なったのかと言えば、それはまた別の問題である。唐代の禅者には、より切実で直接的な問題関心があり、右のような論理も、その探求の為にこそ意味を持つものだったのである。

 按ずるに、井筒論文の解釈では、次の二つの点が与件とされている。

 

  • 「祖師西来意」の問いは「仏経から見た絶対的真理」すなわち「禅的無分節の場」を問うものだと云うこと。
  • 従って、それに対して「栢樹子」と答えたこの問答は、問いと答えとの間に有意味な対応関係のない、対話としてはナンセンスなものだと云うこと。

 

 しかし、これは最初に掲げた『無門関』のような本文を対象とする事で設定される前提である。論文がその種の本文を念頭に置いている事は、初めの方でそのような一問一答としてこの話を紹介し、また、あとで『趙州録』の方を「源話」と称していた事などから確かめられる。だが右の二点は、『無門関』の如き単純な一問一答には言えても、これをそのままー論文が行っているようにー「原話」に遡って当てはめる訳にはゆかない。「原話」を唐代の禅の文脈に還して考えるならば、「祖師西来意」の問いは決してこのような形而上学的な問題を問うものではなく、その問いと答えの間にも、唐代禅固有の有意味な論理が、読み取られるからである。

 

 「祖師西来意」の問いは、たしかに禅の第一義を問うものには違いない。だが、唐代の禅の問答において、この言葉によって問われる第一義とは、もっと具体的で身に即したものであった。唐代禅の主流ないし基調を確立した馬祖道一は、修行僧たちに向って常にこう説いたと云うー

 

 汝ら今、各おの信ぜよ、自心是れ仏、此心即ち是れ仏心、と。是の故に達磨大師南天竺従り来りて、上乗一心の法を伝え、汝らをして開悟せしむ。(『祖堂集』巻一四・馬祖章)

これこそ達磨が中国にやって来た目的、つまり「祖師西来意」に対する。唐代禅の最も基本的な定義と言ってよい臨済義玄の師であり、馬祖にとっては再伝い弟子にあたる黄檗希運も、次のように説いている。

 

 汝但だ凡情聖境をさえ除却(のぞ)かば、心の外に更に別の仏無し。祖師西来して、一切人の全体是れ仏なる事を直指す(祖師西来、直指一切人全体是仏)。汝今識らず、凡に執し聖に執して、外に向いて馳騁し、還自(かえ)って心を迷う。所以に汝に向いて「即心是仏」と道うなり(『伝心法要』)

 

 「即心是仏―心そのままが仏である」。そう説かれる「心」とは、一体どの「心」なの

か、「凡」なる心か「聖」なる心か、そうした問いに答えた中での一段である。黄檗は言

う、ただ凡・聖の意識さえ除き去れば、この心の外に別の心が有るわけではない。祖師達

磨は西来して、いかなる人も、その全体丸ごとが仏であると直指せられた。なのにお前は

それを弁えず、凡・聖の区分に執着して、外に向って駆けずり廻り、逆に自分で自分の心

を見失っている。だからこそ、そのような汝らに「即心是仏」と説くのである、と。

 黄檗にはほかに「祖師は西来して、唯だ心仏を伝え、汝等の心の本来是れ仏なるを直指

せり(祖師西来、唯伝心仏、直指汝等心本来是仏)」(『宛陵録』)という言葉もある。要す

るに唐代の禅において、「祖師西来意」とは「即心是仏」―自己の心がそのまま仏である

ーという一事実を指すものに外ならない。なぜ、そうであるかと云う論証はない。それは

禅者にとって、あまりにも自明の前提だからである。なら自明であるにも拘らず、何故、

それが繰り返し問われるのか。それは質問者がその自明の事実を、身に徹して我が物とす

ることが出来ずにいるからである。質問者が求めているのは「祖師西来意」という設問に

対する正解ではない。彼らは「即心是仏」という事実を、我と我が身に徹して悟る激発の

契機、それをこそ求めて行脚の旅を続けていたのであった。

 

 記録の上で「祖師西来意」の問答の最も早い例とされているのは、老安国師(嵩山慧安)

の次の一段である。

 

 坦然禅師問う、「如何なるか是れ祖師西来の意?」

 師日く、「何ぞ自家の意旨を問わざる? 他(かれ)の意旨を問うて什摩(なん)と作(す)る?(何不問自家意旨? 問他意旨作什摩?)」・・(『祖堂集』巻三・老安章)

 

 「祖師西来意とは如何なるものでございましょう」。「どうして自己の意(「自家意旨」)

を問わぬ。かれ(=達摩)の意など問うてどうするのだ」。問答はさらに続き、そこには

重要な問題が含まれているが今は省く。ここで注目したいのは、「西来意」を問われた老

安が、なぜ自己の意を問わぬ、と即座に切り返している所である。老安は問いをそらし、

「西来意」には答えていないのか。いやそうではない。「西来意」を問うと云うことは、

ただちに「自己の意」を問う事でなければならない。そして「自己の意」を答え得る者は、

自己をおいて他にない。老安はそのように、「西来意」の問いを問者自身に突き返してい

るのである。

馬祖にも次の問答がある。

 

  僧問う、「如何なるか是れ西来意」

  師日く、「即今は是れ什麽の意」(『景徳伝灯録』巻六・馬祖章)

 

 「祖師西来意」とは遠い昔、達摩がやって来た時の話ではない。それはまさしく「即今」ただ今の「自己の意」の事でなければならぬ。馬祖もやはりその事を、僧自身に気付かせようとしているのである。

 そこで、馬祖の語録には、さらに次のような一段も見える。

 

 僧問う、「如何なるか是れ西来意」

 師便ち打ちて、乃ち日く、「我れ若し汝を打たざれば、諸方我を笑わん(我若不打汝、諸方笑我也)」。(同前)

 

 僧が「西来意」を問うや、馬祖は直ちに打ち据えた。「お前を打っておかねば、諸方の長老たちがワシを笑う事になろう」(「也」は文語の「ナリ」ではなく、現代漢語の文末の「了」にあたる口語の用法。事柄の変化や完成を表す)。「西来意」とは人さまでなく、即今の自己にこそ問うべきもの。それを今、この痛打によって思い知らせておかなければ、お前はあちこちで同じ事を問うて廻るに違いない。そうなったら、恥を晒すのはワシだ。

 

 次に引く天柱山崇慧の問答は、禅の問答には珍しく、以上の道理をたいそう親切に説き聞かせている。

 

 問う、「達磨未だ此の土に来たらざる時、還た仏法あり也無」師日く、「未だ来たらざる時    は且らく置き、即今の事は作麽生」日く、「某甲、会せず、師の指示を乞う」。「万古の長空、一朝の風月」。

良久して又た日く、「闍梨、会す麽、自己の分上は作麽生、他の達磨の来たれると未だ来たらざるとに干(かか)わりて作麽生る。他家(=達磨)の来たれるは大いに売卜漢の似(ごと)くに相い似たり。汝の会せざるを見て、汝が為に卦文を錐破して纔(はじ)めて吉凶生ず。汝が分上に在りて一切をば自から看よ(在汝分上一切自看)」。(『景徳伝灯録』巻四・崇章)

 

 僧が問う、「達摩がまだ来ていなかった時、中国には仏法が有ったのでしょうか」。崇慧、「達摩が来ていなかった時の事はともかくとして、ただ今の事(「即今事」)はどうなのか」。「わたくしには解りません。ご指教をお願いします」。「永遠に変わらぬ悠久の空に、一日ごとの麗しき風光」。

 しばしの沈黙(「良久」)の後、崇慧はさらに説いた。「お解りか。自分自身の事(「自己分上)」はどうなのか。あの達摩と云うお人が来たの来ていないの、そんな事に拘わって何とする。あのお方は八卦見のようなもの。お前が何も解らずにいるのを見れば卦を立てる、そこで始めて、吉や凶がこしらえられる。だが、そんな、人から授かる見立てでなく、すべてをお前自身の身の上(「汝分上」)に、自分自身で看てとる(「自看」)ことが必要だ」。

 

   五 本分事

 「如何なるか是れ祖師西来意」と云う問いは、実は、自己とは何かを問うものであり、その答えは詰まる所「即心是仏」の一事に尽きている。それは自己が「仏」に成ることでも、また、自己に新たに「仏」と云う聖性を付与する事でもない。今、現にこうしてある自己、自己がまさしく自己以外の何者でもないと云う事実、それを「仏」と称しているだけである。そのことを修行者自身に気付かせる事が、この種の問答の目指す所であり、そして、それは本人が自ら得心するしかないものである。崇慧はその事を「自己の分上」「汝の分上」と呼んでいた。同じ事は、問答において、しばしば「本分事」とも称される。

 潙山霊祐は、ある時、弟子の香厳智閑にこう迫った。

 汝が従前の所有(あらゆ)る学解・眼耳を以て他人より見聞し、及び経巻冊子上より記得(おぼ)え来れる者は、吾れ汝に問わず。汝、初めて父母の胞胎(はら)の中より出て、未  だ東西を識(わきま)えざりし時の本分事、汝、試みに一句を道い来れ、吾れ汝を記せんと要す。(『祖堂集』巻一九・香厳章)

 

 「これまで学んできた全ての事、他人から見聞し、書物・経巻から覚えて来たもの、そんなものはワシはお前に問うつもりはない。父母の腹から今まさに生まれ落ち、右も左も弁じなかった其の時の本分事、それを一言で言え。そうしたらワシが印可を与えてやる」。

 後天的に付加されるあらゆる意味や価値、そうしたものに規定される以前の「本分事」。それは「仏」と名付ける事さえ不要な、本来の自己そのものの謂いであろう。潙山はそれをここに示せと要求する。

 「本分事」については、たとえば霊巌慧宗に、次のような問答がある。

 

 僧問う、「如何なるか是れ自己本分事」

 師云く、「真金を抛却し、瓦礫を拾得し、什摩と作す」(『祖堂集』巻九・霊巌章)

 

 「自己本分事とは何か」。「自分自身を捨ておいて、人様から貰ってどうする」。現にある即今の自己こそが真の純金、他人から与えられる「自己」という観念は所詮ガレキに過ぎぬと云うわけである。

 また、「栢樹子」の趙州にも、次の問答がある。

 

 問う、「如何なるか是れ本分事」。

 師、学人を指して云く、「是れ你の本分事」。

 僧云く、「如何なるか是れ和尚の本分事」

 師云く、「是れ我れの本分事」。(『祖堂集』巻一八・趙州章)

 

 「本分事とは如何なるものでしょう」。趙州は僧本人をズバリと指して云う、「それはお前自身の本分事だ」。「では、和尚の本分事は如何なるものでしょう」。「それはワシ自身の本分事だ」。

 いずれの問答も、旨趣は先に見た「祖師西来意」に関するものと変わらない。「自己本分事」とは、他人と貸し借りも出来ず、取り替えも効かない、自己が自己であると云う事実。それを幾ら人様に問うても、埒のあくものではない。趙州には「尿は是れ小事なるも、須く老僧自ら去きて始めて得しー小便というのはつまらぬ事だが、必ず自分で行くしかない」と云う言葉もある。(『趙州録』巻中)

 

 井筒論文は『趙州録』を「栢樹子」の話の「原話」として引いていた。だが、「原話」と云うべきは先に引いた『祖堂集』の本文であり、実は『趙州録』は、そこに更に次のような長い前段を加えた形になっている。これによって、件の「栢樹子」の問答もまた「本分事」を主題とするものであった事が明らかとなる。

 

 師上堂謂衆曰、「此事的的、没量大人、出這裏不得。老僧到潙山、僧問、如何是祖師西来意。潙山云、与我将床子来。若是宗師、須以本分事接人始得」。 

時有僧問、「如何是祖師西來意」。師云、「庭前柏樹子」。学云、「和尚、莫将境示人」。師云、「我不将境示人」。云、「如何是祖師西来意」。師云、「庭前柏樹子」。(『趙州録』巻上)

 

 師上堂して衆に謂いて曰く、「此の事的的たり、没量の大人も、這裏を出で得ず。老僧は潙山に到り、僧問う、如何なるか是れ祖師西来意。潙山云く、我が与(ため)に床子を将ち来れ。若し是れ宗師ならば、須く本分事を以て人を接(みちび)きて始めて得ん」。

 時に僧有りて問う、「如何が是れ祖師西來意」。師云く、「庭前柏樹子」。学云く、「和尚、境を将て人に示す莫れ」。師云く、「我は境を将て人には示さず」。云く、「如何が是れ祖師西来意」。師云、「庭前柏樹子」。

 

 趙州が上堂して言った。「此の事(此事)は明々白々である。あらゆる既成の枠組みを

超えた大人とて、ここ(這裏)の処ばかりは出る事は出来ない。ワシが昔、潙山禅師の処

へ行った時、ある僧が<祖師西来意は如何なるか>と質問した。潙山の答はこうだ。<腰掛

を持って来い>もし正統の師家ならば、必ずや本分事で学人を導くはずだ」。

 ここに云う「此の事」も「這裏」も「本分事」の言い替えである。だが、趙州はまるで、

潙山の答えでは「本分事」による接化になってはいない、そう言わんばかりの口ぶりであ

る。

 それを聞いて一人の僧が進み出る。「祖師西来意とは如何なるものか」。そこまで言うな

らこの自分を「本分事」によって接化して頂きたい。そこで趙州は答えた、「庭前の柏樹

  • だが、僧は納得がいかない。「和尚は境で示すのは止めてください」。「栢樹子」と云

う外在の対象物は、「自己本分事」とは正反対ではないか。趙州は、「オレは境などでは示さず」。「栢樹子」の語で指したものは、外境ではなく正しく汝の「本分事」に他ならない。そこが解せぬか。「しからば、祖師西来意とは如何」。趙州は言う、「庭前の柏樹子」

 右のような前置きがなくてもーつまり『祖堂集』のままでもー唐代禅の問題関心に沿って「祖師西来意」の語を解する限り、問答から「本分事」と云う主題を読み取る事は困難ではない。だが『趙州録』は右のような増広を施す事によって、問答の主題が「本分事」である事を、紛れようもなく明示する。僧が趙州の意図を捉えそこねてスレ違いに終わってはいるものの、ここにおいて問答全体は、決してナンセンスなコンニャク問答にはなっていない。それは右のように、「本分事」と云う主題を巡る、有意味な脈絡を持った対話としてこそ解されるべきものである。

 では、「栢樹子」と答える事が、なぜ質問者の「本分事」を直指する事になるのか。主客の対立が解消された境地では、汝があの栢樹子であり、あの栢樹子が汝である。そういう解釈もあろう事だが、趙州の意図は恐らくそうではない。その意図する所は、『趙州録』巻上に録された次の問答によって考え得る。

 

 問う、「如何なるか是れ学人の自己」

 師云く、「還た庭前の柏樹子を見る麽(や)」

 問う、「それがしの自己とは如何なるか」

 趙州、「庭さきの柏樹が見えるか」

 

 ここでは質問も率直に「自己」そのものを問うている。其れに対して趙州は「栢樹子」が汝の「自己」である、とは言っていない。「庭前の柏樹子が見えるか」。つまり、今現に「栢樹子」を見ている、その汝を置いて何処に「自己」があるのかと、趙州は僧自身に問い返しているのである。さきの「庭前の柏樹子」も、同じくその「柏樹子」を見る、即今の汝自身の直指であったに相違ない。オレは決して「境」などは示していない、そう趙州が言っていたのも、実はその事に気付いてもらいたいが為の、老婆心の一句なのであった。

 

   六 境を以て人に示す莫れ

 以上の私見と井筒論文の間で、字句の理解が明瞭な対立を示しているのは、「我れ境を将って人に示さず」の一句である。井筒論文がこれを「わしは外界のもののことなど言っているのではない」と解しているのは、わしの言う「栢樹子」とは言語によって分節された箇々の「もの」=「存在者」としての栢樹ではない、同時に非分節の「存在」=「絶対無限定者」をも示す「高次の分節」としてのそれなのだ、という意であろう。だが「自己本分事」を主題とするやり取りに於いてなら、この一句はこう解されなくてはならないーわしは「栢樹子」という対象物を指しているのではない、そのその「栢樹子」を見る汝その人を指しているのだ、と。

 

 「我れ境を将って人に示さず」という趙州の語は、「和尚、境を将って人に示さず」という僧の言への否定である。そして、それはまた、最後にもう一度「庭前の栢樹子」と説くことの伏線にもなっている。

 僧の言葉に関しては。潙山の弟子、仰山慧寂の問答に次のような類例が見える。

 

 師、僧の来たるを見て払子を竪起す。其の僧、便ち喝す。師日く、「喝は即ち無きにあらず。且つ道え老僧が過、什麽処にか在る」僧日く、「和尚、合(まさ)に境を将って人に示すべからず(和尚不合将境 示人)。師乃ちこれを打つ。(『景徳伝灯録』巻一一・仰山章)

 

 「払子」とは禅僧の持ち物の一つで獣毛を房状に束ねて柄をつけたもの。インドでは虫除けの為の実用品であったが、中国では、問答や儀式の際に禅僧が持つ象徴的な器物となった。六朝の名士が清談の際に持った「塵尾」と同類のもので、禅録ではしばしば、老師がいきなり払子を立て、修行僧に一句を求めると云う問答が見える。右の問答の少し前にも、行脚の僧が来る度に、仰山が払子を立てて其の境涯を試みたと云う記述がある。

 さて、ここで僧がやって来たのを見て、仰山は何も言わず、手に持った払子を立てて見せた。さあ、この関門をいかに突破して入門の許可を得るか。だが、この僧の方も、すでに行脚して、相応の禅機を習い覚えていたらしい。目の前にぬっと立てられた払子を見て、僅かの驚きもたじろぎもなく、逆にこちらの方から、凄まじい烈しい一喝を食らわせた。

 そこで仰山は問う、「ふむ、一喝するのは善いとして、ならワシの何処を誤りと看ての一喝か」。そこで僧は言う、「和尚、境でもって人に示すべきではない」。「払子」という外物では決して真実は示されず、そこを突いての一喝だったのである。

 それを聞いて仰山は、何も言わずに僧を打った。

 

 此の問答に先の井筒論文の論理を適用して、整合的な解釈を得ることは容易である。仰山が立てて見せた払子は「高次の分節」(「分節Ⅱ」)としてのそれであった。だが、僧はそれを只の「もの」(「分節ⅰ」)としてしか捉える事しか出来なかった。それで仰山に打たれたのである、と。

 だが、これを、先の「栢樹子」の場合と同じく、次のように解釈する事も出来るであろう。すなわち、仰山は払子を示したのではなく、それを見る僧自身を直指しようとした。だが、僧はすでに対象物としての払子に心を奪われて、自己不在となっている。だから、仰山は僧を打ち据えた。それは誤解に対する体罰ではなく、先の馬祖の「西来意」の問答と同様、汝が汝であると云う事実、それをしかと思い出せとの一打であったのである。

 このように考えるのは、ここでもやはり、別に次のような百丈懐海の問答を見るからである。百丈は馬祖の弟子であり、又潙山の師にあたる人物である。

 

 問う、「如何なるか是れ仏」師云く、「汝は是れ誰だ」

 僧云く、「某甲なり」。師云く、「汝、某甲を識る否」

 僧云く、「分明箇」。

師乃ち払子を挙起して、云く、「汝還た見る麽

僧云、「見る」。師乃ち不語。(『景徳伝灯録』巻六・百丈章)

 

「仏とは如何か」。「そのオマエは誰か」「はい、ナニナニです」(実際には自分の名前を答えたのが記録上「某甲」と表記されたもの)。「ならば、そのナニナニと云う人を知っているか」(「識」は知識や情報として知るのではなく、直に見知っている、顔見知りである、と云う意。現代漢語の「認識」にあたる)。「はい、はっきりと」(「~箇」は副詞接尾)。

 仏とは何か。現に今それを問うている自己、それを置いて「仏」はない。なのに、それを置き去りにし、外に「仏」を求めてどうする。禅僧が修行者に、おまえは誰か、お前の名は何か、と問うのには往々そのような意が含まれている。そして現にそのような問答で瞬時に悟った人も少なくない。

 

 ・・谷(=麻谷)乃ち問う、「阿誰(だれ)」。師(=良遂)云く、「良遂」。纔(わずか)に名を称(なの)るや、忽尓(たちまち)に契悟せり。(『宗門統要集』巻四・寿州良遂章)

 

 ・・(慧超)問う、「如何なるか是れ仏」。浄慧(=法眼)日く、「汝は是れ慧超」。師(=慧超)此れ従り信入し、其の語、諸方に播(ひろ)まれり。(『景徳伝灯録』巻二五・帰宗策真章)

 

 禅僧が改めて相手の名を確認するのは、身元調べの為ではない。自己がまさしく自己である、その端的な事実を質問者自身に思い出させんが為である。だが、百丈に参じた僧には、その意が通じない。彼は百丈の問いを文字通りに取り、そして、文字通りに答える。「はい、ナンのナニガシです」。百丈としては、この瞬間、右の良遂や慧超のように、ハッと気づいて貰いたかったであろう。だが、その一瞬は空しく過ぎ去った。そこで、百丈はさらに老婆親切を尽す。「では、そのナンのナニガシのことを見知っているか」。オマエがお前である、そこの処に自らに目を向けよ。だが、これも僧には通じない。「ええ、勿論、ハッキリと」。そりゃあ、自分のことだから、見ず知らずのはずはない。

 意味は通じてはいるが、意図は通じていない。問いと答えは一見かみ合っているようで、実は全くの素通りである。

 百丈は止む無く手を変え、俄かに払子を持ち上げて問い直す。これで気付いてくれなければ、もう、為す術はない。「ほれ見えるか」だが、僧の答は相変わらず。「はい、見えます」ならば、現にそのように見ているのは誰か。元に戻って一から問い直す気力はない。ここに至っては、さすがの百丈も、ただ黙り込む(禅録では多く、無分節の本来性を示す為の沈黙を「良久」、語に窮して黙り込むことを「無語」「無対」と記す。「不語」は後者の意)。

 結果的には空振りに終わってはいるものの、それだけに何とか自己本分事を覚らせようと、百丈がアレコレ問い方を換えており、お陰で我々は前後をたよりに論旨を辿って往くことが出来る。払子を提起して「見えるか」と問うことが、最初の「おまえは誰だ」―オマエがお前自身である事に気付けーという問いの言い替えである事は、この文脈において明らかである。そして、この例から窺うに、「見えるか」という問い方は、出し抜けに払子を提起するのに比して、同じ意図をたいそう懇切に教え示すものであるらしい。ここから推すならば、仰山が払子を竪起した意図も、また「自己」なるものを問われた趙州が「栢樹子が見えるか」と応じた意図も、ともに同じ旨趣に解する事が出来るであろう。

 趙州に西来意を問うて「庭前の栢樹子」と示された僧も、仰山に払子を竪起された僧も、「境」をもって人に示すのは止めてくれと言っていた。だが、いずれの場合もその言葉は、そう言う僧自身が、それを「見る」自己を置き忘れ、栢樹子や払子を只の「境」にしてしまっている事の、語るに落ちた露呈であった。趙州が「ワシは境など示していない」と言い、仰山が厳しく僧を打ち据えたのは、そうした僧自身に自らの「本分事」―今それを見ている紛れもない自己そのものーそれを取り戻させんが為の対処であった。趙州が最後にいま一たび「庭前の栢樹子」と答えた事は、そのような意図を締め括ったものに外ならない。

 

 同じ「祖師西来意」の問いに対し、ある時、趙州は次のように応じている。

 

 問う、「如何なるか是れ祖師西来意」。師云く、「如(も)し你喚びて祖師意と作さざるも、猶お未在」。云く、「本来底は如何」。師云く、「四目相観て、更に第二の主宰無し」。(『趙州録』巻中)

 

 僧、「祖師西来意とは」。趙州、「祖師意と喚ばなかったとしても、まだダメだ」。喚ばなくともまだ(「猶」)ダメだと云うことは、まして「祖師意」と喚びなしてしまってはもう話にならぬ、と云うことで、即今の自己をこそ問うべしと云う例の意を、裏返しに言ったもの。ここで問うべきは「祖師意」などと喚ばれる、人さまの問題ではないはずだ。そこで僧は問い直す、「ならば、本来のものとは」。「本来底」は先の自己本分事と同義。祖師達摩という他人の意ではなく、自己本来の意とは如何なるものか。趙州は答えて言った、「ワシはそなたが、現にこうして、互いに二つの目で見ている、その他に主人公たるものは存在せん」。

 

   七 公案

 唐代の禅問答を唐代の禅僧たちの問題意識に沿って、有意味的な活きた対話として読んでみる。そのような読解を、趙州の「栢樹子」を例に試みた。どのような問答を選んで突き合わせるか、そしてそれらを箇々にどう解するか、全てが可変的な要素であり、それを相関させながらの推論であるから、これを唯一の正解と言うつもりはない。まして、以上は唐の禅者の問題意識の一面を垣間見たものに過ぎず、禅の語録からはもっと多くの問題と、それに対する種々の立場を見い出すことが出来る。しかも、一たび吐かれた語は見事であればあるほど、忽ちの内に宣伝され、修行僧を束縛する旧套となって硬直する。それを回避する為に、一人の禅者が全く正反対の語を説いたり、自分の語を後で事もなげに反転させる事が珍しくない。禅者の言葉は、しばしば問題の解決ではなく、時には新たな問題の発端であり、時には発問の前提を解消し、質問者を問題以前に突き戻す為の反問である。禅録の念入りに読めば読むほど、禅では、と概括する事の困難に嘆息せざるを得ない。

 

 趙州には「西来意」に関する次のような問答もある。

 

 僧問う、「如何なるか是れ西来意」。師、禅牀より下りて立つ。僧云く、「即(まさ)しく這箇(これ)こそ便ち是れなるに莫ず否」。師云く、「老僧未だ語有らざる在」。(『景徳伝灯録』巻一〇・趙州章)

 

 僧「西来意とは」。趙州は黙って座から下り、すっくと立った。僧はーたぶん目を輝かせてー言った。「これがそのまま西来意だと云う訳ですね」現にこうしてここにある自己、それがすなわち「西来意」に外ならぬ、老師はそうお示しなのですね(「莫・・否」はそうだと思いながら、「・・ではありませんか」「・・なのですね」と念を押すような疑問の句型。禅録では、さっさと会得したつもりの僧の言葉によく見られる)。すると、趙州はぼそりと言ったー

 「わしはまだ何も言うておらぬ」。

 

 井筒論文の所説は、きわめて説得的であるだけでなく、また、たいそう魅力的である。だが、そのような論理が禅問答の前提として潜在していると云う事と、一つの問答をその論理の平面的な図式として解釈すると云う事とは、おそらく別のことである。禅の問答は、本来、現実の即物的な場面において、生き身の活きた言葉の遣り取りとして為されたものであり、しかもそれは「自己」の把握という主題を終始離れぬものであった。

 しかも、忘れてならない事は、井筒論文の所説が「東洋哲学全体を、その諸伝統にまつわる複雑な歴史的聯関から引き離して、共時的思考の次元に移し、そこで新しく構造化し直してみたい」という独自の意図の元に構成されたものだと云う事である。そして、論文が余り目立たぬ形で断っているように、かかる考察の対象として選ばれている禅は、実は「「中国の宋代以後歴史的に形成された禅の形態」「臨済禅において確立された公案組織」、つまり、宋代に大慧宗杲によって創出された「看話禅」に外ならなかった。論文が「栢樹子」を解釈するにあたって『無門関』の本文を対象としていたのも其の為で、南宋の『無門関』は、第一則「趙州無字」の扱いに顕著に現れているように、大慧系「看話禅」の参究という目的に特化して編まれた書物であった。

 大慧は「栢樹子」の話を取り上げて、次のように書いている。

 

 若し卒(にわか)に巴鼻(てがかり)を討(もと)め不著(えざ)れば、但只だ箇の古人入道底の話頭を看よ。「僧、趙州に問う、如何なるか是れ祖師西来意。州云く、庭前の栢樹子。僧云く、和尚、境を将って人に示すこと莫れ。州云く、我れ境を将って人に示さず。僧云く、既に境を将って人に示さざれば、却って如何なるか是れ祖師西来意。州只だ云く、庭前の栢樹子。其の僧、言下に於いて忽然と大悟す」。伯寿(=この手紙の相手の名)よ、但だ日用の行住坐臥の処、至尊(=皇帝)に奉侍(つか)うる処、念々に間断せず、時々に提撕(=参究)し、時々に挙覚(=警覚)せよ、かくて驀然(いきなり)と栢樹子上に向いて心意識、気息を絶さば、便ち是れ徹頭の処なり也。(『大慧普覚禅師語録』巻二三・法語「示太虚居士」)

 

 「栢樹子」の問答は上に検討したものと一見ほとんど同じである。だが、「庭前の栢樹子」の一語で僧が「忽然大悟」したと明記する点は決定的な改変である。そして、この改変は、「栢樹子」の一語にひたすら精神を集中する事で、感情や思考を完全に断滅したー「心意識」が気息を絶したー「徹頭の処」に至れとする要求に対応する。ここに至って「栢樹子」は、「境を将って」云々という中間の遣り取りを辿るべきものではもはやなく、概念的思考を拒絶した「栢樹子」一語として「只だ」言われたものとなっている。『無門関』がこれをあっさり中間を省いた一問一答にまとめたのは、この目的にとって、極めて実用的・効率的な措置であったと言ってよい。

 大慧系の「看話禅」が中国禅の歴史的演変の最終段階に位置し、その後、中国・朝鮮・日本の禅の主流となったものである事は周知の所であろう。特に日本では江戸期の白隠慧鶴が看話禅の階梯的な体系化に成功し、その影響力は今日まで及んでいる9井筒論文に「臨済禅において確立された公案組織」とあったが、これは白隠の禅にこそ相応しい表現である)。近代日本の思想家が接した禅も、二〇世紀に欧米社会に伝播された「ZEN」も、主にはこの系統のものであり、それにつれて、中国でも朝鮮でも殆ど読まれた形跡がなく、専ら日本でのみ行われていた『無門関』が、いつしか『碧巌録』と並ぶ代表的禅籍と目されるようになり、現代の日本および欧米で最も翻訳の多い禅籍となっていった。だから、井筒氏が禅を論ずる際に、看話禅と『無門関』が念頭に置かれたのは、至極自然な成り行きだったはずであり、恐らく氏自身には、中国禅の歴史の中から、ある特定の一段階を選び取ったと云う意識はなかったものと想像される。

 一時代の歴史的所産である特定の禅をそのまま、一足跳びに普遍化するという飛躍は、師の意図に従う限り、必ずしも不当な事ではない。曾ての鈴木大拙や京都学派の哲学者たちの思索も、やはりこの「看話禅」―とくに白隠禅―実参の体験を共時的に現代の思惟と連続させる処から始まったものであった。現に井筒論文の論理は、表現は明晰かつ新鮮に成ってはいるものの、その論旨は大拙の「般若即非の論理」と変わらない。そうした現代的思惟から学ぶものはむろん計り知れぬほど多いのだが、しかし、もし立場を変えて、禅をあくまでも「歴史的聯関」に即して通時的に捉えようとするならば、唐の禅と宋の禅の断絶の一面は無視出来ないし、そのような飛躍によって脱け落ちる唐代禅の精彩は、余りにも捨て難いものに思われる(大拙盤珪の「不生」禅や敦煌出土の初期禅宗文献の研究を通じて「看話」以前の禅へと思想の中心を移していったのも、或いはそうした問題意識からではなかったか)。

 禅問答の問いと答えを有意味な対応関係を持たぬ脱意味的なものー「無義語」「無理会話」―と解するのは、宋代禅に広く見られる傾向であり、それ以後、その種の考え方が、今日に至るまで禅問答理解の主流を為してきた。しかし、唐の問答は、本来、そのようなものではなかった。そこでは、禅門という一種の共同態の中で、幾つかの問題関心とそれに関する先行の問答の記憶が共有され、その中で新たな問答が展開されていた。碁の布石が箇々の石自体にではなく、石と石との間に論理を持つ如く、唐の禅門においては、箇々の問答が一見意味不明の如くでありながら、実は問答と問答の間に文脈があり、それに支えられて箇々の問答が、相互に有意味に成っていたのである。それが宋代になると、問答は互いの連関から切り取られて、単独・孤立の参究の題材とされ、それと共に問いと答えは、無関連で非概念的な断片として扱われるように成っていった。その過程の解明は今後の研究に俟たねばならないが、ともあれ、盤の上から白紙の上に移された一つの碁石は、もはや意味の脱落したオブジェであり、かくて問答は「公案」となった。

 活きた対話でなく、すでに無機質な表徴となった「公案」について、井筒説の論理は直接に適用可能であり、しかも極めて有効である(論文第四節は「公案」の次元と「公案」以前の「生の姿の禅的言表」を分けて論ずるが、結局、前者の理解を後者に当てはめているように思われる)。それに比べれば、ここに試みたような我々の読み方は、恐らくあまりにも迂遠なものと映るに違いない。しかし、禅に何らかの意味の現代性があるとすれば、それは唐代禅なら唐代の、宋代禅なら宋代の、それぞれの時代における「現代性」を読みとる処から

考えられるべきではあるまいか。歴史的文脈と無縁に現代思想の関心に従って随意に禅籍が裁断されたとしたら、得られるものは、時に、禅籍を鏡とした現代思想の自画像でしかないものになりかねまい。まして、禅籍をまともに読まぬまま、現代思想の用語を借りて、禅の言語論などを云々する昨今の一部の論考は、禅の理解において無益であるだけでなく、おそらく現代思想に対しても何ら加えるものを持ち得ぬであろう。

 

これは『思想』960号にて特集記事「禅研究の現在」の中の小川論文をワード化したものであり、一部修訂を加え、最後の「注」は省略した。(二谷・2022・タイ国)