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現代人による正法眼蔵解説

平泉澄と権門体制論     今谷 明

平泉澄と権門体制論

今谷 明

 

 はじめに

 

 黒田俊雄(1926~1993)の「中世の国家と天皇」が発表だれたのは1963(昭和38年)二月のことで、すでに六十年(2022年現在)が経過している。当論文の評価については、発表直後はもとより、その後も引き続いて国制史・封建制論・領主制論等々の立場から様々な批判・検討が行われ、学説史上の位置付けもほぼ確定している観がある。本稿は、黒田論文の評価を行うものではなく、黒田の視覚の根底を為す中世国家のイメージについて、近代史学史上に於いてその根源を探り、謂わば黒田学説の系譜を明らかにしようとするものである。

 黒田の学説は一般に「権門体制論」と略称されるが、筆者(今谷)はそれが今日から見て妥当であるかと云った是非論には立ち入らない。問題とするのは「権門体制論」なる学説が、どのような学説史的背景によって成立したのか、換言すれば、権門体制論成立に至る学説史前史を探ろうとするものである。

 

 一 権門体制論の概略

 

 「中世の国家と天皇」で展開された学説のポイントとなる部分を一応呈示する必要があるが、簡単ではない。筆者がいきなりこれを要約するのは、筆者黒田の意図を誤解する恐れなしとしないので、ここでは先ず、黒田自身の総括を見ておきたい。黒田が自説を、その呈示より一二年後に自らの論文集の「あとがき」において回顧した文は次のようである。

  

 この論文で私は、右の傾向と反対に、中世国家を支配権力の組織として、謂わば実体的に把握し直そうとし、そのような組織の日本中世特有の形態を指すものとして「権門体制」という概念を提唱した。権門体制とは、支配階級が構成する国家権力機構の特殊な形態を云うのであって、この体制概念の設定によって、諸権門の矛盾対立と相互補完の関係が定式化され、さらにそのような矛盾を孕む国家権力の性格を表現するものとして、王権(天皇)および官衙国衙の特殊性が浮び出されてくる。当然それは、いまも依然として未解決の問題を残している。「天皇制」の歴史的研究への新しい視覚を含むものであり、院政政権をはじめ中世の「王家」の実態を捉え直す意味をもっている。

 

 このような黒田自身の要約を、筆者なりに言い直せば、「権門体制論」とは幕府論に還元されてきた中世国家論、あるいは中世封建制論を、「実体的に把握し直す」ために打ち出された概念であり、窮極的には中世の「天皇制」、王権の構造を究明することを目的としたものという事が出来よう。まず何よりも、黒田の意図は、幕府論ないし武家政権論のみでは、中世国家論としては不充分であるという点にあった事が推測されよう。

 第二に、筆者自身が学会の発言等で黒田から直接聴き取った処によれば、正確には記憶していないが、「権門体制論」提唱の趣旨は、あくまで人民支配の体系としての権力の構造を、究明する点にあったと云うことであり、史的唯物論にいわゆる上部構造の解明を意図したものである事が強調されていたと理解している。したがって黒田の立論は優れてマルクス主義的国家論であって、黒田論文から、公家・寺社・武家という三者構造の部分だけを取り出して「権門体制」の本質の如く紹介するのは、黒田の趣旨からはやや乖離することになろう。

 また筆者は大学院生時代、黒田による『沙石集』講読の演習を受講したが、その際、「権門体制論」をあのような形で呈示した事について、黒田自身の意図を問わず語りに聴いたことがある。それも記憶は正確を期し難いけれど、その折の黒田の述懐によれば、黒田の幕府論への不満が直接の動機であったやに理解している。黒田の不満は、鎌倉幕府が中世を切り開いた進歩的勢力、あるいは朝廷・寺社等の旧守勢力であるならば、どうして日蓮宗時宗等を弾圧したりするのか、と云う事であったと思う。このような疑問から、公家も武家も等しく中世的な支配勢力であると云う黒田の基本的認識が導き出されたのではなかろうか。

 ところで、黒田は先に引用した「あとがき」において、次のようにも述べている。

 

 戦後の「中世国家」についての通説的理解は、基本的には「領主制」理論の上に立つものであり、(中略)しかし私の見解は、そうした主流的な発想と著しく異なっており、一般の穏当な研究進展の段取りを無視するものとさえ受け取られたようである。その上私は、その後続けて「領主制」を中心に据えて日本中世社会を把握することに疑問を呈出し、それが権門体制論とも密接に関連している事を表明した。そのため、主流的立場たることを自負する見地からすれば、私の一連の見解はもはや異端というより外道に近い奇怪な論にも見えるらしい。

これによれば、黒田の「権門体制論」に反発する立場は、ただに上部構造論たる幕府論による人々のみならず、下部構造論である「領主制」論者の研究者の多かった事が推測される。つまり、同じ史的唯物論マルクス主義)に立つ研究者の多くからも黒田は批判され、その批判に対する反批判を黒田が行う過程で両者の懸隔が大きくなり、黒田自身が自説を「異端」「外道」と自嘲的に位置づける(ただし、この表現は黒田の本意ではなく、皮肉か寓意によるものであろう)ことになったようである。黒田のいわゆる「領主制」論者が誰々を指すか、筆者は審らかにはしないが、察するに石母田正(1912~1986)説を批判的に継承しようとする人々ではないかと思われるが、筆者はこの方面は門外漢でもあり、これ以上深入りはしない。

 ここで、黒田が再三不満を漏らす対象であるところの、幕府論による研究者の、「権門体制論」批判を一瞥しておきたい。この立場の人々で最初に「権門体制」に疑問を唱えたのは、黒田も言及する如く石井進(1931~2001)氏であろうと思われる。石井氏の批判の論点は、

 

 だいたい、中世の日本に単一の国家機構があった、というのは、それほど明瞭な常識的事実に属するものであろうか。(中略)「古来島国として独自に存続してきた」「日本国」、という常識的感覚によりかかって、「中世国家論」を進めて行くことは、危険ではあるまいか。

とされる部分、すなわち中世単一国家存在への疑問である。黒田自身、石井氏の批判を、

 

  中世に統一的な国家を想定できるか

 

と要約し、石井氏の批判に対し、

ヨーロッパの歴史学をはじめ学説史上でも封建国家について常に、そのような疑問が出されて来たにも拘らず、なお日本中世については具体的に「国家」があった事実をここで指摘したいのだというほかはない。

と反批判を行なっている。

 ところで石井氏は、黒田批判の同論文において、氏の中世史の基本的視角を次のように述べられている。

 

 中世を通じて真の国家組織統一の担い手となっていったものは、決して貴族や社寺ではなく、それまで一地方政権に過ぎなかった武士であった。

 

このような観点から、氏は中世の支配権力の系列を、㈠律令国家からの継承的側面、㈡在地領主権の成長、なる側面の二系列として捉え、二側面の混淆したところに「封建制国家」の成立を認めている。いずれにせよ、右に引用した短い文中に、何故石井氏が黒田説に反対するのかのポイントはよく示されていると思われる。

 

 佐藤進一(1916~2017)氏は、戦後いち早く「幕府論」等を発表し、黒田が「権門体制論」において批判する「幕府論」者の中心的存在と見られていたが、黒田説については暫時沈黙を守り、十三年後の一九七六年に至って「武家政権について」を発表し、ようやく黒田に対し厳しい反論を試みている。佐藤氏はまず、「権門体制」論登場以降の学会の状況を、

この説が出てから、従来の見解はだんだん色あせてきて、特に最近では権門体制論一色のように思われる。

と総括しているが、黒田の異端外道と同じく、佐藤氏一流の遜辞であろう。ともあれ黒田説を批判する氏の舌鋒は鋭い。

黒田氏の権門体制論は、京都の朝廷側の論理であり、むしろ願望である。

と、まず黒田の論理が公家側の立場からするものと批判する。一方で氏は、

こういう状態が曾てあったという事は否定しないし(中略)鎌倉幕府の側に黒田氏の理解を許す一面がある事も事実なのである。(中略)幕府が(中略)一つの権門であるという黒田氏の理解は、一面では当っていると言わねばならない。

と、部分的に黒田説の一面を認めながらも、

 

 しかし、これで幕府の本質を説明できるかと云うと、私にはそうは思われない。(中略)何よりも武家の政権を作ってそれを支えた人々の努力と成果を、このような理解で正しく評価できるだろうか、ということに強い疑問を感ずるわけである。

と、全体としては権門体制論を厳しく却け、改めて幕府が「京都の朝廷から半独立的な東国政権」であったとする、東国政権論を展開している。この佐藤氏の批判を見るとき、黒田のよって立つ階級史観の立場と、中世国家を封建制の発展と捉える佐藤氏の立場との相違が明確になると思うが、この項は「権門体制論」を概観するのが目的であり、これ以上立ち入らない。

 

 二 黒田俊雄の中世国家像

 

 周知のように黒田は、荘園制を形成する最高領主である門閥を、公家・寺社・武家の三権門に分かち、それぞれが「公事」「護持」「守護」で言い表される国家行政を分担し、対立でなく相互補完的に国家を構成し、国政を分掌していたと説明する。黒田論の趣旨は前述のように、あくまで階級史観に基づく上部構造としての三権門なのであり、単なる政治機構論としての三者鼎立説ではないのであるが、黒田説から一般に受ける第一の印象は、従来論じられてきた武家政権とは異なる、三権門の人民に対する共同支配とでも言うべきイメージであったように思う。黒田説の提唱直後、朝日新聞の学芸欄でもこの学説のユニークさが紹介されていた事を記億するが、当時の筆者をはじめ、一般人の印象は、そのような武家だけでなく、公家・寺社も国政に参加していた、と云う一種新鮮な見方としてのこの「権門体制論」が理解されていたように思うのである。

 いずれにせよ、従来の通説において古代的、守旧的勢力として片付けられる傾向のあった公家・寺社勢力を、黒田が武家と同様に中世的権門と位置づけたことは、黒田の念頭にこのような中世社会のイメージが存在していた結果に他ならないと思われる。筆者の興味は、そのような認識に黒田が到達した過程にあるのであるが、それを以下に考えてみたい。

 

 黒田には周知のように初期の、すなわち権門体制論を構想する以前の段階において、東寺領若狭太良庄に関する基礎的な研究がある。柴田実が編集した『庄園村落の構造』は、東寺領荘園の矢野・太良両庄の研究を収めたもので、うち黒田は太良庄の立荘から鎌倉末期に至る在地の動向を担当し、そこでの成果をのちに一般的な形(啓蒙書)で『蒙古襲来』にも発表している。この黒田の業績は、戦後太良庄研究の先駆的なもので、その後出た網野善彦(1928~2004)氏著『中世荘園の様相』等によって克服されるべき点があったとはいえ、確かに黒田の中世社会、殊に平安末期におけるそれのイメージが、この太良庄研究の過程で形成されたであろう事は想像に難くない、

 鎌倉期の東寺領太良庄は、鎌倉初期に地頭が設置された、典型的な領家地頭対立型の荘園であり、鎌倉社会の縮図と云うべき面を確かに持っているように思われる。しかし、太良庄在地の動向のみから、黒田が権門体制論を構想し得たのかとなると、首を傾げるざるを得ない点もある。まず第一に、黒田氏描く太良庄には、公家ないし院権力の存在はほとんど窺われない。また領家東寺も、南都北嶺の如き大寺社に比しては、黒田が描く東寺は聊か無力に見える。鎌倉末期、この荘園の相論が六波羅から鎌倉に移管された後の状況を黒田論文は、

 

 東寺から鎌倉へ雑掌が下向し(中略)ところが、東寺がこの様に真剣になっているに拘わらず地頭代官(中略)は「権威を募って出対せず」黙殺してしまった。(中略)東寺長者佐々目僧正が関東有縁の仁である事から「秘計」をめぐらすべし、とも考えてみた。然るにこうした一切の努力にも拘らず、関東へ注進して以来廿余年という年月の間、ただ一度の問答を交わすことなく空しく過ぎたのである。

と描く。顕密真言密教の雄たる東寺側のあらゆる訴訟努力にも拘らず、関東に繋属した東寺

の訴えは放置され、ここでは寺社勢力の国政への反映というような展開は全く見られない。

それどころか、黒田が総括する鎌倉末の在地状況は、次のように表現されているのである。

 

  鎌倉末期のこの地方では、いろいろな階級・勢力がひしめき合い、争い合っていた、農民は(中略)領家よりもむしろ地頭の方をえらんだ。彼等は新しい封建的な関係を求めて或いは争い或いは結束した。(中略)地頭的支配を踏まえた守護的勢力は逐次その封建的支配機構を拡張しつつ、農民の支配を集めていた。荘園領主はこうしたすべての、諸階級の封建制への方向に全く反感をいだいていた。

 

 このように黒田が表現する世界は、そのイメージとしては、黒田が後に構想する権門体制の社会と云うよりも、反権門体制説である所の、封建制ないし領主制論が描き出す社会であるように筆者には感ぜられる。黒田が権門体制を構想するに当って、若狭太良庄の研究は何がしかのヒントになったかも知れないが、やはりここから権門体制論を創出するには、飛躍があったのではあるまいか。筆者は、黒田が権門体制論なる学説を提唱するに当って、太良庄の研究はあまり影響を与えていないのではないかと思うのである。このような個別荘園研究とか、在地動向の詳細な検討、といった諸作業とは別に、全く別系統の、別の研究者の手に立論の影響、乃至はそれをヒントにしたのではないかと考えるものである。

 

 三 平泉澄三者鼎立論

 

 中世が、武家単独で人民支配を貫徹できた時代、社会ではなく、公家・寺社武家の三権門

ないし三大社会勢力が鼎立し、共同して支配に当っていたという、この中世社会の支配構造

に関する考え方を、筆者は永い間、黒田俊雄のオリジナルな学説と考えていた。以下に述べ

ることは、右のように考えていた筆者自身の無智、不勉強を披歴したものであり、決して研

究者の誰彼を批判するものではなく、筆者の反省と自戒を吐露するものであることを、特に

お断りしておきたい。

 平泉澄の学位請求論文である『中世に於ける社寺と社会との関係』は、1923年(大正一二)にすでに脱稿されていたが、関東大震災(大正一二年九月一日)のため印刷のやり直しを余儀なくされ三年後の大正十五年に至文堂から刊行されたものである。筆者はこの著名なる著書については早くから噂として聞き、また図書館等で手にとって一覧した事はあったが、真剣に熟読する事を怠っていた。数年前、必要があって同書を本格的に通読した際、次のような箇所を見い出して、いささか奇異の感に打たれたのである。平泉は同書第二章「社寺勢力の根柢」の末尾において、

 

 中世に於ける社寺の勢力、それは実にかくも多数の神社寺院、かくも広大なる所領、かく

も多数の僧侶神人を、その勢力の根柢として有つてゐたのである。而してこの勢は、既に上

代の末期より起り来つたとはいへ、彼等が公武の二勢力と鼎立の形をなし、社会組織の上に

於て、思想の上に於て、又経済の上に於て、其他あらゆる方面に於て、社会と密接なる関係

を生ずるのは、公家既に衰へて国家統制の実力なく、武家未だ盛ならずして国民全体を支配

するに至らず、儒教も未だ盛ならず、町人もまた擡頭するに至らなかった中世に待たなけれ

ばならなかったのである。即ち社寺の勢力は中世に入って大に伸張し、国民生活の全般に亘

って社会と密接たる交渉を生じたのである。(傍点今谷)

 

と述べている。平泉はこの章において社寺勢力(黒田のいう寺社勢力)の数量的把握を試み

その総括として右の如く述べているものであるが、見れば明らかなように、三権門鼎立説と、国民統制(黒田のいう人民支配)の上で、三権門いずれも単独では支配を貫徹しえない旨を明記しているのである。権門体制論のモチーフは、黒田はたといマルクス主義立脚を強調するとはいえ、すでに平泉によって呈示されていたと言うも、必ずしも誇張には当らないであろう。

 ようするに権門体制論の骨格部分の考え方は、平泉の著作ですでに四〇年以上前に呈示されており、黒田は階級史観の立場からそれを換骨奪胎して、権門体制論として装いも新たに学会に公表したもの、と云うことになろうか。

 さらに平泉は、アジールを論じて有名な同書第三章「社会組織」の総括において、再び三者鼎立を強調して次のように結ぶ。

 

 かくてアジールは中世と共に起り、中世と共に亡びた。(中略)それは蓋し中世が(中略)他面また政府の威力の不充分であった事に原因するものであろう。之を中世のうち政府の威権最も重かった鎌倉時代に就いて観るも、幕府の直接統治し得る所は決して全国民全社会ではなく、公家は猶確乎たる法制上の威光と勢力範囲を以て之に対立し、元来公家に属してゐた社寺も亦別箇の勢力をなして殆んど鼎立の形をなして居つた。まして室町時代幕府の衰微と共に社寺の擡頭し来つた事はいふまでもない。中世に於けるアジール盛行の意義は実にこの点に存在する。(傍点今谷)

 

 このように、平泉の『中世に於ける社寺と社会との関係』(以下『社寺と社会』と略す)において二か所にわたって公・武・社寺三勢力の鼎立を強調しているのである。

 筆者ははじめ、『社寺と社会』の右の該当箇所に接した時、反射的に黒田の「権門体制論」を思い浮かべると共に、黒田は平泉の著書を知らず、全く両者は別個に、偶然的にこのような認識に達したのかと推測した。黒田は折に触れ皇国史観を排撃していたから、平泉の著作を嫌忌して読まず、大正期にすでに平泉が右のように明言していた事に全く気付く事なく、権門体制論を構想したのではないかと思ったのである。たとえば黒田は、一九八四年に発表した「『国史』と歴史学―普遍的への転換のために」において、次のように述べている。

 

 やがて周知のように一九三〇年代になり、「国体」史観の強調が急速に日本社会を覆った。その最も極端な典型的なものは、平泉澄らのいわゆる皇国史観である。それは前述の心情的共感主義・道徳的教訓主義の傾向を発展させた点でも、いわば「国史」の狂暴な反動的形態ともいうべきものであるがー以下略―(傍線部、二谷)

 

 このように平泉を憎悪した黒田であってみれば、平泉の初期の著作とはいえど全く閲読していなかった事は、(黒田の博学からして考え難いとは云え)有り得るのではないかと想像したのである。

 

 四 平泉・黒田の寺社勢力論

 

 しかしながら、黒田の「中世寺社勢力論」(以下「寺社勢力」と略す)などを読むと、平泉と黒田の言説の共通点と云うものが、いやでも目に付いてくる。黒田は「寺社勢力」の序(「はじめに」)において、

 

 中世のはじめから今日ふつう鎌倉新仏教といわれる新しい宗派が簇生してきて(中略)今日の仏教史の概論では、たいていこの新仏教諸派こそが中世の宗教の特質を最もよく備え、中世を代表する「中世仏教」であるとされて(中略)だが私は、そういう既往の見解とは逆に、中世を代表する宗教は顕密仏教であると考える。(中略)現に中世において「寺社勢力」と呼び得るものは、まさに「旧仏教」系寺社をおいて他になかったのである。

 

と述べ、新仏教を強調する通説を批判し、寺社勢力の大宗は顕密であると特筆している。ところが平泉も、前掲書『社寺と社会』の「序」において、符号を合せたかのように旧仏教を強調する。いわく  

 

 しかるに本論文に於て読者の異様に感ずべきは、普通の歴史に中世の宗教として力を極めて叙説するところの、浄土・一向・臨済・曹洞・日蓮時宗等、いわゆる新宗教に関する記述の割合に乏少にして(中略)上代の旧仏教に属する寺々の記事に充満する事であろう。(中略)当時新教の流布の、(中略)又その勢力においても、旧教のそれには遠く及ばなかつた事を挙げ得るであろう。(中略)旧仏教は、この時代に入りてはその寺院の数の著しく増加して広く全国に布くと共に、その機能もあらゆる方面に発展し、国民生活全般と密接なる交渉を有つに至つたからでもあろう。

 

 このように、平泉は「顕密」の語こそ用いていないが、通説を批判する口吻は黒田と軌を一にしている。

 次に黒田は、寺社勢力の社会に占める比重をはかるべく、大田文による分析の数字を次のように掲げる。

 

 実際、顕密寺社勢力の中世社会における比重は絶大なものがあった。現存の大田文のうち領家を註記しているものについて寺社領の比重を検出してみても、一一九七(建久八)年の日向国では総田数八〇六四町のうち寺領二三八町(約3%)社領二一〇六町(約26%)、(中略)一二八五(弘安八)年豊後国では総田数六七八三町のうち寺領二六六三町余(約39%)社領一八六一町余(約27%)となり、寺社領荘園が国内総田数の60%をこえることも珍しくないことがわかる。

 

 一方、平泉はといえば、これまた黒田と全く同様に、図田帳による寺社領の計数を次のごとく提出している。

 

 次にやゝ着眼点を転じて、各国の図田帳によりその一国内に於ける寺社領を見るに、建久八年の日向国図田帳によれば、国中総じて八千町のうち、寺社領は二千三百町あり、同年大隅国の図田帳によれば、すべて三千町のうち寺社領約千三百町に及び、殆ど一国の半に当り、更に弘安八年の豊後国図田帳に於ては国内七千六百町のうち、寺社領四千四百町、実に一国田数の過半を占むるを見るのである。

 

 このように、両者はともに図田帳に占める寺社領の比重から、中世寺社勢力の大を強調する。しかるに、黒田の補註には平泉澄の著書も論文も全く引用されていないのである。だが、右のように両者の論拠、引用史料まで符合するのを見れば、どうやら黒田は平泉の『社寺と社会』を下敷きとして、「寺社勢力」の序を執筆したのではないかという推測が成り立つ。そのことは、以下に掲げるように、両者が僧侶神人の員数を強調する箇所を見れば一層明らかとなる。まず黒田は、

 

 社会生活のなかで僧侶や寺院の数量的な比重が大きかったことにも、注目してよい。九一四(延喜一四)年三善清行が「天下人民三分之二、皆是禿首者也」(「意見封事」)といい、

 

と、まっ先に清行意見封事を引用するが、平泉も次のように同封事を掲げているのである。

 

 殊に見逃す事の出来ないのは、度牒公験の制の次第に乱れ(中略)曖昧なる出家は年々増加する一方であって、延喜十四年四月廿八日三善清行の意見封事には、

「伏以諸事ノ年分、(中略)天下ノ人民、三分之二、皆是禿首者也、」

と極言するに至ったのである。

 

黒田は、「寺社勢力」論文の「はじめに」の末尾近くで、次のように総括する。

 

 これらの事実の上に、中世において思想や学問や文学・美術・芸能さらに教育・教化などで仏教や僧侶の果たした役割を加えてみるならば、総じて中世社会における寺社勢力のもつ比重の大きさは、もはや疑うことが出来ないとおもう。

 

これに対応する平泉著書の部分を示すと、先にも引用したが、

 

 彼等が(中略)社会組織の上において、思想の上において、又経済の上において、其他あらゆる方面において、社会と密接なる関係を生ずるのは、

 

とある箇所であろう。両者は事実上ほとんど同じことを述べているのである。以上、平泉の『社寺と社会』、黒田の「寺社勢力」序との対比をまとめれば、次のようになろうか。

 

平泉『社寺と社会』

〔通説批判〕

新教流布未だ遍からず、旧教は著しい発展

〔寺社勢力の比重〕

各国図田帳による一国内の寺社領(日向・大隅・豊後)

〔僧侶激増の典拠〕

三善清行の意見封事

〔総括〕

社会組織上、思想上、経済上、其他万般方面において社会と密接なる関係

 

黒田「寺社勢力」序

〔通説批判〕

中世を代表する宗教は顕密仏教

〔寺社勢力の比重〕

大田文について寺社領の比重を検出(日薩豊筑淡等六ヵ国)

〔僧侶激増の典拠〕

三善清行の意見封事

〔総括〕

思想や学問や文学・美術・芸能さらに教育・教化などで仏教僧侶の果した役割

 

 おわりに

 

 以上によって、黒田の「寺社勢力」の「はじめに」の部分は、平泉の『社寺と社会』を黒田流に要約したものであることが明らかになったと考える。ということは、黒田が「寺社勢力」を執筆した一九七五年の段階では、黒田は『社寺と社会』を熟知していたにも拘らず、恰もそれを知らなかったかのように、注記その他で全く平泉の名を出さなかった、と云うことになる。平泉の高弟にあたる平田俊春の論文等は随所に引用されているから、黒田は既往の研究の中、とくに『社寺と社会』のみに関して引用を忌避した、と見てよいのではあるまいか。

 さてそうなると、黒田が権門体制論構想時において、平泉著作を知らなかったとは考えにくい。黒田は、「寺社勢力」執筆時と同様に、「中世の国家と天皇」執筆時においても、平泉著書を知りつつ、あえて引用を忌避したと考えざるをえない。しかし筆者(今谷)のような不勉強な学徒はいざ知らず、大方の研究者には、権門体制論や「寺社勢力」のある部分が、平泉著書のひき写しであることは、周知のことであったと思われる。

 以上によって、権門体制論の学問上の系譜を遡ってゆくと、一九二六年に発表された平泉の『社寺と社会』(注)に行きつくことは、明瞭になったと考えるが、筆者が問題にしたいのは、権門体制論提唱時に、多くの反論、批判が寄せられたにも関わらず、平泉著作との関連に触れた研究者が一人もいなかったと云う事実である。

 黒田が、平泉の学説を知りながら注記で引用しなかった事実自体は、学問公表上のルールとして若干欠けるものがあったとは云え、大した問題ではない。まして本稿は黒田を批判することを目的とするものではない。問題は、当時の学会全体がそうした黒田の行論を看過し黙認した、その事実である。戦後歴史学会には、種々のタブーが現実に存在する。タブーの打破を標榜する歴史家にしてからが、自らタブーに手を貸していると云う現状は、筆者には聊か奇妙なものに思われるが、ことは日本史学会の通弊として、片付けられぬものを含んでいると言えよう。

 学説を、立論者個人から切り離し、学説として尊重する姿勢を拒み、立論者の存在とともに葬り去って善しとしているならば、我々はまだ「皇国史観」の亡霊から自由になっていない、と云うことではないだろうか。

 

〔注〕平泉の以上の認識は、先行の研究があったのかという問題がでてくるが、取り敢えず見通しだけを述べておく。平泉が前掲『社寺と社会』の序において「中世史の研究は、従来多く武家を中心とし、社寺に就いての考察は不十分であった」と云う如く、三勢力の鼎立のイメージは平泉の独自の見解と思われる。また『社寺と社会』(五二頁)に河田嗣郎他著の『日本ノ経済ト仏教』を引用し、同書が僧侶活動を王朝期に隆昌、武家期は衰頽と結論づけるのを批判しており、中世に至って仏教界が興隆に向うという認識は、やはり平泉独特の見解とみられる。平泉は大学院生時代、黒板勝美が顧問となっていた東照宮社史編修の業務に従事しており(今谷「平泉澄の変説についてー昭和史学の一断面」)、そこでの中世日光社の研究や、自身の出身地である越前平泉寺の調査等から、中世寺社勢力についての基本的認識に達したとみられる。

 このような平泉の認識と学説は、一九〇〇年前後に行われた中田薫、三浦周行、福田徳三らによる封建制論争(上横手雅敬封建制概念の形成」、『日本法制史論集』一九八〇年)以来の中世観にたいするアンチテーゼの位置にあると見ることも出来よう。そうであるとすれば、佐藤・石井両氏の幕府論以来の戦後史学による中世社会観に対して、黒田の権門体制論の学説が、やはりアンチテーゼとして、平泉説とパラレルの位置にあると見られる事も興味深い。

 

これはpdfからワード化し提供するもので、最後尾の注記は大略し、一部修訂を加えた(二谷・タイ国にて・2022年)