道元と白山信仰 中世古 祥道
中世古 祥道
一 白山天台と平泉寺(白山神社)
平泉寺は北越を中心に荘園等を有し、確かに白山信仰の一拠点を成したが、白山との関わりはそれ程古いものでもなく、白山は当初は園城寺(三井寺)の支配下で、後には比叡山の支配下に成っても、平泉寺が主とも見られず、従って「白山天台」などとの呼称には一考する余地があろう。
そもそもは「白山天台」なる語は、今枝愛真(1923― 2010)の造語(『中世禅宗史の研究』)であり、果たしてそのような実態が存在したかが問題である。白山の周辺には天台(叡山)の有力寺院があっても、それらはどのような存在で在ったのであろうか。道元が入越した志比荘(旧吉田郡志比谷村・上志比村・下志比村)の近くには白山神(平泉寺)が在したが、当時は叡山の配下ではなかったようである。
志比の荘は当時、最勝光院(1173年(承安3)平安時代後期の後白河法皇の后で平清盛の義理の妹、建春門院(平滋子)が造営)領であり、仁和寺(真言宗御室派・門跡寺院)系の支配と思われるが、今枝氏はこの志比荘を園城寺の支配下と見、禅許容の立場に依拠するとするのである。
「白山」と「平泉寺」の関係であるが、
『園城寺伝記』では
「北国白山事、園城寺覚宗之私領也、山門度々彼白山雖所望代代御門敢無勅許」
とある。その「私領」はともかくも、叡山のそれは間違いなく、『百錬抄』(久安三年(1147)月七日条)には、
天台僧綱以越前白山可為延暦寺末寺之由訴申〔無裁許〕、五月四日、覚宗人滅之後、以白山可為延暦寺末寺之由被仰下叓、仁平二九覚宗入滅
とある。『本朝世紀』に治承の頃、加賀守師高が白山を焼払ったことから、延暦寺宗徒の訴
えが見えるから、白山が延暦寺下になっていたのは争えないが、平泉寺下かどうかは窺えな
い。
源平合戦では、木曾義仲の勢力下の燧城(ひうちじょう・南条郡)に平泉寺長史斎明の在
ったことが見える。しかし、彼が平氏に内応しその城が落ちた為、同じく同城にあった連中
のうち、なお平氏に背く者はここを去って、「白山河内」に引き籠る、という。
俱利伽羅谷で平氏は大敗し、内応の斎明も捕らえられ、「木曾殿余りの憎きに、『其の法師
をば先ず切れ』とて切られにけり」とある。
このあと、奥州から騎馬二頭贈られたので、「白山の社へ神馬に立てられけり」という。
その後、義仲は諸社に祈願し神領を寄せている。白山へ横江・宮丸の庄を与え、平泉寺へは藤島七郷が寄せられている(以上『平家物語』巻七)
この藤島七郷については『門葉記』(巻九一)は、本来平氏没官地で頼朝が「白山平泉寺」へ寄進したものとし、『玉葉』(建久六年九月二十三日条)は、
自今日座主(慈円)於無動寺大乗院被勧学講、以平泉寺領藤島年貢千石分給山上、上人
師等勧門弟子等行八講
とし、その一部が叡山支配となっている。
これらを見ると、「白山平泉寺」とあるから、「白山」と「平泉寺」の関係(平泉寺の越前登山馬場支配)は偲ばれても、平泉寺が白山社を管理したとは見えず、その寄進が平泉寺と白山社と別々なこと、また後に挙げる資料からも、平泉寺が白山に大きく関係したのは、後の室町時代になってからの感がする。
『天台座主記』承円下によると、建保二年(1214)九月に梨本と青蓮院両門で不和を起こし、青蓮院門徒僧綱以下悉く離山となった。それには「凡不和之根元者平泉寺長吏相論云々」と云う。すなわち、両門で平泉寺長吏を争ったことからである。これから見ると、平泉寺は叡山支配のもので、平泉寺が叡山に抵抗し得る勢力とは見難い。
『明月記』(嘉禎元年(1235)閏六月三十日条)に、
南京叡山又蜂起、白山加賀又神輿亰上、可擲入座主宮 云々
と見える。これは加賀の白山とあって、越前側の平泉寺ではない。
また後の事であるが、『太平記』(巻二十四)に、幕府側建立の天龍寺供養に叡山が抗議し、示威運動のため末寺三百七十余箇所へ触書を回しており、それに「剣・白山・豊原・平泉寺・書写・法花寺・多武峰(以下略)等とし、「白山」と「平泉寺」は別に挙げている。
一ツ瀬に平泉寺の役所が設けられ、山札銭の徴収や白山の管理をしたのは近世と云われる(角川『日本地名大辞典』白山禅定道下)。
『国史大辞典』によれば、白山の山岳信仰にあたっては、白山寺、平泉寺、長滝寺がおのおの登山馬場を管理し、ついにはその嶺頂の管理権について正別当の争奪を繰り返し、いずれも独自の白山修験の教団組織は発達せず、中世・近世における御師の活動も美濃馬場以外は著しくない。とある以上は、道元禅師時代には「白山天台」なるものが存在したのであろうか。
しかるに以上の事につき、角川『日本地名大辞典』(福井県版「勝山市」項)には次のように記してある。
平泉寺長吏斎明は白山諸社の武士団と語らい、木曾義仲に味方して今庄(南条郡)の燧城に籠った。越中に入った義仲は白山権現に戦勝を祈願して藤島七郷を平泉寺へ寄進したが、
すでに斎明は変心して平氏の陣にあり、加賀篠原合戦で源氏に捕えられ、首をはねられた(平家物語)。頼朝は藤島七郷を没収(玉葉)、平泉寺は鎌倉期を通じて幕府から冷遇された。
元弘の変が起ると平泉寺衆徒は・・鎌倉方の地頭淡川時治を滅ぼし、宮方への旗色を鮮明にした。平泉寺衆徒は南北朝の内乱では新田義貞を援け・・転戦したが、建武五年・延元三年(1338)寝返りし、足利方斯波高高経につき・・平泉寺は藤島七郷を回復した。
先の棒線の部分で、『平家物語』『玉葉』を挙げながら、原資料と相異のある点は注目してよい。
平泉寺は室町時代になって斯波氏・朝倉氏の保護を受けて全盛期を迎え、平泉寺四至は一里四方に及び、天文八年(1539)の「平泉寺賢聖院々領所々目録之事」によれば、同院だけでも近隣の二十か村、大野市域の十四か村、藤島荘などを所領したと云うから、このことで鎌倉期の支配を考えてはならない。
要するに、禅師時代の平泉寺は厳とした叡山下の元で、白山とは関係はあったものの、白山社を支配する程のおおきなものとは考え難く、当時の白山社には、それを離れた独自の勢力のあった事が偲ばれるのである。
二 道元禅師と白山との関係
平泉澄(1895―1984)氏は『父祖の足跡』で、
之を(越前に)案内したのは義重であったが、之を招いたのは白山権現であったろう。道元はかねてより白山の神を信仰し、「仏法擁護の大統領」と称してゐた
とされると云う。それを受ける後人も多いが、これは果たして史実なのか。古い資料には、
禅師には白山の事は全く窺われないと云ってよい。
- 入宋の時、白山に祈願したと云うのは、面山の『訂補建撕記』に、
芸州応龍山洞雲寺の室中に、左の三十四字の真蹟あり、渡宋の祈願に書せられしなるべし、仏法大統領白山妙理大権現、貞応二年二月二十四日沙門道元、二十四歳、入宋
とするが、古本の『建撕記』には見えない。
大久保道舟(1896―1994)氏は、これは『金岡用兼禅師行状記』からのもので、史的事実ではないと否定している(『道元禅師伝の研究』。
- 『建撕記』延宝本に、禅師が宋を離れる際、『碧巌録』の書写にあたり「白山明神」が助けたとある。
これも古本の瑞長本・明州本では「大権修理(利)菩薩」とし、瑞長本は「此助筆の事伝説多之、本記録に不分明」とする。(「河村本」26~27ページ・注)
この助筆者を「白山明神」とするのは江戸期の資料からで、面山の『訂補建撕記』から宗門内で定着した感あり。
- 『建撕記』明州本に、寛元二年(1244)二月八日、開堂説法のあと禅師が義重に「這一片地・・東岳連于白山」云々と語ったとある。
これから、禅師が白山を遥拝したとする者があるが、これは開闢地の四至について述べたもので、これを禅師の「白山信仰」と見るは、先走りすぎる。
この真蹟は今は見られず。
禅師の仏法観からは、このようなものが道元が書き記したとは考え難い。
懐奘の教団への帰入が文暦元年(1234)であるから、それに先立つ天福元年(1333)に、禅師が越前の波著寺教団との接触は考え難い。
以上から推察するならば、禅師には古伝にも、著述からも「白山」を窺わせる資料は何もなく、これら伝承は江戸期からのものである。宗門内に「白山信仰」が見られるのは、螢山禅師からである。
三 波著寺・吉峰寺・禅師峰等の考察
今枝氏は、平泉寺・波著寺は「白山天台」のものと見、吉峰寺・禅師峰は、「平泉寺・波著寺に関係する子院であったろう」とした。
これからか守屋守氏は、波著寺は「白山天台の一翼となっていたであろう」と云い、「平泉寺」は「禅師王子などを保有し、「元真言天台宗とする地蔵院(のちに大仏寺)もその支配下」、「吉峰寺もその傘下であった」と、すべてこれらを平泉寺下、「白山天台」とする。
その主張は江戸時代に生まれた檀家制度等を背景にするようである。
寺院は古くは檀那の建立で、その発意で帰依の僧が請ぜられたもので、その僧に属する宗旨とは直接には関係しない。
これは禅師時代で見ても、文覚は院に請うて廃寺同様の高尾寺を再興したが、彼が遠島に処せられた後、院はこれを東寺の延杲に付嘱した。金沢の大乗寺は、真言僧澄海が檀那と図って、義价を請したのである。
すなわち、寺塔は檀那中心のもので、従ってその没落のより放置もされ、その放置の堂宇は、後にその地を所領した者の支配にも成ったようである。後代の檀家制度下のように、在地の信者が護持したものではない。
故に、すべての寺院がある宗に登録されなければならないものでもなく、その入寺には檀那の諒解は必要でも、「檀信徒の諒解の下で同寺に止住」したものではない。
また、寺院は檀那に護持され、その維持の為には荘園が宛がわれたので、教線を張って信徒獲得の積極的な運動の必要性もない。
故に、いかに近くに大寺があろうと、その教線下に入っていたとも見られない。
波著寺
今枝氏は禅師入越の根拠として、この波著寺を重視した。すなわち、波著寺を「白山天台」の中核の一つとみた。北陸には天台旧弊革新に動いたものがあったらしく、その中心がこの波著寺で、ここへ大日能忍系の禅一派を受け入れたものとする。
守屋氏も、この波著寺を「白山天台の一翼となっていたであろう」とするが、果たしてこれは天台下の寺院であろうか。
早く面山は『訂補建撕記』で、直接には何宗寺院とは言わないが、妙覚寺の願文について
妙覚寺はもとより真言宗の伽藍なれば、波著寺の懐鑒徹通等の請にて書せられ
とする処からすると、真言系と見るようでるが、しかしながら、この推論には問題があり、すぐに江戸期の面山の推敲には従い難いものがある。
ここで参考になるのは、栗山泰音(1860―1937)氏が波著寺で見たという位牌の記である(『嶽山史論』第三章)。
法燈大阿遮梨法師澄海
(左側)
当時越前にて波著寺先住大乗寺開山徹通和尚師匠也 九月十五日
この解読には問題があるものの、とにかく澄海は波著寺で義价と師弟関係にあった事を窺わせるものと言える。そうすると、澄海の「大阿遮梨」は『三大尊行状記』でも「本願澄海阿闍梨」とするのみで、天台・真言いずれとも取れるが、『三大尊行状記』に「改真言院為禅院」とあるから、澄海は真言系の人物と見られる。そうすれば波著寺は真言寺院であって、そこに大日一派が寄留を許されていたとも考えられる。従って、波著寺が禅許容であっても、これが天台系の寺院とは言い難い。
能忍の伝は不詳な面が多く、建久五年には在京中と見られるが、同六年(1195)頃には没したとも言われるが、能忍の在波著寺は何時頃だったのか。
懐奘は当初、叡山下多武峰に在った覚晏下にあったが、多武峰の焼き討ち(1227)後、文暦元年(1234)に、道元下に参じた。それならば懐奘は焼き討ち後に波著寺に移り、その後に興聖寺へ参じたのか。
吉峰寺
『越前名蹟考』は「影響録云」として、養老中泰澄が「吉峰」に登って、弁財天・富士・白山を勧請し、麓下は七堂伽藍の霊場となったとするが、北条時頼がここへ回遊して桜を植える等した事からも、これは所謂の「縁起」の域を出ないものであろう。
角川『日本地名大辞典』(福井県)は、
鎌倉初期には吉峰に平泉寺末も円了坊と宗玄坊、竹原の午谷川右岸の山麓に多珍坊・東輪坊・辰の坊、その奥に福千坊・多繁坊、谷の口に地蔵坊と多くの末坊があり、
とし、「吉峰では円了坊が坊をあげて道元の修道生活に協力するなど、白山天台系の在地諸坊の援助があった」とする。
この資料が「白山天台」と云うことから、今枝氏のそれを背景にしていると受け止められるが、ともかくその資料の出処を念じていたところ、二谷正信氏の『吉峰寺に関する論考』(『傘松』平成十三年八月~十月号)で、吉田森氏編『上志比村史』であると諒解した。
それに、吉田郡志比庄光明寺の事について記している。これは『越前名蹟考』では、光明寺村下で、そこに「勢至堂」をあげ、これは「昔は平泉寺の一坊なりしに、一乱の時、本尊光明を放って此処に飛来し給うにより村名を光明寺という」とするに過ぎない。
『永平寺町史』は、この勢至堂が明治になって白山神社となったが、その由緒に、寿永二年(1182)、木曾義仲が平氏追討のため当社の白山大権現に祈願したと伝えている、とする。
それが『上志比村史』では詳述される。
光明寺は、平安・鎌倉時代は平泉寺(白山)登頂の関門で、波多野志比地頭の花谷館も、その安全性の一部を光明寺で守り得た・平安時代の末、治承年中(1177~80)、平清盛が平泉寺に志比庄うぃ寄進したことが見え、その後平泉寺の第一関門とし、それ以後光明寺の白山神社は平泉寺の支配下となり、毎年例祭をつとめ、光明寺はその別当寺になった、と。
『平泉寺史要』では、清盛寄進の志比庄について、「(清盛)吉田郡志比の庄三里を寄附したる時、光明寺はの関門を置かれし所にして、現今の上志比・下志比は平泉寺領たりしなり」としていると云う。
これによるなら、禅師入越時の志比庄は、平泉寺領で白山神社も祀られ、禅師の入ったのはその一坊のようでもあり、諸坊の応援があったとするが、
しかし、上の資料には首肯し難い事が多い。
一つは、『吉記』の承安四年(1174)二月二十六日条には、
奏最勝光院御庄々事
嶋末庄事・・
志比庄事・・ 不分明
これは清盛の寄進以前、志比庄が最勝光院領だったことを知らせる。ただそこに「不分明」とあるから、あるいは清盛なぢに押領だれていて、これが平泉寺への寄進となったのだろうか。
それにしては、その後、志比庄が最勝光院領から東寺領へとなっているのに、叡山のこと、そこに一騒動あって然るべしと見られるのに、その資料が残されていない。やはり、最勝光院が早くから領有し続けていたとみられる。
二つは、その光明寺の伝承で、古い資料には窺われない。義仲の白山神の祈願も、義仲は「白山」へ寄進もしているが、その戦勝祈願には『平家物語』では、覚明の書で「八幡神」への一項が見られる以上、ここには後の白山信仰との混交があるとも感じられる。
三つは、『建撕記』からの記載からである。
『建撕記』には、禅師下向について義重が「越前吉田郡之内、深山に安閑の古寺あり、某甲知行の内也」と記載あり。
「安閑」の字義は「安らかで静かなこと」であるが、「古寺」は「空き寺」と解したい。『三大尊行状記』では、義价は吉峰寺で典座をつとめ、「寛元元年冬、殊雪深、八町曲坂担料桶供二時粥飯」とあるのを見れば、吉峰寺には既に天台僧が在ったとは云い難く、『建撕記』に記す「吉峰茆舎此地移玉」も廃寺と考えられ、天台僧との関わりは見られない。
吉峰寺と平泉寺(白山神社)との関係も一考を要す必要があろう。
禅師峰
面山(『建撕記』)は、禅師峰とは「山師峰」で、したがって「山法師の居する峰か」叡山僧の請待かとする。
『越前国名蹟考』は、これを「禅師王子山」とし、「俗に前生王子共、又、禅師峰路とも、平泉寺四天の内」とする。
平泉澄氏は『明治の源流』では、「禅師王子の鎮座によって山を禅師峰と呼んだ」とする。
岩井孝樹氏は『大法輪』(平成元年十二月号)では、『霊山平泉寺大縁起』『越前地理指南』『越前国大野郡大矢戸村明細帳』などをあげて、禅師峰を白山のものとすると紹介している。しかしながら、それらの資料は全て江戸中期以前にも遡らない上に、古い資料の提示もない。
これらの資料は、南北朝から室町期に隆盛となった白山信仰や、それに伴う平泉寺僧兵などによる末寺化で、四至の設定も後世からとも推察されるものである。
また岩井氏は禅師峰寺の背後に白山修験の伝承のある行人窟を踏査し、その伝承を裏付ける証拠を見い出したとし、「建保五年正月」の刻銘も紹介する。
これら行人の行場で、道元禅師が果たして示衆にあたったのか。その行場の近くに禅師峰があっても、それを直ちに白山修験の行者と禅師の示衆は結び難く、行人窟の行者が道元を請して示衆を乞うなどとは納得し難いものである。
―以下略―
これは吉峰寺を中心とする道元関連寺院を中世古氏の論考からの跋文であり、一部修訂を加えた。
二谷正信『吉峰寺に関する論考』(『傘松』平成十三年八月~十月号)も参照されたい。
https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2021/01/26/145956