正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵諸悪莫作』 と褝戒思想     黒 丸 寛 之

正法眼蔵諸悪莫作』 と褝戒思想

 

日本曹洞禅における褝戒思想は、江戸中期に卍山が『禅戒訣』『対客閑話』を著してより、賛否両説の種々の論議を重ねた後、面山の『大戒訣』、指月の『禅戒篇』等を経て、万仭の『褝戒鈔』に至って大成されたと見られるものである。これらの禅戒思想の根底をなすものは、言うまでもなく「教授戒文」の所説であり、特に褝戒論として大成されたとされる万仭において、その思想的基盤をなすものは教授戒文に基く『梵網経略抄』の戒学である。万仭の『褝戒鈔』は、『梵網経略抄』(経豪鈔)によって褝門の戒義を闡明にしたものであるから、後の曹洞宗学に於ける禅戒思想は同抄が基本となつていると考えられる。そして、この抄に於ける戒思想の根拠としての一面を『正法眼蔵諸悪莫作』の巻に見ることが出来る。そこで『諸悪莫作』の巻の所説が、褝戒思想に展開する二、三の要項について考察してみたいと思う。

先ず『諸悪莫作』の巻と禅戒思想に共通するものとして、善悪と行の問題がある。同書に於ける善悪についての見解は、「善悪は時なり、時は善悪にあらず、善悪は法なり、法は善悪にあらず、法等悪等なり、法等善等なり」の語に示されていると見られるが、これについて経豪の『御抄』は、「善悪は時なりとは、人にかうぶらしめたる詞也、時に善時悪時と云時不可有、法又如此」と述べて、善悪と時、或は善 悪と法は、それそれ相対するものではなくて「人にかうぶらしめたる詞」として解されている。素より『正法眼蔵』は人法一体の世界を説くものであるが、「諸悪莫作」の巻に於いても人法一体の時であり法であるから、「善悪は時なり」ということも人すなわち身心について説かれていることは自ら明かである。そして、 この身心が無上菩提の身心であるという視点から、「諸悪莫作」の巻ではこれを現成せしめる「莫作の力量」が、重要な課題として説かれているのである。ところで、諸悪莫作の「諸悪」は、眼蔵本文に「諸悪みづから諸悪と道著せす、諸悪にさだまれる調度なきなり」と説かれるように、諸悪として固定不変なものは無いのであるから、莫作の時節には諸悪はこれに対して並び立たないとするのである。つまり、諸悪は莫作に蔵れて莫作ばかりの世界となるというのであるが、これを「善悪は時なり、時は善悪にあらず」ー善悪と時は並び立たないー「善悪は法なり、法は善悪にあらず」―善悪と法は並び立たないーとして述べられているのであり、またこの一法究尽の実践論理が「諸悪莫作」の巻を貫く基本理念であると思われる。そして、この一方を証すれは一方はくらき道理が『梵網経略抄』の戒学の要旨となっていると考えられるのである。例えば『略抄』の第一不殺生の条に「所謂不殺生と云は殺の始終にあらず、只不殺なり、喩えば諸悪莫作の莫作に習べし」と述べている如くであるが、以下にその例を挙げてみると、同じく第一不殺生の条下に「仏性常住の不殺と心得べし」として「殺すべきを不殺とは此仏戒の時は不被談也」といい、要は「只不殺なり」と説いている。この不殺生の理解は、諸悪莫作における諸悪と莫作との関係と同一であって、生命不殺(莫殺生命)と仏種増長(仏性常住)とは共に同義語に解され、莫作の力量としての不殺が明かにされているのである。また第二不倫盗の条では「仏法には財宝と分つべきなし、ぬすむ人なし、盗まるる主無きがゆへに、財宝の一法も実相を不可離」とあり、また「不盗犯と云は不殺生也、聊も不可違、所詮財宝と云は尽十方界一顆明珠なり」というが如く、不盗犯とは不殺生の道理として諸法実相の法が説かれ、次に第三不婬戒では、教授戒文の「三輪清浄無所希望・・」の語に就いて 「此清浄と云清浄は・・此の三界等の清浄には可異」として、「不著清浄清浄と心得るなり、浄穢の二法を超越するゆへに」という対立を超克した脱落の見地から「たとへ婬欲即非道と云て総に不婬也とも、諸悪莫作の理を不明、又輪転生死を不解脱は持戒に非と可云歟」と述べて、諸悪莫作の理に基くべきことを示しているのである。

以上の二、三の例にも見られるように、『梵網経略抄』が「諸悪莫作」の所説に基いて戒法を説いていることが明かであり、また『褝戒鈔』にしても『略抄』に依遵している関係

から、禅戒思想の展開と「諸悪莫作」の所説とは密接な関連 をもつのであるが、特に『略抄』に於ける実相論の開演に理論的根拠を与えているものとして、次の事を挙げることが出来るであろう。それは、『諸悪莫作』の巻における善悪は「法等悪等なり、法等善等なり」と説かれ、また衆善奉行の善の因果は「因等法等、果等法等なり」と説かれている等の理念である。この箇所についての『御抄』と『聞書』の註釈は次のようである。先ず「法等悪等なり」について『御抄』は「只是は諸悪の上の法なるべし、一方を証すれは一方はくらき道理なるべし、所落居の義如此なるべし」とあり、また眼蔵本文の「諸悪もし等なれば諸法も等なり」に就いては、『御抄』に「今の諸悪、今の諸法、尤もひとしかるべし、不可有差異」と見え、又この箇所を『聞書』では「云ふ心は諸悪もし莫作なれは、諸法も莫作なるゆゑに」と述べている。また、衆善奉行に就いての眼蔵本文では「この善の因果、おなじく奉行の現成公案なり。因はさき、果はのちなるにあらざれども、因円満し果円満す、因等法等、果等法等なり。因にまたれて果感ずといへども前後にあらず、前後等の道あるがゆゑに」とあるが、この文意について『御抄』は「たとひ此理の上には修因感果と云詞有とも、此因果に前後を立事、更不可有道理を被述也、前後等の道あるゆへにとは、たとひ前後と云詞、仏法には仕とき如此可心得と云也。」と釈し、又『聞書』では「奉行の現成公按をば、善の因とし善の果とする事は、大乗因者諸法実相也、大乗果者亦諸法実相也といふ心なるべし」として、さらに「前後等の道あるゆゑに、前をたつべくば前三三なるべし、後を立ては後三三なるべし、不可似余門義也」と述べている。以上の所説に依って見れは、眼蔵本文の等は平等絶対の意味であり、諸悪莫作・衆善奉行の菩提語としての開演は、諸法実相を莫作の量、すなわち等の道において捉えたものであって、その具体的様相が「一方を証すれは一方はくらし」という一法究尽の道理になっていると見られるのである。従って、諸悪と莫作及び衆善と奉行との関係は、公按と現成の関係に於けると同一であって、諸法実相における能所の一体的関係を示したものと見ることが出来るであろう。そして、この等の実践理念が『略抄』とそれ以後の禅戒思想の根底をなすものと考えられるのであるが、次に万仭の『禅戒鈔』の中から二、三の所説を挙げてみると次のようである。先ず同鈔三帰依の所説に「仏法には始終を立る事なし、・・妄相と実相と相対して能持の法かと覚れども、能々体脱すれは能所無し、是仏法の正路也」とあり、また不殺生の条には「受仏戒時、流転生死の皮肉骨髄不可有、今の位同大覚と云ふは、位同衆生と心得べし」と述べている。次いで不倫盗戒の条下には「諸法は実相ならば諸法を境として欲盗は、実相なるが故に可盗なく、三界を境として欲盗ば唯心の外に無客塵、・・然らば無始劫よりの盗不盗は、共に実相唯心也と解脱するなり」と論じ不妄語戒に於いては「真妄の二を立て、妄をすて真を取むと擬すれば、真の辺際を離却するなり」として「妄語生するときは大地有情同時妄語なり、不妄語生ずるときは大地有情悉不妄語也」と説いている。このように『禅戒鈔』も『略抄』と同じく一法究尽の等の理を以て貫いているのであるが、 これを再び「諸悪莫作」の巻の「善悪は時なり」「善悪は法なり」の語に就いて見ると、「諸悪莫作」の巻及び『略抄』『禅戒鈔』等の所説における善悪とは、即ち具体的現実を意味するものであり、時または法とは、普遍的真実を指すものであると理解される。しかもこの善悪の現実こそ普遍的真実であり、真実はその相を現実として現成することを示していると考えられる。従って「諸悪莫作」の巻とこれを承ける禅戒の書に於いては、善とは何か、悪とは何か、という道徳的認識が問題なのではなくて、すでに各人が存在しているこの現実において、如何にして真実を行ずるか、換言すれば、即今如何にあるべきか、ということが主要な課題とされているように思われる。そして、この立場を明かにしたのが「諸悪莫作」の巻における莫作の所説であり、さらにこれを戒法論として展開したのが『梵網経略抄』『褝戒鈔』等の戒学であると見ることが出来るであろう。

曹洞宗学における禅戒論は、卍山ののち万仭に至るまでの間に甲論乙駁の論議を重ねたもので、戒学のもつさまざまな間題が提起されている。従って、一説を以て禅戒のすべてに通ずるようなことでは勿論あり得ないし、個々の問題は別に論ぜられなけれはならない。 たた本稿に於いては、「諸悪莫作」の巻と禅戒思想の本流の中に共通する莫作即ち等の理念を中心として、 その基本的立場を考察したものである。

本稿の引用文は 『曹洞宗全書』(注解一、注解二、禅戒) に依ったものである。

正法眼蔵諸悪莫作』と禅戒思想(黒 丸)

 

 

 これは、『印度學佛教學研究』24 巻 (1975-1976) 1 号からの

Pdf資料をワード化し提供するものである。(タイ国にて 二谷)