正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵抄』 と天台本覚法門    山 内 舜 雄

正法眼蔵抄』 と天台本覚法門

山 内 舜 雄

 

     一

先に、道元褝と天台本覚法門との関係を詳究したのであるが(1)、その目途とするところは、道元禅の特質を、どの程度まで日本天台へと遡及させることが可能か、ということであった。

すなわち、道元禅師叡岳在山中に、盛行していたであろう本覚法門思想を、実際に資料に就いて検尋すると共にその影響を測り、併せて本覚法門には批判的であった宝地房証真をとおして、遠く恵心教学への遡源をこころみたわけである。

結論するところは、本覚法門と道元褝は否定的関係にあり、激しい批難を本覚法門に、道元褝師は投げかけているが、批判点のいくつかは証真のそれと共通のものがあり、むしろ恵心の正統的教学を継いだ証真にこそ、その思想的類似性が認められる、というのであった(2)。

そこで、証真をとおして恵心教学への線をまさぐったのであるが、これとて遡源に限界のあることは言を侯たない。おおむね前著が、証真研究を以て畢っているのも所以なしとし

ない。

このように道元禅を、日本天台へと遡及せしめる作業があたま打ちになった時、一転して褝師の遺された弟子たちの『眼蔵』参究から、はからずも道元褝と本覚法門との関係が明確化され得ることは、道元褝の性格を決定づけるうえで、これ以上の倖いはないと考えられる。

云うまでもなく、褝師には、詮慧そして経豪という、直弟子とその弟子があり、前者に『聞書』、後者にそれを承けて『抄』が存することは、あまねく知られている。

そして、さらに都合よきことは、詮慧も経豪も、もとはと云えば天台の僧であり、したがって両者の手に成った『御聞書抄』すなわち『御抄』には、当然のことながら天台本覚法

門の影響がみられるのではないか、という推測が成り立つ。

それが、どの程度のものかは、これから本文に沿い綿密に検尋するわけであるが、いづれにしてもその影響度によって、逆に道元褝における日本天台的な特徴が鮮明化されるであろうことは言を俟たない。

そこで、詮慧・経豪の、曹洞宗学史上の位置づけてあるが、この点に関して、鏡島元隆博士は、次のように述べられている。

道元禅師寂後、かの中国から渡来して禅師の弟子となった寂円と、その嗣義雲の系統には、道元禅の性格を、如浄褝の延長とみなして、これを中国褝宗へ接近せしめようとする傾向がある。

このような宋朝褝に対して包容的な寂円・義雲の宗風とは対照的なのが、詮慧・経豪の立場であって、そこでは宋朝褝を批判し、日本臨済宗を痛破して、道元禅の日本的展開がは

かられている(3)。

そして従来、『聞書』『抄』を擁する詮慧・経豪の立場は、宗祖の思想を忠実に祖述するものとして、いわゆる曹洞宗の伝統宗学なるものの源底をなすもの、とされている。

近代最後の眼蔵家と称された岸沢惟安師に就いた搏林皓堂博士は、その著『道元禅の本流』「まえがき」において、

伝統宗学とは、道元禅師に親しく接した直弟子である詮慧の『聞書』と、詮慧の弟子経豪の『抄』を最高の註解となし、その解説を至上として仰ぐ一派である。

と、洞門における伝統宗学の定義を、明快に云い切っている。

まことに、『聞書』『抄』は、至高の『眼蔵』註釈書と仰がれて今日に至っている。

その、現時点における研究状況であるが、これは鏡島元隆博士の「『正法眼蔵抄』をめぐる諸問題」(『褝思想とその背景』春秋社、昭和五〇年七月)にくわしい。同論文は、さらに補訂されて、『道元禅師とその周辺』(大東出版社、昭和六〇年四月) 第五章「『正法眼蔵抄』の成立とその性格」の中に収められ、より詳細な研究の推移をみることができる。

そこでは、昭和三十年代後半から、昭和五十年代後半までの、『正法眼蔵抄』に関する、十数篇の論文が、刻明に挙げられている(4)。

以て、現在の『正法眼蔵抄』研究の大要を知ることができるのであるが、概観するに、論題から推して、成立史や字句の考証に関するもの多く、思想内容に深く触れたものは、 ややすくないように感じられる。

これは『正法眼蔵抄』の研究が、まだ文献考証の段階にあり、思想内容に関する本格的研究は、 これからを意味するものであろうが、河村孝道教授の『正法眼蔵蒐書大成』の刊行によって、『御抄』の原典研究が可能となってきており、一方鏡島博士のこれまでの『御抄』研究は、先述のごとく「『正法眼蔵抄』の成立とその性格」の一章にまとめられたのを機会に、 ここに日本天台から見た『御抄』研究を、世に問うわけである。

鏡島博士が、前掲書の中で、

この書(『正法眼蔵蒐書大成』)の刊行を機会に本格的な『御抄』研究の出現を望みたい(5)。

と云っているのに、いささかでも自己専攻の分野から応えたいからに外ならない。

身近かなことからいえば、鏡島博士は、先ず『聞書』そのものの定義とその取り扱い方に、かなりの苦心を払われている(6)。

『聞書』とは、中古天台で流行した註釈の一形式で、有名なものに、彼の『盧山寺聞書』がある。法華三大部の註釈としては、証真以後あくまで正統的な天台教学を伝えたものとして、重要視されている。

この種『聞書』と称するものは、平安末から鎌倉そして南北朝にかけて、盛んに現われたもので、天台出身の詮慧が、この聞書形式を、『眼蔵』註釈に持ち込んだものと推測される。

詮慧の『聞書』と時代的にみて、先に挙げた『盧山寺聞書』は、それほど隔りはないと思われるので、両者を比較するのも興味の存するところである。

証真以後わづかに保たれた文献・考証を重んずる教相主義を背景とするだけあって、『盧山寺聞書』は、詮慧の『眼蔵』の『聞書』と対照するには好箇のものといえよう。

盧山寺は、その寺跡が御所近辺にあり、詮慧の永興庵と共に、同じく京洛の地で書かれた因縁もある。

いづれ改稿して、両者の表現形式等をくわしく検討してみることにしよう。

と同時に、このたび、口伝法門の代表的資料を、最も古いといわれる『円多羅義集』から、 その集成である『漢光類聚』までをなぞってみると、いわゆる口伝法門における聞書と称するものと、詮慧の『聞書』との比較検討なども要請されてくる。

ともあれ中古天台からの聞書形式一般が提出されておれば、利便この上もないわけで、 これを曹洞宗学側から求めるばあいは、勝手がわからず多大の労苦を要する。

まことに私の怠惰の致すところ、鏡島博士に申訳ない次第である。

その他、『御抄』の中に出てく.る、『談義』『論義』等の天台用語についても、その定義と取り扱い方を、中古天台的に明示しておけば、あとは宗学的立場からの解釈を加味すればよく、 この点なども、もっと早目に施しておけばと悔まれる。『御抄』を見ると、「落居」(らっこ)、「不落居」(ふらっこ) という論義用語の頻出が目につく。

落居」とは、論義の決着することを云い、「不落居」とは反対に決着せざるをいう。

先に『建撕記』に依拠して、「本来本法性」云云の疑団を解明した際、底本の「瑞長本」 に、

宗家ノ大事。法門ノ大綱。本来本法性。天然自性身。此理ヲ顕密ノ。両宗ニテモ。不落居(7)。

とある「不落居」で、同明州本、 延宝本、門子本、元文本等の古写本すべて用いている。

面山の訂補本のみ、「時質之耆宿。無答釈者。」と言い換えている。あきらかに論義用語を避けた意図充分である(8)。

ということは、 面山の時点でも、「不落居」が、天台の論義用語であることが意識されていたと見るべきである。

『建撕記』の前出の文で、なぜかかる語が使用されたのか、不審の念を抱いていたが、『聞書』や『抄』の中から、数多く見出すにつけ、おおよその合点を得ることができたのである。

いま、その用例を『聞書』から拾うと、

 

仏法ニ落居スレト云云、可用義也(現成公案(9))

此義ニ可ニ落居一也(仏性(10))

一仏乗ノ義モ落居スル也(仏性(11))

尤此義ニ可ニ落居一也(仏性(12))

此道理ノ落居スル所、(仏性(13))

真実ニ法文ノ道理ニ落居スルトキハ (仏性(14))

但此毒手落居スル所仏性一一アタルへキ顛(仏性(15))

所詮此段ノ落居ハ、仏性斬為ニ両段一 (仏性(16))

又牆壁瓦礫ト落居スル事不審也(身心学者(17))

可ニ落居一仏仏ナルへキ也(行仏威儀(18))

心ハヤカテ不可得ノ道理ニ落居スルナリ(心不可得(19))

如此落居セム料ニ、(古鏡(20))

所詮云為ノ義ニ落居スへキユヘニ、如此トク (三界唯心(21))

コレ説法ヲ必定落居シテ云ニ似タリ、コノ説法未落居へシ (無情説法(22))

先此事ヲ可落居、(無情説法(23))

始証又此道理ニ落居スへキナリ、(家常(24))

 

『聞書』より、以上の二十四例を挙げたのであるが、見るが如く、「落居」を、あたかも宗意の落ち着き処の意味に用いている観がある。

この天台論義の決着を示す語を、正当性をもって肯定的に使用していることに注目したい。

『聞書』を承けた『抄』が、「落居を同じ意味に用いているのは当然で、かつ多用していること、次に見るがごとくである。

 

只所詮落居スル心地ハ、仏性ハ仏性ト問取シ、露柱ハ露柱ト道取シ、 (仏性(25))

四十祖ノ落居スル処、(古仏心(26))

大迷人サラニ大悟スト云義ニ落居スルナリ、 (大悟(27))

サタメ空中花ロモ何程一一可ニ落居一哉、(空花(28))

花モ全機現ナル道理ニ可ニ落居一也(空花(29))

所詮一方ヲ証スレハ、一方ハクラキ道理ニ可落居也(古鏡(30))

只生減共ニ授記ナル道理ニ、可落居ユへナリ (授記(31))

一法通コレ万法通也ト可心得ト被落居ナリ(画餅(32))

サテ所落居ハ、此画餅不充飢ノ詞(画餅(33))

還聞コレ還聞也ト云道理ニ可落居也(仏向上(34))

但真実所落居ハ、如此云へハ、猶善悪モアリヌへシ (山水経(35))

著眼看スへシト云道理ニ可落居也(山水経(36))

只水ノ水トナル道理ニ可落居也(山水経(37))

只所ニ落居一ハ、彼等皆全山ノ道理ナルへシ (山水経(38))

此理ノ所落居ハ、只法華ノ法華ヲ転スルナリ(看経(39))

全眼ノ道理力、トカク面ハ替ヲ云ハルレトモ、所落居ハ全眼ノ理ナルへシ (看経(40))

一方ヲ証スレハ、一方ハクラキ道理ナルへシ、 所落居ノ義如此ナルへシ (諸悪莫作(41))

只所落居ハ、土石沙礫ハ土石沙礫ト云ハルル道理ナリ (仏教(42))

神通ノ神通ヲ出生スル道理ニ落居スルナリ(神通(43))

下ニツクへキ定ニ落居セリ (春秋(44))

此理ノ落居スル所カ (葛藤(45))

是ハ只落居スル所、以仏千方仏ト也(諸法実相(46))

此道理ノ落居スル所ハ、・・迦葉与迦葉ト破顔微笑スル也(密語(47))

此理ノ落居シヌル上ハ、以心伝心モ初心ナルへカラス(無情説法(48))

面授ノ道理ノ落居スル所ハ、面授仏ノ面授ニ面授ス道理ナリ(面授(49))

此理ノ所落居、大円鑑ノ大円鑑ヲ面授シ来レル道理ナリ (面授(50))

一順ニ落居セヌ所ヲ如此云也(見仏(51))

只所詮此道理ノ所落居ハ、枯木裏ニ枯木アリ(竜吟(52))

人ト云へカラスト云道理ニ可落居ナリ (西来意(53))

坐禅坐禅ト一異ニ非スト云道理ニ可落居也(発菩提心(54))

只此理ノ落居スル本意ハ、心ヲ枯来スルモ・・見不見程ノ理也(発菩提心(55))

然而詮ハ所落居仏法ノ理ニ心得合セム (大修行(56))

自己カ自己ニアフ道理ニ可落居ナリ (虚空(57))

今ノ道理ノ所落居ハ、但以鉢盂合成鉢孟ノ理ナルへシ (鉢盂(58))

此段ノ旨趣、偏界是文殊、偏界是迦葉トアリ、此心地ニ可落居也(九頁安居(59))

 

以上、三十五を挙例したが、『抄』 の用い方も、『聞書』とおなじく、宗義 宗意の落ち着き処に、すなわち肯定的に用いられている。この語の天台論義的性格への反省は、まったく見られない、といってよい。

これでは後世の『建撕記』に、「不落居」が用いられていても不思議ではない。

ちなみに『眼蔵』の『要語索引』には、落在(らくざい)、落処(らくしょ)、落地(らくち)は見られるが(二九五六頁)、「落居」はない。

道元禅師が、意識して論義用語の「落居」を避けられたのは明らかである。

すると、詮慧や経豪が、意識的にこれを用いたことになるが そこまで追及するのは酷であろう。

しかし詮慧は、高祖の会下にあって、親しく『眼蔵』の提撕を聴いたひとである。その聞書、「ききがき」といっても、現今いうそのままのノート記録を意味しない。多分にそれは註釈的性格と形式を持つものである。それだけに整理・考証するゆとりもあるわけで、無雑作な論義用語の横行は、見ようによっては不可解の一語に尽きるともいえよう。

まづ、目につきやすい「落居」を挙げたが、おなじく『梵網経略抄』の中にも、

実相即実相諸法即諸法トトク、詞ハ始終事ニ落居スル詞歟(60)

と見えている。

この文などは、煩悩即菩提を、

   本門の大教は煩悩即ち煩悩、菩提即ち菩提(61)

と説く、本覚法門に類似する表現で、それも、「詞ハ始終事ニ落居スル詞歟」と、たたみこまれると、そこに本覚法門における事常住をみないわけにはゆかなくなる。

このように、本覚法門寄りの表詮が、とくに『聞書』にみられる。これらを、綿密に検尋してゆくわけであるが、「落居」もその一環として、全体的立場から組織的に考究すべきものと思われる。因みに、本覚法門関係資料の中から、『漢光類聚』(巻一) によって、「落居」 を挙例すると、

天台一家の法門多途なりといへども、この八重を以て落居とする所なり(62)。

の如くあり、『同書』にはまた、

答ふ、このこと、もっとも落居すべきことなり。(63)

答ふ、もっとも落居すべき法門なり。(64)

とある如く、まことに「落居」が気軽に多用されているのを見るのである。

 

    二

 

語彙等の問題は、後程整理するとして、ともあれ『御抄』の研究が、その書誌学的考証の進展とあいまって、天台的視座からもなされる必要性が早急に生じてきたことを認めざるを得ない。

倖い、池田魯参教授によって、その先鞭はつけられている。「正法眼蔵抄の問題」(『駒沢大学仏教学部論集』第一号、昭和四六年三月)、「道元禅師と天台本覚思想ーー御抄における天台義批判ー」(『宗学研究』第一三号、昭和四六年三月)の二論文が、これである。

そこでは、主として天台義、すなわち中国天台と道元褝との関係が、『御抄』を中心に考察されている。

一般論から云えば、褝と天台は、中国仏教はかの隋唐時代から、密接な交渉関係を有して、南宋褝にまで至っている。

台禅の交渉は、華褝のそれに対比されて、中国仏教の諸宗教義に、深い奧行きをあたえている。

関口真大博士の、『達摩の研究』や『禅宗思想史』等の一連の業績を想起されたい。そこでは、天台教学からの禅宗観が、あますところなく綿密に詳究されている。

したがって道元禅を、南宋褝は如浄褝の延長とみなして、天台教学との関連を追及することは、すでに中国仏教でも行われた永い歴史を有するのであるから、日本は鎌倉初期の道元禅成立の時点でも、それは充分成り立っと云い得よう。

ただし、その場合、大切なことは、迹門為正の中国天台と、本門本覚思想になずんだ日本天台とを、いちおう区別して、道元禅との関係を考察することである。

次に必要なことは、 同じ日本天台においても、 いわゆる伝説化された恵心流と称される口伝法門と、教相・文献を重んずる恵心の正統的教学を承けた証真等の学風とを、これもいちおう切り離して、両者の関係を追究することである。

従来、宗学では、中国天台と日本天台との特質を充分意識することなく、ただ漠然と天台教学を、道元禅師は棄てて叡岳を下山した、とされる。

その結果は、鎌倉新仏教の祖師たちにとって、いちばん重要なことである、叡岳下山の理由を、道元禅師をして不明瞭たらしめている。

この点に気付かれて、まず『眼蔵』の中から、『法華経』における迹門と本門との引用から抑えてゆかれたのが、鏡島元隆博士の研究であった。道元禅と天台教学との関係を論究するばあい、それは最も基本的な作業というべきものである。そして、それは『御抄』研究のばあいも、絶対に必要な前提となる研究であることはいうまでもない。

池田教授の上掲の二論文は、かかる鏡島博士の研究を踏まえて、主として中国天台と『御抄』との関係を追究したもので、その意味では重要な研究といえる。中国天台との関係が明瞭にならないと、日本天台との関係が明確にならないからである。ただし、雑誌掲載からは紙幅に制限があり、より詳究が望まれるというものの、今回は直接触れないこととする。以上、方法論的には確立されているのであるから、それは池田教授によって今後完成されるべきものと思われる。

そこで残された問題は、 日本天台と『御抄』との関係ということになるが、 このばあい最も重要なことは、『御抄』に恵心流ロ伝の形跡があるか、ということであろう。

先ず、『聞書』そして『抄』の成立した時点を、日本天台口伝法門の歴史的推移の立場から考察してみよう。

『聞書』の「諸悪莫作」の奥書には、褝師寂後(一二五三) 十年を経た、弘長三年(一二六三)とあり、ほば『聞書』の一部は、その時点には成立していたごとくである。ただし、『聞書』のすべてが、その時点で成立していたかは微妙な点で、この点はさらに詳究されることが望ましい。

が、すくなくとも『聞書』の一部が、褝師寂後十年にして成立していたことは、巨視的にみて、『聞書』は、鎌倉後期 (一二五〇ー一三〇〇)の撰述とみて間違いないであろう。

ただし、『聞書』に基づく『抄』の成立は、乾元二年(一三〇三)ー延慶元年(一三〇八)というから、いささか一三〇〇年までの鎌倉後期からはみ出すわけであるが、『抄』の成立時期の考察は、また別に触れよう。

そこで、ひとまず鎌倉後期のものとして、本覚法門の代表的資料を見ると、かの『漢光類聚』があげられる。

『漢光類聚』は、本覚法門はその主流をなす恵心流の、いはば集大成ともいうべきもので、 そこでは本覚法門の最終教判ともいうべき四重興廃が組織的に説かれている。

従って、その成立は、今日まで種々論ぜられてきたが、口伝法門の性質上、これを明確にすることは不可能にちかいというものの、概ね鎌倉後期の成立とするのが妥当であろうと思われる。

この点については、『前掲書』で詳論したから、ここで再説を避けるが、田村芳朗氏の説に依り、おおむね鎌倉後期の中頃と推定した次第である。(65)

聖一国師と静明との関係から、かく推測せざるを得ないのであるが、聖一国師のことは、指摘されるように『御抄』にも見えている。

すなわち、『聞書』成立の時期とみられる鎌倉後期(一二五〇ー一三〇〇)には、一方において本覚法門の集大成である『漢光類聚』が成立していることに注目したい。

そして、さらに重要なことは、『漢光類聚』において組織的に述べられている爾前、迹門、本門、観心という四重興廃の教判成立には、聖一国師を通して南宋褝の影響がみられることである。

このように、聖一国師の褝は、本覚法門と微妙な関係を有している。それは聖一国師の禅が、本覚法門の影響を受けているという意味ではなく、むしろ逆に本覚法門に影響をあたえて、観心を最終とする四重興廃の教判を成立せしめた、という意味であるが、ともあれ両者の交絡を明瞭ならしめる資料を見出すことができる。(66)

かかる時期に成立を同じくする『聞書』に、本覚法門の影響が、たとえ否定的にでもみられないか。このことは、『聞書』をとおして道元禅の性格を見極めるうえで、きわめて重要なことと思われる。

『聞書』は、鎌倉後期の、本覚法門盛行の中で、しかも『漢光類聚』にみられる如き、本覚法門思想の組織化が、かなりすすんだ時期に、時を同じくして成立しているのである。

『聞書』の撰者詮慧が、なんらかの意味で、本覚法門を意識してなかったといえば、ウソになろう。事実、『聞書』を承けた『抄』にも、あきらかに本覚法門を意識した表現に接することができる。

道元禅師が、本覚法門を悉知していたのは、おどろくばかりで、かの『弁道話』における心常相滅論批判は、あきらかに当時叡山に盛行していた本覚法門の心性常住説を痛撃したものである、とは硲慈弘師によって天台側から審細に立証されている。(67)

とは云うものの、道元禅師は、巧みに先尼外道にことよせて煙幕を張り、それが本覚法門だとは云わない。流石である。

もちろん本覚法門の著述からの引用はない。本覚法門を口にすることすらない (わづかに『宝慶記』にその片鱗をうかがう問答が、師の如浄との間でなされているが、これとて国外留学中のできごとである)。

鎌倉三宗の祖師方は、本覚法門には敏感で、かの日蓮には本覚法門に関する代表的著述の親筆と称する写本があるにかかわらず、彼の真撰とされる著書への本覚法門からの引用は皆無であるという。

日蓮にして然り。道元禅師に本覚法門からの引用文があろうはずはない。本覚法門から絶対に足を引っぱられないよう細心の注意を払っている。

先に挙例した、天台の論義用語の「落居」「不落居」すら、『眼蔵』は使っていない。「論義」の発達が、口伝法門の発達を促したじじつを、六年に及ぶであろう叡岳在山中に、悉知していたからに外ならない。

ところが、『聞書』『抄』という、弟子たちの註釈書となると、はなしは別である。いかに会下に在って、直接『眼蔵』の提撕を聴いたとしても、所詮宗祖に対しては、詮慧は二番手の祖述者にすぎない。無神経に、軽々しく論義用語を、しかも宗意の決め手として使用している。

高祖のように、本覚法門を直撃しておきながら、たくみに蹤跡をくらますような卓越したちからを期待する方が無理というものであろうか。

詮慧、そして経豪が、前身天台僧であったことから、論義用語や、口伝法門とおぼしき表詮を用いたり、あるいは重要な本覚法門の口伝の二、三を出したことを、理由づけることは容易である。

しかし、両者が天台僧であることに、私は、あまり執するつもりはない。

懐奘禅師をはじめ、初期の道元僧団は、みな天台僧によって占められていたのであるから。

ただ詮慧が、中古天台において、ひろく用いられていた『聞書』(ききがき)という註釈形式を採って、『眼蔵』を注解したことは追及しておいた方がよい。

それは禅の語録の注解とは、いささか異るものであろう。道元褝は、『聞書』形式の方が注解し易かったところに、その性格の一部が窺知できるからである。

経豪の『抄』の成立は、『聞書』成立から、数十年おくれて、十四世紀初頭(一三〇三ー一三〇八)である。十四世紀以降となると、本覚法門は、その堕落逸脱の歩を早める。

その意味では、『抄』は、本覚法門の方からみると、まことに危ない時期に成立している、といえる。

本覚法門についての基礎資料を多年に亘って読み、多少本覚法門の実態がわかってきた現在、『御抄』を改めて読むことには、正直いってある種の危懼があったことを告白せざるを得ない。

しかし、『御抄』の中に、「無作三身」「鏡像円融」等、あきらかに口伝法門の代表的なものが挙げられてはいるものの、結果的には見事にこれらをシャットアウトし、道元禅の純粋性が堅持されているのをみて、大きな安堵感を得たのである。

『御抄』成立の時期が時期だけに、いささかでも本覚法門の影響があるのでは、という危懼の念を抱くのは当然といえようが、『御抄』には本覚法門の影響は、本質的には見られないといってよい。多少のそれらしき表詮はみえても本筋にかかるものではない。流石というべきである。

『御抄』の注解を以て至高と仰ぐ一派を、伝統宗学と定義した意味が、よく分るのである。

それにしても、日本天台と関係をもっ鎌倉新仏教の各宗に、南北朝から室町初期にかけて、ややもすれば本覚法門思想の安易な受容態度がみられるような著述が眼につくところからも、『御抄』の価値は、いかに高く評価しても、過ぎることはないと思われる。

よくも、十四世紀初頭の時点で、 これだけ祖意に忠実な、『眼蔵』の思想水準をおとさない正統的な注解を施し得たものと驚嘆される。

一方において、本覚法門の安易な解釈に堕落してゆく、多くの注釈書が、日本天台に関係ある鎌倉新宗の間で見られるだけに、切にこのことが痛感されるのである。

附言すべきは、『御抄』が撰述された永興寺の位置である。永興寺は、道元禅師茶毘の地に創められたという。従来これをめぐって種々論じられているが、天台側からいうと、永

興寺があったという、現今の西行庵附近から、八坂神社さらに知恩院におよぶ一帯は、青蓮院の域内とみられている。

現在、荼毘塔のある地から、ほど遠からぬところに、慈覚大師の開創という雙林寺もある。

いわば永興寺は、天台寺院の中に囲まれて、当時あったといえる。

詮慧・経豪は、その名からして、天台の僧という印象を受ける。当時の叡山の記録の中から、同じような名前を見すのに苦労はいらない。天台僧の時代は、かなり有名な師に就いたのであろうか。

ともあれ、天台は五箇門跡の一つ、青蓮院の域内に、寺が建てられるだけの背景を、この二人の師資が持っていたことはじじつである。

それだけに、永興寺の場所が、叡山の、当時盛行していた本覚法門思想の影響を、きわめて受け易い位置にあることは言を俟たない。

それにも拘らず、本覚法門の影響を受けることなく、『御抄』は書かれている。全然触れてないわけではないが、この点に就いては、本文を出して実証的に論ずることにしよう。

ともあれ時代といい、場所といい、本覚法門の影響を受けてもおかしくない状況のなかで、それがないのは、宗門として無上の倖いというべきである。

迹門為正の中国天台と道元禅との関係は、これを永き中国の台禅交渉史の延長線上に把えることができる。

そして結論としていえることは、従来の範囲を超えるような、目新しい進展を期待することは無理というものであろう。

日本天台の本覚法門との関係は、先に『眼蔵』をとおしても、ここに『御抄』をとおしてもない。

すると、道元褝の思想的基底をなす『本証妙修』は、『御抄』の範囲では、どのように考えたらよいのであろうか。

それは道元褝の性格を、ある意味ではかなりつよく決定づけるだけに、興味の存するところであり、また慎重な配慮を必要とする。

前著で私は、なおのこる本覚思想を、証真そして恵心へと遡及させてみたのであるが、 こんどは一転して、直弟子詮慧の 『聞書』を検尋することになった。

『御抄』に限定し、とくに『聞書』から精査するのが、宗学的手法というものであろうか。

天台学研究は、中国・日本へと、文字通り踰胼三十数年に亘るが、今ここに『御抄』にたどりついてみると、本来の宗家に穏坐する感を、やっと抱き得るのである。想えば、永きまわり途であった。

この上は、かかる立場から、道元禅の特質を、参究することが、 のこされた最後の課題である。

以上の経過を、『聞書』そして『抄』の本文を出して、以下審細に考究してみたい。

 

  三

 

さて、本論に入る前に、鏡島元隆博士の、これまでの『御抄』研究をまとめた、「『正法眼蔵抄』の成立とその性格」 (『道元褝師とその周辺』第五章)なる論文を、上来の本覚法門研究の天台的視座から、整理検討しておく必要があろう。

まず最初に感ずることは、永久岳水師と大久保道舟師をのぞけば、『御抄』の研究に手を染めたたものはなく、博士の「正法眼蔵抄の成立とその性格」(『駒沢大学仏教学部研究紀要』第二一号、昭和三九年三月)が、近時における『御抄』研究の矯矢というのであれば、その研究期間は近々二十年にすぎない。このたび改稿補訂された同書第五章にあげられた後進たちの、一〇あまりの諸論故は、すべて昭和三九年から昭和五七年までのものである。(68)

伝統宗学所依の、根本的な註釈書としては、いささかなおざりにされた感があり、永いあいだ天台という他国に踰胼した筆者にとっては奇異の念すら抱かざるを得ない。『御抄』の要語索引のような基礎的作業すらなされていないということは。

それはさて措き、鏡島博士は、『聞書』の撰者詮慧を、伝戒の弟子にすぎなく嗣法の弟子でないという大久保道舟師の説を否定して、これを嗣法の弟子であると主張している。(69)

『聞書』の撰者が、道元嗣法の弟子でなければ、宗学の正統性いづこにありや、ということになるから、嗣法の弟子なければ困るのである。

じじつ『聞書』を拝覧すれば、その力量抜群なることが随処にうかがわれ、殊に本覚法門的解釈に傾きやすいところを、紙一重で剣が峯にこらえて、道元褝の特質を発揮しているのをみると、嗣法の弟子に非ずんばなし得ざるところで、それも相当永く会下にあって『眼蔵』の提唱を聴いていたこと瞭然で、興聖寺時代からの随待というのも肯ける。

また鏡島博士の歴史的論証も、綿密で説得性をもっている。問題は、詮慧が、永興寺を開いた時期および永興寺の所在地である、と博士はいうが、これが明確化されないと、天台は本覚法門と比較するばあい、大へん困るのである。

本覚法門の性格からいって、その資料の成立年時や場所を確定することは、 まず難しい。仮托・偽撰の書であるから、撰者も場所も最初から、ねつ造されているのである。

したがって、確定できる方から、はっきりさせないかぎり、比較そのものが成り立たない。

『漢光類聚』と『聞書』とを、比擬しようというのであるが、前者が一三世紀後半の中頃(一二七五)の成立というから、『聞書』の一部ができたという弘長三年(一二六三(『諸悪莫作抄』)を、まず動かぬものとして比較を成立させようというのであるが、『漢光類聚』の成立はまったく推定にすぎなく、鎌倉初期という硲説と、鎌倉後期という田村芳朗説とでは、半世紀ちかい違いがある。

したがって、『聞書』の方の成立年時を決めてもらいたいのである。『抄』の方は乾元二年(一三〇三)から延慶元年(一三〇八)と、きわめてはっきりしているが、『抄』は別論したいので、今は触れないことにする。

 

経豪の『抄』の基づく本の資料である詮慧の『聞書』がいつ頃成立したか、それは詮慧自身の手において成文化されていたか、あるいは経豪によって成文化されたものかということは一つの問題であるが、経豪は『聞書』を引用するに当たって敬虔な態度で臨んでおり、『梵網経略抄』の奥書にいう「一一先師上人説也、更不交余詞」という言葉は『正法眼蔵抄』においても同様であったと思われるから、すでに詮慧のもとに成文化していたものと考えられる。その成文化の時期は、道元禅師寂後、詮慧が永興寺へ移った以後のことであろうが、『諸悪莫作抄』の奥書にある弘長三年は詮慧の『聞書』の一時期とみるのが自然である。(70)

 

すると、禅師寂後、ほば一〇年をへて、その一部の『諸悪莫作』の『聞書』が成立していることはわかるが、『聞書』の依拠する七十五巻本の『眼蔵』では、『出家』が終巻で、この『諸悪莫作』の巻は、第三十一に当る。

ほば七十五巻の中央にあるわけで、それならば『諸悪莫作』の『聞書』が成立した弘長三年(一二六三)は、『聞書』の全体が完成する丁度真中ごろに位置するとみてよいか。

『聞書』成立の上限と下限の年代を、ぜひ明示いただきたい。これは『御抄』の中に出てる聖一国師は、道元褝師(一二〇〇)より二年後の生誕(一二〇二)であるにかかわらず、一二八〇年まで長命され、示寂を控えた七〇歳のとき、かの『大日経見聞』七巻を講述し、本覚法門に南宋禅の立場からの決着を示されると共に、天台の静明が参じたのを機会に、これに大きな影響をあたえて、本覚法門の最終教判である四重興廃に観心を加えしめている、とさえ云われているからである。

『聞書』の成立は、七十五巻『眼蔵』の、ほば中央に位置する『諸悪莫作』が、『抄』の奥書の示すごとく弘長三年であるならば、その後かなりの歳月が終巻の『出家』までには要したであろう。少くとも一〇年内外の年月が想定されてよいであろう。

すると、『聞書』成立の下限の時期は、聖一国師の晩年に当り、そこでは前述のごとき天台本覚法門との交渉が持たれている。

同じく京洛の地にあって、天台出身なるがゆえに詮慧は這般の事情に昧いはずはなく、そのことが彼を意識せしめて『御抄』の聖一国師批判の出現となった、と推測するは無理であろうか。

 

それにしても、弘長三年(一二六三)と経豪が『抄』に着手した乾元二年(一三〇三)との間に余りに時代の開きがあり過ぎ、その空白期間の説明がつかない。(71)

 

として、『聞書』成文化の完成下限年時は、博士は明言を避けている。 おおよそでもいい、『聞書』の完成年時は推定できないものであろうか。それが不可能なら詮慧は興聖寺に投じてから長期間、道元禅師に随従した人である。『聞書』ばかりでなく、『永年広録』の編集にも重要な役割りを果しているという。おおまかな詮慧の生没年時からの『聞書』撰迹年代の想定はできぬものなのであろうか。

『聞書』そのものについては、鏡島博士は、過不足ない定義を下されている。

詮慧の『聞書』と経豪の『抄』を合わせたものが『御聞書抄』であるが、経豪の『抄』も経豪がかつて道元禅師に師事したことがあると考えられるから、第三者の立場から成された註疏ではなく聞書と言えるものであり、詮慧の『聞書』も道元禅師の示衆を単にメモした記録ではなく、体系的意図をもってまとめたものであるから抄と言ってよいものである。

したがって、詮慧の『聞書』と経豪の『抄』は、経豪が詮慧の『聞書』を本にし、それに基づいて注釈したものであっても、同じ性格のものであると言わなければならない。(72)

加えるべき、何ものもないほど完壁な理解に敬服せざるを得ないと共に、経豪もやはり道元会下にあって、親しく聴聞したからこそ、同じ性格の『抄』すなわち「聴書」を製し得たのであって、詮慧からの又聴きでは、『御聞書抄』と両者一体化して取り扱われる同質性は出て来ない。

あとは、中古天台で流行した聞書形式を、『御抄』成立期に比較的近い、できるだけ正統的な、例せば『盧山寺聞書』などの三大部聞書を出して、鏡島説の正当性を論証すればよい。改稿してこころみる次第である。そのまえに、ひとこと聞書の一般的性格を述べれば、それはやはり中古天台の観心主義にもとずく口伝法門を背景として発達したものと見てよいであろう。すなわち本来の、科文・科釈を本文の前後に配して、詳しく文献考証をこころみると同時に、全体の組織体系を明瞭化するという註釈態度は、もはや聞書には見られない。あるのは、師の宗教体験をひたすら祖述するのが中心で、そのための文献考証が多少おこなわれるというものの、それが目的でないことは言うまでもない。いうなれば、文献主義、教相主義をとる古来の註疏とは、はなはだ性格の異るものである。文献・教相を無みしたところに成立した本覚法門の中に、この種の注抄が数多く現われたとしても不思議ではない。

聞書の、かかる一般的性格は、心得ておいた方がよい。じじつ詮慧の『聞書』も、経豪の『抄』も、まともな文献考証はおこなっていない。 また教に関説しても、これまた、まともに教相にもとずく正式の註解をなしていないのは、見るが如くである。文献・教相を、さして重んじないのは、本覚法門と同じであり、これが時代の共通性というものであろう。

その意味では、詮慧の『聞書』も、経豪の『抄』も、それなりの文献・教相の正確さを期そうとしており、本覚法門の各書と同一に論ずることはできないが、如上の消息は、いちおう悉知しておく必要があろう。いづれ本文に沿って検証するとき具体的に明らかにするつもりである。

それにしても、 永興寺が開いた時期および永興寺の所在地については、 どうなっているのであろうか。この点、鏡島博士の所論は、

これについて、大久保道舟氏は永興寺は褝師示寂後、東山の荼毘地に創建されたものであると主張している。これについては異説もあるが、大久保氏の主張は正しいであろう。(73)

と大久保説を採っている。

ただし、北越入山に際し、詮慧の興聖寺に留まったとする大久保説をしりぞけ、

私は詮慧は道元褝師の北越入山に当って禅師と行をともにしたとみるのである。(74)

その理由として興聖寺に留ったのでは、

とくに『正法眼蔵聞書』は、この書の性格から言って、親しく禅師の侍側にあって聴聞したものでなければ書けない書である。(75)ことを有力な証拠にあげている。

まことに、そのとおりであって、わずかに『御抄』に触れただけでも、随時聴聞の人でなければ不可能なるを感ずるのである。

そして所在地に関しては、在洛中しばしば茶毘地を訪れてはみたが、戦後わずかの期間でも、その現場変更はおどろくばかりで、とても七百年以上を経過した現在、適確に往時場所を見出すことは不可能であろうが、現在ある荼毘塔の附近であることは間違いないのであり、また永興寺を高台寺の寺内とする説もあるが、高台寺そのものが数百年をへた近世初頭のものであるだけに、云々すること自体あまり意味はない。

 

ただし近時、高台寺の旧跡から経豪に関する資料が出て、高台寺説が有力となっている如くであるが、後世出来た寺院の境内にその有無を論じてみても大した意味はなかろう。

茶毘の当時、永興寺の創建当時、東山のあの辺一帯は如何なる寺院の域内にあったのかを、中世の資料により類推した方が、かえって実態に即すると思い、青蓮院の吉水蔵に出入りしていた時、探したこともあったが、この時は天台学研鑽が眼前の急務で、とても身を入れての探索ではなかったから、期待すべきものは見出すことはできなかった。誰かこころみてはと思われる。

経豪については、詮慧以上に不明といわれる。

もと叡山の学僧であったこと、・・『御抄』の中にみられる天台学の造詣からいって、経豪も詮慧と同じく叡山に学んだ人であると思われる。(76)

程度のことが解っておれば、『御抄』を取り扱うのに、 それほど不便は感じないはずである。

たとえ、いかほど天台僧として経歴がすぐれていたとしても、『御抄』を中心に考えれば、それらは何の意味をも有せざることであり、道元会下に投じてこれだけの業績をあげた以上は、叡山の経歴などむしろせんさくに価しないと云い得よう。

もっとも、「『御抄』の中にみられる天台学の造詣」は、それがどの程度のものであるか、 これから吟味しないわけにはゆかぬが、かかる『御抄』の立場からの、天台への遡源のみが主たる意味を有するものであることを銘記すべきである。

経豪が道元会下に直接参じたか否かについて、鏡島博士は、大久保説に前論においては賛同して否定の方に廻ったが、今回は改めて肯定説を出している。

ことに『御抄』そのものから、「先師」の用法を挙げての論証は、首肯すべきものがあり(77)、また『抄』の内容からみても親しく会下にあったとみるのが自然であろう。

『聞書』と『抄』は、いちおう分けて取り扱うことができるにしても、結極は、一体化して評価すべき成立事情を有しているから、両者ともに道元会下にあって親しく『眼蔵』を聴いことにしなくては、『御抄』としての研究が一貫して成立すまい。

研究の都合から、かくいっているのではない。内容からみて、『聞書』に基づいて『抄』をあのようにまとめあげるは、尋常の力量でなく、親しく会下にあって『眼蔵』の提唱を聴いた人のみ、それは可能ということができるからである。ただ、『聞書』と『抄』との間には空白期間が長すぎる。それに『抄』の成立は、十四世紀にかかるから、褝師寂後じつに五六年、半世紀以上を隔てる。

そこで経豪の生没年時や随従期間の説明が、合理的に『抄』の成立とともに出来なくてはならぬ。

そこで経豪の生没年時に、ごくおおまかな推定を大胆にこころみてみる。

『抄』の撰述のはじまった乾元二年(一三〇三)を、当時の生存可能年令の八〇歳となると、褝師示寂の時(一二五三)は、ほば三〇歳という推定が成り立つ。

すると随待期間は、二〇―三〇歳までの一〇年間が、目いっぱいということになろう。意外と短いのである。それも褝師晩年の十年間、経豪にとってはおおむね二十代の聴聞とな

る。

それだけで、あの『抄』が書けるのか。

乾元二年(一三〇三)八〇歳とすると、『抄』のできあがる延慶三年(一三〇八)には、数え八十六歳になろうから、著述のでき得る限界である。

すると、経豪の随待期間は、 おおむね二十代の後半までで、一〇年を切ること確実である。なぜなら、随待以前に彼には天台僧として履歴をつけねばならぬから。

詮慧のばあいは、興聖寺からの随待というからこんな無理な推定をする必要はない。

しかし、『抄』の撰述が始った乾元二年(一三〇三)を、八〇歳とするのは、いかにもムリである。じじつ『抄』ができ上っても、果して清書本があったのか。清書できないほど経豪は高齢化していたとも云われている。そこで仮りに完成した延慶三年(一三〇八)の方を八〇歳とすると、あと五年ほど下がって、褝師示寂の時は経豪二五歳ということになり、褝師晩年の数年間しか聴いたことにならぬ。 これでは天台僧としての履歴は、 どこでつけるのか。

褝師晩年の五年間の動静からして、 とても七十五巻全部の聴聞はムリで、 その何分の一しか聴いてないはずである。あるいは一夏にすぎぬかもしれぬ。

七十五巻全部を聴いたであろう師の詮慧の『聞書』がなければ、『抄』は成立するとは考えられぬ。

寂光にも『聞書』が存する如くである。たとえ一部にしても。

『御抄』の校閲を、実智房なる人がしているのが、その奥書より知られる。(78)

すると『聞書』を撰したのは詮慧ばかりでなく、他にも存したことは、『諸悪莫作抄』奥書の、「寂光与我聞書之上、加予聞書也。可取捨者也」を見ても明らかである。

案ずるに、詮慧は、興聖寺に投じてから、『聞書』作製準備をすすめていたと思われる。よほどの長い準備期間がなければ、あのような撰述はできるものではない。

寂光は道元禅師の弟子で、詮慧の法弟にあたる、とされる。兄弟弟子ふたり揃って、『聞書』づくりをやっていたのであろうか。実智房も、そのひとりか、寂光との同一人説もあるが。

ともあれ、『聞書』づくりのグループがあったことは、『御抄』そのものから察しられる。

『御抄』は詮慧と経豪という師資たった二人でやった仕事ではなく、二人をとりまく『御抄』作製を助ける、数すくないが多少同質な『聞書』グループの存在が推測される。

というのは、詮慧ひとりが、『聞書』づくりの準備を、道元会下にあって、やっていたとは考えられない。

衆に違する行為は、大衆の中ではとりにくい。かならずや『聞書』形式で師の提唱をまとめてみようとする、前身天台僧たちの詮慧・経豪そしてこれに随う寂光らの、数すくないであろうが、『聞書』撰述のグループが存したものと思われる。

禅師の寂後かれらは詮慧の開いた永興寺に集って、『御抄』を完成させる。

詮慧は、禅師寂後ほどなく『聞書』の撰述を始めたであろうが、それがための資料は、それこそ興聖寺随待以来、充分ためこんでいた、 とみることが至当であろう。法弟の寂光が、その真似をし、弟子の経豪また然りということになる。

北陸・関東に施化した親鸞も、晩年は、京都に還って、著述に専念している。資料の問題が、その有力な理由の一つに数えられているのは、周知のごとくである。

『聞書』といっても、提撕の記録だけではなく、立派な注釈=抄である。やはり資料面で京洛の地を選んだという想定は成り立たないか。詮慧グループが、禅師寂後、永平寺に居づらい理由が、ほかにあったにしても。

とまれ、永興寺の歴史はみじかい。と博士はいう。

永興寺は経豪が『御抄』を完成したのち幾星霜を経ないで、ほとんど廃寺同然に陥ったのである。その伽藍を保ったのはわずか三〇年にも充たなかったと思われる。(79)

と、鏡島博士は記している。

そして『大智偈頌』の中の「礼永興開山塔」の偈を出して、

「大智の上洛したのは、鳳儀山に上る前、延元二、三年(一三三七ー三八)以前でなければならない」とすると、三〇年を経ずして永興寺は、偈のごとく、「空堂只見緑苔封、法席無三人補祖宗、」となっていたことになる。 それにして大智が訪れているところをみると、やはり『御抄』の業績は、それなりに知られていたのである。

どうして、そんなに早く廃絶したのであろうか。鏡島説ごとく、経豪が道元会下にあったというと、褝師示後五六年にして『御抄』は完成されるのであるから、いかに若年からの随待を想定しても、完成時には八〇歳をゆうに越していたであろう。

永興寺は五世までの記録があるというから、経豪寂後のほば三〇年に三代を経たことになる。

廃絶の理由は、現今みな推測にすぎぬから、私も一つの推測説を出しておく。

それは、あの東山一帯の、有力な天台寺院に囲まれた中で、それも本覚法門思想が盛行する時、よくもこれだけ正統な、まともな道元禅の注釈書が書けたものだ、との想いがあるからである。

永興寺は、おそらく永興庵というのがふさわしい小規模の結構であったろう。が、何をやっているか、周りの天台の徒が気づかぬはずはなかろう。二人とも前身が天台僧であれば、

多少の見知り合いもあるであろう。

『御抄』の仕事自身に、ひとつの危険が伴った感が深い。

口伝法門の重要な一つである「鏡像円融」あるいは「無作三身」を『御抄』は挙げているが、見事にこれをシャットアウトしているのは、後に詳しく論証しよう。

これだけでも危険である。天台義についても、きびしい批判を浴せて、祖意に忠実な注釈を施している。

が、『抄』の方にみられるのであるが、まま天台教学に対する、至極穏当な表現があり、 いうなれば一分の許容性を感じさせられるものもある。

周囲を気にして書いているな、と思うのは思い過ぎであろうか。

従って、その伝来についても、九州の泉福寺に至った経路も理由もさだかでないというが、私をしていわしめれば、当時の永興寺を取りまく旧仏教の情況が、そうさせたのであって、根底において天台本覚法門を痛撃している『眼蔵』と、その正意を伝える『御抄』を、京洛の地に置くこと自体、許されないことなのである。

その意味では、永興寺は、『御抄』完成後、早々に店じまいをする必要があったし、『御抄』を安全な場所に移す必要もあったのである。

天台本覚法門批判を内蔵する『御抄』の性格がわかるにつれて、いよいよその感を深くする。

南北朝時代の兵戮、社会不安等、歴史的理由は、いくらでも考えられるが、それらは一般史家にまかせて、われわれとしては『御抄』そのものの思想内容と当時の仏教界の事情から、『御抄』転移の理由づけを考えねばならぬ。

 

   四

 

さて、いよいよ『御抄』成立の本拠である永興寺をめぐる歴史的背景について、鏡島博士は、

注意すべきことは、詮慧経豪が道元禅師の門に投ずる前、その前身が叡山の学僧であったことである。

このことは、永興寺および『正法眼蔵抄』の性格を考察するに重要な視点となるものである。道元禅師の門下が北越に住山した後、詮慧・経豪がひとり洛湯に留まることができたのは、二師が叡山と深い交渉をもった人であればこそであり、永興寺の孤塁を守るには、叡山との密接な関係をもたなければ存続できなかったに違いない。(80)

と述べ、適確に当時の教界の事情を把握されているのかがわかる。

さらに、栄西建仁寺真言・止観兼修寺として叡山の別院であることに触れ、

当時の褝院は内実はともかく、表面は叡山の子院として、その存在を許されたのであり、したがって叡山教学である日本天台とも深い交渉をもったものである。(81)

として建仁寺七世円琳が、叡山の円頓戒の大家で『菩薩戒義疏鈔』六巻を探したことを挙げ、

詮慧・経豪が『梵綱経略抄』の註疏を試みたいということも、当所の禅院を支配していた円頓戒研究の風潮と没交なものではなく、これらとの関連の上において理解さるべきである。(82)

まことに、そのとおりであって、東山一帯の天台有力寺院のある中に、永興寺という禅寺を建てるのは、はなはだ奇異にも感じられたのであるが、内実はともかく表面は叡山の子

院というのなら、またはなしは別である。

しかし、かかる「内実はともかく表面は叡山の子院」として存在を許された永興寺の中で、道元褝の真髄を最高に発揮する『御抄』が撰述されたことに、われわれはおおきなおどろきを抱かざるを得ない。

そして、かかる環境は、やはり『御抄』の性格に、後述する如くある種の翳を落しているフシがみられる。

鏡島博士は、『御抄』の性格を、極めて明快にあげて云う。

まず第一に詮慧・経豪が道元褝師の立場を宋朝禅および日本臨済宗と異なるものとしてとらえたことであり、

第二に道元褝師の『正法眼蔵」を日本天台の本覚法門的教学の背景のもとに理解したことである。(83)

第一の点は、『御抄』の表詮に、明瞭にあらわれているから、問題はまったくない。それに、事は褝学の領域内のことであるから、私は触れない。すでに褝学プロパーの人たちの論攷また多く存する。

問題は、第二の点で、 はたして 『御抄』は、 日本天台の本覚法門的教学を背景にして、『正法眼蔵』を注釈しているか。

だいいち、 日本天台の本覚法門的教学とは、具体的に何を指すのか、その概念規定は、 それが『正法眼蔵』注釈に援用できる範囲を、どの程度に限定すべきか。

明確化しなければならぬ、問題点は多い。やっと、私の出番が廻ってきたのである。

巨視的な議論ではなく、こんどは、『御抄』という宗門至高の注釈書に沿って、 共体的に、 これをこころみなければならぬ。

ところでこの点に関し、鏡島博士はまづ一般論を先にこころみている。

一般に宋朝禅並びにこれをそのまま伝えた日本臨済宗道元禅師との相違は、始覚門的法門に対する本覚門的法門の相違であるとされる。始覚門的法門は因(事)より果(理)は 向かう従因向果の教えであるが、本覚門的法門とは果(理)より因(事)に向かう従果向因の教えである。しかるにこれが中国天台と日本天台とを分ける特質とされるのであるから、それは宋朝褝ないし日本臨済宗道元禅師とを分ける特質に対応するものがあるのである。それゆえに、道元禅師の立場を宋朝禅ないし日本臨済宗と区別した詮慧・経豪が、区別の拠りどころを日本天台の教学的背景に求めたことも、理の当然であって、『正法眼蔵抄』に見られるこの二つの特色は互いに表裏をなして『御抄』の一大特色をなしているのである。(84)

 

解り易すく、左に図式化してみよう。

始覚門的法門ー因(事)→果(理)〔従因向果〕ー中国天台ー宋朝禅・日本臨済宗

本覚門的法門―果(理)→因(事)〔従果向因〕ー日本天台ー道元禅(詮慧・経豪)

 

中国天台と日本天台に、始覚・本覚、理事、因果を配して従因向果、従果向因となすまではよい。

中国天台と日本天台との特長を図式化して示す、それはごく一般的図式だからである。

問題は、ここから先である。なるほど、かく平明に割り切って図式化されると、いちおうの理解は成り立つ。

しかし、中国天台と日本天台との相違を、始覚・本覚、理事因果に配して従因向果・従果向因となすは、ごく巨視的な、いうなれば初歩的理解を得るためのものにすぎなく、日本天台における本覚法門の展開は、台密を背景に複雑な様相を呈し、密教・天台・華厳・褝という最高の仏教思想の綜合開会とまで称されている。

本覚法門は、通常日本仏教史では、恵檀一一流を以て説かれ

るのを常とする。そして恵心流は観心を主として本覚立ちに、檀那流は教相を旨として始覚立ちに配される。

伝説に近いとはいえ、本覚法門の中にさえ、本覚立ち、始覚立ちが、存するのである。

道元褝は、どちらに似ているか、といえば観心を主とする本覚立ちの恵心流にきまっている。それに道元褝師は、恵心僧都源信ゆかりの横川にいた、との稚拙な発想のもとに、本覚法門の研究をはじめたことを、私は前著で正直に告白した。

したがって、「道元褝師の立場を宋朝禅ないし日本臨済宗と区別した詮慧・経豪が、区別の拠りどころを日本天台の教学的背景に求めた」(前出)といっても、いったいそれは共体的に日本天台の誰れの教学を指すのか、何んという著書に依るものなるかを、これから具体的に『御抄』の表詮に沿って検尋しなければならない。

それにしても、鏡島博士の本覚法門理解は、他処でも触れるが、おどろくべき深さを示している。

たとえ図式的でも、これだけ明確にするのは容易ではなく、後学は研究方針が立てやすい。

おそらく、両三度にわたる田村芳朗博士との論戦をとおして、田村博士の業績を、刻明に吟味された結果ではなかろうか。まさか原資料まで読んだわけではあるまい。

ここから直に、第二の点を展開してよいのであるが、第一の点とは、両者「互いに表裏をなして『御抄』の一大特色をしている」という以上、表の方から先づ触れてみよう。

まず、第一の特色について見るに、詮慧・経豪は道元褝師の立場を宋朝褝ないし日本臨済宗と異るものとしてとらえている。

道元褝師は宋朝褝に対しては、忌憚のない批判を加えているが、日本の臨済宗についてはこれをあらわに批判することを避けている。しかるに『御抄』になると、褝師がその批判を避けた日本臨済宗がむしろ主たる批判の対象とされるのである。・・

『御抄』は道元禅師が宗家である宋朝禅に対して下した批判を、末派である日本臨済宗への批判ととったのである。(86)

かして『御抄』は、「鎌倉褝を代表する蘭渓道隆と、京都褝を代表する円爾」を批判するに至るのであるが、この辺のところの曹洞宗学の手法は、 まず完壁の域にちかい緻密度を有しているから、私のあえて立入る余地はない。

じっさい『御抄』に接してみると、「近来褝僧と号する族」(やから)と称して、大慧宗杲ばかりか、日本臨済禅までの手きびしい批判が、充溢している。

道元禅師は、宋朝禅は批判しても、師ともいうべき栄西禅師の初伝した日本臨済宗への批判には、おのずから遠慮が存したものと思われる。

しかし、詮慧の時代になると、もう遠慮しておられぬほど日本臨済宗は顕在化していたであろうから、かかる批判もやもうえぬとは思われるものの、私のようないちおう天台側か

ら、いささか第三者的にみる者にとっては、『御抄』の道隆・円爾批判は頂けない。

それは詳しく後述するとして、鏡島博士は、きわめて体系的な『御抄』の位置づけを、次に示す。

『御抄』の立場は道元褝師の立場を宋朝禅および日本臨済宗から棟別しようとする色調が濃厚である。したがって、もし道元禅師の立場を、如浄を通して相承した宋朝禅を基盤とせる日本的展開と規定することができれば、『御抄』の立場は日本的展開に重点をおいて道元禅師をとらえた立場であって、(87)・・

とあり、この「日本的展開に重点をおいて道元禅師をとらえ」る立場が、先にいう「道元褝師の『正法眼蔵』を日本天台の本覚法門的教学の背景のもとに理解」することを意味するはいうまでもない。

すなわち第一の点の、宋朝褝ないし日本臨済宗への批難が、裏を返せば、第二の日本天台本覚法門からの理解を高調することになるから、たしかに両者表裏して『御抄』の一大特色をなしているのである。

そして、このような詮慧・経豪は、

 

同じ道元禅師門下にあっても、道元褝師の立場を、基盤である宋朝禅に返す方向にとらえた寂円・義雲の立場と対極を成すものであろう。(88)

 

と、さらに洞門の内の、寂円・義雲への対極的立場として位置づけ把握されている。

理路整然とした道元褝の体系的叙述が、そこに見られる。しかし、宋朝禅や日本臨済宗を、 いかに批難したとて、ただそれだけなら、道元褝の特色は出ようはずはなく、自主性はかえって見喪なわれる。

といって、日本天台の本覚法門的教学によりすぎた理解に走れば、それこそ道元禅の主体喪失はあきらかで、いづれにしても道元禅の独自生は、出てこない。

そこで、いかにして道元褝師の主体性を出しつつ特長を強調するかを、鏡島博士は、次のごとく説明している。

このように、道元禅の立場が、宋朝褝および日本臨済宗と異なる立場とされるとき、禅師をして日本的に展開させた思想的背景として、『御抄』が導入するものが日本天台の本覚法門であることは、詮慧・経豪の修学経歴からいって当然のことである。したがって、 ここに道元禅師の『正法眼蔵』を理解するに日本天台の教学的背景をもってした『御抄』の第二の特質が示される。(89)

 

天台宗有力寺院のある東山の地で、褝院をいとなむのは、内実はともあれ表向きは叡山の子院のごとき態度を取らねばならぬ。

そのうえ、中古天台の聞書形式によって『眼蔵』注釈をこころみようとするのであるから、皮相的にみれば『御抄』は、日本天台の教学的背景から注解されたとみられなくもない。

したがって、「『御抄』の導入するものが日本天台の本覚法門の教学」であるというが、それが先来何を具体的に指すかは、いまだ明らかでない。

これは『御抄』そのものに沿って検する以外になく、後章でこれをこころみるから暫く措くとして、 われわれは鏡島博士の、きわめて重要な、いわば宗学の根幹に触れるような次の言に耳を傾けなければならない。 それは、

もっとも、『御抄』の立場が日本天台の教学的背景に立っといっても、詮慧・経豪は日本天台の教学を捨てて道元禅師に帰したのであるから、そこに説かれている日本天台の教学は道元禅の高い宗旨から振り返ってみられた天台教学であり、道元禅師の宗旨がそれら天台教学をはるかに超えて、深く高い教えであることを弁証せんがための、いわば否定的媒介としての天台学であって、天台教学の立場に立っての『正法眼蔵』解釈でないことはいうまでもない。(90)

 

教学的立場からの『眼蔵』解釈を、宗学的なそれに転質換位せしめる、かかる宗学的意識は、つねに洞門の学人に自覚して維持されなければ、宗学の自主性・主体性の確立は所詮あり得ない。

道元禅の思想的基底をなす、かの「本証妙修」を、中国褝宗のもっ本覚思想から演繹することも、それなりに可能である。しかし、それでは道元褝の特質は中国禅宗の範囲内のものとなり、道元褝の日本的展開の説明に多大の支障をきたすこと言を俟たない。

といって、「本証妙修」を日本天台へと遡及せしめると、とめどない密教的理解をまねくのである。(91)

いづれにウェイトを置くも、「本証妙修」 の道元禅における特質は出てこないのであって、結局は、道元褝師自身から、『眼蔵』そのものから直かに「本証妙修」を把得する以外にないのである。

「本証妙修」が、まず証得されてこそ、その中国褝宗との関係も、はたまた日本天台との関連も、道元禅に主体をおいて、解明されてゆくのである。

この点、日本天台の教学的解釈を、いかに積み重ねたとしても、それは概念の集積にすぎず、結論として生命ある「本証妙修」はうまれてこないのである。

このばあいも、そうであって、『御抄』が、いかに日本天台の教学的理解を、巧みに『眼蔵』解釈に施しても、 それで道元褝の生命が生まれるというわけでもないのである。

と同時に、第一の点で、いかに南宋褝や日本臨済宗を非難攻撃したからといって、道元褝の自主性・主体性が確立されるわけもないのである。

所詮、非難攻撃は、他人のアラさがしにすぎぬ。みづからの真の特質が顕現されることとは別の問題である。

他を非難攻撃することによって、みづからの顕現化をはか

ることは、それこそ天に向ってツバするたぐいとも云えよう。

南宋禅や日本臨済宗を非難攻撃することによって、道元禅が立つと考えるのは、ひとつの錯覚にすぎぬ。

したがって、南宋褝や日本臨済宗への非難攻撃も、一時の方便として使用するのならともかく、これがあたかも宗学の本質であるかの如き感を抱かしめるのは、戒心を要するところではあろう。

ところで、本筋に話題を戻すと、『御抄』の背景となる天台教学について、鏡島博士は、 かなり具体的に触れてくる。次の文をみよ。

 

道元褝師の『正法眼蔵』にもっとも多く引用されている経典は『法華経』であるから、褝師の立場が天台の教学と深い関連があることはいうまでもない。しかし、『正法眼蔵』の引用文によって見る限り、褝師の立場は中国天台と結びつくのであって、日本天台と関連するものは見られないのである。(92)

 

この鏡島論文((道元禅師と天台本覚法門 法華経引用に関連してー」) は、本覚法門研究で著名な田村芳朗博士の反論を呼び起したが、論争の内容と経過は、前著の中でくわしく紹

介したから、ここでは触れない。(93)

それだけの重要な意義を有しているのである。鏡島博士も、今はこれ以上この問題にはかかわらず、『御抄』を中心として、先にすすむ。

しかし、詮慧・経豪にいたると、中国天台の文献が引用されていることはいうまでもないが、日本天台との結びつきが明らかに認められるのである。

正法眼蔵聞書』の中には、しばしば詮慧の天台教学に関する造詣を示す言葉が見られる。(94)

として、『即心是仏』巻の『聞書』から、「一心一切法一切法一心」の釈を出している。

一心一切法一切法一心と云。即心是仏の如此いはるるなり。天台なむどには此一心一切法一切法一心と云事、只是竪横義也。竪横共に不可也と嫌へば、いまの草子の如きは、天台に所捨に似たり。然而竪横を立て、共に不可也と嫌は、将錯就錯と云事を習はざる故也。 一心一切法をばやがて、一心一切法とつけ、一切法一心をは一切法一心につくれば、不可と談ずべき所なし。不可ときらはるる詞を、仏法の最極と習なり。(95)

 

さて、問題はこの意味であるが、鏡島博士は、

 

難解であるが、道元禅師の立場と天台の立場を会通したものであることは明らかである。『聞書』の中には、このような天台義をもって、『正法眼蔵』を釈している例がしばしば見られるのである。(96)

 

巨視的にみれば、会通とも見られなくもないが、むしろ積極的に天台義を踏み台にして、 より高次の道元禅の特質を発揮したもの、とみるべきか。

たしかに、ご指摘のごとく難解であるが、そのためには、「天台なむどに」いう、「一心一切法一切法一心」の取り扱い方から定めてかからねばならぬ。竪の義、横の義またしかりである。

すなわち、『御抄』の時点での、如上の天台義を、まづしっかりと抑えねばならぬ。しかるのち、「将錯就錯」の宗意を加味して、「一心一切法をばやがて、一心一切法とつけ、一切法一心をば一切法一心につく」という『眼蔵』流の開陳に至らねばならぬと思う。

このような例は、『御抄』 の中から、 それこそ数十例を挙げることができる。

いづれ各例ごとに、天台義を抑えて、これと宗意との微妙な交絡を、精細に開明してみようと思うのであるが、如上の例も、その代表的なものの一つである。今はこれ以上たち入らない。

そこで『御抄』における天台義と称するものの、取り扱い上の基本的姿勢を確立しておかねばならぬ。一貫した態度がとりうるような方法論を確立して、各例に適用するのでなけ

れば、思想の体系性は得られない。

鏡島博士は、もう一つ『柏樹子聞書』の釈をあげている。

 

天台に草木成仏と云ふ義、宗の大事にて談之。法相三論等には此義なし。抑草木成仏すやと云論義、天台儲之。先うちひらみて、成仏するかと二重に尋ぬる。答には発心修行をばまぬかれず、且は身長丈六、光明遍照と云ふ。時にこれ発心修行とこそきこゆる時に、此証拠にいだす也。但発心修行は、有情成仏にやくす。報身には成仏と云も、只人間の見をさす也。仮似無共詮。こなたには、やがて柏樹発心修行すと心得也。

このように、詮慧は天台義をもって道元褝師の『正法眼蔵』を釈しているが、注意すべきことは、その天台義が日本天台の本覚門的立場であることである。(97)

 

ここでは、天台義なるものを、日本天台の本覚門的立場であると受けとっている。

こうなると、鏡島博士のいう「日本天台の本覚門」の概念規定が、微妙なものとなってくる。

具体的にいうと、この「日本天台の本覚門」とは、いわゆる口伝法門といわれる中古天台は恵檀二流の本覚法門を指すのか、それとも三師二師から恵心までの、文献教相に依拠する正統的な本覚思想を指すのか、両者はっきり区別するのが学界の常識となっているからである。

普通、「日本天台の本覚門」といえば、前者を指すことになろう。果して、それでよろしいか。恵檀両流伝えるところの本覚法門で、道元禅を注釈して可なりや。それで、さいごまで支障なきや。いわゆる本覚法門の思想構造と、道元褝とは、異質的なりや、はた類同性が認められるや。

それらは、前著『道元褝と天台本覚法門』を通して終始追究した課題であり、結論するところは、 まったく異質的な思想構造の論証に畢ったのである。(98)

同書結論第一章「道元褝師における生死観の構造と本覚法門」、同第二章「「本証妙修」の本覚法門への遡源とその本質的相違について」を参照されたい。

『御抄』に、宗意を忠実に祖述する態度が貫かれていれば、本覚法門のつけ入る隙はなく、 じじつ『御抄』は、鏡像円融、無作三身等の、重要な口伝を挙げてはいるが、かならずしも同調してはいない。

この辺の機微は、実際に『御抄』の本文に就いて論証することになるが、基本的には、『眼蔵』と同じく本覚法門の影響を受けてはいない、と見て目下の研究をすすめている。

そうでなくは、『眼蔵』の宗意をつたえた伝統宗学正依の注釈書と『御抄』はなり得まい。

この点、鏡島博士の「日本天台の本覚門的立場」という表詮が微妙で、取りようにによっては、それは恵心以来の文献教相を重んずる正統的な天台教学ーかろじて道元褝師と同時代者の証真にまでつたわったーを意味するからである。

いづれとも採れる表詮をしたのは同博士の、比類なき慎重な学風によろうが、「日本天台の本覚門」の概定規定を明確にし、『眼蔵』ならびに『御抄』に適用できる本覚思想を、歴史的に限定してかかると、その表現はより厳密なものとならねばならぬ。

博士は、さらに、『看経聞書』をあげて、

天台の義に妙をたっと云へども、此上猶相対妙絶対妙と立て、相対妙をすてて絶対妙をとる。抑非待妙ありまむや。然而天台釈妙と云許にては、相対も絶対も、ともに非本意。 まして三妙の位をたてむこと不可然歟。ゆへに天台の義にもきこえず。但他門にこそ談ぜね、此門にはなどかなからむ。全機と談ずるこそ、非待非絶なれ。(99)

 

以下、引文を省略するが、博士の、上掲の文に対する相待妙・絶対妙の解説は、あまりにまともすぎる。

田村芳朗氏の「日本天台における一乗開会の思想」なる論文を引用し、「日本天台の本覚門は絶対妙を主とし相待妙を従とする立場である」とするのはよいとしても、

詮慧が天台の立場を「相対妙をすてて絶対妙をとる」と規定したことは、詮慧自身がかって日本天台の本覚門的立場をおいていたことを示すものである。(100)

というのには、にわかに賛同しがたい。

なぜなら、ここでいう「相対妙をすてて絶対妙をとる」とは、次につづく「抑非待妙非絶絶妙ありなんや」の文意からして、博士みづからいう「詮慧は道元褝師の立場は、相対妙・絶待妙を超えた非対非絶の立場を説く」 ことを意味していると考えられるからである。 したがって、

「聞書に一貫して流れているあらゆる相対的なものを円融し開会する思想は詮慧のこのような日本天台の絶対妙思想の徹底として見られる」(101)

という説には同じかたい。

これでは、『御抄』の立場を、本覚法門に近づける結果になってしまう。

たしかに、『御抄』の中には、後ほど指摘するごとく、本覚法門を以て解すればドンピシャリのような表詮がないわけでもない。

しかし、審細にみてゆくと、『御抄』は、『眼蔵』と同じく本覚法門からの致命的な影響はない、 との方針の下に理解をすすめていって差しつかえないように思われる。

もし、それができないようであるなら、『御抄』の伝統宗学における基本的な注釈書としての生命は喪われる。

ともあれ、数十例にのばるであろう、天台義、論義、談義、口伝等、およそ教家として天台を予想し得るごとき表詮ことごとくを網羅して、綿密な本覚法門からの検証をこころみてみよう。

さらに博士は、詮慧ばかりでなく経豪も、「日本天台の本覚門的立場」を受け継ぐものとして、『正法眼蔵光明抄』末尾の識語をあげ、

安然和尚此事を被釈には、善悪の法、定恵の二法をはなれたる事なし。即是道の言僻見なるべからずと云。自問自答せらるるには、三毒ともに道ならむには、何ぞ諸大乗には、さかりに是事をいましむるぞやと問。これを答するに、但除其執、不除共法 とあり。しかるを、同天台の輩も、その法を行せむもの、争共執をのそくべきやと難ず。ただし安然の御心地は、定恵の二法と心得ぬるをもて、除執とは可心得歟。但此門には執着とも不解、除執ともをしへず。不触事而知の如し、不対縁而照の如し。

この識語は経豪の識語であるかどうか疑わしいものが、後人の追補であると思われるが、・・(102)

 

と、識語の後人附加説をのべている。

たしかに、後人の附加とみて誤りはないであろう。

この例文だけで断ずるのは早計であるが、三毒以下の表詮は、いかにも口伝法門の臭があること、本覚法門の代表的各書をみればあきらかである。

そこで念のため、『曹洞宗全書本』(注解一、三四七頁) に依って、この識語の全文を出してみると、上掲の引文の前には、

 

 本巻末尾ニ左ノ識語アリ、

婬欲即是道事、

喜根比丘ノ義ニハ、婬欲ヒモ瞋癡モ、即是道ノ云ハサラムハ、仏法ハ天与地ノ如クトヲカルへシ、云云

勝意比丘ハ、又婬欲即是道ト心得ムハ、仏法ヲ隔事天与地懸隔也ト云、喜根比丘ノ見ノ方ハ、皆成仏シ、勝意比丘ノ方ハ、皆堕獄ス、已善悪ノ見ヲ発ス、堕又善悪ノ証拠顕然ナリ

の文があり、前掲の安然和尚云々の文がつづく。 その後に、次の文がある。

 

喜根比丘ノ見ヲ可ニ心得一様ハ、三毒ハ道ナリ、道ハ三毒ナリ、道ハ三毒ニアラスト云へキナリ、縁起ハ行持也、行持ハ縁起セサルカユヘント云カ如シ、努努アシクア見シテ不可堕ニ僻見、ヨクョクツッシムへシ、

 

このように識語の全文を見ると、これは、「婬欲即是道」という、当時流行した本覚法門の、重要な口伝を出したものであることが明らかである。この口伝は、前著の中で、『牛頭法門要纂』あるいは『漢先類聚』において、 かなり詳しい解説を施しておいたので、再説しない。

したがって、真中に挾まれている、安然和尚云々の文も、そのように解すべきで、中古天台の口伝法門の中でとり扱われている安然と、それは受けとるべきなのである。

口伝法門といわれるだけあって、本覚法門の各書は、ほとんどが伝教、円仁、円珍、安然という三聖二師と称せられる先人達に仮託された偽撰であり、そればかりか経論をねつ造し、引用文を勝手に変改し、まともに応接するにいとまあらずの感がある。

鏡島博士は、当然のことながら、この安然を、上古天台の三聖二師のひとりとしての、かの『教時義』等を撰した五大院安然そのものと受け取っているが、本覚法門で取り扱われ

る安然には、そこに口伝法門特有の性格が仮託されているを知らねばならぬ。

識語全文の詳解は、『蒐書大成』によって再検を要するであろうから、 のちにゆずるとして、結論だけを先廻りていうと、上掲の前・後の文意よりして、明らかに婬欲即是道の口伝を出したからには、貪体即覚体に至る凡夫成仏を説く本覚法門に対し、『眼蔵』の真意はいかにあるべきか、すなわち本覚法門を斥って宗意を明瞭に発揮したのが、この識語であると、 私はみる。

これだけでは説得性がないから、本覚法門の資料を挙げよう。『漢光類聚』巻四には、

 

摩訶止観の本意は、貪体即ち覚体なるを本覚の理と名づくるが故に、三毒の当体即ち仏体なり。貪瞋の一念、自性の三諦なるが故に、空を智徳となし、仮を断徳となす。衆生本より三諦を見ふるが故に、三毒の自体本分の智徳・断徳なり。かくの如く心得れば、衆生と仏とは、三毒の起と不起とにして、更に相違あるべからず。しかのみならず。今の文の意は、貪瞋癡の三毒の当体、本有の三諦と開覚する、これ入仏知見の妙意なりと釈するばかりなり。 ここを以て覚大師の止観の記に、「三毒を捨離して別に法性を得るを名づけて迹意となし、貪体・癡体即ちこれ本覚なるを本覚の理と名づくるなり」と。(103)

 

如上の文意を、釈すると、

「食体即覚体」なれば、三毒の当体即ち仏体となり、「食瞋の一念、自性の三諦るが故に、空を智徳となし、仮を断徳となす」にいたる。「衆生本より三諦を具ふるが故に、・・衆生と仏とは、三毒の起と不起」において同一なるを高調し、食瞋癡の三毒の当体を本有の三諦と開覚することが、これ入仏地の妙意なりというに至っては「貪体・癡体即ちこれ本覚」とまで極説されて、とうてい随いてゆけぬ感を抱かせられる。(104)

同書から、もう一例を出そう。

 

しかるに止観の意は、かくの如く起す所の我見三毒の煩悩等の自体を空仮中の三諦と心得て、妄の起も避にあらず、本より食体即覚体なるが故に、貪の外に菩提を求むれば、これ二念隔異の執情にして、止観の本覚にあらず。摩訶止観の意は、貪瞋癡の二毒念続起する、これ法性三諦の続起するが故に、衆生の当体即ち仏なり。この道理を心得るを開仏知見となす。一切衆生、念念に仏知見を起し、止観の妙行を立つれども、知らざるが故に凡夫と名づく。今知識に値ひて自心本地の三諦を聞きて、 三世常恒の妙行即に円満するが故に、衆生の外に仏体なしと釈し給ふなり。(105)

 

それは、 次のごとく解される。

 

問題は、かくの如く起すところの衆生三毒自体を、「空仮中の三諦と心得て」「妄の起も過にあらず」と「食体即覚体」を高調するにある。

なるほど、「貪の外に菩提を求むれば、これ二念隔異の執情」すなわち煩悩は煩悩、菩提は菩提、 の二つの観念に執着する妄情となるから、「止観の本意にあらず」と云って、「衆生の当体即ち仏なり」と主唱し、「この道理を心得るを開仏知見となす」というに至っては、論理のはこびとしては一見巧妙にみえても、「食体即覚体ーなる安易な凡夫成仏のすがたを、そこに見ないわけにはゆかない。(106)

以上の二文からして、この識語でいう、「婬欲即是道」すなわち「食体即覚体」の口伝法門における真意をうかがうことができよう。

三毒」の取り扱い、また然りである。例証は煩にわたるので避けるが、前著で詳説しているので参照されたい。

かかる衆生の当体即仏と見、貪体即覚体から、安易に凡夫成仏をとく本覚法門の思想構造は、本証なるも妙修を高調せる道元禅とはまったく異質のもので、それこそ、天地はるかに隔たるといわねばならない。

が、かかる安易なる凡夫成仏説が、当時盛行せる本覚法門の中で主唱されていたのであるから、これが、なんらかのかたちで、『御抄』の注釈態度の中に現われてはいまいか。

多少なりとも本覚法門関係の代表的資料をよみ、その輪郭を把んでみると、その影響が、あるいは『御抄』におよぶのではないか、と危懼されたのである。

前掲二文が存する『漢光類聚』は、その成立が、鎌倉後期の中ごろ、すなわち『御抄』成立期間と、時代を同じくする。

したがって、如上の二文が存する『漢光類聚』、それは本覚法門の集大成といわれるものであるが、を以て如上の識語にある口伝法門は「貪貪欲即是道」を解して、まず間違いはあるまい。

このように、できるだけ時代、時期、著述、著者等を、刻みに限定して、口伝法門のそれと合せてゆかなければ、 両者の比較そのものが成り立たないのである。

曹洞宗学の方でも、『御抄』といっても、『聞書』 の成立と『抄』の間に、または詮慧と経豪の間に、 それをとりまく寂光や実智房の間に、 じつに細かいことをいうのであるから、本覚法門の方でも、同様な細かい対応に迫られるのである。本覚法門の方も、時代の流れとともに、その思想は、細かい変遷をくり展げているのである。

 

さて、いちおうの締めくくりをしよう。

如上の考察経過からみて、この識語の全文が、じつは本覚法門の思考様式を排除せんとした意図の下に書かれたものであることがわかろう。

すなわち、上来の口伝のもつ「貪体即覚体」の思想を背景に、喜根比丘と勝意比丘の立場を解すべきであることはいうまでもない。

つまりは、「但此門ニハ執着トモ不解、除執トモヲシへス、不解事而知ノ如シ、不対縁而照ノ如シ」という宗意が抑えになっているのであって、さいごに、「喜根比丘ノ見ヲ可心得様ハ、三毒ハ道ナリ、道ハ三毒ニアラズト云へキナリ、・・努努アシクウ見シテ不可随僻見、「ヨクヨクツツシムへシ」というは、あきらかに本覚法門を斥ったことばと私は見る。

『御抄』の注釈の中に、本覚法門を持ち込むことを峻拒したものと解する。 そのための、念の為の識語か。

それは鏡島博士の、詮慧も経豪も、日本天台の本覚法門的立場に立って『御抄』を注釈したという態度を、真向から否定する結果とはなる。

ただし、この識語が、『光明』の巻の、いづれの『聞書』『抄』の部分に関連するものか、概観するところ、明瞭にこれを指摘することはできない。

内容からみて、『光明』の巻の巻尾に附せなければならぬ、識語とも思えない。その意味で、後人の補説とするのは当然で、もっと適当な場所があろう。いづれ、『蒐書大成』によって書誌学的に再検討を要することは確実で、この点、河村孝道教授の指教を待ちたい。

ただし、鏡島博士が、なぜこの識語の中から、安然和尚の文のみを抜き出したか。その深意を追究しなければならない。同博士は、田村芳朗博士との論戦を展開しただけあって、本覚法門には、深い関心と理解を有している。かりそめにも、この引文をおろそかにしてはならない。

それは、この安然和尚に関する引文が、意外と本覚法門思想としては、まともで穏健な内容をもっているのに気づかれるであろう。

婬欲即是道を高調するあまり、貪体即覚体にいたり、ついには凡夫実仏を主張する前出の『漢光類聚』における本覚思想には随いてゆけないが、この安然和尚に仮託された釈は、一見すると「善悪ノ法、定恵ノ二法ヲハナレタル事ナシ、 即是道ノ言僻見ナルへカラスト云、 三毒トモニ道ナラム二ハ、何ソ諸大乗経二、 サカリ二此事ヲイマシムルソヤト問、 コレ二答スル二、但除其執、不除共法トアリ・・」とあり、 いかにも納得性のあるとき方になっている。

これが曲者で、したがって「タタシ安然ノ御心地ハ、定恵ノ二法ト心得ヌルヲモテ、除執トハ可心得歟」と、あたかも安然の釈を認めるかのごとき書きぶりとなる。

この微妙な点を、見逃さず、ここに本覚法門の影響をみたのは、さすがである。

『御抄』は、これぐらいの妥協を、本覚法門としている。また道元褝師寂後の、永興寺の状況は、かくせざるを得なかった、というのであろうか。

それならば、同博士の上来の説に同じないわけでもない。もともと私の本覚法門研究は、恩師衛藤即応の天台学研究への教示にはじまり、鏡島博士を先達としておこなわれたものである。研究の大方針が両者おおきく変ることはない。ただ、ここまでくると議論が審細になり多少の差違が出てくるのはやむをえない。 ことに今日となっては、 専攻分野に入ってきた本覚法門の立場から、細部に亘っては反論も生じてくるのである。というより両者の間隙を、本覚法門の方から詰めるのが、私の役目なのであろう。その意味で以下の行論を理解していただけば倖いである。

そこで、私が心配するのは、先の『漢光類聚』の引文をかりれば、「一切衆生、念念に仏知見を起し、 止観の妙行を立つれども、知らざるが故に凡夫と名づく」という背後には、もちろん本証本覚が先取りされているのであって、 したがって、「今知識に値ひて自心本地の三諦を聞きて、三世常恒の妙行既に円満するが故に、衆生の外に仏体なし」という思想パターンがあり、これが「本証妙修」と、ある種の類同性がみられることである。

要は、本覚本証を先取りして、安易に凡夫成仏を説くところに問題があるのであって、 その結果が、未修未証の凡夫そのまま仏の当体となす俗諦常住へと傾斜してゆくのである。

しかし、多少の思想的類同性が、「本証妙修」にみられるからといって、基本的な思想構造はまったく異るのであるから、皮相的な同致に安住してはならない。

そのことを、「但此門ニハ」以下、「努努アシクア見シテ不 可随ニ僻見、 ヨクヨクツツシムべシ」と戒めているのであって、かかる本覚法門の思想的影響が、かなり『御抄』撰述グループの周辺に、迫っていたことを、それは示すものといえよう。

さて、鏡島博士は、『御抄』と日本天台本覚法門との関係について、実に重大な発言をなしている。

 

上述によって見れば、詮慧・経豪の『正法眼蔵御聞書抄』が褝師の『正法眼蔵』を理解するに、日本天台の本覚法門的背景をもってしたことは動かすことのできない事実である。それは道元禅師の思想の中に日本天台の本覚法門的思想に対応するものがあって、詮慧・経豪のこのような解釈を容れるものがあるからであるが、問題は、詮慧・経豪は道元禅師の立場を解するに日本天台の本覚門的背景をもってしただけでなく、さらに道元禅師の思想を本覚門的に展開させたものがありはしないかということである。言い換えれば、道元禅師の思想と伝承されるものの中に、実は詮慧・経豪によって天台本覚門的に展開されたものが含まれていはしないか、ということである。この点の探求は微妙な問題を含むが、一例を挙げて見よう。(107)

 

天台本覚法門の基礎資料の検尋に、歳月をついやして、やっと一書にまとめ得たので、 それでは、これを土台に『眼蔵』はひとまず措いて『御抄』に懸ってみようとすると、なんのことはない、鏡島博士はずうっと先の方をすすんでいるではないか。

如上の鏡島博士の問題提起は、 じつは年来の本覚法門の研究がまとまったのを機会に、私が本覚法門の方からやりたかったものであることは、這般の事情を知る人には容易に理解されよう。

見事に先を越されたのである。

先達であるから当然のことというものの、如上の問題提起は、私の言いたいことを、それこそ隅からすみまで言いつくしている、と言ってよい。

かかる問題提起をしたいために、本覚法門の基礎資料に刻明に当ったのである。それにしても鏡島博士は、先のさきまで見ておられる。先見の明、師の衛藤即応博士に、それは、比肩するものがある。

これほどまでに、天台本覚法門と道元褝との関係を、深解しておられる先達が眼前にいることは心づよく、励まされること誠に大であるといわざるを得ない。

かくまで鏡島博士がいうのであるから、いちおう如上の門題提起の線にそって、『御抄』を考究してみよう。たとえその結果がどうであろうとも。

というのは、 さきに『正法眼蔵光明抄』の識語を解明したとき述べたごとく、『御抄』への本覚法門の影響はみられても、致命的なものでなく、むしろ本覚法門思想を斥ったところに『御抄』の真価がある、という結論に、如上の問題提起のすえ実は達せざるを得ないからである。それはともあれ、鏡島博士の、挙例した『御抄』における本覚法門的注釈の内容なるものを検してみよう。それは『出家抄』にある次の文である。

 

大国には必先二百五十戒等の声聞戒をうけて後菩薩戒を受る也。日本にも出家の時の沙弥戒なむと云は此心地歟。然而必しも吾朝には毎度無ニ此義一歟。直受ニ菩薩大戒一なり。

 

これを以て、『御抄』は、単受菩薩戒を主張し、したがって日本天台の円頓戒的立場あるものとなすのであるが、これはその通りであろう。

ただし円頓戒を以て単受菩薩戒を主張したところで、それは伝教大師以来の叡山の戒律観の、きわめて一般的なことをいったまでで、中古天台の本覚法門とは直接しない。

『御抄』の、如上の戒律観は、 日本天台では、 ごく正統的なもので、本覚法門的ということはできない。

ただし、円頓戒的な単受菩薩戒の主張が、道元禅師の戒律観と、矛盾しているというのなら、話は別である。

もし、道元禅師の立場が、『褝苑清規』を受けた大小兼受の立場であるなら、如上の『御抄』の単受菩薩戒の円頓戒とは異なる。

が、それは、単に、円頓戒を主張しただけであって、日本天台的といえようが、日本天台の本覚法門的解釈が加ったことにはならない。

研究方法論の最初に云うごとく、いわゆる恵檀二流という口伝に依拠する、平安末期から鎌倉時代をへて、さらに南北朝へと盛行瀰浸せる本覚法門は、教相・文献を無視したものであり、したがって『御抄』のごとき、上古天台の三聖二師を重んずるような、まともな戒律観を有していない。

この点、『御抄』の注釈態度は、むしろ恵心の正統的な教学の流れを汲む宝地房証真にちかく、証真の教学と学風をおなじくする盧山寺教学に通じるものがあるということができるであろう。

これは単なる聞書という注釈形式の比較にすぎないが、詮慧の『聞書』に対して、『盧山寺聞書』を、先にあげたのは、この理由からである。

証真は、道元褝師叡岳在山中に、総学頭の地位にありながら、本覚法門を痛破し、その批判を、組織的に彼の大著『三大部私記』の中で展開した人である。

詮慧・経豪の『正法眼蔵御聞書抄』が、本覚法門を容許するはずはなく、もし、いささかでもその傾向が現われれば、注釈される『眼蔵』の思想的基盤は、根底から覆されるものと、私は見る。

詮慧・経豪の『梵網経略抄』については、改稿して別論してみたい。おそらく円琳(建仁寺七世) の『菩薩戒義疏鈔』六巻(嘉禎三年・ 一二三七)などと対比して考究する必要があるうえ、当時叡山に存するおびただしい『梵網菩薩戒義疏』 のたぐいと、詳細な比較検討が必要であろう。

それには、先に道元褝師の戒律観が、明示されねばならぬが、沙弥戒の先受を説く『得度略作法』の真偽の問題があって、『御抄』でいう単受菩薩戒が、そのまま道元禅師の戒律観として受け入れられるのか。

 

それが真撰であるとすれば、単受菩薩戒を主張する経豪の『御抄』の立場は、道元禅師そのままの立場ではなく、道元禅師の立場を日本天台的に展開した立場といわねばならない。(108)

 

という鏡島博士のいう通りであろう。

しかし、 たとえ『得度略作法』が真撰であって、経豪の『御抄』は、さらにこれを日本天台的に展開したといっても、先にいうごとく、たかだかそれは円頓戒を是認したにすぎなく、中古天台の本覚法門と、しいて結びつける必然性はまったく出てこないのである。

それにしても、『御抄』の時点では、単受菩薩戒と割り切っているのに、一方において真偽未決の『得度略作法』があって、沙弥戒の先受を説くは、それだけ道元禅の微妙な立場を示すものというべく、 ただに戒律ばかりでなくそれは、『眼蔵』の思想的境位そのものの特異性を示すものでもあろう。

『御抄』が、単受菩薩戒と割り切っているのは、『御抄』の性格を定める、 たしかに目安とはなる。といって円頓戒は、日本仏教において、当時は戒律の常識的水準を示したにすぎなく、これを以て『御抄』の日本天台寄りを、あまり強調することは考えものであろう。

ともかく、『正法眼蔵』そのものが、比類なき特異な思想を有するからには、これが注釈を最初にこころみた『御抄』も、 また、きわめて微妙な思想的境位にある、といえる。

先入観の有無によって、その理解は大きく分れよう。したがって、『御抄』を解釈する思想的態度を確立することが急務で、それがまた充分妥当性を有するものでなければならない。

私は、『御抄』には、たとい本覚法門的とみられる表詮があるにしても、 それはそのような時代なのであり、内容を審細にみれば、かえって本覚法門を斥って道元褝の比類なき特異性を、 ものの見事に描き切っている、と見たい。

かくの如き『御抄』がなかったならば、『眼蔵』は、その注釈の基準を喪い、のちの道元褝展開に大きな支障を来たしたであろうことは想像にかたくない。

目下、鏡島博士の問題提起の線に沿い、本覚法門の立場から『御抄』を精細に吟味して、第三十五巻神通に至っている。曹洞宗全書本でいうと『注釈一』が、了ったことになる。それは、『御抄』の依れる七十五巻本の、ほば半ばに当り、原稿八百枚にのばる。後半四十巻に、尤に一年はかかろうから、入稿は早くても明年春とはなろうが、これを最後の撰述として完成を期したい。

これも、『蒐書大成』がなかったなら、不可能のことで、この点、河村孝道教授に深く感謝する次第である。

さいごに、『御抄』に没入しながら、昨今想うことを、一言附け加えておく。

それは、『御抄』が、『眼蔵』は、すれすれの線で本覚法門批判を痛烈に展開しているのに比して、なかなかハッキリした注釈を、これに施していない、というもどかしさである。

いな、重要な本覚法門批判が、『即心是仏』『行仏威儀』『空華』の巻等で痛烈におこなわれているにかかわらす、『聞書』はもちろん、ことに『抄』は、「如文」と、そのほとんどが逃げている事実である。

それなりの理由は、如上存すること再説の要はないが、『眼蔵』が必死におこなった本覚法門批判を、唯一の正統注釈である『御抄』が避けて通ったことは、そのごの洞門の宗学の性格を、きわめて旧体制を批判せざる、「抵抗なき宗学」となさしめた感が深いのである。

日蓮は言うにおよばず、法然親鸞等、鎌倉新宗の祖師たちは、至烈な叡山からの迫害の下に、 その宗学を、抵抗の宗学として成立せしめている。

洞門の宗学には、旧体制への批抵の姿勢が、まったくみられない。これほど、おとなしい、 体制順応の宗学はないであろう。

これは、『眼蔵』の正統注釈である 『御抄』が、真正面から衝突をさけて、本覚法門批判を回避したことによる。 これは、そのまま近世江戸宗学に承け継がれたと見てよいであろう。

『眼蔵』で、あれほど痛烈な本覚法門批判をこころみているに拘らず、である。

以上の消息は、各巻の吟味において、 詳しく論証するに至るが、 旧体制批判を欠落した「抵抗なき宗学」が、教団の危機に際して、どれだけの力となり得るか、想い半ばに過ぐるものがあろう。

 

以下の文体は省略した。

 

 

 

これは駒澤大學佛敎學部論集第十七號 昭和六十一年十月(山内舜雄)

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂したものである。(タイ国にて・二谷記)