正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼藏抄の成立とその性格    鏡 島 元 隆

 

正法眼藏抄の成立とその性格

鏡 島 元 隆

   一

正法眼蔵抄は道元禅師の弟子、詮慧が道元禅師から直接聞いたものを書き留めた聞書を基にして、詮慧の弟子の経豪が更に註釈を加えたものといわれ、畧して御抄と称されるものであるが、正法眼蔵の註釈書としてはもっとも古く、亦、もっとも権威あるものであることは更めていうまでもない(1)。然し、著者の註慧および経豪の伝が明らかでないためか、この書が高く評価されながら、その研究にいたっては甚だ乏しく、ほとんど未開拓のまま放置されてあるもののようである。今、覚え書程度の雑考であるが、一応、これをまとめて同学の士の指教を言青し、、今後の研究の一指針としたい。

詮慧は道元禅師伝としてもっとも古い伝記である三祖行業記によれは、懐弉、僧海とともに道元禅師嗣法の門下とされている。もっとも、詮慧が禅師の嗣法の門下であったかどうかには問題があって、大久保道舟氏は義介の永平室中聞書の中に、

先師室内至此事能知者只我一人而已、余人知総無一人 至此事可伝法入者知之也

とある記事に基づいて、嗣法の門人は懐弉一人であり、詮慧は伝戒の門人であって、嗣法の門人ではないとしている(道元禅師伝の研究二六八頁)。今、大久保氏の説の当否については

これを問わないが、いずれにしても永平寺僧団における詮慧の位置は懐弉に次ぐ重要なものであったことは疑いない。それは、褝師の遺著永平広録の巻第一興聖寺語録および巻第九の頌古、第十の賛が侍者詮慧の編集にかかるものであることによっても知られる。詮慧は禅師の入滅後、荼毘地に永興寺を創建し、禅師の尊像を安置し、永興第一世の住持となったが、 それはここを拠点として、北越に退避した永平の宗風を捲土重来すべく期したものであろう。

経豪は、この詮慧に嗣き、永興寺の孤塁を守り、師詮慧の遺志を継いで、正法眼蔵抄を大成した人である。然し、遺憾ながら、経豪の伝記は「曹洞末塵沙門」(御抄奥書)としてより外、宗門にほとんど伝わるものがない。大久保道舟氏によれは、経豪は花山院宰相入道、五辻教雅の兄、宣経の子であり、花山院宰相入道は、永平寺道元禅師に参じているから (永平寺二箇霊瑞記)、経豪が道元禅師の門に投じたのも、叔父の教雅の参禅の因縁によるもであろうとしている。然し、経豪は道元禅師の椅子下にあって、禅師の正法眼蔵の提唱を親しく聞いたと伝えられているが、この伝説が事実であるかどうかは疑わしいこととされている。それは、経豪の御抄完成は禅師滅後五十六年のことであるから、年齢的にいって、経豪が禅師の座下に投ずることは無理だからである。今、この正法眼蔵抄がどのような事情のもとに成立したかを窺って見よう。

まず、詮慧の聞書についてであるが、それは諸悪莫作聞書末尾に次のような奥書が誌されている(2)。

弘長三年二月 日

寂光与我聞書之上、加予聞書詞也。可取捨者也。

菩薩比丘々々

弘長三年(一二六三)は禅師滅後十一年である。すなわち、聞書は、禅師示寂十一年後、詮慧が永興寺において、自分が禅師のもとにあって聴聞した記録を、寂光が禅師のもとにおいて聴聞した記録に対校させて、合糅整理したものである。

もっとも、聞書がはたして道元禅師の親言親句を書き留めたものであるかどうかには疑問の点があって、これに対しては、既に永久俊雄氏によって、聞書は道元禅師直接の提唱筆記をその弟子、詮慧が書き留めたものではなく、詮慧の永興寺における正法眼蔵提唱をその弟子、経豪が書き留めたものであり、これを註釈したものが御抄であるという主張がなされている(正法眼蔵抄の研究。褝学雑誌第二十三巻第二・第三・第四号)。永久氏はその主張の論拠として種々挙げているが、要は道元禅師が自著正法眼蔵の提唱をなしたのであれば、それは一人称で述べる筈であって、先師・先師永平寺和尚という三人称で述べる筈がないというのである。氏の疑問はもっともであるが、問題は聞書の意味である。もし聞書ということが、褝師の提唱を録音器で一字一句もらさずそのままに記録した意味であるならは、それはもちろん、褝師の提唱筆記ではない。然し、正法眼蔵のような難解な法語を門下に示衆するには、禅師自身においても多少の解説敷延を伴ったであろうし、門下としても理解にあまる語句に対しては質疑したであろうことは、当然予想されることである。従って、門下の側において、禅師の解説敷延なり、自己の質疑応答なりを記録したものが存したに違いない。詮慧の聞書は、この意味における備忘録の整理であって、それが禅師滅後十一年、寂光と対校してできたものである以上、その中に先師、あるいは先師永平寺和尚の言葉が見られたにして不思議はない。寂光はこの奥書の書きようからいって詮慧と同じくかっては禅師の門下であり、後に詮慧の門に投じた人であろう。

このように、聞書は詮慧による道元禅師の正法眼蔵の開演敷説の記録と一応認められるが、それが禅師滅後十一年の編輯整理である以上、詮慧・寂光二者の間において理解の調整に苦しむ間題も生れたであろう。諸悪莫作聞書の奥書が、「可取捨者也」という言葉で結はれているのは、それが後人の解釈を俟つ意味を示すものである。聞書の中には、正法眼蔵の本文理解に対し異解が提示され、それに対して詮慧の正義を示したものが見られる。例えば、正法眼蔵現成公按聞書には、「人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり」という正法眼蔵現成公按の本文に対し、「或人云」として異解が提示され、それに対する詮慧の正義が示されている。それは次のようである。

法の辺際を離却せりと云詞に付て心得様二有べし。

一には法を求と云道理あるべからざる所をさして求の詞をばはなるとも云べし。二には一方を証すれば一方はくらしと云心地にて離却とも仕なり。

或人談に云、人はじめて、法を求と云下に、離却と云詞あり。此離却はさとりとこそ覚ゆれ。法をもとむるゆへに。

難云、この了見の様は、此草子の大意に迷ゆへなり。邪義を出して、正義を決せむために、はるかに法の辺際を離却すとは云也。世間の義也。法すでにをのれに正伝するとき、すみやかに、本分人なりと云こそ、仏法に落居すれと云云。可用義也。

又或人云、本分人の本の字は、法と心得ぬべし。法すでにをのれに正伝する時すみやかに法分人也とも云つべし。本を法に取替心也。又難云、尤本分人と云べし。すでに正伝のときは、法と人と親切なれば、本分人と云こそ、法を人とひとしめたる心地に相叶へ。可用義也。

ここに「或人云」というのは、道元禅師に対して門下から異解が提示され、それに対して禅師自らが正義を示したものとは考えられないから、それは禅師の正法眼蔵が門下の商量の対象に取り上けられて、種々の異解が提示され、それに対して詮慧が自らの理解に基づく正義を示したものであろう。これによって見れば、聞書は詮慧の道元褝師の開演敷説の記録であるといっても、それは詮慧の理解を通した道元禅師の提唱聞書であり、しかも詮慧一人の理解ではなく、寂光の理解をも加えた二人の協同労作であるといわなければならない。従って、聞書は、その一字一句が道元禅師そのままの説法記録ではなく、既に詮慧寂光の解釈を多分に含んだものといわなければならない。そうであれはこそ、後の経豪は師の聞書によって正法眼蔵を註釈しながらも、時に聞書の説に疑問を抱き、これに従わないで、自説を主張することができたのである。もし、聞書が道元禅師の直説そのままであれは、法孫の経豪がこれに異を立てるのは僭越も甚しいものであるが、経豪は時には師説と所見を異にしたのであり、師説に従わないことが却って道元禅師の正法眼蔵の真意に適ったものと信じたに違いない。経豪が師の詮慧の聞書に従わなかった例としては、次のような場合がある。

卵湿生等は、業力少がゆへに人となりがたし。生生をへては、善業増してついに成仏すべしと也。此詞御聞書に被載之。聞書載之、尤不審。但此詞は只教の所談打任たる道理を被載歟。仏道の上の所談には不可有・・但是一向経豪之愚按也。付冥顕甚有恐有恐。然而為後注之。然共私料簡も不可違事なり (行仏威儀御抄)。

 

経豪が師の詮慧の聞書に基づいて正法眼蔵の最初の註釈である正法眼蔵抄を完成したのは、延慶元年(一三〇八)、褝師滅後五十六年目のことである。 これについて、御抄の奥書には次のように記されている。

延慶元年(戊申)十二月(乙丑)廿二日抄畢。此抄物者始自去乾元二年(卯癸)四月十五日首尾六ヶ年之間終功畢。此談義聊依有存或点一夏九旬。或占毎月七日一部七十五帖談終了。愚昧了見之一筋粗注置之者也。後学莫勿嘲。傍書載本願御聞書詞所仰証明也。合点則是也。抑人之命不待出息入息、如霜露如電光。就中近日無常満耳遮眼而六箇年之間無為而果遂此大願了。知生生縁不空事。願酬此功六道群類速登高高峰頂浮深深海底耳。干時寒嵐叩窓小雪払庭矣

曹洞末塵沙門経豪

此抄自一至于第七十五実智房一覧了。所存又無相違云 。

 

これによって見れば、経豪が正法眼蔵抄の著述に著手したのは、乾元二年(一三〇三)四月十五日のことであり、これを完成したのは延慶元年(一三〇八)十二月廿二日のことで、実に前後六ヶ年の星霜を要している。経豪が御抄著述に著手した前年の乾元元年は道元褝師五十回忌の遠忌に当る年であるから、恐らく経豪は著述著手の前年に師翁道元禅師の祖恩に

報い、先師詮慧の法恩に応えるべく、先師の遺志を継いで正法眼蔵抄を完成しようという大願を起こしたものであろう。

経豪は花山院家の一門、中将参議五述宜経の子であり、宜経の三子、経助・経乗・経豪はいずれも出家しているが、経豪は叡山において法印位に任せられたことが知られる(尊卑分脈六)。法印大和尚位は僧綱位階の最上級であって、経豪が若年にしてこれを得たとは信ずることができないから、大久保道舟氏の指摘するように、経豪が道元禅師の椅子下にあつて、正法眼蔵提唱を聴聞したという伝承は年齢的にいって疑わしいものである。御抄の中で、経豪が先師といっているのは詮慧のことであつて、道元褝師に対しては開山(画餅・嗣書・法性・有時・看経)または永平寺和尚(諸悪莫作)という間接的表現を用いていることは、これを裏書きするものである。この点、大久保道舟氏は「経豪はもしかしたら褝師とは全然面識がなかったのではないかとさえ考える」(道元褝師伝の研究。二八二頁)と主張している。私はこの大久保氏の推定をさらに一歩進めて、次のように推定している。経豪が御抄を完成した際、その校閲を仰いだ実智房は恐らく詮慧が聞書をまとめるために校合した寂光と同一人であろう。寂光は道元褝師について正法限蔵を聴聞し、後に永興寺に投じて詮慧と互いにその聞書を校合した正法眼蔵についての久参の人であるから、経豪が御抄の校閲を請うにふさわしい人である。この校閲者実智房寂光の伝が混雑して、詮慧が禅師の椅子下にあって正法眼蔵聴聞したという伝説を生んたのであろう。この推定は、永興寺に関する古文献が発見されない限り、これを裏付ける資料を欠くから、単なる推定に留まるのである(3) が、私は上のように解するのが自然であると思う。

延慶元年、正法眼蔵抄を完成した経豪は、続いて翌二年 (一三〇九)梵網経略抄の註疏を完成している。梵網経略抄の奥書には、次のように記されている。

延慶二年六月十六日、梵網経抄物功了。此十戒四十八経、乃至懺悔仏供養等詞一一先師上人説也。更不交余詞仰可信者也。其質不肖而頑魯雖拙、依宿縁深、今逢知識而見聞此極理。宿殖般若之善種非可疑。尤有憑可歓喜。可随喜可随喜。

 

経豪がここに「一一先師上人説也。更不交余詞。仰可信者也」という先師とは、その師詮慧のことである(大久保氏前出書三七二頁。永久氏前出論文)。従って、梵網経略抄は詮慧の梵網経に関する註疏を、資の経豪が編述したものであって、道元褝師撰とされる教授戒文はこの梵網経略抄の中に見出されるものである。

上に述べたように、正法眼蔵抄は経豪が永興寺において乾元二年より延慶元年に至る前後六年を費して、正法眼蔵に始めて註疏を試みたものであるが、永興寺においては経豪以後においても、なお正法眼蔵に対する研究が続けられたもののようである。それは御抄の中に、後人の追補が見られることによって知られるのである。

正法眼蔵菩提分法抄の巻の中間には、次のような後人の識語が見られる。

仏浴浴仏将錯就錯也。将錯就錯は唯仏与仏なり。故調浴仏之儀、可述清浄之思云云。是は於永興寺被行上堂之時、故上人上堂詞也。

 

ここにいう故上人とは誰を指すか明らかでないが、御抄の中で経豪が聖人といっているのは実智房のことであるから、ここの上人も実智房を指すとすれば、実智房は詮慧に次いで永興寺第二世を董した人であり、この追補の記事は御抄完成後、永興寺一門の人によって追記されたものであろう。然し、経豪が実智房に次いで永興寺第三代の住持となったかどうかは、これを確かめる資料がない。

また、正法眼蔵画餅抄の細注には、次のような文字が見られる。

一老一不老は古き詞也。柱杖竹箆のあはひを一老一不老と云也。又仏与 祖あはひを、一老一不老と云べきか。老の上の不老なるべし。修竹与芭蕉のあはひをも、一老一不老と云べし(老の上の不老とあり。この外老と不老との義もあり。是は、水興寺第五世の御詞也)。

 

永興寺第五世の住持の名は明らかでない。延文一一年(一三五七)開版の義雲和尚語録には、「助縁奉行、比丘瑞雄維那。刊字奉行比丘等理蔵主」と並んで、「洛陽永興比丘宏心書字」という文字が見られるから、宏心という住持がいたことが知られるが、宏心が永興寺何世の住持であるかは知る由もない。いずれにしても、これらによって見れは、永興寺においては御抄完成後も、なお正法眼蔵の研究が行われていたことを証するのである。然し、永興寺は南北朝時代には、既に荒廃に帰していたもののようで、大智(一二九〇ー一三六六)の大智偈頌の中に、「礼永興開山塔」と題して次のような偈が示されている。

空堂只見緑苔封。法席無人補祖宗。満樹落花春過後、杜鵑啼血夕陽紅。

 

これによって見れば、永興寺は経豪が御抄を完成した五十年後にほとんど廃寺同然の状態に陥いったのであるが、御抄は上によって知られるように、第五世の時代の追補が見られ

るから、永興寺一門の正法眼蔵研究はその廃絶にいたるまで続けられたものであろう。それ故に、正法眼蔵御聞書抄は詮慧・経豪師資によって著わされたものであるが、それは、詮慧・経豪を代表とする永興寺一門の協同労作ともいえるものであり、一門によって道元褝師の正法眼蔵は絶えず研究され、御抄は修補増記されたのである。

上において、正法眼蔵抄成立の経緯を見てきたのであるが、ここに眼を転じて、御抄成立の本拠である永興寺をめぐる歴史的背景を一瞥して見よう。注意すべきことは、詮慧・経豪が道元褝師の門に投する前、その前身が叡山の学僧であったことである。このことは、永興寺および正法眼蔵抄の性格を考察するに重要な観点となるものである。道元禅師の門下が北越に住山した後、詮慧・経豪がひとり洛陽に留まることができたのは、二師が叡山と深い交渉をもった人であれはこそであり、永興寺の孤塁を守るには、叡山との密切な関係をもたなけれは存続できなかったに違いない。このことは、栄西(一一四一ー一二一五)によって建てられた建仁寺が褝の道場であるとともに、真言・止観兼修寺として叡山の別院であり(辻善之助氏。日本仏教史。中世篇之二。七四頁)、辨円(一二一二 ー一二八〇)によって建てられた東福寺が同じ性格の叡山の子院としてその存続が許された(同上一一〇頁)ことからいって、当然考えられることである。今、当時の永興寺をめぐる洛陽仏教会の雰囲気を、御抄が伝える一挿話によって窺って見よう。正法眼蔵行仏威儀抄には、次のような記事が見られる。

古も仏をかむし橛なんど云詞あり。故嵯峨の正信上人仏をかんし橛、殺仏なむど、開山説法の時被仰たりけるを聴聞して、あなくちをし、仏をかかる物に喩らる、禅宗をそろしきものかなとて落涙せられけり。此事を開山もれ聞て、あれほどに愚痴にて人に戒をさづけ被帰依事、不便の次第也。我もいや目ならば落涙しつべき事也と被仰けり。見解の黒白以之可準知。比興の物語也。

 

ここに伝えられている正信とは嵯峨二尊院の正信房湛空 (一一七六ー一二五三)のことである。正信はもと叡山の僧であったが後に法然の念仏門に帰し、法然上人行状絵図にも「嵯峨の正信房湛空は徳大寺の左大臣の孫、法眼円実の真弟大納言律師公全これなり云々」(第四十三)と見える人である。この正信の門に出た十地房覚空は正信の念仏を受けてこれを修しながら、後に辨円(この辨円についても御抄は関説している。後述)の門に参じて、ついに念仏門を捨てて禅に帰した人である。十地は念仏の道場であった六条御堂を禅院に改め万寿禅寺と称したが、万寿寺の開堂の儀が行われたのは詮慧の聞書成立に先立っこと二年、弘長元年(一二六一)のことである。この御抄が伝えている、法然門下の正信が深草道元禅師の門をたたいたという挿話が事実であるかどうかは明らかでないが、永興寺をめぐる新興諸宗派間の交渉を伝えるものとして興味深いものがある。この挿話の真偽はともあれ、当時の禅院は内実はともかく、表面は叡山の子院として、その存在を許されたのであり、従って叡山教学である日本天台とも深い交渉をもったのである。そのことは、栄西の弟子で、後に建仁寺七世の住持となった円琳が、円頓戒については叡山にも並ぶものがないほどの当時における学匠であったことによっても知られる。円琳は嘉禎三年(一二三七)菩薩戒義疏鈔六巻を撰しているが、この円琳についてさきに述べた万寿寺の十地は円頓戒を学んでいるのである。それ故に、詮慧・経豪が梵網経略抄の註疏を試みたということも、当時の禅院を支配していた円頓戒研究の風潮と没交渉なものではなく、これらとの関連の上において理解されるべきである。

 

  二

上述において、詮慧の正法眼蔵聞書およびこれを受け継いだ経豪の抄の成立の事情について述べたのであるが、次にこの正法眼蔵抄は道元禅師の正法眼蔵註釈としていかなる性格のものであるかについて考察して見よう。正法眼蔵抄の特色として挙げられるものは、 まず第一に詮慧・経豪が道元禅師の立場を宋朝禅および日本臨済禅と異るものとしてとらえたことであり、第二に道元禅師の正法眼蔵を日本天台の本覚門的教学の背景のもとに理解したことである。一般に宋朝禅並びにこれをそのまま伝えた日本臨済褝と道元禅師との相違は、始覚門的法門に対する本覚門的法門の相違であるとされる。始覚門的法門は因(事) より果(理) に向う従因向果の教えであるが、本覚門的法門とは果(理) より因(事) に向う従果向因の教えである。然るにこれが中国天台と日本天台とを分ける特質とされるのであるから、それは宋朝褝ないし日本臨済禅と道元禅師とを分ける特質に対応するものがあるのである。それ故に、道元禅師の立場を宋朝禅ないし日本臨済褝と区別した詮慧・経豪が、区別の拠りどころを日本天台の教学的背景に求めたことも、理の当然であって、正法眼蔵に見られるこの二つの特色は互いに表裏をなして御抄の一大特色をなしているのである。次に、それぞれの特質について窺って見よう。

まず、第一の特色について見るに、詮慧・経豪は道元禅師の立場を宋朝禅ないし日本臨済禅と異るものとしてとらえている。それでは道元褝師の立場はいかなる点において宋朝禅ないし日本臨済禅と異るか、御抄が挙けているものは、 その坐褝観であり、経典観である。道元禅師は宋朝禅に対しては、忌憚のない批判を加えているが、日本の臨済禅についてはこれをあらわに批判することを避けている。然るに御抄になると、褝師がその批判を避けた日本臨済禅がむしろ主たる批判の対象とされるのである。道元禅師は、宋朝禅の代表的禅将、大慧宗杲に対して口を極めてこれを非難攻撃しているが(自証三昧)、御抄はこれを釈して次のように述べている。

  近来禅僧と号する族、十之八九は皆宗杲の門流ならぬ希也。今趣を見ては定腹立歟。外見可恐可憚。但去の浅深解脱の有無更に私あらず。能々閑功夫一事也(自証三昧抄)

ここに 「近来禅僧と号する族」とは、日本の禅僧を指したのであって、御少は道元禅師が宗家である宋朝神に対して下した批判を、末流である日本臨済禅への批判ととったのである。

 

ここにおいて、御抄は当時宋朝禅を伝えた鎌倉禅を代表する蘭渓道隆(一二一三ー一二七八)と、京都禅を代表する円爾辨円(一二〇〇ー一二八〇)について次のように述べている。

当時明師東福長老聖一房は得旨後可坐禅とすすむ。建仁寺長老道隆禅師は、為得旨こそ坐をばすすむれ。得旨後は必坐を不可好云云。此事何も不当覚ゆ。其故は江西禅師、南嶽大恵褝師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐褝すとあり。是は得旨前とも後ともみえず。密受心印後とあれば、得旨後も坐禅之条無異儀。又作仏をも不図上は、旨を得むとて坐褝すべくは、助法の義なるべし。両様いづれも不当覚ゆ(坐禅儀抄 (4))

 

辨円も道隆も虎丘紹隆六世の法孫で、いずれも宋朝禅を伝えた当時の代表的禅将であるが、御抄は道元禅師の坐禅はこれらの宋朝禅直伝の坐禅とは異ると説くのである(5)。

御抄は日本の臨済褝を大慧の亜流と見るのであって(自証三昧抄)、大慧は公案功夫する看話禅の大成者であるから、従って御抄は道元禅師の坐禅がこのような看話禅と異ることを強調するのである。この公案を排することは、詮慧の聞書に、

 

世間にきこゆる褝僧をもはく、大疑の下に大吾ありとて、ただいたづらに疑居たれば大悟はついとして現成す。祖師の詞とも総て可心得物にてなし。ただ祖師の言句を額にかけて、 三五年も居たれとをしふ。此証拠に麻三斤、柏樹子等を引、甚不可然。又疑には大疑小疑あり。月与雪、花与雲、共色白きゆへに、何が月何が雪とうたがふ。これらは小疑なり、非大疑。墨与漆を黒き疑の証と云同事也。大疑は総て何とも不被心得麻三斤、柏樹子なむとを云と思。邪見の甚なり(道得聞書)

 

と示されているが、経豪の御抄もこれを受けて次のように述べている。

而近来の褝僧と称する族ら、只公案を額に懸て、疑いたればさとり来と多分云歟。今の義には違せり。不可用義也(大悟御抄)。近日天下に流布する禅、ただ祖師の公按を額にかけて、待証べしとをしふ。勘先達詞に、凡あたらざるもの也(菩提分法抄) 。

次に、経典観について見るに、御抄は道元褝師の立場はいわゆる教外別伝を唱える宋朝禅と異る立場であることを主張する。これについて、詮慧は聞書の中で、

今号禅宗輩、専我宗を謗するに似たり。経教仏説なれどもやがて説をば対機随情の説とて不用、我宗は言語を離るるゆへに、達磨西来不立文字と云て、不用不文字とら尋、直指人心見性成仏と云へはとて、只公按を額にかけて居よ、仏生は現前せむずる物そとをしふ(仏性聞書)

と述べている。経豪は師説を受けて、

近来の褝僧、宗門には不用言語故不随聖教、学問は教者の所為也。只坐禅して待悟する也、なむと云族多之歟。今儀には相違せり。是邪見なり(身心学道抄)

と述べている。これは道元禅師の正伝の仏法の立場はいわゆる教外別伝を唱える宋朝褝と異る立場であることを説くものであり、宋朝禅をそのまま伝えた日本臨済禅の立場と異ることを説くものである。

以上によって見れは、御抄の立場は道元禅師の立場を宋朝禅および日本臨済禅から揀別しようとする色調が濃厚場であることが窺われるのである。従って、もし道元禅師のや千葉を、如浄を通して相承した宋朝禅を基盤とせる日本的展開と規定することができれは、御抄の立場は日本的展開に重点をおいて道元神師をとらえた立場であって、この点、同じ道元禅師門下にあっても、道元禅師の立場を、基盤である宋朝褝に返す方向においてとらえた寂円(一二〇七ー一二九九)・義雲(一二五三ー一三三三)の立場と対極を成すものであろう(6)。

このように、道元禅師の立場が、宋朝禅および日本臨済禅と異る立場とされるとき、禅師をして日本的に展開させた思想的背景として、御抄が導入するものが日本天台の本覚法門の教学であることは、詮慧・経豪の修学経歴からいって当然のことである。従って、ここに道元禅師の正法眼蔵を理解するに日本天台の教学的背景をもってした御抄の第二の特質が示される。

道元禅師の正法眼蔵にもっとも多く引用されている経典は法華経であるから、褝師の立場が天台の教学と深い関連があることはいうまでもない。然し、正法眼蔵の引用文によって見る限り、禅師の立場は中国天台と結びつくのであって、日本天台と関連するものは見られないのである(拙稿。道元禅 帥と天台本覚法鬥ー法華経引用に関連してー宗学研究第二号)。然し、詮慧・経豪にいたると、中国天台の文献が引用されていることはいうまでもないが、 日本天台との結びつきが明らかに認められるのである。

正法眼蔵聞書の中には、しばしば詮慧の天台教学に関する造詣を示す言葉が見られる。例えば、詮慧は道元禅師が正法眼蔵即心是仏巻で「一心一切法一切法一心」と述べているのを釈して、次のように述べている。

一心一切法一切法一心と云。即心是仏の如此いはるるなり。天台なむどには此一心一切法一切法一心と云事、只是竪横義也。竪横共に不可也と嫌へば、いまの草子のきは、天台に所捨に似たり。然而竪横を立て、共に不可也と嫌は、将錯就錯と云事を習はざる故也。 一心一切法をはやがて、一心一切法とつけ、一切法一心をば一切法一心につくれば、不可と談すべき所なし。不可ときらはるる詞を、仏法の最極と習なり(即心是仏聞書)。

 

この意味は難解であるが、道元禅師の立場と天台の立場を会通したものであることは明らかである。聞書の中には、このような天台義をもって、正法眼蔵を釈している例がしはしは見られるのである。 正法眼蔵柏樹子聞書には、柏樹成仏を釈して次のように述べている。

天台に草木成仏と云ふ義、宗の大事にて談之。法相三論等には此義なし。抑草木成仏すやと云論義、天台儲之。先うちひらみて、成仏するかと二重に尋ぬる。答には発心修行をばまぬがれず。且は身長丈六、光明遍照と云ふ。時にこれ発心修行とこそきこゆる時に、此証拠にいだす也。但発心修行は、有情成仏にやくす。報身の方には成仏と云も、只人間の見をさす也。仍似無其詮。こなたには、やがて柏樹発心修行すと心得也。

 

このように、詮慧は天台義をもって道元禅師の正法眼蔵を釈しているが、注意すべきことは、 その天台義が日本天台の本覚門的立場であることである。詮慧は正法眼蔵看経聞書に、趙州の看転大蔵経を釈して次のように述べている。

天台の義に妙をたつと云へども、此上猶相対妙絶対妙と立て、相対妙をすてて絶対妙をとる。抑非待妙非絶妙ありなむや。然而天台釈妙と云許にては、相対も絶対も、ともに非本意。まして三妙の位をたてむこと不可然歟。ゆえに天台の義にもきこえず。但他門にこそ啖ぜね、此門にはなどかなからむ。全機と談ずるこそ、非待非絶なれ。

 

ここにいう相対妙、絶対妙とは天台の説く一乗開会思想における二つの対立した考え方であって、絶対妙とは開会された爾前諸経の外に法華一乗を立てるのではなくて、それがそのまま一乗であるとする考え方であり、相対妙とは開会された爾前諸経の上に法華一乗を立てるもので、法華一乗と爾前諸経との間に階位的差別を設ける考え方である。天台宗としては、円融開会という天台法華の特色を生かすには絶対妙を説かなけれはならないが、これをあまりに強調すると法華経は諸経が一乗であることを知らせる役割りだけのそれ自身影の薄い経となる。それ故に、法華経が諸経より優位であることを示す相対妙を説かなければならないが、これをあまりに強調すると法華経が諸経に相対するものとなり、円融開会という天台の特色が見失われることになる。それ故に、天台宗としては相対妙と絶対妙とは車の両輪のように、いずれも欠くことのできないものであり、いずれを主とするともいえないものであるが、日本天台の本覚門は絶対妙を主とし相対妙を従とする立場である(田村芳朗氏。日本天台における一乗開会の思想。印度学仏教学研究第七巻第二号)。 それ故に、詮慧が天

台の立場を「相対妙をすてて絶対妙をとる」と規定したことは、詮慧自身がかつて日本天台の本覚門的立場に身をおいていたことを示すものである。詮慧は道元禅師の立場は、相対妙、絶対妙を超えた非対非絶の立場と説くのであるが、それは詮慧においては絶対妙を徹底することによって達せられたものであろう。聞書に一貫して流れているあらゆる相対的なものを円融し開会する思想は詮慧のこのような日本天台の絶対妙思想の徹底として見られるのである。

 

詮慧はまた、道元禅師の戒を一戒光明金剛宝戒としてとらえているが、このことも詮慧の立場が天台の本覚門的立場であることを示している。詮慧は、

一戒光明金剛法戒と云程にこそ戒をも心得れ(摩訶般若聞書)

一戒光明金剛宝戒と云ふ(諸悪莫作聞書)

一一の戒の上に仏性義を立るなり。故一戒光明金剛宝戒なるべし (梵網経略抄)

 

と述べて、一戒光明金剛宝戒という言葉を用いているが、この言葉は最澄撰と伝えられる一心金剛戒体秘訣の中の用語であって(7)、詮慧がこれを用いていることは詮慧が日本天台の本覚門的立場の人であったことを裏書きするものである。

このように詮慧は、道元禅師の正法眼蔵を日本天台の本覚門的立場において理解しているが、詮慧の資、経豪がこれを受け継いた立場であることはいうまでもない。正法眼蔵光明

抄末尾には、次のような識語が見られる。

安然和尚此事を被釈には、善悪の法、定恵の二法をはなれたる事なし。即是道の言僻見なるべからずと云。自問自答せらるるには、三毒ともに道ならむには、何そ諸大乗には、さかりに此事をいましむるぞやと問。これを答するに、但除其執不除其法とあり。しかるを、同天台衆の輩も、その法を行せむもの、争共執をのぞくべきやと難す。ただし安然の御心地は、定恵の二法と心得ぬるをもて、除執とは可心得歟。但此門には執着とも不解、除執ともをしへず。不触事而知の如し。不対縁而照の如し。

 

この識語は経豪の識語であるかどうか疑わしいものがあり、後人の追補であると思われるが、いすれにしても永興寺一門と日本天台の本覚門との連りを示すものである。安然は真言密教の即身成仏説を天台宗義にとり入れて、受戒による即身成仏の義を立てた人であり、中古天台の本覚門的展開の源頭に立つ人であるが、安然の説が御抄末尾に誌されている ことは、永興寺一門の教学的背景が日本天台の本覚門であることを裏書きするものである。

上述によって見れば、詮慧・経豪の正法眼蔵御聞書抄が禅師の正法眼蔵を理解するに、日本天台の本覚門的背景をもってしたことは動かすことのできない事実である。それは道元褝師の思想の中に日本天台の本覚門的思想に対応するものがあって、詮慧・経豪のこのような解釈を容れるものがあるからであるが、間題は、詮慧・経豪は道元禅師の立場を解するに日本天台の本覚門的背景をもってしただけでなく、さらに道元褝師の思想を本覚門的に展開させたものがありはしないかということである。いい換えれは、道元禅師の思想と伝承されるものの中に、実は詮慧・経豪によって天台本覚門的に展開されたものが含まれていはしないか、ということである。この点の探求は微妙な問題を含むが、一例を挙げて見よう。

道元禅師は正法眼蔵出家・受戒に禅苑清規の 「既受声聞戒、応受菩薩戒。此入法之漸也」 という言葉を引用し、受戒巻ではこれを敷延して次のように述べている。

西天東地、仏祖相伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざれば、 いまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫にあらざるなり。

 

ここで問題は道元禅師の戒律観であって、もし褝師の立場が禅苑清規を受けた立場であれば、禅苑清規は優婆塞・沙弥・比丘・菩薩戒の大小兼受の立場であるから、それは単受菩薩戒の日本天台の円頓戒とは異るのである。それ故に、「入法の最初に受戒あり」という受戒の意味は禅苑清規に従えば優婆塞ないし沙弥戒の意味であるが、円頓戒に従えば単受菩薩戒であって、 褝師においてそれはいずれの意味であるかが問題となるのである。然るに、経豪はこれを次のように釈している。

大国には必先二百五十戒等の声聞戒をうけて後菩薩戒を受る也。日本にも出家の時の沙弥戒なむと云は此心地歟。然而必しも吾朝には毎度無此義歟。直受菩薩大戒なり(出家御抄)。

経豪は、道元褝師の「入法の最初に受戒あり」の受戒を「直受菩薩大戒」の意味に釈しているのである。従って経豪によれは、道元褝師の立場は単受菩薩戒の立場でなけれはならない。それ故、御抄による限り、道元褝師においては沙弥戒の先受は否定されているのである。然し、道元禅師には得度略作法一巻の撰述(一二三七)が伝えられ、それによれは、沙弥戒の先受が説かれている。従って、この書が偽撰であるとされれば経豪の説くところと一致するが、それが真撰であるとすれは、単受菩薩戒を主張する経豪の御抄の立場は、道元褝師そのままの立場ではなく、道元禅師の立場を日本天台的に展開した立場といわなければならない。この得度略作法の真偽論は、古くから宗門未決の問題(8)であって、今はこれに対して論定を下すことを避けるが、 これはただ一例を挙げただけであって、同様の間題は他にも見られるのである。従って 詮慧・経豪の立場が道元禅師の立場の天台本覚門的解釈に留まるものか、あるいはさらに褝師の立場を天台本覚門的に展開させたものがあるかということは、広い視野の下にさらに検討されなけれはならないのである。

 

1 御抄は影室ともいわれる。影室'といわれるのは、建徳年間(一三七〇~二)、峨山紹碩の法孫、無著妙融(一三三三ー一三九三)が御抄および梵網経略抄等を兵火より護るため、これを負うて洛陽より遠く故国の九州に赴き、天授元年(一三七五) 豊後に泉福寺を開いてこれを安置した。御抄は無著妙融寂後は、泉福寺の影室(開山堂)に秘蔵され、これがために御抄は影室本とも称されるのである。

2この奥書の記事を、聞書の奧書と見るか、御抄の奥書と見るかによって、奥書の「寂光と我と聞書」 の我が詮慧であるか、経豪であるか、見方の違いがでてくる。永久俊雄氏はこれを御抄の奥書ととり、我を経豪の意味にとるのであって (正法眼蔵抄の研究)、そこから氏の、御抄は詮慧の正法眼蔵提唱を経豪が聞書し、註釈したものであるという主張が生まれるのである。然し、私は大久保道舟氏(道元禅師伝の研究二七六頁)と同じく、これを聞書の奥書ととり、我を詮慧の意味に解する。もし、聞書が詮慧の提唱を経豪が聞書したものならは、経豪は自分の聞書に対して「此詞御聞書に被載之」(行仏威儀抄)というような敬称は用いないであろう。また、同一人が弘長三年(一一六三)聞書したものを、乾元二年(一三〇三)になって註釈に著手したのではその間の年数の距りがあり過ぎると思われる。

3詮慧の弟子は次の三人である(秀香譲状広福寺所蔵)。

詮慧ー【実智房・示真房・経豪】

4御抄の本文は曹洞宗全書本により、片仮名は平仮名に改め、訓点をつけた。然し、鴻盟社版御抄(註解全書本御抄はこれと同じ)と曹洞宗全書本御抄との間に相違が見られるのは何故であろうか。蘭渓と道隆についての本文記事についても、鴻盟社版御抄では坐禅儀抄の中に見られるが(鴻盟社版三四二頁)、曹洞宗全書本ではこれが光明抄末尾に収載されている (曹洞宗全書本三四八頁)。ちなみに、駒沢大学図書館には、岩波書店の好意によって同書店撮影の御抄の写真版が存するが、これは曹洞宗全書本と同じである。

5蘭渓道隆円爾辨円の坐褝観について御抄の述べていることは、道隆や辨円の遺著には見出されない (衛藤即応氏。正法眼蔵序説二一二頁。拙著。道元禅師とその門流一一三頁)。

6義雲のもとには、南浦紹明の法嗣、月堂宗規や中巌派の祖、中巌円月が参じている。 これら日本臨済禅の諸師が義雲のもとに投じたことは、義雲の思想の中にこれを受け入れる思想的共通基盤があったからであって、それは義雲の思想の中に師の寂円を通して宋朝禅の褝風に帰った一面が存することを示すものである。その意味で、同じ道元禅師門下でありながら、寂円・義雲の系統と詮慧・経豪の系統とは対極を成すものであろう。なお註8参照。

7一心金剛戒体秘訣は最澄撰とされるが、偽撰であって、その説くところはすべて本覚思想と見られている。書中いたるところに「可秘可秘」「可信可信」という口伝法門的思想が示されているといわれる(石田瑞磨氏。日本仏教における戒律の研究二三一頁。二三七頁)。詮慧・経豪がこの書の中の言葉を用いていることは、注意すべきことである。

8得度略作法は面山瑞方によって、道元禅師真撰として刊行されたが(一七四四)、これに対しては卍山の資、逆水洞流が得度或門辨儀章を著わして(一七六四)、面山の沙弥戒先受を攻撃している。逆水は、沙弥戒先受は道元褝師には存しないもので、これを取り入れた始めは義雲であると主張している。逆水はその論拠を示していないが、義雲は寂円の法嗣であるから、寂円から受けたものであろう。宋僧寂円においては沙弥戒の先受が存したことは疑いない。なお、大久保道舟氏は得度略作法を道元禅師の真撰として認めている(同氏著。道元褝師伝の研究三七一頁)。

 

これは駒澤大學佛敎學部硏究紀要 通号 22 (1964-03)からの

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂した。