正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵』 「諸悪莫作」 論考    佐 藤 悦 成

正法眼蔵』 「諸悪莫作」 論考

佐 藤 悦 成

 

はじめに

正法眼蔵』「諸悪莫作」の巻に記される莫作の形成は、道元禅師の証す単伝の正法が、如何にして禅師自身に体得され、その思想の原点が那辺にあるかを理解せねば通俗的・表象的理解に留まることになろう。

 知識としての思想的・倫理的教示として、他律的な「(善を行え)悪をなすな」とか、宗教的内省の在り方ではあっても対立的な分別に著した「(善をなし、善ではないから)悪をなさない」の両者いづれかが、一般的理解としての莫作といえる。その範囲に留まるのであれば、『正法眼蔵随聞記』(以下、随聞記と略称)の記述に見られる如く、学人に対して遮情の在り方を教示するにより目的は容易に達せられる。禅師が、強いて諸悪莫作の語を選び、『正法眼蔵』の一巻に加える必要性は何処にあるのであろうか。

  この因果の本来面目すでに分明なる、これ莫作なり、無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり、脱落なるがゆえに(1)。(『正法眼蔵』「諸悪莫作」)

右の一文、また、

諸悪莫作は、井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり、驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇応底道理あるゆえに、諸悪莫作なり(2)。(同右)

の記述は、前記二者の立場に在って出来る思想とはいえない 。

そこで、「諸悪莫作」巻冒頭に記されるところの以下の一節をもって論考の端緒となす。

諸悪は、此界の悪と他界の悪と同不同あり、先時と後時と同不同あり、天上の悪と人間の悪と同不同なり。いはんや仏道と世間と、道悪・道善・道無記、はるかに殊異あり。善悪は時なり、時は善悪にあらず、善悪は法なり、法は善悪にあらず(3)。

 

 一

上記引用文の内容を明らかにするために、『随聞記』巻一 (長円寺本)の、

道者ノ行ハ善行悪行ミナヲモハクアリ、人ノハカルトコロニアラズ

との対比をなす。

出世間の学人の行動は、世間の善悪という対立的価値観でその行為を捉え、分別の範疇に所属させることはできない、との垂示を『随聞記』は収録している。ここでは恵心僧都が庵に来った鹿を追い払う行為を挙げ、鹿を追い払うのは世俗の価値観では悪に分類されても、出世の仏の智慧からは慈悲として法にかなった行為となる点を示す。

それは、追う行為がその名のみ残って業としての具体性を喪失し、因果に僧都を引き込む機能を失なうと同時に、因果の粋の内に僧都は留め置かれていないこと、つまり、不昧因

果の立場にあることを表わしている。仏法は、得悟の表得の立場にあれば勿論師のこと、師の影響下にある遮情の立場においても、相対世界の価値体系から生じる善悪の繁縛から解放されており、影響される範囲にはないことを示している。

故に、「何トシテカ仏祖ノ道ヲ善悪ヲモテ判ズベキ」(『随聞記』巻四)、「善悪ト云事難レ定」(同巻五)、「仏道修行ノ功ヲモテ、 代リニ善果ヲ得ント思フ事無レ」(同巻六)と示して、仏道は善果を得るために行ずべきものではないことを強調する。 そして、善悪の語では不充分な点を「ホメテ白品ノ中ニ有ルヲ、善ト云フ。 ソシリテ黒品ノ中ニヲクヲ、 悪ト云」 (『随聞記』巻五)の如く、白・黒品の語を用いて補うのである。白は仏道にかなっていることにほかならなず、世俗の善と同一ではない。還減縁起として苦の滅を意味するといってもよい。黒は仏道から遠ざかることを示し、流転縁起を想起すれば理解が容易である(4)。『随聞記』における教示は、遮情の立場にある学人に示すが故に、仏道を学ぶ心得のみが示されていると観てよかろう。

しかし、『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻においては、「莫作の力量現成するゆえに、諸悪みずから諸悪と道著せず(5)」と記して、随聞記に記される遮情としての師による化導とは全く異るところの、表得として自己の内面世界と、色としての外面世界が脱落する莫作を示す。莫作の力量現成するゆえ、とは迷妄なる自己の完全な超克ともいえ、万法を明確に体認できる自己の現成ともいえる。換言すれば、生きている現実としての時間の流れの中に疑問の生じる余地がないということで、自己という概念を離れて、無為の立場に自己を導くことといえる。端的に表現すれば、只管打坐の坐禅を行じることが、そのまま莫作の現成といい得る。

では、その論拠として、「諸悪莫作」巻に記される莫作を形成する道元禅師の思想の根源はいずこに所在するかといえば、正法眼蔵において「洗面」・「洗浄」巻が加えられている

ことに代表される如く、仏法とは知にのみあるのではなく、身体そのものにこそあるという体解の禅の了得にある。

以下において、禅師の入宋初期の体験を通して莫作の思想を明らかにせんと試みる。

 

  二

明州慶元府に停泊した禅師の乗船に来る阿育王山の老典座との出会いが、以後の禅師の進むべき方向を明確になした一要因であったといえる。『典座教訓』に自ら記す如く、老典座から弁道の何たるか、文字の何たるかを知らないと直截に明宣された禅師は、「忽然発慚驚心(6)」して深く動揺する。それ迄の仏法に対する知識を根底から取り崩され、うろたえて「当時不会」と回想させている。それが老典座という、いわば無名の学人によりなされ点に、入宋時におけるこの出来事のもたらした衝撃の強さがあったともいえる。

食事を作るという日常的生活行為にさえ、日本における同様な行為と、その背景にある思想としての厚み、又は行為に対する価値基準が根本的に異なることを知るのである。日常の現実的行為を越えた所に特別な仏法が存在するのではなく、典座の教示にあるごとく、日常性そのものの直視により、現実の自己から決して遊離しない仏法が禅師の希求した禅の要諦であったといえる。

禅師入宋時の大陸禅は、三教一致が唱えられ、看話禅がその主流を占めていた。それ故褝師は、大慧宗果の坐禅(7)に対する態度を賞讃はしても、宋朝禅の指導層に対しては批判的である。かえって底辺を支える無名の修行僧に畏敬の念を抱くのである。それは、彼等こそが知解として表象的禅に留まることのない、自ら手を汚し、汗を流す現実に生きる体解の禅が存在することを認識していたからにほかならない。

知識としての仏法は、叡山での修行以来まのあたりにして来た事柄であり、その点に満足を見出せない故の入宋であったのであるから、これは当然の帰結であったともいえよう。つまり、唐代の禅に代表される純粋な禅を、正統に継承し来っているのは、大寺の住持職に座す大徳ではなく、寺院の日常生活(修行) を支える無名の修行僧であるとするのである。この、仏法の純粋性を強く求める禅師の在り方は、既に明全を師として選ぶ際にも表出していたといえる。

予発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき、ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり、あへて余輩のならぶべきにあらず。(『正法眼蔵』「弁道話」(7))

と記して、禅師は栄西の正嫡として明全を位置付けるとともに、それ迄の日本における諸山遍歴では得ることのできなかった峻厳な仏法への態度に信頼を深めたことが、すみやかに九年が過ぎ去った、の一節に表われている。

また、『随聞記』巻六には、病床の師明融阿闍梨の懇願を振り切り、情愛、恩義は学仏道の志に劣るとして、それ等を捨てて入宋の途に着かんとする、明全の求法に対する真摯な態度を賞讃している。

道元禅師は、栄西の門人の中では明全を選び師事するのであるが、それは前記の如く明全の内に自らを託すべき仏道への純粋性を見出してのことといい得るであろう。

その明全とともに正法を求めて入宋した禅師にとって、阿育王山の典座との邂逅は、それ迄に見聞した禅とは全く異相の、換言すれば栄西の禅とも異なる、いわば体解、体得の禅との出会いであったといえる。ここでの驚心があってこそ、禅師は正法への足掛りを得たともいえる。言葉で米を焚くことは出来ない。手足を動かし、身体を使う具体的行動があってこそ米は飯になるのであり、また、それ以外の何物も存在するのではないことに禅師は戸惑うのである。その戸惑いを隠さず、糊塗せず、自らの全身心で受容せんと禅師はなすのである。

それは、宋代にあってなおかつ唐代禅者の純粋性を求め続けたともいい得るかも知れない。

この阿育王山の老典座とは後に天童山で再会し、そこでも禅師は教示を受けている(9)。

乗船を出て天童山に掛塔した禅師は、希求してやまなかった大陸禅の真只中に身を置く。しかし、船中で典座に課せられた課題の解答を、当時の宋朝禅の主流であった看話禅に求めることは無理であったといえる。文字とは一二三四五であり、弁道とは偏界不曾蔵である、 と彼の典座は老婆心により懇切に教える。そこには看話禅の如く、言葉の裏の意味に試行錯誤し、意図を探る必要性の煩雑さは皆無であったといえる。文字が知識を意味するのであれば、仏典、論・釈書の全てを自家籠中のものとして活用自在となし得たとしても、知の全域からすれば九牛の一毛に過ぎず、如何なる高度な思想、難解な論理といえども、日常用いる一二三・・とその根源において何ら異なることはない。

それ故に学仏道は、自己以外に存在すると仮定した真理を発見することではなく、そのような真理の存在の仮定は虚妄分別の結果であり、幻であると自証することにこそあるのだ、 と老典座は禅師に諭すのである。

正法を求めて入宋した禅師は、明全の如く戒行を通して仏法の真実を得ようとするのとは異なる方向をここに見出したといえ、 それはより自由で、 知を裁断した身体の禅であったといえる。 その自由とは、後の禅師の言葉から引用すれば、眼は横、鼻は真直ぐにあることを知り得たのみで、特別に仏法というものを持ち帰ったのではなく、空手で帰り来ったのである、という『永年広録』の上堂語に集約されている。

『典座教訓』では更に、天童山の用典座(10)との出会いも重ねて記しているが、この一段は先の老典座の教示とは異なる意味で示唆に富む。

道元禅師にとって、叡山において抱いた疑団そのものが、知の仏法は本来の姿ではあり得ないことを示していた。その体験から生じた疑団解決のための入宋であったから、知の禅は既に興味の対象とさえもなり得ないものであったといえる。それ故、天童山の仏殿前庭における用典座の姿に、禅師は強く感応するのである。夏の強い日差しの中で、苔を無心に干す老典座の存在は、「他不是吾、更待何時」と記される言葉そのものの体現として深い意味を含んでいる。

苔を干す作業は、寺院の典座職にあれば日常的な行動であろう。その意味で、為すべき時に為すべき者が行う、という上記二句は極めて簡潔ながら仏法の真随を表現している。そしてその言葉が交されるのは、仏殿前であって庫院前でないことに注目したい。『典座教訓』 ではこの点に言及していないが、体解の禅はこの事態をも解明せねば完成したとはいえないと考える。

禅宗では、仏殿は重視されず、法堂を最も重要な伽藍と考える。しかし、それは禅宗における重要度の問題であり、仏殿を軽んじてよいことではない。山門を入って正面に位置する仏殿も、行事の場として清浄であるべき空間といえる。本来、掃き清められて緊張の漲る筈の空間に、老典座は黙々と苔を干し並べているのである。農夫が自家の庭でなすような、何の疑問も周囲に感じさせない行動そのものに、禅師の希求する体解の禅があったといえる。禅師自身、その点に全く疑問を差しはさんでいないことがそれを証している。

清と濁、浄と不浄といわれる二元論は消滅し、単に聖なることによってのみ成立するものは何物も無く、不浄を否定することで、自らを聖なる存在として確立しようとする意識も勿論ない。また、濁、不浄をもって聖に対立せんとする偽悪的な意図を含んでいるのでもない。ただ仏殿前が、苔を干すのに適した広さと陽当りを備えていたからにほかならない。

阿育王山の典座にせよ、天童山の用典座にせよ、その行動と言葉が完全な一致を見せており、何の矛盾も含んではいない。例え両典座の言葉は、禅の古典から学び得たものであったとしても、それは既に知にのみ堕した思想ではなく、言葉を自己の身体で証した体得の禅であったといえる。

百丈懐海の「一日不作、一日不食」という禅の在り方が、歴史という時間の流れの中で断絶せず、宋代の無名の禅者に脈々と受け継がれていたともいえよう。知の抽象的禅を脱却して、労働と修行とが区別されない、というよりできない実践の禅は、行うべき事柄を行うべき時に、行うべき者が行うことに象徴され、百丈の言葉と、用典座の「他不是吾」云々は同意といえる。

二人の老典座は、上記の意味で宋朝禅の主流たる看話禅に組しない。異端ではあるが、それ故唐朝禅者と同様な禅の体現者であったといえる。

百丈の食わずは、典座の職に通じている。食べることは日常生活を代表しているが、それは決して修行、労働の対価ではなく、食べること自体が修行なのだ、と説くのである。

道元禅師が入宋して求めたのは、両典座の如く日常の現場に生きた禅であって、宋代の師家が妓舞する知の禅ではなかったといえる。 その点を考察する上で正法眼蔵「洗浄」「洗面」 の二巻は重要であり、象徴的でさえある。

 

「洗浄」巻では「作法これ宗旨なり、得道これ作法なり(11)」「水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて仏法を保任するにこの儀あり、これを洗浄と称す(12)」と記し、洗浄という生活行為をそのまま仏法の体現となしている。

また「洗面(13)」巻では、宋における楊枝を使わない生活様式を捉えて、単に日本と宋の彼我の習慣の違いという範疇を越えて、楊枝を使わないのは仏法の失墜であると記している。正法を求め、生命を賭して海を渡り、山川を越え、苦労を重ねて来った結果がこれであったと嘆息するのである。有道の尊宿も、人天の導師と呼ばれる人々も、仏法を問えば理路整然と仏典の言葉を並べ、博識なることを被歴してくれるが、向かい合ったその口は臭く匂うのである。口臭がそのまま仏法の滅没へと結び付くことが、道元禅師の在り方においては何の矛盾も含まないのは、先の二典座の行動と言葉に完全な合一性が存在するのと同じ次元で捉えられているからである。人としての生活様式といった生理的範囲に属する事柄も、決して軽んじるべきでなく、逆にそのまま仏法の問題と整え得るかが、仏法と不即不

離の問題として問われているのである。これはそのまま、知の禅をもって学人を化導し、宋朝禅の本流を歩む尊宿達への批判ともなる。日本において、入宋以前に禅師自身が見聞した旧仏教の形態から、知識は容易に権力となり、堕落を生む原因であったし、教条主義は硬直化して制度としての仏法に堕し、何ら人としての真実を得るための解決の糸口さえ与えてくれないことを、体験として知り抜いていたからである。正法体達への糸口となる学仏道の真髄を、天童山の住持たる無際了派からではなく、無名の二典座に受けて宋における禅師の修行が始まったのである。 

留学僧としての禅師の在り方が、単なる知識を求めての学仏道であったならば、大陸禅の主流たる看話禅を学び得て帰国し、先進の禅僧としての自分に満足を感じたかも知れない。しかし現実には、叡山での大疑団に始まり、二典座によって端緒は与えられたものの、求める正法の全体像さえ明確にならぬまま諸山を巡錫し、呻吟を続けて天童如浄に出会うのである。それ故、如浄下で体達した禅を知解では決してないとして、「一毫も仏法なし」 (『永平広録』) と記するのである。

宋朝禅の主流への批判的、又は懐疑的といってもよい禅師の在り方を例に挙げれば、次の一節に明らかである。

外道天魔の流類といってもよい杜撰のやからが導師大徳といわれて人夫の師となり、天下の叢林に座している。杜撰は杜撰に学ぶが故に正法を知らず、知らないから正法を得ようとも思っていない(15)(『正法眼蔵』「仏教」より)

 

この正法眼蔵「仏教」巻では、三教 一致論を思想として論じるつもりのないことが表明されている。三教一致として比較の対象になり得る場に仏法はないとして、論そのものの基盤を否定しているのである。そこには、論理的、知的な対象として仏法を捉えていない禅師の在り方が一層明確に記されているのである。

上記の如く、知解を排し、体解の正法を自らの禅に現成させた禅師にとっては、莫作に関しても例外ではないのである。

 

  

正法眼蔵』「現成公案.巻に記されるところの 「仏道を習ふといふは、自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり(16)」云々の「習ふ」とは、単なる表象的知解としての自己解明ではなく、体解としての自己確認といえる。

同様に道元禅師の示す莫作とは、生きているという本質、全く疑問を差し挟む余地の無い確実さを自証することに他ならず、仏法そのものと自己の間に障りのない立場ともいえる。

 

生きていることに疑いがないということは、 そこに莫作の行為性、奉行の行為性そのものが既に生じる余地のないことであるから、「時は善悪にあらず」「法は善悪にあらず」との言葉になるのである。

また、「作仏祖するに衆生をやぶらず、うばはず、うしなふにあらず、しかあれども脱落しきたれるなり」と記して、莫作すべき悪、奉行すべき善としての、彼我の分別は消減するという。 それは、証す対象として認識していたところの仏法に、証す主体としての自己が、実相を直視することにより、逆に証されるということであるし、莫作さえも莫作されて現成するのが道元禅師における諸悪莫作ともいえる。それ故に、証すべき対象としての仏法も実は自己であり、 証す主体としての存在も自己ということになる。

なぜなら、莫作の力量が現成する時点に留まるならば、莫作の範囲に留置されることになり、莫作とその対象が存続してゆくことになるからである。その故に「井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり、驢の驢をみるなり(17)」云々と記して、莫作の行為性の内から脱して、自己の生きる事実が莫作そのものであることを示している。この点からすれば、

莫作は脱落であり、奉行も脱落であり、莫作・奉行ともに只管打坐そのものに帰結する。

 

1『正法眼蔵』「諸悪莫作」(衛藤即応校註 岩波書店 昭和一四年)上巻一四三。

2同右 上巻一四四~一四五。

3同右 上巻一四一。

4山口益訳『中辺分別論釈疏』五無上乗品 安慧釈(鈴木学術財団 昭和四一年)三七五。

 同じく黒品と白品との差別によりて二種の所取能取の辺ありと云ふ。その中、黒品中に於て無明乃至老死なる十二有支あり。同様に白品中に於ても無明等の滅の差別によりて無明の滅乃至老死の滅なる十二種あり。

5『正法眼蔵』「諸悪莫作」前出書 上巻一四二。

6『道元褝師清規』「典座教訓」(大久保道舟訳註  岩波書店 昭和五四年)二八。

 山僧云、寺裏何無同事者理会斎粥乎、典座一位不在有什麼欠闕。座云、吾老年掌此職、乃耄及之弁道也、何以可譲他乎 又莫 来時未請一夜宿暇。山僧又問典座、座尊年、何不坐禅弁道、看古人話頭、煩充典座只管作務、有甚好事。座大笑云、外国好人未了得弁道、未知得文字在。山僧聞他恁地話、忽然発慚驚心、便問他、如何是文字、如何是弁道。

7東隆真編『五写本影印正法眼蔵随聞記』(圭文社 昭和五四年)一八二。

8『正法眼蔵』「弁道話」前出書 上巻四九~五〇。

9『道元禅師清規』「典座教訓」前出書 二八~三〇。

 同年(嘉定十六年)七月、山僧掛錫天童、時彼典座来得相見云、解夏了退典座帰郷去、適聞兄弟説老子在箇裏、如何不来相見。山僧喜踊感激、接他説話之次、説出前日在舶裏文字弁道之故也。山僧問他、如何是文字。座云、一二三四五。又問、如何是弁道、座云、偏界不曾蔵。共余説話雖有多般、今所不録也。山僧聊知文字了弁道、乃彼典座之大恩也。

10『道元禅師清規』「典座教訓」前出書 一一六。

 山僧在天童時、本府用典座充職。(中略)典座在仏殿前晒苔。手携竹杖頭無片笠。天日熱地甎熱。汗流徘徊励カ晒苔。稍見苦辛、背骨如弓、竜眉似鶴。山僧近前、便問典座法寿。座云、六十八歳。山僧云、如何不使行者人工。座云、他不是吾。山僧云、老人家如法、天日且恁熱、如何恁地。座云、更待何時。

11『正法眼蔵』「洗浄」前出書 上巻一〇一。

 しかあれば身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。ただ身心をきょむるのみにあらす、国土樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれどもきよむるは、諸仏之所護念なり、仏果にいたりてなほ退せず廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり。得道これ作法なり。

12同右 一〇二。

13『正法眼蔵』「洗面」前出書 中巻三〇五~三〇六。

 まさにしるべし、仏仏祖祖正伝の宗旨、かくのごとし。これに違せんは、仏道にあらず、 仏法にあらず、祖道にあらず。しかあるに大宋国、いま楊枝たえてみえず。嘉定十六年癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野の貴賤おなじくしらず。僧家すべてしらざるゆえに、もし楊枝の法を問著すれば、失色して度を失す。あはれむべし、白法の失墜せることを。(中略)有道の尊宿と称し、人夫の導師と号するともがらも、漱石・刮舌・嚼楊枝の法ありとだにもしらず。これもて推するに、仏祖の大道いま陵夷をみるらんこと、いくばくぞといふことしらず。いまわれら露命を万里の蒼波にをしまず、異域の山川をわたりしのぎて、道をとぶらふとすれども、澆運かなしむべし、いくばくの白法か、さきだちて滅没しぬらん、をしむべし、をしむべし。

14伊藤俊光編『永平広録註解全書』上(鴻盟社 昭和四二年)三

 上堂。山僧歴叢林不多。只是等閑見天童先師当下認得眼横鼻直不被人瞞「便乃空手還郷。所以毫無仏法。任運且延時。朝朝日東出、夜夜月沈西。雲収山骨露、雨過四山低、畢竟如何。

15『正法眼蔵』「仏教」前出書 中巻二五九~二六〇。

 しかあるに大宋国の一二百余年の前後にあらゆる杜撰の臭皮袋いはく、祖師の言句、なほこころにおくべからず、いはんや経教は、ながくみるべからす、もちいるべからず、 ただ身心をして枯木死灰のごとくなるべし、破木杓、脱底桶のごとくなるべし。かくのごとくのともがら、いたづらに外道天魔の流類となれり。もちいるべからざるをもとめてもちいる、これによりて仏祖の法、むなしく狂顛の法となれり、あはれむべし、かなしむべし。(中略) かくのごとくの杜撰のやから、稲麻竹葦のごとし、獅子の座にのぼり、人天の師として、天下に叢林をなせり。杜撰は杜撰に学せるがゆえに、杜撰にあらざる道理を知

らず。しらざればねがはず、従冥入於冥あはれむべし。かつて仏法の身心なければ、身儀心操いかにあるべしとしらず。

16『正法眼蔵』「現成公案」前出書 上巻七七~七八。

17『正法眼蔵』「諸悪莫作」前出書 上巻一四四~一四五。

 諸悪莫作は、井の驢 をみるにあらず、井の井をみるなり、驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇応底道理あるゆえに、諸悪莫作なり。

 

これは『印度學佛敎學研究』第三十六卷第二號 昭和六十三年三月 

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂を加えた。

 

(2022年 10月 タイ国にて 二谷 記)