正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵抄』「諸悪莫作聞書」に関する問題について    倉 石 義 範

正法眼蔵抄』「諸悪莫作聞書」に関する問題について

倉 石 義 範

 

正法眼蔵』の最古の注釈書「正法眼蔵抄」の中に、「私云」を冠する注釈が見られる。 この形式をもっ注釈を含む巻を挙げると、仏性、諸悪莫作、説心説性、仏道、他心通のそ

れぞれの巻である。この中で、特に諸悪莫作の巻に於いて、「私云」を冠する注釈が頻出する。そこで、「諸悪莫作」の巻に限って、この「私云」と、これが導びく注釈とに関わる問題について論究したい。

問題となるのは、次の主要な四点である。

一、「私云」を冠する注釈と他の巻の注釈との内容的な関係について

二、「私云」を冠する注釈の形式について

三、「私云」と「奥書」等との関係について 、

四、「私」は誰かについて

従来、「諸悪莫作」 の巻に見られる「私云」に関して論述したものは、右の三と四の内容を説明するにとどまる。然も、三に関してはその解説に論理的矛盾を含んでいるように思わ

れ、四に関しては、この「私」が「経豪」であることについて疑問を持った論文がないことから、この両者の関係が固定して、他の推論に必要となる重大な根拠として用いられてい

る様に思われる。

しかし、この三四の問題は、一二 の問題をみていくことによって、従来、不明なままに保たれていた矛盾した関係や論拠のないまま定まった位地を持つようになった説が、一挙に崩壊して、新たな立場から見直されなければならないことになろう。以下、それぞれの点を詳述することによって、それを証明したい。

 

一についての問題

「諸悪莫作聞書」の中に見られる「私云」を冠する注釈は、内容的に他の全巻の「経豪抄」並びに 「聞書抄」と如何なる関係にあるのであろうか。もし「諸悪莫作聞書」の「私云」

を冠する注釈の内容と類似する注釈が、他の巻中にみられるならば、この両者を比較検討する価値があろう。なぜならば、両者の注釈の内容的類似点を見い出すことによって、両者の注釈は同種のものであろうという推論が成り立ち、これが、その両者のうちの一方の注釈である「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈のもつ「私」とは誰かということを考える時、 より広く客観的立場からこれを見ることを可能にするからである。そこで 「諸悪莫作聞書」 の「私云」を冠する注釈と他の全巻の注釈とを比較してみよう。

 

  • 諸悪莫作聞書(『曹全』注解一、六六五頁)

私云(中略)十界互ニ具ト云へドモ、一界ニノコリノ九界サレバトテアラハレズ、人界ノ時、仏界モ地獄界モアラハレズ、成仏スレバ仏界、堕獄スレバ地獄界也

仏教聞書(同注解一、 七二六頁)

十界互ニ具足スレドモ、一界ト面立テ、九界具足スルユエニ、或時ハ地獄界ト成テ、余ノ九界ハ被具足、或時ハ仏界面成テ、余ノ九界被具足、如此ナルヲ具足トツカフ

  • 諸悪莫作聞書(同注解一、 六七〇頁)

私云(中略)袈裟モキルモノノ類ト心得テ絹ゾ布ゾト論ズ、返返不可然、絹ニテモアレ、布ニテモアレ、其事ヲバ不論、仏衣ト可心得、糞掃ト心得べシ、莫作モ糞掃等トナルべシ

即心是仏聞書(同注解一、一五一頁)

袈裟ヲ云時ハ、絹布帛等ノ論アラズ、只仏衣ゾ袈裟ゾト云ガ如ク心得べシ

伝衣聞書(同注解一、六九一頁)

此伝衣ノ本意ハ、仏衣ナルユへニ、絹布帛ゴトキノ見ヲ解脱スベキ也、更絹ハ罪業、布ハ浄シナムト云論ニハ不可及、(中略)袈裟ヲ仏衣ト云フ、解脱服ゾナムト云フ、マヅ袈裟ノ体ヲ絹布帛ナムトノ類ニ思ハ仏衣ニアラズ解脱トイヒガタシ

家常聞書(同注解二、 三三〇頁)

袈裟ヲモ仏衣トコソ習へ、布絹綿等ノ論ニハ非也

菩提心聞書(同注解二、四二六頁)

袈裟ヲ云ニモ絹布綿等ノ論アラズ

鉢盂聞書(注解二、 五一七頁)

但仏法大意ハ尤袈裟絹布ノ論不可有

 ③諸悪莫作聞書(同注解一、六八四頁)

私云(中略)止観相待義似於別ト云テ、天台ノ名目也、コノ字ヲバ両様ニ心得也、義似於別ハ、別教ノ心ニ似タリトイフ ヤガテ別教ノ心ナリトモイフ、又似リト云ハ円教ニ似タリトイフト論ズル也

三十七品菩提分法聞書(同注解二、三七二頁)

天台ノ論義ニモ義似於別ナムト云テ、別教ノ心ヲ似タリトコソ云へドモイフ、又似タリトハヤガテ別教ヲサシテコソ云へドモ論ズル也

➃諸悪莫作聞書(同注解一、六五五頁)

ツクルベキ諸悪ノアルヲツクル事ナカレト云ニテハアラズ、大海ヲトクトキ、不宿死屍ト云フガ如シ、死屍ハナケレドモ大海不宿死屍ノ道理アリ

仏性聞書(同注解一、七二頁)

大海不宿死屍ト云フ詞アリ、是ヲ心得モ死屍ノアルニテハナシ、タダ大海トトク詞ニハ不宿死屍トカナラズイフ也、 コノ定ニ今ノ我慢モアルべシ

仏性聞書(同、八六頁)

謗仏法僧ノ謗(大海不宿死屍ノホドニ心得ペシ、 コノ謗、世間ニイフ謗ニアラズ大海ニ死屍ナケレドモ、大海ニハ不宿死屍ト云ガ如也

無情説法聞書(同注解二、一六六頁)

大海不宿死屍ナムト云モ、大海ノスガタ許ヲコソトケ、死屍ノ様ヲ・ハ不解、然而大海不宿死屍トイヒッケタルナレ

⑤諸悪莫作聞書(同注解一、六五六頁)

戒ハ制止ト云へ・ハ、諸悪ノックラレヌベキヲ、 セイシテ莫作ト云ニ似タレドモ、然ルニハアラザルべシ、諸悪ヲ別ニ置テ莫作ト制スルニテハナシ、ヤガテ諸悪ガ莫作ナル也

山水経聞書(同注解一、六一五頁)

諸悪莫作ト云トキモ、諸悪ハ只莫作トコソ談ズレ、悪ト云事ヲ置テ莫作トイマシメタルニ非、今ノ莫謗如来ノ莫ノ字如此ナルべシ (筆者傍点線)

これを見て明らかなことは、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈、あるいは、そう思われる注釈④⑤は、内容的に他の巻の 「聞書抄」に相当するのである。すなわち、「諸悪莫作聞書」の「私云」に導かれる注釈は、他の巻の「聞書抄」の注釈と、その比較に於いて見る限り、同内容同種のものである。(但し、②④などは内容的に異なる筈はないが、その説き方に注目した)このことは、「正法眼蔵聞書抄」は、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈を含めて、同一人によって書かれたものであることを意味する。

このことを決定づけるものとして、 右の③の例を挙けることが出来る。 注目すべきは、 この例で、「諸悪莫作聞書」と「三十七品菩提分法聞書」の両者が、「天台」という名目を挙げて、「天台的事柄」を述べているということである。このように、「聞書抄」全体に於いて、 右同様の例をみると実に多いことがわかる。しかし、「経豪抄」に於いて、「天台」の名目を挙げて 「天台的事柄」が述べられる例は皆無である。このことは、 明らかに「諸悪莫作聞書」の 「私云」を冠する注釈は、他の巻の「聞書抄」と同種のものであることを示しているといえよう。

 

二についての問題

「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈の仕方に関する形式的な面をみてみたい。注意する点は二点ある。第一は、題目の注釈の仕方について、第二は、「諸悪莫作聞書」だけを見た場合の「私云」に導かれる注釈と「聞云」を冠する注釈との関係についてである。

第一点について述べる理由は、「諸悪莫作聞書」の題目の注釈から始める注釈の仕方は、他の巻の冒頭の注釈方法と比較検討すると、「聞書抄」のそれに類似することに気づくからである。このことは、「諸悪莫作聞書」の冒頭部分が「私云」を冠する注釈から始まっていることから、これと「聞書抄」とは、やはり同種の注釈であると推定されるのである。

これを述べる根拠を簡単に列挙してみると、次の如くである。

  • 題目の注釈から始まっている巻は、「聞書抄」が三十六巻、「経豪抄」は二十四巻である。

②「聞書抄」には、題目の注釈に関して、自問自答の形で注釈することがある しかし、「経豪抄」には、この様な例はない。ところが「諸悪莫作聞書」では、「私云、名目ヲ諸悪莫作ト云心如何、 云云」とある様に、自問し、更に、「実ニハ悪莫作ノ道理ガ、ヒビキテ衆善奉行トモ、自浄其意トモ、 是諸仏教トモイハルル時ニ尤諸悪莫作ト可付モノナリ」と自答して、題目の解説をしている。

➂その他、「聞書抄」全体の題目の注釈の仕方をみるに、現成公案、即心是仏、夢中説夢、春秋などにみられる様に、非常に具体的で丁寧な解説をしている。特に、題目そのものが、仏法究尽の道理を語るものであることを強調し、詳細にこれを説いている。この様な注釈は、「諸悪莫作聞書」の注釈と酷似するものである。

 

さて、第二点について述べるのは、「諸悪莫作聞書」の中に見られる「聞云」「私云」 を冠する両者の注釈の相関関係についてである。これは、最初の主要な問題点として挙げた➂

「私云」と奥書等との関係についての問題を述べる時の論拠として用いるために証明しようとするものである。

そこで、「諸悪莫作聞書」に見られる「聞云」「私云」を冠する注釈の相関関係を調べて、 これを整理してみると次のことが言える。

第一に、「私云」に導かれる注釈は、「聞云」 の注釈について、更に部分的に解説するために、「聞云」 の注釈の後に付加された再注釈であるということ。

第二に、「私云」 に導かれる注釈は、「聞云」の「正法眼蔵」の本文に関する注釈では不足なところを補なうために付加された注釈であるということ。

右の二点のことは、必ずしも「諸悪莫作聞書」の全般に亘って言えるわけではないが、大部分がこの形式をとって書かれたものであると言っても過言ではなかろう。ここで注意しなければならないのは、以下の例に示すように、「聞云」「私云」 の両者の注釈は、「聞書」(ききがき)とは呼ばれても、明らかに同時点で書かれたものではないということである。

「聞云」の注釈が先に在ったところへ 「私云」 の注釈が後に書き加えられたのである。このように 「付け加えられた註釈」をも「御抄」に於いては 「聞書」と呼んでいるのである。それ故無論、「聞書」が、全て何人かの提撕したものを書き留めたものであるということは出来ない。そこで、 それを証明する例を次に挙げておこう。

 

第一の例(紙数の都合上、一例のみ挙ぐ)

  • 聞云、祖宗ト云ハ、七仏ノミニアラズ、以前以後ニモ通ズベシ (中略)今ノ心ハシカアラズ仏ニ通別ノ法ナシ通別ハ仏ノ法ナリ

私云通別ハ仏ノ法也ト云フ、通別ハ諸悪莫作ヲ通トモ別トモ仕べシ (中略)仏ニ通別ノ法ナシト云ハ能所彼是ノ差別ヲヲイテ通ト云ヒ別ト云フ也、(筆者傍線)(注解一、六五四頁)

第二の例(紙数の都合上、一例のみ挙ぐ)

  • シカアレバ莫作ニアラバツクラマジト趣向スルハ、アユミヲ北ニシテ越ニイタラムトマタムガ如シ (眼蔵原文)

聞云、別ノ心ナシ

私云、 ツクラマジト云詞ハ、ツクラムト云心地ナリ、邪見ヲサスナリ、悪無礙ノ見ナリ、(注解一、六七一頁)(筆者傍線)

 

三についての問題

これまで述べてきたことは、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈は、内容的にも形式的にも、「聞書抄」と同種のものであるから、この「私」とは、全巻の「聞書抄」を著わした人物であって経豪ではないということと、この「私」が「諸悪莫作聞書」の中でした注釈の方法は、「聞云」の注釈に対する付加的注釈法であるということであった。いま、後者 のことを受けて、この「私」と「諸悪莫作聞書」の奥書に見える次の「我」「予」「菩薩比丘」との関係をみようとするのである。ー寂光与我聞書之上、加予聞書詞也、可取捨者也 菩薩比丘—、この奥書に見える三者は同一人物とみてよいと思うが、 問題は、 この三者と「私」との関係を解く鍵を、この奥書の文面のどこに見い出すかにある。その答は、「加予聞書詞」

であると思う。このことばの内容は、「諸悪莫作聞書」全体を読んでみると、先に二で述べたように、「私云」の注釈は「聞云」 の注釈に付け加えた詞であるという意味にしか理解出来ない。 これ以外に、奥書と本文との関係をより適確にみることは出来ない。それ故、この「予」をも含む奥書の三者は、「諸悪莫作聞書」 の本文に於ける「私」と同一人物であるということがわかる。而もこの「私」は、一二によって、「聞書抄」 を著わした人であることが明らかになっている。それでは、この「私」(予、我、 菩薩比丘) とは誰なのかを最後にみてみたい。

 

四についての問題

従来、「諸悪莫作聞書」中の「私云」の「私」は経豪であるとするのに異論をはさむ者はなかった。その理由はわからないが、以上の様に見ると、それは経豪では有り得ない。結論を言えば、この「私」は、「聞書抄」 を著わした詮慧であると考えられる。その理由をまとめて述べると次の如くである。

まず、「聞書抄」を著わしたのが、詮慧であることは、経豪が「御抄」 の奥書に 「傍書載本願御聞書詞、所仰証明也」と述べていることから明らかである。「本願」とは、「(永興寺) 開山」すなわち詮慧のことだからである。ところで、先に述べた様に、この「聞書抄」と全く内容的にも形式的にも等しい注釈としてみられたのが、「諸悪莫作聞書」の中の「私云」を冠する注釈なのであった。逆に言えば、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈とその性格を等しくするものが、詮慧の書いた「聞書抄」なのである。それ故、「諸悪莫作聞書」の中に見られる 「私」は、詮慧である。更に、この「私」(予・我 ・菩薩比丘)=詮慧という関係を、「諸悪莫作聞書」の奥書 (前出)に当てはめて考えると、結局、「諸悪莫作聞書」を著わしたのは、詮慧と寂光の二人であって、経豪は無関係なのである。                 (註 略)

 

これは駒沢大学仏教学部論集 通号 6(1975-10)『正法眼蔵抄』「諸悪莫作聞書」に関する問題についてのpdf資料をワード化したものであり、一部修訂した。