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現代人による正法眼蔵解説

大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と平泉澄

大正・昭和戦前期における徳富蘇峰平泉澄

―その史学史的考察―

高野山大学助教 坂口 太郎

目 次

  問題の所在と本書の視角・方法

第一節 日本近代史学史をめぐる研究史と本書の課題       

第二節 本書の視角と方法                   

序章 注                               

  『近世日本国民史』と初期平泉史学の時代区分論

第一節 青年期の平泉澄と田中義成                  

第二節 徳富蘇峰と田中義成                   

第三節 平泉澄徳富蘇峰の時代区分論              

第四節 平泉澄と内田銀蔵の時代区分論              

第五節 徳富蘇峰による織田信長歴史的評価             

第一章 注                             

  大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と官学アカデミズム

第一節 『近世日本国民史』の史料収集と東京帝国大学史料編纂掛

第二節 蔵書家・「大記者」としての徳富蘇峰と史料編纂掛の学者たち

第三節 渡辺世祐と高橋源一郎

第四節 歴史家徳富蘇峰の変質

第二章 注                             

 大正末期・昭和初期における平泉史学の変質と徳富蘇峰

第一節 徳富蘇峰平泉澄の交遊の始まり  

第二節 平泉史学における南朝正統主義の確立

第三節 平泉澄の『神皇正統記』研究と徳富蘇峰

第四節 平泉澄橋本左内研究と徳富蘇峰

第三章 注                              

 安政大獄志士七十年祭と平泉澄

第一節 徳富蘇峰における井伊直弼観の変化

第二節 安政大獄関係志士遺墨展覧会と追悼講演会

第三節 平泉澄高松宮宣仁親王田中光顕との邂逅

第四節 近代史学史における井伊直弼問題 ―三上参次平泉澄―  

第四章 注                              

 官学アカデミズムへの批判と『大日本史

第一節 徳富蘇峰の官学アカデミズム批判          

第二節 平泉澄の官学アカデミズム批判

第三節 徳富蘇峰平泉澄と『大日本史』 

おわりに

終章 注

徳富蘇峰記念館所蔵「平泉澄書簡類」翻刻

徳富蘇峰記念館所蔵「平泉澄書簡類」一覧

序章 問題の所在と本書の視角・方法

 

第一節 日本近代史学史をめぐる研究史と本書の課題

 明治期に成立した日本近代史学は、西洋史学の研究法を十分に消化することで成熟を遂げ、大正期に確立を迎える。大正デモクラシーの風潮は、文化史学や思想史研究の隆盛をもたらし、歴史の総合的把握に対する学究の希求は、斯界に清新な史風を吹き込んだ。やがて大正末期には、社会問題を背景に社会経済史の研究が盛んとなり、昭和期に入ると、唯物史観の登場とナショナリズムの昂揚が相まって、近代史学は大きな転換期を迎えることになる(1)。

 さて一般に、近代史学は、官学アカデミズムと民間史学という二つの潮流によって構成されるといわれる(2)。前者が帝国大学に基盤を置き、史料の博捜と精密な実証に基づく考証主義を特徴とするのに対して、後者は実践的な問題関心に基づき、自由な史論を展開した点に特色があった。史学史研究では、後者にいち早く注目が集まり、福沢諭吉や田口卯吉らの文明史学(啓蒙史学)から、山路愛山徳富蘇峰ら民友社を中心とする民間史学(史論史学)への展開、そして昭和期のマルクス主義史学による継承、という在野の歴史家の系譜が示された(3)。

 一方、前者の官学アカデミズムについては、その考証重視の学風に含まれる「無思想」性が問題視され、民間史学に比して否定的に評価されることが多かった(4)。しかし、近年、官学アカデミズムに対する再検討が行なわれ、従来のような評価は覆されつつある。具体的には、明治政府による修史事業と東京帝国大学史料編纂掛の沿革(5)、東京帝国大学における学科・学会・学術雑誌などの整備(6)、歴史理論の受容(7)、代表的な歴史学者の事蹟(8)など、多彩なテーマのもとに研究が進められており、官学アカデミズムにおける学知編成過程は、明確なイメージで描くことが可能となった。これを先の民間史学に関する研究と接続させることで、立体的な明治史学史像を得られる研究状況にある(9)。

 ただし、その先の大正期から昭和戦前期の歴史学については、全体的に研究の蓄積は乏しい。官学アカデミズムについては、東京および京都を中心に展開した文化史に対する大局的な把握(10)、歴史思想史からのアプローチ(11)、黒板勝美西田直二郎の研究(12)などが、注目すべき研究動向であるが、明治期に比すると、全体的に発展途上の段階にあるといってよい。また、民間史学については、明治二十年代から三十年代における民友社の歴史家が活躍した時期が全盛期とされ、山路愛山の死によって民間史学の歴史的役割が終わったという評価が広く行なわれてきた(13)。そのため、大正期以降の民間史学についての注目は少なく、徳富蘇峰の『近世日本国民史』(以下、『国民史』と略する)や竹越三叉の『日本経済史』についての検討(14)を除くと、未開拓な面が大きい。

 このような研究状況に一石を投ずべく、本書では、徳富蘇峰(本名は猪一郎。一八六三〜一九五七)と平泉澄(一八九五〜一九八四)という二人の人物に焦点を当て、とくに平泉に比重を置きつつ、大正・昭和戦前期における歴史学界の実態を明らかにしていく。そこで、本論に入る前に、多くの歴史家の中から、蘇峰と平泉の二人を取り上げる理由について、二人に関わる研究史を整理しながら、述べることにしたい。

 まず、徳富蘇峰は、民友社を創設して山路愛山や竹越三叉らを世に出すほか、自らも『吉田松陰』を著した民間史学の雄である。日清戦争以降の蘇峰は、次第に国粋主義に傾き、日露戦争を経て「皇室中心主義」を表明するようになる(15)。元来記者として知られた蘇峰は、大正期の後半から歴史家の面が顕著となり、『近世日本国民史』全百巻の執筆に取り組む。『国民史』は、大著であることと、その歴史観ナショナリズムを基調とすることが相まって、戦後長らく本格的な検討がなされなかった。しかし、近年、杉原志啓によって、その成立過程や歴史叙述としての特徴について詳細な考察が行なわれ、客観的な位置付けがなされた(16)。杉原の研究成果を踏まえつつ、史学史的な観点からも『国民史』を検討することが、可能な研究段階にある。

 とくに、言論界の大物であった蘇峰は、官学アカデミズムの著名な歴史学者と親交を結んでおり、この関係が『国民史』の史料収集にも重大な作用を及ぼしていた。具体的に言えば、『国民史』には、東京帝国大学史料編纂掛の史料が数多く利用されており、この背景を掘り下げることで、官学アカデミズムと民間史学の関係性はもちろん、蘇峰の歴史家としての変質についても、新たな論点を提示できる可能性は大きい。また、蘇峰は、『国民史』の執筆と並行して、幕末維新期に活躍した志士の顕彰活動を行なっており、とりわけ志士の遺墨展示は、昭和期の国民教化の一翼を担うものであった。戦時体制下の明治維新観の前提を考える上でも、蘇峰の存在は見逃せない。筆者が大正・昭和戦前期の蘇峰に注目するのは、以上の理由による。

 次に、平泉澄は、「皇国史観」と称される歴史観で知られる歴史家である。大正期の学界に登場した平泉は、官学アカデミズムの考証主義と文化史を融合させたユニークな研究を発表し、中世史研究に新生面を開いた。しかし、平泉は昭和期に入って、国粋主義に傾斜し、昭和五・六年(一九三〇・三一)の欧米視察から帰国した後は、「建武中興」や南朝を支えた「忠臣」、あるいは近世や幕末維新期の勤王思想家である「先哲」を取り上げ、革命思想に対抗する歴史思想を打ち出していく。そして、戦時体制下において、軍部・政治家に協力し、国体護持の活動に邁進するのである。

 このような平泉の歴史観と政治的活動は、戦後に入って激しい断罪を被り、史学史研究でもファシズムに貢献した歴史家という評価が行なわれ、歴史学界の戦争責任を負うべき存在として位置付けられた(17)。一九八〇年代までの学界では、歴史教育の右傾化、とりわけ家永教科書裁判と関連付けて、平泉が言及される傾向が強い(18)。

 しかし、九○年代から平泉への関心が次第に高まり、今谷明が戦後歴史学を批判する動機で、平泉の歴史学を大きく取り上げた(19)。その後、平泉の思想を近代思想史上に位置付けた苅部直の研究(20)や、平泉の事蹟に関する若井敏明の実証的な研究(21)が示され、平泉研究は新たな段階に入る。近年では、若井による平泉の本格的な伝記(22)が出版され、平泉の学問・思想についても、これを「歴史神学」として捉えた植村和秀のアプローチ(23)や、昭和十年代における新旧の国体論の相剋の中に位置付けた昆野伸幸の研究(24)が発表された。ここに、平泉研究の水準は、飛躍的に高まったといえよう(25)。

 このような研究の達成をうけて、本書がなお大正・昭和戦前期の平泉に注目するのは、次に示す二つの問題が重要であると考えるからである。

 その一つは、大正期に展開した初期平泉史学が、史学史上に占める学問的意義である。先に述べたように、この時期の平泉の研究は、当時の中世史研究の中でも、その画期性は群を抜いていた。この事実自体は、古くから平泉のアジール論に注目する形で言及されており(26)、平泉の中世観についても、若井敏明や昆野伸幸ら(27)が踏み込んだ考察を行なっている。しかし、平泉が、いかなる学問的関心のもとに自己の研究を組み立て、かつ先学と対峙したのか、この点について未解明の部分は大きく、当時の研究状況を踏まえつつ検討を加えるべき余地が残されている。そこで、平泉の提示した時代区分論について、徳富蘇峰の『近世日本国民史』やその他の学説と併せて検討を加えることで、大正期の官学アカデミズムに生じた学問的なうねりを明らかにしたい。

 いま一つは、昭和初期における平泉史学の変化である。平泉が、大正十五年(昭和元年一九二六)の末ごろから次第に国粋主義的な傾向を帯びることは、若井敏明によって指摘されている。若井によれば、昭和期に入ってから、平泉は『神皇正統記』や近世の勤王家(とくに橋本左内)の研究に着手し、これらが相互に関連して国粋主義的思想の理論化がなされ、後年の平泉が展開する活動の基調をなすという。

 筆者が注目するのは、ちょうどこの時期に、平泉と徳富蘇峰の関係が結ばれた事実である。若井による平泉の伝記(28)には、蘇峰はまったく登場しないが、実は平泉と蘇峰の二人は、大正十五年(昭和元年、一九二六)から蘇峰が亡くなる昭和三十二年(一九五七)まで、三十年以上にわたる好誼があり、これは平泉の生涯にとって重大な意味を持っていた。昭和戦前期に関して言えば、蘇峰は平泉の『神皇正統記』研究を応援し、また平泉も蘇峰による幕末志士の顕彰活動に積極的に協力するなど、親密な関係がうかがえる。すなわち、この時期の平泉と蘇峰の関係性に注目することは、鋭角的な転換を遂げつつあった平泉史学の具体相をより克明に描くことにつながる。さらに、平泉史学の変化を深く掘り下げることで、官学アカデミズムの内部に兆した学問的対立を焙り出すことができる。

 なお、平泉門下の田中卓によれば、平泉自身が自らの歴史観を指して「皇国史観」と表現した事実はないという(29)。また、近年では、長谷川亮一によって、「皇国史観」が、戦時下における政府、とくに文部省が喧伝して広めた一種の国策標語であったことが実証的に明らかにされた(30)。そのため、現在の学界では、平泉の歴史観をいかに表現するか、研究者によって見解は分かれている。筆者は、平泉が戦前・戦中期のみならず、戦後も長らく活動を続けた事実を重視し、とくに平泉が民主主義に対抗して国体護持の論陣を張ったことに注目する観点から、平泉の生涯を貫く歴史観には、「国体護持史観」という表現がふさわしいと考える(31)。今回扱う時期は、この歴史観が全面的に展開される以前に属するので、本書での使用は少ないが、今後、平泉の歴史観を指す表現として国体護持史観を用いることを断っておきたい。

 以上、大正・昭和戦前期の徳富蘇峰平泉澄を取り上げる意義を述べた。次に、筆者が史学史研究に取り組む上での視角と方法について、いささか考えるところを述べたい。

 

第二節 本書の視角と方法

 近年、今井修は、「史学史構築のための着実な基礎作業が立ちおくれ、「史学史の時代」といわれるなか、いわれるがゆえの史学史の地道な基礎的研究の実質上の軽視がみられる」という指摘を行なうとともに、史学史が専門研究領域としてもっと自立すべきことを訴えている(32)。この提言に、筆者は同意するものである。

 先鋭的な問題意識や斬新な枠組みを提示することに急ぐ余り、歴史研究の基本というべき史実の実証的な解明を放擲し、放埓な議論を繰り広げるならば、それは斯学の発展を阻害しかねない。厳正な事実認識や分析なくして、史学史の正確な理解を得られぬことは言うまでもなく、基礎的な史実の究明と精確な記述を尊重すべきであろう。

 その際、とくに心掛けるべきは、透徹した史眼を以て、個別の学説史(研究史)の展開を周到に跡付け、そこで得た知見を史学史全体の理解に反映させる営みではあるまいか。かつて永原慶二は、自著『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、二〇〇三年)の合評会における青木美智男の発言を踏まえて、次のように述べた。本書(筆者注、『20世紀日本の歴史学』)で私は、史学史と学説史との区別を初めから意識し、具体的研究に即した学説史に沈みこむことによって、史学史として求められるものがかえって不鮮明に陥ることを警戒した。しかし史学史がつねに学説史と全く異なる地平において存在するのかといえばもとよりそうで

はない。やはり具体的歴史研究に即した学説史の森にふみこまなければ、史学史の地平も見えてこないのである。その点で青木氏の指摘は的を射たものと考える。諸時代史研究の学説史にふみこむことは、今日の細分化された研究状況のもとでは困難きわまりないことであるが、そこにふみこむことによって史学史としてとりあげ、深めなければならない問題はよりよく見えてくることは確実であろう(33)。

 永原は、この文章を発表してまもなくこの世を去った。それだけに、この一文は後学へのメッセージとして重い意味を持ち、史学史研究を志す学究が服膺すべきものがあると筆者は考える。もちろん、永原が付け加えるように、歴史学の研究領域が細分化を極めた今日、全時代・全分野の隅々にわたって学説史の一々を追いかけることは不可能となった。しかし、歴史家の力量の程や歴史観をうかがうには、著作や論文に示された学説を措いて他にはない。学説史の吟味を抜きに過去の歴史家を評価することは、僭越の謗りを免れまい。

 学説史の具体的な展開を考慮に入れることで、過去の歴史学が直面した問題が見えやすくなる利点もある。例えば、川添昭二は、『蒙古襲来研究史論』(雄山閣出版、一九七七年)の「はしがき」において、「一般に研究史は、それぞれの研究を生み出した時代の思潮・動向と不即不離の関係にあり、そのために研究史の整理は思想史的な目くばりを必要とする」と述べ、鎌倉時代のモンゴル襲来の研究史を通して、近世・近代における対外的緊張と史学史の一体関係を描き出した。真摯にして篤実な業績である。

 翻って、筆者は、歴史認識一般の在り方や、理論的な問題のみを扱って事足れりとする態度が、真の意味で史学史研究を豊かにするとは考えない。本書においては、永原の言う「具体的歴史研究に即した学説史の森」に分け入り、近代史学を代表する歴史家たちの学説や歴史把握に現れた対峙・衝突を通して、「史学史の地平」を見渡すことを目指したい。

 とくに、本書で扱う蘇峰や平泉は、近代の歴史家の中でも、屈指の著作量を誇るだけに、その歴史思想や学問の全容を把握するのはなかなか困難である。しかし、可能な限り文献の渉猟を行なうことで正確を期する(34)。また、二人の歴史観や学説の一つひとつが、いかなる内在的契機と外部の影響によって生み出されていったのか、これを厳密に究明するとともに、その持続と成熟、あるいは屈折と変容の諸相について、段階的に把握することを心掛ける(35)。その上で、同時代に生きた重要な歴史家との対比を通して、彼らを近代史学史の上に位置付けたい。

 次に、蘇峰・平泉を含めた歴史家の日記・書簡・自伝・回想文・追悼文・年譜を丹念に調査することで、それぞれの個性を浮き彫りにする。日記・書簡が持つ史料的価値の高さは申し述べるまでもない。また、自伝・回想文・追悼文などに示された学者の逸話には、その背景に、著作や論文の表面からはうかがえない、重要な学史的問題が潜んでいることが往々にある。一次史料の発掘が進んでいない近代史学史を研究する上で、このような逸話の持つ史料的価値は決して低くない。もちろん、入念な史料批判を加えるべきことは言うまでもないが、この点に留意した上で、積極的に注目したい。さらに、同時代の新聞記事などにも目を配ることで、情報収集の努力を重ねる。

 ちなみに、本書で利用する新史料の中では、徳富蘇峰記念館(神奈川県中郡二宮町所在)に所蔵される書簡群が重要な意味を持つ。これは、徳富蘇峰の手許に残れた来簡の一大集成であり、蘇峰晩年の秘書であった塩崎彦市とその遺族によって整理がなされ、発信者は約一万二千、総数は約四万六千通を数える(36)。この書簡群が、明治・大正・昭和にわたって第一級の史料群であることは知られており、すでに文筆家・藩閥政治家・国民新聞関係者の書簡が『近代日本史料選書』に収録されている(37)。また、高野静子による書簡の地道な読解に基づく著作(38)も出版されており、これが蘇峰の再評価に果たした役割は大きい。

 筆者の見るところ、記念館所蔵の書簡には、近代史学を代表する歴史学者が蘇峰に発信したものが多数含まれており、これらを厳密に翻刻し、詳細な検討を加えることで、史学史研究に貢献できる可能性は高い。とくに、平泉澄の書簡類は、戦前・戦後における平泉の知られざる事蹟を伝える第一級の史料であり、すこぶる重要な価値を帯びている(39)。本書では、平泉の書簡類の全点を翻刻するとともに、その一部を利用して、昭和戦前期における蘇峰と平泉の交遊関係について論ずる。また、平泉以外の歴史学者の書簡についても積極的に利用することで、近代史学史を明らかにする一助としたい。

 大正・昭和戦前期における徳富蘇峰平泉澄の二人を通して、官学アカデミズムと民間史学が交錯した近代史学史の一断面を描き出すこと、これが本書の目標である。第一章では、蘇峰が『近世日本国民史』の執筆を開始し、かつ平泉が東京帝国大学卒業論文を提出した大正七年(一九一八)を起点として論を展開していきたい。

 

序章 注

1近代史学史における大正期の意義については、横田健一「二十世紀の国史学」(『関西大学文学論集』第三巻第四号、一九五四年)一六〜二三頁、大久保利謙「日本歴史の歴史」(『大久保利謙歴史著作集』第七巻 日本近代史学の成立、吉川弘文館、一九八八年。初出一九五九年)五九〜六一頁、北山茂夫「日本近代史学の発展」(『続万葉の世紀』東京大学出版会、一九七五年。初出一九六三年)、永原慶二『20世紀日本の歴史学』(吉川弘文館、二〇〇三年)七三〜八七頁参照。

2家永三郎「日本近代史学の成立」(『日本の近代史学』日本評論新社、一九五七年。初出一九五四年)。近代史学を二系統に区分して考える理解については、柴田三千雄「日本におけるヨーロッパ歴史学の受容」(『岩波講座 世界歴史』三〇 別巻 現代歴史学の課題、岩波書店、一九七一年)による批判もあるが、現象面はもとより同時代的認識に照らして、基本的に有効性を失わないと考える。この点については、今井修「歴史の思想」(『岩波講座 日本の思想』第一巻 「日本」と日本思想、岩波書店、二〇一三年)も参照。

 なお、近年の史学史研究では、帝国大学を中心とする歴史学派を指して、「アカデミズム史学」と称する傾向が強い。しかし、私学の歴史学派や民間史学と対置する際、「官学」の二字を冠した用語の方が、語感はいたって明快である。ゆえに、筆者は旧来の「官学アカデミズム」の表現を用いる。

3前注家永論文。また、服部之総「史家としての蘇峰・三叉・愛山」(『服部之総全集』第七巻 開国、福村出版、一九七三年。初出一九三五年)も参照。民間史学を代表する山路愛山については、多賀宗隼「山路愛山論」(『みすずリプリント六 独立評論』四付録、みすず書房、一九八七年。初出一九四七年)、藤田省三「愛山における歴史認識論と「布衣」イズムとの内面的連関」(『藤田省三著作集』第四巻 維新の精神、みすず書房、一九九七年。初出一九六〇年)、小沢栄一『近代日本史学史の研究』明治編(吉川弘文館、一九六八年)第六章「史論史学」、坂本多加雄山路愛山』(吉川弘文館、一九八八年)、岡利郎『山路愛山』(研文出版、一九九八年)などがある。民間史学とマルクス主義史学の関係性については、今井修「現代の「史論史学」をもとめて」(『歴史評論』第五一九号、一九九三年)が参考となる。

4明治期の官学アカデミズムに対する否定的評価は、門脇禎二「官学アカデミズムの成立」(歴史学研究会・日本史研究会編『日本歴史講座』第八巻 日本史学史、東京大学出版会、一九五七年)、岩井忠熊「日本近代史学の形成」(『天皇制と歴史学かもがわ出版、一九九〇年。初出一九六三年)、前注小沢著書第五章「啓蒙史学の変質 序説」に見える。一方、注(1)前掲大久保論文は、官学アカデミズムの果たした役割を高く評価する。早い時期の個別研究としては、秋元信英が、「明治二十六年四月における新史局の帝室設置案」(『国史学』第九九号、一九七六年)、「明治二十六年栗田寛の修史事業構想」(『國學院女子短期大学紀要』創刊号、一九八三年)、「明治前期の修史事業と文体に関する若干の覚え書き」(『國學院女子短期大学紀要』第八巻、一九九〇年)などの重要な論文を発表している。

5宮地正人「政治と歴史学」(西川正雄・小谷汪之編『現代歴史学入門』東京大学出版会、一九八七年)、マーガレット・メール著、千葉功・松沢裕作ほか訳『歴史と国家』(東京大学出版会、二〇一七年。原著一九九八年)、箱石大「維新史料編纂会の成立過程」(『栃木史学』第一五号、二〇〇一年)、秋元信英「明治初年の修史・教科書・国学者」(『國學院大學北海道短期大学部紀要』第二九巻、二〇一二年)、松沢裕作「修史局における正史編纂構想の形成過程」(同編『近代本のヒストリオグラフィー』山川出版社、二〇一五年)、佐藤雄基「明治期の史料採訪と古文書学の成立」(同上)など。また、史料集・図録として、東京大学史料編纂所編『東京大学史料編纂所史史料集』(東京大学史料編纂所、二〇〇一年)、東京国立博物館東京大学史料編纂所編『時を超えて語るもの』(東京大学史料編纂所、二〇〇一年)がある。

6廣木尚「一八九〇年代のアカデミズム史学」(前注『近代日本のヒストリオグラフィー』)。

7中野弘喜「史学の「純正」と「応用」」(注(5)前掲『近代日本のヒストリオグラフィー』)。

8高田誠二『久米邦武』(ミネルヴァ書房、二〇〇七年)、松沢裕作『重野安繹と久米邦武』(山川出版社、二〇一二年)など。

9今後、秋元信英「久米邦武と竹越与三郎の連続性」(『國學院女子短期大学紀要』第五巻、一九八七年)のような、官学アカデミズムと民間史学の双方に周到な目配りを行なった重厚な研究が、再び登場することが待望される。

10注(2)前掲今井論文九九〜一〇七頁。

11成田龍一歴史学という言説」(『歴史学のスタイル』校倉書房、二○○一年)、池田智文「一九二〇〜三〇年代の「国史学」」(『日本史研究』第五八三号、二〇一一年)。

12黒板勝美については、齋藤智志「黒板勝美の史蹟保存論」(『近代日本の史蹟保存事業とアカデミズム』法政大学出版局、二〇一五年。初出二〇〇四年)、廣木尚「南北朝正閏問題と歴史学の展開」(『歴史評論』第七四〇号、二〇一一年)、同「黒板勝美の通史叙述」(『日本史研究』第六二四号、二〇一四年)、同「一八九〇年代のアカデミズム史学」(注(5)前掲『近代日本のヒストリオグラフィー』)、同「日本近代史学史研究の現状と黒板勝美の位置」(『立教大学日本学研究所年報』第一四・一五号、二〇一六年)、渡邉剛「〔修士論文概要〕黒板勝美史学史的位置」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第四分冊』第六〇輯、二〇一五年)、同「平泉澄博士「恩師」翻刻と解説」(『藝林』第六七巻第二号、二〇一八年)、ヨシカワ・ リサ「近代日本の国家形成と歴史学」(『立教大学日本学研究所年報』第一四・一五号、二〇一六年)、Lisa Yoshikawa,MakingHistory Matter(Harvard University Press Asia Center,2017)などがある。

 また、西田直二郎については、蘇理剛志「京都帝国大学民俗学会について」(『京都民俗』第一九号、二〇〇一年)、菊地暁「主な登場人物」(『柳田国男研究論集』第四号、二〇〇五年)、同「京大国史の「民俗学」時代」(丸山宏・伊從勉・高木博志編『近代京都研究』思文閣出版、二〇〇八年)、林淳「文化史学と民俗学」(『柳田国男研究論集』第四号、二〇〇五年)、斉藤利彦「西田直二郎と民俗調査」(『佛教大学アジア宗教文化情報研究所研究紀要』第四号、二〇〇七年)、同「西田直二郎とヨーロッパ留学」(『佛教大学宗教文化ミュージアム研究紀要』第五号、二〇〇九年)、入山洋子「西田直二郎と『京都市史』」(『京都市歴史資料館紀要』第二一号、二〇〇七年)、同「『京都市史』編纂と歴史学」(小林丈広編『京都における歴史学の誕生』ミネルヴァ書房、二〇一四年)などがある。

13注(2)前掲家永論文、注(3)前掲小沢著書。

14蘇峰の『近世日本国民史』については、杉原志啓『蘇峰と『近世日本国民史』』(都市出版、一九九五年)、高野静子編『徳富蘇峰と『近世日本国民史』』(徳富蘇峰記念館、一九九六年)、梶田明宏「徳富蘇峰と『近世日本国民史』」(『歴史と地理』第五七〇号、二〇〇三年)がある。また、三叉の『日本経済史』については、堀和孝「竹越与三郎と『日本経済史』」(『近代日本研究』第三〇巻、二〇一三年)がある。

15米原謙『徳富蘇峰』(中央公論新社、二〇〇三年)。なお、蘇峰については、早川喜代次『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、一九六八年)、藤井賢三『昔男ありけり』(私家版、一九九一年)、杉原志啓・富岡幸一郎編『稀代のジャーナリスト 徳富蘇峰1863-1957』(藤原書店、二〇一三年)も参照。

16注(14)前掲杉原著書。

17これについては、阿部猛「皇国史観」(『太平洋戦争と歴史学吉川弘文館、一九九九年)参照。

18松尾章一「平泉澄歴史観」(『日本ファシズム史論』法政大学出版局、一九七七年。初出一九七三年)、永原慶二『皇国史観』(岩波書店、一九八三年)。なお、これらに先立つ大隅和雄「日本の歴史学における「学」」(『中世思想史への構想』名著刊行会、一九八四年。初出一九五九〜一九六〇年)は、早い段階で平泉史学を史学思想史上に位置付けた重要な業績である。

19今谷明平泉澄の変説について」(『天皇と戦争と歴史家』洋泉社、二〇一二年。初出一九八九年)、同「皇国史観と革命論」(同上。初出一九九二年)、同「平泉澄皇国史観アジール論」(同上。初出一九九五年)、同「平泉澄と権門体制論」(同上。初出二○○一年)、同「戦時下、歴史家はどう行動したのか」(同上。初出一九九九年)など。今谷の平泉澄研究が、戦後歴史学批判の性格を有することは、今井修「「戦争と歴史家」をめぐる最近の研究について」(『年報・日本現代史』第七号、二〇〇一年)に指摘がある。

20苅部直「歴史家の夢」(『秩序の夢』筑摩書房、二〇一三年。初出一九九六年)。

21若井敏明「ひとつの平泉澄像」(『史泉』第八七号、一九九八年)、同「平泉澄における人間形成」(『政治経済史学』第三九七号、一九九九年)、同「平泉澄論のために」(『皇學館論叢』第三四巻第三号、二〇〇一年)、同「東京大学文学部日本史学研究室旧保管「平泉澄氏文書」について」(『東京大学日本史学研究室紀要』第九号、二〇〇五年)。なお、若井には、直接平泉を主題としたものではないが、「皇国史観郷土史研究」(『ヒストリア』第一七八号、二〇〇二年)もある。

22若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、二○○六年)。

23植村和秀『丸山眞男平泉澄』(柏書房、二○○四年)。

24昆野伸幸「平泉澄の「日本人」観」(『近代日本の国体論』ぺりかん社、二〇〇八年。初出二〇〇二年)、同「平泉澄の中世史研究」(同上、初出二〇〇四年)、同「平泉史学と人類学」(同上、初出二〇〇五年)。

25平泉研究の到達点は、『藝林』第六四巻第一号(二〇一五年)所収の平泉隆房「祖父平泉澄の家風と神道思想」、植村和秀「滞欧研究日記にみる平泉澄博士」、若井敏明「史学史上の平泉澄博士」、昆野伸幸「平泉澄博士の日本思想史研究」、苅部直「大正・昭和の歴史学と平泉史学」などに集約されている。また、近年の平泉研究の中では、山口道弘「正閏續論」および「正閏再續論」(『千葉大学法学論集』第二八巻第三号〜第四号、二〇一四年)が、ひときわ異彩を放つ。

 なお、平泉の関係文献については、西岡和彦「平泉澄」(國學院大學日本文化研究所編『神道人物研究文献目録』弘文堂、二〇〇〇年)、中原康博・宇都宮めぐみ・塙慶一郎「平泉澄研究文献目録」(『日本思想史研究会会報』第二〇号、二〇〇三年)、野木邦夫「平泉澄博士研究文献目録(稿)」(田中卓編著『平泉澄博士全著作紹介』勉誠出版、二○○四年)などが有益である。

26石井進「中世社会論」(『石井進著作集』第六巻 中世社会論の地平、岩波書店、二〇〇五年。初出一九七六年)三六、六一〜六二頁。これに対して、網野善彦『無縁・公界・楽』(『網野善彦著作集』第一二巻 無縁・公界・楽、岩波書店、二〇〇七年。初刊一九七八年)一六三〜一六八頁は、反対の立場を示す。なお、平泉のアジール論に関する学説史的な検討として、夏目琢史「平泉澄網野善彦」(阿部猛・田村貞雄編『明治期日本の光と影』同成社、二〇〇八年)、同「日本史学史における社会史研究(1)」(『日本社会史研究』第一〇〇号、二〇一二年)がある。

27注(22)前掲若井著書五五〜六六頁、注(24)前掲昆野「平泉澄の中世史研究」。

28注(22)前掲若井著書。

29田中卓皇国史観について」(『田中卓著作集』第一一巻―Ⅱ 私の古代史像、国書刊行会、一九九八年。初出一九六九年)、同「平泉史学の特色」(『田中卓評論集』二 平泉史学と皇国史観、青々企画、二〇〇〇年。初出一九九五年)。田中は、一般に「皇国史観」と称される歴史観が、「皇国美化史観」と「皇国護持史観」の二つの歴史観からなり、平泉は後者の立場から、前者の主として文部省が推進した歴史観を批判したことを指摘している。

30長谷川亮一『「皇国史観」という問題』(白澤社、二〇〇八年)。

31平泉の歴史観を「国体護持史観」と表現するのは、すでに宮地正人「『歴史学研究』創刊60周年によせて」(『歴史書通信』第八九号、一九九三年)に先例があるが、この表現を用いる理由は明示されていない。筆者は、平泉の高弟にあたる久保田収が、平泉の著作でもっとも有名な『少年日本史』について、「日本の道義をふまへた国体護持の書」と端的に述べた点に示唆を得た。久保田収「国体護持の学問」(『日本』第二一巻第一号、一九七一年)一六頁参照。

32注(2)前掲今井論文九三頁。

33永原慶二「『20世紀日本の歴史学』についての若干の弁疏」(『歴史評論』第六四六号、二〇〇四年)五九〜六〇頁。

34平泉の業績を調査する上では、田中卓平泉澄博士著述・講演目録(稿)」(注(29)前掲『田中卓評論集』二 平泉史学と皇国史観)、野木邦夫「平泉澄博士著書初出及び「桃李」「日本」巻頭論文一覧」(『日本学研究』第三号、二〇〇〇年)、注(25)前掲田中卓編著『平泉澄博士全著作紹介』を参照した。

35この点については、注(19)前掲今井論文三三三頁に見える、以下の問題意識に学んだ。

およそ戦時期に限らず、やはり史学思想史研究にあたっては、生きた時代・社会・諸制度

との緊張関係における歴史家個人の研究過程に視点を据えて、そのなかの持続と成熟、あ

るいは屈折と変容の諸契機を探りあてつつ、あくまでも段階的総体的に意義づけていくこ

とが基本とならなければならず、一歴史家の一時期をとりあげる場合でも、その前提とし

て全研究過程への視野が不可欠であり、それが不十分であればそれだけ有効性をもちえな

いであろう。

36書簡の概要は、徳富蘇峰記念塩崎財団編『徳富蘇峰宛書簡目録』(徳富蘇峰記念館、一九九五年)に詳しい。

37伊藤隆・酒田正敏・坂野潤治ほか編『近代日本史料選書七―一 徳富蘇峰関係文書』(山川出版社、一九八二年)、酒田正敏・坂野潤治ほか編『近代日本史料選書七―二 徳富蘇峰関係文書』(山川出版社、一九八五年)、酒田正敏・坂野潤治ほか編『近代日本史料選書七―三 徳富蘇峰関係文書』(山川出版社、一九八七年)。

38高野静子『蘇峰とその時代』(中央公論社、一九八八年)、同『続 蘇峰とその時代』(徳富蘇峰記念館、一九九八年)、同編著『往復書簡 後藤新平- 徳富蘇峰 1895-1929』(藤原書店、二〇〇五年)、同『蘇峰への手紙』(藤原書店、二〇一〇年)。

39徳富蘇峰記念館所蔵の「平泉澄書簡類」については、野木邦夫「平泉澄」(伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』吉川弘文館、二〇〇四年)がいち早く言及しており、所功徳富蘇峰終戦半年後の皇室論」(『日本』第六三巻第一一号、二〇一三年)、同「寒林子」先生から「頑蘇」翁への「感想」文」(『日本』第六八巻第六号、二〇一八年)が、一部の書簡を用いて、蘇峰と平泉の交遊に触れている。

 

第一章 『近世日本国民史』と初期平泉史学の時代区分論

 

 大正七年(一九一八)六月、徳富蘇峰は、『近世日本国民史』(以下、『国民史』と略する)

の執筆を開始する。多面的な活動で知られる蘇峰が、歴史家としての面を色濃く示すようになるのは、この時からである。

 蘇峰に『国民史』の執筆を決意させたのは、明治四十五年(一九一二)における明治天皇の死であった。「明治」という時代の終焉にあたって、蘇峰は「明治天皇御宇史」の著述を決意したという。しかし、蘇峰が『国民史』の筆を起こした時代は、明治時代ではなく、遥かに遡った織田信長の時代であった。

 蘇峰の「修史述懐(1)」によれば、蘇峰は、明治時代の歴史的背景を探る上で、「孝明天皇御宇史」(幕末史)を含める必要があることを感じた。さらに「孝明天皇御宇史」を考える上では、その前代の「徳川時代史」を欠かすことはできず、「徳川時代史」についても、「織田・豊臣時代」に遡って叙述する必要を悟ったという。その結果、蘇峰は織田信長の登場を「近世」の幕開けと捉え、信長から筆を起こすことになったのである。

 『国民史』は、蘇峰が創刊した『国民新聞』で連載され、やがて多くの愛読者を獲得するようになる。そのひとりが、他ならぬ平泉澄であった。平泉は当時二十四歳、『国民史』の連載が開始してまもなくの七月九日に、東京帝国大学文科大学を卒業したばかりであった。平泉の晩年の回想によると、彼は下宿(本郷区追分町日本館(2))の二階で、毎日『国民新聞』から『国民史』を切り抜いて読んでいたという。そして平泉は、蘇峰の歴史家としての出発と、自身の歴史学者の出発が、同じ大正七年であったと振り返っている(3)。平泉は前

年の大正六年(一九一七)にも、蘇峰が『国民新聞』で連載していた『杜甫と弥耳敦』を切り抜きつつ読んでいたというから(4)、大学生時代に『国民新聞』を通して、蘇峰の文章に親しんでいたのである。

 さて、青年期の平泉澄が、実証史学と文化史を融合したユニークな学風を築いたことは知られているが、その平泉が『国民史』に注目したのはいかなる所以であったのだろうか。これを同時期の平泉を取り巻く学問的環境と、大正期の平泉が取り組んでいた研究の両面から考えてみたい。

   

第一節 青年期の平泉澄と田中義成

 大正四年(一九一五)六月に東京帝国大学文科大学国史学科に入学した平泉は、三上参次萩野由之・田中義成・黒板勝美・辻善之助ら当代随一の歴史学者のもとで、国史学を学んだ。

 その中でも、黒板勝美が平泉の学者人生に大きな影響を与えたことは、よく知られているが(5)、研究面では、黒板よりも年上の重鎮であった田中義成の存在も見逃すことは出来ない。当時、田中は、東京帝国大学史料編纂掛で『大日本史料』第六編の編纂に従事する史料編纂官であり、かつ国史学科で中世史を講ずる教授を兼任していた。

 田中は、明治・大正期の実証史学を代表した人物であり、中世政治史研究の基盤を構築したことで知られる。とくに、南北朝時代に関して、南朝北朝の並立を認め、名分論的な見解と厳密な一線を画したことは、高く評価されている。戦後、佐藤進一は、南北朝史に名分論的な歴史把握がもたらした弊害を批判しつつ、戦時期に南朝正統の史観を展開した平泉を超えて、「田中以前にもどれ」という主張を行なった(6)。

 この田中と平泉とを対立的に位置付ける見解は、今日の学界で広く行なわれているが、一方で学生時代の平泉が田中を恩師として景仰した事実はほとんど顧みられず、わずかに平泉門下の時野谷滋や、山口道弘らが取り上げるのみである(7)。また、初期平泉史学の画期性が喧伝される一方で、平泉の中世史研究が明治史学の世代である田中から受けた学問的影響の具体相については、意外に検討が行なわれていない。

 すでに時野谷や山口も取り上げているが、平泉が戦後に書いたと考えられる自叙伝の草稿の一部に「赤門(8)」という文章がある。これは、平泉が東京帝大に在学していた時期を回顧したものであるが、その中に次の一節がある。事務主任三上先生(筆者注、参次)には来客多くして近づき難かりしが、編纂主任田中先生(筆者注、義成)の室は訪ひ来る人稀にして行きて教を乞ふに便あり、我は最も多く此の室に入りぬ。先生はもと苦学力行、いはゞ立志伝中の人にして、その志操は高潔、殆んど古武士の風格を存したり。その講義は、曽

て三軍を叱咤せし老将が、膝を扣いて兵を談ずるに似、その垂教は、元服せむとする若武者に対し、懇ろに往年の戦歴を語るが如くなりき。

 殊に我は、その専攻せむとするところ、中世史に在りしが故に、田中先生の指南を仰ぐこと、最も多く、その薫風に浴すること、最も深かりき。

 これによれば、学生時代の平泉は、中世史を専攻することを志した関係で、田中の指導を受けることが、一番多かったことがわかる。「我は最も多く此の室に入りぬ」とあるように、平泉は史料編纂掛にあった田中の部屋を頻繁に訪問し、そこで歴史研究の基礎というべき実証的な研究法、ことに田中の得意とする史料批判を学んだのであろう。加えて、平泉は卒業論文を執筆する上で、田中から重大な学問的示唆を得た可能性がある。

 平泉の卒業論文「中世に於ける社寺の社会的活動」は、彼の学位論文『中世に於

ける社寺と社会との関係』(至文堂、一九二六年)の祖型をなしたことで知られる。初期平泉史学の代表作というべき後者の主張は、「中世に於ける社寺と社会との関係は、国民生活のあらゆる方面に亘つて密接を極め、社寺は実に当時のsocial centerであつたといつていゝ」(三三六頁)や、「社寺の勢力は実に当時の経済界を圧してゐたのである。若しそれ精神生活の方面に至つては、社寺は実にその中枢をなして居つたといつていゝ」(三三七頁)という約言に明らかである。細部の内容は修訂によって改変されたであろうが、右の結論が卒業論文段階から一貫していたことは疑いない。

 興味深いのは、平泉と同様の理解を、すでに師の田中義成が粗削りながら持っていたことである。平泉が大学に入学する四年前の明治四十四年(一九一一)一月に、田中が発表した「社寺と社会との関係」(『神社協会雑誌』第一〇年第一号)は、中世の寺社参詣・参籠・通夜・講について述べた短編であるが、田中が本領の政治史以外に、社会史的な問題関心をも有したことを示す貴重な業績である。その表題が平泉の学位論文の題名と酷似していることは見逃せず、次に引く田中の結論もまた重要である。要するに宗教思想の旺盛なる時期、即ち平安鎌倉室町の時代にあつては、社寺なるものは、凡ての社会の中心をなすものなれば、従つて各種の文芸技術、即ち文学は勿論、美術、工芸、音楽、遊戲の末に至るまで、悉く淵源をこゝに取らざるものなし。故に社交の上に於ても、社寺が其の中心をなせることは争ふ

べからざる事実なり(9)。

 右の「社寺なるものは、凡ての社会の中心をなすもの」という部分を、先に引いた『中世に於ける社寺と社会との関係』における「社寺は実に当時のsocial center であつたといつていゝ」という一節と対照させるならば、田中と平泉の問題関心が近似していたことは明白である。してみれば、平泉の卒業論文の着想に、田中が重要な示唆を与えたと考えてもよいのではあるまいか。

 もちろん、大正史学のヌーヴェルヴァーグというべき平泉の研究視角や方法論が、明治考証史学の世代に属する田中の段階を抜く、清新さを含んでいたことは言うまでもない。しかしその一方で、若き平泉が卒業論文を執筆する上で、学界の耆宿たる田中から受けた学問的指導は、実に多大なものがあったと考えられる。先に引用した平泉の「赤門」に見える、「田中先生の指南を仰ぐこと、最も多く、その薫風に浴すること、最も深かりき」という美文調の述懐は、それを十分に証している。のちに、平泉が学位論文に題名を付すに際して、かつて田中の発表した「社寺と社会との関係」の題名を襲ったのも、先師の学恩に謝する意を籠めたものと考えられる。筆者は、平泉史学が持つ堅牢な実証的側面が、田中義成の存在なくしては成り立たなかった事実を強調しておきたい。

 田中は、平泉が大学を卒業した翌年の大正八年(一九一九)十一月に死去するが、その講義の稿案『南北朝時代史』『足利時代史』『織田時代史』『豊臣時代史』の四部を整理し、公刊にあたったのが、他ならぬ平泉とその同期の藤本了泰らであった。後年、平泉が回想するところでは、田中の遺稿は、黒・朱・藍の三色を以て夥しい訂正を重ね、欄外への注記、附箋の追加もあったため、文章の続き具合に見当のつかないところも残り、平泉自身の聴講したノートを参照しつつ、かろうじて内容を辿ったという(10)。のちに佐藤進一が高く評価した田中の『南北朝時代史』が、平泉らによって整理され、公刊にこぎつけたのは興味深い事実である。

 なお、『南北朝時代史』が公刊されたのは大正十一年(一九二二)九月のことだが、それからまもなく十一月に平泉が『史学雑誌』に寄せた「故田中博士遺稿の出版(11)」という紹介文は、平泉による田中へのオマージュとして貴重である。すでに山口隼正が指摘するように(12)、ここでは、平泉は「吉野朝」ではなく、まだ「南北朝」の時代名称を用いている。この時期の平泉には、田中の学問的影響が強く残っていたのである。これがいかなる契機で変化を遂げるのかは、第三章において論じたい。

 

第二節 徳富蘇峰と田中義成

 ところで、近代史家の大久保利謙によれば、彼が昭和十八年(一九四三)に徳富蘇峰に聞き取りを行なった際、蘇峰は明治時代の歴史家として「官学畑では田中義成、民間では山路愛山」の名前を挙げたという(13)。ここで官学アカデミズムの歴史家の筆頭として、田中の名前が示されたことは見逃せない。

 そこで、蘇峰の関係史料から、蘇峰と田中義成との具体的な交遊を探ると、徳富蘇峰記念館に所蔵される、大正三年(一九一四)十二月二十四日付「田中義成書簡」が、管見では早い例である。これは、蘇峰が民友社から同月に出版した『日本書紀 神代巻』二冊(丹鶴叢書本(14)を、「海老名氏」なる人物(海老名一雄か)を介して受贈した礼状である。同書は、蘇峰が入手した版木から刷った貴重な複製本であり、これを田中に寄贈したのは、すでに蘇峰と田中が親密な関係を結んでいたことを示唆する。

 また、大正九年(一九二〇)に出版された『国民史』第四巻「豊臣氏時代 甲篇」(民友社)の「例言」には、「著者は疑義ある毎に、之を田中義成博士に質すを以て、一の愉快とせり。今や博士亡し、単り史学界の不幸のみに止まらず」という記載を見出せる。すなわち、蘇峰は、『国民史』の執筆を開始した大正七年(一九一八)六月から、田中の亡くなる翌年十一月まで、随時田中の教示を仰ぎつつ、執筆を進めていたのである。

 その意味で、徳富蘇峰記念館に所蔵される、大正八年(一九一九)五月三十日付「田中義成書簡」は貴重である。これは、田中が蘇峰から受けた『四国御発向並北国御動座事』(羽柴秀吉の四国攻めに関する史料)に関する質問への応答であり、懇切丁寧に意見を示している。書簡には「渡辺氏の読み方は、偶々誤りたる事ならむと存じ、聞合せ候処、全く誤読ニて候ひき」とあり、「渡辺氏」とは田中の弟子で史料編纂官であった渡辺世祐のことであろう。これによれば、田中は、最初に蘇峰の質問に応じた渡辺の誤解をも正したようである。このように、蘇峰が『国民史』の「織田氏時代」や「豊臣氏時代」を執筆する上で、田中はまたとない指南役であった。

 一方、田中の側も、蘇峰には敬意を払っていたようである。大正八年(一九一九)一月二十二日付の「田中義成書簡」(徳富蘇峰記念館所蔵)は、『国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」を受贈した礼状であるが、ここで田中は、「老生、兼て如此史乗の世に出でんことを希望致し居候処、幸にも先生(筆者注、蘇峰)の霊筆によりて発現せるは、誠に邦家のため慶すべく賀すべき事と奉存候」と述べる。もちろん、この賛辞を無批判に受け止めるのは禁物だが、蘇峰が畢生の事業と自認する『国民史』に、田中が好意的な評価を与えていたことは読み取れよう。

 また田中は、同じ書簡の追伸において、前年夏の中国への出張以後、中国の古文書を研究中であることを告げ、「将来ニ於ける国史の研究は、その範囲を拡張し、支那の史料ハ勿論、印度・南洋にまで捜訪せざるべからざる事を主張仕候」という抱負を述べている。そして、蘇峰と対面した折に、その詳細を申し上げるとしたためている。

 ここに見える出張旅行は、田中が前年の大正七年(一九一八)に、同僚の萩野由之(東

帝国大学教授)と実施したものである。彼らが帰朝した後、文科大学職員会において講演した際の記録「支那旅行談(15)」をみると、田中は、中国の碑文が中国の古文書や日本研究にとって貴重な史料であることを強調し、その保存を呼び掛けている。田中は、これより先の大正三年(一九一四)頃から中国史と日本史との関係に注意を払い、例えば、平将門の乱が発生した背景に、五代十国の争乱が与えた影響を重視していたというから(16)、現地の中国で各種の史料に接したことは、彼の研究構想に有益な示唆を与えたことは十分に考えられる。田中が碑文の重要性を訴え、その保存を提案したのも、一国史に止まらない雄大な視野に基づくものであり、もし田中に寿命があれば、日本の古文書も、国際的な観点に立脚した先駆的な研究がなされた可能性もあるが、それは実現を見なかった。ともあれ、田中が蘇峰に語りたかったのは、上記の「支那旅行談」に見えるような内容だったのであろう。この点からも、田中が蘇峰を知己と認めていたことは明らかである。

 このように、平泉澄が青年期に歴史学の研究の手ほどきを受けた田中義成が、蘇峰と肝胆相照らす仲であったことは興味深い。平泉が大学に入学した大正四年(一九一五)には、すでに田中は蘇峰と親密であり、『国民史』の執筆が開始されると、田中は蘇峰に協力し、その問答を通して関係は一層深まりを見せた。平泉が『国民新聞』に連載された『国民史』を切り抜いて愛読したことは先述したが、それは恩師の田中が蘇峰に助言していたこととも無関係ではなかろう。要するに、平泉が蘇峰と『国民史』への関心を深めた前提には、恩師の田中義成の存在があったと考えられるのである。

 

第三節 平泉澄徳富蘇峰の時代区分論

 次に、大正期の平泉の研究を通して、彼が蘇峰の『国民史』に注目した学問的背景を探りたい。

 平泉の代表作として重要な位置を持つ著作に『中世に於ける精神生活』(至文堂、一九二六年)がある。これは、大正十二・十三年(一九二三・二四)に平泉が東京帝国大学文科大学において担当した講義内容に基づくものであり、『中世に於ける社寺と社会との関係』とともに、大正期における平泉の清新な学風を示した力作として知られる。

 この『中世に於ける精神生活』の劈頭において、平泉は独自の時代区分を展開している。すなわち、当時の国史学界では「奈良朝時代」や「平安朝時代」、あるいは「鎌倉時代」といった、政権の推移を標準とする時代区分が行なわれていたが、平泉は「古代」「上代」「中世」「近世」「最近世(または現代)」という、新たな時代区分を示したのである。これは『中世に於ける精神生活』に先だって執筆した『中世に於ける社寺と社会との関係』で展開した議論を一歩深めたものであり、昭和三年(一九二八)に発表する「日本精神発展の段階」(『史学雑誌』第三九編第四号)の基礎をなす着想がすでに現れている。

 その時代区分の中で、平泉は従来等しく「武家の時代」として認識されていた「中世」と「近世」を区別する。そして、二つの時代は社会組織・経済生活において「著しい相違」があるとし、とくに精神生活の上で「非常なるコントラスト」(六頁)を見出している。

 さらに、平泉は、江戸時代を「決して独創的革新的なる時代にあらずして、寧ろ安土、桃山時代を継承して之を完成したものと見るべきである」(六頁)と論じ、同様の見解を示す論者として蘇峰の『国民史』を次のように取り上げる。それ故に徳富蘇峰氏が近世日本国民史に筆を染むるに当つて、織田信長より説き起したことは、正鵠を得てゐる。実に信長は凡ての因襲に反抗せる一代の風雲児であつて、その中央集権を強行した点(政治)に於いても、仏教に反抗して寺院を焼き、寺領を没収し、又耶蘇教を奨励した点(宗教)に於いても、関

所を廃し、楽市を奨励した点(経済)に於いても、あくまで中世に対して反抗し、挑戦した所の革命児であつた。(六〜七頁)

 すなわち、平泉は、蘇峰が織田信長の登場を「近世」の出発点に据えることに同意し、信長の政治・宗教・経済政策が、いずれも「近世」の先駆をなした点で、脱中世的であるとするのである。その上で、平泉は、信長が室町幕府を滅ぼした天正元年(一五七三)を以て、「中世」と「近世」を区画している。同様の主張は、『中世に於ける社寺と社会との関係』にも見えるが、『中世に於ける精神生活』では、蘇峰の『国民史』に言及する点が興味深い。

 この点に関して注目したいのは、蘇峰・平泉らが「近世」という名称を用いたこと、また「近世」の初発を織田信長の登場に見定めたことの二点である。以下、平泉の側に主眼を置いて順番に検討を加えてみたい(17)。

 まず、前者の問題に関わって押さえておく必要があるのは、当時の官学アカデミズムでは、いまだ「武家時代」の名称が支配的であり、「中世」や「近世」の時代区分・名称はほとんど使用されていなかった事実である(18)。これより先の明治三十年代に、内田銀蔵が『日本近世史』第一巻上冊一(冨山房、一九〇三年)を、また原勝郎が『日本中世史』第一巻(冨山房、一九〇六年)を発表しているが、彼らの用いた時代区分・名称は、同時代の学界でただちに受容されたわけではなかった。内田・原の同期で、平泉の恩師にあたる黒板勝美の『国史の研究』(文会堂書店、一九〇八年)第四章第一「時代的区分法」を見ても、「中世」や「近世」は、西洋史の時代区分の一つとして例示されるに過ぎない。黒板は、同書の第十七章「江戸武家時代の一」で内田の『日本近世史』を取り上げるが、内田にならって新たな時代名称を用いることには慎重であった(19)。

 その意味で、新進の学究である平泉が、「中世」や「近世」の時代区分・名称を用いたのは、積極的な姿勢を示すものといえよう。ただし、平泉自身、『中世に於ける精神生活』を出版した直後に、「ある友人は、それ故に本書の広告をみた時、西洋史の書物かと思つたといつた。実際国史においては、中世といふ詞はまだ一般に用ひられてゐないばかりでなく、歴史家の中には反対意見が多いのである」と述べた(20)ように、これはまだ少数意見であった。そればかりではなく、当時の東京帝国大学文学部国史学科では平泉の問題意識を理解せず、抑制する動きさえあった。

 先に述べたように、平泉の『中世に於ける精神生活』は、彼が大正十二・十三年(一九二三・二四)に東京帝国大学文科大学において担当した講義内容に基づく。平泉が晩年に編集した自歴譜である『寒林年譜』の大正十二年三月三十一日条には、くだんの講義題目を「中世に於ける精神生活」と記すが、実際の題目は「武家時代の精神生活史」という、少し異なるものであった(21)。

 扱う対象は同じでも、「中世」と「武家時代」とでは、その歴史的イメージは大いに隔たりがある。清新な時代区分論を展開した平泉が、講義の題目に限って旧来の名称を用いたのは意外な感があるが、これには理由があった。

 平泉の受講生である坂本太郎によれば、平泉が当初提出した題目には「中世」とあったが、これは認められず、「武家時代」に改めさせられたようである。そして、ヨーロッパ史学の「中世」を意識していた平泉は、「武家時代」とはちがうんだ」という憤慨を坂本に漏らしたという。坂本は、この一件について「やっぱり「中世」なんてことは、まだその当時の文学部では正式のものとは考えていなかった時代なんだな、きっと」と述べた上で、「三上先生なんかは、「中世」というような西洋風のことばなんか使うべきではないと思われたのでしょう」という推測を示している(22)。「三上先生」とは三上参次、平泉の恩師のひとりで、当時の国史学科の主任教授であった。

 坂本の回顧によれば、平泉は三上の圧迫で、不本意ながら「中世」の名称を用いることを断念させられたわけであり、このことから、先に引用した「歴史家の中には反対意見が多いのである」という平泉の述懐も、直接には三上を念頭に置いたものとみて誤りなかろう。さらに、この一件は、実は大学の外にまで著聞していた。平泉博士が、国史に中世史といふ言葉を持ち込んだ事に対して、元老の三上博士などから、甚だ不穏当だと、嫁いびりのやうな小言を食つた。然し死んだ京大の原勝郎博士にしたところで日本中世史の言葉は使つてゐたし、故内田銀蔵博士も晩年には日本近世史などゝ、時代分けをしてゐたのだから、そこは元老たるもの、頑固なことばかりいつてゐてはいけないであらう。

 右に引いたのは、大塚虎雄『学界新風景』(天人社、一九三〇年)に所収された「史学界展望」の一節である(四九〜五〇頁)。同書は、『東京日日新聞』の連載を単行本に仕立てたもので、大正期から昭和初期にかけて出版された学界評判記の一つである。著者の大塚は歴史学界の動向にかなり精通していたらしく、同時期の評判記の中では際だった才筆であるが、いま取り上げるところの時代名称の一件にも触れているのは注意を引く。三上が平泉に与えた注意を「嫁いびりのやうな小言」と皮肉りつつ、内田銀蔵や原勝郎がすでに「中世」や「近世」などの時代区分・名称を用いていたことを指摘しているあたり、その見識と論評は鋭い。『学界新風景』のような評判記は当時流行していたから(23)、この逸話は平泉の新進気鋭ぶりを一般に印象づける効果を生んだと推察される。

 このような時代区分・名称をめぐる三上と平泉の摩擦は、より早い時期から生じていた節がある。筆者の見るところ、平泉が「中世」の名称を用いた最初の論文は、彼が学部三年生であった大正六年(一九一七)十二月に発表した「座管見」(『史学雑誌』第二八編第一二号)である。また、同年十一月二十一日に東京帝大で開かれた、読史会(西洋史中心の研究会)の第四十五回例会において、平泉は「中世に於ける兵農僧の区別」という、「中世」を題目に入れた発表も行なっている(24)。

 そして、大正七年(一九一八)七月に平泉が提出した卒業論文の題目も、「中世に於ける社寺の社会的活動」であった。平泉の卒業論文の審査には、三上参次・田中義成・萩野由之黒板勝美らがあたったようだが(25)、ここで平泉が用いた「中世」という名称に対して、保守的な三上が疑義を示した可能性は十分に考えられる(26)。

 折しも蘇峰の『国民史』の連載が開始されたのは、その直前の六月であった。下宿で『国民史』を読んだ平泉は、図らずも蘇峰の時代区分に対する見解が自己のそれと軌を一にすることに、意を強くしたのではあるまいか。要するに、筆者は、平泉が歴史家としての蘇峰と『国民史』を高く評価した背景の一つに、以上のような時代区分・名称をめぐる新旧史家の理解の相違が介在していたと推測するのである。

 

第四節 平泉澄と内田銀蔵の時代区分論

 次に、蘇峰や平泉が「近世」の初発を織田信長の登場に見定めた点について、その史学史的位置を考えたい。これについては、彼らが「近世」という名称を用いたこと以上に重要な問題であり、まずは平泉の時代区分論を、明治・大正期でもっとも歴史理論に通暁していた内田銀蔵の見解と対比するところから始めたい(27)。

 日本近世史の研究に重要な先鞭を付けた内田銀蔵は、明治三六年(一九〇三)の『日本近世史』第一巻上冊一の「緒論」において、「近世」の発端を何時に置くべきかということを論じ、時代の変化が一段落して「鎖国」が開始された元和二年(一六一六)が適当であるとした。その一方、内田は、大正四年(一九一五)の講演「織田豊臣二氏の時代に就きての所見(28)」においては、関ヶ原合戦が起こった慶長五年(一六〇〇)を以て「織田豊臣二氏の時代(織豊政権期)」の終焉、「徳川時代」の発端と論じている。

 一見すると、内田の時代区分の指標は曖昧なように思えるが、この点については内田もよく心得ており、「織田豊臣二氏の時代に就きての所見」では、次のような説明を行なっている。私の考へて居りまする「近世」とか「中古」とかいふ時期の分ち方の標準と、織田豊臣二氏の時代と、徳川時代といふやうな分ち方の標準とは、標準が違ふ。だから近世と云ふ場合には矢張り元和二年にしたら宜しからうと思ふので、前に申したことを今でも敢て捨てませぬ。即ち、織田豊臣二氏の時代とか、徳川時代とか申す場合には、其の時代の分け方をします。標準は専ら政治上実際権力を有して居つたものが何人であつたかといふことであります。(中略)けれども私は「近世」とか「中世」とか云ふ区別をする場合には、単にかやうな政治史の上の事実ばかりを見ないで、国民生活の発展進化を全体として考へて、時期を画さうと思ふのであります。国民生活の変遷と云ふことを一の全きものとして考へて、さうして其の推移の上に於て、先づ一段落ついた所を以て、時期を画さうと思つたのであります。さういふ見地から観察しますると、織田氏が権力を有つて居つたとか、豊臣氏が政治上実際の勢力を有つて居つたとか、徳川氏にそれが帰したとか云ふことだけで極めるのは、何となく物足らぬやうに思ふのであつて、それよりは国の有様、世の中の状況の移り変りが正に粗々一段落を告げた所を以て画したら宜しからうと思ふのであります(29)。

 長文の引用になったが、内田の主張は、政治史的な時代区分と国民生活史的な時代区分をともに認めつつも、後者を重視するというものである。脱政治史的な歴史把握への志向こそ、内田の歴史学の持つ際立った特徴であった(30)。そして、この観点から元和二年(一六一六)を画期とするならば、織豊政権期は「近世」には含まれないことになる。

 それでは、内田の学説において織豊政権期は「中世」に属すかというと、そうではない。内田は『日本近世史』第一巻上冊一の「緒論」で、室町幕府の末期から織豊政権期を経て徳川幕府の初期に至る時代を、「一の時期より他の時期に移る過渡の時代」と扱っている。すなわち、「中世」と「近世」の間に位置する過渡期、これが内田による織豊政権期への評価であった。また、内田は「近世」と「最近世」の間にも過渡期を設け、「米艦渡来より廃藩置県まで」(嘉永四年﹇一八五一﹈〜明治四年﹇一八七一﹈)をこれに充てている。

 このように、内田は「近世」の首尾にそれぞれ過渡期を設けた。このこと自体は近世史研究の領域では周知に属すると見られるが、さらに内田は「古代」と「中世」の間にも過渡期を見出していたようである。

 内田は、「織田豊臣二氏の時代に就きての所見」において、黒板勝美著『国史の研究 再訂版』総説の部(文会堂書店、一九一三年)が従来「公家時代」に属していた「平家時代」を「武家時代」の第一期に設定し直したことを評価しつつも、「さり乍ら自分の見る所では平家の時代は過渡の時代と見做することが最も穏当であると思はるるのである」と述べている(31)。すなわち、内田は、「平家時代」も「古代」と「中世」の間に位置する過渡期と理解していた。要するに、内田の時代区分論では、日本史上に「平家時代」「織田豊臣二氏の時代」「米艦渡来より廃藩置県まで」という三つの過渡期が存在するのである。

 内田は大正八年(一九一九)にこの世を去るため、彼が日本史全体の時代区分論について深めていた思索の全容はついに形を為さなかったが、過渡期を重視する内田の見解は、京都帝国大学における同僚であった東洋史家の内藤湖南に強く影響を与えたという(32)。また、内田の盟友というべき原勝郎が最晩年に発表した「世の替はり目と京都(33)」は、戦国期の都市京都の活況に近世への胎動を認めた佳篇であるが、その問題意識は内田からの影響なくしては形成されなかったであろう。そして、次世代の歴史学者で、内田の時代区分論を強く意識していた人物こそ、平泉澄であった。

 平泉は『中世に於ける社寺と社会との関係』の第一章「時代の区画」において、『中世に於ける精神生活』と同様に、「中世」という新たな時代名称を用いるべきことを、文化史的観点から主張している。そして、従来の政治史的な「鎌倉時代」「南北朝時代」「室町時代」の時代区分を文化史にも、また文化史的な「中世」の時代区分を政治史にも用いるべきことを論じている。これは、政治史と文化史の対立を止揚すべしという見解に基づいた主張である(二〜三頁)。その上で平泉は、自己の見解と対立的な位置を占める一つの学説を取り上げる。しかるにこの考に対しては、学者の間に異論がある。即ち一部の学者は、政治史と文化史とはその時代区画の標準を異にしてゐる為に、当然その分界線も別々なるべしとして、たとへば政治史上安土・桃山時代と江戸時代との分界線は慶長五年に在り、而して文化史上中世と近世との分界線は元和二年にあると説かれてゐる。是等の説は、先づ第一に、政治史上の時代区画をそのまゝ文化史に用ゐ、文化史上の時代区画をも時にはそのまゝ政治史上に用ゐようとする予の説と、その原理に於て矛盾し、ひいて又その摘用に於て相容れない事となる。(三〜四頁)

 平泉は「異論」の論者を単に「一部の学者」とするのみで、その実名を示さない。また、平泉の時代区分論を論じた先学は多いが、平泉が強く意識したこの「一部の学者」の存在に注意を払った研究は見られない。しかし、右に示した「異論」の内容は、先に触れた内田銀蔵の「織田豊臣二氏の時代に就きての所見」の所説と見事に重なる。ゆえに、「一部の学者」が内田その人を指すことは明らかである。

 さらに平泉は、内田の時代区分において、政治史と文化史(内田自身の表現では「国民生活の発展進化」)の指標を異にすること、それゆえに政治史と文化史で始終の時期が相違することを疑問視し、内田の学説が「文化史の名の下に、専ら政治以外の国民生活を考察し、従つて政治史と相対立するものとしてゐる」点を捉えて、「稍陳腐なる見解」と評する。そして、ヨーロッパの歴史学が文化史の概念に政治史をも包含するに至った変化を示しつつ、内田の文化史理解を「畢竟文化史発達の幼稚なる段階に止つてゐる」と切り捨てるのである(六〜一〇頁)。

 内田と異なって、平泉が重視したのは政治であった。「思ふに政治は百般の文化現象の中に在つて、ひとり最もめざましきものであるばかりでなく、また最も重大なる意義を有するものである。従つて政治上の重なる現象は、文化史に於ても亦重要なる意義をもたねばならない」と考える平泉は、「国民の日常生活(衣・食・住・風俗習慣等)・宗教・文学・芸術・経済等の変遷」が徐々に生じ、あるいは錯雑を極めるため、政治以外の要素に依拠する時、「文化史の時代が、何年何月何日を以て、截然と前後に分界せられる事は、殆んど不可能であり、又無意味でもある」と論ずる(一〇頁)(34)。

 以上の見地に立つとき、時代を分つ基準は、おのずと政治的事件に求められる。平泉が選んだ「中世」の発端は保元元年(一一五六)、「ムサ(武者)ノ世」(『愚管抄』)の幕開けとなった保元の乱が起きた年である。そして、「中世」の終結に設定したのは天正元年(一五七三)、織田信長室町幕府を滅ぼした年であった(一一〜一五頁)。

 平泉は、「中世」の開始を鎌倉時代ではなく保元元年に設定する際、『愚管抄』や『神皇正統記』などが保元の乱を時代の転機と位置付けたことを傍証とする。ただし、これは必ずしも平泉の創見とは言えず、すでに平泉の師にあたる黒板勝美が、大正六年(一九一七)三月の史学会例会講演において、「平家時代」を「武家時代」の出発点として位置付けるとともに、『愚管抄』を引いて保元の乱の画期性をも指摘していた(35)。さらに、黒板が『国史の研究 再訂版』総説の部において、従来「公家時代」とされた「平家時代」を「武家時代」の第一期に設定し直したことも想起するならば、「中世」の開始を保元元年とする平泉の論点は、黒板説を踏襲した面が大きい。

 むしろ平泉の独創性は、「中世」の終結織田信長の登場に求めた点にこそ見出せる。よく知られているように、平泉は『中世に於ける社寺と社会との関係』第三章「社会組織」において、中世寺院の持つ治外法権的なアジールとしての側面に注目し、そこに中世社会の分権性を看取した。そして、第六章「社寺の没落」において、信長による延暦寺の焼き討ちや高野山への攻撃計画をアジールの否定として位置付け、これを中世の終焉と論じた。平泉の議論の基底に、中世を暗黒時代とする歴史観が伏在していたことには留意が必要であるが(36)、かかる観点から信長を近世の到来と結び付けたのは、研究史上空前のことであり、これこそが平泉の時代区分論における重大な特色と言えよう。あわせて、平泉は、信長による中央集権的な政治政策や、関所の撤廃・楽市を奨励した経済政策をも脱中世的として高く評価することで、安土桃山時代の延長に江戸時代を置いた。かくして、織豊政権期は、「中世」と「近世」の間に挟まれた過渡期ではなく、「近世」の出発点に位置付けられたのである。

 平泉による信長の評価は、戦後の今井林太郎らに引き継がれるが(37)、その後、太閤検地に近世化のエポックをみる傾向が主流となり、織田政権の近世的性格についても疑問視されるようになった。いまだ議論の決着を見ないが、従来行なわれてきた信長の評価を相対化するのが近年における研究動向の主流であることは確かである(38)。

 ちなみに、一九八〇年代に、戦国期から織豊政権期を「中近世移行期」として捉える見方が提起され、現在の学界に大きな影響を及ぼしている。誤解を恐れずに言うならば、これは「足利氏の季世より、江戸時代の初めに至る間」を「過渡の時代」と捉え、時代の変化が一段落した元和二年(一六一六)を近世の初発に位置付けた内田銀蔵、そして最晩年の原勝郎らの歴史認識に近いといえるのではないだろうか。

 さらに、内田が政治史と国民生活史で時代の区分を分けた点についても、近年の学界ではほとんど振り返られないが、これは日本史の時代区分を「社会構成史的次元」と「民族史的次元」という二つの次元から捉えるべきことを論じた、網野善彦の発想を先取りしたものとして再評価できるように考えられる(39)。

 それにしても、平泉による内田の時代区分論への批判は果敢である。平泉は、昭和二年(一九二七)に発表した「国史眼に映ぜる日本文学(40)」でも、「最近世」の発端を慶応三年(一八六七)の大政奉還に置いた上で、明治四年の廃藩置県以降を「最近世」とした内田の『日本近世史』の区分とは距離を置いている(41)。ここからも、平泉が内田の時代区分を強く意識し、これと異なる歴史把握を積極的に打ち出すことを企図していたのが一層明らかとなる。

 若き日の平泉は、大正六・七年(一九一七・一八)に中世の座をめぐって三浦周行の学説に鋭利な批判を加え、あるいは大正十二年(一九二三)に文治守護・地頭をめぐる中田薫・牧健二らの議論に参戦するなど、多くの論争を経て歴史家として成長したことが知られている。それに加えて、平泉が内田銀蔵の学説と対峙しつつ、自己の時代区分論を模索したことは、初期平泉史学の形成過程を考える上で見逃すことはできない。

 ところで、平泉が、いつごろから内田の研究に注目したかは定かではないが、内田が亡くなる直前に出版した『近世の日本』(冨山房、一九一九年)を、同年の『史学雑誌』第三〇編第七号「彙報」において、好意的に紹介していることが確認できる。とくに、この書評で興味深いのは、末尾で内田の処女作である『日本近世史』の続刊を切望するとともに、「姉妹関係」を有する原勝郎の『日本中世史』についても、その続編の刊行を希求している点である。これは、平泉が内田・原の著作を強く意識していたことを暗示する。

 その意味で興味深いのは、平泉が大正十一年(一九二二)十一月にしたためた「故田中博士遺稿の出版(42)」という文章である。これは、先述したように、平泉が編集に携わった田中義成の遺著『南北朝時代史』の内容紹介であるが、その中で田中と同じく、大正八年(一九一九)に亡くなった内田銀蔵と箕作元八にも言及している。とりわけ、平泉は、内田について次のように述べる。

  自分の如きは内田博士にあつた事前後只二回、時間からいつても時余に過ぎな

  いのに、新聞にその卒去の報を得た日の心持は、今もひしと覚えてゐる。

 これを見ると、青年期の平泉が亡き内田に対して、忘れがたい印象を持ったことがわかる。内田と会ったという「二回」については、いかなる機会なのか詳らかではないが、あるいは史学会の大会などであろうか。ともあれ、右の追想は、この時期の平泉が内田を強く意識していた証左に他ならず、先に見た時代区分をめぐる内田への挑戦を考える上でも見逃せない。

 ただ残念であるのは、平泉が『中世に於ける社寺と社会との関係』を発表したとき、すでに内田がこの世を去っていたことである。もし内田が存生であったならば、必ずや歴史理論に対する深い造詣を傾けて、正面から平泉と議論を交わしたはずであり、その結果、平泉の中世史研究も異なる展開を示したことは十分に考えられる。それだけに、内田の早世は、原勝郎の長逝とともに惜しまれてならない(43)。

 

第五節 徳富蘇峰による織田信長歴史的評価

 時代区分論をめぐる平泉と内田銀蔵の比較に入り込んだが、蘇峰が織田信長を「近世」の端緒に据えた意味についても考えておきたい。この問題については、すでに杉原志啓が言及しているので、まずはその指摘を確認しておく(44)。

 杉原は、『国民史』完成を目前に控えた昭和二十六年(一九五一)に、蘇峰が起稿した回顧録「近世日本国民史起稿の由来及其の理由(45)」に注目し、蘇峰が当初『国民史』を「建武中興」から起筆することを適当と考えていたが、それでは一生の間に肝心の維新史の執筆に行きつかないと考え直し、また「近世」という名称が「建武中興」にそぐわないため、『国民史』を信長から始めることにしたという事情を紹介している。また、杉原は、蘇峰が皇室中心の政治をメルクマールとしており、その観点から信長を重要な画期としていたこと、ただちに維新史・明治史から執筆に取りかかるならば維新の元勲から苦情がもたらされるため、信長の時代から起筆し、維新史に至る頃に元勲が凋落して苦情の持ち込み者が居なくなるのを期待していたことを指摘している。

 その一方で、杉原は蘇峰に「実践的な要因もしくは計算」があったとし、日本史に関する書籍では織田信長が好評を博す傾向があるという諸井薫の指摘や、『国民史』が戦国から始まって明治維新で終わるという構成を取ったのは、蘇峰が読者の好みを知っていたからであるという丸谷才一の指摘を踏まえながら、蘇峰の「営業センス」が信長を選ばせた可能性を示唆する。あわせて、信長が戦乱に明け暮れた時代に活躍したことが、歴史解釈の重要なメルクマールに「尚武の気象」の消長を据える蘇峰の目に止まった点も考慮している。

 杉原の分析は示唆的であるが、蘇峰の歴史観に焦点を絞って検討を深める余地が残されている。とくに、蘇峰が信長とその時代に対していかなる歴史的評価を与えたのか、こちらの面こそ重要な問題であろう。

 蘇峰は、『国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」(民友社、一九一八年)において、後醍醐天皇に始まる南朝の衰滅と室町幕府の権力の確立が、勤王精神・国体観念の動揺を招いたとし、室町時代は文芸・美術の面や、日明貿易による中国文化(禅学・宋学など)の受容に見るべき点はあるにせよ、幕府の政治は形をなさず、応仁の乱によって無秩序の戦国時代が出現したとする。そして、群雄割拠の末に登場した信長が、近世的な中央集権政治を実行し、その事業は二百余年後の明治期に至ってようやく完成したとする。さらに、蘇峰は、信長が政治的に「皇室中心主義」を実行したことが豊臣秀吉に引き継がれ、徳川家康に始まる江戸幕府も、その影響を完全に否定しえなかったと論ずるのである。

 このような蘇峰の信長観は、その明治維新観と通底していた。蘇峰は、大正元年(一九一二)八月に発表した「明治と大正」において、明治維新の「自から一貫した大綱領」として、次のような見解を示している。吾人の所見によれは、維新大革新の主脳は(第一)皇室中心主義也。尊王倒幕の論繁しと雖も、之を精約すれは、単に之に帰著す。(第二)国民統一主義也。廃藩置県、全国皆兵、議会開設、皆な此中にあり。(第三)開国進取主義也。或は之を帝国主義と云ふ。乃ち上に皇室を戴き、下に国民一致し、而して其の全力を挙げて、国運の発展に尽したる也。二十七八年役(筆者注、日清戦争)、三十七八年役(筆者注、日露戦争)の如きは、特に其の昭著なるものに過ぎず(46)。

 すなわち、蘇峰においては、「皇室中心主義」「国民統一主義」「開国進取主義(帝国主義)」などが明治維新を形成する重要な要素であったわけだが、これを念頭に置いて、次の『国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」の総括を見ると、蘇峰が信長に与えた歴史的評価の輪郭は一層明瞭となる。勤王も、彼(筆者注、信長)に至りて、始めて日本帝国の一致と、存立との上に、大なる意義がある。天下統一の事業も、彼に至りて、始めて帝国の国民的一致の大気運と、合体することが出来る。彼が泥土の中より大将を拾い上げたのは、階級を無視した証拠ぢや。彼が関所を廃し、交通税を廃し、道路を修築したるは、其の一国を見る、一家の如き証拠ぢや。彼が神領、仏地迄も、縄を入れて、検査をしたのは、正統なる政権以外に、他の権力の幡屈を容さゞる証拠ぢや。彼が耶蘇教師を招致し、之を使用したるは、智識を世界に求めたる証拠ぢや。皇室中心主義も、帝国主義も、平民主義も、残る隈なく彼に表現した。彼は実に新時代の権化であつた。(五四二頁)

 これによれば、信長の天下統一事業は、明治維新期に進められた廃藩置県国民皆兵・議会開設などの諸政策と、「国民統一主義」の点で一致する。また、信長がキリスト教の宣教師を保護し、積極的に南蛮文化を受容したのは、幕末の開国に端を発した「開国進取主義に共通し、日清・日露戦争に象徴される「帝国主義」にも重なるとされる。そして、これらを「皇室中心主義」と統合した点で、信長は遥か後の明治維新への道を切り開く「新時代の権化」という評価が与えられるのである。蘇峰が『国民史』を信長の時代から起筆した理由は単一ではないだろうが、もっとも重要であるのは、このような蘇峰の歴史観であったと筆者は考える。

 ところで、先に取り上げた内田銀蔵の場合、江戸時代を特徴付けた「鎖国」の成立を重視する観点から、元和二年(一六一六)を以て「近世」の開始と捉えていた。内田の「鎖国」観はすぐれて柔軟で、「鎖国」が近世日本社会に与えた損害を認めつつも、全体としては「鎖国」に利益を認めるものであった(47)。これは、「鎖国」を論難する傾向が強かった、明治期から昭和期にかけての得失論の中では、すこぶる異彩を放っていたと高く評価されている(48)。

 一方、「開国進取主義」を是とする蘇峰は、「鎖国」を日本人の海外雄飛の機会を奪い、発展の道を閉ざした失策と捉えており、これは内田と真っ向から対立する理解であった(49)。それだけに、明治維新の前提たる「近世」の初発に「鎖国」の成立を置くという発想は、到底出る余地はなかったのである。

 本章では、大正期における平泉澄を取り巻く学問的環境の考察を端緒として、平泉と蘇峰の時代区分論を論ずるとともに、両者が織田信長を「近世」の創始者とした背景について考察を加えた。

 青年期の平泉は、東京帝国大学において中世史の泰斗である田中義成に師事し、田中から実証的な研究法ばかりでなく、卒業論文を執筆する上での重要な示唆を得ていた。田中は、『近世日本国民史』の執筆を開始した蘇峰が指南役と頼んだ人物であり、田中と蘇峰の関係はすこぶる親密であった。平泉が早い時期から蘇峰の『国民史』に親しんでいた背景には、田中の存在が大きかったと考えられる。

 また、平泉が『国民史』に注目した背景には、彼が取り組んでいた研究との関係もあった。内田銀蔵や原勝郎のように、「中世」や「近世」という新たな時代区分を重視する平泉は、保守的な三上参次の圧力を受けつつも、時代区分論に新生面を切り開くことを模索した。

 とくに、内田の二元的な時代区分論との差異化を図る平泉は、政治上の現象に時代区分の指標を置き、織田信長の諸政策に近世的要素を見出した。一方、蘇峰の場合は、明治維新を構成する諸要素の萌芽を前代に探る内に、信長への着眼が生まれるに至った。かくして、両者は歴史解釈の面で、興味深い一致を得たのである(50)。

    

第一章 注

1『近世日本国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」(民友社、一九一八年)所収。

2平泉澄先生の住所移動(引越)表」(平泉澄『この道を行く』平泉洸、一九九五年)参照。

3平泉澄「蘇峰先生の想出(上)」(『民友』第一三二号、一九七六年)四頁。

4平泉澄「元遺山と徳富蘇峰翁」(『寒林史筆』立花書房、一九六四年。初出一九五八年)三九九〜四〇〇頁。

5平泉と黒板の関係については、最近発表された渡邉剛「平泉澄博士「恩師」翻刻と解説」(『藝林』第六七巻第二号、二〇一八年)が有益である。

6佐藤進一『日本の歴史』 第九 南北朝の動乱(中公文庫、二〇〇五年。初刊一九六五年)「はじめに」。

7時野谷滋「寒林子先生の名文と名訳」(『大欅集』窓映社、二〇〇〇年。初出一九九六年)、山口道弘「正閏續論」(『千葉大学法学論集』第二八巻第三号、二〇一四年)八九頁。

8平泉澄著、平泉洸・平泉汪・平泉渉編『柿の落葉』(平泉洸、一九九〇年)所収。

9田中義成「社寺と社会との関係」(『神社協会雑誌』第一〇年第一号、一九一一年)二四頁。

10平泉澄「入念」(『桃李』第一巻第八号、一九五一年)。

11『史学雑誌』第三三編第一二号(一九二二年)「彙報」に掲載。

12山口隼正「田中義成日記と『大日本史料』創刊のことども」(『長崎大学教育学部紀要 人文科学』第六三号、二〇〇一年)三一頁。

13大久保利謙徳富蘇峰の愛山談」(『佐幕派論議吉川弘文館、一九八六年。初出一九八三年)二二五頁。

14同書については、『蘇峰自伝』(中央公論社、一九三五年)所収「蘇峰著作及び編纂書目」九頁、川瀬一馬「「丹鶴叢書」に就いて」(『日本書誌学之研究』大日本雄弁会講談社、一九四三年。初出一九三三年)参照。

15『東亜之光』第一四巻第七号〜第八号(一九二〇年)所収。

16石田幹之助「昨年の史界」(『史学雑誌』第二六編第一号「彙報」、一九一五年)九五頁参照。

17なお、平泉の時代区分論については、昆野伸幸「平泉澄の中世史研究」(『近代日本の国体論』ぺりかん社、二〇〇八年。初出二〇〇四年)が、思想史的な観点から平泉の中世観に焦点を当てて、優れた考察を行なっている。ただし、同論文は、平泉と同時期の学界状況について、私見と理解を異にするところがある。以下では、史学史的な観点から考察を加える。

18上横手雅敬封建制概念の形成」(『日本中世国家史論考』塙書房、一九九四年。初出一九八〇年)三七一〜三七二頁参照。

19なお、内田・原の時代区分論の持つ意義とその受容については、秋山謙蔵「日本中世史研究の回顧と展望」(『世界歴史大系』第一三巻 (A)日本史二、平凡社、一九三五年)、石井進「日本史における「中世」の発見とその意味」(『石井進著作集』第六巻 中世社会論の地平、岩波書店、二〇〇五年。初出一九七一年)、坂本賞三「江戸時代を「近世」ということ」(『日本歴史』第七六九号、二〇一二年)、同「日本史「中世」の形成」(『史人』第六号、二〇一五年)などに詳しい。

20平泉澄「綜合組織と新説」(『帝国大学新聞』第一六五号、一九二六年五月一〇日、三頁)。

21『史学雑誌』第三四編第六号(一九二三年)「彙報 大正十二年度東大文学部一般史学関係講義題目」参照。

22金沢誠・児玉幸多・安田元久聞き手「座談会 研究生活の回顧(一)坂本太郎・末松保和両先生に聞く」(『学習院史学』第四号、一九六七年)八七〜八八頁。なお、平泉隆房「寒林夜話(十六)」(『日本』第六二巻第二号、二〇一二年)二一頁によれば、晩年の平泉は、「(大正十二年)四月に(東京帝国大学)講師の辞令をもらひ、授業を持つことになつた。時間割は学生の希望によつて曜日の割り振りをしたやうに思ふ。講義と演習を担当したが、講義の題目は「中世に於ける精神生活」として提出したところ、発表されたのは「武家時代ノ精神生活史」。知らないところで改題されてをり、驚いた」と語ったという。坂本の談話と符合する内容であり、興味深い。

23谷沢永一『紙つぶて 自作自注最終版』(文藝春秋、二〇〇五年)二〇五頁参照。

24『史学雑誌』第二八編第一二号(一九一七年)「彙報 第四十五回読史会記事」参照。なお、読史会については、注(5)前掲渡邉史料解説一二〇〜一二一頁が参考となる。

25「東京大学旧職員インタビュー(三) 平泉澄氏インタビュー(一)」(『東京大学史紀要』第一三号、一九九五年)一六一頁。

26ちなみに、平泉が三上参次に謹呈した『中世に於ける社寺と社会との関係』が、福岡大学図書館川添昭二文庫に所蔵されている(〔請求記号〕090/KA98/2.16.4)。見返しの右下に筆書きで「平泉」という自署と花押があり、中央上部に「謹んで/三上先生の硯北に献ず」(/は改行)と記されている。また、表紙右下に筆書きで三上の花押が署されている。本文に傍線が多く引かれているが、すべて旧蔵者の川添昭二(中世史家)のものと考えられ、三上の書入れ・傍線などは確認できない。なお、三上がその蔵書に花押を署する習慣を持っていたことは、長澤規矩也『昔の先生今の先生 増補版』(長澤孝三、二〇〇〇年。初刊一九七〇年)五四〜五五頁が図版を示しつつ言及しており、該本の性格を判断する上で手掛かりとした。

27「近世」の時代区分をめぐる学説史については、藤井讓治「近世史への招待」(『岩波講座 日本歴史』第一〇巻 近世一、岩波書店、二〇一四年)も参照。

28『内田銀蔵遺稿全集』第三輯 国史総論及日本近世史(同文館、一九二一年)所収。

29前注内田論文三九四〜三九五頁。

30明治四十四年(一九一一)に南北朝正閏問題が起こった際、内田の同僚である三浦周行は、京都帝国大学読史会の第一回大会において、門下生とともに正閏問題に関する討議を行なった。このとき、三浦門下の粟野秀穂(当時、京都帝国大学国史選科生)は、内田にも出講を依頼したが、内田は「南北朝史については特に研究した事もなく、また興味もない。ことにこの際濫りに口を開く事の責任者として考ふべきである」という理由を示して、出講を断ったという(粟野秀穂「創立当時を回顧して」﹇『読史会二十周年史』読史会、一九三〇年﹈)。内田が読史会に出講しなかった理由は、彼が正閏問題の矢面に立たされていた喜田貞吉の親友であったことも考慮すべきであるが、南北朝史に「興味もない」という応答から、政治史にさほど関心を持たなかったことは明らかである。

31注(28)前掲内田論文三九七〜三九八頁。

32内藤湖南が中国史研究に時代区分の観点を初めて導入したことは、東洋史学ではよく知られている。湖南は、「概括的唐宋時代観」(『内藤湖南全集』第八巻、筑摩書房、一九六九年。初出一九二二年)において、それまで唐代・宋代を一時代として扱ってきた通念を批判し、両者の間に唐末より五代に至る過渡期を見出すとともに、唐・宋の間に大きな社会的、政治的、文化的変化が起こったという創見を示した。いわゆる「唐宋変革説」である。小川環樹内藤湖南の学問とその生涯」(『日本の名著』四一 内藤湖南中央公論社、一九七一年)四三頁によれば、湖南の高弟であった岡崎文夫は、この湖南の新説が、内田銀蔵に負うところがあると、小川に語ったという。おそらく、過渡期の設定こそ、その最たるものではなかったか。なお、湖南と内田銀蔵・原勝郎の学問的関係については、葭森健介「内藤湖南と京都文化史学」(内藤湖南研究会編『内藤湖南の世界』河合文化教育研究所、二〇〇一年)、同「漢学から東洋史へ」(『東アジア文化交渉研究 別冊』第三号、二〇〇八年)、礪波護「内藤湖南」(礪波護・藤井讓治編『京大東洋学の百年』京都大学学術出版会、二〇〇二年)も参照。

33『日本中世史の研究』(同文館、一九二九年。初出一九二二年)所収。

34なお、平泉と同様の見地から自己の時代区分観を表明したものに、栗田元次『綜合国史研究』上巻(同文書院、一九三五年)八〜一〇頁がある。

35「平家時代の文化史的観察」(『史学雑誌』第二八編第三号「彙報」、一九一七年)参照。

36この点については、久野修義『日本中世の寺院と社会』(塙書房、一九九九年)「序説」や、細川涼一「黒田俊雄『日本中世の国家と宗教』」(『日本中世の社会と寺社』思文閣出版、二〇一三年。初出二〇一〇年)が指摘している。ただし、平泉は、武士を「暗黒の中の光明」として捉える観点から、中世を「更生」の時代とも捉えていた。注(17)前掲昆野論文参照。

37今井林太郎「信長の出現と中世的権威の否定」(『岩波講座 日本歴史』第九巻 近世一、岩波書店、一九六三年)。

38近年の織田信長研究の到達点として、池上裕子『織田信長』(吉川弘文館、二〇一二年)があるほか、平井上総「織田信長研究の現在」(『歴史学研究』第九五五号、二〇一七年)が最新の研究状況を整理している。

39網野善彦「「社会構成史的次元」と「民族史的次元」について」(『網野善彦著作集』第七巻中世の非農業民と天皇岩波書店、二〇〇八年。初出一九八四年)。なお、網野自身は、内田銀蔵を福田徳三・中田薫・三浦周行・原勝郎らと一括した上で、彼らを基本的に社会構成史的な時代区分に立つ論者とし、他方、内藤湖南を民族史的な時代区分の論者に代表させるが、国民生活史的な時代区分を重視する内田の見解や、湖南と内田の学問的関係の深さを考慮するならば、再考を要するのではあるまいか。

40『日本文学講座』第一三巻(新潮社、一九二七年)所収。

41この点については、すでに注(17)前掲昆野論文一一四〜一一五頁が指摘している。

42注(11)に同じ。

43なお、平泉は、晩年に往時を追懐した文章を数多く発表しているが、管見の限り、それらに内田への言及を見出すことはできない。

44杉原志啓『蘇峰と『近世日本国民史』』(都市出版、一九九五年)二〇七〜二一二、三六九頁。

45徳富蘇峰『読書九十年』(大日本雄弁会講談社、一九五二年)所収。

46 徳富蘇峰「明治と大正」(『蘇峰文選』民友社、一九一五年)一二六〇〜一二六一頁。

47内田銀蔵『近世の日本』第三講「鎖国」(内田銀蔵著、宮崎道生校注『近世の日本・日本近世史』平凡社東洋文庫、一九七五年。初刊一九一九年)。

48『朝尾直弘著作集』第五巻 鎖国岩波書店、二〇〇四年。初刊一九七五年)五〜六頁。

49『近世日本国民史』第一四巻「徳川幕府上期」上巻 鎖国篇(民友社、一九二四年)。なお、蘇峰の「鎖国論」の性格は時期的な変化があり、明治二十年代においては、外国への敵視や排外的・植民地主義的発想は不在であったという。これについては、大島明秀「明治二十年代における「鎖国論」の多様性」(『日本文藝研究』第五九巻第三・四号、二〇〇八年)参照。

50なお、平泉の『中世に於ける精神生活』や『中世に於ける社寺と社会との関係』における信長に関する記述は、政治・経済・宗教政策の先進性に重点を置いており、必ずしも蘇峰の『国民史』のように、信長と勤王精神の関係性を強調したものではない。平泉の論著の中で、信長を勤王精神の復活と結び付ける記述が見えるのは、昭和三年(一九二八)に出版された『日本歴史物語(中)』(日本児童文庫、アルス)がもっとも早く、これ以降、蘇峰の『国民史』に近い信長像が平泉の著作に定着する。

 この変化については、平泉の恩師にあたる田中義成からの影響を見て取るべきであろう。田中の遺著である『織田時代史』(講談社学術文庫、一九八〇年。初刊一九二四年)には、「此の如く織田・豊臣二代を経て、皇室は大に尊厳を加へぬ。然るに徳川氏後を嗣いで武家政治を再興するに及んで、皇室を圧迫す。然かも其中世に至りて、勤王論盛に起り、軈て明治維新の大業となりしも、其淵源に遡れば、実に信長の皇室恢復の精神に基因す」(一七頁)とあり、これは蘇峰の信長観と符合する。そして、『織田時代史』は、田中の東京帝国大学における講義の稿案であり、その整理校訂に当ったひとりが他ならぬ平泉であったから、平泉が田中の信長観から影響を受けたことは十分に考えられる。なお、田中と平泉の信長観の共通性については、今谷明『信長と天皇』(講談社学術文庫、二〇〇二年。初刊一九九二年)五〜九頁も参照。

 

第二章 大正・昭和戦前期における徳富蘇峰と官学アカデミズム

 徳富蘇峰記念館に所蔵される蘇峰宛の書簡には、平泉澄を含めて官学アカデミズムに属した歴史学者が発信したものが多く見られる。これは、蘇峰が大正期に入って『近世日本国民史』(以下、『国民史』と略する)の執筆を開始したことと無関係ではない。とくに注目すべき発信者は、東京帝国大学史料編纂掛(のち史料編纂所)の中心にいた、三上参次・田中義成・黒板勝美・辻善之助・渡辺世祐らである。彼らはいずれも近代史学を代表する歴史学者であり、彼らと蘇峰の関係に注目することは、彼らの弟子世代にあたる平泉と蘇峰の関係が結ばれる前提を考えることにもつながる。

 そこで、本章では、彼らの書簡類や関係者の回想録を素材として、『国民史』執筆開始以後の蘇峰と、官学アカデミズムの学者達との交流について論じたい。とくに、『国民史』執筆は、蘇峰畢生の大事業であり、そこに官学アカデミズムとの関係がいかに作用したのかは、歴史家としての蘇峰を考える上でも重要な問題である。よって、この点についても視野に入れて考察を加えていく。なお、史料編纂掛は、昭和四年(一九二九)に史料編纂所と改称するため、時期に応じて表記を使い分けることにしたい。

 

第一節 『近世日本国民史』の史料収集と東京帝国大学史料編纂掛

 全百巻に及ぶ『国民史』の特徴として、しばしば指摘されるのは、史料引用の豊富さである。同書の成立過程について本格的な考察を加えた杉原志啓は、蘇峰の秘書であった高橋源一郎の回顧(1)を取り上げ、高橋が蘇峰の指示のもと、東京帝国大学史料編纂所や、旧大名・旧公家の家々に所蔵される多くの史料を渉猟し、『国民史』の材料となるものを収集・筆写したことを指摘している。また杉原は、蘇峰が収集した史料の多くが、「先生(筆者注、蘇峰)なればこそ手に入れ得るものばかりであった(2)」という高橋の述懐に注目し、言論

界における「大記者」としての蘇峰の名声・権勢、あるいは権力といったものが、史料収集において効果を発揮したと推察している(3)。

 杉原の指摘は興味深いが、『国民史』の史料収集と官学アカデミズムの関係については、高橋の回顧以外にも興味深い史料がある。次に引くのは、昭和三十七年(一九六二)に行なわれた座談会「日本における史学の発達」における高柳光寿の発言である。高柳は、大正五年(一九一六)七月より史料編纂掛に勤務し、大正十五年(一九二六)九月に史料編纂官となって以後、昭和二十七年(一九五二)三月に退官するまで、『大日本史料』などの編纂に従事した人物である(4)。

この話はしていいかどうかわからないけれども、三上先生(筆者注、参次)という人は非常に頭脳明晰な人で、座談の名人でした。あのくらい座談の上手な人はまあ珍らしいと思いますが、そして前にもちょっと申しましたようになかなか政治性の豊富な人でありました。それで徳富さん(筆者注、蘇峰)が例の『近世国民(ママ)日本史』で学士院賞(筆者注、正しくは恩賜賞)をもらうときのことですが、これは三上先生の推薦だったのですが、三上先生のそのときの理由がおもしろいんです。学術的には問題があるだろうが、ともかくも歴史知識の普及をはかったという点は大きいんだから、その点授賞に値するというのです。学問的にそれがどうのこうの言う必要はない。大いに歴史知識の啓蒙をしたというんです。その功績に対して贈ってやったらいいというのです。これは私が直接三上先生から聞いたのではなく、辻先生(筆者注、善之助)から聞いた話です。しかし何とも明快ですね(5)。

 この高柳の発言は、官学アカデミズムの側からの『国民史』観を端的に示して興味深い。ここで高柳は、辻善之助から聞いた話として、蘇峰の『国民史』が大正十二年(一九二三)に帝国学士院より恩賜賞を授与された際、その推薦者が三上参次であったこと、さらに三上が『国民史』を推薦した理由を語っている。この恩賜賞は、『国民史』の緒篇にあたる「織田氏時代」三冊、「豊臣氏時代」七冊、計十冊を対象としたものであり、その折の「徳富猪一郎君著近世日本国民史ニ対スル授賞審査要旨 」(以下、「審査要旨」と略する)という文書が日本学士院によって公開されている(6)ので、これを高柳の発言と対照させてみたい。

 「審査要旨」は、蘇峰が並々ならぬ精力で『国民史』をまとめるとともに、記録・文書・

絵画・器物・史蹟などを博覧して修史の材料としたこと、さらに材料の解釈・咀嚼・綜合において適切であったことを評価している。その上で、『国民史』が平明な叙述と穏健な判断を兼ね備え、その間に蘇峰の史眼の閃きを見ること、また奇警な観察、卓越した識見が豊富に見られることを具体的に述べて授賞の理由としている。

 これらの諸点については、杉原志啓もすでに取り上げているが(7)、その一方で見逃せないのは、「審査要旨」が、「厳密ナル史学研究法」に基づいて『国民史』に批評を加える際、「織田氏時代」の三冊に関しては、材料の取捨について「今一段ノ注意ヲ促シタキモノアリ」と付記し、「其ノ他ニモ遺漏不備ノ指摘スベキモノ無キニ非ズ」と述べていることである。これは、高柳光寿の発言に見える、三上参次が『国民史』について「学術的には問題があるだろう」と評した一件と符合するもので興味深い。

 また、「審査要旨」の末尾には、『国民史』が「歴史趣味ヲ世ニ鼓吹セル功能ノ顕著ナルコト」を認めつつ、その一因を「是レ著者(筆者注、蘇峰)ガ新聞紙ト云フ有力ナル公布機関ヲ有スル」点に見出している。これは、高柳が紹介した三上参次の「ともかくも歴史知識の普及をはかったという点は大きいんだから、その点授賞に値するというのです」や、「大いに歴史知識の啓蒙をしたというんです。その功績に対して贈ってやったらいいというのです」という見解と符合する。以上の対比から、高柳の談話は、又聞きながら三上の真意をよく伝えるものと判断してよい。辻善之助が、「蘇峰の近世日本国民史の信憑性は何パーセントぐらいでしょうか」という渡部昇一の質問に対して、「五十パーセントだな」と答えたという逸話(8)と併せて考えてみても、史料編纂掛にいた歴史学者が『国民史』に付けた点は辛かったといえよう。

 では、史料編纂掛の歴史学者が、『国民史』に対して学問的に低い評価を付けた理由は何だったのだろうか。再び座談会「日本における史学の発達」から、高柳光寿の発言を取り上げてみたい。

それにこんなことは話していいかどうか、ちょっと躊躇されますが、あの『近世国(ママ)史』というのはあれは実にこういうわけがあるのです。史料編纂所に『大日本史料』の稿本があります。これは前にも申した本です。この本を徳富さんの秘書である高橋源一郎という人が、史料編纂所にきてしじゅう写しておりました。その写したものを持っていくんです。徳富さんはそれを片っぱしから書いていくんだろうと思います。ですから知識として全体をまとめてみて、それで歴史事実を把握するというやりかたじゃない。新聞記者が報告を受けて、その報告を記述していく。それがあの『近世日本国民史』ではないかと思います。全然成立の過程が違うのです。だから、いくらでも書けますよ。それは、三上先生がちゃんと承知の上でそれをやらせている。史料稿本は当時普通には公開しなかったものだし、われわれの若いころはそれを勝手に使って論文を書くことも許されなかったのですが、徳富さんはそれをやっていたのです。そしてこれは渡辺世祐先生もそれをちゃんと承知している。多分三上先生から渡辺先生に話があったことと思います。それで高橋君は、渡辺先生のところに来ては、一生けんめいやっていたものです(9)。

 この高柳の暴露的な回顧談は、先に見た高橋源一郎の史料収集に関する、史料提供者の側からの観察として興味深い。高柳によれば、高橋が史料編纂所で盛んに筆写したのは、『大日本史料』の原稿、いわゆる『史料稿本』であり、史料編纂官であった三上参次と渡辺世祐の二人が高橋に便宜を図ったという。これは、高橋の回顧に見えない貴重な情報である。そして、高柳は、高橋の書写した『史料稿本』をもとに、蘇峰が勢いに任せて『国民史』を書き進めたと推測している。

 確かに、『国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」(民友社、一九一八年)の「例言」には、「本書の資料に就ては、史料編纂官文学士渡辺世祐君の好意に待つ所、鮮少ならず」と特筆されている。また、第七巻「豊臣氏時代丁篇・朝鮮役上巻」(民友社、一九二一年)の巻頭にある「朝鮮役刊行に就て」という文章には、蘇峰が渡辺世祐の好意で、東京帝国大学図書館に架蔵されていた『宣祖実録』(李氏朝鮮編年体史書『朝鮮王朝実録』の一部)を通覧することを得て、自ら文禄・慶長の役関係の記事を抽出した二冊の摘録を作ったことが見える。渡辺は、史料編纂掛のみならず、帝国大学図書館の蔵書の閲覧・利用に関しても、蘇峰に多大な便宜を図っていたのである。

 このように、恩賜賞の対象となった『国民史』の「織田氏時代」三冊、「豊臣氏時代」七冊が、東京帝国大学の研究資源に依拠していたことは確かであり、官学アカデミズムの歴史学者からすれば、自分たちが蘇峰に史料を提供してやったという意識は当然潜んでいたはずである。さらに、蘇峰が専門の歴史学者とは異なった独特の史筆と史観を『国民史』で存分に展開したあたりに、三上参次の「学術的には問題があるだろう」や、辻善之助の「五十パーセントだな」という評価をもたらす素因があったのではないだろうか。

 ただし、高柳が話題に出した『史料稿本』は文字通り「稿本」であり、そこに収載されている史料だけで『国民史』の全ての素材を揃えられたとは考えにくい。「だから、いくらでも書けますよ」という高柳の観察は、蘇峰に対して厳に過ぎるところがある。実際に、蘇峰は『国民史』の連載開始直後の大正七年(一九一八)七月、「織田氏時代」の執筆素材を得るべく、中川泉三(滋賀県の地方史家)の案内で滋賀県の安土・長浜・竹生島などを巡歴し、多くの史蹟や古典籍・古文書を調査している(10)。この調査旅行は、蘇峰の史料収集が史料編纂掛だけに依拠したのではなかったことを明白に物語る。

 また、杉原志啓が指摘しているように、『国民史』の「豊臣氏時代丁篇・戊篇・己篇 朝鮮役上・中・下」全三巻に利用した史料は、蘇峰が十数度にわたる渡鮮のつど収集していたものが多く含まれ、「朝鮮役」の執筆が進んでいた大正十年(一九一二)四月にも、蘇峰は一か月あまり、史料および史蹟調査のため朝鮮に旅行し、史料収集に遺漏なきようつとめている(11)。大正期の東洋史学では「朝鮮役」全三巻に対する評価は高く、東京帝国大学講師であった和田清は、万暦朝鮮の役(文禄・慶長の役)について学生にレポートを課した際、糸口として『国民史』を読むことを勧めたという(12)。この逸話は、『国民史』の広汎な史料収集が、専門の東洋史家からも認められる水準に達していたことを示す。

 こうしてみると、高柳による『国民史』への評価が一面的であることがわかるが、高柳の評価が厳しい理由は、やはり「史料稿本は当時普通には公開しなかったものだし、われわれの若いころはそれを勝手に使って論文を書くことも許されなかったのですが、徳富さんはそれをやっていたのです」という一文が示すように、非公開であった『史料稿本』の閲覧と利用を、部外者の蘇峰が特別に許可されたことに対する感情的な反発が介在していたと考えられる。

 この点に関わって指摘しておきたいのは、明治・大正期において、史料編纂掛に架蔵される史料は、一般的に、部外の研究者が利用することはおろか、閲覧することも困難であった事実である。例えば、江戸研究で知られる三田村鳶魚は、福本日南(政治家・史論家)の紹介状を持参して、史料編纂掛に三上参次を訪問し、上杉家の記録を閲覧した際、三上から次のような応対をされたという。

 すなわち、鳶魚は、関係史料をも順々に見るつもりでいると、三上から「幾日こゝへ来るつもりか」と問われ、さらに「別に外来者の為に席は設けていないし、図書係と云つたところで、人が多くゐるわけでないから外来者は困る、二三日で切上げて貰はなければならぬ」と言われたという。三上の突き放した対応に困惑した鳶魚は、編纂掛で閲覧するのが迷惑なら、三上から帝大図書館の方に手紙を書いて、図書館で閲覧できるように取り計らってもらえないかと頼んだが、三上は「図書館の方は此方の係でないから、図書館に話すわけには往かない、彼処も外来者の為にどうするといふ便宜は無いから、往けば彼方に手数をかけることになる、紹介することは出来ない」というにべもない返事をし、結局鳶魚は黙って引き下がるほかはなかったという(13)。

 鳶魚は、この逸話の出典である『明治大正人物月旦』に、いつの出来事かを記さないが、彼の日記を調べると、明治四十三年(一九一〇)六月二十三日条に、「帝国大学にて、三上博士に面会(日南丈人紹介状持参)し、上杉年譜を抄録す(14)」という記事を見出せるので、この日の出来事と考えて誤りない。鳶魚は、『明治大正人物月旦』に、「尤も文部大臣の身内の人とか、代議士程度でも、その人自身なら勿論の事、その人の兄弟とか何とか云へば、取扱は大夫違ふやうだ」という「或人」の発言を付記しているが、このあたりはすこぶる皮肉めいている。

 右の逸話から、明治・大正期の史料編纂掛で、部外者が史料を閲覧することがいかに難しかったかがわかるが、それ以上に興味を引くのは、蘇峰に対して便宜を図った三上参次が、鳶魚にはおよそ丁寧とはいえない対応を示したことである。この歴然たる差は、一体どこに起因するのであろうか。

 

第二節 蔵書家・「大記者」としての徳富蘇峰と史料編纂掛の学者たち

 史料編纂掛が蘇峰に史料提供を惜しまなかった理由としては、杉原志啓が重視したような、蘇峰の言論界における「大記者」としての「名声・権勢、あるいは権力」が、第一に想起される。ただし、それだけの理由で、高柳光寿が後年まで取り沙汰するほどのサービスを、三上参次や渡辺世祐がしたとは考え難く、別の要因も考慮に入れる必要があろう。また、杉原が重視する蘇峰の「大記者」としての「名声・権勢、あるいは権力」についても、それがいかに作用したのかを具体的に解明しておく必要がある。

 ここで筆者が重視したいのは、蘇峰が近代を代表する古典籍・古文書のコレクターであり、かつ「成簣堂文庫」と称したコレクションの複製を、史料編纂掛の要望に応じて許していた事実である。

 その一例として、蘇峰の所蔵していた『維摩経 巻中』一巻(15)を取り上げたい。この経巻については、仏教学者の舘隆志による研究(16)があるので、これに基づいて説明を加えておく。すなわち、『維摩経 巻中』は奈良朝写経であるが、その末尾に鎌倉時代園城寺僧であった公胤による奥書があり、建久三年(一一九二)正月十八日に、石清水八幡宮において後白河院の病気平癒の祈祷を勤修した旨の記載が見られる。ただし、奥書には虫損による判別困難な箇所がいくつか存しており、年紀の「建久三年」の「三」の部分も欠けていた。そこで、蘇峰は大正五年(一九一六)四月二十二日に、古文書学の専門家で史料編纂官であった黒板勝美に鑑定を請うた。鑑定を終えた黒板はその日のうちに書簡を以て、奥書の年紀が建久三年であることを指摘し、後白河の病気平癒の祈祷が石清水八幡宮で行なわれた点が興味深いと述べている。とくに黒板の書簡で注目されるのは、黒板が奥書の写真を史料編纂掛に備え付けるため、原本の拝借を願っている点である。この黒板の希望に対して、蘇峰は快く応じたようで、現在史料編纂所には、この折に撮影されたと考えられる『維摩経 巻中』奥書の台紙付写真一枚が架蔵されている(17)。以上は、舘隆志が、徳富蘇峰記念館に所蔵されている、大正五年四月二十二日付の「黒板勝美書簡」に基づいて明らかにした事実である。

 また、史料編纂掛では、大正十三年(一九二四)に、レクチグラフ機という複写専用カメラを購入し、同年から史料の複写を開始した。このレクチグラフ機の利点は連続撮影の機能を持ち、かつ中間調の再現に優れたペーパーを備えることであり、紙数の多い巻子装の史料や複数点で構成される史料群についても撮影が可能となった(18)。史料編纂掛では、各所から借用した原本史料を所内で撮影していくが、蘇峰の成簣堂文庫についても、『大乗院文書』を始めとする主要な古典籍・古文書群を借用して撮影し、その数は全一五五冊に及んだ(19)。現在、史料編纂所が公開している「所蔵史料目録データベース(20)」によれば、レクチグラフ『成簣堂古文書』の撮影年は、昭和八年(一九三三)〜同十一年(一九三六)の時期に集中しており、これは次に取り上げる『成簣堂古文書目録』の編纂と連動していたと考えられる。東京大学史料編纂所編『東京大学史料編纂所史史料集(21)』第五章第一節「蔵書の形成」の末尾に示された「複本作成数の推移」というグラフを見ると、一九三〇年代にレクチグラフの架蔵点数が急激に増加したことがわかるが、その重要な一角を占めるものこそ、蘇峰のコレクションの複本であった。編纂掛の蔵書拡大、ひいては編纂事業の充実

化に蘇峰が与ったことは見逃せない。

 昭和期に入ると、蘇峰は所蔵する古典籍・古文書が質・量ともに充実したことに鑑み、その目録の編纂を史料編纂所の所長であった辻善之助に依頼している。この依頼に対して、辻は若手の藤木邦彦を編纂者として推薦した。ただし、藤木は編纂中に病気を患ったため、辻の推挙によって宝月圭吾が藤木のあとを受けて編纂者となり、昭和十年(一九三五)夏から作業を再開した。藤木・宝月の原稿は、辻による訂正・校閲を経て、翌昭和十一年冬に『成簣堂古文書目録』(22)として上梓された。同書の巻頭に見える、蘇峰の「序」や宝月の「例言」によると、蘇峰の秘書であった並木仙太郎が目録の編纂に助力を惜しまなかったという。

 さらに、蘇峰の学界への援助は、国史学に止まらず東洋史学にも及んでいた。秘書の高橋源一郎の回想文には、次のような出来事が紹介されている。すなわち、高橋は、東京帝国大学教授であった市村瓚次郎(東洋史学者)から、南京図書館所蔵の『経略復国要編』という史料の存在を教えられた際、「大学で写し取りたいが予算が無いから写し取れない。徳富先生の方で写して下され、用すみの後大学に貸して下されば一ばん結構だ」という提案を持ち掛けられた。高橋が蘇峰にこの旨を伝えると、蘇峰は大谷光瑞本願寺法主)に依頼して『経略復国要編』の存在を確かめ、岩村成充(南京領事)に委嘱して全冊を謄写させた。そして、自分の用が済んだ後に、大学に貸与したという(23)。

 問題の『経略復国要編』は、明の宋応昌が編纂した全十五巻の編年公文書集であり、文禄・慶長の役の研究にとって重要な国外史料であった。蘇峰は、『国民史』第七巻「豊臣氏時代丁篇・朝鮮役上巻」の序文「朝鮮役刊行に就て」において、新史料である朝鮮の『宣祖実録』と『経略復国要編』を利用できたことを誇り、大正十一年(一九二二)三月に開催した「近世日本国民史朝鮮役史料展覧会」でも、両書の謄写本を展示している(24)。いかにも蘇峰の史料収集に対する熱意と自負が読み取れるが、市村もそれを見越して蘇峰に情報を提供し、『経略復国要編』の謄写・貸与を希望したのであろう。

 次に、杉原志啓のいう蘇峰の「大記者」としての「名声・権勢、あるいは権力」が、いかに官学アカデミズムの学者に作用したのか、これについて考察を加えておきたい。

 徳富蘇峰記念館に所蔵される歴史学者の蘇峰宛の書簡を見ると、自著の新刊紹介や、史料集の推薦文の執筆を、蘇峰に請うたものが散見する。大正・昭和期の蘇峰が、『国民新聞』や、社賓であった『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』の紙上で、学術書の書評・推薦文を数多く執筆していたことは知られているが、その一部にアカデミズムからの要請もあったことは重要である。

 例えば、黒板勝美は、昭和四年(一九二九)と推定される四月二十七日付の書簡において、「新訂増補国史大系」の編纂・出版の計画を蘇峰に報じるとともに、「国史大系」の編纂を自己にとっての「畢生の事業」であると強調した上で、予約応募者の獲得ができなければ成功はむつかしく、蘇峰が『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』の紙上で、「国史大系再版の必要と困難等」について見解を披瀝し、出版に関する注意点を述べることが、「予約宣伝上、尤も効果あることゝ奉存候」と述べている。この記載は、官学アカデミズムの中心にあった黒板が、蘇峰による宣伝に絶大な効果を期待していたことを物語るものであり、大ジャーナリストであった蘇峰の存在感を改めて認識させる(25)。

 また、渡辺世祐は、大正十五年(一九二六)六月十九日付の書簡において、同日付で出版された『関東中心足利時代之研究』(雄山閣)を蘇峰に送付したことを述べ、その一読を願うとともに、機会があれば『国民新聞』上で推薦してほしいと願っている。同書は、渡辺の学位論文で、現在の室町時代研究でも参照される重要な業績であるが、著者の渡辺が蘇峰による紹介を切望していたことは興味深い。渡辺の求めに応じて、蘇峰は『国民新聞』の同年七月十一日、夕刊一頁(26)に、四段の紹介文を発表している。先に見たような、渡辺が蘇峰に助力を惜しまなかった背景には、このような自著の宣伝を蘇峰に期待していたことがあったとみてよかろう。

 以上、蘇峰が古典籍・古文書を収集する傍ら、これらを史料編纂掛などに積極的に提供した事実を見てきた。一般に、蘇峰は山路愛山や竹越三叉らと同じく民間史学に区分され、官学アカデミズムと対置されるが、大正期以降、史料提供者として史料編纂掛と密接な関係を結んでいたことは見逃せない。加えて、蘇峰がコレクションの一部を『成簣堂叢書』や『新成簣堂叢書』として複製出版するほか、山田孝雄国語学者・国文学者)ら古典保存会の懇請に応じて、秘蔵の『秘府略』巻第八六四などのコロタイプ複製を許可した事実(27)も想起するならば、後半生の蘇峰を史学・文学・語学にまたがるアカデミズムの一大支援者として位置付けることは不当ではなかろう。さらに、「大記者」であった蘇峰に『国民新聞』や『大阪毎日新聞』『東京日日新聞』で書評・紹介文を執筆してもらうことは、読書界に対する絶大な宣伝効果が見込まれ、これは当時の歴史学者にとっても大きな魅力であったと考えられる。

 このような事実を踏まえるならば、史料収集について蘇峰から多大な恩恵に浴していた史料編纂掛の歴史学者らが、蘇峰に丁重な態度を以て接し、多大な便宜を図ったことは、何ら不思議ではない。蘇峰の側にしても、史料編纂掛やそこに属する学者らに積極的に協力することで、『国民史』の執筆に必要な史料調査を円滑に進める思惑があったと考えられる。

 

第三節 渡辺世祐と高橋源一郎

 ところで、蘇峰と渡辺世祐の関係を考える上では、蘇峰の秘書であった高橋源一郎の存在も見逃せない。高橋が蘇峰を助けて『国民史』の史料収集を遂行したことは、これまで見てきたとおりだが、実は高橋は渡辺とも親密な関係にあった。

 例えば、渡辺の地方史に関する業績に、『諏訪史』第三巻(諏訪教育会、一九五四年)という一書がある。この『諏訪史』は、長野県出身の西洋史家である今井登志喜を監修者に迎え、鳥居龍蔵・宮地直一・渡辺という名だたる学者を編纂者として揃えた、戦前期における地方史の好著として高く評価されている。渡辺が編纂を担当した第三巻の中世については、鎌倉時代より南北朝時代までの前篇を宝月圭吾が、室町時代以降の後篇を渡辺が執筆する計画であったが、実際に渡辺の分担箇所を執筆したのは高橋源一郎であり、渡辺はその草稿に手を入れたに過ぎなかったという(28)。

 この『諏訪史』編纂をめぐる高橋と渡辺の関係については、大正十四年(一九二五)に東京帝国大学文学部国史学科に入学した、大久保利謙(近代史家)の回想が参考となる。すなわち、武田信玄の経済政策を卒業論文のテーマに選んだ大久保は、渡辺の指導を受けていたところ、三年生の夏季休暇中に、渡辺に長野へ連れられ、伊那から甲府まで、十日間に及ぶ史料調査の旅行を行なった。その際、大久保とともに渡辺に随行したのが、他ならぬ高橋源一郎であったという(29)。この史料調査は、『諏訪史』編纂に関わって実施されたものとみてよく、渡辺と高橋の関係がかなり緊密なものであったことがうかがえる。

 これに関わって注目したいのは、徳富蘇峰記念館に所蔵される、昭和二年(一九二七)八月二十二日付と二十四日付の消印を持つ、高橋源一郎の葉書二通である。これらはともに長野県飯田町(下伊那郡)に滞在していた高橋が、東京の蘇峰に宛てたものであり、前者では飯田への到着を、後者では天竜峡を下り、波合を訪ねることを報じている。発信地と消印の日付から、二通の葉書は、大久保の回想に見える渡辺世祐の史料調査中に発信されたものとみて間違いない。

 そして、長野滞在中の高橋が蘇峰に連絡を送ったことは、高橋の史料調査への参加が蘇峰と無関係ではなかったことを意味する。そもそも、高橋は蘇峰の『国民史』執筆を日常的に補助する秘書であったから、蘇峰の了承が無ければ長期間の旅行は叶わない。要するに、右の二通の葉書は、高橋という優秀な協力者を、蘇峰と渡辺が共有していた事実を示唆するのである。

 ちなみに、高橋は、蘇峰の秘書になる以前から、渡辺の知己を得ていたようであり、この経緯についても考察を加えておきたい。ここで手掛かりとなるのは、高橋の経歴である(30)。

 高橋は、元来早稲田大学の出身であり、歴史地理学の大家吉田東伍の弟子であった。高橋は千葉県山武郡の地主の家に生まれたが、両親から修学に関して理解を得られなかったために苦学を重ねた。大学卒業後、高橋は吉田の好意で、吉田が大正三年(一九一四)十月に東京の牛込矢来町十一番地に設けた『国史百科大辞典』の編輯所に勤務した。しかし、四年後の大正七年一月に吉田は逝去し、辞典の編輯事業は頓挫を余儀なくされた。恩師の吉田を、「小生が歴史家として立つべき希望の唯一の頼みの綱」と仰いでいた高橋にとって、その逝去は衝撃以外の何ものでもなく、「小生に取つては実に致命の重傷である」と感じ、吉田の死後、その年の六月頃まで夜も眠れないことが多かったという(31)。吉田への追慕の念が止みがたい高橋は、吉田の実弟新潟県の地主であった高橋義彦や、吉田門下の横井春野らとともに、『吉田東伍博士追懐録』を編集し、大正八年(一九一九)九月に私家版として出版している。

 一代の碩学であった吉田には、果たし得なかった二つの宿志があった。一つは先述した『国史百科大辞典』であるが、いま一つが『越佐史料』という史料集であった(32)。これは吉田が生まれ育った越後と佐渡の両国に関わる編年体の史料集であり、吉田が『大日本地名辞書』の編纂中に、その必要を感じ、弟の高橋義彦に協力を求めていたものという。吉田は、死去前年の大正六年(一九一七)に『越佐史料』の具体的な編纂順序を立て、東京帝国大学から史料編纂掛架蔵の史料の謄写を許された。そして、史料編纂官であった渡辺世祐が、その助成の任にあたることを、吉田に快諾したという(33)。

 この計画の立案からまもなく、吉田はこの世を去るが、弟の高橋義彦は亡兄の遺志を継承して、『越佐史料』の編纂に取り組み、大正十四年(一九二五)に巻一の刊行を実現させた。同書に高橋義彦が記した「序言(34)」には、生前の吉田に協力を約束していた渡辺世祐が終始高橋に助力するほか、渡辺の同僚であった花見朔巳・布施秀治・鷲尾順敬ら史料編纂掛の職員、そして吉田の門弟であった高橋源一郎らの「熱誠ナル助成」が大きかったことが特記されている。興味深いのは、ここに渡辺世祐と高橋源一郎の名を、あわせて見出せる点である。『越佐史料』は、昭和六年(一九三一)四月に高橋義彦が亡くなったため、惜しくも巻六の刊行を以て中絶することになるが、同書の編纂事業を契機として、渡辺世祐と、亡き吉田東伍の愛弟子であった高橋の関係が結ばれたことは十分に考えられる。この延長線上に、先に見た高橋による『諏訪史』編纂への協力がなされるのであろう。

 やがて高橋は、大正九年(一九二〇)七月から蘇峰の秘書として『国民史』の史料収集に携わり(35)、調査のため史料編纂掛にも足繁く通うようになる。先に取り上げた高柳光寿の回想には、「高橋君は、渡辺先生のところに来ては、(筆者注、『史料稿本』の書写を)一生けんめいやっていたものです」という調査風景が紹介されていたが、これには先述した蘇峰と渡辺の関係はもとより、高橋が渡辺と早くから親密であった事情も介在していた。高橋が蘇峰の秘書に就いた経緯については残念ながら未詳であるが、彼が『国史百科大辞典』や『越佐史料』などの編纂経験を有していたことに加えて、史料編纂官の渡辺と親密であったことが、蘇峰の目にとまった可能性は高い。『国民史』の史料収集が相当周到であったことはこれまでにも杉原志啓によって指摘されているが、それはひとえに高橋源一郎という存在なくしては実現できなかったのである。

 

第四節 歴史家徳富蘇峰の変質

 さて、大正期以降の蘇峰が官学アカデミズムとの関係性を次第に深めたことは、歴史家としての蘇峰に重大な変質をもたらしたと考えられる。最後に、この点についても私見を述べておきたい。

 かつて家永三郎は、明治以後の日本史学の展開を素描した際、実践的な問題関心に基づく民間史学と、史料の博捜と精密な実証に重きを置く官学アカデミズムを対置し、前者を代表する山路愛山徳富蘇峰・竹越三叉ら、民友社の歴史家たちの清新な史論が果たした意義を高く評価した(36)。ただし、家永は愛山の死とともに、民間史学はその生命を喪失したとし、思想面で変化を遂げた蘇峰、壮年期の鋭鋒を喪った三叉に、在野史家としての栄光をさほど認めなかった。

 その中で、家永は蘇峰の『国民史』に「ジャーナリストとしての体験をふまえたユニークな史論も見られる」と残余の光を見出しつつも、「『大日本史料』の稿本に依存した面があったりして、アカデミズムからの独立性は、山路の場合に比べて、稀薄となっている」と評した(37)。すなわち、本章で見てきたような、蘇峰による史料編纂掛の『史料稿本』の利用、突き詰めて言えば顕著な史料主義が、蘇峰の在野史家としての野性味を喪失させたと評するのである。これは豊富な史料引用を是とした蘇峰にとって予想外の批評であるが、その指摘はあながち的外れとは言えない。これは、最晩年の蘇峰に請われて『国民史』終末部の口述筆記を担当した藤谷みさをが『国民史』について述べた、「史料を尊重するの余り、史料に引摺られたという感じがしないでもなかった(38)」という感想とも共鳴する。

 また、『国民史』に対して本格的な考察を加えた杉原志啓も、『国民史』を起筆する頃の蘇峰が、政治・経済史のみならず、社会・文化史にも相当の注意を払う意識を有していたものの、緒論にあたる織田・豊臣・徳川時代を過ぎると、社会・文化史の比重が次第に薄くなり、第三九巻「井伊直弼執政時代」以降からは、ほとんどすべての巻が政治史中心になったと断言する。そして、杉原は、『国民史』全百巻を一個の作品として見た場合、途中から多様性を欠く点が内容構成上において「あきらかに欠陥のひとつ」と述べ、『国民史』は「すくなくとも叙述の内容に関してすこぶるバランスを失した構成になっている「歴史」であった」という評価を下している(39)。これも家永や藤谷らと同様、首肯すべき意見である。

 では、歴史家としての蘇峰を変質させた要因は何であったか。ここで筆者が重視したいのは、蘇峰の蒐書癖である。

 蘇峰自身の述懐によると、彼は当初、和漢洋の書籍を必要に応じて購求していたが、「書物道楽とまでは至らなかつた」ようである。しかし、明治三十年(一八九七)の末から、翌明治三十一年にかけて、蘇峰が協力していた第二次松方内閣が瓦解し、蘇峰も逆境に置かれた際、始めて「書物道楽に耽るべき余裕を見出した」。その後、蘇峰は再び政界との関係を回復して多忙の身となったが、その「書物道楽熱」はますます高まり、多忙を極めた明治三十七・八年(一九〇四・〇五)から明治四十四・五(一九一一・一二)の時期にも、古書肆で稀書を探ったという(40)。東京神田の古書肆として知られ、蘇峰の眷顧を被った弘文荘の店主反町茂雄は、明治三十年代後半から古版本を買い集める上層階級が出てきたことが、古典籍の価格を値上がりさせたと述べ、その代表者として蘇峰の名前を挙げている(41)。昭和期に入ると、蘇峰のコレクション「成簣堂文庫」は、国書・漢籍・朝鮮本にわたる古写・古版の善本や、貴重な古文書で埋め尽くされるまでになった。

 このような蘇峰の「書物道楽」は、家族にも不安を感じさせたようで、父の徳富一敬は、

「昔から玩物喪志といふが、比ろは余り過ぎる様である。何とか少しく忠告してやつては如何」と、蘇峰の妻静子に苦言を呈したほどであった(42)。

 ここで、蘇峰の「書物道楽」を物語る逸話を、蘇峰の秘書をつとめた並木仙太郎の著作『蘇峰先生の日常』から紹介しておく(43)。

 関東大震災からまもない大正十二年(一九二三)十二月二十六日の午後、東京下谷の古書肆文行堂を訪れた蘇峰は、店の棚の上にあった写本数百冊を目にした。蘇峰が、店の主人(横尾勇之助)に尋ねたところ、南都興福寺に関わる『大乗院文書』の日次記の一部だと答えた。興味を示した蘇峰は、これとツレの古文書を主人に出させ、目を通したところ、鎌倉時代から江戸時代まで、貴重な史料的価値を有するものであると分かった。たちまち上機嫌になった蘇峰は、これらを買い取ることにしたが、文行堂に対して二日後の二十八日までに納品することを命じ、買い入れの約束書を入れるので、文行堂の方も売却の約束書を入れろと命じた。普通、店の側が顧客に売却の約束書を入れることはないので、主人は面食らったようである。他の顧客の手に渡ることを懸念する、蘇峰の心配ぶりが微笑ましい。

 二十八日の午後、『大乗院文書』は、一トン積の貨物自動車で、蘇峰の住む山王草堂に運ばれた。その晩、秘書の並木は、蘇峰の命で何千円かの小切手を文行堂に持参して、支払いを行なった。並木は、「先生(筆者注、蘇峰)も却々余裕がある」と思ったが、後で聞くと、あに図らんや、当時、蘇峰の特別預金はすこぶる減っており、支払いの半分にも足りなかった。そこで、会計係がある銀行から金を借り出し、何とか金額を間に合わせたのだという。つまり、蘇峰は現金不足にもかかわらず、垂涎のあまり、『大乗院文書』を衝動買いしたことになる。

 右の逸話は、ブック・マニア蘇峰の面目躍如たる一幕を伝えて余すところがない。そして、蘇峰の蒐書癖は、勢い『国民史』の執筆に作用し、徹底的な史料収集が行なわれる。その一端が、本章で取り上げた史料編纂掛における高橋源一郎の史料調査であった。元来、民間史学の立場にあった蘇峰が、豊富な研究資源を誇る官学アカデミズムと親密な関係を結んだ根本的な理由は、ひとえに蘇峰の史料に対する過剰な愛着に求められるのではあるまいか。

 かくして、『国民史』における史料引用の比重も、おのずから高まりを見せる。杉原志啓は、『国民史』全巻のいずれを取っても、少なくとも四分の一以上が史料引用であり、巻によっては、史料引用が全頁の七割以上を占めるものもあることを指摘している(44)。これは『国民史』の一特徴であり、先に取り上げた「朝鮮役」全三巻のように、後学にとって有用な面を含むことを否定しないが、叙述と引用の均衡を欠くことは明らかである。ここにおいて、『国民史』の史書としての欠陥が露わとなる。

 蘇峰は昭和十八年(一九四三)に、近代史家の大久保利謙の求めに応じて、亡き山路愛山の思い出話を語ったことがある。次に引くのは、大久保のメモに見える、蘇峰の愛山評の一節である。まとめることは下手で、また本を決して沢山読まない。きわめて少々読み、ちょっとのものを一巻の書物にする才があった。材料についてもきわめて杜撰であった。たとえば、『川角太閤記』それをまったく本当のことが書いてあると信じておった。『甫庵太閤記』、これも信用しておった。そして大学(史料編纂所)が嫌いで相談するようなことはしない。材料を借りて見るというようなことはしない。つまり相手にしなかった。故に得べき材料も得なかった。これは他聞を恥じるという風があったのか(45)。

 晩年の蘇峰に言わせれば、愛山の史論は材料の面で杜撰であり、愛山が官学アカデミズムと関係を結ばなかったことが、利用できた史料の乏しい一因であるという。しかし、家永三郎の指摘を借りるまでもなく、実践的な問題関心に立って自由な史論を展開した点にこそ、明治期の民間史学の真骨頂があったのだから、このような批判は些末な問題をあげつらったものに過ぎない。それに、蘇峰本人とて、大正十二年(一九二三)に帝国学士院より恩賜賞を授与された際、『国民史』「織田氏時代」三冊に関して、材料の取捨に「今一段ノ注意ヲ促シタキモノアリ」と、専門の歴史学者から指摘を被っている(前掲「審査要旨」)。すなわち、愛山への批判は、蘇峰の『国民史』の緒篇にも跳ね返るのである。

 現在、同志社大学図書館の貴重書コレクションの一つに、「愛山文庫」というものがある。その名の通り、山路愛山の旧蔵書群である。昭和十八年(一九四三)にこれを見学した大久保利謙は、その印象を、次のように語る。読書人の蔵書として決して貧弱でもないが、またさして豊富でもない。和書だけで見ても、われわれのまったく知らないようなものはない。いわんや稀覯本をやである。平凡と言えばまことに平凡であるが、そこにまた在野平民歴史家愛山の愛山たるところがあるのであり、親しくその手拓に触れて愛山を憶うの感を深くした(46)。

 この愛山の蔵書群の特徴を、先に見た蘇峰の絢爛たる蔵書群のそれと比べるならば、鮮やかなコントラストをなしており、興味は尽きない。大久保は、愛山の学風についても、「普通ありきたりの史料を、それこそ眼光紙背に徹する底に、よく読み、よく消化して、あの独特の堂々たる史論を放ったところにある(47)」と述べるが、これは愛山文庫の特徴と軌を一にしている。こうして見たとき、愛山の史論と蘇峰の『国民史』は、同じ在野史家の作品であっても、その性質に大きな径庭があることは明らかである。

 傑出した東洋史家であった石田幹之助は、かつてランケの『世界史進講録』とラヴィスの『欧州政治史概観』という簡明な二概説に寄せて、「世にある史書もそれぞれに貴重な学者の研鑽の結晶であらうが、徒に尨大なものばかりが能ではなく、掌中に収まる如きここに挙げた二書の如きは珠玉の如き名篇といふべきであらう」と述べたことがある(48)。さらに、石田は続けて言う。徳富蘇峰先生は「近世日本国民史」の名の下に数十冊の雄篇を著はされた。その価値は別に存するものがあらうが、先日物故された柳田国男先生の如きはあれはあれで結構だが、私の蘇峰学人に期待した所は唯だ一冊に日本の近世史を大観したものであつたと私に謂はれた。味はふべき言である。

 いかにも簡潔を是とした柳田らしい率直な批評であるが、柳田の蘇峰への期待は、民友社に花開いた民間史学の黄金時代を知るが故のものであろう(49)。しかし、昭和期の蘇峰はそこを去ってすでに久しく、遥かに遠いところにいた。

 それにしても、史料への貪欲が、ときに史書の欠陥を生み出すとは皮肉である。これはあらゆる歴史家にとって、心すべき教訓かもしれない。

 本章では、大正期から昭和戦前期にかけての徳富蘇峰が、『国民史』の執筆に必要な史料の多くを東京帝国大学史料編纂掛に頼った結果、在野史家として重大な変質を遂げた事情とその背景を明らかにした。当時、史料編纂掛の史料は、縁故を持たない部外者が閲覧・利用することは困難であったが、三上参次や渡辺世祐らは蘇峰に格別の配慮を示し、蘇峰の秘書で渡辺と親密であった高橋源一郎に『史料稿本』の筆写を許した。この背景には、近代を代表する古典籍・古文書のコレクターであった蘇峰が、その所蔵する優品の撮影を史料編纂掛に許可し、編纂掛の蔵書拡大や編纂事業の充実化に貢献していた事実があった。また、「大記者」であった蘇峰は、新聞紙上で官学アカデミズムの歴史学者の著作類の書評・紹介を執筆しており、これも、史料編纂掛の学者が蘇峰に便宜を図った重要な背景であった。さらに、蘇峰の秘書であった高橋源一郎は、蘇峰と史料編纂掛を繋ぐ重要な役割を果たしており、見逃せない存在である。

 要するに、『国民史』の一大特色とされる豊富な史料引用は、蘇峰と史料編纂掛の間に結ばれた互恵的関係の産物と言っても過言ではない(50)。このような蘇峰と官学アカデミズムの密接な関係が、次章で見るような蘇峰と平泉澄の関係を生み出した外的な前提の一つになったと考えられる。

 

第二章 注

1高橋源一郎「徳富先生の史料集めの御苦心」(『日本談義』復刊第九六号、一九五八年)。

2早川喜代次『徳富蘇峰』(徳富蘇峰伝記編纂会、一九六八年)六八七頁。

3杉原志啓『蘇峰と『近世日本国民史』』(都市出版、一九九五年)一〇九〜一一一、三二七頁。

4「高柳光寿博士略歴」(『高柳光寿史学論文集』上、吉川弘文館、一九七〇年)参照。

5大類伸岩井大慧・高柳光寿・大久保利謙「座談会 日本における史学の発達」(『世界の歴史』別巻 世界史の諸問題、筑摩書房、一九六二年)二五八〜二五九頁。

6http://www.japan-acad.go.jp/pdf/youshi/013/tokutomi.pdf、二〇一九年三月一日最終閲覧。

7注(3)前掲杉原著書一一四〜一一五頁。

8渡部昇一「真の戦闘者・徳富蘇峰」(『生誕百三十年記念 徳富蘇峰』財団法人蘇峰会、一九九三年。初出一九七四年)九三頁。

9注(5)前掲「座談会 日本における史学の発達」二五九頁。

10徳富蘇峰「江州の史跡探討」(『烟霞勝遊記』下巻、民友社、一九二四年)。蘇峰と中川泉三の関係については、松下浩「安土城徳富蘇峰」(『〔滋賀県安土城郭調査研究所〕研究紀要』第一三号、二〇〇八年)、髙木叙子「徳富蘇峰」(中川泉三没後七〇年記念展実行委員会編『史学は死学にあらず』サンライズ出版、二〇〇九年)、『章斎文庫所蔵資料調査報告書』第一巻上(米原市教育委員会、二〇一四年)七五頁参照。

 なお、中川泉三は、大正期の平泉澄とも交流があり、平泉が大正十年(一九二一)五月に滋賀県を調査した際、多大な便宜を図っている。この調査は、やがて平泉が発表する「史上に湮滅せし五辻宮」(『我が歴史観』至文堂、一九二六年。初出一九二二年)の基礎をなした。これについては、同年四月二十五日付および五月二十二日付「平泉澄書簡」(章斎文庫所蔵。前掲『章斎文庫所蔵資料調査報告書』第一巻上、翻刻資料四一〜四二頁)参照。

11注(3)前掲杉原著書一一二〜一一四頁参照。

12中村栄孝、田中健夫・北島万次聞き手「朝鮮史と私(国史学界の今昔一二)」(『日本歴史』第四〇〇号、一九八一年)四七頁。なお、中村は「座談会 秀吉の朝鮮侵略」(『日本の歴史』月報一五、小学館、一九七五年)二〜三頁においても、『国民史』の「朝鮮役」が朝鮮・中国の史料を豊富に利用したことを高く評価している。

13菊池明編『三田村鳶魚遺稿 明治大正人物月旦』(逍遥協会、二〇〇九年)一八九頁。

14『三田村鳶魚全集』第二五巻(中央公論社、一九七七年)二八頁。

15現、石川武美記念図書館所蔵(成簣堂文庫本)。川瀬一馬編著『お茶の水図書館蔵 新修成簣堂文庫善本書目』(お茶の水図書館、一九九二年)八九頁参照。

16舘隆志『園城寺公胤の研究』(春秋社、二〇一〇年)第三章第二節「公胤の筆跡について」。

17〔請求記号〕台紙付写真―二八四―三八四六。

18史料編纂掛におけるレクチグラフの導入については、谷昭佳「写真と歴史学」(久留島典子・高橋則英・山家浩樹編『文化財としてのガラス乾板』勉誠出版、二〇一七年)三六〜三八頁参照。

19東京大学史料編纂所架蔵レクチグラフ『成簣堂古文書』(〔請求記号〕六八〇〇―二〇〇)。

20http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller、二〇一九年三月一日最終閲覧。

21東京大学史料編纂所、二〇〇一年。

22辻善之助監修、蘇峰先生文章報国五十年祝賀会・明治書院、一九三六年。

23注(1)前掲高橋回想文。

24この展示会については、高橋源一郎編『近世日本国民史朝鮮役史料展覧会 陳列書籍解題』(国民新聞社、一九二二年)参照。

25この四月二十七日の黒板の要望は、「新訂増補国史大系」の予約締切日が間近になったためであろう(当時、吉川弘文館が発行した内容見本によれば、申込締切期日は、翌月の五月三十一日であった)。ただし、管見では、締切日までの『大阪毎日新聞』や『東京日日新聞』に、蘇峰が「新訂増補国史大系」の推薦文を執筆した形跡はなく、その代わりに、三浦周行が『東京日日新聞』五月二十七日、朝刊四頁の「ブックレビュー」で、「日本史の略定本」と題した推薦文を寄せている。なお、黒板は、蘇峰が所蔵していた『本朝文粋』巻第七(高山寺旧蔵)を、「新訂増補国史大系」第二九巻下の校訂に利用している。この一件については、徳富蘇峰記念館所蔵「黒板勝美書簡」三通(昭和七年八月二十日付、同十四年六月十三日付、同年十一月十三日付)が関係する史料である。これについては、Lisa Yoshikawa, Making History Matter(Harvard University PressAsia Center,2017),p.216 に言及がある。

26京都大学附属図書館架蔵マイクロフィルムによる。

27山田孝雄「秘府略(巻第八百六十四)」(『典籍説稿』西東書房、一九五四年。初出一九二九年)参照。

28『諏訪史』編纂については、矢崎孟伯「細川隼人先生の日記からみた郡史編纂の動向」(『諏訪近現代史研究紀要』第一〇号、一九八〇年)、伊藤純郎「信州郷土研究事始め」(『柳田国男と信州地方史』刀水書房、二〇〇四年。初出一九九八年)参照。

29大久保利謙伊藤隆・土田直鎮聞き手「私の近代史研究(国史学界の今昔一七)」(『日本歴史』第四〇三号、一九八一年)七六頁、大久保利謙『日本近代史学事始め』(岩波書店、一九九六年)六七頁。ただし、後者の初版は「高橋源一郎」を「高橋伝一郎」に誤る。

30以下、高橋の経歴については、「高橋源一郎先生訃」(『国民史』会報第一六号、一九六一年)、佐藤堅司「高橋源一郎氏を悼む」(『史観』第六三・六四合冊、一九六二年)参照。

31高橋源一郎国史百科大辞典編輯所に於ける我が先生」(『吉田東伍博士追懐録』私家版、一九一九年)。

32『越佐史料』については、井上慶隆「高橋義彦と『越佐史料』」(『自然と文化』第五八号、一九九八年)、杉山巖「布施秀治と『稿本越佐史料』」(『東京大学日本史学研究室紀要』第一三号、二〇〇九年)参照。

33高橋義彦「兄の手紙」(注(31)前掲『吉田東伍博士追懐録』)。

34高橋義彦編『越佐史料』巻一(私家版、一九二五年)。

35『近世日本国民史』第六巻「豊臣氏時代丙篇」(民友社、一九二一年)の「例言」に、「大正九年七月以来、高橋源一郎君来りて、本書(筆者注、『国民史』)の刊行事務に加はり」と見える。

36家永三郎「日本近代史学の成立」(『日本の近代史学』日本評論新社、一九五七年。初出一九五四年)。

37前注家永論文七九頁。

38藤谷みさを『蘇峰先生の人間像』(明玄書房、一九五八年)一六三頁参照。

39注(3)前掲杉原著書二八九〜二九四頁。

40以上、蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会編『成簣堂善本書目』(民友社、一九三二年)の蘇峰序文による。

41反町茂雄談「明治大正六十年間の古書業界」(『紙魚の昔がたり』明治大正篇、八木書店、一九九〇年)三四頁。なお、蘇峰と古書肆の関係については、『古書肆100年 一誠堂書店』(一誠堂書店、二〇〇四年)が興味深い一例を示す。

42注(40)に同じ。

43以下、並木仙太郎『蘇峰先生の日常』(蘇峰会、一九三〇年)二四〜二六頁による。なお、横尾勇之助『文行筆記』にも関係する内容が見え、並木の記憶違い(納品日は十二月二十九日)や、『大乗院文書』の購入価格が四千円であったことがわかる。『文行筆記』は、長澤規矩也編『日本書誌学大系』第一六巻 本屋のはなし(青裳堂書店、一九八一年)による。

44注(3)前掲杉原著書二六九頁。

45大久保利謙徳富蘇峰の愛山談」(『佐幕派論議吉川弘文館、一九八六年。初出一九八三年)二二四頁。

46大久保利謙同志社大学の愛山文庫を訪う」(前注大久保著書。初出一九四三年)二三九頁。

47前注大久保随想二三六頁。

48石田幹之助「二冊の本」(『石田幹之助著作集』第一巻 大川端の思ひ出、六興出版、一九八五年。初出一九六二年)二三一頁。ちなみに、この見解は、石田が青年期より抱いていたものであった。石田幹之助「昨年の史界」(『史学雑誌』第二六編第一号「彙報」、一九一五年)九八〜九九頁参照。

49なお、柳田と蘇峰の交遊関係については、高野静子「柳田國男」(『蘇峰への手紙』藤原書店、二〇一〇年)が、柳田の実兄にあたる井上通泰も含めて明らかにしている。

50ただし、『国民史』の叙述が後半の幕末維新期に及ぶと、史料編纂掛よりも文部省維新史料編纂事務局に依拠する面が大きくなったと考えられる。とくに、蘇峰は維新史料編纂官であった藤井甚太郎との関係が深かった。蘇峰と藤井の関係については、徳富蘇峰記念館所蔵の「藤井甚太郎書簡」全二十六通が重要な史料である。

 

第三章 大正末期・昭和初期における平泉史学の変質と徳富蘇峰

 徳富蘇峰の死後、平泉澄が草した「徳富蘇峰先生」という追悼文には、平泉と蘇峰の交遊について、次のような回顧が見える。私は先生(筆者注、蘇峰)の知遇を得る事、既に三十年の長きに及んでゐるが、御会ひしたのは戦前に五六回、戦争中は一度もなく、戦後はわづか二回に過ぎない。伊豆の海岸と、北国の深山と、遠く離れて、まことに止むを得なかった

のである。御手紙をいただく事は、戦前に三四回、戦争中は一度もなく、戦後に二十数通に上つた(1)。

 これによれば、平泉は蘇峰と三十年に及ぶ交遊があったことがわかるが、戦前における面会の回数は五、六回と少なく、文通についても三、四回に過ぎなかったようである。また、戦争中の面会・文通は絶無であり、むしろ戦後に入ってから、頻繁な文通が行なわれたという。

 右の一文だけを見ると、戦前期の蘇峰と平泉の関係は、さほど密接とはいえない印象を抱く。しかし平泉は、「私が先生(筆者注、蘇峰)より受けましたもの、又先生が私に対して示されました深い御理解、或は御愛顧といふものが、殆ど日夜咫尺して居ると異ならぬやうに私は感ずるのであります(2)」とも述べており、平泉にとって蘇峰は真の知己というべき存在であったことは疑いない。ゆえに、平泉と蘇峰の交遊が始まった契機を明らかにし、壮年期の平泉に蘇峰が与えた影響を探ることは、従来の平泉研究を補う上でも重要な意味を持つ。

 そこで、本章では、大正末期から昭和初期に至る蘇峰と平泉の交遊関係を復元するとともに、同時期の平泉史学が、次第に国粋主義に傾く経緯についても考察を加える。その上で、昭和初期に平泉が取り組んだ『神皇正統記』や近世勤王家の研究に、蘇峰がいかに関わったのかについても、見ていきたい。

 

第一節 徳富蘇峰平泉澄の交遊の始まり

 平泉が蘇峰との交遊について回顧した文章は少なくないが、彼らの関係がいつから結ばれたのかは、必ずしも明確に記されていない。ただし、平泉が昭和五十年(一九七五)に記した「蘇峰先生の偉大を偲ぶ」には、五十年前、蘇峰先生の懇諭を私に伝へてくれられたのは、いつも並木秘書であった。国民教育奨励会の夏期大学に吉野山へ招かれたのも、更には安政大獄志士(ママ)七十年祭に協力を命ぜられ、たまたま先生病に倒れられるや、急に先生に代って講演するやう厳命をいただいた時も、すべて先生の命令は並木秘書を通じて伝

達せられたのであった(3)。と見える。これによれば、「五十年前」に蘇峰の秘書であった並木仙太郎が、蘇峰の懇ろな言葉を平泉に伝えたとあり、その例として、「国民教育奨励会の夏期大学」や「安政大獄志士七十年祭」が挙げられている。平泉が右の文章を書いた時点からおよそ半世紀を遡ると、それは大正十四・十五年(一九二五・二六)頃ということになる。また、昭和二十四年(一九四九)八月十三日に、平泉が蘇峰に宛てた書簡(徳富蘇峰記念館所蔵)にも、「私はまた昭和の初めから誤つて先生(筆者注、蘇峰)の寵遇を辱うしました」と見える。これによると、平泉が蘇峰の知己を得たのは、昭和元年(大正十五年、一九二六)頃ということになる。

 そこで、平泉の自製にかかる『寒林年譜』を見ると、大正十五年(昭和元年、一九二六)八月条に、「吉野山に開催せられたる国民教育奨励会(会長沢柳政太郎氏)に出講」という記載が認められ、これは右に引用した「蘇峰先生の偉大を偲ぶ」の記載と一致する。

 ここに見える国民教育奨励会とは、大正八年(一九一九)十月に創立された財団法人である。これは、蘇峰が主宰していた国民新聞社が主体的に運営した組織であり、会長には文部官僚として高等教育の自由平等化を進めたことで知られる沢柳政太郎が就任していた。また、文部官僚・学者・教育者・政治家・実業家・社会事業関係者など、多様な顔ぶれが評議員をつとめた。

 国民教育奨励会の活動については、これまで十分な研究がなかったが、近年、和田守が基礎的な考察を加えており、参考となる(4)。和田によれば、国民教育奨励会では、国民教育の枢軸を担う小学校教員を対象とした講習会を開催するほか、小学校教員による児童教育研究への研究助成や表彰、女性教員による県外視察費の援助などを行なったという。

 以上の事業の中で注目したいのは、小学校教員を対象とした講習会である。和田によれば、この講習会は、春・夏の二季に行なわれ、東京のほかに、仙台・延暦寺・広島・札幌・朝鮮京城・福岡・新潟など、地方でも開催されたという。参加者は、のべ八千七百名を数え、文理諸分野にまたがる充実した講演が用意されるなど、大正デモクラシーの影響下にあって、民間教育運動に貴重な一石を投じた企画であったようである。

 やがて国民教育奨励会では、大正十四年(一九二五)九月の定期評議員総会において、翌年度の新事業の一環として、従来の講習会を師範大学講座に改めることを決定した(5)。師

範大学講座では、修身・国語・歴史・算術・理科を始めとする各科目について、毎年二回、春と夏の休暇中に、一回一科目ずつの講習が設けられた。これは、義務教育年限の延長に対応しうるように、小学校教員の再教育を目的とした取り組みであったようである。

 平泉が大正十五年八月に吉野へ出講したのは、まさにその師範大学講座の第一回であった。平泉の『寒林年譜』には、平泉の講演の題目、日時・会場等を逸するが、『国民新聞』大正十五年七月八日、三頁に掲載された「吉野山の夏期師範大学」と題する広告には、「奈良県吉野山蔵王堂で八月一日から五日まで全国小学校教員のために左の学科につき開講」という書き出しで、次の講演一覧が示されている。

国史通論 文学博士平泉澄氏 ▲神武の創業 奈良女高師教授佐藤小吉氏 ▲吉野の朝廷並に大和の遺蹟 同上水木要太郎氏 ▲歴史教授の実際 同附属訓導大松庄太郎氏

 右の記事から、この時の夏季師範大学は歴史科目に特化したものであり、蔵王堂を会場としたことがわかる。順番から察するに、おそらく平泉は初日の八月一日に講演を行なったのであろう。

 平泉は、国民教育奨励会から夏季師範大学の講師を委嘱された背景について何も記さないが、先に引いた「蘇峰先生の偉大を偲ぶ」によれば、蘇峰の秘書である並木仙太郎が平泉に講演を依頼したようであるから、蘇峰その人の意向であることは疑いなかろう。ちょうどこの年は、平泉にとって躍進の年であった。すなわち、平泉は、東京帝国大学より文学博士の学位を授与されるとともに、東京帝大の助教授に就任し、国史学第二講座を担任することになったのである。また四月には『中世に於ける精神生活』を、翌五月には『我が歴史観』を、ともに至文堂から上梓するなど、大学院時代の多年の研究も結実の時期を迎えていた。

 このように、平泉が新進気鋭の学者として活躍していたことは、歴史学界の動向に通じた蘇峰の知るところであったと考えられる。これが、蘇峰の肝煎で、平泉が夏季師範大学の講師に招かれた背景であろう。なお、国民教育奨励会と平泉の関係はその後も続いたようで、昭和四年(一九二九)八月に松江市で開催された夏季師範大学でも、平泉は「日本文化の発展」という講演を行なっている(6)。

 右の吉野における夏季師範大学の後、蘇峰と平泉の関係はしばらく確認できないが、次に注目すべきは、昭和三年(一九二八)九月十六日に開催された第四回史学講演会(会場は東京青山会館)で、平泉が「文化価値の推移」という講演を行なったことである。

 この史学講演会は、大正十三年(一九二四)九月十六日に早世した、徳富万熊(蘇峰の次男、国民新聞地方部長兼調査部長)の追悼を趣旨とするものであり、一周忌にあたる大正十四年の万熊の命日から、毎年開催された。主催は青山会館で、これを日本歴史地理学会・武蔵野会・国民史学会などが賛助した。講演会の講師は、万熊が歴史学と考古学に趣味好尚を有していたことにちなんで、両分野の第一線の研究者が招かれた(7)。例えば、第一回の講演会の講師は、黒板勝美鳥居龍蔵・辻善之助・大山柏といった錚々たる面々であり(8)、蘇峰の意気込みがうかがえる。

 平泉が史学講演会の講師として招かれたのは、蘇峰が青山会館に働きかけたことが大きかったようである。講演の少し前にあたる八月二十一日に、平泉が蘇峰に宛てた書簡(徳富蘇峰記念館所蔵)には、「青山会館に於ける御賢息(筆者注、徳富万熊)記念講演の儀は、先生(筆者注、蘇峰)が特別なる御推挙の趣、光栄に奉存候」と見える。この文章から、蘇峰が青山会館に対して、平泉を熱心に推挙した事実が知られる。

 平泉が九月十六日に行なった講演の内容は、翌日の『国民新聞』に掲載された「三権威の述ぶ史学の精華(9)」という記事に詳しい。これによれば、平泉は古代・上代・中世・近世・現代という自己の時代区分論を提示し、各時代の文化価値の標準について、上代を美、中世を聖、近世を善、現代を真とする見解を説いたという。これは、平泉が同年四月に発表した「日本精神発展の段階」(『史学雑誌』第三九編第四号(10))を踏まえた内容と考えられる。平泉の講演は聴衆の興味を惹きつけたようで、記事には「面白く説明するところあり」と記されている。

 このように、昭和期に入ってから、平泉は蘇峰の知遇を得て、蘇峰が関係する様々な講演会の講師として招聘されるようになった。第一章で見たように、平泉は早くから『国民新聞』を通して蘇峰の作品に親しんでいたが、平泉が官学アカデミズムに確固たる地位を占めたことで、ようやく蘇峰本人との関係が結ばれたのである。以後、両者の交遊は、戦時期の断絶を挟むものの、蘇峰が亡くなるまで続くことになる。

 

第二節 平泉史学における南朝正統主義の確立

 さて、近年、平泉研究に重要な一石を投じた若井敏明は、大正十五年(昭和元年、一九二六)十月に「歴史の回顧と革新の力」(『歴史地理』第四八巻第四号(11))を発表したあたりから、平泉の研究が次第に国粋主義的な傾向を帯びることを指摘し、平泉が『神皇正統記』や近世における勤王家(とくに橋本左内)の研究に着手した事実に注目している。そして、若井は、一九二〇年代後半の平泉には、中世史家としての面と、国史を一貫する「日本精神」を論じる時局家・教育家としての面が、いまだ「微妙なバランス」を取っていたと評価する

(12)。

 筆者が関心を抱くのは、この「微妙なバランス」を取っていた時期の平泉に、蘇峰がいかに関わったかであるが、その問題に入る前に、大正十五年(昭和元年)の平泉に関わって、論じておきたいことがある。それは、同年の末に、平泉が南朝正統主義の立場を示し始めた事実である。これは、平泉史学の変化を考える上で逸することのできない問題であり、蘇峰との関係を見る上でも重要な前提をなすので、順を追って考察を進めていく。

 まず注目すべきは、この年の十一月十九日と二十日に東京帝国大学工学部大講堂において開催された、第二回国史講座特別講演会である。これは、長慶天皇の皇統加列を記念したもので、一日目には平泉澄「吉野朝の御理想」と辻善之助「御歴代の信仰について」、二日目には和田英松「長慶天皇の御在位について」と黒板勝美「御歴代天皇の筆蹟について」という講演が行なわれた(13)。興味深いのは、平泉の講演題目に見える「吉野朝」という時代名称である。実は、この講演こそ、平泉が公的な場で「吉野朝」という名称を使用した初例であった。講演の四日前、十一月十五日に出版された『中世に於ける社寺と社会との関係』(至文堂)では、平泉はいまだ「南北朝」の名称を用いていた。しかし、この十一月十九日の講演ではそうではなく、「吉野朝」の名称を使用している。これは、平泉の中世史家としての姿勢に、重大な変化が生じたことを意味するものに他ならない。

 言うまでもなく、近代の歴史学者にとって、十四世紀の動乱期を、「南北朝時代」と称するか、あるいは「吉野朝時代」と称するかは、歴史観の重大な分岐点であった。明治四十四年(一九一一)の南北朝正閏問題の結果、歴史教育においては「南北朝」の名称を廃して「吉野朝」の名称が用いられた(南朝正統主義の明示)。一方、歴史学界では史実を尊重する立場から南北併立の学説を是とする学者が大半であり、南朝正統の立場を表明したのは、黒板勝美・三浦周行・笹川臨風ら少数に過ぎなかった(14)。

 第一章で触れたように、平泉が中世史研究の手ほどきを受けた田中義成は、実証史学の立場を堅持し、名分論とは一線を画して、南朝北朝の並立を認めた。それゆえに、田中は「南北朝時代」の名称を用いたのであった。田中の遺稿『南北朝時代史』を整理して公刊する準備を調えた平泉も、大正十一年(一九二二)十一月の紹介文「故田中博士遺稿の出版」(『史学雑誌』第三三編第一二号「彙報」)で、「南北朝」の名称を用いたことは、第一章で触れた通りである。

 では、平泉が大正十五年(一九二六)十一月の段階で、「南北朝」を捨てて「吉野朝」の名称を用いた理由は何か。これを考える上で示唆的であるのは、最近、渡邉剛によって紹介された平泉の未定稿「恩師(15)」である。これは、戦後の平泉が恩師の黒板勝美から被った眷顧を回顧した文章であるが、その中で平泉は、三上参次・田中義成・辻善之助・喜田貞吉らを中心に、学界の大勢が南北両朝の並立を説くのに対し、ひとり南朝正統の立場に立った学者として黒板の存在を特筆している。そして、平泉は、大正十二年(一九二三)に、自らが黒板から東京帝国大学国史学科の講師に推薦された背景に、南朝正統の志を貫徹させようとする黒板の考えがあったと推測している。

 果たして、黒板が平泉を自身の後継者として選んだ理由が、南朝正統論のみに限られるかどうかは確かではなく、渡邉剛が指摘するように、慎重な吟味が必要であろう。また、第一章で明らかにしたように、田中義成との学問的関係が深かった平泉が、「南北朝時代」の名称を捨てることに一抹の葛藤もなかったとは考えられない。ただし、黒板の後継者として目された平泉が、南朝正統論の継述を以て、黒板の後継者たるものの使命と考えていたことは確かである。その意味で、平泉が官学アカデミズムにおいて確固たる地位を占めた大正十五年に、「吉野朝」という名称を用いたことは、重大な意味を持つ。これは、南朝正統主義に立つ黒板の後継者としての意思表示に他ならない。

 また、平泉が第二回国史講座特別講演会で行なった講演の内容は、「吉野朝が延喜天暦の聖代へ復る事を常に願ひながらも、かく早く倒れた事は、従来史家の説くが如く吉野朝が徒らに戦勝の盃に醉ひ驕奢を之れ事とし、武人を蔑にし自ら招き求めた所によるのではなく、当時の朝廷実力を以ては到底抑圧する事の出来ない時勢の力と、余りに強く燃えた御理想とが、かくしたものである事を色々の実例によつて論じ」たものであったという(16)。短文ゆえ委細を尽くさないが、これはその一か月前に発表した「歴史の回顧と革新の力」と同じく、後醍醐天皇による「建武中興」の本質を天皇親政に見出し、そこに復古の精神を読み取るものであったと考えられる。この平泉の論調は、大正十一年(一九二二)五月の史学会例会において黒板勝美が行なった講演「公家中興時代に就いて」の内容と酷似しており、黒板の歴史解釈を積極的に継承していたことは明白である(17)。これは、青年期に親炙した田中義成の学説との決別を意味するものに他ならない。ここに、平泉史学は鋭角的な転換を遂げたといえよう。

 さて、このように南朝正統主義を表明し始めた平泉に対して、危惧を抱いた歴史学者がひとりいた。かつて南北朝正閏問題の責任を問われ、文部省休職を余儀なくされた喜田貞吉である。次に筆者が注目するのは、喜田と平泉に関わる一つの逸話である。

 最晩年の平泉が、東京大学百年史編集委員会の求めに応じたインタビューに、次のような話が見える。すなわち、ある日、平泉の家を来訪した喜田貞吉が、南朝正統の立場に立つ平泉と山田孝雄(国語・国文学者)の二人を強く批判し、平泉も負けじと反論した。白熱した議論の後、喜田は実子の喜田新六(東京帝国大学文学部国史学科に在学)のことを平泉に頼み、平泉も正閏観の相違は別として、喜田新六の将来は世話をすると答えた、というのである(18)。

 残念ながら、平泉は、インタビューでこれがいつの出来事かを語らない。そのため、平泉の門下にあたる時野谷滋は、「この話は恐らく昭和七年ごろのことであったかと思われる」と推測する(19)。しかし、偶然にも同じ話が、森銑三(近世学芸史家)の自伝『思ひ出すことども』に見えており、注目に値する。次にその関係部分を引く。博士(筆者注、喜田貞吉)の令息新六さんが、東京大学国史科に入学した時のことである。博士は、国史科の主任教授であつた平泉澄博士の私宅へ、挨拶に出た。今度倅が、あなたに教はることになつた。よろしく指導願ひたいと、ただそれだけのことをいひに行かれたのであるが、論客だつた博士は、そのことをいひ出す前に、平泉博士と、南北朝正閏論に就いての議論を始めてしまひ、

互に意見を上下して果てしがなかつた。さうしてから、やつとその日訪問した用件を思出して、論争は何れ雑誌ででもゆつくりしよう。けふは倅のことで来たのだつた。どうか新六をよろしく。最後にそれだけいつて、博士は帰つて行かれたさうである(20)。

 森は、引用した文章の直後に「私はそのことを平泉博士から直接聞いて」と断り書きを付しているので、平泉の直話を記したということになり、信憑性はすこぶる高い。話の大部分は、先ほどのインタビューと重なるが、一点だけ独自の内容が見られる。それは、喜田と平泉の応酬が行なわれたのが、喜田新六が「東京大学国史科に入学した時のこと」であったという部分である。これは、逸話の背景を考えるうえで貴重な手掛かりを与える。

 問題の喜田新六が東京帝国大学に入学したのは、大正十五年(一九二六)四月のことである(21)。そうなると、時野谷滋の示した「昭和七年ごろ」という推測は、おのずと否定せざるをえない。そして、大正十五年は、まさしく平泉が南朝正統主義を公然と示した時期にあたる。憶測ではあるが、喜田貞吉が平泉の自宅を訪問したのは、同年十一月十九日に平泉が行なった「吉野朝の御理想」の講演内容を知ったことが契機ではなかったか。森銑三の『思ひ出すことども』では、喜田の訪問は、実子の指導を平泉に頼むことが目的であったように記すが、それは単なる名目に過ぎまい。

 戦時中に文部省図書監修官をつとめた中村一良の回想によると、中村が昭和十四年(一九三九)三月に監修官に就任してまもなく、喜田が職場を訪れ、「君がここに来たからには、直ぐとはいわないが、南北朝正閏論を再検討して、これを歴史教育に具現せよ」との「厳命」を中村に下したという(22)。喜田はこの年の七月三日に他界するので、これはまさしく喜田の遺言に他ならなかった。さらに、喜田は南北朝正閏問題の際に受信した激励文・脅迫状の類を一括し、終生これを大事に保管していた(23)。まさしく正閏問題は、喜田を懊悩させ続けたアポリアであったのである。それだけに、黒板勝美の後継者として官学アカデミズムの中枢に立ちつつあった平泉が、南朝正統論の新たな旗手として東京帝国大学で振舞ったことは、喜田の懸念を生じさせるに十分であった。

 こうしてみると、喜田の平泉邸訪問の背景には、喜田が抱いた危機感があったと考えざるをえない。そして、大正十五年(昭和元年、一九二六)の段階で、南北朝の正閏をめぐって喜田と平泉が激論を交えた事実は、同年が平泉史学にとって重大な転換期であったことを如実に物語る。若井敏明は、この時期の平泉が『神皇正統記』や近世勤王家の研究に着手したことを重視するが、平泉が南朝のイデオログーであった北畠親房の著作に注目を寄せた事実は、平泉史学における南朝正統主義の確立を踏まえてこそ、その意義が判然となる。

 また、平泉は、近世における勤王思想家で山崎闇斎学派をとくに重視するが、それは、闇斎とその門弟浅見絅斎が南朝を正統とし、楠木正成に対する感激を原動力として、国体を自覚したという理由からであった(24)。ゆえに、この点においても、南朝正統主義は重要な前提をなすのである。

 なお、平泉の著作に「吉野朝」の時代名称が見えるのは、昭和三年(一九二八)六月に出版された『日本歴史物語(中)』(日本児童文庫、アルス)あたりまでである。平泉が翌昭和四年八月に行なった「日本文化の発展」という講演では、「朝とは元来一つの王朝を指すもの」で、「我が国の如き万世一系の国体には幾つもの王朝があるべき筈がない」という理由から、「吉野時代」という名称を用いている(25)。「吉野時代」の名称については、平泉の高弟にあたる平田俊春も「奈良朝・平安朝・吉野朝などと云ひますと外国の歴史に於ける王朝の変革と混同しやすい傾きもあります(26)」と述べており、これは師説を祖述したものと考えられる。平泉史学における国粋主義的な傾向の強まりとともに、その時代区分論も国体論への綿密な配慮がなされていった。

 かくして、大正十五年(昭和元年)末に南朝正統主義を明示した平泉は、昭和期に入ると、『神皇正統記』や近世勤王家(とくに橋本左内)の研究を進め、顕彰事業に力を注いでいく。次に問題としたいのは、平泉がこれらの研究や顕彰事業に取り組む過程で、徳富蘇峰が密接に関わっていた事実である。まずは『神皇正統記』の研究から取り上げたい。

 

第三節 平泉澄の『神皇正統記』研究と徳富蘇峰

 平泉の『神皇正統記』研究は、古写本の探索から始まった(27)。大正十五年(一九二六)

十月、平泉は、東京帝国大学国史学科の修学旅行の際、水戸の六地蔵寺(六蔵寺)に赴き、大永八年(一五二八)書写の六地蔵寺本『神皇正統記』を求めて、帝大の学生とともに悉皆調査を開始した(28)。調査は昭和三年(一九二八)一月に終了し、多くの貴重な古典籍が出現したが、肝心の『神皇正統記』は発見されなかった(29)。そこで、平泉は六地蔵寺調査の記念とすべく、新出の『江都督納言願文集』五巻(大江匡房の文集)に校訂を加え、これを翌昭和四年十月に至文堂より出版している。

 注目すべきは、その出版直後に、蘇峰が『東京日日新聞』に紹介文を草して、平泉の仕事を「史の闕文を補ふのみならず、亦た好古篤学の士を嘉恵するの少小ならざるを感謝す可きものであらう」と賞賛したことである(30)。紹介文が新聞に掲載されるに先立って、蘇峰は平泉に紹介文を執筆することを書面で知らせたようであり、平泉は返信において深く感謝の意を表している(31)。

 平泉による『神皇正統記』研究の成果は、昭和二年(一九二七)六月の「神皇正統記研究」(『日本文学講座』第八巻、新潮社(32))を皮切りに、同書の成立過程を論じた「神皇正統記の成立(33)」、歴史思想の特徴について論じた「神皇正統記の内容(34)」および「愚管抄神皇正統記」(『史学雑誌』第四七編第九号(35))、諸本に関して書誌学的な考察を加えた「神皇正統記諸本の研究」(『史学雑誌』第四三編第九号)などの各論へと結実する。

 その中でも、昭和七年(一九三二)九月に発表した「神皇正統記諸本の研究」は、『神皇正統記』の写本十七種を系統的に分類した論考であり、山田孝雄の「神皇正統記諸本解説略

(36)」と双璧をなす貴重な基礎的研究である。その論文において、平泉は蘇峰の成簣堂文庫が所蔵する梅小路家本・登局院本の二本を紹介している。前者は室町中期、後者は室町末期の書写と推定される古写本であり、とくに前者は蘇峰が昭和三年一月二十日に、宮中において昭和天皇に進講した際に用いたものであった(37)。

 戦後、昭和二十五年(一九五〇)五月に、蘇峰が平泉に宛てた書簡(38)には、

過日ハ閑ニ任セ、史学雑誌ノ貴稿、正統記ノ高見ヲ、久々ニテ一読イタシ候。御品顧ニ上リシ成簣堂ノ二本モ、手許ヲ離レ、今更恋人ニ別レタル心地、御一笑可下候。

と見える。文中の「史学雑誌ノ貴稿」とは、右に取り上げた「神皇正統記諸本の研究」のことであり、蘇峰は晩年に平泉の論文を思い出して再読したことがわかる(39)。また、「御品顧ニ上リシ成簣堂ノ二本」については、平泉が、

神皇正統記、先生(筆者注、蘇峰)御秘蔵の二本、先生の好意を辱うして、史学雑誌(第四十三編第九号)に紹介した事があるが、それを拝借する為に山王草堂へうかがつた記憶は、まだ新たである(40)。

という説明を加えている。この回想によれば、平泉は、蘇峰から梅小路家本・登局院本を「拝借」して『神皇正統記』の写本研究を進めたことがわかるが、これは注目に値する。最晩年の蘇峰のもとで『近世日本国民史』(以下、『国民史』と略する)の口述筆記に携わった藤谷みさをによれば、蘇峰は他人に本を貸すことを極度に嫌ったようであり(41)、蘇峰が自らの読書遍歴やコレクションの形成について述べた『読書九十年』にも、「書物を他人に貸す者は馬鹿である、借りて返す者はなほ馬鹿である」という諺が引かれている(42)。これらを想起するならば、蘇峰が自らの蔵書を貸すというのは破格の待遇である。しかも、平泉が借覧したのは単なる新刊本ではなく、蘇峰秘蔵の古典籍であった。これは、平泉に対する蘇峰の信頼が、相当に篤かったことを物語る。平泉の写本研究が、蘇峰の好意によって促進した事実は見逃せない。

 ところで、蘇峰が平泉の『神皇正統記』研究を支援した理由には、平泉に対する好意もさることながら、さらに特別な背景があったと考えられる。第一章で見たように、蘇峰は『国民史』を織田信長の時代から起筆したが、当初は「建武中興」から起筆することを適当と考えていた。言うまでもなく『神皇正統記』は、南朝重臣であった北畠親房の著作であり、南北朝史にとって根本史料の位置を占める。おのずと蘇峰における『神皇正統記』への関心は他の群籍を抜くものがあった。蘇峰は、昭和五年(一九三〇)三月二十七日の熊本市公会堂における講演で次のように語っている。

不肖私は、昭和の御代に生れて、曾つて今上陛下(筆者注、昭和天皇)の御前に於いて、『神皇正統記』の或るところを御進講申上げたところの光栄を忝けなくしてをるものであります。私が『神皇正統記』を何故に御進講申上げた乎といふと外ではありません。この書物は日本の歴史の中に於いて、最も立派な歴史である。歴史家として頼山陽何者ぞ、新井白石何者ぞ、水戸光圀何者ぞ、凡有る日本の歴史家も我が北畠親房卿の前に立つと、みんな平身低頭しなければなりません。(中略)然るにこの書物を見れば実に偉いところがあります。日本の姿が日本の相がよく判つてをるのであります。第一にこの書物では「大日本は神国なり」といふことから書出して、我が国体を明らかにしてをるのであります。第二にはこの書物は仏教の思想も取入れて居る。儒教の思想は最も多く取入れて居る。神道の思想も取入れて居るのであります。(中略)北畠親房卿は実に所謂る凡てのことを解した偉大なる日本人であります。此の書物は日本の国内に於いては、南朝が正統であることを明かにし、世界に対しては日本が神国であるといふことを明らかにしたものである。(中略)私はこれらの書物を日本国民が持つてをるといふことは大なる誇りであると思ふ(43)。

 すなわち、蘇峰によれば、『神皇正統記』は、日本の神国たる所以を闡明した第一等の史書であり、『日本外史』を著した頼山陽、『読史余論』を著した新井白石、『大日本史』を編纂させた徳川光圀のいずれも、北畠親房には匹敵しないというのである。親房が『神皇正統記』に仏教・儒教神道などの諸思想を取り入れたという点については、『神皇正統記』における仏教思想や儒教思想の比重を低く見積もる平泉の見解(44)と異なるが、基本的な位置付けは軌を一にしている。平泉の研究に対して蘇峰が積極的に援助したのは、このような『神皇正統記』観の合致なくしては考えられない。

 また、蘇峰は、右の講演で「私は何れ遠からずこの書を出版して、世間の識者に問ひたいと思ふのである」と述べる(45)。この「出版」とは、前年の昭和四年秋に蘇峰の依頼を受けて山田孝雄が着手した『神皇正統記述義』を指すと考えられる。同書編纂の経緯については、蘇峰自身が、昭和五年(一九三〇)九月二十四日の新潟県新発田町小学校における講演で、次のように述べている。

私は北畠親房卿の『神皇正統記』の色々の本を集めて置きました。その中には北畠親房卿が書かれて百年もたゝない時代に筆写した本を持つて居ります。併し私は自分の書いて居る歴史(筆者注、『国民史』)が、維新に近い歴史でありますから、それを校訂して世の中に出すに就いて、私の友達の東北大学の先生をやつて居る山田孝雄君と相談して、「その方を貴下がやつてくれ」と頼みました。そこで山田君は只今頻りにやつて居ります。もう半分ばかり出来て、此方に出発する二日前に、山田君がその原稿を東京に持つて来られて、私に見せられた。何れ遠からず貴下方も御覧下さるであらう(46)。

 右の引用に見える「北畠親房卿が書かれて百年もたゝない時代に筆写した本」というのは、平泉が貸与されたうちの梅小路家本を指すが、蘇峰の説明によれば、蘇峰が『神皇正統記』の写本を所蔵していたのは偶然ではなく、同書の校訂本を出版する計画と密接に関係していたことが判明する。ただし、蘇峰は自らが南北朝の専門ではなかったことから、山田孝雄に編纂を依頼し、山田が従事することになったのである。山田が蘇峰の知己を得たのは、山田が昭和三年(一九二八)七月に蘇峰の成簣堂文庫の古典籍を閲覧したのが切っ掛けであり

(47)、それ以後、蘇峰は山田の研究を応援していた(48)。山田に『神皇正統記述義』の編纂を委ねたのも、その実力を見込んでのことであった。山田の超人的な努力で『神皇正統述義』の編纂は迅速に進み(49)、昭和七年(一九三二)十月、蘇峰ゆかりの民友社から八〇〇頁を超える大冊として刊行された。

 その直前の九月に、平泉が発表した論文が、先に取り上げた「神皇正統記諸本の研究」である。この論文では、「今年はいかなる年ぞ、神皇正統記の研究は、各方面期せずして競ひ起り、忽ちにして長足の進歩を遂げるやうになつた」という高らかな書き出しに続いて、同年二月に刊行された中村直勝の『北畠親房』(星野書店)と、翌月に刊行を控えていた山田孝雄の『神皇正統記述義』が挙げられている。平泉の言うように、昭和七年はまさしく『神皇正統記』研究において重大なエポックが画された年であったが、中村の著作は別として、平泉の論文と山田の著作の完成に、蘇峰が多大な援助を行なったことは重要である。同時期における『神皇正統記』をめぐる諸研究は、出発こそ「各方面期せずして競ひ起」った面があるにしても、蘇峰の協力なくして、「長足の進歩」はありえなかったのである。

 こうして見ると、先に引用した昭和二十五年(一九五〇)五月に、蘇峰が平泉に宛てた書簡において、戦後に『神皇正統記』の二種の古写本を手放したことに触れ、「今更恋人ニ別レタル心地」と述べたことも、単なる愛書家の痛惜として片付けることはできない。蘇峰の深い嘆息は、『神皇正統記』を傑出した史書として位置付けた彼の歴史思想と無縁ではなかったと考えられる。

 従来、『神皇正統記』の研究史を論ずるものは多いが、昭和戦前期に同書の研究が進展を遂げた背景を考える上で、徳富蘇峰の存在は注目されてこなかった。しかし、蘇峰が平泉澄山田孝雄による『神皇正統記』研究に種々の心配りを行ない、これに助力したことは重要な事実である。もちろん、そこに蘇峰の「皇室中心主義」が関係していることには一定の留意を要するが、蘇峰の『神皇正統記』研究に対する貢献は紛れもなく、この点は研究史上に正しく位置付けられねばならない。

 

第四節 平泉澄橋本左内研究と徳富蘇峰

 続いて、平泉による近世勤王家(とくに橋本左内)の研究、そして顕彰事業に、蘇峰がいかに関わったのかについて考察を加える。この問題を論ずる上では、平泉が関係していた景岳会という団体が関係するので、まずは景岳会の説明から始めたい。

 景岳会は、東京福井県人会の前身にあたる福井会と、福井県出身の学生育英機関である輔仁会の会員で構成された団体であり、明治三十五年(一九〇二)に設立された(50)。「景岳」とは、安政の大獄で処刑された橋本左内福井藩士)の号であり、景岳会では郷里の偉人である左内の顕彰事業を活発に行なっていた。平泉も福井の出身であったことから、大正十四年(一九二五)五月二日に小石川区金富町へ転居して輔仁会の舎監をつとめ(51)、翌大正十五年には、福井出身の矢板玄蕃とともに、景岳会の幹事に就任した。若井敏明は、平泉が近世の勤王家への注目を深めた契機として、彼の景岳会における活動を重視する(52)。

 景岳会における平泉の活動はめざましく、恒例であった墓前祭に加えて、大正十五年から新たに講演会の開催を企画し、その運営に携わった。また、平泉は、昭和六年(一九三一)七月に、景岳会会長の加藤寛治(もと海軍大将)や、会員の原田正(建築家)とともに、東京南千住にある橋本左内の墓を保護するため、套堂(さやどう)を造ることを企画し、恩師の黒板勝美や建築家の伊東忠太東京帝国大学教授)に助言を仰いでいる。套堂は、昭和八年五月に竣工し、七月一日に奉告式が行なわれた。この套堂建設は、同時期の黒板・平泉の師弟関係を考える上でも関心を引く。

 講演会の第一回にあたる大正十五年(一九二六)十月の講演会では、平泉自身が「橋本左内先生に就いて」という講演を行ない、その研究成果の一端を披露している。また、平泉は、昭和二年(一九二七)十月に開催された第二回の講演会の内容を、翌昭和三年に『景岳会講演集』第一輯として編集し、その刊行に尽力した。さらに、この年は、橋本左内の七十年忌にあたるため、景岳会では墓前祭・記念祭典・展覧会・講演会の四つを企画することになった。

 そのうちの講演会の講師として招かれたのが、他ならぬ蘇峰である。以下では、徳富蘇峰記念館に所蔵される「平泉澄書簡類」のうち、 ①昭和三年八月二十一日付、②同年十月十日付、③昭和七年七月十五日付、以上の三通を通して、平泉が蘇峰に講演を依頼した経緯、さらには蘇峰が平泉に示した期待について見ておきたい(53)。

 まず①は、平泉が大森山王草堂の蘇峰を訪問し、景岳会の講演を依頼した後に、自宅から速達で発信した書簡である。本章の第一節で先述したように、この書簡は、昭和三年九月十六日の第四回史学講演会の講師として招かれることについて、平泉が謝意を示したものである。平泉は、その礼を述べた直後に、昭和三年が特に橋本左内の七十年忌に当るため、盛大な講演会と展覧会を催すべく、蘇峰に講演を懇望したと記している。また、「一度御都合のよろしからざる趣拝承致しながら、いかにしても思切れ申さず」とあることから、これ以前にも、平泉は蘇峰に講演を依頼し、謝絶されたようである。

 しかし、平泉の思いは断ちがたく、「昨日新刊の雑誌「改造」の玉稿」を読むとともに、

「何とかして今一度御願申上度、切望の余り」、蘇峰に面会を願い、講演を懇望したという。ここに見える「玉稿」とは、当時蘇峰が『改造』に連載していた「維新回天史の一面―久邇宮朝彦親王を中心としての考察―」のことで、最新号にあたる第一〇巻第九号では、安政の大獄前夜の政局を扱うとともに、井伊直弼に対する蘇峰の論評が示されていた。平泉は、蘇峰の著作から受けた感銘を強調することで、再度蘇峰に景岳会での講演を願ったのである。

 さらに平泉は、書簡の末尾において、別便で『景岳会講演集』を蘇峰の手元に送ったことを記し、この上は蘇峰の都合で断られても、思い残すことはないと述べている。この速達郵便による熱意ある懇請に、蘇峰も断り切れず、ついに講演を応諾するに至った。

 十月六日、東京本郷の東京帝国大学仏教青年会館で展覧会が開催され、橋本左内の遺墨や幕末の福井藩関係者などの遺墨が展示された。会場には、岡田啓介・大久保利武・黒板勝美藤岡勝二佐佐木信綱ら多くの名士が参集したという(54)。

 続いて十月七日、東京小松原の回向院において、午前十時から橋本左内の墓前祭が行なわれた。そのあと、会場を東京帝国大学仏教青年会館に移して、午後一時から記念祭典が開催され、午後二時からは蘇峰による「橋本左内先生」という講演が行なわれた。講演の中で、蘇峰は、左内に対する同時代人の評価を多く引きながら、左内の天才性を強調し、安政の大獄による刑死を惜しんでいる(55)。講演の三日後の十月十日、平泉は②の書簡を蘇峰に送り、蘇峰が講演を引き受けたことに重ねて感謝するとともに、講演によって左内の真価が鮮やかに浮かび上がったと賞賛している。

 このように、平泉を中心とする景岳会が橋本左内の顕彰事業を進める上で、蘇峰が一定の役割を果たしたことが明らかとなった。これに関わって、③の書簡についても言及しておきたい。これは、講演の四年後にあたる昭和七年(一九三二)七月に平泉が蘇峰に宛てたものであるが、その中に見える、次の一節はすこぶる興味を引く。

帝大以外、何事にも関与せず候は、御答申上候通りに候へども、此事小生微力のいたす所なると共に、深く考ふる所有之。力を一つにして、帝大の学生の指導と研究とにそゝぎ度念願による事に候。而して、この決心に対し、之を激励せられたるは実に先生にして、昭和三年八月廿一日、御目にかゝり候ひし時、御懇篤なる御訓誡を忝うし候て、愈々此の決心を固め候事に御坐候。

 これによれば、昭和三年(一九二八)八月二十一日、蘇峰を訪問した平泉が、景岳会の講演を懇請した際、自らの学者としての「決心」について、蘇峰に語ったという。それは、東京帝国大学以外には何事にも関与せず、帝大の学生に対する指導と自己の研究に全力を注ぐというものであった。これを聞いた蘇峰は、平泉に激励と懇篤な訓誡を与え、これが平泉の気持ちを一層強固にさせたという。

 この平泉の「決心」は、帝大助教授としての職務に対する忠実さを表明したものかというと、そのような単純なものではなかったようである。平泉は、晩年の昭和四十六年(一九七一)四月に、福井市五岳楼で開かれた喜寿祝賀会の講話において、次のように語る。

私は東京帝国大学助教授、また教授として、それ以外の仕事に出る事を極度に警戒し、また嫌ってをりました。といふのは、自分の体は弱く、然も能力には限りがある。色々なことをやって良い結果が出るはずがない。東大の教授は当時、殆んど全部が他の私立大学の教授を兼ねて、いはば出稼ぎをして居りました。私はしませんでした。僅かの俸給に甘んじて専心学問をし、学問によって御奉公したいといふ考へでありました(56)。

 これによれば、東京帝国大学以外の私立大学に出講しないという平泉の考えは、国家に奉仕する学者としてのあるべき姿勢を模索する中で、導き出されたことがわかる。事実、平泉は、東京帝国大学の教員であった時代に、私立大学に出講したことはなかった。例外的に、大正十二年(一九二三)に東洋大学へ一年のみ出講したようだが、これは同年の「境野事件」(東洋大学で発生した紛擾事件)に関わって、東洋大学から黒板勝美に講師の相談があり、黒板の命で平泉が出講するという、特殊な事情があったためである(57)。

 およそ昭和初期の帝大教授の給料は安く、一般に私立大学に出講することが多かった。例えば、平泉にとって三歳年上の同僚であった出隆(哲学者)は、大正十三年(一九二四)十月に、東洋大学教授から東京帝国大学助教授に移ったが、その際に恩師の桑木厳翼から、助教授の初任給が少ないので東洋大学への出講も止めるなと助言を受けている。出は、桑木の助言に従ったが、東洋大学における専任教授給の消滅と受け持ち時間の減少により、結果的に月収が五十円ばかり下がった。そこで出は、昭和に入ると、立教大学早稲田大学にも出講することとし、加えて毎年、和歌山の高野山大学まで夏期の集中講義に出かけたという。こうして、出は糊口をしのげ、一家八人の食費と家賃をまかなえたのである(58)。

 この出隆の事例を参照すると、帝大以外の私立大学に出講しないという平泉の「決心」は、相応の覚悟を以てなされたことがわかる。そのため、平泉の生活は裕福とは言えない状況が続いた。例えば、助教授時代の昭和六年十二月から住んだ本郷区駒込曙町十二番地の住居は、平泉とその妻逸子にとって「最も気に入つた家」であったが、ある時に訪問した埼玉県の教育部長が、「先生の家、貧弱だといつて評判なので、見せて貰ひに来たのですが、なる程是れはお粗末ですね、我々の方で云へば、課長級の家ですね」と言った程度の住宅に過ぎなかった(59)。

 この逸話に照らしても、平泉の経済状況が、当時の帝大教員の平均よりも劣っていたことがうかがえる。すなわち、一意専心、学問を以て国家に奉仕すること、これこそ平泉が蘇峰に示した「決心」の真意であった。それゆえに、蘇峰も激励と訓誡を与えたのである。ここに、蘇峰の平泉に対する期待の高さを見て取ることができよう。

 本章では、徳富蘇峰平泉澄の関係が大正十五年(一九二六)に結ばれた端緒を、書簡や新聞記事に基づいて明らかにするとともに、同年の平泉が、黒板勝美の影響のもと、南朝正統主義の立場を鮮明にしたことを論じた。

 昭和期に入ると、平泉は『神皇正統記』の研究や、橋本左内の研究・顕彰事業に取り組むことになるが、平泉と同じ歴史観を持つ蘇峰は古写本の貸与や、景岳会への出講を通して、平泉への応援を惜しまなかった。とくに、平泉が景岳会主催の講演会に蘇峰を講師として招くべく、再三にわたって交渉を行ない、蘇峰に応諾させたことは興味深い。景岳会による橋本左内顕彰事業を契機として、二人の関係は次第に深まりを見せたのである。

 

第三章 注

1『山河あり(全)』(錦正社、二〇〇五年。初出一九五七年)一四七〜一四八頁。

2平泉澄「蘇峰先生の想出(下)」(『民友』第一三三号、一九七六年)一頁。

3平泉澄「蘇峰先生の偉大を偲ぶ」(『民友』第一一九号、一九七五年)一頁。

4和田守「徳富蘇峰と国民教育奨励会」(『大東文化大学紀要 社会科学』第五四号、二〇一六年)。

5『国民新聞』大正十四年九月二十日、三頁。京都大学附属図書館架蔵マイクロフィルムによる。

6この講演の内容は、平泉澄「日本文化の発展」(『学校教育』第一七巻第一一冊・第一二冊、

一九二九年)参照。

7徳富万熊については蘇峰の追悼文「国民新聞地方部長兼調査部長 德富万熊君の霊に諗ぐ」(『人物偶録』民友社、一九二八年。初出一九二四年)、万熊を記念する史学講演会の発足については『国民新聞』大正十四年九月四日、六頁広告参照。

8『国民新聞』大正十四年九月四日、六頁広告。

9『国民新聞』昭和三年九月十七日、八頁。

10平泉澄国史学の骨髓』(至文堂、一九三二年)所収。

11前注平泉著書所収。

12若井敏明「ひとつの平泉澄像」(『史泉』第八七号、一九九八年)四二〜四六頁、同『平泉澄』(ミネルヴァ書房、二〇〇六年)第二章第六節「国史を貫くもの」。

13『史学雑誌』第三八編第一号(一九二七年)「彙報 内国史界」九七〜九八頁参照。

14南北朝正閏問題当時の学界状況については、村田正志『南北朝論』(『村田正志著作集』第三巻 続々南北朝史論、思文閣出版、一九八三年。初刊一九五九年)一四七〜一四九頁参照。正閏問題については多数の研究があるが、最近の史学史的研究として、廣木尚「南北朝正閏問題と歴史学の展開」(『歴史評論』第七四〇号、二〇一一年)、同「黒板勝美の通史叙述」(『日本史研究』第六二四号、二〇一四年)などがある。

15渡邉剛「平泉澄博士「恩師」翻刻と解説」(『藝林』第六七巻第二号、二〇一八年)所収。渡邉によれば、平泉が「恩師」を執筆したのは、昭和二十二年(一九四七)のようである。

16注(13)に同じ。

17最近、渡邉剛は、黒板と平泉の南朝正統論の具体的内容について検討する必要を指摘している(注(15)前掲渡邉史料解説一一五〜一一六頁)。これに関して長文になるが、管見を述べておきたい。

 黒板の南朝正統論を、平泉との関係から考えようとする際に見逃せないのは、本文でも取り上げた、大正十一年(一九二二)五月の史学会例会における、黒板の「公家中興時代に就いて」という講演である。『史学雑誌』第三三編第六号(一九二二年)の「彙報」に掲載された要旨によれば、黒板は、後醍醐天皇南朝が「新時代の思想」である天皇親政を理想とし、院政武家政治を否定したと主張するほか、「公家中興時代」(建武政権期・南北朝時代のこと)の事蹟が後代の国民思想に刺激を与え、明治維新の成功をもたらしたと述べたようである。かつて黒板は、天皇の「絶対的主権」を、天皇親政のみならず院(上皇)による院政にも認め、鎌倉・南北朝時代では院政が常態であった史実を明確に認識していた(「所謂南北朝正閏論の史実と其断案」﹇『虚心文集』第二、吉川弘文館、一九三九年。初出一九一一年。初出時の論題は、「南北両朝正閏論の史実と其断案」﹈)。この段階の黒板には、院政に対する否定的評価は見いだせず、天皇親政に対する特別な意味づけは行なわれていない。しかし、「公家中興時代に就いて」では、黒板は天皇親政を積極的に意義付け、後醍醐・南朝の本質に結び付けている。これは、まことに重大な変化と言わねばならない。

 天皇親政を後醍醐・南朝の本質とする黒板の見解は、のちに『岩波講座 日本歴史』の一部である「皇家中興の大業」(前掲『虚心文集』第二。初出一九三三年)で一層深められる。そこでは、天皇親政が「肇国の精神、国体の真髄」という至高かつ根源的な位置に押し上げられるとともに、摂関政治院政武家政治の三者が「国体の神聖」を冒瀆した政治形態であったとされる。さらに、天皇親政の回復を目指した後醍醐の「皇家中興の大業」が、「先づ天皇中心で進まなければ到底天下の統一はできない」という「新しい思想」を成長させたとする。そして、信長・秀吉・家康による天下統一を経て、近世の古典研究が「皇室中心思想」を普及させたことが、明治維新の実現に結び付き、「明治維新は取りも直さず、後醍醐天皇の御理想が実現したものに外ならぬ」という結論が示されるのである。以上の所論は、黒板の主著『更訂 国史の研究』各説下(三訂版、岩波書店、一九三六年)第一章「皇家中興時代」にも取り入れられた。

 このような黒板の歴史把握は、言うまでもなく平泉が『建武中興の本義』(至文堂、一九三四年)前編第六章「院政の廃止」および第七章「幕府の否定」で展開した主張と合致しており、さらには蘇峰の『近世日本国民史』とも共鳴するものであった。南朝をめぐる黒板と平泉の歴史理解は、細部では相違を含むが、後醍醐天皇天皇親政を不可分なものとし、そこに国体の顕現を見出すという根本的な捉え方は共通している。ゆえに、黒板から平泉への継承関係は疑うべくもない。平泉が、摂関政治を理想とし、かつ武家政治を是認する慈円の『愚管抄』に酷評を加え、あるいは天皇不執政論に基づく美濃部達吉天皇機関説を論駁するのは、ここに淵源がある。

 今日の中世史研究では、公家政権の研究が進んだ結果、天皇親政と院政の同質性が認められている。その意味では、黒板の議論は、明治期の方がよほど中世の史実に配慮していたと評価できよう。黒板の学説の変化は、昭和戦前・戦中期の歴史学における中世天皇制、ことに院政の理解に重大なひずみを与えたと言わざるをえない。一九三〇年代の学界で、平安後期に譲位した後三条天皇院政開始の意思なしとし、白河院による院政が偶発的に誕生したとする解釈が有力になったのは、その最たるものであろう。この点については、河野房雄『平安末期政治史研究』(東京堂出版、一九七九年)「あとがき」に見える追憶が興味深い。また、美川圭『院政の研究』(臨川書店、一九九六年)序章「問題の所在」、同『後三条天皇』(山川出版社、二〇一六年)七六〜七九頁による学説史整理も示唆に富む。

 ちなみに、近年、注(14)前掲廣木尚「黒板勝美の通史叙述」は、黒板の主著『国史の研究』の初版(文会堂書店、一九〇八年)と再訂版(同上、各説の部、一九一八年)を比較する中で、黒板における「主権」の概念について論じている。廣木によれば、黒板は初版において皇室や公家のみならず、武家政権をも主権者に含めていたのに対して、南北朝正閏問題後の再訂版では、「主権」が皇室の院政天皇親政のみに帰属するとの主張に転換するという。興味深い説であるが、初版における「主権」の用例を通覧すると、廣木の挙げる例以外に、「勘定奉行は初めは台所と云ふやうな名称であつたが、固より其主・権・は家康(筆者注、徳川)自身が握つて居つたので」(八二一頁、傍点は筆者)のような、江戸幕府の一制度に関する説明にも見出せ、これは国政全体にかかわる権力の意味で使用したとは到底考え難い。してみれば、初版では「主権」が乱雑に使用されていると言わざるをえず、これを意識的に「主権」を用いる再訂版と比較することに、どれほどの有効性が見出せるか、はなはだ疑問である。

 一方、黒板が再訂版で「主権」という表現を使用するのは、鎌倉末期の両統による皇位継承の抗争を扱った「第十三章 公家中興時代の概観一」のうち「第二 関東討伐期」に集中する。この部分は、黒板自身の論文「南北両朝正閏論の史実と其断案」(前掲)を踏まえた加筆箇所であるが、中でも天皇親政と院政の関係性を論じたくだりに、「主権」が頻出するのは見逃せない。ここでの「主権」は、国政全体にかかわる権力だけではなく、むしろ皇位継承者を決定する権限を指して意識的に用いられている。さらに、その権限を掌握しうる存在は、天皇以外では治天の君たる上皇も含まれている。すなわち、再訂版では、院政を執る上皇が、親政を行なう天皇と並んで、皇位を決定する正当な主権者として評価されるのである。

 ところが、三訂版(前掲)になると、再訂版にあった天皇親政と院政の関係性を論じた箇所が大幅に刈り込まれ、「主権」の使用回数は再訂版に比べて格段に少なくなる。これは、先述したような、同時期の黒板が天皇親政を絶対化し、院政を「変態政治」として位置付けたことと連動している。ここにおいて、院政上皇)を親政(天皇)と並べて正当化した「主権」の概念は、その役割を終えたことになる。要するに、『国史の研究』において、黒板が「主権」を意識的に使用したのは「南北両朝正閏論の史実と其断案」を踏まえた再訂版に限られるのであり、用法の乱雑な初版、使用の意義を失った三訂版と同列に論ずることはできないのである。

18「東京大学旧職員インタビュー(三) 平泉澄氏インタビュー(五)」(『東京大学史紀要』第一七号、一九九九年)一一七〜一一八頁、平泉澄『この道を行く』(平泉洸、一九九五年)一四二頁。

19時野谷滋「寒林子先生の名文と名訳」(『大欅集』窓映社、二〇〇〇年。初出一九九六年)三八五頁。

20森銑三『思ひ出すことども』(中央公論社、一九七五年)五五頁。

21喜田新六の経歴については、田中久夫「喜田新六先生略伝」(『歴史地理』第九一巻第二号、一九六五年)参照。

22中村一良「来し方」(『お茶の水史学』第一五号、一九七三年)六頁。

23徳島大学附属図書館に所蔵される「喜田貞吉関係資料」には、南北朝正閏問題の際に喜田に寄せられた封書四十四通(うち二通は未開封)、葉書十二通、合計五十六通が残る。なお、「喜田貞吉関係資料」については、川合一郎「喜田貞吉の歴史地理学」(『人文地理』第六三巻第五号、二〇一一年)に詳しい。

24このような主張が見えるのは、「歴史を貫く冥々の力」( 注(10)前掲平泉著書。初出一九二八年)、「我が日本の今日ある所以」(『専売協会誌』第二〇二号〜第二〇五号、一九二九年)が早い。

25注(6)前掲平泉講演録(『学校教育』第一七巻第一一冊)二五四頁。

26平田俊春「吉野時代の原理」(『吉野時代の研究』山一書房、一九四三年)一六〇頁。

27以下、平泉の『神皇正統記』研究については、苅部直「歴史家の夢」(『秩序の夢』筑摩書房、二〇一三年。初出一九九六年)二八八〜二八九頁、注(12)前掲若井論文、仲田昭一「平泉澄博士と神皇正統記」(『藝林』第五二巻第二号、二〇〇三年)も参照。

28平泉による六地蔵寺調査については、平泉自身が著した「六蔵寺本整理の意義」(『日本』第四三巻第三号〜第四号、一九九三年。初出一九二八年)、「江都督納言願文集発刊の由来」(注(10)前掲平泉著書。初出一九二九年)のほか、前注仲田論文も参照。

29なお、六地蔵寺本『神皇正統記』は、平成三年(一九九一)に、茨城県東茨城郡常北町教育委員会所有文書群から発見される。この発見の経緯については、新田英治「六地蔵寺本『神皇正統記』の発見に寄せて」(『茨城県史研究』第七二号、一九九四年)に詳しい。

30『東京日日新聞』昭和四年十一月十日、夕刊一頁「日日だより 江都督納言願文集」。のちに徳富蘇峰『書窓雑記』(民友社、一九三〇年)所収。

31昭和四年(一九二九)十月二十八日付「平泉澄書簡」(徳富蘇峰記念館所蔵)。

32田中卓編『平泉博士史論抄』(青々企画、一九九八年)所収。

33平泉澄『武士道の復活』(至文堂、一九三三年)所収。

34前注平泉著書所収。

35平泉澄『伝統』(至文堂、一九四〇年)所収。初出一九三六年。

36山田孝雄神皇正統記述義』(民友社、一九三二年)所収。

37前注山田著書七三六頁。

38昭和二十五年(一九五〇)五月九日付「徳富蘇峰書簡」(平泉澄「徳富先生の書翰(上)」﹇『日本』第二〇巻第九号、一九七〇年﹈第八号)。

39なお、徳富蘇峰記念館に所蔵される蘇峰の旧蔵本には、該論を収める『史学雑誌』第四三編第九号が含まれるが、その表紙の目次中、平泉の論文題目に赤線が引かれている。

40注(38)前掲平泉史料紹介八頁。

41藤谷みさを『蘇峰先生の人間像』(明玄書房、一九五八年)一二九〜一三〇頁参照。

42徳富蘇峰『読書九十年』(大日本雄弁会講談社、一九五二年)七九頁。

43徳富蘇峰国史上に於ける維新史の考察」(『史境遍歴』民友社、一九三二年)一四四〜一四六頁。

44平泉澄神皇正統記の内容」( 注(33)前掲平泉著書)参照。

45注(43)前掲徳富講演録一四六頁。

46徳富蘇峰「歴史と国民教育」( 注(43)前掲徳富著書)三二一〜三二二頁。

47蘇峰と山田孝雄との関係の発端については、山田の「成簣堂の秘籍を覧る」(『典籍説稿』西東書房、一九五四年。初出一九二八年)参照。

48蘇峰が自らの山田孝雄観について示したものに、「学閥に於ける無縁の学者」(注(

30)前掲徳富著書)がある。

49徳富蘇峰記念館に所蔵される、昭和五年(一九三〇)七月十六日付「山田孝雄書簡」からは、山田が『神皇正統記述義』の編集を油断なく進めている旨、蘇峰に連絡していることが知られる。なお、『神皇正統記述義』については、同書の序文のほか、山田孝雄「「北畠親房公の研究」を読む」(『神道史研究』第三巻第二号、一九五五年)も参照。

50以下、景岳会の関係の内容については、山田康彦編『景岳会小史』(景岳会、一九三五年)参照。

51「平泉澄先生の住所移動(引越)表」(注(18)前掲平泉澄『この道を行く』)参照。

52注( 12 )に同じ。

53このうち、①については、すでに所功徳富蘇峰終戦半年後の皇室論」(『日本』第六三巻第一一号、二〇一三年)が、その一部を紹介している。

54注(50)前掲『景岳会小史』五三頁。なお、黒板勝美の同日の日記にも関係する記載が見える(「昭和二、三年日記」﹇黒板勝美先生生誕百年記念会編『黒板勝美先生遺文』吉川弘文館、一九七四年﹈二七四頁)。

55蘇峰の講演は、平泉澄編『景岳会講演集』第二輯(景岳会、一九二九年)に収録されるほか、「橋本景岳先生」と改題の上、蘇峰の『時勢と人物』(民友社、一九二九年)にも所収された。

56「五嶽楼之記」(木島正章『続 不懼記』木島正人、一九八七年)八七頁。

57「東京大学旧職員インタビュー(三) 平泉澄氏インタビュー(三)」(『東京大学史紀要』第一五号、一九九七年)六四〜六五頁、注()前掲平泉澄『この道を行く』四〇〜四一頁。なお、東洋大学編『東洋大学創立五十年史』(東洋大学、一九三七年)第四章「学制」第九節「教授、講師」の「旧職員」の一覧に、平泉の名が見える(三二六頁)。

58以上は、『出隆著作集』第七巻 出隆自伝(勁草書房、一九六三年)二八九〜二九二、三五〇〜三五三頁。なお、帝大教員の給与水準が生活最低限度に近かった事実は、岩田弘三「アカデミック・キャリアと学位」(『近代日本の大学教授職』玉川大学出版部、二〇一一年。初出一九九二年)でも指摘されている。

59平泉澄著、平泉洸・平泉汪・平泉渉編『家内の想出』(平泉渉、一九八三年)二一頁。なお、曙町の住居とそこでの生活については、平泉の『悲劇縦走』(皇學館大学出版部、一九八〇年)一二〇〜一二二頁や、「曙町」(平泉澄著、平泉洸・平泉汪・平泉渉編『続銀杏落葉』平泉洸、一九八九年)に詳しい。

 

第四章 安政大獄志士七十年祭と平泉澄

 昭和戦前期における徳富蘇峰平泉澄の関係を考える上では、昭和四年(一九二九)十一月に、東京青山会館で行なわれた安政大獄志士七十年祭を逸することができない。本章では、この七十年祭に際して、蘇峰が企画した安政大獄関係志士遺墨展覧会と追悼講演会を取り上げる。

 近年、明治後期から昭和初期にかけての勤王志士顕彰活動に注目した髙田祐介は、その推進主体であった田中光顕(伯爵、土佐出身、もと宮内大臣)による勤王志士の遺墨収集と、田中の知己であった蘇峰の企画で開催された遺墨展覧会(国民新聞社主催)とが密接に関係していたことを明らかにした。また、髙田は、蘇峰が企画した遺墨展覧会の端緒である明治四十三年(一九一〇)一月の維新志士遺墨展覧会に注目し、日露戦争後の社会状況を憂えた蘇峰が、維新志士の精神を復活すべく、遺墨展覧会を開催したことや、田中が多数の遺墨を出展したことを指摘している(1)。

 髙田の研究は参考となるが、蘇峰の企画した一連の遺墨展覧会では、最後の開催となった昭和四年(一九二九)十一月の安政大獄関係志士遺墨展覧会(青山会館主催、東京日日新聞後援)も重要である。それは、この折の蘇峰の意気込みがきわめて高く、祭典を行なって志士の霊を慰めるとともに、その遺墨を広く全国から集めてこれを展観し、さらに記念講演によって志士の勤王の志を顕彰するという、大規模な催しが周到に計画されたからである。

 また、注目すべきは、東京帝国大学助教授であった平泉が、蘇峰の懇請を受けてこの遺墨展覧会に協力するとともに、蘇峰に代わって追悼講演会の講師をつとめた事実である。すなわち、この安政大獄志士七十年祭の遺墨展覧会と追悼講演会には、蘇峰と平泉の協力に基づく、王政復古史観のプロパガンダとしての性格を看取できるのであり、戦時体制下における明治維新観への一里塚としても見逃せない(2)。

 以下、本章では、遺墨展覧会と追悼講演会の考察を通して、蘇峰と平泉の協力関係や、会場における平泉と高松宮宣仁親王田中光顕との邂逅について論ずる。さらに、平泉の講演内容にうかがえる井伊直弼観を、明治期の三上参次の所論と対比することで、史学史上に位置付ける。まずは、蘇峰の井伊直弼に対する評価を、明治期に遡って概観したい。

 

第一節 徳富蘇峰における井伊直弼観の変化

 そもそも安政の大獄とは、安政五年(一八五八)から同六年にかけて、江戸幕府大老であった井伊直弼が、尊攘運動に対して行なった大弾圧である。これは、日米修好通商条約の無勅許調印や、将軍継嗣の強引な決定への猛烈な反対を押さえることが目的であり、反対派の公卿・大名を隠退させ、開明的な幕吏を罷免し、志士百余名を検挙処断した。このとき死罪に処せられた中に、橋本左内福井藩士)や吉田松陰長州藩士)がいたことは知られている。

 条約調印や大獄を果敢に断行した井伊については、今日でも評価が分かれるが、とくに明治期から昭和戦前期にかけて、その評価をめぐって激しい論争が行なわれた(3)。明治二十一年(一八八八)三月に、島田三郎(立憲改進党員)が刊行した『開国始末』(輿論社)は、最初の本格的な井伊直弼伝として知られているが、井伊を開国の功労者として高く評価するとともに、幕末に展開された尊攘運動に疑問を投げかけている。しかし、島田による弁護論への批判は激しく、薩長や水戸の関係者は、大獄を引き起こした井伊の罪科を指弾してやまなかった。この軋轢は、明治四十二年(一九〇九)の横浜開港五十年祭に併せて、井伊の銅像が建設された際に、薩長藩閥の元老が抗議を行なったことを契機として、政治問題にまで発展した(井伊直弼銅像問題)。その結果、政府による維新史料編纂事業が開始されることになる(4)。

 若き日の蘇峰は、島田三郎とも交流があったため、『開国始末』の成立にも関係していた。明治二十年(一八八七)十月、『開国始末』を執筆中の島田は、井伊直弼が暗殺された桜田門外の変に付け加えて、暗殺行為の非を叙述すべく、幕末期に暗殺された著名人の最期について調査を行なった。その折に島田は蘇峰にも書簡を送り、蘇峰の父一敬の師にあたる横井小楠の暗殺事件について問い合わせている(5)。蘇峰は島田の質問に対して詳細に解答したようであり、『開国始末』の四三六頁から四三八頁にかけて、横井小楠が暗殺された経緯が記されている(末尾に「徳富猪一郎説話」と明記)。

 また、島田は『開国始末』の出版に先立って、その原稿二冊を印刷して多くの知友に配布し、彼らから寄せられた批評を刊本本編の末尾に付載したが、その五一二頁から五一四頁には、蘇峰の批評も収められている。蘇峰はこの批評で井伊直弼を「日本開国ノ歴史ニ於テ、第一流ヲ占ムルノ人物」と位置付け、島田を直弼にとっての「真実ナル雪冤者」として評価し、クロムウェルとカーライルの関係に比した。

 『開国始末』の例以外にも、同時期の蘇峰が佐幕派に理解を示していたことは、福地源一郎(旧幕臣、号は桜痴)に対して、民友社の雑誌『国民之友』に、佐幕派から見た維新史というべき『幕府衰亡論』を連載執筆するよう慫慂したことから一層明らかとなる(6)。福地の『幕府衰亡論』は、明治二十五年(一八九二)十一月の連載終了後、ただちに翌十二月に民友社より一冊本として刊行された。福地の意見は、島田の『開国始末』よりも客観的だが、安政の大獄については、藩閥政府的な評価とは異なり、井伊の処断を酌量する節が見られる(第十一章「京都の大獄」)。また、桜田門外の変井伊直弼を暗殺した水戸浪士を「暴徒」や「行兇者」と呼んでいることも目を引く(第十三章「桜田変後の形勢」)。福地の著作を民友社から出版した事実は、明治二十年代前半における蘇峰の歴史観の柔軟さを物語っている。

 しかし、その後、蘇峰が、幕末の故老達による井伊直弼への論評を読み、かつ諸史料に基づいて維新史の検討を進めるうちに、彼の井伊直弼観は次第に厳しくなる。昭和三年(一九二八)三月の水戸志士遺墨展覧会に際して、蘇峰は「維新回天の偉業に於ける水戸の功績」という講演を行なったが、そこでは井伊を「天下の安危を双肩に担つて行く大政治家としては、感心すべき人ではありませぬ」と評するとともに、安政の大獄吉田松陰橋本左内らを殺したことを強く批判している(7)。これは蘇峰の明治維新観が、王政復古史観を基軸とするものに変化したことに、通底するものであった(8)。

 そして、蘇峰は、昭和七年(一九三二)に、かつて『開国始末』に寄せた自分の批評を回顧し、「当時二十六歳の少壮記者たる予が、島田三郎君の『開国始末』の為めに、誤られたることの少小でなかつた」と述べ、「予が年少不学にして、それを軽信したるを、今日に於て遺憾とする」と告白している(9)。かくして、峰の井伊直弼観は、見事な逆転を遂げるに至った。

 一方、平泉の明治維新観は、安政大獄志士七十年祭が行なわれた直後の昭和四年(一九二九)十一月に発表された、「日本史上より観たる明治維新」(史学会編『明治維新史研究』冨山房(10))において端的に示されている。それは、大正末期から澎湃として勃興していた明治維新を革命と理解する唯物史観系の動向を強く批判し、南朝への回顧を原動力とする勤王思想の作用を高く評価するものであった。それだけに、平泉の佐幕派に対する評価は厳しく、とりわけ、彦根(井伊家)・会津松平家)・桑名(松平家)・小浜(酒井家)などの溜りの間詰の譜代大名は、幕末期の政局で、王政復古を食い止めようとした強力な抵抗者として位置付けられた(11)。そして、平泉は、彦根藩主たる大老井伊直弼が、安政の大獄において幾多の志士を捕らえたことを暴戻と断じ、橋本左内吉田松陰らの刑死を惜しんでやまなかった(12)。このような平泉の井伊直弼観の占める史学史的位置については、第四節において後述したい。

 以上の概観から、蘇峰と平泉の安政の大獄観は一致しており、両者が安政大獄志士七十年祭において協力する上で、重要な前提をなしたことが明瞭となる。また、平泉は、最晩年の昭和五十七年(一九八二)に行なった「恩人」という講演において、次に橋本景岳先生に就いて、その偉大なる事、前後に比類なしといふ事を、明確に認識し、且つ極めて大胆に表明せられたのは、徳富蘇峰先生であります。それ故に私は、徳富先生を恩人として、ここに御紹介申上げたいと思ひます(13)。と述べており、平泉が蘇峰を「恩人」として仰いだ理由として、橋本左内を高く評価した蘇峰の態度が関係していたことがうかがえる。

 さて、右に示した平泉の講演「恩人」は、昭和四年(一九二九)十一月の安政大獄志士七十年祭に関する詳細な回想を含んでいる(14)。次節では、この「恩人」を主たる材料とし、新聞記事や参加者の日記などにも目を配りながら、蘇峰が企画した安政大獄関係志士遺展覧会と追悼講演会について、つぶさに見ていきたい。

 

第二節 安政大獄関係志士遺墨展覧会と追悼講演会

 平泉の「恩人」によれば、彼が蘇峰の企画による安政大獄関係志士遺墨展覧会と追悼講演会に関係したのは、次のような経緯があった。すなわち、安政の大獄は、安政五年(一八五八)から同六年にかけて起きた事件であり、五年をとれば昭和三年(一九二八)が七十年、六年をとれば昭和四年が七十年となる。当初、蘇峰は昭和三年に七十年祭と記念の遺墨展覧会・追悼講演会を挙行する考えであったが、平泉の景岳会がこの年に種々の企画を行なったので、遠慮して一年延ばすことにした。蘇峰は、翌昭和四年に入って、平泉に電話で以上の事柄を説明し、その年の秋に七十年祭を催すので平泉の協力を願うと述べ、平泉も快諾したという。

 右の回想以外にも、昭和六年(一九三一)十二月に発刊された『景岳会講演集』第三輯(景岳会)の「はしがき」(平泉執筆)には、「只昭和四年度に於いては徳富蘇峰先生が安政大獄志士追悼の大講演会及び遺墨展覧会を青山会館で開かれました為、本会は特に講演会を開かず、之を後援する事と致しました」と見える。よって、平泉の蘇峰への協力は、個人的な協力に止まらず、景岳会の後援という性格も含んでいたと見られる。

 青山会館別館を会場とする遺墨展覧会は、十一月一日から五日までの五日間にわたって開催された(15)。展示品の詳細については、展覧会にあわせて発行された『安政大獄関係志士遺墨展覧会陳列目録』(青山会館、一九二九年)や、これに基づいて編纂された青山会館編『安政大獄関係志士遺墨集』(巧芸社、一九三〇年)で知ることができる。

 平泉によると、遺墨展覧会の会場には安政の志士の遺墨が多数陳列されたが、志士によって展示に差がつけられたという。すなわち、一階では志士一人につき一点または二点に限定して展示したが、二階では梅田雲濱・頼三樹三郎吉田松陰らについて一人あたりおよそ二十点を展示し、橋本左内については全国的に収集した遺墨を展示したという(16)。平泉はこの展示方針に、橋本左内を重んずる蘇峰の見識を看取している。前掲の『陳列目録』を見ると、橋本左内に関わる展示品は最多数の三十五点を数えるので、平泉のいうように、蘇峰が左内を高く評価したことは疑いない。

 遺墨展覧会と両翼の企画であった追悼講演会については、青山会館大講堂が会場と定められた。当初、蘇峰自らが「安政戊午の大獄に就て」という講演を行なう予定であったが、蘇峰の急病によって、藤井甚太郎(文部省維新史料編纂官)と平泉の二人が代理をつとめることになった。

 平泉の回想では、追悼講演会の日時を、遺墨展覧会の最終日にあたる十一月五日の夕方六時からとする。しかし、これは平泉の記憶違いで、当時の新聞記事や参加者の日記によれば、追悼講演会は遺墨展覧会の初日にあたる十一月一日に行なわれたとするのが正しい。また、平泉によれば、講演会当日の午前中に蘇峰の秘書(並木仙太郎か)から電話がかかり、蘇峰が急病を患ったので、藤井、平泉の順番で代理をつとめるよう依頼があったという。しかし、蘇峰宛の昭和四年十月二十八日付「平泉澄書簡」(徳富蘇峰記念館所蔵)には、蘇峰の病臥を承知した旨の記述に続いて、以下のような内容がしたためられている。先刻、青山会館より電話有之。万一先生(筆者注、蘇峰)の御病気、一日に至つても快癒なき時は、藤井氏(筆者注、藤井甚太郎)と共に小生に代理を命ぜられ申候。これはいかにも僭越の事に候へども、事情やむを得ざる儀と存じ、拝承仕り候。但し、もし先生少しにても御快癒有之、一寸にても演壇に御登り相叶ふ時は、藤井氏の講演の後に、しばらく御講演願上度、さやうの折は、小生を御除き被下度候。この辺、小生に対しては、自由に御考へ被下度、もし御都合叶はざる時は、小生いつにても一時間位は、分担仕るべく、もし御都合相叶ひ候時は、小生に御かまひなく、小生を御やめ被下度、一に先生の御都合により御計ひ被下度候。小生としては、昨年景岳会の御恩に酬ゐんの所存に有之。この心、御諒承被下度候。

 右の書簡によれば、平泉が講師の代理を依頼されたのは講演会当日ではなく、その四日前の十月二十八日であるので、その記憶はやや不正確であることがわかる。当日に電話があったとすれば、それは蘇峰の病状が快癒しないので、藤井・平泉らの代講を確定したという連絡であろう。また興味深いのは、平泉が蘇峰の代理をつとめることを「僭越」と記し、蘇峰が快癒すれば、藤井の後に講演をされればよく、その折は自分を除いて下さってもよい。自分はひとえに蘇峰の都合に従うと述べていることである。この丁重な態度は、平泉自身が末尾に記すように、蘇峰が前年の景岳会の講演を引き受けた恩に酬いたいという気持ちに基づくと考えられる。なお、蘇峰と親交のあった三田村鳶魚の日記(17)を見ると、同じ十月二十八日の記事に、「民友社に往く、蘇峰翁三四日所労引籠、此頃の旅中に過食のため云々」とあるので、蘇峰の病臥は、実は旅行中の食べすぎが原因であったようである。

 十一月一日、午後六時から開始した追悼講演会では、平泉は、藤井甚太郎とともに講演を行なった。最初は藤井による「安政大獄に就て」、次は平泉による「橋本左内に就て」である。また、講演会の後には、映画「尊王攘夷」(日活。監督池田富保、山本嘉一・大河内伝次郎ら出演)が上映された。三田村鳶魚の同日の日記を見ると、「青山会館に往く、蘇峰翁病気にて講演も平泉、藤井両氏といふに聞かで帰る」とあり、講師の交替が公表されたのは、当日のことであった。ただし、鳶魚のように会場から出た人はごく少数であり、『東京日日新聞』は、来聴者を千五百人と報道している(18)。

 この参加者の多さは、入場が無料であったことや、講演の後に映画が上映されたことと無関係ではないと考えられるが、平泉の回想には、映画上映の件がまったく触れられない。これは、近所の住人から毎月映画館の入場券をもらっても一度も行かず(19)、また名優栗島すみ子や大川橋蔵の名前さえ知らなかった(20)という平泉の逸話を想起すると、ある意味で当然とすべきかもしれない。一方、憶測であるが、遺墨展覧会と追悼講演会にあわせて、幕末を舞台とした「尊王攘夷」が上映されたのは、勤王志士の認知度を高めるべく、映画という新たなメディアを利用しようとした、蘇峰のアイデアであった可能性がある。このような遺墨展覧会と映画上映の組み合わせは、昭和期における幕末をめぐる歴史意識の形成を考える上で興味深い素材となろう。

 続いて、追悼講演会の内容に踏み込みたい。最初に講演を行なった藤井甚太郎は、明治四二年(一九〇九)七月に東京帝国大学文科大学史学科国史学専修を卒業した人物であり、平泉にとってはかなり上の先輩にあたる。藤井は、大学卒業後に渋沢編纂所で『徳川慶喜公伝』の編纂に従事し、これを切っ掛けに維新史を専攻した。大正三年(一九一四)三月に文部省維新史料編纂会事務局に入って以降、昭和二十年(一九四五)三月まで維新史料の採訪・編纂・刊行に携わるほか、京都帝国大学文学部で明治維新史を講じている(21)。

 平泉は、藤井の講演を後方の控室で聴いたが、藤井が安政の大獄における井伊直弼の処断を弁護するので驚いたという。来聴者には大獄の志士の子孫や関係者もいたため、藤井の井伊弁護論は会場に緊張をもたらし、その空気は、すこぶる重苦しいものが生まれたようである。藤井の講演の具体的内容は不明であるが、おそらく井伊家の提出本『公用方秘録』などを用いて、井伊に同情的な評価を与えたのであろう。平泉によれば、藤井の講演に興奮した来聴者を見た矢板玄蕃(景岳会理事、下野銀行専務取締役)は、平泉の講演の際に来聴者が平泉に暴力を振うことを懸念し、二階から降りて一階の演壇に近づき、得意の柔道で平泉を護ろうとしたという。ただし、当日の来聴者であった岡部長景(内大臣秘書官長兼式部次長)や金沢春友(福島県郷土史家)らの日記(22)には、会場に不穏な空気がみなぎっていたことは見えない。

 やがて壇上に立った平泉は、「橋本左内に就て」という題目で、講演を行なった。この講演の覚書は、後に「橋本景岳先生」という題で、蘇峰の古稀記念の出版物『知友新稿』(民友社、一九三一年)に寄稿されている。これによれば、平泉は、橋本左内開明的であった一方、「日本固有の美徳」を喪失せず、洋学に惑溺しなかったことを指摘するとともに、積極的な開国策と、その準備としての国政改革策を立案した左内の見識を称揚する。そして、安政の大獄で左内を喪ったことを、日本にとっての「一大損失」と結論している。平泉による左内の顕彰は、安政の大獄で斃れた志士を追悼するという講演会の趣旨を再確認させ、会はつつがなく終了を迎えた。平泉は、藤井、自分の順番で講演を組ませた蘇峰の洞察に深く敬服している。

 この講演の内容については、なお付け加えるべきことがある。それは、平泉が、安政三年(一八五六)四月二十六日に、橋本左内中根雪江福井藩重臣)に宛てた書状(23)を取り上げた点である。この左内の書状は、藩校明道館の教育振興に当らせるため、左内に帰国を命ずる藩命に対して、福井藩の政治方針について時務策を述べたものである。その内容は多岐にわたるが、日本は他国と異なり「革命」が起きず、時代の変化による政策の変化はあっても、「国是」については、神武天皇以来、何の変化もあるべきではなく、忠義の精神と尚武の気象こそ、「皇国の国是」であることを説く。さらに、これら二つの要素が、日本を中国や西洋よりも上位に位置付けさせると論じている。平泉は、この左内の国是論を、吉田松陰の『講孟剳記』開講の辞と符合するものとし、「共に直截簡明に日本人の行くべき道を指示したもの」として、高い評価を与えた。

 この左内の国是論は、その後の平泉の著作において頻繁に利用されていく。例えば、平泉が昭和八年(一九三三)七月に、辛未同志会で講演した「維新の原理(24)」は、明治維新を革命とみなす傾向を強く批判し、革命の本質を「国家組織の全然の破壊、歴史伝統の否定」であると論じたものであるが、左内の国是論を自説の有力な論拠とし、左内の精神的源流に山崎闇斎を位置付けている。同様の論旨は、昭和九年(一九三四)三月に、文部省思想局より発行された思想問題小輯第六輯『革命論(25)』にも確認できる。

 さらに見逃せないのは、左内の国是論が、戦後の平泉による日本国憲法批判にも用いられた事実である。平泉は、昭和二十九年(一九五四)六月三十日に、自由党憲法調査会(会長は岸信介)の招きを受け、首相官邸で「日本歴史の上より見た天皇の地位」と題する講演を行なった(26)。この講演は、日本の国体の本義を天皇親政に求め、民主主義をもたらした日本国憲法の破棄と明治憲法の復活を説くなど、戦後における平泉の国体護持史観を直截に表現したものであった(27)。その中で、平泉は国是論の一節を引用し、「国是」を現代の憲法や国家の大方針という意味に当てはめつつ、新憲法を痛烈に批判したのである。

 このように、平泉は、左内の尊王論を強調し、左内を吉田松陰と同じ位置に置くが、実際のところ左内の思想には、松陰ほど天皇の伝統的・神秘的尊厳性を絶対視する傾向はなく、天皇よりも天下を重視する考えを抱いていたことは、のちに山口宗之が明らかにしている

(28)。その意味で、平泉による国是論の利用の仕方は、左内の思想から断片を切り離して過剰な評価を加えたものと言わざるをえないが、国是論は平泉の国体論や革命否定論における理論的根拠として重要な意味を持ち続ける。そして、平泉が国是論に注目した嚆矢が、安政大獄志士七十年祭の講演であったことは興味深い。若井敏明は、平泉の国粋主義的思想が、一九二〇年代後半の時期に理論化を遂げたという見通しを示したが(29)、筆者はここにその具体例を見出すのである。

 

第三節 平泉澄高松宮宣仁親王田中光顕との邂逅

 さて、平泉は、安政大獄関係志士遺墨展覧会と追悼講演会において、二人の貴顕と重要な邂逅を果たすこととなる。その二人とは、高松宮宣仁親王(以下、高松宮と略する)と田中光顕である。高松宮は、昭和天皇の弟宮で、平泉がその生涯を通して重大な政治的関係を持ち続けた皇族である。また、田中光顕は、土佐出身の維新志士の生き残りで、平泉の記憶に鮮烈な印象を刻んだ老伯爵であった。本節では、平泉と彼ら二人との邂逅に焦点を当てたい。まず、高松宮から取り上げる。

 

(a)高松宮宣仁親王との邂逅

 先述したように、遺墨展覧会は、十一月一日から五日までの五日間にわたって開催された。高松宮が展覧会を観覧したのは、四日目の十一月四日である。『高松宮日記』の同日条(30には、「一時、青山会館に安政大獄志士遺墨展を見にゆく。二時半かへる」と見え、会場には一時間半ばかり滞在したことがわかる。来場した高松宮に対して、展示解説を行なったのは平泉であった。平泉の自歴年譜である『寒林年譜』(私家版、一九六四年)昭和四年条には、「是秋 徳富先生(筆者注、蘇峰)主催安政大獄志士七十年記念講演会及展覧会。先生病中にて代講す。高松宮殿下に拝謁、御説明申上ぐ」と特記されている。

 本章で幾度も取り上げている平泉の「恩人」によれば、高松宮が観覧する前日に、蘇峰の秘書(並木仙太郎か)より平泉に電話がかかり、高松宮が翌日に観覧することを伝えるとともに、病気で臥床中の蘇峰に代わって、平泉が高松宮への展示解説を行なうよう、依頼があったという。これに対して、平泉は、安政の大獄で処罰を受けた人々の一々について調べていないと答えたところ、蘇峰は橋本左内ただ一人の説明で良いとし、他の志士の説明は全て別の学者に頼むと述べた。そのとき平泉は、遺墨展覧会の全体の構想、蘇峰の本意を承知したという。

 十一月四日、青山会館で高松宮を迎えた平泉は、橋本左内の遺墨を展示した場所で解説を行なった。平泉門下の井星英によれば、平泉は展示品について順々に説明を行ない、高松宮は非常に感銘を受けた様子であったという(31)。平泉は最後に、「橋本景岳が殺された時は二十六歳、まさに殿下と同じ歳でありました」という印象的な言葉を以て解説を結んだ。見学を終えた高松宮が帰る時、これを見送る十数人のうち、平泉は一番後に立ったが、高松宮は、平泉の方に歩み寄って「有難う」と言ったという。

 平泉の熱烈な解説に、高松宮は引き込まれるような魅力を感じたのであろう。十一月三十日、平泉は高松宮の住む高輪御殿に召し出された。『高松宮日記』同日条には、「前(ママ)九時ヨリ十一時、平泉澄博士から橋本左内の話などきく」と見える。その際、平泉は、『橋本左内全集』一冊を献納したところ、高松宮別当の石川岩吉より、次の挨拶状に添えて、金一封(金十五円)が下賜された。

 一、橋本左内全集    壹 冊

右、景岳会ヨリ

宣仁親王殿下ヘ献上願出ノ趣ヲ以テ伝献被致候ニ付、供御覧候条、此段申進候也。

     昭和四年十一月三十日

                         高松宮別当 石川岩吉

    文学博士 平泉澄殿(32)

 展覧会の翌年にあたる昭和五年(一九三〇)三月、平泉は欧米視察に出かけるが、少し遅れて四月に高松宮も欧米周遊の旅に向かった。平泉の『寒林年譜』同年条には、「伯林滞在中、はからずも高松宮殿下に拝謁」とあり、ドイツのベルリンで拝謁している。野村實が作成した高松宮の「略年譜(33)」には、高松宮は八月十五日にベルリンに着し、八月二十二日にストックホルムに着したと見えるので、平泉が高松宮に拝謁したのは、おそらくこの間であろう。

 この拝謁については、平泉門下の井星英に言及がある。井星によれば、桑木厳翼(哲学者、東京帝国大学教授)が平泉の下宿を訪問し、ベルリンに着いた高松宮が平泉を気にかけていることを伝えたので、平泉は早速に高松宮の滞在先に参ったという。そして、平泉は、高松宮随行していた石川岩吉から、高松宮はパリでもロンドンでも、行く先々で平泉のことを尋ねた、ということを聞かされたという。高松宮は、自分と同じくヨーロッパにいた平泉の存在を強く意識していたようである。

 ちなみに、デモクラシーと左翼思想の流行に苦々しい思いを抱いていた平泉は、欧米から帰国して後、自由主義・国際主義・革命思想の批判、あるいは排除に力を入れるが、その欧米視察の直前に、「漸く批判の鋒先とも云ふべく、後年活動の前兆とも考へられるものが現れ」たと、自伝『悲劇縦走』において述べる(34) 。それは、以下の出来事であった。すなわち、

(一)昭和三年(一九二八)十二月、海軍有終会(離現役海軍士官の団体)に招かれ、

  「歴史を貫く冥々の力」を講演したこと。

(二)昭和四年(一九二九)十一月、安政大獄関係志士遺墨展覧会・追悼講演会

  において、蘇峰の代わりに講演を行ない、高松宮への展示解説を行なったこと。

(三)昭和五年(一九三〇)三月、海軍大学校に招かれ、「国史学の概要」を講演

  したこと。

の三つである。(一)は有馬良橘(海軍大将、有終会理事長)の知遇を得た切っ掛けであり、のちに有馬は闇斎先生二百五十年祭や、建武中興六百年記念会などの事業を通して平泉と密接に関わる(35)。また、(三)の講演では、上田宗重(海軍少将、海軍大学校教官)が聴講しており、感銘を受けた上田が舞鶴の海軍機関学校の校長に就任すると、毎年平泉に講演を依頼することになる(36)。

 これらと並んで、平泉が、高松宮の知遇を得る切っ掛けとなった(二)を重視することは興味深い。事実、高松宮の信任は、平泉の戦前・戦中期における政治的活動に重大な前提をなした。例えば、昭和十一年(一九三六)の二・二六事件の際、平泉が高松宮に事件の収拾策を進言したことは、つとに知られている(37)。また、昭和十七年(一九四二)の末に、近衛文麿東条英機の会見を実現すべく、高松宮に仲介を求めるなど、平泉が多くの局面で高松宮を頼ったことは、若井敏明が的確に指摘したところである(38)。平泉が「活動の前兆」の一つとして(二)を特記したのは、その後の史実を念頭に置くと、よく理解できる。

 戦後に入っても、高松宮は平泉に変わらぬ理解・同情を示し、これは逆境にあった平泉にとって強い支えとなった。高松宮は、昭和三十二年(一九五七)十一月と昭和五十年(一九七五)五月の二度にわたって、平泉が宮司をつとめる白山神社に参拝している。そして、平泉が昭和五十九年(一九八四)二月に亡くなると、高松宮は直ちに生花を霊前に供えさせ、葬儀に際しても平泉家に弔電を送った(39)。一方、最晩年の平泉が、東京大学百年史編集委員会の求めに応じたインタビューでは、「私はいろいろな方に親しくしてもらった中で、無欲なるが故に透徹する頭脳というのは、秩父宮殿下、高松宮殿下」と語っており(40)、秩父宮雍仁親王高松宮の兄宮)とともに、高松宮に対しても、その聡明さを讃えている。

 このように、平泉と高松宮の関係は深く、かつ半世紀以上の長きに及んだが、その端緒をなしたものこそ、安政大獄関係志士遺墨展覧会における平泉の展示解説であった。当初、高松宮に対して解説するはずであった蘇峰の病臥は、予期せぬアクシデントであったが、これが平泉に、高松宮との運命的な邂逅を用意したのである。

 

(b)田中光顕との邂逅

 次に、十一月一日に開催された追悼講演会に、千五百名に及ぶ聴講者が集まったことは先に述べたが、その中でも特筆すべき人物が、田中光顕である。

 平泉の「恩人」には、次のような回想が見える。すなわち、講演会の当日、平泉は、講演に先立って、もう一度遺墨展覧会を観ようと思い、午後二時に会場の青山会館に着いた。すると受付係が、朝から田中光顕が平泉を待っていたことを告げたため、平泉は不思議に思いながら、応接間で田中と対面した。立ち上がった田中は、平泉に対して、次のように語ったという。私は田中光顕であります。只今八十七歳、病気をして居ります。熱は八度何分、家に居ます時は、看護婦が二人ついて居ます。然しながら田中光顕、本日は病気など、しては居られませぬ。先生にお頼みします。井伊直弼のとどめを刺して下さい。田中が今まで生きて居ますのは、井伊のとどめ刺されるのを、見届けむが為であります。それを見届けないうちは、死んでも死に切れませぬ。

 八十七歳の高齢でありながら、壮烈たる気概を失わない維新志士の生き残りの言葉に、平泉は驚きを禁じえず、強い感銘を受けたという。そして、午後六時から始まった追悼講演会では、田中は会場の中央、演壇のすぐ前に腰掛けたが、耳が遠いため、しばしば起ち上って両手を耳のうしろに当て、一語も聞き漏らそうとはしなかった、と平泉は回想している。

 この回想から、勤王志士を弾圧した井伊直弼に対して、田中光顕がいかに強烈な憎悪を抱いていたかがうかがえるが、これを卒然と読むだけでは、田中の迫力に目を奪われ、なぜ田中が平泉に面会したのかが、よく分からない。そこで、田中の発言の背景を明らかにすべく、田中の勤王志士顕彰活動について見ておきたい。

 先に取り上げた髙田祐介の研究によると、田中は内閣書記官長時代から、維新志士の贈位斡旋活動を行なっており、明治三十一年(一八九八)に宮内大臣に就任した後は、土佐出身者・水戸関係者を中心とする勤王志士への位階追贈を活発に進めていた。明治四十二年(一九〇九)に井伊直弼銅像問題が起きると、田中は銅像設立を批判していた岩崎英重(土佐出身)と協力し、翌年の明治四十三年四月に靖国神社で開催された、桜田十八烈士五十年祭典(やまと新聞社主催)へも援助を惜しまなかった。さらに、岩崎は明治四十四年七月に『維新前史 桜田義挙録』全三巻(吉川弘文館)を刊行し、桜田門外の変井伊直弼を討った水戸志士を正当化するが、同書は田中の政治工作によって、文部省を通じて、全国の尋常中学校・図書館、あるいは師範学校・高等女学校に配布されたという。

 また、田中と歩調を合わせて、維新志士の精神を復活すべく、種々の企画を行なったのが、他ならぬ徳富蘇峰であった。蘇峰と田中の交遊は古く、明治二十三年(一八九〇)に遡る。当時、第一次山県内閣の警視総監であった田中が、東京都下の新聞記者を鍛冶橋の官舎に招待した際、蘇峰もその一人として招かれ、田中と会ったのが関係の始まりという。蘇峰は、維新志士でありながら長生を保った田中を尊重しており、大正十四年(一九二五)五月には、静岡県蒲原郡の宝珠荘に田中を訪問し、二日にわたって、幕末期から明治期にかけての実歴談を聞いたほどであった(41)。

 田中と蘇峰は、明治末期から協力して勤王志士顕彰活動を展開していく。蘇峰の企画で国民新聞社が開催した、明治四十三年(一九一〇)一月の維新志士遺墨展覧会(会場は上野公園)は、観覧者延べ四二万七千三百人余りを数えた大規模な展示であったが、田中はこれに所蔵の遺墨三十五点余りを出品したという。やがて、田中による志士の遺墨収集活動は、明治四十二年(一九〇九)の井伊直弼銅像建設に見られるような、佐幕派復権の動向に刺激を受けて、大正七年(一九一八)から本格化した。そして、大正末期から昭和初期にかけて、蘇峰の企画のもと、青山会館で開催された一連の遺墨展覧会では、田中の収集品を中心とする数多の遺墨が展示され、国民教化に大きな役割を果たしたのである。 

 勤王志士顕彰活動は、田中の高齢もあって、昭和四年(一九二九)を最後のピークとして収束を迎える。髙田祐介は、田中の建設にかかる常陽明治記念館(現、大洗町幕末と明治の博物館)が同年四月に開館したことを、「井伊直弼銅像問題以来の水戸顕彰の一つの結実」と評価するとともに、その直後の五月に開催された土佐勤王志士慰霊祭および遺墨展覧会についても、土佐の勤王を強調して薩長との差異を打ち出そうとした田中の意図を読み取っている。

 筆者が重視するのは、このような昭和四年(一九二九)に集中的に進められた、田中による勤王志士顕彰活動の総仕上げに、蘇峰が積極的に協力していた事実である。例えば、常陽明治記念館については、開館式の講演会で蘇峰が講師をつとめている(42)。また、土佐勤

王志士慰霊祭および遺墨展覧会についても、会場は蘇峰に関係の深い青山会館であったし、この折の図録である青山会館編『土佐勤王志士遺墨集』(巧芸社、一九二九年)の巻頭を飾ったのは、蘇峰の序文であった。

 そして、本章が主題とする安政大獄関係志士遺墨展覧会の開催時期が、昭和四年十一月であったことは興味深い。この展覧会に関する新聞報道を確認すると、展示品の一つである吉田松陰の遺墨について、「田中伯(筆者注、光顕)が四千金を投じて購つた大幅」であったと特筆されている(43)。これは短文ながら、田中がこの遺墨展覧会にも深く関与していた事実を示すものに他ならない。髙田祐介によれば、田中は、前年の昭和三年に水戸で開かれた義公生誕三百年祭で井伊直弼を強く批判し、桜田門外の変で井伊を暗殺した水戸の志士を賞賛したというから、安政の大獄で刑死した志士の顕彰に率先して協力するのは当然であった。

 以上、徳富蘇峰との関係に重点を置きながら、田中光顕の勤王志士顕彰活動について概観した。勤王志士の顕彰に並々ならぬ力を注いだ田中の事蹟を念頭に置くならば、田中が青山会館で長時間にわたって平泉を待ち続け、「先生にお頼みします。井伊直弼のとどめを刺して下さい」という発言を行なった理由も、おのずと推察できる。先述したように、この折の追悼講演会の講師は、当初の予定では蘇峰であったが、当日になって、俄かに藤井甚太郎と平泉の二人が代講をつとめることになった。そこで、田中は平泉に面会し、自身や蘇峰の安政の大獄観を踏み外すことなく、多数の来聴者の前で、断固、井伊直弼に厳しい評価を下すことを期待したのであろう。田中の軒昂たる発言には、以上のような意図があったと考えられる。

 では、田中や蘇峰の期待に応えた平泉の講演内容は、史学史上にいかなる位置を占めるのであろうか。節を改めて考察を加えたい。

 

第四節 近代史学史における井伊直弼問題―三上参次平泉澄

 私見では、平泉が、橋本左内を高く評価する一方、安政の大獄を通して、井伊直弼に痛烈な批判を加えたことは、史学史的に興味深い論点を含んでいると考える。平泉の井伊直弼観が、当時の学界一般のそれと異なっていたことは、平泉と並んで追悼講演会の講師をつとめた、維新史の専門家たる藤井甚太郎が、井伊弁護論を基調とした講演を行なった事実からも推察される。そこで、本節では、明治・大正期における官学アカデミズムの代表者というべき、三上参次井伊直弼論とこれに対する社会的反応を詳細に見た上で、三上と平泉の所説を対比し、平泉の学問的位置を考える一助としたい。

 そもそも、幕末・維新期の研究は、明治末期から大正期の官学アカデミズムによる政治史的アプローチを以て嚆矢とする(44)。官学アカデミズムに属する歴史学者の政治史理解は、明治維新武家政治の廃絶、古代王政の復活とする王政復古史観を基調とするものであった(45)が、その一方で、実証史学の立場から藩閥史観と明確な一線を画し、尊王派と対立した佐幕派を評価する部分もあった。その一つが、本章で取り上げてきた井伊直弼をめぐる問題である。

 先に述べた通り、明治四十二年(一九〇九)の井伊直弼銅像問題は、田中光顕らによる勤王志士顕彰活動の直接的な契機となったが、ここで注目したいのは、銅像問題の余燼がくすぶっていた時期に、官学アカデミズムの側から井伊弁護論が表明されたことである。すなわち、明治四十四年(一九一一)九月三十日に、三上参次が、史学会例会で行なった講演「近時の井伊大老問題に就て」がそれである(46)。

 これより先、三上は、国定教科書を検討する教科用図書調査委員会の委員であったが、『尋常小学日本歴史』で井伊直弼をいかに記述するかについて、委員会で議論が交わされた。文部省の原案には、井伊が事情やむを得ず、孝明天皇の勅許を待たずに日米修好通商条約を締結したという内容があったが、これについて井伊を擁護するものとして、委員の古沢滋(貴族院議員)らが批判的な意見を示した。一方、三上は歴史学者の立場から反対意見を述べたが、古沢はこれを受け入れずに三上を批判し、三上も委員会に意見書を提出することで、古沢に反論を加えた。問題が紛糾した結果、三上は明治四十四年(一九一一)三月に、委員を自発的に退くことになる。このように、銅像問題に加えて、教科書問題が発生したことにより、井伊直弼に対する識者の関心は高まった。三上が史学会例会で講演を行なった背景には、このような経緯が絡んでいたのである。

 三上の講演については、講演の翌日に出た『読売新聞』十月一日、朝刊五頁の「井伊大老論」、また『史学雑誌』第二二編第一〇号(一九一一年)の「彙報」に要旨が掲載されている。これらを見ると、三上は、最初に公平な見地から井伊直弼を評すると断った上で、教科書問題に関わって受けた誤解を払拭すべく、史料に基づきつつ、当時行なわれていた種々の井伊直弼論に論評を加え、安政五年(一八五八)当時の朝廷に攘夷論が存在した事実や、日米修好通商条約の無勅許調印を決断した井伊の見識を説いている。加えて、当時の三上には、銅像問題をめぐって種々の風説があったようで、これを強く打ち消しているのも興味深い。

 銅像問題が世間の注目を集めていただけに、三上の講演の来聴者は少なくなかった。『国民新聞』十月一日、三頁の「三上氏の井伊諭」と題する記事(47)には、「宮内省の編纂官幷に水戸、土佐、加賀其他の大老問題に関係多き地方の人々」が夥しく来聴し、「大老のため非命の死を遂げし勤王志士の未亡人らしき人の姿」さえ見受けられたと報道している。三上は、このような聴衆を前にして、自らの井伊に対する評価が公平であることを強調したわけであるが、これがどの程度賛同を得られたかは疑問であり、むしろ反発を招いた面が大きかったであろう。

 右の「三上氏の井伊諭」には、「(筆者注、三上が)大老を庇護したるも大老が違勅の処置に対しては云ふべき時機にあらざれば他日を期すと避けて」という一節があった。これを見た三上は、翌十月二日に、国民新聞社の社長兼主筆であった徳富蘇峰に書簡を送り、この記事が自己の真意を誤解させるとして、記事の正誤を求めている(48)。この書簡から、講演直後の三上が、相当神経過敏になっていた樣子がうかがえる。三上が示した訂正文は、次の通りであった。

外国ノ形勢已ムヲ得ザルモノアリテ、遂ニ勅許ヲ待ツニ遑アラズ、条約ニ調印シタリ直弼ハ之ヲ弁解シテ、国家永遠ノ辱ヲ免レンガタメニ、権宜ノ途ニ出デタルナリト云フト雖モ、我国体ニテハ、君ト国トヲ離シテ考フルコト難シ。条約調印ハ已ムヲ得ズトスルモ、勅免ヲ待タズシテ調印セシニ対シテハ其責ヲ負ハザルベカラズ。サレドモ、是レ主トシテ、朝廷ノ外ニ幕府ナルモノヽアリシ時代制度ノ罪ニシテ、直弼ノ心事ハ諒恕スベキモノアリ。尚直弼ト将軍継嗣問題、直弼ト安政大獄問題ニ就イテノ評論ハ、他日ニ譲ル。(句読点は筆者)

 これによれば、三上は、井伊が勅許を得ぬまま条約に調印した責任を負うべきことを指摘している。ただし、三上は続けて、その罪はむしろ幕府が政治を統括していた時代の制度にあるとし、井伊個人の心事は諒恕すべきものがあると述べているので、どちらに力点を置いているかは瞭然である。

 このように、三上の井伊論は、井伊を弁護する面を含んでいたため、三上は一層苦境に立たされる。三上は、講演の速記を、元老を始めとする諸方面に配布したが、これが物議をかもし、三上に帝大教授を辞させよという意見さえ出された。しかし、東京帝国大学総長であった浜尾新は、学問の独立を尊重する考えから免職要求をはねのけ、三上はからくも危機を脱したという。なお、講演からまもなく、三上が沼田頼輔(山内家家史編輯所主任)に宛てた十月二十日付の書簡(49)には、「来月之史学会雑誌(筆者注、『史学雑誌』)ニ掲載之予定ニ候」とあり、三上の講演の内容は『史学雑誌』に活字化される予定であった。しかし、これは結局実現を見ていない。おそらく、三上が問題の激化を懸念して、掲載を避けたのであろう。

 藩閥政府内でも、三上に反感を持つ人物は多かった。三上の回想によれば、三上は元老の山県有朋に呼び出されて注意を加えられ、三上が委員をつとめていた維新史料編纂会でも、土方久元(土佐出身)が三上の委員辞任を唱えた。そして、土方と同じ土佐出身の田中光顕も、芳賀矢一(国文学者、東京帝国大学教授)に向かって、維新史料編纂会における三上の発言を取り上げ、「三上は井伊家から買収されているのだろう」とさえ言い放ったようである。芳賀から田中の発言を聞かされた三上は、田中の邸宅を訪問し、田中に抗議を行なったという。

 三上の回想では、田中の発言を、明治四十三年(一九一〇)一月の維新志士遺墨展覧会の折の出来事とするが、三上が維新史料編纂会委員に就任するのは、翌明治四十四年五月のことである(50)ので、ここには何らかの錯誤があると考えられる。しかし、先に見たように、田中は、勤王志士顕彰活動に関わって、終始一貫して井伊直弼を排撃していたから、井伊を弁護する三上を批判したことは事実とみてよかろう。三上の回想において、田中の発言の場を維新志士遺墨展覧会とするのも、井伊直弼復権の動きを牽制しようとした田中の目論見を、三上が察知していたためと考えられる。

 井伊直弼問題に端を発した三上への批判は、三上の勤務先である東京帝国大学史料編纂掛にも影響を及ぼした。この時期、政府では、維新史料の収集・編纂に携わる専門機関の必要性が認められ、明治四十四年(一九一一)五月、文部省のもとに維新史料編纂会が設置された。このとき、既存の東京帝国大学史料編纂掛に維新史料を任せるべきであるという意見も出されたが、それは取り上げられなかった。宮地正人は、当時の史料編纂官であった中村勝麻呂が寺師宗徳(史談会幹事)に語った、「大学の史料編纂に幕府に偏するの嫌がある」という「世評」があったため、史料編纂掛への「内々の交渉」は無かった、という内情を紹介している(51)。この「世評」が生じた原因は、三上による井伊直弼の弁護にあったことは疑いない。

 また、宮地は、『尋常小学日本歴史』の編纂に際して、文部省の原案に「井伊大老の専断」を強調する内容があったが、大学から出ていた委員が、その誤謬を指摘したため、「大学の方は一方に偏するから、大学に委せられぬ」という見解が出たことを、島田三郎の発言から紹介している(52)。ここに登場する、誤謬の指摘を行なった委員が三上参次を指すことは明らかである(ただし、島田の発言には、文部省の原案について事実誤認を含んでおり、注意を要する)。

 このように、井伊直弼問題に関わったことで、三上は礫のような非難・排撃を浴びた。これとよく似た事例としては、ほぼ同時期に発生した南北朝正閏問題における喜田貞吉への攻撃が想起される。もちろん、正閏問題は皇統に関わる問題であったから、その重大さは、井伊直弼問題の比ではない。また、攻撃を被った喜田は、国定教科書執筆の責任を一身に負う形で休職処分に遭ったわけであり、深刻度で言えば、三上は喜田には及ばない。しかし、この井伊直弼問題が、七十五年に及ぶ三上の生涯の中で、もっとも危機的な局面を招いたことは間違いない。そして、その余波は史料編纂掛にも及び、編纂掛の編纂態度について批判を生むのみならず、文部省の管下に維新史料編纂会が成立する一つの契機となったことは軽視できない。

 これに関わって興味深いのは、三上が庇護した石川謙(教育史学者)の実子にあたる石川松太郎(教育学者)が紹介した秘話である。すなわち、昭和十四年(一九三九)五月、亡くなる直前の三上が、病床において、「蓑を着た連中が、槍を持って自分を刺しに来る」とつぶやいたというのである。石川は、井伊直弼問題の際の苦しい体験が、瀕死の三上にこのようなうわ言を言わせたと推察し、三上が「国家や民族を重んじ、皇室への敬愛に徹し、満州国皇帝(筆者注、溥儀)に日本史を進講されたような方」であった一方、「ご自分の学説や識見に責任と自信と誇りを持ち、節を踏まえて政権におもねることなく、そのため山県(筆者注、有朋)と彼に連なる人びとより圧力を受けつづけた研究者であった事実も疑いない」と述べる(53)。

 石川のいう、三上の二面性のうち、前者に関わる具体的史実としては、三上が臨時帝室編修官長や神武天皇聖蹟調査委員会会長などの要職を歴任し、昭和天皇に対して二十七度もの進講を行なったことも付け加えられよう。さらに、昭和十一年(一九三六)の二・二六事件後、広田弘毅内閣が組閣される際、文部大臣の候補者としてその名が挙ったという事実を取ってみても、三上ほど、国家との関係が密接であった人物は、近代史学史において、他に見出すことは難しい(54)。このような立場にあった三上が、晩年の昭和期に、唯物史観天皇機関説に強い批判を加え、あるいは国体の妨げをなす人文科学の一部について取り締まるよう発言したことは、柴田紳一が具体的に指摘している(55)。近年の研究でも、三上に言及する際には、かかる側面に重点をおいて評価を加える傾向が強いと考えられる。

 ただし、その一方で、石川が指摘したように、三上には、井伊直弼問題に象徴されるような、学問上の主張が原因で、排撃を被った面があったことも見逃せない。こちらの側面を掘り下げる上で興味深いのが、晩年の平泉澄がある高弟に宛てた書簡に見える、亡き三上への批評である。次に、これを引用する。

(筆者注、前略)ところが今度、講談社の文庫本により三上(参次)先生の『江 戸時代史』を一見し、これは容易ならずと気がつきました。

・皇室と幕府との関係、重大なところに入ると特にドアをしめさせられた事、秋山(謙蔵)の解説に見えます、只事でありませぬ。

・本文、水野越前(筆者注、忠邦)の天保の改革に終り、それ以後切捨てた旨、出版者(筆者注、冨山房)断ってゐます。

・蓋し幕府を謳歌し、井伊大老(筆者注、直弼)に傾倒し、大獄を当然とし、薩長に反対、明治維新を喜ばれざるところあるのでせうか。

・小生、学生として聴講の時、(三上)先生声をひそめて「易の哲理から云へば天壌無窮といふことあり得ない」と云はれました。明治の学界分からぬこと多く、歎くに余あることです、心にとめて御しらべ下さい……(56)                 (筆者注以外は、原注)

 文中に見える『江戸時代史』は、三上の代表作として知られる。ただし、同書が刊行されたのは三上の死後のことであり、冨山房より上巻が昭和十八年(一九四三)七月に、下巻が同十九年(一九四四)十月に刊行された。その後、同書は、昭和五十二年(一九七七)に、講談社学術文庫から全七冊として復刊された。平泉が「講談社の文庫本」と記すのは、この学術文庫版のことである。

 平泉にとって、三上は恩師のひとりであるが、『江戸時代史』に対する論評は、実に厳しい。まず、平泉は、学術文庫版第七巻の末尾に付載された秋山謙蔵の解説に、生前の三上が講義中に、「皇室と幕府との関係、重大なところ」に言及する際、ドアを閉めさせたとあることを取り上げ、只事ではないと記す。そして、平泉は、三上の『江戸時代史』が出版される際に、天保の改革までを収録し、それ以後の部分を割愛する編集方針を取ったことを見逃さず、その理由について、三上が、「幕府を謳歌し、井伊大老に傾倒し、大獄を当然とし、薩長に反対、明治維新を喜ば」なかったことに求めるのである。

 平泉の推測の是非については、現存する『江戸時代史』の稿本(東京大学史料編纂所所蔵「三上参次関係史料」所収)の内容を調査し、つぶさに検討を加える必要があるが、ここで井伊直弼安政の大獄が登場するのは、これまで縷々述べてきた事柄を想起するとき、思い半ばに過ぎるものがある。すでに柴田紳一は、『江戸時代史』に先んじて昭和十八年(一九四三) 二月に出版された三上の遺著『国史概説』(冨山房)が、内務省による検閲の結果、皇室の尊厳を害う記述を指摘され、次版改訂処分を受けた事実について明らかにしてい(

57)。生前の三上は、井伊直弼の評価をめぐって猛烈な社会的批判を浴びただけに、さらなる問題の発生を懼れた関係者が、発刊予定の『江戸時代史』の原稿から幕末期の内容を割愛したことは十分に考えられる(58)。以上のことから、平泉の推測には一定の蓋然性を認めてよかろう。

 いずれにせよ、井伊直弼、そして安政の大獄に対する評価をめぐって、三上と平泉の師弟は、決定的に相容れぬ歴史観を有したと言わざるを得ない。そして、晩年の平泉が三上に放った厳しい批評は、平泉の井伊直弼観が、明治・大正期の官学アカデミズムのそれとは、異質なものであったことを物語るのである。

 ちなみに、平泉が書簡の末尾で明かした三上に関わる秘話は、興味深い内容である。すなわち、平泉が学生として三上の講義を聴講した時、三上は声をひそめて「易の哲理から云へば天壌無窮といふことあり得ない」と発言したというのである。この話は、平泉が昭和三十九年(一九六四)十月十八日の伊勢青々塾開塾式で行なった、根本通明著『読易私記』に関する講話でも紹介されており(59)、そこでは「ある先生の講義」とあり、三上の名は伏せられている。一方、講話の記録には、「大学へ入りました最初の時」とあるので、問題の三上の講義は、平泉が東京帝国大学に入学したばかりの、大正四年(一九一五)の講義であったことがわかる(60)。

 三上の発言に接した新入生の平泉は、驚愕を禁じえなかったに違いない。三上のいう「易の哲理」とは変易に他ならず、それはおのずと易姓革命の是認につながるからである。のちに平泉が『万物流転』(至文堂、一九三六年)において、易を不易の準則とする根本通明の主張に基づき、万物すべて流転する中で、ただ一つ日本の皇統が万世一系、連綿として続いたと強調するのは、三上の発言に対する反発感が伏在していた可能性が高い。さらに、平泉は、『万物流転』において、易の哲理を変易とする「曲学阿世の徒輩」が、「徒らに奸雄逆賊の口実を供し、教学遂に国家を護持するに足らざる事、是亦必然の道理である」(一六五頁)と述べるが、この痛憤をしたためたとき、平泉の脳裡には教壇に立つ三上の姿が浮かんでいたのではないか。

 ともあれ、大正期の三上は、帝大の学生を前に、声をひそめながらも、易の哲理に基づいて天壌無窮の否定を明言する講義を行なっていたことになる。これは、三上が、国体に対して冷めた視線を向けていたことを示す重要な事実である。講義中にドアを閉めさせたという三上の逸話も、考え様によっては、自己の学問的見解を忌憚なく学生に示そうとする意図が含まれていたと見るべき余地もある。教室における三上の姿勢は、時期的な段階差を考慮しつつ、今後慎重に検討を進める必要があろう。

 天皇制国家に奉仕した三上と、天皇の神聖性を保証する天壌無窮を否定した三上、このような二面性は、もちろん既往の史学史研究の理解を借りて説明することも可能であろう。一般論としては、国体観念の確立や国民教化の任務を負う「応用史学」と、近代史学の研究法に基づく考証・研究を行なう「純正史学」という区分を用いれば、事足りるかもしれない(61)

。例えば、斎藤孝は、この二つの区分に触れつつ、東京帝国大学文学部国史学科の新入生に対して、「大学では学問的な講義があるが、諸君が卒業して中学校の教師などになったとき、大学の講義をそのまま生徒に教えてはいけない、学問と教育が別である」と述べ、「どこまでも神武紀元を事実として教えねばならない」と訓戒を垂れた三上の姿(62)を取り上げ、これを「アカデミズムの俗物」と評した(63)。

 しかし、天壌無窮を原理的に否定したとなると、問題はそう単純ではないし、平泉ほどの人物がここまでの反応を示したことは、事の重大さを物語る。これを「応用史学」と「純正史学」という決まり切った説明で片付けるのは、歴史家として鈍感に過ぎると言えよう。

 第一、三上が「俗物」であるにせよ、彼の内奥に迫るような検討を行ない、これを史学史上に適切に位置付けた研究は、いまだ存在しないのではあるまいか。三上の二つの面を止揚し、その本質を解明することは、今後の研究に課せられた重大な課題といえよう(64)。ここにおいて、先に示した平泉の書簡に見える、「明治の学界分からぬこと多く、歎くに余あることです」という嘆息は、まことに深い意味を持つと言わねばならない。そして、本節で取り上げた、井伊直弼をめぐる歴史観の相違・対立は、官学アカデミズムが内包した複雑な性格を考える上で、貴重な糸口となるのである(65)。

 

 本章では、昭和四年(一九二九)十一月の安政大獄志士七十年祭に注目し、志士遺墨展覧会と追悼講演会の具体相を通して、徳富蘇峰平泉澄の協力による幕末勤王家の顕彰事業について論じた。維新志士の精神の復活をめざす蘇峰は、田中光顕の後援を得て、明治四十三年(一九一〇)以降、遺墨展覧会を幾度も青山会館で開催しており、安政大獄に刑死した志士の遺墨展示は、一連の顕彰活動の掉尾を飾る催しであったと評価できる。多くの来館者を獲得したこの展覧会が、同時期の国民教化の一翼を担い、戦時体制下の明治維新観を用意する一つの前提をなしたことは見逃せない。

 この折に、蘇峰の懇請を受けて平泉が展示の準備に尽力し、蘇峰に代わって講演を行なったことは、平泉が蘇峰の厚い信頼を得ていた事実を物語る。また、平泉が遺墨展覧会において高松宮と、また追悼講演会において田中光顕と邂逅したことは、いずれも平泉にとって重大な出来事であった。さらに、平泉が講演で注目した橋本左内の国是論は、平泉の国体護持史観における理論的根拠として重要な意味を持ち続ける。平泉の生涯を考える上で、遺墨展覧会と追悼講演会の二つが占めるものは大きい。

 そして、安政の大獄橋本左内を刑死させた井伊直弼を強く否定する平泉の態度は、王政復古史観に立ちつつも佐幕派に一定の理解を示してきた官学アカデミズムの伝統的態度と、大きく隔絶していた。晩年の平泉が、明治末期に井伊直弼問題で苦境に立たされた経験を持つ三上参次に加えた厳しい批評は、官学アカデミズムにおける平泉の維新観の特異性を逆照射するものである。すなわち、井伊直弼をめぐる評価の相剋は、官学アカデミズムと社会との緊張関係のみならず、アカデミズム内部における対立構造をも焙り出す。そして、これを前章で取り上げた南北朝正閏問題をめぐる熾烈な学説対立に比するとき、両者はあたかも合わせ鏡のような相似形を成すのである。

 

第四章 注

1髙田祐介「維新の記憶と「勤王志士」の創出」(『ヒストリア』第二〇四号、二〇〇七年)。以下、本文で言及する髙田の研究は、すべてこれによる。

2昭和期の明治維新観については、田中彰「大正・昭和期の維新観への展望」(『明治維新観の研究』北海道大学図書刊行会、一九八七年。初出一九八四年)参照。

3以下、明治期から昭和戦前期にかけての井伊直弼問題については、大久保利謙佐幕派論議」(『佐幕派論議吉川弘文館、一九八六年。初出一九六八年)九二〜九六頁、佐藤能丸「井伊直弼銅像問題」(『同志社法学』第三二一号、二〇〇七年)、彦根市編集委員会編『新修彦根市史』第三巻 通史編 近代(彦根市、二〇〇九年)四四五〜四四七頁参照。また、関係史料の一部が、彦根市編集委員会編『新修彦根市史』第八巻 史料編 近代一(彦根市、二〇〇三年)九一九〜九三九頁に収録されている。

4井伊直弼問題と維新史料編纂事業の関係については、宮地正人「政治と歴史学」(西川正雄・小谷汪之編『現代歴史学入門』東京大学出版会、一九八七年)、箱石大「維新史料編纂会の成立過程」(『栃木史学』第一五号、二〇〇一年)に詳しい。

5明治二十年(一八八七)十月十八日付「島田三郎書簡」(徳富蘇峰記念館所蔵。『近代日本史料選書七│一 徳富蘇峰関係文書』山川出版社、一九八二年、一〇四頁)。

6以下、蘇峰と福地の『幕府衰亡論』との関係については、注(3)前掲大久保論文七五〜七六頁、田中彰佐幕派の維新観」(注(2)前掲田中著書。初出一九八〇年)一五七〜一五八頁参照。

7徳富蘇峰『維新回天の偉業に於ける水戸の功績』(民友社、一九二八年)五九〜六一頁。

8なお、壮年期における蘇峰の明治維新観については、大久保利謙「民友社の維新史論」(『大

久保利謙歴史著作集』第七巻 日本近代史学の成立、吉川弘文館、一九八八年。初出一九五四年)、田中彰明治天皇制確立期の維新観」(注(2)前掲田中著書。初出一九七二年)参照。

9「安政大獄中篇刊行に就いて」(『近世日本国民史』第四一巻「安政大獄 中篇」民友社、一九三二年)。

10田中卓編『平泉博士史論抄』(青々企画、一九九八年)所収。

11平泉が溜りの間詰の譜代大名に与えた評価は、「明治の奇蹟(上)」(『明治の光輝』日本学協会、一九八〇年。初出一九六六年)に端的に示されている。

12平泉の安政の大獄觀については、「安政大獄の真相」(『先哲を仰ぐ』錦正社、一九九八年。初出一九五八年)、『首丘の人 大西郷』(原書房、一九八六年)などに詳しい。

13「恩人」(『偉大なる福井の先哲』財団法人ふくい藤田美術館、一九八二年)三二頁。

14なお、平泉澄「蘇峰先生の想出(下)」(『民友』第一三三号、一九七六年)にも、関係する内容が見られる。

15以下、遺墨展覧会と講演会に関する基本情報については、『東京日日新聞』昭和四年十月三十日、朝刊九頁広告「安政大獄関係志士遺墨展覧会」、十一月三日、夕刊二頁「涙ににじむ志士の筆蹟」参照。

16ただし、平泉の回想には記憶の混乱もあるようで、注(14)前掲「蘇峰先生の想出(下)」では、三階に橋本左内吉田松陰の遺墨を展示し、二階に頼三樹三郎・梅田雲濱らの遺墨を展示し、一階には他の志士の遺墨を並べたと述べる。本書では、しばらく「恩人」の記述に従う。

17『三田村鳶魚日記』中(『三田村鳶魚全集』第二六巻、中央公論社、一九七七年)。以下、鳶魚の日記はこれによる。

18『東京日日新聞』昭和四年十一月三日、夕刊二頁「涙ににじむ志士の筆蹟」。

19平泉澄著、平泉洸・平泉汪・平泉渉編『家内の想出』(平泉渉、一九八三年)一二〜一三頁。

20平泉澄女形」(『山彦』勉誠出版、二〇〇八年。初出一九七〇年)参照。

21藤井甚太郎の経歴については、『日本近代史研究』第二号 藤井甚太郎先生追悼特集(一九五八年)、「藤井甚太郎先生追悼」「藤井甚太郎先生略年譜」「藤井甚太郎先生著作目録」(『法政史学』第一一号、一九五八年)参照。

22尚友倶楽部編『岡部長景日記』(柏書房、一九九三年)昭和四年十一月一日条、金沢春友『地方史行脚五十年』(大盛堂印刷出版部、一九六三年)同日条。

23景岳会編『橋本景岳全集』上巻(景岳会、一九三九年)第七七号。また、『日本思想大系』第五五巻 渡辺崋山 高野長英 佐久間象山 横井小楠 橋本左内岩波書店、一九七一年)五五八〜五六五頁に注釈あり。

24平泉澄『武士道の復活』(至文堂、一九三三年)所収。

25平泉澄『先哲を仰ぐ』(錦正社、一九九八年。初刊一九六八年)所収。

26講演の速記録は、自由党憲法調査会編『天皇論に関する問題(特別資料九)』(自由党憲法調査会、一九五四年)所収。のちに「国体と憲法」と改題の上、前注平泉著書に所収。

27田中卓「平泉博士の「国体と憲法」をより深く理解するために(一)」(『日本』第五一巻第二号、二〇〇一年)、若井敏明『平泉澄』(ミネルヴァ書房、二〇〇六年)三〇二頁参照。なお、本書に付載した昭和三十年(一九五五)八月二十七日付「平泉澄書簡」(徳富蘇峰記念館所蔵)にも、関係する内容が見える。

28山口宗之橋本左内』(吉川弘文館、一九六二年)第九「変革の論理」、同『改訂増補 幕末政治思想史研究』(ぺりかん社、一九八二年。初刊一九六八年)第三章第一節「幕末における国防論と国体論」。

29若井敏明「ひとつの平泉澄像」(『史泉』第八七号、一九九八年)四二〜四六頁、注(2

7)前掲若井著書第二章第六節「国史を貫くもの」。

30『高松宮日記』第一巻(中央公論社、一九九六年)による。

31井星英「先師を偲びて(上)」(『日本』第六三巻第七号、二〇一三年)による。以下、井星の文章はこれによる。

32山田康彦『景岳会小史』(景岳会、一九三五年)六一〜六二頁所引。句読点は筆者。

33『高松宮日記』第八巻(中央公論社、一九九七年)所収。

34平泉澄『悲劇縦走』(皇學館大学出版部、一九八〇年)三二八〜三二九頁。

35平泉澄「有馬大将」(『山河あり(全)』錦正社、二〇〇五年。初出一九五九年)参照。

36平泉澄「上田宗重中将」(注(11)前掲平泉著書。初出一九六三年)、注(19)前掲平泉著書一七〜一八頁参照。なお、海軍機関学校の講演を聞いて平泉に入門したのが、人間魚雷「回天」を創案し、その最初の訓練で殉職した黒木博司(海軍少佐)である。

37二・二六事件における平泉の行動について論じたものは多いが、近年、平泉が事件についてまとめ、昭和十八年(一九四三)七月に高松宮に奉呈した実録『孔雀記』の全文が、田中卓「秘録『孔雀記』について」(『続・田中卓著作集』五 平泉史学の神髄、国書刊行会、二〇一二年)によって紹介された。

38注(27)前掲若井著書第五章「政界と軍部」、第六章「戦争と国史学」。

39戦後の平泉と高松宮の関係については、松平永芳「戦後の御直宮様方と白山社」(小林健寿郎編『平泉澄先生追悼録 菩提林を仰ぎて』小林健寿郎、一九八五年)参照。

40「東京大学旧職員インタビュー(三) 平泉澄氏インタビュー(五)」(『東京大学史紀要』第一七号、一九九九年)一二四頁、平泉澄『この道を行く』(平泉洸、一九九五年)一六一頁。

41徳富蘇峰「宝珠荘の半日一夕」(『名山遊記』民友社、一九二八年)。

42白石重「水戸と蘇峰先生」(蘇峰学人『維新回天の事業に於ける水戸の功績』常陽明治記念館、一九七五年。初出一九七〇年)参照。

43注(18)に同じ。

44以下、明治末期から大正期にかけての幕末・維新期の政治史研究については、大久保利謙「王政復古史観と旧藩史観・藩閥史観」(注(8)前掲『大久保利謙歴史著作集』第七巻 日本近代史学の成立。初出一九五九年)、小沢栄一・小西四郎・藤井貞文・森谷秀亮・吉田常吉・(司会)大久保利謙「座談会 維新史研究の歩み 第一回 維新史料編纂会の果した役割」(『日本歴史』第二四六号、一九六八年)、大久保利謙・小西四郎『『維新史』と維新史料編纂会』(吉川弘文館、一九八三年)、注(2)前掲田中著書、注(4)前掲宮地論文・箱石論文参照。

45官学アカデミズムにおいて、王政復古史観に立脚して明治維新を論じた代表例としては、萩野由之『王政復古の歴史』(明治書院、一九一八年)がある。

46以下、三上参次井伊直弼問題の関係については、三上参次『明治時代の歴史学界』(吉川弘文館、一九九一年)二一五〜二一七頁に見える、三上の回想談に拠るところが大きい。また、三上と教科用図書調査委員会および維新史料編纂会の関係については、喜田貞吉『六十年の回顧』(『喜田貞吉著作集』第一四巻、平凡社、一九八二年。初刊一九三三年)一〇〇〜一〇五頁のほか、注(4)前掲箱石論文も参照。

47京都大学附属図書館架蔵マイクロフィルムによる。

48明治四十四年(一九一一)十月二日付「三上参次書簡」(徳富蘇峰記念館所蔵)。本史料については、堀口修「三上参次」(伊藤隆・季武嘉也編『近現代日本人物史料情報辞典』四、吉川弘文館、二〇一一年)二四五頁参照。

49個人蔵。『栃木史学』第一五号(二〇〇一年)口絵写真および解説(箱石大執筆)による。

50辻善之助「故三上参次先生略歴」(三上参次『江戸時代史』第七巻、講談社学術文庫、一九七七年。初刊一九四四年)一五五頁参照。

51以下、注(4)前掲宮地論文一一八〜一一九頁。出典は『史談速記録』第二一六輯(一九一一年)七〜八頁。

52出典は『史談速記録』第二一七輯(一九一一年)三〜一二頁。

53石川松太郎「三上参次先生と談旧会」(注(46)前掲三上参次『明治時代の歴史学界』)二四三〜二四四頁。

54三上の多面的な活動については、注(48)前掲堀口修「三上参次」が、研究史の周到な渉猟に基づいて、的確に整理している。

55柴田紳一「三上参次博士逸事考」(『国學院大学日本文化研究所紀要』第七六号、一九九五年)六八〜七〇頁。

56平泉隆房「寒林夜話(十八)」(『日本』第六二巻第五号、二〇一二年)所引、昭和五十二年(一九七七)八月三十日付「平泉澄書簡」。

57注(55)前掲柴田論文七〇〜七三頁。

58東京大学史料編纂所に所蔵される『江戸時代史』の稿本には、刊本に収録されなかった七冊の大学ノートが存在する。すなわち、幕末期を扱った「江戸時代史稿本」全七冊(登録書名。表紙外題は「江戸時代史稿」第四十八〜第五十四。〔請求記号〕三上参次関係史料―〇四―〇〇一〜〇〇七)がそれである。平泉の推測が的中しているならば、この七冊こそ、関係者が問題化を懼れて割愛した部分ということになる。

59伊勢青々塾編『平泉澄先生御講義 根本通明先生読易私記抄』(伊勢青々塾、一九八四年)一一頁。

60『史学雑誌』第二六編第九号(一九一五年)「彙報」の「東西両文科大学史学科本学年度講義題目」によれば、三上が大正四年(一九一五)に担当した科目は、「江戸時代史(幕初より元禄時代まで)」「本邦教育史」「演習」の三つである。

61なお、「応用史学」と「純正史学」については、最近、廣木尚「一八九〇年代のアカデミズム史学」(松沢裕作編『近代日本のヒストリオグラフィー』山川出版社、二〇一五年)、中野弘喜「史学の「純正」と「応用」」(同上)などが発表され、旧来とは異なるアプローチが行なわている。

62井上清『私の現代史論』(大阪書籍、一九八二年)一二一〜一二二頁。三上の晩年にあたる、昭和八年(一九三三)四月二十一日のことである。これについては、太田晶二郎「『史学雑誌』彙報」(『太田晶二郎著作集』第三冊、吉川弘文館、一九九二年。初出一九三三年)三一〇〜三一一頁も参照。

63斉藤孝『昭和史学史ノート』(小学館、一九八四年)二一〜二二頁。なお、マーガレット・メールは、「大衆が歴史について教わる内容と、選ばれたエリートにのみ三上が明かす内容とが異なることに、三上はある種の誇りさえ抱いていたのかもしれない」という観察を示す。千葉功・松沢裕作ほか訳『歴史と国家』(東京大学出版会、二〇一七年。原著一九九八年)一八三頁。

64このような三上の二面性は、三上の同僚であった井上哲次郎(哲学者)にも共通する面が幾分かあると考えられる。井上の二面性については、『出隆著作集』第七巻 出隆自伝(勁草書房、一九六三年)八一〜八五頁が克明に描写しており、示唆に富む。

65なお、平泉は、昭和五十七年(一九八二)に門下の名越時正に宛てた書簡の中で、「江戸時代に今一歩で革命になるところを支へられたのは義公(筆者注、徳川光圀)の力で、その為に幕府の中枢よりは最も嫌はれ排除せられたと思ひます。革命派は幕府の中枢(溜間詰)その太鼓もちは林家―室鳩巣―荻生徂徠、之に対するのが義公と崎門、この二つの流れが激突したのが安政大獄、そしてこの流れは明治以後の国史学界にズーツと流れてゐます」と述べる。短文ゆえ、意をくみ取りにくいが、江戸時代における尊王派と佐幕派の激突が、明治以後の国史学界にまで尾を引いているという見方は、まことに興味深い。安政の大獄が特記されていることに注意を払うならば、平泉が井伊直弼問題と三上参次の関係を念頭に置いている可能性は高い。なお、この書簡は、名越時正「平泉先生の日本学といはゆる水戸学」(『神道史研究』第三三巻第一号、一九八五年)による。

 

補注

 校正中、児玉幸多「大学時代の思い出」(『無為斎雑録』私家版、一九七九年。初出一九六三年)に、次の一文があることに気付いたので、付記しておく。

そのころ青山会館で、安政大獄志士遺墨展が開かれていたが、平泉先生は「建武中興」の

講義時間をさいて、その説明をされ、特に橋本左内については日本歴史上第一等の人物で

あるといわれた。左内の人物のすぐれたことを証するものとして、藤田東湖の推挙や西郷

南洲(筆者注、隆盛)の心服をあげられ、いわゆる英雄は英雄を知るものとして、これに

かなりの重きを置かれた。もちろん他にも左内の人格識見のすぐれたことを示す、いくつ

かの証明をされた。しかし東湖や南洲の左内評を非常に重くみられていたので、人物評と

しての一方法を知るとともに、それはやはり傍証であって、それにあまり重きを置くこと

はどうであろうかという疑問も生じた。その翌日、中村先生(筆者注、孝也)の「江戸時代史」を休んで青山会館に行ってみたが、それら遺墨は、明盲には読みこなせないものばかりであった。そこで予約購入した遺墨の写真帳が、後になって若干役立った。(六〇〜六一頁)

 児玉は、昭和四年(一九二九)に東京帝国大学文学部国史学科に入学し、のちに日本近世史の大家となった人物である。この回想から、安政大獄関係志士遺墨展覧会の会期中に、平泉が講義で橋本左内を取り上げて賞賛したこと、また藤田東湖西郷隆盛の左内評を重視しすぎる平泉に児玉が疑問を感じたことが分かる。

 大正・昭和初期における平泉の講義については、その受講生らにいくつかの回想があり、いずれも学問的に高い評価を示している。その中にあって、児玉が紹介した逸話と感想は、平泉の講義に国粋主義的な要素が芽生え、これに受講生が若干の違和感を抱き始めたことを示す興

味深い事例である。これは、本章で論じたように、安政大獄関係志士遺墨展覧会が、平泉史学の変化を考える上で、重要な意味を持つことを示唆している。

 やがて昭和五・六年(一九三〇・三一)の欧米視察から帰国した後、平泉の講義では、このような光景が、当然のように繰り広げられるようになる。

 

終章 官学アカデミズムへの批判と『大日本史

 最後に、蘇峰と平泉が歴史家として深いつながりを結んだ思想的背景を明らかにすべく、昭和戦中・戦後期も含めて、二人の官学アカデミズムに対する思想的態度から、考察を加えておく。またあわせて、晩年の蘇峰の歴史観を、明治期の竹越三叉・山路愛山らの史論と対比し、「皇室中心主義」が蘇峰にもたらした影響を具体的に明らかにしたい。さらに、平泉史学の持つ特徴についても、水戸学との関係を通して、考えるところを述べたい。

 

第一節 徳富蘇峰の官学アカデミズム批判

 昭和十五年(一九四〇)六月一日に、蘇峰が東京青山会館で行なった講演「水戸史学に還れ」は、その表題が端的に示すように、水戸学の立場から日本史を理解することの重要性を説いたものである(1)。この講演録(2)を見ると、近世史学および近代史学に対する蘇峰の率直な感想が示されていて興味深い。その骨子は、以下の通りである。

 まず、蘇峰は、近世史学を「尊皇派の史学」と「尊幕派の史学」の二大潮流に区分し、前者に属する史書として『大日本史』『保建大記』『中興鑑言』『日本外史』『日本政記』『野史』『国史略』『皇朝史略』を挙げ、後者に属する史書として『本朝通鑑』『読史余論』『王代一覧』『逸史』『国史纂論』を示す。そして、蘇峰は「尊皇派の史学」を代表する『大日本史』を明治維新の原動力として高く位置付ける一方、明治政府による修史事業の中心にいた重野安繹とその学派が、「水戸流の歴史学」を一掃したことを遺憾とするのである。

 また、蘇峰は、重野に始まる官学アカデミズムが史料収集に多大な成果を上げた点を評価しつつも、『太平記』の粗探しに熱中するような些末な考証史学に陥ったことを指摘する。その上で、南北朝正閏問題や井伊直弼問題を引き合いに出しつつ、歴史の尺度が忠奸邪正の識別ではなく、利害得失で定められるようになったと述べ、唯物史観を排斥する。そして、「皇室中心主義」の立場に基づく歴史の倫理化を強調して結びとしている。

 この講演で注目すべきは、蘇峰が官学アカデミズムの考証主義に対して、批判的な態度を露骨に示したことであるが、大義名分を度外視する官学アカデミズムへの反感は、すでに大正期にその片鱗が見られる。

 蘇峰が著した『近世日本国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」(民友社、一九一八年)の冒頭には、南北朝時代から戦国時代にかけての概観が示されるが、その第二章「混沌社会」に「勤王思想の消亡」という節がある。ここで、蘇峰は南北朝時代における思想状況の混迷を叙述した上で、重野安繹の「世上流布の史伝多く事実を誤るの説(3)」の一節を引用する。この論文は、明治十七年(一八八四)二月に重野が行なった講演を土台とするものであり、史料収集と史料批判から得た知見をもとに、従来信じられてきた史実の多くが、いかに誤っているかを、具体的に説明したものであった。

 その中で、重野は、後醍醐天皇の討幕計画を「御謀叛(反)」と記す『太平記』について、

大義名分をわきまえぬという後代の批判(4)を取り上げ、「此謀叛ノ文字、当時ニ於テハ人知レズ事ヲ取企ツル卜云フ迄ノ義ト聞ユ」と述べる。すなわち、南北朝時代では、「謀叛(反)」は「陰謀を企てる」という意味で使用されるに過ぎないというのである。明治期の官学アカデミズムにふさわしく、いかにも啓蒙色の強い口調である。

 この中世史料の用例に基づく重野の実証的な見解に対して、蘇峰は「一応尤の説なり」と認めつつも、併し仮りに重野博士の説の如く、天皇御謀叛の文字が、天皇御陰謀と同一の意義とするも、斯る言葉は、至尊の臣下に対し給ふ場合に、使用すべきものではない。軽きにせよ、重きにせよ、大義名分を弁ぜずと云ふ丈は、明白の事実ぢや。此れには弁護の余地がない。(三三頁)と言い切る。あくまでも蘇峰は、中世で大義名分が軽んぜられた点を強調してやまない。蘇峰の眼には史料を振りかざす重野の態度は無邪気に映ってならず、忠奸邪正の識別を行なわないことに苛立ちを感じていることが見て取れる(5)。

 このように、大正期の蘇峰が「天皇御謀叛」について示した見解は、官学アカデミズムに対する、名分論的見地からの異議申し立てとして興味深いが、民間史学に属する他の歴史家はどうであったのだろうか。参考までに、竹越三叉の著作を確認しておきたい。

 明治二十九年(一八九六)に出版された三叉の代表作『二千五百年史』(警醒社書店)を見ると、第十九章「北人の天下(下)」に、「天皇の御謀叛」と題する節がある(第二百二十節)。これは鎌倉幕府後鳥羽院を打ち破った承久の乱に触れたくだりであるが、その中で三叉は「天皇御謀叛」について次のように述べる。

史家此役(筆者注、承久の乱)を名けて天皇御謀謀反(ママ)と云ふ。これ鎌倉は其名天

皇たらざるも、其実、国家の最上権力を掌握して、民政の局に当るに、朝廷、故なく兵を動かしたるを以て、実際の権力を有するは、即ち主権者なりと信ずる当時の政治思想より生じたる結果也。故に史家はまた他年、北条氏が奉ずる将軍、宗尊の北条氏を謀るや、また之を記して将軍謀叛と云ふ、これまた実際国家の最上権力を有するものに抗したるが故也。君臣の名存するも、実際此の事あるを以て当時一般の政治思想を見るベき也。(三六一〜三六二頁)

 「天皇御謀叛」に対する三叉の態度は、素朴な考証主義に立つ重野とも、また大義名分論を振りかざす蘇峰とも異なる。すなわち、三叉は、朝廷による討幕活動に「御謀叛」という熟語が用いられた現象を掘り下げ、権力の所在を鎌倉幕府に認める当時の政治思想に光を当てたのである。あわせて、後の文永三年(一二六六)に、将軍宗尊親王による北条氏打倒の陰謀が「将軍謀叛」と称された事実(6)にも注目し、鎌倉後期の幕府における真の権力者が北条氏であったことを喝破しているのも、明治の歴史家では並々ならぬ着眼である。ちなみに、三叉と同様の見解を示す研究は現代にもあるが(7)、先行する三叉の所説が取り上

げられることは少ない(8)。

 この三叉の非凡な史眼を参照するとき、後年の蘇峰が『国民史』で見せる態度と、大きな懸隔を感じざるをえない。しかし、この相違は、当初からのものではなかったようである。蘇峰初期の史論である『吉田松陰』(民友社、一八九三年)は、三叉の『二千五百年史』の三年前に出版されたものだが、その「第三 徳川制度」には次のような一文が見える。忠義を以て社会の生命としたるは、徳川治政より始まる。其の以前に於ては、人と人との関係は、力の関係にあらざれば、情の関係、情の関係にあらざれば、利の関係なり。さればこそ北条の尾足利の首に於ては、『天皇御謀反』の新熟語も出で来りたるなれ。徳川氏に到りては、人と人とを信念の大本たる理を以て繋ぎ、忠義なる空文に大義名分てふ力ある哲理的の解釈を応用したり。(二一〜二二頁)

 これによれば、蘇峰は、近世以前の社会で「利の関係」が大きな意味を持ったとし、それゆえに、中世の鎌倉・南北朝時代において「天皇御謀叛」という熟語が登場したと論ずる。そして、近世に入って人間関係が「信念の大本たる理」で繋がれ、「忠義なる空文」に大義名分という「力ある哲理的の解釈」を応用するに至ったと述べるのである。「天皇御謀叛」を生み出した社会的力学に注目する一文からは、明治中期の蘇峰ならではの柔軟な思考が読み取れる。「忠義なる空文」というフレーズも、後年の蘇峰の作品には見られない思い切った表現である。先の三叉と同様に、この時期の蘇峰もまた民間史学を代表する史論家たるの名に背かない。

 しかし、日清戦争後の三国干渉を契機とする蘇峰の思想的転回は、その史論にも硬直化を生じさせる。右の『吉田松陰』は、明治四十一年(一九〇八)十月に、改訂版が民友社から出版されるが、反体制の革命家として描かれた初版の松陰と異なり、ここでの松陰が国体論者・帝国主義者に変貌したことは、蘇峰研究ではよく知られている(9)。

 先ほど引用した一文にも入念な手入れが施され、「尊王の精神は、大和民族成形の当初に淵源す。然も中間武臣政権を執り、其義晦没する一日にあらす(ママ)」という一文が、段落の頭に加えられた(四八頁)。日本民族にあった尊王精神が、中世武家政権の登場とともに、長らく埋没したという意味だが、これが文頭に加えられると、問題の「天皇御謀叛」という熟語も、おのずと否定的な意味づけがなされる。初版の「忠義なる空文」というフレーズも、改訂版では「忠義なる文字」に改められた(四九頁)。かくして、蘇峰の史論にリゴリスティックな面が肥大化していく。

 この思想的に変貌を遂げた歴史家蘇峰に、やがて芽生えたのが、考証主義に立脚する官学アカデミズムへの反感であった。『国民史』第一巻「織田氏時代 前篇」において、「天皇御謀叛」に関わって重野安繹に一撃を与えたのは、その端緒である。第二章で見たように、蘇峰は『国民史』の材料収集に関して、東京帝国大学史料編纂掛にかなり世話になっているが、肝心の歴史観は借り物ではない、という自負心は強かったと考えられる。

 そして、『国民史』執筆の順調な進行、蘇峰会(後援団体)による全国的な宣伝活動、『国民史』の普及版出版に基づく読者の増加などに加えて、大正十二年(一九二三)の学士院恩賜賞の受賞、昭和七年(一九三二)の有栖川宮記念学術奨励金の下賜といった絶大な名誉を得たことは、蘇峰に大きな自信を与え(10)。このような背景のもとに、最初に取り上げた講演「水戸史学に還れ」にうかがえるような、官学アカデミズム批判が遠慮なく展開されたのであろう。

 この蘇峰の態度は、戦後に入ると一層激しさを増す。近年公開された口述日記『終戦後日記(頑蘇夢物語)』でも、官学アカデミズムの研究が「日本精神の昂揚、忠君愛国思想の涵養には、何等影響を与うる所なかったようである」と述べ、「一老書生の頼山陽の片腕にも、値しなかった」と辛辣な評価を与えている。そして、蘇峰は、「明治、大正、昭和の三代を通じ、歴史家らしき歴史家もなければ、歴史らしき歴史もなかった事は、我等が最も遺憾とする所である」という極言を憚らない(11)。戦後、逆境に陥っただけに、官学アカデミズムに対する蘇峰の敵意はますます燃え盛っていた。

 官学アカデミズムに散々な酷評を与えたのに対して、戦後の蘇峰が賞賛を惜しまなかったのが、自己が明治二十年(一八八七)に起こした民友社の歴史家達であった。蘇峰は、『終戦後日記(頑蘇夢物語)』において、民友社が明治期の歴史学に大きな寄与・貢献をなしたことを自讃しつつ、自己の出世作吉田松陰』はもちろん、山路愛山・塚越停春・竹越三叉・森田思軒・朝比奈知泉ら、往年の知友の手になる作品群を示し、これを官学アカデミズムの中心的な学術雑誌であった『史学会雑誌』(のち『史学雑誌』)に対置している。そして、蘇峰は、後者について、「官学の臭気氛々として、何等全国の史情史感を惹起するに足るものはなかった」として、ここでも歯に衣着せぬ論評を加える(12)。

 このように、蘇峰は、明治以降の歴史学界を批判し、東京帝国大学史料編纂所についても史料収集の成果しか認めない。そして、皇室中心主義とナショナリズムの立場に基づき、考証史学からの脱却と、水戸学の精神の復活を叫んでやまなかったのである。

 

第二節 平泉澄の官学アカデミズム批判

 さて、次に注目したいのは、官学アカデミズムの出身者である平泉澄も、蘇峰と同様に、史料編纂所に受け継がれた考証史学の学風に対して、批判的な考えを抱いていたことである。

 平泉についてしばしば取り上げられる史料に、『出隆自伝』の一節がある(13)。すなわち、平泉は、昭和十一年(一九三六)十一月に『万物流転』(至文堂)を出版する少し前、同僚でギリシャ哲学の専門家であった出隆(東京帝国大学教授)を訪問し、哲人ヘラクレイトスの「パンタ・レイ」(万物流転)の説について質問することがあった。出が、「万物流転」の主旨について、

万物の闘争・流転、その不断の新陳代謝のうちに、一貫する一つのロゴス(言葉・理法)があって、この言葉を聴き取る者(原注略)のみが真の知者だというにある。

という説明をしたところ、感服した平泉はにわかに多弁になり、史料編纂所について、

史料編纂所の先輩や同僚が、ただ日本の・帝室関係その他の・昔からの史料を、ごたごた寄せ集め書き写すだけでその編集方針が一定せず、「我が大日本の肇国以来の歴史」を一貫する「大精神」―ヘラクレイトスのいう「ロゴス」―を忘れて、なんでもかんでも寄せ集めて羅列するだけだから「歴史」になっていない。

という批判を示したという。ここで問題となるのは、平泉の言う「大精神」の内容であるが、これを論ずる前に、東京帝国大学の出身である平泉が、官学アカデミズムに対して批判的な姿勢を取った背景について考察を加えておく必要がある。

 これより先、大正十四年(一九二五)五月に、平泉が発表した「歴史に於ける実と真」(『史学雑誌』第三六編第五号(14))では、「明治以来の学風」が分析・考証に比重を置くあまり、総合を欠落させたことが問題視されている。この論文には、つとに大隅和雄が指摘したように、平泉が親しんだクローチェの著作からの影響が看取され、クローチェの『歴史叙述の理論及歴史』を訳出した羽仁五郎との同質性を見出すことができる(15)。ただし、若井敏明によれば、このような歴史観は、すでに平泉が大正八年(一九一九)一月に発表した、津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究 平民文学の時代 上』の新刊紹介(『史学雑誌』第三〇編第一号「彙報」)における、

単に無味乾燥なる履歴書の考証のみに止るならば、史家の眼前に現はれ来る古人はひやゝかなる機械的の存在に過ぎない。(一三九頁)

という一節に現れているという(16)。

 これに関わって注意すべきは、平泉と同様の問題意識を、平泉以前の世代に属する歴史学者の一部がすでに抱いていた事実である。とりわけ、明治三十三年(一九○○)に発表された内田銀蔵の「歴史の理論及歴史の哲学(17)」は、官学アカデミズム内部における考証史学からの脱却を表明した重要な業績であるが(18)、平泉そのひとの歴史観の直接的前提を探る上では、むしろ内田の同期で平泉の恩師にあたる黒板勝美の存在に注目する必要がある。

 黒板の歴史観については、近年多くの研究者によって検討が行なわれている(19)。こ

れらの成果を約言すると、黒板の歴史観はすぐれて本質主義的であり、考証主義批判の姿勢を示した点に特徴を見出せるようである。この研究動向をうけて、渡邉剛は、黒板が大学院時代から考証主義の学風を批判していた事実に注目し、これが大正期以降の活発な研究活動に結実したことを踏まえつつ、官学アカデミズムの枠に止まらない黒板の特異性を簡潔に指摘している(20)。首肯すべき見解である。

 平泉が官学アカデミズム内部の批判者であった黒板に師事したことは、平泉の歴史観に重大な影響を及ぼしたと考えられる。とくに、第三章で取り上げたように、平泉は黒板の後継者としての立場を占めただけに、考証主義への批判的姿勢を引き継ぐことは、ある意味で当然の使命でもあった。若井敏明や渡邉剛は、関東大震災後における国史学研究室の設置の背景に、史料編纂掛から国史学科を独立させようとした、黒板・平泉師弟の構想を読み取っている(21)。かかる現象面からも、官学アカデミズムにおける黒板と平泉の特異性が浮き彫りになる。

 以上、先学の成果をまとめてきたが、筆者は、黒板以前にも、平泉に対して、考証史学の史風に沈潜することを誡めた人物がいたのではないかと推測している。その人物とは、田中義成である。

 第一章で触れたように、田中こそは、学生時代の平泉が親しく指導を受けた学者であった。その田中が、明治四十五年(大正元年、一九一二)三月に史学会例会で行なった講演「史学の活用」は、史料編纂官であった田中としては珍しく、考証主義への警鐘を鳴らす内容である。この講演の記録(22)から、晩年の田中の主張をくわしく見ておきたい。

 まず、田中は、講演の劈頭で、史学が「単に考証的研究の一方にのみ進んで行くと史学と社会との関係が段々と遠くなつて了ふのである」と述べ、歴史の研究が専ら考証面で発展してきたことを「史学上の大進歩」と評価しつつも、「それと同時に一方に於ては史学は漸くその活用の方面を欠く樣になつたのである」という、否定的な感想も示している。そして、明治維新以前までの史学は政治学でもあり、各時代の政治家は史学に通暁していた。しかし、明治の政治家はほとんど史学を忘れてしまっていると述べ、「此の如く史学と政治と段々相離れるに従つて史学と社会との関係も追々に遠くなつて了つたものだらうかと思はれる」という憂慮を示す。

 さらに、田中は、歴史学者の本分を「社会の事に一向頓着なく只管自己の学問を研究して居る」ことに求め、「この本分はどこまでも守らなければならぬ」と断りつつ、同時に「其の学問を以て大いに社会の為めに活用して国家に貢献すると云ふことも亦必要であらうと思ふのである」と述べる。そして、政治家の方も、学者の研究の結果を尊重して大いに活用する。こうして両者相まってこそ、「史学の効果」が現れてくるだろうという考えを提示している。

 以上は、田中の講演の序論にあたる内容の要約であるが、本論では歴史の盛衰と国家の盛衰が一体であるという観点のもとに、日本書紀の編纂から江戸時代における歴史書の普及に基づく勤王思想の勃興までを扱っており、一種の概括的な日本史学史の趣きがある。

 そして、田中は結論において、政治家が史学を尊重すべきことを説き、「苟も政治に携はる人が一向に史学を知らないで唯目前の形勢ばかりを見て進んで行ふといふのは丁度旅行する人が地図を持て(ママ)居ないのと同じであらうと思ふ、どんな所に迷ひ込むか分からぬ」と述べる。その上で最後に、歴史学者も古い事を考証・研究するばかりでなく、「言論の自由なる現代」において、「遠慮なく時事問題に触れて史学上から議論を試むる様にしたい」という希望を示し、「史学者の中からも大政治家の出でんことを望むのである」と期待を込めつつ、講演を結ぶのである。

 この田中の講演については、すでにマーガレット・メールや阿部猛らが言及している。メールは、田中が、考証学の伝統に基づく史料批判への過剰な依存を批判したものと理解し、南北朝正閏問題の直後であるにも関わらず、言論の自由を力説した点に注目する。そして、田中が、史学が学問外的な要求に応えるべきことを容認していたと指摘する(23)。

 また、阿部は、この講演を、一般に実証史家として知られる田中の「いまひとつの側面」を示すものとして注目し、「田中の立場は、ランケ史学以前の考証学の系譜、小中村清矩らの主張に直接つらなるものであった」と評価する。すなわち、前近代の国学や漢学のような、政治・道徳の資となる「応用史学」の性質を読み取るのである(24)。

 メールや阿部の見解を踏まえると、田中が考証史学の発達に、必ずしも肯定的ではなかったことは確かである。それどころか、歴史学と政治・社会の乖離に深刻化をもたらした原因とさえ考えていた。

 重要であるのは、この講演が、平泉が東京帝国大学に入学する、わずか三年前に行なわれたことである。すでに第一章で取り上げたように、平泉が執筆した自叙伝の草稿の一部である「赤門(25)」には、大学入学後の平泉が、史料編纂掛にあった田中の部屋を頻繁に訪問し、そこで田中の教えを請うたことが見える。第一章では、平泉が田中から研究法や史料批判、さらには卒業論文に向けての指導を受けたことを指摘したが、同時に歴史研究に取り組むにあたっての心構え、具体的に言えば考証への過度な沈潜に注意するよう、田中から訓戒も受けたのではないだろうか。

 このように筆者が考えるのは、若井敏明の見解を念頭に置いてのことである。すなわち、若井は、平泉が元来、少年時代から史書の考証や空想を好む性格を持っていたことに注目し、「歴史哲学を論じたり、皇国護持の歴史学を唱導したのは、ある意味ディレッタンティズムに傾くことを自戒する性質があったようにも思うのである」という興味深い推測を示している(26)。確かに、第四高等学校時代の平泉が、校友会の雑誌である『北辰会雑誌』に発表した文章は、歴史考証が多い(27)。それだけに、考証癖を持つ若い平泉に対して、田中が「史学の活用」で述べた趣旨の教訓を与えた可能性は、十分にあると考えるのである。

 田中は、大正八年(一九一九)十一月四日に亡くなるが、その二日後の十一月六日に、当時大学院生であった平泉が記した「前本会評議員田中博士の逝去を悼む」という追悼文が、『史学雑誌』第三〇編第一一号(一九一九年)の「彙報」に掲載されている。この中で平泉は、次のように述べる。田中先生を以て、その齢六十歳に達して居られたのを以て、学問も古かつたらうと云ふ人があるならば、我等大に異議がある。先生の学問は新らしかつた。あの老齢に、別に洋書も御読みにならないのに、どうしてあんなにfresh な頭をもつて居られたか、私は不思議に思ふ。数年来の各所の講演など実に卓見が多い。殊に先生の御精神がうれしい。

 ここで平泉は、田中の学問を「新らしかつた」と明記し、「freshな頭」を持っていたと特筆している。何を以て新しいとするのか、何ゆえにfresh なのかが明瞭ではないが、平泉の言いたかったのは、田中が考証史学に練達した歴史学者でありながら、一方で考証に惑溺しない見識を備えていた、ということではないか。先に取り上げた若井敏明の見解によれば、平泉は、追悼文を記した大正八年の初頭には、すでに考証主義の限界を指摘していた。その平泉が田中の学問の清新さを賞賛したのは、それは単なる考証の史風だけが理由ではあるまい。そこには必ずや田中が「史学の活用」で示したような見識も含まれていたはずである。

 その上で、いま一度注目したいのは、田中が、「史学の活用」において、史学と政治の接近を勧めるだけではなく、歴史学者も時事問題に触れて史学上から議論を試みるべきである、という提言を行なったことである。加えて、田中が「史学者の中からも大政治家の出でんことを望むのである」という希望を示したことも興味深い。この文面からは、『南北朝時代史』などで知られる、実証史家田中には似つかわしくない政治意識が顔をのぞかせている。しかし、阿部猛が指摘したように、これも田中の持つ「いまひとつの側面」であることは認めなければならない。

 さてそこで、戦時下で、もっとも政治に接近し、「大政治家」に比肩する活動を展開した歴史学者こそ、他ならない平泉澄であった。そうすると、奇矯な見方かもしれないが、平泉は、晩年の田中が後進に示した期待を、田中の思量を遥かに超える形で実現したといえないだろうか。

 戦後、佐藤進一は、田中の『南北朝時代史』に示された実証的な研究と、平泉とその学派が展開した南朝正統主義に基づく名分論的な研究を対置し、平泉を超えて、「田中以前にもどれ」という主張を行なった(28)。この田中と平泉の研究を対置させる見解そのものは、不動の断案と考えるし、平泉学派が戦時下で田中の南北朝観に厳烈な批判を加えた事実(29)

を軽視するわけではない。しかし、晩年の田中が示した「史学者の中からも大政治家の出でんことを望むのである」という期待に応えた人物は、平泉を措いて他にはいない。この事実を見るとき、ある意味で平泉は田中義成の継承者でもあったことは否定できないのではないか。従来、平泉史学については、ナショナリズムの面を黒板勝美から継承した点が注目されてきたが、一方で田中義成が晩年に抱いた実践的な政治意識を受け継いだ部分も無視できないと考える。すなわち、第三章で見た学説史の展開とは別の次元において、田中と平泉の師弟関係を把握することが、ここでは必要なのである。官学アカデミズムの中から平泉史学が登場した背景を読み解く上で、この問題は一つの鍵になることを指摘しておきたい。

 本題に立ち戻ると、田中義成が平泉に対して、歴史観の面においても一定の影響を与えた可能性は高いと筆者は考える。もしこの私見が当っているならば、平泉は学生時代から田中の影響のもとで考証史学に対する批判精神を培っており、これがのちに黒板勝美との関係によって増幅され、さらにクローチェに親しむことで理論化を遂げた、という道筋が描けることになる。本節の冒頭で取り上げた、平泉が出隆に示した考証史学への批判意識は、このような複雑な過程のもとに形成されたのではないだろうか。

 そして、昭和十一年(一九三六)の時点の平泉は、黒板勝美の定年退職をうけて、すでに東京帝国大学教授となり、国史学科を統べる立場にあった。それだけに、史料編纂所に対する平泉の眼差しは一層厳しくならざるをえず、編纂所の考証に沈潜する学風を露骨に批判し、国史を一貫する「大精神」を忘却していることに不満を隠さなかったのである。

 その平泉のいう「大精神」の内容を考える上では、昭和十八年(一九四三)九月に、平泉が「皇国正史」編修事業(文部省教学局の立案)について反対した「正史編修愚見(30)」に見える、次の一節が参考となる。

殊に 皇国正史の編修に当る者は、必ずや国体の根本に徹し古今の史実に通じ読んで、「君臣名分ノ誼ヲ正シ華夷内外ノ弁ヲ明ニシ以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ」と仰せられたる明治天皇の 叡慮にそひ奉らざるべからず。しかるに今日は、遺憾なれどもこの重任に堪ふべき史家殆んど見当らず。即ち或は南北両朝の対立を主張し、或は足利高氏を礼讃し、或は北条泰時井伊直弼を弁護し、大義の存するところを知らず、正邪の別るるところに暗し。

 引用文中に見える、漢字片仮名書の「明治天皇の 叡慮」とは、明治二年(一八六九)

四月四日に、明治天皇三条実美太政大臣)に下した修史に関する「御沙汰書」(東京

大学史料編纂所所蔵)(31)を指す。平泉は、この古代の正史編纂の伝統を襲う(32)「御沙汰書」を示した上で、南北朝並立の主張、または足利尊氏(高氏)の礼讃、さらには北条泰時井伊直弼の弁護といった、もろもろの事柄が学界で起きている事実を指摘し、「大義

存するところを知らず、正邪の別るるところに暗し」と批判を加えるのである。これを踏まえるならば、「御沙汰書」に謳われた内容こそ、いま問題とする「大精神」に該当することは明らかであろう。

 注目すべきは、先に取り上げた蘇峰の講演「水戸史学に還れ」においても、明治天皇の「御沙汰書」を重視し、これを水戸学の根本精神に繋げることである。すなわち、蘇峰は、「御沙汰書」の「君臣名分ノ誼ヲ正シ」が皇室の尊重に、「華夷内外ノ弁ヲ明ニシ」が世界に比類ない日本の国体の絶対性の明示に、「以テ天下ノ綱常ヲ扶植セヨ」が善悪・忠奸の区別に、それぞれ該当すると論じている。

 以上をまとめると、蘇峰と平泉は、史料編纂所の祖型であった明治期の修史事業が、明治天皇の「御沙汰書」から出発したにも関わらず、その精神を喪失したことを問題視するのであり、考証史学批判という点において、二人は同じ戦線に立っていた。民間史学の蘇峰と、官学アカデミズム出身の平泉、元来異なる立場にあった二人が強固に結び付いたのは、以上のような思想的背景が大きかったことを指摘しておきたい。

 ただし、近年のマーガレット・メールや秋元信英の研究によれば、明治の修史制度は、すでに明治二年二月頃から整備が始まっており、とくに秋元は、蘇峰や平泉が尊重した「御沙汰書」が、政府や宮中での合意形成をうけて発せられたものであったことを明らかにしている(33)。すなわち、明治天皇の叡慮に基づいて修史事業が開始されたというのは、後年につくられた歴史解釈に過ぎなかったのである。その意味では、蘇峰と平泉のいずれも、明治初期の修史事業の実態を正確に把握していなかったことになる。

 

第三節 徳富蘇峰平泉澄と『大日本史

 さて、蘇峰と平泉が、史料編纂所を中心とする官学アカデミズムの考証史学や唯物史観に対抗する上で、重大な精神的支柱としたのが、水戸学と『大日本史』であった。蘇峰が水戸学と『大日本史』を高く評価したことは先に触れたが、いま少し『大日本史』をめぐる蘇峰と平泉の思想的態度について考察を続けたい。

 戦後の蘇峰が、口述日記『終戦後日記(頑蘇夢物語)』において、民友社を本拠とする歴史家達の果たした役割を高く評価し、官学アカデミズムよりも上位に位置付けたことは、先述した。さらに、蘇峰は、明治以降の官学アカデミズムが、大義名分や国体を軽視したのに対して、民友社が「水戸学の再興についても、頗る貢献する所があった」とし、

しかるに民友社では、唯物史観の外に、精神史観なるものの存在する事を明かにし、水戸学が多くの欠点があり、更にその学の紹述者中には、余りに固陋頑僻の徒があったに拘らず、維新の大改革には、薩長の武力と並んで、水戸学の精神力は、仮令具体的にはこれを計上する事が出来ぬにせよ、寔に多大のものであった事を、示す事が出来た。固より水戸学を復活再興せしめたのは、民友社の力のみではない。しかし民友社を除外して、これを語る事は不可能である。

という自負を示している(34)。すなわち、民友社の歴史家は、水戸学に多くの欠点が含まれており、かつ一部の水戸学者に「固陋頑僻の徒」がいることを認めながらも、明治維新の原動力として、水戸学の「精神力」の意義があったことを知らしめ、「水戸学を復活再興」する上で大きく貢献した、というのである。

 ただし、このような蘇峰の主張を、額面通りに受け止めることは禁物である。ここで、蘇峰とともに民友社の民間史学を代表した竹越三叉、そして山路愛山らの水戸学観を確認しておく必要があろう。

 まず、竹越三叉が、明治二十四・二十五年(一八九一・九二)に民友社から出版した『新日本史(35)』を見ておきたい。同書は、民間史学による明治維新史の嚆矢をなす名著であるが、その中巻の冒頭に「維新革命に関する根本思想及び皇位性質の変遷」という節が設けられている。ここで注目すべきは、三叉が明治維新を「復古的革命」ではなく、「乱世的革命」であると断言することである(36)。また、勤王論や国体観念についても、「乱世的革命」への「口火」としての役割を認めるものの、それ以上の評価は与えない。さらに、三叉は、『大日本史』についても、次のように述べる。

去れば平田篤胤の著書、及び大日本史日本外史等の文書が、勤王の精神を鼓吹したるを以て、革命に与つて力ありと為すもの、是れ実に蛍火を認めて星光となすのみ。(中略)また大日本史が、天子は日本唯一の正統の君主なるを示し、日本外史が武門の専権を痛論して、天子の不幸を傷むの情を示したるや事実也。然れども活版によりて印行せられたる平田の書は、博く読まれたりと難も、譟語険論以て人を動かすに足らず、大日本史の如き、日本外史の如きは、当時にありては博く人に読まるゝの機会なく、天下の勢力となるに足らざりし也(37)。

 すなわち、三叉は、近世の末期に流布した平田篤胤の著作であっても人心を動かしたわけではなく、ましてや多くの読者を獲得しなかった『大日本史』や頼山陽の『日本外史』が、勤王論の勃興に大きく作用したとは考えないのである。戦後の蘇峰の主張とは異なり、往年の三叉が水戸学と『大日本史』に向けた眼差しは、まさしく冷厳そのものである。ここには、水戸学を明治維新の重大な原動力とする観点は、少しも認められない。

 次に、山路愛山については、明治三十三年(一九〇〇)七月に、『国民新聞』に発表した「史学論(38)」にある次の一節が、愛山の水戸学観を端的に表している。

   近世の日本史学を開くものは水戸学なり。而して近世の日本史学を害するも

のも亦水戸学なり。(中略)

   水戸学の習癖とは何ぞや。差別の見甚しくして古今東西を貫ける国家盛衰の

原理、人事興亡の法則を看取すること能はざること是也。

 これによれば、愛山における水戸学とは、日本史学の重要なパイオニアであると同時に、愛山の生きる明治の日本史学を「害するもの」でもあった。文中の「差別の見甚しく」とは、恐らく大義名分や道徳的・倫理的評価に基づく歴史観のことであろう。さらに、愛山は、この前文において、「史学は科学なり。故に其中に因果の理法もなく、前提及結論もなく、一つの法則をも、一つの原理をも教へざるものは史学に非ず」と喝破しており、これを踏まえるならば、「古今東西を貫ける国家盛衰の原理、人事興亡の法則を看取」しえない水戸学は、新時代における史学の資格を欠くということになる。ここには、戦後の蘇峰が強調するような、日本精神の昂揚や、忠君愛国思想の涵養といった面からの評価は、まったく示されていない。民友社と関係した時期の愛山に、水戸学の復活や再興というような意識は毫もなく、大義名分論を突き放す態度さえ認められる。

 もちろん、愛山は水戸学の全てを否定したわけではない。明治四十五年(大正元年、一九一二)に愛山が出版した『訳文 大日本史』全五冊(後楽書院)は、『大日本史』の本紀・列伝の部分を訓読した労作であり、『大日本史』に対する敬意なくして、このような大部の書物を編纂したとは考えられない。そこで重要であるのは、愛山が『大日本史』をいかなる点で評価したかであるが、それは、凡そ現代の所謂進歩したる史学と雖も、材料の範囲及び其の批判の法に於ては、遂に大日本史作者の模型を出づる能はず。我等の大日本史に対して深くして大なる敬意を懐く所以は、実に此に在り(39)。という一文に、端的に表れている。すなわち、日本の歴史学に史料収集・史料批判の方法を成り立たせ、近代史学への道筋を切り開いたこと、愛山が『大日本史』を高く評価する理由は、ここにあった。愛山が右の一節を含む「大日本史紀伝編脩始末」を脱稿したのは、明治四十五年一月のことであったが、前年にかの南北朝正閏問題が起きていたにも関わらず、愛山の文章には、ジャーナリスティックな脱線は見えない。水戸学の南朝正統論についても、あくまでも『大日本史』による史実の研究結果であるとして淡々と扱うのである。

 要するに、明治期における民友社の活動を水戸学に結び付ける蘇峰の主張は鵜呑みにはできず、竹越三叉・山路愛山ら民友社に集った歴史家達が、こぞって水戸学の復興を意識したとは考えられない。さらに言えば、青年期の蘇峰自身についても疑問である。これは、あくまでも、「皇室中心主義」に立つ蘇峰が、戦後に官学アカデミズムを批判する上で強調したストーリーに過ぎないと見るべきであろう。ここに老いた蘇峰の悲哀がある。

 さて、戦後に入ってしばらく経った昭和三十二年(一九五七)は、徳川光圀が『大日本史』編纂に着手した明暦三年(一六五七)から数えて満三百年に当る年であった。平泉の門下にあたる名越時正は、これを記念すべく、『大日本史の研究』の出版と記念講演会を企画した

(40)。とくに、前者は、北畠親房死後六百年記念の『北畠親房公の研究』(日本学研究所、一九五四年)に引き続き、平泉と、久保田収を筆頭とする平泉門下の総力を結集した論文集であり、立花書房から出版された。その前年の昭和三十一年三月十日に、東京銀座の「平泉歴史研究室」にいた平泉が、静岡県熱海の蘇峰に宛てた書簡(徳富蘇峰記念館所蔵)には、

今年は水戸義公(筆者注、徳川光圀)が大日本史編纂の事を始められし明暦三年より正に三百年に相当致し候間、記念の為に「大日本史の研究」といふ書物をつくり、之によつて国史の光をかゝげ、混迷の学界・思想界の一つの指針といたし度存じ、約二十名の学者を糾合いたし、目下各原稿執筆中に御座候。ついては、右書物の巻頭に先生の玉稿をたまはり、高邁の御識見、雄渾の御文章を以て、天下の義気を鼓舞していたゞき度、此事一同の熱望に御座候。

と見える。これによれば、『大日本史の研究』の出版は、平泉らが理想とする「国史の光」をかかげ、戦後における「混迷の学界・思想界の一つの指針」にすることに、眼目があったことがわかる。そして、平泉は畏敬する蘇峰の文章を巻頭に配すべく、寄稿を切に懇願したのである。

 当時、蘇峰は九十三歳の老齢であったが、反応は迅速であった。同年三月十四日付で平泉が蘇峰に発信した礼状(徳富蘇峰記念館所蔵)によると、蘇峰はただちに使者を東京に遣わし、後期水戸学の中心的人物であった藤田幽谷の画像一幅を平泉に贈るとともに、寄稿を快諾する旨を連絡したという。平泉は、礼状で「あゝ先生の後輩を誘導し給ふ事、至矣尽矣、感激に堪へ申さず。これより一層奮励、御愛顧に報じ度念願に御坐候」と感激を隠さなかった。

 しかし、『大日本史の研究』の巻頭を飾ったのは、蘇峰の文章ではなく、平泉が執筆した論文「大日本史概説(41)」であった。それは、昭和三十二年(一九五七)十一月二日に、蘇峰が九十四歳を一期として、この世を去ったからである。

 平泉の「大日本史概説」の内容は、徳川光圀が『史記』伯夷伝を読んだ感奮に始まり、『大日本史』とそれに付随する種々の編纂事業についての概観、三大特筆の意義と、明治維新の原動力としての重要性を説いたものである。そして、論文を結ぶにあたって、平泉は次の逸話を示す。すなわち、昭和三年(一九二八)の秋頃、平泉は、哲学者として著名な西田幾多郎を、京都の西田の自宅に訪問し、教えを請うた。その時、西田は、

明治以来、我が国の歴史学は、西洋史学の影響を受けて、長足の進歩を遂げたとは、しばしば耳にする所であるが、自分の見る所を以てすれば、明治大正の間、歴史の名に値するほどの著述は、一つも無い。むしろ我々の考へてゐる歴史といふものから見て、真に歴史と云つてよいものは、水戸の大日本史があるだけである。

と述べたというのである。平泉が西田と対面したのは、生涯この一度だけだったようだが(42)、西田の発言から受けた感銘は計り知れないものがあった。また、平泉は、右の逸話を紹介した上で、西田から送られた同年十二月十六日付書簡(43)に見える、

私共は、従来の歴史家が、徒らに些細の考証に流れて、その背後にGeist をつかむ歴史の本質を忘れてゐたことを、遺憾としてゐたのです。

という一節を引用している。これらを総合すると、西田の近代史学に対する評価はすこぶる厳しく、官学アカデミズムを中心とする考証史学の学風が盛んとなった結果、歴史の本質が忘却されたと、批判的に見ていたようである。この官学アカデミズム観は、先に見た蘇峰のそれと見事に一致する。さらに、西田が理想的な歴史と評するのが、他ならぬ『大日本史』であったことも見逃せない。

 こうして蘇峰を喪った平泉は、哲学者西田の見解を回顧しつつ、『大日本史』を「国史の光」としてかかげ、水戸学の精神を日本史学の根本に据えた(44)。そして、平泉は、戦後民主主義に対抗する国体護持史観の歴史家として、その後も歩み続けていくのである。

 ところで、平泉の歴史観は、徹底した人格主義に立脚する点に、重大な特色がある(45)。すなわち、歴史上で模範的人格と考える人物を「先哲」や「忠臣」、あるいは「義士」と称して仰ぐ(46)とともに、不可能を可能とする「異常の力」を発揮する人物を「英雄」と呼んで(47)、時代の変革を推進する主体とみなすのである。

 さらに、平泉は、「先哲」「忠臣」「義士」の対極に位置する人物に対して、「不忠」「不義」

「不敬」などの評価を下す。そして、これに関係するものは、人物や制度を問わず、厳しい位置付けを行なう。一例を挙げると、承久の乱後鳥羽院以下の三上皇を遠国に配流し、あるいは降伏した京方の武士をその親族に斬らせた北条泰時について、平泉は、「忠孝の大義には、終始くらかつたといふの外はない」という評価を下している(48)。

 このような平泉の歴史観は、大義名分に主軸を置き、道徳的・倫理的評価を史的事象の上に加えた水戸学の態度に通じるものがある。けれども、泰時は鎌倉幕府の執権であったのだから、その政策について、政治史あるいは国家史的な観点から得失を論じ、さらに幕府の歴史的評価に及ぶことは、中世史に深い造詣を有した平泉であれば、十分に可能であったはずである。実際に平泉本人も、大正九年(一九二〇)九月の明治聖徳記念学会第七一回例会で行なった講演「東照宮の造替に就いて」で、

どうかすると幕府を常に仇敵の如く見る人もありますけれども、日本歴史の全体の経路から見て武家政治が如何に貢献をなしたかといふ事を、大所より観察考究いたしまするならば、今日幕府に対する悪感情は和らげられなければならないと思ひます(49)。

と述べているので、先入観を取り払った武家政権研究が必要であることは、大学院生の時代によく認識していたのは明らかである。

 しかし、平泉の著作には、そのような考察はついに見られない。晩年の『明治の源流』(時事通信社、一九七〇年)でも、北条泰時が貞永元年(一二三二)に『御成敗式目貞永式目)』を制定したことに言及するが、泰時に対して君臣の大義を訓戒したという伝承を持つ高僧明恵が同年に入滅したことの方が、「わが国の歴史に於いて極めて重大であり、その重要性は、貞永式目の制定よりは遙かに上位に在るといってよい」(六五頁)と断言する。平泉らしい評価であるが、中世社会に重大な影響を及ぼした式目の制定と、明恵の入滅とを、同一観点のもとに並べ、以て優劣を定めることは、歴史家の態度として均衡を欠くのではないだろうか。

 このような人格主義の絶対化が平泉史学にもたらした影響を考える上で、平泉門下の市村真一(経済学者)が示した見解は示唆に富む(50)。すなわち、市村は、平泉の著作において「制度に対する言い方が、少し軽すぎるという感じがする時がある」と述べるとともに、平泉が「制度は時の宜しきを得れば良い(51)」と書いたことに対して、「そうであるか。制度はいかにして形成されたか。ある時代のどういう条件が、どんな制度を作ったのか、はもっと解明しなければならない。この制度を軽く見るのは、東洋思想の欠陥です」と率直な疑問を呈している。

 さらに、市村は、「制度論を時代の要請に応えて吟味する、どういう制度がどこに欠陥があったからそれが崩れたのか、といった問題をもっともっと日本の歴史の上でも解明しなければならない」と述べ、例えば幕藩体制が、「摂関政治あるいは院政といった日本の王朝制度と、どこがどう違って、各々の長所短所はどうだったか。そういう研究をもっともっとしなければならない」と提言している。要するに、市村は、人格主義に立脚する平泉史学に、社会科学的な分析力が欠落していたことを、鋭く指摘したのである。平泉史学に対する冷静な批評である。

 市村の文章を一読した時、筆者がただちに想起したのは、先に取り上げた山路愛山の「史学論」に見える、「水戸学の習癖とは何ぞや。差別の見甚しくして古今東西を貫ける国家盛衰の原理、人事興亡の法則を看取すること能はざること是也」という一節であった。

 先述したように、「差別の見甚しく」とは、大義名分や道徳的・倫理的評価に基づく歴史観と考えられるので、これは人格主義に基づく平泉の歴史観に通ずる。さらに、「古今東西を貫ける国家盛衰の原理、人事興亡の法則を看取すること」とは、市村の重視する社会科学的な分析に基づく制度研究として読み換えることが、十分に可能である。

 してみれば、かつて愛山が水戸学に対して放った批判と、市村が平泉史学について示した指摘は、見事に重なると言わねばならない。ここに筆者は、『大日本史』を一つの理想とする平泉史学が抱えた、いわば宿命的なアキレス腱を見て取るのである。

 

おわりに

 以上、本書では、大正期から昭和戦前期にかけての徳富蘇峰平泉澄の交遊関係を明らかにするとともに、明治・大正期に活躍した代表的な歴史家たちとの比較を通して、蘇峰・平泉の時代区分論の特徴、史料収集の具体相、歴史観国粋主義化、官学アカデミズム(考証史学)への批判、などの諸問題について論じてきた。各章の考察で得た成果は、それぞれの末尾に要約を示したので、ここで繰り返すことはしない。筆者の目指すところは、近代の歴史家の中で、ひときわ特異な光彩を放った蘇峰と平泉を通して、官学アカデミズムと民間史学が交錯した近代史学史の一断面を描くことであったが、二、三の点描に過ぎず、果たして所期の目標を達成し得たかどうか覚束ない。ひとえに大方の批正を仰ぐばかりである。

 蘇峰と平泉の関係は、本書で扱った時期に限定されるものではなく、昭和戦後期にも範囲を広げて本格的な考察を加える必要があるが、今回は末尾で部分的に言及するに止まった。論の及ばなかった点については、本書に付載した平泉の蘇峰宛書簡群(徳富蘇峰記念館所蔵)、また晩年の平泉が紹介した蘇峰の平泉宛書簡群(52)を素材として、近く別の機会に詳述する用意がある。

 とくに、戦後しばらく平泉寺白山神社に閑居していた平泉に対して、熱海の蘇峰が公職追放解除の申請を強く勧め、あるいは東京への復帰と活動の再開を励ましたことは、平泉のみならず、戦後史を考える上で重要な史実である。また、平泉が蘇峰に宛てた昭和二十五年(一九五〇)四月二十六日付の書簡には、マルクス主義歴史学の隆盛を念頭に置いて「近来偽人の偽史跋扈」と憤慨し、官学アカデミズムの基幹学術雑誌たる『史学雑誌』の変貌についても、「百鬼夜行の態に御坐候」と慨歎を隠さない。これらは、同じ書簡にしたためられた辻善之助に対する皮肉とともに、平泉の戦後歴史学観が率直に示されている。別稿においては、これらの諸問題を中心に検討を加えていきたい。

 

終章 注

1この講演は、紀元二千六百年記念事業の性格を持っていた。紀元二千六百年を記念して、水戸学に関する講演が活発に開催された事実については、芳賀登『近代水戸学研究史』(教育出版センター、一九九六年)七四〜七八頁参照。

2徳富蘇峰『水戸史学に還れ』(水戸市役所、一九四〇年)。

3『東京学士会院雑誌』第六編第五冊(一八八四年)。蘇峰の『国民史』は、『史論』第一号(一八九二年)に転載されたものに依っている。本章での引用は、『日本近代思想大系』第一三巻歴史認識岩波書店、一九九一年)による。

4重野は、天保期の儒者摩島松南が詠じた漢詩に見える、「天皇謀叛叛二何人一」という一節を挙げる。この漢詩は、『天保三十六家絶句』巻中に所収されている。

5のちに平泉澄も、「中世に於ける国体観念」(『岩波講座 日本歴史』岩波書店、一九三三年)

において、国体観念の乱脈を示すものとして、「天皇御謀叛」の熟語に注目している(三四〜三五頁)。

 なお、蘇峰は、重野を批判するが、もともと重野は蘇峰の父一敬にとって友人であり、蘇峰も若年の頃には詩文の手直しを受けたことがあるという。これについては、注(2)前掲徳富講演録一八頁、高梨光司「続古堂遺筐に就て」(『維新雑史考』私家版、一九三四年)一二二〜一二四頁参照。

6宗尊親王の「将軍謀叛」については、『新抄(外記日記)』文永三年七月九日条に所見がある。ただし、原文では「将軍御謀反」である。三叉は、前年の明治二十八年(一八九五)に出版された『続史籍集覧』所収の『新抄』を披閲し、この記事に注目したのであろう。

7貫達人「承久変論」(高柳光寿博士頌寿記念会編『戦乱と人物』吉川弘文館、一九六八年)、

森幸夫「北条氏と侍所」(『國學院大学大学院紀要―文学研究科―』第一九輯、一九八八年)二九五〜二九七頁など。

8例外的に、安田元久北条義時』(吉川弘文館、一九六一年)二四七〜二四九頁は、『二千五百年史』言及して、「けだしこの論評は、正しく当時の歴史的条件を捉え、乱の勃発が時勢の然らしめるところであったことを主張するなど、一つの見識を示していると言えよう」と高い評価を与えている。

9蘇峰の『吉田松陰』における初版から改訂版の変化については、杉井六郎「蘇峰の明治維新観」(『徳富蘇峰の研究』法政大学出版局、一九七七年。初出一九六九年)、田中彰明治維新の敗者と勝者』(日本放送出版協会、一九八〇年)第二章3「吉田松陰像の変遷」に詳しい。

10以上の事実を始めとする、蘇峰が『国民史』で得た成功と名誉については、杉原志啓『蘇峰と『近世日本国民史』』(都市出版、一九九五年)第二章「「修史事業」の完成」に詳しい。

11「頼山陽にもかなわぬ明治の官選史」(『徳富蘇峰 終戦後日記―『頑蘇夢物語』続篇―』第二巻、講談社、二〇〇六年。一九四六年二月十七日口述)。

12「百敗院泡沫頑蘇居士(三八)史学に於ける民友社の寄与貢献」(『徳富蘇峰 終戦後日記―『頑蘇夢物語』完結篇―』第四巻、講談社、二〇〇七年。一九四七年四月一日口述)。

13『出隆著作集』第七巻 出隆自伝(勁草書房、一九六三年)三八八〜三九〇頁。

14平泉澄『我が歴史観』(至文堂、一九二六年)所収。

15大隅和雄「日本の歴史学における「学」」(『中世思想史への構想』名著刊行会、一九八四年。初出一九五九〜一九六〇年)。また、海津一朗「大隅和雄講演「一九二○年代の日本史学―平泉史学をめぐって―」を聞いて」(『民衆史研究会会報』第二一号、一九八三年)も参照。なお、近年、平泉研究が盛んであるが、クローチェが平泉に与えた影響をいち早く指摘した、大隅の研究が忘却されている節がある。

16若井敏明「ひとつの平泉澄像」(『史泉』第八七号、一九九八年)四〇頁、同『平泉澄』(ミネルヴァ書房、二○○六年)五五〜五六頁。

17『内田銀蔵遺稿全集』第四輯 史学理論(同文館、一九二二年)所収。

18内田の論文が持つ史学史的意義については、大久保利謙「明治時代における歴史理論の展開」(『大久保利謙歴史著作集』第七巻 日本近代史学の成立、吉川弘文館、一九八八年。初出一九五六年)一〇三〜一〇四頁、柴田三千雄「日本におけるヨーロッパ歴史学の受容」(『岩波講座 世界歴史』三〇 別巻 現代歴史学の課題、岩波書店、一九七一年)四六〇〜四六二頁参照。

19成田龍一歴史学という言説」(『歴史学のスタイル』校倉書房、二○○一年)、齋藤智志「黒板勝美の史蹟保存論」(『近代日本の史蹟保存事業とアカデミズム』法政大学出版局、二〇一五年。初出二〇〇四年)、池田智文「一九二〇〜三〇年代の「国史学」」(『日本史研究』第五八三号、二〇一一年)、廣木尚「黒板勝美の通史叙述」(『日本史研究』第六二四号、二〇一四年)など。

20渡邉剛「〔修士論文概要〕黒板勝美史学史的位置」(『早稲田大学大学院文学研究科紀要 第四分冊』第六〇輯、二〇一五年)。

21注(16)前掲若井著書三一〜三六、五〇〜五四頁、渡邉剛「平泉澄博士「恩師」翻刻と解説」(『藝林』第六七巻第二号、二〇一八年)一一八〜一一九頁。

22田中義成「史学の活用」(『国史の片影』東盛堂、一九二〇年。初出一九一二年)。

23マーガレット・メール著、千葉功・松沢裕作ほか訳『歴史と国家』(東京大学出版会、二〇一七年。原著一九九八年)一三九〜一四〇、一八四頁。

24阿部猛「田中義成著『国史の片影』について」(『歴史を彷徨う』日本社会史研究会、二〇〇四年。初出二〇〇一年)。なお、阿部が指摘した田中義成の「応用史学」の側面については、最近の山口道弘「南北朝正閏論争と神皇正統記」(『藝林』第六五巻第一号、二〇一六年)が独自の考察を加えている。筆者と理解を異にする部分もあるが、その問題提起は傾聴に値するものがある。

25平泉澄著、平泉洸・平泉汪・平泉渉編『柿の落葉』(平泉洸、一九九〇年)所収。

26注(16)前掲若井著書一八〜二〇、三〇六頁。また、注(16)前掲若井論文は、「いかなる時局評論においても、歴史的考証をほどこすのが平泉の手法であった」(五〇頁)という、重要な指摘を行なっている。

27『北辰会雑誌』に掲載された、平泉の歴史考証は以下の通りである。第六六号「賢聖院史話」(一九一三年)、第六八号「伝燈寺」(一九一三年)、第七一号「温泉寺明覚」(一九一四年)、第七三号「曽我兄弟の末葉」(一九一五年)。

28佐藤進一『日本の歴史』第九 南北朝の動乱(中公文庫、二〇〇五年。初刊一九六五年)「はじめに」。

29平田俊春「吉野時代の原理」(『吉野時代の研究』山一書房、一九四三年)。

30平泉澄「明治は遠くなりにけり」(田中卓編『平泉博士史論抄』青々企画、一九九八年。初出一九六三年)付載。「皇国正史」編修事業については、長谷川亮一『「皇国史観」という問題』(白澤社、二〇〇八年)第六章「国史編修事業と国史編修院」に詳しい。

31翻刻は、東京大学史料編纂所編『東京大学史料編纂所史史料集』(東京大学史料編纂所、二〇〇一年)三頁。図版は、東京国立博物館東京大学史料編纂所編『時を超えて語るもの』(東京大学史料編纂所、二〇〇一年)一六六頁。

32「御沙汰書」の性格が古代の正史編纂を襲うことは、フランシーヌ・エライユ「明治の「歴史」」(フランシーヌ・エライユ著、三保元訳『貴族たち、官僚たち』平凡社、一九九七年)二二五〜二二六頁、遠藤慶太『六国史』(中央公論新社、二〇一六年)二一五〜二一六頁に指摘がある。なお、小沢栄一『近代日本史学史の研究』明治編(吉川弘文館、一九六八年)第四章「文明史の伝流」三四〇〜三四一頁は、「御沙汰書」と柳原紀光続史愚抄』「自序」の文言が似ていることを指摘する。

33注(23)前掲マーガレット・メール『歴史と国家』第二章「政府事業としての修史」、秋元信英「明治初年の修史・教科書・国学者」(『國學院大學北海道短期大学部紀要』第二九巻、二〇一二年)

(2)「明治二年の修史事業」。

 「御沙汰書」には、秋月種樹明治天皇の侍読)による草案(森克己所蔵)が伝わっている。このことから、「御沙汰書」の文面を起草したのは明治天皇ではなく、秋月であると考えられる。この点については、森克己「六十年の思い出」(『森克己著作選集』第五巻 史苑逍遥、国書刊行会、一九七六年。初出一九六八年)四二八〜四二九頁、前注小沢著書第四章「文明史の伝流」三四〇〜三四一頁、太田晶二郎「史料編纂所一百年記念日講演」(『太田晶二郎著作集』第三冊、吉川弘文館、一九九二年。初出一九七〇年)二二五〜二二六頁、前注フランシーヌ・エライユ論文参照。

 なお、メール『歴史と国家』は、「御沙汰書」について、「エライユは、秋月種樹天皇(筆者注、明治天皇)の草稿を修正したと述べるが、その根拠は何も示していない」(二二頁)と言う。しかし、前注エライユ論文では、秋月を起草者として記しており、その根拠は森克己所蔵の草案と考えられる。また、秋元信英「明治初年の修史・教科書・国学者」も、「御沙汰書」に関わって、「かくれた起草者」(一三頁)と記すが、これも秋月が文面を起草した事実が認識されていない。

34注(12)に同じ。

35『明治文学全集』第七七巻 明治史論集(一)(筑摩書房、一九六五年)所収。

36『新日本史』の明治維新観については、田中彰明治天皇制確立期の維新観」(『明治維新観の研究』北海道大学図書刊行会、一九八七年。初出一九七二年)参照。

37注(35)前掲書一三九〜一四〇頁。

38『民友社思想文学叢書』第三巻 山路愛山集(二)(三一書房、一九八五年)所収。「史学論」については、山路愛山足利尊氏』(岩波文庫、一九四九年)に松本新八郎が執筆した「解題」、注(32)前掲小沢著書第六章「史論史学」六〇四〜六〇六頁も参照。

39山路愛山大日本史紀伝編脩始末」(『訳文 大日本史』第一冊、後楽書院、一九一二年)六頁。

40名越時正「水戸の学問を研究して」(『藝林』第四九巻第二号、二〇〇〇年)一一頁参照。

41注(30)前掲田中卓編『平泉博士史論抄』所収。

42これについては、平泉澄『経国の大業』(皇學館大学出版部、一九七〇年)一六頁参照。

43書簡の全文は、平泉隆房「寒林夜話(二)」(『日本』第五九巻第三号、二〇〇九年)に紹介されている。「大日本史概説」では、書簡の日付を十一月十六日とするが、「寒林夜話(二)」

に従う。

44なお、平泉の水戸学観については、名越時正「平泉先生の日本学といはゆる水戸学」(『神

道史研究』第三三巻第一号、一九八五年)、水戸青々塾編『平泉澄先生と水戸』(日本学協会

水戸支部、一九八五年)に詳しい。

45苅部直「歴史家の夢」(『秩序の夢』筑摩書房、二〇一三年。初出一九九六年)二七四〜二七六頁、同「大正・昭和の歴史学と平泉史学」(『藝林』第六四巻第一号、二〇一五年)、昆野伸幸「平泉史学と人類学」(『近代日本の国体論』ぺりかん社、二〇〇八年。初出二〇〇五年)参照。また、平泉の人格主義については、多様性と多元性という二つの段階が存在し、敗戦後に郷里の自然から感銘を受けたことで、多様性に重点が移ったとする、山口道弘の興味深い指摘がある。これについては、同「正閏續論」(『千葉大学法学論集』第二八巻第三号、二〇一四年)に詳しい。

46田中卓皇国史観について」(『田中卓著作集』第一一巻―Ⅱ 私の古代史像、国書刊行会

一九九八年。初出一九六九年)六頁参照。

47名越時正「平泉先生における「英雄」」(『日本』第三五巻第六号、一九八五年)、平泉隆房「寒林夜話(七)」(『日本』第六〇巻第三号、二〇一〇年)参照。平泉が「異常の力」と「英雄」の関係について説明したものとしては、昭和二年(一九二七)に名古屋で講演した際の記録である「歴史上に現れたる異常の力」(『日本』第四三巻第二号、一九九三年)がある。また、平泉が「英雄」を重視したことは、早く昭和三年(一九二八)六月の『日本歴史物語(中)』(日本児童文庫、アルス)の「はしがき」にうかがえ、戦後では『少年日本史』(時事通信社、一九七〇年)の書き出しが、源義経(牛若丸)・源義家八幡太郎)・北条時宗(正寿丸)らの元服から始まることに明らかである。

 ちなみに、従来の研究では、平泉史学を論ずる際、「先哲」「忠臣」「義士」をめぐる平泉の歴史観を論じたものが多いが、「英雄」に注目した論究は少なく、平泉史学における政治史研究の側面が必ずしも明瞭ではない。第一章において、平泉による織田信長の評価を、蘇峰の『近世日本国民史』とあわせて検討したのは、この欠落を補う一つの試みであった。また、平泉における「英雄」の随一は源頼朝であり、頼朝の根本史料である『吾妻鏡』を、平泉が終生愛読し続けた事実は重要である。これについては、平泉が東京帝国大学において行なった『吾妻鏡』の演習の実態と、受講生への学問的影響を含めて、今後検討していきたい。

48 平泉澄神皇正統記の内容」(『武士道の復活』至文堂、一九三三年)二五七頁。

49平泉澄東照宮の造替に就いて」(平泉澄著、日本学協会編『平泉澄博士神道論抄』錦正社、二〇一四年。初出一九二一年)一七二〜一七三頁。

50以下、市村真一「平泉澄先生の想い出(下)」(『日本』第六〇巻第三号、二〇一〇年)による。

51市村は出典を示さないが、これは平泉の「維新の原理」(注(48)前掲平泉著書。初出一九三三年)三八五頁に見える次の一文を指すと考えられる。

かう云ふ風にして我国の改革は、大化の改新にしましても、建武の中興にしましても、

明治維新にしましても、悉く其の原動力を歴史の中から汲みまして、我国本来の姿、正

しい日本に戻さうと云ふのが根本の精神であり、其の根本の精神さへ確立して居ります

れば他の細かい制度の末に於きましては、所謂時の宜しきを制すればよい訳である。

52平泉澄「徳富先生の書翰」(『日本』第二〇巻第九号〜第一一号、一九七〇年)所収。

 

 

〔付記〕本書では、学史を対象とするため、一切の敬称を略した。諒とされたい。

 

〔後記〕筆者が日本近現代史学史に関心を抱いたのは、高校時代に松本清張氏の『小説東京帝国大学』や、「断碑」「笛壺」「カルネアデスの舟板」などの短編を読んだことが、大きな切っ掛けである。清張作品に示された、近代国家に絡め取られる歴史学やアカデミズムの虚妄性に対する鋭利な批判、あるいは個々の歴史家の苦悩に立ち入った繊細な心理描写に、鮮烈な読後感を抱いた。また、大著『昭和史発掘』からは、専門の歴史学者の通史にはない凄みと面白さを感じたことを覚えている。今にして思えば、松本清張という人は、本書で扱った徳富蘇峰・竹越三叉・山路愛山らの系譜を引く、戦後の民間史学者だったのかもしれない。とくに、その反骨精神は、官学アカデミズムをものともしなかった愛山を彷彿とさせないだろうか。

 こうして清張作品や大久保利謙著『日本近代史学事始め』に親しむうちに、歴史観や立場は様々であっても、学問に命を懸けた歴史家の群像を通して、自分なりに史学史を考えてみたいという、ささやかな思いが芽生えた。爾来二十年を経て、図らずも、第一九回松本清張研究奨励事業に「自筆原稿・日記・書簡類を素材とした日本近現代史学史の研究」のタイトルで入選したことは、筆者にとって奇縁という外なく、大学入学以後、構想を練っていた研究テーマの一部を形にする上で、絶好の機会となった。お力添えいただいた北九州市立松本清張記念館の方々、とりわけ下澤聡氏に、あつく感謝申し上げる。

 また、本書に徳富蘇峰記念館所蔵「平泉澄書簡類」の翻刻・画像を付載するにあたっては、平泉隆房先生ならびに公益財団法人 徳富蘇峰記念塩崎財団の御許可を賜った。さらに、徳富蘇峰記念館における書簡調査・写真頒布について塩崎信彦氏に、平泉寺白山神社周辺の実地踏査について大庭桂先生に、平泉澄著『家内の想出』の入手について平泉紀房氏に、それぞれ御高配をいただいた。いずれも衷心より御礼を申し上げる。

 なお、関係文献の調査・複写にあたって、大阪府中之島図書館・京都大学附属図書館・皇學館大学附属図書館・高野山大学図書館・東京大学史料編纂所徳島大学附属図書館・福岡大学図書館川添昭二文庫に便宜を与えていただいた。また翻刻・校正のチェックに関して、雲藤等氏・桐田貴史氏・永山愛氏・西川哲矢氏・山本みなみ氏に御助力いただいた。あわせて銘記し、深甚の謝意を表する。

 

資料編 徳富蘇峰記念館所蔵「平泉澄書簡類」

 

 

平泉澄から徳富蘇峰に宛てたる書簡集

 

昭和三年(1928)

一 平泉澄書簡(封書)

虔啓

先刻は趨仕候処、御繁

用の際にも拘はらず、早速

御引見・御懇談被下、種々

御高諭を恭うし、御芳情

千万、奉鳴謝候。青山会館

に於ける御賢息記念講演

の儀は、先生が特別なる御推

挙の趣、光栄に奉存候。

然るに、別の用件について折

をも選ばず、ぶしつけに御願

申上候は、鄙野の書生、礼節

に嫺はざるの致すところ、

汗顔の至に御坐候に、是亦

御寛恕にあづかり候のみ

ならず、特別の御詮議にあづかる

事と相成候段、御厚意

只々感銘の外無之候。

景岳会は、小生ども橋本先生

同郷の後輩が、同先生を追慕

痛惜してやまざる余り、年々

祭典と講演とを挙行致し

来り候ものに有之。本年は、

特に先生の七十年忌に相当

致し、特別に盛大なる講演会

及展覧会を催し度、こゝに

先生の御講演を御願申上度、

懇望の余り、一度御都合の

よろしからざる趣拝承致し

ながら、いかにしても思切れ

申さず、昨日新刊の雑誌

「改造」の玉稿拝見致候と

共に、何とかして今一度御願

申上度、切望の余り、たま〱

本日拝顔の機を得て、御願

申上げたる次第に御坐候。小生

どもの志は、別封拝呈仕り候

景岳会講演集により、

多少とも御諒解を仰ぐを

得申すべき歟。然る上は、

御都合により御断り被下候ても、

よく〱の御事情故、また思

ひ残す事も無之奉存候。

余りにもぶしつけの御願に候ひし

まゝ、重ねて書面を以て愚

意を披瀝して高察を

奉仰候。   謹言

 昭和三年八月廿一日

      平泉(花押)

徳富先生

    侍史

【封筒表書き】

「市外入新井新井宿二八三二

  徳富猪一郎先生」

【封筒裏書き】

「 八月廿一日

   小石川区金富町二〇

       平泉 澄 」

*注

〇御賢息―徳富万熊(1892―1924)。

〇玉稿―維新回天史(昭和4年5月、民友社)の一面

橋本左内(1834―1859)

 

二 平泉澄書簡(封書)

虔啓

此度、橋本左内先生七十年

祭に就いては、御多用中

にも拘わらず、御講演

被成下、御芳情只々

感激の外無之候。御

蔭様にて、景岳先生の

真面目いよ〱あざ

やかに相成り、一同深

く喜び居り候。早速

御礼に参上致すべきの

処、跡始末多端にて

失礼に候へども、こゝに

書面を以て御礼申上候。

猶別封只々御車代まで

にて恐入り候へども、何と

ぞ枉げて御笑納被下度、

御願申上候。いづれ

万々申上度存居候。

         頓首

 十月十日

         平泉澄

徳富先生

    侍史

【封筒表書き】

「徳富先生」

【封筒裏書き】

「 十月十日

    平泉 澄

     小石川金富二〇」

 

昭和四年(1929)

三 平泉澄書簡(封書)

拝啓

先日は江都願文集の

為に、直ちに御紹介文

御起草いたゞき候趣、拝

承。御芳志千万奉謝候。

当時小生臥床罷在り、

竊に先生の御健筆を

羨み居り候ひしに、

図らざりき、本日に至りて、

先生の御病臥を聞かん

とは。秋ふけて風漸く

冷かに候。切に御自愛

のほど、願ひ奉り候。

先刻、青山会館より

電話有之。万一先生の

御病気、一日に至つても

快癒なき時は、藤井氏と

共に小生に代理を命ぜ

られ申候。これはいかにも

僭越の事に候げども、事

情やむを得ざる儀と

存じ、拝承仕り候。但し、

もし先生少しにても演壇

に御登り相叶ふ時は、藤井氏

の講演んも後に、しばらく

御講演願上度、さやうの

折は、小生を御除き被下度候。

この辺、小生に対しては、自由

に御考へ被下度、もし御都

合叶はざる時は、小生いつに

ても一時間位は、分担仕

るべく、もし御都合相叶

ひ候時は、小生に御かなひ

なく、小生を御やめ被下

度、一に先生の御都合に

より御計ひ被下度候。小生

としては、昨年景岳会の

御恩に酬ゐんの所存

に有之。この心、御諒承

被下度候。

切に御自愛を願ひ、

切に御快癒の速ならん

を祈り上候。

       敬具

 

 十月廿八日

      平泉(花押)

徳富先生

【封筒表書き】

「市外入新井新井宿二八三二

  徳富蘇峰先生     」

【封筒裏書き】

「 十月廿八日

   小石川金富町二〇

      平泉 澄」

*注

〇江都願文集―『江都督納言願文集』(著者 大江匡房 [著] 著者 平泉澄 校)

〇藤井氏―藤井甚太郎(1883―1958)明治維新史の実証主義的研究の先駆者として活躍した。

 

昭和七年(1932)

四 平泉澄書簡(封書)

虔啓

先日は末学誤つて

御寵遇を恭し、其罪

謝する所を知らず候に、

此度重ねて御招きに

あづかり、恐懼措く能はず候

へども、御言葉に甘へ、加藤

繁博士と共に参上仕度

存居り候間、宜敷御願

上候。加藤氏は東洋史

助教授、極めて真摯なる

学者にして、其論正確透徹

なるのみならず、其人耿々

一片の義気、万巻の書

中に銷磨し尽さゞる、尤も

敬服する所に有之候。同氏は

未だ先生の謦咳に接し候

機を得ざりし由にて、非常に

喜悦、必ず拝趨の由、申越され候。

さて、委細明日拝面言上

仕るべく候へども、先日先生の

御下問に対し、小生迂闊の

御答へ申上候間、左に改めて

御返事申上候。

㈠             英国にては、専ら博物館にて

革命史料渉猟いたし居り候

ひて、多く人に会はず候ひしが、

面会いたし候ひしは、

牛津大学のFisher

剣橋大学のTrevelyan

両氏して、就中フィッシャー氏

より益を受け申候。

㈡             帝大以外、何事にも関与せず候

は、御答申上候通りに候へども、

此事小生微力のいたす所

なると共に、深く考ふる所有之。

力を一つにして、帝大の学生

の指導と研究とに」そゝぎ

度念願による事に候。而して

この決心に対し、之を激励

せられたるは実に先生にして、

昭和三年八月廿一日、御目に

かゝり候ひし時、御懇篤なる

御訓誡を恭うし候て、愈々

此の決心を固め候事に御坐候。

即ち、こゝに先生の御訓言を

謝し奉ると共に、魯鈍

先生の御期待に背くを

恥ぢ申候。況んや、時局

艱難、時勢殆んど奔満の

勢有之。眠りを安くせざる、

既に半歳、半生学ぶ所

を決算して、報国の志、為

す所なきを悲み申候。

先は御礼申上候について、二三御詫び申上候而已。委

細拝顔を期し申候。

 皇紀二五九二年七月十五日朝

        平泉澄

 

徳富先生

   侍曹

【封筒表書き】

「市外入新井新井宿二八三二

  徳富蘇峰先生     」

【封筒裏書き】

「 七月十五日

   本郷区駒込曙町十二

       平泉 澄 」

*注

〇加藤繁博士(1880―1946)―研究は、資料や統計に基づいた「考證」を重視して緻密かつ着実な論証を重視した。その成果は1944年に出された『支那経済史概説』や没後の1952年から翌年にかけ出された『支那経済史考證』全2巻などに集約されている。『史記』をはじめ、歴代中国正史の食貨志の翻訳も行っている(岩波文庫に、『史記平準書 漢書食貨志』と『旧唐書食貨志 旧五代史食貨志』の2点がある)。その一方で、万世一系の日本と易姓革命の中国の比較から、日本を「忠誠」の文化、中国を「革命」の文化と位置づけた。(ウィキペディアより)

〇牛津大学―オックスフォード大学

〇剣橋大学―ケンブリッジ大学

〇剣橋大学のTrevelyan―ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン(George Macaulay Trevelyan、1876年2月16日 - 1962年7月21日)は、イギリスの歴史学者

 

昭和二十三年(1948)

五 平泉澄書簡(封書)

拝啓

国家の大難に遭遇して

混乱の中に御無音に打過

ぎ候事、御寛恕下され度、

御願申上候。先生厄難重

畳の事、常に御心配申上げ

ながら、微力何一つ御尽し申上

げず、慚愧に至に奉存候。

此程新聞によりて熱海に御ゐ

での由承知、直ちに友人に

問合せて御住所を知り、こゝに

謹んで一書を呈し候次第に

御坐候。

  小生儀、二十年四月戦災にあひ、

  わづかの蔵書も悉く焼失いたし候。

  しかしながら屈せず、奔走罷存候

  うち、終戦となり、即日辞表

  をしたゝめ、八月二十一日帝都に

御暇乞いたし、二十二日夕郷里に

帰省、翌日より鍬をとり、

蕗を摘んで百姓と相成申候。

俄仕立の百姓にてはあり、畠と

申し候ても、蔵あとの地、日当

りわるく一向不成績にて、

専ら蕗と蓬と谷間に自

生するものに頼り候為、自らは

餓死を覚悟いたし居り候処、

次第に体力も回復いたし、視力

も書見に堪ふるやうに相成候

まゝ、天猶命をかす、必ず

為すあるべしとして、苦心書籍

を集め、段々研究相始め申候。

こゝは隣家と離れて、神社の

境域に接し、老杉昼も猶暗

く、青苔常に湿気を帯び

居り候。家は安永の建築にて、

アメリカの建国と相前後するもの

に御坐候。 秋風吹き到れば、

屋敷のそここゝにパラ〱と

栗の落つる音して、やがてまた

元の静寂にかへり申し候。

その閑寂のうちにありて、遥かに

先生を思ひ、多年恩遇を

蒙りつゝ、報謝の時なくして

今の沈淪に陥り候事を悲み

申し候。

切に先生の御自愛・御長

寿を祈りつゝ、擱筆仕候。

昭和廿三年九月廿八日

          平泉 澄

             再拝

徳富先生

   侍曹

【封筒表書き】

静岡県熱海局区内

  伊豆山押出足川百十九番地

   徳富先生       」

【封筒裏書き】

「  九月廿八日

   福井県大野郡

   平泉寺村平泉寺

   白山社内

        平泉 澄」

*注

〇二十年四月戦災―東京大空襲(4月13日、15日)

〇安永の建築―旧玄成院(別当・平泉宮司邸)は一七七八年(安永6年)に再建される。因みにアメリカ建国は一七七六年。

 

六 平泉澄書簡(封書、折紙)

拝啓

雲牋遠く北国の

山中に落ち、山樵之を

拝読して感慨無極、

天を仰いで長大

息いたし候。

先生今日の御境

遇、真に傷心に

堪へ申さず、小生ども

いかやうにも御つくし

申上ぐべきの処、窮

困の中、何の力も無

之事、恥入り申候。

しかも先生、この悲運

に処して昂然たり。

欽慕此事に奉存候。

山中無尽蔵のものは、清水と

薪とにて、之により水火の責は免

近くに候はゞ、折々薪

 れ申し候。

を負ひ、大根を担つて

参上いたし度候に、山河

百里を隔てゝ其事

叶ひ不申、残念に奉存候。

 〇此頃は、毎日〱栗を拾ひ、

  居り候。栗うぃ拾ひ候間は、

  しばらく少年にかへりて

憂を忘れ申候。

先生を御案内申上度

存じ候事に御坐候。

 〇同封のもの、些少失礼

至極に候へども、若し先生

の御寛恕にあづかり、

奥様の御薬代の中へ

御用ゐ被下候はゞ、忝

く奉存候。   敬具

 

昭和戊子十月四日

        平泉 澄

          再拝

徳富先生

   侍者

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九番地

   徳富先生            」

【封筒裏書き】

「  福井県大野郡平泉寺村

   白山社内

         平泉 澄」

*注

〇奥様―徳富静子(1867―1948)

〇昭和戊子―昭和23年

 

昭和二十四年(1949)

七 平泉澄書簡(封書)

拝復

暖冬異変と申し候へども、北国

の山中は流石に雪ふかく、殊に

此の神山に在りては、四顧白皚々

俯仰白霏々、軒に来るは小鳥、

門に遊ぶは兎のみに候ところ、

昨日は思もかけず、先生の芳

翰と新著とをいたゞき、驚喜

して再三拝読仕り候。先生が

大厄難のうちに毫も屈せず

して屹立せらるゝは、流石に

阿蘇山を以て号し給いひし

御志気ゆかしく、欽慕の至に

御座候。殊に昨秋の御不幸、定

めて断腸の御思あるべきに、更

に英豪の御気鋒一層を加へ

給ひし感あり。涙して拝見仕候。

且つまた、沈淪の後輩、微力の

末学を棄て給はず、懇篤の

御書を賜はり候事、感激の情、

いふべきところを知らず候。先生の

御芳情によりて、一夕銀座にて

御寵招を蒙りしは、既に十八年の

昔に候。しかるに、先生はその折

の話を御忘れなく、この度の御

書翰にトレウェリアン教授、フイッシャー

博士に説き及ばれ候御記

憶のあざやかなる、真に驚歎

の外無之候。あゝ先生の後輩を

かへりみ給ふ事如此。而して

この芳情に報ゐ得ざる後学の

何ぞ微力才短、魯鈍愚劣な

るや、慚愧痛恨この事に候。

感想二三、別紙にかきつらね申候。

御閑暇の折、御左右をして

御披露せしめ給ふべく候。

          敬具

昭和廿四年二月十五日

        平泉 澄

           拝

徳富先生

   侍曹

*注

〇新著―『国史随想―平安朝の巻』(昭和23年12月・宝雲舎)

〇トレウェリアン教授―ジョージ・マコーリー・トレヴェリアン(George Macaulay Trevelyan、1876年2月16日 - 1962年7月21日)は、イギリスの歴史学者

〇別紙―次に説く書簡

 

七―一 平泉澄書簡別紙(折紙)

先生、頑蘇と称せられ

候事、うれしく有難く

存じ候。小生は、山に

入り候てより半歳の

間、専ら蕗と蓬とに

て露命をつなぎ候為、

蕗の恩を思ひて

  布々岐の舎

と号し候ひしが、同時に

古人の

摧残枯木椅寒林

幾度逢春不変心

の句によりて、戯れに寒林子

と署する事、多く候。

浮世の春にあひて、心を

変ずる所存毛頭

これなく、頑固に寒

林の枯木ぶりを発

揮いたし居り候。

先生の大才は、小生敢えて望み

申さず、頑固の一点を冀くは

先生の驥尾に附さむ。

小生の外祖父は、幕末

に勝山藩の総奉行

たりし時、城の大手に

立札を立てられ、

 御首御用心なさる

 べく候。

との落書をつきつけられ

し事有之。維新の後、

獄に下り、多年苦労

いたし候き。後獄をい

でゝ裁判官に相成

り申候が、その沈淪の

時代に、知己林雪蓬󠄀

翁が外祖父の為に

書して与へられし

額は、只今小生の

家にかゝげて日夜

仰ぎ見るところに候。

その文、真に面白

く、殆んど今日我等

の為に書かれたる

感、有之候。

その文に日く、

沈舟側畔千帆過、

病樹前頭万木春、

あゝ栄達の車馬、

絡繹として大路を馳す

る時、静処して詩書

を友とせし祖父を慰

めし句は、八十年の後

に、その魯鈍なる外孫

を慰むる事と相成申候。

この句、先生にも御興

味あらんかと存じ、

かきつけ申し候。

高著、ありがたく

拝読。御垂教うれし

く拝受仕り候。。就中、

菅公の為に、その、

冤を雪がれ候事、

有難く御礼申上候。

小生も、先年一文を

菅公責碩徳録に寄せて

公の心事を明かにせむ

とせし事、有之候。又

只今も、常に書斎に

菅公を御祭りいたし

居り候。而して世間、

今に至りて猶公の心

事を疑ふものゝ存す

るを悲み候ものに候。

 小生の屋敷は、天正二年

以前には今天神とて、

天神堂のありしところ、

天正二年兵火によりて

焼失いたし、慶長年

間に賢聖院こゝに

建立せられ、以て今日に

至り申候。かやうの因縁

によりて、小生は将来時

機を得ば、必ずこゝに

天神堂を再興いたし度、

さゝやかなる小祠といへども、

菅公を祀り、天神に仕へつゝ、

遺徳を仰ぎ度存じ居り候

て、既に昨秋、御木像

の彫刻を某氏に依頼

いたし候ほどに有之候。

宇多天皇の御性格を

明かにし給ひ、菅公の

為人、その立場を説か

れ候あたり、精彩奕々、

朽木に彫刻する如き

考証者流の想到らざ

るところ、有難く拝

見仕り候。

窓外雪猶ふりやまず、

まづは三尺余りの積り

やうに相見え申候。

冬は致方無之候。白

雪消え候はゞ、春山

趣多く候。先生もし

北地御巡回の事も候はゞ、

是非御枉駕被下、四五日

御静養被下度、小生

福井まで御迎へに参

り、万事御世話申

上度候。寒林貧窮

といへども、至誠を傾け

て御給仕侍申上ぐべ

く候。家屋敷、すべて

江戸時代のまゝにて、

(建築は百七八十年前、)

(庭は三百五十年前、)近代

文明以前の姿を存し、

衰微廃残といへども、

古雅の風趣なきにしも

候はず候。

 

以上、わけもなくかきつらね、

失礼に候へども、御左右

の御方、何とぞ先生に

御披露下され度、

   御願申上候。

 重ねて厚く〱

  御礼申上げつゝ、

      擱筆仕候。

*注

〇摧残枯木椅寒林―唐代僧である大梅法常(752―839)の偈

〇驥尾―(「驥」は、千里をはしる名馬) すぐれて足の早い馬の尾。多く、すぐれた人のうしろのたとえにいう。

〇外祖父―島田将恕(平泉の母(貞子)方の父親)

〇林雪蓬󠄀(儒者1821―1899)。『林雪蓬とその周辺』河合清仙著

〇沈舟側畔千帆過―唐代の有名な詩人劉禹錫(772~842年)の〈酬楽天揚州初逢席上見贈〉からの二句。

〇高著―『国史随想―平安朝の巻』(昭和23年12月・宝雲舎)

〇一文―『志誠の忠誠』

〇菅公―菅原道真(845―903)

天正二年―1574年

〇賢聖院―一向一揆で平泉寺が焼かれてから9年。難を逃れていた顕海は、平泉寺再興のために弟子2人(専海と日海)を連れてこの地に戻ります。まず玄成院(現在は平泉寺白山神社社務所)を建てた顕海和尚。その後、玄成院を弟子の専海に継がせ、新たに建てたのが賢聖院、後の顕海寺という。明治の廃仏毀釈の際、玄成院の方は還俗して平泉寺白山神社の神官に。一方、顕海寺は天台宗寺院として廃寺を免れました。

〇慶長年間―1596年から1615年までの期間

宇多天皇(867―931)

 

八 平泉澄書簡(封書、折紙)

虔啓

寒気猶去り難く候

処、先生益々御

清祥、慶賀奉

り候、先日は図

らざるに御揮毫

二葉御恵み下され、

まことに〱嬉

しく欽喜して毎日

毎日拝見。あだかも

先生の御座右に

侍し、先生の御

激励をいたゞく

心地いたし候。御

寵遇・御慈誨

厚く〱御礼申上候。

当地雪ふかく、遠

く鶏犬の声をきゝつゝ、

籠居読書罷在り候。

家は昔の賢聖院、

よむは古賢の遺書、

而して今や先生の

書をかゝげてその

稜々たる気骨にあ

やからむとす。真」に

これ大厄難中の大

会心事に有之候。

       敬白

己丑三月九日

     平泉澄

       拝

徳富先生

   御座右

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九

   徳富蘇峰先生       」

【封筒裏書き】

「  福井県大野郡平泉寺村

   白山社内

        平泉 澄 」

*注

〇己丑―昭和24年

 

九 平泉澄書簡(封書、折紙)

拝復

先日数年ぶりに上

京いたし、その間何とか

して先生に御目にかゝり

度、熱海ゆきを計画い

たし候ひし事数度、遂に

之を果さず、思を残して

白山に帰り候ところ、

不在中、恵寄の御誕

辰■御高諭に接し、

いよいよ御なつかしく、

参堂の機を失ひし事、

恨めしく存じ候。

御高諭を拝見して驚

き候は、先生がベアード

博士の説を既に〱

御承知の事にて、御見聞

の博き、御知識の新しき、

只々驚歎の外無之。

御力量の大なる、御気

魄の盛なる、仰いで景

慕の念、堪へがたく候。

漢高百敗すといへども、

遂に一成に終局す。

先生の院号も亦

含蓄の意多かる

べしと奉存候。敬白

 

 己丑四月一日

    平泉 澄

 

徳富先生

   侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九

   徳富蘇峰先生       」

【封筒裏書き】

「  福井県大野郡平泉寺村

   平泉寺

   白山社内 平泉 澄 」

 

十 平泉澄書簡(封書、折紙)

拝啓

八月は立秋といふに、庭

前の百合咲きそめて、

閑居の窓、風情を添へ

申し候。しかし暑さは中々

きびしく、日中は汗

ばむ事多く候が、この

暑さの中に、先生御

起居いかゞに候や。いつも

御案じ申上げながら、御

無沙汰申上候。小生この

頃しきりに小文をまとめ

居り、六月に六篇、七月

に三篇、八月に入りて

二篇かき上げ申し候。この

次には先生に就いて、

又元遺山について拙文

を綴りたく存じ居り候。

高著「杜甫とミルトン」、まこと

に感深く拝読仕り候。

元遺山なほ議すべきもの

なきにあらず、しかも今日の

日本には遺山ほどの人も

極めて少なく候。ひとり

大蘇峰先生ありて

日本国無人んもそしり

を免れ候事、まことに

有難く、千万御申

上候。恐惶謹言

 

 己丑八月十日

      平泉 澄

          拝

 

徳富先生

   玉案下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九

   徳富蘇峰先生       」

【封筒裏書き】

「  八月十日

   福井県大野郡平泉寺村

   白山社内 

平泉 澄 」

 

十一 平泉澄書簡(封書、折紙)

拝啓

残暑きびしく、雨の降ら

ぬ事既に半月ばかり、畠

の茄子・黄瓜、皆萎れて参

りました。御地はいかゞでせ

うか。先生はお元気で

ございませうか。御たづね申

上げます。

この頃、先生の事を失礼なが

ら拙文で少しく書きたい

と思ひまして、先生の御著書は

何と何とが焼け残つてゐるだ

らうと、乏しい災余の書

斎をさがしてゐましたが、

昨夕までに見つかりました

もの、古いところでは、

 明治廿一年の国民の友

        第二集

 明治廿九年の家庭小訓

 同三十四年の処世小訓

     (尤もこの二つとも

      大正の改訂本です)

 明治三十九年の御家庭御一同

    の御写真

     (文章世界)

        青山の

 明治四十一年の御屋敷の

    御門の写真

      (文章世界)

などで、いづれも私共子供

の時分に拝見し、御なつかしく

存じ上げて居りましたもので、

自分自身の想出も添

ひまして、何とも言えない

御なつかしさです。

後のものでは、大正十三年の

大和民族の醒覚など、今

日読み直しまして、真に先

生の卓見洞察に驚歎

するの外はございません。

先生の御一生、文久に始ま

つて昭和まで、年号だけでも

六つに及んでゐますが、洋学

校に英語を学ばれ、同志社

キリスト教を学ばれま

した時分の事を回想され

ますと、真に御感慨無

量であらうと御察し

申上げます。私は

また昭和の初めから誤つて

先生の寵遇を辱うし

ましたので、お目にかゝり

ました時の事を回想します

と、今日何一つ御恩返しが

出来ませず、先生の御心を

御慰め申上げる事の出来

ません事を衷心残念に

存じます。

今朝も、その古い文章世

界の口絵の御写真を

拝見してゐまして、感に

堪へず、つまらぬ事を

書きまして、失礼とは存じ

ながら筆をとりました。

どうぞ先生を御大

切に御願いたします。

こゝは山の中とて、幽閑

自ら別天地であります。

出来れば、この幽閑境

を一度先生に御覧

願いたいと思ひます。

       敬白

 昭和廿四年八月十三日

       平泉 澄

          拝

徳富先生

  御家人

    御披露

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九

   徳富蘇峰先生       」

【封筒裏書き】

「  八月十三日

   福井県大野郡平泉寺村

   白山社内 

平泉 澄 」

*注

〇明治廿九年の家庭小訓―(国民叢書・明治二九年二月・民友社)

〇同三十四年の処世小訓―(国民叢書・明治三四年四月・民友社)

十二 平泉澄書簡(封書)

拝啓

昨夜夢に先生の温容を拝し、

夜半夢さめて、心愴然として

悲しみ、暁に筆を執りて謹

んで御座右に献じ候。

八月廿五日夕、元遺山と

先生に関する一文を草し了り候。

之を硯北に呈するを得ざるは、小生

の遺憾とする所に候へども、北辺

の新興、百廿年の国脈にして

猶且つ遺山の節義を見るを

偉也とし、無窮の皇恩に浴する

国学界文壇の浮薄を歎き、

遂に先生に於て千古の大節、

燦として光輝を発するを

仰ぎ、是に於て我等の少しも

金源に恥づる無きを喜び申

し候。

 私は、先に崔立の碑文に関係し

 た事と、蒙古の相に書を贈つて

 門下と称した事とを以て、元遺山

 の過とした。それは責備の言で

 ある。しかるに眼を転じて我が国

 の現状を見る時、もはや遺山を

 責める事は出来なくなつた。遺山

 ほどの誠意を以て国家の衰微を

なげき、皇室の屈辱を悲む者は、

我が国現在の学界文壇には、之

を見出し得ないからである。 

しかるに、私は遂に之を見出した。

学界の長老、文壇の耆宿、蘇峰

徳富翁、即ち是である。・・・

・・・・・・・・・・・・・

  而して翁には遺山に見たるが如

  き国難の日に反将に屈し、敵国の

  宰相に媚を呈したる如き過は少しも

無い、翁の遺山にすぐれたる事

数百段といはなければならぬ。

金は遺山を生んだ事を誇として

よい。蘇峰翁あつて我が国はまた他

に恥づる所が無いのである。

悪文たゞ先生の徳を傷つく

る事を恐れ申し候。

先日の悪詩も、実は先生

の志を継ぐ門下後生の

多く存するをあげ、先生を

御慰め申上度本意にて、さて

平仄合はず、いたづらに文字を

かへつゝ、あるうち、彼の様なる

ものに相成り、失礼御海容

下され度候。敬具

 己丑九月十六日

        平泉 澄

再拝

 

徳富先生

   玉机下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山足川町

   徳富蘇峰先生    」

【封筒裏書き】

「  九月十六日

   福井県大野郡平泉寺村

   白山社内 

平泉 澄 」

*「八月廿五日夕、元遺山と先生に関する一文を草し了り候。」は、『寒林史筆』所収「元遺山と徳富蘇峰翁」に該当する。文中の「先日の悪詩」は次に記すものであろう。

平泉澄和歌・漢詩

立ちのぼる阿蘇の煙は

不知火の筑紫の海に

影をやどり

 

立ちのぼる阿蘇の煙の

励ましに荒海の波

今日も分けゆく

 

蕭条伏櫪雀羅門

野史蹉跎藁満軒

黄道老来弩勢尽

及門豪俊八千存

 

  謹乞斧正

 

  平仄を弁ぜず、詩法に

  嫺はず、失礼の段切に

  御海容祈上候。

      平泉 澄

徳富先生

   玉案下

 

十三 平泉澄書簡(封書、折紙)

拝啓

初冬の寒林、雪まば

らにして、月影ひや

ゝかに候。遥かに先

生を思ひ、三叉神経

痛の快癒を祈り、

又婦人雑誌の口さが

なきに心を労せられ

ざらむやう、念じ上げ候。

(『徳富蘇峰翁と病床の婦人秘書』)

「婦人秘書」一冊拝受

先生懇篤の情愛、

感歎仕候。必死の

門下に対して、この

熱愛あり。さればこそ、

百敗の国に対して

不退転の誠を捧げ

らるゝ事と感銘罷

在り候。我を熱愛する

人に対しては、(仮りに我

彼を愛せずとも)恋人と

なつて慰めてやる親切

はありたきものに候。

をこなれや世の軽薄

児、みだりに己を以て

他を計り、誹謗して

快しとする。

先生、願はくは世評を

意に介せず、御静養あ

らむ事、これ祈り奉り候。

御笑味被下度候。敬具

己丑師走十二日

       平泉 澄

          拝

徳富先生

   侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九

   徳富蘇峰先生        」

【封筒裏書き】

「  師走十二

    福井県大野郡平泉寺村

    白山社内 

平泉 澄 」

 

昭和二十五年

十四 平泉澄書簡(封書)

拝啓

漸く春光密林のうちにも入

り、白雪も大半消え去り申候。

御地は定めて和暖、先生愈々

御清安の御事と慶賀奉り候。

今年は先生八十八の佳寿を

加へさせられ、後学のよろこび、

一層に御坐候。このごろ図らず

も先生の旧著、日本帝国の一転機

を借り来り、拝読する機会を

得、昔をかへりみて今を思ひ、

感慨に堪え申さず候。さはれ世界

はまた漸く一転機に際会す。

先生御自重・御加餐被下度、

奉祈候。   敬具

 

昭和廿五年三月七日

          平泉 澄

徳富先生

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

   徳富蘇峰先生        」

【封筒裏書き】

「   三月七日

    福井県大野郡平泉寺村

    白山社内 

平泉 澄 」

 

十五 平泉澄書簡(封書)

拝復

先生の御安否毎夜

ご案じ申上げ、御勇健毎

朝御祈り申上げ居り候処、

芳翰を賜はりて、御安泰を

知り、近来の喜悦、此事に

御坐候。

貴諭の如く、近来偽人の

偽史跋扈いたし、史学雑誌

の如きも悉く変貌。まさに

百鬼夜行の態に御坐候。

辻博士の如きも、戦後史学界

の大御所として、一旦は天下を

取りし心地もせられたるならむも、

今に於ては、定めし心安からざ

る所あるべき歟と存じ候。美濃

部博士快々として楽まれざ

りしといふと対比して、この感を

いだき申候。

陽気あたゝかくして、餅に適

せず、粗品呈上は秋を待つ外

無之候。先生何とぞ〱

百年の長寿を保たれ、小生に

毎冬粗品拝呈の悦あらしめ

給へ。

御著述のうち「大和民族の醒覚」、

殊にすぐれたる御託卓見と、毎々

くりかへし拝誦罷在り候。

          敬具

昭和廿五年四月廿六日

       平泉 澄

          拝

徳富先生

    侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生      」

【封筒裏書き】

「   四月廿六日

福井県大野郡平泉寺村

白山社内 

平泉 澄 」

〇辻博士―辻善之助(1887―1955)

〇美濃部博士―美濃部達吉(1873―1948)

大和民族の醒覚―「一九二四年(大正十三年)七月、民友社」

 

十六 平泉澄書簡(封書折紙)

拝復

先きに雲牋拝受。

先生の愈々御勇

健を知り、欣喜仕候

と共に、書中に見ゆる

御恵寄の御歌集の

到来を鶴首待入候

ところ、十九日、残夢

百首拝受。御歌は

申すに及ばず、印刻とい

ひ、用紙といひ、装幀と

いひ、古雅にして豪壮

なるに驚喜いたし候。

よつて直ちに御礼申

上度存じ候ひしところ、

二十日早暁四時、近隣の

明屋火を失し、折から

の辰巳の風に煽られ

て、忽ち村内未曽有の

大火となり、大鳥居の

屋根も燃え出し、拙宅も

危く候ひしが、之は漸く

消止め、大杉・結社

の外は、杉七本、松三本

の被害にて、神社として

は先づ〱仕合いた

し候ひしが、かやうの混

雑にて、御礼も延引

いたし候事、あしからず

御海容被下度、御願

申上候。

変の到るや測るべか

らず。近く眼前の焦

土を見、遠く鶏林の

砲声を聞き、物思ふ事

多く候。笑止なるは、

先生の所謂「復帰日本人」、

このごろ段々多く、小生

どもまで又々人の注目

をひく事これあり候事

に候。小生は毎日犬を

ひきゐて山廻りなどし

つゝ、健康に注意し、

長生きして世の成行

見究めたき存念に候。

先生何とぞ御無理

なく御長寿を保た

れ、いつまでも後輩

御指南下され候事、

懇願の至に堪へ申

さず候。 敬具

 寅八月二十六日

     平泉 澄

再拝

徳富先生

    玉机下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川百十九

徳富蘇峰先生         」

【封筒裏書き】

「   八月廿六日

福井県大野郡平泉寺村

白山社内 

平泉 澄 」

〇残夢百首―(昭和25年7月、草木屋出版部)

 

昭和二十六年

十七 平泉澄書簡(封書、折紙)

拝復

満山白皚々、昨日も今日

も降りつゞき候中を

郵便到来。先生の芳墨、

驚喜拝読仕り候。

先づ以て寒中愈々

御清安、慶賀の至りに

奉存候。今日の難局

にのぞみ、先生のおはすは、

全国有志の士にとりて

非常の喜び、甚大の

力に有之。何とぞ〱

いつまでもいつまでも御

長寿を御保ちいたゞき、

後生を御教導たまは

り度、懇願奉り候。

そのうち紀元節も相近

づき候事故、その節は

神饌御届け申上げたく、

楽しみにいたし居り候。

 御かげ様にて小生頗る頑

健に相成り、この寒中は

上衣なし、ネルのワイシャツに

てくらし居り候。戦中・戦

後の疲れも、かくて恢復

いたし、捲󠄀土重来、著作

に従事いたし度存念、

何とぞ倍旧の御指南、

奉仰候。

辛卯正月廿三日

   白山山中

     平泉 澄

再拝

徳富先生

    侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出

徳富蘇峰先生    」

【封筒裏書き】

「   正月廿三日

福井県大野郡平泉寺村

白山社内 

平泉 澄 」

 

十八 平泉澄書簡(葉書)

拝啓 春暖の候、先生愈々御

清安の御事と、大賀の至に存じ

ます。本日又々例の品、御送り

申上げました。御祭りの御さがり

でございますから、先生に差上げ

て下さい。御願します。

    辛卯四月四日

福井県大野郡平泉寺村平泉澄

【表書き】

静岡県熱海市

伊豆山押出

徳富蘇峰先生

侍者御中」

 

十九 平泉澄書簡(封書)

拝啓

炎熱の砌、先生御起

居如何あらせられ候や。

此頃新聞にラジオに頻々

として、先生の追放不解除の

報をきゝ、従つて先生の

清安、御長寿を祈念す

る事、切に御坐候。小生も

幸にして先生の驥尾に

附し、箝口令下に束縛せ

られ居り、名誉の事と喜

び居り候。さて、此度長男

上京の途中、一寸御玄関ま

で拝趨致度旨、申出候。

御迷惑の御事と存じ候へども、

本人の切望に御坐候間、もし

御差支無之候はゞ、二三分

拝眉の栄に浴さしめ給

はん事、小生よりも懇願

奉り候。三十日早朝、参邸

の予定に御坐候。敬具

昭和廿六年七月廿六日

      平泉澄

        拝

徳富先生

    侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生      」

【封筒裏書き】

「   七月廿六日

福井県大野郡

平泉寺村白山社

平泉 澄 」

〇長男―平泉洸(1924―1995)玄成院第二十五世。1948年東京大学文学部国史学科卒業。福井県立勝山高等学校教諭、福井県立勝山精華高等学校(現福井県立勝山南高等学校)教諭などを歴任し、1972年から、金沢工業大学教授。1980年、平泉寺白山神社宮司。1994年、金沢工業大学を退官して、名誉教授となった。

 

二十 平泉澄書簡(封書)

粛啓

雲牋薫誦仕候。先生愈々

御健勝、未曾有の酷暑にも

少しも御退屈あらせられず、欣賀此

事に奉存候。さても、愚息拝趨の

折、先生の御揮毫並に小楠先生贈

東湖書状複製一巻、有難く拝受。

直ちに通知いたし奉り、一同欣喜罷在候処、

本人それより奥の細道へ参り候為、拝

受の諸品、在京の次男にあづかり置くやう

申付け、次男携へて帰郷の予定に候ひ

しところ、延引して今に帰郷致さず、

鶴首して到来を待望いたし居り候次第、

折角の御寵遇を辱うしつゝ、御礼の

言上もおくれ申訳無之。平に御海容

願上げ奉り候。

賜はり候杖には、先生の御号の一字を

刻して、珍重いたし居り、大に人々に

誇示致し居り候。

倪元璐の幅は、先生も以前御所蔵相成候

由、いかなる詩に候ひしや。御差支なくば、

秘書の御方の御口授、御ハガキにても御

示し被下候はゞ、有難く奉存候。小生の

方は、小生入手いたし候わけには無之(これ

は御恥づかしながら、小生今日到底その

力無之候)。竹馬の友にて勝山町の人、

絹会社の社長山岸氏の先日買求

めしものに有之。その詩は左の如くに御坐候。

 

不悟黄河面 見山有許容

六経間跳躍 五嶽大逸 

雲胆落韓愈 煙心悦寗封

新知華嶺葉 定不是献痴

 聞黄石斎帰途遍游名山妬賦其一似

 仲謀辞宗正之。

        元璐□□

 伝来は頼山陽より数伝して、木戸公

 の手に入りしものにて、山陽、貫名

 海屋、広瀬青村、同林外等の

 題銘有之候。

 詩意頗る難解、ほとほともて余し

 申し候。若し御教諭を辱うする

 を得ば、幸慶之に過ぎ申さず候。

内田遠湖翁伝記編纂者近藤

啓吾氏に対し、御面謁を願出

処。御許可たまはり、厚く御礼申

上候。御示しの通り、午後二時ごろ

拝趨いたし候やう申通じ候。

朝鮮もイランも会談悉く決裂、

世界の風雲、漸く動かんとす。

先生の愈々御自重被下、御長

寿を保たせられむ事、神かけて

奉祈上候。      敬具

昭和廿六年八月廿四日

             平泉澄

徳富先生

    侍曹

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

押出足川

徳富蘇峰先生    」

【封筒裏書き】

「   八月廿四日

福井県大野郡

平泉寺村

白山社

平泉 澄」

〇愚息―平泉洸

〇小楠―横井小楠(1809―1869)。通称は平四郎で、「小楠」は彼が使った号の一つで、楠木正行(小楠公)にあやかって付けたものとされる。小楠の第一の門弟は徳富一敬であり、一敬は徳富蘇峰と蘆花の父親である。

〇東湖―藤田東湖(1806―1855)。水戸藩の学者・藤田幽谷の二男。24歳で彰考館(『大日本史』の編纂局)の総裁代役に昇進する。安政2年(1855年)10月2日の夜「安政の大地震」で圧死する。

〇次男―平泉汪(ひろし)(歴史学者

〇絹会社の社長山岸氏―明治40年1月 山岸伊之助が勝山町元禄にて羽二重工場創業。

〇内田遠湖(周平)1857―1944)日本の漢学者・哲学者。朱子学崎門派の末裔、中国哲学研究の開拓者、西洋哲学の紹介者、国体論者。哲学館・慶應義塾大東文化学院など東京の大学や、熊本の第五高等学校で講義した。

〇近藤啓吾(1921―2017)専門は崎門学・垂加神道。父近藤保二郎は東京高等女学校教頭(松平慶民子爵家の家庭教師)でその長男。国史学者の文学博士平泉澄の指導を受け、崎門学派の内田周平に師事。

 

二十一 平泉澄書簡(封書)

粛啓

四十年来未曾有の災天

酷暑の後、一朝にして涼

気天地に充ち、変転の

神速、人をして驚駭せしめ候。

思ふに人世も亦如此。世

界の情勢も漸く転ぜむと

するかの兆有之。小生共の

喜は、この際先生の愈々

御清安にて、愈々深き

教を垂れらるゝ事に有之候。

さて、先きに長男参上の折、賜

はりし芳墨及小楠先生書

翰一巻、すべて到来。有難く

頂戴仕り候。且つまた山

水樓主人へ贈られし倪元璐

の詩幅の内容まで、先生御

自身御執筆御教示を

辱うし、千万有難く感

銘、此事に奉存候。 敬具

昭和廿六年九月三日

        平泉 澄

           拝

徳富先生

    侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生     」

【封筒裏書き】

「   九月三日

福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

〇山水樓主人―宮田武義(1891―1993)号、遊記山人。広東料理「山水楼」では徳富蘇峰をはじめ内田康哉や細川護立、近衛文麿頭山満、胡蘭成、溥傑など政界や文化人の集会が盛んに催された。

 

二十二 平泉澄書簡(封書)

虔啓

秋冷の候、先生筆硯益々

御勇健、慶賀に至に奉存候。

陳者、本日御恵投を辱う

いたし候明板倪文正公批点

八家文一帙八冊到来、謹んで

拝受仕り候。書物そのものゝ、貴

きは申すに不及、先生多年の

御愛読といひ、所々の御識語と

いひ、殊にこの度の御恵投の御言

葉といひ、感銘措く能はざるもの

有之。まことに国の宝として、

大切に後世に伝へたく存居り候。

御識語中、道理填骨髄、忠義

貫心肝云々。拙宅には故松平

慶民子爵御承知の如く、春岳公の筆にて

    の長子。

忠義填骨髄の大額をかゝげ居り、

参詣来訪の人々、之を見て驚歎する

者不尠。今また先生より此語

を賜はり、珍重不過之候。

かへりみれば、先生の御知遇を辱うして

既に二十数年、頑愚の性、御期待

に反する事のみ多く候事、慚惶の

至に候へども、只一つ操持するところ

のみ先生の驥尾に附して、敢えて

迷はず、四面楚歌のうちにありて、

従容自適しつゝ、先生の御遇を

蒙り候は、小生の至幸と存じ、感謝

罷在候事に御坐候。

こゝに謹んで御恵送を拝謝奉り候。

             頓首

 昭和廿六年九月念七

           平泉 澄

             拝

徳富先生

  侍曹

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

押出足川

徳富蘇峰先生    」

【封筒裏書き】

「   九月廿七日

福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

松平慶民(まつだいら よしたみ、1882―1948)は、大正・昭和期の宮内官僚。最後の宮内大臣で初代宮内府長官。子爵。元福井藩主・松平慶永の三男。

〇春岳公―松平慶永(1828―1890)幕末から明治初期にかけての大名、政治家。越前国福井藩16代藩主。

 

二十三 平泉澄書簡(封書)

虔啓

昨夜夢に先生に謁し

夢さめて感慨に不堪、

御なつかしく存上げ候。

昭和幸卯師走朔日朝

      雪の白山々下

          平泉澄

徳富先生

    玉机下

【封筒表書き】

静岡県熱海市

伊豆山 押出足川

徳富蘇峰先生    」

【封筒裏書き】

「   師走朔日

福井県大野郡平泉寺村

白山神社

平泉 澄」

 

二十四 平泉澄書簡(封書)

虔啓

御懇諭、昨日感激を以て再三拝誦

致しました。先生御明察の通り、

頑愚にして、追放解除の申請をせ

ずに居りましたが、御諭しにより、直

ちに申請書をしたゝめ、本日提出い

たします。親の如き御慈愛、たゞ

感涙の外はございませぬ。

昭和幸卯師走廿五日

            平泉 澄拝

徳富先生

    侍曹

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生      」

【封筒裏書き】

「   福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

 

昭和二十七年

二十五 平泉澄書簡(封書)

虔啓

花時風雨多く、兎角不

順の候、先生愈々御清

安、慶賀の至に奉存候。偖

先般、先生の御命令により、

申請書も提出致し候事にて、

追放の解除・非解除とも、たゞ

先生に随従致度本意に候

ひし処、委員会に於ては、何故か

先生を保留し、小生のみ先づ解

除せられ候事、頗る不本意

存じ候。しかるところ、先生の

懇篤なる、わざ〱電報を以て

激励の御言葉を賜はり、感

銘やむ能はず、謹んで御礼

申上候。小生に於ては、境遇の

悲運、困窮依然、たゞ志

気の一貫して少しも変る事無

之。ひたすら驥尾に附して、報

国の素願に邁進いたし度存

居候。切に先生の御指南を

仰ぎ奉り候。敬具

 壬辰四月十五日

         平泉 澄

            拝

徳富先生

    侍曹

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生      」

【封筒裏書き】

    四月十五日

「   福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

 

二十六 平泉澄書簡(封書)

拝啓

秋冷の佳候、先生愈々御

清安、慶賀の至に奉存候。

さても去る四月下旬、国民史

御完成について、小生にまで御報

にあづかり候上、実に御懇篤

なる御言葉を賜はり、まことに

感激に不堪。御返事を差

上げんと欲して筆を執れば、

感慨の余、書くべき文字も無

之。遂にそのまゝ遷延仕り、

申訳も無之奉存候。しかるに、

先生の寛洪なる、少子疎懶

の罪を咎め給はずして、此

度又々高著勝利者の悲哀

御恵与下され、驚喜拝読いたし候

処、先生高邁の識見群

を抜くと、巍々たる硬骨

暴威をものゝかずともせられざ

るとは勿論の事、その海彼

新刊の書、見るべきものは必ず

之を見、評すべきもの必ず

評せらるゝ点、駭目至極に候。

さて通読の後、長男にも拝

読せしめ候処、長男はやがて

大声に小生を呼んでいふ。

 「お父さん、徳富先生のお

  写真、見られましたか」

 「拝見したよ」

 「先生のうしろにお父さんの

  芭蕉の俤がうつつてゐま

  すよ」

 「それは気がつかなかつた。

  ドレドレ」

見れば正しく先生の背後

うづたかく積まれし本の上に、

拙著一冊横に在之。あゝ

先生の小子拙才を憐ま

るゝ事如斯かと、感激に

堪え申さず候。こゝに謹んで

御礼申上候。敬具

 壬辰九月廿二日

        平泉澄

       拝

徳富先生

    侍者御中

 

尚々

 小生従来雑誌「藝林」

 幷に「桃季」発刊いたし

 来り候処、此度又期

する所有之。「神道

研究」といふ季刊雑

誌、発刊の企を立て申候。

何とぞよろしく御指

導・御高庇被下度、

願上奉り候。以上

       再拝

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

押出足川

徳富蘇峰先生      」

【封筒裏書き】

    九月二十二日

「   福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

〇近世日本国民史―1918年から第二次世界大戦後の1952年にかけて徳富蘇峰が著した、近世(安土桃山時代と江戸時代)以降の日本の通史。全100巻。平泉澄『解説近世日本国民史』 時事通信社、1963年3月。以下は解説・要約書。同監修『近世日本国民史附図』時事通信社、1960年9月。同監修『要約近世日本国民史』全10巻、時事通信社、1967年4月 – 1968年1月。

〇藝林―昭和25年に設立され、「広義の日本文化について、多角的に真摯で自由な研究を行い、その成果を国内外へ発信することを通じて、学術の向上に貢献することを目的」(本会会則第3条)とする学術団体。

〇桃季―現在は「日本」に改称。

神道史研究―昭和27年4月に主権を回復したその年の10月、山田孝雄氏、河野省三氏、武田祐吉氏、折口信夫氏、安藤正次氏、澤瀉久孝氏、平泉澄氏らの当時の錚錚たる研究者が世話人となり、神道神道史並びに関連する人文科学の研究を行うことを目的として発足した学会。

 

二十七 平泉澄書簡(封書)

拝啓

秋もふけましたが、先生愈々御清安、慶賀の至

に存じます。昨日の明治節、北国

の空も美しく晴れて、満山の紅葉、日の光に

映えます中を、遠く山を登ってお祭りをつとめ

ました。その御祭りのおさがり、例の如く

少々ですが、先生に御目にかけたく、小包で

御送り申上げましたから、どうぞよろしく

御願申上げます。

 次に勝手なお願で恐入りますが、当地に

鈴木亮といふ会社の専務があり、ふかく

先生をお慕申上げ、先生の詩を一幅御

揮毫御願してくれと申します。もし

よき御ついでがぞざいましたら、どうぞ

一枚御願申上げます。

 

次にこれは一層恐入りますが、私も

先生の御詩なり、御歌なり、御詞なり、

かけものにいたしたく存じますので、一枚御

願申上げたうございます。いつでも

よろしうございますから、決して御無理

になりませぬやうに。

霜月四日

 

徳富先生            平泉 澄

  秘書御中

 

  尚鈴木氏からは、どれほど御礼をさせて

いたゞいたらよいかと申して来て居ります。

  内々おさしづいたゞければ有難く

       存じます。

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生      」

封筒裏書き】

    十一月四日

「   福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

 

二十八 平泉澄書簡(葉書)

拝啓 先生の御染筆ありがたく

いたゞきました。鈴木氏もどんな

にか喜びませう。いづれあとより

御礼状差上げますが、とりあへず

拝受御報申上げます。よろしく

御披露ください。  師走十五日

福井県大野郡平泉寺村 平泉澄

【表書き】

静岡県熱海市伊豆山

押出足川

徳富蘇峰先生

侍者御中 」

 

二十九 平泉澄書簡(封書)

虔啓

歳晩寒気一層を加へ候処、

先生愈々御清安、慶賀

至極に奉存候。先日は、御

迷惑とは存じながら、御染筆

御願申上候処、早速御揮

毫被下、まことに有難く永

く宝蔵致すべく候。且又

鈴木氏の為にも御染筆被下、

同氏非情の喜にて、直接

御礼申上ぐるやう申居候。

山中既に白雪にとざされ、

見渡すかぎり白皚々、

是亦読書沈思の好時節

に御坐候。

廿日白山社の御祭りの御さがり、

先生に御目にかけ度、少々

御届申上候。御笑味被下度候。

これより寒さ次第に加はり候

ふべく、何とぞ御自愛被下

度、願上奉り候。敬具

 壬辰師走廿二日

          平泉澄

           拝

徳富先生

   玉案下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生      

        」

【封筒裏書き】

「  師走廿二日

    福井県大野郡

平泉寺村

白山社

平泉 澄」

 

昭和二十八年

三十 平泉澄書簡(年賀葉書)

謹賀新年

 

福井県大野郡平泉寺村

    平泉 澄

【表書き】

静岡県熱海市

 伊豆山

  徳富蘇峰先生

 

三十一 平泉澄書簡(封書)

謹啓 春暖日に加はり候処、

先生益々御清安、慶賀の至に存じ

奉り候。先日は在京の学生拝趨仕候由、

後に承り、失礼の段、恐縮に存じ奉り候。

しかるに、先生その失礼を咎め給はず、

御引見・御懇喩を賜はり候事、厚く

御礼申上候。その際、小生の年齢御尋ね

にあづかり候由、小生は只今五十九歳に相成り申し候。

先生より三十余年の後生後学に候間、何とぞ

万般御差図御引廻したまはり度、御

願申上候。なるべくはやく上京せよとの

高諭、ありがたく拝承仕り候。いかにせむ、小生

の不敏不徳の為に、上京の事、中々むつかしく、

依然山中閑居罷在候事、幸に御宥

恕賜はり度候。

先般、拝呈いたし候神饌、先生の御誕辰に

間に合ひ候由承り、うれしく奉存候。これは

特に吟味して搗かせ候事にて、何とぞ御

笑味下され度候。敬具

癸巳三月廿四日

               平泉 澄

                   拝

徳富先生

 

  尚

  この正月より「神道史研究」を発刊いたし候。

  手違有之、遅引ながら一冊拝呈仕候。

  これにて小生どもの雑誌は、藝林(四年)、

桃季(三年)と合せて三部、轡を並ぶるに

至り申し候。御指南奉仰候。

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山押出足川

徳富蘇峰先生      」

        

【封筒裏書き】

「  三月廿四日

    福井県大野郡平泉寺村

白山社

平泉 澄」

 

三十二 平泉澄書簡(封書)

拝啓

梅雨の候、先生益々御清安、

慶賀の至に奉存候。先日

は突然の参上にも拘らず、

快く拝眉を許され、久々にて

先生の温顔を拝し、まことに

御なつかしくうれしく存じ

奉り候。殊に倍旧の御英

気に接し、感歎措く能は

ず候。その折、御願申上候ひし

額面の御揮毫、御迷惑の

御事と恐縮罷在候処、

本日恵与を辱うし、直ち

に藤堂氏に之を届け申候。

雄渾の御筆蹟、真に敬

仰の外無之、今度は小生

羨望に不堪候き。藤堂

氏よりくわしく御礼申上ぐ

べく候へども、とりあへず小生

より厚く御礼申上候。敬具

 六月廿八日

        平泉 澄

           拝

徳富先生

    侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生      

          」

【封筒裏書き】

「   六月廿八日

    福井県大野郡

平泉寺村

白山社

平泉 澄」

 

昭和二十九年

三十三 平泉澄書簡(葉書)

拝啓 いよ〱三月に入り、雪の山中も

何となくなごやかにあたゝかきを覚

え申候。

先生の御清安を祝し奉り度、

神饌少々御送り申上候。御笑味

下され候はゞ、本懐至極に奉存候。

福井県大野郡平泉寺村

      白山社 平泉澄

【表書き】

静岡県 熱海市

伊豆山 押出足川

徳富蘇峰先生   」 

*左上部、「勝山/29、3、2」の消印あり。

 

昭和三十年

三十四 平泉澄書簡(葉書)

(表面下段)

いづれ近日委

詳申上げます。

 

是はうちの

庭のスケッチ

で、次男が

かいたものです。

 八月廿一日

 

(裏面上段)

拝啓 残暑猶きび

しうござおますが、

先生愈々御清

安の御事と存じます。

いつも御たより申上度

存じながら、是といふ

ほどの事が出来ませぬ

ので、のび〱になり

ました。

 

(裏面下段)

*名勝 旧玄成院庭園の水彩画あり。

 

(表面上段)

静岡県熱海市

伊豆山 

徳富蘇峰先生 

 

福井県勝山市

平泉寺町

白山社

 平泉 澄 

*左上部、「大野/30、8、21」の消印あり。

 

三十四 平泉澄書簡(封書)

拝啓

残暑猶きびしき折、先生には

愈々御清適、慶賀の至に存じ

奉ります。此度は、日本談義

御恵送を辱うし、先生の「この

十年」拝読、頗る感銘の深いもの

がございました。佐藤博士には、私も

御厄介になりました事で、想出が多く

ございます。さて先年度々

先生より「都へ出て来い。東京に

居つて全国に号令せよ」との高諭、

ありがたく拝承いたしながら、微力

その運びに至らずに居りました処、

昨年より漸く活動し得る機運に

向ひました。

 〇昨年六月三十日、招かれて上京。

  首相官邸に於て憲法を論じ、

マッカーサー憲法は即時破棄

すべく、よろしく直ちに

明治天皇欽定憲法に戻し、

しかる後に時勢に適するやう

多少の修正を行ひて可也と

論じました(約二時間)。

 〇昨年十月七日、工業クラブに於いて、

財界第一流の名士六七十名の

御参集を得、小生の考をのべる

事二時間、日本国独立の為

に必要とする精神の確立を

強調して、同感共鳴を得

ました。

 〇その結果、年に数回講義する

  事となり、その講堂は出光

興産が提供せられ、よつて

 十一月に三日間

  五月に三日間

都合三回講義いたしました。

 〇地方には折々出かけますが、

就中、本年三月・四月は熊本・

福岡・長崎、六月には再び

九州へ参り、大分・熊本・福岡と

廻りました。六月には聴講合計

六千名に上りました。

 〇この秋、三たび九州へ参ります

  予定でございます。今度は

鹿児島へ参ります。

 〇この秋は、北海道へも参る事に

なりませう。

  かやうにして漸く先生の高愉

に従ひ、東京を中心として、全

国の義気を鼓舞する体勢

をととのへて参りました。魯鈍

ではありますが、全力をあげて、

皇国の再興につくし、左衽

の一掃を期します。

右、はやく御報告申上ぐべきで

ございましたが、聊か成果を

見ました上で申上度存じ、今日

に至りました。

尚昨年は、北畠親房公六百年

祭を各地に挙行し、記念の

論文集を発刊いたしました。

一本謹んで御座右に献じ

奉ります。

これより朝夕冷気を覚

えませう。先生何とぞ御

自愛下さい。

昭和三十年八月廿七日

       平泉澄

          拝

徳富先生

   玉案下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生 」   

【封筒裏書き】

「   八月廿七日

    福井県勝山市平泉寺

白山社

平泉 澄」

〇佐藤―佐藤恒二(物外)

〇首相―吉田茂(1878―1967)

〇論文集―『北畠親房公の研究』昭和二十九年(1954)出版、(569ページ)日本学協会・百代の国師親房公(平泉澄) 北畠親房公と伊勢(大西源一) 北畠親房の軍事的活動と神道研鑽(小島鉦作) 常陸における北畠親房(吉田一穂) 北畠親房公と神道(久保田収) 北畠親房卿及び南朝の漢学に関する断章(太田晶二郎) 日本史学の表現と伝統(森田康之助) 復古思想と神皇正統記(荻原久康) 神皇正統記考証七論(平田俊春) 神皇正統記愚管抄(田中卓) 職原鈔の研究(石村吉甫) 職原鈔を中心として(朝山浩) 北畠親房の神社史研究(西山徳) 北畠親房と崎門学派(鳥巣通明) 北畠親房公と水戸学の道統(名越時正) 神に祀られし北畠氏一族(梅田義彦) 伊勢国司北畠氏の家臣について(松島博) 北畠親房公年譜(久保田収)

 

三十五 平泉澄書簡(封書)

拝啓

初冬の寒気、漸く身に沁む頃と相成りましたが、

先生には愈々御清安、慶賀の至に存じ奉り

ます。

 小生もおかげさまにて元気に御奉公致して居り

 ます。十月より十一月へかけて北海道へ参り、道を

 弘め、転じて京都」へ参り、山崎闇斎先生を祭り、

このほど又々上京。これより連日自衛隊の学校及び

警察にて講義の上、再び京都へ参り、塾を復

興します予定でございます。

さてこゝに一つ御願がございますのは、元陸軍省に勤め

られました陸軍大佐古東要氏(大分県中津出身)、

終戦後は島根県邇摩郡仁万町にて瓦製造の

会社を創立し、その社長として之が経営に当り、よく人

の和を得て成功して居られますが、年来頗る先生に私

淑し、景仰の余り、一度拝眉の栄を賜はりたき熱望

にございます故、参上いたしましたならば、五分にても十

分にてもよろしうございますから、御引見・御激励たま

はり度、小生よりも御願申上げます。

 多分十四日、又は十五日に、夫人同伴参上します

事と存じます。

先づは右折入つて御願申上げます。とりいそぎペンの

走りがき、御海容のほど、御願いたします。

  乙未師走十一日

              平泉 澄

徳富先生

    玉案下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生 」   

【封筒裏書き】

「  師走十一日

    東京銀座東四ノ二

    明治時計ビル内

    平泉歴史研究室

      平泉 澄  」

〇古東要―1945.6.5― 終戦(陸士33期)

 

昭和三十一年

三十六 平泉澄書簡(封書)

謹んで新年を賀し

奉ります。先生には

愈々御健かに後輩を

御指導下さいますやう

御願申上げます。

 私もおかげを以て元気に

越年致しました。去年

は還暦でございましたが、

九州・北海道と東奔西走、

全国に亘り、七十五回の

講演を行ひました。本

年は、更に一段と奮励い

たし度存じて居ります。

よろしく御教導

御願申上げます。

昭和三十一年正月二日

     雪の白山にて

       平泉 澄

           拝

徳富先生

    侍曹

 尚々

  本日速達小包にて

  御届け申上げました

  のは、

白山社歳旦祭

御かゞみの御さがりで

ございます。

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生 」   

【封筒裏書き】

「正月二日

 福井県勝山市平泉寺

白山社

平泉 澄」

 

三十七 平泉澄書簡(封書)

拝啓

梅花既に散尽して春色

野に遍からむとする時、

先生愈々御清安、慶賀

の至に奉存候。さてこゝに

一つ御願有之候は、今年は

水戸義公が大日本史編纂

の事を始められし明暦三年

より正に三百年に相当致し

候間、記念の為に「大日本史

の研究」といふ書物をつくり、之

によつて国史の光をかゝげ、

混迷の学界・思想界の一つの

指針といたし度存じ、約二十

名の学者を糾合いたし、目下

各原稿執筆中に御座候。

ついては、右書物の巻頭に

先生の玉稿をたまはり、

高邁の御識見、雄渾の

御文章を以て、天下の義気

を鼓舞していたゞき度、何とぞ

微意御諒察の上、一文を

賜はり度、謹んで御願申

上候。

 右、拝趨御願申上ぐべきの処、

先日中、九州各地巡講

二十日余り、講演十六回、

聴講者六千六百六十

名に上り、いさゝか疲れ

を覚え候為、失礼とは

存じ乍ら、書中御願

申上候事、御海容願

上奉り候。敬具

丙申三月十日

     平泉 澄

        拝

徳富先生

   玉案下

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生  」   

【封筒裏書き】

「  三月十日

    東京銀座東四丁目二番地

    明治時計ビル 三階

     平泉歴史研究室

       電話京橋(56)五七四三番

      平泉 澄拝         」

      ((56)は54と訂正)

〇水戸義公―水戸光圀(1628―1701)江戸幕府初代将軍・徳川家康の孫に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂し、水戸学の基礎をつくった。

〇明暦三年―1657年。この年は1月18日~二十日にかけて明暦の大火(振袖火事)がある。

〇「大日本史の研究」(1957年出版・立花書房)―大日本史概説(平泉澄) 水戸義公の学問的業績(久保田収) 大日本史と義公(名越時正) 大日本史紀伝撰者と編修上の諸問題(吉田一徳) 大日本史と崎門史学の関係(鳥巣通明) 弘文天皇(宮田俊彦) 礼儀類典の編纂(時野谷滋) 彰考館と教育(荷見守文) 大日本史国学者(三木正太郎) 神祇志の学問的価値(西山徳) 大日本史終結(荒川久寿男)

 

三十八 平泉澄書簡(封書)

拝啓

漸く春暖の佳時を

迎へ候処、先生愈々

御清適、為邦家大

慶に奉存候。さて、

昨日は御使者を以て、

幽谷先生画像一幅、

御恵与を辱うし、思も

よらぬ事とて、驚喜

仕り候。且つまた「大日本史

の研究」編纂出版について、

玉稿一篇巻頭を飾らむ

が為に、御願申上候処、御

快諾をたまはり、有難く

御礼申上候。あゝ先生の

後輩を誘導し給ふ事、

至矣尽矣、感激に

堪へ申さず。これより一層

奮励、御愛顧に報じ度

念願に御坐候。敬具

 丙申三月十四日

     平泉 澄

         拝

徳富先生

   侍者御中

【封筒表書き】

静岡県熱海市伊豆山

徳富蘇峰先生  」   

【封筒裏書き】

「  三月十四日

    東京銀座東四丁目二番地

    明治時計ビル (三階)

     平泉歴史研究室

       電話京橋(56)五七四三番

      平泉 澄拝         」

      ((56)は54と訂正)

 

昭和三十二年

三十九 平泉澄書簡(葉書)

(表面)

静岡県熱海市

 伊豆山

 徳富孝子様

 

    福井県大野郡平泉寺村

    白山社 平泉 澄

(裏面)

拝啓 御悲しみのうちに、御心づかひ

下され、御風呂敷御送りたまは

り、あつく御礼申上げます。

先生の絶筆でございませうに、何と

いふ力強い文字でせうか。驚歎

いたしました。

 

  大晦日  大雪の白山ゝ中

       にて

         平泉 澄

 

 

「大正・昭和戦前期における徳富蘇峰平泉澄」に関してはpdf論文をワード化し修訂したものであり、「平泉澄から徳富蘇峰に宛てたる書簡集」に関しては筆録者(二谷)がワード打ちしたものである。「書簡集」の注に関しては、著者である坂口太郎氏の注も参考にしながら、筆録者独自の視点で注記した。

また、このように平泉澄博士の論考に関するものを提出する目的は、小拙の最初の師である稲川誠一先生の恩徳に報いる目的の一貫としてのものである事を記す。(2023年・タイ国にて)

稲川誠一(1926―1985)七高で久保田収、東大で平泉澄に師事。日本中世史を専門とし、『新修大垣市史』の中世の部分を担当し、また岐阜県内の東大寺領荘園の研究に従事。日本教師会会長などを歴任している。(ウイキペディアより転載)

 

正法眼蔵身心学道について    竹 村 仁 秀

正法眼蔵身心学道について

竹 村 仁 秀

 

永平高祖道元褝師は主著「正法眼蔵」の中に「身心学道」の一巻を著わし、仏家修行者の真実の学道について説示しておられる。

学道と云うならば、平常は心の学道の如く考えられ、学道その物をして心の成長、発展の問題と結びつけて人格の陶治とする様に思考せられておるけれ共、道元禅師は、真実の学道とは身の学道である。いうならば、身心の学道でなければならぬとしている。従。て禅師の学道とは、仏祖の行李を学習することにあるのであって、身心両面の不二一体の参学を示しているのである。「身心学道」の冒頭に、

仏道は不道を擬するに不得なり、不学を擬するに転遠なり、南獄大慧褝師のいはく、修証はなきにあらす、汚染することえじ、仏道を学せざれば、すなはち外道・闡提等の道に堕在す、このゆえに前仏後仏かならず仏道を修行するなり

と示されて、仏道修行の功に酬いて、証を得るのではなく、あくまでも不汚染の修証でなければならない。修行をして不待、証を不期修行と参学せねばならない事の、本証妙修の真随を説示されたものである。これは、本覚門的修証観に立っ道元禅師の教えが非常に解りやすく如実に知見し得る所である。

さて、今ここに引用の本文であるが、仏道に不道、不学という言葉があるけれ共、仏道とは、大道を離れようとしても所詮離れられざる、一切処一切時が道なる故に迷うても、悟っても仏祖の大道を出するものではあり得ない。云うなれば「修証はなきにあらず」は修証一等、或は修証不二の本覚門的修証観を示し、「染汚することをえじ」は、不染汚の修証を云っているのである。対待なき真実の学道を云うのである。

従って、褝師からすれば、修といっても証と云っても一方究尽であって、一方証すれば一方はくらし、の如く修の時は修のみにて他方は一法もあり得ない。尽法界修の一元となる。不染汚の修証、つまり身心不二であって仏祖道における真実の学道とは、かかる身心の学習を云うのであって、衆生の立場を修行の出発的とすれば、見性待悟の禅となり、仏の立場より修行すれば道元褝の修行となるのである。初発心より現成公案にあって迷惑せず。顛到せざる自己を看取せよの立場である。

衆生を仏に変らすと云うのではなく、無限に仏を証しもていくのである。

褝師が已下に示される身心学道の全文も、かかる修証観から拈提されるのであって、一元的もの乂見方、捉え方が明確である。道元褝師の仏法の真随を示すものはかかる全一的かつ何物にも捉われず又束縛を受けず、自受用三昧を行くもので、遍界無障である。従ってここでは、心学道のみの参究に止めるが、身学道としても全くこのことは何ら異るものではない。つまり心学道と身学道は二つのものではなく、本来一つのものを説示する上に二つに分けて説いているのである。身心は不離不待であって、身心が二つならば、心常相滅の邪見とえらぶ所はない。本証妙修に立つ褝師が、かかる二元観に立つことはあり得ない。

  禅師が「心をもて学し、身をもて学すなり」と云っているのも、凡夫の具足せる慮知念覚の心を似って学ぶ法とか、或は穢身仏道を修行するのではなく、心は即ち身であるから、只身心学道と名付けたる為に、心の学、身の学と云うのであるが、「以法界を学し、以眼学し、以耳学し、以山学し、以見学し、以水学すとも無尽に云うべきなり、しかしてこの身則学なり、此心則学なり」なのである。

身とは学であり、心とは学なのだとされる。身と学とを初り離して考えるのではなく、心を学と二別せず、尽十方界を一顆の明珠として心一元に生きること、その時に自己は学としての身になり切り、心としての学になり切っている。従ってそれは心に徹底して生きること、それ自体が学なのであるとなる。従って褝師が「あらゆる諸心をもて学すなり」と云っても、諸心とは仏心を云っているのであって、質多心も汗粟駄心も皆我らが日頃具足したる心を云っているのではない。帰依とは心の外の何物でもないのであるから、前も後も習心なのであって、前後ありとはならない。菩提心の行李とは菩提心を発す為の行李を云うのではなく、自性清浄の自己の本心のめざめを云うのである。いわば、慮知心と菩提心の二心があるのではなく、仏心の共体的現実相を慮知心としているのであるから、菩提道を行ずることの上には、慮知心も衆生心もなく皆菩提心なのである。

しかし乍ら、この発菩提心は末だおこらすとも、菩提心をおこせし仏祖の法をならふことが、発菩提心であるとしている。そして菩提心とは赤心片片であり、古仏心であり、平常心であり、三界一心であるとされる。

そして、これらの心を放下し或は拈挙して学道する。それは心の上に思量すとも不思量すとも、尽十方界が心の究尽せる時節においては心の一元であるから、非思量と云うも同じことなのだとされるのである。つまり、心をもって放つとも拈挙(とる)とも云うもその心地は、 云うなれば心のありようを云うのである。その心の具体的姿としては、剃髪染衣も釈迦老子の王城を捨て檀特山に入山せる姿も皆心と心得るべきなのである。即ち、尽十方界にあらゆる一悉全てが心に外ならず、心外無外法の心地をかくの如く説いているのである。山に入る事、それは山と入とのあはひとしてみるならば、入山は世の所捨であって、これを非思量と心得るべきであり、又山からみれば、所入なる山も所捨と同格であって、紅爐上の調度なのである。つまりは、思量箇不思量底の道理を云い、更に非思量の道理を云ったものである。参本(1)に「所入所捨、斎挙頭兀兀地と」は、これを示すと考えられる。

その心は無辺際であって眼睛に団し来たる業識に弄し来たるを、暫二三斛とも千万端と云うも同事で、不依数量なるのである。以心の道理を眼睛とも業識と云うとも、それが真諦俗諦両門と区分して受けるべきではない。要は、学道を指すのであって二三斛千万端は学道を云うのであって、数量を示すのではない。心の参学に徹し切ること自体は尽界心一元、自己が徒らに凡夫としての一人間ではなく、尽法界の中に自己を帰し、自己に尽法界を帰すことなのであるから、そこは無辺際であって、数量真俗の区別観は存し得ないのである。(未完)

 1正法眼蔵註解全書第五巻三二六頁。

 

   これは『印度學佛教學研究』18 巻 (1969-1970) 2 号

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂を加えた。

 

(2022年10月 タイ国にて 二谷 記)

『正法眼蔵』 「諸悪莫作」 論考    佐 藤 悦 成

正法眼蔵』 「諸悪莫作」 論考

佐 藤 悦 成

 

はじめに

正法眼蔵』「諸悪莫作」の巻に記される莫作の形成は、道元禅師の証す単伝の正法が、如何にして禅師自身に体得され、その思想の原点が那辺にあるかを理解せねば通俗的・表象的理解に留まることになろう。

 知識としての思想的・倫理的教示として、他律的な「(善を行え)悪をなすな」とか、宗教的内省の在り方ではあっても対立的な分別に著した「(善をなし、善ではないから)悪をなさない」の両者いづれかが、一般的理解としての莫作といえる。その範囲に留まるのであれば、『正法眼蔵随聞記』(以下、随聞記と略称)の記述に見られる如く、学人に対して遮情の在り方を教示するにより目的は容易に達せられる。禅師が、強いて諸悪莫作の語を選び、『正法眼蔵』の一巻に加える必要性は何処にあるのであろうか。

  この因果の本来面目すでに分明なる、これ莫作なり、無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり、脱落なるがゆえに(1)。(『正法眼蔵』「諸悪莫作」)

右の一文、また、

諸悪莫作は、井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり、驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇応底道理あるゆえに、諸悪莫作なり(2)。(同右)

の記述は、前記二者の立場に在って出来る思想とはいえない 。

そこで、「諸悪莫作」巻冒頭に記されるところの以下の一節をもって論考の端緒となす。

諸悪は、此界の悪と他界の悪と同不同あり、先時と後時と同不同あり、天上の悪と人間の悪と同不同なり。いはんや仏道と世間と、道悪・道善・道無記、はるかに殊異あり。善悪は時なり、時は善悪にあらず、善悪は法なり、法は善悪にあらず(3)。

 

 一

上記引用文の内容を明らかにするために、『随聞記』巻一 (長円寺本)の、

道者ノ行ハ善行悪行ミナヲモハクアリ、人ノハカルトコロニアラズ

との対比をなす。

出世間の学人の行動は、世間の善悪という対立的価値観でその行為を捉え、分別の範疇に所属させることはできない、との垂示を『随聞記』は収録している。ここでは恵心僧都が庵に来った鹿を追い払う行為を挙げ、鹿を追い払うのは世俗の価値観では悪に分類されても、出世の仏の智慧からは慈悲として法にかなった行為となる点を示す。

それは、追う行為がその名のみ残って業としての具体性を喪失し、因果に僧都を引き込む機能を失なうと同時に、因果の粋の内に僧都は留め置かれていないこと、つまり、不昧因

果の立場にあることを表わしている。仏法は、得悟の表得の立場にあれば勿論師のこと、師の影響下にある遮情の立場においても、相対世界の価値体系から生じる善悪の繁縛から解放されており、影響される範囲にはないことを示している。

故に、「何トシテカ仏祖ノ道ヲ善悪ヲモテ判ズベキ」(『随聞記』巻四)、「善悪ト云事難レ定」(同巻五)、「仏道修行ノ功ヲモテ、 代リニ善果ヲ得ント思フ事無レ」(同巻六)と示して、仏道は善果を得るために行ずべきものではないことを強調する。 そして、善悪の語では不充分な点を「ホメテ白品ノ中ニ有ルヲ、善ト云フ。 ソシリテ黒品ノ中ニヲクヲ、 悪ト云」 (『随聞記』巻五)の如く、白・黒品の語を用いて補うのである。白は仏道にかなっていることにほかならなず、世俗の善と同一ではない。還減縁起として苦の滅を意味するといってもよい。黒は仏道から遠ざかることを示し、流転縁起を想起すれば理解が容易である(4)。『随聞記』における教示は、遮情の立場にある学人に示すが故に、仏道を学ぶ心得のみが示されていると観てよかろう。

しかし、『正法眼蔵』「諸悪莫作」巻においては、「莫作の力量現成するゆえに、諸悪みずから諸悪と道著せず(5)」と記して、随聞記に記される遮情としての師による化導とは全く異るところの、表得として自己の内面世界と、色としての外面世界が脱落する莫作を示す。莫作の力量現成するゆえ、とは迷妄なる自己の完全な超克ともいえ、万法を明確に体認できる自己の現成ともいえる。換言すれば、生きている現実としての時間の流れの中に疑問の生じる余地がないということで、自己という概念を離れて、無為の立場に自己を導くことといえる。端的に表現すれば、只管打坐の坐禅を行じることが、そのまま莫作の現成といい得る。

では、その論拠として、「諸悪莫作」巻に記される莫作を形成する道元禅師の思想の根源はいずこに所在するかといえば、正法眼蔵において「洗面」・「洗浄」巻が加えられている

ことに代表される如く、仏法とは知にのみあるのではなく、身体そのものにこそあるという体解の禅の了得にある。

以下において、禅師の入宋初期の体験を通して莫作の思想を明らかにせんと試みる。

 

  二

明州慶元府に停泊した禅師の乗船に来る阿育王山の老典座との出会いが、以後の禅師の進むべき方向を明確になした一要因であったといえる。『典座教訓』に自ら記す如く、老典座から弁道の何たるか、文字の何たるかを知らないと直截に明宣された禅師は、「忽然発慚驚心(6)」して深く動揺する。それ迄の仏法に対する知識を根底から取り崩され、うろたえて「当時不会」と回想させている。それが老典座という、いわば無名の学人によりなされ点に、入宋時におけるこの出来事のもたらした衝撃の強さがあったともいえる。

食事を作るという日常的生活行為にさえ、日本における同様な行為と、その背景にある思想としての厚み、又は行為に対する価値基準が根本的に異なることを知るのである。日常の現実的行為を越えた所に特別な仏法が存在するのではなく、典座の教示にあるごとく、日常性そのものの直視により、現実の自己から決して遊離しない仏法が禅師の希求した禅の要諦であったといえる。

禅師入宋時の大陸禅は、三教一致が唱えられ、看話禅がその主流を占めていた。それ故褝師は、大慧宗果の坐禅(7)に対する態度を賞讃はしても、宋朝禅の指導層に対しては批判的である。かえって底辺を支える無名の修行僧に畏敬の念を抱くのである。それは、彼等こそが知解として表象的禅に留まることのない、自ら手を汚し、汗を流す現実に生きる体解の禅が存在することを認識していたからにほかならない。

知識としての仏法は、叡山での修行以来まのあたりにして来た事柄であり、その点に満足を見出せない故の入宋であったのであるから、これは当然の帰結であったともいえよう。つまり、唐代の禅に代表される純粋な禅を、正統に継承し来っているのは、大寺の住持職に座す大徳ではなく、寺院の日常生活(修行) を支える無名の修行僧であるとするのである。この、仏法の純粋性を強く求める禅師の在り方は、既に明全を師として選ぶ際にも表出していたといえる。

予発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらひき、ちなみに建仁の全公をみる。あひしたがふ霜華、すみやかに九廻をへたり。いささか臨済の家風をきく。全公は祖師西和尚の上足として、ひとり無上の仏法を正伝せり、あへて余輩のならぶべきにあらず。(『正法眼蔵』「弁道話」(7))

と記して、禅師は栄西の正嫡として明全を位置付けるとともに、それ迄の日本における諸山遍歴では得ることのできなかった峻厳な仏法への態度に信頼を深めたことが、すみやかに九年が過ぎ去った、の一節に表われている。

また、『随聞記』巻六には、病床の師明融阿闍梨の懇願を振り切り、情愛、恩義は学仏道の志に劣るとして、それ等を捨てて入宋の途に着かんとする、明全の求法に対する真摯な態度を賞讃している。

道元禅師は、栄西の門人の中では明全を選び師事するのであるが、それは前記の如く明全の内に自らを託すべき仏道への純粋性を見出してのことといい得るであろう。

その明全とともに正法を求めて入宋した禅師にとって、阿育王山の典座との邂逅は、それ迄に見聞した禅とは全く異相の、換言すれば栄西の禅とも異なる、いわば体解、体得の禅との出会いであったといえる。ここでの驚心があってこそ、禅師は正法への足掛りを得たともいえる。言葉で米を焚くことは出来ない。手足を動かし、身体を使う具体的行動があってこそ米は飯になるのであり、また、それ以外の何物も存在するのではないことに禅師は戸惑うのである。その戸惑いを隠さず、糊塗せず、自らの全身心で受容せんと禅師はなすのである。

それは、宋代にあってなおかつ唐代禅者の純粋性を求め続けたともいい得るかも知れない。

この阿育王山の老典座とは後に天童山で再会し、そこでも禅師は教示を受けている(9)。

乗船を出て天童山に掛塔した禅師は、希求してやまなかった大陸禅の真只中に身を置く。しかし、船中で典座に課せられた課題の解答を、当時の宋朝禅の主流であった看話禅に求めることは無理であったといえる。文字とは一二三四五であり、弁道とは偏界不曾蔵である、 と彼の典座は老婆心により懇切に教える。そこには看話禅の如く、言葉の裏の意味に試行錯誤し、意図を探る必要性の煩雑さは皆無であったといえる。文字が知識を意味するのであれば、仏典、論・釈書の全てを自家籠中のものとして活用自在となし得たとしても、知の全域からすれば九牛の一毛に過ぎず、如何なる高度な思想、難解な論理といえども、日常用いる一二三・・とその根源において何ら異なることはない。

それ故に学仏道は、自己以外に存在すると仮定した真理を発見することではなく、そのような真理の存在の仮定は虚妄分別の結果であり、幻であると自証することにこそあるのだ、 と老典座は禅師に諭すのである。

正法を求めて入宋した禅師は、明全の如く戒行を通して仏法の真実を得ようとするのとは異なる方向をここに見出したといえ、 それはより自由で、 知を裁断した身体の禅であったといえる。 その自由とは、後の禅師の言葉から引用すれば、眼は横、鼻は真直ぐにあることを知り得たのみで、特別に仏法というものを持ち帰ったのではなく、空手で帰り来ったのである、という『永年広録』の上堂語に集約されている。

『典座教訓』では更に、天童山の用典座(10)との出会いも重ねて記しているが、この一段は先の老典座の教示とは異なる意味で示唆に富む。

道元禅師にとって、叡山において抱いた疑団そのものが、知の仏法は本来の姿ではあり得ないことを示していた。その体験から生じた疑団解決のための入宋であったから、知の禅は既に興味の対象とさえもなり得ないものであったといえる。それ故、天童山の仏殿前庭における用典座の姿に、禅師は強く感応するのである。夏の強い日差しの中で、苔を無心に干す老典座の存在は、「他不是吾、更待何時」と記される言葉そのものの体現として深い意味を含んでいる。

苔を干す作業は、寺院の典座職にあれば日常的な行動であろう。その意味で、為すべき時に為すべき者が行う、という上記二句は極めて簡潔ながら仏法の真随を表現している。そしてその言葉が交されるのは、仏殿前であって庫院前でないことに注目したい。『典座教訓』 ではこの点に言及していないが、体解の禅はこの事態をも解明せねば完成したとはいえないと考える。

禅宗では、仏殿は重視されず、法堂を最も重要な伽藍と考える。しかし、それは禅宗における重要度の問題であり、仏殿を軽んじてよいことではない。山門を入って正面に位置する仏殿も、行事の場として清浄であるべき空間といえる。本来、掃き清められて緊張の漲る筈の空間に、老典座は黙々と苔を干し並べているのである。農夫が自家の庭でなすような、何の疑問も周囲に感じさせない行動そのものに、禅師の希求する体解の禅があったといえる。禅師自身、その点に全く疑問を差しはさんでいないことがそれを証している。

清と濁、浄と不浄といわれる二元論は消滅し、単に聖なることによってのみ成立するものは何物も無く、不浄を否定することで、自らを聖なる存在として確立しようとする意識も勿論ない。また、濁、不浄をもって聖に対立せんとする偽悪的な意図を含んでいるのでもない。ただ仏殿前が、苔を干すのに適した広さと陽当りを備えていたからにほかならない。

阿育王山の典座にせよ、天童山の用典座にせよ、その行動と言葉が完全な一致を見せており、何の矛盾も含んではいない。例え両典座の言葉は、禅の古典から学び得たものであったとしても、それは既に知にのみ堕した思想ではなく、言葉を自己の身体で証した体得の禅であったといえる。

百丈懐海の「一日不作、一日不食」という禅の在り方が、歴史という時間の流れの中で断絶せず、宋代の無名の禅者に脈々と受け継がれていたともいえよう。知の抽象的禅を脱却して、労働と修行とが区別されない、というよりできない実践の禅は、行うべき事柄を行うべき時に、行うべき者が行うことに象徴され、百丈の言葉と、用典座の「他不是吾」云々は同意といえる。

二人の老典座は、上記の意味で宋朝禅の主流たる看話禅に組しない。異端ではあるが、それ故唐朝禅者と同様な禅の体現者であったといえる。

百丈の食わずは、典座の職に通じている。食べることは日常生活を代表しているが、それは決して修行、労働の対価ではなく、食べること自体が修行なのだ、と説くのである。

道元禅師が入宋して求めたのは、両典座の如く日常の現場に生きた禅であって、宋代の師家が妓舞する知の禅ではなかったといえる。 その点を考察する上で正法眼蔵「洗浄」「洗面」 の二巻は重要であり、象徴的でさえある。

 

「洗浄」巻では「作法これ宗旨なり、得道これ作法なり(11)」「水をもて身をきよむるにあらず、仏法によりて仏法を保任するにこの儀あり、これを洗浄と称す(12)」と記し、洗浄という生活行為をそのまま仏法の体現となしている。

また「洗面(13)」巻では、宋における楊枝を使わない生活様式を捉えて、単に日本と宋の彼我の習慣の違いという範疇を越えて、楊枝を使わないのは仏法の失墜であると記している。正法を求め、生命を賭して海を渡り、山川を越え、苦労を重ねて来った結果がこれであったと嘆息するのである。有道の尊宿も、人天の導師と呼ばれる人々も、仏法を問えば理路整然と仏典の言葉を並べ、博識なることを被歴してくれるが、向かい合ったその口は臭く匂うのである。口臭がそのまま仏法の滅没へと結び付くことが、道元禅師の在り方においては何の矛盾も含まないのは、先の二典座の行動と言葉に完全な合一性が存在するのと同じ次元で捉えられているからである。人としての生活様式といった生理的範囲に属する事柄も、決して軽んじるべきでなく、逆にそのまま仏法の問題と整え得るかが、仏法と不即不

離の問題として問われているのである。これはそのまま、知の禅をもって学人を化導し、宋朝禅の本流を歩む尊宿達への批判ともなる。日本において、入宋以前に禅師自身が見聞した旧仏教の形態から、知識は容易に権力となり、堕落を生む原因であったし、教条主義は硬直化して制度としての仏法に堕し、何ら人としての真実を得るための解決の糸口さえ与えてくれないことを、体験として知り抜いていたからである。正法体達への糸口となる学仏道の真髄を、天童山の住持たる無際了派からではなく、無名の二典座に受けて宋における禅師の修行が始まったのである。 

留学僧としての禅師の在り方が、単なる知識を求めての学仏道であったならば、大陸禅の主流たる看話禅を学び得て帰国し、先進の禅僧としての自分に満足を感じたかも知れない。しかし現実には、叡山での大疑団に始まり、二典座によって端緒は与えられたものの、求める正法の全体像さえ明確にならぬまま諸山を巡錫し、呻吟を続けて天童如浄に出会うのである。それ故、如浄下で体達した禅を知解では決してないとして、「一毫も仏法なし」 (『永平広録』) と記するのである。

宋朝禅の主流への批判的、又は懐疑的といってもよい禅師の在り方を例に挙げれば、次の一節に明らかである。

外道天魔の流類といってもよい杜撰のやからが導師大徳といわれて人夫の師となり、天下の叢林に座している。杜撰は杜撰に学ぶが故に正法を知らず、知らないから正法を得ようとも思っていない(15)(『正法眼蔵』「仏教」より)

 

この正法眼蔵「仏教」巻では、三教 一致論を思想として論じるつもりのないことが表明されている。三教一致として比較の対象になり得る場に仏法はないとして、論そのものの基盤を否定しているのである。そこには、論理的、知的な対象として仏法を捉えていない禅師の在り方が一層明確に記されているのである。

上記の如く、知解を排し、体解の正法を自らの禅に現成させた禅師にとっては、莫作に関しても例外ではないのである。

 

  

正法眼蔵』「現成公案.巻に記されるところの 「仏道を習ふといふは、自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり(16)」云々の「習ふ」とは、単なる表象的知解としての自己解明ではなく、体解としての自己確認といえる。

同様に道元禅師の示す莫作とは、生きているという本質、全く疑問を差し挟む余地の無い確実さを自証することに他ならず、仏法そのものと自己の間に障りのない立場ともいえる。

 

生きていることに疑いがないということは、 そこに莫作の行為性、奉行の行為性そのものが既に生じる余地のないことであるから、「時は善悪にあらず」「法は善悪にあらず」との言葉になるのである。

また、「作仏祖するに衆生をやぶらず、うばはず、うしなふにあらず、しかあれども脱落しきたれるなり」と記して、莫作すべき悪、奉行すべき善としての、彼我の分別は消減するという。 それは、証す対象として認識していたところの仏法に、証す主体としての自己が、実相を直視することにより、逆に証されるということであるし、莫作さえも莫作されて現成するのが道元禅師における諸悪莫作ともいえる。それ故に、証すべき対象としての仏法も実は自己であり、 証す主体としての存在も自己ということになる。

なぜなら、莫作の力量が現成する時点に留まるならば、莫作の範囲に留置されることになり、莫作とその対象が存続してゆくことになるからである。その故に「井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり、驢の驢をみるなり(17)」云々と記して、莫作の行為性の内から脱して、自己の生きる事実が莫作そのものであることを示している。この点からすれば、

莫作は脱落であり、奉行も脱落であり、莫作・奉行ともに只管打坐そのものに帰結する。

 

1『正法眼蔵』「諸悪莫作」(衛藤即応校註 岩波書店 昭和一四年)上巻一四三。

2同右 上巻一四四~一四五。

3同右 上巻一四一。

4山口益訳『中辺分別論釈疏』五無上乗品 安慧釈(鈴木学術財団 昭和四一年)三七五。

 同じく黒品と白品との差別によりて二種の所取能取の辺ありと云ふ。その中、黒品中に於て無明乃至老死なる十二有支あり。同様に白品中に於ても無明等の滅の差別によりて無明の滅乃至老死の滅なる十二種あり。

5『正法眼蔵』「諸悪莫作」前出書 上巻一四二。

6『道元褝師清規』「典座教訓」(大久保道舟訳註  岩波書店 昭和五四年)二八。

 山僧云、寺裏何無同事者理会斎粥乎、典座一位不在有什麼欠闕。座云、吾老年掌此職、乃耄及之弁道也、何以可譲他乎 又莫 来時未請一夜宿暇。山僧又問典座、座尊年、何不坐禅弁道、看古人話頭、煩充典座只管作務、有甚好事。座大笑云、外国好人未了得弁道、未知得文字在。山僧聞他恁地話、忽然発慚驚心、便問他、如何是文字、如何是弁道。

7東隆真編『五写本影印正法眼蔵随聞記』(圭文社 昭和五四年)一八二。

8『正法眼蔵』「弁道話」前出書 上巻四九~五〇。

9『道元禅師清規』「典座教訓」前出書 二八~三〇。

 同年(嘉定十六年)七月、山僧掛錫天童、時彼典座来得相見云、解夏了退典座帰郷去、適聞兄弟説老子在箇裏、如何不来相見。山僧喜踊感激、接他説話之次、説出前日在舶裏文字弁道之故也。山僧問他、如何是文字。座云、一二三四五。又問、如何是弁道、座云、偏界不曾蔵。共余説話雖有多般、今所不録也。山僧聊知文字了弁道、乃彼典座之大恩也。

10『道元禅師清規』「典座教訓」前出書 一一六。

 山僧在天童時、本府用典座充職。(中略)典座在仏殿前晒苔。手携竹杖頭無片笠。天日熱地甎熱。汗流徘徊励カ晒苔。稍見苦辛、背骨如弓、竜眉似鶴。山僧近前、便問典座法寿。座云、六十八歳。山僧云、如何不使行者人工。座云、他不是吾。山僧云、老人家如法、天日且恁熱、如何恁地。座云、更待何時。

11『正法眼蔵』「洗浄」前出書 上巻一〇一。

 しかあれば身心これ不染汚なれども、浄身の法あり、浄心の法あり。ただ身心をきょむるのみにあらす、国土樹下をもきよむるなり。国土いまだかつて塵穢あらざれどもきよむるは、諸仏之所護念なり、仏果にいたりてなほ退せず廃せざるなり。その宗旨、はかりつくすべきことかたし。作法これ宗旨なり。得道これ作法なり。

12同右 一〇二。

13『正法眼蔵』「洗面」前出書 中巻三〇五~三〇六。

 まさにしるべし、仏仏祖祖正伝の宗旨、かくのごとし。これに違せんは、仏道にあらず、 仏法にあらず、祖道にあらず。しかあるに大宋国、いま楊枝たえてみえず。嘉定十六年癸未四月のなかに、はじめて大宋に諸山諸寺をみるに、僧侶の楊枝をしれるなく、朝野の貴賤おなじくしらず。僧家すべてしらざるゆえに、もし楊枝の法を問著すれば、失色して度を失す。あはれむべし、白法の失墜せることを。(中略)有道の尊宿と称し、人夫の導師と号するともがらも、漱石・刮舌・嚼楊枝の法ありとだにもしらず。これもて推するに、仏祖の大道いま陵夷をみるらんこと、いくばくぞといふことしらず。いまわれら露命を万里の蒼波にをしまず、異域の山川をわたりしのぎて、道をとぶらふとすれども、澆運かなしむべし、いくばくの白法か、さきだちて滅没しぬらん、をしむべし、をしむべし。

14伊藤俊光編『永平広録註解全書』上(鴻盟社 昭和四二年)三

 上堂。山僧歴叢林不多。只是等閑見天童先師当下認得眼横鼻直不被人瞞「便乃空手還郷。所以毫無仏法。任運且延時。朝朝日東出、夜夜月沈西。雲収山骨露、雨過四山低、畢竟如何。

15『正法眼蔵』「仏教」前出書 中巻二五九~二六〇。

 しかあるに大宋国の一二百余年の前後にあらゆる杜撰の臭皮袋いはく、祖師の言句、なほこころにおくべからず、いはんや経教は、ながくみるべからす、もちいるべからず、 ただ身心をして枯木死灰のごとくなるべし、破木杓、脱底桶のごとくなるべし。かくのごとくのともがら、いたづらに外道天魔の流類となれり。もちいるべからざるをもとめてもちいる、これによりて仏祖の法、むなしく狂顛の法となれり、あはれむべし、かなしむべし。(中略) かくのごとくの杜撰のやから、稲麻竹葦のごとし、獅子の座にのぼり、人天の師として、天下に叢林をなせり。杜撰は杜撰に学せるがゆえに、杜撰にあらざる道理を知

らず。しらざればねがはず、従冥入於冥あはれむべし。かつて仏法の身心なければ、身儀心操いかにあるべしとしらず。

16『正法眼蔵』「現成公案」前出書 上巻七七~七八。

17『正法眼蔵』「諸悪莫作」前出書 上巻一四四~一四五。

 諸悪莫作は、井の驢 をみるにあらず、井の井をみるなり、驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇応底道理あるゆえに、諸悪莫作なり。

 

これは『印度學佛敎學研究』第三十六卷第二號 昭和六十三年三月 

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂を加えた。

 

(2022年 10月 タイ国にて 二谷 記)

 

『正法眼蔵諸悪莫作』 と褝戒思想     黒 丸 寛 之

正法眼蔵諸悪莫作』 と褝戒思想

 

日本曹洞禅における褝戒思想は、江戸中期に卍山が『禅戒訣』『対客閑話』を著してより、賛否両説の種々の論議を重ねた後、面山の『大戒訣』、指月の『禅戒篇』等を経て、万仭の『褝戒鈔』に至って大成されたと見られるものである。これらの禅戒思想の根底をなすものは、言うまでもなく「教授戒文」の所説であり、特に褝戒論として大成されたとされる万仭において、その思想的基盤をなすものは教授戒文に基く『梵網経略抄』の戒学である。万仭の『褝戒鈔』は、『梵網経略抄』(経豪鈔)によって褝門の戒義を闡明にしたものであるから、後の曹洞宗学に於ける禅戒思想は同抄が基本となつていると考えられる。そして、この抄に於ける戒思想の根拠としての一面を『正法眼蔵諸悪莫作』の巻に見ることが出来る。そこで『諸悪莫作』の巻の所説が、褝戒思想に展開する二、三の要項について考察してみたいと思う。

先ず『諸悪莫作』の巻と禅戒思想に共通するものとして、善悪と行の問題がある。同書に於ける善悪についての見解は、「善悪は時なり、時は善悪にあらず、善悪は法なり、法は善悪にあらず、法等悪等なり、法等善等なり」の語に示されていると見られるが、これについて経豪の『御抄』は、「善悪は時なりとは、人にかうぶらしめたる詞也、時に善時悪時と云時不可有、法又如此」と述べて、善悪と時、或は善 悪と法は、それそれ相対するものではなくて「人にかうぶらしめたる詞」として解されている。素より『正法眼蔵』は人法一体の世界を説くものであるが、「諸悪莫作」の巻に於いても人法一体の時であり法であるから、「善悪は時なり」ということも人すなわち身心について説かれていることは自ら明かである。そして、 この身心が無上菩提の身心であるという視点から、「諸悪莫作」の巻ではこれを現成せしめる「莫作の力量」が、重要な課題として説かれているのである。ところで、諸悪莫作の「諸悪」は、眼蔵本文に「諸悪みづから諸悪と道著せす、諸悪にさだまれる調度なきなり」と説かれるように、諸悪として固定不変なものは無いのであるから、莫作の時節には諸悪はこれに対して並び立たないとするのである。つまり、諸悪は莫作に蔵れて莫作ばかりの世界となるというのであるが、これを「善悪は時なり、時は善悪にあらず」ー善悪と時は並び立たないー「善悪は法なり、法は善悪にあらず」―善悪と法は並び立たないーとして述べられているのであり、またこの一法究尽の実践論理が「諸悪莫作」の巻を貫く基本理念であると思われる。そして、この一方を証すれは一方はくらき道理が『梵網経略抄』の戒学の要旨となっていると考えられるのである。例えば『略抄』の第一不殺生の条に「所謂不殺生と云は殺の始終にあらず、只不殺なり、喩えば諸悪莫作の莫作に習べし」と述べている如くであるが、以下にその例を挙げてみると、同じく第一不殺生の条下に「仏性常住の不殺と心得べし」として「殺すべきを不殺とは此仏戒の時は不被談也」といい、要は「只不殺なり」と説いている。この不殺生の理解は、諸悪莫作における諸悪と莫作との関係と同一であって、生命不殺(莫殺生命)と仏種増長(仏性常住)とは共に同義語に解され、莫作の力量としての不殺が明かにされているのである。また第二不倫盗の条では「仏法には財宝と分つべきなし、ぬすむ人なし、盗まるる主無きがゆへに、財宝の一法も実相を不可離」とあり、また「不盗犯と云は不殺生也、聊も不可違、所詮財宝と云は尽十方界一顆明珠なり」というが如く、不盗犯とは不殺生の道理として諸法実相の法が説かれ、次に第三不婬戒では、教授戒文の「三輪清浄無所希望・・」の語に就いて 「此清浄と云清浄は・・此の三界等の清浄には可異」として、「不著清浄清浄と心得るなり、浄穢の二法を超越するゆへに」という対立を超克した脱落の見地から「たとへ婬欲即非道と云て総に不婬也とも、諸悪莫作の理を不明、又輪転生死を不解脱は持戒に非と可云歟」と述べて、諸悪莫作の理に基くべきことを示しているのである。

以上の二、三の例にも見られるように、『梵網経略抄』が「諸悪莫作」の所説に基いて戒法を説いていることが明かであり、また『褝戒鈔』にしても『略抄』に依遵している関係

から、禅戒思想の展開と「諸悪莫作」の所説とは密接な関連 をもつのであるが、特に『略抄』に於ける実相論の開演に理論的根拠を与えているものとして、次の事を挙げることが出来るであろう。それは、『諸悪莫作』の巻における善悪は「法等悪等なり、法等善等なり」と説かれ、また衆善奉行の善の因果は「因等法等、果等法等なり」と説かれている等の理念である。この箇所についての『御抄』と『聞書』の註釈は次のようである。先ず「法等悪等なり」について『御抄』は「只是は諸悪の上の法なるべし、一方を証すれは一方はくらき道理なるべし、所落居の義如此なるべし」とあり、また眼蔵本文の「諸悪もし等なれば諸法も等なり」に就いては、『御抄』に「今の諸悪、今の諸法、尤もひとしかるべし、不可有差異」と見え、又この箇所を『聞書』では「云ふ心は諸悪もし莫作なれは、諸法も莫作なるゆゑに」と述べている。また、衆善奉行に就いての眼蔵本文では「この善の因果、おなじく奉行の現成公案なり。因はさき、果はのちなるにあらざれども、因円満し果円満す、因等法等、果等法等なり。因にまたれて果感ずといへども前後にあらず、前後等の道あるがゆゑに」とあるが、この文意について『御抄』は「たとひ此理の上には修因感果と云詞有とも、此因果に前後を立事、更不可有道理を被述也、前後等の道あるゆへにとは、たとひ前後と云詞、仏法には仕とき如此可心得と云也。」と釈し、又『聞書』では「奉行の現成公按をば、善の因とし善の果とする事は、大乗因者諸法実相也、大乗果者亦諸法実相也といふ心なるべし」として、さらに「前後等の道あるゆゑに、前をたつべくば前三三なるべし、後を立ては後三三なるべし、不可似余門義也」と述べている。以上の所説に依って見れは、眼蔵本文の等は平等絶対の意味であり、諸悪莫作・衆善奉行の菩提語としての開演は、諸法実相を莫作の量、すなわち等の道において捉えたものであって、その具体的様相が「一方を証すれは一方はくらし」という一法究尽の道理になっていると見られるのである。従って、諸悪と莫作及び衆善と奉行との関係は、公按と現成の関係に於けると同一であって、諸法実相における能所の一体的関係を示したものと見ることが出来るであろう。そして、この等の実践理念が『略抄』とそれ以後の禅戒思想の根底をなすものと考えられるのであるが、次に万仭の『禅戒鈔』の中から二、三の所説を挙げてみると次のようである。先ず同鈔三帰依の所説に「仏法には始終を立る事なし、・・妄相と実相と相対して能持の法かと覚れども、能々体脱すれは能所無し、是仏法の正路也」とあり、また不殺生の条には「受仏戒時、流転生死の皮肉骨髄不可有、今の位同大覚と云ふは、位同衆生と心得べし」と述べている。次いで不倫盗戒の条下には「諸法は実相ならば諸法を境として欲盗は、実相なるが故に可盗なく、三界を境として欲盗ば唯心の外に無客塵、・・然らば無始劫よりの盗不盗は、共に実相唯心也と解脱するなり」と論じ不妄語戒に於いては「真妄の二を立て、妄をすて真を取むと擬すれば、真の辺際を離却するなり」として「妄語生するときは大地有情同時妄語なり、不妄語生ずるときは大地有情悉不妄語也」と説いている。このように『禅戒鈔』も『略抄』と同じく一法究尽の等の理を以て貫いているのであるが、 これを再び「諸悪莫作」の巻の「善悪は時なり」「善悪は法なり」の語に就いて見ると、「諸悪莫作」の巻及び『略抄』『禅戒鈔』等の所説における善悪とは、即ち具体的現実を意味するものであり、時または法とは、普遍的真実を指すものであると理解される。しかもこの善悪の現実こそ普遍的真実であり、真実はその相を現実として現成することを示していると考えられる。従って「諸悪莫作」の巻とこれを承ける禅戒の書に於いては、善とは何か、悪とは何か、という道徳的認識が問題なのではなくて、すでに各人が存在しているこの現実において、如何にして真実を行ずるか、換言すれば、即今如何にあるべきか、ということが主要な課題とされているように思われる。そして、この立場を明かにしたのが「諸悪莫作」の巻における莫作の所説であり、さらにこれを戒法論として展開したのが『梵網経略抄』『褝戒鈔』等の戒学であると見ることが出来るであろう。

曹洞宗学における禅戒論は、卍山ののち万仭に至るまでの間に甲論乙駁の論議を重ねたもので、戒学のもつさまざまな間題が提起されている。従って、一説を以て禅戒のすべてに通ずるようなことでは勿論あり得ないし、個々の問題は別に論ぜられなけれはならない。 たた本稿に於いては、「諸悪莫作」の巻と禅戒思想の本流の中に共通する莫作即ち等の理念を中心として、 その基本的立場を考察したものである。

本稿の引用文は 『曹洞宗全書』(注解一、注解二、禅戒) に依ったものである。

正法眼蔵諸悪莫作』と禅戒思想(黒 丸)

 

 

 これは、『印度學佛教學研究』24 巻 (1975-1976) 1 号からの

Pdf資料をワード化し提供するものである。(タイ国にて 二谷)

 

『正法眼蔵抄』 と天台本覚法門    山 内 舜 雄

正法眼蔵抄』 と天台本覚法門

山 内 舜 雄

 

     一

先に、道元褝と天台本覚法門との関係を詳究したのであるが(1)、その目途とするところは、道元禅の特質を、どの程度まで日本天台へと遡及させることが可能か、ということであった。

すなわち、道元禅師叡岳在山中に、盛行していたであろう本覚法門思想を、実際に資料に就いて検尋すると共にその影響を測り、併せて本覚法門には批判的であった宝地房証真をとおして、遠く恵心教学への遡源をこころみたわけである。

結論するところは、本覚法門と道元褝は否定的関係にあり、激しい批難を本覚法門に、道元褝師は投げかけているが、批判点のいくつかは証真のそれと共通のものがあり、むしろ恵心の正統的教学を継いだ証真にこそ、その思想的類似性が認められる、というのであった(2)。

そこで、証真をとおして恵心教学への線をまさぐったのであるが、これとて遡源に限界のあることは言を侯たない。おおむね前著が、証真研究を以て畢っているのも所以なしとし

ない。

このように道元禅を、日本天台へと遡及せしめる作業があたま打ちになった時、一転して褝師の遺された弟子たちの『眼蔵』参究から、はからずも道元褝と本覚法門との関係が明確化され得ることは、道元褝の性格を決定づけるうえで、これ以上の倖いはないと考えられる。

云うまでもなく、褝師には、詮慧そして経豪という、直弟子とその弟子があり、前者に『聞書』、後者にそれを承けて『抄』が存することは、あまねく知られている。

そして、さらに都合よきことは、詮慧も経豪も、もとはと云えば天台の僧であり、したがって両者の手に成った『御聞書抄』すなわち『御抄』には、当然のことながら天台本覚法

門の影響がみられるのではないか、という推測が成り立つ。

それが、どの程度のものかは、これから本文に沿い綿密に検尋するわけであるが、いづれにしてもその影響度によって、逆に道元褝における日本天台的な特徴が鮮明化されるであろうことは言を俟たない。

そこで、詮慧・経豪の、曹洞宗学史上の位置づけてあるが、この点に関して、鏡島元隆博士は、次のように述べられている。

道元禅師寂後、かの中国から渡来して禅師の弟子となった寂円と、その嗣義雲の系統には、道元禅の性格を、如浄褝の延長とみなして、これを中国褝宗へ接近せしめようとする傾向がある。

このような宋朝褝に対して包容的な寂円・義雲の宗風とは対照的なのが、詮慧・経豪の立場であって、そこでは宋朝褝を批判し、日本臨済宗を痛破して、道元禅の日本的展開がは

かられている(3)。

そして従来、『聞書』『抄』を擁する詮慧・経豪の立場は、宗祖の思想を忠実に祖述するものとして、いわゆる曹洞宗の伝統宗学なるものの源底をなすもの、とされている。

近代最後の眼蔵家と称された岸沢惟安師に就いた搏林皓堂博士は、その著『道元禅の本流』「まえがき」において、

伝統宗学とは、道元禅師に親しく接した直弟子である詮慧の『聞書』と、詮慧の弟子経豪の『抄』を最高の註解となし、その解説を至上として仰ぐ一派である。

と、洞門における伝統宗学の定義を、明快に云い切っている。

まことに、『聞書』『抄』は、至高の『眼蔵』註釈書と仰がれて今日に至っている。

その、現時点における研究状況であるが、これは鏡島元隆博士の「『正法眼蔵抄』をめぐる諸問題」(『褝思想とその背景』春秋社、昭和五〇年七月)にくわしい。同論文は、さらに補訂されて、『道元禅師とその周辺』(大東出版社、昭和六〇年四月) 第五章「『正法眼蔵抄』の成立とその性格」の中に収められ、より詳細な研究の推移をみることができる。

そこでは、昭和三十年代後半から、昭和五十年代後半までの、『正法眼蔵抄』に関する、十数篇の論文が、刻明に挙げられている(4)。

以て、現在の『正法眼蔵抄』研究の大要を知ることができるのであるが、概観するに、論題から推して、成立史や字句の考証に関するもの多く、思想内容に深く触れたものは、 ややすくないように感じられる。

これは『正法眼蔵抄』の研究が、まだ文献考証の段階にあり、思想内容に関する本格的研究は、 これからを意味するものであろうが、河村孝道教授の『正法眼蔵蒐書大成』の刊行によって、『御抄』の原典研究が可能となってきており、一方鏡島博士のこれまでの『御抄』研究は、先述のごとく「『正法眼蔵抄』の成立とその性格」の一章にまとめられたのを機会に、 ここに日本天台から見た『御抄』研究を、世に問うわけである。

鏡島博士が、前掲書の中で、

この書(『正法眼蔵蒐書大成』)の刊行を機会に本格的な『御抄』研究の出現を望みたい(5)。

と云っているのに、いささかでも自己専攻の分野から応えたいからに外ならない。

身近かなことからいえば、鏡島博士は、先ず『聞書』そのものの定義とその取り扱い方に、かなりの苦心を払われている(6)。

『聞書』とは、中古天台で流行した註釈の一形式で、有名なものに、彼の『盧山寺聞書』がある。法華三大部の註釈としては、証真以後あくまで正統的な天台教学を伝えたものとして、重要視されている。

この種『聞書』と称するものは、平安末から鎌倉そして南北朝にかけて、盛んに現われたもので、天台出身の詮慧が、この聞書形式を、『眼蔵』註釈に持ち込んだものと推測される。

詮慧の『聞書』と時代的にみて、先に挙げた『盧山寺聞書』は、それほど隔りはないと思われるので、両者を比較するのも興味の存するところである。

証真以後わづかに保たれた文献・考証を重んずる教相主義を背景とするだけあって、『盧山寺聞書』は、詮慧の『眼蔵』の『聞書』と対照するには好箇のものといえよう。

盧山寺は、その寺跡が御所近辺にあり、詮慧の永興庵と共に、同じく京洛の地で書かれた因縁もある。

いづれ改稿して、両者の表現形式等をくわしく検討してみることにしよう。

と同時に、このたび、口伝法門の代表的資料を、最も古いといわれる『円多羅義集』から、 その集成である『漢光類聚』までをなぞってみると、いわゆる口伝法門における聞書と称するものと、詮慧の『聞書』との比較検討なども要請されてくる。

ともあれ中古天台からの聞書形式一般が提出されておれば、利便この上もないわけで、 これを曹洞宗学側から求めるばあいは、勝手がわからず多大の労苦を要する。

まことに私の怠惰の致すところ、鏡島博士に申訳ない次第である。

その他、『御抄』の中に出てく.る、『談義』『論義』等の天台用語についても、その定義と取り扱い方を、中古天台的に明示しておけば、あとは宗学的立場からの解釈を加味すればよく、 この点なども、もっと早目に施しておけばと悔まれる。『御抄』を見ると、「落居」(らっこ)、「不落居」(ふらっこ) という論義用語の頻出が目につく。

落居」とは、論義の決着することを云い、「不落居」とは反対に決着せざるをいう。

先に『建撕記』に依拠して、「本来本法性」云云の疑団を解明した際、底本の「瑞長本」 に、

宗家ノ大事。法門ノ大綱。本来本法性。天然自性身。此理ヲ顕密ノ。両宗ニテモ。不落居(7)。

とある「不落居」で、同明州本、 延宝本、門子本、元文本等の古写本すべて用いている。

面山の訂補本のみ、「時質之耆宿。無答釈者。」と言い換えている。あきらかに論義用語を避けた意図充分である(8)。

ということは、 面山の時点でも、「不落居」が、天台の論義用語であることが意識されていたと見るべきである。

『建撕記』の前出の文で、なぜかかる語が使用されたのか、不審の念を抱いていたが、『聞書』や『抄』の中から、数多く見出すにつけ、おおよその合点を得ることができたのである。

いま、その用例を『聞書』から拾うと、

 

仏法ニ落居スレト云云、可用義也(現成公案(9))

此義ニ可ニ落居一也(仏性(10))

一仏乗ノ義モ落居スル也(仏性(11))

尤此義ニ可ニ落居一也(仏性(12))

此道理ノ落居スル所、(仏性(13))

真実ニ法文ノ道理ニ落居スルトキハ (仏性(14))

但此毒手落居スル所仏性一一アタルへキ顛(仏性(15))

所詮此段ノ落居ハ、仏性斬為ニ両段一 (仏性(16))

又牆壁瓦礫ト落居スル事不審也(身心学者(17))

可ニ落居一仏仏ナルへキ也(行仏威儀(18))

心ハヤカテ不可得ノ道理ニ落居スルナリ(心不可得(19))

如此落居セム料ニ、(古鏡(20))

所詮云為ノ義ニ落居スへキユヘニ、如此トク (三界唯心(21))

コレ説法ヲ必定落居シテ云ニ似タリ、コノ説法未落居へシ (無情説法(22))

先此事ヲ可落居、(無情説法(23))

始証又此道理ニ落居スへキナリ、(家常(24))

 

『聞書』より、以上の二十四例を挙げたのであるが、見るが如く、「落居」を、あたかも宗意の落ち着き処の意味に用いている観がある。

この天台論義の決着を示す語を、正当性をもって肯定的に使用していることに注目したい。

『聞書』を承けた『抄』が、「落居を同じ意味に用いているのは当然で、かつ多用していること、次に見るがごとくである。

 

只所詮落居スル心地ハ、仏性ハ仏性ト問取シ、露柱ハ露柱ト道取シ、 (仏性(25))

四十祖ノ落居スル処、(古仏心(26))

大迷人サラニ大悟スト云義ニ落居スルナリ、 (大悟(27))

サタメ空中花ロモ何程一一可ニ落居一哉、(空花(28))

花モ全機現ナル道理ニ可ニ落居一也(空花(29))

所詮一方ヲ証スレハ、一方ハクラキ道理ニ可落居也(古鏡(30))

只生減共ニ授記ナル道理ニ、可落居ユへナリ (授記(31))

一法通コレ万法通也ト可心得ト被落居ナリ(画餅(32))

サテ所落居ハ、此画餅不充飢ノ詞(画餅(33))

還聞コレ還聞也ト云道理ニ可落居也(仏向上(34))

但真実所落居ハ、如此云へハ、猶善悪モアリヌへシ (山水経(35))

著眼看スへシト云道理ニ可落居也(山水経(36))

只水ノ水トナル道理ニ可落居也(山水経(37))

只所ニ落居一ハ、彼等皆全山ノ道理ナルへシ (山水経(38))

此理ノ所落居ハ、只法華ノ法華ヲ転スルナリ(看経(39))

全眼ノ道理力、トカク面ハ替ヲ云ハルレトモ、所落居ハ全眼ノ理ナルへシ (看経(40))

一方ヲ証スレハ、一方ハクラキ道理ナルへシ、 所落居ノ義如此ナルへシ (諸悪莫作(41))

只所落居ハ、土石沙礫ハ土石沙礫ト云ハルル道理ナリ (仏教(42))

神通ノ神通ヲ出生スル道理ニ落居スルナリ(神通(43))

下ニツクへキ定ニ落居セリ (春秋(44))

此理ノ落居スル所カ (葛藤(45))

是ハ只落居スル所、以仏千方仏ト也(諸法実相(46))

此道理ノ落居スル所ハ、・・迦葉与迦葉ト破顔微笑スル也(密語(47))

此理ノ落居シヌル上ハ、以心伝心モ初心ナルへカラス(無情説法(48))

面授ノ道理ノ落居スル所ハ、面授仏ノ面授ニ面授ス道理ナリ(面授(49))

此理ノ所落居、大円鑑ノ大円鑑ヲ面授シ来レル道理ナリ (面授(50))

一順ニ落居セヌ所ヲ如此云也(見仏(51))

只所詮此道理ノ所落居ハ、枯木裏ニ枯木アリ(竜吟(52))

人ト云へカラスト云道理ニ可落居ナリ (西来意(53))

坐禅坐禅ト一異ニ非スト云道理ニ可落居也(発菩提心(54))

只此理ノ落居スル本意ハ、心ヲ枯来スルモ・・見不見程ノ理也(発菩提心(55))

然而詮ハ所落居仏法ノ理ニ心得合セム (大修行(56))

自己カ自己ニアフ道理ニ可落居ナリ (虚空(57))

今ノ道理ノ所落居ハ、但以鉢盂合成鉢孟ノ理ナルへシ (鉢盂(58))

此段ノ旨趣、偏界是文殊、偏界是迦葉トアリ、此心地ニ可落居也(九頁安居(59))

 

以上、三十五を挙例したが、『抄』 の用い方も、『聞書』とおなじく、宗義 宗意の落ち着き処に、すなわち肯定的に用いられている。この語の天台論義的性格への反省は、まったく見られない、といってよい。

これでは後世の『建撕記』に、「不落居」が用いられていても不思議ではない。

ちなみに『眼蔵』の『要語索引』には、落在(らくざい)、落処(らくしょ)、落地(らくち)は見られるが(二九五六頁)、「落居」はない。

道元禅師が、意識して論義用語の「落居」を避けられたのは明らかである。

すると、詮慧や経豪が、意識的にこれを用いたことになるが そこまで追及するのは酷であろう。

しかし詮慧は、高祖の会下にあって、親しく『眼蔵』の提撕を聴いたひとである。その聞書、「ききがき」といっても、現今いうそのままのノート記録を意味しない。多分にそれは註釈的性格と形式を持つものである。それだけに整理・考証するゆとりもあるわけで、無雑作な論義用語の横行は、見ようによっては不可解の一語に尽きるともいえよう。

まづ、目につきやすい「落居」を挙げたが、おなじく『梵網経略抄』の中にも、

実相即実相諸法即諸法トトク、詞ハ始終事ニ落居スル詞歟(60)

と見えている。

この文などは、煩悩即菩提を、

   本門の大教は煩悩即ち煩悩、菩提即ち菩提(61)

と説く、本覚法門に類似する表現で、それも、「詞ハ始終事ニ落居スル詞歟」と、たたみこまれると、そこに本覚法門における事常住をみないわけにはゆかなくなる。

このように、本覚法門寄りの表詮が、とくに『聞書』にみられる。これらを、綿密に検尋してゆくわけであるが、「落居」もその一環として、全体的立場から組織的に考究すべきものと思われる。因みに、本覚法門関係資料の中から、『漢光類聚』(巻一) によって、「落居」 を挙例すると、

天台一家の法門多途なりといへども、この八重を以て落居とする所なり(62)。

の如くあり、『同書』にはまた、

答ふ、このこと、もっとも落居すべきことなり。(63)

答ふ、もっとも落居すべき法門なり。(64)

とある如く、まことに「落居」が気軽に多用されているのを見るのである。

 

    二

 

語彙等の問題は、後程整理するとして、ともあれ『御抄』の研究が、その書誌学的考証の進展とあいまって、天台的視座からもなされる必要性が早急に生じてきたことを認めざるを得ない。

倖い、池田魯参教授によって、その先鞭はつけられている。「正法眼蔵抄の問題」(『駒沢大学仏教学部論集』第一号、昭和四六年三月)、「道元禅師と天台本覚思想ーー御抄における天台義批判ー」(『宗学研究』第一三号、昭和四六年三月)の二論文が、これである。

そこでは、主として天台義、すなわち中国天台と道元褝との関係が、『御抄』を中心に考察されている。

一般論から云えば、褝と天台は、中国仏教はかの隋唐時代から、密接な交渉関係を有して、南宋褝にまで至っている。

台禅の交渉は、華褝のそれに対比されて、中国仏教の諸宗教義に、深い奧行きをあたえている。

関口真大博士の、『達摩の研究』や『禅宗思想史』等の一連の業績を想起されたい。そこでは、天台教学からの禅宗観が、あますところなく綿密に詳究されている。

したがって道元禅を、南宋褝は如浄褝の延長とみなして、天台教学との関連を追及することは、すでに中国仏教でも行われた永い歴史を有するのであるから、日本は鎌倉初期の道元禅成立の時点でも、それは充分成り立っと云い得よう。

ただし、その場合、大切なことは、迹門為正の中国天台と、本門本覚思想になずんだ日本天台とを、いちおう区別して、道元禅との関係を考察することである。

次に必要なことは、 同じ日本天台においても、 いわゆる伝説化された恵心流と称される口伝法門と、教相・文献を重んずる恵心の正統的教学を承けた証真等の学風とを、これもいちおう切り離して、両者の関係を追究することである。

従来、宗学では、中国天台と日本天台との特質を充分意識することなく、ただ漠然と天台教学を、道元禅師は棄てて叡岳を下山した、とされる。

その結果は、鎌倉新仏教の祖師たちにとって、いちばん重要なことである、叡岳下山の理由を、道元禅師をして不明瞭たらしめている。

この点に気付かれて、まず『眼蔵』の中から、『法華経』における迹門と本門との引用から抑えてゆかれたのが、鏡島元隆博士の研究であった。道元禅と天台教学との関係を論究するばあい、それは最も基本的な作業というべきものである。そして、それは『御抄』研究のばあいも、絶対に必要な前提となる研究であることはいうまでもない。

池田教授の上掲の二論文は、かかる鏡島博士の研究を踏まえて、主として中国天台と『御抄』との関係を追究したもので、その意味では重要な研究といえる。中国天台との関係が明瞭にならないと、日本天台との関係が明確にならないからである。ただし、雑誌掲載からは紙幅に制限があり、より詳究が望まれるというものの、今回は直接触れないこととする。以上、方法論的には確立されているのであるから、それは池田教授によって今後完成されるべきものと思われる。

そこで残された問題は、 日本天台と『御抄』との関係ということになるが、 このばあい最も重要なことは、『御抄』に恵心流ロ伝の形跡があるか、ということであろう。

先ず、『聞書』そして『抄』の成立した時点を、日本天台口伝法門の歴史的推移の立場から考察してみよう。

『聞書』の「諸悪莫作」の奥書には、褝師寂後(一二五三) 十年を経た、弘長三年(一二六三)とあり、ほば『聞書』の一部は、その時点には成立していたごとくである。ただし、『聞書』のすべてが、その時点で成立していたかは微妙な点で、この点はさらに詳究されることが望ましい。

が、すくなくとも『聞書』の一部が、褝師寂後十年にして成立していたことは、巨視的にみて、『聞書』は、鎌倉後期 (一二五〇ー一三〇〇)の撰述とみて間違いないであろう。

ただし、『聞書』に基づく『抄』の成立は、乾元二年(一三〇三)ー延慶元年(一三〇八)というから、いささか一三〇〇年までの鎌倉後期からはみ出すわけであるが、『抄』の成立時期の考察は、また別に触れよう。

そこで、ひとまず鎌倉後期のものとして、本覚法門の代表的資料を見ると、かの『漢光類聚』があげられる。

『漢光類聚』は、本覚法門はその主流をなす恵心流の、いはば集大成ともいうべきもので、 そこでは本覚法門の最終教判ともいうべき四重興廃が組織的に説かれている。

従って、その成立は、今日まで種々論ぜられてきたが、口伝法門の性質上、これを明確にすることは不可能にちかいというものの、概ね鎌倉後期の成立とするのが妥当であろうと思われる。

この点については、『前掲書』で詳論したから、ここで再説を避けるが、田村芳朗氏の説に依り、おおむね鎌倉後期の中頃と推定した次第である。(65)

聖一国師と静明との関係から、かく推測せざるを得ないのであるが、聖一国師のことは、指摘されるように『御抄』にも見えている。

すなわち、『聞書』成立の時期とみられる鎌倉後期(一二五〇ー一三〇〇)には、一方において本覚法門の集大成である『漢光類聚』が成立していることに注目したい。

そして、さらに重要なことは、『漢光類聚』において組織的に述べられている爾前、迹門、本門、観心という四重興廃の教判成立には、聖一国師を通して南宋褝の影響がみられることである。

このように、聖一国師の褝は、本覚法門と微妙な関係を有している。それは聖一国師の禅が、本覚法門の影響を受けているという意味ではなく、むしろ逆に本覚法門に影響をあたえて、観心を最終とする四重興廃の教判を成立せしめた、という意味であるが、ともあれ両者の交絡を明瞭ならしめる資料を見出すことができる。(66)

かかる時期に成立を同じくする『聞書』に、本覚法門の影響が、たとえ否定的にでもみられないか。このことは、『聞書』をとおして道元禅の性格を見極めるうえで、きわめて重要なことと思われる。

『聞書』は、鎌倉後期の、本覚法門盛行の中で、しかも『漢光類聚』にみられる如き、本覚法門思想の組織化が、かなりすすんだ時期に、時を同じくして成立しているのである。

『聞書』の撰者詮慧が、なんらかの意味で、本覚法門を意識してなかったといえば、ウソになろう。事実、『聞書』を承けた『抄』にも、あきらかに本覚法門を意識した表現に接することができる。

道元禅師が、本覚法門を悉知していたのは、おどろくばかりで、かの『弁道話』における心常相滅論批判は、あきらかに当時叡山に盛行していた本覚法門の心性常住説を痛撃したものである、とは硲慈弘師によって天台側から審細に立証されている。(67)

とは云うものの、道元禅師は、巧みに先尼外道にことよせて煙幕を張り、それが本覚法門だとは云わない。流石である。

もちろん本覚法門の著述からの引用はない。本覚法門を口にすることすらない (わづかに『宝慶記』にその片鱗をうかがう問答が、師の如浄との間でなされているが、これとて国外留学中のできごとである)。

鎌倉三宗の祖師方は、本覚法門には敏感で、かの日蓮には本覚法門に関する代表的著述の親筆と称する写本があるにかかわらず、彼の真撰とされる著書への本覚法門からの引用は皆無であるという。

日蓮にして然り。道元禅師に本覚法門からの引用文があろうはずはない。本覚法門から絶対に足を引っぱられないよう細心の注意を払っている。

先に挙例した、天台の論義用語の「落居」「不落居」すら、『眼蔵』は使っていない。「論義」の発達が、口伝法門の発達を促したじじつを、六年に及ぶであろう叡岳在山中に、悉知していたからに外ならない。

ところが、『聞書』『抄』という、弟子たちの註釈書となると、はなしは別である。いかに会下に在って、直接『眼蔵』の提撕を聴いたとしても、所詮宗祖に対しては、詮慧は二番手の祖述者にすぎない。無神経に、軽々しく論義用語を、しかも宗意の決め手として使用している。

高祖のように、本覚法門を直撃しておきながら、たくみに蹤跡をくらますような卓越したちからを期待する方が無理というものであろうか。

詮慧、そして経豪が、前身天台僧であったことから、論義用語や、口伝法門とおぼしき表詮を用いたり、あるいは重要な本覚法門の口伝の二、三を出したことを、理由づけることは容易である。

しかし、両者が天台僧であることに、私は、あまり執するつもりはない。

懐奘禅師をはじめ、初期の道元僧団は、みな天台僧によって占められていたのであるから。

ただ詮慧が、中古天台において、ひろく用いられていた『聞書』(ききがき)という註釈形式を採って、『眼蔵』を注解したことは追及しておいた方がよい。

それは禅の語録の注解とは、いささか異るものであろう。道元褝は、『聞書』形式の方が注解し易かったところに、その性格の一部が窺知できるからである。

経豪の『抄』の成立は、『聞書』成立から、数十年おくれて、十四世紀初頭(一三〇三ー一三〇八)である。十四世紀以降となると、本覚法門は、その堕落逸脱の歩を早める。

その意味では、『抄』は、本覚法門の方からみると、まことに危ない時期に成立している、といえる。

本覚法門についての基礎資料を多年に亘って読み、多少本覚法門の実態がわかってきた現在、『御抄』を改めて読むことには、正直いってある種の危懼があったことを告白せざるを得ない。

しかし、『御抄』の中に、「無作三身」「鏡像円融」等、あきらかに口伝法門の代表的なものが挙げられてはいるものの、結果的には見事にこれらをシャットアウトし、道元禅の純粋性が堅持されているのをみて、大きな安堵感を得たのである。

『御抄』成立の時期が時期だけに、いささかでも本覚法門の影響があるのでは、という危懼の念を抱くのは当然といえようが、『御抄』には本覚法門の影響は、本質的には見られないといってよい。多少のそれらしき表詮はみえても本筋にかかるものではない。流石というべきである。

『御抄』の注解を以て至高と仰ぐ一派を、伝統宗学と定義した意味が、よく分るのである。

それにしても、日本天台と関係をもっ鎌倉新仏教の各宗に、南北朝から室町初期にかけて、ややもすれば本覚法門思想の安易な受容態度がみられるような著述が眼につくところからも、『御抄』の価値は、いかに高く評価しても、過ぎることはないと思われる。

よくも、十四世紀初頭の時点で、 これだけ祖意に忠実な、『眼蔵』の思想水準をおとさない正統的な注解を施し得たものと驚嘆される。

一方において、本覚法門の安易な解釈に堕落してゆく、多くの注釈書が、日本天台に関係ある鎌倉新宗の間で見られるだけに、切にこのことが痛感されるのである。

附言すべきは、『御抄』が撰述された永興寺の位置である。永興寺は、道元禅師茶毘の地に創められたという。従来これをめぐって種々論じられているが、天台側からいうと、永

興寺があったという、現今の西行庵附近から、八坂神社さらに知恩院におよぶ一帯は、青蓮院の域内とみられている。

現在、荼毘塔のある地から、ほど遠からぬところに、慈覚大師の開創という雙林寺もある。

いわば永興寺は、天台寺院の中に囲まれて、当時あったといえる。

詮慧・経豪は、その名からして、天台の僧という印象を受ける。当時の叡山の記録の中から、同じような名前を見すのに苦労はいらない。天台僧の時代は、かなり有名な師に就いたのであろうか。

ともあれ、天台は五箇門跡の一つ、青蓮院の域内に、寺が建てられるだけの背景を、この二人の師資が持っていたことはじじつである。

それだけに、永興寺の場所が、叡山の、当時盛行していた本覚法門思想の影響を、きわめて受け易い位置にあることは言を俟たない。

それにも拘らず、本覚法門の影響を受けることなく、『御抄』は書かれている。全然触れてないわけではないが、この点に就いては、本文を出して実証的に論ずることにしよう。

ともあれ時代といい、場所といい、本覚法門の影響を受けてもおかしくない状況のなかで、それがないのは、宗門として無上の倖いというべきである。

迹門為正の中国天台と道元禅との関係は、これを永き中国の台禅交渉史の延長線上に把えることができる。

そして結論としていえることは、従来の範囲を超えるような、目新しい進展を期待することは無理というものであろう。

日本天台の本覚法門との関係は、先に『眼蔵』をとおしても、ここに『御抄』をとおしてもない。

すると、道元褝の思想的基底をなす『本証妙修』は、『御抄』の範囲では、どのように考えたらよいのであろうか。

それは道元褝の性格を、ある意味ではかなりつよく決定づけるだけに、興味の存するところであり、また慎重な配慮を必要とする。

前著で私は、なおのこる本覚思想を、証真そして恵心へと遡及させてみたのであるが、 こんどは一転して、直弟子詮慧の 『聞書』を検尋することになった。

『御抄』に限定し、とくに『聞書』から精査するのが、宗学的手法というものであろうか。

天台学研究は、中国・日本へと、文字通り踰胼三十数年に亘るが、今ここに『御抄』にたどりついてみると、本来の宗家に穏坐する感を、やっと抱き得るのである。想えば、永きまわり途であった。

この上は、かかる立場から、道元禅の特質を、参究することが、 のこされた最後の課題である。

以上の経過を、『聞書』そして『抄』の本文を出して、以下審細に考究してみたい。

 

  三

 

さて、本論に入る前に、鏡島元隆博士の、これまでの『御抄』研究をまとめた、「『正法眼蔵抄』の成立とその性格」 (『道元褝師とその周辺』第五章)なる論文を、上来の本覚法門研究の天台的視座から、整理検討しておく必要があろう。

まず最初に感ずることは、永久岳水師と大久保道舟師をのぞけば、『御抄』の研究に手を染めたたものはなく、博士の「正法眼蔵抄の成立とその性格」(『駒沢大学仏教学部研究紀要』第二一号、昭和三九年三月)が、近時における『御抄』研究の矯矢というのであれば、その研究期間は近々二十年にすぎない。このたび改稿補訂された同書第五章にあげられた後進たちの、一〇あまりの諸論故は、すべて昭和三九年から昭和五七年までのものである。(68)

伝統宗学所依の、根本的な註釈書としては、いささかなおざりにされた感があり、永いあいだ天台という他国に踰胼した筆者にとっては奇異の念すら抱かざるを得ない。『御抄』の要語索引のような基礎的作業すらなされていないということは。

それはさて措き、鏡島博士は、『聞書』の撰者詮慧を、伝戒の弟子にすぎなく嗣法の弟子でないという大久保道舟師の説を否定して、これを嗣法の弟子であると主張している。(69)

『聞書』の撰者が、道元嗣法の弟子でなければ、宗学の正統性いづこにありや、ということになるから、嗣法の弟子なければ困るのである。

じじつ『聞書』を拝覧すれば、その力量抜群なることが随処にうかがわれ、殊に本覚法門的解釈に傾きやすいところを、紙一重で剣が峯にこらえて、道元褝の特質を発揮しているのをみると、嗣法の弟子に非ずんばなし得ざるところで、それも相当永く会下にあって『眼蔵』の提唱を聴いていたこと瞭然で、興聖寺時代からの随待というのも肯ける。

また鏡島博士の歴史的論証も、綿密で説得性をもっている。問題は、詮慧が、永興寺を開いた時期および永興寺の所在地である、と博士はいうが、これが明確化されないと、天台は本覚法門と比較するばあい、大へん困るのである。

本覚法門の性格からいって、その資料の成立年時や場所を確定することは、 まず難しい。仮托・偽撰の書であるから、撰者も場所も最初から、ねつ造されているのである。

したがって、確定できる方から、はっきりさせないかぎり、比較そのものが成り立たない。

『漢光類聚』と『聞書』とを、比擬しようというのであるが、前者が一三世紀後半の中頃(一二七五)の成立というから、『聞書』の一部ができたという弘長三年(一二六三(『諸悪莫作抄』)を、まず動かぬものとして比較を成立させようというのであるが、『漢光類聚』の成立はまったく推定にすぎなく、鎌倉初期という硲説と、鎌倉後期という田村芳朗説とでは、半世紀ちかい違いがある。

したがって、『聞書』の方の成立年時を決めてもらいたいのである。『抄』の方は乾元二年(一三〇三)から延慶元年(一三〇八)と、きわめてはっきりしているが、『抄』は別論したいので、今は触れないことにする。

 

経豪の『抄』の基づく本の資料である詮慧の『聞書』がいつ頃成立したか、それは詮慧自身の手において成文化されていたか、あるいは経豪によって成文化されたものかということは一つの問題であるが、経豪は『聞書』を引用するに当たって敬虔な態度で臨んでおり、『梵網経略抄』の奥書にいう「一一先師上人説也、更不交余詞」という言葉は『正法眼蔵抄』においても同様であったと思われるから、すでに詮慧のもとに成文化していたものと考えられる。その成文化の時期は、道元禅師寂後、詮慧が永興寺へ移った以後のことであろうが、『諸悪莫作抄』の奥書にある弘長三年は詮慧の『聞書』の一時期とみるのが自然である。(70)

 

すると、禅師寂後、ほば一〇年をへて、その一部の『諸悪莫作』の『聞書』が成立していることはわかるが、『聞書』の依拠する七十五巻本の『眼蔵』では、『出家』が終巻で、この『諸悪莫作』の巻は、第三十一に当る。

ほば七十五巻の中央にあるわけで、それならば『諸悪莫作』の『聞書』が成立した弘長三年(一二六三)は、『聞書』の全体が完成する丁度真中ごろに位置するとみてよいか。

『聞書』成立の上限と下限の年代を、ぜひ明示いただきたい。これは『御抄』の中に出てる聖一国師は、道元褝師(一二〇〇)より二年後の生誕(一二〇二)であるにかかわらず、一二八〇年まで長命され、示寂を控えた七〇歳のとき、かの『大日経見聞』七巻を講述し、本覚法門に南宋禅の立場からの決着を示されると共に、天台の静明が参じたのを機会に、これに大きな影響をあたえて、本覚法門の最終教判である四重興廃に観心を加えしめている、とさえ云われているからである。

『聞書』の成立は、七十五巻『眼蔵』の、ほば中央に位置する『諸悪莫作』が、『抄』の奥書の示すごとく弘長三年であるならば、その後かなりの歳月が終巻の『出家』までには要したであろう。少くとも一〇年内外の年月が想定されてよいであろう。

すると、『聞書』成立の下限の時期は、聖一国師の晩年に当り、そこでは前述のごとき天台本覚法門との交渉が持たれている。

同じく京洛の地にあって、天台出身なるがゆえに詮慧は這般の事情に昧いはずはなく、そのことが彼を意識せしめて『御抄』の聖一国師批判の出現となった、と推測するは無理であろうか。

 

それにしても、弘長三年(一二六三)と経豪が『抄』に着手した乾元二年(一三〇三)との間に余りに時代の開きがあり過ぎ、その空白期間の説明がつかない。(71)

 

として、『聞書』成文化の完成下限年時は、博士は明言を避けている。 おおよそでもいい、『聞書』の完成年時は推定できないものであろうか。それが不可能なら詮慧は興聖寺に投じてから長期間、道元禅師に随従した人である。『聞書』ばかりでなく、『永年広録』の編集にも重要な役割りを果しているという。おおまかな詮慧の生没年時からの『聞書』撰迹年代の想定はできぬものなのであろうか。

『聞書』そのものについては、鏡島博士は、過不足ない定義を下されている。

詮慧の『聞書』と経豪の『抄』を合わせたものが『御聞書抄』であるが、経豪の『抄』も経豪がかつて道元禅師に師事したことがあると考えられるから、第三者の立場から成された註疏ではなく聞書と言えるものであり、詮慧の『聞書』も道元禅師の示衆を単にメモした記録ではなく、体系的意図をもってまとめたものであるから抄と言ってよいものである。

したがって、詮慧の『聞書』と経豪の『抄』は、経豪が詮慧の『聞書』を本にし、それに基づいて注釈したものであっても、同じ性格のものであると言わなければならない。(72)

加えるべき、何ものもないほど完壁な理解に敬服せざるを得ないと共に、経豪もやはり道元会下にあって、親しく聴聞したからこそ、同じ性格の『抄』すなわち「聴書」を製し得たのであって、詮慧からの又聴きでは、『御聞書抄』と両者一体化して取り扱われる同質性は出て来ない。

あとは、中古天台で流行した聞書形式を、『御抄』成立期に比較的近い、できるだけ正統的な、例せば『盧山寺聞書』などの三大部聞書を出して、鏡島説の正当性を論証すればよい。改稿してこころみる次第である。そのまえに、ひとこと聞書の一般的性格を述べれば、それはやはり中古天台の観心主義にもとずく口伝法門を背景として発達したものと見てよいであろう。すなわち本来の、科文・科釈を本文の前後に配して、詳しく文献考証をこころみると同時に、全体の組織体系を明瞭化するという註釈態度は、もはや聞書には見られない。あるのは、師の宗教体験をひたすら祖述するのが中心で、そのための文献考証が多少おこなわれるというものの、それが目的でないことは言うまでもない。いうなれば、文献主義、教相主義をとる古来の註疏とは、はなはだ性格の異るものである。文献・教相を無みしたところに成立した本覚法門の中に、この種の注抄が数多く現われたとしても不思議ではない。

聞書の、かかる一般的性格は、心得ておいた方がよい。じじつ詮慧の『聞書』も、経豪の『抄』も、まともな文献考証はおこなっていない。 また教に関説しても、これまた、まともに教相にもとずく正式の註解をなしていないのは、見るが如くである。文献・教相を、さして重んじないのは、本覚法門と同じであり、これが時代の共通性というものであろう。

その意味では、詮慧の『聞書』も、経豪の『抄』も、それなりの文献・教相の正確さを期そうとしており、本覚法門の各書と同一に論ずることはできないが、如上の消息は、いちおう悉知しておく必要があろう。いづれ本文に沿って検証するとき具体的に明らかにするつもりである。

それにしても、 永興寺が開いた時期および永興寺の所在地については、 どうなっているのであろうか。この点、鏡島博士の所論は、

これについて、大久保道舟氏は永興寺は褝師示寂後、東山の荼毘地に創建されたものであると主張している。これについては異説もあるが、大久保氏の主張は正しいであろう。(73)

と大久保説を採っている。

ただし、北越入山に際し、詮慧の興聖寺に留まったとする大久保説をしりぞけ、

私は詮慧は道元褝師の北越入山に当って禅師と行をともにしたとみるのである。(74)

その理由として興聖寺に留ったのでは、

とくに『正法眼蔵聞書』は、この書の性格から言って、親しく禅師の侍側にあって聴聞したものでなければ書けない書である。(75)ことを有力な証拠にあげている。

まことに、そのとおりであって、わずかに『御抄』に触れただけでも、随時聴聞の人でなければ不可能なるを感ずるのである。

そして所在地に関しては、在洛中しばしば茶毘地を訪れてはみたが、戦後わずかの期間でも、その現場変更はおどろくばかりで、とても七百年以上を経過した現在、適確に往時場所を見出すことは不可能であろうが、現在ある荼毘塔の附近であることは間違いないのであり、また永興寺を高台寺の寺内とする説もあるが、高台寺そのものが数百年をへた近世初頭のものであるだけに、云々すること自体あまり意味はない。

 

ただし近時、高台寺の旧跡から経豪に関する資料が出て、高台寺説が有力となっている如くであるが、後世出来た寺院の境内にその有無を論じてみても大した意味はなかろう。

茶毘の当時、永興寺の創建当時、東山のあの辺一帯は如何なる寺院の域内にあったのかを、中世の資料により類推した方が、かえって実態に即すると思い、青蓮院の吉水蔵に出入りしていた時、探したこともあったが、この時は天台学研鑽が眼前の急務で、とても身を入れての探索ではなかったから、期待すべきものは見出すことはできなかった。誰かこころみてはと思われる。

経豪については、詮慧以上に不明といわれる。

もと叡山の学僧であったこと、・・『御抄』の中にみられる天台学の造詣からいって、経豪も詮慧と同じく叡山に学んだ人であると思われる。(76)

程度のことが解っておれば、『御抄』を取り扱うのに、 それほど不便は感じないはずである。

たとえ、いかほど天台僧として経歴がすぐれていたとしても、『御抄』を中心に考えれば、それらは何の意味をも有せざることであり、道元会下に投じてこれだけの業績をあげた以上は、叡山の経歴などむしろせんさくに価しないと云い得よう。

もっとも、「『御抄』の中にみられる天台学の造詣」は、それがどの程度のものであるか、 これから吟味しないわけにはゆかぬが、かかる『御抄』の立場からの、天台への遡源のみが主たる意味を有するものであることを銘記すべきである。

経豪が道元会下に直接参じたか否かについて、鏡島博士は、大久保説に前論においては賛同して否定の方に廻ったが、今回は改めて肯定説を出している。

ことに『御抄』そのものから、「先師」の用法を挙げての論証は、首肯すべきものがあり(77)、また『抄』の内容からみても親しく会下にあったとみるのが自然であろう。

『聞書』と『抄』は、いちおう分けて取り扱うことができるにしても、結極は、一体化して評価すべき成立事情を有しているから、両者ともに道元会下にあって親しく『眼蔵』を聴いことにしなくては、『御抄』としての研究が一貫して成立すまい。

研究の都合から、かくいっているのではない。内容からみて、『聞書』に基づいて『抄』をあのようにまとめあげるは、尋常の力量でなく、親しく会下にあって『眼蔵』の提唱を聴いた人のみ、それは可能ということができるからである。ただ、『聞書』と『抄』との間には空白期間が長すぎる。それに『抄』の成立は、十四世紀にかかるから、褝師寂後じつに五六年、半世紀以上を隔てる。

そこで経豪の生没年時や随従期間の説明が、合理的に『抄』の成立とともに出来なくてはならぬ。

そこで経豪の生没年時に、ごくおおまかな推定を大胆にこころみてみる。

『抄』の撰述のはじまった乾元二年(一三〇三)を、当時の生存可能年令の八〇歳となると、褝師示寂の時(一二五三)は、ほば三〇歳という推定が成り立つ。

すると随待期間は、二〇―三〇歳までの一〇年間が、目いっぱいということになろう。意外と短いのである。それも褝師晩年の十年間、経豪にとってはおおむね二十代の聴聞とな

る。

それだけで、あの『抄』が書けるのか。

乾元二年(一三〇三)八〇歳とすると、『抄』のできあがる延慶三年(一三〇八)には、数え八十六歳になろうから、著述のでき得る限界である。

すると、経豪の随待期間は、 おおむね二十代の後半までで、一〇年を切ること確実である。なぜなら、随待以前に彼には天台僧として履歴をつけねばならぬから。

詮慧のばあいは、興聖寺からの随待というからこんな無理な推定をする必要はない。

しかし、『抄』の撰述が始った乾元二年(一三〇三)を、八〇歳とするのは、いかにもムリである。じじつ『抄』ができ上っても、果して清書本があったのか。清書できないほど経豪は高齢化していたとも云われている。そこで仮りに完成した延慶三年(一三〇八)の方を八〇歳とすると、あと五年ほど下がって、褝師示寂の時は経豪二五歳ということになり、褝師晩年の数年間しか聴いたことにならぬ。 これでは天台僧としての履歴は、 どこでつけるのか。

褝師晩年の五年間の動静からして、 とても七十五巻全部の聴聞はムリで、 その何分の一しか聴いてないはずである。あるいは一夏にすぎぬかもしれぬ。

七十五巻全部を聴いたであろう師の詮慧の『聞書』がなければ、『抄』は成立するとは考えられぬ。

寂光にも『聞書』が存する如くである。たとえ一部にしても。

『御抄』の校閲を、実智房なる人がしているのが、その奥書より知られる。(78)

すると『聞書』を撰したのは詮慧ばかりでなく、他にも存したことは、『諸悪莫作抄』奥書の、「寂光与我聞書之上、加予聞書也。可取捨者也」を見ても明らかである。

案ずるに、詮慧は、興聖寺に投じてから、『聞書』作製準備をすすめていたと思われる。よほどの長い準備期間がなければ、あのような撰述はできるものではない。

寂光は道元禅師の弟子で、詮慧の法弟にあたる、とされる。兄弟弟子ふたり揃って、『聞書』づくりをやっていたのであろうか。実智房も、そのひとりか、寂光との同一人説もあるが。

ともあれ、『聞書』づくりのグループがあったことは、『御抄』そのものから察しられる。

『御抄』は詮慧と経豪という師資たった二人でやった仕事ではなく、二人をとりまく『御抄』作製を助ける、数すくないが多少同質な『聞書』グループの存在が推測される。

というのは、詮慧ひとりが、『聞書』づくりの準備を、道元会下にあって、やっていたとは考えられない。

衆に違する行為は、大衆の中ではとりにくい。かならずや『聞書』形式で師の提唱をまとめてみようとする、前身天台僧たちの詮慧・経豪そしてこれに随う寂光らの、数すくないであろうが、『聞書』撰述のグループが存したものと思われる。

禅師の寂後かれらは詮慧の開いた永興寺に集って、『御抄』を完成させる。

詮慧は、禅師寂後ほどなく『聞書』の撰述を始めたであろうが、それがための資料は、それこそ興聖寺随待以来、充分ためこんでいた、 とみることが至当であろう。法弟の寂光が、その真似をし、弟子の経豪また然りということになる。

北陸・関東に施化した親鸞も、晩年は、京都に還って、著述に専念している。資料の問題が、その有力な理由の一つに数えられているのは、周知のごとくである。

『聞書』といっても、提撕の記録だけではなく、立派な注釈=抄である。やはり資料面で京洛の地を選んだという想定は成り立たないか。詮慧グループが、禅師寂後、永平寺に居づらい理由が、ほかにあったにしても。

とまれ、永興寺の歴史はみじかい。と博士はいう。

永興寺は経豪が『御抄』を完成したのち幾星霜を経ないで、ほとんど廃寺同然に陥ったのである。その伽藍を保ったのはわずか三〇年にも充たなかったと思われる。(79)

と、鏡島博士は記している。

そして『大智偈頌』の中の「礼永興開山塔」の偈を出して、

「大智の上洛したのは、鳳儀山に上る前、延元二、三年(一三三七ー三八)以前でなければならない」とすると、三〇年を経ずして永興寺は、偈のごとく、「空堂只見緑苔封、法席無三人補祖宗、」となっていたことになる。 それにして大智が訪れているところをみると、やはり『御抄』の業績は、それなりに知られていたのである。

どうして、そんなに早く廃絶したのであろうか。鏡島説ごとく、経豪が道元会下にあったというと、褝師示後五六年にして『御抄』は完成されるのであるから、いかに若年からの随待を想定しても、完成時には八〇歳をゆうに越していたであろう。

永興寺は五世までの記録があるというから、経豪寂後のほば三〇年に三代を経たことになる。

廃絶の理由は、現今みな推測にすぎぬから、私も一つの推測説を出しておく。

それは、あの東山一帯の、有力な天台寺院に囲まれた中で、それも本覚法門思想が盛行する時、よくもこれだけ正統な、まともな道元禅の注釈書が書けたものだ、との想いがあるからである。

永興寺は、おそらく永興庵というのがふさわしい小規模の結構であったろう。が、何をやっているか、周りの天台の徒が気づかぬはずはなかろう。二人とも前身が天台僧であれば、

多少の見知り合いもあるであろう。

『御抄』の仕事自身に、ひとつの危険が伴った感が深い。

口伝法門の重要な一つである「鏡像円融」あるいは「無作三身」を『御抄』は挙げているが、見事にこれをシャットアウトしているのは、後に詳しく論証しよう。

これだけでも危険である。天台義についても、きびしい批判を浴せて、祖意に忠実な注釈を施している。

が、『抄』の方にみられるのであるが、まま天台教学に対する、至極穏当な表現があり、 いうなれば一分の許容性を感じさせられるものもある。

周囲を気にして書いているな、と思うのは思い過ぎであろうか。

従って、その伝来についても、九州の泉福寺に至った経路も理由もさだかでないというが、私をしていわしめれば、当時の永興寺を取りまく旧仏教の情況が、そうさせたのであって、根底において天台本覚法門を痛撃している『眼蔵』と、その正意を伝える『御抄』を、京洛の地に置くこと自体、許されないことなのである。

その意味では、永興寺は、『御抄』完成後、早々に店じまいをする必要があったし、『御抄』を安全な場所に移す必要もあったのである。

天台本覚法門批判を内蔵する『御抄』の性格がわかるにつれて、いよいよその感を深くする。

南北朝時代の兵戮、社会不安等、歴史的理由は、いくらでも考えられるが、それらは一般史家にまかせて、われわれとしては『御抄』そのものの思想内容と当時の仏教界の事情から、『御抄』転移の理由づけを考えねばならぬ。

 

   四

 

さて、いよいよ『御抄』成立の本拠である永興寺をめぐる歴史的背景について、鏡島博士は、

注意すべきことは、詮慧経豪が道元禅師の門に投ずる前、その前身が叡山の学僧であったことである。

このことは、永興寺および『正法眼蔵抄』の性格を考察するに重要な視点となるものである。道元禅師の門下が北越に住山した後、詮慧・経豪がひとり洛湯に留まることができたのは、二師が叡山と深い交渉をもった人であればこそであり、永興寺の孤塁を守るには、叡山との密接な関係をもたなければ存続できなかったに違いない。(80)

と述べ、適確に当時の教界の事情を把握されているのかがわかる。

さらに、栄西建仁寺真言・止観兼修寺として叡山の別院であることに触れ、

当時の褝院は内実はともかく、表面は叡山の子院として、その存在を許されたのであり、したがって叡山教学である日本天台とも深い交渉をもったものである。(81)

として建仁寺七世円琳が、叡山の円頓戒の大家で『菩薩戒義疏鈔』六巻を探したことを挙げ、

詮慧・経豪が『梵綱経略抄』の註疏を試みたいということも、当所の禅院を支配していた円頓戒研究の風潮と没交なものではなく、これらとの関連の上において理解さるべきである。(82)

まことに、そのとおりであって、東山一帯の天台有力寺院のある中に、永興寺という禅寺を建てるのは、はなはだ奇異にも感じられたのであるが、内実はともかく表面は叡山の子

院というのなら、またはなしは別である。

しかし、かかる「内実はともかく表面は叡山の子院」として存在を許された永興寺の中で、道元褝の真髄を最高に発揮する『御抄』が撰述されたことに、われわれはおおきなおどろきを抱かざるを得ない。

そして、かかる環境は、やはり『御抄』の性格に、後述する如くある種の翳を落しているフシがみられる。

鏡島博士は、『御抄』の性格を、極めて明快にあげて云う。

まず第一に詮慧・経豪が道元褝師の立場を宋朝禅および日本臨済宗と異なるものとしてとらえたことであり、

第二に道元褝師の『正法眼蔵」を日本天台の本覚法門的教学の背景のもとに理解したことである。(83)

第一の点は、『御抄』の表詮に、明瞭にあらわれているから、問題はまったくない。それに、事は褝学の領域内のことであるから、私は触れない。すでに褝学プロパーの人たちの論攷また多く存する。

問題は、第二の点で、 はたして 『御抄』は、 日本天台の本覚法門的教学を背景にして、『正法眼蔵』を注釈しているか。

だいいち、 日本天台の本覚法門的教学とは、具体的に何を指すのか、その概念規定は、 それが『正法眼蔵』注釈に援用できる範囲を、どの程度に限定すべきか。

明確化しなければならぬ、問題点は多い。やっと、私の出番が廻ってきたのである。

巨視的な議論ではなく、こんどは、『御抄』という宗門至高の注釈書に沿って、 共体的に、 これをこころみなければならぬ。

ところでこの点に関し、鏡島博士はまづ一般論を先にこころみている。

一般に宋朝禅並びにこれをそのまま伝えた日本臨済宗道元禅師との相違は、始覚門的法門に対する本覚門的法門の相違であるとされる。始覚門的法門は因(事)より果(理)は 向かう従因向果の教えであるが、本覚門的法門とは果(理)より因(事)に向かう従果向因の教えである。しかるにこれが中国天台と日本天台とを分ける特質とされるのであるから、それは宋朝褝ないし日本臨済宗道元禅師とを分ける特質に対応するものがあるのである。それゆえに、道元禅師の立場を宋朝禅ないし日本臨済宗と区別した詮慧・経豪が、区別の拠りどころを日本天台の教学的背景に求めたことも、理の当然であって、『正法眼蔵抄』に見られるこの二つの特色は互いに表裏をなして『御抄』の一大特色をなしているのである。(84)

 

解り易すく、左に図式化してみよう。

始覚門的法門ー因(事)→果(理)〔従因向果〕ー中国天台ー宋朝禅・日本臨済宗

本覚門的法門―果(理)→因(事)〔従果向因〕ー日本天台ー道元禅(詮慧・経豪)

 

中国天台と日本天台に、始覚・本覚、理事、因果を配して従因向果、従果向因となすまではよい。

中国天台と日本天台との特長を図式化して示す、それはごく一般的図式だからである。

問題は、ここから先である。なるほど、かく平明に割り切って図式化されると、いちおうの理解は成り立つ。

しかし、中国天台と日本天台との相違を、始覚・本覚、理事因果に配して従因向果・従果向因となすは、ごく巨視的な、いうなれば初歩的理解を得るためのものにすぎなく、日本天台における本覚法門の展開は、台密を背景に複雑な様相を呈し、密教・天台・華厳・褝という最高の仏教思想の綜合開会とまで称されている。

本覚法門は、通常日本仏教史では、恵檀一一流を以て説かれ

るのを常とする。そして恵心流は観心を主として本覚立ちに、檀那流は教相を旨として始覚立ちに配される。

伝説に近いとはいえ、本覚法門の中にさえ、本覚立ち、始覚立ちが、存するのである。

道元褝は、どちらに似ているか、といえば観心を主とする本覚立ちの恵心流にきまっている。それに道元褝師は、恵心僧都源信ゆかりの横川にいた、との稚拙な発想のもとに、本覚法門の研究をはじめたことを、私は前著で正直に告白した。

したがって、「道元褝師の立場を宋朝禅ないし日本臨済宗と区別した詮慧・経豪が、区別の拠りどころを日本天台の教学的背景に求めた」(前出)といっても、いったいそれは共体的に日本天台の誰れの教学を指すのか、何んという著書に依るものなるかを、これから具体的に『御抄』の表詮に沿って検尋しなければならない。

それにしても、鏡島博士の本覚法門理解は、他処でも触れるが、おどろくべき深さを示している。

たとえ図式的でも、これだけ明確にするのは容易ではなく、後学は研究方針が立てやすい。

おそらく、両三度にわたる田村芳朗博士との論戦をとおして、田村博士の業績を、刻明に吟味された結果ではなかろうか。まさか原資料まで読んだわけではあるまい。

ここから直に、第二の点を展開してよいのであるが、第一の点とは、両者「互いに表裏をなして『御抄』の一大特色をしている」という以上、表の方から先づ触れてみよう。

まず、第一の特色について見るに、詮慧・経豪は道元褝師の立場を宋朝褝ないし日本臨済宗と異るものとしてとらえている。

道元褝師は宋朝褝に対しては、忌憚のない批判を加えているが、日本の臨済宗についてはこれをあらわに批判することを避けている。しかるに『御抄』になると、褝師がその批判を避けた日本臨済宗がむしろ主たる批判の対象とされるのである。・・

『御抄』は道元禅師が宗家である宋朝禅に対して下した批判を、末派である日本臨済宗への批判ととったのである。(86)

かして『御抄』は、「鎌倉褝を代表する蘭渓道隆と、京都褝を代表する円爾」を批判するに至るのであるが、この辺のところの曹洞宗学の手法は、 まず完壁の域にちかい緻密度を有しているから、私のあえて立入る余地はない。

じっさい『御抄』に接してみると、「近来褝僧と号する族」(やから)と称して、大慧宗杲ばかりか、日本臨済禅までの手きびしい批判が、充溢している。

道元禅師は、宋朝禅は批判しても、師ともいうべき栄西禅師の初伝した日本臨済宗への批判には、おのずから遠慮が存したものと思われる。

しかし、詮慧の時代になると、もう遠慮しておられぬほど日本臨済宗は顕在化していたであろうから、かかる批判もやもうえぬとは思われるものの、私のようないちおう天台側か

ら、いささか第三者的にみる者にとっては、『御抄』の道隆・円爾批判は頂けない。

それは詳しく後述するとして、鏡島博士は、きわめて体系的な『御抄』の位置づけを、次に示す。

『御抄』の立場は道元褝師の立場を宋朝禅および日本臨済宗から棟別しようとする色調が濃厚である。したがって、もし道元禅師の立場を、如浄を通して相承した宋朝禅を基盤とせる日本的展開と規定することができれば、『御抄』の立場は日本的展開に重点をおいて道元禅師をとらえた立場であって、(87)・・

とあり、この「日本的展開に重点をおいて道元禅師をとらえ」る立場が、先にいう「道元褝師の『正法眼蔵』を日本天台の本覚法門的教学の背景のもとに理解」することを意味するはいうまでもない。

すなわち第一の点の、宋朝褝ないし日本臨済宗への批難が、裏を返せば、第二の日本天台本覚法門からの理解を高調することになるから、たしかに両者表裏して『御抄』の一大特色をなしているのである。

そして、このような詮慧・経豪は、

 

同じ道元禅師門下にあっても、道元褝師の立場を、基盤である宋朝禅に返す方向にとらえた寂円・義雲の立場と対極を成すものであろう。(88)

 

と、さらに洞門の内の、寂円・義雲への対極的立場として位置づけ把握されている。

理路整然とした道元褝の体系的叙述が、そこに見られる。しかし、宋朝禅や日本臨済宗を、 いかに批難したとて、ただそれだけなら、道元褝の特色は出ようはずはなく、自主性はかえって見喪なわれる。

といって、日本天台の本覚法門的教学によりすぎた理解に走れば、それこそ道元禅の主体喪失はあきらかで、いづれにしても道元禅の独自生は、出てこない。

そこで、いかにして道元褝師の主体性を出しつつ特長を強調するかを、鏡島博士は、次のごとく説明している。

このように、道元禅の立場が、宋朝褝および日本臨済宗と異なる立場とされるとき、禅師をして日本的に展開させた思想的背景として、『御抄』が導入するものが日本天台の本覚法門であることは、詮慧・経豪の修学経歴からいって当然のことである。したがって、 ここに道元禅師の『正法眼蔵』を理解するに日本天台の教学的背景をもってした『御抄』の第二の特質が示される。(89)

 

天台宗有力寺院のある東山の地で、褝院をいとなむのは、内実はともあれ表向きは叡山の子院のごとき態度を取らねばならぬ。

そのうえ、中古天台の聞書形式によって『眼蔵』注釈をこころみようとするのであるから、皮相的にみれば『御抄』は、日本天台の教学的背景から注解されたとみられなくもない。

したがって、「『御抄』の導入するものが日本天台の本覚法門の教学」であるというが、それが先来何を具体的に指すかは、いまだ明らかでない。

これは『御抄』そのものに沿って検する以外になく、後章でこれをこころみるから暫く措くとして、 われわれは鏡島博士の、きわめて重要な、いわば宗学の根幹に触れるような次の言に耳を傾けなければならない。 それは、

もっとも、『御抄』の立場が日本天台の教学的背景に立っといっても、詮慧・経豪は日本天台の教学を捨てて道元禅師に帰したのであるから、そこに説かれている日本天台の教学は道元禅の高い宗旨から振り返ってみられた天台教学であり、道元禅師の宗旨がそれら天台教学をはるかに超えて、深く高い教えであることを弁証せんがための、いわば否定的媒介としての天台学であって、天台教学の立場に立っての『正法眼蔵』解釈でないことはいうまでもない。(90)

 

教学的立場からの『眼蔵』解釈を、宗学的なそれに転質換位せしめる、かかる宗学的意識は、つねに洞門の学人に自覚して維持されなければ、宗学の自主性・主体性の確立は所詮あり得ない。

道元禅の思想的基底をなす、かの「本証妙修」を、中国褝宗のもっ本覚思想から演繹することも、それなりに可能である。しかし、それでは道元褝の特質は中国禅宗の範囲内のものとなり、道元褝の日本的展開の説明に多大の支障をきたすこと言を俟たない。

といって、「本証妙修」を日本天台へと遡及せしめると、とめどない密教的理解をまねくのである。(91)

いづれにウェイトを置くも、「本証妙修」 の道元禅における特質は出てこないのであって、結局は、道元褝師自身から、『眼蔵』そのものから直かに「本証妙修」を把得する以外にないのである。

「本証妙修」が、まず証得されてこそ、その中国褝宗との関係も、はたまた日本天台との関連も、道元禅に主体をおいて、解明されてゆくのである。

この点、日本天台の教学的解釈を、いかに積み重ねたとしても、それは概念の集積にすぎず、結論として生命ある「本証妙修」はうまれてこないのである。

このばあいも、そうであって、『御抄』が、いかに日本天台の教学的理解を、巧みに『眼蔵』解釈に施しても、 それで道元褝の生命が生まれるというわけでもないのである。

と同時に、第一の点で、いかに南宋褝や日本臨済宗を非難攻撃したからといって、道元褝の自主性・主体性が確立されるわけもないのである。

所詮、非難攻撃は、他人のアラさがしにすぎぬ。みづからの真の特質が顕現されることとは別の問題である。

他を非難攻撃することによって、みづからの顕現化をはか

ることは、それこそ天に向ってツバするたぐいとも云えよう。

南宋禅や日本臨済宗を非難攻撃することによって、道元禅が立つと考えるのは、ひとつの錯覚にすぎぬ。

したがって、南宋褝や日本臨済宗への非難攻撃も、一時の方便として使用するのならともかく、これがあたかも宗学の本質であるかの如き感を抱かしめるのは、戒心を要するところではあろう。

ところで、本筋に話題を戻すと、『御抄』の背景となる天台教学について、鏡島博士は、 かなり具体的に触れてくる。次の文をみよ。

 

道元褝師の『正法眼蔵』にもっとも多く引用されている経典は『法華経』であるから、褝師の立場が天台の教学と深い関連があることはいうまでもない。しかし、『正法眼蔵』の引用文によって見る限り、褝師の立場は中国天台と結びつくのであって、日本天台と関連するものは見られないのである。(92)

 

この鏡島論文((道元禅師と天台本覚法門 法華経引用に関連してー」) は、本覚法門研究で著名な田村芳朗博士の反論を呼び起したが、論争の内容と経過は、前著の中でくわしく紹

介したから、ここでは触れない。(93)

それだけの重要な意義を有しているのである。鏡島博士も、今はこれ以上この問題にはかかわらず、『御抄』を中心として、先にすすむ。

しかし、詮慧・経豪にいたると、中国天台の文献が引用されていることはいうまでもないが、日本天台との結びつきが明らかに認められるのである。

正法眼蔵聞書』の中には、しばしば詮慧の天台教学に関する造詣を示す言葉が見られる。(94)

として、『即心是仏』巻の『聞書』から、「一心一切法一切法一心」の釈を出している。

一心一切法一切法一心と云。即心是仏の如此いはるるなり。天台なむどには此一心一切法一切法一心と云事、只是竪横義也。竪横共に不可也と嫌へば、いまの草子の如きは、天台に所捨に似たり。然而竪横を立て、共に不可也と嫌は、将錯就錯と云事を習はざる故也。 一心一切法をばやがて、一心一切法とつけ、一切法一心をは一切法一心につくれば、不可と談ずべき所なし。不可ときらはるる詞を、仏法の最極と習なり。(95)

 

さて、問題はこの意味であるが、鏡島博士は、

 

難解であるが、道元禅師の立場と天台の立場を会通したものであることは明らかである。『聞書』の中には、このような天台義をもって、『正法眼蔵』を釈している例がしばしば見られるのである。(96)

 

巨視的にみれば、会通とも見られなくもないが、むしろ積極的に天台義を踏み台にして、 より高次の道元禅の特質を発揮したもの、とみるべきか。

たしかに、ご指摘のごとく難解であるが、そのためには、「天台なむどに」いう、「一心一切法一切法一心」の取り扱い方から定めてかからねばならぬ。竪の義、横の義またしかりである。

すなわち、『御抄』の時点での、如上の天台義を、まづしっかりと抑えねばならぬ。しかるのち、「将錯就錯」の宗意を加味して、「一心一切法をばやがて、一心一切法とつけ、一切法一心をば一切法一心につく」という『眼蔵』流の開陳に至らねばならぬと思う。

このような例は、『御抄』 の中から、 それこそ数十例を挙げることができる。

いづれ各例ごとに、天台義を抑えて、これと宗意との微妙な交絡を、精細に開明してみようと思うのであるが、如上の例も、その代表的なものの一つである。今はこれ以上たち入らない。

そこで『御抄』における天台義と称するものの、取り扱い上の基本的姿勢を確立しておかねばならぬ。一貫した態度がとりうるような方法論を確立して、各例に適用するのでなけ

れば、思想の体系性は得られない。

鏡島博士は、もう一つ『柏樹子聞書』の釈をあげている。

 

天台に草木成仏と云ふ義、宗の大事にて談之。法相三論等には此義なし。抑草木成仏すやと云論義、天台儲之。先うちひらみて、成仏するかと二重に尋ぬる。答には発心修行をばまぬかれず、且は身長丈六、光明遍照と云ふ。時にこれ発心修行とこそきこゆる時に、此証拠にいだす也。但発心修行は、有情成仏にやくす。報身には成仏と云も、只人間の見をさす也。仮似無共詮。こなたには、やがて柏樹発心修行すと心得也。

このように、詮慧は天台義をもって道元褝師の『正法眼蔵』を釈しているが、注意すべきことは、その天台義が日本天台の本覚門的立場であることである。(97)

 

ここでは、天台義なるものを、日本天台の本覚門的立場であると受けとっている。

こうなると、鏡島博士のいう「日本天台の本覚門」の概念規定が、微妙なものとなってくる。

具体的にいうと、この「日本天台の本覚門」とは、いわゆる口伝法門といわれる中古天台は恵檀二流の本覚法門を指すのか、それとも三師二師から恵心までの、文献教相に依拠する正統的な本覚思想を指すのか、両者はっきり区別するのが学界の常識となっているからである。

普通、「日本天台の本覚門」といえば、前者を指すことになろう。果して、それでよろしいか。恵檀両流伝えるところの本覚法門で、道元禅を注釈して可なりや。それで、さいごまで支障なきや。いわゆる本覚法門の思想構造と、道元褝とは、異質的なりや、はた類同性が認められるや。

それらは、前著『道元褝と天台本覚法門』を通して終始追究した課題であり、結論するところは、 まったく異質的な思想構造の論証に畢ったのである。(98)

同書結論第一章「道元褝師における生死観の構造と本覚法門」、同第二章「「本証妙修」の本覚法門への遡源とその本質的相違について」を参照されたい。

『御抄』に、宗意を忠実に祖述する態度が貫かれていれば、本覚法門のつけ入る隙はなく、 じじつ『御抄』は、鏡像円融、無作三身等の、重要な口伝を挙げてはいるが、かならずしも同調してはいない。

この辺の機微は、実際に『御抄』の本文に就いて論証することになるが、基本的には、『眼蔵』と同じく本覚法門の影響を受けてはいない、と見て目下の研究をすすめている。

そうでなくは、『眼蔵』の宗意をつたえた伝統宗学正依の注釈書と『御抄』はなり得まい。

この点、鏡島博士の「日本天台の本覚門的立場」という表詮が微妙で、取りようにによっては、それは恵心以来の文献教相を重んずる正統的な天台教学ーかろじて道元褝師と同時代者の証真にまでつたわったーを意味するからである。

いづれとも採れる表詮をしたのは同博士の、比類なき慎重な学風によろうが、「日本天台の本覚門」の概定規定を明確にし、『眼蔵』ならびに『御抄』に適用できる本覚思想を、歴史的に限定してかかると、その表現はより厳密なものとならねばならぬ。

博士は、さらに、『看経聞書』をあげて、

天台の義に妙をたっと云へども、此上猶相対妙絶対妙と立て、相対妙をすてて絶対妙をとる。抑非待妙ありまむや。然而天台釈妙と云許にては、相対も絶対も、ともに非本意。 まして三妙の位をたてむこと不可然歟。ゆへに天台の義にもきこえず。但他門にこそ談ぜね、此門にはなどかなからむ。全機と談ずるこそ、非待非絶なれ。(99)

 

以下、引文を省略するが、博士の、上掲の文に対する相待妙・絶対妙の解説は、あまりにまともすぎる。

田村芳朗氏の「日本天台における一乗開会の思想」なる論文を引用し、「日本天台の本覚門は絶対妙を主とし相待妙を従とする立場である」とするのはよいとしても、

詮慧が天台の立場を「相対妙をすてて絶対妙をとる」と規定したことは、詮慧自身がかって日本天台の本覚門的立場をおいていたことを示すものである。(100)

というのには、にわかに賛同しがたい。

なぜなら、ここでいう「相対妙をすてて絶対妙をとる」とは、次につづく「抑非待妙非絶絶妙ありなんや」の文意からして、博士みづからいう「詮慧は道元褝師の立場は、相対妙・絶待妙を超えた非対非絶の立場を説く」 ことを意味していると考えられるからである。 したがって、

「聞書に一貫して流れているあらゆる相対的なものを円融し開会する思想は詮慧のこのような日本天台の絶対妙思想の徹底として見られる」(101)

という説には同じかたい。

これでは、『御抄』の立場を、本覚法門に近づける結果になってしまう。

たしかに、『御抄』の中には、後ほど指摘するごとく、本覚法門を以て解すればドンピシャリのような表詮がないわけでもない。

しかし、審細にみてゆくと、『御抄』は、『眼蔵』と同じく本覚法門からの致命的な影響はない、 との方針の下に理解をすすめていって差しつかえないように思われる。

もし、それができないようであるなら、『御抄』の伝統宗学における基本的な注釈書としての生命は喪われる。

ともあれ、数十例にのばるであろう、天台義、論義、談義、口伝等、およそ教家として天台を予想し得るごとき表詮ことごとくを網羅して、綿密な本覚法門からの検証をこころみてみよう。

さらに博士は、詮慧ばかりでなく経豪も、「日本天台の本覚門的立場」を受け継ぐものとして、『正法眼蔵光明抄』末尾の識語をあげ、

安然和尚此事を被釈には、善悪の法、定恵の二法をはなれたる事なし。即是道の言僻見なるべからずと云。自問自答せらるるには、三毒ともに道ならむには、何ぞ諸大乗には、さかりに是事をいましむるぞやと問。これを答するに、但除其執、不除共法 とあり。しかるを、同天台の輩も、その法を行せむもの、争共執をのそくべきやと難ず。ただし安然の御心地は、定恵の二法と心得ぬるをもて、除執とは可心得歟。但此門には執着とも不解、除執ともをしへず。不触事而知の如し、不対縁而照の如し。

この識語は経豪の識語であるかどうか疑わしいものが、後人の追補であると思われるが、・・(102)

 

と、識語の後人附加説をのべている。

たしかに、後人の附加とみて誤りはないであろう。

この例文だけで断ずるのは早計であるが、三毒以下の表詮は、いかにも口伝法門の臭があること、本覚法門の代表的各書をみればあきらかである。

そこで念のため、『曹洞宗全書本』(注解一、三四七頁) に依って、この識語の全文を出してみると、上掲の引文の前には、

 

 本巻末尾ニ左ノ識語アリ、

婬欲即是道事、

喜根比丘ノ義ニハ、婬欲ヒモ瞋癡モ、即是道ノ云ハサラムハ、仏法ハ天与地ノ如クトヲカルへシ、云云

勝意比丘ハ、又婬欲即是道ト心得ムハ、仏法ヲ隔事天与地懸隔也ト云、喜根比丘ノ見ノ方ハ、皆成仏シ、勝意比丘ノ方ハ、皆堕獄ス、已善悪ノ見ヲ発ス、堕又善悪ノ証拠顕然ナリ

の文があり、前掲の安然和尚云々の文がつづく。 その後に、次の文がある。

 

喜根比丘ノ見ヲ可ニ心得一様ハ、三毒ハ道ナリ、道ハ三毒ナリ、道ハ三毒ニアラスト云へキナリ、縁起ハ行持也、行持ハ縁起セサルカユヘント云カ如シ、努努アシクア見シテ不可堕ニ僻見、ヨクョクツッシムへシ、

 

このように識語の全文を見ると、これは、「婬欲即是道」という、当時流行した本覚法門の、重要な口伝を出したものであることが明らかである。この口伝は、前著の中で、『牛頭法門要纂』あるいは『漢先類聚』において、 かなり詳しい解説を施しておいたので、再説しない。

したがって、真中に挾まれている、安然和尚云々の文も、そのように解すべきで、中古天台の口伝法門の中でとり扱われている安然と、それは受けとるべきなのである。

口伝法門といわれるだけあって、本覚法門の各書は、ほとんどが伝教、円仁、円珍、安然という三聖二師と称せられる先人達に仮託された偽撰であり、そればかりか経論をねつ造し、引用文を勝手に変改し、まともに応接するにいとまあらずの感がある。

鏡島博士は、当然のことながら、この安然を、上古天台の三聖二師のひとりとしての、かの『教時義』等を撰した五大院安然そのものと受け取っているが、本覚法門で取り扱われ

る安然には、そこに口伝法門特有の性格が仮託されているを知らねばならぬ。

識語全文の詳解は、『蒐書大成』によって再検を要するであろうから、 のちにゆずるとして、結論だけを先廻りていうと、上掲の前・後の文意よりして、明らかに婬欲即是道の口伝を出したからには、貪体即覚体に至る凡夫成仏を説く本覚法門に対し、『眼蔵』の真意はいかにあるべきか、すなわち本覚法門を斥って宗意を明瞭に発揮したのが、この識語であると、 私はみる。

これだけでは説得性がないから、本覚法門の資料を挙げよう。『漢光類聚』巻四には、

 

摩訶止観の本意は、貪体即ち覚体なるを本覚の理と名づくるが故に、三毒の当体即ち仏体なり。貪瞋の一念、自性の三諦なるが故に、空を智徳となし、仮を断徳となす。衆生本より三諦を見ふるが故に、三毒の自体本分の智徳・断徳なり。かくの如く心得れば、衆生と仏とは、三毒の起と不起とにして、更に相違あるべからず。しかのみならず。今の文の意は、貪瞋癡の三毒の当体、本有の三諦と開覚する、これ入仏知見の妙意なりと釈するばかりなり。 ここを以て覚大師の止観の記に、「三毒を捨離して別に法性を得るを名づけて迹意となし、貪体・癡体即ちこれ本覚なるを本覚の理と名づくるなり」と。(103)

 

如上の文意を、釈すると、

「食体即覚体」なれば、三毒の当体即ち仏体となり、「食瞋の一念、自性の三諦るが故に、空を智徳となし、仮を断徳となす」にいたる。「衆生本より三諦を具ふるが故に、・・衆生と仏とは、三毒の起と不起」において同一なるを高調し、食瞋癡の三毒の当体を本有の三諦と開覚することが、これ入仏地の妙意なりというに至っては「貪体・癡体即ちこれ本覚」とまで極説されて、とうてい随いてゆけぬ感を抱かせられる。(104)

同書から、もう一例を出そう。

 

しかるに止観の意は、かくの如く起す所の我見三毒の煩悩等の自体を空仮中の三諦と心得て、妄の起も避にあらず、本より食体即覚体なるが故に、貪の外に菩提を求むれば、これ二念隔異の執情にして、止観の本覚にあらず。摩訶止観の意は、貪瞋癡の二毒念続起する、これ法性三諦の続起するが故に、衆生の当体即ち仏なり。この道理を心得るを開仏知見となす。一切衆生、念念に仏知見を起し、止観の妙行を立つれども、知らざるが故に凡夫と名づく。今知識に値ひて自心本地の三諦を聞きて、 三世常恒の妙行即に円満するが故に、衆生の外に仏体なしと釈し給ふなり。(105)

 

それは、 次のごとく解される。

 

問題は、かくの如く起すところの衆生三毒自体を、「空仮中の三諦と心得て」「妄の起も過にあらず」と「食体即覚体」を高調するにある。

なるほど、「貪の外に菩提を求むれば、これ二念隔異の執情」すなわち煩悩は煩悩、菩提は菩提、 の二つの観念に執着する妄情となるから、「止観の本意にあらず」と云って、「衆生の当体即ち仏なり」と主唱し、「この道理を心得るを開仏知見となす」というに至っては、論理のはこびとしては一見巧妙にみえても、「食体即覚体ーなる安易な凡夫成仏のすがたを、そこに見ないわけにはゆかない。(106)

以上の二文からして、この識語でいう、「婬欲即是道」すなわち「食体即覚体」の口伝法門における真意をうかがうことができよう。

三毒」の取り扱い、また然りである。例証は煩にわたるので避けるが、前著で詳説しているので参照されたい。

かかる衆生の当体即仏と見、貪体即覚体から、安易に凡夫成仏をとく本覚法門の思想構造は、本証なるも妙修を高調せる道元禅とはまったく異質のもので、それこそ、天地はるかに隔たるといわねばならない。

が、かかる安易なる凡夫成仏説が、当時盛行せる本覚法門の中で主唱されていたのであるから、これが、なんらかのかたちで、『御抄』の注釈態度の中に現われてはいまいか。

多少なりとも本覚法門関係の代表的資料をよみ、その輪郭を把んでみると、その影響が、あるいは『御抄』におよぶのではないか、と危懼されたのである。

前掲二文が存する『漢光類聚』は、その成立が、鎌倉後期の中ごろ、すなわち『御抄』成立期間と、時代を同じくする。

したがって、如上の二文が存する『漢光類聚』、それは本覚法門の集大成といわれるものであるが、を以て如上の識語にある口伝法門は「貪貪欲即是道」を解して、まず間違いはあるまい。

このように、できるだけ時代、時期、著述、著者等を、刻みに限定して、口伝法門のそれと合せてゆかなければ、 両者の比較そのものが成り立たないのである。

曹洞宗学の方でも、『御抄』といっても、『聞書』 の成立と『抄』の間に、または詮慧と経豪の間に、 それをとりまく寂光や実智房の間に、 じつに細かいことをいうのであるから、本覚法門の方でも、同様な細かい対応に迫られるのである。本覚法門の方も、時代の流れとともに、その思想は、細かい変遷をくり展げているのである。

 

さて、いちおうの締めくくりをしよう。

如上の考察経過からみて、この識語の全文が、じつは本覚法門の思考様式を排除せんとした意図の下に書かれたものであることがわかろう。

すなわち、上来の口伝のもつ「貪体即覚体」の思想を背景に、喜根比丘と勝意比丘の立場を解すべきであることはいうまでもない。

つまりは、「但此門ニハ執着トモ不解、除執トモヲシへス、不解事而知ノ如シ、不対縁而照ノ如シ」という宗意が抑えになっているのであって、さいごに、「喜根比丘ノ見ヲ可心得様ハ、三毒ハ道ナリ、道ハ三毒ニアラズト云へキナリ、・・努努アシクウ見シテ不可随僻見、「ヨクヨクツツシムへシ」というは、あきらかに本覚法門を斥ったことばと私は見る。

『御抄』の注釈の中に、本覚法門を持ち込むことを峻拒したものと解する。 そのための、念の為の識語か。

それは鏡島博士の、詮慧も経豪も、日本天台の本覚法門的立場に立って『御抄』を注釈したという態度を、真向から否定する結果とはなる。

ただし、この識語が、『光明』の巻の、いづれの『聞書』『抄』の部分に関連するものか、概観するところ、明瞭にこれを指摘することはできない。

内容からみて、『光明』の巻の巻尾に附せなければならぬ、識語とも思えない。その意味で、後人の補説とするのは当然で、もっと適当な場所があろう。いづれ、『蒐書大成』によって書誌学的に再検討を要することは確実で、この点、河村孝道教授の指教を待ちたい。

ただし、鏡島博士が、なぜこの識語の中から、安然和尚の文のみを抜き出したか。その深意を追究しなければならない。同博士は、田村芳朗博士との論戦を展開しただけあって、本覚法門には、深い関心と理解を有している。かりそめにも、この引文をおろそかにしてはならない。

それは、この安然和尚に関する引文が、意外と本覚法門思想としては、まともで穏健な内容をもっているのに気づかれるであろう。

婬欲即是道を高調するあまり、貪体即覚体にいたり、ついには凡夫実仏を主張する前出の『漢光類聚』における本覚思想には随いてゆけないが、この安然和尚に仮託された釈は、一見すると「善悪ノ法、定恵ノ二法ヲハナレタル事ナシ、 即是道ノ言僻見ナルへカラスト云、 三毒トモニ道ナラム二ハ、何ソ諸大乗経二、 サカリ二此事ヲイマシムルソヤト問、 コレ二答スル二、但除其執、不除共法トアリ・・」とあり、 いかにも納得性のあるとき方になっている。

これが曲者で、したがって「タタシ安然ノ御心地ハ、定恵ノ二法ト心得ヌルヲモテ、除執トハ可心得歟」と、あたかも安然の釈を認めるかのごとき書きぶりとなる。

この微妙な点を、見逃さず、ここに本覚法門の影響をみたのは、さすがである。

『御抄』は、これぐらいの妥協を、本覚法門としている。また道元褝師寂後の、永興寺の状況は、かくせざるを得なかった、というのであろうか。

それならば、同博士の上来の説に同じないわけでもない。もともと私の本覚法門研究は、恩師衛藤即応の天台学研究への教示にはじまり、鏡島博士を先達としておこなわれたものである。研究の大方針が両者おおきく変ることはない。ただ、ここまでくると議論が審細になり多少の差違が出てくるのはやむをえない。 ことに今日となっては、 専攻分野に入ってきた本覚法門の立場から、細部に亘っては反論も生じてくるのである。というより両者の間隙を、本覚法門の方から詰めるのが、私の役目なのであろう。その意味で以下の行論を理解していただけば倖いである。

そこで、私が心配するのは、先の『漢光類聚』の引文をかりれば、「一切衆生、念念に仏知見を起し、 止観の妙行を立つれども、知らざるが故に凡夫と名づく」という背後には、もちろん本証本覚が先取りされているのであって、 したがって、「今知識に値ひて自心本地の三諦を聞きて、三世常恒の妙行既に円満するが故に、衆生の外に仏体なし」という思想パターンがあり、これが「本証妙修」と、ある種の類同性がみられることである。

要は、本覚本証を先取りして、安易に凡夫成仏を説くところに問題があるのであって、 その結果が、未修未証の凡夫そのまま仏の当体となす俗諦常住へと傾斜してゆくのである。

しかし、多少の思想的類同性が、「本証妙修」にみられるからといって、基本的な思想構造はまったく異るのであるから、皮相的な同致に安住してはならない。

そのことを、「但此門ニハ」以下、「努努アシクア見シテ不 可随ニ僻見、 ヨクヨクツツシムべシ」と戒めているのであって、かかる本覚法門の思想的影響が、かなり『御抄』撰述グループの周辺に、迫っていたことを、それは示すものといえよう。

さて、鏡島博士は、『御抄』と日本天台本覚法門との関係について、実に重大な発言をなしている。

 

上述によって見れば、詮慧・経豪の『正法眼蔵御聞書抄』が褝師の『正法眼蔵』を理解するに、日本天台の本覚法門的背景をもってしたことは動かすことのできない事実である。それは道元禅師の思想の中に日本天台の本覚法門的思想に対応するものがあって、詮慧・経豪のこのような解釈を容れるものがあるからであるが、問題は、詮慧・経豪は道元禅師の立場を解するに日本天台の本覚門的背景をもってしただけでなく、さらに道元禅師の思想を本覚門的に展開させたものがありはしないかということである。言い換えれば、道元禅師の思想と伝承されるものの中に、実は詮慧・経豪によって天台本覚門的に展開されたものが含まれていはしないか、ということである。この点の探求は微妙な問題を含むが、一例を挙げて見よう。(107)

 

天台本覚法門の基礎資料の検尋に、歳月をついやして、やっと一書にまとめ得たので、 それでは、これを土台に『眼蔵』はひとまず措いて『御抄』に懸ってみようとすると、なんのことはない、鏡島博士はずうっと先の方をすすんでいるではないか。

如上の鏡島博士の問題提起は、 じつは年来の本覚法門の研究がまとまったのを機会に、私が本覚法門の方からやりたかったものであることは、這般の事情を知る人には容易に理解されよう。

見事に先を越されたのである。

先達であるから当然のことというものの、如上の問題提起は、私の言いたいことを、それこそ隅からすみまで言いつくしている、と言ってよい。

かかる問題提起をしたいために、本覚法門の基礎資料に刻明に当ったのである。それにしても鏡島博士は、先のさきまで見ておられる。先見の明、師の衛藤即応博士に、それは、比肩するものがある。

これほどまでに、天台本覚法門と道元褝との関係を、深解しておられる先達が眼前にいることは心づよく、励まされること誠に大であるといわざるを得ない。

かくまで鏡島博士がいうのであるから、いちおう如上の門題提起の線にそって、『御抄』を考究してみよう。たとえその結果がどうであろうとも。

というのは、 さきに『正法眼蔵光明抄』の識語を解明したとき述べたごとく、『御抄』への本覚法門の影響はみられても、致命的なものでなく、むしろ本覚法門思想を斥ったところに『御抄』の真価がある、という結論に、如上の問題提起のすえ実は達せざるを得ないからである。それはともあれ、鏡島博士の、挙例した『御抄』における本覚法門的注釈の内容なるものを検してみよう。それは『出家抄』にある次の文である。

 

大国には必先二百五十戒等の声聞戒をうけて後菩薩戒を受る也。日本にも出家の時の沙弥戒なむと云は此心地歟。然而必しも吾朝には毎度無ニ此義一歟。直受ニ菩薩大戒一なり。

 

これを以て、『御抄』は、単受菩薩戒を主張し、したがって日本天台の円頓戒的立場あるものとなすのであるが、これはその通りであろう。

ただし円頓戒を以て単受菩薩戒を主張したところで、それは伝教大師以来の叡山の戒律観の、きわめて一般的なことをいったまでで、中古天台の本覚法門とは直接しない。

『御抄』の、如上の戒律観は、 日本天台では、 ごく正統的なもので、本覚法門的ということはできない。

ただし、円頓戒的な単受菩薩戒の主張が、道元禅師の戒律観と、矛盾しているというのなら、話は別である。

もし、道元禅師の立場が、『褝苑清規』を受けた大小兼受の立場であるなら、如上の『御抄』の単受菩薩戒の円頓戒とは異なる。

が、それは、単に、円頓戒を主張しただけであって、日本天台的といえようが、日本天台の本覚法門的解釈が加ったことにはならない。

研究方法論の最初に云うごとく、いわゆる恵檀二流という口伝に依拠する、平安末期から鎌倉時代をへて、さらに南北朝へと盛行瀰浸せる本覚法門は、教相・文献を無視したものであり、したがって『御抄』のごとき、上古天台の三聖二師を重んずるような、まともな戒律観を有していない。

この点、『御抄』の注釈態度は、むしろ恵心の正統的な教学の流れを汲む宝地房証真にちかく、証真の教学と学風をおなじくする盧山寺教学に通じるものがあるということができるであろう。

これは単なる聞書という注釈形式の比較にすぎないが、詮慧の『聞書』に対して、『盧山寺聞書』を、先にあげたのは、この理由からである。

証真は、道元褝師叡岳在山中に、総学頭の地位にありながら、本覚法門を痛破し、その批判を、組織的に彼の大著『三大部私記』の中で展開した人である。

詮慧・経豪の『正法眼蔵御聞書抄』が、本覚法門を容許するはずはなく、もし、いささかでもその傾向が現われれば、注釈される『眼蔵』の思想的基盤は、根底から覆されるものと、私は見る。

詮慧・経豪の『梵網経略抄』については、改稿して別論してみたい。おそらく円琳(建仁寺七世) の『菩薩戒義疏鈔』六巻(嘉禎三年・ 一二三七)などと対比して考究する必要があるうえ、当時叡山に存するおびただしい『梵網菩薩戒義疏』 のたぐいと、詳細な比較検討が必要であろう。

それには、先に道元褝師の戒律観が、明示されねばならぬが、沙弥戒の先受を説く『得度略作法』の真偽の問題があって、『御抄』でいう単受菩薩戒が、そのまま道元禅師の戒律観として受け入れられるのか。

 

それが真撰であるとすれば、単受菩薩戒を主張する経豪の『御抄』の立場は、道元禅師そのままの立場ではなく、道元禅師の立場を日本天台的に展開した立場といわねばならない。(108)

 

という鏡島博士のいう通りであろう。

しかし、 たとえ『得度略作法』が真撰であって、経豪の『御抄』は、さらにこれを日本天台的に展開したといっても、先にいうごとく、たかだかそれは円頓戒を是認したにすぎなく、中古天台の本覚法門と、しいて結びつける必然性はまったく出てこないのである。

それにしても、『御抄』の時点では、単受菩薩戒と割り切っているのに、一方において真偽未決の『得度略作法』があって、沙弥戒の先受を説くは、それだけ道元禅の微妙な立場を示すものというべく、 ただに戒律ばかりでなくそれは、『眼蔵』の思想的境位そのものの特異性を示すものでもあろう。

『御抄』が、単受菩薩戒と割り切っているのは、『御抄』の性格を定める、 たしかに目安とはなる。といって円頓戒は、日本仏教において、当時は戒律の常識的水準を示したにすぎなく、これを以て『御抄』の日本天台寄りを、あまり強調することは考えものであろう。

ともかく、『正法眼蔵』そのものが、比類なき特異な思想を有するからには、これが注釈を最初にこころみた『御抄』も、 また、きわめて微妙な思想的境位にある、といえる。

先入観の有無によって、その理解は大きく分れよう。したがって、『御抄』を解釈する思想的態度を確立することが急務で、それがまた充分妥当性を有するものでなければならない。

私は、『御抄』には、たとい本覚法門的とみられる表詮があるにしても、 それはそのような時代なのであり、内容を審細にみれば、かえって本覚法門を斥って道元褝の比類なき特異性を、 ものの見事に描き切っている、と見たい。

かくの如き『御抄』がなかったならば、『眼蔵』は、その注釈の基準を喪い、のちの道元褝展開に大きな支障を来たしたであろうことは想像にかたくない。

目下、鏡島博士の問題提起の線に沿い、本覚法門の立場から『御抄』を精細に吟味して、第三十五巻神通に至っている。曹洞宗全書本でいうと『注釈一』が、了ったことになる。それは、『御抄』の依れる七十五巻本の、ほば半ばに当り、原稿八百枚にのばる。後半四十巻に、尤に一年はかかろうから、入稿は早くても明年春とはなろうが、これを最後の撰述として完成を期したい。

これも、『蒐書大成』がなかったなら、不可能のことで、この点、河村孝道教授に深く感謝する次第である。

さいごに、『御抄』に没入しながら、昨今想うことを、一言附け加えておく。

それは、『御抄』が、『眼蔵』は、すれすれの線で本覚法門批判を痛烈に展開しているのに比して、なかなかハッキリした注釈を、これに施していない、というもどかしさである。

いな、重要な本覚法門批判が、『即心是仏』『行仏威儀』『空華』の巻等で痛烈におこなわれているにかかわらす、『聞書』はもちろん、ことに『抄』は、「如文」と、そのほとんどが逃げている事実である。

それなりの理由は、如上存すること再説の要はないが、『眼蔵』が必死におこなった本覚法門批判を、唯一の正統注釈である『御抄』が避けて通ったことは、そのごの洞門の宗学の性格を、きわめて旧体制を批判せざる、「抵抗なき宗学」となさしめた感が深いのである。

日蓮は言うにおよばず、法然親鸞等、鎌倉新宗の祖師たちは、至烈な叡山からの迫害の下に、 その宗学を、抵抗の宗学として成立せしめている。

洞門の宗学には、旧体制への批抵の姿勢が、まったくみられない。これほど、おとなしい、 体制順応の宗学はないであろう。

これは、『眼蔵』の正統注釈である 『御抄』が、真正面から衝突をさけて、本覚法門批判を回避したことによる。 これは、そのまま近世江戸宗学に承け継がれたと見てよいであろう。

『眼蔵』で、あれほど痛烈な本覚法門批判をこころみているに拘らず、である。

以上の消息は、各巻の吟味において、 詳しく論証するに至るが、 旧体制批判を欠落した「抵抗なき宗学」が、教団の危機に際して、どれだけの力となり得るか、想い半ばに過ぐるものがあろう。

 

以下の文体は省略した。

 

 

 

これは駒澤大學佛敎學部論集第十七號 昭和六十一年十月(山内舜雄)

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂したものである。(タイ国にて・二谷記)

正法眼藏抄の成立とその性格    鏡 島 元 隆

 

正法眼藏抄の成立とその性格

鏡 島 元 隆

   一

正法眼蔵抄は道元禅師の弟子、詮慧が道元禅師から直接聞いたものを書き留めた聞書を基にして、詮慧の弟子の経豪が更に註釈を加えたものといわれ、畧して御抄と称されるものであるが、正法眼蔵の註釈書としてはもっとも古く、亦、もっとも権威あるものであることは更めていうまでもない(1)。然し、著者の註慧および経豪の伝が明らかでないためか、この書が高く評価されながら、その研究にいたっては甚だ乏しく、ほとんど未開拓のまま放置されてあるもののようである。今、覚え書程度の雑考であるが、一応、これをまとめて同学の士の指教を言青し、、今後の研究の一指針としたい。

詮慧は道元禅師伝としてもっとも古い伝記である三祖行業記によれは、懐弉、僧海とともに道元禅師嗣法の門下とされている。もっとも、詮慧が禅師の嗣法の門下であったかどうかには問題があって、大久保道舟氏は義介の永平室中聞書の中に、

先師室内至此事能知者只我一人而已、余人知総無一人 至此事可伝法入者知之也

とある記事に基づいて、嗣法の門人は懐弉一人であり、詮慧は伝戒の門人であって、嗣法の門人ではないとしている(道元禅師伝の研究二六八頁)。今、大久保氏の説の当否については

これを問わないが、いずれにしても永平寺僧団における詮慧の位置は懐弉に次ぐ重要なものであったことは疑いない。それは、褝師の遺著永平広録の巻第一興聖寺語録および巻第九の頌古、第十の賛が侍者詮慧の編集にかかるものであることによっても知られる。詮慧は禅師の入滅後、荼毘地に永興寺を創建し、禅師の尊像を安置し、永興第一世の住持となったが、 それはここを拠点として、北越に退避した永平の宗風を捲土重来すべく期したものであろう。

経豪は、この詮慧に嗣き、永興寺の孤塁を守り、師詮慧の遺志を継いで、正法眼蔵抄を大成した人である。然し、遺憾ながら、経豪の伝記は「曹洞末塵沙門」(御抄奥書)としてより外、宗門にほとんど伝わるものがない。大久保道舟氏によれは、経豪は花山院宰相入道、五辻教雅の兄、宣経の子であり、花山院宰相入道は、永平寺道元禅師に参じているから (永平寺二箇霊瑞記)、経豪が道元禅師の門に投じたのも、叔父の教雅の参禅の因縁によるもであろうとしている。然し、経豪は道元禅師の椅子下にあって、禅師の正法眼蔵の提唱を親しく聞いたと伝えられているが、この伝説が事実であるかどうかは疑わしいこととされている。それは、経豪の御抄完成は禅師滅後五十六年のことであるから、年齢的にいって、経豪が禅師の座下に投ずることは無理だからである。今、この正法眼蔵抄がどのような事情のもとに成立したかを窺って見よう。

まず、詮慧の聞書についてであるが、それは諸悪莫作聞書末尾に次のような奥書が誌されている(2)。

弘長三年二月 日

寂光与我聞書之上、加予聞書詞也。可取捨者也。

菩薩比丘々々

弘長三年(一二六三)は禅師滅後十一年である。すなわち、聞書は、禅師示寂十一年後、詮慧が永興寺において、自分が禅師のもとにあって聴聞した記録を、寂光が禅師のもとにおいて聴聞した記録に対校させて、合糅整理したものである。

もっとも、聞書がはたして道元禅師の親言親句を書き留めたものであるかどうかには疑問の点があって、これに対しては、既に永久俊雄氏によって、聞書は道元禅師直接の提唱筆記をその弟子、詮慧が書き留めたものではなく、詮慧の永興寺における正法眼蔵提唱をその弟子、経豪が書き留めたものであり、これを註釈したものが御抄であるという主張がなされている(正法眼蔵抄の研究。褝学雑誌第二十三巻第二・第三・第四号)。永久氏はその主張の論拠として種々挙げているが、要は道元禅師が自著正法眼蔵の提唱をなしたのであれば、それは一人称で述べる筈であって、先師・先師永平寺和尚という三人称で述べる筈がないというのである。氏の疑問はもっともであるが、問題は聞書の意味である。もし聞書ということが、褝師の提唱を録音器で一字一句もらさずそのままに記録した意味であるならは、それはもちろん、褝師の提唱筆記ではない。然し、正法眼蔵のような難解な法語を門下に示衆するには、禅師自身においても多少の解説敷延を伴ったであろうし、門下としても理解にあまる語句に対しては質疑したであろうことは、当然予想されることである。従って、門下の側において、禅師の解説敷延なり、自己の質疑応答なりを記録したものが存したに違いない。詮慧の聞書は、この意味における備忘録の整理であって、それが禅師滅後十一年、寂光と対校してできたものである以上、その中に先師、あるいは先師永平寺和尚の言葉が見られたにして不思議はない。寂光はこの奥書の書きようからいって詮慧と同じくかっては禅師の門下であり、後に詮慧の門に投じた人であろう。

このように、聞書は詮慧による道元禅師の正法眼蔵の開演敷説の記録と一応認められるが、それが禅師滅後十一年の編輯整理である以上、詮慧・寂光二者の間において理解の調整に苦しむ間題も生れたであろう。諸悪莫作聞書の奥書が、「可取捨者也」という言葉で結はれているのは、それが後人の解釈を俟つ意味を示すものである。聞書の中には、正法眼蔵の本文理解に対し異解が提示され、それに対して詮慧の正義を示したものが見られる。例えば、正法眼蔵現成公按聞書には、「人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり」という正法眼蔵現成公按の本文に対し、「或人云」として異解が提示され、それに対する詮慧の正義が示されている。それは次のようである。

法の辺際を離却せりと云詞に付て心得様二有べし。

一には法を求と云道理あるべからざる所をさして求の詞をばはなるとも云べし。二には一方を証すれば一方はくらしと云心地にて離却とも仕なり。

或人談に云、人はじめて、法を求と云下に、離却と云詞あり。此離却はさとりとこそ覚ゆれ。法をもとむるゆへに。

難云、この了見の様は、此草子の大意に迷ゆへなり。邪義を出して、正義を決せむために、はるかに法の辺際を離却すとは云也。世間の義也。法すでにをのれに正伝するとき、すみやかに、本分人なりと云こそ、仏法に落居すれと云云。可用義也。

又或人云、本分人の本の字は、法と心得ぬべし。法すでにをのれに正伝する時すみやかに法分人也とも云つべし。本を法に取替心也。又難云、尤本分人と云べし。すでに正伝のときは、法と人と親切なれば、本分人と云こそ、法を人とひとしめたる心地に相叶へ。可用義也。

ここに「或人云」というのは、道元禅師に対して門下から異解が提示され、それに対して禅師自らが正義を示したものとは考えられないから、それは禅師の正法眼蔵が門下の商量の対象に取り上けられて、種々の異解が提示され、それに対して詮慧が自らの理解に基づく正義を示したものであろう。これによって見れば、聞書は詮慧の道元褝師の開演敷説の記録であるといっても、それは詮慧の理解を通した道元禅師の提唱聞書であり、しかも詮慧一人の理解ではなく、寂光の理解をも加えた二人の協同労作であるといわなければならない。従って、聞書は、その一字一句が道元禅師そのままの説法記録ではなく、既に詮慧寂光の解釈を多分に含んだものといわなければならない。そうであれはこそ、後の経豪は師の聞書によって正法眼蔵を註釈しながらも、時に聞書の説に疑問を抱き、これに従わないで、自説を主張することができたのである。もし、聞書が道元禅師の直説そのままであれは、法孫の経豪がこれに異を立てるのは僭越も甚しいものであるが、経豪は時には師説と所見を異にしたのであり、師説に従わないことが却って道元禅師の正法眼蔵の真意に適ったものと信じたに違いない。経豪が師の詮慧の聞書に従わなかった例としては、次のような場合がある。

卵湿生等は、業力少がゆへに人となりがたし。生生をへては、善業増してついに成仏すべしと也。此詞御聞書に被載之。聞書載之、尤不審。但此詞は只教の所談打任たる道理を被載歟。仏道の上の所談には不可有・・但是一向経豪之愚按也。付冥顕甚有恐有恐。然而為後注之。然共私料簡も不可違事なり (行仏威儀御抄)。

 

経豪が師の詮慧の聞書に基づいて正法眼蔵の最初の註釈である正法眼蔵抄を完成したのは、延慶元年(一三〇八)、褝師滅後五十六年目のことである。 これについて、御抄の奥書には次のように記されている。

延慶元年(戊申)十二月(乙丑)廿二日抄畢。此抄物者始自去乾元二年(卯癸)四月十五日首尾六ヶ年之間終功畢。此談義聊依有存或点一夏九旬。或占毎月七日一部七十五帖談終了。愚昧了見之一筋粗注置之者也。後学莫勿嘲。傍書載本願御聞書詞所仰証明也。合点則是也。抑人之命不待出息入息、如霜露如電光。就中近日無常満耳遮眼而六箇年之間無為而果遂此大願了。知生生縁不空事。願酬此功六道群類速登高高峰頂浮深深海底耳。干時寒嵐叩窓小雪払庭矣

曹洞末塵沙門経豪

此抄自一至于第七十五実智房一覧了。所存又無相違云 。

 

これによって見れば、経豪が正法眼蔵抄の著述に著手したのは、乾元二年(一三〇三)四月十五日のことであり、これを完成したのは延慶元年(一三〇八)十二月廿二日のことで、実に前後六ヶ年の星霜を要している。経豪が御抄著述に著手した前年の乾元元年は道元褝師五十回忌の遠忌に当る年であるから、恐らく経豪は著述著手の前年に師翁道元禅師の祖恩に

報い、先師詮慧の法恩に応えるべく、先師の遺志を継いで正法眼蔵抄を完成しようという大願を起こしたものであろう。

経豪は花山院家の一門、中将参議五述宜経の子であり、宜経の三子、経助・経乗・経豪はいずれも出家しているが、経豪は叡山において法印位に任せられたことが知られる(尊卑分脈六)。法印大和尚位は僧綱位階の最上級であって、経豪が若年にしてこれを得たとは信ずることができないから、大久保道舟氏の指摘するように、経豪が道元禅師の椅子下にあつて、正法眼蔵提唱を聴聞したという伝承は年齢的にいって疑わしいものである。御抄の中で、経豪が先師といっているのは詮慧のことであつて、道元褝師に対しては開山(画餅・嗣書・法性・有時・看経)または永平寺和尚(諸悪莫作)という間接的表現を用いていることは、これを裏書きするものである。この点、大久保道舟氏は「経豪はもしかしたら褝師とは全然面識がなかったのではないかとさえ考える」(道元褝師伝の研究。二八二頁)と主張している。私はこの大久保氏の推定をさらに一歩進めて、次のように推定している。経豪が御抄を完成した際、その校閲を仰いだ実智房は恐らく詮慧が聞書をまとめるために校合した寂光と同一人であろう。寂光は道元褝師について正法限蔵を聴聞し、後に永興寺に投じて詮慧と互いにその聞書を校合した正法眼蔵についての久参の人であるから、経豪が御抄の校閲を請うにふさわしい人である。この校閲者実智房寂光の伝が混雑して、詮慧が禅師の椅子下にあって正法眼蔵聴聞したという伝説を生んたのであろう。この推定は、永興寺に関する古文献が発見されない限り、これを裏付ける資料を欠くから、単なる推定に留まるのである(3) が、私は上のように解するのが自然であると思う。

延慶元年、正法眼蔵抄を完成した経豪は、続いて翌二年 (一三〇九)梵網経略抄の註疏を完成している。梵網経略抄の奥書には、次のように記されている。

延慶二年六月十六日、梵網経抄物功了。此十戒四十八経、乃至懺悔仏供養等詞一一先師上人説也。更不交余詞仰可信者也。其質不肖而頑魯雖拙、依宿縁深、今逢知識而見聞此極理。宿殖般若之善種非可疑。尤有憑可歓喜。可随喜可随喜。

 

経豪がここに「一一先師上人説也。更不交余詞。仰可信者也」という先師とは、その師詮慧のことである(大久保氏前出書三七二頁。永久氏前出論文)。従って、梵網経略抄は詮慧の梵網経に関する註疏を、資の経豪が編述したものであって、道元褝師撰とされる教授戒文はこの梵網経略抄の中に見出されるものである。

上に述べたように、正法眼蔵抄は経豪が永興寺において乾元二年より延慶元年に至る前後六年を費して、正法眼蔵に始めて註疏を試みたものであるが、永興寺においては経豪以後においても、なお正法眼蔵に対する研究が続けられたもののようである。それは御抄の中に、後人の追補が見られることによって知られるのである。

正法眼蔵菩提分法抄の巻の中間には、次のような後人の識語が見られる。

仏浴浴仏将錯就錯也。将錯就錯は唯仏与仏なり。故調浴仏之儀、可述清浄之思云云。是は於永興寺被行上堂之時、故上人上堂詞也。

 

ここにいう故上人とは誰を指すか明らかでないが、御抄の中で経豪が聖人といっているのは実智房のことであるから、ここの上人も実智房を指すとすれば、実智房は詮慧に次いで永興寺第二世を董した人であり、この追補の記事は御抄完成後、永興寺一門の人によって追記されたものであろう。然し、経豪が実智房に次いで永興寺第三代の住持となったかどうかは、これを確かめる資料がない。

また、正法眼蔵画餅抄の細注には、次のような文字が見られる。

一老一不老は古き詞也。柱杖竹箆のあはひを一老一不老と云也。又仏与 祖あはひを、一老一不老と云べきか。老の上の不老なるべし。修竹与芭蕉のあはひをも、一老一不老と云べし(老の上の不老とあり。この外老と不老との義もあり。是は、水興寺第五世の御詞也)。

 

永興寺第五世の住持の名は明らかでない。延文一一年(一三五七)開版の義雲和尚語録には、「助縁奉行、比丘瑞雄維那。刊字奉行比丘等理蔵主」と並んで、「洛陽永興比丘宏心書字」という文字が見られるから、宏心という住持がいたことが知られるが、宏心が永興寺何世の住持であるかは知る由もない。いずれにしても、これらによって見れは、永興寺においては御抄完成後も、なお正法眼蔵の研究が行われていたことを証するのである。然し、永興寺は南北朝時代には、既に荒廃に帰していたもののようで、大智(一二九〇ー一三六六)の大智偈頌の中に、「礼永興開山塔」と題して次のような偈が示されている。

空堂只見緑苔封。法席無人補祖宗。満樹落花春過後、杜鵑啼血夕陽紅。

 

これによって見れば、永興寺は経豪が御抄を完成した五十年後にほとんど廃寺同然の状態に陥いったのであるが、御抄は上によって知られるように、第五世の時代の追補が見られ

るから、永興寺一門の正法眼蔵研究はその廃絶にいたるまで続けられたものであろう。それ故に、正法眼蔵御聞書抄は詮慧・経豪師資によって著わされたものであるが、それは、詮慧・経豪を代表とする永興寺一門の協同労作ともいえるものであり、一門によって道元褝師の正法眼蔵は絶えず研究され、御抄は修補増記されたのである。

上において、正法眼蔵抄成立の経緯を見てきたのであるが、ここに眼を転じて、御抄成立の本拠である永興寺をめぐる歴史的背景を一瞥して見よう。注意すべきことは、詮慧・経豪が道元褝師の門に投する前、その前身が叡山の学僧であったことである。このことは、永興寺および正法眼蔵抄の性格を考察するに重要な観点となるものである。道元禅師の門下が北越に住山した後、詮慧・経豪がひとり洛陽に留まることができたのは、二師が叡山と深い交渉をもった人であれはこそであり、永興寺の孤塁を守るには、叡山との密切な関係をもたなけれは存続できなかったに違いない。このことは、栄西(一一四一ー一二一五)によって建てられた建仁寺が褝の道場であるとともに、真言・止観兼修寺として叡山の別院であり(辻善之助氏。日本仏教史。中世篇之二。七四頁)、辨円(一二一二 ー一二八〇)によって建てられた東福寺が同じ性格の叡山の子院としてその存続が許された(同上一一〇頁)ことからいって、当然考えられることである。今、当時の永興寺をめぐる洛陽仏教会の雰囲気を、御抄が伝える一挿話によって窺って見よう。正法眼蔵行仏威儀抄には、次のような記事が見られる。

古も仏をかむし橛なんど云詞あり。故嵯峨の正信上人仏をかんし橛、殺仏なむど、開山説法の時被仰たりけるを聴聞して、あなくちをし、仏をかかる物に喩らる、禅宗をそろしきものかなとて落涙せられけり。此事を開山もれ聞て、あれほどに愚痴にて人に戒をさづけ被帰依事、不便の次第也。我もいや目ならば落涙しつべき事也と被仰けり。見解の黒白以之可準知。比興の物語也。

 

ここに伝えられている正信とは嵯峨二尊院の正信房湛空 (一一七六ー一二五三)のことである。正信はもと叡山の僧であったが後に法然の念仏門に帰し、法然上人行状絵図にも「嵯峨の正信房湛空は徳大寺の左大臣の孫、法眼円実の真弟大納言律師公全これなり云々」(第四十三)と見える人である。この正信の門に出た十地房覚空は正信の念仏を受けてこれを修しながら、後に辨円(この辨円についても御抄は関説している。後述)の門に参じて、ついに念仏門を捨てて禅に帰した人である。十地は念仏の道場であった六条御堂を禅院に改め万寿禅寺と称したが、万寿寺の開堂の儀が行われたのは詮慧の聞書成立に先立っこと二年、弘長元年(一二六一)のことである。この御抄が伝えている、法然門下の正信が深草道元禅師の門をたたいたという挿話が事実であるかどうかは明らかでないが、永興寺をめぐる新興諸宗派間の交渉を伝えるものとして興味深いものがある。この挿話の真偽はともあれ、当時の禅院は内実はともかく、表面は叡山の子院として、その存在を許されたのであり、従って叡山教学である日本天台とも深い交渉をもったのである。そのことは、栄西の弟子で、後に建仁寺七世の住持となった円琳が、円頓戒については叡山にも並ぶものがないほどの当時における学匠であったことによっても知られる。円琳は嘉禎三年(一二三七)菩薩戒義疏鈔六巻を撰しているが、この円琳についてさきに述べた万寿寺の十地は円頓戒を学んでいるのである。それ故に、詮慧・経豪が梵網経略抄の註疏を試みたということも、当時の禅院を支配していた円頓戒研究の風潮と没交渉なものではなく、これらとの関連の上において理解されるべきである。

 

  二

上述において、詮慧の正法眼蔵聞書およびこれを受け継いだ経豪の抄の成立の事情について述べたのであるが、次にこの正法眼蔵抄は道元禅師の正法眼蔵註釈としていかなる性格のものであるかについて考察して見よう。正法眼蔵抄の特色として挙げられるものは、 まず第一に詮慧・経豪が道元禅師の立場を宋朝禅および日本臨済禅と異るものとしてとらえたことであり、第二に道元禅師の正法眼蔵を日本天台の本覚門的教学の背景のもとに理解したことである。一般に宋朝禅並びにこれをそのまま伝えた日本臨済褝と道元禅師との相違は、始覚門的法門に対する本覚門的法門の相違であるとされる。始覚門的法門は因(事) より果(理) に向う従因向果の教えであるが、本覚門的法門とは果(理) より因(事) に向う従果向因の教えである。然るにこれが中国天台と日本天台とを分ける特質とされるのであるから、それは宋朝褝ないし日本臨済禅と道元禅師とを分ける特質に対応するものがあるのである。それ故に、道元禅師の立場を宋朝禅ないし日本臨済褝と区別した詮慧・経豪が、区別の拠りどころを日本天台の教学的背景に求めたことも、理の当然であって、正法眼蔵に見られるこの二つの特色は互いに表裏をなして御抄の一大特色をなしているのである。次に、それぞれの特質について窺って見よう。

まず、第一の特色について見るに、詮慧・経豪は道元禅師の立場を宋朝禅ないし日本臨済禅と異るものとしてとらえている。それでは道元褝師の立場はいかなる点において宋朝禅ないし日本臨済禅と異るか、御抄が挙けているものは、 その坐褝観であり、経典観である。道元禅師は宋朝禅に対しては、忌憚のない批判を加えているが、日本の臨済禅についてはこれをあらわに批判することを避けている。然るに御抄になると、褝師がその批判を避けた日本臨済禅がむしろ主たる批判の対象とされるのである。道元禅師は、宋朝禅の代表的禅将、大慧宗杲に対して口を極めてこれを非難攻撃しているが(自証三昧)、御抄はこれを釈して次のように述べている。

  近来禅僧と号する族、十之八九は皆宗杲の門流ならぬ希也。今趣を見ては定腹立歟。外見可恐可憚。但去の浅深解脱の有無更に私あらず。能々閑功夫一事也(自証三昧抄)

ここに 「近来禅僧と号する族」とは、日本の禅僧を指したのであって、御少は道元禅師が宗家である宋朝神に対して下した批判を、末流である日本臨済禅への批判ととったのである。

 

ここにおいて、御抄は当時宋朝禅を伝えた鎌倉禅を代表する蘭渓道隆(一二一三ー一二七八)と、京都禅を代表する円爾辨円(一二〇〇ー一二八〇)について次のように述べている。

当時明師東福長老聖一房は得旨後可坐禅とすすむ。建仁寺長老道隆禅師は、為得旨こそ坐をばすすむれ。得旨後は必坐を不可好云云。此事何も不当覚ゆ。其故は江西禅師、南嶽大恵褝師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐褝すとあり。是は得旨前とも後ともみえず。密受心印後とあれば、得旨後も坐禅之条無異儀。又作仏をも不図上は、旨を得むとて坐褝すべくは、助法の義なるべし。両様いづれも不当覚ゆ(坐禅儀抄 (4))

 

辨円も道隆も虎丘紹隆六世の法孫で、いずれも宋朝禅を伝えた当時の代表的禅将であるが、御抄は道元禅師の坐禅はこれらの宋朝禅直伝の坐禅とは異ると説くのである(5)。

御抄は日本の臨済褝を大慧の亜流と見るのであって(自証三昧抄)、大慧は公案功夫する看話禅の大成者であるから、従って御抄は道元禅師の坐禅がこのような看話禅と異ることを強調するのである。この公案を排することは、詮慧の聞書に、

 

世間にきこゆる褝僧をもはく、大疑の下に大吾ありとて、ただいたづらに疑居たれば大悟はついとして現成す。祖師の詞とも総て可心得物にてなし。ただ祖師の言句を額にかけて、 三五年も居たれとをしふ。此証拠に麻三斤、柏樹子等を引、甚不可然。又疑には大疑小疑あり。月与雪、花与雲、共色白きゆへに、何が月何が雪とうたがふ。これらは小疑なり、非大疑。墨与漆を黒き疑の証と云同事也。大疑は総て何とも不被心得麻三斤、柏樹子なむとを云と思。邪見の甚なり(道得聞書)

 

と示されているが、経豪の御抄もこれを受けて次のように述べている。

而近来の褝僧と称する族ら、只公案を額に懸て、疑いたればさとり来と多分云歟。今の義には違せり。不可用義也(大悟御抄)。近日天下に流布する禅、ただ祖師の公按を額にかけて、待証べしとをしふ。勘先達詞に、凡あたらざるもの也(菩提分法抄) 。

次に、経典観について見るに、御抄は道元褝師の立場はいわゆる教外別伝を唱える宋朝禅と異る立場であることを主張する。これについて、詮慧は聞書の中で、

今号禅宗輩、専我宗を謗するに似たり。経教仏説なれどもやがて説をば対機随情の説とて不用、我宗は言語を離るるゆへに、達磨西来不立文字と云て、不用不文字とら尋、直指人心見性成仏と云へはとて、只公按を額にかけて居よ、仏生は現前せむずる物そとをしふ(仏性聞書)

と述べている。経豪は師説を受けて、

近来の褝僧、宗門には不用言語故不随聖教、学問は教者の所為也。只坐禅して待悟する也、なむと云族多之歟。今儀には相違せり。是邪見なり(身心学道抄)

と述べている。これは道元禅師の正伝の仏法の立場はいわゆる教外別伝を唱える宋朝褝と異る立場であることを説くものであり、宋朝禅をそのまま伝えた日本臨済禅の立場と異ることを説くものである。

以上によって見れは、御抄の立場は道元禅師の立場を宋朝禅および日本臨済禅から揀別しようとする色調が濃厚場であることが窺われるのである。従って、もし道元禅師のや千葉を、如浄を通して相承した宋朝禅を基盤とせる日本的展開と規定することができれは、御抄の立場は日本的展開に重点をおいて道元神師をとらえた立場であって、この点、同じ道元禅師門下にあっても、道元禅師の立場を、基盤である宋朝褝に返す方向においてとらえた寂円(一二〇七ー一二九九)・義雲(一二五三ー一三三三)の立場と対極を成すものであろう(6)。

このように、道元禅師の立場が、宋朝禅および日本臨済禅と異る立場とされるとき、禅師をして日本的に展開させた思想的背景として、御抄が導入するものが日本天台の本覚法門の教学であることは、詮慧・経豪の修学経歴からいって当然のことである。従って、ここに道元禅師の正法眼蔵を理解するに日本天台の教学的背景をもってした御抄の第二の特質が示される。

道元禅師の正法眼蔵にもっとも多く引用されている経典は法華経であるから、褝師の立場が天台の教学と深い関連があることはいうまでもない。然し、正法眼蔵の引用文によって見る限り、禅師の立場は中国天台と結びつくのであって、日本天台と関連するものは見られないのである(拙稿。道元禅 帥と天台本覚法鬥ー法華経引用に関連してー宗学研究第二号)。然し、詮慧・経豪にいたると、中国天台の文献が引用されていることはいうまでもないが、 日本天台との結びつきが明らかに認められるのである。

正法眼蔵聞書の中には、しばしば詮慧の天台教学に関する造詣を示す言葉が見られる。例えば、詮慧は道元禅師が正法眼蔵即心是仏巻で「一心一切法一切法一心」と述べているのを釈して、次のように述べている。

一心一切法一切法一心と云。即心是仏の如此いはるるなり。天台なむどには此一心一切法一切法一心と云事、只是竪横義也。竪横共に不可也と嫌へば、いまの草子のきは、天台に所捨に似たり。然而竪横を立て、共に不可也と嫌は、将錯就錯と云事を習はざる故也。 一心一切法をはやがて、一心一切法とつけ、一切法一心をば一切法一心につくれば、不可と談すべき所なし。不可ときらはるる詞を、仏法の最極と習なり(即心是仏聞書)。

 

この意味は難解であるが、道元禅師の立場と天台の立場を会通したものであることは明らかである。聞書の中には、このような天台義をもって、正法眼蔵を釈している例がしはしは見られるのである。 正法眼蔵柏樹子聞書には、柏樹成仏を釈して次のように述べている。

天台に草木成仏と云ふ義、宗の大事にて談之。法相三論等には此義なし。抑草木成仏すやと云論義、天台儲之。先うちひらみて、成仏するかと二重に尋ぬる。答には発心修行をばまぬがれず。且は身長丈六、光明遍照と云ふ。時にこれ発心修行とこそきこゆる時に、此証拠にいだす也。但発心修行は、有情成仏にやくす。報身の方には成仏と云も、只人間の見をさす也。仍似無其詮。こなたには、やがて柏樹発心修行すと心得也。

 

このように、詮慧は天台義をもって道元禅師の正法眼蔵を釈しているが、注意すべきことは、 その天台義が日本天台の本覚門的立場であることである。詮慧は正法眼蔵看経聞書に、趙州の看転大蔵経を釈して次のように述べている。

天台の義に妙をたつと云へども、此上猶相対妙絶対妙と立て、相対妙をすてて絶対妙をとる。抑非待妙非絶妙ありなむや。然而天台釈妙と云許にては、相対も絶対も、ともに非本意。まして三妙の位をたてむこと不可然歟。ゆえに天台の義にもきこえず。但他門にこそ啖ぜね、此門にはなどかなからむ。全機と談ずるこそ、非待非絶なれ。

 

ここにいう相対妙、絶対妙とは天台の説く一乗開会思想における二つの対立した考え方であって、絶対妙とは開会された爾前諸経の外に法華一乗を立てるのではなくて、それがそのまま一乗であるとする考え方であり、相対妙とは開会された爾前諸経の上に法華一乗を立てるもので、法華一乗と爾前諸経との間に階位的差別を設ける考え方である。天台宗としては、円融開会という天台法華の特色を生かすには絶対妙を説かなけれはならないが、これをあまりに強調すると法華経は諸経が一乗であることを知らせる役割りだけのそれ自身影の薄い経となる。それ故に、法華経が諸経より優位であることを示す相対妙を説かなければならないが、これをあまりに強調すると法華経が諸経に相対するものとなり、円融開会という天台の特色が見失われることになる。それ故に、天台宗としては相対妙と絶対妙とは車の両輪のように、いずれも欠くことのできないものであり、いずれを主とするともいえないものであるが、日本天台の本覚門は絶対妙を主とし相対妙を従とする立場である(田村芳朗氏。日本天台における一乗開会の思想。印度学仏教学研究第七巻第二号)。 それ故に、詮慧が天

台の立場を「相対妙をすてて絶対妙をとる」と規定したことは、詮慧自身がかつて日本天台の本覚門的立場に身をおいていたことを示すものである。詮慧は道元禅師の立場は、相対妙、絶対妙を超えた非対非絶の立場と説くのであるが、それは詮慧においては絶対妙を徹底することによって達せられたものであろう。聞書に一貫して流れているあらゆる相対的なものを円融し開会する思想は詮慧のこのような日本天台の絶対妙思想の徹底として見られるのである。

 

詮慧はまた、道元禅師の戒を一戒光明金剛宝戒としてとらえているが、このことも詮慧の立場が天台の本覚門的立場であることを示している。詮慧は、

一戒光明金剛法戒と云程にこそ戒をも心得れ(摩訶般若聞書)

一戒光明金剛宝戒と云ふ(諸悪莫作聞書)

一一の戒の上に仏性義を立るなり。故一戒光明金剛宝戒なるべし (梵網経略抄)

 

と述べて、一戒光明金剛宝戒という言葉を用いているが、この言葉は最澄撰と伝えられる一心金剛戒体秘訣の中の用語であって(7)、詮慧がこれを用いていることは詮慧が日本天台の本覚門的立場の人であったことを裏書きするものである。

このように詮慧は、道元禅師の正法眼蔵を日本天台の本覚門的立場において理解しているが、詮慧の資、経豪がこれを受け継いた立場であることはいうまでもない。正法眼蔵光明

抄末尾には、次のような識語が見られる。

安然和尚此事を被釈には、善悪の法、定恵の二法をはなれたる事なし。即是道の言僻見なるべからずと云。自問自答せらるるには、三毒ともに道ならむには、何そ諸大乗には、さかりに此事をいましむるぞやと問。これを答するに、但除其執不除其法とあり。しかるを、同天台衆の輩も、その法を行せむもの、争共執をのぞくべきやと難す。ただし安然の御心地は、定恵の二法と心得ぬるをもて、除執とは可心得歟。但此門には執着とも不解、除執ともをしへず。不触事而知の如し。不対縁而照の如し。

 

この識語は経豪の識語であるかどうか疑わしいものがあり、後人の追補であると思われるが、いすれにしても永興寺一門と日本天台の本覚門との連りを示すものである。安然は真言密教の即身成仏説を天台宗義にとり入れて、受戒による即身成仏の義を立てた人であり、中古天台の本覚門的展開の源頭に立つ人であるが、安然の説が御抄末尾に誌されている ことは、永興寺一門の教学的背景が日本天台の本覚門であることを裏書きするものである。

上述によって見れば、詮慧・経豪の正法眼蔵御聞書抄が禅師の正法眼蔵を理解するに、日本天台の本覚門的背景をもってしたことは動かすことのできない事実である。それは道元褝師の思想の中に日本天台の本覚門的思想に対応するものがあって、詮慧・経豪のこのような解釈を容れるものがあるからであるが、間題は、詮慧・経豪は道元禅師の立場を解するに日本天台の本覚門的背景をもってしただけでなく、さらに道元褝師の思想を本覚門的に展開させたものがありはしないかということである。いい換えれは、道元禅師の思想と伝承されるものの中に、実は詮慧・経豪によって天台本覚門的に展開されたものが含まれていはしないか、ということである。この点の探求は微妙な問題を含むが、一例を挙げて見よう。

道元禅師は正法眼蔵出家・受戒に禅苑清規の 「既受声聞戒、応受菩薩戒。此入法之漸也」 という言葉を引用し、受戒巻ではこれを敷延して次のように述べている。

西天東地、仏祖相伝しきたれるところ、かならず入法の最初に受戒あり。戒をうけざれば、 いまだ諸仏の弟子にあらず、祖師の児孫にあらざるなり。

 

ここで問題は道元禅師の戒律観であって、もし褝師の立場が禅苑清規を受けた立場であれば、禅苑清規は優婆塞・沙弥・比丘・菩薩戒の大小兼受の立場であるから、それは単受菩薩戒の日本天台の円頓戒とは異るのである。それ故に、「入法の最初に受戒あり」という受戒の意味は禅苑清規に従えば優婆塞ないし沙弥戒の意味であるが、円頓戒に従えば単受菩薩戒であって、 褝師においてそれはいずれの意味であるかが問題となるのである。然るに、経豪はこれを次のように釈している。

大国には必先二百五十戒等の声聞戒をうけて後菩薩戒を受る也。日本にも出家の時の沙弥戒なむと云は此心地歟。然而必しも吾朝には毎度無此義歟。直受菩薩大戒なり(出家御抄)。

経豪は、道元褝師の「入法の最初に受戒あり」の受戒を「直受菩薩大戒」の意味に釈しているのである。従って経豪によれは、道元褝師の立場は単受菩薩戒の立場でなけれはならない。それ故、御抄による限り、道元褝師においては沙弥戒の先受は否定されているのである。然し、道元禅師には得度略作法一巻の撰述(一二三七)が伝えられ、それによれは、沙弥戒の先受が説かれている。従って、この書が偽撰であるとされれば経豪の説くところと一致するが、それが真撰であるとすれは、単受菩薩戒を主張する経豪の御抄の立場は、道元褝師そのままの立場ではなく、道元禅師の立場を日本天台的に展開した立場といわなければならない。この得度略作法の真偽論は、古くから宗門未決の問題(8)であって、今はこれに対して論定を下すことを避けるが、 これはただ一例を挙げただけであって、同様の間題は他にも見られるのである。従って 詮慧・経豪の立場が道元禅師の立場の天台本覚門的解釈に留まるものか、あるいはさらに褝師の立場を天台本覚門的に展開させたものがあるかということは、広い視野の下にさらに検討されなけれはならないのである。

 

1 御抄は影室ともいわれる。影室'といわれるのは、建徳年間(一三七〇~二)、峨山紹碩の法孫、無著妙融(一三三三ー一三九三)が御抄および梵網経略抄等を兵火より護るため、これを負うて洛陽より遠く故国の九州に赴き、天授元年(一三七五) 豊後に泉福寺を開いてこれを安置した。御抄は無著妙融寂後は、泉福寺の影室(開山堂)に秘蔵され、これがために御抄は影室本とも称されるのである。

2この奥書の記事を、聞書の奧書と見るか、御抄の奥書と見るかによって、奥書の「寂光と我と聞書」 の我が詮慧であるか、経豪であるか、見方の違いがでてくる。永久俊雄氏はこれを御抄の奥書ととり、我を経豪の意味にとるのであって (正法眼蔵抄の研究)、そこから氏の、御抄は詮慧の正法眼蔵提唱を経豪が聞書し、註釈したものであるという主張が生まれるのである。然し、私は大久保道舟氏(道元禅師伝の研究二七六頁)と同じく、これを聞書の奥書ととり、我を詮慧の意味に解する。もし、聞書が詮慧の提唱を経豪が聞書したものならは、経豪は自分の聞書に対して「此詞御聞書に被載之」(行仏威儀抄)というような敬称は用いないであろう。また、同一人が弘長三年(一一六三)聞書したものを、乾元二年(一三〇三)になって註釈に著手したのではその間の年数の距りがあり過ぎると思われる。

3詮慧の弟子は次の三人である(秀香譲状広福寺所蔵)。

詮慧ー【実智房・示真房・経豪】

4御抄の本文は曹洞宗全書本により、片仮名は平仮名に改め、訓点をつけた。然し、鴻盟社版御抄(註解全書本御抄はこれと同じ)と曹洞宗全書本御抄との間に相違が見られるのは何故であろうか。蘭渓と道隆についての本文記事についても、鴻盟社版御抄では坐禅儀抄の中に見られるが(鴻盟社版三四二頁)、曹洞宗全書本ではこれが光明抄末尾に収載されている (曹洞宗全書本三四八頁)。ちなみに、駒沢大学図書館には、岩波書店の好意によって同書店撮影の御抄の写真版が存するが、これは曹洞宗全書本と同じである。

5蘭渓道隆円爾辨円の坐褝観について御抄の述べていることは、道隆や辨円の遺著には見出されない (衛藤即応氏。正法眼蔵序説二一二頁。拙著。道元禅師とその門流一一三頁)。

6義雲のもとには、南浦紹明の法嗣、月堂宗規や中巌派の祖、中巌円月が参じている。 これら日本臨済禅の諸師が義雲のもとに投じたことは、義雲の思想の中にこれを受け入れる思想的共通基盤があったからであって、それは義雲の思想の中に師の寂円を通して宋朝禅の褝風に帰った一面が存することを示すものである。その意味で、同じ道元禅師門下でありながら、寂円・義雲の系統と詮慧・経豪の系統とは対極を成すものであろう。なお註8参照。

7一心金剛戒体秘訣は最澄撰とされるが、偽撰であって、その説くところはすべて本覚思想と見られている。書中いたるところに「可秘可秘」「可信可信」という口伝法門的思想が示されているといわれる(石田瑞磨氏。日本仏教における戒律の研究二三一頁。二三七頁)。詮慧・経豪がこの書の中の言葉を用いていることは、注意すべきことである。

8得度略作法は面山瑞方によって、道元禅師真撰として刊行されたが(一七四四)、これに対しては卍山の資、逆水洞流が得度或門辨儀章を著わして(一七六四)、面山の沙弥戒先受を攻撃している。逆水は、沙弥戒先受は道元褝師には存しないもので、これを取り入れた始めは義雲であると主張している。逆水はその論拠を示していないが、義雲は寂円の法嗣であるから、寂円から受けたものであろう。宋僧寂円においては沙弥戒の先受が存したことは疑いない。なお、大久保道舟氏は得度略作法を道元禅師の真撰として認めている(同氏著。道元褝師伝の研究三七一頁)。

 

これは駒澤大學佛敎學部硏究紀要 通号 22 (1964-03)からの

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂した。

『正法眼蔵抄』「諸悪莫作聞書」に関する問題について    倉 石 義 範

正法眼蔵抄』「諸悪莫作聞書」に関する問題について

倉 石 義 範

 

正法眼蔵』の最古の注釈書「正法眼蔵抄」の中に、「私云」を冠する注釈が見られる。 この形式をもっ注釈を含む巻を挙げると、仏性、諸悪莫作、説心説性、仏道、他心通のそ

れぞれの巻である。この中で、特に諸悪莫作の巻に於いて、「私云」を冠する注釈が頻出する。そこで、「諸悪莫作」の巻に限って、この「私云」と、これが導びく注釈とに関わる問題について論究したい。

問題となるのは、次の主要な四点である。

一、「私云」を冠する注釈と他の巻の注釈との内容的な関係について

二、「私云」を冠する注釈の形式について

三、「私云」と「奥書」等との関係について 、

四、「私」は誰かについて

従来、「諸悪莫作」 の巻に見られる「私云」に関して論述したものは、右の三と四の内容を説明するにとどまる。然も、三に関してはその解説に論理的矛盾を含んでいるように思わ

れ、四に関しては、この「私」が「経豪」であることについて疑問を持った論文がないことから、この両者の関係が固定して、他の推論に必要となる重大な根拠として用いられてい

る様に思われる。

しかし、この三四の問題は、一二 の問題をみていくことによって、従来、不明なままに保たれていた矛盾した関係や論拠のないまま定まった位地を持つようになった説が、一挙に崩壊して、新たな立場から見直されなければならないことになろう。以下、それぞれの点を詳述することによって、それを証明したい。

 

一についての問題

「諸悪莫作聞書」の中に見られる「私云」を冠する注釈は、内容的に他の全巻の「経豪抄」並びに 「聞書抄」と如何なる関係にあるのであろうか。もし「諸悪莫作聞書」の「私云」

を冠する注釈の内容と類似する注釈が、他の巻中にみられるならば、この両者を比較検討する価値があろう。なぜならば、両者の注釈の内容的類似点を見い出すことによって、両者の注釈は同種のものであろうという推論が成り立ち、これが、その両者のうちの一方の注釈である「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈のもつ「私」とは誰かということを考える時、 より広く客観的立場からこれを見ることを可能にするからである。そこで 「諸悪莫作聞書」 の「私云」を冠する注釈と他の全巻の注釈とを比較してみよう。

 

  • 諸悪莫作聞書(『曹全』注解一、六六五頁)

私云(中略)十界互ニ具ト云へドモ、一界ニノコリノ九界サレバトテアラハレズ、人界ノ時、仏界モ地獄界モアラハレズ、成仏スレバ仏界、堕獄スレバ地獄界也

仏教聞書(同注解一、 七二六頁)

十界互ニ具足スレドモ、一界ト面立テ、九界具足スルユエニ、或時ハ地獄界ト成テ、余ノ九界ハ被具足、或時ハ仏界面成テ、余ノ九界被具足、如此ナルヲ具足トツカフ

  • 諸悪莫作聞書(同注解一、 六七〇頁)

私云(中略)袈裟モキルモノノ類ト心得テ絹ゾ布ゾト論ズ、返返不可然、絹ニテモアレ、布ニテモアレ、其事ヲバ不論、仏衣ト可心得、糞掃ト心得べシ、莫作モ糞掃等トナルべシ

即心是仏聞書(同注解一、一五一頁)

袈裟ヲ云時ハ、絹布帛等ノ論アラズ、只仏衣ゾ袈裟ゾト云ガ如ク心得べシ

伝衣聞書(同注解一、六九一頁)

此伝衣ノ本意ハ、仏衣ナルユへニ、絹布帛ゴトキノ見ヲ解脱スベキ也、更絹ハ罪業、布ハ浄シナムト云論ニハ不可及、(中略)袈裟ヲ仏衣ト云フ、解脱服ゾナムト云フ、マヅ袈裟ノ体ヲ絹布帛ナムトノ類ニ思ハ仏衣ニアラズ解脱トイヒガタシ

家常聞書(同注解二、 三三〇頁)

袈裟ヲモ仏衣トコソ習へ、布絹綿等ノ論ニハ非也

菩提心聞書(同注解二、四二六頁)

袈裟ヲ云ニモ絹布綿等ノ論アラズ

鉢盂聞書(注解二、 五一七頁)

但仏法大意ハ尤袈裟絹布ノ論不可有

 ③諸悪莫作聞書(同注解一、六八四頁)

私云(中略)止観相待義似於別ト云テ、天台ノ名目也、コノ字ヲバ両様ニ心得也、義似於別ハ、別教ノ心ニ似タリトイフ ヤガテ別教ノ心ナリトモイフ、又似リト云ハ円教ニ似タリトイフト論ズル也

三十七品菩提分法聞書(同注解二、三七二頁)

天台ノ論義ニモ義似於別ナムト云テ、別教ノ心ヲ似タリトコソ云へドモイフ、又似タリトハヤガテ別教ヲサシテコソ云へドモ論ズル也

➃諸悪莫作聞書(同注解一、六五五頁)

ツクルベキ諸悪ノアルヲツクル事ナカレト云ニテハアラズ、大海ヲトクトキ、不宿死屍ト云フガ如シ、死屍ハナケレドモ大海不宿死屍ノ道理アリ

仏性聞書(同注解一、七二頁)

大海不宿死屍ト云フ詞アリ、是ヲ心得モ死屍ノアルニテハナシ、タダ大海トトク詞ニハ不宿死屍トカナラズイフ也、 コノ定ニ今ノ我慢モアルべシ

仏性聞書(同、八六頁)

謗仏法僧ノ謗(大海不宿死屍ノホドニ心得ペシ、 コノ謗、世間ニイフ謗ニアラズ大海ニ死屍ナケレドモ、大海ニハ不宿死屍ト云ガ如也

無情説法聞書(同注解二、一六六頁)

大海不宿死屍ナムト云モ、大海ノスガタ許ヲコソトケ、死屍ノ様ヲ・ハ不解、然而大海不宿死屍トイヒッケタルナレ

⑤諸悪莫作聞書(同注解一、六五六頁)

戒ハ制止ト云へ・ハ、諸悪ノックラレヌベキヲ、 セイシテ莫作ト云ニ似タレドモ、然ルニハアラザルべシ、諸悪ヲ別ニ置テ莫作ト制スルニテハナシ、ヤガテ諸悪ガ莫作ナル也

山水経聞書(同注解一、六一五頁)

諸悪莫作ト云トキモ、諸悪ハ只莫作トコソ談ズレ、悪ト云事ヲ置テ莫作トイマシメタルニ非、今ノ莫謗如来ノ莫ノ字如此ナルべシ (筆者傍点線)

これを見て明らかなことは、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈、あるいは、そう思われる注釈④⑤は、内容的に他の巻の 「聞書抄」に相当するのである。すなわち、「諸悪莫作聞書」の「私云」に導かれる注釈は、他の巻の「聞書抄」の注釈と、その比較に於いて見る限り、同内容同種のものである。(但し、②④などは内容的に異なる筈はないが、その説き方に注目した)このことは、「正法眼蔵聞書抄」は、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈を含めて、同一人によって書かれたものであることを意味する。

このことを決定づけるものとして、 右の③の例を挙けることが出来る。 注目すべきは、 この例で、「諸悪莫作聞書」と「三十七品菩提分法聞書」の両者が、「天台」という名目を挙げて、「天台的事柄」を述べているということである。このように、「聞書抄」全体に於いて、 右同様の例をみると実に多いことがわかる。しかし、「経豪抄」に於いて、「天台」の名目を挙げて 「天台的事柄」が述べられる例は皆無である。このことは、 明らかに「諸悪莫作聞書」の 「私云」を冠する注釈は、他の巻の「聞書抄」と同種のものであることを示しているといえよう。

 

二についての問題

「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈の仕方に関する形式的な面をみてみたい。注意する点は二点ある。第一は、題目の注釈の仕方について、第二は、「諸悪莫作聞書」だけを見た場合の「私云」に導かれる注釈と「聞云」を冠する注釈との関係についてである。

第一点について述べる理由は、「諸悪莫作聞書」の題目の注釈から始める注釈の仕方は、他の巻の冒頭の注釈方法と比較検討すると、「聞書抄」のそれに類似することに気づくからである。このことは、「諸悪莫作聞書」の冒頭部分が「私云」を冠する注釈から始まっていることから、これと「聞書抄」とは、やはり同種の注釈であると推定されるのである。

これを述べる根拠を簡単に列挙してみると、次の如くである。

  • 題目の注釈から始まっている巻は、「聞書抄」が三十六巻、「経豪抄」は二十四巻である。

②「聞書抄」には、題目の注釈に関して、自問自答の形で注釈することがある しかし、「経豪抄」には、この様な例はない。ところが「諸悪莫作聞書」では、「私云、名目ヲ諸悪莫作ト云心如何、 云云」とある様に、自問し、更に、「実ニハ悪莫作ノ道理ガ、ヒビキテ衆善奉行トモ、自浄其意トモ、 是諸仏教トモイハルル時ニ尤諸悪莫作ト可付モノナリ」と自答して、題目の解説をしている。

➂その他、「聞書抄」全体の題目の注釈の仕方をみるに、現成公案、即心是仏、夢中説夢、春秋などにみられる様に、非常に具体的で丁寧な解説をしている。特に、題目そのものが、仏法究尽の道理を語るものであることを強調し、詳細にこれを説いている。この様な注釈は、「諸悪莫作聞書」の注釈と酷似するものである。

 

さて、第二点について述べるのは、「諸悪莫作聞書」の中に見られる「聞云」「私云」 を冠する両者の注釈の相関関係についてである。これは、最初の主要な問題点として挙げた➂

「私云」と奥書等との関係についての問題を述べる時の論拠として用いるために証明しようとするものである。

そこで、「諸悪莫作聞書」に見られる「聞云」「私云」を冠する注釈の相関関係を調べて、 これを整理してみると次のことが言える。

第一に、「私云」に導かれる注釈は、「聞云」 の注釈について、更に部分的に解説するために、「聞云」 の注釈の後に付加された再注釈であるということ。

第二に、「私云」 に導かれる注釈は、「聞云」の「正法眼蔵」の本文に関する注釈では不足なところを補なうために付加された注釈であるということ。

右の二点のことは、必ずしも「諸悪莫作聞書」の全般に亘って言えるわけではないが、大部分がこの形式をとって書かれたものであると言っても過言ではなかろう。ここで注意しなければならないのは、以下の例に示すように、「聞云」「私云」 の両者の注釈は、「聞書」(ききがき)とは呼ばれても、明らかに同時点で書かれたものではないということである。

「聞云」の注釈が先に在ったところへ 「私云」 の注釈が後に書き加えられたのである。このように 「付け加えられた註釈」をも「御抄」に於いては 「聞書」と呼んでいるのである。それ故無論、「聞書」が、全て何人かの提撕したものを書き留めたものであるということは出来ない。そこで、 それを証明する例を次に挙げておこう。

 

第一の例(紙数の都合上、一例のみ挙ぐ)

  • 聞云、祖宗ト云ハ、七仏ノミニアラズ、以前以後ニモ通ズベシ (中略)今ノ心ハシカアラズ仏ニ通別ノ法ナシ通別ハ仏ノ法ナリ

私云通別ハ仏ノ法也ト云フ、通別ハ諸悪莫作ヲ通トモ別トモ仕べシ (中略)仏ニ通別ノ法ナシト云ハ能所彼是ノ差別ヲヲイテ通ト云ヒ別ト云フ也、(筆者傍線)(注解一、六五四頁)

第二の例(紙数の都合上、一例のみ挙ぐ)

  • シカアレバ莫作ニアラバツクラマジト趣向スルハ、アユミヲ北ニシテ越ニイタラムトマタムガ如シ (眼蔵原文)

聞云、別ノ心ナシ

私云、 ツクラマジト云詞ハ、ツクラムト云心地ナリ、邪見ヲサスナリ、悪無礙ノ見ナリ、(注解一、六七一頁)(筆者傍線)

 

三についての問題

これまで述べてきたことは、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈は、内容的にも形式的にも、「聞書抄」と同種のものであるから、この「私」とは、全巻の「聞書抄」を著わした人物であって経豪ではないということと、この「私」が「諸悪莫作聞書」の中でした注釈の方法は、「聞云」の注釈に対する付加的注釈法であるということであった。いま、後者 のことを受けて、この「私」と「諸悪莫作聞書」の奥書に見える次の「我」「予」「菩薩比丘」との関係をみようとするのである。ー寂光与我聞書之上、加予聞書詞也、可取捨者也 菩薩比丘—、この奥書に見える三者は同一人物とみてよいと思うが、 問題は、 この三者と「私」との関係を解く鍵を、この奥書の文面のどこに見い出すかにある。その答は、「加予聞書詞」

であると思う。このことばの内容は、「諸悪莫作聞書」全体を読んでみると、先に二で述べたように、「私云」の注釈は「聞云」 の注釈に付け加えた詞であるという意味にしか理解出来ない。 これ以外に、奥書と本文との関係をより適確にみることは出来ない。それ故、この「予」をも含む奥書の三者は、「諸悪莫作聞書」 の本文に於ける「私」と同一人物であるということがわかる。而もこの「私」は、一二によって、「聞書抄」 を著わした人であることが明らかになっている。それでは、この「私」(予、我、 菩薩比丘) とは誰なのかを最後にみてみたい。

 

四についての問題

従来、「諸悪莫作聞書」中の「私云」の「私」は経豪であるとするのに異論をはさむ者はなかった。その理由はわからないが、以上の様に見ると、それは経豪では有り得ない。結論を言えば、この「私」は、「聞書抄」 を著わした詮慧であると考えられる。その理由をまとめて述べると次の如くである。

まず、「聞書抄」を著わしたのが、詮慧であることは、経豪が「御抄」 の奥書に 「傍書載本願御聞書詞、所仰証明也」と述べていることから明らかである。「本願」とは、「(永興寺) 開山」すなわち詮慧のことだからである。ところで、先に述べた様に、この「聞書抄」と全く内容的にも形式的にも等しい注釈としてみられたのが、「諸悪莫作聞書」の中の「私云」を冠する注釈なのであった。逆に言えば、「諸悪莫作聞書」の「私云」を冠する注釈とその性格を等しくするものが、詮慧の書いた「聞書抄」なのである。それ故、「諸悪莫作聞書」の中に見られる 「私」は、詮慧である。更に、この「私」(予・我 ・菩薩比丘)=詮慧という関係を、「諸悪莫作聞書」の奥書 (前出)に当てはめて考えると、結局、「諸悪莫作聞書」を著わしたのは、詮慧と寂光の二人であって、経豪は無関係なのである。                 (註 略)

 

これは駒沢大学仏教学部論集 通号 6(1975-10)『正法眼蔵抄』「諸悪莫作聞書」に関する問題についてのpdf資料をワード化したものであり、一部修訂した。