正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十 柏樹子 (聞書・抄)

 詮慧・経豪 正法眼蔵第四十 柏樹子 (聞書・抄)

趙州真際大師は、釈迦如来より第三十七世なり。六十一歳にしてはじめて發心し、いへをいでて学道す。このときちかひていはく、たとひ百歳なりとも、われよりもおとれらんは、われかれををしふべし。たとひ七歳なりとも、われよりもすぐれば、われかれにとふべし。恁麼ちかひて、南方へ雲遊す。道をとぶらひゆくちなみに、南泉にいたりて、願和尚を礼拝す。ちなみに南泉もとより方丈内にありて臥せるついでに、師、来参するにすなはちとふ、近離什麼処。師いはく、瑞像院。南泉いはく、還見瑞像麼。師いはく、瑞像即不見、即見臥如来。ときに南泉いましに起してとふ、你はこれ有主沙弥なりや、無主沙弥なりや。師、対していはく、有主沙弥。南泉いはく、那箇是你主。師いはく、孟春猶寒、伏惟和尚尊体、起居万福。南泉すなはち維那をよびていはく、此沙弥別処安排。かくのごとくして南泉に寓直し、さらに余方にゆかず。辦道功夫すること三十年なり。寸陰をむなしくせず、雑用あることなし。つひに伝道受業よりのち、趙州の観音院に住することも又三十年なり。その住持の事形、つねの諸方にひとしからず。或時いはく、烟火徒労望四隣、饅頭追子前年別。今日思量空嚥津、持念少、嗟歎頻。一百家中無善人、来者祗道覓茶喫、不得茶噇去又嗔。あはれむべし、烟火まれなり、一味すくなし。雑味は前年よりあはず。

詮慧

〇「還見瑞像麼」と云う(南泉院願和尚事也、南嶽馬祖普願禅師)、是は「近離什麼処」と云う、「瑞像院(趙州住院の所也)と答う。次に南泉「見瑞像麼」と云う。たとえば仏法をば知るやとも、又瑞像院には伝法すやとも云う心地也。

〇「即見臥如来(南泉事也)」、瑞像を見るやと云う、返事には「即不見」と云いて、やがて「即見臥如来」と云う。いま臥如来と云うは、南泉の臥したるを「即見臥如来」と云う(は)、此事不審也。住院の趙州なんぞ不見瑞像哉。「不見」と云うは、もし不伝法と云う心歟、然者只今初めて来たる南泉を、やがて即見臥如来と云うべき道理なし。所詮仏法は見不見に拘わるまじき道理を説くが、趙州は参学三十年、得道の時刻又三十年也。しかれば初参の時、やがて悟道とは許し難けれども、趙州程の祖師なれば、入学の初めも、如何でか其の心なからん。又唐土の風俗なれば、仏法の見不見に拘わらぬ道理も聞かざるにあらずとも謂いつべし。

〇「有主沙弥か、無主沙弥か」と云う、沙弥の程は有本師、仍「有主」と云うべし。但又無師沙弥もあるべし。ゆえに有無を付けて問う。打ち任せては有りとも無しともぞ答すべきに。「孟春猶寒、伏惟和尚尊体」と云うは、やがて南泉を指して主と云う心地なり。此の問答も不打任、世の常の待つ弟子になるべき善しを示して、南泉領状の後には、有主とも云うべきに、無左右不知許否、「有主沙弥」と号する事(は)、不似世間法なり。然而南泉重ねて不問、「維那を呼んで、この沙弥の別処を安排」畢。(いまは趙州の本師(を)南泉と必定すべし、仍有主なり)

〇「烟火徒労望四隣」と云うよりは、是趙州の行操なり。

〇「一百家」と云う、別其数一定「百」と数うるにあらず、ただ世間を云う也。

経豪

  • 是の段は只趙州讃嘆許也。無殊子細、具于文。「南泉願和尚」と云うは、南嶽(677―744・注)弟子に馬祖道一(709―788・注)禅師、其弟子願和尚(748―834・注)、趙州(778―897・注)は此弟子也。師与趙州問答如文。

趙州は六十一(歳に)発心出家之後、百歳也とも、われよりも劣れらんは、われ彼を教うべし。たとい七歳也とも、、それよりも勝れば、われ彼に問うべしと誓いて、南方へ雲遊す。道を訪(とぶら)い行くとあれば、仏法は未だ未学の人とこそ思うに、今「即不見、即見臥如来」の詞、又「孟春猶寒、伏惟和尚尊体、起居万福」の詞を聞く時は、有子細と覚えたり。如何、已下如文。

 

一百家人きたれば茶をもとむ。茶をもとめざるはきたらず。将来茶人は一百家人にあらざらん。これ見賢の雲水ありとも、思斉の龍象なからん。

経豪

  • 一百家人無善人、皆覓茶来るとあれば、「将来茶人は一百家人の無善人と云わるる人にあらざらんや」と、先師(の)御詞也。又「見賢は思斉」と云う詞、世間に云い習わしたり。其詞を取りて、「見賢雲水はありとも」、彼(の)行状のように行ぜんと思う人なからんと有る也。

 

あるときまたいはく、思量天下出家人、似我住持能有幾。土榻床、破蘆廃、老楡木枕全無被。

尊像不焼安息香、灰裏唯聞牛糞気。これらの道得をもて、院門の潔白しりぬべし。いまこの蹤跡を学習すべし。僧衆おほからず、不満二十衆といふは、よくすることのかたきによりてなり。僧堂おほきならず、前架後架なし。夜間は燈光あらず、冬天は炭火なし。あはれむべき老後の生涯といひぬべし。古仏の操行、それかくのごとし。あるとき、連状のあしのをれたりけるに、燼木をなはにてゆひつけて年月をふるに、知事、つくりかへんと報ずるに、師、ゆるさざりけり。希代の勝躅なり。よのつねには、解斎粥米全無粒、空対閑窓与隙塵なり。あるいはこのみをひろひて、僧衆もわが身も、茶飯の日用に活計す。いまの晩進、この操行を讚頌する、師の操行におよばざれども、慕古を心術とするなり。あるとき、衆にしめしていはく、われ南方にありしこと三十年、ひとすぢに坐禅す。なんだち諸人、この一段大事をえんとおもはば、究理坐禅してみるべし。三年五年、二十年三十年せんに、道をえずといはば、老僧が頭をとりて、杓につくりて小便をくむべし。かくのごとくちかひける。まことに坐禅辦道は、仏道の直路なり、究理坐看すべし。のちに人いはく、趙州古仏なり。

経豪

  • 「土榻床」とは、土にて作りたる踏まえ榻風情物か。「破蘆廃」とは敷き物、蘆風情にて作りたる体物を云う也。「尊像」には尤も安息香などを焚くべきに其もなし。「灰裏」には炭薪などは無くて、牛糞などの有る事を書かれたるなり。只至りて貧しき姿、幽(かす)かなる行状の様を被明也。凡そ仏祖の行状不一片、大証国師などは、車に乗りて禁中を出入し、あやまりて国土みづから引車などせられたりけり。法常禅師は、荷葉を衣とし松実を食として、不及結一衆、只山奥に居したり祖師もあり。今の趙州(も)又殊(に)華美を不好、如此潔白に被行道、希代(の)事也。其次第見于文。

 

大師因有僧問、如何是祖師西来意。師云、庭前伯樹子。僧曰、和尚莫以境示人。師云、吾不以境示人。僧云、如何是祖師西来意。師云、庭前伯樹子。この一則公案は、趙州より起首せりといへども、必竟じて諸仏の渾身に作家しきたれるところなり。たれかこれ主人公なり。

詮慧 祖師西来意段・・庭前伯樹子

〇「如何是祖師西来意」と問うて、専心を致す事不審也。六根ともに説法あり、何ぞ必ずしも専心をのみ致すや。心と境とを立つるに品々あり。或いは心は境に依りて立つと云う。前念後念皆散る、これ小乗に談ずる刹那生滅なるべし、是小乗の至極也。大乗には心を常住也と云う。或いは禅僧は又心を常住と取る事は、境こそ転ずれ。心は無去来の法也と云う、又無念の所を心と云う。故に種々の境に対して、念々相替えてと云う。又心より諸法は生ずと云い方あり、又以心為能、依境生心と云う。此の両様(は)何を可用哉。又両様を不棄儀ありや、今以趙州(の)詞(を)了見するに、不可棄両方也。

〇人の心は所見法に付けて善悪を定む。一心万法、万法一心と云うも、万法の外一心なし。尽十方界を心と云うも、身と云うも、皆祖師の活計也。必ず心と計り云うべからず。

〇初めは心を本にて柏樹を指す歟。但以境人に示す事なかれと云う。

〇汝得吾皮肉骨髄と云うと、心不可得と云う法と(は)相違して聞こゆ。如何が可心得合哉。「初祖の意」は、我と趙州と只同時なるべし。柏樹子に、祖師も趙州も僧も蔵身す、諸法悉く柏樹子の蔵身なり。

〇万句は皆吾以境不示人なり。「如何是祖師意」と云うは、皆柏樹子なり。吾は不添吾也。吾以境不示人と云うは、吾以皮肉骨髄不示人と云うなり。

〇都て境を置いて談ぜんまでは、不可為仏法。境を眼に対し声を耳に対し、香を鼻に対し、味を舌に対し、などとせんは世間の法也。今(の)「庭前伯樹子」の詞(は)、如僧疑、実にも境と聞こゆ。又師の以境人に不示と云う時は、三界唯心ぞ、諸法実相ぞ、仏心牆壁瓦礫・日月星辰・山河大地等の道理あれば、庭前の柏樹子も其の一也。何ぞ祖師意ならざらんとぞ云いぬべけれども、如此云わんは、又猶仏法にはあらず。「柏樹を指して祖師意」と師の道あるは、やがて祖師意也、非境。又柏樹を祖意と取るべし。祖師意と云わん時は、柏樹蔵身すべき也。しかあれば、柏樹を祖意と等しきぞ、等しからぬぞ。境を不境とも論ずる事なかれと心得なり。

〇「たれかこれ主人公なり」と云う、「誰か」と云う彼の字には、終りの「なり」の字は、かき合わぬように聞こゆれども、能々案之に、道理相応す。「此の一則公案は、趙州より起首せりと云えども、必竟じて諸仏の渾身に作家しきたれる所也」とあり、故に何れを主人公と定むべきならぬ所を云う也。此の心には、尤も「たれかこれ主人公也」と云うべき也。趙州を本として、諸仏を末とすべからざる所を、「たれかこれ主人公」とは云わるる也。所詮誰も見んあ主人公の道理なるべし。

経豪

  • 公案多けれども、狗子無仏性、今の「庭前伯樹子」などと、尋常にも出会うぞ公案也。今の如御釈、「趙州より起首せりと云えども、実にも諸仏の渾身に作家しきたれる所也」。趙州の道なりとやすべき、諸仏の道なりと云うべき。定まれる主なき所を、「主人公也」とは云う也。

 

いましるべき道理は、庭前伯樹子、これ境にあらざる宗旨なり。祖師西来意、これ境にあらざる宗旨なり。伯樹子、これ自己にあらざる宗旨なり。和尚莫以境示人なるがゆゑに。吾不以境示人なるがゆゑに。

詮慧

〇「伯樹子これ自己にあらざる宗旨也」と云うは、此の自己なになるべきぞ、不可付柏樹。又不可付祖意、ただこれ不触事の自己と可心得なり。

〇「和尚莫以境示人なるがゆえに、吾不以境示人なるがゆえに」、清浄本然云何忽生山河大地と問するに、やがて清浄本然云何忽生山河大地と答する程の、是は問答也。又諸仏如来以妄想莫示人と云わんに、然者以妄想不示人と云わんが如し。

経豪

  • 此の公案を可心得ようは、先(の)祖師西来意は如何にと不審して、問いたるにあらず。然者今の「庭前伯樹子」の詞、又非答。只所詮師与僧、或いは西来意の道理を述べ、或いは庭前柏樹子の道理を述べたるなり。是を重ねて僧の詞に、和尚以境人に示す事なかれと云えば、心境相対して、打ち任すは談ずるを、今は心をこそ云うべきに、「庭前柏樹子」と被示れば、境也と心得て、此の詞を被嫌たるに似たり。是又非爾、西来意も庭前柏樹子も僧も和尚も境も吾も人も、只各々の法の独立也と可心得。只一物なるべし。努々(ゆめゆめ)取捨の詞と不可心得。祖師西来意と談ぜん時は、庭前柏樹子もあるべからず。庭前柏樹子の時は、祖師西来意も境も和尚も吾も人も不可有。只此の西来意、庭前柏樹子、和尚、僧、境、人、吾等の詞を、各一物づつ独立して談ずと可心得也。猶「境にては示さず」などと云えば、取捨の法にも取り違えぬべし。只「庭前柏樹子」と云う時は、庭前柏樹子にて、心ぞ境ぞ、人に示すぞ不示ぞと云う義あるべからず。庭前柏樹子なるべし。「祖師西来意」も、又如此。又「境」と云わん時は、境の外に無余物、ゆえに「莫示人」とも云わるる也。「吾不以境示人」と云う、吾も吾と談ずる時、吾(の)外に余物なし。ゆえに吾不以境示人と云う詞も云わるる也。只此の詞共一法一法の究尽となるべき也。能々可了見事也。所詮今の「庭前柏樹子」の詞は、三世諸仏・六代祖師等を指して、庭前柏樹子と云うと心得也。又「庭前柏樹子、境に非ざる宗旨なり」と云う、尤も謂いあり。祖師西来意は只祖師西来意也、不可有。此の道理が、「和尚莫以境示人とも、吾不以境示人」とも云わるべきなり。

 

いづれの和尚か和尚にさへられん。さへられずは、吾なるべし。いづれの吾か吾にさへられん。たとひさへらるとも、人なるべし。いづれの境か西来意に罣礙せられざらん。境はかならず西来意なるべきがゆゑに。しかあれども、西来意の境をもちて相待せるにあらず。祖師西来意かならずしも正法眼蔵涅槃妙心にあらざるなり。不是心なり、不是仏なり、不是物なり。

詮慧

〇「いづれの和尚か和尚に礙えられん。礙えられずは、吾なるべし。いづれの吾か吾に礙えられん。たとい礙えらるとも人なるべし。いづれの境か西来意に罣礙せられざらん。境はかならず西来意なるべきがゆえに。しかあれども、西来意の境を以て相待せるにあらず。祖師西来意必ずしも正法眼蔵涅槃妙心にあらざる也。不是心なり、不是仏なり、不是物なり」と云う、和尚莫以境示人と云う、吾不以境示人と云う(は)、和尚が和尚に礙えられんと云う「和尚」と吾不以境示人と云う「吾」とを、共に「和尚」と指す也。「礙えられずは吾也、吾が吾に礙えられん、たとい礙えらるとも人なるべし」と云う、「和尚」と「吾」と「人」と(は)只一と心得也。この莫以境示人の「莫」の字は、『仏性』の時の莫妄想の「莫」と、『諸悪莫作』の時の「莫作」とに習うべし。所詮祖意と境との様を、脱落しぬる時は、「境」と云わんは計りなし。「祖師意と正法眼蔵涅槃妙心」とは一なるべしと聞こゆるを、「祖師必ずしも正法眼蔵涅槃妙心なるべからず」と云うにて、柏樹子の境不境の義も可心得。所結は「不是心、不是仏、不是物」なるなり。

経豪

  • 和尚の姿(を)二人(と)不可相対上は、実(に)「和尚か和尚に礙えられざる」道理顕然也。「礙えられず」と云う道理は、又「吾なるべし、いづれの吾か吾に礙えられん」と云うは、ただ前の和尚か和尚に礙えられぬ道理なるべし。「たとい礙えらるとも人なるべし」とは、礙えらると云う道理ありとも人也とは、「吾」と「人」と同物なるゆえに、如此云わるるなり。今の「和尚と吾」と、「西来意と境と人」と(は)、ただ一物が如此と、かく被談也。被礙と云う義もあるべし、不被礙と云う義もあるべし。非得失詞。
  • 境与西来意、中あしからず。親切なる間、其れが其れなる道理のゆえに、西来意と談ずる時は、「境は西来意に罣礙せらるる也」。中あしく一物ならずは、西来意、境を罣礙する事不可叶。ゆえに境与西来意至りて親しき時、今の道理ある也。かくはあれども、「西来意の境は、相待す」とは云わるまじき道理なるべし。
  • 此詞尤不審。祖師西来し給いしこそ、専ら正法眼蔵と云いぬべけれ。然而祖師西来意は如前云、只祖師西来意にてありなん。「必ずしも正法眼蔵」の詞を非可奪。是は是と云えば、猶相対の心地も失せず。譬喩の面影も残るなり、只物を増せず。祖師西来意は祖師西来意にて置いて、さわさわと直指の理も現れ、祖師西来意の姿も、今一重甚深なる也。
  • 今の「心・仏・物」の三つを被出、此の詞(は)何れに亘りても在るべき也。又此上には、例の「心也仏也物也」と云う理あるべきなり。

 

いま、如何是祖師西来意と道取せるは、問取のみにあらず、両人同得見のみにあらざるなり。正当恁麼問時は、一人也未可相見なり、自己也能得幾なり。

詮慧

〇「如何是祖師西来意と道取せるは、問取のみにあらず」と云う、此の「如何」は今の問いと聞こえれども、例の祖門の習い事として、上には問いの詞に付くれども、内には祖意が「如何」と云わるる道理なる時に如此云う也。ゆえに「問取のみにあらず」と云う。

〇「両人同得見のみにあらず」と云う、「両人」とは趙州与僧也。得見と云う「見」は、如何是祖師西来意の事也。

〇「自己也能得幾也」と云う、「幾」の字は無辺際の道理を明かす也。「同得見未可見」の道理を、「幾」と不可定事を、「能得幾」とは云うなり。

経豪

  • 是は「如何是祖師西来意」と云えば、問いの詞に似たり、非爾。ゆえに「問取のみにあらず」と云う也。「両人同得見に非ず」と云うは、祖師西来意の外に両人不可有。打ち任すは此の問答(は)、尤両人有に似たり。然而西来意の究尽、柏樹の究尽する時は、総じて「両人同得見」と云う道理云われざる也。

 

さらに道取するに、渠無不是なり。このゆゑに錯々なり、錯々なるがゆゑに将錯就錯なり。承虚接響にあらざらんや。豁達霊根無向背なるがゆゑに、庭前柏樹子なり。

詮慧

〇「さらに道取するに渠無不是なり。このゆえに錯々なり、錯々なるがゆえに将錯就錯也」、如文。これこれならずと云う事なしとなり。如何是祖師西来意と云う詞が、やがてこれこれならずと云う事なき詞に当たるなり。「錯々ぞ将錯就錯ぞ」と云うことは、「渠無不是」は、只これこれと云う心地也。それを「錯々」と仕う也。両人同得見なり。

〇「承虚接響にあらざらんや」と云う、虚しきを承けて接響と云う。「将錯就錯」と同じ事也。以虚接、実と云い、両人同得見、未可相見と云うも此の心地也。

〇「豁達霊根無向背」と云う、これ「承虚接響」にも当たる。「将錯就錯」にも当たるべし、尽十方界真実人体の義也。「霊根」とは人に著く、達しぬる時は、「無向背」と也。これは已前に和尚ぞ、吾ぞ人ぞと云いて、一なる所を背かぬ義なり。

経豪

  • 「錯」と云う詞(は)、世間に思い習わしたるあやまりと不可心得。「錯々と云い将錯就錯」と云うは、葛藤葛藤を纏う程の心なるべし。祖師西来意と柏樹子とのあわいが、「錯々」と云わるる也。又正当恁麼問時は一人也未可相見、祖は祖に蔵身し、柏樹は西来意に蔵身するゆえに、未可相見なるなり。「承虚接響」と云うは、七賢女が呼ぶに、響かぬ谷、無根樹などと云いしが如く、解脱したる姿なるべし。庭前柏樹子の外に物なき道理、如此云わるべき也。「豁達霊根無向背」と云う詞も、只同心也。只一通り解脱したる姿、無根樹などと談ぜし程の丈なるべし。

 

境にあらざれば柏樹子にあるべからず。たとひ境なりとも、吾不以境示人なり、和尚莫以境示人なり。

詮慧

〇「無向背なるがゆえに、庭前柏樹子也、境にあらざれば柏樹子にあるべからず、たとい境也とも、吾不以境示人也、和尚莫以境示人也」と云う、此の「境」は解脱の境なるべし、ゆえに喩いと説くなり。「庭前柏樹子・境にあらずは、又柏樹とも云うべからず」と也。「無向背」と云う、柏樹子なれば、境ならずと云わば、一定向背の詞もありぬべきゆえに、境をも許して、「境也とも」と云う。さればとて、世間の境にはあるべからず。柏樹を和尚と指すなり。「我(吾)境を以て人に示さず」と云うも、境なしとにはあらず、ただ不示人なり。これ境与人二人なきゆえ也。然者何としてか示すべき、三界唯一心なるゆえに。

経豪

  • 是は境与柏樹子、至りて親切なるとき、「境にあらざれば柏樹子にあるべからず」と云うは、一方を証すれば、一方は暗き(『現成公案』・注)道理也。「たとい境也とも、吾不以境示人」と云うは、此の境(が)凡夫の存したる境にあらざる上は、たとい境と云うとも、吾不以境示人と云う也。和尚莫以境示人と吾不以境示人と同心也。たといと云わるる「境」は、境にあらざればと云う境也。共に解脱の上の境也。

 

古祠にあらず。すでに古祠にあらざれば埋没しもてゆくなり。すでに埋没しもてゆくことあるは、還吾功夫来なり。還吾功夫来なるがゆゑに吾不以境示人なり。さらになにをもてか示人する、吾亦如是なるべし。

詮慧

〇「古祠にあらず」と云う、定むる所を置かざるべし。「古祠」は古く謂いを来ると云う詞也。ゆえに古祠にあらずと云う。

〇「還吾功夫来」と云う、「功夫」を別にして他人ありて、吾に還し来たせと云うにてはなし。「功夫」がやがて還し来たす物にてあるなり。人に示すを、示さずと云う(を)、吾以境示人也と云う。

経豪

  • 「古祠」と云う事は古き詞也。「埋没しもてゆく」と云うは、幾らも詞共あれども、「西来意」と云う時は、自余の詞は隠れ、「柏樹子」の談ずる時は、西来意已下の詞は隠る。此の定めに一を経ぬしと取り定むべき道理なし。「埋没」は埋もれ隠るる詞歟。此の道理が埋没とは云うべき也。是も色々の物がありて、一物が出現すれば、隠るる義にては不可有。只物なる道理を、如此「埋没」とも可談也。「還吾功夫来」と云う詞は、『仏性』の草子に還我仏性来と云いし詞(と)同じ也。祖師西来意と云う時は、庭前柏樹子は隠る。隠ると云えども、失せて各別なる体にあらず。西来意と柏樹と一物なれば、西来意は隠ると云えども、柏樹の現前する時は、「還吾功夫来」と云わるる也。還吾功夫来なるがゆえに、吾不以境示人也とも、和尚莫以境示人とも、乃至祖師西来意とも、庭前柏樹子とも云うべき也。必ずしも「吾不以境示人」許りに限るべからず。「埋没しもてゆく」と云えば、皆隠れ埋れたる義也。然而あとを削りて移すべき物にあらず。埋没とは云えども、吾不以境示人も、和尚莫以境示人の、道理もあるべしと也。「還吾功夫来」の道理は、如此云わるべき也。いたづらに失せ隠れたる物にはあらざるべし。「何を以てか示人する、吾亦如是なるべし」の、「示人」とは打ち任すは両人を置きて、示人とは云うべし。是は「吾亦如是」の道理にて、今の「示人」はあるべし。然者二人相対して、示すべきにあらざる也。

 

大師有僧問、柏樹還有仏性也無。大師云、有。僧曰、柏樹幾時成仏。大師云、待虚空落地。僧曰、虚空幾時落地。大師云、待柏樹子成仏。

詮慧 虚空落地段

〇「・・大師云、待柏樹子成仏」、教家の草木成仏と云う事あり。但発心修行して、成仏するかと疑う。今「柏樹に仏性ありや」と云う、「有」と答う。「柏樹いづれの時にか成仏せん」と云う、是は仏性は有れども、不可成仏と云う様に聞こゆ。但仏性と談ぜん上は、成仏の詞(は)無謂歟。

〇就柏樹、有仏性・無仏性、成仏落地等の詞(と)程々なり。次第被下語、奥に見えたり。但「柏樹」という二字の出で来ればとて、非可驚。『仏性』の草子(で)審細に被釈。有無の詞も事旧んぬ、学者不可忘却。発心と修行と(は)非各別法、然者柏樹子が発心修行ありがたかるべきにあらず。三界唯一心、心外無別法と云う、仏説有何疑乎。菩提心を云う時、発菩提心と談ずるは、世の常の義也。菩提心発と云うは、宗門の法文也。是程に取り伏せぬる上、柏樹子の発心修行も、置いて不可論事也。仏の成道と云うは、大地有情同時成道と体脱するにあり。柏樹成仏何可疑哉。抑も「柏樹の成仏は、待虚空落地という、虚空の落地は又待柏樹子成仏」と云う。然者柏樹の成仏、虚空の落地(は)非一非二、非別非異、非同非即と可心得。成仏と落地とを早卒に心得て、両方に置きて待と云えばとて、世間の詞になずらべて、可有期ように思う(は)、不可然。落地はやがて成仏、成仏はやがて落地也。此の証拠を謂わば、倒地もの依地置くとも、依空置くとも云う道理にて、可了見。先師委細に被下御語者歟。空与地相去る事いかほどと心得なば、虚空落地の時刻を待ち、後(に)会と努々(ゆめゆめ)不可心得。

〇「僧問、柏樹還有仏性也無」、今の問いは仏性に仏性ありやと云う程の詞也。

〇「師云、有」、此の「有」(は)、又柏樹を別に置きて、仏性を為令持有と云うにはあらず。柏樹をやがて有仏性と指す心なり。此の「有」(は)、又衆生有仏性、狗子有仏性の有に習うべし。

〇「僧云、柏樹幾時成仏」、この問いは、庭に生じたらん木が、放光現瑞して、我等が如思(に)、成仏せんずると存じて問うにはあらじ。柏樹すでに仏性と談ぜんには、成仏と謂わんも同じかるべし。しからば「幾時」の両字(は)不用の字也。又いま新たに成仏する義なければ、幾時にかと云う義もあるべし、不当にあらず。又「幾時」と云うは、此の柏樹の発心修行を疑う歟。柏樹成仏には必ず発心して修行し、其の功満じて成仏すなどと云うべからず。そのゆえに、必ず発心して後に修行し、などとするにてもなし。発心の時やがて修行待たず、発心の仏、修行の時、発心の沙汰なし。やがて修行の仏とも心得るべし。修行を待たざる発心也、修行に待たれざ(ざれ?)る成仏なり。成仏に大小乗さまざま習う道あるべし。小乗には三生六十劫、四生百劫などと立つる事あり、これ不審也。鈍根は三生六十劫、利

根は四生百劫と云う。頗る逆也。然而鈍根は我身を卑下して、学道が厳しきゆえに、三生六十劫に成仏し、利根は成仏を急がぬゆえに、四生百劫と云う也。無謂にもあらず。

〇「師云、待虚空落地」(虚空落地と、柏樹成仏とは、互助なりと云う也)、此の「待」の字あるべき事の未だし義に付けて、待と云うにあらず。「虚空落地」も、雨の降り、雪の降るが如く、落つるものあらんずるにてはなし。「虚空」と云い、「地」と云う詞が、等しく通じ、柏樹と云い成仏と云う心地が、等しき所を云う也。

〇「大師云、待柏樹子成仏」、これ已前の詞明らけし。落地と成仏との詞等しきを、柏樹成仏にも待たせ、虚空落地にも待たず。いかなる姿を可待出とにはあらず。柏樹の成仏は虚空の成仏を待ち、虚空の落地は、柏樹の成仏を待つと云う。然者柏樹は柏樹の成仏を待ち、虚空は虚空の落地を待つと落ち立つべし。

経豪

  • 祖師の問答、打ち任せて仰凡見るもように心得易く、耳近き問答もあり。今の趙州与僧(の)問答、了見難及聞こゆ。先ず「柏樹還有仏性也無」(の)詞珍也。仏性は有情こそ、具足物と心得に、非情の柏樹争か仏性を具すべきと覚ゆ。其れに大師道に「有」と被仰。是又不審也。此の問いに付けて、僧「柏樹幾時成仏」と尋ね申せば、具仏性もの、必ず成仏すと云うに付けて、柏樹に仏性「有」と大師被仰じゃ、さては可成仏に取りて、「いかなる時、成仏するぞ」と問いしたるように聞こゆ。其れに大師(の)「待虚空落地」と被仰は、さてはあるまじき事にこそ、虚空落地と云う事、総てあるべき事ならねば、「柏樹は不可成仏」と被仰と聞こゆ。然者さきに僧問うに付けて、「有」と被仰たる詞にも可参差。其れに僧又「虚空幾時落地するぞ」と尋ね申し答えに「待柏樹子成仏」と被仰。虚空落地と云う事あるまじければ柏樹の成仏もあるまじく。柏樹成仏の時、虚空は落地すべしとあれば、柏樹成仏あるまじき上は、虚空の落地と云う事もあるまじと、文の面は心得ぬべし。今の問答首尾非爾也。御釈に見えたり。

 

いま大師の道取を聴取し、這僧問取をすてざるべし。大師道の虚空落地時、および柏樹成仏時は、互相の相待なる道得にあらざるなり。

詮慧

〇「互相の相待なる道得にあらざる也」と云う、すでに柏樹仏性成仏時節、虚空落地を問取すと云う上は、必ず(しも)虚空落地と柏樹成仏とばかりを相対して、相待にあらずと也。

経豪

  • 此の道取、問取いたづらならざる事顕然也。
  • 「虚空落地と柏樹成仏」とは、相互いに相待したる姿とこそ聞こゆれ。然而虚空落地、柏樹を待たず、柏樹は虚空落地を待たざるべし。各々独立の姿也。ゆえに「互相の相待なる道理にあらず」と被釈也。各一法の独立なる道理を被述也。

 

柏樹を問取し、仏性を問取す。成仏を問取し、時節を問取す。虚空を問取し、落地を問取するなり。

経豪

  • 是は如前云、西来意も柏樹も僧も吾も人も、各々に一法づつ独立するように、是も柏樹は柏樹、仏性は仏性、時節は時節、虚空は虚空、落地は落地と各々可独立道理を如此被述也。

 

いま大師の向僧道するに、有と道取するは、柏樹仏性有なり。この道を通達して、仏祖の命脈を通暢すべきなり。いはゆる柏樹に仏性ありといふこと、尋常に道不得なり、未曾道なり。

詮慧

〇「仏祖の命脈を通暢すべき也」と云う、此の「暢」は述ぶるとなり。仏祖に通じ述ぶるなり。

経豪

  • 仏性有也無と僧に被問き、大師有と被仰たる「有」は、有無の有にあらず。柏樹成仏有也。仏性の上に有無を仕し程の「有」也。已下如文。

 

すでに有仏性なり、その為体あきらむべし。有仏性なり。

詮慧

〇「すでに有仏性也、その為体あきらむべし、有仏性也」と云う、柏樹仏性たる義顕然也。

経豪

  • 「有仏性」の詞、只同様にて前後にあり、只同じ有仏性也。「すでに有仏性也」と云う詞は、大師の有仏性と被仰たる詞を呼び出す歟。彼の有仏性の詞は、「その為体あきらむべし」と、有仏性也とある時に、有無の有に非ず、柏樹仏性有の有仏性と明らむべしと云う也。

 

柏樹いまその次位の高低いかん。寿命身量の長短たづぬべし、種姓類族きくべし。さらに百千の柏樹、みな同種姓なるか、別種胤なるか。成仏する柏樹あり、修行する柏樹あり、発心する柏樹あるべきか。

経豪

  • 柏樹の上には「次位の高低」と云う沙汰に不可有(と)覚ゆ。又「寿命身量」と云う事も、いかなるべしとも不覚。「長短種姓類族」等、又以同前、但次位の高低も、寿命身量已下皆あるべき也。其の故は今の「柏樹を以て、寿命身量とも、長短種姓類族」とも可談がゆえに。「なるか・なるか」と受けられたるは、皆あるべき事を如此云也。又「成仏する柏樹、修行する柏樹、発心する柏樹」と云うも、此の成仏・修行・発心等が、やがて柏樹なる道理を以て、如此云うなり。

 

柏樹は成仏あれども、修行発心等を具足せざるか。柏樹と虚空と、有甚麼因縁なるぞ。柏樹の成仏、さだめて待你落地時なるは、柏樹の樹功、かならず虚空なるか。柏樹の地位は、虚空それ初地か、果位か、審細に功夫参究すべし。

詮慧

〇「待你落地時」と云う、この「你」の字は、虚空を你と指すなり。

〇「柏樹の樹功」と云う、此の「樹功」は虚空也

天台に草木成仏と云う義、宗の大事にて談之。法相三論等には此義なし。抑も草木成仏すやと云う論議天台儲之。先ず内開き見て、成仏するかと二重に尋ぬる答えには、発心修行をば免れず、且は身心丈六、光明遍照と云う。時にこれ発心修行とこそ聞こゆる時に、此の証拠いだす也。但発心修行は有情成仏に約す。報身の方には成仏と云うも、只人間の見を指す也。仍似無其詮。此方(こなた)には、やがて柏樹発心し修行すと心得也。すでに一茎草を丈六金身の仏と謂う。山河大地発心なり、やがて是を又修行と云うべし。所詮趙州も柏樹も虚空も地も一と体脱する上は、趙州の発心修行が、柏樹の発心修行にてあるべき也。凡そ教々に随いて成仏もあり、発心修行もあるべし。種々に次位高低あるなり。柏樹と趙州と一ならずして、別体ならば、争か柏樹の成仏を説くべき。仏の仏を説くべきゆえに、柏樹(は)

柏樹に礙えられ、仏性(の)仏性に礙えらるる義も出で来るなり。

経豪

  • 「柏樹成仏の時は、修行発心等を具足せず」とも云うべし。柏樹成仏の時は、修行発心と云う沙汰あるべからず、又具足すとも云うべし。此の発心修行が柏樹なるゆえに、一方に難定事也。
  • 「柏樹与虚空」(の)一物なる事を如此被釈也。虚空に非ずと云う義もあるべし。又虚空なりと云う義もあるべき也。又柏樹と談ずる時は、「虚空は柏樹の初地か果地か」と云う也。是も初地也とも果地也とも云うべし、又非初地非果地とも云うべき也。ゆえに「か、か」と云う詞もあるか。

 

我還問汝趙州老、你亦一根枯柏樹なれば、恁麼の活計を消息せるか。おほよそ柏樹有仏性は、外道二乗等の境界にあらず、経師論師等の見聞にあらざるなり。いはんや枯木死灰の言華に開演せられんや。たゞ趙州の種類のみ参学参究するなり。

詮慧

  • 「你亦一根枯柏樹」と云う、此の「你」は趙州也。趙州(は)枯柏樹也。趙州の功を以て、柏樹成仏すべしと云うべし。

〇「枯木死灰」と云う、外道二乗是也。一向棄つべき所なり。抑も「柏樹有成仏」などと謂わん時は、「枯木死灰二乗外道」も棄つべからず。仏すでに大地有情同時成道とも被仰、三界唯心とも、諸法実相とも説かる。此の上は更不可被棄。然而ここには就名字、二乗外道、枯木死灰可棄也。二乗外道有仏性也無と云わん時、如何が答うべき。すでに衆生有仏性と云い、狗子有無性と云う義あり。是は善き物に仏性を持たせ、悪(わろ)き物に仏性を置かしと云う心地にてなし。やがて衆生を仏性と指し、狗子を仏性と指す也。然者今の義には難准的。一切衆生悉有仏性と云う時は、二乗外道などが不入ん。但此の時は、別に何々と種類を挙げて、今は二乗ぞ外道ぞと名を別に挙げて云う時に、仏性ありと答え難し。有と謂わば、二乗外道とは、又難云。ただ迷妄の衆生を狗子ぞなどと云うには異なり。二乗外道は別に己れが見を持つゆえに、ただ纏うにあらず。この二乗外道の名字あるならば、仏性には差別する也。回心せで向大する事なき故に。

経豪

  • 趙州の詞より、柏樹は出でたるとこそ覚ゆるを、汝の柏樹を道取し給いたるは、趙州は柏樹なるかと(の)、故開山の御詞也。趙州は尤も柏樹なるべし、已下如文。

 

いま趙州道の柏樹有仏性は、柏樹被柏樹礙也無なり、仏性被仏性礙也無なり。この道取、いまだ一仏二仏の究尽するところにあらず。仏面あるもの、かならずしもこの道得を究尽することうべからず。たとひ諸仏のなかにも、道得する諸仏あるべし、道不得なる諸仏あるべし。

詮慧

〇「一仏二仏の究尽する所にあらず、仏面あるもの必ずしもこの道得を究尽する事うべからず。たとい諸仏のなかにも道得する諸仏あるべし。道不得なる諸仏あるべし」と云う、此の段の意趣には、仏をば置きて不究尽あるべし。道取なるもあるべしとなり。このゆえを尋ぬるに、仏の上には究尽・未究尽・道得・不道得を不論、共に自由使得して用いん。無憚歟と覚ゆれども、それは一段の義なるべし。ここには仏に未究尽の科、、道不得の科を持たずる也。たとえば悟りに惑い、実相に惑うを迷と云う。ゆえに惑いも悟りの惑い、実相の惑いならんには、痛むべきにあらず。この理(ことわり)を知るを、「一仏二仏」とも仕う也。ただ三十二相等の姿を、仏としる程の族(やから)、究尽すべからず。さればとて、又三十二相を仏ならずとは謂わず。仏性を談ずるに、六祖道の無常即仏性也の段には、無常は外道二乗等の測度にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常也と云えども、彼ら究尽すべからずとあり。

〇一仏成仏の時は三世の諸仏を分身と云う。草木国土成仏すれば、柏樹も一仏の分身なるべき乎。古詞には得便宜所莫再去徳、失不常何必と云う。たとえば人住一所、この所に失一あれば、徳を忘れて移住他所。他所に又失一あらば、又此所を去る。如此するを去る事なかれと忌ましむる也。世間の習い必ず徳もあり、失もあり。しかるを失を痛みて、徳を忘る。この事無謂。徳失は不常、されば必ず其所につきたる事なし。これを何必と仕う也と、可了見也。

経豪

  • 文に分明也。「趙州道の柏樹有仏性は、柏樹被柏樹礙也無、仏性被仏性礙也無」と云う程の道理なるべし。柏樹与仏性(は)一体一物なるがゆえに、此の道理を「一仏二仏の究尽する所にあらず」とは云う也。「仏面あるもの」と云うは、仏法を習学の人也。経論師等ありとも、此理をば「道得し究尽する事うべからず」と也。又「諸仏の上に、道得・不道得なる諸仏」と云うは、諸仏と云わるる程にて、争か道不得なる事あるべき。只是は一旦趙州讃嘆の詞なり。但諸仏の上に又道得・不道得の道理もあるべし。但ここの続きの道得道不得は、得不得に拘わるべき詞と聞こゆれども、実には只趙州讃嘆の御詞一面也と可心得也。

 

いはゆる待虚空落地は、あるべからざることをいふにあらず。柏樹子の成仏する毎度に、虚空落地するなり。その落地響かくれざること、百千の雷よりもすぎたり。

詮慧

〇柏樹成仏・虚空落地、これ互相相対にあらず。祖師西来意・柏樹子・虚空落地、皆同、又詞も不替と習う。何れの詞も尽界を不尽と云う事なし。西来意と問う時は、柏樹子と答す。柏樹幾時成仏せんと問う時は、虚空落地と答す。虚空幾時落地せんと問う時は、柏樹成仏の時と答す。ただ同じ理なるがゆえに、如此答するなり。成仏と落地と同じ丈に可心得なり。・・柏樹子非境は、祖意も非境、祖師意と柏樹と親切に説く時、如此云わるる也。

経豪

  • 如文。「待虚空地」と云うは、柏樹成仏のかたかるべきを、喩えとなりたると聞こゆ。非爾。「柏樹子の成仏する毎度に、虚空落地す」とは、柏樹虚空が別物にあらざる上は、柏樹成仏すると云う時は、虚空落地し、虚空落地する時は、柏樹成仏する也。片時も柏樹と虚空とのあわい不可被取放物也。此理の響く所を「百千の雷よりも過ぎたり」と云えども、人の不知所を如此被釈也。

 

柏樹成仏の時は、しばらく十二時中なれども、さらに十三時中なり。

経豪

  • 柏樹幾時成仏するやと云う問答の詞に付けて、此時を被取出也。「十二時」と云えばとて、打ち任せたる寅卯等の十二時にあらざるべし。又しばらく十二時に対して、柏樹成仏の時を加えて、「十三時」とも可談歟。但是も十二に対したる十三にあらざるべし。只所詮柏樹を以て十二時とも十三時とも談ずべき也。

 

その落地の虚空は、凡聖所見の虚空のみにはあらず。このほかに一片の虚空あり、余人所不見なり、趙州一箇見なり。虚空のおつるところの地、また凡聖所領の地にあらず。さらに一片地あり、陰陽所不到なり、趙州一箇到なり。

詮慧

〇実相を談ずるとき無余法。無余法は又十如是も、一一実相なるべし。十如是を取り集めて、実相ぞとは不可談。実相が十あるべきなり。非一実相と難きたるべくは、又十あるべくば、実相と云うべからず。十の法は実相なれども、実相は十あるべからずと心得也。

経豪

  • 実(に)此の「虚空落地」の姿、打ち任すは、すきすきと、うつをに何もなき物を、虚空とは思い習わしたり。「地」(は)又、空与地(を)去る事十万八千里などと対して云う地にはあらざるべし。虚空も地も柏樹も成仏も等しき故に、彼是凡聖所見の虚空地にあらざるべき条(は)勿論(の)事也。「一片の虚空あり地あり」とは、今所談の虚空也、地也。実(に)「陰陽所不到」と云わるべきなり。今此の詞の出で来るは、七賢女の不陰陽地と願いたりしを、帝釈難治也と被仰し事を被引出歟。今又不陰陽の地なるべし。是等の道理をば、「趙州ありて一箇見とも一箇到」とも云うべきなり。

 

虚空落地の時節、たとひ日月山河なりとも、待なるべし。たれか道取する、仏性かならず成仏すべしと。仏性は成仏以後の荘厳なり。さらに成仏と同生同参する仏性もあるべし。

詮慧

〇「虚空落地の時節、たとい日月山河也とも、待なるべし」と云う、此の「日月」(は)十二時に拘わる日月(で)山河にあらず。「待」の時刻なるべし。待ならぬ時刻不可有。たとい又この日月を世間の日月と心得とも、待なるべしと云いては後は、非世間(の)「日月」也。

経豪

  • 「仏性を具足したる者、成仏す」と云う義、打ち任せては談じ古したる事也。教家等の所談如此。而(に)柏樹仏性有やと云う答えに、有と云う詞に付けて、さては尋常の定めに柏樹も仏性を具足すと云えば、成仏すべきを、虚空落地を待つべきかなどと云う心地も、おのづから柏樹成仏と云う詞に付けては、僻見の起こりぬべき所を、只虚空落地を待つと許り云わずとも、「日月を待つとも、山河を待つ」とも云うべしとなり。日来の凡見に混乱せしと云う心地なるべし。又「仏性は成仏以後の荘厳なるべし」の詞(は)、『仏性』の草子(の)沙汰の時(の)、事旧に(つ)き、「同生同参する仏性も、尤あるべき」道理なり。

 

しかあればすなはち、柏樹と仏性と、異音同調にあらず。為道すらくは何必なり、作麼生と参究すべし。

詮慧

〇「柏樹と仏性と異音同調にあらず」と云う、「異音同調」と云うは、異音と云う詞に続きて、同調の二字は出で来る時に、異音同調の四字をば、ただ一つに心得るゆえに、「あらず」と仕う。柏樹と仏性と非一非二、親切なるを説く詞也。「異」の字も異なりとは心得まじ。「同」の字も同じとは心得ず非一非二ほどに心得也。祖意・教意(の)是同是別ほどの詞也。「異」の字も定まる事あらば、「何必」とは云うまじ。必ずと云う所なきを、いま「何必」とは仕う、ゆえに柏樹も仏性も何必也、異音同調也。

〇仏を見るは仏也。この謂われにて云わば、趙州を見るは柏樹也、柏樹を見るは趙州也。趙州と柏樹と一体なる謂われあり。

経豪

  • 柏樹仏性のあわい、柏樹とや云うべき、仏性とや云うべき、乃至虚空とや云うべき、落地とや云うべきと云う道理が、「何必」とは云わるる也。何れにも落ちず、穿れたる理を、「何必」とは云う也。さればとて、何れの理にも外れたるにあらず、何れにも中(あた)るべし。説似一物即不中の詞に同じかるべし、作麽生も如何の道理も如此。又「異音同調」とは、声は異にして、調べは同じと云う事は、管絃などに、琴・琵琶・笛・笙等の音は、実(に)異なれども、調子・楽などは違わず同じかるべし。但此の定めには不可得、是は凡見なり。又いかにも彼是分かれたり、是は異音と談ずとも、同調と談ずとも、全不可各別。只柏樹と成仏とのあわいを、「異音同調とも、何必とも、作麽生」とも云わるべき也。

柏樹子(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。