正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十一 三界唯心 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十一 三界唯心 (聞書・抄)

釈迦大師道、三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別。

詮慧

〇「三界唯一心・・」、この一句の詞、常に聞くと云えども、未だ心得に似たり。今の三界唯一心の偈、是は四句の偈とこそ云え、然而四句は一句也。至極する所を一と取る也。仏乗と説き、大乗と説く。これ一乗也、一草と云うが如し。

真言には、心王大日尊、心数曼陀羅、三界唯一心、心外無別法(『大日経疏演奥鈔』「大正蔵」五九・二六九上・注)と云うことあり、是れ心王心数を立て、唯一心と云う心なり。この宗門には心王心数を立てず、三界唯一心と云うも、猶三界を奪うに似たり。唯一心と体脱せん時は、三界を三界の如くに見んずるなり。

経豪

  • 是は華厳経文(三界所有一心華厳経』八十巻「大正蔵」一〇・一九四上一四+(心外無別法)+心仏及衆生、是三無差別(『華厳経』六十巻「大正蔵」九・四六五下二九・注)也。余方にも口遊する経文也、但其義変わるべきか。先ず「三界」とは欲界・色界・無色界を云う。此の三界を総てにて、一切の法、心が所作なるゆえに、仏と談ずも、衆生と云うも、迷と談ずも、悟と云うも、皆「心」が所作也。乃至六道輪転等も、皆心の所行なるがゆえに、此の「心」の上に三界をも立たせ、「三界唯一心」とは談ずと云うか。又「心仏及衆生」を各々に談じて、是が皆「無差別」の法也と心得る常儀也。是等(は)皆非今所談也。如此談ずれば有其失也。能所をも不離、凡見をも不越也。所詮「三界」とは、此の「心仏及衆生」の三を、今は「三界」とは可談也。打ち任し談ずる三界には異なるべし。「三無差別」とは、心と談ずる時、心外に無別法、仏と談ずる時は、仏の外に物なく、衆生と談ぜん時は、全衆生なるべし。ゆえに「無差別」也。又「心・仏・衆生」許りの三つに不可限也。同経の次(前?)の詞に、如心仏亦然(爾?)、如仏衆生然とあり。経文(に)分明なるべし。「心と仏と衆生」と此の三つを取り合わせて、「無差別」と談ずるにてはなき也、是れ祖門(の)所談なるべし。「心仏及衆生、是三無差別」は、理事には争か仏与衆生(の)差別なかるべきなどと談ずる筋もあるか、是等(は)皆非用儀也。

 

一句の道著は一代の挙力なり、一代の挙力は尽力の全挙なり。たとひ強為の為なりとも、云為の為なるべし。

詮慧

〇「云為」と云うは、「たとい強為の為也とも、云為の為なるべし」と云う。「強為」の法とて、仏道には用いざる異なるを、「強為の為なりとも」と許す事は、三界を唯一心と強為せんも、所詮云為の義に落居すべきゆえに、如此説く。「云為」とは、やがて有るべきを在りと云う、これ云為也。

経豪

  • 「一句の道著」と云えば、無下に少なく、千句万句などと云えば、多くに似たり。但今の「一句」と云うに、四十余年の説教残る義不可有。一句も万句も非多少義、ゆえに「一句の道著は、一代の挙力也」と云う也。又「一代の挙力は、尽力の全挙也」と云えば、「一句」は釈尊の説教と心得、「一代の挙力」は釈尊一代の挙力とも思われぬべきを、「尽力の全挙也」と云うは、所詮(は)以釈尊「一句」とし、以釈尊「一代の挙力」と談之。此の道理を「尽力の全挙」とは云う也。釈尊の説道を「一句」と談ずれば、能説所説に関わる。「一代の挙力」と云えば、仏に仰ぎて談ずかとも覚ゆるを、「尽力の全挙」と談ずれば釈尊(の)上に、一句も一代の挙力も皆談之は、能所なし、彼此に拘わらざる也。此の道理の上には、たとい「強為」と云うとも、打ち任せて作業の義にはあらず。「尽力の全挙」を以て、強為とも談ず也。「云為」とは広き義也、物に拘わらざる義を可云歟。

 

このゆゑに、いま如来道の三界唯心は、全如来の全現成なり。全一代は全一句なり、三界は全界なり。三界はすなはち心といふにあらず。そのゆゑは、三界はいく玲瓏八面も、なほ三界なり。三界にあらざらんと誤錯すといふとも、摠不著なり。内外中間、初中後際、みな三界なり。三界は三界の所見のごとし。三界にあらざるものの所見は、三界を見不正なり。三界には三界の所見を旧窠とし、三界の所見を新条とす。旧窠也三界見、新条也三界見なり。このゆゑに、

詮慧

〇「三界」とは、欲界・色界・無色界を云う。これは天上の事なれども、欲界の中にはやがて、人間界をも摂するなり。但今の三界のよう(は)、唯心と体脱す。「全如来、全現成、全一代、全一句、全界」などと云う上は勿論(の)事也。仏界(も)同事也。この三界は仏界なるべし、欲界色界等の義を超越すべし。

〇「三界の所見を旧窠とし、三界の所見を新条とす、旧窠也三界見、新条也三界見なり」と云う、「旧窠」などと云えば、悪かりつる三界の煩悩の窠を謂うかなどと覚ゆ。ただし是は古きも見、新しきも見ると仕う也、三界を以て見なりと云うゆえに。

経豪

  • 如文。「三界唯心は、全如来、全現成、全一代は全一句」と云う(は)分明也。所詮「三界を旧窠とし、三界を新条とす」、ゆえに「旧窠也三界見、新条也三界見也」とは云う也。「三界にあらざる物の所見は、三界を見不正也」とは、三界をば三界(と)見るべき也。三界にあらざるものの所見は、三界を見る事あたらざる也と云う也。

 

釈迦大師道、不如三界、見於三界。この所見、すなはち三界なり、この三界は所見のごとくなり。三界は本有にあらず、三界は今有にあらず。三界は新成にあらず、三界は因縁生にあらず。三界は初中後にあらず。

出離三界あり、今此三界あり。これ機関の機関と相見するなり、葛藤の葛藤を生長するなり。今此三界は、三界の所見なり。いはゆる所見は、見於三界なり。見於三界は、見成三界なり、三界見成なり、見成公案なり。

よく三界をして発心修行菩提涅槃ならしむ。これすなはち皆是我有なり。このゆゑに、

詮慧 釈迦大師段

〇「不如三界見於三界」、此門には如此可読。当宗門義(の)、「見於三界」は、世間の見にあらず。一代の挙力を習うべし、挙力の詞(を)、又尽力して可参学、見と談ずる時は、いかにも境ありと聞こゆ。三界を見とこそ心得べけれ、能見所見あるべからず、教家にも能所とは嫌う。初めこそ能所あれども、至極の時は亡などと云う。是は意地に約して談ずると聞こゆ、三界を以て、やがて見とは云わぬ也。見には初中後を立てずなどと云うは、三界を以て見と仕う時、境を離れ能所を解脱する也。

〇「出離三界あり、今此三界あり、これ機関の機関と相見するなり、葛藤の葛藤を生長するなり」と云う、仏見、二乗見、外道見、衆生見まちまちなり。そのゆえに三界をも又厭うべし。可出離と習う方あり。又今此界皆是我有と習う方あり、如此習う時の「三界は本有にあらず、今有にあらず、新成にあらず、因縁生にあらず、初中後にあらず」などと謂わる。仏(は)羊・鹿・牛の三車を以て拵(こしら)えて、火宅なり出でよと勧め御(おわ)します。然而出でれば、大白牛車を与え御します、一乗をこそ悟らしめ、悟らせ御しませ。三界の外なる所がありて、それへ往くと云わず。今「機関の機関と相見する」と云うも、「葛藤の葛藤を生長する也」と云うも、この心なり。非別、是を心外無別法と説く也。

〇「三界をして発心修行菩提涅槃ならしむ、これ則ち皆是我有也」と云う、此の「発心修行菩提涅槃」は、成仏のゆえに、発心修行とは謂わず。発心我有なり、修行我有也、菩提を我有とし、涅槃を我有とするなり。我有の「有」は、たとえば肌衣(はたき)を指して云う也。然者三界は仏の肌衣と可心得。仏は身土不二と云う此心也。

経豪

  • 文に聞こえたり、実(に)此の三界の様(の)、「本有・今有・新成・因縁生・初中後」にあるべからざる条(は)勿論也。
  • 「出離三界」と云うも、打ち任せて人の出離生死などと云う様には不可心得。三界が三界を出離するなり。「今此三界」と云う「今」の詞は仰三世ば、現在と心得ぬべし。此の「今」と云うは釈尊を指す也。此の「今」と云うと、「三界」と云うとは、「機関の機関と相見する」道理、「葛藤の葛藤を纒う」道理なるべし。
  • 今此と云えば、「今此」の詞(は)、過現当の内、現在と聞こゆ。然而此の今此三世に拘わらぬ上は、三界の三界を見る道理なるべし。此のゆえに、「いわゆる所見は、見於三界也。見於三界は見成三界也、三界見成なり」と云う也。所詮只始中終(は)、三界ならぬ一法もなき道理なるべし。
  • 「三界をして発心修行菩提涅槃ならしむ」と云うは、全非別物。三界を発心とも、修行とも、菩提涅槃とも談ず也。然者此の「発心・修行・菩提・涅槃」等(は)浅深軽重あるべからざる道理(は)顕然也。是を「皆是我有」と可談歟。皆是我有(の)事(は)、奥に委可被釈之。

 

釈迦大師道、今此三界、皆是我有、其中衆生、悉是吾子。いまこの三界は、如来の我有なるがゆゑに、尽界みな三界なり。三界は尽界なるがゆゑに、今此は過現当来なり。過現当来の現成は、今此を罣礙せざるなり。今此の現成は、過現当来を罣礙するなり。

詮慧

〇「釈迦大師道、今此三界・・悉是吾子」(の)、「今此三界」は「如来の我有なるがゆえに、尽界皆三界なり」と云う。「尽界」と云うは、三界と云う、界の詞は同じけれども、「三界」と云うは欲色無色等の三天に限るに似たり。「尽」と云うは残る所なき也、仏界までを取る。我有と仏被仰故なり。華厳の三界は、心界・仏界・衆生界の三つを三界と云う義もあるなり。仏界までを取ると云えばとて、三界・仏界とを別に置いて謂わんずるにあらず。「其中衆生」とあれば、この「中」の字は、際限ありて中央を云うに似たり、非爾。全三界を「中」と仕うなり。我有なるゆえに、三界を我有と説く。「其中衆生、悉是吾子」と聞けば、非情を有と被仰ぎ、有情を「子」とするかと聞こゆ、しかにはあらず。「其中」も三界也、有情・非情(も)皆是三界也。「今此」と指すは「我有」を云うなるべし。

〇「過現当来の現成は、今此を罣礙せざる也、今此の現成は、過現当来を罣礙する也」と云う、世間に云う過現当は、ただ日月の出没を数えて云えども、月日は必ずいづれを過と云い、現と云い、当と云わんとはなきを、只暫く人間に、吾我に対して云うなり。たとえば田地には主なけれども、人が主と称ずるにてこそあれ、ゆえに「過現当来の現成は、今此を罣礙せざる也」と云う。そのゆえに、又「今此の現成は、過現当来を罣礙する也」と云う。

経豪

  • 経文(『法華経』「譬喩品」「大正蔵」九・一四下・注)を被引。「今此三界」と云う三界は、「如来の我有なるがゆえに、尽界皆三界也、三界は尽界なるがゆえに」とあり、分明也。尽界を置きて、其の上にこそ三世は立てらるれ。今の「今此」は過現当に拘わるべきにあらざる道理か、又(は)過現当也と云わるる也。又「過現当来の現成は、今此を罣礙せざるなり」とは、過現当来と談ずる時は、「今此は罣礙せられざる也」、ただ過現当なるべし。又「今此の現成は、過現当来を罣礙する也」と云えり。打ち替えたるようなれども、「今此」の姿の現成の上は、過現当(は)又罣礙すべし。「今此」の外(に)、過現当(は)現成すべからざるゆえに、如此被釈なり。

 

我有は尽十方界真実人体なり、尽十方界沙門一隻眼なり。衆生は尽十方界真実体なり。一々衆生の生衆なるゆゑに衆生なり。

詮慧

〇「一々衆生の生衆なるゆえに、衆生也」と云う、「生衆」は無辺際の義也、全生の心也。「衆生」と云うをば、もろもろ(衆)の生と読みて、一切の有生類を集めて、衆生と云うと心得付けたるを、いま「生衆」とあるに迷う(を)、但今(は)「生衆」と云い、生也全機現の生なるべし。ゆえに「生」を本として、もろもろ(衆)を下に付く。かく謂えば、又生と衆と対して云わんとにはあらず。ただ生の上に、もろもろを置く故に「生衆」とある也。もろもろを地にして、生を加うるは世間の心地也。生の様を心得る説く時は、衆生・生衆の違う事も心得らるるなり。生衆とあるが、「其中衆生、悉是吾子」の道理に叶う也。

経豪

  • 是は皆是我有の「我有」を御釈也。「我有は尽十方界真実人体」とあり分明也。「衆生又尽十方界真実体」とあり、仏は覚悟(の)如来衆生は迷妄の凡夫也と云う見解は、不可残也。又「衆生」と云うは、あらゆる無量無辺の数多き物を取り集めたる名目とこそ聞こゆれ。然而「生衆」と談ずれば、前の見解にはあらざる也。只生の上に衆と云う詞を付ければ、日来の衆生の見解は離るるなり。ゆえに衆生也と被決之。

 

悉是吾子は、子也全機現の道理なり。しかあれども、吾子かならず身体髪膚を慈父にうけて、毀破せず、虧闕せざるを、子現成とす。

詮慧

〇「悉是吾子は、子也全機現の道理也」と云う、今の父子の義、世間には不可心得。子も全なれば、父より生ずとも云うべからず。

〇「しかあれども、吾子必ず身体髪膚を慈父にうけて、毀破せず虧闕せず」と云う、如来我有尽十方界真実人体と云う。子も全機と云う、いづれの所か毀破せらるべき。世間の子の身体髪膚を父母に受く、と云うも、父母を毀破して生ずべきにあらず、尽十方界なる如来の慈父なれば、毀破せられぬなり。

  • 是又「悉是吾子」の経文(『法華経』「譬喩品」「大正蔵」九・一四下・注)を被釈。此の「悉是吾子は、子也全機現」とあり、不可疑。打ち任すは父子相竝たり。「是吾子」は父子不可相竝、父あるべからず。ゆえに「子也全機現」なるべし。如此はあれども、今の所談も、慈父釈尊の皮肉を受けてこそ、此の道理も現前する時に、「吾子必ず身体髪膚を慈父に受けて毀破せず、虧闕せざるを、子現成とす」とは云うなり。

 

而今は父前子後にあらず、子先父後にあらず。父子あひならべるにあらざるを吾子の道理といふなり。与授にあらざれどもこれをうく、奪取にあらざれどもこれをえたり。去来の相にあらず、大小の量にあらず、老少の論にあらず、老少を仏祖老少のごとく保任すべし。

経豪

  • 如文。打ち任すは「父前子後」なるべし。但今所談の父子のあわい、尤如今文謂わるべし、非可疑。此の父子のあわい(は)、「与授に非ずとも是を受け、奪取の義にあらずとも是を得たる」道理顕然なり。此の上は「去来の相にも、大小の量にもあらざる」道理なるべし。仏祖所談の「老少の如く保任すべし」とあり、尤有謂事也。

 

父少子老あり、父老子少あり。父老子老あり、父少子少あり。

ちゝの老を学するは子にあらず、子の少をへざらんはちゝにあらざらん。子の老少と、父の老少と、かならず審細に功夫参究すべし、倉卒なるべからず。

詮慧

〇「父老子少」は世間に聞き習う所也。「父老子老、父少子少」(は)仏家に所談なり。

〇「父の老を学するは子にあらず、子の少を経ざらんは、父にあらざらん」と云う、子也全機現の道理の時、父を学すべからざるゆえに、子にあらずと云う也。「子の少を経ざらん、父にあらざらん」と云うは、人の父と云わるるも、必ず子と謂われし時代あり。子と謂わるるも、又父と云わるる時代あるなり、この事を云う也。但是は、猶若かりし時は子と謂われ、この子長大して子を設ければ、父と云わるる時、父を老と謂わんは、時代老少前後の隔てあるべし。今の心地には異なり。「父の老を学するは子にあらず」と嫌い、「子の少を経ざらんは、父にあらず」と云う詞を一具に心得んとせば、其心頗可相違、出世与世間可替なり。「父の老を学する」とある詞は、全機の心なれば、出世なるべし。「子の少を経ざらんは、父にあらざらん」という詞は、世間に通ずべし。所詮ここは全父全子と心得べし。

経豪

  • 「父少子老」は法華の従地踊出品(「大正蔵」九・四二上・注)時事也。但寿量品時、已五百塵点劫の久遠成道也。非可不審、然而此の「父少子老」(は)、其の心地にはあらざるべし。前に所談の父子のあわいにて、可了見合うものなり。
  • 「父の老たるは、其謂有と、尋常に心得は、子にあらず」とは、被嫌心地也。今所談の父子(が)凡見を離れたるゆえに、「子の少を経ざらんは、父にあらず」とは、此の上には、又父は老、子は少と如普通(に)談ぜんも不可有苦。詞は同じけれども、其心(は)凡見を離るるゆえに。

 

父子同時に生現する父子あり、父子同時に現滅する父子あり。父子不同時に現生する父子あり、父子不同時に現滅する父子あり。

慈父を罣礙せざれども吾子を現生せり、吾子を罣礙せずして慈父現成せり。

有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。かくのごとく、吾子、子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり。

詮慧

 

〇「父子同時に生現する父子あり、父子同時に現滅する父子あり」と云う、是は父子を並べて同不同と談ずるにあらず。心仏及衆生是三無差別と云う様に、父も全機現、子も全機現なれば、「同時」と云う。この「父と子」とは、心と仏と衆生と無差別程の事也。しかあれば「父子同時全現生、父子同時全現滅」なるべし。

経豪

  • 是は只如前云、父子のあわいの道理、如此とかく被談れども、其の旨趣(は)聊かも不可違也。「父子同時」と云うも、争か打ち任せてざる事あるべき。今の父子の理を以て、「同時とも生現(本文では現滅・注)」とも仕う也。此の「生現」と云う上は、又「滅」と云う詞なかるべきにあらず。仍以今父子理、「生滅」とも仕うなり。
  • 「慈父」と談ずる時は全慈父、「吾子」と談ずる時は子也全機現なり。仍て「慈父をも罣礙せず、吾子をも罣礙せざれども、慈父も吾子も現成する」なり。
  • 此の「有無」は、仏性の上に有無を談ぜしが如し。「吾子も子吾」と云うも、皆「慈父釈尊の令嗣也」と云うなり。

 

十方尽界にあらゆる過現当来の諸衆生は、十方尽界の過現当の諸如来なり。諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり。

しかあればすなはち、百草の花果は諸仏の我有なり、岩石の大小は諸仏の我有なり。

経豪

  • 六道四生のあらゆる諸衆は、皆各々(の)業因に依りたる各々(が)種類とこそ思いつるを、今は「皆過現当の諸仏也」とあり。実(に)今の所談には、仏の外に又残る物あるべからず。「諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏也」とあり、是は別の風情なく、経文に其中衆生悉是吾子とあり、其心なり。
  • 「百草の花果、岩石の大小」を、今は「諸仏の我有也」と可談と云う也。

 

安処は林野なり、林野は已離なり。しかもかくのごとくなりといふとも、如来道の宗旨は吾子の道のみなり、其父の道いまだあらざるなり、参究すべし。

詮慧

〇「安処は林野也」と云う、三界無安猶如火宅と云う。然而非寂光外、別有娑婆とも云う也。三界を三界の如く見れば、「安処」と云わるるなり。「林野」とは此の三界(の)事也。

〇「已離」と云う(は)、三界をすでに離るとなり、我有のゆえに。

〇「如来道の宗旨は吾子の道のみ也、其父の道いまだあらざる也」と云う、其中衆生悉是吾子と云う詞、父も聞こゆ、其上父少子老と云うより(は)、「父」の詞なきにあらず。

経豪

  • 是は『法華経』の譬喩品長者偈に、如来已離、三界火宅、寂然閑居、安処林野(「大正蔵」九・一四下・注)の文を被載也。是は如文は三界の火宅を離れて、去る忌みじき所に遊戯して御しますと心得たり。「安処は林野也、林野は已離也」(の)文、此の「已離」の詞は、諸悪莫作の詞に可習。「林野は已離なり」この林野の姿(は)、已離の道理なるべし。「如此の道理也と云えども、如来道の宗旨は吾子の道のみなり、其父の道いまだなし」とは、経文の上に、其父の詞なき所を如此云うなり。然而此道理(は)、其父の詞の有無に依りて、理非の相違はあるべからざる歟。所詮安処林野の談の前には、火宅と云う事、総て不可有也。打ち任せたるように心地は、善悪に拘わるべし、取捨の心地不免、旁其失多也。

 

釈迦牟尼仏道、諸仏応化法身、亦不出三界。三界外無衆生、仏何所化。是故我言、三界外別有一衆生界蔵者、外道大有経中説、非七仏之所説。あきらかに参究すべし、諸仏応化法身は、みなこれ三界なり、無外なり。たとへば如来の無外なるがごとし、牆壁の無外なるがごとし。三界の無外なるがごとく、衆生無外なり。無衆生のところ、仏何所化なり。仏所化はかならず衆生なり。

しるべし、三界外に一衆生界蔵を有せしむるは、外道大有経なり、七仏経にあらざるなり。

詮慧 諸仏応化段・・非七仏之所説

〇教の中に応身。化身・法身三身に分くる事あり。法身・報身・応身と立つ事(も)あり。しばらく報応の二身を付けて、応身に勝応身・劣応身とする時あり。又「応身」とは八相を示すに名づけ、「化身」と云うは、時に望みて俄か(に)化現するに名づく。これらは猶応身に接する事あり、応身を化身と云う事もあり。しかる三身の様は何れともあれ、今は「諸仏応化法身、亦不出三界」と云うが詮にてはあらんずるなり。まことに「法身」は周遍法界の身と云えば、三界の諸法に遍ずと談じ、「応化」の二身は三界の衆生の為に能化となるとこそ覚ゆるを「亦不出三界」と云う。三界則応化法身たり、しかのみにあらず。「界外無衆生、仏何所化」と云う、三界も衆生も仏体也と聞こえたり。豈三界唯一心と云うのみにあらず。三界唯諸仏という心にあらずや。又「無衆生の所は仏何所化也。仏何所化は必ず衆生なり」と云えり、知りぬ三界唯衆生ぶして、衆生外無別法と述ぶる義あるべしと云う事。「仏の化」とは、如我等無異にして皆令入仏道(「方便品」「大正蔵」九・八中・注)也。此の時誠(に)何をか可化哉。如来の無外なるが如しと云うは、これ「仏何所化」也。

〇「無衆生の所、仏何所化」と云う、衆生のあるをこそ、仏化し給うべけれ。「無衆生の所化如何」、尤不審也。然りと云えども、三界より外に衆生なし、皆令入仏道の心なるべし。「三界無外ばるが如く、衆生無外也」と体脱するこそ、最上の所化なれ。仏の所化(は)如此なり。三界に「一衆生界蔵を有らしむる(は)、外道大有経也」。

〇「牆壁の無外」と云う(は)、赤肉団の上に、壁立千仞と云うが如し。

経豪

無下に浅き事と談ず歟。而今は「諸仏応化法身は、皆是三界なり、三界は無外なり」とあり、今は此の諸仏応化法身の姿を、やがて三界と談ずる上は、三界に仏の出で給うと云う見は止みぬ。仏は能出の教主、三界は出化の土と云う旧見、ここには被破了。「三界は無外也」とは、三界の外に物なき所を、如此云う也。たとえば「如来の無外なるが如し」とは、如来の姿(は)辺際なし、然者今の三界も又如此なるべし。今「牆壁の無外なるが如し」とあるぞ、立耳ようなれども、仏の無外は尤有謂。牆壁の詞(は)不審なれども、祖門に此の詞(は)又常用付けたる詞(で)、始めて非可驚。「三界の無外なるが如く、衆生無外也」とあり、是又『現成公案』に(云う)、諸法(の)仏法の上に有衆生と云いし衆生なるべし。実(に)此の衆生無外なるべし。「無衆生の所、仏何所化也」とは、化すべき衆生が無くて、仏は何をか化すべき物を置いて、思惟して何をか化すべきと云うにはあらず。「仏所化は必ず衆生なり」とは、衆生無外也と云わるる衆生の姿を、仏何所化と云う所が、仏所化は必ず衆生也とは云わるる也。

  • 如文。衆生無外也と談ずる上は勿論、しかるを三界の外に又各別に「一衆生界蔵あり」と云う所を、如此被嫌也。

 

唯心は一二にあらず、三界にあらず。出三界にあらず、無有錯謬なり。有慮知念覚なり、無慮知念覚なり。牆壁瓦礫なり、山河大地なり。心これ皮肉骨髄なり、心これ拈花破顔なり。

詮慧

〇「出三界に非ず」と云う、仏を三界と説く上は勿論也。出づべき方あるべからず。

〇「無有錯謬也」と云う、錯り有らんは、出三界なるべしとにはあらぬ。ただ無有錯謬也、例えば不宿死屍と云うが如し。

〇「有慮知念覚、無慮知念覚」と云う、是は世間に聞き習いたる凡夫の心と聞こゆれども、しかにはあらず。先に有心衆生あり、無心衆生ありと云いし丈を、今(は)如此云わるる也。仏化これなり。「牆壁瓦礫也、山河大地也」と云うにて心得べし。

経豪

  • 前には三界唯一心の様を被釈。ここよりは一心の詞を被釈也。「唯心は一二にあらず」とは、唯一心と云えば、此の心が一二の詞に関わりたるように聞こゆる所を、一二にあらずと云う也。「三界にあらず」とは、三界を置いて経ぬしにして、是を唯一心ぞと云いたるように聞こゆ。其れを只唯一心と云わん時は、三界の詞も不用、只一心は一心にてあるべしと云う也。「出三界にあらず」と云うも、打ち任せて三界を出でなんと云う様には不可心得。「無有錯謬」の詞は、あやまり無しと云う詞也。又此の唯一心の心の上に置いて、例えば「有慮知念覚、無慮知念覚、牆壁瓦礫、山河大地」等を談ずべしと也。「心これ皮肉骨髄也」とあるぞ、不審なる詞と聞こゆ。其の故は、皮肉骨髄は身に付いたる物也。心にようあるべきなれども、今の心の上には、皮肉骨髄と談ぜん。更不可違乱者也。釈尊と迦葉との破顔微笑は、彼是心が通じたるとこそ心得たるを、今の破顔微笑の姿を、やがて「心」と談ず也。

 

有心あり、無心あり。有身の心あり、無身の心あり。身先の心あり、身後の心あり。身を生ずるに胎卵湿化の種品あり、心を生ずるに胎卵湿化の種品あり。

青黄赤白これ心なり、長短方円これ心なり。生死去来これ心なり、年月日時これ心なり。夢幻空花これ心なり、水沫泡焔これ心なり。春花秋月これ心なり、造次顛沛これ心なり。しかあれども毀破すべからず、かるがゆゑに諸法実相心なり、唯仏与仏心なり。

詮慧

〇「身を生ずるに、胎卵湿化の種品あり」と云う、これ吾我の身を生ずる四生と心得ぬべし、非爾。今の四生は、尽十方界真実人体を生ずる程の胎也、卵也、湿也、化なるべし。三界唯心を生ずる胎卵湿化なるべし。

〇「心を生ずるに胎卵湿化の種品あり」と云う、身を生ずると謂わんは聞き習いたり。「心を生ずる」と云う(は)如何、但身心一如の理なるべきか。「青黄赤白と云うより、造次顛沛」に到るまで、委しくこれを挙げて「心也」と云う。三界唯心と談ずる上は、又重説して聞こゆれども、しかにはあらず。其のゆえは今いう「青黄赤白長短方円」等は世間の色相をば云わず。青の生、黄の四生を挙げて、三界唯心の道理を委しく説くなり。青黄赤白を房ねて、強為して「心」と云うにはあらず。青の心も全機、黄の心も全機なる丈を云う(は)、三無差別の理の如し。

〇「毀破すべからず、かるがゆえに諸法実相心なり、唯仏与仏心也」と云う、今「毀破すべからず」と云うは則ち「諸法実相心、唯仏与仏心」なるが破られぬとなり。此の壊身をやがて仏と云い為さんは、仏を毀破すると云うべきなり。

経豪

  • 此心の上に、無尽の理を被談也。是れ則ち「心」の荘厳功徳なるべし。「心を生ずるに胎卵湿化の種品あり」とは、云い難(にく)きように聞こゆ。然而今の所談には、心を生ずるにも、尤も卵湿化の種品あるべき也。
  • 文に聞きたり。右に所挙(の)詞共を、今は皆「心」と可談也。此の詞許りに不可限。百千無量の詞を挙げて、「心」と可談也、不可有際限。

 

玄沙院宗一大師、問地蔵院真応大師云、三界唯心、汝作麼生会。真応指椅子曰、和尚喚遮箇作什麼。大師云、椅子。真応曰、和尚不会三界唯心。大師云、我喚遮箇作竹木、汝喚作什麼。真応曰、桂琛亦喚作竹木。大師云、尽大地覓一箇会仏法人不可得。いま大師の問取する三界唯心、汝作麼生会は、作麼生会、未作麼生会、おなじく三界唯心なり。このゆゑに未三界唯心なるべし。

詮慧 玄沙段・・不可得

〇「三界唯心、汝作麼生会は、作麼生会、未作麼生会、同じく三界唯心也」と云う、臨済は大唐国裏覓一人不悟者難得(『大悟』・注)とあり、叶今詞。三界の内に一箇の釈尊を奉見難得と云わんが如し。

経豪

  • 玄沙与真応は師弟也。実(に)無何雲水等の問答には異なるべし。大師の真応に、「三界唯心、汝作麼生会」の詞は、弟子に汝三界唯心を如何にと心得たるぞと被不審たるように聞こゆ。「作麼生」の詞(は)、不始于今事也。「唯心」の理(が)「作麼生」なるべし。ここに「真応指椅子曰、和尚喚這箇作什麼」、此の詞(は)又「三界唯心」とは此の椅子也。和尚は「什麽とかせん」と云いたるに似たり。ここに大師又「椅子」と被仰、只真応の心地に同じたり。此の時真応日、「和尚不会三界唯心」、是は只前の詞を奪いて、椅子と同じ詞を、大師被仰時に(は)、三界唯心をば心得ざりけりと被仰と聞こゆ。祖師の詞を仰凡見、如此一一の打ち任せたる問答に聞こゆべし。又被心得ぬべし、如爾心得ば、只凡見なるべし。非祖師問答(なる)べし、大方も於弟子身、師を争か如此は避くべきと覚ゆ。其上此詞(は)努々(ゆめゆめ)打ち任せたる心地を以て、仏法を心得たり。心得ずなどと分別得失の義にはあらず。三界の上会・三界の上不会(と)、三界の道理をとかく(いろいろ)被述也。又大師云、「我喚遮箇作竹木、汝喚作什麼」とあり、是は前の詞には、椅子とあり、今は竹木とあり。是は何れも椅子也、更不可違。真応日、「桂琛亦喚作竹木」とあれば、大師与真応(の)詞(は)不相違、同心と聞こゆ。ここに大師云、「尽大地覓一箇会仏法人不可得」也とあり、此の詞は「会仏法人」のなき事を、打ち任せたるようには不可心得、此の御釈(は)奥に委しくあるべし。「今大師の問取する、三界唯心、汝作麼生会は、作麼生会、未作麼生会、ともに三界唯心なり」とは、所詮「作麼生会」は善く、「未作麼生会」は悪しく心得事不可然。会不会を三界唯心の上に談ずる也。会不会ともに三界唯心なる上は、更(に)得失なし、差別浅深なし。この道理の上には、又未三界唯心と云えばとて、三界唯心に違いて、悪しく成りたるなどとは不可心得也。只三界唯心の道理が、とかく響きて、「未三界唯心」とは云わるる也。

 

真応このゆゑに椅子をさしていはく、和尚喚遮箇作什麼。しるべし、汝作麼生会は、喚遮箇作什麼なり。

詮慧

〇「指椅子と日わく」と云う、此の上は椅子とこそ無左右心得べけれども、しばらく定めずして云うべし、「喚遮箇作什麼」とあればなり。什麽物恁麽来程の事也。其道理を云うには、三界か椅子か定め難きゆえなり。椅子を喚遮箇作什麼と云う事(は)、さすが(に)大師(も)争か椅子を知らざらん。此の問答にて三界唯心と椅子とのあわいも心得べし。

経豪

  • 是は大師道の「三界唯心」、「汝作麼生会」の詞と、真応の「和尚喚遮箇作什麼」の詞とは、只同心なるべし。「汝作麼生会」も、三界唯心の道理を説く詞也。「喚遮箇作什麼」も、三界唯心の理の現るる詞也。聊かも不可相違也。

 

大師道の椅子は、且道すべし、これ会三界語なりや、不会三界語なりや。三界語なりや、非三界語なりや。椅子道なりや、大師道なりや。かくのごとく試道看の道究すべし。試会看の会取あり、試参看の究参あるべし。

詮慧

〇「会三界語、不会三界語」と云う、此の詞(が)出で来るによりて、「三界語なりや、非三界語也や」とうけて云う様に聞こゆ。うくると云うは、不定を云うにてはなし。やがて三界の理を説く義なり。

経豪

  • 如文。是は前段の大師道の椅子と云う詞を被釈なり。今の詞(は)実(に)如御釈、無尽の詞も理もあるべき也。何れにもあたるべき也。即不中の道理也、此の道理がしばらく作麼生とも作什麼とも云わるる也。

 

真応いはく、和尚不会三界唯心。この道、たとへば道趙州するなかの東門南門なりといへども、さらに西門北門あるべし。さらに東趙州南趙州あり。

詮慧

〇「道趙州するなかの東門南門」と云う、是は古き詞に、如何是趙州(『聯灯会要』「続蔵」七九・六〇上・注)と問う時、東門南門と云う答あり。東門と答うには「東趙州」、南門と答うるも「南趙州」と云う也。この道理を今の「和尚不会、三界唯心」の道理に引き寄せて云わるる也。趙州の上に、東南門の義あるが如く、三界唯心の上に、会不会もあるべき故なり。いたづらなる得不得の義にてはなし。

経豪

  • 是は趙州の上に、東西南北の門を談ぜし事あり。其の定めに三界唯心の道理の上に、「不会三界唯心」の道理あるべしと也。

 

たとひ会三界唯心ありとも、さらに不会三界唯心を参究すべきなり。

さらにまた会不会にあらざる三界唯心あり。大師道、我喚遮箇作竹木。この道取、かならず声前句後に光前絶後の節目を参徹すべし。

詮慧

〇「光前絶後」と云う、此の詞は仏向上などと云う心地なり。光前と云う時は絶後也。三界唯心の道理(を)、竹木にてある故を、如此云うなり。

経豪

  • 「会三界」の上には必ず「不会三界」の道理あるべき也。只「会三界」許りを学得すとも、「不会三界」の理を不学ば、仏法参学にあらざるべし。
  • 前には三界に付けて、会不会の詞を載せられて被釈之。而(に)必ず(しも)三界の上に会不会許りに拘わるべきにあらず。「会不会に非ざる三界唯心あり」とは、今の「大師道の我喚遮箇作竹木」もあるべし。又此の外に椅子も、乃至青黄赤白、長短方円、生死去来、年月日時、夢幻空花等も「会不会にあらざる三界唯心あり」と云わるべきか。「声前句後、光前絶後」とは、解脱の詞なるべし。此の「我喚遮箇作竹木」の詞を指す歟。「参徹すべし」とあり、能々此理を参学すべしと也。

 

いはゆる我喚遮箇作竹木、いまの喚作よりさきは、いかなる喚作なりとかせん。従来の八面玲瓏に、初中後ともに竹木なりとやせん。いまの喚作竹木は、道三界唯心なりとやせん、不道三界唯心なりとやせん。

詮慧

〇「八面玲瓏と云うより不道三界唯心」までは、光前絶後の釈也。

経豪

  • 是は「今の喚作より先は、如何なる喚作也とかせん」とあれば、椅子とも三界唯心ともこそ云いぬべけれども、「従来の八面玲瓏に、初中後ともに竹木なりとやせん」とは、此の喚作竹木の道は、三界唯心の上に談ずる詞なれば、三界唯心なるべしと云う道理もあるべき也。此理の上には、「不道三界唯心也」と云う道理もあるべき也。

 

しるべし、あしたに三界唯心を道取するには、たとひ椅子なりとも、たとひ唯心なりとも、たとひ三界なりとも、ゆふべに三界唯心を道取するには、我喚遮箇作竹木と道取せらるゝなり。

詮慧

〇「暮に三界唯心を道取するには」と云う、是は朝(あした)に三界唯心を道取するにはと云いつる故に、「暮れ」にと云う詞はあり。たとえば前後ともに道取也と云う心也。先にも我喚遮箇作竹木と云うも、又後にも如此云うと心得なり。

経豪

  • 「朝暮」の詞、強ちここには其要なし。只所詮「三界と唯心と椅子と竹木」と総じて取り放ちたるまじき道理一体なる上は、此の詞(を)とかく云い替えて、面はあらぬ様なれども、只「三界唯心」を説く道理なるべし。たとえば朝には仏性を道取すとも、夕には蚯蚓と道取せらるとも。又朝には諸法と談ずれども、暮には実相と道取せらるる也と云わんが如しと云う道理也。仏法と云う事、只皆此の道理なるべし。さればこそ解脱の理なれ、詞にも関わらず、何と談ずれども、総て一法に拘わらぬと云うは、此理なるべし。此道理(の)又恐らくは、祖門の所談に非ずば、此理あるべからず。

 

真応道の桂琛亦喚作竹木、しるべし、師資の対面道なりといふとも、同参の頭正尾正なるべし。

しかありといへども、大師道の喚遮箇作竹木と、真応道の亦喚作竹木と、同なりや不同なりや、是なりや不是なりやと参究すべきなり。

詮慧

〇「大師道の喚遮箇作竹木と、真応道の亦喚作竹木と、同也や不同也や、是也や不是也やと参究すべき也」と云う、この「喚作竹木」は、詞(は)同じけれども、大師の上にも此の詞一つ、真応の上にも此の詞一つと心得は、「同不同」ともに道得也。たとえば七仏の法道は七仏の如し、迦葉仏の法道は迦葉仏の如し。釈迦牟尼仏の法道は釈迦牟尼仏の如しと云わんが如し。「是不是」も同じく恁麽也、昔より云いふるさるる詞を挙げて謂わんと云いて、やがて先の詞を云う事あり。これ其の人の上にはふりざる詞也。新しく仕うと心得也。

経豪

  • 「師資の対面道なる条、実(に)顕然也。所詮師資二人の詞(を)、「頭正尾正」と云わる。只一物一体なる理を表す也。
  • 是は「大師道与真応(の)同也」と云う条は、先ず勿論(に)非可疑。「不同也」と云うは、「大師道の喚遮箇作竹木と、真応道の亦喚作竹木」と云う詞をば、寄せ付けて、只大師道の喚遮箇作竹木と云う詞にてあらんの心地は「不同」なるべきなり。大師道与真応道、只同じ詞を述べらるる面は又同じなるべし。此の心地を「同也や不同也や」とは云う也。さればとて打ち任して心得、同不同の不可混也。只所詮至りて一体なる姿を、如此とかく談ずれば、総て道理の違する事はなくて、しかも解脱の理は現るる也。「是不是」の詞(は)、「三界唯心」の上の是不是なるべし。

 

大師云、尽大地覓一箇会仏法人不可得。この道取をも審細に辨肯すべし。しるべし、大師もたゞ喚作竹木なり、真応もたゞ喚作竹木なり。さらにいまだ三界唯心を会取せず、三界唯心を不会取せず。三界唯心を道取せず、三界唯心を不道取せず。

しかもかくのごとくなりといへども、宗一大師に問著すべし、覓一箇会仏法人不可得はたとひ道著すとも、試道看、なにを喚作してか尽大地とする。おほよそ恁麼参究功夫すべきなり。

詮慧

〇「なにを喚作してか尽大地とする、おおよそ恁麼参究功夫すべき也」と云う、何を喚ぶべしと云わず、又喚ばずと云わず。三界をや尽大地と喚ぶべからん。椅子竹木をや云うべからん。それは蹔く置く、只大師の詞、「尽大地覓一箇会仏法人不可得」と云う、此の「不可得」を得ずとは心得まじ。「会仏法」と云う時は、不可得の道理也。いま「尽大地は三界唯心」と心得なり。親切なるゆえに、尽大地は三界唯心と謂わぬなり。その道理は椅子と云いし時も、椅子ぞ三界唯心と云わざりき。「大師もただ喚作竹木なり、真応もただ喚作竹木なり、さらに三界唯心を道取せず、三界唯心を不道取せず、しかもかくの如くと云えども、宗一大師に問著すべし」とあるにて可心得。

経豪

  • 是は文に聞きたり。「大師も真応も、ただ喚作竹木の詞許りあり、さらに三界唯心を会取せず、三界唯心を不会取せず」とは、喚作竹木と三界唯心とは只同一物也、一体也。然而ここには只喚作竹木の詞許りありて、三界唯心と云う詞のなき所を、「三界唯心を会取せず」とは蹔く云う也。会取せねばとて、努々(ゆめゆめ)悪しくもなり、不足なるべき詞とは、不可心得。一方を証する時、一方は暗し(『現成公案』・注)と云う程の義也。会取不会取・道得不道得の詞(は)、例事也。かかるゆえに、此の道理を述べらるる時、大師道の「尽大地覓一箇会仏法人不可得」とは被仰也。只所詮喚作竹木にてありなんの意趣なるべし。又「会仏法人不可得」と云う詞も、会仏法はいみじく、不会仏法は悪しく、得失勝劣の心地にはあらず。会仏法の道理の上に、不会仏法の理があればこそ、ぶっぽの巧みに縦横無窮なる心地なれ。ここには交り物もなく、不会仏法にて有りなんと云う心地也。今大師道の尽大地覓一箇会仏法人不可得の詞は、不会仏法にあたるなり。此の心なるべし。
  • 是は「尽大地」と云えば、大地は別にして、其の上に不会仏法人の有るかと心得られぬべし。然者依法仏法、能所彼此ありぬべし。不可然所を抑も大師の「尽大地」と被仰たるは、「なにを喚作して尽大地」とは被仰たるぞと。「試道看すべし」とは、方丈(の)御詞を添えらるる也。実(に)此の詞、尤其謂あり。能所彼此の見解一定発しぬべし。所詮今の「尽大地」と云わるるは、「椅子竹木・三界唯心」等の各々の姿を以て尽大地とすべきなり。乃至大師・真応等を以ても、「尽大地」と可談なり。

三界唯心(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。