正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵嗣書

正法眼蔵第三十九 嗣書

    序

佛佛かならず佛佛に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ證契なり、これ單傳なり。このゆゑに無上菩提なり。佛にあらざれば佛を印證するにあたはず。佛の印證をえざれば、佛となることなし。佛にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上なりと印することあらん。佛の印證をうるとき、無師獨悟するなり、無自獨悟するなり。このゆゑに、佛佛證嗣し、祖祖證契すといふなり。この道理の宗旨は、佛佛にあらざればあきらむべきにあらず。いはんや十地等覺の所量ならんや。いかにいはんや經師論師等の測度するところならんや。たとひ爲説すとも、かれらきくべからず。佛佛相嗣するがゆゑに、佛道はたゞ佛佛の究盡にして、佛佛にあらざる時節あらず。たとへば、石は石に相嗣し、玉は玉に相嗣することあり。菊も相嗣あり、松も印證するに、みな前菊後菊如如なり、前松後松如如なるがごとし。かくのごとくなるをあきらめざるともがら、佛佛正傳の道にあふといへども、いかにある道得ならんとあやしむにおよばず、佛佛相嗣の祖祖證契すといふ領覧あることなし。あはれむべし、佛種族に相似なりといへども、佛子にあらざることを、子佛にあらざることを。

「当巻」は道元禅師(以下禅師は略す)研究に於いては各所から考察可能な貴重な「巻」である。㈠「七十五巻配列」では『葛藤』巻冒頭に於ける「嗣法これ葛藤」を承ける形で第三十九に配置されるが、提唱日もしくは内容面から第五十一「面授」第五十二「仏祖」に前後しての配列が妥当と思われる。㈡唯一の真筆完本。㈢駒沢大学禅文化歴史博物館所蔵(後藤覚兵衛(寛文年間1661―1673)→伊予松平家(大正十三年・1924)→古美術商・里見忠三郎(昭和二十八年・1953)→所在不明→駒大(平成十九年・2007)に至る。(石井修道著『仏祖・嗣書・面授考』参照)

「仏々必ず仏々に嗣法し、祖祖必ず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単伝なり。この故に無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するに能わず。仏の印証を得ざれば、仏と成ることなし。仏にあらずよりは、誰かこれを最尊なりとし、無上なりと印する事あらん」

冒頭部は「仏祖必ず仏祖に嗣法」とする処の仏祖を仏と祖に分節し説くもので、この手法は随所に見受けられるものであるが、意味する趣旨は「仏」と「祖」との同格・同等性を説くもので、そこでは「嗣法」内容が「証契」「単伝」と異句同義語として述べられ、その事実を「無上菩提」と定められるわけです。証契とは前巻『葛藤』でも説かれた「師資同参」を示唆するもので、単伝とは尽十方界真実人が真実人と為ること、つまりは眼前真実相を認得する事ですから、「無上菩提」とも言い得るものです。

この無上菩提は真実相を体現する「仏」でなければ仏を印可証明するは不可能で、印証が不得ならば仏(真実人)と為る事なし。と、嗣法と嗣書との関係には印証が必須の要件との見解ですが、ここでの嗣書とは単なる書き物・印刷物を指すのではなく、真実相の具現する一事物を方便宜的に嗣法と呼ばしめるものです。

真実人の仏でなかったならば、どうして「最尊なり無上なり」との形容を以て示す事があろうか。と、冒頭に於いては嗣法の高遠さを説かれます。

「仏の印証を得る時、無師独悟するなり、無自独悟するなり。この故に、仏々証嗣し、祖々証契すと云うなり。この道理の宗旨は、仏仏にあらざれば明らむべきにあらず。いわんや十地等覚の所量ならんや。如何にいわんや経師論師等の測度する処ならんや。たとい為説すとも、彼ら聞くべからず」

「仏の印証を得る」とは、仏から印する証しを受け得るの意ではなく、仏は真実人そのものですから対外的な師匠が居るわけではなく、また自我も無く、「独悟」とは尽十方界そのものと同化する状態を云うものです。

ですから(この故に)、仏が仏を嗣法(証嗣)し、祖が祖を証契(嗣法)すると言うのである。この仏々証嗣・祖々証契の道理の大事な所(宗旨)は、各人が「仏々」の真実人でなければ明瞭には出来るものではないのである。所謂は仏々は唯仏与仏とも置換できるものです。

ましてや「十地の菩薩(修行階梯の十地行)や仏位前の等覚(十地行後の等覚・妙覚)」の量る所や「経師論師」等の教学者の測り渡す処ではない。喩え説得しても彼ら(十地等覚・経論師)は聴き入れる耳目は備わってはないであろう。

「仏々相嗣するが故に、仏道はただ仏々の究尽にして、仏々にあらざる時節あらず。たとえば、石は石に相嗣し、玉は玉に相嗣する事あり。菊も相嗣あり、松も印証するに、みな前菊後菊如々なり、前松後松如々なるが如し」

仏と仏が相方嗣続するわけですから、「仏道はただ仏々の究尽」とは明らかに唯仏与仏乃能究尽を説かんとするもので、「仏々にあらざる時節」はないと言われるわけです。具体例として「石→石」「玉→玉」と天然鉱物を示し、次いで「菊」「松」と植物を例示しますが、これらは無機物・無情物ではありますが、ともに「相嗣・印証」すると説かれる事は、これらの石・玉・菊・松等も仏祖に列することを示唆するものです。この連続態を前三々後三々に擬(なぞら)えて、「前菊後菊如々」「前松後松如々」と尽界は真実一杯で有るとの文面に仕立てられます。

「かくの如くなるを明らめざる輩、仏々正伝の道に逢うといえども、如何にある道得ならんと怪しむに及ばず、仏々相嗣の祖々証契すと云う領覧ある事なし。憐れむべし、仏種族に相似なりと云えども、仏子にあらざる事を、子仏にあらざる事を」

これまで説いてきたような、真実相の相嗣相伝を明確に出来ない連中では、「仏々正伝の道」に巡り合っても十地等覚・経論師等に於いては、如何なる語言(道得)を使用するかなど疑う事もなく、また「仏々相嗣・祖々証契」する理解(領覧)が彼らにはないのである。憐れむべきことで、彼ら十地等覚の相貌は仏の集団(仏種族)に酷似(相似)ではあるが、「仏子・子仏」とは云い難い事実である。この仏子と子仏は単に文字の入れ替えではなく、「仏」を強調する時の打ち返し語である。

これにて「本巻」の序論とし、「仏々相嗣の時の嗣法」の重要性を述べられました。

 

    一

曹谿あるとき衆にしめしていはく、七佛より慧能にいたるに四十祖あり、慧能より七佛にいたるに四十祖あり。この道理、あきらかに佛祖正嗣の宗旨なり。いはゆる七佛は、過去莊嚴劫に出現せるもあり、現在賢劫に出現せるもあり。しかあるを、四十祖の面授をつらぬるは、佛道なり、佛嗣なり。しかあればすなはち、六祖より向上して七佛にいたれば四十祖の佛嗣あり。七佛より向上して六祖にいたるに四十佛の佛嗣なるべし。佛道祖道、かくのごとし。證契にあらず、佛祖にあらざれば、佛智慧にあらず、祖究盡にあらず。佛智慧にあらざれば、佛信受なし。祖究盡にあらざれば、祖證契せず。しばらく四十祖といふは、ちかきをかつかつ擧するなり。これによりて、佛佛の相嗣すること、深遠にして、不退不轉なり、不斷不絶なり。その宗旨は、釋迦牟尼佛は七佛以前に成道すといへども、ひさしく迦葉佛に嗣法せるなり。降生より三十歳、十二月八日に成道すといへども、七佛以前の成道なり。諸佛齊肩、同時の成道なり。諸佛以前の成道なり、一切諸佛より末上の成道なり。さらに迦葉佛は釋迦牟尼佛に嗣法すると參究する道理あり。この道理をしらざるは、佛道をあきらめず。佛道あきらめざれば佛嗣にあらず。佛嗣といふは、佛子といふことなり。

これより曹谿慧能と釈迦仏に対する「相嗣」観が説かれます。

「曹谿ある時衆に示して云く、七仏より慧能に至るに四十祖あり、慧能より七仏に至るに四十祖あり。この道理、明らかに仏祖正嗣の宗旨なり。いわゆる七仏は、過去荘厳劫に出現せるもあり、現在賢劫に出現せるもあり。しかあるを、四十祖の面授をつらぬるは仏道なり、仏嗣なり」

曹谿六祖大鑑慧能(638―713)がある時、示衆して云うには(過去)七仏(毘婆尸仏から釈迦仏まで)より慧能に至るまで四十祖(魔訶迦葉から曹谿までは三十三人+七人)あり、逆に慧能より七仏に至るも四十祖なり。と述べるが「灯録」等には確認されず、『仏道』巻冒頭では「曹谿古仏、あるとき衆にしめしていはく、慧能より七仏にいたるまで四十祖あり」(「岩波文庫」㈢十一)と、同じく『古仏心』巻冒頭に於いても「祖宗の嗣法するところ、七仏より曹谿にいたるまで四十祖なり。曹谿より七仏にいたるまで四十仏なり」(「岩波文庫」㈠一九九)と同義文が確認されます。

この連綿と嗣続される道理は、明らかに「仏祖正嗣」の肝腎(宗旨)な処である。七仏には「過去荘厳劫」「現在賢劫」に出現すると記すが、『景徳伝灯録』に記す「毘婆尸仏・過去荘厳劫第九百九十八尊、尸棄仏・荘厳劫第九百九十九尊ー略ー拘留孫仏・見在賢劫第一尊ー略ー釈迦牟尼仏・賢劫第四尊」(「大正蔵」五一・二〇四)を参照されたものと思われますが、このような説明は此の箇所のみです。

このように四十祖にわたる面前授受を連綿と行持する事が「仏道」であり「仏を嗣ぐ」ことである。

「しかあれば即ち、六祖より向上して七仏に至れば四十祖の仏嗣あり。七仏より向上して六祖に至るに四十仏の仏嗣なるべし。仏道祖道、かくの如し。証契にあらず、仏祖にあらざれば、仏智慧にあらず、祖究尽にあらず。仏智慧にあらざれば、仏信受なし。祖究尽にあらざれば、祖証契せず。しばらく四十祖と云うは、近きをかつかつ挙するなり」

「六祖向上七仏四十祖、七仏向上六祖四十仏」は先の曹谿示衆の焼き直しですが、この表現態は(「嗣書草案本」仁治二年1241)→『古仏心』巻(寛元元年1243四がつ二十九日)→『仏道』巻(寛元元年九月十六日)→『嗣書・修訂本』巻(寛元元年九月二十四日)と連脈し、穿った見方をするならば興聖寺時代には、これらの提唱本もしくは吉峰時代の講義録の草稿本は出来上がっていたものと推察される。

仏道祖道」はかくの如しと、連脈する仏嗣が仏祖道であるを一旦分解し「仏」と「祖」の同態性を再確認するもので、その仏嗣に「証契・仏智慧・祖究尽」がなければ仏祖にあらざる。と、仏道祖道と解体分節し再び仏祖云々と論じる手法は、概説的カテゴライズを避ける論述です。そこで「四十祖」という具象例示する意味を、身近な事例をとりあえず(かつかつ)挙げてみるものである、との四十祖の意を説明されます。

「これによりて、仏々相嗣する事、深遠にして、不退不転なり、不断不絶なり。その宗旨は、釈迦牟尼仏は七仏以前に成道すと云えども、久しく迦葉仏に嗣法せるなり。降生より三十歳、十二月八日に成道すと云えども、七仏以前の成道なり。諸仏斉肩、同時の成道なり。諸仏以前の成道なり、一切諸仏より末上の成道なり。さらに迦葉仏釈迦牟尼仏に嗣法すると参究する道理あり。この道理を知らざるは、仏道を明らめず。仏道明らめざれば仏嗣にあらず。仏嗣と云うは、仏子と云う事なり」

この仏と仏の相嗣する事実は、「深遠・不退不転・不断不絶」と、仏法の連続態・峻厳性の説き方です。

このこの深遠・不退不転・不断不絶の意味する(宗旨)処は、「釈迦牟尼仏は七仏以前に成道するが、久しく迦葉仏に嗣法する」との述法で、一般論理(ロゴス)では捉え難いものですが、総合的把捉(レンマ)または説話と史実の両面から捉え直すことで、これらの話法は難なく解せられます。

「降生より三十歳、十二月八日成道」は『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二〇五中)もしくは『梵網経』(「大正蔵」二四・一〇〇三下)などに引かれ、また「七仏以前の成道・諸仏斉肩同時の成道・一切諸仏末上の成道」の表明も仏々の深遠・不退不転・不断不絶を表するものです。

これらの論理から「迦葉仏釈迦牟尼仏に嗣法」と時代を超越した「参究道理あり」と、多少理屈っぽい説明のようですが、この道理を知らずは仏道を明らかに出来ず、仏道を明らかに出来なければ仏を嗣ぐと云う「仏嗣にあらず」と、仏法の深遠性を説かれる少なからず概説的言い分で、その「仏嗣と云うは仏子と云う事なり」とは、ことば遊びにも似た表態でしょうか。

釋迦牟尼佛、あるとき阿難にとはしむ、過去諸佛、これたれが弟子なるぞ。釋迦牟尼佛いはく、過去諸佛は、これ我釋迦牟尼佛の弟子なり。諸佛の佛儀、かくのごとし。この諸佛に奉覲して、佛嗣し、成就せん、すなはち佛佛の佛道にてあるべし。この佛道、かならず嗣法するとき、さだめて嗣書あり。もし嗣法なきは天然外道なり。佛道もし嗣法を決定するにあらずよりは、いかでか今日にいたらん。これによりて、佛佛なるには、さだめて佛嗣佛の嗣書あるなり、佛嗣佛の嗣書をうるなり。その嗣書の爲體は、日月星辰をあきらめて嗣法す、あるいは皮肉骨髓を得せしめて嗣法す。あるいは袈裟を相嗣し、あるいは拄杖を相嗣し、あるいは松枝を相嗣し、あるいは拂子を相嗣し、あるいは優曇花を相嗣し、あるいは金襴衣を相嗣す。靸鞋の相嗣あり、竹篦の相嗣あり。これらの嗣法を相嗣するとき、あるいは指血をして書嗣し、あるいは舌血をして書嗣す。あるいは油乳をもてかき、嗣法する、ともにこれ嗣書なり。嗣せるもの、得せるもの、ともにこれ佛嗣なり。まことにそれ佛祖として現成するとき、嗣法かならず現成す。現成するとき、期せざれどもきたり、もとめざれども嗣法せる佛祖おほし。嗣法あるはかならず佛佛祖祖なり。第二十八祖、西來よりこのかた、佛道に嗣法ある宗旨を、東土に正聞するなり。それよりさきは、かつていまだきかざりしなり。西天の論師法師等、およばずしらざるところなり。および十聖三賢の境界およばざるところ、三藏義學の呪術師等、あるらんと疑著するにもおよばず。かなしむべし、かれら道器なる人身をうけながら、いたづらに教網にまつはれて透脱の法をしらず、跳出の期を期せざることを。かるがゆゑに、學道を審細にすべきなり、參究の志気をもはらすべきなり。

釈迦牟尼仏、ある時阿難に問わしむ、過去諸仏、これ誰が弟子なるぞ。釈迦牟尼仏云く、過去諸仏は、これ我釈迦牟尼仏の弟子なり。諸仏の仏儀、かくの如し。この諸仏に奉覲して、仏嗣し成就せん。即ち仏々の仏道にてあるべし」

ここで扱う話頭出典は『宗門統要集』一〇頁「世尊嘗与阿難行次ー略ー阿難云、過去諸仏是什麽人弟子。仏云、是吾弟子。阿難云、応当如是」(『禅学典籍叢刊』第一巻)と思われ(前出「石井論文」参照)、この「過去諸仏」は過去七仏に相当する為、前言の「七仏以前の成道・同時の成道・諸仏以前の成道」とも矛盾なく説かれます。

このように「諸仏の仏儀」は深遠・不退不転・不断不絶するを「諸仏に奉覲・仏嗣し・成就する」を「仏々の仏道にてあるべし」と合説するわけです。

「この仏道、必ず嗣法するとき時、定めて嗣書あり。もし嗣法なきは天然外道なり。仏道もし嗣法を決定するにあらずよりは、いかでか今日に到らん。これによりて、仏々なるには、定めて仏嗣仏の嗣書あるなり、仏嗣仏の嗣書を得るなり。その嗣書の為体は、日月星辰を明らめて嗣法す、或いは皮肉骨髄を得せしめて嗣法す。或いは袈裟を相嗣し、或いは拄杖を相嗣し、或いは松枝を相嗣し、或いは払子を相嗣し、或いは優曇花を相嗣し、或いは金襴衣を相嗣す。靸鞋の相嗣あり、竹篦の相嗣あり」

仏道に於いては「嗣法」=「嗣書」は相即相入的関係を、ここに来て始めて嗣書を登場させます。この嗣法の行持が無いならば「天然外道」であり白家の行李である。仏道は不断不絶の嗣法が決定されて来た事で今日に到るわけである。

仏々相嗣を標榜するには、「仏嗣仏の嗣書」が付きものであり、その為体(ていたらく・ありよう)は「日月星辰・皮肉骨髄・袈裟・拄杖・松枝・払子・優曇花・金襴衣・靸鞋・竹篦」それぞれの相嗣がある。との事ですが、謂う所は人面の文書交換を相嗣と言うのではなく、尽界のあらゆる事物・事象の現成を「相嗣」と定むものです。具体的には日月星辰は自然、皮肉骨髄は肉身、袈裟・拄杖・松枝・払子は日常の調度、優曇花・金襴衣は釈迦と魔訶迦葉との啐啄、靸鞋・竹篦は大陽警玄と投子義青の代付(『普灯録』二「続蔵」七九・二九六上)を表出するものです。

「これらの嗣法を相嗣する時、或いは指血をして書嗣し、或いは舌血をして書嗣す。或いは油乳を以て書き、嗣法する、共にこれ嗣書なり。嗣せる者、得せる者、共にこれ仏嗣なり。まことにそれ仏祖として現成する時、嗣法必ず現成す。現成する時、期せざれども来たり、求めざれども嗣法せる仏祖多し。嗣法あるは必ず仏々祖々なり」

ここで嗣法を相嗣する具体的方法を「指血・舌血・油乳」を用いて書嗣し嗣法すると挙げられますが、古来から血判で以て真実性を表明する事は、どの社会でも行われた普遍性に通底するものです。

これら媒体は違っても嗣書そのものであり、嗣法する者、嗣書を得た者は共々仏を嗣ぐ者である。学人が仏祖として現成する時には嗣法は必然的に眼前現成し、縁起の道理によって期待しなくても嗣法は来参し、自ら求めなくても一期一会の縁起により嗣法する仏祖は多く、嗣法ある処々には必ず仏々祖々の真実底が具現するものである。

「第二十八祖、西来よりこのかた、仏道に嗣法ある宗旨を、東土に正聞するなり。それより先は、曾て未だ聞かざりしなり。西天の論師法師等、及ばず知らざる処なり。及び十聖三賢の境界及ばざる処、三蔵義学の呪術師等、有るらんと疑著するにも及ばず。悲しむべし、彼ら道器なる人身を受けながら、いたづらに教網に纏われて透脱の法を知らず、跳出の期を期せざる事を。かるが故に、学道を審細にすべきなり、参究の志気を専らすべきなり」

ここで「第二十八祖」菩提達磨を例に、ダルマ尊者がインド(西来)よりこれまで、仏道には嗣法ある宗旨(大切な趣旨)を支那(東土)に正伝した事を「正聞するなり」と説かれます。それより前は嗣法の概念は中国にはなく、教義仏教のみが横行していた事情を、このように説明するものですが、もちろん史実としては虚論であります。

インド(西天)に於いても論師法師等の教学者の間では嗣法の概念も実際知らなかったと。また教律論の三蔵学者を呪術師と呼称する処にも、教学と実修との相違を道元流観点から見た場合の位置づけが垣間見られます。続けて三蔵を参究する人を評して、仏道を実証できる人身を授けられながら、教文の網に葛藤せられ、その網からの透脱方法を知らず、ましてや跳び出す時期を期せざるは、なんと悲しむべきか。との痛切な思いで語られるもので、このように教網に纏われないようにと、吉峰学徒に呼び掛ける言として「学道を審細に努め、参究の志気を専一にすべきなり」と、「学」とは実修する学仏であることを説かれる、山内衆に対する言表と為ります。「当巻」では、これまでを前半の概説的説明とし後半に入ります。

 

    二

道元在宋のとき、嗣書を禮拝することをえしに、多般の嗣書ありき。そのなかに、惟一西堂とて、天童に掛錫せしは、越上の人事なり、前住廣福寺の堂頭なり。先師と同郷人なり。先師つねにいはく、境風は一西堂に問取すべし。あるとき西堂いはく、古蹟の可觀は人間の珍玩なり、いくばくか見來せる。道元いはく、見來すくなし。ときに西堂いはく、吾那裏に壱軸の古蹟あり。甚麼次第なり、與老兄看といひて、携來をみれば、嗣書なり。法眼下のにてありけるを、老宿の衣鉢のなかよりえたりけり。惟一長老のにはあらざりけり。かれにかきたりしは、初祖摩訶迦葉、悟於釋迦牟尼佛。釋迦牟尼佛、悟於迦葉佛。 かくのごとくかきたり。道元これをみしに、正嫡の正嫡に嗣法あることを決定信受す。未曾見の法なり。佛祖の冥感して兒孫を護持する時節なり。感激不勝なり。

これより在宋当時の様子を具体的かつ詳細に語られます。

道元在宋の時、嗣書を礼拝する事を得しに、多般の嗣書ありき。その中に、惟一西堂とて、天童に掛錫せしは、越上の人事なり、前住広福寺の堂頭なり。先師と同郷人なり。先師つねに云く、境風は一西堂に問取すべし」

これから懐古の談になるわけで、留学僧の時代には多くの嗣書を礼し拝することが出来、先ず第一に「惟一西堂」に関しては此の箇所でのみ語られ、天童寺の前は広福寺の堂頭であったと紹介するが、「西堂」は他山の前住を「東堂」を当寺の前住とするが、この惟一和尚は越上の人事というから浙江省寧波周辺の出身で、如浄(1162―1227)と同郷人であり互いに信頼し合っていた為に、「境風(地元の様子)は一西堂に問取すべし」と言い放ったものと思われる。

「ある時西堂云く、古蹟の可観は人間の珍玩なり、幾ばくか見来せる。道元言く、見来少ななし。時に西堂云く、吾那裏に壱軸の古蹟あり。甚麼次第なり、与老兄看と云いて、携来を見れば、嗣書なり」

「ある時」とは如浄が入山した嘉定十七年(1224)七、八月以降とする。その時の西堂の惟一和尚が云うには、古人の墨蹟を観るべきものは人間にとって宝(珍玩)ではあるが、どれほど見て来たか。と尋ねられて、ほとんど見来なし。と答えるは、天童山に掛搭して最初期の頃の証しである。さらに西堂が云うには、吾那裏(自分の所)に一軸の古蹟があり、甚麼次第(それならばと、くだけた口語体)老兄(道元)と一緒に看ましょう。と云って携来した物を見れば嗣書であった。という処ですが、「吾那裏」「甚麼次第」「与老兄看」は明らかな漢文で、「当巻」草稿は仁治二年(1241)で、この問答は嘉定十七年(1224)ですから十七年前の記憶を辿りながらのものとは考えられず、メモ書きか備忘録の類いを参照しての事でしょうが、その記録媒体には、このように口語体で示されていた貴重な資料である。

「法眼下のにて有りけるを、老宿の衣鉢の中より得たりけり。惟一長老のには有らざりけり。かれに書きたりしは、初祖摩訶迦葉、悟於釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏、悟於迦葉仏。 かくの如く書きたり。道元これを見しに、正嫡の正嫡に嗣法あることを決定信受す。未曾見の法なり。仏祖の冥感して児孫を護持する時節なり。感激不勝なり」

西堂が携来した嗣書は法眼文益(885―958)門下の僧が所持したものであったようで、南宋後期にも少なからず法眼宗の勢力が有った事が窺われる。惟一長老の嗣書ではなく「老宿の衣鉢の中より得たる」とは、天童山にて遷化した老宿僧の嗣書を意味し、それには「初祖摩訶迦葉、悟於釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏、悟於迦葉仏」と書かれたものは初めて見られたようで、「正嫡の正嫡に嗣法」ある事実を感激勝えず、まさに青年僧道元の一途な側面を「仏祖の冥感して児孫を護持する時節」と、溢れこぼれんばかりの感動・感激が、こちらにも流れ伝うようである。

因みに道元禅師自身は初めて嗣書を御覧になられた訳ではなく、入宋前の承久三年(1221)九月と貞応二年(1223)正月に、明全から栄西門下の付法がされている(『道元禅師在宋中の軌跡』佐藤秀孝著)ことや、栄西が虚庵懐敞からの禅戒血脈を明全を通じて受け嗣いだ(『道元禅師の嗣書と禅戒血脈をめぐって』菅原昭英・公開講演)とされる事を勘案すれば、建仁寺時代にはすでに嗣書や法系図の類いは慣れ親しんでいたのである。

雲門下の嗣書とて、宗月長老の天童の首座職に充せしとき、道元にみせしは、いま嗣書をうる人のつぎかみの師、および西天東地の佛祖をならべつらねて、その下頭に、嗣書うる人の名字あり。諸佛祖より直にいまの新祖師の名字につらぬるなり。しかあれば、如來より四十餘代、ともに新嗣の名字へきたれり。たとへば、おのおの新祖にさづけたるがごとし。摩訶迦葉阿難陀等は、餘門のごとくにつらなれり。ときに道元、宗月首座にとふ、和尚、いま五家宗派をつらぬるに、いさゝか同異あり。そのこゝろいかん。西天より嫡々相嗣せらば、なんぞ同異あらんや。宗月いはく、たとひ同異はるかなりとも、たゞまさに雲門山の佛は、かくのごとくなると學すべし。釋迦老子、なにによりてか尊重佗なる、悟道によりて尊重なり。雲門大師、なにによりてか尊重佗なる、悟道によりて尊重なり。道元この語をきくに、いさゝか領覧あり。いま江浙に大刹の主とあるは、おほく臨濟雲門洞山等の嗣法なり。しかあるに、臨濟の遠孫と自稱するやから、まゝにくはだつる不是あり。いはく、善知識の會下に參じて、頂相壱副法語壱軸を懇請して、嗣法の標準にそなふ。しかあるに、一類の狗子あり、尊宿のほとりに法語頂相等を懇請して、かくしたくはふることあまたあるに、晩年におよんで、官家に陪錢し、一院を討得して、住持職に補するときは、法語頂相の師に嗣法せず、當代の名譽のともがら、あるいは王臣に親附なる長老等に嗣法するときは、得法をとはず、名譽をむさぼるのみなり。かなしむべし、末法惡時、かくのごとくの邪風あることを。かくのごとくのやからのなかに、いまだかつて一人としても佛祖の道を夢にも見聞せるあらず。おほよそ法語頂相等をゆるすことは、教家の講師および在家の男女等にもさづく、行者商客等にもゆるすなり。そのむね、諸家の録にあきらかなり。あるいはその人にあらざるが、みだりに嗣法の證據をのぞむによりて、壱軸の書をもとむるに、有道のいたむところなりといへども、なまじひに援筆するなり。しかのごときのときは、古來の書式によらず、いさゝか師吾のよしをかく。近來の法は、たゞその師の會にて得力すれば、すなはちかの師を師と嗣法するなり。かつてその師の印をえざれども、たゞ入室上堂に咨參して、長連牀にあるともがら、住院のときは、その師承を擧するにいとまあらざれども、大事打開するとき、その師を師とせるのみおほし。

「雲門下の嗣書とて、宗月長老の天童の首座職に充せし時、道元に見せしは、いま嗣書を得る人の次ぎ上の師、及び西天東地の仏祖を並べ連ねて、その下頭に、嗣書得る人の名字あり。諸仏祖より直に今の新祖師の名字に連ぬるなり。しかあれば、如来より四十余代、ともに新嗣の名字へ来たれり。喩えば、おのおの新祖に授けたるが如し。摩訶迦葉阿難陀等は、余門の如くに連なれり」

次には天童山の夏安居首座であった宗月(伝不詳)長老は、雲門文偃(864―949)―雪竇重顕(980―1052)の雲門下の嗣書を見参したとの記事ですが、この時期は明記されませんが恐らく嘉定十六年(1223)七月もしくは翌年の嘉定十七年(1224)の四月から七月までの夏安居中の事と推察される。

道元禅師に宗月が見せた嗣書の形式は、宗月和尚の師匠の名があり、続けて西天東地四十余人を並べ連ね、その下に宗月首座の名字あり。

釈迦仏より新祖師(宗月)まで四十余代、「おのおの新祖に授けたるが如し」の表現からすると末広がり型嗣書形式であったようです。ただし魔訶迦葉(Mahakasyapa)・阿難陀(Ananda)などは別の門流のように書き示されていた。

「時に道元、宗月首座に問う、和尚、いま五家宗派を連ぬるに、聊か同異あり。そのこころ如何。西天より嫡々相嗣せらば、なんぞ同異あらんや。宗月云く、たとい同異遥かなりとも、只まさに雲門山の仏は、かくの如くなると学すべし。釈迦老子、何によりてか尊重佗なる、悟道によりて尊重なり。雲門大師、なにによりてか尊重他なる、悟道によりて尊重なり。道元この語を聴くに、聊か領覧あり」

嗣書見得の折、道元禅師が宗月首座に問うは「敬意を以て和尚と呼び掛け、中国大陸にはいま五家(雲門・法眼・潙仰・曹洞・臨済)の宗派間の書き方には、多少(聊か)の違い(同異)があるが、その意味(こころ)如何。インド(西天)から嫡々相嗣するなら、どうして同異(違い)があろうか」と問うに、宗月が云うには「たとえ同異が多大でも、実に雲門山の仏は、このように学するのである。釈迦老子は、何故に他から尊重されたかは、悟道によって尊重されたのであり、雲門匡真(864―949)大師は何によって尊重他なるかは、釈迦老子と同じく悟道によって他から尊重されるのである」との宗月和尚の語言を聴くと、道元聊か(少しばかり)の領覧(うなづく)するものである。と、当時を回想しての文章と思われます。(備忘録であるなら、几帳面な人柄からすると年月日が記録されるはずである)

「いま江浙に大刹の主とあるは、多く臨済雲門洞山等の嗣法なり。しかあるに、臨済の遠孫と自称する族、ままに企つる不是あり。云く、善知識の会下に参じて、頂相壱幅・法語壱軸を懇請して、嗣法の標準に供う。しかあるに、一類の狗子あり、尊宿のほとりに法語・頂相等を懇請して、隠し蓄うること数多あるに、晩年に及んで、官家に陪銭し、一院を討得して、住持職に補する時は、法語・頂相の師に嗣法せず、当代の名誉の輩、或いは王臣に親附なる長老等に嗣法する時は、得法を問わず、名誉を貪るのみなり。悲しむべし、末法悪時、かくの如くの邪風ある事を。かくの如くの族の中に、未だ曾て一人としても仏祖の道を夢にも見聞せるあらず」

この文言では、これまで紹介してきた「惟一和尚」た「宗月長老」とは真逆な、名聞利養に固執する人僧の一面を叱声するものです。

いま江浙(江蘇・浙江省)にある大寺院の住持職にある者は、多くは臨済・雲門・洞山などの流れを汲む法嗣者である。そうではあるが、自らを臨済義玄の遠孫と自称する族には、時々不是を企てる者がいる。彼らの云い分は、善知識(指導者)の門下(会下)にに参加して、頂相壱幅(上半身肖像画)や法語壱軸(掛け軸)を懇請(お願い)して、嗣法の標準(目安)として準備するのである。

さらに不是なる一類の狗子(やから)が居て、尊宿(長老)の周辺で頻りに法語・頂相などを懇請して隠し蓄えるは数多く、晩年に及んでは朝廷(官家)に上納(陪銭)して一寺院を入手(討得)して、住持職に補任される時には法語・頂相を懇請した善知識には嗣法はせず、その時代の名の売れた僧家や王族や家臣に親しい長老などに嗣法する時には、自他ともに得法は問題にせず名誉を貪るばかりである。

末法悪世の悲しむべき邪風である。このような博徒(やから)の連中には、これまで一人として仏祖道を夢也未見在である。という嘆きの回想であるが、この言例は現代の令和や平成の時代にも、人間生活の場面に於ける調度の一側面である。

「おおよそ法語・頂相等を許す事は、教家の講師および在家の男女等にも授く、行者・商客等にも許すなり。その旨、諸家の録に明らかなり。或いはその人にあらざるが、妄りに嗣法の証拠を望むによりて、壱軸の書を求むるに、有道の痛む処なりと云えども、なまじいに援筆するなり。しかの如きの時は、古来の書式によらず、聊か師吾の由を書く。近来の法は、ただその師の会にて得力すれば即ち、かの師を師と嗣法するなり。曾てその師の印を得ざれども、ただ入室上堂に咨参して、長連牀にある輩、住院の時は、その師承を挙するにいとまあらざれども、大事打開する時、その師を師とせるのみ多し」

法語や頂相は特定の人に授けるものではなく、教学の講師や在家の男女、寺院の行者や商人にも与える事は、諸家の記録に明らかである。との教示ですが、現に天福元年(1233)の中秋(八月)の頃には俗弟子である楊光秀や、文暦元年(1234)から嘉定元年(1235)にかけては大宰府の野公大夫、さらには野助光に書き与えた文言が『永平広録』に採録される所である。

或いは本人に嗣法する資格もないのに、妄りに嗣法の証拠を望んで一軸の書を求める為に、有道の学人の胸の痛める処ではあるが、心ならずも援筆するのである。そのような時には、古来の書式によらず、ただ吾を師とする(師吾)との理由を書くのである。

近頃の方法では、師の門下で力量を得れば、その時点で師の法を嗣ぐのである。しかし参学する師の印可を得ず、ただ入室聞法・上堂咨参・長連牀での打坐を勤行する者が、寺院の住職となる時は、その師承(誰の法を承けたか)を挙する暇もないのであるが、一生参学の大事打開する時には、その会下での師を師匠とする者が多いのである。これまでが雲門下の宗月に対する評著です。

また龍門の佛眼禪師清遠和尚の遠孫にて、傳といふものありき。かの師傳藏主、また嗣書を帶せり。嘉定のはじめに、隆禪上座、日本國人なりといへども、かの傳藏やまひしけるに、隆禪よく傳藏を看病しけるに、勤勞しきりなるによりて、看病の勞を謝せんがために、嗣書をとりいだして、禮拝せしめけり。みがたきものなり。與儞禮拝といひけり。それよりこのかた、八年ののち、嘉定十六年癸未あきのころ、道元はじめて天童山に寓直するに、隆禪上座、ねんごろに傳藏主に請じて、嗣書を道元にみせし。その嗣書の様は、七佛よりのち、臨濟にいたるまで、四十五祖をつらねかきて、臨濟よりのちの師は、一圓相をつくりて、そのなかにめぐらして、法諱と花字とをうつしかけり。新嗣はをはりに、年月の下頭にかけり。臨濟の尊宿に、かくのごとくの不同ありとしるべし。

「また龍門の仏眼禅師清遠和尚の遠孫にて、伝と云う者ありき。かの師伝蔵主、また嗣書を帯せり。嘉定の始めに、隆禅上座、日本国人なりと云えども、かの伝蔵病いしけるに、隆禅よく伝蔵を看病しけるに、勤労頻りなるによりて、看病の勞を謝せんが為に、嗣書を取り出だして、礼拝せしめけり。見難き物なり。与你礼拝と云いけり」

「龍門の仏眼禅師清遠和尚(1067―1120)」は『続蔵経』六八「古尊宿語録」二七―三四に分けて『舒州龍門仏眼和尚語録』として採録されます。また『嘉泰普灯録』十一(「続蔵」七九・三六〇中)では同門の圜悟克勤(1063―1135)と共録されます。法脈は臨済宗楊岐派に属し楊岐―白雲ー五祖ー仏眼と傍流に至り、圜悟は大慧宗杲ー仏照徳光ー大日能忍ー覚晏ー懐鑑ー懐奘ー義价と永平門下に連脈するものです。

その仏眼の遠孫で「伝」と云う学人が居て、その時の彼の役職が「蔵主」つまり蔵殿(看経堂と経蔵)の主管であったが、南宋嘉定年間には有名無実な役職であったようである(『禅学大辞典』下・七三九参照)が、天童山では「伝蔵主」と呼び慕われていたようである。

その彼が嘉定の始め(八年・1215)に病気になり、その時に看病に当たったのが日本からの留学僧であった「隆禅」で、その時に伝蔵主が自身の臨済宗楊岐派の嗣書を取り出して、嗣書というものは「見難きものであり、你(隆禅)と共に礼拝しよう」と云ったエピソードを紹介されます。

ここに登場する隆禅なる人物は『宝慶記』では道元が如浄に「菩薩戒序とは何ぞや」との問いに、如浄は「今隆禅師所誦戒序也」と説明されます。如浄も隆禅の動向に見入っていた証しの文言です。『永平広録』十・偈頌四二では「与郷間禅上座」と紹介し「錫駐玲瓏不動著、功夫辦道自然円」と、隆禅の気質を特筆されます。

また原田弘道氏は『道元禅師と金剛三昧院隆禅』に於いて「この隆禅と金剛三昧院二世の中納言法印仏眼房隆禅」なる人物を道元が示唆する隆禅との見解で、その根拠を『随聞記』二の「是れによって一門の同学五根房、故用祥(栄西)僧正の弟子なり、唐土の禅院にて持斎を固く守りて、戒経を終日誦せしをば、教えて捨てしめたりしなり」と又『高野春秋編年輯録』第八延応元年(1239)三月項の「金三院後職附与中納言法印仏眼房隆禅」に於ける共通項からの類推である。『随聞記』は嘉禎年間(1235―38)の講話録である為、その時点では両人は日本国内で法座を保ち、年齢の差違もなかったからこそ、天童山での隆禅から道元に対する嗣書の閲覧や、道元から隆禅への持斎の捨教などがあったのであろう。

「それよりこのかた、八年の後、嘉定十六年癸未秋の頃、道元始めて天童山に寓直するに、隆禅上座、懇ろに伝蔵主に請じて、嗣書を道元に見せし。その嗣書の様は、七仏より後、臨済に至るまで、四十五祖を連ね書きて、臨済より後の師は、一円相を作りて、その中に巡らして、法諱と花字とを写し書けり。新嗣は終わりに、年月の下頭に書けり。臨済の尊宿に、かくの如くの不同ありと知るべし」

この嘉定八年から八年後の嘉定十六年(1223)の秋(7・8・9月)の頃、「道元始めて天童山に寓直する」と記述されますが、『典座教訓』等に記される「同年(嘉定十六)七月間、山僧(道元)掛錫天童」云々とする所からも、「嘉定十六年癸未の秋の頃」とは1223年七月十五日以降の解制後と思われる。

その時、道元と隆禅は同じ日本人であり、かつ栄西門下の同学徒であり、さらに想像を逞しくすれば日本を発つ前から、天童山には同門の隆禅なる僧が安居中である事は、情報に有った可能性もある。

隆禅が根回しをし、伝蔵主に頼んで見せてもらった楊岐派の嗣書の様は、七仏から臨済義玄(7+38)までの計四十五人が列挙され、臨済より後の師(興化存奨)は、一円相の中には法諱法名)と花字(花押)を写してあった。と当時の様子を詳密に記し、その時の嗣書には「伝」の名が最後部にあり、嗣法の日付けの下辺に書いてあり、元は同じ臨済義玄を祖とする所が、慈明楚円の次世代から黄龍慧南と楊岐方会の二派に分かれ、楊岐派からも圜悟克勤と仏眼清遠に分派した有り様を「臨済の尊宿に、かくの如くの不同ありと知るべし」と、あとで述べる「了派蔵主」との比較を言うものです。

先師天童堂頭、ふかく人のみだりに嗣法を稱ずることをいましむ。先師の會は、これ古佛の會なり、叢林の中興なり。みづからもまだらなる袈裟をかけず。芙蓉山の道楷禪師の衲法衣つたはれりといへども、上堂陞座にもちゐず。おほよそ住持職として、まだらなる法衣、かつて一生のうちにかけず。こゝろあるも、物しらざるも、ともにほめき。眞善知識なりと尊重す。先師古佛、上堂するに、つねに諸方をいましめていはく、近來おほく祖道に名をかれるやから、みだりに法衣を搭し、長髪をこのみ、師号に署するを出世の舟航とせり。あはれむべし、たれかこれをすくはん。うらむらくは、諸方長老無道心にして學道せざることを。嗣書嗣法の因縁を見聞せるものなほまれなり、百千人中一箇也無。これ祖道淩遲なり。かくのごとくよのつねにいましむるに、天下の長老うらみず。しかあればすなはち、誠心辦道することあらば、嗣書あることを見聞すべし。見聞することあるは學道なるべし。

これは如浄の言動の中での嗣書・嗣法に拘わるものの筆録ですが、「当巻」最後部に記す如浄段の後部に差し替えた方が、文章の体裁として理に合するものです。草稿の段階での貴重な資料の為、敢えて付言するものである。

「先師天童堂頭、深く人の妄りに嗣法を称ずる事を誡む。先師の会は、これ古仏の会なり、叢林の中興なり。みづからも斑なる袈裟を掛けず」

「先師天童堂頭」は長翁如浄(1162―1227)を指し、如浄は常々嗣法に対する厳格性を説いていたようで、そのような事情から晋山に於いても嗣承香を焚かなかった理由があるのか。道元の観る如浄の道場は古仏に値するもので、叢林(サンガ)の中興であると絶賛するものです。また「まだら(斑)なる袈裟を掛けず」は『宝慶記』二十三則に示された「如浄住院以来不曾著斑袈裟也」からの援用のようです。

「芙蓉山の道楷禅師の衲法衣伝われりと云えども、上堂陞座に用いず。おおよそ住持職として、まだらなる法衣、曾て一生の内に搭けず。こころ有るも、物知らざるも、ともに誉めき。真善知識なりと尊重す」

この文言からすると芙蓉道楷から授受された衲法衣(袈裟)が如浄会下に伝来したにも拘わらず、生涯搭けなかったとの記事ですが、如浄の視点からは芙蓉山からの伝来する袈裟も糞掃衣ではないから執着の対象だったのかも知れません。また如浄の印象としては厳格性ばかりが強調されますが、山内に参集する雲水に対しては、向学心ある者は勿論、物を知らない初心の学道人も、共に「真善知識なりと尊重」する態度は、人間如浄を感ずる処である。

「先師古仏、上堂するに、常に諸方を誡めて云く、近来多く祖道に名を借れる族、妄りに法衣を搭し、長髪を好み、師号に署するを出世の舟航とせり。憐れむべし、誰かこれを救わん。恨むらくは、諸方長老無道心にして学道せざる事を。嗣書嗣法の因縁を見聞せる者なお稀なり、百千人中一箇也無。これ祖道淩遅なり」

「上堂するに」とある事から『如浄語録』等には採録されませんが、天童山での掛塔の折に自身が書き留めたものかも知れません。『宝慶記』十則では道元拝問として「今日天下長老、長髪長爪者、有何所據」との問い掛けに対し、如浄は「真箇是畜生也」との答話が向けられます。

如浄の云う「近来」とは五山に住持し始める嘉定三年(1210)から宝慶三年(1227)までを示し、祖道に名を借り、高価な斑衣を著け、剃髪を避け長髪にし、大師号・国師号を金銭で買い取り、それが出世の証しと心得る族の勢いには、祖道淩遅なりの声明しか出来なかったのであろう。このような状況下では嗣書や嗣法の哲理・因縁を見聞する者は、「百千人中一箇也無」とは授受の授する方の反省も必須であろう。

「かくの如く世の常に誡むるに、天下の長老恨みず。しかあれば即ち、誠心辦道する事あらば、嗣書あることを見聞すべし。見聞する事あるは学道なるべし」

この言評は道元によるもので、これらの苦言を公界の場である法堂での上堂説法時でも、先程の惟一西堂や宗月長老の態度は、如浄に反駁する事はなかったと。このように「誠心辦道」―「嗣書」―「見聞」―「学道」は一つの線上に収斂されるのである。

臨濟の嗣書は、まづその名字をかきて、某甲子われに參ずともかき、わが會にきたれりともかき、入吾堂奥ともかき、嗣吾ともかきて、ついでのごとく前代をつらぬるなり。かれもいさゝかいひきたれる法訓あり。いはゆる宗趣は、嗣はをはりはじめにかゝはれず、たゞ眞善知識に相見する的々の宗旨なり。臨濟にはかくのごとくかけるもあり。まのあたりみしによりてしるす。了派藏主者、威武人也。今吾子也。徳光參侍徑山杲和尚、徑山嗣夾山勤、勤嗣楊岐演、演嗣海會端、端嗣楊岐會、會嗣慈明圓、圓嗣汾陽昭、昭嗣首山念、念嗣風穴沼、沼嗣南院顒、顒嗣興化弉。弉是臨濟高祖之長嫡也。これは、阿育王山佛照禪師徳光、かきて派無際にあたふるを、天童の住持なりしとき、小師僧智庚、ひそかにもちきたりて、了然寮にて道元にみせし。ときに大宋嘉定十七年甲申正月二十一日、はじめてこれをみる、喜感いくそばくぞ。すなはち佛祖の冥感なり、燒香禮拝して披看す。この嗣書を請出することは、去年七月のころ、師廣都寺、ひそかに寂光堂にて道元にかたれり。道元ちなみに都寺にとふ、如今たれ人かこれを帶持せる。都寺いはく、堂頭老漢那裏有相似。のちに請出ねんごろにせば、さだめてみすることあらん。道元このことばをきゝしより、もとむるこゝろざし、日夜に休せず。このゆゑに今年ねんごろに小師の僧智庚を請し、一片心をなげて請得せりしなり。そのかける地は、白絹の表背せるにかく。表紙はあかき錦なり。軸は玉なり。長九寸ばかり、闊七尺餘なり。閑人にはみせず。道元すなはち智庚を謝す、さらに即時に堂頭に參じて燒香、禮謝無際和尚。ときに無際いはく、遮一段事、少得見知。如今老兄知得、便是學道之實歸也。ときに道元喜感無勝。

先には仏眼清遠和尚の法類である伝蔵主の「七仏より後、臨済に至るまで、四十五祖を書き、臨済以後から書法が、一円相の中に法諱と花字とを写し書く」嗣書を紹介されましたが、ここでは臨済の正系に列する無際了派(―1224)の嗣書を紹介されます。

臨済の嗣書は、まづその名字を書きて、某甲子われに参ずとも書き、わが会に来たれりとも書き、入吾堂奥とも書き、嗣吾とも書きて、嗣いでの如く前代を連ぬるなり。彼も些か云い来たれる法訓あり。いわゆる宗趣は、嗣は終わり始めに拘われず、ただ真善知識に相見する的々の宗旨なり。臨済にはかくの如く書けるもあり。まのあたり見しによりて記す」

臨済の嗣書」では、その本人の名字を書いて、「参吾」とも「来吾会」とも「吾が堂奥に入る」とも「吾れに嗣ぐ」とのバリエーションがある事を紹介されますが、これは道元自身が栄西や明全から伝法された「師資付法偈」等と、比較しての多様な書き用を明示されたのでしょうか。これまでが、実地に見聞する臨済系の嗣書の使用例です。

その嗣書の書き方にも、少なからず伝持されて来た法訓(おしえ)がある。その宗趣というのは、嗣法には終わり始めはなく、ただ真の指導者(善知識)に相見する事がはっきり(的々)した宗旨である。と記述する処は道元の言い分である。

具体事例として、臨済にはこのように書いたものもあり、目の当りに見聞した無際了派の嗣書を示されます。

「了派蔵主者、威武人也今吾子也。徳光参侍径山杲和尚、径山嗣夾山勤、勤嗣楊岐演、演嗣海会端、端嗣楊岐会、会嗣慈明円、円嗣汾陽昭、昭嗣首山念、念嗣風穴沼、沼嗣南院顒、顒嗣興化弉。弉是臨済高祖之長嫡也。これは、阿育王山仏照禅師徳光、書きて派無際に与うるを、天童の住持なりし時、小師僧智庚、密かに持ち来たりて、了然寮にて道元に見せし。時に大宋嘉定十七年甲申正月二十一日、始めてこれを見る、喜感いくそばくぞ。即ち仏祖の冥感なり、焼香礼拝して披看す」

この嗣書は仏照徳光(1121―1203)が無際了派(1149―1224)に与えたものであるから、了派が掛塔した叢林での役職名の蔵主を附したものと考えられるが、一般論では「了派者、威武人也」で充分である。「威武」とは現在の福建省一帯を指す総称であるが、南宋末期の景定四年(1263)に編纂された『枯崖和尚漫録』(「続蔵」一四八)には無際了派の出身地は「建安」とされ、建安は福建省内に在る建州を指すもので、徳光が了派に与えた嗣書では無際の出身地を福井県とでも云った書き方で、枯崖円悟が記す出身地は福井県吉田郡とでも記録したものである。他にも少々「無際」に関する情報として、慶元四年(1198)には常州江蘇省)の保安寺に入寺し、後に天童山景徳寺に移錫し、嘉定十七年(1224)夏安居前に遷座

仏照(拙庵)徳光(1121―1203)は径山の大慧宗杲(1089―1163)に参侍し、大慧は夾山の圜悟克勤(1063―1135)を嗣ぎ、克勤は楊岐の五祖法演(―1104)を嗣ぎ、法演は海会の守端(1025―1073)を嗣ぎ、守端は楊岐の方会(992―1049)を嗣ぎ、方会は慈明の楚円(986―1039)を嗣ぎ、楚円は汾陽の善昭(947―1024)を嗣ぎ、善昭は首山の省念(926―993)を嗣ぎ、省念は風穴の延沼(896―973)を嗣ぎ、延沼は南院の慧顒(860―930)を嗣ぎ、慧顒は興化の存弉(830―888)に嗣ぐ。存弉は是れ臨済義玄(―866)高祖の長嫡なり。

これ(嗣書)は「阿育王山仏照禅師徳光」とあることから、仏照徳光が阿育王山に住持したのは淳熙七年(1180)から十余年にわたり住し、紹熙四年(1193)から二年程は杭州万寿寺で過ごし、慶元元年(1195)から示寂の嘉泰三年(1203)三月二十日までの九年の両時節のいづれかに於いて、右の嗣書を授けられたものとする(石井修道著「嗣書」考・佐藤秀孝著「天童山の無際了派とその門流」など参照)。

この嗣書は無際了派の弟子の智庚が、嘉定十七年(1224)正月二十一日に了然寮(体調不全僧の寮舎)で密かに道元に見せてくれた。との意であるが、堂頭の了派は自身の法物を、第三者を通して新到の留学僧に見せしめた歟。若い道元の気持ちは「喜感はどれほどか、仏祖の冥感」であるとの感慨で、嗣書に対し「焼香礼拝し、披いて看た」との当時の状況ですが、一言の注却を附すならば、礼拝の対象を「嗣書」は紙片の一部とすれば、教家の如くと指摘されるも可とすべきであろうか。

「この嗣書を請出する事は、去年七月の頃、師広都寺、密かに寂光堂にて道元に語れり。道元因みに都寺に問う、如今たれ人かこれを帯持せる。都寺云く、堂頭老漢那裏有相似。後に請出懇ろにせば、定めて見する事あらん。道元この言葉を聞きしより、求むる心ざし、日夜に休せず。この故に今年懇ろに小師の僧智庚を請し、一片心を嘆て請得せりしなり。その書ける地は、白絹の表背せるに書く。表紙は朱き錦なり。軸は玉なり。長九寸ばかり、闊七尺余なり。閑人には見せず。道元即ち智庚を謝す、さらに即時に堂頭に参じて焼香、礼謝無際和尚。時に無際云く、遮一段事、少得見知。如今老兄知得、便是学道之実帰也。時に道元喜感無勝」

「去年七月」とは嘉定十六年(1223)七月の恐らく解制罷の事と考えられます。「師広」と云う名の僧で「都寺」の役職である者が、密かに「寂光堂」で道元に語れり。とあるが、都寺とは寺務一切を掌握する職。寂光堂とは方丈・大光明蔵に隣接する部屋であるが、その掛搭後しばらくして都寺和尚に臨済系の嗣書は「誰が所持するか」との問いには、「堂頭老漢の所にあり、丁寧に願い出れば見せてくれるだろう」。とのことばを聞いてからは日夜半年以上思い続け、今年嘉定十七年の一月二十一日に、無際の弟子の智庚に頼み込み、嗣書の閲覧ができた。との文言ですが、各文節に順逆があり実に分かりづらい草稿本であり未整理の配列である。

その嗣書の素地は、白絹の布に書いてあり、表紙は朱色の錦を使い、軸は玉を用い、長さ九寸(27㎝)ばかり、闊さ七尺(210㎝)余と紹介され、関わりのない人(閑人)には見せないと。

道元は智庚に謝辞し、即時に堂頭の方丈に参じて、無際和尚に焼香礼謝し、その無際の答話が、「この嗣書披看の事は、見知する者は少しで、如今老兄(道元)が知り得たのは、便ち是れが学道の実際に帰着する所である」との無際の言辞に「道元喜感無勝」の言は、先の惟一西堂との相見時の「感激不勝」と通底する入宋まもない若き道元の感嘆であったのだろう。

無際了派の嗣書披看の一月二十一日から三か月ほど(四月十五日以前)して、無際は世寿七十六歳・法臘五十二齢で示寂するわけであるから、謂うなれば最晩年の参学の弟子になり、また後継を浄慈寺住持であった長翁如浄に託し、その如浄が無際の後任として天童山景徳寺にて、道元を最晩年の直弟子として法を嗣がせた因縁は浅からぬものが在ったようである。

のちに寶慶のころ、道元、台山鴈山等に雲遊するついでに、平田の萬年寺にいたる。ときの住持は福州の元鼒和尚なり。宗鑑長老退院ののち、鼒和尚補す、叢席を一興せり。人事のついでに、むかしよりの佛祖の家風を往來せしむるに、大潙仰山の令嗣話を君擧するに、長老いはく、曾看我箇裏嗣書也否。道元いはく、いかにしてかみることをえん。長老すなはちみづからたちて、嗣書をさゝげていはく、這箇はたとひ親人なりといへども、たとひ侍僧のとしをへたるといへども、これをみせしめず。これすなはち佛祖の法訓なり。しかあれども、元鼒ひごろ出城し、見知府のために在城のとき、一夢を感ずるにいはく、大梅山法常禪師とおぼしき高僧ありて、梅花一枝をさしあげていはく、もしすでに船舷をこゆる實人あらんには、花ををしむことなかれといひて、梅花をわれにあたふ。元鼒おぼえずして夢中に吟じていはく、未跨船舷、好與三十。しかあるに、不經五日、與老兄相見。いはんや老兄すでに船舷跨來、この嗣書また梅花綾にかけり。大梅のをしふるところならん。夢草と符合するゆゑにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや。たとひもとむとも、をしむべきにあらず。道元、信感おくところなし。嗣書を請ずべしといへども、たゞ燒香禮拝して、恭敬供養するのみなり。ときに燒香侍者法寧といふあり、はじめて嗣書をみるといひき。道元ひそかに思惟しき、この一段の事、まことに佛祖の冥資にあらざれば見聞なほかたし。邊地の愚人として、なんのさいはひありてか數番これをみる。感涙霑袖。ときに維摩室大舎堂等に、閑闃無人なり。この嗣書は、落地梅綾のしろきにかけり。長九寸餘、闊一尋餘なり。軸子は黄玉なり、表紙は錦なり。道元、台山より天童にかへる路程に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師きたり、開花せる一枝の梅花をさづくる靈夢を感ず。祖鑑もとも仰憑するものなり。その一枝花の縱横は、壱尺餘なり。梅花あに優曇花にあらざらんや。夢中と覺中と、おなじく眞實なるべし。道元在宋のあひだ、歸國よりのち、いまだ人にかたらず。

この雲遊の時期を嘉定十七年(1224)二月頃から三月下旬指す(伊藤秀憲著『道元禅研究』一〇二頁参照)ものとする。

「のちに宝慶の頃、道元、台山鴈山等に雲遊する次いでに、平田の万年寺に到る。時の住持は福州の元鼒和尚なり。宗鑑長老退院の後、鼒和尚補す、叢席を一興せり。人事の次いでに、昔よりの仏祖の家風を往来せしむるに、大潙仰山の令嗣話を君挙するに、長老云く、曾看我箇裏嗣書也否。道元言く、いかにしてか看ることを得ん」

「宝慶の頃」の宝慶年間は1225―1227年であるが、前後の諸事情を考えると宝慶の前の嘉定十七年二月から三月となる。

「台山」は天台山浙江省台州天台県北方2キロにある霊山)の略称。「鴈山」は同省温州楽清県北に在る鴈蕩山。「平田の万年寺」は天台山中にある五山十刹の一つである万年報恩光孝禅寺を指す。この万年寺は師翁と敬慕する明庵栄西(1141―1215)が、二回目の渡宋時での虚庵懐敞(生没不詳)と契合した寺院であり、「遊山する次いで」と記されますが、明確に万年寺拝登は同門の仏樹房明全(1184―1225)の名代としての行脚であったようであり、元鼒(げんす)の応対ぶりから推察して、万年寺に対し相応なる布施・喜捨を為されたものとも考察できる。さらに栄西の『興禅護国論』では「于時炎宋淳煕十四年丁未(1187)の歲には、即ち天台山に登り万年禅寺に憩い、堂頭和尙に投じて敞禅師を師と為す」(原漢文「大正蔵」八十・一〇中)との記事を附録す。さらなる関連事項では『永平広録』四四一則(建長三年(1251)七月五日の栄西三十七回忌上堂では、師翁(明庵)と虚庵との問答が載録される。

元鼒の前住は宗鑑長老との事ですが、これは潭州(湖南省)寧郷県大潙山密印禅寺に住した咦庵宗鑑(「道元禅師在宋中の軌跡」七六〇頁・佐藤秀孝著)、また水野弥穂子氏は「月庵善果法嗣の石霜宗鑑(「岩波文庫」㈡・三八五)とする説がある。

その万年寺住職の元鼒との初相見の挨拶(人事)の次いでに、「大潙・仰山の令嗣話」(『真字正法眼蔵』中・一〇三則)を道元が取り挙げると、元鼒が云う処は「これまでに私の道場で嗣書を看た事は有るや否や(曾看我箇裏嗣書也否)と問われ、道元言うには「いかにしてか看ることを得ん」と答えた。との当時の懐古談ですが、元鼒としては後述する大梅法常との霊夢とが重畳した言動の様子が窺われる。

「長老即ち自ら立ちて、嗣書を捧げて云く、這箇はたとい親人なりと云えども、たとい侍僧の年を経たると云えども、これを見せしめず。これ則ち仏祖の法訓なり。しかあれども、元鼒日頃出城し、見知府の為に在城の時、一夢を感ずるに云く、大梅山法常禅師とおぼしき高僧ありて、梅花一枝を差し挙げて云く、もしすでに船舷を超ゆる実人あらんには、花を惜しむ事なかれと云いて、梅花を我れに与う。元鼒覚えずして夢中に吟じて云く、未跨船舷、好与三十。しかあるに、不経五日、与老兄相見。云わんや老兄すでに船舷跨来、この嗣書また梅花綾に書けり。大梅の教うる処ならん。夢草と符合する故に取り出だすなり。老兄もし我れに嗣法せんと求むや。たとい求むとも、惜しむべきにあらず」

元鼒長老はその場を立ち、自身の嗣書を持参して云うには、これ(這箇)は親しい人であっても、侍者僧の年配の僧にも見せない。と解せられるものですが、在宋当時の備忘録などの類いには事細かに詳細に筆録され、初相見でありながら、元鼒は青年僧道元を対等に扱いつつ嗣法までをも許す態度は、自身が住する万年禅寺に縁故ある日本僧道元が船舷を踏んでの求法と夢中での大梅法常との夢告との同次元であることは、当時の栂尾の明恵上人『夢記』を引くまでもないであろう。

この元鼒が話した「大梅法常と梅花一枝」話頭が相当に印象が強かったようで、次に説く帰路での「霊夢」や永平寺での上堂(三一九則・宝治三年三月頃1249)如浄と法常との因縁話を挙するものです。

元鼒の夢判断での「老兄もし我れに嗣法せんと求むや」とは、やや嗣法に対する感覚が軽率と捉えられがちですが、夢中と覚中を同格とするなら、まさに一夢は正夢だったのである。

道元、信感置く処なし。嗣書を請ずべしと云えども、ただ焼香礼拝して、恭敬供養するのみなり。時に燒香侍者法寧と云う有り、始めて嗣書を見ると云いき。道元密かに思惟しき、この一段の事、まことに仏祖の冥資にあらざれば見聞なお難し。辺地の愚人として、何の幸い有りてか数番これを見る。感涙霑袖。時に維摩室大舎堂等に、閑闃無人なり。この嗣書は、落地梅綾の白きに書けり。長九寸余、闊一尋余なり。軸子は黄玉なり、表紙は錦なり」

ある道元研究家によると、元鼒と道元との「大潙・仰山令嗣話」の問答力量では、格段に道元に軍配があり、万年寺住持の元鼒には「嗣法の何たるかは理解されていなかった」との論考が認められますが、この相見人事では互いの機縁が生じなかったと云うべきと思われる。

「燒香侍者法寧」の燒香侍者とは五侍者(侍香侍者・侍状侍者・侍客侍者・侍薬侍者・侍衣侍者)の内の役職名であり、法寧に関しては不詳。このように身近で仕える者も始めて嗣書を見た、という状況からも堂頭元鼒の思い入れが窺われる。

これらの数々の嗣書閲覧での感慨を「仏祖の冥資・辺地の愚人・感涙霑袖」と表現されますが、辺地の愚人の言い用には逆説的に、求法の僧であるとの自覚に満ちた語勢が感じ取られるものである。

維摩室・大舎堂」の維摩室は大宋淳熙乙酉歳(1189)九月望日に懐敞が栄西に菩薩戒を与えた(「授理観戒脈奥書」)ことから方丈の間である。そこは「閑闃無人」との閑も闃も、ひっそりとして人気のない語義である。

「落地梅綾」とは、綾織物の布地に梅の落花がデザインされたもの。

「長九寸余、闊一尋余」の長は縦の長さ27cm余り、闊は横の長さ一尋(ひろ)で、六尺で180cm余り。

道元、台山より天童に帰る路程に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師来たり、開花せる一枝の梅花を授くる霊夢を感ず。祖鑑もとも仰憑するものなり。その一枝花の縱横は、一尺余なり。梅花あに優曇花にあらざらんや。夢中と覚中と、同じく真実なるべし。道元在宋の間、帰国より後、未だ人に語らず」

前述は往路での主に平田の万年寺の堂頭と嗣書について語られましたが、これは復路での出来事です。

天台山から天童山の帰路に在る大梅山護聖寺(浙江省明州鄞県)の「旦過に宿する」の旦過は、旦過寮であり禅院での行脚僧等が数夜寄宿する寮舎であるが、現今の禅叢林でも安居に入る前の部屋として機能する重要な伽藍の一部である。

この大梅山護聖寺の旦過寮での霊夢は、前話の元鼒和尚の夢中説夢である大梅法常(752―839)の例え話が至極道元の脳内に入り込み、その余韻として「大梅禅師来たり、開花せる一枝の梅花を授くる」霊夢は夢中と覚中との区別がない現成する真実である。との見解は、中世社会を通貫するものであったようである(「親鸞六角堂夢告」(実夢)・「明恵夢記」など参照)。時代は下るが、江戸初期に不生禅を唱えた盤珪永琢(1622―1693)の時代の夢解釈では夢中と覚中を分離し、レム・ノンレム睡眠の考え方も説法で説かれたようである。

これらの霊夢の話題は在宋(1224)から仁治・寛元(1243)まで誰にも語らず胸中に暖めていたとの言です。

ここで残念に思われるのが、この時の遊山に於ける北鴈湯山の諸禅刹に立ち寄って居るとするが、具体的に何処に遊山したかは『諸本対校・建撕記』(十八頁)で云う「径山の万寿寺での如琰(1151―1225)や小翠巌の盤山思卓(ともに大慧派)」らとの交遊は何も語らず、また大梅山護聖寺では旦過寮での一夢を語るのみで、住持の動向は記せず、平田の万年寺訪問の目的は栄西に対する報恩供養法要および一山に対する喜捨と思われ、それは前年嘉定十六年(1223)七月五日の天童山景徳寺での、楮券千緡の布施・大会斎を承けてのものであったと思われ、嗣書の拝観は二次的なものであったのである。

いまわが洞山門下に、嗣書をかけるは、臨濟等にかけるにはことなり。佛祖の衣裏にかゝれりけるを、青原高祖したしく曹谿の几前にして、手指より淨血をいだしてかき、正傳せられけるなり。この指血に、曹谿の指血を合して書傳せられけると相傳せり。初祖二祖のところにも、合血の儀おこなはれけると相傳す。これ、吾子參吾などはかゝず、諸佛および七佛のかきつたへられける嗣書の儀なり。しかあればしるべし、曹谿の血気は、かたじけなく青原の淨血に和合し、青原の淨血、したしく曹谿の親血に和合して、まのあたり印證をうることは、ひとり高祖青原和尚のみなり。餘祖のおよぶところにあらず。この事子をしれるともがらは、佛法はたゞ青原のみに正傳せると道取す。

本来はこの箇所では、自身が如浄より授受された嗣書の具体的事例を記し、臨済と洞山門下の違いを表記する事が本来の主旨と思われるが、なぜか曹谿と青原との師資の浄血に留まるもので、いささか残念であり、ここで一旦書き終えた年月日を、于時日本仁治二年(1241)歳次辛丑三月二十七日観音導利興聖宝林寺 入宋伝法沙門道元記と奥書きされる。

初祖(達磨)二祖(慧可)や曹谿(六祖)青原に合血の儀があったなら、同じように曹谿・南嶽にも行われたはずであるが、「まのあたり印証を得る事は、ひとり高祖青原和尚のみなり。仏法はただ青原のみに正伝せると道取す」とは、やや我田引水的見方としか思われなくもない論考のようです。

 

先師古佛天童堂上大和尚、しめしていはく、諸佛かならず嗣法あり、いはゆる釋迦牟尼佛者、迦葉佛に嗣法す、迦葉佛者、拘那含牟尼佛に嗣法す、拘那含牟尼佛者、拘留孫佛に嗣法するなり。かくのごとく佛佛相嗣して、いまにいたると信受すべし。これ學佛の道なり。ときに道元まうす、迦葉佛入涅槃ののち、釋迦牟尼佛はじめて出世成道せり。いはんやまた賢劫の諸佛、いかにしてか莊嚴劫の諸佛に嗣法せん。この道理いかん。先師いはく、なんぢがいふところは聽教の解なり、十聖三賢等の道なり、佛祖嫡々の道にあらず。わが佛佛相傳の道はしかあらず。釋迦牟尼佛、まさしく迦葉佛に嗣法せり、とならひきたるなり。釋迦佛の嗣法してのちに、迦葉佛は入涅槃すと參學するなり。釋迦佛もし迦葉佛に嗣法せざらんは、天然外道とおなじかるべし。たれか釋迦佛を信ずるあらん。かくのごとく佛佛相嗣して、いまにおよびきたれるによりて、箇々佛ともに正嗣なり。つらなれるにあらず、あつまれるにあらず。まさにかくのごとく佛佛相嗣すると學するなり。諸阿笈摩教のいふところの劫量壽量等にかゝはれざるべし。もしひとへに釋迦佛よりおこれりといはば、わづかに二千餘年なり、ふるきにあらず。相嗣もわづかに四十餘代なり、あらたなるといひぬべし。この佛嗣は、しかのごとく學するにあらず。釋迦佛は迦葉佛に嗣法すると學し、迦葉佛は釋迦佛に嗣法すると學するなり。かくのごとく學するとき、まさに諸佛諸祖の嗣法にてはあるなり。このとき道元、はじめて佛祖の嗣法あることを稟受するのみにあらず、從來の舊窠をも脱落するなり。

この文書は奥書きに示すように寛元元年(1243)九月二十四日に吉峰(よしみね)寺に

て書き上げられたもので花押の印まで有し、一説には天福本「普勧坐禅儀」に有する花押と

違うことから「嗣書」を直筆ではないと疑する向きもあったが、道元は二種の花押を使用し

たであろうとの事である。

「先師古仏天童堂上大和尚、示して云く、諸仏必ず嗣法あり、いわゆる釈迦牟尼仏者、迦葉

仏に嗣法す、迦葉仏者、拘那含牟尼仏に嗣法す、拘那含牟尼仏者、拘留孫仏に嗣法するなり。

かくの如く仏々相嗣して、今に至ると信受すべし。これ学仏の道なり。時に道元申す、迦葉

仏入涅槃の後、釈迦牟尼仏はじめて出世成道せり。いわんやまた賢劫の諸仏、いかにしてか

荘厳劫の諸仏に嗣法せん。この道理いかん」

この問答様式からして、如浄から直接相い対しての事象と思われますが、『宝慶記』を検索しても同文は見当たりません。

先ず如浄の示す仏法では、厳格な嗣法があり、釈迦仏→迦葉→拘那含→拘留孫と仏々相嗣する学仏の道を信受すべしと提言されます。

これに対する道元の疑問点は、迦葉仏遷座して釈迦仏の出世成道が現実するのに、賢劫の諸仏(拘留孫仏・拘那含仏)や荘厳劫(毘婆尸仏尸棄仏毘舎浮仏)の諸仏が嗣法する道理は如何。とは理に適った質問で、現代の我々でも問いたい事項です。

「先師云く、汝が云う処は聴教の解なり、十聖三賢等の道なり、仏祖嫡々の道にあらず。わが仏々相伝の道はしかあらず」

先の道元による果てしない過去の嗣法の懐疑論に対しては、「聴教の解」つまり耳学問での理解であり、十聖三賢等の論蔵学者の道処であり、仏祖嫡々の道処とは云い難く、如浄が解する仏々相伝の道はしかあらず。と、文字仏道とは相違する嗣法観を次に説かれます。

釈迦牟尼仏、まさしく迦葉仏に嗣法せりと、習い来たるなり。釈迦仏の嗣法して後に、迦葉仏は入涅槃すと参学するなり。釈迦仏もし迦葉仏に嗣法せざらんは、天然外道と同じかるべし。たれか釈迦仏を信ずるあらん。かくの如く仏々相嗣して、今に及び来たれるによりて、箇々仏ともに正嗣なり。連なれるにあらず、集まれるにあらず。まさにかくの如く仏々相嗣すると学するなり」

如浄が説く仏教は釈迦仏を初祖とせず、釈迦は迦葉に、迦葉は拘那含に、拘那含は拘留孫に、拘留孫は毘舎浮に、毘舎浮は尸棄に、尸棄は毘婆尸仏にと、箇々の仏々相嗣すると学するを習う来たる。との見方は、いわゆるの大乗仏教的見方で、現今のインド仏教史的視点や上座部仏教的観点とは違するものです。

「諸阿笈摩教の云う処の劫量寿量等に関われざるべし。もしひとえに釈迦仏より起これりと云わば、わづかに二千余年なり、古きにあらず。相嗣もわづかに四十余代なり、新たなると云いぬべし。この仏嗣は、しかの如く学するにあらず。釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学し、迦葉仏は釈迦仏に嗣法すると学するなり。かくの如く学する時、まさに諸仏諸祖の嗣法にてはあるなり」

「諸阿笈摩教の云う処の劫量・寿量」とは、『長阿含経』序(「大正蔵」一・二上)の頌で云う「過九十一劫、有毘婆尸仏。次三十一劫、有仏名尸棄。即於彼劫中、毘舍如来出。今此賢劫中、無数那維歳」ならびに「毘婆尸時人、寿八万四千尸棄仏時人、寿命七万歳。毘舍婆時人、寿命六万歳。拘樓孫時人、寿命四万歳。拘那含時人、寿命三万歳迦葉仏時人、寿命二万歳。如我今時人、寿命不過百」を示唆するものです。 

「釈迦仏より起これりと云わば、わづかに二千余年、この仏嗣は、しかの如く学するにあらず」との如浄の指示ですが、「七十五巻正法眼蔵」での『仏性』巻(仁治二年1241十月)では「一切諸仏、一切祖師の参学し来たること二千百九十年、正嫡わづかに五十代(至先師天童浄和尚)」(「岩波文庫」㈠七二)と、また『安居』巻(寛元三年1245六月)でも「世尊在摩竭陀国、為衆説法、すでに二千一百九十四年」と釈迦仏を基準とし、その少し前では「九十日為一夏、一劫十劫のみにあらず、百千無量劫のみにあらず、九十日必ずしも劫波に関われず」(「岩波文庫」㈢四二四)と言うように、如浄の言説を額面通りに言語化するのではなく、あくまで現実的対応の様子が窺われるものです。

「釈迦仏は迦葉仏に、迦葉仏は釈迦仏に嗣法する」とは、単伝する紐帯を強調するもので、このように参学する時点にて「諸仏諸祖の嗣法がある」との、原則論を若き道元に教示する老和尚の懇切さが感じられる教説です。

「この時道元、始めて仏祖の嗣法ある事を稟受するのみにあらず、従来の旧窠をも脱落するなり」

この如浄の教説の時点では、すでに承久三年(1221)九月および貞応二年(1223)正月に明全から栄西門下の付法(「伝明全筆師資付法偈」)がなされ、また臨済宗黄龍派の「禅戒血脈」も明全から受け嗣いでいたと思われますから、やや誇張がかった言い方ですが、「釈迦仏は迦葉仏に嗣法し、迦葉仏は釈迦仏に嗣法する」といった教えは、一種のパラダイム転換をも意味する「従来の旧窠をも脱落する」教法であったのだろうとの記述を以て、この巻の注解作業を擱筆とする。