正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十六 無情説法 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十六 無情説法 (聞書・抄)

説法於説法するは、仏祖附嘱於仏祖の見成公案なり。この説法は法説なり。有情にあらず、無情にあらず。有為にあらず、無為にあらず。有為無為の因縁にあらず、従縁起の法にあらず。しかあれども、鳥道に不行なり、仏衆に為与す。大道十成するとき、説法十成す。法蔵附嘱するとき、説法附嘱す。

詮慧

〇「説法於説法」と云うは、打ち任せては説が能に仰せ、法は所の仰せて心得るを、これは能所なきゆえを、説法於説法と説くなり。又「説法」は、八相の其一として、転法輪を説法の時にあてて心得(は)、しかにはあらず。仏を習うには、非有非無非色などと説く。この時の説法いかなるべきぞ。又説法をば報応の二身の上に云い習いたり。然而三身即一不二(『菩提場経略義釈』「天台所説、一身即三身三身即一身、不三而三」・「大正蔵」六一・五三六中・注)と説く。不可限報応の二身、三身にわたるべし。又「説法」とは、仏の悟りを衆生に聞かしめんが為と習うは非也(は)、一分の義なり。凡そ「説法は法説に談じて、有情にあらず、無情にあらず。有為にあらず、無為にあらず、従縁起の法にあらず。しかあれども鳥道に不行也」と云う。

〇「威音王より先に説法に奉覲しきたれるなり」と云う(は)、「説法於説法」の道理(を)如此云う。「仏祖附嘱於仏祖」と云うも、汝得吾皮肉骨髄の義也。「説法は法説也」と違うる事は、法もとより仏の法とてあるを、今(は)口業の説と思うまであれ。法がやがて説と心得る時は、「法説」と云わるべき也。

〇「鳥道に不行なり」と云うは、説法於説法の道理也。鳥道は不行、法は為与なるなり。「鳥道」は跡なき事に仕う。但飛空の時こそ、跡は見えね。走地の時は、跡なかるべきにあらず。飛空の時も知らず、いかなる跡をか残すらん。境界離れぬる事は、おして難云、水に四見の不同あるが如し。仏法に鳥道を仕う慣い、鳥を主として、不行とも行とも云うにはあらず。ただ不行の鳥道と心得なり。仏も不行の仏あるべし、行不行に拘わるべからず。

〇「仏衆に為与す」と云う、仏の法は皆為与なるなり。仏の仏に為与するとなり。此の「衆」の字はもろもろと心得べし。たとえば諸仏と云う諸の如し。

経豪

  • 「無情説法」と云う名目(は)、先ず立耳様に聞こゆ。其の故は、草木瓦礫・山河大地等を無情と云い、心意識等を有情と思い習わしたり。此の旧見によりて、此の詞に迷う尤も謂われあり。但仏祖の法の上に、有情無情の差別の道理あるべしや、閑かに可了見事也。今の無情説法の姿と仏祖のあわいと、総て不可有差別事也。然者又説法と云えば、いかにも上聖の下位にこうぶらしめたる事、口業の能とのみ思い付けたり。仍て「無情説法」と云えば、争わざる事あるべきと、仰旧見驚疑するなり。早卒事也。就之今説法の様を被述に、今所談の説法と云う姿は、只説法が説法するなり。更に非能説所説儀、ゆえに「説法於説法」と云うなり。「仏祖附嘱」と云うも、彼是相対して、是を彼に不属すと心得る所を、今は「仏祖は仏祖に附嘱する見成公案也」と云わるるなり。如此談ずれば、能所を離れ彼此相対の旧見を止む也。然者此の「説法の道理が説法」と云わるべき也。此の説法の姿(は)、実に争か「有情無情、有為無為、従縁起等の法なるべき」(は)、勿論(の)事なり。又「鳥道に不行、仏衆に為与」とは、「鳥道」とは跡なき詞(で)、解脱の心地也。「仏衆に為与」とは、此の道理の上には、又仏衆(の)為に与うと云う義もあるべき也。是れ非相対の詞、唯仏与仏の道理なるべし。「大道十成」の、「大道」とは今の仏法の理を指す歟。「十成」とは満足円満の心地也。大道十成せば、説法も十成すべき理、必然なり。此の大道が説法なるゆえに、「法蔵附嘱する時、説法附嘱す」と云う(は)、只前の理なるべし。

 

拈華のとき、拈説法あり。伝衣のとき、伝説法あり。このゆゑに、諸仏諸祖、おなじく威音王以前より説法に奉覲しきたり、諸仏以前より説法に本行しきたれるなり。

説法は仏祖の理しきたるとのみ参学することなかれ。仏祖は説法に理せられきたるなり。

詮慧

〇仏拈華瞬目し御せしば、無言説也。又吾有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉と被仰せしも、百万衆こそ知らね聞かね。迦葉は仏言に通じて心得べき事のあるを、心得たるゆえに附属迦葉と被仰ぞと云う輩あり。邪見なり、拈華説法なり、有言説とも云うべし。吾有正法眼蔵と被仰ゆえに、これ説法也。三世諸仏の成道は、打ち任せては有情成仏と云うべし。無情成仏は天台一宗の義也、諸宗これを許さず。但天台の義にも、一仏成仏観見法界、草木国土悉皆成仏(『渓嵐拾葉集』「大正蔵」七六・五四九下・注)と云えど、松竹がやがて発心修行して、成仏すとも云わず。今大地有情同時成道と云う、何ぞ発心修行なからん。但余門には、発心修行をやがて成道とは云わず、この義こそ諸宗に超越すれ。今は能化の人ありて説法すと云わず、有情非情成仏して説法すと云わず、ただ説法於説法と体脱するなり。説不説に拘わらざるゆえに、説を人に付けて云うべからず。説は聞に付けて、不説の時は不聞とは心得まじ。有情(が)別にありて、聞法すべからず。

〇「仏祖は説法に理せられきたる」と云う、法ほとけを説くと心得る義也。

経豪

  • 「拈華・伝衣」などとの姿は、只表事にて印計りとこそ心得るを、是等をやがて法と取る也。又「威音王」と云うは、無始無終などと云う程の詞なり。説法は諸仏諸祖の能とこそ思い習わすに、「諸仏諸祖、同じく説法に奉覲し来たり、説法に本行し来たり」とあり。逆なるように聞こゆれども、此の説法の道理(の)、説法法説の道は、尤如此可被談也。親切の義なり。
  • 仏祖与説法のあわい(は)、如此あるべき也。同じ(く)先段(の)心地なり。

 

この説法、わづかに八万四千門の法蘊を開演するのみにあらず、無量無辺門の説法蘊あり。

先仏の説法を後仏は説法すと参学することなかれ。先仏きたりて後仏なるにあらざるがごとく、説法も先説法を後説法とするにはあらず。

詮慧

〇仏も久遠実成仏・声聞も内秘菩薩行の声聞也。非有情非非情、ゆえに前後にあらざる也。

〇「先仏きたりて後仏なるにあらざるが如く、説法も先説法を、後説法とするにはあらず」と云う。

経豪

  • 是は仏の説法五十年の間の説き給う所の法門多しと云えども、八万四千内には不越と云う詞に付けて、今の詞も出で来るか、実(に)此の説法(は)、無量無辺に際あるべからず。
  • 是は先仏後仏(と)、仏の成道を唱うる其の姿こそ替われども、所説の説法は同じと云う見解を止む為に如此云う也。先仏の説法は先仏の説法にて究尽し、後仏の説法は後仏の説法にて究尽して、ひきしろはせじと云う本意也。

 

このゆゑに、釈迦牟尼仏道、如三世諸仏、説法之儀式、我今亦如是、説無分別法。しかあればすなはち、諸仏の説法を使用するがごとく、諸仏は説法を使用するなり。

諸仏の説法を正伝するがごとく、諸仏は説法を正伝するによりて、古仏より七仏に正伝し、七仏よりいまに正伝して無情説法あり。

この無情説法に諸仏あり、諸祖あるなり。我今説法は、正伝にあらざる新条と学することなかれ。古来正伝は、旧窠の鬼窟と証することなかれ。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏道、如三世諸仏・・」、此の「道」をば三世諸仏(の)出世成道して説法し給うは、この説法(は)三世の諸仏の時の如しと心得て、仏をば世々に出で替われども、説法は先仏の古き説法を今も違えず用う様に聞こゆ。これは不相応也。仏に三世なし、又法に三世あるべからず。仏と法と能所あり、各別ありと心得る時こそあれ、烈焔互天、仏説法互天、烈焔法説仏と云う程に成りぬれば、説法と仏と都て無二なり。如三世説法諸仏之儀式と云うべし。我今亦如是、仏無分別仏なり。「我今亦如是」は、諸仏亦如是と可心得。我今の「我」は、釈尊の名乗らせ御すように聞こゆれども、世尊一仏に限らず、諸仏を指すべし。

〇仏には世を置かず、今の釈迦は大地有情同時成道と仰せらるれば、前後あるべからず。「如三世諸仏、説法之儀式」と云う、これも三世の諸仏は替わることなき証しに被引したるかと聞こゆれども、しかにはあらず。仏には三世なし、只一仏二仏の法があることを挙ぐる許り也。国土をはじめ、八相の様を同じと云わず。

〇「古仏より七仏に正伝し、七仏より今に正伝して無情説法あり」と云えば、古くより伝え来たるように聞こゆれども、「我今説法は、正伝にあらざる新条と学する事なかれ、古来正伝は旧窠の鬼窟と証する事なかれ」とあれば、説法を正伝とは心得れども、新しきぞ古きぞと証すべからずとなり。

〇「古来正伝は、旧窠の鬼窟と証することなかれ」と云う、この「証」の字は「旧窠」ぞ「鬼窟」ぞ、などと云う詞の下に出でくべしと覚えねども、これは「正伝」という詞に付けて心得也。更に鬼窟に付くべからず、ゆえに「証することなかれ」と云う。

経豪

  • 今被引出経文(『法華経』「方便品」・「大正蔵」九・一〇上・注)は、誤まりて日来の旧見の潤色となりぬべし。其の故は、「如三世諸仏、説法之儀式、我今亦如是、説無分別法」とあれば、三世の諸仏の説法の如しと例えに引かれて、「我今亦如是」とあれば、美しく潤色の文に聞こゆ。但此の文を被引出事は、過去の諸仏の説法は過去の諸仏の説法に際断し、現在の諸仏の説法は現在の諸仏の説法に際断し、未来諸仏の説法は未来諸仏の説法にて際断するなり。是三無差別の法門に不可違なり。ゆえに此の道理を「説無分別法」とは云う也。又「諸仏の説法を使用するが如く、諸仏は説法を使用する也」(と)、只同じ詞を説かるる「使用」とは、使い用うと云う詞也。是は過去の諸仏の説法を使用するが如く、現在の諸仏は説法を使用する也と云う程の道理なるべし。
  • 是も「正伝」と使用との詞の替わりたる許り也。使用も正伝も同心歟。「古仏・七仏」等の事(は)、先々事旧了。相対して彼より是に正伝すとは云うべからず。只法が法に正伝する也。右に所挙の道理どもを、今は無情説法と談之、故に「無情説法あり」とは被決也。
  • 此の無情説法を諸仏とも諸祖とも仕うゆえに、「無情説法に諸仏諸祖あり」とは云わるる也。「説法正伝にあらざる道理」(は)、先に是を談ず。此の説法の姿(を)、新とも古とも証すべきにあらず。新古の旧見に滞るべからざる事也。

 

大唐国西京光宅寺大証国師、因僧問、無情還解説法否。国師曰、常説熾然、説無間歇。僧曰、某甲為甚麼不聞。国師曰、汝自不聞、不可妨佗聞者也。僧曰、未審、什麼人得聞。国師曰、諸聖得聞。僧曰、和尚還聞否。国師曰、我不聞。僧曰、和尚既不聞、争知無情解説法。国師曰、頼我不聞。我若聞則斉於諸聖、汝即不聞我説法。僧曰、恁麼則衆生無分也。国師曰、我為衆生説、不為諸聖説。僧曰、衆生聞後如何。国師曰、即非衆生。無情説法を参学せん初心晩学、この国師の因縁を直須勤学すべし。

常説熾然、説無間歇とあり。常は諸時の一分時なり。説無間歇は、説すでに現出するがごときは、さだめて無間歇なり。

詮慧 大証国師

〇説を人に蒙ぶらしむるにあらず。ただ法の説く也、能聞所聞不可有。法外無人故に、聞を不置時、不聞と云う詞は不可有。不説の法と云う事あらんには、不聞尤あるべし。言句を説きて説かざるにてはなし。仏与法一同、迷与悟一同。聞与不聞一同、説

与不説一同の道理也。仏与衆生分つ時こそ迷悟あり、聞不聞もあれ。説不説、仏衆、聞不聞等(に)差別あるべくは、この国師の詞、都不可心得。

〇「無情還解説法否」の詞、此の問い(は)、不知の問いにもわたるべし。但又今の説法の様、不可似世間(の)詞。有情にあらず、無情にあらずと云う、委註右了。

〇これ説法を必定落居して云うに似たり。この説法未落居べし。只解不解の事ばかりを問うに似たり、早卒也。世間には有情の説法を聞くと許り心得たり。無情の説法を聞かざらんには、有情の説も聞くと(は)不可思。仏性は生の時ありて、死の時は、生の時の仏性も未心得也と云いしが如し。仏性は生の時もあり死の時もあり、又生の時もなく生の時もなきと知るべき也。

〇寸を問うて寸を答うと云う事あり。今の国師の答え(は)違いて聞こゆれども、先の説法の義にては、無情とも有情とも不可解。非無情非有情の説法こそ、、国師の「説無間歇」の詞には、符合すれ、解すべしやと云う。「解」の字は、ただ説法をやと云う心地なるべし。説法を別に置くべからず、解すべき別の法なし。

〇「国師曰、常説熾然、説無間歇」、此の答え(の)説法の義(は)、すでに世間に違わず。尽十方界沙門語と習う上(は)、誠(に)何の間歇かあるべき。

〇「僧曰、某甲為甚麼不聞」、此の問い(は)、又世間の詞にわたるべし。但今の説法に心得合わせん、又不可有相違。説法は可聞ものか、不可聞ものか、先ず此の事を可落居。説法於説法と云いて、能所なからん上は、不聞を不聞にはあらず。自他ありて他人に聞かしむると云う義なからんには、不聞の道理(を)反るべからざる上、仏法は聞不聞に滞るべきにあらず。

〇「国師曰、汝自不聞、不可妨佗聞者也」、此の道はもとより、能所を置かず、聞不聞に滞らざる上、今の詞に滞るべからず。

〇「僧曰、未審、什麼人得聞」、この道(は)、僧の心地未だ達せずにて、自らは聞かず。他の聞く者を不妨と云えば、これに付けて、什麽人が聞くべきと尋ねたるに似たれども、今の説法の心地(を)、可聞とも聞くまじとも、世間の説法のように云うべきにてもなし。只什麽人得聞の道理が、説法於説法に符合すべき也。

〇「国師曰、諸聖得聞」、此で道う聖人は、仏法の機なるゆえに聞き、余人は仏法に疎き故に不聞なる様に、示すと心得る人もあるべし。「諸聖と得聞」と(は)、非一非異、得否・会不会程に可心得歟。説法を聞かん者は、諸聖と云うべからず、ただ無情とこそ云うべけれ。雲巌後に無情説法・無常得聞と被仰故に。

〇「僧曰、和尚還聞否」、諸聖と凡夫と(は)勝劣ありて聞不聞あるべくは、和尚を諸聖に等しめて問うに似たり。但今の説法聞不聞に拘らず、また聞とも不聞とも定め難し。

〇「国師曰、我不聞」、是又問答となる許り也。別の儀あるべからず。上に諸聖(を)聞くと云えば、いま肯じて不聞と云うに似たり。但説法を委しく説かば、不聞の道理もあるべき歟。

〇「僧曰、和尚既不聞、争知無情解説法」、この問い(は)如文。和尚聞かざらんには、焉んぞ解する事あらん。

〇「国師曰、頼我不聞。我若聞則斉於諸聖、汝即不聞我説法」、此の道う「我不聞」とはあれども、「若聞則斉於諸聖」と見えたり。すでに諸聖に等しとあれば、得聞かと覚ゆ。「汝即不聞我説」はこの汝吾亦如是、汝亦如是の汝なるべき歟。然而「我」も「諸聖」も別なるべからず。「聞も不聞」も会不会程なるべき歟。「汝即不聞我説法」と云う(は)、説法(は)説法を聞かずとも云うべし。

〇「僧曰、恁麼則衆生無分也」、是は僧ありて、諸聖と衆生とを各別勝劣して、「衆生無分也」と云うか、不可然。法華の会にも、仏は久遠実成、仏所備機縁は菩薩なれば、外現是声聞(「五百弟子品」注)とも云う。然者我等は無分に似たり。然而諸法実相と体脱し、三界唯心と心得、また大地有情同時成道とも云うは、洩るべしや無分と云うべからず。説無間歇の道理も明らか也、いかでか無分なるべきや。

〇「国師曰、我為衆生説、不為諸聖説」、此の答えに聞こえたり。有分なるべしと云う事なし。都て仏法の上に、この衆生と諸聖とは談ずべし。

〇「僧曰、衆生聞後如何」、是もなお凡聖をも分かち、聞不聞をも差別したる心地に似たり。仏法に前後なし、前後法の事、見右。

〇「国師曰、即非衆生」、この道、尤有謂。無情説法に体脱せん上は、非衆生と云うべし。故に非説法とも云うべし、衆生説法と一なるべきゆえに。又仏法の上に談ぜんには、都て不可置衆生、ゆえに非衆生とも云うべき歟。衆生諸聖も、常説熾然、説無間歇の上には不可立哉。

〇大海不宿死屍などと云うも、大海の姿許りをこそ説け、死屍の様をば不解。然而大海不宿死屍と云い付けたるなり。

国師に問著すべし、衆生聞後は問わず。衆生正当(の)聞説法時如何と云う。

〇この定めならば、衆生未聞時如何とも問うべき歟。但説無間歇の義を失わずは不可有。未聞時、聞後聞已前不可相違歟。是「無情説法」の心なるべし。

〇「常は諸時の一分時也」と云う、是は時とも云われ、常とも云われ(は)、時刻の一つの名と心得べし。

経豪

  • この国師与僧(の)問答(は)、例え普通の問答に似たれども、不可有其義。先ず僧問の無情説法を解すやの問いも非不審。解と云う理もあるべし、不解と云う道理もあるべし。所詮此の重々の問答(は)、事が多いようなれども、只聞不聞の道理、汝与我のあわい、諸聖・衆生等の姿、国師与僧(の)間の道理を、とかく例被述也。事(は)委細なるようなれども、只一理也。「即非衆生」の詞は、無情説法と談ずる上は、非衆生と云わるべき理もあれども、只ここの「非衆生」は、衆生の上の非衆生と云わるる道理あるべしと云う心地也。
  • 是は此説の道理(の)、前後際断する時(に)、無間歇と云わるる也。常は一時の現成公案也。喩えば常なる時もあり、乃至迷なる時もあり、悟なる時節も有ると云う程の心地也。此説の道理の現出する時、「無間歇也」とは云わるるなり。

 

無情説法の儀、かならずしも有情のごとくにあらんずると参学すべからず。有情の音声および有情説法の儀のごとくなるべきがゆゑに。

経豪

  • 「無情説法」と云えば、高座に登りて法を説かんずるように思いぬべき所を、如此被釈也。又やがて次句に、「有情の音声、及び有情の説法の如くなるべし」とあれば、参差(しんし・不揃いな様・注)したるように聞こゆ。但前の詞の「無情説法儀、必ずしも有情の如くにあらんずると参学すべからず」とは、凡見の方を非嫌い、次句の「有情の音声、及び有情説法の儀の如くなるべきがゆえに」とは、法の上の所談の義なるべきがゆえに、如此被許也。

 

有情界の音声をうばうて無情界の音声に擬するは仏道にあらず。無情説法かならずしも声塵なるべからず。たとへば、有情の説法それ声塵にあらざるがごとくなり。しばらく、いかなるか有情、いかなるか無情と、問自問佗、功夫参学すべし。しかあれば、無情説法の儀、いかにかあるらんと審細に留心参学すべきなり。

詮慧

〇「しばらく如何なるか有情、如何なるか無情と問自問他功夫参学すべし」と云うは、無情説法と云うと(も)、有情説法と云わんと、この相替わる程の「問自問他」なるべし。

経豪

  • 有情界の音声の如くと心得て、無情界の音声をも擬せん、実(に)仏道なるべからず。無情説法、必ずしも声塵を用いると談ぜざるがゆえに。有情の説法も、声塵を以て説法とは不談也。抑も有情無情と云う事、いかにと可定ぞと云う事を、問自問他功夫すべしとなり。実にも祖門に所談の有情無情(は)、先ず此の一段を尤も可治定。其事如此被釈也。

 

愚人おもはくは、樹林の鳴条する、葉花の開落するを無情説法と認ずるは、学仏法の漢にあらず。もししかあらば、たれか無情説法をしらざらん、たれか無情説法をきかざらん。しばらく廻光すべし。無情界には草木樹林ありやなしや、無情界は有情界にまじはれりやいなや。しかあるを、草木瓦礫を認じて無情とするは不遍学なり。無情を認じて草木瓦礫とするは不参飽なり。

たとひいま人間の所見の草木等を認じて無情に擬せんとすとも、草木等も凡慮のはかるところにあらず。ゆゑいかんとなれば、天上人間の樹林、はるかに殊異あり、中国辺地の所生ひとしきにあらず。海裏山間の草木、みな不同なり。いはんや空におふる樹木あり、雲におふる樹木あり。風火等のなかに所生長の百草万樹、

おほよそ有情と学しつべきあり、無情と認ぜられざるあり。草木の人畜のごとくなるあり。有情無情いまだあきらめざるなり。

いはんや仙家の樹石花菓湯水等、みるに疑著およばずとも、説著せんにかたからざらんや。たゞわづかに神州一国の草木をみ、日本一州の草木を慣習して、万方尽界もかくのごとくあるべしと擬議商量することなかれ。

詮慧

〇「草木瓦礫を認じて無情とするは不遍学なり・・草木等も凡慮のはかる所にあらず・・天上人間の樹林はるかに殊異あり」、是(は)誠(に)海裏山間はありぬべし。此の外は人間に覚えざる者也。ただ愚かにして、不見不知にてこそあれ、地水火風の世間なり。この中より生長する草木と謂わざらんや。空に居する世間あり、これにも草木なからんや、我見の及ばざるなり。

〇「草木の人畜の如くなるあり」と云う、有情無情(は)何に付けて定むべしと難云。仏見は有情無情(の)能所なし。

経豪

  • 凡見の様を委被挙、文に分明也。仍略之。
  • 是(は)又天上人間の樹林殊異ある次第。中国(天竺の事也)辺地、乃至海裏山間の草木、空に覆い、雲に覆うる樹林風火等の中に生長する、百草万樹等の様(を)、委被釈之。如文。
  • 百草万樹の中にも、有情と学しつべきなり。則ち漢朝に蓂莢草、指侫草、神護草、寁(草カンムリ・注)莆草などと云いて、色々(の)草あり。蓂莢草は月の一日より葉一づつ日を経て咲て、十五日に至りぬれば都合十五葉の花咲きけり。十六日よりは次第々々に又一葉づつ日を経て落ちけり。晦日に至りぬれば十五葉の花皆落ちて、何もなく成りけり。是れ則ち無情を表す心也。堯の代に今の草は生じけり。指侫草は門の下、土の底に生じて、讒臣の参内する時は、土より出て足を刺し、忠臣の参内の時は、隠れて表れず。然者讒臣(は)王宮へ参内すること難し。此の草は黄帝の代に生じけり。神護草は二階の門の上に生じて、如強盗等の悪党入る時は、門上にて此の草夥しく鳴動し、物(が)具したるように鳴る。其の時(は)守門の兵も驚き、怪しみけり。是は伏戣氏の代に生じけり。寁莆草は帝の供御々膳等(の)備えたる傍らに生じて、夏など諸の虫類などのあるを、不退に歩きけり。昔は依帝徳如此草までも。いみじき振舞いともあり。如此なる草木(は)、誠(に)有情無情と明らめ難し。
  • 如文、仙家樹石花菓等、実(に)さこそはあるらめ。「見るに疑著不及とも」などが「説著かたからん」と也。
  • 此の条(は)尤有謂。如此天上人間、中国海裏山間等の殊異ある草木等、数多あるを不知不見にして、只纔かに神州一国、日本一州等の草木許りを知りて、「万方尽界も如此なるべし」と思う事なかれと也。況や仏法の上の所談、有情無情、草木樹林風水等、是等の境界所談にあらざるべし。能々閑可功夫道理也。

 

国師道、諸聖得聞。いはく、無情説法の会下には、諸聖立地聴するなり。諸聖と無情と、聞を現成し、説を現成せしむ。

無情すでに諸聖のために説法す。聖なりや、凡なりや。あるいは無情説法の儀をあきらめをはりなば、諸聖の所聞かくのごとくありと体達すべし。すでに体達することをえては、聖者の境界をはかりしるべし。さらに超凡越聖の通霄路の行履を参学すべし。

経豪

  • 「無情説法をば、諸聖立地聴するなり」、火焔裏にて三世諸仏説法せしを、後には又打ち返して、火焔説法せし時は三世諸仏立地聴せし程の義也。国師与諸聖、無情与説法が至りし親しく一物なる道理の上に、如此被談也。諸聖得聞とある「聞」、無情説法と云う「説」とを、彼是にもたせて、「聞を現じ説を現成せしむ」とは云う也。
  • 「聖」がいみじ(立派・素晴らしい・注)く、凡がいやし(粗末・見下す・注)きにあらず。聖にも凡にも当たるべきか。無情説法の道理を明らめなば、諸聖得聞のようも体脱しぬべし。体達せば、「聖者の境界ともはかり知るべし」となり。超凡越聖の通ずる道を、「参学すべし」と云う也。

 

国師いはく、我不聞。この道も、容易会なりと擬することなかれ。超凡越聖にして不聞なりや。擘破凡聖窠窟のゆゑに不聞なりや。恁麼功夫して、道取を現成せしむべし。

経豪

  • 国師の「我不聞」の詞も、不聞が失となる事あるべからず。聞の上の「不聞」の理(は)、不可始于今事也。「超凡越聖・擘破凡聖窠窟のゆえに不聞なるなり」(は)、得失に対したる非不聞。「擘破凡聖」とは、凡聖を引き破りたる詞也、所詮(は)解脱の義なるべし。

 

国師いはく、頼我不聞。我若聞則、斉於諸聖。この挙示、これ一道両道にあらず。

経豪

  • 国師は不聞と云い、諸聖は得聞と云う、此の聞・不聞(は)非得失。「我と不聞」と「聞と不聞」と(は)、只一物なり。「我は不聞とあるを、我もし有聞ならば、諸聖に斉しからん」と云うは、諸聖は得聞とある時に我もし聞ならば、諸聖と斉しからんと云う也。此の時の上には、諸聖不聞ならば、我に斉しからんと云う理もあるべき也。只所詮「我と諸聖」と「不聞と得聞」と(は)、一道理の上に如此云わるる也。得失にもあらず、浅深勝劣の儀にもあらざるべし。我と我と「不聞」也、諸聖と諸聖と「得聞」なる道理もあるべき也。此の上の道理が、「一道両道にあらず」とは云わるる也。

 

頼我は凡聖にあらず、頼我は仏祖なるべきか。仏祖は超凡越聖するゆゑに、諸聖の所聞には一斉ならざるべし。国師道の汝即不聞我説法の理道を修理して、諸仏諸聖の菩提を料理すべきなり。その宗旨は、いはゆる無情説法、諸聖得聞。国師説法、這僧得聞なり。この道理を、参学功夫の日深月久とすべし。

しばらく国師に問著すべし、衆生聞後はとはず、衆生正当聞説法時、如何。

経豪

  • 僧(の)事也。所詮「無情説法は諸聖得聞し、国師の説法は這僧得聞す」。今の国師与這僧(は)非別体。無情説法と諸聖と又非別物道理を、如此説かるる也。「この道理」とあるは、道理と云う詞を打ち返して、理道とあるか。道理と云えば、理非に対したる詞と聞こゆるを「理道」と云えば、理の外に又物の交わらぬ所が、さわさわと聞こゆるゆえに如此云歟。此の理を早卒ならず、「日深月久、能々可参学」と云う也。又諸聖も国師も説法も皆無情なるべし、又説法なるべし。ゆえに一道理を即心是仏のようにも釈すべき也。
  • 是は本の詞に、僧日、衆生聞後如何。国師云、即非衆生とあるを、「衆生聞後は問わず、衆生聞説法時は、如何なるべきぞ」と云うべしと、先師(の)被添御詞歟。「聞後は問わず、衆生正当聞説法時如何」とは、尤も問いすべき詞也。又衆生不聞時如何とも問しつべし。是等の心地を「正当聞説法時如何」と受けらるる也。此の道理は、正当聞説法時と云わば、「即衆生」とも答えしぬべし、又如前「非衆生」とも答えし。衆生正当聞説法時と、二度口真似をすとも、其の意趣(は)不可相違也。

 

高祖洞山悟本大師、参曩祖雲巌大和尚問云、無情説法什麼人得聞。雲巌曩祖曰、無情説法、無情得聞。高祖曰、和尚聞否。曩祖曰、我若聞、汝即不得聞吾説法也。高祖曰、若恁麼、即某甲不聞和尚説法也。曩祖曰、我説汝尚不聞、何況無情説法也。高祖乃述偈呈曩祖曰、也太奇也太奇、無情説法不思議、若将耳聴終難会、眼処聞声方得知。いま高祖道の無情説法什麼人得聞の道理、よく一生多生の功夫を審細にすべし。いはゆるこの問著、さらに道著の功徳を具すべし。この道著の皮肉骨髄あり、以心伝心のみにあらず。以心伝心は初心晩学の辦肯なり。衣を挙して正伝し、法を拈じて正伝する関棙子あり。いまの人、いかでか三秋四月の功夫に究竟することあらん。

詮慧 悟本大師段

〇「無情説法什麼人得聞」と云いし答に、「無情得聞」と云う。これは「聞」も無情なり、他の交わるべきなしと聞こゆ。「和尚聞否」と云いし答に、「我若聞、汝即不得聞吾説法也」とあり。この「聞」と云う詞(は)交わるべからずと聞こゆ。高祖(の)答うに、又「若恁麼、即某甲不聞和尚説法」とあり、悟道の所通(は)不聞なり。曩祖の御詞に、又「我説汝尚不聞、何況無情説法也」とあり。是も「不聞」の道理也。説人は得悟人、聞人は凡夫と不可謂。今は説法於説法程の事也。

〇又「無情説法(を)無情得聞」と云う(は)、和尚はやがて無情歟、非無情歟。無情ならば、又聞人ありやとも云う義(に)聞こゆ。「我若聞」ばとあれば、和尚無情とこそ聞こゆれ。又此の「我」字(は)曩祖歟。我と云うは汝を指すか、能々可参学。

〇無情説法を無情得聞と云う事を聞いては、誠(に)此義も云われたり。釈尊(が)法華を説き御座しましし時、多宝(如来)来たりて証明し給いしぞかし。これ仏の説法を又仏の規矩と覚え、今の無情説法(を)、無情得聞と云うに不可相違と思う(は)僻見なり。これ悤々(あわーてる・注)義なり。釈迦・多宝の二仏は、法華の一句二句なり。釈迦証明、多宝説法とも云うべし。これこそ説無間歇の義なれ。

〇先ず始めは、「高祖道の無情説法什麼人得聞の道理、よく一生多生の功夫を審細にすべし」と云う段なり、さしも煩わしかるべき様なし。人間界に思う無情ならびに説法ならばなどか、三秋四月の功夫にても叶わざらん。況や一生難知と云えども、長命の者あらば久しき功夫なるべし。多生までの功夫と勧めらる、尤も子細あるべし。所詮無情と云うも説法と云うも、離凡見可知。仏見ゆえに如此云うと可心得。「問著さらに道著の功徳を具すべし」と云うも、世間の理(ことわり)に超過すべし。「無情説法」と問いては、我等如所見、無情と云われん程のものの説法する様を案じ、聞かんずると思わば、無量劫にも難聞からん。無情と云えば、境界(を)離れたる様なり、衆生説法・衆生得聞と可心得。必ず(しも)無情が大功もなし、無情が他に超越して、仏法(と)なるにあらず。

経豪

  • 此の高祖道の「無情説法、什麼人得聞」の詞(は)、更(に)問うにあらず。無情説法の道理が、什麽人と云わるる上は、此の問著がやがて、道著なる道理を、「道著の功徳を具すべし」とは云う也。「此の道著の皮肉骨髄あり」と云う(とは)、不被心得。道著の皮肉骨髄と云う事や、あるべきと覚ゆれども、詮は此の問著が道著の功徳を具する理が、今(の)皮肉骨髄とも談ぜらるる所を如此云う也。又「以心伝心のみにあらず」とは、釈尊の拈優曇華、迦葉の破顔微笑の姿(は)、詞に表さずして目配せする所を、至極と常には思えり。其の見解を非せんとて、「以心伝心は初心晩学の辦肯也」と書かれたるなり。さればとて、以心伝心を始終、初心晩学とて嫌わんとにはあらず。此の理を落居しぬる上は、以心伝心も初心なるべからず、只学者の僻見を嫌うなり。もとより仏法には取捨の義なし、只一法究尽の理許り也。今は学者の無尽に意巧を以て、無辺際の法の上に、凡見を以て、とかく取捨分別の義を為す事を、返々被嫌也。「衣を挙して正伝し、法を拈じて正伝する関棙子あり」とは、以心伝心を前に如云。至極すと思う所を、衣を挙して正伝し、法を拈じても正伝する事もあるべしと云う也。只幾たびも懇ろに功夫参学すべしと云う心得也。今の人、三四月の間にやがて、争か功夫して究竟することあるらんとなり。

 

高祖かつて大証道の無情説法諸聖得聞の宗旨を見聞せりといへども、いまさらに無情説法什麼人得聞の問著あり。これ肯大証道なりとやせん、不肯大証道なりとやせん。問著なりとやせん、道著なりとやせん。

もし摠不肯大証、争得恁麼道、もし摠肯大証、争解恁麼道なり。

詮慧

〇「無情説法什麼人得聞の問著あり、これ肯大証道(国師の事也)なりとやせん、不肯大証道なりとやせん」と云う、是れ国師与僧(の)問答の時、什麼人得聞と問いしに、国師(の)諸聖得聞と被仰れしことを、いま洞山と雲巌と重ねて挙げらるる時に、国師の問答を聞かぬにてはあらじ。然者肯じて云うか、不肯にして云うかと知らしむるなり。肯・不肯と云うは、たとえば国師の詞を用うか不用かと云う也。「摠不肯大証、争得恁麼道、もし摠肯大証、争解恁麼道なり」と云う時に、「得」と「解」との詞こそ替われども用之。所詮国師と今の洞山・雲巌の義とは不可違なり。国師の云う「諸聖得聞」は、無情なるべし。「無情得聞」は、無情なるべし。「無情得聞」と道取する雲巌の無情は、諸聖得聞なるべし。

〇先段の国師と僧との問答は、国師の問答と云うとも、不知僧とは不知の問いにてもやあるらん、計り難し。今の洞山・雲巌両祖の問答は、ともに疑う所にあらず。金口説なるべしと心得也。有情無情也ともと許すは、世間の有情・無情也ともと云うなり。無情と云うに付けては天上にも無色界と立て、禅定にも滅尽定などと云う(は)、是等の義にてはなし。無情得聞と云い不聞を説法と云うゆえに。

経豪

  • 如文。本の詞に、大証国師の道に「無情説法・諸聖得聞」と云う(は)、祖師の古き詞に、今の洞山の「無情説法・什麼人得聞」とある詞が、只同じなる所を、「肯大証道也とやせん、不肯大証道也とやせん、問著か道著か」と肯(うなず)けらるるなり、是れ即不中の理なるべし。いづれにもあた(中)るべきなり。
  • 是は前段の同心也。あまりに委細に被釈時、重ねて御此釈出でくる也。

 

曩祖雲巌曰、無情説法、無情得聞。この血脈を正伝して、身心脱落の参学あるべし。いはゆる無情説法、無情得聞は、諸仏説法、諸仏得聞の性相なるべし。

無情説法を聴取せん衆会、たとひ有情無情なりとも、たとひ凡夫賢聖なりとも、これ無情なるべし。この性相によりて、古今の真偽を批判すべきなり。

詮慧

〇「無情説法を聴取せん衆会、たとい有情無情也とも、たとい凡夫賢聖也とも、これ無情なるべし」と云う、是は仏性沙汰のとき、外道二乗等の鼻祖鼻末、たとい無常なりとも、彼を不可究尽。無常のみづから無常を説著行著証著せんは、仏性なるべしと云うが如し。

経豪

  • 如文、無殊子細也。
  • 無情説法を聴取せん衆会」、実(に)なん也とも無情なるべし。無情説法無情得聞なるゆえに、此理を以て「古今の真偽を批判すべし」と云うなり。

 

たとひ西天より将来すとも、正伝まことの祖師にあらざらんは、もちゐるべからず。たとひ千万年より習学すること聯綿なりとも、嫡々相承にあらずは嗣続しがたし。いま正伝すでに東土に通達せり、真偽の通塞わきまへやすからん。

たとひ衆生説法、衆生得聞の道取を聴取しても、諸仏諸祖の骨髄を稟受しつべし。

詮慧

〇「衆生説法、衆生得聞の道取を聴取しても、諸仏諸祖の骨髄を稟受しつべし」と云う、此の詞にて可心得、諸聖は無情と心得、説法と無情と所聞の者と(は)無差別。得聞無情なるゆえに、此の道理なるべし。

経豪

  • 如文。「西天より将来すとも、千万年の習学す」と云うとも、今の道理に不及ずば、「不可用」と也。「東土に通達せり、真偽の通塞わきまえ易からん」と云うも、又此の性相によりて、古今の真偽を批判すべき也と云うも、是等の心地なり。
  • 衆生説法・衆生得聞」は、打ち任せたる詞と聞こゆ、不可驚。「諸仏諸祖の骨髄を稟受しつべし」とあれば、打ち任せたる衆生の説法を、衆生得聞とは難云歟。此の「衆生説法・衆生得聞」の姿は、諸仏説法・諸仏得聞の理に等しかるべし。無情説法無情得聞、無情説法諸聖得聞と云うても無詮。只「衆生説法、衆生得聞」と云いてありなん。此の衆生(は)、仏法の上に道取する衆生なるゆえに、諸法仏法の上に、諸仏あり、衆生あり(『現成公案』冒頭部・注)と云われし衆生なるゆえに。

 

雲巌曩祖の道を聞取し、大証国師の道を聴取して、まさに与奪せば、諸聖得聞の道取する諸聖は無情なるべし。無情得聞と道取する無情は諸聖なるべし。無情所説無情なり、無情説法即無情なるがゆゑに。しかあればすなはち、無情説法なり、説法無情なり。

経豪

  • 御釈分明也。国師は諸聖得聞と被仰る、雲巌は無情説法と、師資被仰せたる詞を与奪せん。「諸聖得聞の諸聖は無情なるべし、無情得聞の無情は諸聖なるべし」と也。無情と諸聖と説法と聞不聞と、総て無差別。親切なる上に、如此談ずるに不向背也。無情は能説、此の外に所談の法別にある様に、おのづから僻見も発しぬべき所を、「無情所説無情也、無情説法即無情なるがゆえに」とはある也。無情の外に又交わる物なく、能説所説(の)義は、離れたる所が現るるなり。仍て「無情説法也、説法無情也」と被決なり。只最初に説法於説法、仏祖付属於仏祖と云いし詞(が)、始中終(が)此理なるべき也。

 

高祖道の若恁麼、則某甲不聞和尚説法也。いまきくところの若恁麼は、無情説法、無情得聞の宗旨を挙拈するなり。無情説法、無情得聞の道理によりて、某甲不聞、和尚説法也なり。

経豪

  • 高祖の詞の「若恁麼則某甲不聞和尚説法也」の詞は、「無情説法無情得聞」とあれば、此の上(に)は、「某甲不聞和尚説法」の理(が)表わるるなり。只無情の説は無情(が)聞くべし。其の外(に)又聞く人あるべからず。此の道理が、若恁麼某甲不聞和尚説法とは云わるる也。此の道理の行ず所が、又無情説法をば和尚得聞とも、無尽に被談ずに不違道理ある也。

 

高祖このとき、無情説法の席末を接するのみにあらず、為無情説法の志気あらはれて衝天するなり。たゞ無情説法を体達するのみにあらず、無情説法の聞不聞を体究せり。すゝみて有情説法の説不説、已説今説当説にも体達せしなり。

さらに聞不聞の説法の、これは有情なり、これは無情なる道理をあきらめをはりぬ。

経豪

  • 是は高祖洞山、只「其の座席に接するのみにあらず、無情説法を体脱せるのみにあらず、無情説法の聞不聞を体究せり」とは、只無情説法と云う理許りを、明らめる許りにてもなくて、此の無情説法の上に、聞ぞ不聞ぞと云う理をも体脱したる事を、如此云う也。其の上は、「有情説法・説不説」の道理、「已説も今説当説」等も、今の無情説法の道理の如く、皆「体脱せりし」事を、如此被釈也。
  • 如文。所詮高祖洞山の「聞不聞の説法、有情無情の理を明らめられたる」事を云う也。

 

おほよそ聞法は、たゞ耳根耳識の境界のみにあらず、父母未生已前、威音以前、乃至尽未来際、無尽未来際にいたるまでの挙力挙心、挙体挙道をもて聞法するなり。身先心後の聞法あるなり。これらの聞法、ともに得益あり。

経豪

  • 打ち任せて「聞法」とは、耳根耳識を以てこそ聞法すとは思い習わしたるを、今は「父母未生已前、威音王」などとあり。不普通ように聞こゆれども、今の聞法のよう、尤も此理あるべき也。所詮三世に約せば、「威音王以前、乃至尽未来際、無尽未来際」とあり。約身は、「挙力、挙心、挙体、挙道」を以て、今は聞法と談ずべし。尽十方界を以て「耳根」と談ずる程の耳根は、尤も如此の道理あるべき也。只「以耳根耳識、聞法す」などと云うは、わづかの聞法是非、仏(聞)法得益ひろきに不可及事也。

 

心識に縁ぜざれば聞法の益あらずといふことなかれ。心滅身没のもの、聞法得益すべし。無心無身のもの、聞法得益すべし。諸仏諸祖、かならずかくのごとくの時節を経歴して、作仏し、成祖するなり。

経豪

  • 実(に)此の聞法の理(は)、わづかに心識に知らねばとて、「聞法得益あらず」とは不可思。此の「心滅身没、無心無身」のものなどと重々被談之。是は只無情説法の上の、心滅身没、無心無身なるべきか。世間に仰せても、仮令死人などとは、「心滅身没」とも云わるべきか。「無心無身」などと云うも、非想天などとは、色も形もなければ、是にもあたるべきか。然而是等に滞るべきにあらず。所詮今の道理の如くは、法を心得る分なくとも聞法の理の方よりは、総て漏るる物あるべからず。慿敷(たのもしき)事也。只愚かにして、不知此理を恨みなるべし。「諸仏諸祖」と云うは、如此の理を明らめて、「作仏とも成祖」とも云う也とあり。

 

法力の身心を接する、凡慮いかにしてか覚知しつくさん。身心の際限、みづからあきらめつくすことえざるなり。聞法功徳の、身心の田地に下種する、くつる時節あらず。つひに生長ときとともにして、果成必然なるものなり。

経豪

  • 是は聞法の理を被釈也。「法力の身心を接する、凡慮実(いかに)(してか)覚知しつくすべからず。身心の際限、又実(みづから)にも明らめ尽くすべからず。聞法功徳の、身心の田地に下種する、くつる時節あらず、ついに生長ときと共にして、果成必然なる物なり」とは、打ち任せて談ずる聞法の得益の事を云う也。此れ直指の方よりは、下種すれば果成必然也などとは、不可心得。聞法の姿をやがて、果成とも可談がゆえに。

 

愚人おもはくは、たとひ聞法おこたらずとも、解路に進歩なく、記持に不敢ならんは、その益あるべからず。人天の身心を挙して博記多聞ならん、これ至要なるべし。即座に忘記し、退席に茫然とあらん、なにの益かあらんとおもひ、なにの学功かあらんといふは、正師にあはず、その人をみざるゆゑなり。正傳の面授あらざるを、正師にあらずとはいふ。仏々正伝しきたれるは正師なり。

経豪

  • 如御釈、委被載之、見于文。聞法すとも其の理を明らめず、「記持に不敢ならんは、その益あるべからず」と、多分人の云い思う事なり。「即座に忘記し、退席に茫然とあらん、何の益かあらん」と(は)、人(の)殊に思う事也。其れを「正師にあわず、その人を見ざるゆえなり」と非嫌うなり。

 

愚人のいふ心識に記持せられて、しばらくわすれざるは、聞法の功、いさゝか心識にも蓋心蓋識する時節なり。

この正当恁麼時は、蓋身蓋身先、蓋心蓋心先、蓋心後、蓋因縁報業相性体力、蓋仏蓋祖、蓋自佗、蓋皮肉骨髄等の功徳あり。蓋言説、蓋坐臥等の功徳現成して、弥淪弥天なるなり。

詮慧

〇「聞法の功聊か心識にも、蓋心蓋識する時節なり。この正当恁麼時は、蓋身・蓋身先・蓋心・蓋心先・蓋心後(已下略之)」と云う、先の「蓋心蓋識」は、先後の字(を)加えたるゆえに、解脱の心身なれば、「功徳現成して、弥淪弥天なるなり」と褒めらるるなり。抑も「身」を云う所には、蓋身・蓋身先とて、只ふたたび身を云いて、後の字を略して「心」を云う所には、蓋心・蓋心先・蓋心後とて、これは三たび心を出だす。「先後」の字あり、如何この「先後」の字をば得ざる身、若しくは「心」の字は正当恁麼時なるべきか不審なり。但仏(は)必ずしも詞に拘らず、只心身ともに先後正当恁麼時ありと可心得。仏法の道理に相叶うゆえに。

経豪

  • 是は「愚人の云う、心識に記持せられて、しばらく忘れざる」道理が、「心識にも蓋心蓋識する」なり。此の理を不知して、何の益かあらんと思う僻見を、如此被嫌也。
  • 此の聞法の「正当恁麼時」は、我こそ此の道理をば不知とも、聞法の益の無辺際なる道理が、如此いわるる也。

 

まことにかくのごとくある聞法の功徳、たやすくしるべきにあらざれども、仏祖の大会に会して、皮肉骨髄を参究せん、説法の功力ひかざる時節あらず、聞法の法力かうぶらしめざるところあるべからず。かくのごとくして時節劫波を頓漸ならしめて、結果の現成をみるなり。

かの多聞博記も、あながちになげすつべきにあらざれども、その一隅をのみ要機とするにはあらざるなり。参学これをしるべし、高祖これを体達せしなり。

詮慧

〇「仏祖の大会に会して、皮肉骨髄を参究せん、説法の功力ひかざる時節あらず、聞法の法力蒙ぶらしめざる所あるべからず」と云う、是れ真実の仏法を見聞せん類い、たとい聞きて悟らず、聞きて蓋えざればとて、卑しとすべからざる道理を明かすなり。「多聞博記を抛げ捨てよとにはあらず、一隅をのみ要機とするにはあらざるなり、参学これを知るべし」とあり、尤も可信ものなり。

経豪

  • 如文。聞法の益の広大無辺際なる理を、重ねても重ねても説き表さるる也。
  • 是は「多聞博記」の物を、強ち抛つとにはあらざれども、世の常に人の多聞博記ならぬ者は、なにの益かあらんと思い云う所を、誡めらるるなり。

 

曩祖道、我説汝尚不聞、何況無情説法也。これは高祖たちまちに証上になほ証契を証しもてゆく現成を、曩祖ちなみに開襟して、父祖の骨髄を印証するなり。

なんぢなほ我説に不聞なり、これ凡流の然にあらず。

無情説法たとひ万端なりとも、為慮あるべからずと証明するなり。このときの嗣続、まことに秘要なり。凡聖の境界、たやすくおよびうかがふべきにあらず。

経豪

  • 是は高(曩?)祖の「我説汝尚不聞、何況無情説法」の詞也。無情説法・無情得聞とあれば、我説汝尚不聞なるべき道理あり。又「我説」の道理(が)「汝尚不聞」なるべき歟。又聞不聞に拘わらぬ「不聞」の道理もあるべし。「証上に猶証契を証す」とは、此の道理の上に重ね説き表わす所を如此云う也。高祖(を)讃嘆(の)詞也。「父祖の骨髄」とは、仏祖の骨髄などと云う程の詞なり。
  • 「我説に不聞也」とは、嫌いたる詞に聞こゆ。是は不然。我説が不聞なる也。ゆえに「凡流の然にあらず」とは云う也。
  • 「無情説法万端なる」姿は、ただ無情説法に任すべし。無情説法の外に「為慮ある事あるべからず」。「為慮」とは、おもんばかり歟。「此の嗣、まことに秘要」なるべし。

 

高祖ときに偈を理して雲巌曩祖に呈するにいはく、無情説法不思議は、也太奇、也太奇なり。しかあれば、無情および無情説法、ともに思議すべきことかたし。

いはくの無情、なにものなりとかせん。凡聖にあらず、情無情にあらずと参学すべし。凡聖、情無情は、説不説ともに思議の境界およびぬべし。いま不思議にして太奇なり、また太奇ならん凡夫賢聖の智慧心識、およぶべからず。天衆人間の寿量にかゝはるにあらざるべし。

経豪

  • 本の詞には、「也太奇、也太奇と、無情説法不思議」とあり、是は上下して書きながら、ただ同事なり。然而聊か又其の意趣なきにあらず。其の故は、「無情説法」の上に「也太奇」と云えば、無情説法を別に置いて、是を也太奇と云う道理と云わるべし。ただ同詞同意に似たれども、聊か其の心地は相い残すべき歟。又「無情及び無情説法まことに思議すべき事かたかるべし」。
  • 「凡聖、情無情、説不説」、是は世の常に思い付きたる凡聖説不説等なるべし。ゆえに「思議の境界及びぬべし」とは云う也。「今不思議にして太奇也」と云わるるは、今(の)仏祖所談の無情説法なるべし。ゆえに「凡夫賢聖の智慧心識及ぶべからず、天衆人間の寿量に拘わらず」とは云わるる也。

 

若将耳聴終難会は、たとひ天耳なりとも、たとひ弥界弥時の法耳なりとも、将耳聴を擬するには、終難会なり。壁上耳、棒頭耳ありとも、無情説法を会すべからず。声塵にあらざるがゆゑに。

若将耳聴はなきにあらず、百千劫の工夫をつひやすとも、終難会なり。すでに声色のほかの一道の威儀なり、凡聖のほとりの窠窟にあらず。

詮慧

〇「弥界弥時の法耳也とも」と云う、この「弥」は尽界と云うが如し。

〇「終難会」と云う、この「難」の字は、得聞の「得」程の難なりと可心得。

経豪

  • 是は無別子細。以耳根声塵を縁ずと云う道理事旧了、仍て此の旧見を破るが為に、如此あるなり。此の見(の)改まらざる程は、「天耳也とも、たとい弥界弥時の法耳也とも、将耳聴を擬するには、終難会也」と云う也、尤も謂いあり。「壁上耳・棒頭耳」、是は祖師の常に仕い付けたる詞也。「耳」と云う字のあるに付けて、被取出したるなり。かかる「耳」有りとも、今の「無情説法をば不可会、声塵にあらざるがゆえに」とあり。
  • 「若将耳聴はなきにあらず」とは、以耳聴と云う理を意得る程ならば、「百千劫の工夫を費やすとも、終難会也」と嫌うなり。今の無情説法は、「声色の外の一道の威儀」なるべし。

 

眼処聞声方得知。この道取を、箇々おもはくは、いま人眼の所見する草木花鳥の往来を、眼処の聞声といふならんとおもふ。この見処は、さらにあやまりぬ。またく仏法にあらず。仏法はかくのごとくいふ道理なし。

高祖道の眼処聞声の参学するには、聞無情説法声のところ、これ眼処なり。現無情説法声のところ、これ眼処なり。眼処さらにひろく参究すべし。

眼処の聞声は耳処の聞声にひとしかるべきがゆゑに、眼処の聞声は耳処の聞声にひとしからざるなり。

詮慧

〇「眼処の聞声は、耳処の聞声に斉しかるべきが故に、眼処の聞声は耳処に等しからざる也」と云う、実相は諸法と等しきが故に、実相は諸法に斉しからずとも説くべき道理也。心仏及衆生是三無差別の義(は)、この心仏衆生ひとしからざるゆえに、無差別と説くが如し。

経豪

  • 「眼処聞声方得知」と云う道理を、人の思わくはとて被出之。此の見解あやまりぬとあれば、不可用条(は)勿論也。実(は)耳に眼を取り替えたる許りにてこそあれ、見解は不可違。仍て非仏法と被嫌也。「眼処の聞声」と云う詞は、実(に)巧みなるようなれども、眼処を聞声と不談ば、非仏法也。
  • 前には若将耳聴終難会の詞を被釈。ここよりは「眼処聞声」の詞を被釈也。しかるを今「高祖の眼処聞声を参学するに、聞無情説法声」を、やがて「眼処」と談ず也。眼(が)別にありて、能聴所聴の義あるべからず。「現無情説法声の所、これを眼処」と談ず也。如此談ずるとき、能所を離る也。
  • 実(に)「眼処の聞声は、耳処の聞声に等しかるべし」、仏法の上にて心得るゆえに、「眼処の聞声」は只眼処の聞声なるべし。「耳処の聞声」と云う事あるべからず、ゆえに「ひとしからず」とは云わるべき也。

 

眼処に耳根ありと参学すべからず。眼即耳と参学すべからず。眼裏声現と参学すべからず。

経豪

  • 如文。一定人の尋常に思わぬべき所を、如此嫌わるるなり。

 

古云、尽十方界是沙門一隻眼。この眼処に聞声せば、高祖道の眼処聞声ならんと擬議商量すべからず。

経豪

  • 是は世にさもありぬべき道理にてこそあるを、「擬議商量すべからず」とある(は)難心得。ただし此の「一隻眼の眼処」は、只一隻眼なるべし。是を奪いて「此の眼処に聞声せば」と云う心地の、ありぬべき所を「商量すべからず」とは被嫌也。

 

たとひ古人道の尽十方界一隻眼の道を学すとも、尽十方はこれ壱隻眼なり。さらに千手頭眼あり、千正法眼あり。千耳眼あり、千舌頭眼あり。千心頭眼あり。千通心眼あり、千通身眼あり。千棒頭眼あり、千身先眼あり、千心先眼あり。千死中死眼あり、千活中活眼あり。千自眼あり、千佗眼あり。千眼頭眼あり、千参学眼あり。千豎眼あり、千横眼あり。しかあれば、尽眼を尽界と学すとも、なほ眼処に体究あらず。たゞ聞無情説法を眼処に参究せんことを急務すべし。

経豪

  • 此の「古人道の一隻眼の道を学すとも」。只此の一隻眼許りに滞る事なかれとて、「千手頭眼あり」と云うより、無尽の詞を被出る。かかる道理共のある事を被釈也。ゆえに一隻眼許りに滞らずとは云う也。かかる様々の眼の道理あるべき也。仍て「尽界と学すとも、猶眼処に体究あらず」と云うなり。

 

いま高祖道の宗旨は、耳処は無情説法に難会なり。眼処は聞声す。さらに通身処の聞声あり、遍身処の聞声あり。たとひ眼処聞声を体究せずとも、無情説法、無情得聞を体達すべし、脱落すべし。この道理つたはれるゆゑに。

経豪

  • 是は「耳処は無情説法に難会也」とて非嫌。「眼処は聞声す、但し通身処の聞声」と云う事あり、「遍身処の聞声もあり」と云う也。只耳処・眼処許りの聞声と許り云えば、狭(せば)きに似たり、ゆえに如此の道理もありと云う也。只所詮「眼処聞声をば体究せずとも、只無情説法、無情得聞を体脱すべし」と也。かかる一姿もあるべき也。委如文。

 

先師天童古仏道、葫蘆藤種纏葫蘆。これ曩祖の正眼のつたはれる、骨髄のつたはれる説法無情なり。

一切説法無情なる道理によりて無情説法なり、いはゆる典故なり。無情は為無情説法なり、喚什麼作無情。しるべし、聴無情説法者是なり。喚什麼作説法。しるべし、不知吾無情者是なり。

詮慧 天童古仏段

〇「葫蘆藤種纏葫蘆」、無情は無情の為に説くと云う心地なり。「葫蘆藤の種、葫蘆を纏う」となり。無能所なり、無情の説法・無情得聞の義なり。「典故」という(は)、書籍と云う義なり。

〇「無情は為無情説法也、喚什麼作無情」とあり、無情説法を説かるる御詞に、無情は為無情説法也とあれば、疑うべきにあらず。これを返して喚什麼作無情とありて知るべし。「聴無情説法は是なり」とあり、やがて又「喚什麼作説法」とて、又「不知吾無情者是なり」とある時に、すべて「聴」と云うも、「無情」の無も、「不知」と云うも、ただ同じと心得なり。

経豪

  • 「説法無情・無情説法」と打ち替えて談ずる(は)、只同事なるようなれども、「無情説法」と云えば、猶無情与説法(の)親しからぬように聞こゆる所を、「説法無情」と云えば、猶親切なる理あらわるる也。「典故」とは、古く伝わる心地歟。又「無情は為無情説法」すと云う義も一筋あるべし、其の理を明らか(に)さるる也。
  • 此の「聴無情説法者是也」の詞は、不聞にあたるべきか。此の「聴」の詞(は)、又非能聞所聞、又「不知吾無情者是」の詞(で)、此の「吾」は無情を吾と指すか、「吾を無情也と知らざる者是也」とあり。無情の外に知る者あるべからず、是無情也。知不知に拘わるべき「知」にあらざるゆえ也。

 

舒州投子山慈済大師〈嗣翠微無学禅師、諱大同。明覚云、投子古仏〉、因僧問、如何無情説法。師曰、莫悪口。いまこの投子の道取するところ、まさしくこれ古仏の法謨なり、祖宗の治象なり。無情説法ならびに説法無情等、おほよそ莫悪口なり。しるべし、無情説法は、仏祖の總章これなり。臨済徳山のともがらしるべからず、ひとり仏祖なるのみ参究す。

詮慧

〇是れ善悪の悪の義にてはなし。『仏性』の蚯蚓の段に、莫妄想と云いし同じ詞なるべし。莫殺生とも、莫妄語とも云うべし。

〇「如何無情説法、これ莫悪口也」、悪口の失あるべきを誡めて、莫悪口と云うにはあらず。然れば則ち無情説法これ莫悪口也。無情即無情これ「莫悪口」なり。説是・説不是・是説・是不説、何ぞ「莫悪口」の時節にあらざらん。

〇「悪口」と云うは、口の四つの科(とがー妄語・綺語・悪口・両舌)是也。綺語と云うは、詞を交えて、種々あやつる妄語なり。ただ妄語と云うは、見たるを不見と云いたる程の事なり。昨今の「莫悪口」は、口の四つの科には異なるべし。世間に如談は心得まじ。妄語、綺語、悪口、両舌を致す事は、無情説法の莫悪口を釈するにては努々なし。便宜に教に云う、口の四つの科を示すなり。

経豪

  • 此の「如何無情説法」の詞、さわさわと何れにも拘わらず聞こゆ。只無風情、いかなるか無情説法と尋ねたりと聞こゆ。此の「如何」の詞(は)、事旧了。此の答えに「莫悪口」とあり、驚耳(おどろ)いて聞こゆ。但『仏性』の所に莫妄想と云い、『諸悪(莫作)』の所に莫作と心得し義に、聊かも不可違。所詮今の「無情説法の道理」が「莫悪口」と云わるる也。此の詞を被讃嘆るに「古仏の法謨也、祖宗の治象也」とある也。

無情説法(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。