正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六十 三十七品菩提分法 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 第六十 三十七品菩提分法 註解(聞書・抄)

古仏の公案あり、いはゆる三十七品菩提分法の教行証なり。昇降階級の葛藤する、さらに葛藤公案なり。喚作諸仏なり、喚作諸祖なり。

詮慧

〇「三十七品菩提分法」と云う、分法とは三十七品みな分と云わるるなり。仍って三十七品菩提分法と云う。

〇是皆小乗の法なり。然而以之古仏の公案として教行証と引きなさる。仏以一音演説法、衆生随類各得解にてこそあれ、一物として成仏の為ならぬ事なし。始め小乗なれども小を改めて向大するを為本意。此の宗門に言句を用いる事は、常の世間の詞を以てこれを云う、且く世間の詞を妙語ととも云う、小乗の見をこそ改むることなかれ。雖恒処地獄不障、大菩提若起自利心、是大菩提障と云う故に、小乗の見殊可恐者也。

経豪

  • 仏祖の法談のよう、別して取り別したる依経もなし。何を用い何を捨つと云う事なし。只一切の諸法に亘りて法体を談じ顕わす也。仏性ぞ真如ぞ諸法ぞ実相ぞと云う、仏経の名目に付けて、法を談ずる事あり。又不思懸、牆壁瓦礫ぞ、山河大地ぞ、或いは画餅ぞ、梅花ぞなどと云う詞に付けて、法の理を談ずる時もあり。如此談ずればとて、仏性真如、乃至実相ぞ唯心ぞ、などとは誠しき法にて、画餅・梅花・牆壁瓦礫等は、彼よりは劣に、いたづらなる調度とは不可云也。法性真如も画餅・葛藤・梅花・山水等も努々不可有差別、以之仏法とは云う也。是は悪しき物の嫌わるる、是こそ善き物の殊勝なれなどと差別浅深を立つる事、仏法には曾不談事也。如此分別し、捨劣得勝せば人法也、凡見也、不可云仏道歟。
  • 今の三十七品菩提分法、一向小乗の談なるべし。但教にも一向浅権の教と取る時もあり。又今の三十七品を修して、成仏する事も有るべし。然者又一向小乗権門と許りも難定事也。況や祖門には以今三十七品菩提分法、祖門の心と談ずる勿論事非可疑。
  • 智度論第十九云、三十七品独是小乗法。仏以大慈故。説三十七品涅槃道。欲求声聞人。得声聞道。種辟支仏善根人。得辟支仏道。求仏道者得仏道。随其本願諸根利鈍。有大慈無大悲。譬如龍王降雨普雨天下。雨無差別。大樹大草根大故多受。小樹小草根小故、少受(「大正蔵」二五・一九七中・注)
  • 思惟者(思惟神足・正思惟歟)、信者(信根・信力)、戒者(正語・正業・正命)、精進者(四正懃・精根・進力・精進覚・正精進)、念者(念根・念力・念覚・正念)、定者(四如意足・定根・定力・定覚・正定)慧者(四念処・慧根・慧択法覚・正見)、除者(除覚)、喜者(喜覚)、捨者(捨覚)。
  • 「古仏の公案あり。いわゆる三十七品菩提分法の教行証也」と云う上は、不可有不審。教行証也と云う詞は此の三十七品菩提分法の上に、教行証を可談と云う也。「昇降階級の葛藤する、さらに葛藤公案也」とは、今の四念住はいか程の位に談じ、四神足五根五力等いか程の分と定め、乃至五十二位等を立て談ずる事を云う也、今の所談非爾。是はたとい昇降階級を立てると云えども、打ち任せたる義には異なるべし。只葛藤の葛藤を纏う程なるべし。仍如此云也。「喚作諸仏也・喚作諸祖也」とは、此の昇降階級、葛藤葛藤を纏うあわい、只諸仏と諸祖とのあわい程なるべし。所詮今の三十七品菩提分法を喚んで、諸仏諸祖と可談也。

 

四念住四念処とも称ず。一者、観身不浄。二者、観受是苦。三者、観心無常。四者、観法無我。観身不浄といふは、いまの観身の一袋皮は尽十方界なり。これ真実体なるがゆゑに、活路に跳々する観身不浄なり。不跳ならんは観不得ならん、若無身ならん。行取不得ならん、説取不得ならん、観取不得ならん。すでに観得の現成あり、しるべし、跳々得なり。

いはゆる観得は、毎日の行履、掃地掃床なり。第幾月を挙して掃地し、正是第二月を挙して掃地掃床するゆゑに、尽大地の恁麼なり。

詮慧

〇「四念住」この四は吾我の身心に付けて云う。外道(は)浄楽我常と解して、四顛倒するを、仏四徳波羅蜜と被仰いで、四念住をも被破る。仏の四徳波羅蜜と云うは、詞はやがて浄楽我常也。然而見解ことにして、外道二乗をば被破するなり。所持の法は、外道の浄楽我常也。能破の法は四念住也。

〇但此の身の上には、能く持しても無詮。只著を離れん許り也。更非仏祖公案、これ衆生処に著引之令得出の儀なり。習うべき所は、并べて三十七品を実相と開演するこそ本意なれ。此の四念住をば、四仏とも、一仏とも談ずる、古仏公案なるべし。抑も此の草子に付けて、諸人驚疑すべし。其の故は、言語に顕わるる程の事は教也、不可為宗門義。今の三十七品菩提分法を、争か舌端にも掛くべき。法には分法と云う事あり、助法と云う事あり、小乗あり、大乗あり。三十七品は専ら小乗、分法也。不可用法を古仏の公案とは如何で云うべきぞと覚ゆ。然而今の難は、旁無謂教と云う字も詞也。禅と云う詞、教にもあり外道も使う。外道は有漏智を以て云い、仏法には無漏智を以て云う。四教三観を立てるに四教の内にも界内界外あり、詞は彼にも亘り是にも亘れども了見の相違許り也。弥陀の浄土を云うにも過十万億仏土、名日極楽と説く時は、有際限界内と聞こゆ。観彼世界相勝三界道と説く時は界外也。この四念住も詞同じくとも古仏公案、葛藤公案と云いつる時は、喚作諸仏・喚作諸祖なり。たとい又、教の詞ありとも超過して余教せば何の失か有らん。禅と云うとも外道二乗が談ずる禅定(とは)、難用者歟。近日天下の流布する禅、ただ祖師の公案をひたに掛けて、待証すべしと教う。勘先達(の)詞に、凡そ当たらざるもの也。父母未生已前の一句を云えとこそ、香厳にも示し給うしか、ひとえに言句を捨てて、公案を額に掛けよと云わず。詞を捨つべくば、公案を額に掛けても、何の益かあらん。石頭の昔、尋思去の詞に依りて、吾が思いを尋ねて居たりし、ついに其の益なくして、尋青原行思得法す。六祖は尋行思よと、示しおわしましけるを、悪しく心得たるにてこそあれ、額に掛けて居たれとは不被仰如何。

〇世間に人の物を心得ぬと云うは、所詮執心を離れ得ぬ故なり。されば漸頓の気を云うには、廻心広大するを頓とは云う也。廻心するにも又ようようあり。点悪為善と云うをば、さも有りぬべしと心得るようなれども、点三界為一心、点諸法為実相などと云うをば、凡そ不信也。たとい又詞ばかりをば似信とも、実に三界が一心なる道理、諸法が実相なる道理は、明らめぬなり。すべて物の点ずるよう故実を知らぬにてこそあれ、当時人間界にも、土をも瑠璃と為し、珠に光を照らさしむる事顕然(なる)事也。諸法何れも不如此哉。只其の故実に暗きと、其の秘術を知るとの差別なるべし。今小乗に引用する三十七品菩提分法を、一実真実の法と体脱せん事も、故実を不更知識程の時こそあれ、遠く隔たるにあらず。三十七品の法をば、教えられて行じ、行じて証を得んとする事とこそ思うを、古仏の公案あり、いわゆる三十七品菩提分法の教行証也とあり。喚作諸仏也、喚作諸祖也と云う、日来の見解なるべからず。観身不淨の身は尽十方界なり、真実体なるが故にとあれば、点小乗じて大乗と解脱すると云うにも不及、見解異なるべし。善悪は時也、時は非善悪と心得べし。三十七品の詞同じくとも、解脱の際異なるべし。小乗には三界無安猶如火宅と教えらる。大乗には三界唯一心と習う。三界を置きながら、是程に心得るなり。

〇第一観身不浄事。是世間の身を、浄とも不浄とも説かんは、非仏法本意。尽十方界真実人体の身なるべし。

〇「行取不得・説取不得・観取不得」とあり、初めに三十七品菩提分法の教行証なりと云いし行也。説取とあるは教に通ず、仍って教行は明らかに聞こゆ。証が残るべきならぬに、今の観得とある観は、証に当たるべし。然者証得とこそ云うべきを観とあり、証に当たるべき道理あれば、証の所に観とあらん。可無其難歟。

経豪

  • 此の身を観ずるに、生より死に至るまで、総て不浄ならずと云う事なし、是小乗の所談也。今はすでに此の観身のようは、以尽十方界談身真実体也と云う。此上の不浄と云わん、何なるべきぞや。此の尽十方界の身を以て、不浄とは可談也。ゆえに「活路に跳々する観身不浄也とは云う也。「不跳ならんはとて、観不得ならん、若無身ならん。行取不得、説取不得、観取不得ならんならん」と云うは、此の観身の道理に不跳ならんは、観と云わんも不得ならん、若無身ならん行取も不得。説取乃至観取と云わんも、皆不得なるべしと云う也。而(して)すでに観得の現成ある上は知るべし、跳々得也と云う事ぞと云う也。
  • 此の詞共は古く祖師の月を弄(もてあそ)ぶ事ありしに、問答の詞を被引出也。「掃地掃床」の姿を以て月と談じ、「第幾月」とは箒を以て月と談じき其の事を云うなり。「正是第二月」とは、目を押せば在らぬ月が見える也。打ち任せては第二月をば妄と取る。但今は第二月も何れも月ならぬ一法あるべからず。真妄に滞事不可有、故に「尽大地の恁麼也」と云う也。此の掃地掃床の姿も、我等が思い付きたる様なるべからず。全地全床掃ようも此の全地全床の姿を、掃とも談ず也。仍って尽大地の恁麽也とあり。

 

観身は身観なり、身観にて余物観にあらず。正当観は卓々来なり。身観の現成するとき、心観すべて摸未著なり、不現成なり。

しかあるゆゑに金剛定なり、首楞厳定なり。ともに観身不浄なり。

詮慧

〇「観身は身也」と云う、以身観身と云う心也。ゆえに「余物観にあらず」と云う。身がやがて観なるなり、観がやがて身なる也。非能所。「卓々来」と云う、自来を云うと心得也。

〇「心観すべて摸未著なり」と云う、身も観も同じからんには、摸未著なるべし。

〇「金剛定なり、首楞厳定なり、ともに観身不浄也」と云う、金剛定・首楞厳定は、仏定と云えども、猶出入を立つるに似たり。今は摸未著なるべし。金剛定・首楞厳定の後、又「観身不浄」と談ずるは、尽十方界真実人体の身也。又夜半見明星の道理、観身不浄と云う。

経豪

  • 「観」と云う事、意地に約して談ずる事也。閑かに心を静めて、身の不浄をも観じて、愛執をも離ると心得る、是常(の)事也。今の観(は)非爾。「観身」と云うは今の所談に相叶う也。其の故は此身は尽十方界真実人体也。是を観と談ずる時に、身観と云えば等しと同理に相叶う也。「身観にて余物観にあらず」と云う、観の外に余物不交せざる道理なり。「正当観は卓々来也」と云うは、是も観の外に余物なき道理なり。「卓々」とは、それが

それと云う程の道理也。兀坐などと云い様なる姿なるべし。「身観の現成する時、心観すべて摸未著也」とは、身観の現成する時は、心観と云う事は隠れて総て不可有。又心観の現成の時、身観不可現成道理を云うなり。一方(を)称する時、一方(は)暗き理なるべし。故に「不現成也」とは云うなり。

  • 「金剛定・首楞厳定」と云うに、仏成道の観なり。是も金剛定と談ぜん時は、首楞厳定はあるべからず。首楞厳定の時は、金剛定又あるべからず。相互に法界を尽す故なり。是を今は「観身不浄」と談ず也。

 

おほよそ夜半見明星の道理を、観身不浄といふなり。浄穢の比論にあらず。有身是不浄なり、現身便不浄なり。

経豪

  • 又「夜半見明星の道理を、観身不浄と云う也」とあり、此の見明星の道理こそ、不浄ならざる手本と覚えぬべきを、今は是を観身不浄と云う。知りぬ誠に此の「不浄、浄穢の比論にあらず」と云う事を、仏の明星を見て、成道を唱え給うと云えば、明星は能見、仏は所見なるべしと心得たり。仏の眼睛と明星と全両物にあらず、一仏一体なる上は、努々各別の物と不可心得なり。能見所見を離れたる也。今の観身不浄のあわいも、是程の道理なるべき証しに被引出也。「有身も不浄、現身も不浄也」と談ずなり。

 

かくのごとくの参学は、魔作仏のときは魔を拈じて降魔し作仏す。仏作仏のときは仏を拈じて図仏し作仏す。人作仏のときは、人を拈じて調人し、作仏するなり。

まさに拈処に通路ある道理を参究すべし。

詮慧

〇「魔作仏のとき魔を拈じて降魔す」と云う、降魔とは降伏の義なり。「拈」とは、やがて其の物の上に指して云うなり。仏の所にも人の所にも魔の義にて可心得也。外道の法を嫌い小乗の法を嫌いて、能持所持と云われつる義にてもなし。いまは不取不棄、是尽十方界真実人体なる故に。

〇「拈処に通路ある道理を参究すべし」と云う、是は結前の句と云うべし。「魔作仏のとき魔を拈じて降魔し」とあるより「作仏するより」と、あるまでを挙げらる。又生後の詞あるべし。浣衣法已下水濁知有魚の句までなり。「道理を参究する也」と云う、今観身不浄の談に浣衣法被引載(の)事、有故仏在世に因縁ありき、舎利弗二人の弟子に、一人には数息観を教え、一人には不浄観を教えしに共(に)不得之。仏此の二人を立ち替えて数息観しつる者には不浄観を教え、不浄観の者には数息観を教えしに、やがて得証、これ前世の因縁なり。数息観を得し者は薄打が子なり、土の数を数うるが数息観のたよりとなる。これも因縁なるべし。不浄観を得し者は其の母が浣衣せし者なり。仍って得証是等の因縁にて、今も今観身不浄の段に浣衣の法を被引載歟。有故。

経豪

  • 是は無別子細。「魔作仏の時は魔を拈じ、仏作仏の時は仏を拈じ、人作仏の時は人を拈ず」とは、又別の物の交わらぬ道理を云わんとて、如此被談なり。此魔此仏、此人(は)只一体なるべし。浅深も軽重も勝劣も不可有なり。
  • 是は魔を拈じ、仏を拈じ、人を拈じて作仏すと各々に云う所を、「通路ある道理を参究すべし」とは云う也。

 

たとへば、浣衣の法のごとし。水は衣に染汚せられ、衣は水に浸却せらる。この水を用著して浣洗し、この水を換却して浣洗すといへども、なほこれ水をもちゐる、なほこれ衣をあらふなり。

一番洗、両番洗に見浄ならざれば、休歇に滞累することなかれ。水尽更用水なり。衣浄更浣衣なり。水は諸類の水ともにもちゐる、洗衣によろし。水濁知有魚の道理を参究するなり。衣は諸類の衣ともに浣洗あり。恁麼功夫して、浣衣公案現成なり。しかあれども、浄潔を見取するなり。

この宗旨、かならずしも衣を水に浸却するを本期とせず、水のころもに染却するを本期とせず。染汚水をもちて衣を浣洗するに、浣衣の本期あり。

さらに火風土水空を用著して、衣をあらひ物をあらふ法あり。地水火風空をもちて、地水火風空をあらひきよむる法あり。いまの観身不浄の宗旨、またかくのごとし。

詮慧

〇浣衣事如文。先に浄穢の論にあらずと云いて、いま浣衣の喩え出で来たる事は頗る不審也。但是は一番洗・両番洗と云うも、幾たびも退屈の儀なくせよと云う事を挙ぐる也。非浄穢事也。

〇江西大寂禅師、南嶽に参学して密受心印の後も常に坐禅せし、これなり。

〇「衣浄更浣衣也」と云うも、もとより浄なる事を更浣衣なりとは云う。穢れたるを今浄く洗い為すとにはあらず。都て仏法を学する法、際限を置き位を定むるまでは不可為証。さればこそ坐禅するも不期作仏、坐禅坐仏と並び不触事而知とも不対而照とも云い、或いは水清徹底矣魚行遅々と述べ、空闊莫涯矣鳥飛杳々とも、衆生所具の法と心得て、或いは十界互具などと云うまでは非仏法。衆生内外仏性の悉有と談じ、欲知仏性義の段には知を仏性と談じ、時節若至と云わんが如しなどと云う時こそ、仏性の道理なれ。諸悪莫作と云うも、悪として作ると云う事なしと心得ての上の事也。今の観身不浄も又、如此観とて別ならず、身を観にぞ身不浄観、身如此非別に心得てこそ、三十七品を喚作諸仏也、喚作諸祖也とも三十七品は実相也。仏祖・眼睛・鼻孔・皮肉骨髄・手足(の)面目(は)、又仏祖一枚とも云え。

〇「水濁知有魚」と云うは、此の五字を各別には置かず。ただ五字を一字に心得也。水濁知有魚は払子也、拄杖なり。十方仏土中、唯有一乗法、無二亦無三、除仏方便説とも心得合わすべし。別に水を何に思い宛、濁の字を今の能にし、為さんとするにはあらず。知有も慮知の知に、あらず、有も有無の有にあらず。

〇「必ずしも衣を水に浸却するを本期とせず」と云う、水に浸ぞ染ぞなどと云う是は本期ならず、只浣衣を本期と指す也。

経豪

  • 如文。此の衣と水と浣洗ぞなどと云えば、猶世情の衣装、洗濯の心地も指し出だすべし。所詮今所談の水与衣のあわい、観身不浄の道理と、等しき理を顕わさん料りに被引出也。其の故は今の衣も尽十方界真実人体の人が著用すべき衣なるべしは、日来の衣と心得たりつる衣も。日来思い習わしつる水にはあらざるべし。又洗いようも如何なるべきぞ。今如此談ずる姿を、やがて洗とも云うべき歟。然者此衣と此水と只一物也、一体なり。故に今の観身不浄も、是等の理なるべし。此段委細なるようなれども、只此の心地なるべし、能々閑可了見者也。
  • 誠に「一番洗、両番洗に見浄ならざれば、休歇に滞累することなかれ」ども、一両度洗わんに、見浄ならざればとて、閣事なく滞累せず、学道すべしと云う心地歟。諸類の水、諸類の衣、いかなるべしと難定。所詮各々の業報に随って、感得するを諸類の水、諸類の衣と押しのけて、各々の所に留まらずして、法界の水、法界の衣と談ずれば、各々の業報に随って、感見する事を離るるなり。水濁知有魚は世間の道理に同じ。今は此の水与魚、無差別一体なる道理を、観身不浄、是等の理なる所の引懸に談じ表わさるる也。
  • 如文。今の「宗旨は衣を水に浸却するを本期とせず」とは、是をも所期とせず、水の衣に染却するをも期せずと云う也。染汚と云えば不浄の水と聞こゆ、不爾也。世間にも至りて不浄なる物をば、灰汁(あく)などと云う物を入れたる不浄の水にて洗之歟、今は不可有其義。衣を水に浸却すと云う道理許りなるべからざる所を、本期とせずとは云う也。打ち任せたる浄・不浄を超越したる道理の方より、以法以衣を浣洗するとも云うべし。本期とせずとも、本期とすとも云う理もあるべきなり。
  • 火風土空等にて、衣を洗う姿いかなるべきぞと珍し。但今の火風土水空等を以て、やがて衣とも、洗とも可談也。所詮地水火風空を以て、地水火風空を洗い浄むる法ありと被決、不可有不審。又「今の観身不浄の宗旨、如此」とあれば、観身と不浄との様、以之能々可心得也。

 

これによりて蓋身蓋観蓋不浄、すなはち嬢生袈裟なり。袈裟もし嬢生袈裟にあらざれば、仏祖いまだもちゐざるなり、ひとり商那和修のみならんや。この道理よくよくこころをとめて参学究尽すべし。

詮慧

〇「嬢生袈裟」と云う、是は生まれしより身に具足したる衣也。商那和修の衣如此。各々の上に置きて嬢生衣有りとも云うべし。但商那和修の嬢生袈裟と仏の嬢生袈裟とは異なるべし。仏の嬢生は尽十方界嬢生衣なるべし。商那和修嬢生袈裟は只一身の上也。この故を「ひとり商那和修のみならんや」とはあるなり。

経豪

  • 此の観身不浄の身も不浄も、各々独立の姿を「蓋」とは仕うなり。蓋は覆義。覆とは尽界などと云う程の心地なり。日来の身を置きて、意識にて此身の不浄を、観ずるぞなどと思いつる凡見は悉被破畢。観も蓋観、身も蓋身、不浄も蓋不浄なる也。「嬢生袈裟」とは、商那和修は胎内より衣を帯して生じ給い、出家の時は此衣袈裟なる。生長すれば次第に袈裟も大きに成りけり。此の観身不浄の道理、今始めて出で来たるにあらず。如此袈裟生まれつきより、此の道理ある心地を云わん料りに被引出也。さればとて今の胎内より具足する所を、非為本此道理ならずば、仏祖不用也と云う心地なり。此理又商那和修のみに限るべからずと云う也。

 

観受是苦といふは、苦これ受なり。自受にあらず他受にあらず、有受にあらず無受にあらず。生身受なり、生身苦なり。

甜熟苽を苦葫蘆に換却するをいふ。これ皮肉骨髄ににがきなり。有心無心等ににがきなり。これ一上の神通修証なり。

徹帯より跳出し、連根より跳出する神通なり。このゆゑに、将謂衆生苦、更有苦衆生なり。衆生は自にあらず、衆生は他にあらず。更有苦衆生、つひに瞞他不得なり。甜苽徹帯甜、苦匏連根苦なりといへども、苦これたやすく摸索著すべきにあらず。自己に問著すべし、作麼生是苦。

詮慧

〇第二観受是苦事(受想行識の受なり。受は苦也。心の全体苦也)。この受を心得には尽十方界身なる上は「生身受也、生身苦也」。今身と仕うは受より外は可交法なく、苦より外に可交法もなき心なり。受くべき主なく受くべき苦なし、故に無他なり。

〇「自己に問著すべし、作麼生是苦」と云う、自己と問著すべしと云うは、非各別問著がやがて、自己なる也。

経豪

  • 是は観受是苦を被釈也。是「観受是苦」と云うは、六道の衆生の業報、一旦は化示と云う分もありぬべけれども、総て苦ならずと云う事なし。経にも見六道衆生貧窮無福慧(『法華経』方便品「大正蔵」九・九中・注)と被解之。須弥山の半ば、四王天と云う所の衆生の、此の娑婆世界の転輪王等の果報を見ば、我等が等しく活地獄の衆生を見る程に同じき也。故に此心を静めて此理を観じて、此の果報を免れんとする、是を打ち任すは観受是苦と云うなり。今の所談は観身不浄程に可談也。尋常には受与苦は各別なるべし、今は苦これ受也と云う。知りぬ受与苦非各別事を、此上には又此受自受にも無受にも、不可有条勿論也。生身受なるべし、生身苦なるべし。
  • 衆生実(に)自他にあらざるべし。「更有苦衆生、ついに瞞他不得也」とは、衆生の外に又物のなき道理が、瞞他不得也とは云わるる也。今は衆生を苦と談ず也。「甜苽徹帯甜、苦匏連根苦」の道理事旧了。如此は云えども、この苦たやすく探り、求むべき人あらず、苦の外に又物なき故に自己に問著すべし。「作麼生是苦」とは、是什麽物恁麽来、説似一物即不中の理なるべし。

 

観心無常は、曹谿古仏いはく、無常者即仏性也。しかあれば、諸類の所解する無常、ともに仏性なり。

永嘉真覚大師云、諸行無常一切空、即是如来大円覚。いまの観心無常、すなはち如来大円覚なり、大円覚如来なり。心もし不観ならんとするにも、随他去するがゆゑに、心もしあれば観もあるなり。

おほよそ無上菩提にいたり、無上正等覚の現成、すなはち無常なり、観心なり。心かならずしも常にあらず、離四句、絶百非なるがゆゑに、牆壁瓦礫、石頭大小、これ心なり、これ無常なり、すなはち観なり。

詮慧

〇第三観心無常事。此の「無常」は、世間に生死流転して、常ならずと云うを、今はこの無常を即ち仏性也と云いつる時に、無常の様変わるべしと也。諸類の所解する無常、ともに仏性也と云う、尤も可心得ものなり。

〇「永嘉真覚大師云」。心も観も一也、随他去の故に。今の所談の常は、常・無常を離れたる常也。この故を、「心かならず常にあらず」と説く。故に「牆壁瓦礫・石頭大小これ心也、これ無常也、すなわち観也」と説くなり。心・観一なる故に、「随他去」と云わるるなり。

〇「心もし不観ならんとするにも、随他去するが故に、心もしあれば、観もある也」と云う。是は心は心に随他去し、観は観に随他去するとなり。

〇「離四句、絶百非」と云う、この詞尤も云われたれ。世間に云う無常にあらざる故に、四句をも離れたり、百非をも絶するなり。

〇「石頭大小」と云う、この心地は、大も石頭なり小も石頭なり。観も身也、身も観なり。各別にあらざる事を云う也。

経豪

  • 是は『仏性』の草子に、六祖与行昌の問答時沙汰旧了。所詮今の「無常」と云うは、此心暫くも不止、眼根は色に得んせらるるとすれば、又鼻根に移る。乃至耳根・舌根・意根等、皆如此六の窓に一の猿ありて、一所に不住。そそかわしき間、あちこち移る故に、六の猿ありと見ゆれども、猿は只一にて、六の窓をあち移り、こなたへ移る。故に暫くも不止、是を六根六境に喩えたり。如此、心は無常也と心得、是小乗なるべし。今は六祖の無常者即仏性也の無常の如く可談也。然者凡見の無常には可水火也。
  • 真覚大師の『証道歌』と云う中に有り。此の詞、所詮如来の大円覚を以て、無常と可談なり。凡見に不可類之条顕然なり。如来の大円覚と云えば、如来と大円覚と別なる様に聞こゆ。大円覚如来と談ずれば、大円覚と如来と各別には不聞也。今の心与観一体一物なる故に、心と談ぜん時は、観とは云わじと云う所が、随他去とは云わるる也。此理の上には、心あらば観もあるべし。一体の理の通ずる時は、如此も被談也。
  • 今の無常(は)「無上菩提にいたり、無上正等覚」の当体を「無常とも観心」とも可談也。「離四句、絶百非」と云う事、いかなる道理なる故に如是也とも云うべからず。只「牆壁瓦礫礫、石頭大小を心なり無常也観なり」と云うなり。

 

観法無我は、長者長法身、短者短法身なり。現成活計なるがゆゑに無我なり。狗子仏性無なり、狗子仏性有なり。一切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり。一切諸仏無衆生なり、一切諸仏無諸仏なり。一切仏性無仏性なり、一切衆生衆生なり。かくのごとくなるがゆゑに、一切法一切法を観法無我と参学するなり。

しるべし、跳出渾身自葛藤なり。

詮慧

〇第四観法無我事。観法が無我と云わるる也。世間の有無にあらず、「長者長法身、短者短法身也」。我と立て無我と立つるは相対する義也。但葛藤は尽界なり、「無一切法を観法無我と参学する也」と知るべしとあり。

経豪

  • 是は法の詞を釈せらるるに、「長者長法身、短者短法身」とあり。法身の上に長短の詞を談ずれば、日来の長短にはあらざる也。法身に長短と云う義、いかにも不可有。法を人ありて無我也と観ずるにあらず、此法の体・力おのれづから無我なる道理なるべし。観心不浄も観受是苦も只此心なるべし。諸悪を莫作と談じ、三界を唯心と談ずるが如し。小乗は我を置いて無我也と談ずる也。菩薩は人法共に無我と談ず、三乗の菩薩の無我も如此差別あり、今の無我非爾。観法の当体が無我なる時に、此の能観所観なき也。又長者長法身の現成活計の時は、短者短法身は隠れ、短者短法身の現成活計の時は、長者長法身は又隠るべし。是を「現成活計なるが故に」とは云う也。此の道理を今は無我と可云也。又「狗子仏性無」と云うより、乃至「一切衆生衆生」と云うまで挙げらるるは、観法と無我とのあわいが「狗子仏性無なり、狗子仏性有なり、切衆生無仏性なり、一切仏性無衆生なり」乃至「一切衆生衆生なり」と云う程の同じ道理也と被会釈合也。又「一切法一切法を、観法無我と参学する也」とは、一切法をやがて、無と談ずる也。故に此の観法無我の無も、如此心得ば、小乗所談の無我の義には非ざるなり。
  • 此の観心無常と云えば、いかにも能観所観有りと聞こゆ。所詮此観を無我と談じて、別の物交わらぬ理が、「跳出渾身自葛藤」とは云わるるなり。

 

釈迦牟尼仏言、一切諸仏菩薩、長安此法、為聖胎也。しかあれば、諸仏菩薩、ともにこの四念住を聖胎とせり。

しるべし、等覚の聖胎なり、妙覚の聖胎なり。すでに一切諸仏菩薩とあり、妙覚にあらざらん諸仏も、これを聖胎とせり。等覚よりさき、妙覚よりほかに超出せる菩薩、またこの四念住を聖胎とするなり。

まことに諸仏諸祖の皮肉骨髄、ただ四念住のみなり。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏言―為聖胎也」云々。此の「此法」と云うは四念住事也。所詮「聖胎」とは仏体なるべし。妙覚・等覚にも勝れたると云う心地を明かす也。必ず妙覚を極と不可思、階級を立つるまでこそあれ。等覚の菩薩・妙覚の仏にも、猶超えたる菩薩は妙覚・等覚に超ゆべし、次位階級を不置なり。但四念住を聖胎とせん等覚・妙覚をば非可下也。

経豪

  • 是は四念住を聖胎として、諸仏菩薩等、母の胎内より子を生ずるが如く、四念住より出で給うように聞こえたり、非爾。此の諸仏菩薩をやがて、四念住と談ず也、聖胎とも同じく可談なり。
  • 以等覚・妙覚・為聖胎也、妙覚にあらざらん。諸仏と云えばとて、此の外に又別の仏のあらんずるように聞こゆ。教にはさる分も談ず歟。華厳の普光明智、楞伽経の自覚性智などと云いて、妙覚までは五十二位等を立て、次第次第に立ち挙げたる所を、因果相対したる所を嫌いて、如此立つ事もあるか、祖門の所談には今義不可有。等覚より先、妙覚より外と談ぜんも、更に此の詞に不可滞。『仏性』の草子に、仏性は成仏より後に具足する也と云いし程の前後なるべし。妙覚にあらざらん、諸仏と云えばとて、此の外に又仏菩薩あるべしと不可心得。妙覚にあらざらん諸仏と云わば、やがて妙覚とも可心得也。
  • 如前云、以仏祖四念住と談ずる故に、如此云わるるなり。仏祖与四念住、一体なる故に如此談ずるに不向背也。

 

四正断あるいは四正勤と称ず。一者、未生悪令不生。二者、已生悪令滅。三者、未生善令生。四者、已生善令増長。未生悪令不生といふは、悪の称、かならずしもさだまれる形段なし。ただ地にしたがひ、界によりて立称しきたれり。しかあれども、未生をして不生ならしむるを仏法と称じ、正伝しきたれり。

外道の解には、これ未萌我を根本とせりといふ。仏法にはかくのごとくなるべからず。しばらく問取すべし、悪未生のとき、いづれのところにかある。もし未来にありといはば、ながくこれ断滅見の外道なり。もし未来きたりて現在となるといはば、仏法の談にあらず、三世混乱しぬべし。三世混乱せば諸法混乱すべし、諸法混乱らば実相混乱すべし、実相混乱せば唯仏与仏混乱すべし。かるがゆゑに、未来はのちに現在となるといはざるなり。

詮慧

〇「四正断」。四正勤とも称する也。断勤二の名也。付善悪可有也。まことに断とも云いつべし、其の故は未生悪令不生と已生悪令滅とは断とも云いぬべし。未生善令生・已生善令増長は勤と云いつべし。断をば物を留むる断とのみ心得べし。断る心にてもあるべし。断截ぞ聖ぞ断などと仕うには断る心なるべし。

経豪

  • 先ず此の「未生悪令不生」と云わるる、悪の姿(は)何所にあるべきぞや、尤も不審也。如今御釈、「悪の称、定まる形段なし」。我悪と思う悪ならずと思う地も界もや有るらん難知。所詮今の未生悪令不生を祖門に心得るようは、「未生を則ち不生」と談ず也。諸悪を莫作と談ぜしが如し。此の道理を悪とも可談也。此理を「仏法と称し、正伝来り」とあり非可疑。
  • 如文。外道は此の未生の悪を生ずべき種はあれども、未萌と心得也。外道見不可用義也。悪未生の時、何処にか有ると云う、尤不審事也。已下如御釈。

 

さらに問取すべし、未生悪とは、なにを称ずべきぞ、たれかこれを知取見取せる。もし知取見取することあらば、未生時あり、非未生時あらん。もししかあらば、未生法と称ずべからず、已滅の法と称じつべし。外道および小乗声聞等に学せずして、未生悪令不生の参学すべきなり。

詮慧

〇第一未生悪令不生事。付吾我判善悪未対縁時を未生と云わず。修善の者やがて不生人体也。談心ずれば三界唯心也。未生の悪は其の姿、不現未生これ不生なり。此の悪の字は定法・不定法程の悪と可心得。此の「未生悪令不生」は、仏をして仏ならしむる程の令生也、非待。

経豪

  • 「未生悪と称する、たれの人か知取見取するとあり」、右不審なり。もし知取見取すると云わば、「未生時あり、非未生時あらん」と文、尤有謂。「知取見取す」と云わば、未生の詞あるべからず。「已滅の法と云いつべし」とあり。其の理至極せり。実にも「外道・小乗・声聞等に学せずして、未生悪令不生の真実の理」を可学也。

 

弥天の積悪、これを未生悪と称ず、不生悪なり。

不生といふは、昨日説定法、今日説不定法なり。

詮慧

〇「不生といふは、昨日説定法、今日説不定法也」と云う、此の生、我等が生不生にあらず。仏の説不定法・説定法程に仕う諸法実相定法也、諸法実相不定法也。

経豪

  • 「弥天の積悪」とは全悪也。悪の外に物なき故に、弥天の積悪と云う也。実に弥天の積悪こそ、不生悪の至極なるべけれ。
  • 此の詞は唯同じものを如此云也。たとえば昨日は生と説き、今日は不生と説く。乃至昨日は諸悪と説き、今日は莫作と説く。仏性と説き、今日は狗子と説くも、昨日は諸法と説き、今日は実相と説くと云う程の理也。又此の今日今日の詞、唯一物也。以尽界昨日と取り今日と談ず也。

 

已生悪令滅といふは、已生は尽生なり、尽生なりとは半生なり、半生なりとは此生なり。此生は被生礙なり、跳出生之頂□(寧+頁)なり。

詮慧

〇第二已生悪令滅事。四念住よりこの義は続くべし。たとえば修善すれば未生の悪も不生にて、已生の悪も令滅する道理あるべし。

〇「此生」は仏法の生也、悪と云うべき事なし。生じて滅すと云わず、滅をやがて滅と仕う。

経豪

  • 初めに「已生悪令滅」と云う詞は、未生何れの処にあるべきぞと不審也。「已生悪令滅」と云うは、已に生じたる悪を滅すとあれば、打ち任せて心得られぬべき詞也。則ち懺悔の法などと云いて、作りたる罪を懺悔すなどと云うも、此の詞と同じく聞こゆ、但今の所談非爾。先ず「已生とは尽生也」とあり分明也。日来所談の生なるべからず条不審なし。全機現の生なるべし。「半生」と云う詞、例の生の上の半生なるべし、生の上の荘厳なり。「此生は」とある生は、已生悪令滅の生の事也。全生なる故に、「被生礙」なるべし。「跳出生の頂□(寧+頁)」と云えば、様(よう)かましきように聞こゆれども、全生の上に跳出とも、頂□(寧+頁)とも云う也。「跳出の生」と云うも、生々の頂□(寧+頁)と云うも、生なるべし。

 

これをして滅ならしむといふは、調達生身入地獄なり、調達生身得授記なり。生身入驢胎なり、生身作仏なり。かくのごとく道理を拈来して、令滅の宗旨を参学すべきなり。滅は滅を跳出透脱するを滅とす。

詮慧

〇「已生は尽生也、尽生也とは半生なり、半生なりとは此生なり」と云う。此生ならざる所なし、故に此生と云う此生は「被生礙也」と云うも、この尽界の生なれば何か残りて不被礙あるべきとなり。故に「跳出生之頂□(寧+頁)」と仕う。「調達」義は失悪にてもなし、入獄也得授記なり。滅の様これ程なり。「調達生身入地獄得授記、入驢胎、身作仏」、皆生の上に仕うことは如此。「滅は滅を跳出透脱するを」云う時に、非世間滅也。

経豪

  • 是は「生身入地獄」と云うも、「生身得授記」と云うも、同じ「調達」の上の理也。此の定めた已生と云うも、令滅と云うも、只同じ道理也と云う方の理に被引出なり。「生身入驢胎」と云えばとて悪しき物の交わりたると不可心得。此の「驢」の詞、仏祖と云う程の詞なるべし。「生身入地獄・生身得授記・生身作仏」只同じ程の詞、理も同じかるべし。又「滅は滅を跳出透脱す」とは、滅の一法ならぬ物なき故に、滅は滅を跳出透脱する滅とは云う也。

 

未生善令生といふは、父母未生前面目参飽なり、朕兆已前明挙なり、威音王以前の会取なり。

詮慧

〇第三未生善令生事。会即不会なり。古仏公案なり。今生の善を未生の善と仕う。父母未生前面目なる故に。

〇「父母未生前面目」と云う、是は従仏口生・従仏化生の心地なり。父母所生身即証大覚位(『即身成仏義』「大正蔵」七七・三九六上・注)と云うを、真言に心得るは、当時の身を大覚位までに作りて云う心地也。此義不可然。従仏口生こそ父母未生前とも心得べけれ。従仏化生こそ善より生ずるにてあれ。

経豪

  • 前には悪を出だし、今は善をいだす。此の善(は)前に悪を談じつるが如く、此の未生を則ち善と談ずなり。生の詞と善の詞と、不可各別也。父母未生前と云えばとて、胎内にある位を云うなどと、不可心得。法体を指して「父母未生とも、朕兆已前明挙とも、威音王以前」とも云う也。必ず久しく成りたる事ぞと不心得。今も此の道理あるべし。所詮只無始無終の本有の、道理などと云う程の理也。

 

已生善令増長は、しるべし、已生善令生といはず、令増長するなり。

自見明星訖、更教他見明星なり。眼睛作明星なり。胡乱後三十年、不曾闕鹽醋なり。

たとへば増長するゆゑに已生するなり。このゆゑに、谿深杓柄長なり、只為有所以来なり。

詮慧

〇第四已生善令増長事。是は善を置きて増長せしめんとにはあらず。増長がやがて未生善令生となり、此の増長「自見明星訖、更教他見明星なり」。如此云えば自他の差別あるに似たり、不可然。その故は「已生の善」は自見明星也。「令増長」は更教他見明星也。又「明星は眼睛となり」と云う、眼をもて見るとは云うべからず。

〇「胡乱後三十年、不曾闕鹽醋」と云う、此の「胡乱後」とは、あからさまの義なり。年序を限らず、「三十年」とは云えども、千年万年も同じ事也、不可有定員也。「胡乱」は嫌うにはあらず。「不曾闕鹽醋」とは不打置不懈怠事也。三十年不打置かざる参学也。

〇「谿深杓柄長」と云う、是は増長の様を不断して仕うと云うにてはなし。ただ仏大なれば教え大なり、仏小なれば教え小なりと云う心地なり。谿深杓柄長なり、如文。

〇「只為有所以来也」と云う、なにのいかなれば増長と云わず、ただ増長なるなり。故に只為有所以来也。

経豪

  • 少分なる善を次第に増長せしむべきように、増長の詞をば思い習わしたり、非爾。已生を増長と談ず也。「已生善令増長」とあり。已生と増長と不可各別一体也。
  • 是は釈尊みょうじょうを見て悟道すと云う事也。「自」と云うは、釈尊御事也。「釈尊見明星訖、さらに他を教えて見明」の道理、非爾べし。明星与釈尊、全非別体。以明星釈尊の眼睛に替わる也。今の明星と云うは、釈尊の眼睛也と談ずる上は、能見所見不可有。故に「眼睛作明星也」とは云う也。
  • 釈尊の眼睛を明星と談ずる故に、今釈ある也。打ち任せたる空に出で給う。明星を見るとは不可心得。今の已生と増長とのあわい、眼睛与明星程の丈なるべし。「胡乱後三十年、不曾闕鹽醋」と云うは、古き詞なり。此の詞たとえば無始よりこのかた闕けたる所なき道理と云う心也。「不曾闕鹽醋」の詞も、気味のえんそを具足して闕けたる所なき、などと云う心地也なり、満足義也。
  • 已生と増長とのあわい、「谿深杓柄長」の理なるべし。谿も以尽界谿と談ず、杓も以法界杓と談ず。故に谿も杓も、一体一物なり。今の已生も増長も只如此。「只為有所以来也」とは、いかなる故、いかなる道理にてかかると云う事、総て仏法には不破談也。只仏法は仏法の為にある理なるべし。只為有所以来は、此の心地なるべし。一切仏法只此理なるべき也。

 

四神足。一者、欲神足。二者、心神足。三者、進神足。四者、思惟神足。欲神足は、図作仏の身心なり。図睡快なり、因我礼你なり。おほよそ欲神足、さらに身心の因縁にあらざるなり。莫涯空の鳥飛なり、徹底水の魚行なり。

詮慧

〇四神足(四如意足とも云う。欲・勤・進也。心、観、思惟也とも立つ)。欲神足、心神足、進神足、思惟神足、この四を四神足と云う。

〇『瑜伽(師地)論』第二十九云、問何因縁故、説名神足と。答如有足者、能往能還、騰躍勇健、能得能証世間所有殊勝之法(「大正蔵」三十・四四四中・注)世間殊勝法を説く、名づけて為神。彼能到此、故名神足。論には神足を云三摩地なり。

〇第一欲神足事。已前の四正断に付けて欲の字は出で来るなり。未生の悪を令滅んと欲し、未生の善を令生と欲し、已生の善を令増長せんと欲するなり。

〇欲知仏性義、当観時節因縁と云いし時の欲程に心得べし。「神足」と云うは、如意足也。必ずしも足とは心得まじ。坐禅辦道ぞ神足なるべき目足具わらざれば、清涼の地に到らずと云う詞あり。足に限らず目もあるべし。たとえば仏道を目に見て往く心なるべし。これは足あれば、とても往くべからず。目飽きたれば、とても見るべからず。神足も仏道の上にはかように心得べし。

〇「図作仏の身心也」と云う、この図は欲の義にあたる。欲知仏性義の欲程に心得べし。

〇「図睡快」と云う、いとなみ、求むる事のなき心地。

〇「因我礼你」と云うは、われなんぢをらいすと云う心は、汝得吾皮肉骨髄の心也。

〇「欲神足、さらに身心の因縁にあらざる也」と云う、何事を思うと云わば身心の因縁となるべし。不然る所を因縁にあらずと云うなり。

経豪

  • 論蔵の心、前の四住・四正断をば智慧に当つ。今の四神足は定に宛てる也。今の「神足」と云う詞も、定を云う神足也。「欲神足は、図作仏の身心なり」と云う、此の欲、打ち任すは善悪に付けて、とかく思う事を欲とは名づけたり。欲と云うは図作仏の身心也と云う。坐禅の姿を図作仏と云う。然者坐禅の道理程に、今の欲、神通をば可心得也。所詮尽十方界の姿を、欲神足と可談也。「図睡快」の詞も、只徒らにねぶり居たる許り有何詮、世間にすら猶徒ら者の所行也。況や仏法の上に弥可為不中要歟、是は石頭の『草庵の歌』の詞なり。成道作仏之後、自受法示したりなどと云う程のあわい程に欲と神足との詞、理なるべし。「因我礼你也」とあり、此の我与汝程のあわい程と神足との詞をば可心得也。凡そ欲神足さらに身心の因縁にあらざる也と云えり。はじめには図作仏の身心也と云い、ここには身心の因縁に非ざる也と云う、前後の詞かき合わぬように聞こゆ。但始めの図作仏の身心也と云う、右可用身心也。後のは打ち任せたる凡見の身心にあらざる所を、如此被釈、右有其謂也。
  • 是は宏智の坐禅箴の詞を被引。今の欲神足の心地、「莫涯空の鳥飛、徹底水の魚行」程の道理也と被引合也。

 

心神足は、牆壁瓦礫なり、山河大地なり。条々の三界なり、赤々の椅子竹木なり。尽使得なるがゆゑに、仏祖心あり、凡聖心あり。草木心あり、変化心あり。尽心は心神足なり。

詮慧

〇第二心神足事。此心を談ずる時は三界唯心也、牆壁なり山河大地なり、凡そ聖心なり。草木心・変化心等は可取物にてはなけれども、尽使得と談ずる上は凡心も草木心も皆接して取るなり。凡そ心の方には所具の方と思えども、唯心と云う時は、皮肉骨髄ふさねて取る故に尽使得也。

経豪

  • 心と云えば、いかにも身の内に具足する分別了知の心と、思い習わしたり。いかなるか古仏心とありし時、牆壁瓦礫と答えき、其の詞を被引載也。今の心神足と云わるる心、今の牆壁瓦礫心程に可心得也。いかなるか古仏心と問せし時、椅子竹木と答えき、是等の心程に心神足の心は可心得也。「尽使得」とは、前に「牆壁瓦礫也、山河大地也、乃至条々の三界、赤々の椅子竹木」などと色々に談じ表す所が、ことごとくつかい得たりとは云わるる也。「仏祖心あり、凡聖心、草木心あり、変化心あり」などと云わるるも、皆尽使得の道理にて如此云わるる也。凡聖心、乃至変化心などと云えば悪しき物かと聞こゆ。今は心神足の理の上に、如此談ずれば、善悪取捨に関わる詞とは、不可心得也。「尽心は心神足」と可心得なり。

 

進神足は、百尺竿頭驀直歩なり。いづれのところかこれ百尺竿頭。いはゆる不驀直不得なり。驀直一歩はなきにあらず、遮裏是甚麼処在、説進説退。

正当進神足時、尽十方界、随神足到也、随神足至なり。

詮慧

〇第三進神足事。「進」と云うは百尺竿頭に往くを云う。「驀直」はすぐなる心なり。三界唯心と談ずる時は驀直也。聊かも心を隔つる所を残す事あらば、驀直とは云い難し。進はすすむなり、精進の義也。

〇一歩はなきにあらずと云う、たとい歩むとも竿頭の上なり。やがて又歩は竿頭と心得也。

経豪

  • 是は進むと云う詞なり。進むと云うも、退くと云うも、只百尺竿頭驀直歩也と云う也。実にも進退共に、竿頭の上に仕う詞也。「百尺竿頭」とは長き竿なり。いづれの所も、百尺竿頭の理ならずと云う事なく、いづれの所も百尺竿頭なるべしと云う理なき所が、「遮裏是甚麼処在、説進説退也」と云わるる也。
  • 文に聞こえたり。所詮進神足の姿、尽十方と同じ也。故に「尽十方界は、随神足到也、随神足至也」と云う也。此の上は又神足を従うとも、到るとも談ずべき也。

 

思惟神足は、一切仏祖、業識忙々、無本可據なり。

身思惟あり、心思惟あり、識思惟あり。草鞋思惟あり、空劫已前自己思惟あり。これをまた四如意足といふ、無躊躇なり。

詮慧

〇第四思惟神足事。「思惟」とは其の物を置きて思惟し、其の物に依りてこそ思惟するを、今の談には「仏祖業識忙々、無本可據」と云う。実(に)世間思惟也。思惟には善悪の思惟あり、邪正の思惟あり。「無本可據」と云うに二の義あり。三界唯心と談ずる時も無本可據也。又妄法と談ずるにも無始終が故に無本可據なるべし。

〇教には始起名心(『瑜伽論記』「大正蔵」四二・六〇五上・注)と云いて、思惟は心にぞ付くべけれども、今は必ずしも其の義あるべからず。

〇「無躊躇」と云う、踏む所もなく跡ある事なきは、この四如意足也。如意は如意宝珠の心地也。如意として滞る所なき也。

経豪

  • 「思惟」と云う詞は、心の上に云う詞なり。是は「一切仏祖・業識忙々・無本可據」を以て、思惟神足と談ず。旧見に等しむべからず。衆生の上にも業識忙々と云う姿なかるべきにあらず。今は一切仏祖・業識忙々・無本可據とあり、不可類凡見。今の思惟神足の道理を、一切仏祖・業識忙々・無本可據とは可云也。いの仏法の理、無本可據の理ならずと云う事なき也。
  • 心思惟はさもありなん。「身思惟」と云う事、名目不普通。但今の思惟の道理の上に、此の思惟共あるべき条、今更非可驚。「草鞋思惟あり・空劫已前・自己思惟」とあり、是又不普通聞こゆ。但「心思惟・識思惟」などと云えば、猶身の上に置きて談ずる心地も、指し出でぬべきを、「草鞋思惟・空劫已前・自己思惟」などと云う時、此の思惟の日来思い習わしたりつる。凡見に不同、心地は解脱せらるるなり。詮はこの思惟神足の道理の上に、如此の思惟等あるべき也、又四如意足と名づくるなり。「無躊躇」と云うは、ためらう義也。不決定うたがいたる体(の)詞也。

 

釈迦牟尼仏言、未運而到名如意足。しかあればすなはち、ときこと、きりのくちのごとし。方あること、のみのはのごとし。

詮慧

〇無到処と云う、きり・のみの詞も無詮不足なきと也。きりはきりの姿、のみはのみのなる事を云うなり。

経豪

  • 此の「未運而到」の仏言、いかなるべきぞ。運んでこそ到ると云う道理はあるべきを、未運而到とあり。たとえば尽十方界真実人体などと云わんぞ。未運而到の道理なるべき、自余の詞も可准之。一切未運而到の道理を以て、仏法の理とは可云なり。又「説き事はきりの口の如し」とは、荷葉団々事似鏡、菱角尖々として、尖なる事きりの如しと云う詞あり。其を被引出也。所詮此の心地は、只一物にて物交わらぬ事を如此云う也。団なる時は、一向団にて尽法界。尖々とある時は、尖々にて尽法界道理なるべし。一通りの外に、余物なき姿なるべし。

 

五根。一者、信根。二者、精進根。三者、念根。四者、定根。五者、慧根。信根は、しるべし、自己にあらず、他己にあらず。自己の強為にあらず、自己の結構にあらず。他の牽挽にあらず、自立の規矩にあらざるゆゑに、東西密相附なり。渾身似信を信と称ずるなり。かならず仏果位と随他去し髄自去す。仏果位にあらざれば信現成あらず。このゆゑにいはく、仏法大海信為能入なり。おほよそ信現成のところは、仏祖現成のところなり。

詮慧

〇五根。信根・精進根・念根・定根・慧根。第一信根事。「信根」と云う事、天台に四十二位を立つる内、十信は仏法を始めて信ずるを云う。但信は伝なり、信は明也と云う。頗る先の信には異なるべし。眼は面の具足などと云う時こそあれ、尽十方界一隻眼と云う程に成りぬる時は、一物を全体と取る。誰人か信と云い難し。今の信(は)心意識にあらざる故に、「自己にあらず、他己にあらず、強為・結構」等にあらず。「東西密相附」なる故に、世間に思うが如くはあらざるなり。此の東西相附は西天東地附属相伝事也。

〇「渾身似信」と云う、是は身与信(の)二あるように聞こゆ。似と云う故に、然而この「似」は身は身に似たり、心はは心に似たりと云う程の詞也。天台論議にも義似於別などと云いて、別教の心を似たりとこそ雖も云う。又「似たり」とは、やがて別教を指して云えども論ずるなり。是は「渾身」をやがて信と云わんが為に、「渾身似信」とは云う也。「信現成せば、仏祖現成」と云わんが如し。

〇「仏法大海信為能入」と云う、是も世間に心得んには、仏法の大海に入らんには以信能入すべしと云うと心得ぬべし、此義不可然。仏法海と談ずる時は、海の辺際なければ入と云うも、不用の入の字になるなり。海の外に又残る所ありて、不入ものの有りに取りてこそ入とも云うべけれ。所詮仏法は大海、大海は信、信は為能入なるべし、非能所べし。仏法大海水流入阿難心などと云うこともあり。「渾身信」は所詮三界唯心と信じ、諸法実相と信ずるなり。

〇「仏果位」と云うも、別に階級を立てたるにあらず。只他に随い往き、自に随い往くと也。仏法の外にあらざる事を云う也。先の観法無我の段に妙覚にあらざらん、諸法等覚よりさき妙覚より外に超出せる菩薩と云いし丈を、仏果位とは指すなり。

経豪

  • 「信根」と云うは、先ず心に付けて談ずる事也。たとえば聞法して随喜する、則ち信なるべし。但今所談の信は、以尽十方界談信也。然者実(に)此の信「自己他己、自己の強為、自己の結構、他の牽挽、自立の規矩にあらざる」べし。「東西密相附」とは、初祖与二祖の伝法のあわい程に可心得也。初祖二祖の皮肉、またく両人相対の義にあらざるべし。「渾身似信」と云う詞、又不被意得。但に渾身の姿を信と談ずるなり。信の力によりて果位を成ずと思い習わしたり。今は此の仏果位の当体を信と取る也。全非両物ゆえに、「仏果位と随他去し髄自去す」とは云うなり。「仏果位に非れば、信現成せず」とは、如前云、此仏果位を信と談ずる故に如此云わるる也。又「仏法大海信為能入」とは、仏法に入るには以信入と心得るは、只日来の旧見に不違。今は以仏法大海、信とは則ち談ず也。是の故に「信現成の所は、仏祖現成の所也」と云うなり。

 

精進根は、省来祗管打坐なり。休也休不得なり、休得更休得なり。大駆々生なり、不駆々者なり。大駆不駆、一月二月なり。

詮慧

〇第二精進根事。対懈怠りて精進の詞は出でく。然而是は於仏果上精進と云う。かれには異なるべし。故に明らめ来りて打坐する也と云う。此精進は休せんとするに不休也、故に「休也休不得」と云う也。但又精進の所をやがて休とも仕うべし。「休也休不得、休得更休得」と云うは、仏法には得不得ともに用いる詞也。信根の段に仏法大海信為能入也と云いつる入る程の詞に、休の詞は心得也。

〇「大駆々生なり、不駆々者なり、大駆不駆一月二月」と云う、是(は)精進を皆如此仕う一月二月と云うも、只同じきが上の詞なり。

経豪

  • 「精進」とは対懈怠したる詞也徒らにのみ過ごし居たるを、勇猛精進に勧修して、修行仏法を精進と心得、是常事也。而今の所談の精進は、「省来祗管打坐也、休也休不得也、休得更休得也」と云う、省来祗管打坐とは、坐禅の姿是なるべし。「省来祗管打坐」とは、たとえば南嶽の大慧禅師、密受心印より、このかた常に坐禅すと云いし程の姿也。あきらめて坐禅する姿を、今は「精進根」と可談也。然者旧見には可水火、所期を置きて精進とは談ず也。是常義也。此精進の上の「休也休不得、休得更休得」なるべし。会不会程の理也。「大駆々生なり、不駆々者也、大駆不駆一月二月なり」とは、是も会不会などと云う程の心也、古き詞を被引出也。一月二月と云うも、目をおおう月に喩えて、真妄と談じて云う詞を、今被呼出歟。此の一月二月、更非真妄二。只月は全月なるべし、今の精進根の道理如此。

 

釈迦牟尼仏言、我常勤精進、是故我已得成阿耨多羅三藐三菩提。いはゆる常勤は、尽過現当来、頭正尾正なり。

我常勤精進を我已得成菩提とせり。我已得成阿耨菩提のゆゑに、我常勤精進なり。しかあらずは、いかでか常勤ならん。しかあらずは、いかでか我已得ならん。論師経師、この宗旨を見聞すべからず、いはんや参学せるあらんや。

詮慧

〇「仏言、我常勤精進、是故我已得成阿耨多羅三藐三菩提」と云う、「常勤精進」は因位とし、「得成」を仏果と云う。これ世間の習いなり、今は不然。「我常」が因位ならんには少分の常也。「常勤は、尽過現当来也」。「我常精進を我已得成」と云うなり。「釈迦牟尼仏言の我常勤精進」とあるは、因位のとき我がと聞こゆ。「是故我已得成阿耨多羅」とある我は果位の仏の名のらせ御し。我がなどと覚えたれども非爾。常勤精進の所こそ、やがて得成阿耨多羅とは云わるれ。故にただ両我は一我と心得也。故に「常勤は尽過現当来、頭正尾正なり、我常精進を我已得成菩提とせり」とあり。

経豪

  • 是は経文(『法華経』授学無学人記品九「大正蔵」九・三〇上・注)也。於過去空王仏前に、阿難と我と発心の時、阿難は広学多聞なりしに依りて、不成菩提。我は常勤精進の力に依りて、得成菩提と被仰たるように経文は見えたり。但如御釈は常勤は尽過現当来、頭正尾正とあれば、此常勤のよう、三世に関わるべからず。此の我常勤精進を我已得成菩提とあれば非可疑。
  • 「我已得成阿耨菩提と我常勤精進」と、只一体なる道理が如此被談なり。尽過現当来、頭正尾正の道理を常勤とは可云也。如此ならずは争か常勤と云わん。しかあらずば争か我已得の道理あるべきと也。如文。

 

念根は、枯木の赤肉団なり。赤肉団を枯木といふ。枯木は念根なり。摸索当の自己、これ念なり。

有身のときの念あり、無心のときも念あり。有心の念あり、無身の念あり。尽大地人の命根、これを念根とせり。尽十方仏の命根、これは念根なり

一念に多人あり、一人に多念あり。しかあれども、有念人あり、無念人あり。

人にかならずしも念あるにあらず、念かならずしも人にかかれるにあらず。しかありといへども、この念根、よく持して究尽の功徳あり。

詮慧

〇第三念根事。意根に於いて念をば立てず。今は枯木を念根と仕う。但枯木にも不可限。是「摸索当」と云えば、諸物何れをも不可嫌念根なり。境に対したる念なるべからず。先にも一山河大地、二山河大地を一念二念とすと云う詞あり、始不可疑身を念とす。無心を以て念とす。此の念は非心意識ざる念なり。

〇「一念多人あり、一人に多念あり」と云う、一多相即と談ずるは仏家の定まれる詞なり。尽十方界人を以て一人とも説き、多人とも説く也。今の念は、日来我等が心得る慮知念覚にてはなし、仏法に嫌う所也。「摸索当の自己」これ念なり。「有身の時の念あり、無心の時の念あり。尽大地人の命根、これを念根とせり。尽十方仏の命根を念根」とあるにて非世間慮知念覚道理は心得べし。

経豪

  • 「念」と云うも抑も心(を)談ずる詞也。「枯木を念根」と云う事、驚耳ように覚ゆ。枯木死灰などと云いて、無念なる物の第一に喩えたり。又二乗をも喩彼。所詮今の念根、衆生所具の心上に談ずる念にあらず。以尽十方界談念と枯木は念根也とあれば、今の念根の姿を枯木と可談条非可疑。然者日来はただ赤肉団をば、衆生の所具とのみこそ、思い習わしたるを如此談ずれば、旧見は悉く解脱し、又所詮今は念根の上に、「赤肉団とも、枯木とも」談之。それと云うは此の念根の当体が、則ち赤肉団にても、枯木にしてもある故に如此云うなり。「摸索当の自己」とは、今右に所挙の各々の詞を指すなり。是を念と云うべき也。
  • 如前云、念は心の上に具足する物也。「有心の念」と云う事、名目相違して聞こゆ。然而今は此念の上に、右に所挙の一々(の)念を可談也。「尽大地人の命根・尽十方仏の命根」等を皆念根と可談なり。
  • 「一念」と云うは、一人に仰せて可云事也。「一念に多人あり」と云えり、難心得。然而此念を一人に多念とも談ぜん。更不可乖角。今の念のよう如此縦横に被談。即ち究尽脱落の念なるべし。「有念人・無念人」、是又念上の有無人なり。
  • 打ち任すは人に念あるべし。今必ず人にかかるべし。但今の念の道理、尤如此云わるべし。尽十方界真実人体と談ずる人の時、念(を)何れの所に可被置乎。尽十方界を念と談ぜん時、人何れの所に在りなん。以此理如此云う也。此の道理を参学する時、究尽の功徳、尤もあるべき也。

 

定根は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり。このゆゑに不昧因果なり、不落因果なり。ここをもて、入驢胎、入馬胎なり。

いしの玉をつつめるがごとし、全石全玉なりといふべからず。地の山をいただけるがごとし。尽地尽山といふべからず。しかあれども、頂□(寧+頁)より跳出し跳入す。

詮慧

〇第四定根事。入出の所を置きて定と云うにはあらず。仏法には道場を不立して威儀を法界に遍し。

〇「惜取眉毛・策起眉毛」と云う、眉毛の眉毛なるを惜しむと取る、策起も如此。今の「定根は、惜取眉毛なり、策起眉毛なり」とあれば見仏と心得べし、これ作仏也。仍って眉毛の詞ある也。「入驢・入馬」は入大地・入有情と云う程なり、同時成道也。此の入の字(は)全義也。常勤を得成と心得つる程の義なり。但又得成も不用の成・入も不用の入なるべし。

〇玉含石地載山道理もあるべし。諸法従本来常自寂滅相と云うが如し。「跳入・跳出」の詞あれども内外のあるにあらず、頂□(寧+頁)より出入する故に。

経豪

  • 「定」とは閑かに端坐する姿を云う歟、或いは人(を)定とも云う。是は見仏の因行にて、此の定の力に酬いて仏を奉見と云う也。今の「定根」は非今義に、「惜取眉毛・策起眉毛なり」とあり、是れ則ち定根の姿なるべし。「故に不昧因果とも不落因果」とも被談也。「入驢・入馬胎」とは、共に馬也、只同じ物也。是れ則ち不昧因果・不落因果の道理と同じかるべし。
  • 此御釈詞不被心得。「全石・全玉」とこそ云いつべけれと覚ゆ。然而此石をやがて玉と談ずるなり。又「石の玉を包めるが如し」とは、狗子に仏性有りやと云う程の詞也、理也。「全石全玉と不可云」とは、かかる詞、理のなかるべきにはあらねども、只一向仏性は仏性、狗子と許り云いても、注文は、はつべからず。ともかくも被談ずればこそ、義も広く、経文も易く、詞に迷わず心得らるれ、是等皆一往の義共なり。

 

慧根は、三世諸仏不知有なり、狸奴白牯却知有なり。為甚如此といふべからず、いはれざるなり。

鼻孔有消息なり、拳頭有指尖なり。驢は驢を保任す、井は井に相見す。おほよそ根嗣根なり。

詮慧

〇第五慧根事。「慧」と云うは照境義也。止観の義を云うには、止は寂也定也。照にして寂也と云う観慧なり照なり。

〇「不知有」と云う寂に対して談慧義なし。三世の諸仏を以て不知有と取る。知不知に拘わらざるが故に、日来は仏は知、狸奴は不知とこそ知りたりつれども、知不知に拘わらねば仏を仏を不知有と仕い、狸奴却知有と云う。すべて知不知(の)沙汰を、今は脱落しぬる時は狸奴知有と云うも、諸法を実相と説く同語なり。仏は一法の法を知ると云わず、一切の法こそ仏の知なれ、仏の心なれ。三世諸仏不知の詞は趙州の詞也。

経豪

  • 「慧根」は智慧なり。「三世諸仏不知有、狸奴白牯却知有」とあり、抑も旧見は尤驚耳目詞と聞こえたり。然而此の三世諸仏と、狸奴白牯と、全不知有差別。知有不知有、又非勝劣浅深詞。今の慧根の道理如此なるべし。法の理、総ていかなる故に、如此なると云う義云われぬなり。故に「為甚如此」と云う道理より外には不可有也。
  • 是は只それがそれと云う道理なり。「鼻孔には鼻孔あり、拳には指あり」と云う也。「驢は驢を保任すと云うも、井は井に相見す」と云うも、只それがそれ、又余物の斉肩すべきなき道理に被引出也。此の道理が則ち「根嗣根」とも云わるるなり。

 

五力。一者、信力。二者、精進力。三者、念力。四者、定力。五者、慧力信力は、被自瞞無廻避処なり、被他喚必廻頭なり。従生至老、只是這箇なり。七顛也放行なり、八倒也拈来なり。このゆゑに、信如水清珠なり。伝法伝衣を信とす、伝仏伝祖なり。

詮慧

〇五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)第一信力事。「信」は五力にわたるべし、信いまだしと云うべからず。いまだしからんを信と喚ぶべからず。五根の所に信根と云いつるに明らけし。信を助法と心得て、究竟には到らざる程を云うは小乗心地なるべし。身心学道などと云う義にて心得べし、一向意地に仰せて云う事なかれ。信根の所に自己にあらず、他己にあらずと云いつる時に、此の力も同事也。根と云うも力と云うも、ただ所々に随って仕い替うるばかり也。「信・進・念・定・慧」この五力は同じかるべし。先の五根の段に委注之。「水清珠の如し」と云うも、無隠無隔・被自瞞無廻避処の心也、心に瞞ぜられて回避の所なしと心得也。三界唯一心・不対他自なるべし。心力三界へ出づると云わん、必ず廻頭に当たるべし。

〇「被自瞞無廻避処なり、被他喚必廻頭」と云う、此の廻避処・必廻頭(は)同じ詞也、随他去の心地也。「従生至老、只是這箇」の道理也。生の処に老は必ず現ず、故に被自瞞無廻避処の義なり。

〇「七顛也放行也、八倒也拈来なり」と云う、顛も倒もただ一心なり、放行も拈来も同じ詞なるべし。従生至老(と)同事也、所詮「従生至老、只是這箇也」。尽地の放行也、尽地を拈来すとも云うべし。一心を拈来すとも云わんが如し。

〇「伝法伝衣を信とす」と云う、まことに信ならざる伝法あるべからず。又袈裟をば信衣と云うこれなり。今(の)相伝大衣これなり。

経豪

  • 前には五根、今は五力、只根与力替許也。「信・進・念・定・慧」は同之。此の「被自瞞無廻避処也」とは、自らに昧まされて回避の所なしと云うなり。是は自らの辺際なき道理を云う詞也。又「被他喚必廻頭也」とは、如前自他の外に、余物不相交、他の究尽の理を表す詞なり。所詮自も法界を尽し、他も法界を尽す道理なるべし。他に喚ばれて廻頭する道理は、他の外に物なき理なるべし。「従生至老、只是這箇也」とは古き詞也。只それがそれと云う程の詞なり。是も只全体其れなる道理也。「七顛」とは悪しき詞と思い習わしたり。是は仏祖の上の七顛、信力の上の七顛也。更善悪取捨の法に関わるべからず。「八倒も已拈来」と云う上は、非可棄置也。皆信力の上の荘厳なるべし。
  • 信の姿如水清珠なり、曇り隠れたる所不可有也。「伝法伝衣、乃至伝仏伝祖」のあわい、如此なるべし、是を今の信と談ず也。

 

精進力は、説取行不得底なり、行取説不得底なり。しかあればすなはち、説得一寸、不如説得一寸なり。行得一句、不如行得一句なり。

力裏得力、これ精進力なり。

詮慧

〇第二精進力事。是又先の精進根の心に同じ。始めて精進して得るにてなし、力裏得力の詞に可心得合、精進がこの心なり。是も被自瞞無廻避の心也。 説行を不相対して説得一寸、不如説得一寸と云う時に、只説は説・行は行也。今の力は力なる也。精進を行に付けて云うには仏与弥勒、同じけれども仏ぞ精進勝りたる故に、進んで正覚を成と云う。如此の義も無きにはあらず。但説取行取を立て替えぬる上は、説行に勝劣有りと不習は宗門の義也。説いて不行は捐気無益と俗の家にも談ず。「説得一寸、不如説得一寸」と云う時に不各別。火焔裏の説法を仏立地聴法すなどと云う程の説なる故に「力裏得力」也。

経豪

  • 是は説与行、二を説くように聞こゆ、是も尽界説、尽界行と説く心なり。「説と取る時は、行は不得底也」とあり。「行取の時は、説不得底」と云う、説与行各究尽の道理分明に聞きたり。又「説得一寸、不如説得一寸也」とは、本の詞は一丈を説得せんよりも、不如説得一尺とあり。是を人の心得様は、一丈を説くよりも先ず只一尺を説得してありなどと云う様に心得也、非爾。此の一丈・一尺(は)、只同じだけなるべし。今の説得一寸・不如一寸は、今一重まぎるる方なく、被心得たり。此の一寸如前云うの説行程の一寸なるべし。「行得一句、不如行得一句」とは、是又説得一寸の同心なるべし。一寸と一句との替り目許り也。寸与句更不可有差別。
  • 右の道理は、「力裏得力」の理なるべし。それがそれと云う道理なり。此の姿を精進力とは可談也。

 

念力は、拽人鼻孔太殺人なり。このゆゑに、鼻孔拽人なり。玉引玉なり、塼引塼なり。

さらに、未也三十棒なり。天下人用著未磷なり。

詮慧

〇第三念力事。此の念、無能所ゆえに「人の拽鼻孔」と云う時、なお拽人のあるかと聞こゆるを塞がんため「殺人也」と説く。又鼻孔人を拽くとも違えて云う也。殺人未殺人などと云いし丈也。

〇「未拋也三十棒」と云う、未とあればとて、拋げられざる事のあるにはあらず、「拋玉引玉・拋塼引塼」程の事也。此の詞出でくる始めは拋塼引玉と云うなり。棄悪取善心歟、いかなるかこれ未拋也と云わば、可答拋塼と。

〇「天下人用著未磷」と云う、これ違わず可被用となり。「磷」はひすらかすと読む。「未磷」と云いつる時はひすらかならず故にたやすくして隔て支うる事なき心なるべし。念力無際限ゆえに如此説く。

経豪

  • 是は祖師の二人、虚空を取ると云う事を被談しに、一人祖師は虚空に向って、祖師の鼻孔をむずと被取りたる事ありき、其の時「拽人鼻孔太殺人」と云いし詞を被引也。是は人の人の鼻孔を取るとこそ覚ゆるを、今の解釈は「鼻孔拽人也」とあり。鼻孔が鼻孔を拽くと可心得歟。『坐禅箴』には拋塼引玉とこそあれ、是は悪しき物を拋げて、善き玉を引くと被心得ぬべし。其の道理は「拋玉引玉」程の理なるべし。「拋塼引塼」の理なるべし。此の念力の道理、是程のあわい也。人の上に念を持たせて、此念善悪にわたると心得るは凡見なり。
  • 是は仏也祖師也などと云う程の詞を、「三十棒」をば可心得、無始本有などと云う程の詞也。「天下人用」とは、此信の事也。信をば天下人用なれども、「未磷也」とは、用ともひすらかならずと云う也。未磷とは尽きざる心也。信の姿(が)無際限なる道理なり。

 

定力は、或者如子得其母なり、或者如母得其子なり。或者如子得其子なり、或者如母得其母なり。

しかあれども、以頭換面にあらず、以金買金にあらず。

唱而弥高なるのみなり。

詮慧

〇第四定力事。小乗には定力精進力にて法成就する事と思いて定をも行にわたす、戒定慧の三学これなり。但教に法界定とも談ずる事これあり。このとき作業に拘わるべきならねども、やがて行者の上に悟道とは許さず。この段に如子得母、得子などと云う「得」の字は力と力と得と仕う。自が得也にはあらず、母得母なり。

〇「如子得其母也、如母得其子也、如子得其子也、如母得其母也」と云う、此の「如」と云う字は熱きこと火の如火、冷たきこと如氷などと喩えて、一定熱くも冷たくも思い固めたる事を置いて云う。今は能所なし、やがて其の物を改めずして如しと仕うなり。故に如子得其子・如母得其母と云う親切の義なり。

〇「以頭換面・以金買金」の詞も、通ずる道なきにはあらず。然而ここには猶、換の自・買の字を戒しめてあらずと仕うなり。換字も買字もをかしとなる。打ち任せては頭面同じかるべし、金と金と亦同じけれども、ここには猶かうと云う詞(の)買と云う詞をしばらく嫌うなり。

〇「唱而弥高し」と云う(古人はあおげばいよいよたかし)は、高声の心地也。定力際限なき事を如此云う。「弥」と云う詞にて際限なき事明らけし。此の「唱」と云うは母を母と唱え、子を子と唱う道理を唱而弥高とは云うなり。

経豪

  • 法華の喩えにも、如子得母(『法華経』「嘱累品」・「大正蔵」九・五四中・注)とあり。如此談ずれば、猶母与子両人相対して聞こゆ。此理の落居する所は、「如子得其子・如母得其母」の理なるべし。
  • 此の詞は皆「あらず」と云えば、不可用理、被棄置詞と聞こゆ。「以頭換面・以金買金」の道理なかるべきにあらず、随此詞所々に被引。然而又「以頭換面にあらず、以金買金にあらず」と云う理も、又一筋あるべし。さればとて、此の道理の始終非可違なり。所詮或る時は以頭換面なり、以金買金なりと云う理もあるべし。又如今「以頭換面にあらず、以金買金にあらず」と云う理もあるべきなり。此の両義(は)只一理なり。此の非ずと嫌わるるは、必(ずしも)以頭換面と云う換え詞も詮なし。只頭は頭、面は面なるべし。「以金買金」と云う買の詞も、要にあらず。只金は金。買は買なるべき也。故に非ずとは被嫌うようなれども、非始終向背理也。
  • 是は仰いでは弥高く、鑽りは弥堅しと云う詞あり、所詮以金買金などと云う詞なかるべきにあらず。然而猶「以金買金」と云えば、金与金などを差し替えたるように心得るも、猶仏法の理には当たらず。只総て以金買金などとも云うべき所なき道理を、「唱而弥高」とは云うべきなり。

 

慧力は、年代深遠なり。如船遇度なり。かるがゆゑに、ふるくはいはく、如度得船。いふこころは、度必是船なり。

度の度を罣礙せざるを船といふ。春氷自消氷なり。

詮慧

〇第五慧力事。此の「慧」は、これにて彼を悟ると云う慧にはあらず。船と度(わた)りと程の心地也。

〇「年代深遠也」と云うは、思えばいよいよ遠しと云う心地なり。先の定力の所に、唱は弥高しと云う同義也。これも際限なしとなり。

〇「如船遇度也」と云う、経文(『法華経疏』「大正蔵」八五・一九二上・注)には「如度得船」と云う。是を心得る度に船を得たらん(と)喜ぶ所なり。但此の義にては船なくば度るまじき事と聞こゆ。かく談ぜば「度」の詞頗る不用なるを、今取り替えて「如船遇度」と云う、これ親切の詞也。船が度りに遇いたらんぞ高う義なき道理、相い叶うべきべき度は必ず是船也と云う。「度の度を罣礙せざる」と云う也。かく心得る上にこそ如度得船も度必是船なれ。

〇「如度得船」は諸法実相也。度なれば船あり、諸法あれば実相あり。

〇「春の氷は自消氷也」と云う、氷は春必ず消ゆ。この道理ある故に春の氷とだに云えば、自消氷の道理見成す故に、氷に春の字を付く能所なき心なり。

経豪

  • 「年代深遠」の詞は、無始曠劫よりなどと云う程の詞、古き心也。慧力の道理を云う歟。如今御釈経にも「如度得船」とあり、「如船遇度」の詞(と)、逆なるようなり。然而度と船と相対の法にあらず。以船為度・以度為船也、非各別両物。仍って如度得船の道理は、「度必是船也」とあり。以度以船事(は)御釈分明也。
  • 如文如前云、度と船との一体なる理、弥重御釈に分明に聞こゆ。「春氷自消氷」とは、春に成りぬれば、氷は何となれども自消す。人の強為して、造作するにあらざれども、春氷自消氷の道理ある也。今の慧力の理如此なり。

 

七等覚支。一者、択法覚支。二者、精進覚支。三者、喜覚支。四者、除覚支。五者、捨覚支。六者、定覚支。七者、念覚支。択法覚支は、毫釐有差、天地懸隔なり。このゆゑに、至道不難易、唯要自揀択のみなり。

詮慧

〇七等覚支(択法覚支・精進覚支・喜覚支・除覚支・捨覚支・定覚支・念覚支)。「覚」は菩提也。以此種々善心助菩提令成也。「支」は枝に付けたる詞也。ささうる也、たすくる也。ゆえに分法と云わる、三十七品分にある故に(教意如此)。

〇第一択法覚支事(智慧也)。悪善の法を前置きて「択」と仕うは、これ教に談ずる所。今諸法実相と云わん時、いかがえらぶ事あるべき、善悪を接する択なるべし。此の「択法」は始めてえらばんずるにてはなし、えらびてこそ択法なれば悪と云う義あるべからず。

〇「毫釐有差、天地懸隔也」と云う、「天地懸隔」の詞、迷悟ともにあるべし。是両様にも心得べし、一者有差と云えども違うにはあらず。磨塼作鏡とは云えども塼、と鏡と二ある事なし。成らぬ物を作と云う義にてはなしと心得べし。依違の義にてはなし、ただ有差と仕う。莫妄想と仏性の時云いしが如し。仏性もとより妄想なけれども莫妄想の道理のあるにてこそあれ、妄想する時のあるべきにてはなし。二者有差は又懸隔也とも云いぬべし、又違うものの二あるにてはなし。択法とは云えども択にてなき証拠に云うなり。

〇「至道不難易」と云う、此の至道の「至」は非去来、仍って不難易也しも次の詞(の)、「唯要自揀択也」(と)、悪を置きて択(を)捨て善を置きて、択取は道の本意にはあらず。やすからず、かたからざらんには、択法とは世間に如思うには難心得也。

経豪

  • 「択法覚支」とは、えらぶ心也。悪しきを捨て善きを取る。是打ち任せたる義也。今の択の義非爾。「毫釐有差、天地懸隔」と云う事は、世間に打ち任せて使う詞なり。今の「択法覚支」の道理、何を違うとも云うべきぞ、是は只三界の詞を談ずる時、一心の理の出で来る程の心地、是を「天地懸隔」と可云也。然者、全て相違の法にあらず。此の択法覚支を至道と談ずる故に、「至道不難易」とは云うなり。「唯要自揀択」とは、只それがそれなりと云う程の詞なり。自が自をえらぶと可心得也。

 

精進覚支は、不曾攙奪行市なり。自買自売、ともに定価あり、知貴あり。

屈己推人に相似なりといへども通身撲不碎なり。

一転語を自売することいまだやまざるに、一転心を自買する商客に相逢す。驢事未了、馬事到来なり。

詮慧

〇「第二精進覚支事(大論廿云、若懈怠者是木有火而不能得何況余事)・(『大智度論』第三十「釈初品中善根供養義第四六巻」・「大正蔵」二五・二八一中・注)。「不曾攙奪行市」と云うは、不精進つるを奪いて精進と覚するにてはなし。此の精進は対懈怠たる精進にあらず。

〇「自買自売、ともに定価あり、知貴有り」と云う買売の法は必ず自他相逢して有此義。而今は不置自他、故に自買自売と云う、しかれども又価(の)定めたるを貴き事を知ると云う。これ精進はなきにあらずと云わん程の詞に「定価知貴」とは云うなり、知貴は今の買売の様なり、皆貴(の)故なり。

〇「屈己推人に相似なりといえども」と云う、是自他を置くに似たれども、通身捨て砕けずとなり。「一転語の自売自買、商客相逢、驢事未了、馬事到来」、皆此道理なり。

経豪

  • 此の精進、対懈怠たる非精進。「不曾攙奪行市也、自買自売ともに定価あり知貴あり」の「不曾攙奪行市」とは、於市権勢者などと顔をし、買い物するを云うなり。是非直義也、買売の姿いかにも、両人相対してあるべき事也。今の精進の道理非爾。精進の外に可期果なし、故に非行市とは云うなり。
  • 「自買自売ともに定価あり」とは、只自らが売り自らが買う道理なるべし。
  • 「知貴あり」とは、是は両人相対したるに似たれども、「通身不碎也」とは、通身とはたとえば、尽十方界真実人体と云う程の身也。此身は撲不碎の理なるべし。
  • 是は語と心と、只同じ道理なる事を云うなり。是も如前云三界の詞、未だ止まざるに唯心の心、出で来るなどと云う心なり。「一転語を自売する」と「一転心を自買する」と(は)、只同じ道理也。「商客」とは商人也。買売の詞の潤色に被引出歟。随被決御詞に、「驢事未了、馬事到来也」とあり、只同事なる理を表わさるる条顕然也。今の精進覚支の理、如此なるべし。対懈怠精進して、可期を待つに非ざる精進なるべし。

 

喜覚支は、老婆心切血滴々なり。大悲千手眼、遮莫太多端。臘雪梅花先漏泄、来春消息大家寒なり。

しかもかくのごとくなりといへども、活々、笑呵々なり。

詮慧

〇第三喜覚支事(於善法欣楽する心なり今者不然)。菩薩の十地を云うに歓喜地と云う分の歓喜也。「喜」(は)、先段の精進覚支にて修善なる所を喜ぶなり、今は不然。喜の外に誰なければ不可喜となり。

〇「老婆心切血滴々」と云う、「老婆心」はものを憐れみ育む心地に仕うなり。「血滴々」は顕わなる詞に仕う。赤心片々などと云うが如し、「滴々」は血に付けたる詞也。

〇「大悲千手眼、遮莫太多端」と云う、此の「大」(は)不可対、又「千」の字も員には関わるまじ、ただ一手なるべし。尽十方界真実人体の時、不可有多端事歟。

〇喜覚のよろこぶ所を、大きに多しと仕う也。菩薩四無量の喜也。四無量と云う慈悲喜捨、この四は一々に無量の詞を作るなり。「喜」と云うは自他をして令喜也。捨は布施也。但施と云えども施を行じたらば、次の生には福分となり貧苦の報いを逃れんなどと、その代わりを心に懸けて施さんは、唯世間(の)買売の法に同じ。其の義なくして施しするを捨と云うべきなり。仏道に施して仏道を得る許りこそ、買売ならぬ得る所の法が無為の法なる故に。

〇「臘雪梅花先漏泄、来春消息大家寒」と云うは、すでに雪の中にも春の花を漏らし春なれども又寒しと云う、是が喜覚支に通ずるようは、春と冬とを等しめて冬も梅花を漏らし春も寒なるように、この喜も無辺際也。たとえば眼睛と仕うが如し、故に「活鱍々」と云い「笑呵々」と云うなり。「わらう」と云う詞は喜覚に付けて云うなり。

経豪

  • 「喜覚支」は悦ぶ心地なり。法喜禅悦などと云う詞もあり、是も何か何事を可悦ぞ。「老婆心切血滴々」とは、仮令志の切に深き事に仕う詞なり。「老婆」とは老いたる女の事也、殊憐愍覆護を垂るる心なり。「大悲千手眼、遮莫太多端」とは、『観音』の草子にも、手はあれども探らるる物なく、眼はあれども夜間なりしが如く、是も「喜」の外に交わる物なき道理なるべし。「臘雪」とは極月雪歟、梅花は春咲くべきもの也。臘雪は春に先立ちて漏泄する姿。春梅花の咲くとは不可心得、梅花に春ある也。「来春の消息、大家寒」の詞も、只梅花の理の上に可心得なり。
  • 是は解脱の詞也。右に所挙の詞共、皆解脱の理也と云うなり。「笑呵々」とは笑う詞歟、是も印可之義也。只笑う許りにては不可有其詮歟。

 

除覚支は、もしみづからがなかにありてはみづからと群せず、他のなかにありては他と群せず。我得你不得なり。灼然道著、異類中行なり。

詮慧

〇第四除覚支事(又云う、軽安覚支身心を整のうるなり)。「除」は物をのぞくとなり。善悪の法を立て捨悪取善ゆえに除くと仕う、今は不可然。諸法実相と体脱するを、今の「除」とは仕う也。物を捨つるにてはなし、無上菩提を除法とは云わるると也。先の択法の時、択ぶべき物などと云いし定めに、除がやがて覚支也。

〇「群せず」と云うは、不相対二なき所を不群と云う。みづからはみづからと難群。他も如此、これぞ除には当たるべき。「灼然道著」は明らかなる道著と云うなり、「異類中行なり」。

経豪

  • 是は無別子細・自他不相交。自と談ずる時は自、他と談ずる時は、他は不群。自も独立し、他も独立の姿なり。「我得你不得」とは、我得の時は你不得なるべし、如例。「灼然道著」とは、明らかに云う時となり。「異類中行」とは、又物も不交心なり、除覚支の道理如此。「除覚支」とは、除くと云う心地也。何を可除ぞ、尤不審也。

 

捨覚支は、設使将来、他亦不受なり。唐人赤脚学唐歩、南海波斯求象牙なり。

詮慧

〇第五捨覚支事(於善悪法平等に修習也)。施するを捨と云う。無所類施すとも捨とも云う。

〇「設使将来、他亦不受」と云う。尽界の諸法・将来すれども、誰人可受人云わず、此の捨は尽界捨也。

経豪

  • 「捨」は捨つる心也。「設使将来、他亦不受」とは古詞也。此の「捨覚支」は今(の)道理也。「唐人赤脚学唐歩、南海波斯求象牙」と云うも、古詞也。只唐人は唐人の振舞也。天竺・波斯には象あり、象ある所にて求象牙と云うも、只それがそれなる道理なり。所詮是も又物不交道理の方を取らん料り也。捨覚支の道理如此。

 

定覚支は、機先保護機先眼なり。自家鼻孔自家穿なり。自家把索自家牽なり。

しかもかくのごとくなりといへども、さらに牧得一頭水牯牛なり。

詮慧

〇第六定覚支事。諸法従本来、常自寂滅相と云う。然者此の定を保ち護ると云うも、只眼と説く程也。

〇「牧得一頭水牯牛」と云う、是は三(阿)僧祇劫の修行にて、仏に成るぞなどと云う程の事也。但三世を置いて云うには非ず、三世一一に満たし足らんを「定」と云うべし。「定覚」と云わんも、定得は今の一頭水牯牛の牧得程に可心得、不然は定と云い難し。所詮得脱を牧得とは云うべし。

経豪

  • 「定覚支」とは心を鎭むる義、禅定の定と打ち任すは心得なり。今所談の定(は)非爾。何人ありて如何なる心を鎭むべきぞ。仮令尽十方界真実人体の人を、やがて定と可談歟。定と云うに付けて果のなき所が、機先保護とも、機先眼とも云わるる也。「自家」とは今の定覚支を可談歟。鼻孔の鼻孔なる道理を穿つとも云うべきなり。「自家把索自家牽」とは、自把索自牽と云う也。是も自が自なる道理、一切究尽の理なるべし。
  • 是に先々沙汰ふりき。今の「牧得一頭水牯牛」とは、只成仏作祖などと云う程の同也。今の水牯牛と仏と不可差別也。

 

念覚支は、露柱歩空行なり。

このゆゑに、口似椎、眼如眉なりといふとも、なほこれ栴檀林裏爇栴檀、獅子窟中獅子吼なり。

詮慧

〇第七念覚支事(憶念不失也)。「露柱歩空行」と云う、是れ念の念を念ずる義也、露柱の姿を表す也。念は境に依りて発すと心得るまでこそあれ、やがて境を念と仕う。鏡を像に鋳ると云う詞あり。是こそ諸法実相・三界唯心にてぞある。時に念と云いつる所を今の露柱、又

露柱の歩空行なる。この故に「念覚支は、露柱歩空行」と云うなり。

〇「口似椎(槌なり)眼如眉」と云うは、此の「口」と云うはやがてきり(錐)を云うなり。きりの先は細くして説く物に立つ故に、説く事きりの如しとも云う。是はきり(は)きりの如しとも云う心に、口似椎とも云う(は)、諸法実相也・実相諸法也と云わんが如し。熱きこと如火と云わん、熱しという事は不可離火の外にあるべからず。火と云うに又熱きこと不可離なり。思惟神足の所に釈迦牟尼仏言、未運而到名如意足。しかあれば則ち説き事きりの口の如し、方なる事のみ(鑿)の歯の如しと云うが如く心得べし。運んでこそ到るべきを、不運して到るを如意足と名づく。其の物の上にその事の現るる是を「口似椎」とも、「栴檀林裏爇栴檀、獅子窟中に獅子吼」とも云う也。

経豪

  • 「念」と云うは、心の上に仰ぎたる詞なり、今の念(は)非爾。「露柱歩空行」、驚耳詞也。但祖師所談の露柱の道理、可尽法界。尽十方界露柱なる道理か、歩空行とは被談也。尤又有謂。
  • 「口似椎、眼如眉」などと云えば、彼是相似なるように聞こゆれども、只栴檀林には栴檀を爇き、獅子窟には獅子吼程の道理、只同事なる理なり。此の口眼眉などと、各々なるように聞こゆれども、只一物なり一体なるべし。

 

八正道支また八聖道とも称ず。一者、正見道支。二者、正思惟道支。三者、正語道支。四者、正業道支。五者、正命道支。六者、正精進道支。七者、正念道支。八者、正定道支。正見道支は、眼睛裏蔵身なり。しかあれども、身先須具身先眼なり。向前の堂々成見なりといへども、公案見成なり、親曾見なり。

おほよそ眼裏蔵身せざれば、仏祖にあらざるなり。

詮慧

〇八正道支(八聖道とも云う。正は先の四念住より七等覚支までは権にて、いま正也と云わず、不対権正と可心得)。正見道支・正思惟道支・正語道支・正業道支・正命道支・正精進道支・正念道支・正定道支。一者正見道支事(六根をば浮根と云う、眼も境に付き耳も声に付き、鼻も香に付く故に)。「見」は眼に仰ぎて能見所見の義を立つ。但今の「正見」は仏法也。邪見は世間の見也。眼睛見を正見と云うべきなり、尽十方界沙門一隻眼是也。正邪両見を並べて小乗には説く故に、正見道支と云うも邪に対したる正也。仏法には尽十方界沙門一隻眼の見なる故に不対邪、しかれば又無能所也。

〇「眼睛裏蔵身」と云うは、是はすでに世間の暗を透脱したるとなり。「しかあれども」とあるは、見は眼より先に見身となり。

〇「身先須具身先眼」と云う此の身先須具身先眼は眼睛裏蔵身なるべし。所詮見を眼所に対して云わず、身にても見る心地なり。かく云うも又境を置いて見んは、たとい身にて見るとも云え心にて見るとも云え、非本意べし。前に父母未生前と仕う程の詞なり。

〇「向前の堂々成見なり」と云う、向上と仕う程の詞なり。「堂々」と云うは、麗しくあるべき義也。

経豪

  • 「正見」と云う詞は、打ち任すは邪見に対して談ずる詞なり、今の正見と云う詞は非爾。眼睛裏に蔵身するなり。打ち任すは以眼色を得んずる常事也。是は沙門一隻眼なる道理を眼睛裏蔵身とは云うなり。
  • 「身先須具身先眼」とは、前に機先眼と云いつる詞に同じ。身の先より見身全眼の道理ありと云う也。「向前の堂々」とは褒むる詞也、巍々堂々などと云う詞歟。先の詞(は)共(に)皆是「公案見成也」と云う也。故に「親曾見也」と云わるるなり。

 

正思惟道支は、作是思惟時、十方仏皆現なり。しかあれば、十方現、諸仏現、これ作是思惟時なり。作是思惟時は、自己にあらず、他己をこえたりといへども、而今も思惟是事已、即趣波羅奈なり、思惟の処在は波羅奈なり。

詮慧

〇二者正思惟道支事。「思惟」と云う事、思慮念度を以て思惟と知る。今は以十方仏、皆現時思惟と仕う、尽十方界仏身とも仏心とも云う時の事也。

〇「思惟是事」と云う、此事は於三七日中、思惟如是事の事也、声聞乗は於三七日中を思惟と心得。実には説法の時也、これ法華説なり。思量・思惟今は同じ詞と可心得。「破蒲団と談ずる故に波羅奈」とは説法の所鹿野園なり、小乗を解し。打ち任すは思惟畢波羅奈へおわしますと覚えたれども、やがて波羅奈を思惟の在所と云うなり。思惟が非念慮・知覚事は思量箇不思量底、如何思量非思量と云う故に。

経豪

  • 是は大乗の機根、不熟之間、成仏の最初に、華厳頓大の教えを被説しかども、小乗の器は如聾如唖にてありき。仍って趣鹿野苑給いて、四諦縁生の法を説いて、次第次第に機を調えて、大乗に趣けんとて、小乗の法を説かんと思惟し給うを、十方仏出現して善哉。釈迦文第一之導師とて、釈尊を讃嘆し給うとこそ経文は見たり。而今は「十方現、諸仏現、これ作是思惟時也」とあり、日来の存知に大いに違せり、所詮今は「十方現、諸仏現を思惟」と談ず也。「思惟」とは心の上に物を思うを、思惟とは打ち任すは名づく、今の思惟は非爾。此の「作是思惟時」は、誠に自己にも他己にも答えるべし。所詮今は「即趣波羅奈」を以て、則ち「思惟」と可談也。故に思惟の所在は「波羅奈也」と云うなり。

 

古仏いはく、思量箇不思量底、不思量底如何思量。非思量。これ正思量、正思惟なり。破蒲団、これ正思惟なり。

経豪

  • 是は無別子細。『坐禅箴』の詞を被引載也。思惟の詞に付けて思量の詞を被引、只同心也。「破蒲団」(は)是坐禅の姿、解脱の理なり。是を「正思惟」と可談也。

 

正語道支は、唖子自己不唖子なり。諸人中の唖子は未道得なり。唖子界の諸人は唖子にあらず。

不慕諸聖なり、不重己霊なり。

詮慧

三者正語道支事。「正語」の語は二つの唇を働かして云うを語とすべからず。故に唖子と云う言語を不用故に、かく説けば理として「不唖子」と云わるる也。

〇諸人中の唖子こそ物を云わねば唖子なれ、しかれば「未道得と云い唖子界」と云うは唖子尽界なり。尽界ならん時は、又世間に思い習わしたる唖子にはあらず。十方仏土中唯有一乗法と談ずる時は、語をば何とか定むべき仏の本意は、正見とも邪見とも正語とも邪語とも云うべからず。故に唖子と云う。

〇「不慕諸聖、不重己霊」と云う、吾語の外のものなきを「不慕」と仕う也。「不重己霊」と云う是は又自他を分くる時こそ、軽重もあれ今は重くすべきものなし。凡そは仏法は言語非所及と談じて、すべて詞を不用と云う輩あり。大きなる迷なり。もとより仏法をば以仏眼見之、以仏耳聞之、以仏語可謂之。今の正語をば争か可不用哉。「唖子自己不唖子」などと云うぞ、正語なる尤可用也。掛壁とは眼睛裏蔵身程の事也。掛句と云うは、心を掛くとも思いを掛くとも眼目を掛くなどとも云う程の事也。

経豪

  • 是は尽十方界を「唖子」と談ずる時は、「不唖子」と云う道理又あるべし、不会程の理なるべし。又「諸人中の唖子は未道得なり」とは、打ち任せて人の思い習わしたる唖子のの事歟。実にもおし(唖)の上には未道得なるべきなり。又「唖子界の諸人は唖子にあらず」とは、物を云うべき中にてこそ、もの云わぬをば唖(おし)と名づくべけれ。もとより言語なからん世界にては、おしと云う名目も不可有道理を云う歟。
  • 是も古き詞也。「諸聖をも慕わず、己霊をも重くせず」とは、所詮期する所も、待所もなき心地也。

 

口是掛壁の参究なり。一切口掛一切壁なり。

経豪

  • 此口此壁、非両物。全体口・全体壁の道理なるべし。故に「一切口掛一切壁」と云う也。尽界口・尽界壁なり。口の壁に掛かると云えばとて、此口が壁には如何にと掛かるべきぞ、ただ口与壁(の)一体理を掛かるとも暫く可談歟。如此云えばとて「諸聖をおいて慕わずと云い、己霊をおいて重くせず」とは不可心得。諸聖の理慕われず、己霊の姿重くせられざる理なるべし。

 

正業道支は、出家修道なり、入山取証なり。釈迦牟尼仏言、三十七品是僧業。僧業は大乗にあらず、小乗にあらず。僧は仏僧菩薩僧声聞僧等あり。

詮慧

〇四者正業道支事。出家これ「正業」と云い、得度は出家也。未出家は沈淪なり。

〇「釈迦牟尼仏言三十七品、是僧業、僧業は大乗にあらず小乗にあらず」とあり、又「仏僧菩薩僧声聞僧等あり」とあれば、誠に僧はとりわきて大乗とも小乗とも菩薩とも声聞とも云うべきにあらず。たとえば善悪は時也、時は善悪にあらずと云うが如し、僧は時なり大小乗菩薩声聞等は善悪なるべし。

経豪

  • 是はくれぐれ御釈分明也。文委細也、此外無殊子細。如文「仏言に此の三十七品を以て僧業」と被仰、是は只所詮万機心と、祖師心と一等也と云う族あり。此条返々あやまりと云う事を、返々被嫌也。見于文。

 

いまだ出家せざるものの、仏法の正業を嗣続せることあらず、仏法の大道を正伝せることあらず。在家わづかに近事男女の学道といへども、達道の先蹤なし。達道のとき、かならず出家するなり。出家に不堪ならんともがら、いかでか仏位を嗣続せん。しかあるに、二三百年来のあひだ、大宋国に禅宗僧と称ずるともがら、おほくいはく、在家の学道と出家の学道と、これ一等なりといふ。これただ在家人の屎尿を飲食とせんがために狗子となれる類族なり。あるいは国王大臣にむかひていはく、万機の心はすなはち祖仏心なり、さらに別心あらずといふ。王臣いまだ正説正法をわきまへず、大悦して師号等をたまふ。かくのごとくの道ある諸僧は調達なり。弟唾をくらはんがために、かくのごとくの小児の狂話あり。啼哭といふべし。七仏の眷属にあらず、魔儻畜生なり。いまだ身心学道をしらず、参学せず、身心出家をしらず。王臣の法政にくらく、仏祖の大道をゆめにもみざるによりてかくのごとし。維摩居士の仏出世時にあふし、道未尽の法おほし。学未到すくなからず。龐薀居士が祖席に参歴せし、薬山の堂奥をゆるされず、江西におよばず。ただわづかに参学の名をぬすめりといへども、參學の實あらざるなり。自餘の李附馬、楊文公等、おのおの參飽とおもふといへども、乳餅いまだ喫せず、いはんや画餅を喫せんや。いはんや喫仏祖粥飯せんや、未有鉢盂なり。あはれむべし、一生の皮袋いたづらなることを。普勧すらくは尽十方の天衆生衆生、龍衆生衆生、はるかに如来の法を慕古して、いそぎて出家修道し、仏位祖位を嗣続すべし。禅師等が未達の道をきくことなかれ。身をしらず、心をしらざるがゆゑに、しかのごとくいふなり。あるいは又すべて衆生をあはれむこころなく、仏法をまぼるおもひなく、ただひとすぢに在家の人の屎糞をくらはんとして悪狗となれる人面狗人皮狗、かくのごとくいふなり。同坐すべからず、同語すべからず、同依止すべからず。かれらはすでに生身墮畜生なり。出家人もし屎糞ゆたかならば、出家人すぐれたりといはまし。出家人の屎糞、この畜生におよぼさざるゆゑにかくのごとく道取するなり。在家心と出家心と一等なりといふこと、証據といひ道理といひ、五千余軸の文にみえず、二千余年のあとなし。五十代四十余世の仏祖、いまだその道取なし。たとひ破戒無戒の比丘となりて、無法無慧なりといふとも、在家の有智持戒にはすぐるべきなり。僧業これ智なり、悟なり、道なり、法なるがゆゑに。在家たとひ隨分の善根功徳あれども、身心の善根功徳おろそかなり。一代の化儀、すべて在家得道せるものなし。これ在家いまだ学仏道の道場ならざるゆゑなり、遮障おほきゆゑなり。万機心と祖師心と一等なりと道取するともがらの身心をさぐるに、いまだ仏法の身心にあらず、仏祖の皮肉骨髄つたはれざらん。あはれむべし、仏正法にあひながら畜生となれることを。かくのごとくなるによりて、曹谿古仏たちまちに辞親尋師す、これ正業なり。金剛経をききて発心せざりしときは樵夫として家にあり、金剛経をききて仏法の薫力あるときは重擔を放下して出家す。しるべし、身心もし仏法あるときは、在家にとゞまることあたはずといふことを。諸仏祖みなかくのごとし。出家すべからずといふともがらは、造逆よりもおもき罪条なり、調達よりも猛悪なりといふべし。

六群比丘六群尼十八群比丘等よりもおもしとしりて、共語すべからず。一生の寿命いくばくならず、かくのごとくの魔子畜生等と共語すべき光陰なし。いはんやこの人身心は、先世に仏法を見聞せし種子よりうけたり。公界の調度なるがごとし。魔族となすべきにあらず、魔族とともならしむべきにあらず。仏祖の深恩をわすれず、法乳の徳を保護して、悪狗の叫吠をきくことなかれ。悪狗と同坐同食することなかれ。嵩山高祖古仏、はるかに西天の仏国をはなれて、辺邦の神丹に西来するとき、仏祖の正法まのあたりつたはれしなり。これ出家得道にあらずは、かくのごとくなるべからず。祖師西来已前は、東地の衆生人天、いまだかつて正法を見聞せず。しかあればしるべし、正法正伝、ただこれ出家の功徳なり。大師釈尊、かたじけなく父王のくらゐをすてて嗣続せざることは、王位の貴ならざるにあらず、仏位の最貴なるを嗣続せんがためなり。仏位はこれ出家位なり、三界の天衆生衆生、ともに頂戴恭敬するくらゐなり。梵王釈王の同坐するところにあらず。いはんや下界の諸人王諸龍王の同坐するくらゐならんや。無上正等覚位なり。くらゐよく説法度生し、放光現瑞す。この出家位の諸業、これ正業なり、諸仏七仏の懷業なり。唯仏与仏にあらざれば究尽せざるところなり。いまだ出家せざらんともがらは、すでに出家せるに奉覲給仕し、頭頂敬礼し、身命を捨して供養すべし。

経豪

  • 是は夜半伝衣は未在家にありし時事也。出家は悟道以後なり。今の御釈参差したるように聞こゆ、但六祖除眼八か月、碓房にて米(よね)を搗く、奇代の上器也。たとえば頭を剃らざれば在家には似たれども、高祖の御事不足比量事也。只是は在家人与出家人等也と云い方を一筋被嫌面許也。已下如文。
  • 是は仏在世にかかる物共ありき。態と仏に奉背邪見を発して、振る舞いき其の事を被引載歟。

 

釈迦牟尼仏言、出家受戒、是仏種子也、已得度人。しかあればすなはちしるべし、得度といふは出家なり。未出家は沈淪にあり、かなしむべし。おほよそ一代の仏説のなかに、出家の功徳を讃歎せること、称計すべからず。釈尊誠説し、諸仏証明す。出家人の破戒不修なるは得道す、在家人の得道いまだあらず。帝者の僧尼を礼拝するとき、僧尼答拝せず。諸天の出家人を拝するに、比丘比丘尼またく答拝せず。これ出家の功徳すぐれたるゆゑなり。もし出家の比丘比丘尼に拝せられば、諸天の宮殿光明果報等、たちまちに破壊墜堕すべきがゆゑにかくのごとし。おほよそ仏法東漸よりこのかた、出家人の得道は稲麻竹葦のごとし。在家ながら得道せるもの、一人もいまだあらず。すでに仏法その眼耳におよぶときは、いそぎて出家をいとなむ。はかりしりぬ、在家は仏法の在処にあらず。しかあるに、万機の身心すなはち仏祖の身心なりといふやからは、いまだかつて仏法を見聞せざるなり。黒闇獄の罪人なり。おのれが言語なほ見聞せざる愚人なり、国賊なり。万機の心をもて仏祖の心に同ずるを詮とするは、仏法のすぐれたるによりて、しかいふを帝者よろこぶ。しるべし、仏法すぐれたりといふこと。万機の心は仮令おのづから仏祖の心に同ずとも、仏祖の身心おのづから万機の身心とならんとき、万機の身心なるべからず。万機心と仏祖心と一等なりといふ禅師等、すべて心法のゆきがた、様子をしらざるなり。いはんや仏祖心をゆめにもみることあらんや。おほよそ梵王釈王人王龍王、鬼神王等、おのおの三界の果報に著することなかれ。はやく出家受戒して、諸仏諸祖の道を修習すべし。曠大劫の仏因ならん。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏言、出家受戒、是仏種子也、已得度人」、此の種子は未だしき事の、ついに現るべしと思い習わしたり、非爾。「出家受戒」の本意は化度利生也。しかるを仏種子と云いて、やがて「已得度人」と云いつる時に、種子を指して得度と仕う也。後を待つにあらず。

 

みずや、維摩老もし出家せましかば、維摩よりもすぐれたる維摩比丘をみん。今日はわづかに空生舎利子、文殊弥勒等をみる、いまだ半維摩をみず。いはんや三四五の維摩をみんや。もし三四五維摩をみず、しらざれば、一維摩いまだみず、しらず、保任せざるなり。一維摩いまだ保任せざれば維摩仏をみず、維摩仏みざれば維摩文殊維摩弥勒維摩善現維摩舎利子等、いまだあらざるなり。

いはんや維摩山河大地、維摩草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等あらんや。維摩いまだこれらの光明功徳みえざることは、不出家のゆゑなり。維摩もし出家せば、これらの功徳あるべきなり。

詮慧

〇「維摩老もし出家せましかばと云いて、今日はわづかに空生舎利子、弥勒をみる」と云うは、不出家ゆえに舎利子等をよそに見るとなり。「空生」とは須菩提也。維摩は一向黙然を事とす。

〇「一維摩三四五維摩」などと云うは、維摩出家せましかば、たぐい多からまじと也。文殊弥勒の様に維摩は云われましと也。

経豪

  • 是は維摩とて、仏弟子(の)大方(は)由々しかりし人也。十大弟子以下、皆維摩に詰められて閉口したりき。しかれども争か仏に及ぶべき。而して維摩の一黙も他の一黙も一等也と云いて、仏と勝劣なきように思いたる所を被非也。八万の床の上に病んで臥したりし所へ、文殊弥勒・舎利子等訪ねに来たりき。是は彼此相対の義にあらず。今の文殊弥勒・舎利子等は維摩なるべし。維摩の外に又別人不可有。其れを維摩(は)此の理を不知、此の舎利子・文殊弥勒等を、今は半維摩とも又三四五の維摩とも云う也。若し出家せましかば、是等の道理をば得てましと云う也。
  • 右所挙の山河大地、草木瓦礫、風雨水火、過去現在未来等を以て皆維摩と談ず也。故に如此有御釈已下如文。

 

当時唐朝宋朝の禅師等、これらの宗旨に達せず、みだりに維摩を挙して作得是とおもひ、道得是といふ。これらのともがら、あはれむべし、言教をしらず、仏法にくらし。あるいは又あまりさへは、維摩釈尊と、その道ひとしとおもひいへるおほし。これらまたいまだ仏法をしらず、祖道をしらず、維摩をもしらず、はからざるなり。かれらいはく、維摩黙然無言して諸菩薩にしめす、これ如来の無言為人にひとしといふ。これおほきに仏法をしらず、學道の力量なしといふべし。如来の有言、すでに自餘とことなり、無言もまた諸類とひとしかるべからず。しかあれば、如來の一黙と維摩一黙と、相似の比論にすらおよぶべからず。言説はことなりとも黙然はひとしかるべしと憶想せるともがらの力量をさぐるには、仏辺人とするにもおよばざるなり。かなしむべし、かれらいまだ声色の見聞なし、いはんや跳声色の光明あらんや。いはんや黙の黙を学すべしとだにもしらず、ありとだにもきかず。おほよそ諸類と諸類と、その動静なほことなり。いかでか釈尊と諸類とおなじといひ、おなじからずと比論せん。これ仏祖の堂奥に参学せざるともがら、かくのごとくいふなり。あるいは邪人おほくおもはく、言説動容はこれ仮法なり、寂黙凝然はこれ真実なり。かくのごとくいふ、また仏法にあらず。梵天自在天等の経教を伝聞せるともがらの所計なり。仏法いかでか動静にかゝはらん。仏道に動静ありや、動静なしや、動静を接すや、動静に接せらるやと、審細に参学すべし。而今の晩学、たゆむことなかれ。現在大宋国をみるに、仏祖の大道を参学せるともがら、断絶せるがごとし。両三箇あるにあらず。維摩は是にして一黙あり、いまは一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに仏法の活路なし。あるいは又、維摩の一黙はすなはち世尊の一黙なりとおもふともがらのみあり、さらに分別の光明あらざるなり。かくのごとくおもひいふともがら、すべていまだかつて仏法見聞の参学なしといふべし。大宋国人にあればとて、仏法なるらんとおもふことなかれ。その道理、あきらめやすかるべし。

いはゆる正業は僧業なり。論師経師のしるところにあらず。僧業といふは、雲堂裏の功夫なり、仏殿裏の礼拝なり、後架裏の洗面なり。乃至合掌問訊、焼香焼湯する、これ正業なり。

以頭換尾するのみにあらず、以頭換頭なり、以心換心なり、以仏換仏なり、以道換道なり。これすなはち正業道支なり。あやまりて仏法の商量すれば、眉鬚堕落し、面目破顔するなり。

詮慧

〇「あやまりて仏法の商量すれば」とあり、「破顔す」などと悟道の詞に出で来る事もあれども不然也。

経豪

  • 前には余人の悪しく心得たる所を被嫌。ここよりは仏祖所談の正業の様を被釈なり、如文。是等皆僧業と可談也。「正業」と云えば、後に可期事のあるように心得、返々今の所談、非爾なり。今所出の「雲堂の功夫、仏殿裏の礼拝」等の姿、更(に)期する所あらず、故に「正業なり」。
  • 今の「以頭換尾」と云う詞、同じ心地にて仕う事あり、又換わりたる詞と心得時もあるべし。依処可随事歟。此の「以頭換尾」と云うは、たとえば三界の上に、唯心と談ずる以頭換尾にあたるべし。三界は三界、唯心は唯心と云わん、「以頭換頭、以心換心、以仏換仏、以道換道」にあたるべき歟。如此云えども、其の道理は総て不可違也。此の正業の功徳によりて、無学の果を待つなどと心得んずるぞ。以頭換尾なるべき、是は嫌う時の以頭換尾の心得ようなるべし。
  • 是はあやまりなどと云えば悪しく心得ば、「眉鬚堕落し」とは白癩などを云う也。「面目破顔す」とは、面も破れなどとすべきか。今の一面は先暫被嫌たる詞かと聞こゆ。但是も一向嫌いて、不可棄置道理もあるべし。「あやまりて」と云う詞も将錯就錯と云うあやまりと心得るは被嫌詞。「眉鬚堕落」も解脱の詞に仕う事もあり、「面目破顔」又解脱の理也。迦葉破顔微笑程の破顔歟、然者争可棄置之乎。

 

正命道支とは、早朝粥、午時飯なり。在叢林弄精魂なり。曲木座上直指なり。

老趙州の不満二十衆、これ正命の現成なり。薬山の不満十衆、これ正命の命脈なり。汾陽の七八衆、これ正命のかかれるところなり。もろもろの邪命をはなれたるがゆゑに。

詮慧

〇五者正命道支事。此の「正命」(は)又邪命に対して云う、「命」はいのち也、仏法を学し仕えん命を「正命」と云うべし。世間の法を営む命(は)、邪命なるべし。

仏道には「早朝粥午時飯、在叢林弄精魂、曲木座上」、これらを「正命の直指也」と云う。「趙州の不満二十衆、薬山不満十衆、汾陽の七八衆、已(これ)を正命」とす。もろもろの邪命を離れたる故に。

経豪

  • 「早朝粥午時飯」、何事ぞやと覚えたれども、仏祖の所用の斎粥、いたづらなるべきにあらぬ。各可尽法界ゆえに如此被談也。
  • 「在叢林の弄精魂」とは、叢林中の振舞等を云うなり。縄床に登りて説法、趙州の不満二十衆、薬山の不満十衆、汾陽の七八衆等、是正命なるべし。非正命をを邪命と云う歟。邪命とは其の徳もなきか。人の貴ばれんとて、貴きよりしたり。占相男女すなどと云いて、うら相したりなどする是等を邪命と可名歟。所論名聞利養の甚しき邪命なるべし。

 

釈迦牟尼仏言、諸声聞人、未得正命。しかあればすなはち、声聞の教行証、いまだ正命にあらざるなり。しかあるを、近日庸流いはく、声聞菩薩を分別すべからず、その威儀戒律ともにもちゐるべしといひて、小乗声聞の法をもて、大乗菩薩法の威儀進止を判ず。

釈迦牟尼仏言、声聞持戒、菩薩破戒。しかあれば、声聞の持戒とおもへる、もし菩薩戒に比望するがごときは、声聞戒みな破戒なり。自余の定慧もまたかくのごとし。

たとひ不殺生等の相、おのづから声聞と菩薩あひにたりとも、かならず別なるべきなり。天地懸隔の論におよぶべからざるなり。いはんや仏々祖々正伝の宗旨と諸声聞と、ひとしからんや。

正命のみにあらず、清浄命あり。しかあればすなはち、仏祖に参学するのみ正命なるべし。論師等の見解、もちゐるべからず。未得正命なるがゆゑに、本分命にあらず。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏言、声聞持戒、菩薩破戒」、戒に限らず自余の定慧も又如此とあり。まことに戒に不可限、仏戒菩薩戒には無能所差別なければ、誰ありてか殺すべき、又殺さるる人も不可有。又同じく殺生と云うとも声聞は自調の故に後業あるまじとて、不殺生を保つ。菩薩は以慈悲不殺生を保つ。所期相違あり、天地懸隔の論に不及。不殺生戒を持つと云うも、是は菩薩も声聞も各有失。其の故は声聞は自調とばかり思う故に煎りたる種、枯れたる木に喩えて不可成仏と仏被仰。菩薩は又化他を先とする故に、是も不可成仏。仍って単提の菩薩と云わる。仏戒は尽十方界真実人体とし、三界唯一心とも云う時、殺生すべてせられざる事なれば、三乗の持戒は不可似事なり。同じく持戒と云えども自調の料、化他の料と思う故に、皆異なるなり。

経豪

  • 「声聞の教行証」と云うは、自利を先とする故に非正命也。只仏祖の参学のみ正命なるべし、如文。
  • 文に聞きたり、仮令「声聞持戒は菩薩破戒」と云うは、犯過人などの敵に被追れて走り逃げるを、敵問わばすぐに逃げ隠るる次第を、声聞は敵に可教也。菩薩はさる事なしと抗(あらが)うべし。又父母を殺し、乃至あまた人をも可殺者をば、此の一人をば、菩薩の方よりは可殺、声聞はいかにも不可殺也。此の道理を如此云う也。已下如文。
  • 正命の上には、清浄命と云う義もあるべし、是れ先師の御解釈歟。所詮法の理の穢れぬ所を清浄命とも可名歟。
  • 是も清浄命程の心地なり。

 

正精進道支とは、抉出通身の行李なり、抉出通身打人面なり。倒騎仏殿打一匝、両匝三四五匝なるがゆゑに、九々算来八十二なり。

重報君の千万条なり。

換頭也十字縦横なり、換面也縦横十字なり。入室来、上堂来なり。望州亭相見了なり、烏石嶺相見了なり。僧堂前相見了なり、仏殿裡相見了なり。両鏡相対して三枚影あるをいふ。

詮慧

〇此の「精進」は懈怠に対して云う。因位のとき精進にて果位に登らんと、まづこれ小乗なり。今は「抉出通身の行李」を「正精進」と取る。因位果位分かつ事なし、精進は一向助法と思う(は)、是仏法と難取。今仏法の精進は如得吾皮肉骨髄なるべし。

〇「倒騎仏殿」と云う、仏殿までも残す事なきを倒騎仏殿と云う也。「通身」とは吾我の心身をば云わざるなり。仏殿に登らんずるは仏なるべし、仏殿を余所(よそ)にして一匝二匝せんなし。「倒騎仏殿打一匝両匝三四匝なる故に」仏法なるべし。

〇「九々八十二」と云う、世間には九九八十一と云う。今一増して云う不被心得、但解脱の後は八十二と仕うべし。九十一とも云うべし。員に関わらざる故に。

〇「重報君」と云う、報君恩心地なり。但「報」とは云えども、誰は何を誰に報ずともなし。誰千万条又その色表われず、これ「正精進道支」心地なり。「換頭換面は十字縦横なり」。

〇「精進」は所詮到るべき所に速やかに到り、可知事を速やかに知をこそ云え。而今は「抉出通身」の道理を「正精進」と致しつる時に、何事にても出す事を出して期する所あらんは未精進と云うべし。

〇「望州亭相見了」。

〇「烏石嶺相見了」、これ同事を云う。望州亭・烏石嶺(は)同所歟、相見之条(は)無疑已也。相見とは云えども、不見相対見なるべし。

〇「両鏡相対して三枚影」と云うは、今一枚は過ぎて聞こゆ。然而これは又九九八十二の心地なり。員に滞らぬ義なり。

経豪

  • 正精進」とは云えども、いかにも正精進ならぬ事あるべし。仮令山臥などと云う者は、大峰を通り食を断じ難行苦行すれども、或為有験、或求官、名聞利養の方より修行せん。面は精進勇猛なるように見れども、正精進なるべからず。今の精進の外、更(に)待たるる果あるべからず。「抉出通身打人面」などと云えば、何事ぞと覚えたれども、抉出達磨眼睛すと云う詞ありき。其の様の心也。尽十方界真実人体の通身、是を「抉出」と名づく也。此の抉出通身を打人面とも名づく、通身の理を以て人面を作る程の通身人面のあわいなるべし。「倒騎仏殿打一匝三四五匝」などと云えば、珍詞に似たり。但凡見の仏殿、凡見の騎と云う心地等を不失して、此の詞を聞くは尤可被驚。今は仏祖所談の上の「倒騎仏殿」(を)今更非可驚。光明を談ぜん時も、雲門は僧堂仏殿厨庫山門と被仰ぎ、此の僧堂(は)可尽法界・この理を乗るとも、一匝とも三四五匝とも談ず也。「九九八十二」と云う詞も、世間には異なるべし。但是も九九八十一と云うは凡見なるべし。非可用倒騎仏殿打一匝の方より算来すれば、八十二とも三とも、乃至百千無量とも云わるべき也。詞にも数量にも非可滞。
  • 「報君」などと云えば、仰君徳などと云うには異なるべし。是は只此の報君の道理不可有辺際、故に「千万条」と云う也。是は満足円満の詞に仕うなり。
  • 「相見」とは、両物相対を云う也。是は雪峯の詞に、於僧堂裏相見すと云いし詞を被引出也。是は「望州」と云うも雪峯在処の一つの居所歟。「烏石嶺」と云うも、其の所に黒き石のあるを云う。僧堂前、仏殿裏、是又常事なり。所詮是が彼に対したると云わず、雪峯与雪峯相見し、望州与望州相見し、烏石与烏石と相見し、僧堂与僧堂、仏殿与仏殿、相見了の道理なるべし。雪峯と他人と非相見也。「両鏡相対」と云うも、鏡二枚を寄せ合わせて、相対と云うにあらず。只全鏡なる道理が両鏡と云わるる也。「三枚影」と云うは、此の両鏡の上(の)功徳荘厳也。

 

正念道支は、被自瞞の八九成なり。念よりさらに発智すると学するは捨父逃逝なり。念中発智と学するは、纏縛之甚なり。無念はこれ正念といふは外道なり。

また地水火風の精霊を念とすべからず、心意識の顛倒を念と称ぜず。まさに汝得吾皮肉骨髄、すなはち正念道支なり。

詮慧

〇七者正念道支事。身に具足するを念と取る、これに正邪あり、仏道に赴く是れ正念なり。六道輪廻の法に随順する邪念なり、然而身心一如の上は以念皮肉とすべし。「念より発智と学する纏縛の甚しきなり」。

〇「地水火風の精霊」と云うは、我等が五行の形に具わりたるをば、念とすべからずとなり。

〇「汝得吾皮肉骨髄、正念道支」と云う、これぞ身心一如の義なるべし。

経験

  • 「被自瞞の八九成也」とは、自に瞞まかされたるなりと云うは、たとえば正念道支に瞞まかさるる也。正念道支の外に又余物なく、期すべき果なき故に、是を「被自瞞」とは云う也。実に正念道支の念、打ち任せて談ずるように、「念より発智する」と云うべからず、「念中発智」とも不可学。是等(の)念を離する故に、仍って「捨父逃逝とも纏縛」とも被嫌也。又「無念はこれ正念と云う」と云うは、なにとも思わず、善悪の念を離るると云う事あり、「外道まり」と被嫌可棄義なり。
  • 如文、是又打ち任せて談ず事也。五大六大和合して精霊を成す、是を念と云うと談ず、今(の)所談非爾。又「心意識の顛倒を念と称ぜず」とあり、尤可然。所詮「汝得吾皮肉骨髄を以て、今の正念道支」とは可談なり。是仏所用の正念道支なるべし。

 

正定道支とは、脱落仏祖なり、脱落正定なり。他是能挙なり、剖来頂□(寧+頁)作鼻孔なり。正法眼蔵裏、拈優曇花なり。優曇花裏、有百千枚迦葉破顔微笑なり。活計ひさしくもちゐきたりて木杓破なり。

このゆゑに、落草六年、花開一夜なり。劫火洞燃、大千倶壊、随他去なり。

詮慧

〇八者正定道支事。外道の有漏智の禅定に対して「正定」と云う也。但声聞小乗には、三界の欲を断ずとは云えども仏果を不得。

〇「他是能挙と云う、剖来頂□(寧+頁)作鼻孔なり」、対自して他と云うにはあらず。唯是能挙なり、是「脱落正定」の義如此。

〇「百千枚迦葉と云う、優曇華を拈ずる也」とあり、これ仏附属なり。此の花中に迦葉あるなり、百千の詞は尽界説法也。

〇「花開一夜」と云う、成道義也。「落草六年」は、六年苦行也端坐也。

〇「大千倶壊すれば随去」と云う、是をこそ不懐の性と云え随去なる故に。

経豪

  • 如文。「他是能挙也」とは、只他に随う也。他なれば他に随い、自なれば自に可随道理也。「剖来頂□(寧+頁)作鼻孔」とは、たとえば三界を一心と云い、仏性を狗子と談ずる程の事也。頂□(寧+頁)と鼻孔と只同物也。又「正法眼蔵裏、拈優曇花也」とは、優曇華を拈じて表す事としたるように心得を、正法眼蔵裏拈優曇華とは、正法眼蔵と拈優曇華との各別ならぬ、道理を表す詞也。正法眼蔵優曇華とし、優曇華正法眼蔵とする也。又「優曇花裏、有百千枚迦葉破顔微笑」とは、優曇華をを拈ずるを、迦葉ひとり破顔微笑するとこそ心得を、此の迦葉の破顔微笑の姿、是が百千万とも乃至無量恒沙とも云わるべき也。
  • 「落草六年」とは、六年苦行事歟。「花開一夜」とは、成道の時節を指す歟。所詮六年は久しく、一夜は暫時也と不可云、落草六年も花開一夜も只同事也。長短に拘わるべからず。「劫火洞燃、大千倶壊、随他去」とは古詞也、是は只彼に任すと云う心なり。正定道支の道理に任ずるなどと云わん程の詞なり。故に随他去と云う也。

 

この三十七品菩提分法、すなはち仏祖の眼睛鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり。しかあれども、一千三百六十九品の公案現成なり、菩提分法なり。坐断すべし、脱落すべし。

詮慧

〇「仏祖一枚、是を三十七品菩提分法と参学しきたれり。然而、一千三百六十九品の公案見成なり」と云うは、三十七品に各三十七品具足す(十界互具の如し)故に、一千三百六十九品なり。この義を「仏祖一枚」とも云うなり。

〇大小両乗には三十七品を説くに、皆初中後あり、横には通ずれども縦には次第階級あり。三十七品頗無詮、分々を分かつ時こそあれ。四念住より八正道にて無階級、唯仏祖面目拄杖竹箆と仕いても、仏祖の道は可見なり。

経豪

  • 三十七品菩提分法を、人ありて修行すと心得、是常事也。今は以仏祖三十七品菩提分法と可談也。又今の「三十七品菩提分法を以て、仏祖の眼睛・鼻孔・皮肉骨髄・手足面目」とはすべき也。凡そ始め四念住の観身不浄に、今の正定道支、三十七品一法としても欠けたる所不可有。又今の正定道支に、観身不浄よりの三十七品、又一法も不満是と云う事なし。以此道理「一千三百六十九品の公案現成也、菩提分法なり。坐断すべし、脱落すべし」とは云う也。

三十七品菩提分法(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。