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現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十三諸法実相 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十三諸法実相 (聞書・抄)

仏祖の現成は究尽の実相なり。実相は諸法なり。諸法は如是相なり、如是性なり。如是身なり、如是心なり。如是世界なり、如是雲雨なり。如是行住坐臥なり、如是憂喜動静なり。如是拄杖払子なり、如是拈花破顔なり。如是嗣法授記なり。如是参学辦道なり。如是松操竹節なり。

詮慧

〇「究尽の実相也」と云う、是は実相に付けたる実相也、未実相の実相あるべからず。

〇一塵の実相と云わん時、諸法の実相よりは少なしと云わず。十如と取りつめば、百界千如に余らん時は、首尾不相応の十如なるべし。「如是身心も世界・雲雨・行住坐臥等、松操竹節」究尽実相なるべし。

〇実相の相と如是相の相とは、広狭差別ありや。「究尽の実相」ならんには、非多少儀。「乃能」と云う二字は、たとえば仏性の時、悉有の詞を衆生の一分と云いしが如し。乃能は実相の面目なり。大方は諸法実相を開演するを法華経と名づく。天台に待時不待時(『妙法蓮華経文句』「大正蔵」三四・四五下・注)と云う事あり。待と云うは計量華厳の一会は頓機に対す、名頓教。鹿野園にしては小機の為に小乗を説き、或いは方等・般若等の経を説き、機を調べて、法華経を説く。このゆえに漸教と云い、待時と云う。又すえに法華経を説くべし。待にあらざれども、爾前に上機ありて、一実の旨を悟るべき機の為に、一実の宗を説く、是を不待時と云う。法華八ヶ年説くとら、梵本多羅葉に書きて、一由旬の城に満つと云う。諸法実相を説くに、十如是あり。相性等の数十あり。仍て十如是と云えども、不知八ヶ年の説は、百如是千如是にても有るらん。法華経も広略の本あり、又論調の経あり。難解難入の句上に、難学難知の句是増す。是等を思うにも、十如是の外(に)多くも在るらん。今の相伝の法には、依文(の)義に留まらず、然れば相性体力の外に、如是身心・世界・雲雨・行住坐臥と云うべし。仏この義を漏らし給う事(は)あらじ。これ依義の道理なり。・・華厳の説時は、纔か三七日、然而八十巻、六十巻不同あり。法華は八ヶ年説くとは云いながら、わづかに八軸、尤不審事也。

経豪

  • 先ず「諸法実相」と云う詞を、打ち任せて人の心得様は、森羅万像を取り集めて、諸法とは談ず也。虚に対して実相と説くと思えり、今所談の様(は)非爾。ゆえに「仏祖の現成は究尽の実相也」とは云う也。今の仏祖の現成の姿を実相とは可談也。諸法を指して実相と談ずる姿には異なるべし。「実相は諸法也、諸法は如是性なり」とあり、是は経文なり。此の「如是相・如是性」等の理の往く所が、「如是心とも、如是世界乃至如是松操竹節」とも云わるべき也。必ず(しも)十如是に限るべからずとなり。

 

釈迦牟尼仏言、唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相。所謂諸法、如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等。いはゆる如来道の本末究竟等は、諸法実相の自道取なり。闍梨自道取なり。一等の参学なり、参学は一等なるがゆゑに。

詮慧

〇「究竟等」の「等」の字(は)、等数の等との二つの義あり。今の等(は)、両方に引用也。

経豪

  • 今所挙(の)十如是、経文(『法華経』「方便品」「大正蔵」九・五下・注)を被引。如是本末究竟等と云う詞をば、十如是の初めの如是相より如是報とある始中終を本末究竟とは云うとのみ、多分心得か。是は不可然、如是相の所に、本末究竟を談ず也。如是性の所にも本末究竟を談ず。各々十如是の所ごとに、皆此の本末究竟等の道理あるべきなり。始終を取り合わせて、本末究竟と云うにはあらざる也。又尋常には、釈尊(は)此の十如是を説き給うとこそ、法華の面は心得るを、今は諸法実相の自道取也とあり。ここには能説の釈尊、所説の十如是也とは不可心得。此の諸法実相の自道取也とあり。諸法実相の外(に)、能説所説あるべからず。闍梨道取の詞(を)指し出したるように聞こゆれども、古き詞也。是も理(は)不可替なり。「一等の参学」とは、諸法実相の外に、余物交わらぬ所を、如是云う也。せめても各別にあらざる事を、表わさんとて、「参学は一等也」と被釈也。

 

唯仏与仏は諸法実相なり。諸法実相は唯仏与仏なり。唯仏は実相なり、与仏は諸法なり。諸法の道を聞取して、一と参じ、多と参ずべからず。実相の道を聞取して、虚にあらずと学し、性にあらずと学すべからず。

経豪

  • 「唯仏与仏は諸法実相也、諸法実相は唯仏与仏也」と云う詞(を)、非可疑。勿論(の)事也、只同じ物か。たとえば前後の詞に成りたる許り也。次(の)詞に「唯仏は実相也、与仏は諸法也」と云うは、あまりに唯仏与仏の道理を、委しく被釈(す)とき、始めは「唯仏与仏は諸法実相也、諸法実相は唯仏与仏也」と被釈、次には「唯仏与仏」の四字を、二字づつ取り放ちて「実相也、諸法也」と被釈之、只同詞同心なるべし。即心是仏を打ち替えて、・・(不明)やらんに、とかく入り違えて被釈し同心なり。又「諸法の道を聞取して、一と参じ多と参ずべからず、実相の道を聞取して、虚にあらずと学し、性にあらずと学すべからず」とは、先に如此。諸法と云えば、多く数多を取り集めたる総名と心得ぬべし。又実相の詞を聞きては、虚に対したる実相と思わぬべき所を、如此あるなり。所詮今の諸法一多に拘わるべからず、今の実相虚実の分にあらず。いかにも「相」と云えば顕われたる義、「性」と云えば隠れたると思い習わしたり。是凡見也、吾我の情なるべし。尽十方界真実人体の上の道理に、隠顕存没いかようなるべきぞ、閑かに能々可参学也。

 

実は唯仏なり、相は與仏なり。乃能は唯仏なり、究尽は与仏なり。

諸法は唯仏なり、実相は与仏なり。諸法のまさに諸法なるを唯仏と称ず。諸法のいまし実相なるを与仏と称ず。しかあれば、諸法のみづから諸法なる、如是相あり、如是性あり。実相のまさしく実相なる、如是相あり、如是性あり。

経豪

  • 実相の二の字を唯仏与仏と談ず。乃能究尽は、只(の)詞とのみ思い付けたり。而(に)「乃能も唯仏、究尽は与仏也」と可心得也。一一(の)詞(は)、いたづらなるべからず。皆是解脱の理なるべし。
  • 無尽に被談ようなれども、所詮只諸法と実相とのあわい、一多の局量を超越し、解脱ならぬ詞なき所を、重々委被釈許也。聊かも其理不可違也。諸法が如是相、如是性と云われ、実相が如是相、如是性ありと云わるるは、所詮諸法も実相も、如是相も如是性も、只一物なる道理なるべしと可心得也。自余の十如是等(は)、皆同心なるべし。

 

唯仏与仏と出現於世するは、諸法実相の説取なり、行取なり、証取なり。その説取は、乃能究尽なり。究尽なりといへども、乃能なるべし。初中後にあらざるゆゑに、如是相なり、如是性なり。このゆゑに初中後善といふ。

詮慧

〇「乃能究尽也、究尽也と云えども、乃能なるべし」と云う、「乃能」と「究尽」とを二つの詞に作りて、乃能を究尽し究尽の乃能となり。

経豪

  • 「唯仏与仏と出現於世する」事は、釈尊の御詞とこそ思いを、「諸法実相の説取也、行取也、証取也」とあり。但如此云えばとて、釈尊の説くと思うが悪しく、変りて諸法実相の説行証なりけりと、誤まりぬる義にはあらず。諸法実相の説取行証取と、釈尊金口説と更不可異也。法の上の所談(の)、あなた(彼方)こなた(此方)に拘わらざる道理なるべし。「その説取は、乃能究尽なり、究尽也と云えども、乃能なるべし」とは、「説取」と云うは乃能究尽とあり。不審あるべからず。「究尽也と云えども、乃能なるべし」とは、経に唯仏与仏乃能究尽諸法実相とあれば、此の諸法実相の甚深の義をば、只唯仏与仏のみ究尽し給うと被心得ぬべきを、「乃能」は詞と成りて、「究尽」の理を云わん料りの詞と聞こゆる所を、やがて「此の究尽を乃能なるべし」と被釈なり。究尽と乃能との詞を差別あらせじの心なり。此の乃能究尽の理の上には、「初中後にあらざるべし、如是相也、如是性也」とあり。此の如是相、如是性、乃能究尽等の理の上には、又初中後とも云うべし、ゆえに「此のゆえに初中後善という」とは被釈也。

 

乃能究尽といふは諸法実相なり。諸法実相は如是相なり。如是相は乃能究尽如是性なり。如是性は乃能究尽如是体なり。如是体は乃能究尽如是力なり。如是力は乃能究尽如是作なり。如是作は乃能究尽如是因なり。如是因は乃能究尽如是縁なり。如是縁は乃能究尽如是果なり。如是果は乃能究尽如是報なり。如是報は乃能究尽本末究竟等なり。本末究竟等の道取、まさに現成の如是なり。かるがゆゑに、果々の果は因果の果にあらず。このゆゑに、因果の果はすなはち果々の果なるべし。

詮慧

〇「如是相は乃能究尽如是性也」と云うより、「如是報」まで連ねて釈す。是すでに無勝劣ゆえに、「本末究竟等なり」。究竟等なるがゆえに、本末とも云うべからず。

〇相性より一一に乃能究尽なる也。是「本末究竟等なり」。ゆえにこの「等」は、かれこれ等也と謂われず。一と言わず、二と言わず。一の上にも本末究竟等なり。一の上に本末と説けば、因に待たるる果にあらざるなり。「果々の果」とつかう、果々と取る時、因を隔つるゆえに、「因果の果にあらず」と云う。但因果の因を捨てて「果々」と云うは、猶又因果の果と云いぬべし。因果の上ながら、因果を解脱する果を「果々」と云うべき也。たとえば三界を解脱するを出ると心得るなり。豈離伽耶別求常寂光土(『法華文句記』「大正蔵」三四・三三三下・注)の心なり。

〇「果々の果は因果の果にあらず」と云う、教にも釈の文に、果性果果性定当得之(『妙法蓮華経文句』「大正蔵」三四・一四〇下・注)と云う。是も因果の果に非ずとは云う也。「因果の果は、則ち果々の果なるべし」と云うは、是は非青黄赤白、有無色身にあらずと云う。戒光と取る時は、やがて青黄赤白の戒光と取る也。

経豪

  • 如文。只「如是相」と云う時(は)、相の外に余の九相なく、相の究尽する姿あるべし。如初云、これは又十相は乃能究尽如是性也と、如此十如是を次第に、是は是也と云う義を被出。但面は変りたるようなれども、其意(は)同心なるべし。只とかく談ず様なれども、「骨相究尽の理」を表すと可心得也。又「果々の果は因果の果にあらず」と云う(は)、不可疑事也。

 

この果すなはち相性体力をあひ罣礙するがゆゑに、諸法の相性体力等、いく無量無辺も実相なり。この果すなはち相性体力を罣礙せざるがゆゑに、諸法の相性体力等、ともに実相なり。

詮慧

〇「相性体力をあひ罣礙するがゆえに」と云う、「相性体力を罣礙せざるがゆえに」と云う。此の両の詞(は)難心得。但罣礙の時刻を捨てて、不罣礙の時刻を取らば、諸法実相なる時、不実相の時あるべきように聞こゆ。共に諸法実相と説くなり、其の故は、相の性を罣礙する時(は)、相の外に性なし、体も力も亦又如此。この道理にては、相も性も罣礙せず、ゆえに性の外に性なし、ここを以て罣礙・不罣礙(は)共に諸法実相と云うに、相違なきものなり。このゆえに罣礙に一任する時は、十成と云う。これは八九成は十に劣ると難云。又勝るとも難云、共に成なる謂われを云うなり。

経豪

  • 是は「此の果は実相也」、実相の上に置きて、罣礙・不罣礙の詞を付けて談ずれども、其の道理(は)不違なり。又「果の相性体力を罣礙せず」と云うは、果の尽界に究尽する時、余の相性体力等は、果に蔵身する所を罣礙すとは可云歟。又「果則ち相性体力を罣礙せず」と云うは、今の十如是の姿(の)、各々に談ぜられる所を、罣礙せずとは可云歟。所謂前段に、如是相は乃能究尽如是性也、如是性は乃能究尽如是体也と云いし心地なり。かかる義も一筋ありぬべし、所詮只彼も是も実相の理を、とかく表わすなり。

 

この相性体力等を、果報因縁等のあひ罣礙するに一任するとき、八九成の道あり。この相性体力等を、果報因縁等のあひ罣礙せざるに一任するとき、十成の道あり。

経豪

  • ここには又「相性体力等を、果報因縁等のあひ罣礙するに一任する時は、八九成道也」とは、前には果一つが相性体力を罣礙す、罣礙せずと云うを、今は果は去る事にて、報因縁等を加えて、「あひ罣礙す」と云う也。「此の相性体力等を、果報因縁等のあひ罣礙するに一任するとき、八九成の道あり。この相性体力等を、果報因縁等のあひ罣礙せざるに一任する時、十成の道あり」とは、是も又前のを打ち返して、相性体力も如前云。罣礙・不罣礙の道理を表わさるるか。八九成、十成道(は)、数の多少にあらず。只罣礙の姿を、八九成とも十成とも云う也。

 

いはゆる如是相は一相にあらず。如是相は一如是にあらず。無量無辺、不可道不可測の如是なり。百千の量を量とすべからず、諸法の量を量とすべし、実相の量を量とすべし。

経豪

  • 「如是相」と云えば、多かる物の中に、相が一つ纏(まと)まりたる物の様にあるべきにあらず。ゆえに「一相に非ず」と云う也。如是相と云う「如是」(は)、又「一如是なるべからず」。此の「相」此の「如是」(は)、「無量無辺、不可道不可測の如是」なるべし。「無量無辺」と云えばとて、数多くの量と不可心得。「諸法の量、実相の量を量とすべし」とあり、不可有際限なり。

 

そのゆゑは、唯仏与仏乃能究尽諸法実相なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実性なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実体なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実力なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実作なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実因なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実縁なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実果なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実報なり、唯仏与仏乃能究尽諸法実本末究竟等なり。かくのごとくの道理あるがゆゑに、十方仏土は唯仏与仏のみなり、さらに一箇半箇の唯仏与仏にあらざるなし。

経豪

  • 是は無別子細。十如是の一一の上に「唯仏与仏乃能究尽諸法」の詞を被付たるなり。其のゆえに、此の十如是を唯仏与仏乃能究尽し給うと思い、諸法(は)此の本末究竟等と云えば、十如是を畢竟じて如是相より終り、本末究竟等まで接したるように心得たり。又経文も如此(に)此の被会釈ぬべきを、一如是の上に唯仏与仏乃能究尽の理を談ずれば、只実相の理許り現わるるなり。一実相の理の外に又交わる物なき所が、さわさわと聞こゆる也。是と云うも落居する所(は)、只実相の究尽する理を表わさるる也。此の道理を以て、「十方仏土は唯仏与仏のみ也」とは云うなり。「一箇半箇も唯仏与仏にあらざるなし」と被釈、実相の外に(は)又物なき道理なり。

 

唯と与とは、たとへば体に体を具し、相の相を証せるなり。

また性を体として性を存ぜるがごとし。

経豪

  • 唯仏与仏と云えば、数多の仏と仏との寄合いたるように聞こゆ。是は其の義にてはなし。只体に体を具し、相の相を証する道理也。それと云うは、体の外に物なく相の外に物なき理也。
  • 是は「性を体として、性としたる」程(の)事也。性が性なる理なり。

 

このゆゑにいはく、我及十方仏、乃能知是事。しかあれば、乃能究尽の正当恁麼時と、乃能知是の正当恁麼時と、おなじくこれ面々の有時なり。

詮慧

〇「我及十方仏、乃能知是事」段。これは「乃能」と「知是事」と非同非別。但又無勝劣、ただ「有時」と仕うなり。如是相も「有時也」、如是性も「有時也」。

経豪

  • 此の「我及十方仏」の経文(『法華経』「方便品」・「大正蔵」九・五下・注)も、我及十方仏の「我」と云うは釈尊、其の外(に)十方仏数多ありて、実相の理を知ると心得られぬべし。此れ我は十方仏を指して、「我及十方仏」とは被仰也。「乃能知是事」とは、此の「知」は能知所知の「知」にあらず。実相が実相を「知」する也。又別物ありて、「知是事」するにあらず。今の「乃能究尽の正当恁麼時と、乃能知是の正当恁麼時と、同じく是れ面々の有時也」とは、知是事と知是と(は)「面々有時なるべし」、各々の有時也と被釈也。

 

我もし十方仏に同異せば、いかでか及十方仏の道取を現成せしめん。遮頭に十方なきがゆゑに、十方は遮頭なり。

経豪

  • 打ち任せて心得たる、「我もし十方仏に同異せば、争か及十方仏の道取を現せん」とは、此の詞ならべて思い付きたる我及十方仏にあらず。十方を指して「我」と心得ゆえに、「遮頭に十方なきがゆえに」とは、我の外に「十方なきゆえに」とあり。十方ありと云わば「十方は遮頭也」と云う(は)、分明也。是は只落居する所、以仏十方仏と也。十方を以て釈尊と心得也。ゆえに仏の外に物なき也。此の道理の通ずる所が、知是事とも云わるる也。

 

こゝをもて、実相の諸法に相見すといふは、春は花にいり、人ははるにあふ。月はつきをてらし、人はおのれにあふ。あるいは人の火をみる、おなじくこれ相見底の道理なり。

詮慧

〇「春は花にいり」と云う(は)、「実相の諸法に相見す」と云う是なり。「春」と「花」とは同なり、又非同。其の故は、春(に)花咲けば同也と云えども、「花」と「春」とは別なり。春の上に花を玩(もてあそ)び、花の上に春は現るるなり。これ諸法と実相と程也。「人に春は逢う」と云う、春に逢う人は春也。春ならざらん人の春に逢う人は春也。春ならざらん人の春に逢うこと不可有道理如此。迷を大悟するは諸仏なり、覚に大迷なるは衆生也(『現成公案』・注)と云う心地なるべし。「月は月を照らし、人はおのれに逢う」、是は悟上得悟漢、迷中又迷漢(『現成公案』・注)と云う程の事也。「照」と云う事、月の外に在るべからず。「おのれ」とは人が云わるるなり、此の道理也。

〇「人の火を見る、同じくこれ相見底の道理」と云う(は)、先の道理は同じ物にて、同じき事を明かす。これは「人」と「火」と各別に聞こえて、自他能所あるに似たり。然而此の「見る」は井の井を見、驢の驢を見る(『諸悪莫作』・注)なり。

 

このゆゑに、実相の実相に参学するを仏祖の仏祖に嗣法するとす。これ諸法の諸法に授記するなり。唯仏の唯仏のために伝法し、与仏の与仏のために嗣法するなり。

経豪

  • 如文。「参学」のあわい、「仏祖嗣法」のよう、又「授記」の姿、「伝法」のありさま、如此なるべき也。

 

このゆゑに生死去来あり。このゆゑに発心修行菩提涅槃あり。発心修行菩提涅槃を挙して、生死去来真実人体を参究し接取するに、把定し放行す。これを命脈として花開結果す。これを骨髄として迦葉阿難あり。

詮慧

〇「このゆえに生・死・去・来・発心・修行・菩提・涅槃あり」と云う、この八つの詞を出だす。相性体力等の十如是を挙して、諸法実相と体脱す。今は生死去来已下を連ねて、「真実人体と参学する」なり。「接取・把定・放行・命脈・花開結果」これ十如是の専如なり、究尽也。

経豪

  • 「生死去来」は、大いに各別の法と聞こゆ。右の道理を以て、生死去来の理をも可心得也。発心は初め其上に修行し、其後に菩提を得て、涅槃を極果とこそ打ち任せては談ずれ(ば)、今の仏祖、嗣法、授記、唯仏与仏の伝法のだけに可心得也。「発心」と談ぜん時(に)、「修行菩提涅槃」(は)現成すべからず。自余同之。所詮今の「生死去来真実人体」の上に、「発心修行」等を置きて談ずるなり。其れと云うは、今の生死去来真実人体を、「発心とも修行とも菩提とも涅槃とも」云うなり。人を置きて此の上に、発心ぞ修行ぞとは不学なり。生死去来の上に、発心等を置きて談ずるを、「把定」とは可云歟。此のように花開いて果結ぶと、打ち任せては参学するを、今の生死去来真実人体、又発心修行菩提涅槃等の道理も如く、今の「花開結果」をば可心得也。花と果と前後際断すべし、「開」と云うも「結」と云うも一法の上の理なるべし。「迦葉・阿難」のあわいも、只是程なるべき也。初祖の一花開五葉、結果自然成とありし御詞を被引載也。余門には、一花開五葉をば、初祖をば一花にて、開五葉をば六祖までの抜群の祖師達を指して云うと談之。当流不用儀なり。

 

風雨水火の如是相すなはち究尽なり。青黄赤白の如是性すなはち究尽なり。この体力によりて転凡入聖す、この果報によりて超仏越祖す。この因縁によりて、握土成金あり、この果報によりて伝法附衣あり。

詮慧

〇「転凡入聖」と云う(は)、十如是の力これなり。この体力によりて、転凡入聖と云う。

〇「握土成金」と云う(は)、転凡入聖これなり。『現成公案』に云う、仏家の風は大地黄金なるを現成せしめ、長河の蘇酪を参熟せりとあり。

経豪

  • 「風雨水火の如是相」と云うまでは、猶世間の心地にも取り成りぬべきを。「青黄赤白の如是性」とあり、是は日来の凡見にて違わず。然而風雨水火の如是相と云うも、打ち任せて心得たる義にあらず。所詮「風雨水火の如是相も究尽也、青黄赤白の如是性も究尽也」。風雨水火の如是相とあるも、青黄赤白の如是性とあるも、只同じ詞(で)、皆各々(に)究尽の理なるべし。「転凡入聖」と云う事(は)、悪しきを転じて聖に入ると云えば、捨劣得勝の詞と聞こゆ。此の転凡入聖は如前云、花開結果、迦葉・阿難程の心地なるべし。「超仏越祖」の詞も、転凡入聖の道理に同じかるべき也。又「握土成金」の詞も、悪しき土が成金とは不可心得。此の「金」をやがて「土」と心得也。「伝法附衣」の理(も)又同じなり。此の「握土成金」と云う事は、釈摩男と云いし人(は)、天竺の人也。大福力の人也、此の手に握りし土は、皆金と成りき。此の事を被引也。

 

如来道、為説実相印。いはゆるをいふべし、為行実相印。為聴実性印。為証実体印。かくのごとく参究し、かくのごとく究尽すべきなり。

その宗旨、たとへば珠の盤をはしるがごとく、盤の珠をはしるがごとし。

詮慧 如来道為説実相印段

〇「印」とは「説」也。「聴」の字も「説」に通ず、説は教なりとわたして可心得。さきに相性体力等を以て諸法実相と解脱す。しからば「為説実相印」の「説」を「行・聴・証」に取り替うべし。この謂われ也。ゆえに「珠走盤」とも「盤走珠」とも云うなり。実相を印とも教行証とも取るが如く、珠与盤のあわいも可心得。

経豪

  • 「為説実相印」と云えば、衆に対して実相印を説くと聞こえたり。然者能説所説の義なるべし、不可然。此の為の詞を彼是に取り替うは、能説所説の心地が離るるなり。経に我以相厳身、光明照世間、無量衆所尊、為説実相印(『法華経』「方便品」「大正蔵」九・八中・注)文、此の「為」は今の我以相厳身と云わるる「我」を以て「為」とは談ずるなり。然者能説所説の義を離る也。又「説」とあれば、釈尊無量の衆の為に喩えられて、今の「実相」を説くと聞こゆ。是又しからず、此の「説」は「行とも聴とも証」とも「説」の字に取り替えんと云う心なるべし。能説所説の義に表されば、如此取り替えん、更不可相違なり。
  • 是は只同事なる証拠に、此の詞を被引也。

 

日月燈明仏言、諸法実相義、已為汝等説。この道取を参学して、仏祖はかならず説実相義を一大事とせりと参究すべし。

仏祖は十八界ともに実相義を開説す。身心先、身心後、正当身心時、説実性体力等なり。実相を究尽せず、実相をとかず、実相を会せず、実相を不会せざらんは、仏祖にあらざるなり。魔黨畜生なり。

詮慧 日月燈明段

〇「諸法実相義、已為汝等説」(『法華経』「序品」「大正蔵」九・五上・注)此の「汝等」をやがて「実相義」と云うべし。法性之色実不可滅(『法華玄義釈籤』「大正蔵」三三・九三九上・注)という経の文歟。色と云えども、法性の時は不滅なり。「已為汝等説」の義也。先の十如是を一一に乃能究尽諸法実相唯仏与仏と云いつるが如く、「十八界」をひとつづつ如是眼耳鼻舌身意等に乃能究尽諸法実相は持つなり、唯仏与仏は具足するなり。繋縛の凡夫に持たせたる眼耳鼻舌身意等にてはあるまじ。「身心先、身心後、正当身心時」なるゆえに、これ先後の身心なるなり。

経豪

  • 是も「已為汝等説」とあれば、汝等(なんだち)が為に説くとあれば、如前云、能説の仏、所説の法ありと聞こゆ。此の「為」の釈(は)如前云、「実相義」を以て、「汝等説」と可談なり。
  • 「説」と云う詞(は)、何度も口業の能、釈尊の四辯八音の説などとこそ思い習わしたれ。而(に)「十八界ともに実相義を開説す」とあり、然者眼も耳も鼻も乃至色声香味触法等(は)皆是「説」の道理なるべし。ゆえに「身心先、身心後、正当身心時、説実性体力等也」とは云う也。所詮(は)仏祖の全面を「説」と談ず也。「諸法実相義」とあれば、必ず「説」許りなるべきにあらず。此の実相印の道理の往く所が、「説実性体力等」皆此の道理なるべしと云う也。所詮「身心先、身心後、正当身心時」等が、皆今の「相性体力等」の理也と可心得。

 

釈迦牟尼仏道、一切菩薩阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経。此経開方便門、示真実相。いはゆる一切菩薩は一切諸仏なり。諸仏と菩薩と異類にあらず。老少なし、勝劣なし。此菩薩と彼菩薩と、二人にあらず、自佗にあらず。過現当来箇にあらざれども、作仏は行菩薩道の法儀なり。初発心に成仏し、妙覚地に成仏す。無量百千万億度作仏せる菩薩あり。作仏よりのちは、行を癈してさらに所作あるべからずといふは、いまだ仏祖の道をしらざる凡夫なり。

詮慧 釈迦牟尼仏段・・示真実相

〇この段(は)、所詮「諸仏と菩薩と異類にあらざる」事を明かす。「菩薩」とは三乗を立つる時、菩薩と謂わる。初発心の時より成仏の力あり。本を云えば、文殊は仏の九代の祖師也と云う。仏(は)久遠実成と被仰、久遠を以て本とし、成仏を以て権化とす。是等は一時の説なり。「一切菩薩は阿耨多羅三藐三菩提、皆属此経」なり。「開方便門」とは、仏三乗の教を設けて方便し御しますにあらず、開会と云うに方便を捨てて真実相を取るなり。「開」と云うは「示真実相」の詞を表す也。菩薩と仏とは、「此菩薩彼菩薩」程也。教には初住無生の位に叶いぬれば、八相の儀式を表すと云う。天台にはこれを仮作成仏と云う。いまは菩薩与仏(は)無差別、其上は作仏は菩薩の姿なり。初発心身便成正覚とも云うなり。

〇「作仏より後は行を癈して、さらに所作あるべからずと云うは」と謂うは、是は有学無学の聖者を立つる時、無学を所作已辨、不受後有りとして、所作あるまじき様に心得は、ひとえに声聞教の心地也。仏・菩薩の行は何時までも作仏するなり。作仏なければ非仏非菩薩也。所作已辨などと云うは、吾我の上の詞也。得道・作仏(の)義は、不可限自身也。尽十方界真実成仏也。未明大事如喪孝妣(父母)、已明大事如喪孝妣と云うは、所作已辨と云う義には不似事也。

経豪

  • 菩薩は仏に不及、等覚の位には未叶ずを菩薩と名づく。是れ通慢の義なり、而今の仏祖所談の仏菩薩、努々浅深勝劣を不可論。「一切菩薩は一切諸仏なり」とあり、分明なり。「此の菩薩与彼菩薩、二人にあらず」とあれば、一体なるべき条顕然なり。「過現当来箇にあらざれども、作仏は行菩薩道の法儀也」とは、「作仏」と云えば、此れは菩薩の成仏すべきかと聞こゆ。不可有其儀、菩薩の上に「作仏」と云う詞を談ず也。「初発心に成仏し、妙覚地に成仏す」と云う事(は)難心得。初発心は浅き位、是を成仏とは、打ち任すは難取か。然而今の心地は、初発心なれば浅く、妙覚地は深しとは不可心得。初発心位(も)、妙覚位(も)只同じかるべし。何れを指しても「成仏」と可談也。「無量百千万億度作仏せる菩薩あり」とは、是も幾たびともなく、作仏せんずるように聞こゆ、不可然。只菩薩の上に無量百千万億度の作仏と云う事を談ず也。数量に拘わるべからざる也。又打ち任せては作仏の為にこそ行をばすれ、作仏の後は行もなく、只遊化してあらんずるように心得る行履(は)、甚不可然。今の仏行と談ずるは、仏(の)上に行を談ず也。しかあらば仏の動揺進止・行住坐臥を悉行とは可談也。

 

いはゆる一切菩薩は一切諸仏の本祖なり。一切諸仏は一切菩薩の本師なり。この諸仏の無上菩提、たとひ過去に修証するも、現在に修証するも、未来に修証するも、身先に修証するも、心後に修証するも、初中後ともにこの経なり。能属所属、おなじくこの経なり。

この正当恁麼時、これ此経の一切菩薩を証するなり。

経豪

  • 詞(は)多いようなれども、此の「諸仏過現当、身先心後、初中後」共に法華経也と云う也。以法華、諸仏と可談也。「能属所属」と云う詞、凡見に紛れぬべけれども、以今経、能属とも所属とも談ずれば、打ち任せたる詞には似たれども、其理不同也。
  • 「経の菩薩を証す」と云う詞(は)珍し。然而経与菩薩(は)至りて親切なる時は、如此被談也。

 

経は有情にあらず、経は無情にあらず。経は有為にあらず、経は無為にあらず。しかあれども、菩提を証し、人を証し、実相を証し、此経を証するとき、開方便門するなり。

詮慧

〇「此経」と云うは、法華経と許りは心得まじ。尽十方界此経也、諸法此経なり。料紙・文字・軸・紐、是等(は)有無の作業なり。「此経」の意は実相也。実相は無為也、諸法也。是則法華経也。

経豪

  • 文に聞きたり。此の道理の所落居は、只経が経を証する也。「人を証す」と云う詞に迷いぬべけれども、是れ打ち任せたる人なるべからず。真実人体の人なるべし。「方便」と云う詞(は)、いかにも実を表す詞と聞こゆ。今の方便は、努々(ゆめゆめ)対実たる非方便ゆえに右に所挙の詞共を出して、「開方便門也」と被釈。教にも智妙方便などと云う詞(は)、今の義に似たるようなれども、いかにも此理には不可等也。

 

方便門は仏果の無上功徳なり。法住法位なり、世相常住なり。方便門は暫時の伎倆にあらず、尽十方界の参学なり。諸法実相を拈じ参学するなり。この方便門あらはれて、尽十方界に蓋十方界すといへども、一切菩薩にあらざればその境界にあらず。

詮慧

〇「暫時の伎倆に非ず、尽十方界の参学也」と云うは、「伎倆」と云うはあやまり也。開方便・示真実相(の)旨(は)、開火宅門・示唯心(の)義となり。

経豪

  • 如前云。「方便門は仏果の無上功徳也、法住法位なり、世相常住也」と云う時は、実に対したる方便にあらずと云う事(は)、不可有不審。「方便」と云うは、実を表す程、暫時(の)事也と思う所を、今は「尽十方界の参学也」とあり。「諸法実相を拈ずる」程の方便門なるべし。又「此の方便門あらわれて、尽十方界に蓋十方界す」とは、方便門と尽十方界と(は)各別の義に非ず。此の方便門の理が現るる時、尽十方界に蓋うと謂うなり。只所詮(は)尽十方界を方便門と談ずる心地也。一切菩薩の皆属此経たるとこそ覚ゆれ。是は此経と菩薩と一体一物なる道理が、菩薩にあらざれば、「その境界にあらず」と云う也。一切菩薩と尽十方界と、「蓋十方界すと云う」と(は)、只一物一体也。

 

雪峰いはく、尽大地是解脱門、曳人不肯入。しかあればしるべし、尽地尽界たとひ門なりとも、出入たやすかるべきにあらず。出入箇のおほきにあらず。曳人するにいらず、いでず。

不曳にいらず、いでず。進歩のもの、あやまりぬべし。退歩のもの、とゞこほりぬべし。

又且いかん。人を挙して門に出入せしむれば、いよいよ門ととほざかる。門を挙して人にいるゝには、出入の分あり。

詮慧 雪峰段

〇「尽大地是解脱門、曳人不肯入」尽十方界解脱門の上は入出あるべからず。縦い出入と仕うとも、不可似世間(の)出入。「尽地尽界たとい門也とも、出入のたやすかるべきにあらず」と云うに心得べし。

経豪

  • 「尽大地是解脱門曳人」と云わるる門は、「曳人不肯入」なるべし。普通の門は出入たやすかるべし、此の「解脱の門」は、総て門の外に人なし、仍て「曳人不肯入」なるなり。ゆえに「尽地尽界たとい門也とも、出入のたやすかるべきにあらず」と云う也。所詮全門まる道理の上には、出入の人あるべからず。「出入多きにあらず、曳人するに出ず」(の)、「出入を多きにあらず」とは、少しにはあるべきように聞こゆ、不可然。出入のたやすからざる所を、「入らず出でず」とは云う也。
  • 曳の上には「不曳」と云う詞あるべし。「進歩退歩」の詞も、門の上の道理也。「進退に滞るべきにあらざる」なり。
  • 是は如前云。「門に出入す」と云えば、打ち任せたる凡見に似たり。尋常に心得れば、解脱門は弥々遠ざかるなり。「門を挙して人に入るるには、出入の分あり」と云えば、解脱の門の道理が現るるなり。

 

開方便門といふは、示真実相なり。示真実相は蓋時にして、初中後際断なり。その開方便門の正当開の道理は、尽十方界に開方便門するなり。

経豪

  • 「開方便門・示真実相」と云えば、「方便門」の位は浅く、「示真実相」は深しと心得(は)、甚不可然。開方便門を則ち示真実相と談ず也。「示真実相は蓋時にして、初中後際断也」とは、「示真実相」の姿が「蓋時」という也。「開方便門の正当開」と云うは、開方便門の門の道理はと云う也。「尽十方界を開方便門」とは談ずべき也。

 

この正当時、まさしく尽十方界を覰見すれば、未曾見の様子あり。いはゆる尽十方界を一枚二枚、三箇四箇拈来して、開方便門ならしむるなり。これによりて、一等に開方便とみゆといへども、如許多の尽十方界は、開方便門の少許を得分して、現成の面目とせりとみゆるなり。かくのごとくの風流、しかしながら属経のちからなり。

詮慧

〇「尽十方界を覰見と云わば、未曾見の様子あり」と云う、眼処対にあらざる見也、仏見也。「尽十方界を一枚二枚三箇四箇拈来して、開方便門ならしむる也」と云う、これは大小を蒙る心地なり。

経豪

  • 尽十方界を覰見する人あるべからず。此の「覰見」と云う詞は、「いはゆる尽十方界を一枚二枚三箇四箇拈来して」と云う詞共の、道理の往く所を「覰見」とは仕う也。能見所見の見にあらず。一枚二枚の詞(に)、不心得ように聞こゆれども、只所詮「尽十方界」を以て「一枚二枚とも三箇四箇」とも仕う也。ここの意趣は、「尽十方界を一枚二枚三箇四箇拈来して、開方便門ならしむ」と云い、次の句には「開方便と見ゆと云えども、如許多の尽十方界は、開方便門の少許を得分して、現成の面目とせり」と打ち替えて談之。是は「尽十方界と開方便門」とが至りて親しき道理を如此談ず也。「如許多」と云い、「少許」と云う(は)、更に数に不可滞、此の道理を以て「属経の力」と談ず也。是等の理を以て皆属経と云わるべきなり。

 

示真実相といふは、諸法実相の言句を尽界に風聞するなり、尽界に成道するなり。実相諸法の道理を尽人に領覧せしむるなり、尽法に現出せしむるなり。

経豪

  • 是は「示真実相」と云う詞を、ここよりは被釈也。「示真実相といふは、諸法実相の言句を尽界に風聞也」とは、風聞も誰人ありて風聞せざすべきぞや。只諸法実相と尽界のあわいを「風聞」と仕う也。又風聞許りと談ずべきにあらず、ゆえに「成道」とも談ず。此の下には、たとえば行ずとも証ずとも、無尽の詞を付くとも、更不可違道理也。又「諸法実相」と云うを、実相諸法と上下して談ずれば、諸法を置きて是が実相ぞと心得らるる所を、「実相諸法」と談ずれば、彼此能所を離る也。又「尽人に領覧」とあり、此の「人」は真実人体の「人」也。「尽界に風聞し、尽界にも成道し、尽人にも領覧せしむる」也。

 

しかあればすなはち、四十仏四十祖の無上菩提、みな此経に属せり。属此経なり、此経属なり。蒲団禅板の阿耨菩提なる、みな此に属せり。拈花破顔、礼拝得髄、ともに皆属此経なり、此経之属なり。開方便門、示真実相なり。

詮慧

〇「蒲団禅板の阿耨菩提なる皆此経に属せり」と云う、此心は所詮尽十方界の蒲団と説き、禅板と説くなり。ゆえに「阿耨菩提」也。

経豪

  • 「四十仏四十祖」は、過去七仏と西天東地の三十三祖とを具して、四十仏也。仏祖のあわい、四十仏とも四十祖とも談ずべき次第、先々事旧了。所詮是を「皆此経に属せり」と云う也。此経に属する道理が、「属此経とも、此経属」とも云わるる也。「四十仏等の此経属」と云わるるは、尤其謂ありぬべし。「蒲団禅板等を此経に属す」と云う詞、驚耳。但是又始めて非可驚。禅師所具の蒲団禅板等、争か此経属の理を離るべきや。「拈花破顔、礼拝得髄、皆属此経」なるべし、皆属此経(は)又此経之属と云わるべき也。此の道理を今(は)「此経之属也」とも可云也。是を「開方便門、示真実相」とは可云也とあり。

 

しかあるを、近来大宋国杜撰のともがら、落処をしらず、宝所をみず。実相の言を虚説のごとくし、さらに老子荘子の言句を学す。これをもて、仏祖の大道に一斉なりといふ。また三教は一致なるべしといふ。あるいは三教は鼎の三脚のごとし、ひとつもなければくつがへるべしといふ。愚癡のはなはだしき、たとひをとるに物あらず。かくのごとくのことばあるともがらも仏法をきけりと、ゆるすべからず。ゆゑいかんとなれば、仏法は西天を本とせり。在世八十年、説法五十年、さかりに人天を化す。化一切衆生、皆令入仏道なり。それよりこのかた、二十八祖正伝せり。これをさかりなるとし、微妙最尊なるとせり。もろもろの外道天魔、ことごとく降伏せられをはりぬ。成仏作祖する人天、かずをしらず。しかあれども、いまだ儒教道教を震旦国にとぶらはざれば、仏道の不足といはず。もし決定して三教一致ならば、仏法出現せんとき、西天に儒宗道教等も同時に出現すべし。しかあれども、仏法は天上天下唯我独尊なり。かのときの事、おもひやるべし、わすれあやまるべからず。三教一致のことば、小児子の言音におよばず、壊仏法のともがらなり。かくのごとくのともがらのみおほきなり。あるいは人天の導師なるよしを現じ、あるいは帝王の師匠となれり。大宋仏法衰薄の時節なり。先師古仏、ふかくこのことをいましめき。かくのごとくのともがら、二乗外道の種子なり。しかのごときの種類は、実相のあるべしとだにもしらずして、すでに二三百年をへたり。

仏祖の正法を参学しては、流転生死を出離すべしとのみいふ。

あるいは仏祖の正法を参学するは、いかなるべし、ともしらざるおほし。たゞ住院の稽古と思へり。あはれむべし、祖師道癈せることを。有道の尊宿、おほきになげくところなり。しかのごときのともがら所出の言句、きくべからず、あはれむべし。

経豪

  • 是は此の諸法実相の「落処をも知らず、宝所をも見ざる輩(やから)、老子荘子の言句を学する、是を以て仏祖の大道に一斉也と云う、又三教は一致也」と。盛りに唐土にも談ずる所を、大いに被破す也。文に分明なり。如御釈、(後)漢の永平年中(57―75・注)に、仏法与道士教(と)勝負して、道士教(が)破れて、年経たり。而及末代、又争か一致也と可談、返々不可然事也。
  • 仏法を修行する前途、出離生死なるべしと思い定めたる事也。但仏祖の法を参学して、出離生死と云う事、いかにも謂わるまじき也。たとい此の詞ありとも、日来心得たりつる出離生死にあらざるべし。
  • 近来禅師の所談存知、皆如此、不便不便。

 

圜悟禅師いはく、生死去来、真実人体。この道取を拈挙して、みづからをしり、仏法を商量すべし。

詮慧 圜悟禅師段

〇「生死去来真実人体」(を)、尽十方界真実人体とこそ云うを、「生死去来」と仕う。所詮「生」も全生、「死」も全死なるを、尽十方界に取り替う許り也。自と取り、他と取るも全機と取るなり。

経豪

  • 此の圜悟の詞、打ち任せたる死此生死の生死にあらず。仏法の上の「生死去来」なるべし。この人(は)、又尽十方界の人なるべし。全生全死の「生死」なるべし。

 

長沙いはく、尽十方界、真実人体。尽十方界、自己光明裏。かくのごとくの道取、いまの大宋国の諸方の長老等、およそ参学すべき道理となほしらず、いはんや参学せんや。もし挙しきたりしかば、たゞ赤面無言するのみなり。

経豪

  • 如文。

 

先師古仏いはく、いま諸方長老は、照古なし、照今なし。仏法道理不曾有なり。尽十方界等恁麼挙、那得知。佗那裏也未曾聴相似。これをきゝてのち、諸方長老に問著するに、真箇聴来せるすくなし。あはれむべし、虚説にして職をけがせることを。

経豪

  • 是は天童の如浄禅師の故方丈道元・注)に申されたる御詞也。無殊子細。諸方の長老、仏法の道理を知らず、尽十方界と云う詞を挙ぐとも、知事を得べからず。曾て聴かざるに相似たりと被仰を聞かれて後、故方丈(が)、「諸方の長老に問著せられけるに、誠に聴来せる少なし」とあり、無殊子細。

 

応庵曇華禅師、ちなみに徳徽にしめしていはく、若要易会、祗向十二時中起心動念処、但即此動念、直下頓豁了不可得如大虚空、亦無虚空形段、表裏一如智境雙泯、玄解倶亡、三際平等。到此田地、謂之絶学無為閑道人也。

詮慧 応庵曇華禅師段

〇「・・無為閑道人也」、此の応庵の見、一向小乗の見なるべし。

〇「要易会」と云う、此の「易会」は何なるべきぞ。仏道に易会と云う事のあるが不可然と見えたり。

〇「祗向十二時中」と云う、是世間の十二時を指す也。「起心動念処に向かうべし」と云う、是も凡夫の心なり。此の起心動念を、「直下頓豁了不可得」と云いて、虚空にたとえて「形段なし」と云うも、世間の心地なり。虚空も似不心得、「虚空形段なきもの」とのみ云うべからず。形段あるを仏祖の道取とす。

〇仏性は非有無色心等と云いながら、衆生有仏性、衆生無仏性とも説き、狗子有仏性、狗子無仏性とも説くが如し。

〇「表裏一如、智境雙泯、玄解倶亡」と云う、必ず(しも)一如なるべきと云うべからず。仏法に(は)「表裏」とも「智境」とも立てざるべきにあらず。「玄」と云う詞は、寂にわたる、「解」は智にわたるべし。

〇「三際平等、到此田地、謂之絶学無為閑道人」と云う、是等も難用。此の「田地」に到らんは非本望。此の「絶学無為閑道人」も非可願哉。

経豪

  • 此の「曇華禅師(1103―1163・注)」は、圜悟(1063―1135・注)の弟子に虎丘山の紹隆(1077―1136・注)と云いし人の弟子也。圜悟の孫弟子なり。此の詞を一一に被非也。御釈に見えたり。

 

これは応庵老人尽力道得底句なり。これたゞ影をおうて休歇をしらざるがごとし。

経豪

  • 此れは応庵の随分(の)尽力道得底句なり、然而影を追うて、休歇を不知と避けらる。我が影はいつも身に付いて離れず。休歇不可有を、追わんとするは、まことに儚(はかな)かるべし。

 

表裏一如ならんときは、仏法あるべからざるか。なにかこれ表裏。また虚空有形段を仏祖の道取とす。なにをか虚空とする。おもひやるに、応庵いまだ虚空をしらざるなり、虚空をみざるなり。虚空をとらざるなり、虚空をうたざるなり。起心動念といふ、心はいまだ動ぜざる道理あり。いかでか十二時中起心あらん。十二時中には、心きたりいるべからず。十二心中に十二時きたらず、いはんや起心あらんや。動念とはいかん。念は動不動するか、動不動せざるか。作麼生なるか動、また作麼生なるか不動。なにをよんでか念とする。念は十二時中にあるか、念裏に十二時あるか、両頭にあらざらんときあるべきか。十二時中に祗向せば易会ならんといふ、なにごとを易会すべきぞ。易会といふ、もし仏祖の道をいふか。しかあらば、仏道は易会難会にあらざるゆゑに、南嶽江西ひさしく師にしたがひて辦道するなり。

詮慧

〇「十二時中起心あらん、十二時中には心来たり入るべからず、十二心中に十二時来たらず、いわんや起心あらんや」と云う、十二時を起心と取らん時、十二時中に何れの心ありてか入るべき。今「十二心中」と謂わん時は、又「十二時きたらずと謂わんや、起心あらんや」と云う也。三界唯心と体脱する心なり。

経豪

  • 右に所載の応庵の道得底句を、一一被破するなり。其れに取りて「表裏一如」と云う詞を調べらる。「なにかこれ表裏」とあり、又虚空に有形段の詞を、「なにをか虚空とする」(は)、仏祖所談の「虚空」を応庵知るべからずと下さる。又「起心動念」と云う詞(は)、「十二時中」と「心」とを各別に置きて(と)、応庵の詞(は)見えたり。それを「起心動念と云う心は、いまだ動ぜざる道理あり、争か十二時中に起心あらん」と被非也。まことに「十二時中には心来り入るべからず、心中には又十二時中不来ず」と打ち替えて被書也。只同心なり。然而十二時と心中との各々に独立の姿を表さるるなり。「十二心中に十二時不来、況や起心あらんや」とは、十二時と心との二つを書き載せられたる也。「起心動念」と云う「動」の詞を非せらるるに、「動念とは如何、念は動不動するか、動不動せざるか、作麼生なるか動、又作麼生なる歟不動、なにを喚んでか念とする」と、彼(の)詞に付けて如此様々、不審共を挙げて被嫌なり。「念は十二時中にあるか、念裏に十二時あるか、両頭にあらざらん時あるべきか」とは、十二時中起心動念の詞を如此砕かれて、書かれたるなり。「十二時中に祗向せば易会ならんと云う、何事を易会すべきぞ。仏道は易会難会にあらざるゆえに、南嶽江西ひさしく随師辦道する也」とあるは、此の応庵の詞に、若要易会たる詞を、難に対したる易と、応庵心得たる事を如此被破すなり。

 

頓豁了不可得といふ、仏祖道未夢見なり。恁麼の力量、いかでか要易會の所堪ならん。はかりしりぬ、仏祖の大道をいまだ参究しきたらずといふことを。仏法もしかくのごとくならば、いかでか今日にいたらん。応庵なほかくのごとし。いま現在せる諸山の長老のなかに、応庵のごとくなるものをもとめんに、歴劫にもあふべからず。まなこはうげなんとすとも、応庵とひとしき長老をばみるべからざるなり。ちかくの人はおほく応庵をゆるす。しかあれども、応庵に仏法およべりとゆるしがたし。たゞ叢席の晩進なり、尋常なりといふべし。ゆゑはいかん。応庵は人をしりぬべき気力あるゆゑなり。いまあるともがらは人をしるべからず、みづからをしらざるがゆゑに。応庵は未達なりといへども学道あり、いまの長老等は学道あらず。応庵はよきことばをきくといへども、みゝにいらず、みゝにみず。まなこにいらず、まなこにきかざるのみなり。

応庵そのかみは恁麼なりとも、いまは自悟在なるらん。いまの大宋諸山の長老等は、応庵の内外をうかゞはず、音容すべて境界にあらざるなり。しかのごとくのともがら、仏祖の道取せる実相は、仏祖の道なり、仏祖の道にあらずともしるべからず。このゆゑに、二参百年来の長老杜撰のともがら、すべて不見道来実相なり。

経豪

  • 此の詞は忽然として得悟すなどと云う程の詞か。ゆえに「仏祖道未夢見」と被嫌也。只所詮応庵の詞(の)、易会も、十二時中起心動念の詞も、頓豁了不可得と云うも、大虚空の如しと云うも、又虚空に形段なしと示すも、表裏一如とら云う詞共、皆是凡見の心(を)離れず、仏祖所談の理に向背せり、ゆえに如此被非也。是已下(は)応庵を少し生けらるる事も有る歟。委見于御釈。
  • 是は「応庵そのかみは」如是(の)詞も及ばざりしかども、近来の長老等に比すれば、尋常なる分も在りしかば、今は得悟得道分も有るらん。「今の大宋諸山の長老等は、応庵の境界にあらず」と下さるるなり。已下如文。

 

先師天童古仏、ある夜間に方丈にして普説するにい天童今夜有牛児、黄面瞿曇拈実相。要買那堪無定価、一声杜宇孤雲上。

詮慧 先師天童段

〇此の「牛児」とは、天童(の)我が身を被仰と聞こゆ。但「今夜有牛児」と許り被仰ても、無其詮。文字(の)殊に義は大切なり、実相にあらざるなし。此の「有」の字(は)仏性の有無に習うべし。天童の面目は牛児也、瞿曇の面目は実相なり。「黄面瞿曇」はは仏の名也。「拈実相」とあれば、今の拈実相するは天童なり。牛児の所がやがて瞿曇と可心得。「要買」にとあるは牛児の心地也。古き詞に買金須是売金人と云う事あり。世間に買売の法を作るには、価直三千大千世界などと云うも、たとえば無価の珠の目出度くて、直の三千大千世界をひたたしきにてこそあれども、世間の法に違せず。仏には心外無別法と云う、かからん時は価なかるべし。たとい又有と云うも、実相の価には諸法なるべし。諸法ならば又実相なるべし。実相ならば実相の価(を)実相と云うべし。此義ならば、価有りとやせん、無しとやせん。ゆえに「那堪無定価」とも云わるべき也。

経豪

  • 余方には、仏性真如ぞ実相ぞなどと云うは、聴教の所談也。祖門に不用。或下喝挙拳頭、是仏祖の姿也と云うか。是を大いに邪見也と、此方(こなた)には避くる也。仍其証拠に、天童の御詞に「拈実相」と云う詞を被引出也。「有牛児」と云う詞(は)、耳遠き様なり。然而何としてやらん、祖師常に此の詞を被用。但此の「牛児」の詞(は)、仏法に違すべきにあらず。「黄面瞿曇」とは、釈尊御事也。今の「牛児」は是程の丈に可心得也。所詮今の詞は、「黄面瞿曇の拈実相」あわいと、「一声杜宇孤雲の上」のあわいとが、同じ程なる道理なり。此の「一声杜宇孤雲の上」と云う詞が、「堪無定価」とは云わるる也。「黄面瞿曇拈実相」と云う、黄面瞿曇と拈実相とのあわい、一声杜宇と孤雲の上とのあわい(は)、同心なるべきか。所詮何れも不可向背道理也。実相の上の所談なるべし。

 

かくのごとくあれば、尊宿の仏道に長ぜるは実相をいふ。仏法をしらず、仏道の参学なきは実相をいはざるなり。この道取は、大宋宝慶二年丙戌春三月のころ、夜間やゝ四更になりなんとするに、上方に鼓声三下きこゆ。坐具をとり、搭袈裟して、雲堂の前門よりいづれば、入室牌かゝれり。まづ衆にしたがうて法堂上にいたる。法堂の西壁をへて、寂光堂の西堦をのぼる。寂光堂の西壁のまへをすぎて、大光明蔵の西堦をのぼる。大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて焼香礼拝す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず。妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。ときに西川の祖坤維那、きたりておなじく焼香礼拝しをはりて、妙高台をひそかにのぞめば、満衆たちかさなり、東辺西辺をいはず。ときに普説あり、ひそかに衆のうしろにいりたちて聴取す。大梅の法常禅師住山の因縁挙せらる。衣荷食松のところに、衆家おほくなみだをながす。霊山釈迦牟尼仏の安居の因縁、くはしく挙せらる。きくものなみだをながすおほし。天童山安居ちかきにあり、如今春間、不寒不熱、好坐禅時節也。兄弟如何不坐禅。かくのごとく普説して、いまの頌あり。頌をはりて、右手にて禅椅のみぎのほとりをうつこと一下していはく、入室すべし。入室話にいはく、杜鵑啼、山竹裂。かくのごとく入室語あり、別の話なし。衆家おほしといへども下語せず、ただ惶恐せるのみなり。この入室の儀は、諸方にいまだあらず。たゞ先師天童古仏のみこの儀を儀せり。普説の時節は、椅子屏風を周匝して、大衆雲立せり。そのまゝにて、雲立しながら、便宜の僧家より入室すれば、入室をはりぬる人は、例のごとく方丈門をいでぬ。のこれる人は、たゞもとのごとくたてれば、入室する人の威儀進止、ならびに堂頭和尚の容儀、および入室話、ともにみな見聞するなり。この儀いまだ佗那裏の諸方にあらず。佗長老は儀不得なるべし。佗時の入室には、人よりはさきに入室せんとす。この入室には、人よりものちに入室せんとす。この人心道別、わすれざるべし。それよりこのかた、日本寛元元年癸卯にいたるに、始終一十八年、すみやかに風光のなかにすぎぬ。天童よりこのやまにいたるに、いくそばくの山水とおぼえざれども、美言奇句の実相なる、身心骨髄に銘じきたれり。かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおもへり。この夜は、微月わづかに樓閣よりもりきたり、杜鵑しきりになくといへども、静閑の夜なりき。

詮慧

〇一声杜宇は黄面瞿曇に充つ、拈実相は孤雲上に充つべし。又杜宇を以て実相を価うとも云うべし。ゆえに価と謂う詞はある也。実相と杜宇と買売の法につくる。杜宇に価うれば杜宇を実相と知るなり。杜宇は鳥名なり。所詮杜宇も実相と体脱すべし。

〇「入室の儀余方になし」と云うは、打ち任せたる入室の儀は、方丈の外に列び立して、次第に入りて次第に出づるなり。天童の儀には、皆一度に立廻長老前、時に他人の事をも能々見聞す。余方にはなしと云う是也。甚深の義也。

〇「杜鵑啼、山竹裂」と云うは、「杜鵑」は鳥名なり。「竹裂」する様(を)可尋聞、寒夜に竹裂と云う事あり。今は杜鵑の啼くに裂(わ)るとあり、不審なり。只今此の詞の出でくる事は、拈実相すれば諸法裂すると可心得。たとえば実相啼諸法裂となり。

経豪

  • 如文。如前云、祖門に不談実相詞と云う僻見を被非ずとて、仏道に長ぜる尊宿、如此実相を談ずと云う証しに被引出也。只其の夜の入室の儀のあり様、殊に難忘、いみじかりし事を委被載之、如文。(杜鵑とは郭公の事歟)

 

玄沙院宗一大師、参次聞燕子声云、深談実相、善説法要。下座。尋後有僧請益曰、某甲不会。師云、去、無人信汝。いはゆるの深談実相といふは、燕子ひとり実相を深談すると、玄沙の道きゝぬべし。しかあれども、しかにはあらざるなり。

参次に聞燕子声あり。燕子の実相を深談するにあらず、玄沙の実相を深談するにあらず。両頭にわたらざれども、正当恁麼、すなはち深談実相なり。しばらくこの一段の因縁を参究すべし。参次あり、聞燕子声あり、深談実相、善説法要の道取あり、下座あり。尋後有僧請益曰、某甲不会あり。師云、去、無人信汝あり。某甲不会、かならずしも請益実相なるべからざれども、これ仏祖の命脈なり、正法眼蔵の骨髄なり。

しるべし、この僧たとひ請益して某甲会得と道取すとも、某甲説得と道取すとも、玄沙はかならず去、無人信汝と為道すべきなり。会せるを不会と請益するゆゑに、去、無人信汝といふにはあらざるなり。

まことに、この僧にあらざらん張参李四なりとも、諸法実相なりとも、仏祖の命脈の正直に通ずる時処には、実相の参学、かくのごとく現成するなり。

青原の会下に、これすでに現成せり。しるべし、実相は嫡々相承の正脈なり。諸法は究尽参究の唯仏与仏なり、唯仏与仏は如是相好なり。

詮慧 玄沙段・・師云、去、無人信汝

〇「参次聞燕子声云、深談実相、善説法要。下座。尋後有僧請益曰、某甲不会。師云、去、無人信汝」、已上是等の詞、一一の実相也と心得るのみなり。信ずる人なしと云うが、やがて実相の心なれば人なしと云うべし。

〇実相に教行証あり、声ばかりを指すにあらず。皮肉骨髄皆実相なり。

〇実相その姿なし、何れと難定。深談に人なし、深も浅に対したる深にあらず。「信」と云うも吾我の信にあらず。「汝」と云うも汝にあらず、誰にあらずという道理なり。

〇「如是相好」と云う、仏身に付けてこそ相好とは云うを、今は如是の相好(が)実相となり。

経豪

  • 「聞燕子声云とて、深談実相善と説法要」とあれば、無風情燕子が実相を談ずると、大師は被示したるかと聞こゆ。後に「有僧請益曰、某甲不会」とあれば、われが不心得ずと云うに付けて、師(は)此の詞を不心得には説くざれ。人の我を信ずるなからんと。追出の詞に聞こえゆ(が)、是等一一あたるべからず。見奥御釈。
  • 是は前の玄沙と僧の問答、如前云、文のままに心得らんぬべき所を一一に御訓釈あるなり。如文、所詮「燕子声」とある詞より、「去無人信汝」までの問答の詞を、「正当恁麼時、則ち

深談実相也」と談ず也。如此談ずる上は、只尋常の禅師与僧の問答の定めに心得るは、轅を北にして如向越なるべし。此の一一の詞を推し房ねて、此の一時を実相と可談なり。一句一句の実相究尽の道理と可心得也。ゆえに「某甲不会」の詞を、「請益実相なるべからず」とは云う也。此の道理を「仏祖の命脈」とも、「正法眼蔵の骨髄」ともすべき也。

  • 此の僧の詞に、某甲不会と道取する答えに、大師(の)「去無人信汝」と被仰たればこそ、仰凡見は相応の詞と聞こゆるを、今実相の道理の方より心得ば、「某甲会得と道取すとも、某甲説得と道取」すとも、玄沙は只同じ詞に、「去無人信汝と為道すべき也」と被釈。此の「不会」の詞(は)、実相の不会なるゆえに、如此いわるるなり。
  • 是はたとい「此僧にあらず」とも、誰人にてもあれ、「仏祖の命脈の正直に通ずる時は、実相の参学」、今の如く談ずるなりと云う心也。
  • 実相の詞、すでに玄沙天童を被引いて被出之。余方には此の詞を嫌う所を、「すでに現成せり」とも書かれ、「嫡々相承の正脈」とも云わるる也。今の諸法実相・唯仏与仏の道理を取りて「如是相好」と可談歟。

諸法実相(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。