正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十八 法性 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第四十八 法性 (聞書・抄)

あるいは経巻にしたがひ、あるいは知識にしたがうて参学するに、無師独悟するなり。無師独悟は、法性の施為なり。

詮慧

〇仏性・法性は廻りては同じけれども、教家には十法界に具する性と心得。これを法性と習い、仏性は仏界に限るなり。然而所詮同時也。十法界とは、十界互具事也。・・先ず法性を習うに、衆生の業力の差別に従いて、有識有性あれども、皆法性を具す。但知識経巻に逢うて、後可得という、この義不然。非色非身非有非無がゆえに。

〇「経巻に従い、あるいは知識に従いて参学するに、無師独悟するなり」という、「経巻」というは色の経巻と定め、「知識」と云うは師匠に仰せて名づく。これ少分の義也、尽界を経と説き、知識を経巻とも云う上は、世間の見には異なりべし。

〇「無師独悟」とは、又無師匠して、我れ独り悟ると思う、是は世間の法なり。今は「法性の施為する」を云う。

〇この「知識に随いて、参学するにと云いて、無師独悟する也」と云う、この詞(を)世間に仰せて心得には、前後すでに相違す。

経豪

  • 法性与無明の喩えとて、世間には無明は悪しき物の手本、厭うべき物也と談ず。此の無明を断じて後、法性をば顕わすべしと云う。ゆえに法性は忌みじき事に思い習わしたり。今此の祖門に談ずる義、大いに相違すべし。法性の顕わるる時、無明と云う物が、影を差さばこそ、相対して善悪と云う事もあらめ。又無明即法性などと云えども、いかにも此の心地は悪しき物が、よく成りたるように、即ちせさすれども、さわさわと尽十方界を法性と談ずる心地には不及。其の趣(は)奥に重々委可聞也。知識に随い、経巻に依りて参学せば同じかは、無師独悟の義あるべき名目(は)、相違して聞こゆ。但自己も法性也、師も法性なるべし。此の道理が「無師独悟」とは云わるる也。「施為」とは、法性の為す也と云うなり。吾亦如是の道理を、「無師独悟」とは云うなり。

 

たとひ生知なりとも、かならず尋師訪道すべし。たとひ無生知なりとも、かならず功夫辦道すべし。いづれの箇々か生知にあらざらん。仏果菩提にいたるまでも、経巻知識にしたがふなり。

詮慧

〇「仏果菩提が経巻知識に随うなり」、仏果菩提は仏果菩提に随うなり。

〇「無生知」という生知とて、師に習わざれども生ずれば、やがて知という事(は)、世間に談ずれども、無生知とは云い習わぬを、今かくの如く、「尋師訪道、功夫辦道」するが「無生知なる」なり。

〇生也全機現というが、「法性の施為、無生知なる」なり。尽界を皆経巻知識と習う上は、経巻知識を得る生知なるべし。所詮、以経巻知識、為法性也。これ「いづれの箇々か生知にあらざらん」と云うゆえに。

経豪

  • 「生知」と云えば、生れつきより天然として知れたる事を、云うように思い習わしたり。此の生知は法性を云う也。打ち任せて思い習わしたる生知なるべくは、「かならず尋師訪道すべし」とはあるべき、顕然事也。又生まれつきより、知りたらんには、何事をか尋師訪道すべき、此の「尋師訪道」を即ち法性と談ず也。又生知の上に無生知の道理もあるべし。「いづれの箇々か生知にあらざらん」とは、法性ならぬ物なしと云うなり。「仏果菩提に至るまでも、経巻知識に随う」とは云うなり。所詮法性が法性に随い、仏果菩提が仏果菩提に随い、経巻知識が経巻知識に随う道理なるべし。

 

しるべし、経巻知識にあうて法性三昧をうるを、法性三昧にあうて法性三昧をうる生知といふ。これ宿住智をうるなり、三明をうるなり。これ阿耨菩提を証するなり。生知にあうて生知を習学するなり。無師智自然智にあうて、無師智自然智を正伝するなり。もし生知にあらざれば、経巻知識にあふといへども、法性をきくことえず、法性を証することえざるなり。大道は、如人飲水、冷暖自知の道理にはあらざるなり。

詮慧

〇「経巻知識にあうて法性三昧をうるを、法性三昧にあうて、法性三昧をうる生知と云う、これ宿住智(宿命智とも云うこれなり)をうるなり」所詮、経巻も知識も法性三昧ねれば、法性い逢うて法性を得ると云うべし。このゆえに「生知に逢いて生知を習学するなり、無師智自然智に逢いて、無師智自然智を正伝するなり」と云う也。

〇教家には、いかにも相に性は具足すとのみ学す。これ大いなる相違也。かえる(蛙)くちなわ(蛇)にも、性は具足すと云いて、自性仏とは云わず。真言には、やがて自性仏と談ずる也。

天台にも、次位の階級を経て、表すべきをも表し、談ずべきをも断じて悟る。是を証の時節と云う、此の時は不可依他、仍証不由他という。天台大師は、自解仏乗(『大乗円戒顕正論』「大正蔵」七四・一三〇上(天台智者以自解仏乗智深達)注)の徳ありと云う。然而知識に依る也。其の故は南嶽に依りて得るゆえに、無師独悟の詞を、或従知識・或従経巻すべからずとは云うべからず。今この宗門には、坐禅して得悟すと云う、ただし伝法を云うには、非汝非誰と説きて、初祖の皮肉を二祖得るに、初祖の蹤跡を止めず。諸法実相を開演するを経という程の事也。これをこそ無師独悟とも云え。二祖(は)不可逢初祖とは云わぬなり。生知なりとも、尋師訪道すべしと云うも、前後相違して聞こゆるを、この生知も生死輪転の衆生の上に置きて、他に従わず、我と知るを生知と習えばこそあれ。これは生滅の生知なれば、仏道の知には難取。生も全機現、死も全機現(「全機」注)と習うこそ、尽十方界真実人体なれ。此時は尽十方界皮肉なる故に、知るべきことなし、これこそ仏道に習う生知なれ。日来の学而知の知にてなし、不触事而知(「坐禅箴」注)の知なるべし。経巻も知識も仏果菩提也。仍て経巻知識に逢うと云う、このとき生知と経巻と知識と不各別法なり。

〇抑も「法性三昧」の中に、又生知あるべきかと聞こゆ、不然。火を生ずる事、石より生ずれども、石を以て火とは云わず、以火石とすべからず。法性三昧と生知と非能非所。

〇「三明」と云うは、他心智・漏尽智・宿住智、これを三を明らむるを三明と云う。

〇「生知と云う、これ宿住智をうるなり、これ三明をうるなり」と云う、不審なり。

〇問三明の中に、何ぞ強ちに宿住智許りを出だして、これ「三明をうる」とは云うぞや、答えず。教家にこそ三明とは、三智を明らむるをとは云え、教家には不然。能所なき故に、ただ三明(は)一法性なるべし、「阿耨菩提なり、生智なり、無師智なり、自然智也」。いま云う無生智の生は、世間に云う生にはあらず、全機の生なり。「如人飲水冷暖自知の道理にはあらざる也」と云う、此の文を了見せんには、水(が)水を飲みて、冷暖を冷暖するが如しと云うべき歟。

〇証は不由他という。そのゆえは他人(は)証すれども我不証、我(が)証すればとて他又不証。いま云う所の、水を飲んで我(が)冷暖を自知すと云う。実にも他人は不可知、ゆえに証不由他の詞も、如人飲水冷暖自知の詞も相通ず。但此の如人飲水の詞は、世間に思うが如くは、さればこそ無師独悟の詞には引き寄せられて、師に習わねども、冷暖は知ぞかしなどと、云いぬべけれども、ここには只、自他に通ずることなき、証拠に被引也と心得なり。

経豪

  • 経巻知識、法性生知(は)、一体なる事、此の御詞に分明也。此の道理を以て、「宿住智をうるとも、三明をえ、これ阿耨菩提を証する也。生知にあうて生知を習学すとも、無師智、自然智を正伝す」とも云う也。
  • 法性の上の経巻知識、法性の上の証なるべし。経巻知識の時は、只経巻知識なるべし。法性の時は法性なるべし。経巻知識も法性を奪うべからず、法性も経巻知識を奪うべからず。聞不聞、証不証ともに、法性の上の理なるべし。
  • 是は法性の外に別に交り物なき喩えに、人の水を飲んで冷暖を知る、定めにはあるべからずと云う也。是は人与水なくては此の理は、あるべからず。法性の道理、如此なるべからざるなりと云う也。

 

一切諸仏および一切菩薩、一切衆生は、みな生知のちからにて、一切法性の大道をあきらむるなり。経巻知識にしたがひて法性の大道をあきらむるを、みづから法性をあきらむるとす。

経豪

  • 此の諸仏・菩薩・衆生(は)皆法性なるべし。法性の法性を明らむる道理なるべし。経巻知識(も)、又法性なるべし。故に「経巻知識に随いて、法性の大道を明らむるとす」と云うも、同じく如前云う、法性が法性に逢いて明らむる理なり。

 

経巻これ法性なり、自己なり。知識これ法性なり、自己なり。法性これ知識なり、法性これ自己なり。法性自己なるがゆゑに、外道魔儻の邪計せる自己にはあらざるなり。法性には外道魔儻なし。

詮慧

〇一切衆生の生知ならざるなしと云うも、生知と法性と衆生と何の差別かあらん。仏性なり、自法性なり、外道魔儻の自己にはあらず。法性三昧には、外道魔儻はなき也と云う。

経豪

  • 経巻と自己と、知識と法性とのあわい、如右御釈、只一物也。ゆえに此の自己(は)、「外道魔儻の邪計せる自己にはあらざる也」。実(に)法性に外道魔儻の寄り付くべきにあらず。

 

ただ喫粥来、喫飯来、点茶来のみなり。

詮慧

〇喫粥米等と云う、粥も飯も法性ぞかしと、尽十方界の詞に引き懸けて、いま云うにはあらず。法性と談ずるも、性と云うものを内に持たせて、一切と談ずる所を除けんが為に、粥飯を法性と云う也。春松秋菊を非有非無に作らざる也と云いしが如し。一切は妄法也と談じて、性を別に立つる方あれども、今はすべて内外の論を超越しぬれば、相性別に分かつ事なし。

経豪

  • 仏祖の「喫粥来、喫飯来、点茶来」の姿を以て、今(の)法性とは可談也。

 

しかあるに三二十年の久学と自称するもの、法性の談を見聞するとき、茫然のなかに一生を蹉過す。飽叢林と自称して、曲木の床にのぼるもの、法性の声をきき、法性の色をみるに、身心依正、よのつねに粉然の窟坑に昇降するのみなり。

経豪

  • 如文、無殊子細。

 

そのていたらくは、いま見聞する三界十方撲落してのち、さらに法性あらはるべし。かの法性は、いまの万象森羅にあらずと邪計するなり。法性の道理、それかくのごとくなるべからず。

経豪

  • 如文。是世間(の)人の僻見を被出也。不可用儀也。

 

この森羅万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり。離即の談を超越せり。過現当来にあらず。断常にあらず。色受想行識にあらざるゆゑに法性なり。

詮慧

〇「離即の談を超越せり」と云うは、離るるぞ即するぞと云うも、猶能所に拘わるべし、ゆえに超越と云う也。離即の凡夫などと云うにてはなし。超越と云う上(は)勿論也。

〇三界の繋縛の業を離れんと行う(は)、二乗の見也、非仏道。即と談じて三諦即一とも云い、無明即法性、法性即無明などと云うも、教の心地也。かれを超越すと云うなり。性をば不改転の法と云い、諸法は生死に移され無常転変す。この無常転変をば我見に仰せ、法性をば仏法にゆづる(は)、教の義也。法性の外に他物なし、無常転変の残るあるべからず。

〇清浄本然云、何忽生山河大地(「谿声山色」注)と云う問答にて心得べし。離即あるべからず。自他能所を不置時、日来の離即の詞は相違する也。

経豪

  • 此の「森羅万象」と談ぜん時は、法性は蔵身すべし。「法性」と談ぜん時(は)、又森羅万象は森羅万象、法性は法性なるべき所を、別と可仕歟。但此の同別は、実(に)「はるかに同異の論をも超越し、離即の談をも超越すべし」。ゆえに如此云うか、是は一法の上に置いて同異を談ずる時に、世間の同異には超越するなり。又「過現当来・断常・色受想行識」等を法性と談ずる故に、「あらず、あらず」とは云う也。是世間の三世断常、色受想行識等にはあらぬ所が、如此云わるるなり、ゆえに法性也と被決。

 

洪州江西馬祖大寂禅師云、一切衆生、従無量劫来、不出法性三昧。長在法性三昧中、著衣喫飯、言談祗対。六根運用、一切施為、尽是法性。馬祖道の法性は、法性道法性なり。馬祖と同参す、法性と同参なり。すでに聞著あり、なんぞ道著なからん。法性騎馬祖なり。人喫飯、飯喫人なり。

詮慧

〇洪州江西馬祖大寂禅師云・・尽是法性。「不出法性三昧」という、此の詞は教家にも聞き習いたり。法性ならぬ法なければ、不出と心得歟。今此の宗門には、無量劫をも置くべからず、ただ法性よりこのかた、かつて法性三昧を出でずと習う也。性は隠に不足したるとのみ教には談ず。「著衣喫飯」已下、悉くやがて「尽是法性」談ずるなり(無量劫はこれ法性三昧という)。「一切施為、尽是法性」の詞こそ、不出法性とも云い、法性三昧の中などと云うには越えず。

〇「法性騎馬祖」と云うは、たとえば法性を悟るは、馬祖也とも云わん程の詞也。騎の字は、馬の字に付けて被引寄也。

経豪

  • 馬祖は法性を説祖師、法性は馬祖に説かるる法とは不可心得。此の馬祖の当体、即法性なり。ゆえに「馬祖道の法性は、法性道の法性也」と云う也。馬祖与法性(の)一体なる理が、「馬祖と同参す、法性と同参也」とも云わるるなり。「聞著ある上は、なんぞ道著なからん」とは、故開山の御詞也。「法性騎馬祖也」とは、法性と馬祖と一体なる道理を、馬祖の詞に騎ると云う詞を、得んなるに依りて付けられたる也。所詮只馬祖と法性と、一体なる姿が、如此云わるると可心得。法性騎馬祖也の道理は、「人喫飯、飯喫人」の道理也。是等は故方丈の、「なんぞ道著なからん」と云わるる御詞也。

 

法性よりこのかた、かつて法性三昧をいでず。法性よりのち、法性をいでず。法性よりさき、法性をいでず。法性とならびに無量劫は、これ法性三昧なり。法性を無量劫といふ。しかあれば、即今の遮裏は法性なり。法性は即今の遮裡なり。

経豪

  • 是は詞(が)重なりて、心得にくきようにはあれども、所詮只前後首尾、法性ならぬ一法なき道理を如此云う也。「無量劫」と云うも法性也。御釈に分明也。「後」と云うも「先」と云うも、「出」と云うも「不出」と云うも、法性なり。

 

著衣喫飯は、法性三昧の著衣喫飯なり。衣法性現成なり、飯法性現成なり。喫法性現成なり、著法性現成なり。もし著衣喫飯せず、言談祗対せず、六根運用せず、一切施為せざるは、法性三昧にあらず。不入法性なり。

詮慧

〇「もし著衣喫飯せず、言談祗対せず、六根運用、一切施為せざれば、不入法性なり」、これは先に著衣喫飯すれば、法性三昧の著衣喫飯也。衣法性の現成也(已下略也)と云い、今せざるは「法性三昧にあらず」と云う(は)顕然也。「不入法性也」と云うも、同じ詞に因みて云うと聞こえ、但かく云えばとて、法性三昧にあらぬ所の、あらんざるにてはなし。迦葉仏の法道は、釈迦牟尼仏の法道にあらずと云わん程の詞也。

〇「不入法性」の詞も、争か不入の法性と云うものであるべき。法性(は)法性に不入とも、法性(が)法性に入とも云わんが如し。努々不可心得也。所詮性と云う事を、愚人(は)悪しく心得る故に、今の著衣ごときを、性とは謂われ難き所を表す也。所詮、相も性も無差別と心得べきなり。

経豪

  • 是は「法性三昧の著衣喫飯也」と云えば、法性三昧と云う物をば、総てに置いて、其の中に「著衣喫飯、言談祗対、六根運用」等の姿を押しひたたけて、法性也と云う様に聞こゆ。しかにはあらず。ゆえに「衣法性現成也、飯法性現成也、喫法性現成也、著法性現成也」とは、各々に法性の姿の独立したる表るを挙す也。此の「著衣喫飯、言談祗対、六根運用」等の姿を、皆法性と談ず也。如此不談は「不入法性也」と云うなり。此の「入」の字は、不出法性と馬祖の詞にある所を、必ず(しも)「出」の字許りにて、あるべきならぬ所を、「不入法性」と談ずるなり。

 

即今の道現成は、諸仏相授して釈迦牟尼仏にいたり、諸祖正伝して馬祖にいたれり。仏々祖々、正伝授手して法性三昧に正伝せり。仏々祖々、不入にして法性を活々ならしむ。

経豪

  • 此の相伝相嗣のよう、先々談旧了。所詮今の諸仏諸祖(は)、皆法性なるべし。是を「相授」とも「正伝」とも談ずるなり。いづくまでも法性なるべき道理を、今は「活鱍々ならしむ」とは云うなり。

 

文字の法師たとひ法性の言ありとも、馬祖道の法性にはあらず。不出法性の衆生、さらに法性にあらざらんと擬するちから、たとひ得処ありとも、あらたにこれ法性の三四枚なり。法性にあらざらんと言談祗対、運用施為する、これ法性なるべきなり。

経豪

  • 如文、無殊子細。実にも法性の詞は、諸宗談之歟。然而「文字法師の所談の法性(は)、馬祖道の法性には不可同」。又「不出法性の衆生、さらに法性にあらざらんと擬すとも、これ法性なるべき理を三四枚也」とは云うなり。「言談祗対、運用施為する、これ法性なるべし」と云う文に明らか也。

 

無量劫の日月は、法性の経歴なり。現在未来もまたかくのごとし。

身心の量を身心の量として、法性にとほしと思量するこの思量、これ法性なり。身心量を身心量とせずして、法性にあらずと思量するこの思量、これ法性なり。思量不思量、ともに法性なり

性といひぬれば、水も流通すべからず、樹も栄枯なかるべしと学するは外道なり。

詮慧

〇「身心の量を身心の量として、法性に遠しと思量する、この思量これ法性也。身心量を身心量とせずして、法性にあらずと思量する、この思量これ法性なり、思量不思量ともに法性也」と云う、此の思量不思量は、『坐禅箴』にある思量不思量とは心得まじ。ただ我等が思量不思量の事也。

〇「水も流通すべからず、樹も栄枯なかるべしと学するは外道也」、性を理と捉えて、この性に具足して不変也。事に現るるこそ無常なれなどと説く、この義に充てて流通すべからず。流も栄枯も法性となり。

経豪

  • 是は馬祖の詞に、従無量劫来不出法性とありつる無量劫の詞を、如此被釈なり。此の「無量劫の日月は、法性の経歴なり」と云う也。現在未来(も)又法性なるべし。
  • 如御釈。凡身を置いて、「法性に遠しと思量する思量」も法性なり、「身心量を身心量とせずして、法性にあらずと思量する」も、皆共に法性なるべし。ゆえに「思量不思量ともに法性なり」と被決なり。
  • 実にも打ち任せて人の思うには、性と云えば色も形も不見、ただ固まりたるようなる物とのみ思い付したり。是を「外道」の見と避けらるるなり。

 

釈迦牟尼仏道、如是相、如是性。しかあれば、開花葉落、これ如是性なり。しかあるに、愚人おもはくは、法性界には開花葉落あるべからず。しばらく佗人に疑問すべからず、なんぢが疑著を道著に依模すべし。佗人の説著のごとく挙して、三復参究すべし。

詮慧 仏道

〇「釈迦牟尼仏道、如是相、如是性。しかあれば、開花葉落、これ如是性なり」という、「如是相」という如是は尽十方界相と云わんが如し。此の「開花葉落」は相とぞ云いぬべきを、をして性と云うは頗似強為詞。しかれども『法華経』に十如是を出だして、これを実相という義を、取り集め房ねて、実相と云うにはあらず、如是相実相也。残りの九如是漏れたるにあらず、如是性の時も又以て同じ。実相に勝劣差別あるべからざるに、開花の時も尽是法性也、実相也。葉落の時も尽是法性也、実相なり。

〇「愚人おもわくは、法性界には開花葉落あるべからず」という、是は世の常に人の所談の義也。法性は不改転の法にて開することなく、落することなかるべしと思う(は)、仏法に不通ものなり。水も流通すべからず、樹も栄枯なかるべしと学するは、外道なりと云いつる分なり。大方いまの法性の心地、所談之義、性は隠れて具足しぬるとは云わず、やがて著衣喫飯を性也と云わんとなり。

〇「しばらく他人に疑問すべからず、汝が疑著を道著に依模すべし」という、疑いを人に問うべからず。やがて法性界には開花葉落あるべからずという。「道著に依模すべし」、たとえば去れば法性界には、もとより開花葉落あるべからずと、やがておし返して云うべき心地を、道著に依模すべしという。清浄本然云、何忽生山河大地と云う問いに、やがて同じ詞にて答えしが如し。但如此云えば、又眼前に開落するものを、強為して開花せぬぞとは云うべからず。開花を共に法性の上に置きて仕うを、開花せぬとは云う也。世間出世、異なるゆえに。

経豪

  • 法華の十如是の相性等、『仏経』草子の時、事旧了。性は不改転の法也と心得て、今の開花葉落は相也と心得て、法性には開花葉落すべからずと思う(は)、是邪見也。ゆえに「開花葉落これ如是性也」とはある也。今「愚人の思わくは」とて、被挙之、如文。所詮「法界には開花葉落あるべからず」と云う詞を、「他人に疑問すべからず、汝が疑著を道著にひきうつして、他人の説著の如く挙して、再三参究すべし」と云う也。

 

さきより脱出あらん向来の思量、それ邪思量なるにあらず、たゞあきらめざるときの思量なり。あきらめんとき、この思量をして失せしむるにあらず。

詮慧

〇「思量・邪思量」、これを畢竟じて法性なりと体脱す。

経豪

  • 是は法性に開花葉落あるべからずと思う思量を、仏法の方より見れば「邪思量にあらず」。其の故は、性は身色耳聞の非可及と思いて、かかる上には開花葉落の姿、法性には不可有と嫌う方の見解こそ、「あきらめざるときの思量」なれども、法性の方よりも、此の開花葉落の姿こそ、やがて法性なれば、この時は、開花葉落にあらずと云う詞は、聊かも邪思量にあらざるなりと云わる開花葉落(は)、凡見の開花葉落にあらざれば、開花葉落にあらずとも云われ、法性所談の前には、開花葉落なければ開花葉落にあらずと云われんずる仏法に不可違ざる所を、如此被釈なり。この疑著がやがて道著なる道理なるべし。ゆえに「明らめんとき、この思量が背かぬ道理が、失せしむるにあらず」とは云わるるなり。能々可了見也。

 

開花葉落、おのれづから開花葉落なり。法性に開花葉落あるべからずと思量せらるゝ思量、これ法性なり。依模脱落しきたれる思量なり。

このゆゑに如法性の思量なり。思量法性の渾思量、かくのごとくの面目なり。

経豪

  • 「開花葉落不可有と思量する思量、法性なるべし」、法性ならぬ回避の余地なきゆえに。「依模」とは法性を引きうつすと云う心地なるべし。
  • 如文。渾法性とは全法性なり。

 

馬祖道の尽是法性、まことに八九成の道なりといへども、馬祖いまだ道取せざるところおほし。いはゆる一切法性不出法性といはず、一切法性尽是法性といはず、一切衆生不出衆生といはず、一切衆生法性之少分といはず、一切衆生一切衆生之少分といはず、一切法性是衆生之五分といはず、半箇衆生半箇法性といはず、無衆生是法性といはず、法性不是衆生といはず、法性脱出法性といはず、衆生脱落衆生といはず、たゞ衆生は法性三昧をいでずとのみきこゆ。法性は衆生三昧をいづべからずといはず、法性三昧の衆生三昧に出入する道著なし。いはんや法性の成仏きこえず、衆生証法性きこえず、法性証法性きこえず、無情不出法性の道なし。

詮慧

〇「馬祖道」、云わざる詞の事、次第に是(等)を挙げらる。如文。

〇「切衆生一切衆生之少分、一切法性是衆生之五分」、この詞はいづれも法性と、取り付するなり。「少分・五分」と云うも全分の心地なり。

経豪

  • 今「馬祖の道取せざるところ多し」とあれば、馬祖云い残したる道理のあるを、先師被仰出たるように聞こゆ。是は馬祖の詞に、「一切衆生、従無量劫来、不出法性三昧。長在法性三昧中、著衣喫飯、言談祗対。六根運用、一切施為、尽是法性」とある詞の中に、法性の道理のこる所あるべからず、ゆえに「八九成の道也」とは被讃嘆也。しかるを此の道理の響く所を、開山被加御詞也。此の理は馬祖の詞の内に、一法としても漏れたる義あるべからず。然而今の馬祖の詞になき所を、今先師被加御詞也。於理は、聊かも不可有不足事也。馬祖の詞の理の無残所道理が響きて、如此無尽に云わるる也。此の外も百千無量の詞あるべし。学者こころを付けて、教家には難談事歟。未成仏の時、性は具足すべし、妙覚果満の時は、性を具足すとは難云歟。

 

しばらく馬祖にとふべし、なにをよんでか衆生とする。もし法性をよんで衆生とせば、是什麼物恁麼来なり。もし衆生をよんで衆生とせば、説似一物即不中なり。速道々々。

経豪

  • 此の衆生法性なる上は、法性なるべきか、衆生なるべきか。ゆえに此の道理が「是什麼物恁麼来」とは云わるる也。「衆生をよんで衆生とせば」とは、必ず(しも)衆生許りにて(も)なし。此の衆生がやがて法性とも三昧とも陀羅尼とも、云われぬべき所が「説似一物即不中」とは云わるべきなり。

法性(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。