正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

道元禅師における「説心説性」の定義について     石 井 清 純

道元禅師における「説心説性」の定義について

石 井 清 純

 

 道元禅師(一二〇〇―一二五三)は、『正法眼蔵』「説心説性」巻において、「説心説性」という言葉の解釈を媒体に、大慧宗杲(一〇八九―一一六三)批判を展開している。しかし、その一方で、大慧の語録に示される「説心説性」解釈とよく似た説示の存在を指摘することもできる(1)。本論は、この「説心説性」という語に対する、道元禅師の評価の「ゆらぎ」の要因について論じることを目的としたものである。

 

一 道元禅師の見性批判

 

 「説心説性」は、「心と性を説くこと」の意である。「心」と「性」との関連は、馬祖道一(七〇九―七八八)の作用即性以降、一致するものと扱われつつ、その全同性については、禅宗内部においても繰り返し問題提起が行われてきたものであるが(2)、ここでは、「説心説性」の用例から、道元禅師においては、「心」と「性」とは、基本的に一体なるものとして扱われていたという解釈のもとに考察を進めることとしたい。かかる観点から、まず、その「心性」すなわち自己に内在する本質の把握を意味する「見性」という語に対する道元禅師の評価を見てみることにする。

 

①『正法眼蔵』「山水経」巻

転境転心は大聖の所呵なり、説心説性は仏祖の所不肯なり、見心見性は外道の活計なり、滞言滞句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に参究すべし。(鏡島元隆他監修『道元禅師全集』

〈以下『全集』〉春秋社、一九九〇―一九九三、巻一・三一九頁)

②『正法眼蔵』「仏教」巻

この正伝せる一心を、教外別伝といふ。三乗十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆえに、直指人心、見性成仏なり、といふ。この道取、いまだ仏法の家業にあらず、出身の活路なし、通身の威儀あらず。(『全集』巻一・三八二頁)

③『正法眼蔵』「四禅比丘」巻

西天二十八祖・七仏、いづれの処にか、仏法の、ただ見性のみなりとある。六祖壇経に、見性の言あり、かの書、これ偽書なり、附法蔵の書にあらず、曹渓の言句にあらず。仏祖の児孫、またく依用せざる書なり。(『全集』巻二・四二八頁)

④『永平広録』巻四・第三三四上堂

上堂。直指人心、天地懸隔。見性成仏、毫釐有差黄檗吐舌頭、未覆三千界。青原垂一足、踏翻大虚空。為甚恁麼。大衆、還要委悉遮箇道理也無。良久云、微笑破顔猶未休。(『全集』巻三・二一六頁)

 

 すでに明確化されているところであるが(3)、道元禅師は、この語について徹底的に批判し排斥している。

 ① の『正法眼蔵』「山水経」巻は、仁治元年(一二四〇)に興聖寺において示衆された巻であるが、傍線部のように「説心説性」と「見心見性」とが、ともに仏法に違背するものとして明確に退けられている。これは、言語による仏法表現の否定が意図されたものであるといえよう。そして仏法は、末尾波線部にあるように、言葉ではなく自然の変化運行によってのみ表現されるというのである。

 続く ② の「仏教」巻は、仁治二年(一二四一)に興聖寺において示衆されたものであるが、「直指人心、見性成仏」という、中国禅以来の伝統的な禅思想を特徴付ける言葉全体を、仏法に反するものとして強く退けている。

 ③ は、十二巻本『正法眼蔵』の一巻である。説示示衆年代は不明であるが、ほぼ、寛元四年(一二四六)以降の撰述示衆と推測される(4)。この一節は、内容に「見性」という言葉が存在していることにより、『六祖壇経』を偽書であると断言している。むろん極論に過ぎるが、かかる意識が、当時の道元禅師に存在していたことは、まず間違いない。

 

 このように、「見性」を嫌う姿勢は、④ の『永平広録』の上堂においても一貫している。ここでは、「見性成仏」は、「直指人心」とともに、仏法から遙かに隔たったものとしている。逆に、青原行思(?―七四〇)の業績を「破顏微笑が今も止まない」と業績を讃えていることは、法系の正当性を主張したものといえよう。この上堂は、建長元年(一二四九)の夏安居中に行われている。

 以上のように見てくると、「見性」に対する批判は、興聖寺時代から永平寺まで、道元禅師の教化活動全般に亘って行われていたものであることが分かる。

 その理由について、酒井得元「永平高祖の見性批判について」(『道元思想大系』思想編第一巻、同朋社出版、一九九五)では、見性体験は、有限な生活活動内の一ケースにすぎず、一大事因縁とはなりえないところを批判したものとされ、石井修道「『説心説性』『自証三昧』考」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第六七号、二〇〇九)は、本文の詳細な分析の上に、宋代の三教一致説へ傾斜した禅の弊風に対する警鐘と位置づけている。また、このような見性批判について、それが「心性」という固定的内在を意識させるものであり、それを徹底的に批判するものであるという捉え方(5)や、達磨宗から門下へ帰投した者たちへの、ことさらなる正法の開示の前提とするなど、思想的、教団的背景をもとに解釈されている。

 このように、「見性」批判と、その延長上にある「説心説性」の否定的用例を見たのであるが、じつに、『正法眼蔵』「説心説性」巻においては、これと正反対の態度が示されるのである。次にそれについて確認してゆきたい。

 

二 『正法眼蔵』「説心説性」巻について

 

 この巻は、洞山良价(八〇七―八六九)と神山僧密(生没年不詳)の間に交わされた、「説心説性」の問答(6)を冒頭に置き、そこから「説心説性」の意義について説き示されるものであるが、それは以下のように展開する。

 

(a)重要性の提起

説心説性は、仏道の大本なり、これより仏仏祖祖を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、転妙法輪することなし、発心・修行することなし、大地有情同時成道することなし、一切衆生無仏性することなし。拈花瞬目は、説心説性なり、破顔微笑は、説心説性なり、礼拝依位而立は、説心説性なり、祖師入梁は、説心説性なり、夜半伝衣は、説心説性なり。拈拄杖、これ説心説性なり、横払子、これ説心説性なり。(『全集』巻一・四四九―四五〇頁)

(b)「説」の読み替え

仏祖の、真実に仏祖なるは、はじめよりこの心性を聴取し、説取し、行取し、証取するなり。(中略)かくのごとくなるを、学仏祖の児孫といふ。しかのごとくにあらざれば、学道にあらず。(『全集』巻一・四五一頁)

(c)大慧批判

径山大慧禅師宗杲といふありていはく、いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。ただまさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき証契するなり。この道取いまだ仏祖の縑緗をしらず、仏祖の列辟をきかざるなり。(『全集』巻一・四五〇頁)

(d)二祖の説心説性について

二祖、しきりに説心説性するに、はじめは相契せず。やうやく積功累徳して、つひに初祖の道を得道しき。庸愚おもふらくは、二祖、はじめに説心説性せしときは証契せず、そのとが、説心説性するにあり、のちには説心説性をすてて証契せり、とおもへり。心如牆壁可以入道の道を参徹せざるによりて、かくのごとくいふなり。これ、ことに学道の区別にくらし。ゆえいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども百行に一当なし。しかあれども、或従知識・或従経巻して、やうやくあたることをうるなり。(『全集』巻一・四五二―四五三頁)

 

 この巻では、(a)において、「説心説性」が仏教の大本であると、この語の意義を托上する。その意味では、先に「見性」とともに全否定された「山水経」巻と正反対の扱いである。       続く(b)は、その理由が述べられた一節といえるが、ここでは、「説心説性」の「説く」という行為を、言語表現だけに留めず、行・証・保任・参学という、実践全体を代表したものとし、「心性」そのものの捉え方ではなく、それを表現し実践すべきことを示した語としてこれを評価している。ある意味では、言葉の転釈によって評価するという、仮字『正法眼蔵』の特徴的な解釈ということができるであろう。

 この読み替えの上に展開されるのが、(c)の大慧宗杲批判となる。それは、「説心説性」の価値を正当に評価していないことに対する批判となっており、その意味では、見性批判とは、その方向性を異にしているといえよう。

 では、ここに示される大慧の「説心説性」解釈は、正当なものであろうか。これについては、前出の石井修道「『説心説性』『自証三昧』考」において詳細に論じられているが、大慧の主張は、むしろこれらの具体的な方法論への批判というよりも、これらの思想的背景として存在する本来性の強調を批判し、看話による悟り体験の必要性を主張することにあった。その典型例として、石井修道氏は、四巻本『大慧普説』巻二の次の一節をあげている。

 

又有一種、商量古人公案、謂這箇下得甚麼語、那箇合如何代別、都不説悟門、教人静坐底、故是不説悟門、説心説性底也不説悟門、主張顧視底也不説悟門、撃石火閃電光底也不説悟門、商量古今公案底也不説悟門、却一時颺了悟門、要求速効、如斯等輩真可憐憫。兄弟家、既是己事未明、来就師家決択、須是以悟為則。(明続蔵五九・八五七a)

 このように、大慧は、「説心説性する者」を悟りを説かぬ者として批判し、「以悟為則(悟ることをきまりとする)」を主張する。この例では、大慧は、話頭による、理論的解釈を越えた証契を主張しているのであり、道元禅師の主張とは相容れないものであることが分かる。ただし、道元禅師の「説心説性」解釈が、この大慧が批判するような、無為無作の禅ではないことが、次の(d)に示されているといえよう。

 これは、二祖慧可が、説心説性によって仏法を理解できず、のちに得心できたとする因縁に対する拈提であるが、それは、説心説性を「捨てて」仏法を理解したのではなく、波線部のように、説心説性が、画一的な成果をもたらすものではなく、参師聞法を媒介として(つまり、よき「説心説性」に会って)達成されるという、状況による相違の存在することを明記しているのである。

 以上のように、『正法眼蔵』「説心説性」巻においては、末尾が「説心説性はこれ七仏祖師の要機なり」(『全集』巻一・四五六頁)と結ばれているように、仏法を表現し理解するに極めて重要なものであると位置づけている。しかし、そうなると、「山水経」巻の説示との相違は、どのように説明することができるのであろうか。それについては、この(d)に見られる「状況による相違」が大きな要素となると思われる。それに、『永平広録』における「説心説性」の扱いを加味し、さらに考察を続けたい。

 

三 『永平広録』における「説心説性」

 

 『永平広録』において「説心説性」の言葉を用いる説示は、以下の四例が挙げられるが、それらすべてが、統一された解釈を示しているとは言い難い。

 

① 巻一・第九六上堂

上堂云、仏法参学不得容易也。後漢永平名相纔聞、梁代普通祖師西来。自非祖師西来、余外未知法実帰。何況能知仏向上事。談玄説妙未是。説心説性未是若放玄妙無所住処、若遣心性無所繫処、是由但向声色裏求活計而已。既除玄妙心性、是時声色但無主也。為甚恁麼。良久云、麁心是失、細胆是得。(『全集』巻三・五六頁)

 

これは、興聖寺において行われた上堂であるが、傍線部にあるように、「説心説性」及び「談玄談妙」を、「未是」として退ける。その理由が破線部となるが、それは、内的絶対性としての「心性」・「玄妙」を論じることは、現実の諸事象に本質が現れていることを見失っているためであるとしている。この内在する真理の否定は、「見性」批判に通じるものであるが、その論調は、大慧の「説心説性否定」と極めて近い表現となっていることが指摘できる。

 

巻四・第二九二上

上堂。挙。南泉示衆曰、江西和尚道、即心即仏。又道、非心非仏。我不恁麼道。不是心、不是仏、不是物。又道、心不是仏、智不是道。又道、平常心是道。師云、二員老漢既恁麼道、永平長老又不恁麼道。吾且問于・江西・南泉。這裏是什麼処在、説心説道、説物説仏、説非仏説非心。須知、一片全無両箇、十方独露山川知覚、不是道仏性亦因縁。為甚如此。還来喫飯銭。畢竟如何。良久云、胡蘆藤種胡蘆纏。(『全集』巻三・一九二頁)

 

 この上堂は、宝治二年(一二四八)冬に行われた上堂で(7)あるが、傍線部において「心」、「物」、「仏」を説き、かつ否定するという、馬祖の南泉の一連の語をまとめたうえで、それを現象世界における師資関係へと帰着させている。これは、冒頭の見性批判における内在的恒常的存在として「心」を捉えつつ、その価値転換を図ったものであり、『正法眼蔵』「説心説性」巻と類似した傾向を見ることができる。

 続く二例の法語は、対照的な解釈を示している。

 

巻八・第五法語〈与野助光〉

此外、古人入道之因縁、古徳証契之公案、何物彼乎。昔俱胝一指・禾山打鼓・臨済喝・徳山棒、豈存許多之伎倆。唯是一道之証契而已。著眼於棒、拊手於喝、而不取余、而不看余。自然風行草偃、看風使帆、豈有窮極耶。若得新条特地、自無拘滞肯心。非人疆為、乃道云為也。又法悦之中、自有放曠。壁立之処、能有逍遙。正知道非仮、直了悟是重此時、使得拄杖兮、打散説玄説妙、渾無迷蹤。拈得竹箆兮、打砕説性説心、那存旧轍乎。挙一茎草作丈六金身、放光説法本無虧闕。用丈六金身作一茎草、布護開華未有速遅。豈得非大作仏事、遊戯三昧耶。(『全集』巻四・一五〇頁)

 

 この法語は、俗弟子の野助光に与えられたものである。この人物は、「儒林之学士」(『全集』巻四・一四八頁)であり、禅に興味を持って定期的に道元禅師に教えを請いにやってきていたことが、この法語の内容から知られている。そして、特徴的なことに、「請益古則」とあって、参禅の課題として、道元禅師が考案を与えていた。これは、伊藤秀憲「『正法眼蔵随聞記』より見た語録公案と只管打坐」(『懐譲禅師研究』祖山傘松会、一九八一)において、道元禅師が、公案坐禅には持ち込ませなかったものの、初学者に対しては、自己の仏法を理解させるための課題として与えていたことの例示とされている。また、拙稿「『永平広録』巻八所収の法語について」(『曹洞宗宗学研究所紀要』第二号、一九八九)は、それを受け、恒常的に修行することのできない不定期の参禅者に対し、公案を与えていたものと結論づけた。

 ここでは、このように在家居士に与える禅に参じる基礎的課題の一つとして、「説心説性」が示されながら、さらにそれを乗り越える努力が要求される内容となっている。つまり、「説心説性」は、理解すべき対象ではあるものの、それはけっして到達点ではなく、さらに打破し向上すべき概念として示されていることになる。これは、先の「説心説性」巻における「状況の相違」による解釈の展開に、段階性を加味した表現とみることもできる。そしてそれが、次の第十五法語の「説心説性」の否定へとつながるものといえよう。

 

④ 巻八・第一五法語

彼俱胝一指、黄檗三頓、百丈払、臨済喝、洞山麻三斤、雲門乾屎橛、未拘生仏之階梯、已超迷悟之辺際者也。何比待証悟於他者、認影終非吾、存知見於体者、逐塊未為人者乎。誠夫、仏祖単伝之旨、言外領略之宗者、不在先哲公案之処、古徳証入之処、不在語句論量之処、問答往来之処、不在知見解会之処、思量念度之処不在談玄談妙之処、説心説性之処。唯放這柄、不留瞥地、当処団欒、故能満眼矣。脳後豁開真密路、面前不識好知音。大師釈尊正法眼蔵、西天東地分附来多時也。界畔不識在。

 

 同じ法語であっても、この第十五法語は、「説心説性」に対し、正反対の評価を下している。すなわち破線部のように、仏法は先哲の言葉や古徳の悟った機縁の言葉で理解できないとし、その一例として、「談玄談妙、説心説性」を置く。これは、悟り体験を表現する言葉を画一的固定的に托上してしまうことを抑下する意味合いを持ったものといえよう。

 以上のように、『正法眼蔵』、『永平広録』の上堂、法語のそれぞれにおいて、「説心説性」の肯定否定両者の解釈が存在しているが、この法語の二例を見る限りにおいて、それは、基礎理解とその発展段階という、状況の相違に起因している可能性を指摘することができる。

 かかる状況の出現する理由については、まずは、先に指摘した対機の問題があげられよう。しかしそれに加え、説示内容の相違にもその理由を見出すことが可能である。

 すなわち、『正法眼蔵』「説心説性」巻において指摘した、「説」を実践全体に普遍化することにより、この言葉自体を「仏法の実践」を示すものとして肯定的に捉える一方で、見性批判の延長において、「心性」という固定的実態を想定されかねない方向性については、これを否定してゆくという流れである。これは、言葉に対してではないが、特定の祖師の評価について、同じ巻において同じ祖師に対する否定と肯定が交錯する例について、伊藤秀憲「『正法眼蔵』における祖師評価」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第三七号、一九七九)によって考察され、行と法、という示したい内容の相違によって是非の評価が変わっていることが検証されている。この祖師に対する評価を、「説心説性」という言葉の扱いに当てはめて考えることが可能ではないかと思われるのである。

 さて、このような、重層的な解釈の可能性を指摘したところで、これを、中国宋代禅との関連の上で位置づける意味から最後に『碧巌録』における用例と比較してみることにする。

 

むすびにかえて―『碧巌録』と道元禅師―

 

 『碧巌録』の「説心説性」の用例は、六例が数えられる(8)が、ここでは、そのうち三例について考察する。

 

  • 第八則「翠厳眉毛」本則評唱

翠巌至夏末、却恁麼示衆。然而不妨孤峻、不妨驚天動地。且道、教、五千四十八巻、不免説心説性、説頓説漸。還有這箇消息麼。(大正蔵四八・一四八中)

 

 これは、翠巌可真(?―一〇六四)の安居中の説法について、夏末に自らの感想を述べるものであるが、その説法を「心性」「頓漸」を説いたものと規定しつつ、「這箇消息」の存在について問題提起しつつ、その限界を指摘している。その点では、全面的な評価とは言い難い用例といえる。

 

  • 第九則「趙州四門」本則評唱

有般底人道、本来無一星事。但只遇茶喫茶、遇飯喫飯。此是大妄語。謂之未得謂得、未証謂証。元来不曽参得透。見人説心説性説玄説妙、便道只是狂言。本来無事、可謂一盲引衆盲。(大正蔵四八・一四九中)

 

 ここでは、心性・玄妙を説く者を批判し、本来無事を主張することを、「一盲引衆盲」と否定する。その意味では、「説心説性」に一定の評価を与えたものといえる。

 

  • 第四九則「趙州七斤布衫」本則評唱

上載者、与爾説心説性、説玄説妙。種種方便、若是下載、更無許〈多義理玄妙。有底擔一擔禅。到趙州処、一点也使不著。(大正蔵四八・一八二上

 

 ここでは、「上載」という種々の方便のひとつとして「説心説性」が位置づけられている。全面的依拠ではないものの、その必要性については評価していると考えてよかろう。

 以上の用例を含む『碧巌録』全体の性格付けについては、すでに小川隆『語録の思想史』(岩波書店、二〇一一)第二章「『碧巌録』と宋代の禅」において詳細に論じられている。そこでは、この傾向などから、この書を、「それ(『碧巌録』)は、唐代禅の問答を宋代禅的思考の表現へと読みかえていった書物であり、と同時に、北宋期の「文字禅」を集大成しつつ、それの「看話禅」への転化の道を開いた書物でもあった」(三三八頁、括弧内は引用者)と位置づけている。また、かかる解釈の上に、宋代の公案禅に、「文字禅」と「看話禅」との段階的分類を設けたうえで、道元が反対していたのは「看話禅」であって、「公案禅」ではなく、仮字『正法眼蔵』は、「看話禅」に反対しながら、和文による「文字禅」を展開したものと観るべきことを提言されている。

 いま、「説心説性」の扱いを、著述全般にわたって考察し、それが、冒頭に見た「見性」と連動した常住なる「心性」への批判として退けられるだけのものではなく、初学者への導入のための依用、そして「説くこと」を実践全般へ読みかえることによる積極的肯定という、段階的依用の様相が見えてくることに鑑みれば、「道元禅」を「文字禅」からの展開として位置づける、この小川氏の解釈に基づいて、この語に対する解釈の「ゆらぎ」を位置づけることが、最も妥当ではないであろうか。

 道元禅師は、あくまでも宋代の禅の継承を意識していたが、思想的把握の方法としては、宋代禅の方法論を継承しつつ、その内面化を拒みながら純粋体験の追求へと展開した。この流れが、この「説心説性」の語の解釈からも明確に跡づけられるのではないであろうか。そして、その主張の否定媒体として、ことさらに取り上げられたのが、同じ「文字禅」から別の向へと展開した大慧の「看話禅」だったとすることも可能ではないかと思われるのである。

 近年、中国禅思想史の分野における機縁の語及びその注釈の研究の進展により、その転換の内容と傾向が明確化されてきた。特に北宋から南宋の流れは、まさしく道元禅師が中国において直接体験したものであるという点で、新たな成果を踏まえつつ、その関連性を検証し直さなければならないといえよう。

 

1石井修道『道元禅の成立史的研究』(大蔵出版、一九九一)第四章「道元の宋代禅批判」三二一頁。

小川隆『語録の思想史』(岩波書店、二〇一一)第一章「『祖堂集』と唐代の禅」参照。

3石井修道前掲書および酒井得元「永平高祖の見性批判について」(『道元思想大系』思想編第一巻、同朋社出版、一九九五。初出『駒澤大学仏教学部研究紀要』第三三号、一九六四)ほか。

4拙稿「十二巻本『正法眼蔵』本文の成立時期について」(『駒澤大学仏教学部論集』第二二号、一九九一)。

5袴谷憲昭「差別事象を生み出した思想的背景に関する私見」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第四四号、一九八六)。

6真字『正法眼蔵』(上巻第六二則)により本文を記す。

潭州神山僧密禅師〈嗣雲岩〉与洞山行次、山指傍院曰、裏面有人、説心説性。師曰、是誰。洞山曰、被師伯一問、直得去死十分。師曰、説心説性底誰。洞山曰、死中得活。(『全集』巻五・一五八―一六〇頁)

7同年十月一日に行われた第二八八開爐上堂と、十一月二十九日に行われた第二九六冬至上堂の間に位置していることによる。年月日の考証については伊藤秀憲「『永平広録』説示年代考」(『駒澤大学仏教学部論集』第一一号、一九八〇)を参照。

8引用の検索には、大正新脩大蔵経テキストデータベース(SAT)の検索機能を用いた。

〈参考文献〉

石井修道『道元禅の成立史的研究』大蔵出版、一九九一

石井修道「『説心説性』『自証三昧』考」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第六七号、二〇〇九

小川隆『語録の思想史』岩波書店、二〇一一小川隆『禅思想史講義』春秋社、二〇一五

酒井得元「永平高祖の見性批判について」『道元思想大系』思想編第一巻、同朋社出版、一九九五(初出『駒澤大学仏教学部研究紀要』第二二号、一九六四)

伊藤秀憲「『正法眼蔵随聞記』より見た語録公案と只管打坐」『懐譲禅師研究』祖山傘松会、一九八一

伊藤秀憲「『正法眼蔵』における祖師評価」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第三七号、一九七九

石井清純「十二巻本『正法眼蔵』本文の成立時期について」『駒澤大学仏教学部論集』第二二号、一九九一

石井清純「『永平広録』巻八所収の法語について」『曹洞宗宗学研究所紀要』第二号、一九八九

(本稿は平成二十八年度科学研究費補助金(基盤研究S)「仏教学新知識基盤の構築」(代表・下田正弘)の研究成果の一部である)

〈キーワード〉〈説心説性、道元、大慧宗杲、『正法眼蔵』、『永平広録』、『碧巌録』

駒澤大学教授)

 

 

これは『印度學佛敎學硏究』第六十五巻第二号 平成二十九年三月

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂を加えた。

 

(2022年10月12日 タイ国にて 記)