正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵』仏性巻における心について 米 野 大 雄

正法眼蔵』仏性巻における心について

―特に発心について―

米 野 大 雄

 

一 問題の所在

 

  道元(一二〇〇~一二五三)は質多心・汗栗多心・矣栗多心の三心説を採用(1)したことが知られている。その中でも特に質多心に関して、慮知心・慮知念覚心という語を用いた道元の心に関する説示が散見する。榑林皓堂氏に「道元禅師における心は、例外なく、いつも真心であることは注意さるべきである。(2)」という論があり、それを承けて角田泰隆氏(3)は真心のみを道元が想定する心であると論ずる。これに対して岩永正晴氏(4)は疑義を呈している。小稿では、先行研究を依用し、道元の論ずるところの心に凡夫の慮知念覚心も含むことを示す。七十五巻本『正法眼蔵』自体が道元の悟証の立場から説かれたとされることからも、凡夫の慮知心についての記述を見つけることは難しい。しかし、その第三巻目にあたる「仏性」巻では、衆生と仏性の関係に言及するとともに、心に関する記述も見える。そこで、「仏性」巻の心に関する記述を軸として考察する。また、真心を真発心と仮定して、真の発心の定義について検討し、発心と真発心の差異について論及する。発心と真心の関係を表す「即心是仏」巻の記述がある。

 

いはゆる即心の話をききて、痴人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。……いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは、即心是仏にあらず。(七巻本『道元禅師全集』一九八八~一九九一、〈以下道全〉一・五三頁~五八頁)

 この記述は、即心是仏たる心の要件として発心を要請している。角田氏は右記以外にも様々な記述を挙げ、道元における心は真心であるとする。

 

二 「仏性」巻における心について

 

 先行研究として石井清純氏は仏性・古仏心は全体的属性であり、無情・衆生・古仏は個々の具体的事象における具体的(部分的)表詮であり、仏性の内在性を否定している(5)と定義する。その論拠は、「仏性」巻にみえる次の主張である。

 

いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆえに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆえに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土、これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆえに衆生なり、衆生なるがゆえに有仏性なり。……一切衆生即仏性といはず、一切衆生有仏性といふと参学すべし。   (道全一・三三頁) 

 

右記より、心=衆生であることが分かる。また、無情である草木国土、日月星辰も心とされ、心であるから衆生であると示されていることから、凡夫の衆生も含めて心ということ

が示唆される(6)。また、一切衆生即仏性ではなく、一切衆生有仏性ということに注意が払われている。衆生、つまり心と仏性は同等とはいえない。また、「仏性」巻では凡夫の見解に約した悉有と仏性に関する論が展開される。

 

たとえかくのごとく見解すとも、種子および花果、ともに条条の赤心なりと参究すべし。果裏に種子あり、種子みえざれども根茎等を生ず。あつめざれどもそこばくの枝条大囲となれる、内外の論にあらず、古今の時に不空なり。しかあれば、たとひ凡夫の見解に一任すとも、根茎枝葉、みな同生し同死し、同悉有なる仏性なるべし。            (道全一・一六頁~一七頁)

 

 ここで、発心の有無は仏性の条件とはならないといえる。 

以上より、「仏性」巻において心が凡夫の慮知心も含むことが窺えるが、七十五巻本では、「仏性」巻以外で、凡夫の慮知心についての言及が「身心学道」巻を除いては見られない理由は何か。また、発心を真心とすることの妥当性について考察を進める。

 

三 発心について

 

 七十五巻本『正法眼蔵』において、「仏性」巻に次いで配置される「身心学道」巻には発心と真発心についての記述がみえる。

 

心をもて学するとは、あらゆる諸心をもて学するなり。その諸心といふは、質多心・汗栗駄心・矣栗駄心等なり。又、感応道交して、菩提心をおこしてのち、仏祖の大道に帰依し、発菩提心の行李を習学するなり。たとひいまだ真実の菩提心おこらずといふとも、さきに菩提心をおこせりし仏祖の法をならふべし。(道全一・四五頁) 

 

すなわち、真実の菩提心を発さないことが想定されている。その場合は仏祖の発菩提心の行履を学習・実践しなければならない。真心が真実の菩提心であるとするならば、凡夫の慮知心をもって真心を発させるために『正法眼蔵』を通して心を説いていると考えられる。現にこれ以降、七十五巻本では凡夫の慮知心を肯定的に捉える記述は存在しない。道元は凡夫の慮知心を認めないのではなく、仏祖の発菩提心の行履を説くために、凡夫の慮知心への言及がみられないと考えられる。また、十二巻本「発菩提心」巻でも、慮知心と発心についての関係が説かれる。

 

この慮知心にあらざれば、菩提心をおこすことあたはず。この慮知を、即菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて、菩提心をおこすなり。菩提心をおこす、といふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさん、と発願し、いとなむなり。(道全二・三三二頁) 

 

ここでは、慮知心によってのみ発心することが可能であることが明記される。発心をしていない限りは慮知心を伴う「即」ではなく「もて」とあるのは、前掲の「即心是仏」巻と同様に安易な「即」を戒め、済度一切衆生の営みを要求するためである。つまり、発願のみではなく、「身心学道」巻でも説かれるように、仏祖の行履に倣うような営為(7)が必要である。更に、次の『永平広録』巻五をみると、道元の発心についての意識が明瞭となる。

 

上堂。無上菩提者、非為自、非為他、非為名、非為利。然而一向専求無上菩提精進不退、是名発菩提心。既得此心現前、尚不為菩提而求菩提、此是真実菩提心也。如無此心、豈為学道。当山兄弟、一向専求菩提心而不応懈廃。如未得菩提心者、須祈願先代仏仏祖祖。又須以所修之善業、廻向菩提心而願求也。       (道全三・二四〇頁) 

 

右記によると、発菩提心とは、自他名利に拘わらず、無上菩提を求め精進して不退であることであり、真実の菩提心、すなわち真心とは、菩提心を得たうえで、菩提の為と量らず、精進不退であることと定義される。加えて、真の菩提心を得られない場合、雲水は真の菩提心を求め、懈廃があってはならないが、仏祖に祈願し、善業を菩提心に廻向することを求めている。つまり、菩提心をおこしてから、真実の菩提心をおこすといった段階的な発心を想定している。また、『永平広録』巻八では、初学から晩学まで共通する心構えが説かれている。

 

謂先代仏祖、皆是道心士也。若無道心、万行虚設也。然則参学雲水、先須発菩提心也。発菩提心者、乃度衆生心也。先須有道心。次須具慕古。後須求実。此是三種、即初心晩学之所学也。  (道全四・一三四頁)

 

 要するに、雲水はまず、衆生を度す心としての菩提心を起こさなければならず、菩提の為とは量らない道心(=菩提心)・慕古心・真実を求める心が初心から晩学まで共通して学ぶ所であると示す。これらの、『永平広録』の記述は、『正法眼蔵』とも重なるところがある(8)。従って、道元が発心に種々の要件を求めていることが分かる。 

 

四 結語

 

 道元の論ずるところの心は、「仏性」巻では、凡夫の心が論じられている。また「仏性」巻以降では、仏祖の行履としての心を説く必要性から、凡夫の心への言及が見られないことが推察できる。更に、発心についてみていくと、道元の中で、単なる発心と真実の発心は別に論じられているようにみえる。そして、真の発心でなくてもまずは発心することが要請されている。ここでは、発心であれば即、真の発心とはならないことが注意される。また、真の発心の要件として、度衆生菩提心の他、仏祖の行履に対する慕古心・真実を求める心や仏祖の行履に倣うこと、その営為において無上菩提の為であるといった心づもりをなくすことが挙げられる。「即心是仏」巻で説かれる行持道環における発心のように、仏祖の行持に適う実践が真実の発心として求められる。

 発心は初心や信の議論とも重なるところがあり、発心の他に、初心や信と悟りとの関係を明瞭にすることが今後の課題となる。

 

1 大久保(二〇〇四)によると、二心・三心説を解説する主要な典籍として『摩訶止観』と『大日経義釈』が挙げられ、そこに説かれる教義には差異が存する(六一頁)。一般的に『正法眼蔵』においては、『摩訶止観』の説を踏襲したとされる。  2 榑林(一九六三)参照。  3 角田(二〇一四)参照。  4 岩永(一九九三)参照。  5 石井(二〇一九)参照。  6 石井(二〇〇六)参照。  7 粟谷(一九九七)は十二巻本『発菩提心』巻に発心より後の修行が示されていることから、発心を自らの成仏と切り離していると主張する。  8 例えば「渓声山色」巻の記述(道全一・二七九~二八〇頁)が挙げられる。

 

〈参考文献〉

 

粟谷良道「『正法眼蔵』における発心について」『印度学仏教学研究』第四五巻第二号、一九九七

石井清純「『正法眼蔵』「仏性」巻における「仏性」の意味」『印度学仏教学研究』第五四巻第二号、二〇〇六

石井清純「大悟・仏性・古仏心――正法眼蔵における本質的存在と自己の位置関係について――」『国際禅研究』第四号、二〇一九

岩永正晴「『正法眼蔵』「仏性」巻における〝衆生〟の語について」『駒澤大学仏教学部論集』第二四号、一九九三

大久保良峻『台密教学の研究』法蔵館、二〇〇四榑林皓堂『道元禅の研究』禅学研究会、一九六三

角田泰隆「道元禅師の思想的研究」愛知学院大学博士論文、二〇一四

 

〈キーワード〉 道元、仏性、慮知心、発心

早稲田大学大学院)

 

これは『印度學佛敎學硏究』第七十巻第一号 令和三年十二月からの

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂した。

 

(2022年タイ国にて)