正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『説心説性』『自証三昧』考      石  井  修  道

『説心説性』『自証三昧』考

石  井  修 

一  は  じ  め 

  大慧宗杲(一〇八八―一一六三)を批判した道元の著作に『説心説性』と『自証三昧』の二巻があることはよく知られている。その説示は共に吉峰寺であり、年次の記載に寛元元年と寛元二年の一年の差があるが、恐らく両書成立は半年の差と思われ、それぞれの奥書は次のようになっている。

   『説心説性』

   爾時寛元元年癸卯、在于日本国越州吉田県吉峰寺示衆

   『自証三昧』

   爾時寛元二年甲辰二月二十九日、在于越宇吉峰精舎示衆

  七十五巻本『正法眼蔵』では、四十二と六十九の配列で、両書が本論で検討するように、大慧宗杲批判の内容であるが故に、共に二十八巻本に編集されている。秋田県宗務所・禅センター主催の祖録に親しむの講義において、二〇〇五年五月三十日に『自証三昧』を、二〇〇八年六月二十六・二十七日に『説心説性』を読み終えたので、ここに道元の大慧宗杲批判の問題を中心に両書の試訳を付して検討したものが本論である。

  大慧宗杲については、私は多くを論じてきたし(1)、伝についてはその基本になる『大慧年譜』についても、補正の必要性は認めるが、「大慧普覚禅師年譜の研究(上)(中)(下)」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第三七号・第三八号・第四〇号、一九七九年三月~一九八二年三月)で発表している。ここでは道元の大慧伝の論を進めるに当たってまず簡単な略年譜を取りあえず掲げておこう。

  大慧宗杲略年譜

元祐三年 (一〇八八)  真歇清了、四川省綿陽県に生まれる。(一歳)

元祐四年 (一〇八九) 大慧宗杲、安徽省寧国県に生まれる。(一歳)

元祐六年 (一〇九一)  宏智正覚、山西省隰州に生まれる。(一歳)

大観元年 (一一〇七) 大慧、湖北省郢州大陽山にて曹洞宗の教義を学ぶ。(一九歳)

大観三年 (一一〇九) 大慧、江西省隆興府泐潭宝峰寺にて湛堂文準に参ず。(二一歳)

政和五年 (一一一五) 七月二二日、湛堂文準示寂す。(五五歳)

宣和七年 (一一二五) 大慧、東京の天寧万寿寺の圜悟の下で大悟す。(三七歳)

建炎二年 (一一二八) 大慧、江西省南康軍雲居真如院に圜悟を尋ねる。(四〇歳)

建炎四年 (一一三〇)  真歇清了、福州雪峰山崇聖寺に住す。(四三歳)

紹興四年 (一一三四) 大慧、江西省より福州へ行き、黙照邪禅の攻撃を開始し、看話禅を大成する。(四六歳)

紹興七年 (一一三七) 大慧、浙江省臨安府径山能仁寺に住す。(四九歳)

紹興一一年 (一一四一) 大慧、張九成と交り「、神臂弓事件」により秦桧の怒りをかい湖南省衡州へ流罪となる。(五三歳)

紹興二〇年 (一一五〇) 大慧、流罪地を衡州から広東省梅州へ移される。(六二歳)

紹興二五年 (一一五五) 一〇月二二日、秦桧没す。(六六歳)

紹興二六年 (一一五六) 大慧、罪を許されて復僧し、宏智正覚の薦めで浙江省慶元府阿育王山広利寺に住す。(六八歳)

紹興二七年 (一一五七) 一〇月八日、宏智正覚示寂し、大慧宗杲が喪礼を司る。

紹興二八年 (一一五八) 大慧、径山に再住す。(七〇歳)

紹興二九年 (一一五九) 大慧、即位前の孝宗より使者の黄彦節を遣わされ、般若を挙揚させられる。

紹興三二年 (一一六二) 大慧、孝宗より大慧禅師の号を賜る。(七四歳)

隆興元年 (一一六三) 八月一〇日、大慧示寂す。諡を普覚と賜り、塔を宝光と名づけられる。(七五歳)

乾道八年 (一一七二) 『大慧禅師語録』三〇巻の入蔵を許される。 

この略年譜は分かりやすいように作成したものであるが、『自証三昧』には道元がまとめた大慧伝が存在し、その基づく資料は次の(イ)『大慧普覚禅師宗門武庫』〈比較の都合上、一部問答を五段に分けて○内に数を入れる〉と(ロ)「大慧普覚禅師塔銘」の合糅である。

(イ)   『大慧普覚禅師宗門武庫』

  宣州明寂珵禅師、遍見前輩尊宿、如瑯溪・雪竇・天衣、皆承事請法。出世嗣興教坦和尚。坦嗣瑯溪。後遷太平州瑞竹、退居西堂。師初遊方従之、請益雪竇拈古頌古。珵令看因縁。皆要自見自説不仮其言語。師洞達先聖之微旨。程嘗称於衆曰、「杲必再来人也」。復遊郢州大陽、見元首座・洞山微和尚・堅首座。微在芙蓉会中首衆。堅為侍者十余年。師周旋三公座下甚久、尽得曹洞宗旨。受授之際皆臂香、以表不妄付授。師自惟曰、「禅有伝授、豈仏祖自証自悟之法」。棄之。

  ①依湛堂。一日湛堂問曰、「爾鼻孔因什麼今日無半辺」。対曰、「宝峰門下」。湛堂曰、「杜撰禅和」。②又一日、於粧十王処。問曰、「此官人姓什麼」。対曰、「姓梁」。湛堂以手自摸頭曰、「争奈姓梁底少箇幞頭」。対曰、「雖無幞頭、鼻孔髣髴」。湛堂曰、「杜撰禅和」。③又看経次、問曰、「看什麼経」。対曰、「金剛経」。曰、「是法平等無有高下。為什麼雲居山高、宝峰山低」。対曰、「是法平等無有高下」。堂曰、「爾做得箇座主」、使下。④一日問曰、「杲上座、我這裏禅、爾一時理会得。教爾説也説得、教爾做拈古頌古小参普説、爾也做得。祇是有一件事未在。爾還知麼」。対曰、「甚麼事」。湛堂曰、「爾祇欠這一解在。繁。若爾不得這一解、我方丈与爾説時便有禅、纔出方丈便無了。惺惺思量時便有禅、纔睡著便無了。若如此、如何敵得生死」。対曰、「正是某疑処」。⑤後湛堂疾亟。問曰、「和尚若不起此疾、教某依附誰、可以了此大事」。曰、「有箇勤巴子、我亦不識他。爾若見之、必能成就此事。若見他了不得、便修行去。

後世出来参禅」。〈『自証三昧』は②③の順序が入れ替わっている〉(大正巻四七―九五三ab)

(ロ)   『大慧語録』巻六「大慧普覚禅師塔銘」

  見勤于天寧。一日勤陞堂。師豁然神悟、以語勤。勤曰、「未也。子雖有得矣、而大法故未明」。又一日、勤挙演和尚有句無句語。師言下得大安楽法。勤拊掌曰、「始知吾不汝欺耶」。(大正巻四七―八三六c)

  大慧には『大慧年譜』が存在することを前述したが、現存のものは修訂されたことが知られている。それ故に道元の参照したものは、杜撰な『大慧年譜』ではなかったかといわれたことがある(2)。しかし、その説の妥当性はほとんど無く、道元が合糅によって引用資料を作成することは、別にも見られることであって(3)、比較検討の結果から『自証三昧』は『宗門武庫』と「塔銘」を合糅して引用したものと断定してよいのである。この引用を巡って最大の問題は、道元が大慧を批判するのに都合のよいように圜悟の語を改変した文が存在することである。

 (ロ)の引用箇所は、後の私の『自証三昧』の分類では十六段に相当するが、次のようになっている。

  宗杲因湛堂之嘱、而湛堂順寂後、参圜悟禅師於京師之天寧。圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。悟曰、「未也、子雖如是、而大法故未明」。又一日圜悟上堂、挙五祖演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安楽法。又呈解圜悟。

圜悟笑曰、「吾不欺汝耶」。

  圜悟が大慧に言った 後の文は、「始知吾不汝欺耶」となっていた。道元は「吾不欺汝耶」とし、「始知」を外した上で、「汝欺」を「欺汝」の語順とした。後に紹介する『大慧語録』の「如今方知道、我不謾爾」や『普燈録』の「始知吾不汝欺」から見て、「始知」を外したことは大いに問題である。外した上で両文は同じ意味となるであろうか。原典は大安楽法を得た大慧に、圜悟が手を打って喜び、「わたしが君を欺いてはいなかったことがやっと判った」と言って大慧を認めているのである。道元はその意味を大慧が大安楽の法を圜悟に差し出したのを、圜悟は皮肉か、冷ややかな笑いにして、「わたしは君を欺かないでいれようか(わたしは君に本当に言うとでも思っているのか)」の反語にしてしまったのである。

  それを承けて、道元は十七段を次のように続けるのである。

    これ宗杲禅師、のちに圜悟に参ずる因縁なり。圜悟の会にして書記に充す。しかあれども、前後いまだあらたなる得処みえず。みづから普説陞堂のときも得処を挙せず。しるべし、記録者は「神悟」せるといひ、「得大安楽法」と記せりといへども、させることなきなり。おもくおもふことなかれ、たゞ参学の生なり。

ところで大慧伝はここに記すような状況なのであろうか。大慧の大悟の機縁は、道元が確実に読んだ『大慧語録』巻一七にも次のようにある。

   後来在京師天寧、見老和尚陞堂。「挙。僧問雲門、『如何是諸仏出身処』。門曰、『東山水上行』。若是天寧即不然、如何是諸仏出身処。薫風自南来、殿閣生微涼」。向這裏忽然前後際断。譬如一綟乱絲将刀一截截断相似。当時通身汗出。

〈圜悟の語は唐の柳公権の詩〉 

一般に言われる大慧の大悟経験である。もちろん『大慧年譜』にも引用されてはいるが、道元が『大慧年譜』をみたかどうかは不明である。これが伝記上において完全な大悟と認められなかったのであるが、先につづいて次のように述べている。ここで老漢とは大慧を指す。

  一日因問老和尚、「見説、和尚当時在五祖、曾問這箇話。不知五祖和尚如何答」。和尚不肯説。老漢曰、「和尚当時不可独自問、須対大衆前問。如今説又何妨」。老和尚乃曰、「我問、『有句無句如藤倚樹時如何』。祖曰、『描也描不成、画也画不就』。又問、『忽遇樹倒藤枯時如何』。祖曰、『相随来也』」。老漢纔聞挙、便理会得。乃曰、「某会也」。老和尚曰、「只恐爾透公案未得」。老漢曰、「請和尚挙」。老和尚遂連挙一絡索袋訛公案、被我三転両転截断。如箇太平無事時得路便行更無滞礙。老和尚曰、「如今方知道、我不謾爾」。(大正巻四七―八八三ab)

  ここでも圜悟が大慧を認めたことが知られるのである。もし『大慧語録』巻一七が見落とされたとしても、道元が確実に読んだ『嘉泰普燈録』(4)巻一五の大慧宗杲章は次のようになっているのである。

  師至天寧、値悟陞堂。「挙。僧問雲門、『如何是諸仏出身処』。門曰、『東山水上行』。若是天寧即不然。如何是諸仏出身処。熏風自南来、殿閣生微涼」。師聞豁然神悟。踰月、悟謂曰、「也不易你到這田地。只是可惜你死了不能活。又却不疑言句是為大病。不見道、『懸崖撒手、自肯承当、絶後再門、欺君不得』。須信有這箇道理」。延為択木堂侍者。日同士大夫入室至数次〈択木乃朝士止息処〉。悟毎挙有句無句如藤倚樹問之。師擬対。悟曰、「不是」。経半載、問曰、「聞和尚当時在五祖曾問這話。不知五祖如何答」。悟俛首。師曰、「和尚当時対人天大衆問之。如今説亦何妨」。悟不得已謂曰、「我問、『有句無句如藤倚樹時如何』。祖曰、『描也描不成、画也画不就』。『忽遇樹倒藤枯時如何』。祖曰、『相随来也』」。師於言下去尽知見。悟曰、「始知吾不汝欺」。遂命掌翰墨、著臨済正宗記付之。未幾、令分座。(続蔵巻一三七―一一三右上下)

  このように大慧の大悟は知られていたはずである。今日では『臨済正宗記』(『禅門諸祖師偈頌』巻二所収)の奥書まで知ることができる。

  宗杲首座、生平游叢席、徧見大有道之士十余年、軒昂騰踏、不可羈縻。曾於渚宮、与無尽公投契。公雅重其器度、毎祝之、応須見仏果。宣和中、会被旨、領天寧。渠即先一日入堂已、而造室中、発語果異常。因関無党後話及、乃知其為曇晦。経夏撃揚、縁升座挙諸仏出身処、薫風自南来、即大瞥地。自爾命之於方丈側。晨夕与煅煉、以白雲老師昔示有句、渠尽伎倆、百種開展、悉与列下。幾乎以為心行移換、初無実地。因至誠語之。昔仏鑑与予正起如是謗。但更絶意探賾、当不較多、後来驀然猛省、尽脱去機籌、知見玄妙。因謂渠云、「正好参禅也」。即踊躍向前従頭一加箴錐、始浩然大徹。予不喜得人、但喜此正法眼蔵有覰得透徹底、可以起臨済正宗。遂於稠衆指出、令分座訓徒。久之会都下擾攘、相与謀出汴、臨分書此、以作別。間年余、乃自平江虎丘、得得上欧阜再集。主山之次日、入首座寮。合山数百衲聳動、屡作師子吼。掲示室中金捲栗蓬大鉗鍵、本色久参之流、靡不欽服。而徳性愈恬穏、洪無諍之風。怗怗不較勝負、只欲入深山幽谷、斅古老火種刀耕、向钁頭辺、収拾攻苦食淡兄弟、木飧澗飲、艸衣茅舎、避世俟時清平。即不廃悲願。真大丈夫、慷慨英霊、奇傑之人、所跂歩也。因再為細書、仍作此跋云。建炎三年(一一二九)四月十七日、住雲居山圜悟禅師。(続蔵巻一一六―四七一左下~二右上)

  師の圜悟が大慧の力量を認め、いかに期待していたかを知ることができるのである。ここに道元の『自証三昧』の意図的改変を認めることができよう。

  更に『説心説性』の大慧批判にも『大慧語録』が十分に読み込まれていたことを指摘しておきたい。『説心説性』の第六段は次のようになっている。

  爾時初祖謂二祖曰、「汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」。二祖種々説心説性、倶不証契。一日忽然省得。果白初祖曰、「弟子此回始息諸縁也」。初祖知其已悟、更不窮詰、只曰、「莫成断滅否」。二祖曰、「無」。初祖曰、「子作麼生」。二祖曰、「了々常知、故言之不可及」。初祖曰、「此乃従上諸仏諸祖所伝心体。汝今既得、善自護持」。

  この出典は次の『景徳伝燈録』巻三の菩提達磨章だろうと考えられ、またそのように考えられてきた経過がある(5)。

  別記云。師初居少林寺九年、為二祖説法。祇教曰、「外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」。慧可種種説心性理、道未契。師祇遮其非、不為説無念心体。慧可曰、「我已息諸縁」。師曰、「莫不成断滅去否」。可曰、「不成断滅」。師曰、「何以験之云不断滅」。可曰、「了了常知、故言之不可及」。師曰、「此是諸仏所伝心体。更勿疑也」。(禅文化本三三頁下)  ところが『大慧語録』巻二七(=『大慧書』「答劉宝学」)にも同話の引用があり、次のようになっている。

  昔達磨謂二祖曰、「汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」。二祖種種説心説性、倶不契。一日忽然省得達磨所示要門。遽白達磨曰、「弟子此回始息諸縁也」。達磨知其已悟、更不窮詰。只曰、「莫成断滅去否」。曰、「無」。達磨曰、「子作麼生」。曰、「了了常知、故言之不可及」。達磨曰、「此乃従上諸仏諸祖所伝心体。汝今既得、更勿疑也」。(大正巻四七―九二五b)

  これらの比較から明らかなように、また、『正法眼蔵』の「説心説性」の題名から考えても、『伝燈録』の「慧可種種説心性理」より『大慧語録』の「二祖種種説心説性」が引用にふさわしいことは一目瞭然であろう。このことを 初に指摘したのは、曹洞宗総合研究センター宗学研究部門の出典研究の時の金子宗元氏である。このことから展開する問題は再び後にとりあげることとしよう。

  ここでは『説心説性』と『自証三昧』を道元が撰述する時に、大慧宗杲の批判を展開するに当たって、十分な意図と周到な準備がなされていたことを指摘しておきたい。そこでまず両巻の試訳をここで示すことにしよう。

二  試訳『説心説性』

 『説心説性』の構成は十六段とした。(下段の数は岩波文庫本(二)の頁数)

(一)   神山・洞山の説心説性問答             四一七頁

(二)   説心説性は仏道の大本          四一八頁

(三)   仏祖の功徳は説心説性である          四一八頁

(四)   大慧宗杲の説心説性説          四一九頁

(五)   仏祖の説心説性説                   四二〇頁

(六)   『大慧語録』巻二七の達磨・慧可問答  四二一頁

(七)   達磨・慧可問答の誤釈例         四二三頁

(八)   誤釈の理由                    四二三頁

(九)   大慧宗杲の説心説性説は正しく誤り   四二五頁

(十)   洞山・神山の説心説性問答               四二五頁 

(十一)有の人の説心説性と無の人の説心説性  四二六頁

(十二)神山僧密の問い             四二八頁

(十三)問われて、もうすぐ死ぬこと確実とは  四二八頁

(十四)誰とは                 四二九頁

(十五)死中得活とは                四二九頁

(十六) 説心説性は七仏祖師の要機              四三〇頁

正法眼蔵第四十二  説心説性

(一)神山僧密禅師(6)、与洞山悟本大師(7)行次、悟本大師、指傍院曰、「裏面有人説心説性」。僧密師伯曰、「是誰」。悟本大師曰、「被師伯一問、直得去死十分」。僧密師伯曰、「説心説性底誰」。悟本大師曰、「死中得活」。

 〈神山僧密禅師、洞山悟本大師と行く次(おり)、悟本大師、傍院を指して曰く、「裏面に人有りて説心説性す」。僧密師伯曰く、「是れ誰(た)そ」。悟本大師曰く、「師伯に一問せられて、直に去死十分なることを得たり」。僧密師伯曰く、「説心説性底は誰(た)そ」。悟本大師曰く、「死中に活を得たり」。〉

[訳]正法眼蔵第四十二  説心説性

  神山僧密禅師が洞山悟本大師と歩いている時のことである。悟本大師が傍らの塔院を指して言った、「この中に人がいて、説心説性しています」。僧密師伯が聞いた、「それは誰ですか」。悟本大師が答えた、「師伯に質問されて、もうすぐ死ぬこと確実となりました」。僧密師伯が聞いた、「説心説性する者は誰ですか」。悟本大師が答えた、「死んだままで息をふきかえしました」。

 

(二)説心説性は仏道の大本なり、これより仏々祖々を現成せしむるなり。説心説性にあらざれば、転妙法輪することなし、発心修行することなし。大地有情同時成道(8)することなし、一切衆生無仏性(9)することなし。拈花瞬目は説心説性なり、破顔微笑(10)は説心説性なり、礼拝依位而立((11))は説心説性なり、祖師入梁(12)は説心説性なり、夜半伝衣(13)は説心説性なり。拈拄杖(しゅじょう)これ説心説性なり、横払子これ説心説性なり。

[訳]説心説性は仏道の大本である。そこから仏々祖々を目の前に顕現させるのである。説心説性でなければ、釈尊がすばらしい教えを説くこともないし、発心修行することもないのである。大地と衆生が同時に仏道を完成することもないし、一切衆生が無の仏性なることはないのである。釈尊が花を取り上げ目をまばたきしたのは説心説性であり、摩訶迦葉がにっこり微笑したのは説心説性であり、二祖慧可が菩提達磨の前で礼拝して後に元の場所に戻って立ったのは説心説性であり、祖師の菩提達磨が梁の国に入ったのは説心説性であり、夜半に五祖弘忍が六祖慧能へ伝衣したのは説心説性である。拄杖を取り上げて説法するのは説心説性であり、払子を横たえて説法するのは説心説性である。

 

(三)おほよそ仏々祖々のあらゆる功徳は、ことごとくこれ説心説性なり。平常(14)の説心説性あり、牆壁瓦礫(15)の説心説性あり。いはゆる心生種々法生の道理現成し、心滅種々法滅(16)の道理現成する、しかしながら心の説なる時節なり、性の説なる時節なり。しかあるに、心を通ぜず、性に達せざる庸流、くらくして説心説性をしらず、談玄談妙をしらず、仏祖の道にあるべからざるといふ、あるべからざるとをしふ。説心説性を説心説性としらざるによりて、説心説性を説心説性とおもふなり。これことに大道の通塞を批判せざるによりてなり。

[訳]そもそも、仏々祖々のすべての善業を積み重ねて得られた力(功徳)は、ことごとく説心説性である。南泉普願が平常心是道という説心説性があり、南陽慧忠が牆壁瓦礫という説心説性がある。つまり、心が生すれば種々法が生ずるという道理が目の前に顕現し、心が滅すれば種々法が滅するという道理が目の前に顕現するのである、すなわち、心が説であるあり方であり、性が説であるあり方なのである。しかし、心に通ぜず、性に達しない凡庸の連中は、おろかで説心説性を知らず、談玄談妙を知らずに、仏祖の言葉ではありえないと言い、ありえないと教えている。説心説性を説心説性と知らないから、説心説性の言葉を説心説性と思っている。これは全く大道が通ずるか塞がるかをはっきりしないからである。

 

(四)後来、径山大慧禅師宗杲(17)といふありていはく、「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。但まさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり」。

  この道取、いまだ仏祖の藉苙(けんしょう)をしらず、仏祖の列辟をきかざるなり。これによりて、心はひとへに慮知念覚なりとしりて、慮知念覚も心なることを学せざるによりて、かくのごとくいふ。性は澄湛寂静(18)なるとのみ妄計して、仏性法性の有無をしらず、如是性をゆめにもいまだみざるによりて、しかのごとく仏法を辟見せるなり。仏祖の道取する心は皮肉骨髄(19)なり、仏祖の保任せる性は竹篦拄杖なり。仏祖の証契する玄は露柱燈籠なり、仏祖の挙拈する妙は知見解会(20)なり。

[訳]後に径山大慧禅師宗杲という者がいて言うには、「いまの連中は、説心説性を好み、談玄談妙を好むから、悟りに到達するのが遅いのである。まさに心と性とを共に投げ捨て、玄と妙と共に忘れて、二つの相が生じない時に、悟りに契うのである」。

  この説示は、いまだ仏祖の書物を知らず、仏祖の説法を聞かないのである。このことから、心は専ら慮知念覚であると知りて、慮知念覚も心であることを学ばないから、このように言うのである。性は清らかで静かであるとのみ間違って考え、仏性や法性の有と無とを知らず、真実のありよう(如是性)を夢にもいまだ見ないから、このように仏法を片寄ってとらえるのである。仏祖が説く心は皮肉骨髄であり、仏祖がしっかりとらえる性は竹篦拄杖なのである。仏祖が悟りに契う玄は露柱燈籠であり、仏祖が取り上げる妙は知見解会なのである。

 

(五)仏祖の真実に仏祖なるは、はじめよりこの心性を聴取し、説取し、行取し、証取するなり。この玄妙を保任取し、参学取するなり。かくのごとくなるを学仏祖の児孫といふ。しかのごとくにあらざれば学道にあらず。このゆゑに得道の得道せず、不得道のとき不得道ならざるなり。得不の時節、ともに蹉過するなり。たとひなんぢがいふがごとく、心性ふたつながら亡ずといふは、心の説あらしむる分なり、百千万億分の少分なり。玄妙ともになげすてきたるといふ、談玄の談ならしむる分なり。この棙関子(かんれいす)を学せず、おろかに亡ずといはば、手をはなれんずるとおもひ、身にのがれぬるとしれり。いまだ小乗の局量を解脱せざるなり、いかでか大乗の奥玄におよばん、いかにいはんや向上の関棙子をしらんや。仏祖の茶飯を喫しきたれるといひがたし。

参師勤恪するは、たゞ説心説性を身心の正当恁麼時に体究するなり、身先身後に参究するなり。さらに二三のことなることなし。

[訳]仏祖の中の真実の仏祖は、はじめよりこの心と性とを聴き切り、説き切り、行じ切り、証り切るのである。この玄と妙とをしっかりとらえ切り、参学し切るのである。このようであるのを仏祖を学ぶ児孫と言うのである。そうでなければ学道ではないのである。このことから得道が真に得道とならず、不得道の場合が不得道とならないのである。得道か不得道かのあり方が、ともに間違ってしまうのである。たといお前(宗杲)がいうように、心も性も共に亡くすというのは、心が説かしめているあり方であり、百千万億のあり方のわずかなあり方なのである。お前が、玄と妙と共に投げ捨てるというのは、玄と談じさせるあり方なのである。この大本の鍵を学ばず、おろかにも亡くすというならば、手から離れるであろうと思い、身から逃げてしまったと考えていることが判る。いまだ小乗の限られた考えから解放されていないのであり、まして大乗の奥深い教えに及ぶことがあろうか、ましてその上の大本の鍵を知ろうか。仏祖の茶飯を食べてきたとは言い難いのである。

  師について道に努め慎むのは、ただ説心説性を身心がズバリこの時に体で究めることであり、身の現前する前からも後からも参究することである。二も無く三も無く、絶対にこの一事なのである。

 

(六)爾時初祖謂二祖曰(21)、「汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」。二祖種々説心説性、倶不証契。一日忽然省得。果白初祖曰、「弟子此回始息諸縁也」。初祖知其已悟、更不窮詰、只曰、「莫成断滅否」。二祖曰、「無」。初祖曰、「子作麼生」。二祖曰、「了々常知、故言之不可及」。初祖曰、「此乃従上諸仏諸祖、所伝心体。汝今既得、善自護持」。

 〈爾の時に初祖、二祖に謂つて曰く、「汝但だ外(そと)諸縁を息め、内心に喘(あえ)ぐこと無く、心牆壁の如くにして、以て道に入るべし」。二祖種々に説心説性すれども、倶に証契せず。一日忽然として省得す。果(は)たして初祖に白して曰く、「弟子此回始めて諸縁を息めたり」。初祖其の已に悟りたりと知りて、更に窮詰せず、只だ曰く、「断滅と成ること莫しや」。二祖曰く、「無(いな)なり」。初祖曰く、「子作麼生」。二祖曰く、「了々として常に知る、故に言も及ぶべからず」。初祖曰く、「此れ乃ち従上の諸仏諸祖、所伝の心体なり。汝今既に得たり、善く自ら護持すべし」。〉

[訳]その時、初祖菩提達磨は、二祖慧可に言った、「君はただ外の諸の対象に振り回されることなく、内の心が乱れることなく、心を牆壁のようにすれば、道に入ることができる」。二祖は種々に説心説性したけれども、全く悟りに契わなかった。

  一日、パッと悟るところがあった。そのことを初祖に申し上げた、「わたくしはこの度、始めて諸の対象に振り回されることが無くなりました」。

  初祖は二祖がすでに悟ったと知って、全く問い詰めることをせずに、ただ、「こころが断滅することはないか」とだけ言った。

  二祖は申し上げた、「ございません」。

  初祖は言った、「どのように」。

  二祖は申し上げた「はっきりと常に知っています、それ故にそれを言葉でいえません」。  初祖は言った、「このことはこれまでの諸仏諸祖が、伝えられた心のありようである。君は今、獲得した以上は、よくよく自ら護持しなさい」。

 

(七)この因縁、疑著するものあり、挙拈するあり。二祖の初祖に参侍せし因縁のなかの一因縁、かくのごとし。二祖しきりに説心説性するに、はじめは相契せず。やうやく積功累徳して、つひに初祖の道を得道しき。庸愚おもふらくは、二祖はじめに説心説性せしときは証契せず、そのとが、説心説性するにあり。のちには説心説性をすてて証契せりとおもへり。「心如牆壁、可以入道」の道を参徹せざるによりて、かくのごとくいふなり。これことに学道の区別にくらし。

[訳]この因縁について、疑う者がいて、取り上げている。二祖が初祖に参じた因縁の中の一つの因縁とは、このように理解すべきである。二祖はしきりに説心説性したが、はじめはピタリと契わなかった。やがて修行を積み重ねて、その結果、初祖の言葉を体得することができた。凡人や愚かな者が思うには、二祖ははじめに説心説性した時は契わなかったのは、その過ちは、説心説性したからである。後には説心説性するのを捨てて契ったものと思っている。「心を牆壁のようにすれば、道に入ることができる(心如牆壁、可以入道)」の言葉を考え切れずに、このように言うのである。これは全く学道の見極めに暗いからである。

 

(八)ゆゑいかんとなれば、菩提心をおこし、仏道修行におもむくのちよりは、難行(22)をねんごろにおこなふとき、おこなふといへども、百行に一当なし。しかあれども、或従知識、或従経巻(23)して、やうやくあたることをうるなり。いまの一当はむかしの百不当のちからなり、百不当の一老なり。聞教・修道・得証、みなかくのごとし。きのふの説心説性は百不当なりといへども、きのふの説心説性の百不当、たちまちに今日の一当なり。行仏道の初心のとき、未練にして通達せざればとて、仏道をすてて余道をへて仏道をうることなし。仏道修行の始終に達せざるともがら、この通塞の道理なることをあきらめがたし。

  仏道は、初発心のときも仏道なり、成正覚のときも仏道なり、初中後ともに仏道なり。たとへば、万里をゆくものの、一歩も千里のうちなり、千歩も千里のうちなり。初一歩と千歩とことなれども、千里のおなじきがごとし。しかあるを、至愚のともがらはおもふらく、「学仏道の時は仏道にいたらず、果上のときのみ仏道なり」と。挙道説道をしらず、挙道行道をしらず、挙道証道をしらざるによりてかくのごとし。迷人のみ仏道修行して大悟すと学して、不迷の人も仏道修行して大悟(24)すとしらずきかざるともがら、かくのごとくいふなり。証契よりさきの説心説性は、仏道なりといへども、説心説性して証契するなり。証契は迷者のはじめて大悟するをのみ証契といふと参学すべからず。迷者も大悟し、悟者も大悟し、不悟者も大悟し、不迷者も大悟し、証契者も証契するなり。

[訳]なぜかと言うと、菩提心を発し、仏道修行に努めてからは、困難な修行を念入りに行持する時、行持していても、百の内に一つも真実にぴたりと一致することはない。そうであっても、ある時は優れた指導者に従い、ある時は経巻に従って、そこで始めて真実に一致することができるのである。この今の真実への一致は過去の百の一致しなかった行持の力によるのであり、百の一致しなかった一つの一致への善業を積み重ねて得られた力なのである。教えを聞き・道を修め・証を得るのは、すべてこのようなのである。昨日の説心説性は百の内に一つも真実にぴたりと一致しなくとも、突然に今日の説心説性の一つの真実への一致となるのである。仏道を行じている初心の時に、未だ修行が不足であって到達しないからと言って、仏道修行を捨てて余の道を経験したとしても仏道を得ることはないのである。仏道修行の始めと終りに到達しない連中は、この適っているか、適っていないかの道理を明らめることは難しいのである。

  仏道とは、初発心の時も仏道であり、正覚を完成した時も仏道なのであり、初めも途中も後もすべてが仏道なのである。たとえば、万里の道を歩んでも、一歩も千里の内であり、千歩も千里の内なのである。初めの一歩と千歩とは異なっていても、千里の道の内では同じであるようなものである。それにもかかわらず、愚かな連中が次のように思っている、「仏道を学んでいる間は仏道に到達しておらず、仏果を得た時のみが仏道である」と。道をもって道を説くことを知らず、道をもって道を修行することを知らず、道をもって仏道を証することを知らないからこのようなのである。迷える人のみが仏道修行をして大悟すると学んで、迷っていない人も仏道修行をして大悟すると言うことを知らないし聞かない連中が、このように言うのである。証りに契う以前の説心説性は、同じく仏道であると言っても、説心説性して以後も証りに契うのである。証りに契うことは迷っている者がはじめて大悟するのだけを証りに契うと言うのだと参学してはならない。迷える者も大悟し、悟れる者も大悟し、悟らざる者も大悟し、迷わざる者も大悟し、証りに契う者も証りに契うのである。

 

(九)しかあれば、説心説性は仏道の正直なり。杲公この道理に達せず、説心説性すべからずといふ、仏法の道理にあらず。いまの大宋国には、杲公におよべるもなし。

[訳]そうであれば、説心説性は仏道の正しく直すぐに真実にかなっているのである。大慧宗杲公はこの道理に達しないで、説心説性してはならないと言っている、これは仏法の道理ではない。今の大宋国には、その大慧宗杲公に及ぶものもいないのである。

 

(十)高祖悟本大師、ひとり諸祖のなかの尊として、説心説性の説心説性なる道理に通達せり。いまだ通達せざる諸方の祖師、いまの因縁のごとくなる道取なし。

  いはゆる僧密師伯と大師と行次に、傍院をさしていはく、「裏面有人説心説性」。

  この道取は、高祖出世よりこのかた、法孫かならず祖風を正伝せり、余門の夢にも見聞せるところにあらず。いはんや夢にも領覧の方をしらんや。たゞ嫡嗣たるもの正伝せり。この道理もし正伝せざらんは、いかでか仏道に達本ならん。

いはゆるいまの道理は、或裏或面、有人人有、説心説性なり。面裏心説、面裏性説なり。  これを参究功夫すべし。性にあらざる説いまになし、説にあらざる心いまだあらず。

 [訳]高祖悟本大師洞山良价は、ひとり諸祖の中の尊い祖師として、説心説性が説心説性である道理に到達している。いまだ到達していない諸方の祖師は、この取り上げた因縁のような言葉はないのである。

  その言葉とは神山僧密師伯と洞山大師と歩いている時に、傍院を指して言った、「この中に人がいて、説心説性しています」。

  この言葉は、洞山高祖が住持説法して以来、法孫は必ず祖師の禅風を正伝しており、余門の人々は夢にも見聞したものではないのである。まして夢にも体得する方法を知ろうか。ただ嫡嗣であるものが正伝しているのである。この道理がもしも正伝しなかったならば、どうして仏道の根本に達することになろうか。つまり、今の道理は、中であっても正面であっても、有るという人でも人が有っても、説心説性なのである。正面でも中でも心が説き、正面でも中でも性が説くのである。

  このことを参究功夫すべきである。性でない説は今にないし、説でない心はいまだにないのである。

 

(十一)仏性といふは(25)一切の説なり。無仏性といふは一切の説なり。仏性の性なることを参学すといふとも、有仏性を参学せざらんは学道にあらず、無仏性を参学せざらんは参学にあらず。説の性なることを参学する、これ仏祖の嫡孫なり。性は説なることを信受する、これ嫡孫の仏祖なり。

  心は疎動し、性は恬静なり(26)と道取するは外道の見なり。性は澄湛にして、相は遷移すると道取するは外道の見なり。

仏道の学心学性しかあらず。仏道の行心行性は外道にひとしからず。仏道の明心明性は外道その分あるべからず。

  仏道には有人の説心説性あり、無人の説心説性あり。有人の不説心不説性あり、無人の不説心不説性あり。説心未説心、説性未説性あり。無人のときの説心を学せざれば、説心未到田地なり。有人のときの説心を学せざれば、説心未到田地なり。説心無人を学し、無人説心を学し、説心是人を学し、是人説心を学するなり。

  臨済の道取する尽力はわづかに無位真人なりといへども、有位真人をいまだ道取せず(27)。のこれる参学、のこれる道取、いまだ現成せず、未到参徹地といふべし。説心説性は説仏説祖なるがゆゑに、耳処に相見し、眼処に相見すべし。

[訳]仏性と言うのは一切の説である。無の仏性と言うのは一切の説である。仏性が性であることを参学したと言っても、有の仏性を参学しなければ仏道を学ぶことにはならないし、無の仏性を参学しなければ仏道を学ぶことにはならないのである。説は性であることを参学するのが、仏祖の嫡孫なのである。性は説であることを信受するのが、嫡孫の仏祖なのである。

  心はあらあらしく動き、性はひっそりと静かであると言うのは外道の見解である。性は澄みきって静まりかえり、相は遷り変わっていると言うのは外道の見解である。仏道で心と学び性と学ぶ場合はそうではない。仏道で心を修行し性を修行するのは外道と同じではない。仏道で心を明らかにし性を明らかにするのは外道ではその資格はない。

  仏道では有の人の説心説性があり、無の人の説心説性があるのである。有の人が心と説かないことと性と説かないこととがあり、無の人が心と説かないことと性と説かないこととがあるのである。また、心と説き未だ心と説かないことと、性と説き未だ性と説かないことがあるのである。無の人の時の心と説くことを学ばなければ、心と説くことは未だその境界に到っていないのである。有の人の時の心と説くことを学ばなければ、心と説くことは未だその境界に到っていないのである。心と説く無の人を学び、無の人の心と説くことを学び、心と説く是(ぜ)の人を学び、是の人の心と説くことを学ぶのである。

  臨済が言う全ての力はわずかに無位の真人とは言っても、有位の真人をいまだ言ってはいない。残った参学、残った言葉は、いまだ目の前に顕現してはいないし、未だ参じ切ったところに到達してはいないと言わねばならない。説心説性は仏と説き祖と説くから、耳根の処で聞いても相見し、眼根の処で見ても相見しなければならない。

 

(十二)ちなみに僧密師伯いはく、「是誰」。

  この道取を現成せしむるに、僧密師伯さきにもこの道取に乗ずべし、のちにもこの道取に乗ずべし。「是誰」は那裏の説心説性なり。しかあれば、「是誰」と道取せられんとき、「是誰」と思量取せられんときは、すなはち説心説性なり。この説心説性は、余方のともがら、かつてしらざるところなり。子をわすれて賊とするゆゑに、賊を認じて子とするなり(28)。

[訳]洞山の語に対して神山僧密師伯は言った、「それは誰ですか」。

  この言葉を目の前に顕現させると、僧密師伯は先にもこの言葉を語るべきであり、後にもこの言葉を語るべきである。

「それは誰ですか」とは、あちら(那裏)の説心説性である。そうであれば、「それは誰ですか」と言った時、「それは誰ですか」と思量された時は、説心説性なのである。この説心説性は、他の地方の連中は、いまだかつて知らないところなのである。子を見忘れて賊と思い込むから、賊を子とすっかり認めてしまうのである。

 

(十三)大師いはく、「被師伯一問、直得去死十分」。

  この道をきく参学の庸流おほくおもふ、「説心説性する有人の、是誰といはれて、直得去死十分なるべし。そのゆゑは、是誰のことば、対面不相識なり、全無所見なるがゆゑに死句なるべし」。かならずしもしかにはあらず。この説心説性は、徹者まれなりぬべし。十分の去死は一二分の去死にあらず、このゆゑに去死の十分なり。被問の正当恁麼時、たれかこれを遮天蓋地にあらずとせん。照古也際断なるべし、照今也際断なるべし。照来也際断なるべし、照正当恁麼時也際断なるべし。

[訳]悟本大師が答えた、「師伯に質問されて、もうすぐ死ぬこと確実となりました」。

  この言葉を聞く参学の凡庸な連中が多く思うのは、「説心説性するある人がいて、『それは誰か』と問われたから、もうすぐ死ぬこと確実となってしまったということに違いない、と。なぜならば、『それは誰か』の問いは、対面しながら互いに面識がないし、全く見られることが無いから死句(分別句)にちがいない、と」。必ずしもそうではない。この説心説性に、徹した者はめったにいないに違いない。十分に死ぬことということは、一二分に死ぬことではないから、死ぬことということが十分なのである。問われた正にその時、誰が天を遮り地を蓋い隠すものではないとしようか、天地いっぱいなのである。古を照らすも一瞬に切断され、今を照らすも一瞬に切断されるに違いない。照し来るのも一瞬に切断され、照す正にその時も一瞬に切断されるに違いないのである。

 

(十四)僧密師伯いはく、「説心説性底誰」。さきの「是誰」といまの是誰と、その名は張三なりとも、その人は李四なり(29)。

[訳]僧密師伯が聞いた、「説心説性する者は誰ですか」。

  先の「それは誰か」とここで言う「それは誰か」とは、その「誰」という名は普通の張三であっても、「その人」は普通の一人一人の李四なのである。

 

(十五)大師いはく、「死中得活」。

  この「死中」は、「直得去死」を直指すとおもひ、「説心説性底」を直指して「是誰」とは、みだりに道取するにあらず。「是誰」は説心説性の有人を差排す、かならず十分の去死を万期せずといふと参学することありぬべし。大師道の「死中得活」は、「有人説心説性」の声色現前なり。またさらに十分の去死のなかの一両分なるべし。活はたとひ全活なりとも、死の変じて活と現ずるにあらず。得活の頭正尾正に脱落なるのみなり。

  おほよそ仏道祖道には、かくのごとくの説心説性ありて参究せらるゝなり。又且のときは十分の死を死して、得活の活計を現成するなり。

[訳]悟本大師が答えた、「死んだままで息をふきかえしました」。

  この「死んだまま」は、「もうすぐ死ぬこと確実」をズバリ指すと思い、「説心説性する人」をズバリ指して「それは誰か」と言うのは、わけもなく言うのではない。「それは誰か」は、説心説性する有る人を指摘し、必ず十分に死ぬことを万々に期待していないと言うことだと参学することがあるにちがいない。悟本大師の言葉の「死んだまま息をふきかえした」は、「有る人が説心説性する」の声色としての具体的なあらわれ方なのである。またその上の十分に死ぬことの中の一二分の死にちがいない。「息をふきかえす」ことはたとい完全な息のふきかえしであっても、死が変化して息をふきかえすことが現われるのではない。息をふきかえす始めから終わりにいたる解脱だけなのである。

  そもそも仏祖の言葉には、このような説心説性があると参究されるのである。そのうえの時は十分の死を死に切り、息をふきかえす生活を目の前に顕現するのである。

 

(十六)しるべし、唐代より今日にいたるまで、説心説性の仏道なることをあきらめず、教行証の説心説性にくらくして、胡説乱道する可憐憫者おほし。身先身後にすくふべし。為道すらくは、説心説性はこれ七仏祖師の要機なり。

  正法眼蔵第四十二

爾時寛元元年癸卯、在于日本国越州吉田県吉峰寺示衆

[訳]このことから知らねばならない、唐代から今日に至るまでに、説心説性が仏道であることを明らかにせず、教・行・証の説心説性を知らずに、でたらめに言っている憐れむべき者が多い。この身を受ける先もこの身を受ける後にも救わねばならない。それらを導くには、説心説性は七仏祖師の要機であると言うことである。

  正法眼蔵第四十二

その時寛元元年癸卯(一二四三)、日本国越州吉田県吉峰寺にて示衆す。

 

三  試訳『自証三昧』

  自証三昧の構成は二十三段とした。(下段の数は岩波文庫本(三)の頁数)

(一)   仏祖の三昧とは       三八五頁

(二)   或従知識の時          三八六頁

(三)   或従経巻の時          三八六頁 

(四)   従うべき経巻とは             三八七頁

(五)   従うとは自己に従うこと   三八八頁

(六)   自証自悟の道具       三八九頁

(七)   仏法祖道と自己       三九一頁

(八)   自覚と覚他          三九一頁

(九)   自他を脱落す      三九二頁 

(十)   自他を体達す      三九三頁

(十一)自証の語の誤解   三九三頁

(十二)大慧宗杲の伝記―出家と曹洞宗への参学  三九四頁

(十三)大慧は湛堂文準に認められず             三九五頁

(十四)大慧の自証自悟は成立しない          三九九頁

(十五)大慧の門下も真実人はいない          四〇〇頁

(十六)大慧の圜悟に参ずる因縁   四〇〇頁

(十七)大慧の「塔銘」は誤り      四〇一頁

(十八)大慧の師の圜悟禅師は古仏             四〇二頁

(十九)大慧は大法を明らめず      四〇二頁

(二十)道微と文準の大慧の評価は誤りではない      四〇三頁

(二十一)真の仏祖の児孫とは      四〇四頁

(二十二)嗣書正伝は青原系統のみ             四〇四頁(二十三) 真の自証とは   四〇五頁

正法眼蔵第六十九  自証三昧(30)

 

(一)諸仏七仏より、仏々祖々の正伝するところ、すなはち修証三昧(31)なり。いはゆる或従知識、或従経巻なり。これはこれ仏祖の眼睛なり。このゆゑに、

   曹渓古仏、問僧云、「還仮修証也無」。僧云、「修証不無、染汚即不得((32))」。

  〈曹渓古仏、僧に問うて云く、「還(は)た修証を仮るや」。僧云く、「修証は無きにあらず、染汚することは即ち得ず」。〉

しかあればしるべし、不染汚の修証、これ仏祖なり。仏祖三昧の霹靂風雷なり。

[訳]正法眼蔵第六十九  自証三昧

  過去の諸の仏や七仏より、仏仏祖祖が正伝するところは、修証三昧(修行が証りである三昧)である。つまり、或いは善知識に従い、或いは経巻に従うことである。これは仏祖の眼睛なのである。このことから、

  曹渓古仏である六祖慧能が、僧(南嶽懐譲)に問うた、「さて、修行し証ることを必要とするか」。僧が答えた、「修行も証りも無い訳ではないが、それをはからいで汚すことはよくない」。

  そうであるから、不染汚の修証が仏祖なのであることを知らねばならない。仏祖の三昧が突然に稲光がして風が吹き雷がとどろくハタラキなのである。

 

(二)或従知識の正当恁麼時、あるいは半面を相見す、あるいは半身を相見す。あるいは全面を相見す、あるいは全身を相見す。半自を相見することあり、半他を相見することあり。神頭の披毛せるを相証し、鬼面の戴角せるを相修す。異類行の随他来あり、同条生の変異去あり。かくのごとくのところに為法捨身すること、いく千万廻といふことしらず。為身求法すること、いく億百劫といふことしらず。これ或従知識の活計なり、参自従自の消息なり。瞬目に相見するとき破顔あり、得髄を礼拝するちなみに断臂す。おほよそ七仏の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。見他の知識、むかしにあらず、いまにあらず。

[訳]或いは知識に従う、正にそのような時には、あるいは半分の面を相見するし、あるいは半分の身を相見するのである。あるいは全面を相見するし、あるいは全身を相見するのである。半分の自己を相見することがあり、半分の他己を相見することがあるのである。神の頭に毛で覆って相い証り、鬼の面に角を戴いて相い修行するのである。異類として行じて他に随い来ることがあり、同条として生れて変異してゆくことがあるのである。このようなところに法の為に身を捨てることは、何千万回と言うことを知らない。身の為に法を求めること、何億百劫と言うことを知らない。これが或いは知識に従うことの生活であり、自己に参じて自己に従うところの消息なのである。釈尊の瞬目に相見する時に摩訶迦葉がにっこり笑うことがあり、達磨より髄を得るのに二祖慧可が礼拝するきっかけは臂を断っての入門である。およそ七仏の前後より、六祖の頃までに多くの自己を見る知識は、一人や二人ではない。他己を見る知識は、昔や今だけではない。

 

(三)或従経巻のとき、自己の皮肉骨髄を参究し、自己の皮肉骨髄を脱落するとき、桃花眼睛づから突出来相見せらる、竹声耳根づから、霹靂相聞せらる(33)。おほよそ経巻に従学するとき、まことに経巻出来す。その経巻といふは、尽十方界、山河大地、草木自他なり、喫飯著衣、造次動容なり。この一々の経典にしたがひ学道するに、さらに未曾有の経巻、いく千万巻となく出現在前するなり。是(ぜ)字の句ありて宛然なり、非字の偈あらたに歴然なり。これらにあふことをえて、拈身心して参学するに、長劫を消尽し、長劫を挙起すといふとも、かならず通利の到処あり。放身心して参学するに、朕兆を抉出し、朕兆を趯飛すといふとも、かならず受持の功成ずるなり。

[訳]或いは経巻に従う時には、自己のマコトのありよう(皮肉骨髄)を参究し、自己の皮肉骨髄をすっかり脱け落ちる時であり、霊雲志勤が桃花を見た眼睛のままが突出し来って互いに見て一体となり、香厳智閑が竹の音を聞いた耳根のままが突然の雷鳴となって互いに聞こえて一体となるのである。すべて経巻に従って学ぶ時、真に経巻が出て来るのである。その経巻と言うのは、全てに広がっている世界の山河大地であり、草木であり、自己であり、他己なのである。また飯を食べ衣を着ることであり、あわただしい動きなのである。この一つ一つの経典に従って仏道を学んでいくと、更に未だ曾てなかった経巻が、何千万巻となく出現して目の前に存在することになるのである。肯定的な文字の句がそのままにあることになり、否定的な文字の偈が新たにありありとあることになるのである。これらに出会うことが出来て、全身心を掴まえて参学していくと、永遠の時間を費やしてしまい、永遠の時間を取り上げるとしても、必ず経巻を通達しえた到達点があるのである。全身心を放りだして参学していくと、ものの兆す以前を抉り出し、ものの兆す以前を飛び越えるとしても、必ず経巻を受持して得られた修行が成り立つのである。

 

(四)いま西天の梵文を、東土の法本に翻訳せる、わづかに半万軸((34))にたらず。これに三乗五乗、九部十二部あり。これらみな、したがひ学すべき経巻なり。したがはざらんと廻避せんとすとも、うべからざるなり。かるがゆゑに、あるいは眼睛となり、あるいは吾髄となりきたれり。頭角正なり、尾条正なり。他よりこれをうけ、これを他にさづくといへども、たゞ眼睛の活出なり、自他を脱落す、たゞ吾髄の附嘱なり、自他を透脱せり。眼睛吾髄、それ自にあらず他にあらざるがゆゑに、仏祖むかしよりむかしに正伝しきたり、而今より而今に附嘱するなり。拄杖経あり、横説縦説、おのれづから空を破し有を破す。払子経あり、雪を澡し霜を澡す。坐禅経の一会両会あり。袈裟経一巻十袟(ちつ)あり。これら諸仏祖の護持するところなり。かくのごとくの経巻にしたがひて、修証得道するなり。あるいは天面人面、あるいは日面月面(35)あらしめて、従経巻の功夫現成するなり。

[訳 ] これまでインドの梵文を、中国の漢文に翻訳させたのは、わずかに五千軸に過ぎない。この中に三乗(36)(声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)五乗((37))(人乗・天乗・声聞乗・縁覚乗・菩薩乗)、九部経(38)(修多羅・伽陀・本事・本生・未曾有・因縁・譬喩・祇夜・優婆提舎)十二部経(39)(素(そ)呾(た)纜(ら)sūtra契経・祇夜geya重頌・和(わ)伽(か)羅(ら)那(な)vyākaran4a授記・伽(か)陀(だ)gāthā諷誦・憂陀那udāna無問自説・尼陀那nidāna因縁・阿波陀那avadāna譬喩・伊帝目多伽itivrttaka本事・闍陀伽jātaka本生・毘仏略vaipulya方広・阿浮陀達磨adbhuta-dharma未曾有・優婆提舎upadeśa論議)がある。これらは全て従って学ぶべき経巻である。従わないでおこうと避けようとしても、不可能なのである。このことから、あるいは仏祖の眼睛(めだま)となり、あるいは達磨の許した吾が髄となってしまうのである。はじめも正しいし、おわりも正しいのである。これを他から受け、また、これを他に授くるといっても、単に仏祖の眼睛がいきいきと飛び出るのであり、自も他をも脱け落ちるのであり、また、単に達磨の吾が髄の附嘱であり、自も他をも通り抜けるのである。眼睛と吾が髄は、自でもないし他でもないので、仏祖が昔から昔へ正伝してきたのであり、而今(いま)より而今に附嘱するのである。拄杖の経があり、自由自在に説いて、ちゃんと相対的な空と有を破るのである。払子の経があり、雪や霜をきれいに洗い流すのである。坐禅という経の一つの集まり二つの集まりがある。袈裟という経の一巻のもの、十袟(ちつ)のものがある。これらは諸の仏祖が護持しているところである。このように経巻に従って、修行がそのまま証りとして到達した道を現前させるのである。あるいは天上界の面や人間界の面として、あるいは日面という永遠の仏や月面という一瞬の仏を顕現せしめて、経巻に従う修行を目の前に顕すのである。

 

(五)しかあるに、たとひ知識にもしたがひ、たとひ経巻にもしたがふ、みなこれ自己にしたがふなり。経巻おのれづから自経巻なり、知識おのれづから自知識なり。しかあれば、遍参知識は遍参自己なり、拈百草は拈自己なり、拈万木は拈自己なり。自己はかならず恁麼の功夫なりと参学するなり。この参学に、自己を脱落し、自己を契証するなり。

[訳]そのことから、たとえ知識に従っても、たとえ経巻に従っても、全てが自己に従うことなのである。経巻はそれ自身が自の経巻であり、知識はそれ自身が自の知識なのである。そうであれば、遍く知識に参ずるとは遍く自己に参ずることであり、百草を取り上げるとは自己を取り上げることであり、万木を取り上げるとは自己を取り上げることである。自己は必ずこのような修行であると参学するのである。この参学において、自己を脱け落ち、自己をマコトにピタリと一致させるのである。

 

(六)これによりて、仏祖の大道に、自証自悟の調度あり、正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず、嫡々相承する調度あり、仏祖の骨髄にあらざれば正伝せず。かくのごとく参学するゆゑに、人のために伝授するときは、汝得吾髄の附嘱有在なり。吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。為説はかならずしも自他にかゝはれず、他のための説著すなはちみづからのための説著なり。自と自と、同参の聞説なり。一耳はきゝ、一耳はとく。一舌はとき、一舌はきく。乃至眼耳鼻舌身意根識塵等もかくのごとし。さらに一身一心ありて証するあり、修するあり。みゝづからの聞説なり、舌づからの聞説なり。昨日は他のために不定法をとくといへども、今日はみづからのために定法をとかるゝなり(40)。かくのごとくの日面あひつらなり、月面あひつらなれり。他のために法をとき法を修するは、生々のところに法をきゝ法をあきらめ、法を証するなり。今生にも法をたのためにとく誠心あれば、自己の得法やすきなり。あるいは他人の法をきくをも、たすけすゝむれば、みづからが学法よきたよりをうるなり。身中にたよりをえ、心中にたよりをうるなり。聞法を障礙するがごときは、みづからが聞法を障礙せらるゝなり。生々の身々に法をとき法をきくは、世々に聞法するなり。前来わが正伝せし法を、さらに今世にもきくなり。法のなかに生じ、法のなかに滅するがゆゑに。尽十方界のなかに法を正伝しつれば、生々にきゝ、身々に修するなり。生々を法に現成せしめ、身々を法ならしむるゆゑに、一塵法界ともに拈来して法を証せしむるなり。

[訳]このことから、仏祖の大道には、自ら証り自ら悟る備えつけの道具があり、正しい後継ぎの仏祖でなければ正しく伝えないのである。正しく受け継いできた備えつけの道具があり、仏祖の骨髄でなければ正しく伝えないのである。このような参学をするから、人に伝授する時は、「あなたはわたしの髄をつかんだ(汝得吾髄)」の附嘱が存在するのである。それは釈尊の「わたしは正法眼蔵をもっている、摩訶迦葉に附嘱する」ことなのである。他に説くことは必ずしも自と他に関わるのではなく、他の為に説くとは自の為に説くことなのである。自と自と、同時に参学して説を聞くことなのである。一つの耳は聞き、一つの耳は説くのであり、一つの舌は説き、一つの舌は聞くのである。及び眼耳鼻舌身意の根と識、(色・声・香・味・触・法の)六塵等も同様である。更に一つの身、一つの心があって証ることがあり、修することがあるのである。耳そのものが説を聞くのであり、舌そのものが説を聞くのである。昨日は他の為に確定しない法を説くと言っても、今日は自の為に確定した法を説くのである。このように永遠の日面仏が互いに連れ立ち、一瞬の月面仏が互いに連れ立つのである。他の為に法を説き法を修するのは、生の連続の中で法を聞き法を明らめ、法を証るのである。今生にも法を他の為に説く誠の心があれば、自己が法を得ることは容易なのである。あるいは他人が法を聞くように助け勧めれば、自己が法を学ぶのによい手がかりを得ることになるのである。一身の中に手がかりを得、一心の中に手がかりを得るのである。法を聞くことを妨げようとする場合は、自己が法を聞くことを妨げられるのである。生の連続の中で一身一身に法を説き法を聞くことは、いつの世も法を聞くのである。前世よりわれわれが正しく伝えた法を、更に今世においても聞くのである。法の中で生まれ、法の中で滅するからである。無限の広がりの世界の中で法を正しく伝えたならば、生の連続の中で聞き、一身一身に修するのである。生の連続の中を法によりて目の前に顕現せしめ、一身一身を法にしてしまうから、一微塵世界も法界も共に取り上げ来って法を証(さと)らせるのである。

 

(七)しかあれば、東辺にして一句をきゝて、西辺にきたりて一人のためにとくべし。これ一自己をもて聞著説著を一等に功夫するなり。東自西自を一斉に修証するなり。なにとしてもたゞ仏法祖道を自己の身心にあひちかづけ、あひいとなむを、よろこび、のぞみ、こゝろざすべし。一時より一日におよび、乃至一年より一生までのいとなみとすべし。仏法を精魂として弄すべきなり。これを生々をむなしくすごさざるとす。

[訳]そうであれば、東辺で一句を聞いたなら、西辺に来て一人の為に説かねばならない。これは一自己でもって聞くことと説くことを同じく修行することである。つまり、東の自己と西の自己を同じく修行が証りであるとするのである。何としてでも、専ら仏法と祖道を自己の身心に互いに近づけ、互いに実行することを、喜び、望み、志さねばならない。一時より一日に及び、さらに一年より一生まで実行すべきこととしなければならない。仏法を自己の修行に精魂をかたむけて徹底的に振る舞わねばならない。これを生の連続の中を空しく過ごすことではないとするのである。

 

(八)しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。たとひ人仏をあきらむとも、さらに天仏あきらむべし。たとひ山のこゝろをあきらむとも、さらに水のこゝろをあきらむべし。たとひ因縁生法をあきらむとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。たとひ仏祖辺をあきらむとも、さらに仏祖向上をあきらむべし。これらを一世にあきらめをはりて、のちに他のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不参学なり。

[訳]そうであるのに、未だ明めない場合は、人の為に説いてはいけないと思ってはならない。明めることを待つならば、無限の時間をかけても可能とはならない。たとい人間界の仏を明らめたとしても、さらに天上界の仏を明らめなければならない。たとい山の心を明らめたとしても、さらに水の心を明らめなければならない。たとい因縁によって生ずる法を明らめたとしても、さらに因縁によらずに生ずる法を明らめなければならない。たとい仏祖の境涯を明らめたとしても、さらに仏祖の境涯の向上(うえ)を明らめなければならない。これらをこの世のうちに明らめてしまって、その後に他の為に尽くそうとするのは、修行ではないし、仏(調御丈夫)ではないし、仏道の参学者ではないのである。

 

(九)およそ学仏祖道は、一法一儀を参学するより、すなはち為他の志気を衝天(41)せしむるなり。しかあるによりて、自他を脱落するなり。さらに自己を参徹すれば、さきより参徹他己なり。よく他己を参徹すれば、自己参徹なり。この仏儀は、たとひ生知といふとも、師承にあらざれば体達すべからず、生知(42)いまだ師にあはざれば不生知をしらず、不生不知をしらず。たとひ生知といふとも、仏祖の大道はしるべきにあらず、学してしるべきなり。

[訳]そもそも、仏祖の道を学ぶのは、一つの教えと一つの作法を学び始めたなら、そこで他の為に天を突く志にさせるのである。そのことから、自も他をも脱け落ちるのである。さらに自己の修行に徹すれば、前より他己の修行に徹するのである。他己の修行に徹することができれば、自己の修行が徹するのである。この仏の作法は、たとい生まれながらの知恵といっても、師から承けたものでなければあきらかに達することはできない、生まれながらの知恵は未だ師に会わなければ、不生知を知らないし、不生不知を知らないのである。たとい生まれながらの知恵といっても、仏祖の大道は知るはずはないし、学んで知るものなのである。

 

(十)自己を体達し、他己を体達する、仏祖の大道なり。たゞまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。初心より自他ともに同参しもてゆくに、究竟同参に得到するなり。自功夫のごとく、他功夫をもすゝむべし。

[訳]自己にあきらかに達し、他己にあきらかに達するのは、仏祖の大道である。正しく自己の初心の参学をめぐらして、他己の初心の参学と共に参じなければならない。初心より自己と他己と共に同参してゆくと、究極的境涯に共に参じて到達するのである。自己の修行のように、他己にこの修行を勧めるがよい。

 

(十一)しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、「師に伝受すべからず、自学すべし」。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまへざらんともがら、いかでか仏道人ならん。いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の児孫と自称するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

[訳]そうであるのに、自ら証悟する等の言葉を聞いて、粗雑な考えの人が思うのは、「師より伝え受けるべきではなく、自ら学ばねばならない」、と。これは大きな誤りである。自己の見解による思量分別で間違って推測して師から承けることのない者は、インドの自然外道であり、これを見極めきれない連中が、どうして仏道の人であろうか。ましていわんや自証の言葉を聞いて、五陰(色・受・想・行・識)の集合体であろうと推測するならば、小乗の自らの煩悩を調伏するのと同じことになろう。大乗も小乗をも見極めない連中が、ほとんど仏祖の児孫と自称しているのが多いのである。しかしながら、明眼をもった人は、一体、誰がバカにされようか。

 

(十二)大宋国紹興のなかに、径山の大慧禅師宗杲(43)といふあり、もとはこれ経論の学生なり。遊方のちなみに、宣州の珵(てい)禅師(44)にしたがひて、雲門(46)の拈古および雪竇(46)の頌古拈古を学す。参学のはじめなり。雲門の風を会せずして、つひに洞山の微和尚(47)に参学すといへども、微、つひに堂奥をゆるさず。微和尚は芙蓉和尚(48)の法子なり、いたづらなる席末人に斉肩すべからず。

  杲禅師、やゝひさしく参学すといへども、微の皮肉骨髄を摸著することあたはず、いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。あるとき、仏祖の道に臂香嗣書の法ありとばかりきゝて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるさず。つひにいはく、「なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤学すべし。仏祖受授不妄付授也。吾不惜付授、只是你未具眼在」。ときに宗杲いはく、「本具正眼自証自悟、豈有不妄付授也」。微和尚笑而休矣。〈つひにいはく、「なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤学すべし。仏祖の受授は妄りに付授せず。吾れ付授を惜しむにあらず、只だ是れ你未だ眼を具せざることあり」。ときに宗杲いはく、「本具の正眼は自証自悟なり、豈に妄りに付授せざること有らんや」。微和尚、笑つて休みぬ。〉

[訳]大宋国の紹興の間(一一三一~六二)に、径山の大慧禅師宗杲という者がいた。もともとは経論を学ぶ僧である。遊方した時に、宣州(安徽省)の紹珵(しょうてい)禅師に従って、雲門文偃の『拈古』および雪竇重顕の『頌古』『拈古』を学んだ。これが禅の参学のはじめである。雲門派の教えを理解できなくて、そこで襄州(湖北省)の大陽山で洞山の道微和尚に参学したのだけれども、道微は、結局、その奥義を究めた者とは許さなかった。道微和尚は芙蓉道楷和尚の法嗣(はっす)であり、つまらない末席の人と肩を並べるような人ではなかった。

  宗杲禅師は、やや久しくそこで参学したけれども、道微の皮肉骨髄(しんずい)を手探りすることはできず、ましていわんや六塵の中に仏祖の眼睛があることも知らなかった。あるとき、仏祖の道には臂香(ひこう)して嗣書を得る法があるだけだと聞いて、しきりに道微和尚に嗣書を拝見したいとお願いした。しかしながら道微和尚は許可しなかった。そこで言った、「君は嗣書が欲しいならば、あわててはならぬ、よく修行して努めて学ばねばならない。仏祖の受授はでたらめに付授はしない。わたしは付授を惜しむのではなく、外ならぬ君がいまだ眼を備えていないということだ」。その時、宗杲は言った、「本来具っている正眼は自ら証悟(さとる)ものである、どうしてでたらめに付授しないことがあってよかろうか」。道微和尚は、笑って黙り込んだ。

 

(十三)①のちに湛堂準和尚(49)に参ず。

  湛堂一日問宗杲云、「你鼻孔因什麼、今日無半辺」。杲云、「宝峰門下」。湛堂云、「杜撰禅和」。

 〈湛堂一日、宗杲に問うて云く、「你が鼻孔什麼に因つてか今日半辺無き」。杲云く、「宝峰門下」。湛堂云く、「杜撰禅和」。〉

  ②杲、看経次、湛堂問、「看什麼経」。杲曰、「金剛経」。湛堂云、「是法平等、無有高下。為什麼、雲居山高、宝峰山低」。

杲曰、「是法平等、無有高下」。湛堂云、「你作得箇座主」、使下。

〈杲、看経の次、湛堂問う、「什麼経をか看る」。杲曰く、「金剛経」。湛堂云く、「是の法は平等にして高下有ること無し。什麼が為にか雲居山は高く、宝峰山は低(ひく)し」。杲曰く、「是の法は平等にして高下有ること無し」。湛堂云く、「你箇の座主と作り得たり」。下(くだ)らしむ。〉

  ③又一日、湛堂見於粧十王処((50))。問宗杲上座曰、「此官人、姓什麼」。杲曰、「姓蘖」。湛堂以手自摸頭曰、「争奈姓梁底少箇幞頭」。杲曰、「雖無幞頭、鼻孔髣髴」。湛堂曰、「杜撰禅和」。

〈又一日、湛堂、十王を粧ふ処を見て、宗杲上座に問うて曰く、「此の官人、姓は什麼ぞ」。杲曰く、「姓は梁なり」。湛堂、手を以て自ら摸頭して曰く、「姓の梁底なる、箇の幞頭を少(か)くを争奈(いかん)せん」。杲曰く、「幞頭無しと雖も、鼻孔髣髴たり」。

湛堂曰く、「杜撰禅和」。〉

  ④湛堂一日、問宗杲云、「杲上座、我這裏禅、你一時理会得。教你説也説得、教你参也参得。教你做頌古拈古、小参普説請益、你也做得。祗是你有一件事未在、你還知否」。杲曰、「甚麼事未在」。湛堂曰、「你祗欠這一解在。□(口+力)(か)。若你不得這一解、我方丈与你説時、便有禅、你纔出方丈、便無了也。惺々思量時、便有禅、纔睡著、便無了也。若如此、如何敵得生死」。杲曰、「正是宗杲疑処」。

〈湛堂一日、宗杲に問うて云く、「杲上座、我が這裏の禅、你一時に理会得なり。你をして説かしむれば也た説得す、你をして参ぜしむれば也た参得す。你をして頌古拈古、小参、普説、請益を做(な)さしむれば、你也た做得(さとく)す。ただ是れ你一件事の未在なること有り、你還た知るや」。杲曰く、「甚麼事か未在なる」。湛堂曰く、「你ただ這の一解を欠くこと在り。□(口+力)(か)。若し你這の一解を不得ならば、我れ方丈にして你がために説く時は便ち禅有り、你纔かに方丈を出づれば、便ち無きにし了れり。惺々に思量する時は便ち禅有り、纔かに睡著すれば、便ち無きにし了れり。若し此の如く

ならば、如何が生死を敵得せん」。杲曰く、「正しく是れ宗杲が疑処なり」。〉

  ⑤後稍経載、湛堂示疾。宗杲問曰、「和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事」。湛堂嘱曰、「有箇勤巴子、我亦不識他。

雖然、你若見他、必能成就此事。你若見他了、不可更他遊。後世出来参禅也」。

 〈後稍(やや)載を経て、湛堂疾を示す。宗杲問うて曰く、「和尚百年の後、宗杲、阿誰に依附せば、此の大事を了ずることが可以(でき)ようか」。湛堂嘱して曰く、「箇の勤巴子といふもの有り、我れもまた他を識らず。然りと雖も、你若し他を見ば、必ず能く此の事を成就せん。你若し他を見え了らば、更に他遊すべからず。後世参禅を出来せん」。〉

[訳]①後に湛堂文準和尚に参じた。湛堂はある日、宗杲に問うた、「君の鼻(は)孔(な)はなぜ今日半分無いのだ」。杲は言った、「宝峰(あなた)の門下だからです」。湛堂は言った、「いいかげんな禅坊主」。

  ②宗杲が経を読んでいた時のことである。湛堂が問うた、「何経を読んでいる」。杲は答えた、「金剛経です」。湛堂は問うた「、金剛経の中に『すべての存在は平等であって高い低いは無い』というが、なぜ雲居山は高く、宝峰山は低いのか」。宗杲は答えた、「すべてのものは平等であり、高い低いはない」。湛堂は言った、「君は一人の教家人と作ってしまった」。そこで堂より退席させた。

  ③またある日、湛堂は、十王を化粧するのを見て、宗杲上座に問うた、「この官人、姓は何というか」。杲はいった、「姓は梁です」。湛堂は、手で自ら頭をなでて言った、「梁を姓とする者が、幞頭(ずきん)をかぶっていないのをどうしたものか」。

宗杲は言った、「幞頭が無いといっても、鼻(は)孔(な)はそっくり」。湛堂が言った、「いいかげんな禅坊主」。

  ④湛堂がある日、宗杲に問うた、「杲上座よ、わたしのここの禅を、君は一気に理解することができた。君に説法させれば説くこともできるし、君に参禅させれば参ずることができる。君に頌古や拈古を作らせ、小参や普説をさせ、請益させれば、それらもまたなすことができる。ただ外ならぬ君が一つの事だけはまだだということがある、さて、それを知っているか」。宗杲が言った、「何事がまだだというのですか」。湛堂は言った、「君はただこの一解のみを欠いているぞ。□(口+力)(か)。もし君がこの一解を得ないならば、わたしが方丈で君のために説く時は禅があるが、君が方丈を出たとたんに無くなってしまう。はっきりと思量する時は禅があるが、睡ってしまったとたんに無くなってしまう。もしこのようであるならば、どうして生死(まよい)を相手にして立ち向かえよう」。宗杲は言った、「正に宗杲(わたくし)の疑念です」。

  ⑤後にしばらく年を経て、湛堂は病気となった。宗杲が問うた、「和尚さまが亡くなられた後に、宗杲は誰に師事してこの大事にけりをつけることができましょうか」。湛堂はいいつけた、「(克)勤という四川省出身のものがいる、わたしも面識はないのだが、君がもし他に会ったならば、きっとこの大事を完成させることができよう。君がもし他に会ってしまえば、更に他の所に遊行してはならぬ。後に参禅了畢することになろう」。

 

(十四)この一段の因縁を撿点するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開発を擬すといへども、つひに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず、「なんぢいまだしきことあり」と勧励する、微和尚の観機あきらかなること、信仰すべし。「正是宗杲疑処」を究参せず、脱落せず。打破せず、大疑せず、被疑礙なし。そのかみみだりに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。無遠慮なりといふべし、道機ならずといふべし、疎学のいたりなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、仏祖の語句をしらざることを。

[訳]この一段の因縁を点検すると、湛堂はまだ宗杲を許してはいない、たびたびさとりを開かせようと試みたけれども、ついに一つの大事を欠いていたのである。一つの大事を補いえた訳でもなく、一つの大事をすっかり脱し切れなかった。道微和尚は昔、嗣書を与えず、「君はまだだめなことがある」と勧めはげましている。このことは道微和尚が相手の能力をはっきりと観ていることを信じ仰がねばならない。「正に宗杲の疑念です」のところを究めてはいないし、脱け出ていないのである。疑念を打ち破らず、大なる疑念としないし、疑念にとことん徹底することにはなっていない。昔、みだりに嗣書を請求するのは、参学として軽率であり、道心が無いところからの結果であり、古を考えることの無い異常さなのである。遠くへの思いが無いと言うべきであり、仏道の器でないと言うべきであり、学びに綿密さがない結果である。名利を貪り求めて、仏祖の奥裏を破壊させようとしている。仏祖の語句を知らないことを哀れむがよい。

 

(十五)稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟ときかず、学せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。かくのごとくなるによりて、宗杲禅師の門下に、一箇半箇の真巴鼻あらず、おほくこれ仮底なり。仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくのごとくなり。而今の雲水、かならず審細の参学すべし、疎慢なることなかれ。

[訳]古を考えることが自証であることを理解しないし、永遠の時間にわたって書物に目を通すことが自悟であると聞くことなく、そのことを学ばないことによって、このようにだめとなり、このように自らの誤りがあることになるのである。このようなことから、宗杲禅師の門下に、一人半人の真実の自己をとらえた者はおらず、多くはニセ者なのである。仏法を理解していない。まさしく仏法を理解していないとはこのようなことなのである。而今の雲水修行者は、このことを必ず詳しく学ばねばならない、おろそかであってはならない。

 

(十六)宗杲因湛堂之嘱、而湛堂順寂後、参圜悟禅師於京師之天寧。圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。悟曰、「未也、子雖如是、而大法故未明」。又一日圜悟上堂、挙五祖演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安楽法。又呈解圜悟。

圜悟笑曰、「吾不欺汝耶」。

〈宗杲、湛堂の嘱に因って、湛堂順寂の後、圜悟禅師に京師の天寧に参ず。圜悟一日陞堂するに、宗杲、神悟有りといつて、悟を以て圜悟に告呈す。悟曰く「未だし、子(なんじ)是くの如くなりと雖も、大法故らに未だ明らめず」。又一日、圜悟上堂して、五祖演和尚の有句無句の語を挙す。宗杲聞いて言下に大安楽の法を得たりといふ。又、解を圜悟に呈す。圜悟笑って曰く、「吾れ汝を欺かざらんや」。〉

[訳]宗杲は、湛堂のいいつけによって、湛堂の示寂の後に、東京の天寧寺で圜悟禅師に参じた。圜悟がある日、上堂説法した時に、宗杲は、すばらしい悟りに至って、その悟りを圜悟に申し上げた。圜悟は言った、「まだだめだ。君はこのようだと言っても、偉大なる教えはまだ明らめてはいない」。またある日、圜悟が上堂説法して、五祖法演和尚の有句無句の語を取り上げた。宗杲はそれを聞いて一言の下に偉大なるさとりの境界を得た。そこで更に見解を圜悟に差し出した。圜悟は笑って言った、「わたしは君を欺かないでいれようか(わたしは君に本当に言うとでも思っているのか)」。

 

(十七)これ宗杲禅師、のちに圜悟に参ずる因縁なり。圜悟の会にして書記に充す。しかあれども、前後いまだあらたなる得処みえず。みづから普説陞堂のときも得処を挙せず。しるべし、記録者は「神悟」せるといひ、「得大安楽法」と記せりといへども、させることなきなり。おもくおもふことなかれ、たゞ参学の生なり。

[訳]これが宗杲禅師が、後に圜悟に参じた因縁である。圜悟の道場で書記となった。しかしながら、その前後にいまだ新しいさとりは見えてはいない。自ら普説陞堂するときも自身のさとりを取り上げてはいない。このことから知らねばならない、「塔銘」を記録した者は「すばらしいさとり(神悟)」を得たといい、「偉大なるさとりの境界を得た(得大安楽法)」と記録しているといっても、そうであったことは、ないのである。重く思ってはならない、ただ禅を学んだ生涯なのである。

 

(十八)圜悟禅師は古仏なり。十方中の至尊なり。黄蘗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり。他界にもまれなるべき古仏なり。しかあれども、これをしれる人天まれなり、あはれむべき娑婆国土なり。いま圜悟古仏の説法を挙して、宗杲上座を撿点するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらず、いかにいはんや師よりもすぐれたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。

[訳]圜悟禅師は古仏である。中国全土の中の到達された聖人である。黄蘗希運から後において、圜悟のような尊宿はいまだ出ていないのである。この人間界の外でもめったにない古仏なのである。そうではあるが、このことを知っている人間界も天上界もまれであり、それ故にあわれに思われる人間世界である。いま圜悟古仏の説法を取り上げて、宗杲上座を点検すると、宗杲は師に及ぶ智慧をいまだもたず、師と等しい智慧をいまだもたず、ましていわんや師よりもすぐれた智慧は、夢にもいまだ見ないようなものである。

 

(十九)しかあればしるべし、宗杲禅師は減師半徳(51)の才におよばざるなり。たゞわづかに華厳・楞厳等の文句を諳誦して伝説するのみなり。いまだ仏祖の骨髄あらず。宗杲おもはくは、大小の隠倫、わづかに依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、これを仏法とおもへり。これを仏法と計せるをもて、はかりしりぬ、仏祖の大道いまだ参究せずといふことを。圜悟よりのち、さらに他遊せず、知識をとぶらはず。みだりに大刹の主として雲水の参頭なり。のこれる語句、いまだ大法のほとりにおよばず。しかあるを、しらざるともがらおもはくは、宗杲禅師、むかしにもはぢざるとおもふ。みしれるものは、あきらめざると決定せり。つひに大法をあきらめず、いたづらに口吧々地(ははち)のみなり。

[訳]このことから知らねばならない、宗杲禅師は師の半徳を減じてしまう才にも及ばないのである。ただわずかに『華厳経』、『楞厳経』等の文句を諳誦して伝え説くだけにすぎないのである。いまだ仏祖の骨髄ではないのである。宗杲が思っているものは、大小の隠士が、わずかに草木にとりついている霊魂に引き付けられて保持するところの見解を、仏法と思い込んでいるのである。これを仏法と考えていることから、宗杲は仏祖の大道はいまだ参究していないということを推測できるのである。圜悟に参じてより後は、更に他の道場に遊行しないし、知識を尋ねることはなかった。みだりに大寺院の住持となって、雲水修行者の参禅の筆頭であった。残された語句は、いまだ偉大な仏法の周辺まで及んではいない。それなのに、知らない者が思うには、宗杲禅師は、昔にも恥じないすぐれた禅者と思っている。ちゃんと知っている者は、明らめてはいないと決めつけている。つまり、偉大な仏法を明らめずに、無益にぺちゃくちゃと多くを語っているだけである。

 

(二十)しかあればしりぬ、洞山の微和尚、まことに後鑑あきらかにあやまらざりけりといふことを。宗杲禅師に参学せるともがらは、それすゑまでも微和尚をそねみねたむこと、いまにたえざるなり。微和尚はたゞゆるさざるのみなり。準和尚のゆるさざることは、微和尚よりもはなはだし。まみゆるごとには勘過するのみなり。しかあれども、準和尚をねたまず。而今およびこしかたのねたむともがら、いくばくの懡儸(もら)なりとかせん。

[訳]そのことからはっきりしている、洞山の道微和尚は、誠に後世の手本として明らかに誤っていなかったということを。宗杲禅師に参学した者は、末代までも道微和尚を嫉妬し恨んでおり、現在まで絶えることはないのである。道微和尚は単に宗杲を認めなかっただけのことである。文準和尚が認めなかったことは、道微和尚に比べるともっとはげしいのである。二人が出会うごとに、誤りをとり調べただけである。それでも、文準和尚を嫉妬することはない。現在と昔の嫉妬する者は、どれほどの恥であるとするのであろうか。

 

(二十一)おほよそ大宋国に仏祖の児孫と自称するおほかれども、まことを学せるすくなきゆゑに、まことををしふるすくなし。そのむね、この因縁にてもはかりしりぬべし。紹興のころ、なほかくのごとし。いまはそのころよりもおとれり、たとふるにもおよばず。いまは仏祖の大道なにとあるべしとだにもしらざるともがら、雲水の主人となれり。

[訳]およそ大宋国に仏祖の児孫と自ら称する者は多いけれども、真実を学ぶ者は少ないから、真実を教える者も少ないことになる。そのことは、この宗杲の因縁でも推測できる。紹興の間でも、このようなのである。今はそのころよりも劣っているし、それをたとえるまでもないことである。今は仏祖の大道はどのようであるべきだということさえも知らない者が、雲水修行者の指導者となっている。

(二十二)しるべし、仏々祖々、西天東土、嗣書正伝は、青原山下これ正伝なり。青原山下よりのち、洞山おのづから正伝せり。自余の十方、かつてしらざるところなり。しるものはみなこれ洞山の児孫なり、雲水に声名をほどこす。宗杲禅師なほ生前に自証自悟の言句をしらず、いはんや自余の公案を参徹せんや。いはんや宗杲禅老よりも晩進、たれか自証の言をしらん。

[訳]このことから知らねばならない、仏仏祖祖、インドや中国の祖師が、嗣書を正しく伝えられたのは、青原行思の系統が正伝であることを。青原行思の系統の後では、洞山良价に自然と正しく伝わっている。他の中国全土の人々は、一度たりとも知らないところなのである。知っている者はすべて洞山の児孫なのであり、雲水修行者の中にその声名が伝わっている。宗杲禅師はいまだ生前に自証自悟の言句を知らないし、ましていわんや他の公案を徹し切ったであろうか。ましていわんや宗杲禅老よりも後輩の者が、誰が自証の言葉を知ろうか。

 

(二十三)しかあればすなはち、仏祖道の道自道他、かならず仏祖の身心あり、仏祖の眼睛あり。仏祖の骨髄なるがゆゑに、庸者の得皮にあらず。

  正法眼蔵第六十九

爾時寛元二年甲辰二月二十九日、在越宇吉峰精舎示衆

同四月十二日、越州在吉峰下侍者寮書写之  懐弉

[訳]そのことから、仏祖の言葉の自と言い他と言うのは、必ず仏祖の身心があり、仏祖の眼睛があるのである。仏祖の骨髄であるが故に、おろか者が皮を得たことではないのである。

正法眼蔵第六十九

  爾時寛元二年甲辰(一二四四)二月二十九日に越州吉峰精舎にて示衆す。

  同四月十二日に越州の吉峰下の侍者寮でこれを書写す。  懐弉。

 

四  おわりに

 『説心説性』と『自証三昧』の巻を取り上げ、道元の大慧宗杲批判に問題を絞って検討する為に両巻の試訳をも終えた。この問題をまとめるに当たって、極めて示唆を与えてくれる箇所に十二巻本『正法眼蔵』に含まれる『深信因果』の巻がある。『深信因果』については、既に「『深信因果』『三時業』考」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第五八号、二〇〇〇年三月)の論文で公表したことがあるが、その中に次の百丈野狐の話の大慧宗杲の頌とその説に対する道元の一文を見出すことができる。

  杭州径山大慧禅師宗杲和尚、頌に云、

   不落不昧、石頭土塊。

   陌路相逢、銀山粉砕。

   拍手呵呵笑一場、明州有箇憨布袋。

  〈不落不昧、石頭土塊。

   陌路に相い逢うて、銀山粉砕す。

 拍手して呵呵として笑い一場、明州に箇の布憨袋(かんほてい)有り。〉

  これらをいまの宋朝のともがら、作家の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ仏法の施権のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり。

  おほよそこの因縁に、頌古・拈古のともがら、三十余人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに紛紜のなかに一生をむなしくせり。仏法参学には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらく猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを。

[訳]杭州径山大慧禅師宗杲和尚は、頌で云っている。

  「不落」というも「不昧」というも、所詮は石頭(いし)と土塊(つちくれ)のようなもの。

   これにあぜ道でひょっと出くわすと、銀山は粉々に粉砕する。

   手拍子打ってワッハッハ!と大笑いの一幕、明州にはまぬけな布袋さんがちゃんといる。

  これらの見解をいまの宋朝の人々は、禅の大家の祖師と思い込んでいる。だが、宗杲の見解は、まだ仏法の施設の仮の教えの趣旨に及んでいないし、ともすれば自然外道の見解の傾向にある。

  そもそも、この因縁に、頌古・拈古する人々は、三十余人いる。だが、一人として、不落因果は因果を無視するものと疑問にする者がいない。悲しいことよ。これらの人々は、因果を明らかにせず、空しくごたごたの中で一生を無駄に過ごすのである。仏法を参学するには、絶対に因果を明かにすることである。因果を無視するようでは、おそらく猛々しいの邪見を起こして、善根を断つ者と成るであろう。

  この『深信因果』の一文に接すると、『自証三昧』で大慧宗杲を具体的に取り上げる前に、第十一段で次のように言っていたことが思い出されるのである。

  しかあるに、自証自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、「師に伝受すべからず、自学すべし」。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまへざらんともがら、いかでか仏道人ならん。いはんや自証の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乗の自調に同ぜん。大乗小乗をわきまへざるともがら、おほく仏祖の児孫と自称するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

  このことから考えると、先に大慧宗杲の頌を「いまだ仏法の施権のむねにおよばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり」と批判していることは重要であろう。また、当時の頌古・拈古を一切認めていない点も注目してよい。更に既に発表している『仏教(52)』の次の文とも深く関連している。もちろん『仏教』の道元の批判は、今指摘しようとすることと関係するともいえようが、取りあえず密接な『仏教』の一文のみは示しておこう。

  ある漢いはく、釈迦老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶迦葉に正伝す、嫡々相承しきたれり。しかあれば、教は赴機の戯論なり、心は理性の真実なり。この正伝せる一心を、教外別伝といふ。三乗十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆゑに、直指人心、見性成仏なりといふ。

  この道取、いまだ仏法の家業にあらず。出身の活路なし、通身の威儀あらず。かくのごとくの漢、たとひ数百千年のさきに先達と称ずとも、恁麼の説話あらば、仏法・仏道はあきらめず、通ぜざりけるとしるべし。ゆゑはいかん。仏をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かつて仏法をきかざるによりてなり。いま諸仏といふ本末、いかなるとしらず。去来の辺際すべて学せざるは、仏弟子と称ずるにたらず。たゞ一心を正伝して、仏教を正伝せずといふは、仏法をしらざるなり。仏教の一心をしらず、一心の仏教をきかず。一心のほかに仏教ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。仏教のほかに一心ありといふ、なんぢが仏教いまだ仏教ならざらん。たとひ教外別伝の謬説を相伝すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。

[訳]ある者が言っている。釈尊は、かつて一生涯の教典を説法するほかに、さらにその上にすぐれた一心の法を摩訶迦葉に正伝して、後継ぎから後継ぎに相承してきた。そのことから、教えは相手の能力に応じての利益の無い論であり、心こそが不変の真理である。この正しく伝わった一心を、教外別伝(教の外に別に伝えられたもの)という。教典で説く三乗十二分教の説と同じはずがない。一心こそ上乗であるから、直指人心、見性成仏(ズバリ人心を指し示し、本性を徹見して成仏する)という。

  この言い方は、いまだ仏法の正しいすがたではない。さとりの活々としたはたらきではないし、全身にみなぎる振る舞いではない。このような者は、たとい数百千年の前の先達と称したとしても、このような説があるならば、仏法・仏道は明らめてはいないし、通じてもいないと知るべきである。なぜか。彼らは、仏を知らず、教えを知らず、心を知らず、内を知らず、外を知らないからである。その知らないわけは、かつて仏法を聞かないことによるのである。今もろもろの仏たちという本と末とは、いかなるものかを知らず。ありのままに去り、ありのままに来たるありようを全く学ばないのは、仏弟子と称することはできない。ただ一心のみを正しく伝えて、仏教を正しく伝えないというのは、仏法を知らないからである。仏教の一心を知らず、一心の仏教を聞かないのである。一心のほかに仏教があるというが、お前の一心は、まだ一心ではない。仏教のほかに一心があるというが、お前の仏教はまだ仏教でないだろう。たとい教外別伝の誤った説を相伝したといっても、お前がいまだ内外を知らないのであれば、言葉と道理が符合しないのである。

  ところで、二祖慧可の説心説性の語が『大慧語録』巻二七から引用されていることを指摘したが、それはいわゆる『大慧書』の「答劉宝学」の箇所である。その前後を荒木見悟博士の現代語訳を参考に付してみてみよう。

  昔達磨謂二祖曰、「汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」。二祖種種説心説性、倶不契。一日忽然省得達磨所示要門。遽白達磨曰、「弟子此回始息諸縁也」。達磨知其已悟、更不窮詰。只曰、「莫成断滅去否」。曰、「無」。達磨曰、「子作麼生」。曰、「了了常知、故言之不可及」。達磨曰、「此乃従上諸仏諸祖所伝心体、汝今既得、更勿疑也」。彦沖云、「夜夢昼思十年之間、未能全克。或端坐静黙、一空其心、使慮無所縁、事無所託、頗覚軽安」。読至此不覚失笑。何故。既慮無所縁、豈非達磨所謂内心無喘乎。事無所託、豈非達磨所謂外息諸縁乎。二祖初不識達磨所示方便、将謂外息諸縁、内心無喘、可以説心説性、説道説理、引文字証拠、欲求印可。所以達磨一一列下。無処用心、方始退歩、思量心如牆壁之語、非達磨実法、忽然於牆壁上、頓息諸縁。即時見月忘指。便道、「了了常知、故言之不可及」。此語亦是臨時被達磨拶出底消息、亦非二祖実法也。

  昔、達磨は二祖に、「お前はただ外には諸縁との交わりをとどめ、内心はいきぎれしないで、心が壁のように安定すれば、道に入ることができる」と言いました。二祖はあれこれと心と説き性と説いたが、いずれも(達磨の意に)契いません。ある日はっと達磨が示す肝要の法門をさとって、だしぬけに達磨に打明けて、「わたくしはこのたびやっと諸縁への執著がなくなりました」と言いました。達磨は、彼がもはや悟ったことを知って、それ以上問いつめないで、ただ、「断滅となることはないかな」と言いました。二祖は、「ありません」とこたえました。達磨「お前(の心境)はどうかね。」二祖、「あきらかに本分として自覚していますから、言葉で表現するわけにもまいりません。」達磨「これこそは従来の諸仏諸祖が伝えた心の本体である。お前は今や(それを)体得した。この上ためらってはならない」。彦沖(の手紙に)は、「ここ十年の間、夜は夢をみ昼は思いにふけりましたが、まだ十分には(識浪に)かつことができません。時に端坐静黙してひたすら心を空にし、思慮は分別せず、事物はとらわれないようにして、まあまあ気分がのびやかにおちつくのを感じます」と言っています。ここまで読んで、思わずふき出しました。そのわけは、思慮が分別しないからには、達磨のいう「内心がいきぎれしない」ことではありませんか。事物にとらわれないからには、達磨のいう「外は諸縁との交わりをとどめる」ことではありませんか。二祖も初めは達磨の指示する方便がわからず、外は諸縁との交わりをとどめ、内心がいきぎれしなければ、心を説き性を説き道を説き理を説くことができると思い、文献上の証拠を引用して(師の)印可を求めようとしました。だから達磨は次々に却下しました。(二祖は)心のもって行き場がなくなって、やっと後ずさりして、「心は壁のようだ」という言葉は、達磨の真実法門ではないと思量して、はっと「壁」(という言葉)について、即座に諸縁との交わりをとどめました。その時(真如の)月を見て指を忘れ、「あきらかに本分として自覚していますから、言葉で表現するわけにもまいりません」と言いました。(ですが)この言葉だって、その場に望んで達磨から触発された表現でして、

やはり二祖の真実法門ではありません。(筑摩書房本八五~八七頁)

  二祖の説心説性の引用はこのように確認できるのであるが、大慧の出典に関して『説心説性』で問題となるのは、次の第四段の大慧の語である。

  後来、径山大慧禅師宗杲といふありていはく、「いまのともがら、説心説性をこのみ、談玄談妙をこのむによりて、得道おそし。但まさに心性ふたつながらなげすてきたり、玄妙ともに忘じきたりて、二相不生のとき、証契するなり」。

  大慧の著述の中にその文と全く同じものは見出せない。 も近いものに法語があり、『大慧語録』巻二四に次のようにある。既に現代語訳は『禅語録』(中央公論、一九九二年一一月)二四二頁で公表しているが、訓読文を添えて紹介しよう。

    示妙総禅人

  古聖云、「道不仮修、但莫汚染」。山僧道、説心説性是汚染、説玄説妙是汚染、坐禅習定是汚染、著意思惟是汚染、只今恁麼形紙筆、是特地汚染。降此之外、畢竟如何是著実得力処。金剛宝剣当頭截、莫管人間是与非。総禅但恁麼

参。(大正巻四七―九一六ab)

[訓読]「妙総禅人に示す」

  古聖云う、「道は修を仮らず、但だ汚染すること莫れ」。山僧道う、心と説き性と説くは是れ汚染、玄と説き妙と説くは是れ汚染、坐禅習定は是れ汚染、著意思惟は是れ汚染なり。只だ今、恁麼に紙筆に形るとも是れ特地に汚染なり。これを降すの外、畢竟して如何が是れ著実得力の処。金剛宝剣、当頭に截り、人間の是と非とを管すること莫れ。総禅よ、但だ恁麼に参ぜよ。

  更に「二相不生」の語は、岩波文庫本の脚注にも示すように、『首楞厳経』巻六の「初於聞中、入流亡所。所入既寂、動静二相、了然不生(」大正巻一九―一二八b)であり、大慧がよく引用する語であるが、やや長文ながら同じく『大慧語録』巻二四の法語を訓読を付し、四段に分けて参考に紹介しよう。

    示莫宣教〈潤甫〉

(1)為学為道一也。為学則学未至聖人、而期於必至。為道則求其放心於物我。物我一如、則道学双備矣。士大夫博極群書、非独治身求富貴取快楽。道学兼具、拡而充之。然後推己之余、可以及物。

(2)近世学者、多棄本逐末、背正投邪。只以為学為道為名専以取富貴張大門戸、為決定義。故心術不正、為物所転。俗諺所謂只見錐頭利、不見鑿頭方。殊不知、在儒教則以正心術為先。心術既正、則造次顛沛無不与此道相契。前所云為学為道一之義也。在吾教、則曰若能転物即同如来。在老氏、則曰慈、曰倹、曰不敢為天下先。能如是学、不須求与此道合。自然黙黙与之相投矣。

(3)仏説一切法、為度一切心。我無一切心、何用一切法。当知読経看教、博極群書、以見月亡指、得魚亡筌、為第一義、則不為文字語言所転、而能転得語言文字矣。不見、昔有僧問帰宗和尚、「初心如何得箇入処」。宗以火著敲鼎蓋三下云、「還聞否」。僧云、「聞」。宗云、「我何不聞」。宗又敲三下問、「還聞否」。僧云、「不聞」。宗云、「我何以聞」。僧無語。宗云、「観音妙智力、能救世間苦」。

(4)潤道友夙植徳本、信得此段大事因縁及、念念無間断。但於一切文字語言上、未能見月亡指、得魚亡筌爾。苟於帰宗示誨処領略、方知観音悟円通、与帰宗聞与不聞之義、無二無別。何以知其然也。初於聞中、入流亡所。所入既寂、動静二相、了然不生。動相不生、則世間生滅之法滅矣。静相不生、則不為寂滅所留係矣。如於此二中間、不住動相、亦不為静相所困、則観音所謂生滅既滅、寂滅現前。得到這箇田地、始得身心一如、身外無余、頭頭上明、物物上顕矣。非是強為、法如是故。潤甫勉之。(大正巻四七―九一三ab)[訓読]莫宣教潤甫に示す。

(1)学を為すも道を為すも一なり。学を為さば、則ち学未だ聖人に至らざれば、必ず至るを期す。道を為さば、則ちそれ心を物我を放つことを求む。物我一如なれば、則ち道学双び備る。士大夫は博く群書を極め、独り身を治め富貴を求め快楽を取るにあらず。道学兼て具して、拡げて之を充すべし。然して後、己が余を推してもって物に及ぶべし。

(2)近世の学者は、多く本を棄て末を逐い、正に背き邪に投ず。只だ学を為すも道を為すももって名の為に専ら富貴を取って門戸を張大するをもって決定の義を為す。故に心術正からざれば、物の為に転ぜらる。俗の諺に所謂る只だ錐頭の利を見て鑿頭の方を見ず。殊に知らず、儒教に在らば、則ち心術を正すをもって先と為すを。心術既に正しければ、則ち造次顛沛、此の道と相い契わざるなし。前に云う所の「学を為すも道を為すも一なり」の義なり。吾が教えに在らば、則ちもし能く物を転ずれば如来と同じと曰う。老氏に在りては、則ち慈と曰い、倹と曰い、敢て天下の先と為さずと曰う。能くかくのごとく学すれば、この道と合することを求むるを須(もち)いず。自然に黙黙としてこれと相い投ず。

(3)「仏の一切法を説くは一切心を度せんが為なり。我に一切心無し。何ぞ一切法を用ん」。当に知るべし、経を読み教を看て博く群書を極めるは、月を見て指を亡(わす)れ、魚を得て筌を亡るをもって第一義と為すは、則ち文字語言の為に転ぜられずして、能く語言文字を転得す。見ずや。昔、僧有りて帰宗和尚に問う、「初心、如何が箇の入処を得ん」。宗は火箸をもって鼎蓋を敲くこと三下して云う、「還(は)た聞くや」。僧云う、「聞く」。宗云う、「我、何ぞ聞かざる」。宗また敲くこと三下して問う、「還た聞くや」。僧云う、「聞かず」。宗云う、「我、何以(なにゆえ)に聞く」。僧、語ること無し。宗云う、「観音妙智力、能救世間苦」。

(4       潤甫道友、夙に徳本を植え、この段の大事因縁を信得及して念念間断無し。但だ一切文字語言の上において未だ月を見て指を亡れ、魚を得て筌を亡る能わざるのみ。もし帰宗示誨の処において領略せば、方(はじ)めて知らん、観音の円通を悟ると帰宗の聞と不聞の義と無二無別なることを。何をもってその然るを知るや。初め聞の中において流を入(かえし)て所を亡ずと。所入既に寂なれば、動静の二相、了然として生ぜず。動相生ぜざれば則ち世間生滅の法滅す。静相生ぜざれば則ち寂滅の為に留係せられず。もしこの二中間において動相に住せず、また静相の為に困せられざれば則ち観音の所謂る「生滅既に滅すれば寂滅現前す」というなり。這箇の田地に到ることを得れば、始めて身心一如なることを得、身外無余なること、頭頭上に明らかに物物上に顕わる。是れ強いて為すにあらず、法はかくのごときが故に。潤甫、之を勉めよ。(現代語訳は『禅語録』二二三~二二六頁参照)

  ここでは道元が否定する大慧の三教一致思想の問題もあるが、両法語を会わせれば、道元のいう大慧説の概要は出てくるであろう。

  因みに、道元は入宋して直接に大慧派の禅者を見聞し、参じている(53)ことは付記する必要があろう。主な禅者に仏照徳光の下の孤雲道権(54)と無際了(55))がいるが、特に大慧宗杲の法嗣の仏照徳光に対して厳しい批判を師の天童如浄を通して『行持』で行っていることは有名である。

  衲子を教訓するにいはく、「参禅学道は第一有道心、これ学道のはじめなり。いま二百来年、祖師道すたれたり、かなしむべし。いはんや一句を道得せる皮袋すくなし。某甲そのかみ径山(きんざん)に掛錫するに、光仏照そのときの粥飯頭(しゅくはんじゅう)なりき。上堂していはく、『仏法禅道かならずしも他人の言句をもとむべからず、たゞ各自理会』。かくのごとくいひて、僧堂裏都不管なりき。雲来兄弟也都不管なり。祇管与官客相見追尋〈祇管に官客と相見シテ追尋(ツイシム)〉するのみなり。仏照、ことに仏法の機関をしらず、ひとへに貪名愛利のみなり。仏法もし各自理会ならば、いかでか尋師訪道の老古錐あらん。真箇是光仏照、不曾参禅也〈真箇是(こ)れ光仏照、曾て参禅せ不(ざ)る也(なり)〉。いま諸方長[老]無道心なる、たゞ光仏照箇児子也。仏法那他手裏有〈光仏照箇の児子也(なり)。仏法那(いづく)んぞ他(かれ)が手裏に有ること得ん〉。

可惜、可惜」。

かくのごとくいふに、仏照児孫おほくきくものあれど、うらみず。(石井修道『道元禅師 正法眼蔵行持に学ぶ』四八〇~八一頁。岩波文庫本一―三九二~三頁参照)

  ここに仏照徳光のいう「各自理念」が、大慧批判の「自証自悟」と結びついていることはもちろんであり、更に仏照徳光が日本達磨宗の大日房能忍とも結びつき、多くの道元門下の対機においても大慧批判が関わることも指摘されているのである。

  この論文では道元が直接に批判した『説心説性』と『自証三昧』を取り上げたのではあるが、道元禅なるものの基本主張を考える時に、大慧禅とは多くの主張において異なり(56)、しかもそれが道元禅の本質に関わる場合が多いのであるが、これからも道元禅の性格をより明確にして行きたい。

(1)大慧宗杲に……=まとまったものとして、『禅語録』(中央公論社、一九九二年一一月)をあげておこう。

(2)陸川堆雲「道元禅師の大慧禅師批判について」(『禅学研究』第五五号、一九六六年二月)は、無著道忠の『正法眼蔵僭評』の道元の批判を継承し、道元の『説心説性』や『自証三昧』の基づく資料を「不完全なる写本又は初刊年譜」によるといい、それによって大慧を批判したものとする。道元の出典研究の成果から言って、「不完全なる写本又は初刊年譜」ということはありえないし、初刊年譜の当時の存在は考えられない。『正法眼蔵僭評』については改めて検討したい。

(3)その典型的な例が道元の「磨裼作鏡」の話である。石井修道『道元禅師  正法眼蔵行持に学ぶ』(禅文化研究所、二〇〇七年二月)参照、以下、この拙著の指摘は省略する。

(4)『嘉泰普燈録』=仁治三年(一二四二)四月五日に示衆された『行持下』の芙蓉道楷の法語、一般に「祇園正儀」と言われる文は、『嘉泰普燈録』巻二五からの引用である。また、十二巻本『正法眼蔵』の『四禅比丘』の雷庵正受の序文批判も晩年の引用であるが有名である。石井修道「『四禅比丘』考」(『駒澤大学仏教学部論集』第三二号、二〇〇一年一〇月)参照。

(5)岩波文庫本の脚注に「伝燈録三、達磨章別記」とある。近年の研究成果の鏡島元隆監修『道元引用語録の研究』(春秋社、一九九五年三月)では、第一次出典として次の『宗門統要集』巻一を指摘する。師謂二祖曰、「汝但外息諸縁、内心無喘、心如牆壁、可以入道」。二祖作種種説心説性不契。一日忽悟、乃曰、「可以息諸縁也」。達磨曰、「莫成断滅去不」。曰、「無」。磨云、「子作麼生」。二祖曰、「了了常知、故言之不可及」。達磨曰、「此諸仏之所伝心体。更勿疑也」。

これも後に指摘する『大慧語録』巻二七に比べると二次資料であることは明白である。

(6)神山僧密禅師……=神山僧密の伝不詳。雲巌曇晟の法嗣。洞山良价と同参。潭州(湖南省)の神山に住す。その出典は『宗門統要集』巻七「神山僧密章」(宋版四三丁右)。真字『正法眼蔵』六二則にも引用される。

(潭州神山僧密禅師)師因与洞山行次、洞指路傍院云、「裏面有人説心説性」。師云、「是誰」。洞云、「被師伯一問、直得去死十分」。師云、「説心説性底誰」。洞云、「死中得活」。

(7)洞山悟本大師=良价(八〇七―八六九)。諡号は悟本大師。会稽の人。俗姓は兪氏。雲巌(岩)曇晟の法嗣。江西省の广州洞山で活躍す。

(8)大地有情同時成道=石島尚雄「「大地有情同時成道」再考」(『曹洞宗研究員紀要』第一二号、一九九八年一〇月)で、『建中靖国続燈録』巻三開先善暹章の「老胡也祇道、明星出現時、我与大地有情同時成道」(続蔵巻一三六―三六右下)を出典とする説が指摘されている。

(9)一切衆生無仏性=潙山霊祐の語とされる。『仏性』の巻参照。『説心説性』はこの箇所に限らず『仏性』と多く関連する。

(10)拈花……微笑……=真字『正法眼蔵』二五三則。

   昔日霊山百万衆前、世尊拈花瞬目。時迦葉一人、破顔微笑。世尊云、「我有正法眼蔵、付属摩訶大迦葉」。

(11)礼拝依位而立=真字『正法眼蔵』二〇一則。

第二十八祖菩提達磨尊者〈嗣般若多羅尊者、諡曰円覚大師〉将返西天、謂門人云、「時将至矣、汝等蓋言所得乎」。時門人道副曰、「如吾所見、不執文字、不離文字、而為道用」。師云、「汝得吾皮」。尼惣持曰、「如我今所解、如慶喜見阿閔僅仏国、一見更不再見」。師云、「汝得吾肉」。道育云、「四大本空、五蘊非有、而我見処、無一法可得」。師曰、「汝得吾骨」。 後慧可出礼拝後、依位而立。師曰、「汝得吾髄」。於是伝法付衣。

『礼拝得髄』『葛藤』等及び石井修道「『礼拝得髄』考」(『駒澤大学仏教学部論集』第三七号、二〇〇六年一〇月)参照。

(12)祖師入梁=『行持』巻下、「初祖金陵にいたりて梁武と相見するに……」(岩波文庫本一―三四五頁以下)。

(13)夜半伝衣=『行持』巻上、「六祖は新州の樵夫なり、有識と称じがたし。いとけなくして父を喪す、老母に養育せられて長ぜり。樵夫の業を養母の活計とす。十字の街頭にして一句の聞経よりのち、たちまちに老母をすてて大法をたづぬ。これ奇代の大器なり、抜群の辦道なり。断臂たとひ容易なりとも、この割愛は大難なるべし、この棄恩はかろかるべからず。黄梅の会に投じて八箇月、ねぶらず、やすまず、昼夜に米をつく。夜半に衣鉢を正伝す。得法已後、なほ石臼をおひありきて、米をつくこと八年なり。出世度人説法するにも、この石臼をさしおかず、奇世の行持なり」(同三〇八~三〇九頁)。

(14)平常=『永平広録』巻八「法語」二に「又有僧問馬祖、『如何是道』。祖曰、『平常心是道』」(春秋社本四―一四〇頁)とあるので、馬祖道一とする。『永平広録』巻四―二九二上堂では、南泉普願の語とあり、岩波文庫本も南泉普願とする。

(15)牆壁瓦礫=南陽慧忠の語であり、『古仏心』参照。

(16)心生種種法生、心滅種種法滅=『景徳伝燈録』巻七「大梅法常章」に「師上堂示衆曰、『汝等諸人、各自迴心達本。莫逐其末。但得其本、其末自至。若欲識本、唯了自心。此心元是一切世間出世間法根本。故心生種種法生、心滅種種法滅。心但不附一切善悪而生。万法本自如如』」(禅文化本一一〇~一一一頁)などとあり、『大乗起信論』(大正巻三二―五七七b)の語としてよく指摘される。

(17)径山大慧禅師宗杲……=大慧宗杲については、伝記などは既に述べたが、ここの出典に関しては不明で、このことに関しては後述する。

(18)性は澄湛寂静……=この語については、後の十一段参照。また後にも検討する。

(19)皮肉骨髄=前の註(11)参照。

(20)知見解会=一般に迷いの悪い意味で使用されるが、ここは心性のはたらきのよい意味。

(21)爾時初祖……=既に指摘したように、新たな出典が判明した。『大慧語録』巻二七(大正巻四七―九二五b)に依る。

同様の引用は四巻本『大慧普説』巻四に付された「示王通判(大任)」(宋版六四丁左~六五丁左)の法語にもある。

士大夫学道、不出二種膈路。一曰忘懐。一曰著意。所謂著意者、杜撰長老喚作管帯是也。忘懐者、杜撰長老喚作黙照是也。管帯・黙照二種病不除、則不能出生死。所謂生死者、本無形段。只為学道人生死心不破、故受輪回。若生死心破、則輪回之性即是解脱之場。然輪回・解脱悉是仮名、亦無形段可得。若能於日用中常如是観察、則日久月深無有不得底。「昔達磨謂二祖曰、『汝但外息諸縁、内心無喘、心如墻壁、可以入道』」。二祖種種説心説性、引文字作証、並不契達磨意。前所云忘懐・著意、正謂此也。若不著意、則諸縁息矣。若不忘懐、則内心定矣。内心定、則自然与墻壁無殊。亦不著将心安排計度、然後得如墻壁也。但只就疑不破処参。参時切忌将心等悟。若将心等悟、則沒交渉矣。生死心未破、則全体是一団疑情。只就疑情窟裏、挙箇話頭。「僧問趙州、『狗子還有仏性也無』。州云、『無』」。行住坐臥、不得間断、妄念起時、亦不得将心遏捺。但只挙此話頭。要静坐纔覚昏沈、便抖擻精神、挙此話、忽地如瞎老婆吹火和眉毛眼睫一時焼了、不是差事。得如此了、忘懐也得、著意也得。静也得、閙也得。雖全体在輪回中、亦不被輪回所転、借輪回、為游戯之場。得到這箇田地、亦不著将心和会、自然成一片矣。却将三教聖人所説之法、従頭試看一遍。尽説自家屋裏事、更無一字増滅。若不如是、縱勤苦修行経塵沙劫、欲明此事、徒自疲労。忘懐・著意、二倶蹉過。不忘懐不著意是箇甚麼。咄。更是箇甚麼。大任通判学士。但恁麼参。此外別無道理。(石井修道「訳注『大慧普覚禅師法語〈続〉』(上)」(『駒澤大学禅研究所年報』第四号、一九九三年三月)参照。

(22)難行=『景徳伝燈録』巻三「菩提達磨章」に「光悲涙曰、『惟願和尚慈悲、開甘露門、広度群品』。師曰、『諸仏無上妙道、曠劫精勤。難行能行、非忍而忍。豈以小徳小智軽心慢心。欲冀真乗、徒労勤苦』」(禅文化本三二頁)とある。

(23)或従知識、或従経巻=『仏性』をはじめ、『仏経』に出づ。元来、『摩訶止観』巻一下の六即(理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即)の名字即の文中の語。

名字即とは、理は即ち是なりと雖も、日に用いて知らず。未だ三諦を聞かざるを以て、全く仏法を識らず。牛羊の眼が方隅を解せざるが如し。或は知識に従い、或は経巻に従って、上に説く所の一実の菩提を聞き、名字の中に於て、通達し解了して、一切の法は皆な是れ仏法なりと知る。是れを名字即の菩提と為す。亦た是れは名字止観なり。若し未だ聞かざる時は、処処に馳求するも、既に聞くことを得已れば、攀覓の心が息むを止と名づけ、但だ法性を信じて諸を信ぜざるを名づけて観と為す。(大正巻四六―一〇b)。

(24)大悟=『大悟』参照。

(25)仏性といふは……=既に註(9)でも言うように、『仏性』の説示と密接な関係がある。

(26)心は疎動し……=外道見との関連については、後述する。

(27)臨済の道取……=臨済批判の一つで、「無位真人」は『臨済録』でも重要な主張である。

上堂云、「赤肉団上有一無位真人。常従汝等諸人面門出入。未証拠者、看看」。時有僧出問、「如何是無位真人」。師下禅牀把住云、「道道」。其僧擬議、師托開云、「無位真人是什麼乾屎瀘」、便帰方丈。(岩波文庫本二〇頁)。

(28)子をわすれて賊……=『首楞厳経』巻一「仏告阿難、此是前塵虚妄相想、惑汝真性。由汝無始至于今生、認賊為子。失汝元常、故受輪転」(大正巻一九―一〇八c)による。同語は『円覚経』(大正巻一七―九一九c)にも出づ。

(29)張三……李四……=「張」も「李」もありふれた姓で、張の三男坊と李の四男坊のこと。『大慧語録』巻八にも次のようにある。

示衆。挙。僧問雲門、「如何是道」。門云、「透出一字」。師云、「透出一字、却不相似。急転頭来、張三李四」。下座。(大正巻四七―八四三b)

(30)自証三昧……=『抄』に「先ヅ自証三昧と云ふ詞に付キて、打任セて人の思ヒ習したるやうは、証は他によらず、自らさとるを自証と云フと心得。今の自証の自、全ク他に対したる自にあらず。且クは「諸仏七仏より仏仏祖祖の正伝する所、すなはち修証三昧ナリ」とあり、人の思フが如くならば、自証の道理、仏仏祖祖の正伝する所とは云ヒ難シ。尋常に人の思フ所の自証に違ヒたる條、今御釈顕然なり。又タ名目には自証三昧とあり、御釈には修証三昧とあり。此ノ証と修との詞、只ダ同心なるべし。修して証を待ツと心得ベカラズ。ゆへに証も修も只ダ同心なるべし。此ノ上は教証三昧とも、行証三昧とも、無尽に云フべきなり。更に相違スベカラズ。」(『曹全  注解二』四八二頁)とある。

(31)修証三昧=本山版ノミ「修証三昧」ヲ「自証三昧」ニ作ル。題に変更したのであろうが、修証三昧なるが故に、意味が深まり、道元の主張に巾が出てくると思われる。

(32)曹渓古仏……=道元の「本証妙修」説にとって重要な問答で、真字『正法眼蔵』一〇一則参照。

南嶽山大慧禅師〈嗣曹渓、諱懐譲〉参六祖。祖曰、「従什麼処来」。師曰、「嵩山安国師処来」。祖曰、「是什麼物恁麼来」。師罔措。於是執侍八年、方省前話。乃告祖云、「懐譲会得、当初来時、和尚接某甲、是什麼物恁麼来」。祖云、「你作麼生会」。師曰、「説似一物即不中」。祖曰、「還仮修証否」。師曰、「修証即不無、染汚即不得」。祖曰、「祗此不染汚、是諸仏之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是」。

(33)桃花……竹声……=霊雲志勤と香厳智閑の悟道の話で多く引用される。

(34)半万軸=『優曇華』に「五千四十八巻なり」(岩波文庫本三―三四〇頁)とある。

(35)日面月面=『仏名経』に出る賢劫千仏の第二〇二仏が月面仏、第八五八仏が日面仏である。一八〇〇歳の長寿の日面仏と一日一夜の短命の月面仏。『宏智頌古』三六則参照。

(36)三乗=『仏教』参照。石井修道「『仏教』考」(『多田孝正博士古稀記念論集  仏教と文化』所収、二〇〇八年一一月)も参照されたい。

(37)五乗=『弁道話』(岩波文庫本一―二五頁)に出づ。

(38)九部教=『仏教』(二―三一〇頁)参照。

(39)十二部教=『仏教』(二―三〇五頁)参照。

(40)昨日説は……今日は……=『宗門統要集』巻一「釈迦文仏章」(宋版一一丁右)。

世尊因外道問、「昨日説何法」。云、「説定法」。外道云、「今日説何法」。曰、「不定法」。外道云、「昨日説定法。今日何説不定法」。世尊云、「昨日定、今日不定」。

 『一顆明珠』(一―一八五頁)、『三十七品菩提分法』(三―二八一頁)参照。

(41)志気を衝天=『普勧坐禅儀』に「直饒誇会豊悟兮、獲瞥地之智通、得道明心兮、挙衝天之志気」とある。『景徳伝燈録』巻二九の同安常察の「塵異」に「濁者自濁清者清、菩提煩悩等空平。誰言卞璧無人鑑、我道驪珠到処晶。万法泯時全体現、三乗分処仮安名。丈夫皆有衝天気、莫向如来行処行」(禅文化本六一二頁)とある。

(42)生知=元来、『論語』「季氏篇」の「孔子曰、生而知之者上也。学而知之者次也」の語。『大悟』(岩波文庫本一―二〇九頁)にもこの語が使用される。

(43)大慧禅師宗杲……=ここよりの引用については、既に検討した。

(44)宣州の珵禅師=瑞竹紹珵(生没年不詳)。宝印大師と号す。臨済宗の瑯琊慧覚の法嗣の興教坦に嗣法する。宣州(安徽省)の明教(寂)に住し、太平州(安徽省)の瑞竹寺に遷り、西堂に退居する。

(45)雲門=文偃(八六四―九四九)。賜号は匡真大師。姑蘇(浙江省)の人。俗姓は張氏。雪峰義存の法嗣。韶州(広東省)の雲門山に住す。『雲門広録』三巻あり。

(46)雪竇=重顕(九八〇―一〇五二)。賜号は明覚大師。遂州(四川省)の人。俗姓は李氏。智門光祚の法嗣。蘇州の洞庭翠峰寺、明州の雪竇山資聖寺に住す。『頌古』百則を圜悟克勤が評唱等を加えて『碧巌録』となる。『明覚禅師語録』六巻あり。

(47)洞山の微和尚=道微(生没年不詳)。郢州(湖北省)の大陽山で芙蓉道楷に参じ嗣法す。筠州(江西省)の洞山に住す。

(48)芙蓉和尚=道楷(一〇四三―一一一八)は、沂州(山東省)費県の人。俗姓は崔氏。投子義青の法嗣。郢州の大陽山に住す。随州(湖北省)の大洪山崇寧保寿禅院を経て、東京(河南省)の十方浄因禅院・天寧寺に住す。沂州の芙蓉湖畔に華厳寺を創建す。政和八年五月十四日に示寂す。

(49)湛堂準和尚=文準(一〇六一―一一一五)。興元府(陝西省)の人。俗姓は梁氏。黄龍派の真浄克文に嗣法する。豫章(江西省)の雲巌寺に住し、続いて隆興府の泐潭宝峰禅院に住す。政和五年一〇月二十二日に示寂する。

(50)十王=『十王経』に説く冥土の十王。秦広王(本地不動明王)、初江王(釈迦仏)、宋帝王文殊菩薩)、伍官王(普賢菩薩)、閻魔王地蔵菩薩)、変成王弥勒菩薩)、泰山府君薬師如来)、平等王観音菩薩)、都市王勢至菩薩)、五道転輪王阿弥陀如来)。岩波文庫本脚注及び『禅学大辞典』による。

(51)減師半徳=『景徳伝燈録』巻一六の「巌頭全豁章」。

師与存同辞徳山。徳山問、「什麼処去」。師曰、「暫辞和尚下山去」。徳山曰、「子他後作麼生」。師曰、「不忘」。曰、「子憑何有此説」。師曰、「豈不聞、智慧過師、方伝師教。其或智慧斉等、他後恐減師半徳」。曰、「如是如是。当善護持」。

二士礼拝而退(禅文化本三〇七~八頁)。

(52)『仏教』=註(        36)参照。

(53)大慧派の禅者を見聞し、参じている=道元の大慧禅の影響は初期の主張にあり、『永平広録』巻八「法語」の一一の冒頭は次のように述べる。法語の中には看話禅の特色である公案を与えて指導していたことが知られている。このことから考えて、『説心説性』の大慧禅批判というより、大慧の主張に近い説示が見られる。

全体本然、誰逗処所。通身親切、豈尋蹤由。既超一句、焉労三乗。撒手兮便当、翻身兮即露。実是霊山破顔以後、四七未得添一糸毫。少林徹髄以来、二三何堪減一糸毫者哉。不渉言宣、唯証契。無滞念想、是直指。是以室峰九年之面壁、声名遠聞。黄梅三更之伝衣、風光顕赫。彼倶胝一指、黄檗三頓、百丈払、臨済喝、洞山麻三斤、雲門乾屎椶、未拘生仏之階梯、已超迷悟之辺際者也。何比待証悟於他者、認影終非吾、存知見於体者、逐塊未為人者乎。誠夫、仏祖単伝之旨、言外領略之宗者、不在先哲公案之処、古徳証入之処、不在語句論量之処、問答往来之処、不在知見解会之処、思量念度之処、不在談玄談妙之処、説心説性之処。唯放這柄、不留瞥地、当処団欒、故能満眼矣。(春秋社本四―一六〇~二頁)。

〈全体本然なり、誰か処所に逗(とどこお)らん。通身親切なり、豈に蹤由を尋ねんや。既に一句を超ゆ、焉んぞ三乗に労(わずら)わん。手を撒って便ち当り、身を翻して即ち露わる。実に是れ霊山破顔より以後(このかた)、四七未だ一糸毫を添うること得ず。少林髄に徹してより以来、二三何ぞ一糸毫を減ずるに堪うるものならんや。言宣に渉らず、唯だ証契するのみ。念想に滞ることなし、是れ直指なり。是を以て、室峰九年の面壁、声名遠く聞ゆ。黄梅三更の伝衣、風光顕赫なり。彼の倶胝の一指、黄檗の三頓、百丈の払、臨済の喝、洞山の麻三斤、雲門の乾屎椶、未だ生仏の階梯に拘わず、已に迷悟の辺際を超えたるものなり。何ぞ証悟を他に待つものの、影を認じて終に吾にあらず、知見を体に存するものの、塊(つちくれ)を逐って未だ人の為にせざるものに比せんや。誠に夫れ、仏祖単伝の旨、言外領略の宗は、先哲公案の処、古徳証入の処に在らず、語句論量の処、問答往来の処に在らず、知見解会の処、思量念度の処に在らず、談玄談妙の処、説心説性の処に在らず。唯だ這の柄を放って、瞥地も留めずんば、当処団欒なり、故に能く眼に満つ。〉

(54)孤雲道権=『典座教訓』(大久保道舟編『道元禅師全集』下巻二九八頁)。石井修道『道元禅の成立史的研究』三三〇頁(大蔵出版、一九九一年八月)参照。

(55)無際了派=石井修道「『仏祖』『嗣書』『面授』考」(『駒澤大学仏教学部論集』第三九号、二〇〇八年一〇月)参照。

(56)大慧禅とは……=秋田県宗務所・禅センター主催の祖録に親しむの講義において、二〇〇六年五月二十日に『山水経』を学んだ。その中に大慧系の禅の批判として「無理会話」の語が次のようにあり、今回の大慧批判と関係する。

いま現在大宋国に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小実の撃不能なるところなり。かれらいはく、「いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話ごときは、無理会話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかゝはれる語話は仏祖の禅話にあらず。無理会話、これ仏祖の語話なり。かるがゆゑに、黄蘗の行棒および臨済の挙喝、これら理会およびがたく、念慮にかゝはれず、これを朕兆未萌以前の大悟とするなり。先徳の方便、おほく葛藤断句をもちゐるといふは無理会なり」。(岩波文庫本二―一八九~一九〇頁)

なお、小川隆「無頭話・無理会話―朱子道元の批判」(『『臨済録』―禅の語録のことばと思想』所収、岩波書店、二〇〇八年一一月)参照。

 

駒澤大學佛敎學部硏究紀要第六十七號(平成二十一年三月)pdf資料を

ワード化し提供するものである。   (二谷 タイ国にて)