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現代人による正法眼蔵解説

歴史神学者平泉澄(二・完) 植村 和秀

歴史神学者平泉澄(二・完)

植村   和秀

はじめに

第一章  歴史神学をもたらすもの

      第一節  日本国家の精神的機軸

      第二節  ナショナリズムの変質とその日本的変奏(以上、第三七巻第四号)第二章  国史学の神学的代位(以下、本号)

      第一節  理性と信仰 

      第二節  教義―皇国日本の理念的構成

      第三節  教会と伝道―崎門の復活 おわりに

 

第二章  国史学の神学的代位

  第一節  理性と信仰

 

  国史平泉澄は、歴史神学者平泉澄たらんと欲した。平泉は、自己の国史家としての抜群の学識と、東京帝国大学国史学講座の職責をもって、日本の歴史に一個の神学的な構成を枠付けようとしたのである。平泉の目算によれば、それは、日本国家の精神的機軸を真に確立し、ネイション意識の集約を精神的かつ創造的に遂行する試みなのであり、首尾良く成功すれば、日本人の理性に信仰の支柱をもたらし、日本への信仰に理性的な均衡をもたらすはずであった。そして、そのためにまず平泉は、理性の優位する学者たちと、信仰の沸騰する国士たちの双方に、この構成の意義を自覚させる必要があったのである。

  大正の末年から昭和の始めにかけて、平泉の心意はこの要点にかけられていたと推測する。大正一五年四月に、平泉は文学博士の学位を授与され、東京帝国大学助教授に任命された。そして同年中に、『中世に於ける精神生活』と『我が歴史観』、そして『中世に於ける社寺と社会との関係』の三冊が上梓され、三〇代前半にして学界の大家たることが明白となった。その業績を示した上で、平泉は、まず歴史の専門的な研究者たちに対して、国史研究における神学的構成の意義の自覚を呼びかけたように思われる。すなわち、大正一四年四月の史学会例会に講演され、同年五月発行の『史学雑誌』に掲載された「歴史に於ける実と真」の一文である。

  そこで平泉は、イタリアの哲学者ベネデット・クローチェの行論を踏まえ、それを日本に応用した。クローチェは『歴史の理論と歴史』において、「文献学的歴史は多分正しくはあり得るが決して真なり得ない」と力説し、「真実さを欠くが故にまた真の史的関心を欠く」と断罪していたのである(34)。そして平泉は、新井白石の実証の不備を論証しつつも、それがかえって歴史の真に迫ることを力説し、あるいは、「板垣死すとも自由は死せず」の一言の、実ならざるも真を伝えることを指摘して、学問的な歴史研究の趨勢を以下のように批判している。

 「惟ふに史実の正確のみを期して文書記録の精査に耽り、而して歴史の生命の失はれゆくを顧みなかったのは、近代学風の一弊害である。博覧洽聞、殊に一切妄誕の記事を棄てゝ専ら当時実際に働きたる文書又は之に関係し之を見聞せる人々の記録に拠り、正確動かすべからざる説を立つるは其の長所ではあらうが、しかもそこに現るる人物は往々にして魂なき骸であり、従ってその歴史は精神を失ひ、真を逸せる空文に過ぎない。予は近時学界に現るゝ諸種の論文を読むごとに、この歎を重ねざるをえない。この道を辿るとき、歴史は偶然のうつりゆきであり、人は甲乙を別たず一箇の生理的存在に過ぎないからである。かくて史学は煩瑣見るに堪えざる骨董の分析であり、青年の気力を枯らし霊魂を眠りに導く毒酒となるであろう(35)」。

  平泉の講演を行った史学会は、日本における専門的な歴史研究者たちの本拠地の一つであった。これは明治二二年の創設にかかり、現在まで引き続き、東京大学文学部の管掌して『史学雑誌』を発行する学会である。その発会式兼第一回学会において、発起人の中心で当時の代表的な国史家である重野安繹東京帝国大学文科大学教授は、「史学ニ従事スル者ハ其心至公至平ナラザルベカラズ」と題する講演を行った。

「歴史ハ時世ノ有様ヲ写シ出スモノニシテ、其有様ニ就キ考案ヲ加ヘ、事理ヲ證明スルコソ、史学ノ要旨ナラン、然ルニ歴史ハ名教ヲ主トスト云フ説アリテ、筆ヲ執ル者、動モスレハ其方ニ引付ケテ、事実ヲ枉クル事アリ、世教ヲ重ンスル点ヨリ云ヘハ、殊勝トモ称スヘキナレトモ、ソレカ為メ実事実理ヲ枉クルニ至ルハ、世ノ有様ヲ写ス歴史ノ本義ニ背ケリ、唯其実際ヲ伝ヘテ、自然世ノ勧懲トモナリ、名教ノ資トナル、是即所謂公平ノ見、公平ノ筆ナリ(36)」。

  この学会において平泉の行った講演は、それでは重野への挑戦状であったのであろうか。ちなみに、重野安繹は明治四四年に長逝するまで、実に二〇年の長きに亙って史学会会長を務め、その発展に尽力し続けた。重野の尊重した「実事実理」の考究は、大学アカデミズムの堅実さと信頼感を生み出すとともに、たしかに無味乾燥の弊をもたらしはした。しかし、それをもって平泉が、重野の「実事実理」の考究を斥けたとするのは速断であると考える。平泉自身はむしろ、重野の心を発展的に継承しようとしたとも考えられるからである。    重野は史学会発会の目的を、「今此会ヲ開クハ、従来史局ニ於テ採集セシ材料ニ依リ、西洋歴史攷究ノ法ヲ参用シテ、国家ヲ裨益セント欲スルナリ」としていた(37)。これは全く、平泉の共感する目的である。重野はまた、「歴史ノ事ヲ大別スレハ、攷究ト編修トノ二ナリ」として、歴史研究を実証で終らせてはならないと警告しており(38)、平泉の講演はこれに和して、歴史研究における構成の重要性を説くものだったと把握することができよう(39)。もとより重野の実際は、攷究への努力に強く傾くことにはなった。しかしこれは、国史学の新たな第一世代に必要な傾向であったし、それは幕末の薩摩藩で「尊王主義、勧懲主義(40)」の歴史書を編修した重野の転身としても、あるいは、その一面としても理解しうるものである。平泉澄が考証史家として群を抜く実証の大家であったことも考え合わせると、果して、重野と平泉は断絶していると言うべきなのであろうか(41)。

  この重野安繹にせよ、三上参次黒板勝美にせよ、国史学科の先任教授たちと平泉との距離は、実はきわめて近かったのではないか。流刑先の奄美大島西郷隆盛と語り合った漢学者重野(42)、荻生徂徠への贈位を峻拒した國體論者三上(43)、南朝正統論の闘将にして国士たる黒板(44)、これらの先任教授たちと平泉とは、マルクス主義に走る若い歴史家たちと比べて、はるかに肝胆相照らす仲だったように思われる(45)。しかもその距離は、政治的立場の相違というよりも、むしろ拠って立つ教養そのものの相違、思想や生活における江戸時代との連続性の有無に由来していたのではないだろうか。ちょうど、津田左右吉美濃部達吉柳田國男長谷川如是閑たちが、丸山眞男と深く断絶していたのと同様に、江戸時代の名残りとの断絶を、われわれはここにも見出すのである。

  ただし平泉は、その先任教授たちとの時代の相違もまた、強く感じざるを得なかったようである。そうであるから、あえて史学会において、「歴史に於ける実と真」を問題提起し、「近代学風の一弊害」を強調したものと思われる。遠く重野の時代には、国史学の自立にこそ国史研究の意義があった。欧化全盛の気風の中で、国史学は大学においてまともに扱われず、重野自身も変転の苦労を重ね、明治二〇年にようやく東京帝国大学に史学科が設置され、翌年重野も教授に就任した。国史学の独立の学問たるを弁証せねばならぬ窮状は、重野をして、西洋の歴史学と切磋し、江戸時代の歴史学を蝉脱させる、国史学の再出発へと向わせしめたのである。それに対して平泉の時代には、国史学の大学内での地位は確固たるものである反面、国家内での大学の意義の方が変化しつつあった。近代化の成功によって強大化した国家は、他の強国との競争に勝ち残るため、大学に、知の伝達による社会的分化を促進する機能よりも、知の活用による社会的統合を促進する機能の方を、ますます強く求めてきていたのである(46)。それはもとより、先任教授たちも強調してきた機能ではあるが、平泉の相違する所は、神学に代位して、国史学こそが、日本への信仰の枠組みを作るべきであると強く踏み込むことにあった。「歴史に於ける実と真」の結論は以下である。

「明治以来の学風は、往々にして実を詮索して能事了れりとした。所謂科学的研究これである。その研究法は分析である。分析は解体である。解体は死である。之に反し真を求むるは綜合である。綜合は生である。而してそは科学よりはむしろ芸術であり、更に究竟すれば信仰である。まことに歴史は一種異様の学問である。科学的冷静の態度、周到なる研究の必要なるは、いふまでもない。しかもそれのみにては、歴史は只分解せられ、死滅する。歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である。この霊魂の力によって、実は真となる。歴史家の求むる所は、かくの如き真でなければならない。かくて史家は初めて三世の大導師となり、天地の化育を賛するものとなるであらう(47)」。

  この講演から約半年後、平泉は「我が歴史観」の一篇を書き下ろし、翌大正一五年五月に上梓する『我が歴史観』の劈頭に据えた。そこで平泉は、近代史観に対峙する現代の史家として自己を描き出し、百花繚乱に対抗するに取捨選択をもってした。すなわち平泉は、ヨーロッパ近代史学の主たる特徴を、「文明史乃至文化史」による「研究領域の拡大」に見出し、それらが雑然と日本の学界に流入し、しかも日本では、「それら近代的史観を幾分かは斟酌しつヽ、根本に於てはこれを蔑視して、昂然として純粋客観の大旆をひるがへすオーソドックスの塁壁は猶高い」とする。  

「それら多種多様の史観は、袖手して之を傍観する時は、百花繚乱の美がないではない。しかしながらその中に入って取捨選択を行はんとすれば、左右の晶光一時に目を射て瞑眩し、却ってその矛盾背反の潮流に漂没するおそれさへある。現代史家の悩は正にこの点に存する。しかも荀くも心を歴史に傾くる以上、この問題に就ては何等か解決の血路をひらかねばならない(48)」。

  平泉は、歴史観の雑居状態が日本ではひときわ甚だしいと見ていた。そして、そのような雑居状態を整序して歴史家の主体性を確立することが、現代の急務であると判断していた。そのため平泉は、歴史が「自由の人格が永久にわたる創造開展の世界である」ことを確認し(49)、さらに進んで歴史家自らが、その人格によって歴史を創造開展すべきであると要求し、さもなければ歴史家は歴史を真に理解することができないと主張した。「我が歴史観」の結論は以下である。

「過ぎ去りし事実はいかにも固定して千古不変であらう。しかしその事実をいかに把捉するかは、歴史家の個性、及

 

びその時代の思想によって相違する。中世に書かれたる歴史は、畢竟中世的把捉である。現代は現代的把捉を要求する。それ故に歴史は絶えず書き改められなければならない。……而してこの事は史家の人格、及び彼がいかに深くまた正しく現代を理解してゐるかが、最も重大である事を示す。実際純粋客観の歴史といふものは断じてあり得ないので、もしありとすれば、それは歴史でなくて、古文書記録即ち史料に外ならない。歴史は畢竟我自身乃至現代の投影、道元禅師の所謂「われを排列して、われこれをみる」ものである。しかも又歴史を除外して我はない。我は歴史の外に立たず、歴史の中に生くるものである。歴史を有つものでなく、厳密には歴史するものである。前には歴史のオブゼクトに人格を要求した。今は歴史のサブゼクトに人格を要求する。かくの如く内省してゆく所に、現代史観の特徴がある。外へ外へと発展を急いだ時代は既に過ぎた。思ふにかくの如きはひとり歴史に於てのみ見らるる所ではあるまい。すべては今や深き反省によって、自己を確立すべき秋である(50)」。

  平泉は理性の優位する学者たちに、主体的人格として歴史を作ることを求めた。歴史への真の理解は、その歴史を作ることによって把握されると考えるからである。そして平泉は、日本の歴史の具体的な多様性よりも、日本の歴史の全体的な構成を重視すべき時の来たことを宣言する。すなわち、歴史の客観的認識から主体的実践へと軸足を移し、その実践の根拠たりうる歴史を求めるべき時の到来を告げるのである。そのような平泉はさらに進んで、今度は、現に歴史を作らんとする人々へと呼びかけねばならない。歴史を真に作るためには、その歴史を真に理解することが不可欠である、と。学者たちから目を転じて、信仰の沸騰する国士たちに平泉の強く向き合ったのは、『我が歴史観』刊行の約半年後、大正一五年九月擱筆の「歴史の回顧と革新の力」の一文である。

「歴史の回顧と革新の力、思を過去に潜める事と足を将来に踏み出す事と、この二つは庸愚暗劣の徒にあっては常に矛盾せる対立と考へられ、彼に重きを置くものは此を取らず、此に専らなるものは彼を捨て、互に無縁の者として白眼視するのみならず、殆んど仇敵の如く相戦ふに至るのである。かくて前者は遂に保守退嬰に陥り、歴史の研究といふも徒に骨董的玩弄に過ぎず、而して後者は頻りに破壊反逆を事とし、理想の追求と称するも単に新奇を衒ひ流行に諛るに外ならない。その方向は相反しながら、その浅薄と愚劣とに於て、以上両者は正しく類を同くするものである。事実、大勢の推移、流行の変遷に伴ひ、往々にして彼より此にうつり、此より彼に変ずるものさへあるではないか。しかるに歴史の明示するところ、偉大なる精神に於ては、この二つは必ずしも相矛盾せず、歴史の回顧によって自己本来の使命を悟り、その本にかへる事によってその心を純粋にし、よって以て高く理想の標識をかかげ、深く現実の真相を理解し、陋と邪とを去って正義を顕はさんが為に、大破壊を敢てし、大革新を行ふものである。以下少しくその実例を指摘せしめよ(51)」。

  この冒頭部分に引き続き、平泉は、聖徳太子中大兄皇子後鳥羽上皇順徳天皇後醍醐天皇国史研究を紹介し、さらに明治維新の例を挙げるとともに、武家においても国史研究の行われたことを、足利尊氏徳川家康新井白石徳川吉宗松平定信などの故事に及んで紹介する。その結論は以下である。

「見来れば古来偉大なる人格に於ては、歴史の回顧と革新の力と常に相提携し、相融合し、否本来合致して唯一不二である。両者の分離する時、甲をとるにせよ、乙に趨くにせよ、いづれもその思想は浅薄愚劣であり、その行動は根抵無き表面的妄動に過ぎない。知らず、今日、改造といひ、国粋といふ、果して歴史の骨髄をつかんで本来の面目に徹し、日本人の真の使命を自覚せるや否や(52)」。

  この一文の掲載された『歴史地理』第四八巻第四号は、同巻第一号とともに、国史学修の意義を訴える特集を組んでいた。その発行者である日本歴史地理学会の編集担当者と思しき筆には、「目下我が国民の思想混沌として殆ど帰嚮するところなきの状にあり、帝国の前途誠に慮に堪えず」として、「国史教育の徹底を期すべき方策」を問い、「本会微力なりと雖も、率先して之が機運を促進し、学徒報国の事に竭さん」とある(53)。

  平泉は、他の教育者、軍人、文部官僚、衆議院議員などとともに諮問に答え、他の論者ともども、国史教育の国家的意義を論じて轡を並べていた。しかし、その中にあって平泉が異彩を放つのは、文部省への膝詰め談判の風のある諸論の中でただ一人、その筆先が文部当局以上に、国家革新の運動家たちに向けられていたことにある。平泉の声は、官僚よりも国士に向けて発せられていたのである。

  このような呼びかけは、その約九ヶ月後の「国史学の骨髄」の一文に結実することとなった。これは、昭和二年六月二三日の朝に書き下ろされ、同年八月発行の『史学雑誌』に掲載された歴史論であり、昭和七年発行の『国史学の骨髄』の劈頭を飾る論文である。そこにおいて平泉は、専門的な研究者たちにも、政治活動を行う国士たちにも、そしてそれらに関心を持つ人々にも、彼の把握する国史研究の意義を広く開示した。すなわちこれは、平泉歴史神学の「骨髄」なのである。

「かくて歴史は、自国の歴史に於いて、我れ自らその歴史の中より生れたる祖国の歴史に於いて、初めて眞の歴史となり得るものである事は、今や明かであらう。我が意志によりて組織し、我が全人格に於いて之を認識し、我が行を通して把捉するが如きは、祖国の歴史にあらずんば、即ち不可能である。祖国の歴史にして始めて古人と今人との連鎖、統一は完全である。古人はここに完全に復活し来る。(思へ、世には厳かなる科学的歴史の仮面を被りて、復活せざる屍骸を羅列し、精神的連鎖は全く之を欠如せる書のいかに多きか。)而して古人がここに完全に復活し来るを思ふ時、歴史は即ち永生となる。歴史を認識するは永生の確信を得る事である。吹く風の目にこそ見えね、古人の魂は永遠に現在する。この点より直ちに引き出さるる事は、凡そ世界中に於いて、我が日本の歴史こそ、最も典型的なるものであるといふ確信である。前に歴史は変化を必要とするといった。しかし実はその変化は発展でなければならない。個人にしていへば……人格の発展向上でなければならない。国家に於いても同様である。革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する。中興により維新により、国家の歴史は絶えず生き生きと復活する。未だ曾て革命と滅亡とを知らず、建国の精神の一途の開展として、日本の歴史は唯一無二である。世界の誇りとして、歴史の典型は、ここ日東帝国に之を見る。 ……一の精神の開展である。古と今との統一的連関は、ここに於いて完い。道元禅師いへるあり、「佛佛の相嗣すること深遠にして不退不転なり、不断不絶なり」と。わが国の歴史も亦、その相嗣深遠にして、不退不転不断不絶である(54)」。

  平泉はこれを『史学雑誌』に掲載し、専門的な歴史研究者に提示する一方、当時の国士の代表格である大川周明に送付して、直接に国家革新運動との接触を持った。そしてこれ以降、戦後に至るまで、大川は、九歳年下の平泉を深く重んじ、敬意を抱き続けた。大川の返書は以下である。

「陳者此度はからず御懇書と共に高著一篇恵投を忝うし、芳情不堪感激候。早速拝誦、敬嘆此事に御座候。独り史学と言はず、自余の諸学に於ても、老台の識見を抱いて精進する学者輩出するに非ずば皇国真個の学は出現せずと奉存候。生亦下手の横好きにて、日本史の研究に甚大の興味を抱き居ることにて、虚空叫希有の歓喜を覚え申候。国史の研究に就て、向後はどうぞ生の導師たる労を賜り度、不日更めて拝趨、御示教を仰ぐべく候へ共、不取敢書中御礼まで匆々如是御座候(55)」。

  他方、平泉に正面から反論したのは、六歳年下の羽仁五郎であった。羽仁は当時、東京帝国大学史料編纂所に勤務し、マルクス主義的な革命運動に積極的に関与していた。約一年後の『史学雑誌』に掲載された「反歴史主義批判」は、文献学的歴史と文化史を批判するとともに、「精神主義的歴史」を「一種の―というのは人間中心の―神学」と断罪するのである。

  ここでの羽仁の文献学的歴史への批判は、その「方法の確実性」の盲信への批判であり、クローチェに依拠して平泉と合流するものであった(56)。さらにまた文化史への批判も、「学問的総合原理」の喪失に向けられて、やはり平泉と合流していた。しかし羽仁は、その総合原理を日本精神に求める平泉を斥ける。

  精神主義的歴史は、「歴史の骨髄または本質または原理を求める。そして一方には文献学的歴史を精神領域への拡張によって補足し、他方には精神的なるものをもって歴史の確実なる指導原理としようとする」。それは、「いうまでもなくかの教会史をその中世における先駆とするものである。けれども教会史のごとき断乎たる仕方において歴史現象を神の干渉および指導によって理解することは、文献学的歴史以後遺憾ながらもはや可能ではない。そこでいま神のかわりに人格が、神の国のかわりに祖国が、そして唯一なる啓示のかわりに個別性が発見されたのである。したがって一言にしていえばこの精神主義的歴史は一種の―というのは人間中心的の―神学である。この神学は本来の神中心的神学のだしがらであり、再演であり、いわば戯画である(57)」。

  羽仁はそれが、キリスト教神学に比較して絶対性と普遍性において劣り、「物神崇拝の色を帯びる」と批判した。「教会史における神格は一方において絶対なる歴史的法則性でありえたが、精神主義的歴史における人格はむしろただ一切の歴史法則を無視する神秘でのみある(58)」。そして、「歴史のうちに人格的法則性をひき入れることは一つの反動である」と規定した上で(59)、「唯物史観」を正解と示唆して一文を終えている(60)。このような羽仁の批判は、どの程度適正であっただろうか。

  羽仁の慧眼は、平泉の神学性をいち早く見抜くものであった。しかし羽仁は、キリスト教神学の歴史的特殊性を看過して、それがあたかも、実際に普遍的であるかのように論ずるようである。あるいはまた、歴史の法則性の主張をもって、実際に法則があるかのように論ずるようである。そして何よりも、人間中心という規定は、後世より見れば誤解であった。平泉の描く歴史は、人間中心であるとは思えないからである。

  平泉の描く歴史の舞台には、たしかに多くの人間が登場し、躍動し奮起して、時に美しく滅びていく。しかし彼らは、言わば皇国理念の操り人形なのである。遣い手の神技は彼らに生気を吹き込み、絵巻物の如く見る者の息を呑ませる。しかしそれは、余人の模倣しえぬ平泉の筆の力の賜物であり、本義はあくまでも理念の方にある。そのため彼らの人生は、理念の部分へと刈り込まれる。平泉の簡明流麗な文体は、本末を判断して結論のみを述べ、その結果、論理的な整合性は亢進し、人間は語り尽くされる。そこに平泉の文体の透き通った特徴が生じ、そしてそこに平泉の、あまりにも論理的に説明し尽してしまう短所が見出しうるのではないだろうか。  平泉の言う歴史の骨髄とは、「本質または原理」とするよりも、むしろ理念なのであった。しかもそれは皇国理念であり、国史の骨髄をつかむとは、皇国理念を心に掴むことに他ならなかった。そして平泉の期待するのは、この理念を掴むことによって、理性と信仰が相乗的に働き、それらが人間を主体的行為へと衝き動かすことだったのである。

(34)クロオチェ、羽仁五郎訳『歴史の理論と歴史』、岩波文庫、四〇頁。この翻訳は大正一五年一二月初版であり、同月の『史学雑誌』に平泉が書評を書き、羽仁を祝福している。平泉澄「クロオチェ『歴史叙述の理論及歴史』邦訳を得て」(一九二六年一二月)田中卓編『平泉博士史論抄』、青々企画、一九九八年、六一〜六二頁。平泉はドイツ語版でクローチェを愛読し、彼のマルクス主義批判にも深く学ぶ所があった。留学時に自宅を訪問した想い出については、平泉澄ナポリの哲人」(一九五三年六月初出)『寒林史筆』、立花書房、一九六四年参照。『平泉博士史論抄』にも所収。

(35)平泉澄「歴史に於ける實と眞」(一九二五年四月)『我が歴史観』、至文堂、一九二六年、三六四〜三六五頁。初出は『史学雑誌』第三六編第五号(一九二五年五月)。『平泉博士史論抄』にも所収。

(36)重野安繹「史学ニ従事スル者ハ其心至公至平ナラザルベカラズ」『史学雑誌』第一編第一号(一八八九年)、三頁。史学会の歴史は、『史学会小史  創立五十年記念』、一九三九年。『史学会百年小史』、一九八九年参照。

(37)   「同」五頁。

(38)   「同」四頁。

(39)掲載誌裏表紙のドイツ語表題は、“Gewissheit und Wahrheit in der Geschichte” であり、訳すれば「歴史における確実さと真理」である。平泉自身の校閲を経たかは不明のためここでは紹介に止めておきたい。『史学雑誌』第三六編第五号(一九二五年五月)、裏表紙参照。

(40)大久保利謙「島津家編纂皇朝世鑑と明治初期の修史事業」『史学雑誌』第五〇編第一二号(一九三九年一二月)、三三頁。

なお、原田文穂「重野安繹博士の史観に就いて」『史学雑誌』第五三編第七号(一九四二年七月)、二二〜三〇頁参照。

(41)それゆえ平泉においては、編修に必要な史料の選択が重んじられ、選択に必要な価値観が問われることとなる。しかし、その価値観は史料の検討に先行させるべきではないとの重野の反論が推測され、平泉ならばこれに、史料の検討そのものに価値観が含まれると答えるであろう。その意味において平泉と重野は断絶する。けれども、重野の実証主義には漢学の口調が強く感じられ、その態度に儒学的な価値観の変奏が感じられてならない。そして平泉においては、儒学的な価値観の、これとは異なる変奏があると筆者は考える。果たして、両者は断絶しているのであろうか。ちなみに、実証主義史学の大家として日本でも敬仰されたレーオポルト・ランケの場合、その事実への愛は深いキリスト教信仰に根差しており、史学はすなわち敬虔なる宗教的営為であった。事実に働く神の手を感じることを喜ぶランケは、それゆえに、事実の探求を何よりも重んじたのである。これについては特に、フリードリヒ・マイネッケ、菊盛英夫・麻生建訳『歴史主義の成立』下、筑摩叢書、一九六八年、付章参照。

(42)重野と西郷の関係については、平泉澄『首丘の人大西郷』、原書房、一九八六年参照。

(43)三上が、贈位を求める犬養木堂に「言語道断」と激昂した一件については、丸山眞男荻生徂徠贈位問題」『集』一一参照。

(44)黒板は、南北朝正閨論争に際して大日本國體擁護団に参加し、建武中興六〇〇年祭にも愛弟子平泉とともに参加している。その生涯については、石井進黒板勝美」『二〇世紀の歴史家たち(二)』日本編下参照。

(45)平泉と講座の先任者黒板勝美との不仲説については、門下生からの説得的な反論がある。著者も、様々な状況証拠から師弟は親密であったと判断している。時野谷滋『大関の里集』、窓映社、二〇〇三年、七九〜八四頁。

(46)昭和期前半における大学の意義変化については、竹内洋『大学という病―東大紛擾と教授群像』中公叢書、二〇〇一年、特に第一〇章参照。

(47)平泉澄「歴史に於ける實と眞」、三七九〜三八〇頁。 

(48)平泉澄「我が歴史観」(一九二五年一一月)『我が歴史観』、六頁。『平泉博士史論抄』にも所収。初出は「現代歴史観」の表題で『太陽』大正一五年一月号。

(49)   「同」、一六頁。

(50)   「同」、二二〜二三頁。

(51)平泉澄「歴史の回顧と革新の力」(一九二六年九月)『國史学の骨髄』、至文堂、一九三二年、一八〜一九頁。『平泉博士史論抄』にも所収。

(52)   「同」二八〜二九頁。

(53)   『歴史地理』第四八巻第一号(一九二六年七月)、一五二頁。単行本としては、同号は『歴史地理  国史之教育』の表題、第四号(一九二六年一〇月)は『歴史地理  国史之懐古』の表題、両号合本版は『歴史地理  国史之懐古』の表題で、それぞれ日本学術普及会より出版されている。なお、直接の関連は不明であるが、第一号発行と同月の七月二三日に、文部大臣が国史教育家と意見交換したとの報が第四号に言及されている。

(54)平泉澄「國史学の骨髄」(一九二七年六月二三日)『國史学の骨髄』、至文堂、一九三二年、一二〜一四頁。初出は『史学雑誌』第三八編第八号(一九二七年八月)。『平泉博士史論抄』にも所収。

(55)昭和二年八月二九日付平泉澄宛書簡『大川周明関係文書』、芙蓉書房、一九九八年、四四九頁。平泉と大川の関係については、清家基良「大川周明と日本精神―平泉博士と比較して―」『藝林』第三七巻第四号(一九八八年一二月)、二四〜六一頁参照。

(56)羽仁五郎「反歴史主義批判」『羽仁五郎歴史論著作集』第一巻、青木書店、一九六七年、三四頁。初出は『史学雑誌』第三九編第六号(一九二八年六月)。

(57)   「同」、三八頁。

(58)   「同」、三九頁。

(59)   「同」、四〇頁。

(60)   「同」、四五頁。

 

  第二節  教義―皇国日本の理念的構成

 

  国史平泉澄は、歴史神学者平泉澄たらねばならなかった。それは平泉が、歴史の客観的認識から主体的実践へと軸足を移すため、その実践の根拠たりうる歴史を求めるべき時の到来を感じるからである。そして実践の根拠たるためには、歴史は、理念的に構成されねばならなかった。すなわち、個々人の主体性を窒息させるほど完璧ではなく、個々人の主観性を野放しにするほど散漫ではない、倫理的な根拠と創造的な足場たるに十分な、しかも政治的行動への意欲を発条させる、そんな歴史の骨格が必要だったのである。

  昭和期における平泉の心意は、この骨格の構築にかけられていたと推測する。日本人に日本史の骨髄を掴ませるために、平泉自身は、日本史の骨格を提示しようとしていたわけである。それは平泉にとって、国史家としての自己の使命と任ずる課題であり、一刻も早く、そこに全力を注がねばならぬ課題であった。「歴史の様々に変化する相を研究し、その裏に流れる一貫した或物を見出す」ことを、平泉は、在外研究直前の昭和五年の講演において、「私の歴史研究に対する信念」と述べていた(61)。しかし、その後の平泉の努力は、独創的で学問的に興味深い変化の相の研究によりも、むしろ一貫性の提示の方に向けられていくこととなった。現代の歴史家として、平泉は、こちらにより重大な意義を見出したからである。

  平泉は、日本の歴史から理念を抽出し、その高みから日本の歴史を取捨選択する。その理念とは、皇国理念である。この日本史の骨髄は、日本史の骨格を規定する。それゆえ例えば室町時代の大半は、平泉にとって、「これといってお話すべき価値あるものは、ない」と言い切れるのである。

「吉野時代の五十七年にくらべて、室町時代の百八十二年は、三倍以上の長さです。しかし三倍以上というのは、ただ時間が長かったというだけのことで、その長い時間は、実は空費せられ、浪費せられたに過ぎなかったのです。吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起すのでありました。これに反して室町の百八十二年は、紛乱の連続であり、その粉乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした(62)」。

  そして、このような「浪費」の多さは、平泉に挫折感を与えない。むしろそれは、平泉に使命感を与え、その行動への意欲を発条させる。皇国理念の実現は、一に行動する人間の努力にかかっているとするからである。

「大体日本歴史を考へる上に於て人々の考は実に楽観し過ぎて居る。日本の歴史は実に見事な歴史である、日本の國體は実に立派な國體である、是には何も問題はない、斯ういふ風に非常に楽観し過ぎて居るのであります。飛んでもない話。日本の歴史が光にみちた歴史であることは言ふまでもない。日本国の國體は萬国に冠絶せる國體であることは言ふまでもない。併しながらこの優れたる國體、此の優れたる歴史といふものは好い加減な気持を有って何等為すなくしてこの輝きを得られたものでは断じてない。幾多の苦しみの中に幾多の忠義の人々が命を捨てて、漸く護り来ったところである。実際事情を能く見て参ったならば幾多の恐るべき問題があって、その幾多の恐るべき中に於て傑れたる人々が命を献げ奉って之を護り来ったのが日本の國體であります(63)」。

  承久の変、建武の中興、明治維新、その辛苦、「若しそれを真剣に考へるならば茲に吾々は深き覚悟を有たなければならない。又日本の國體を考へる以上は、日本の歴史を考へる以上は、真実にこの國體を護り奉らんが為に、この日本の歴史をして光あらしめんが為に吾々は何をすべきであるか。此の事を深く考へる所なくしては、自分の責任に於て此の國體を護り奉つるといふことを覚悟せずしては、真に日本の國體、日本の歴史を考へることは出来ないのであります(64)」。

  このように考える平泉は、日本の過去への讃美を厳しく斥ける。日本の真の歴史とは、人間の努力によって過去の中に間歇的に噴出するものであり、「自分の責任に於て」護持されるべき永遠の課題だからである(65)。過去を整序する皇国理念は、未来を創造するため、今現在の各人の努力を要請する。過去の讃美は静寂主義的な大勢順応に堕し、他者へのひたすらなる糾弾は、やはり静寂主義的な事勿れ主義に堕す。理念に裏打ちされた生によって未来を創造することが、平泉の目標なのであり、そのためには、まず自己が深く信じることが要請され、取捨選択は大局から行うべきことが主張される。

  「しかるに歴史が、その本来の道にかへり、本来の面目を発揮せんが為には、歴史に対する者、即ち歴史家自身が、日本の使命、日本の理想を明確に認識し、体得しなければならぬ。……曽て深き思索もなく十分の検討も加へずして、破壊的考察に附和雷同した者の多かったやうに、今日はまたおごそかに仰ぎ謹みて思ふ事なくして國體を説き、大義を叫ぶ者が少くないのであり、それは一方には国史の浅薄なる美化主義となり、一方にはその過酷なる摘発主義となってゐるのである。……国史は大局の上に立ち、國體の大義に依り、皇国の理想に照らして、雄渾なる反省を必要とする。決して些些たる末節にとらはれ、徒らなる論難攻撃を事とすべきでないと同時に、また因襲に従ひ、浅薄なる美化主義に盲従すべきでもない。即ち我等は、おほらかに、而して大胆に、皇国日本の歴史の真実の姿を明かにしなければならぬ。そこには何の作為もなく、欺瞞もあるべきでない。而して其の作為なく欺瞞なき真実の姿は、直ちに大東亜の光となって輝き、人々に理想を与へ、光明を授けるであらう(66)」。

  それゆえ例えば、建武中興の短期間での蹉跌は、その価値を何ら損なわない。建武中興は、皇国理念に直接するがゆえに、それ自体において絶対的な価値を持つからである。あるいはまた、北畠親房の筆に不都合な箇所があるにしても、それは親房の価値を損なうものではない。なぜなら親房は、皇国理念に直接して生きていたからである。およそ人間は、自己の歴史的世界を成立させている理念に直接することによって、真の倫理性と創造性、真の主体性を発揮するものであり、そして日本人は、日本という特殊絶対的な歴史的世界の理念、すなわち皇国理念に直接することによってのみ、倫理的かつ創造的に、そして主体的に生き得るものである、というのが平泉の信仰の前提であった。 

「更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、櫻咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来った力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出で、日本の歴史を相嗣せる日本人によって初めて成立する。……求むれば則ち之を得、舎つれば則ち之を失ふ。信ずれば影向し、疑へば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならない(67)」。

  われわれはここで、平泉歴史神学の信仰の核心に触れている。それはすなわち、特殊絶対的な歴史的世界への信仰なのである。平泉によれば、人間は特殊絶対的な歴史的世界の中に在り、その世界を成り立たせている理念においてのみ、真に生き得る存在である。そして日本は、そのような特殊絶対的な歴史的世界の一つを最も正しく形成してきたとされ、その世界の成立根拠である特殊絶対的な皇国理念の顕現において、日本人は真に生きえ、人類に貢献しうるとされるのである。

  つまり、平泉の日本への信仰とは、日本という特殊絶対的な歴史的世界の実在への信仰なのであり、その世界を成立させている理念、日本を日本たらしめている皇国理念への信仰なのであった。これが、平泉の全生涯の原点であり、扇の要に他ならない。そして、平泉の平泉たる所以は、この信仰の旗の下に、自己完結した世界を国史学によって論理的に構築する所にあった。すなわち、国史学は神学に代位し、信仰の合理的な体系が整然と整えられていくのである。われわれはこの平泉歴史神学の論理を、その啓示、聖書、聖人、聖職者について瞥見していこう。

  平泉澄において、世界史は存在しない。地球上には複数の特殊絶対的な歴史的世界が並立し、人間はそれぞれの中に在るのみである。そして人間は、異なる歴史的世界を真に理解し得ず、ただ自己の歴史的世界のみを真に理解しうる存在である。これらの歴史的世界は、その特殊絶対性を貫徹すれば興隆し、喪失すれば滅亡する。ダニレフスキーやシュペングラーの歴史哲学に近似し、しかし没落への法則を信仰によって否定する点で彼らと異なるこの確信は、平泉年来のものであって、彼らの影響の形跡は見出せない(68)。ただし、シュペングラーの生きているヨーロッパに平泉が滞在し、この確信をますます強めたことは確かである。留学中の研究日記の冒頭、昭和六年元旦の欄には以下のように記されている。

「凡そこの数日、つらつら旧年中得るところを回想するに、民族性を異にして結局解し難しといふ一事の確信を得たり。従って彼の所謂世界史なるものは、何等の連絡なく、何等の統一なき寄木細工にして、真の歴史の意義と遠く離れたるものなる事、予年来の説、ここに至って愈々牢固動かすべからざるを想ふ。西洋史、又世界史といふものは、国際連盟の如し。ありて悪しからず、むしろ便利なるものとして喜ぶべきも、そは第一義のものにあらず、絶対的のものにあらず、あくまで便宜的のものなりといはざるべからず(69)」。

  それでは、日本の特殊絶対性はどこに顕われてきたのか。平泉はその場所として、特に国史神道を指定し、両者の不二一体なるを帰国後早々に説いた。帰国から約半年後の昭和七年二月、神道学会の講演で平泉は、両者を皇国理念に集約すべきことを強調したのである。

「今日我国に於ては、世界的な国際的なものに憧憬する傾向が頗る旺であるが、これは実に恥づべき陋風であって、実際これ程無意味な事はない。民族の特異性は決して失うてはならないばかりではなく、仮令失はんとしても失へるものではないのである。如何なる国民も皆それぞれの特色を具へ、相互に、之を尊重して、それぞれ発揮させることに力めるのが本当である。そして歴史は、此の民族性と聯関して互に離るべからざるものであるから、民族の特異性が永久に失ふべからざるものであるのと同様に、歴史も亦、恒久不変であって、初めて歴史と云へるのである。即ち革命のある所には歴史は無いのである。無論時に応じて幾多の改革又は革新を行ふことは必要であるが、それは歴史の根本精神を継受したものでなければならぬ。即ち民族本源の力に溯る力の発揮としての維新でなければならぬ。乃ち之を我が日本に当て嵌めて言ふならば、日本の歴史は、太古以来の日本精神の一途なる開展でなければならぬ。脇道に外れない、民族の特異性を失はない発展でなければならぬ。而もそれは、やがて又、惟神の大道即ち神道の開展を意味するものである。神道と云ふ語は、今日の如き世界的国際的風潮の下には、陳腐とも固陋とも感ぜられ、総てが著しい革新の歩みを取ってゐる時代の前には、或は古色の甚だしいものとして映ずるかも知れぬが、実際は、これこそ我が日本の生命の源泉であって、此の一見して甚だ陳腐に見える神道の中には、尽きざる真理が活きてゐるのである。我々の総ての研究は、此処から出発せねばならないものであると考へる(70)」。

  かくして国史神道の一切は、皇国理念へと縮約され、それゆえ此岸の政治的行動に奉仕させられることとなった。

「日本の生命の源泉」である皇国理念は、この世界への啓示だからである。皇国理念において日本という歴史的世界は生まれ、皇国理念のために日本という歴史的世界は存在する。国史神道も、言わば、この理念の顕現の仮称にすぎず、この理念の実現の根拠にすぎない。昭和四五年に『少年日本史』を執筆した際、平泉は、この啓示を以下のように平易に解説していた。

「「天壌とともに窮無かるべし」とは、瓊瓊杵尊直系の御子孫は、「代々日本の国の統治者として、天皇の御位をお継ぎになり、その輝かしい光栄と、その重い責任とを担って、いつまでも、いつまでも、永遠にお栄になるのだ」という意味であります。即ちそれは、大神の宣言であり、誓約であります。皆さんは、キリスト教のバイブルを知っていますか。……つまり神と人との間の約束、それを説いたものが聖書です。我が国では、その誓約が、天壌無窮の神勅として伝わって来たのです(71)」。

  そして、この「誓約」に努力し、この歴史的世界の存立に貢献した人間は、日本の聖人となる。平泉の言う先哲であり忠臣である。それゆえ、先哲の書を読み忠臣の事蹟に学ぶことは、聖書を読み聖人伝に学んで信仰を堅固にする如きものでなければならない。昭和三五年の「松下村塾記講義」において、平泉は、膝下に参じた若者たちにこう語りかけている。

アメリカに於ては礼拝堂といふものが大学の中心にある。皆、キリスト教を奉じてそれを中心として養われてをる。私はアメリカの大学はほとんど見てをりませぬ。私の見ましたのはドイツ、フランス、イギリスでありますが、いづれも礼拝堂と食堂が大学、或は学部の中心をなしてをりました。一緒に礼拝をし、一緒に食事をする。……そして例へば米人にしましても、随分だらしのない米人でも、日曜毎に教会に行きまして、バイブルを讀むのであります。日本だけが何らさういふ眞劍なる教、心の教といふものを受けてをらぬ。真の日本といふものが、かういふことでは立てようはずがないのであります。願くは松下村塾記の如き古典は、皆さん毎朝これを讀まれてよろしい。もし毎朝お讀みになることがつらければ、日曜毎にお讀みになってよろしい。私共の力はさういふ所から初めて出てくるのであります。讀んで讀んで讀みぬいて、はじめてそれは自分の魂にしみわたって来るのであります。すらりと讀んでそれを讀みをはったといふはずのものではございません。日本の道を何によって知るか。かういふものを熟讀玩味することが何よりの近道です。こひねがはくは、ただこれを一時のこととして、このまま讀みすてられないで、願はくは終身これによってその心をお養ひいただきたいと思います(72)」。

  平泉歴史神学における聖人は、皇国理念に直接した人間であり、その言動に学ぶことによって、読者は皇国理念に直接する可能性を獲得する。そして、その導き役に平泉が指定するのは、国史家と神道家であった。国史家と神道家は、この世界の聖職者として、日本への導師たるべき職責を負うことになるのである。

  平泉にとっての「学問」とは、この世界の成立根拠たる啓示を信じ、その上で、啓示を具現化した聖人に学ぶことに他ならなかった。平泉は、そのような聖人に「先生」の敬称を付け、例えば谷秦山ならば、谷秦山先生と呼ぶのを日常の作法と定めていた。それはちょうど、ニコライを聖ニコライの尊称をもって讃えるのと同様のことである。皇国理念に直接した日本の聖人とは、国史の本義を顕現し、神道の奥義に透徹した人間なのであり、国史家と神道家はこの聖人に学び、かつ、その聖性を平信徒に伝達する義務を負うこととなる。すなわち、国史家は、先人の列聖を判定し、聖人の言行録を集成し、基本的な聖典を編纂し、解説することをまず行わねばならず、神道家は、神道の本質を国史に徴し、聖人の祭事に勤しみ、皇国護持への祈りを捧げることをまず行わねばならないのである。

  この先人の列聖の判定は、大日本帝国においては早くから政治制度化されていた。すなわち、歴史的人物への贈位である。昭和三九年の眞木和泉守百年祭での講演において、平泉は、「亡くなりました忠臣、功臣に位を贈り、若しくは神としてこれを祭るといふこともまた先生の發意であります」と和泉守を顕彰し、以下のように述べている。

「眞木和泉守は正四位明治天皇より賜はりました。贈正四位であります。亡くなった人に位を贈るといふことは、何を意味するものであるか、亡くなってをらぬからであります。死んだ人に位を贈るといふことは意味をなしませぬ。和泉守は生きてをられるのであります。生きてをられるからこそ位を賜はったのであります。このことの不思議に驚かずして、日本の神道は理解されず、日本の歴史は理解し得ないのであります(73)」。

  こうして国史家と神道家は、聖人の姿を自己の仰ぐべき理想として、ともに聖職者として日本という世界に奉仕せねばならぬこととなる。その際、国史家はより多く神学者であり、神道家はより多く司祭となるものの、実際には両者は一体化され、しかも主導権は国史家の側にある。神道家は、進んで国史家となり国史を学ばねばならないのである(74)。そして国史家と神道家は、平信徒とともに、聖性の力強い再現を期して自ら立たねばならない。すなわち、先頭に立って信仰を率先垂範し、此岸の政治的行動を自他に発条させねばならないのである。 

「本当に日本の國體に触れて之を身を以て守らうとするには、何としても建武中興の諸忠臣の精神を受けて来なければならない。学問としては崎門学を受けて来なければならない。他に是だけの精神の籠ったのはございませぬ。驚くべき学問と言はなければならない。日本の國體といふことは明瞭であり、吾々の為すべき事はもう明瞭であって、何も特にさういふ学問を必要としないやうに一見すれば見えますけれども、併しながら実際問題としては余程自分の心を深く練って参りませぬと、物事の筋道を明瞭に判別しないでは大事に臨んで本当の御奉公の出来るものではないのであります。……結局は真実の御奉公といふものは道に殉ずるといふ外はない。自分の一身一命を道に托するといふ外はないのであります。ここに於いて問題となって来るのは道を明かにするといふことであります。是こそ即ち学問の本體であります。道を明かにするといふことが即ち学問であります。後になりまして学問といふ意味が余程変りまして唯知識を求めるとか或は或資格を得る手段として知識を集める、さういふ風に段々考へが変って参りますが、根本に於ては道を学ぶといふことが即ち学問の本體であります。古い所では学問をすることを御承知の通りに稽古と申して居ります。是は北畠親房公の神皇正統記にもしばしば書いてあるところであります。……今日の思想界が非常な混乱に陥って参ったのは明治以来の我国の学問が稽古を廃したからであります。稽古といふことは即ち古を稽へるといふ事であります。日本人としては日本の国がどういふ国柄であるか、どうして出来た国であるか、如何なる歴史を有って居るのであるか、その日本の美事なる歴史、美事なる國體は何人に依って此の貴さを発揮し護り来ったものであるか、それを明かにしてその精神を受けて行くといふことでなければ本当に自分の行く道は分るものではないと思います(75)」。

  かくして国史学の神学的意義は、皇国理念の啓示の閃光を、日本史の聖書と聖人の中に明らかにし、それによって日本人の内面に、皇国理念の力強さを復活させ、政治的な行動への意欲を発条させることに見出される。これが平泉歴史神学の目的である。しかしその真価は、実は論証にある以上に構成にあり、さらに言えば、構成を行う平泉自身の中にあった。国史の神学的構成の基本を、他ならぬ平泉澄という人間が提示し、それによって正統性を確保すること。これこそは、平泉歴史神学の真価であり真の意義だったのである。

  日本に関しては、国史の基本を構成することは至難の技であった。神話と歴史の渾然として靄のかかった源流に発し、きわめて多量の歴史史料を蓄積し、きわめて古い風俗習慣を保存してきた日本の歴史は、そこに何らかの意味のないはずはない、という漠然たる確信と、あまりにも豊富な歴史構成の可能性とを、もたらしていたからである。実際、荒唐無稽や美辞麗句も含めて、きわめて多種多様な日本史の物語を紡ぎ出すことが可能であった。日本の歴史は、ネイションの歴史としての構成にあまりにも適合的すぎたのである。他の事例に比べて、このネイションの輪郭は強靭な明確さを持ち、その内容は過剰な豊富さを持って、強烈なネイション意識を無自覚的になるほどに、広く深く浸透させてきたのである(76)。

  しかもまた、歴史の神学的構成それ自体が、日本には馴染み薄いものであった。救済への願望や摂理への欲求は、通常は、根深い無常感の前に敗北し、歴史の意味への探求は、無常の境地か表面的な教訓へと帰着したからである。文明開化の進歩史観も、このような感覚を全体的に揺り動かすことはできず、ヨーロッパに見られたような、進歩への宗教的信仰にまで深化しなかった。丸山眞男の指摘するように、「ある永遠なるもの―その本質が歴史内在的であれ、超越的であれ―の光にてらして事物を評価する思考法の弱い地盤に、歴史的進化という観念が導入されると、思想的抵抗が少なく、その浸潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化」したのである(77)。そして歴史に宗教的な意味を見出し得た例外は、近代日本においては特にキリスト教マルクス主義だったのであり、実際、平泉の意識していた相手もこの両者だったのである。

  もとよりこれは、明治以降の宗教的活力が弱かったためではない。実際、文明開化による世俗化の進展とは裏腹に、諸宗派・諸宗教は、明治以降顕著に再活性化し、浄土真宗日蓮宗の新展開や、新仏教、古神道の叢生、親鸞道元、禅への関心の高まりなど、新しい宗教的活力は踵を接して生じ、宗教改革的な気運が醸成されていた。しかし、これら諸宗派・諸宗教は、雑居的にひしめき合って、國體を脅かさず、歴史の意味を簒奪して國體に挑戦しようとはしなかった。國體護持のためには、さしあたりこれらを抱擁し、自己への忠誠競争を促進させておけば十分に事足りたのである。

  國體にとっては、敢えて自己を神学化し、紛れもない政治宗教とすることは、実は一つの転落に他ならなかった。諸宗派・諸宗教の上に立つ国民的基盤たる尊厳を守るため、生々しい宗教的な活力そのものから超然としている必要が、國體にはあったのである。そしてそれにもかかわらず、敢えて諸宗派・諸宗教に正面衝突するのは、國體を特定の宗教の次元にまで引き下げることであり、本来ならば無用の冒険にすぎなかった。しかも実際、ほぼ全ての宗派・宗教は、ごく普通に愛国的だったのである。

  國體を敢えて政治宗教化する理由の一つに、マルクス主義の挑戦があったことは明らかである。これも丸山眞男の指摘であるが、日本におけるマルクス主義の思想史的意義は多岐に渡り、昭和初期には無視できない政治的影響力を保持するに至っていた。それは学問として、「歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求する」魅力を持ち、世界変革のためには、「直接的な所与としての現実から、認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコになる」ことを自覚させ、生の倫理として、「思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられている」ことを教えたのであった(78)。そのどれにおいても、平泉は、これに堂々と反論できる歴史神学を構築しようとしていたのではなかったか。

  國體そのものへの反逆が政治的力を持ち始めたことは、平泉を、マルクス主義に対抗しうる歴史神学の構成へと衝き動かした。しかしそれ以上に、國體が政治的対立の道具に乱用されるようになったこともまた、平泉を深く衝き動かしたはずである。平泉はその乱用の原因を、歴史の神学的構成の不十分さに見出していたからである。

  國體は、すでに昭和の初めには、国法上の次元にまで引き降ろされていた。マルクス主義を主敵とする治安維持法の条文に、國體の文言が入れられたのは示唆的であり、弁護団の上告趣意書に応じて、大審院の判事が國體の定義を下さねばならないほど、その聖性は剥奪されていたわけである。その上國體は、生々しい権力闘争の次元にまで引き降ろされ、暴力的な争奪の旗印にさえされてしまった。そのような中で國體の存続と尊厳を確保するためには、敢えて國體を神学化して、反逆に正面から対決し、混乱を実質的に収拾する現代の必要が、平泉によって見通されたのではないだろうか。それはまさに、ネイションの市民宗教化と国家の総動員体制化という時代の要請に合致したものであり、平泉の歴史神学とは、このような時代の要請に自覚的に応えるものであったのである。

  そこで不可欠であったのは、実に、平泉澄という人間なのであった。学識の深さにおいても信仰の深さにおいても、またその職分からしても、平泉澄こそはまさに、国史の基本を提示し國體を闡明するに最適任の人物であった。平泉が語るからこそ、その「国史の概要」や「国史の眼目」、「国史概説」は、格別の意義と説得力を持ったのである。

  平泉は、荒唐無稽も美辞麗句も斥け、信仰に裏打ちされた「実証」に即して、信仰の鋳型を作る作業を担当しようとした。神学なき日本の神学者として、平泉は、そこから日本人の信仰の共通化と標準化を実現させ、信仰の減失と信仰の過剰のコストを最小限に管理しようと試みたのである。それは、「一定の根本的見解における共通性と、種々様々であって構わないもの相互間の寛容と是認―いわばネイションの年齢の幾日かにおける神の平和―を得る」ことを願ったマイネッケの思いを、平泉流に実現させようとするものに他ならなかった。國體の争いを停止するために、平泉は、「一定の根本的見解における共通性」を確保することに自己の使命を見出したのである。

  学生の革命運動も学者の無関心も、国士の革新運動も軍部の内訌も、全てそれらを、信仰の共通化と標準化によって日本国家興隆の健全な活力へと転化せしめねばならない。これこそは、平泉の決意であった。そして、そのために平泉は、独創的な研究を措いて、標準的な教義を定めることに努力を集中したのであろう。平泉は、日本人に必須の標準的な教義を定め、それによって、それ以下の一切を斥け、それ以上の争いを止める基準を確立させようとしていたのであった。

  この標準的な教義の中には、平泉によれば、日本人の倫理性を守り、創造性を高め、主体性を起動し、政治性を駆動させる可能性が一式含まれていた。すなわちこの教義には、革命を断乎として否定させ、革新の争いを創造的な政治改革の競争に転じさせ、日本人が主体的かつ政治的たらざるをえなくなる構成が施されていたのである。それは平泉によれば、日本的近代の作為の論理を起動させ、日本における政治の論理を駆動させるはずのもの、すなわち、「維新の原理」なのである。

「かう云ふ風にして我国の改革は、大化の改新にしましても建武の中興にしましても、明治維新にしましても、悉く其の原動力を歴史の中から汲みまして、我国本来の姿、正しい日本に戻さうと云ふのが根本の精神であり、其の根本の精神さへ確立して居りますれば他の細かい制度の末に於きましては、所謂時の宜しきを制すればよい訳である。しかも時の宜しきを制する為めには、外国の制度を参酌することは少しも差支のないところである。其の意味に於いて、昔は隋、唐の制度を取入れ、後には西洋各国の文物制度を取入れられたのであります。今内外の形勢非常に重大でありまして、改革の叫ばれます時に於いて、私共の考へて置かなければならないのは、茲に行はれる所の改革は必ず其の原動力を歴史の中に汲み、日本の本来の姿、正しい日本の姿に戻さうとする運動でなければならないと云ふ点であって、従来の一切を否定して、新しい社会組織を作らうとする革命であってはならないと云ふことであります。尤も個々の局面に於いては、或は個々の結果に於いては同じことになるかも知れないと思ひますが、併し根本の精神に於いては全く違ったものである。総て問題が重大であれば重大であるだけ、其の根抵を確立し、明白にしておかなければならないのであります。今日漫然として革命と云ふ言葉が用ひられ、是に於いて殆んど世間が注意を払って居ないのは洵に残念なことであって、是は今にして心しておかなければならない重大事であると思ひます(79)」。

  しかし、このような平泉の歴史神学には、窓がない。それは特殊絶対的で、論理的に自己完結した世界である。外界との唯一の通路は信仰である。信仰の細道を通れば、論理的に首尾一貫し合理的に構成された平泉澄の円錐形の世界が広がっている。啓示は天頂にあり、聖書と聖人伝は円錐の壁面を具体的に構成し、この世界を支えている。天頂近くには祝福された聖者が列し、ただ信仰の力によって、人間はその聖性を我が身に復活させ、この世界を飛翔しうるのである。それは果たして、どれほどの魅力を当時の日本人に及ぼしたであろうか。日本人を倫理的で創造的な、主体的で政治的な行動へと踏み切らせるために、このような世界はどの程度役に立ったのであろうか。

  この世界が大学の一角に作り出された時、言いようのない違和感が生じたようである。当時の雰囲気をある門下生は以下のように伝えている。

「相嗣復活、礼拝得髄を研学の正道とされる平泉史学は、東大文学部国史学科に衝撃を与へ、大きな波紋をえがいた。平泉教授の立場は科学ではなく教学であり、科学的研究の殿堂である大学の講壇にふさはしくないとする批判的空気が瀰漫した。いはんや、階級的立場に立って史学を社会科学の一環に位置付けてゐる唯物史観流においてをやで、この方面からは仇敵視されるに至ったのである(80)」。 

 しかしわれわれの想起すべきは、この平泉の博した人間的な信用である。大学の外部において、平泉は、各界の人士に重んじられ、特に軍部への影響力には突出したものがあった。また、平泉を慕い重んじる学者学生は、理系文系を問わず他の諸学部にも広がって、その私塾は順調に発展していった。平泉に接して、多くの人々が紀律を内面化させ、能動的な主体性と政治性を発動させて世に立ったのである。それは結局、この歴史神学が時代の要請によく合致したのみならず、「思想を実質的に整序する原理」として、実際にある程度、機能しえたということではなかったか。唯物論の立場から激烈な日本主義批判を展開していた戸坂潤は、ちょうどその頃、以下のように獅子叫していた。

「処で日本主義(之が今日一個の復古思想であり又反動思想なのだという点に注意を払うことを怠ってはならぬ)は、この自由主義ブルジョア社会常識に照らせば、著しく非常識な特色を有っている。この非常識さが自由主義者を日本主義的右翼反動思想から、情緒的に又趣味の上から、反発させるのに十分なのである。処がそれにも拘わらず、事実上は、こうした非常識であるべき日本主義思潮が、今日あまり教養のない大衆の或る層を動かしているという現実を、どうすることも出来ない。そうなると又一つの常識だということにならざるを得ないように見えるのである。社会に於ける大(4)衆(4)やその世論(?)というものがどこにあるか、という問題にも之は直接連関している。―で、常識というものの有っているこうした困難を解決するのでなければ、今日の日本主義に対する批判は十分有力にはなれまい(81)」。

  なぜ平泉の歴史神学は、短期間の間に多くの信奉者を生み出しえたのか。そしてなぜ信奉者たちの中核は、戦後も団結を保持しえたのか。平泉の影響力は、決して終戦とともに終結したわけではない。われわれはこの同学集団に目を転じ、平泉歴史神学への共鳴の精神的基盤を考察しよう。それはわれわれの見る所、近世日本の儒学の伝統上に、とりわけ崎門の伏流の上にある。われわれは、平泉歴史神学を、崎門の近代版と見るのである。

(61)平泉澄国史学の概要」(一九三〇年三月)『平泉博士史論抄』、一三六頁。この講演の前半や「日本精神発展の段階」(『國史学の骨髄』所収)など、心性の歴史の研究として興味深いものが平泉には多い。   

(62)平泉澄『物語日本史』(中)、講談社学術文庫、一九七九年、二四九、二四四〜二四五頁(原著は一九七〇年時事通信社刊)。

(63)平泉澄「國史の眼目」(一九三七年?)、『天兵に敵なし』、至文堂、一九四三年、二五九〜二六〇頁。

(64) 「同」  二六五〜二六六頁。

(65)平泉史学を皇国美化史観と区別され皇国護持史観と規定されたのは、平泉門下の田中卓皇学館大学元学長である。田中卓「平泉史学の特色」『平泉史学と皇国史観』、「皇国史観について」『私の古代史像  田中卓著作集十一巻Ⅱ』、国書刊行会、一九九八年。

(66)平泉澄国史の威力」(一九四三年五月初出)、『平泉博士史論抄』、三六九〜三七〇、三七九〜三八〇頁。戦後の回想録によれば、昭和九年三月の『神皇正統記』口語訳及び解説の出版を機に、平泉の不敬糾弾の動きが生じ、まもなく平沼騏一郎が止めたとの事である。その理由は、『神皇正統記』は不敬の書であるというものであった。平泉澄『悲劇縦走』、皇学館大学出版部、一九八〇年、五四〇頁参照。

(67)平泉澄「國史学の骨髄」、一一頁。

(68)これ以上の比較は、ここでは立入らない。なお、ダニレフスキーについては、勝田吉太郎『近代ロシア政治思想史』、創文

社、一九六一年。シュペングラーについては、アントン・ミルコ・コクターネク、南原実・加藤泰義訳『シュペングラー ―ドイツ精神の光と闇―』新潮社、一九七二年、特に一一七〜一二九頁参照。

(69)平泉澄『DIARY』、私家版(平泉洸・平泉汪・平泉渉編、平泉洸発行)、一九九一年、七頁。

(70)平泉澄「民族の特異性と歴史の恒久性」(一九三二年二月一〇日)『平泉博士史論抄』、二一三〜二一四頁。

(71)平泉澄『物語日本史』(上)、五四頁。

(72)平泉澄松下村塾記講義」(一九六〇年八月)『先哲を仰ぐ』、錦正社、一九九八年、三九九〜四〇〇頁(原著は一九六八年日本学協会刊)。

(73)平泉澄「維新の先達  眞木和泉守」(一九六四年八月二〇日)『先哲を仰ぐ』、四一頁。

(74)それゆえ、国史を踏まえた神道神学の確立は、歴史神学者平泉自身の尽力し、また待望する課題でもあった。この平泉歴史神学に呼応する神道神学への試みは、特に、平泉の門下生である谷省吾皇学館大学元学長によって遂行されてきた。谷省吾『神道原論』、皇学館大学出版部、一九七一年。同『神道  その探求への歩み』、国書刊行会、一九九七年参照。

(75)平泉澄「國史の眼目」、三九九頁。

(76)平泉に挑戦して「日本」を脱構築する通史を提示しようとしたのが、網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、二〇〇〇年だったのではないだろうか。

(77)丸山眞男「日本の思想」(一九五七年)『集』七―二〇八〜二〇九。

(78) 「同」、七―二三五〜二三七。

(79)平泉澄「維新の原理」(一九三三年七月)『武士道の復活』、至文堂、一九三三年、三八五〜三八六頁。

(80)村尾次郎「先師平泉澄博士における神道」、『神道史研究』第三三巻第一号(一九八五年一月)、五〜六頁。西洋史学科出身の林健太郎は往時を回想し、「平泉派の跋扈によって「史学雑誌」は単に面白くないだけでなく、学問的にも価値の低い雑誌に転落してしまった」としている。そしてその結果、「アカデミズム史学の本道」が史学雑誌を脱出して歴史学研究会へと流入し、ために草創の会は時ならぬ活況を呈したとのことである。林健太郎『移りゆくものの影―インテリの歩み』、文芸春秋新社、一九六〇年、一三九〜一四二頁。

(81)戸坂潤『日本イデオロギー論』、岩波文庫、三〇〜三一頁(初版は一九三五年)。戸坂は、自由主義は日本主義と論理的に対立せず、ただ情緒的性格的に距離を置くにすぎない、と批判する。戸坂によれば、自由主義は自己と原理的に対立する唯物論の立場へと移行せねば、日本主義への準備にすぎないのである。『同』二九頁。われわれは後世から見て、このような唯物論者の自由主義排撃こそが、日本主義勝利への後押しであったと判断する。自由主義こそは日本主義との論理的な対立物だったのであり、唯物論者こそが自己と原理的に対立する自由主義の立場へと移行せねば、それは畢竟、日本主義への準備にすぎなかったと考えるものである。すでに大量転向は現実化し、唯物論者は社会民主主義者にさえなれぬままに総崩れていった。それでも旗を下ろさず獄中死した戸坂は、信仰に殉じたということであろう。そして、この自由主義者唯物論者の距離感の問題は、戦後の丸山眞男に残された課題となったのである。

 

  第三節  教会と伝道―崎門の復活

 

  国史学が神学に代位するや、その使命は、皇国理念の啓示の閃光を、日本史の聖書と聖人の中に明らかにすることとなり、それゆえ国史家は、聖職者として平信徒に率先すべき職責を負う。はたして先師平泉澄を追悼して平泉史学の真髄を説く門下生たちの声も、期せずしてこの一点に集中した。

 「平泉博士の神道観はその歴史観と表裏一体を成してゐる。両者は、先生にあっては同義語であるといってよいのであり、外来宗教に見倣って特定概念の神道教義を立てることさらさら無く、日本の歴史の中に神道の髄を発見し、これを信じそれに立脚せられた。「神道の眼目」は「皇国護持の祈りに生きる事」である。歴史上の偉大なる精神現象を精究し、これを礼拝し得髄し、相嗣し復活する行である」。これは、村尾次郎元教科書調査官の証言である(82)。

 「平泉史学における「信」というのは、実証史学の本道に則った厳密な考証の手続を経て、「正確動かすべからざる説」を立てることを当然の前提としており、……実証主義のリゴリズム以前の世界に属するものではなく、これを突き抜けた世界に属する問題なのである。日本の歴史の事実を追究し、それのみで足れりとすることなく、明らかにされた事実を信じ、これを復活する行を積むこと」が、平泉史学の立場である。これは、時野谷滋関東短期大学名誉学長の証言である(83)。

 「平泉史学の特色は、史観として人格主義・伝統主義に立脚し、具体的には国史の中で、すぐれた人格を先哲・忠臣・義士に求め、正しい伝統を万世一系の皇統、天皇政治の中に論証した点にある。もとよりこの「歴史」には、栄光もあり、悲劇もある。名誉もあり、屈辱もあらう。私共に与へられた平泉博士の教訓の第一は、歴史は事実のままに直書せよ、といふことであった。決して時局便乗や国体美化に陥ってはならない。真実を貫くところに国史の威力があり、意義がある、とするのである」。これは、田中卓皇学館大学元学長の証言である(84)。

  平泉を師と仰ぎ、生死を共にする覚悟を持った門下生たちを、平泉は、同学と呼んで重んじていた。この同学は学者学生に限らず、軍人その他様々な職業の人々があり、平泉に私淑してその教えを承け、互いを尊重する見えない集団を形成していた。すなわち、この同学の集まりこそが、平泉歴史神学にとっての教会だったのである。晩年近くに平泉寺白山神社を訪ねた国家主義運動の後輩に対して、平泉は運動の心得を以下のように述べた。

 「人はまごころによって動く。神仏も人のまごころで動く。えらそうなことをいって、看板だけは立派でも、財閥から金を取ってやるような運動は、泡沫のようなものである、誠と誠が結び合わねば天下をうごかす運動にはならない。天皇陛下が民草のことをつねにいつくしみ、つねに思っていられる。その大御心を心として、人の誠を尽すことである。われわれの運動は、横につらねて旗を振ることではなくて、根を張ることだ。これをやらないで、旗を振って、華かに新聞やテレビで騒がれるようなことを狙う運動は、結局うたかたのごときものである。あの人の言うことなら信頼できる、絶対安心だ、そういう人と人とが結び合うことだ。その結びは因縁である。天の配剤といってもいい、必ず結ばれるものである。それが国を興す運動につながったときに、本当の運動となる(85)」。

  人と人との結び付きによって、平泉は、自己の歴史神学の教会を形成しようとし、そして実際、かなり大きな力を持ち得たようである。昭和六年の夏に帰国した後、まさに「天の配剤」の如き多くの人々の助けによって、平泉は順風に乗ることになった。

 「然しながら国史学界に於いてこそ新進の名を謳はれてゐたものの、かぞへて三十六歳、一助教授の身を以て、何が出来るでありませうか。自分で考へても、身の程知らずと恥ぢ入るばかりでありましたのに、翌年より始めて、昭和七 ・八・九 ・十の四年間連続して、私は好運にめぐまれました。第一に、天皇陛下への御進講、しかもそれは破格、一時間有余の長きに亘る事を許されました。第二に秩父宮殿下の侍講、それは二年半に亘って、昭和九年七月二十五日終講、八月十日賜餐の光栄に浴しました。陸軍は大学校、士官学校へ招かれ、海軍は大学校、兵学校、機関学校、各鎮守府、更に霞ケ浦航空隊へ招かれて連続講演し、聊か陸海軍の英気雄風の一新に貢献し得たやうに覚えました。陸海軍の武に対して文の方面に於いては東京帝国大学、大講堂に於いて行はれたる山崎闇斎先生二百五十年祭、法学部講堂に挙行せられたる楠公祭等によって、曾てロシア革命の影響を受けたる迷妄より醒めて、日本の伝統に復帰する傾向を強めました。是等は皆一般世間に反射影響して其の風潮を変へて行きました(86)」。

  平泉は高く信用され、多くの人々が手を差し伸べた。まず東大総長小野塚喜平次は、平泉を特に抜擢して秩父宮への日本政治史の侍講を命じ、次いで有馬良橘海軍大将は、山崎闇斎先生二五〇年祭の開催を依頼した。その大成功に、上田万年や小野塚喜平次のような長老教授たちのみならず、「忘れ果てられた崎門の学風の、新鮮なる復活は、その学統につながる長老達の驚喜された所でありました」と、平泉は懐かしげに伝えている。(87)さらに有馬良橘は、荒木貞夫陸軍大臣に推挙して昭和天皇への御進講が実現し、それを木戸幸一が陪聴する。その直後に、荒木の腹心小畑敏四郎陸軍少将が平泉を招き、さらに小畑は近衛文麿に引き合わせ、近衛は平泉の意見を聞いて、木戸幸一に引き合わせ、近衛木戸平泉の三人で四時間半に亘って密談する。これが実に昭和八年二月七日の事、平泉は三九歳であった(88)。

  そして昭和九年四月一六日、陸軍士官学校の講演で東條英機陸軍少将に深い感銘を与え、士官学校の指導を依頼される。他方、小畑敏四郎は陸軍大学校校長となって、平泉に指導を依頼する。しかし、この流れは二・二六事件の勃発によってひとたび頓挫する。無関係であり厳しく批判的であったにもかかわらず、平泉は連累を猜疑され、湯浅倉平内大臣や元老西園寺公望木戸幸一岡田啓介などから警戒されたのである(89)。  ただしその後も、板垣征四郎関東軍参謀長から満洲建国大学への総長就任を依頼されたり、陸軍、海軍艦隊派人脈、高等学校、警察などからの講義講演依頼の途切れることはなかった。内務省には、安井英二(大阪府知事・近衛内閣内務大臣・文部大臣)の信頼が篤く、海軍においては、先述の有馬良橘(大将)を始め、加藤寛治(大将・軍令部長)、末次信正(大将・軍令部長)、南雲忠一(中将・海軍大学校長・艦隊司令長官)、上田宗重(中将・海軍機関学校長)、徳永栄(中将・海軍省教育局長)が平泉に信頼を寄せ、あるいは私淑していた。そして平泉は、自己の講義講演によって、聴衆の信仰に火が灯り、あるいは内面的な紀律を与えられることに喜びを感じていたようである。平泉が回想録に特記した思い出に、昭和九年六月、香川善通寺での陸軍予備兵への講演がある。

 「初めは何分にも町から村から俄に召集を受けての集合とて、その懶惰無規律、見るに堪へないものでありました。然し精魂こめて三日間講義をつづけてゐるうちに、見る見る態度は変って、昨日の予備兵は、今日の現役兵となり、規律厳正、風貌凛然、尊敬すべき威厳を備へて来ました。私が帰京の際、駅に見送ってくれられた代表の人々の爽快なる態度は、今も歴然と印象に残っています。しばらくして中将は上京せられましたが、陸軍省へ行かれる前に、元づ曙町へ謝礼に来られ、そして其の場で入門せられました。そして其の純情は終生一貫して変らなかったのであります(90)」。 

  それはまさに、司牧と伝道の旅であったわけである。平泉の講演に接して入門するのは、この松田巻平陸軍中将のみではなく、しかもまた、講演に出かけて平泉の憂慮するのも、予備兵のだらしなさだけではなかった。北海道帝国大学では、構内の並木を伐採して来校の天皇への襲撃を予防するのを見、(91)大阪高等学校では、校長も講師も無視し、始業のベルも無視して遊ぶ学生たちを見て(92)、平泉は憂慮を重ねていた。時には反応のなさに憤慨し、時には聴講後に慕い来る入門希望者たちに喜ぶ。そのようにして形成されていく平泉の教会は、その中核に、青々塾という名の私塾を持っていた。  平泉自࡛の『寒林年譜』によれば、これは昭和八年四月七日の開設であり、当時平泉は三九歳の助教授であった。本郷区駒込曙町に貸家を借り、最初の塾生は五名、すなわち、法学部一名、工学部一名、国史学科三名であった。その後、一年を経たずに松柏塾、綱常塾を開設せねばならぬほど入塾希望者が増え((允))、やがて塾は発展して塾頭を置き、各地に分派して戦後にも存続した。平泉の道を講ずるや、軍人や顕官も自ら参集して聴講し、塾には緊張感あふれる活気が漲ったのであ。る(94)

 「然るに私の講義には、此の枠を越えて、殆んどすべての学部から来聴しました。それは制度によって来るのではありませぬから、単位は取れないのでありますが、それを構はずに集まって来ました。朝行って見ると、予期せざる多人数で、教室へ入れない為に、私は学生と共に広い教室を捜して、まるでモーゼのやうに、移動した事が、幾度かありました。塾がまた同様で、法、工、理、医、農、経済、すべてに亘って居り、ひとり東大に限らず、稀には早稲田や日大も入ってゐました。その塾が東京ばかりで無く、京都に在り、仙台に在り、金沢に在り、稍性格は違ふものの、其他の各地にも在りましたので、私の学生門下は、その多方面であり多趣である事、想像も及ばない程でありました。塾には規則も無ければ、資格も無く、名簿も無い程で、只道を以て集まり、心を以て結ばれてゐるだけでありましたが、結びの強く、交はりの深い為に、敗戦といふ天地傾覆の大変が起りまして後も、門下の山を登って寒林に分け入り、摧残の私を顧みる人絶えず、ある時は一箇月の泊り客三十人に及ぶといふ有様でした(95)」。

  こうして平泉は、教会を組織化していくとともに、その伝道を、特に軍隊と学校において進めていった。平泉自身が振り返って驚嘆するほど、その伝道活動は猛烈であり、時間的・経済的な犠牲を払って、倦むことなく全国を飛び回ったのである。そして、それほどまでに平泉が必要とされたのは、信仰と理性の均衡が、当時切実に必要とされたためあった。軍隊においては革新派の暴発を防ぎ、学校においては革命派の反逆を防ぐために、平泉は最適の講師だったのである。実際、平泉の歴史神学には、沸騰する信仰を鎮静化させ、冷ややかな理性に信仰の火を灯す作用があった。平泉の静かで論理的な語りには、海軍条約派の首脳を強く警戒させるほどの、人間の魂を揺り動かす力があった。ここにおいて神学者は、抜群の説教者たることも実証したのである。海軍大学校での講義について、阿川弘之は以下のような伝聞を記している。これは恐らく、海軍大学校三四期学生長の大井篤少佐の言である。

 「その国史講述は、世間で想像するような壮士風煽動調のものではなかった。眼もとは澄んで涼しく、すがすがしい風格があって、建武中興の故事、吉野朝の哀史を静かに説き去り説き来り、時に聞く者の涙をさそった。人によっては受講中、何かが乗りうつったような異常興奮状態に陥る。兵学校機関学校、霞ケ浦の航空隊へも講義に行くのだが、若い生徒や練習生が聞いたら、微分積分の勉強なんかする気を失うだろうと言われていた(96)」。 

  しかしもちろん、反発もあった。大井少佐は平泉の講義に正面から異議を唱え、「学者として講義をなさるのに、歴史上の人物を最初から忠臣逆臣と分けてかかり、呼称にまで差別をつけておられますが、何故そんなことをする必要があるのですか」と述べ、「平泉教官は呆気に取られたような顔で、返事をしなかった」と阿川は伝えている(97)。

  やがて日米開戦と戦局の悪化とともに、平泉の役割は変じて、従軍司祭の役割をも期待されるようになる。平泉は、戦地に赴く人々の心の平安を司ることを期待され、その適任者たることも実証したのであった。そして平泉も、呉の鎮守府で一千名近くに講演し、翌朝窓を開ければ、港内の軍艦一隻残らず出撃してただ海面の揺らぐのを見、(98)あるいは茨城県神の池の海軍航空隊で数百名に講演し、翌日には皆出撃して前線に飛ぶと聞き(99)、さらには次々と同学知友の出征し、続々と戦死の報の重なるを知らされて、心深くまで信仰の染み透るのを体験したはずである。やがてその体験は、終戦時の至重の判断へと通じていくのである。

  そして、このような伝道活動を通じて、平泉は、多くの人々を自己の教会に迎え入れることとなった。その詳細は不明のため、著述に名の挙がった年輩の軍人官僚の同学を見れば、陸軍には阿南惟幾(大将・鈴木内閣陸軍大臣)、山口三郎(少将)、津田美武(中将)、松田巻平(中将)、下村定(大将・東久邇宮内閣及び幣原内閣陸軍大臣)、海軍には加来止男(少将・空母飛龍艦長)、升田仁助(少将・ヤルート島警備司令官)、内務省には富田健治(警保局長・近衛内閣書記官長)、橋本政實(警保局長)、野村儀平他がある。もとよりそれ以上に、学生軍人官僚その他多くの若者が平泉に入門し、私淑していた。戦死者、自決者の多い中で、生き残った同学集団の中核は戦後も継続し、平泉の見えない教会を維持していたようである。戦後も平泉は、保安隊、自衛隊、警察などにおいて、きわめて活発な講演活動を行ったが、それを支えていたのも、このような同学集団であったろう(100)。

  平泉の講義を聞き、あるいは配布される打聞に学び、その教えを承けることは、平泉の同学集団にとって、まさに神聖なる祭儀であった。それは、平泉の信じる正しい信仰への導きであり、平泉による霊的な司牧の活動に他ならなかったのである。そして平泉によれば、正しい信仰こそが正しい判断を生み出し、その上に正しい行動へと進んで行く勇気を与えてくれるものであった。それは日本の思想史において、どのような系譜に連なっていたであろうか。

 「先生の学問はある時期から自ら「正学」と称せられた。公けには「日本学」であらう。それは現在のいはゆる史学・哲学・政治学等の分類を超越したものであって約言すれば道を求めるもの、古への学問そのものであらう(101)」。

  平泉門下の名越時正水戸史学会長の追想にあるように、平泉澄の学問とは、まさに「道を求める」、明治の近代化以前の「古への学問」であった。すなわちそれは、崎門の昭和における復活の試みだったのではないだろうか。同学の参集し、列座して学ぶ姿には、山崎闇斎の膝下に集う門弟たちの姿を重ね合せるのが最も自然である。平泉は昭和の山崎闇斎たることを願い、それゆえ学統を継承する同学集団への思い入れ深く、その行く末の道険しくとも、日本の道を守り続けていってくれることを信じたのであろう。  「かく内外の弁既に明かに、我が国の歴史に徹底する時、日本精神の特色その極致は、忠の一字に帰着する事明瞭となる。しかも先生の学は机上の戯論にあらずして、直ちに之を実践にうつさんとする。即ち尊王の論は直ちに斥覇の説となり、又現実に現れて直ちに勤王の行動とならざるを得ない。ここに時勢切迫すれば、この精神は火の如き熱を発し来って、門下身を以てこの学を験せんとするに至る。崎門が幾多の犠牲を出だし、幾多の肉弾を発して、明治維新の鴻業を翼賛したのはこれが為である。即ちかくの如きは先生の学問の特色であるが、しかもひとり先生の特色たるに止まらず、古今に通じてかはる事なき日本精神の極致に外ならぬ。かくて我学は先生の説により、又その門下の行を通して、日本精神の中核、忠義の至誠に触れるのである(102)」。

  これは、山崎闇斎先生二百五十年祭の記念出版『闇斎先生と日本精神』に寄せた平泉の一文である。国史を通観する平泉にとって、江戸期と明治以後の断絶は、その思想と生活においては存在していなかった。闇斎とその門下への敬慕は、地下鉄の走り飛行機の飛ぶ東京においても、何ら妨げられることはなかった。忘れられた崎門を昭和に復活して、再び維新の原動力とすることを、平泉は真剣に目指していたのである。

  しかし、江戸期と明治以後の断絶は、特に都市部の住人にとって、当時すでに、きわめて深いものがあった。儒学の伝統から切れた人々に、平泉の試みは一種異様の感を与えたはずである。しかもまさにこの頃に、江戸の様々な伝統はついに命脈尽き果てていた。竹山道雄は、その雰囲気をこう回顧している。

 「「国が変った」。それが決定的に行われたのは大正の末から昭和のはじめのことだったが、あのころに日本人は大変化をとげた。魂の底で、目に見えないところで、あやしむべくおどろくべき変貌が行われた。むかしからの日本の文化・道徳精神はあのころついに命数がつき、もはや創造的原理としてはたらくことができなくなってしまった。残っているものはただ過去の遺産にすぎなくなった。あるいは、悪しき残滓として、人間性の欠陥に特殊な形をあたえるものにすぎなくなっていた。日本人の精神は新しい段階に入って、ただ過剰なエネルギーをもてあましながら、それを有意義に結晶さすべきいかなる積極的な目標もなく、前後十年ほどのあいだ、文化において混沌たる無様式の状態を、モラルにおいて乱脈痴呆の状態をつづけた(103)」。

  そして、まさにそれゆえに、平泉は、そのような変化に正面切って挑戦せねばならなかったのである。しかもその挑戦は、平泉一人の生涯のみならず、後世への長い精神の持続を信じて遂行されたものであった。山崎闇斎学派のように、平泉は、自己の精神が同学に長く貫通し、しかもその精神が同学の人間の生全体に実現していくことを願っていたはずである。時代の変化の底にある一貫性を信じ、平泉は、そのような意味での平泉学派の形成を、最も深く心に期していたのだと思う。

(82)村尾次郎「先師平泉澄博士における神道」、二二頁。

(83)時野谷滋『芭蕉・鴎外・漱石』、近代文藝社、一九九三年、九三頁。

(84)田中卓『平泉史学と皇国史観』、一五三〜一五四頁。

(85)田中正明平泉澄先生を訪ねて」『民族と政治』、昭和五六年一〇月号、六六頁。なお、同氏の訪問日は昭和五五年八月一九日である。

(86)平泉澄『悲劇縦走』、四五〇〜四五一頁。以下の記述は同書と『寒林年譜』に基づく要約である。

(87) 『同』、三八九頁。

(88)この時期に平泉歴史神学の基本枠組みが全て確定したと筆者は推定している。前掲拙稿「平泉澄不惑について」参照。

(89)   『悲劇縦走』五三九〜五四六頁。

(90)   『同』四七〇頁。

(91)   『同』四六五頁。

(92)   『同』四〇六頁。

(93)   『同』四〇四〜四〇五頁。

(94)塾生による塾の想い出の記録は、『日本』の様々な号に掲載されている。『日本』は日本学協会の発行する平泉直系の月刊誌である。

(95) 『悲劇縦走』二二〜二三頁。一一六頁参照。

(96      )阿川弘之『井上成美』、新潮文庫(原著一九八六年)、一三八頁。

(97      )阿川弘之高松宮と海軍』、中公文庫(原著一九九六年)、三一頁。大井は名著『海上護衛戦』を執筆した元海軍大佐であり、自由闊達な直言を信条とする人物であった。

(98)   『悲劇縦走』三一四頁。

(99)   『同』六二二頁。

(100)同学集団の鍛錬所である千早存道館については、千早委員会編『存道―千早鍛錬会の足跡』、日本学協会、二〇〇四年参照。戦後の各地での講演と交流については、平泉澄『山河あり』、立花書房、一九五七年。『続山河あり』、立花書房、一九五八年。『続々山河あり』、立花書房、一九六一年に詳しい。

(101)名越時正「平泉先生の日本学といはゆる水戸学」『神道史研究』第三三巻第一号(一九八五年一月)、八三頁。

(102)平泉澄「闇斎先生と日本精神」(一九三二年)、平泉澄編『闇斎先生と日本精神』、至文堂、一九三二年、三四〜三五頁。『先哲を仰ぐ』にも所収。なお、平泉の崎門への評価については、近藤啓吾「平泉博士と崎門学」『神道史研究』第三三巻第一号(一九八五年)、六五〜八二頁参照。『悲劇縦走』二八五頁。

(103)竹山道雄「手帖」(一九五〇年初版刊行)『昭和の精神史』、講談社学術文庫、二八七頁。

 

おわりに

 

  竹山は、革命運動であれ革新運動であれ、あるいは軍部の超国家主義であれ、倫理性も創造性も生み出さず、主体性も生み出さなかったとし、しかも敗戦後も変わらずに、ただ流されていくだけの日本と断じてこう述懐した。

 「戦争があったから、そのために戦後の頽廃がおこった、と考えられている。しかし、むしろ戦前の頽廃があったから、それで戦争になった、ということはできないものであろうか?  封建的残滓を蔵しながら、いびつに近代化して変質した軍が、やはり封建的残滓をもちながら畸形に近代化して乱脈におちいった社会を、支配したのだった。封建性のよさも失われ、近代のよさもできあがってはいなかった(104)」。

  それは平泉澄も、そして丸山眞男も痛憤し憂慮した実感であろう。この実感に抗うために平泉は、振り返って江戸期との思想的連続性を再建しようとしたように思われるのである。その結果、平泉の信仰する日本には、近世的な特徴が厚く塗り込められ、儒学的な特徴が色濃く現われることとなった。つまり平泉の日本とは、倫理的で政治的、一面では合理的な世界なのであり、中世的な宗教の非合理性を排し、上代的な文化の非政治性を糺し、多様な伝承を体系的に整序せんとする世界に他ならなかったのである。近世の史眼をもって日本史を解釈し、闇斎学をもって学問の本義とし、それらを昭和に復活させんとする平泉は、近代国家の危機を克服せんとする歴史神学者として登場したのである。

  ただし、それをもって平泉が現実に、昭和前半の黒幕であったとするのは過大評価である。いかに人脈があるとはいえ、平泉の職分は、畢竟、東京帝国大学教授としての教育研究にあり、政治制度の直接の立案や運営の衝に当っていたわけではない。もとより平泉にすれば、自己の歴史神学が国家的祭儀に具現化されることを願ってはいたであろう。しかし、短期間にはそこまで実現しえず、また敗戦によってその夢も中断され、平泉は故郷へ帰る。多くの人々は平泉への信頼をさらに高め、銀座に研究室を整えて、その出講を請じたのは昭和二九年のことであった。戦後も多くの人々が平泉を助け、平泉も精力的に活動する。しかしやがて昭和四九年、平泉は再び故郷へと帰る。

 「三十年代の初めまでは、伝統は強く残ってゐたが、この清純の気風は、所得倍増の掛声によって次第に薄らいで行った。人々の好意友情は感謝に堪へないものの、所詮戦後の世の中は、私と相容れざるもの、東京滞留二十年に及んだのが寧ろ不思議であった(105)」。

  ここで平泉の言う伝統とは、江戸期からの様々な連続性だったのではないだろうか。その遂に途切れるや、平泉への反響もまた弱まっていったのである。高度経済成長は、戦国時代以来の連続性を持つ農村社会までをも突き崩し、江戸期の名残りのどこにも見出せなくなった時、平泉は平泉寺白山神社へと帰郷した。それは言わば、現世から後世への道行きであり、福音の伝道書と学統の継承者を後世に残すための帰還でもあった。歴史神学者の帰郷は、永遠への旅路なのである。

  平泉は、昭和五九年二月一八日に数え年九〇歳にして帰幽した。その生涯の要点は、神葬祭における斎主祭詞に述べ尽されており、われわれはその一節を、ここに引用したいと思う。

 「先生はしも、明治二十八年二月十六日に、かけまくも畏き、白山妙理大権現に、代々仕へまつり来れる、平泉の家に生れ、平泉の清き真清水に洗はれ、育まれたまひて、百年に一人だも無き才を抱きて、歴史の学びに入らせたまひ、広く探り考へ、細やかに究め明かし、目は隈無く深く晴れたる大空の高きに遊ばしめ、心は海の底の深きに置きたまひて、批判は厳しく、理解は温かに、挙ぐるに遑も無き著書論文講義の数々を以ちて、前にも後にも比ひ無かるべき、新しき境地を拓き、東京帝国大学文学部国史学科の主任教授として、学界を導きたまひしが、革命思想の蔓り浸み透りゆく  皇国の今将来の危き状に、早くより深き憂へを懸けたまひ、ヨーロッパ・アメリカの国々をさへに廻り学びつつ、世界の歴史の限りを、広く深く見通したまひけるに、淀みに浮ぶ泡沫のかつ消えかつ結びて、留まること無きがごとく移らふ中に、磐石なす、かけて動くこと無く易ること無き  皇国の道を見出でたまひ、その道を生命を懸けて継ぎ守らしし、もろもろの先哲たちの学問のさまを、心を尽して究めたまひ、説き示したまひて、尊き辺りを始めて、政事の重き司とある人々、軍人学者教育者実業家より、遍く市井の人々に至るまでに、日本人たる自覚を喚び起し、生活の支へを与へたまひたればこそ、昭和の御代の、嶮しく悲しき御代に、なほ  皇国の光有る、命脈の絶ゆることの無かりしか。この事どもの、殊に重き極みに至りては、固く秘めて語りたまはず。年々に人々を率いて、夏には大楠公を祭り、秋には山崎闇斎先生を祭り、唯その冥助を乞ひ、鉄槌を下したまへとのみ祈りましし、その敬み深く穢れ無き、ひたすらなる誠の御心ぞ、高く貴く仰がるることなりける。

  御教蒙りたる人は、数限りも有らざるに、黒木博司少佐を始め、大東亜戦争に生命を献げたる人も、また少しとせず。然かはあれども、戦敗れたる後も、なほ青々塾有り、千早の存道館有り、日本学協会有り、友有り同じ道を行くと、努め励む人々力を協せて、回天の働き有らむとすれども、力足らぬにや  皇国の現状、年を追ひて浅ましき状に成りもて行くを、痛く憂へ歎かせたまひつつ、細く痩せたまへる御身を、更に消耗らして、国の果てまで隈無く足を運び、懇に人々を倦まず導き教へたまひ、殊に近き年頃、力のことごと傾け尽して著しましし、少年日本史・日本の悲劇と理想、並びに悲劇縦走こそは、偽りを正し、正しきを明らめ、人々の眼の霧、心の雲を、吹く風のごと打ち掃ひやりたまひて、誠実と勇気とによりて  皇御国の再び興らむ導きの光ならめと仰がれたまひ、また今この御国にこの人有りて、なほ御国は安けかりとさへ思はれたまひしに、人々の思ひもかけず、忽ちに隠りたまひ、銀の御鈴なす、清く透れる御声を、現に承らむ由は、もはや無くなりにたるぞ、口惜しき事の極みなりける(106)」。

  われわれは、この平泉澄を歴史神学者と規定し、その存在理由と、その論理を解析しようと試みてきた。すなわち、平泉歴史神学とは、日本における近代国家の精神的機軸の問題に応答し、近代におけるネイション意識と国家の問題に応答する現代の理由を持つものであり、信仰に照明せられた理性の体系を、日本史の基本的な構成として論理化せんとするものに他ならないと規定してきたのである。そしてわれわれは、その日本史上における実際の根拠が、実は近世にあり、具体的には山崎闇斎学派にあると推測し、平泉歴史神学とは昭和における崎門復活の試みであるとの規定を行った。さてそれでは、日本史上における崎門の意義とは、一体何であっただろうか。丸山眞男の分析に聞いてみよう。

 「わが国における儒学移入の淵源の古きにもかかわらず、また日本近世の程朱学の複数的な源流にもかかわらず、程朱学を理論と実践にわたる世界観として一個一身に体認しようと格闘した最初の学派は闇斎学派であった。……「ハズミ」はたしかに崎門の俊傑たちを、それぞれの仕方で「行き過ぎ」させる動力でもあった。けれども、この行き過ぎによって闇斎学派は、日本において「異国の道」―厳密にいえば海外に発生した全体的な歴史観―に身を賭けるところに胎まれる思想的な諸問題を、はからずも先駆的に提示したのではなかったか。そこに闇斎学派の光栄と、悲惨があった(107)」。

  この丸山の分析は、平泉歴史神学に及ぼされるべきであろうか。その当否を考える際に、われわれは、正統と異端の問題と、忠誠と反逆の問題へと足を踏み入れることとなる。それは平泉歴史神学の正統性の問題であり、平泉の終戦時の行動への評価となると同時に、丸山に生涯つきまとった世界観的生の呪縛の問題と、丸山の日本への反逆の評価となる。しかし本稿の課題はここで終わり、それらは別稿に譲ることとしたい。

(104)竹山道雄「手帖」、二九九頁

(105)平泉澄『家内の想出』(一九八二年一二月二一日)、私家版、一九八三年、二七頁。

(106)斎主の大任は平泉生前の指名により、谷省吾皇学館大学神道学科教授(当時)が勤め、この祭詞も谷氏のものである。なお引用は、田中卓氏が宣命体を訓読文に改められたものに拠った。田中卓平泉澄先生の神葬祭に参列して」『平泉史学と皇国史観』、二五〇〜二五二頁。谷省吾『神道  その探求への歩み』、一六〜一八頁も参照。

(107)丸山眞男「闇斎学と闇斎学派」(一九八〇年)『集』一一―三〇六〜三〇七。〔付記〕本稿は、平成一三年度〜平成一四年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(一)課題番号一三六二〇〇九一)による共同研究の成果の一部である。

 

この資料は、植村和秀氏による平泉澄博士に関する研究書であるが、インターネットからのpdf書面をワード化し新たに提出するものである。

このように平泉澄博士の論考に関するものを提出する目的は、小拙の最初の師である稲川誠一先生の恩徳に報いる目的の一貫としてのものである事を記す。(2023年・タイ国にて)

稲川誠一(1926―1985)七高で久保田収、東大で平泉澄に師事。日本中世史を専門とし、『新修大垣市史』の中世の部分を担当し、また岐阜県内の東大寺領荘園の研究に従事。日本教師会会長などを歴任している。(ウイキペディアより転載)