正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

平泉 澄氏インタビュー

東京大学旧職員インタビュー

 

平泉 澄氏インタビュー(一)

 

このインタビューは、昭和五十三年十一月二十五日から一一十七日までの三日間(二十五日は打ち合せのみ)、福井県勝山市平泉寺町の、白山神社社務所を兼ねた氏の自宅で、東京大学百年史編纂のための調査の一環として行われた。聞き手は東京大学文学部教授(現亜細亜大学教授)伊藤隆東京大学百年史編纂室室員(現青山学院大学教授) 酒井豊、同(現清泉女史大学助教授)狐塚裕子、同(現文部省教科書調査官)照沼康孝である。 この模様の一端は、伊藤隆『日本近代史―研究と教育』(一九九三年)、照沼康孝 「百年史編集室と私」(『東京大学史紀要』第六号、昭和六二年三月)を参照されたい。

平泉澄氏略歴

明治二八(一八九五)  二月二六日、福井県大野郡平泉寺村に、 父白山神社祠官平泉恰合、母貞子の長男として出生。

明治四〇(一九〇七)・  四福井県立大野中学校入学。神皇正統記太平記徒然草等を在学中に読む。

大正 元(一九一二)・九  第四高等学校入学。

大正 四(一九一五)・六       東京帝国大学文科大学史学科入学。                                 

大正 七(一九一八)・七  東京帝国大学文科大学史学科国史学科卒業。卒業論文「中世に於ける社寺の社会的活動」。卒業生総代として天皇より銀時計を受ける。

大正 八(一九一九)・六  大学院特選給費生となる。

大正一〇(一九二一)・一〇 森下逸子と結婚。

大正一二(一九二三)・三  東京帝国大学文学部講師となる。国史学第二講座分担。講義は「中世に於ける精神生活」、演習参加者は中村栄孝、坂本太郎、 岩生成一、相田二郎、吉村茂樹等。

大正一五(一九二六)・四  東京帝国大学より文学博士の学位を受ける。東京帝国大学助教授となる。この年、「中世に於ける精神生活」 「我が歴史観」 「中世に於ける社寺と社会との関係」出版。

昭和 五(一九三〇)・三  在外研究のため、渡欧。ドイツ、ハンガリー、フランス、オランダ、イギリス、アメリカ等を廻る (翌年七月帰国)。

昭和 七(一九三二)・一一 東大朱光会創立。「国史学の骨髄」出版。この年、昭和天皇に進講、海軍大学校で講義を行う。

昭和 八(一九三三)・四  青々塾を開く。この年近衛文麿と知り合う。

昭和 九(一九三四)    陸軍士官学校海軍大学校等で講義。この後陸海軍諸学校等で度々講義。

昭和一〇(一九三五)・四 黒板勝美の後任として、東京帝国大学教授となる。この年、教学刷新評議会委員となる。

昭和一三(一九三八)・三 日本思想史講座担任となり、更に国史学第一講座兼担となる。

昭和一五(一九四〇)・三 満州国に行き、 皇帝に進講。

昭和二〇(一九四五)・八 東京帝国大学教授辞職願提出。十月かに受理される。

昭和二一(一九四六)・  白山神社宮司となる。

 

昭和二三(一九四八)・三 公職追放となる (二七年四月解除)。

昭和五九(一九八四)    二月一八日死去。

 

昭和五十三年 十一月二十六日

平泉 澄先生 午前の部

〇今日はどういうふうにお話ししていただけますか。

平泉 大学の歴史をずっと見てみると、私どもの関係した中でいちばん大きいのは、昭和(大正)七年の展開です。それからそれに匹敵あるいはそれ以上の変化というのが昭和二十年。その間がちょうど私が大学におったときで、私が経験してきたことが多い。そして今、その事情を知っておる人がほとんどないというほどに少ないですから、その間のことをお話しする。

 まず、昭和(大正)七年を中心にお話ししようと思いますが、その前に大きな変化は明治の初めです。       

 今の学士会館がどうしてあそこにあるかご承知ですね。

 〇あれはあそこに大学があったからということでは。

平泉 大学の何があったのですか。

〇開成学校の・・。共立講堂と今の学士会館と、あの道の両側かありますね。それで第一番中学が共立講堂のほうにあって、そのあと開成学校を新築したときに、今の学士会館のところに開成学校の校舎を建てた・・かな。

平泉 それが大学ですか。

〇いや、あれは専門教育機関で大学ではありません。

平泉 大学はどこにあったのですか。

〇明治の初年に大学と言っていたものが文部省に名前が変わって、東京大学ができるまでは一時大学と名の付くものはなくて、明治十年四月に東京大学というものが、それまでの開成学校と医学校を合併してできた。

平泉 大学というものはなかったんですか。

〇はい。

平泉 あったんですよ。

〇それは?

平泉 東大の医学部はどこからきたのですか。

〇あれは神田の和泉橋通りのほうにあって、そこから明冶八年に本郷の加賀邸内に移ったというふうに、われわれは聞いております。公式どおりに覚えておりますけれども。

平泉 公式では、そういう名前ではないでしよう。

〇東京医学校となっています。

 平泉 それはそれだけでしよう。あれが大学東校なんです。 一ッ橋は大学南校です。なぜ南校というんですか。

〇それは昌平坂の学問所に対して、神田和泉橋というのは東にあって。

平泉 そうそう、それで東校、南校でしよ。つまり昌平橋か大学なんです。大学と称しておる。その大学の東だから大学東校、こっちは大学南校。ほかの名前はあるが、大学のときには両方が大学南校、大学東校と言っていた。その大学というのは文部省を兼ねておった。それは大学なんですよ。大学と言っておった。その証拠があるんです。あれが大学であって、職員も大学の何々と称したんです。そんな昌平坂なんていうものじゃないんですよ。

これが明治三年ですが、なかなか貴重なものなんだ。いろいろな地図はあるけれども、このときのものは非常に少ない。ここに大学があるでしよう。これが今の医科歯科大学の場所です。これが大学で、これで大学東校、大学南校でしよう。ちゃんとそれはあるし、大学と称しておった。

〇大学というのは行政機関だったから。

平泉 行政機関であると同時に最高学府も兼ねていたんです。

〇明治四年八月、大学を文部省・・。

平泉 中央の大学本部というものがやめられるからそうなった。大学なんです。

〇大学としては続いていた?

平泉 続いていたというか、大学の中心部は欠落した。その大学の長官を何と言ったか。

別当ですね。

  平泉 そう、文部大臣兼大学総長ですね。そのときの大学はほんとうの大学で、日本全部の最高学府です。文部省は行政を担当する。学問のほうは大学が担当する。これが日本の全部の教育の中心です。その長官が松平春岳(1828~1890)公。そのときになぜそれをやめるようになったのですか。

〇松平春岳公の終りというのはわからないですね。

 平泉 春岳公が終りではなく、大学が終わったんです。それは国学と漢学のけんかなんです。わしみたいな感じの強いのがいたんだろうね。国学と漢学との争いで、それが統制がつかなくなって全部やめ、大学別当も辞職された。そのときの別当は松平春岳公で、その下は秋月種樹(1833~1904)。日向の高鍋の殿様。これはその春岳公のお子さんなんです。松平慶民(1882~1948)子爵は最後の宮内大臣です。これは非常に重大な額ですよ。それは終戦後にきた人がここからのぞいて、今の日本にこんな額を掲げている人はいない。いいんですか。いいんですかっていくら日本が戦争に負けたからといって、忠義を奉じて何か悪いのだ、これがなくなったら日本は滅びるんだと言って掛けておるんです。

去年の春は全国の九つの電力の社長がみんなここへこられた。まだ雪があるからお宮へお参りはできませんよと断ったけれども、くるという。長男が、お父さんの顔を見にくるんだから、断ることはないですよという。それでみんなきて、四月の初めだけれども雪が深いのでお参りはできなかった。しかし、みんなこれを見て驚いて、写真を撮って帰ったんですよ。忠義填骨髄(忠義骨髄を填む)蘇東坡の手紙にある文句です。それを慶民先生は非常に喜んで使われて、それをまた私が書いてもらったんです。

  とにかくこれは覚えておいてください。大学はあった。ありがたいものですね。この地図一枚でわかる、大学とこれは今の聖廟でしよう。昌平坂学問所の跡ですわいな。そしてこれが大学。南校。非常にはっきりしている。

ところが、 私がまだ明確に土地を押えておらないのは、ここへ移ってくる前が上野の忍ケ岡に林家の学校があったでしよう。その場所がどの地点か、私はほんとうはまだ知らない。それは元禄にここに移る。その前はここですが、この場所は明確にしていない。とにかく忍ケ岡という、不忍池の近くです。

これは非常に珍しいもので、 ふつうの骨董的な価値はないんですが、私の父の大事に持っておった地図で、これは大きな間題が一つ押えられる。東京大学があって、それが内部で分解作用を起こして、これんちでやまった。そして偶然のことで南校と東校だけか残って、

それが明治十年にまとまって大学ができた。しかしながら、国学、漢学の系統はそのときになくなっているんです。統合されたものは南校の系統ですから、山本先生なんかもしばらくであれをやめられるんです。いろいろなごたごたがあったんですわ。その辺のところが大学の歴史としては、ひとつの重大な関節です。

われわれが知ってからあとの何ともいえん大きな変化は大正七年。どういう変化が起こっておるかというと、そのときが天皇陛下行幸があっての卒業式が大正七年で終り。恩賜の時計かそれで終り。恩賜の時計を見たことがありますか。

〇それを拝見させていただけたらと、タベから話をしておったのですけれども。

平泉 そうだろうと思って出しておきましたが、持たんでおいてください。宝物でも何でも手に持たないことが、ひとつの大事なことなんです。というのは、持てばみんな指紋が付く。これはここのお宮の宝物でもみんなそうで、みんなにさわられると物か傷んでしまうんです。さわらないことがひとつ。私は仕方ない、さわりますが

〇先生に表と裏にやっていただきますから、よろしくお願いいたします。

平泉 これが不思議なことで、何回かみんなに呼び出されるのですが、恩賜の時計と一緒にもらった人でもずいぶん多かった。一緒 に並んでいたんですからみんな知っている。それが今、恩賜の時計をだれがもらったのか、だれが持っているか、何もわからない。芥川(龍之介1892~1927)の息子さんがアナウンサーか何かをしているテレビ局で、十年ほど前に企画があって、恩賜の時計をもらった人にみんな出てもらおうということだったんです。それでテレビ局ではずいぶん手を広げて探したけれども一人も出ない。まことに不思議なことなんです。結局、私だけいつも出るんです。どういうわけか、それはわからんけれども、私がこれをいただいたときに朝日新聞の記者が見えられていろいろ話をして、それが朝日新聞に出たんです。非常にいい記者でね。朝日はもとはよかったんです。今は悪いんです。それはもう全然ものが変わって、本質的な大きな変換が終戦のときにあったんですね。前の朝日というのは、ほんとうに礼儀は正しいし、学問は優れておるし、あれだけのきれいな記事というのは、あとはちょっとないですね。非常にいい人でした。私はまだ下宿におる貧乏学生ですから、そこへきて私の話を聞いて書いておられた。非常にそれはいい文章でした。

それがみんなに非常な印象を与えておったのがもとだろうと思いますが、どういうものか私が名残りの銀時計ということになって、これが何かというと新聞に出るんです。妙に私だけ残ったがそんなことはないんでね。文学部だけでも相当の数なんです。だいたい銀時計というのは三十人ぐらいあったんでしよう。

〇三十人くらいいますね。                

平泉 そうでしよう。記録はありますか。

〇評議会の記録を見ていきますと、その年の優等学生となっていました。

 平泉 そういうのを大学でとっておいてくださるといいですね。あとでまたお話ししますが、私と一緒に出た人が仁科芳雄(1890~1951)。これは大事な人ですが、その仁科さんももらっているはずです。その他いろんな人がありますよ。私と一緒のときでは、満州国の総務長官で何とか言いましたね〔武部六蔵(1893~1958)〕。その人の兄さんは文部省で局長をしておった。だけど、みんなどういうものか、亡くなった人もあるだろうし、失った人もあるだろうかもしらんがこれです。これはこのケースそのままです。ここに御賜(ぎよし) と書いてある。

〇こういう形でいただくわけですか。

平泉 ケースはこのままを大高檀紙に包んで賜るんです。卒業式の式場、もとの法学部の大講堂、八角講堂の正面壇上に陛下はお立ちになる。このときは大正天皇さまがお立ちになる。それからその横に、私もそのときはわからなかったが、けだし侍従長でしような。侍従長がずっと下がっておる。その侍従長からもらう。それからはつきり覚えていないが総長がお立ちになる、その総長の横には各学部長がずっとおられる。卒業生はこっちに並ぶでしょう。その最前列に優等学生というのがずっと並ぶ。各学部で文学部は文学部、法学部は法学部で並んで、その前にそれぞれ優等学生かずらっと並ぶ。

順序はどっちが先か覚えていなけれども、式場係が読み上げるんですよ。私らの場合は文学部卒業学生百何名というと、みんなさっと立つでしよう。右代表で私が代表で私の名前を呼ばれる。そこで進み出て陛下に最敬礼をする。文学部長がさっと進み出て、文学部だけの卒業証書を全部ひとまとめにして渡される。それを私はいただいて、かえるときにまた陛下のご前に出て最敬礼してかえる。それがどっちが先か覚えていない。耄碌しました。

それから優等学生だれだれというのは一人ずつ呼ばれるので、一人ずつ出て陛下に最敬礼をして、総長の前であいさつをして。この恩賜の時計は陛下に最敬礼をして、それから侍従長の前へ出て、侍従長からこれを手渡される。それをいただいて、また陛下に最敬礼してかえる。そういうことだったのです。

私は卒業生総代で一度、恩賜の時計で一度と、二度陛下の御前に進み出たんです。これは服部です。 国産御奨励の意味で服部の時計をお使いになったんです。 ほかは何の変わりもないんですが、この文字だけがあって。

これが困ったことにもう部品がないので、直すことは不可能です。これは時計の展覧会があって、そのときに服部が自分のものを出すということで、これをぜひお願いしたいという希望があったんでしよう。みんなから頼みにきまして、その展覧会へ出したんです。今の陛下は、これを非常に珍しがってご覧になったそうですよ。

これは卒業証書です。

〇大きくて立派だな。

平泉 このときは文科大学長、上田万年(1867~1937)。総長が山川(健次郎1854~1931)先生。その当時は文学部ではなくて、上田文科大学長でしよう。文科大学が文学部になるということがこの少しあとに出るんです。大正七年までは法科大学、文科大学で、非常に厳重なものですわ。上田先生のそのときの顔を私は今でも覚えていますよ。何ともいえんうれしそうな顔ですね、ちょうど親が子を見守るようなふうでしたね。先生はどういうわけかうれしくてたまらないように、その辺をそわそわして歩いておられて、平泉、よかったなあと言ってくださったんですよ。

しかし、行幸はなぜそこでとまるんですか 大正七年に終わって、それ以後おいでにならなくなった。止めて下さい 非常に重大です。〔録音中断〕 大正七年にすでに大学が非常に難しい状態になったということの原因は、大正六年十一月のロシア革命です。それまでにもいろいろなことがあるけれども、爆発的になってきたのは大正六年の十一月からです。ここでその革命が起こったときに、東大では祝盃をあげたものがある。いちばん強いのが東大で、その次が早稲田だと聞いていますが、その東大のそういう仲間が、これからあと、ずっとのしてくるのは新人会です。考えてみると新人会というのは、それからあとははなやかな存在で、そういう恐るべきそれの頂点にあったということはだれもいわない。日本の新しい傾向の扇動者の如くなって、ずっと振舞ってきたのが新人会で、それが結成されたのがこのときです。ロシア革命というものは、日本の歴史にとって非常に大きな関係のある出来事で、これを理解しないでは日本の大正、昭和の歴史はわからない。そこですべてものは変わってくるんです。

 昨日あなた方が帰られたあとで東京から電話があって、北海道大学のことも昨日初めて明瞭にわかったんです。総長が二人あるそのわけがどうしてもわからなかったが、タベ知らせてくれてわかりました。北海道大学北海道大学で遅れます。東京はやはりいちばん早い。北海道大学へ私が招かれて行ったのは昭和八年。そのときの北海道は大変な騷ぎなんです。どうにも収拾がっかない。そこで私を招きにこられたが総長が二人ある。こんなことはおよそ全国の変な大学は知らんけれども、帝国大学にして総長が二人あるなんていうところはないです。それが二人おられた。その二人が、全力を挙げてこれを何とかしようというんでしようね。私にお会いになったのも二人だし、私を招かれたのも二人だしね。その二人が常に一緒になって緊密に連携して、ものを処理していこうという態度でしたね。

大正七年に、行幸があっての卒業式も恩賜の時計も終わる。

〇講堂を使っての卒業式がなくなってきますね。

 平泉 分割的になるんですね。分割して治めようというあれですわ。みんな集まったらどんなことが起こるかもしれない。これはほうぼうの高等学校でもみんなそうです。なるべく生徒を集めない。これはひとつの治める手段だったのです。

それから小さいことでいうと、それまでの卒業論文とそれからあとの卒業論文は違う。どう違うかというと、それまでは全部日本紙に筆で書く。それからあとは洋紙にペンで書く。ここに私の卒業論文があります。実物です。三上(参次1865~1939)先生、萩野由之(1860~1924)先生、黒板(勝美1874~1946)先生、田中(義能1872~1946)先生。この紙に全部筆だ。私もびつくりしたんですが、卒業論文に先生は丸を付けておられるですよ。注目すべき文句だ。これはいい文章だわいというので。これに偉そうなことを書いているんだ。伊藤さんが見たら笑うだろうがね。

「即ちこの編、中世における社寺の社会的活動を討究、闡明せんことを期したるも、一は時間の不足よりし、一は卒業論文の性質よりして、先人の学説を網羅してこの問題に対する完全なる説明を与えず。すでに明らかなる方面はこれを先人の著述に譲り、われはただ従来研究のあるいは欠如し、あるいは不完全なる方面に向かって討ち入らんとせり。蓋し、著書に大役二種あり。 一は他人を啓発誘導せんとするもの、一は自ら胸臆の中懐を吐露するもの。而して卒業論文の如きは、ただ自己の能力を発揮すれば足る。故にこの一編、もしこれを巷間発行の著書としてはその説明はあまりに不完全、あまりに不統一の謗りを免れざるべし。ただそれ卒業論文なり。欲するところにおいて博洽の気を吐く、おそらくは不可なからんか。しかればわが研究は開拓せられたる領分の統括統治にあらずして未知の世界の侵略なり。しかもいまだ戦勝の凱歌にあらず。ただ突撃の喊声たらんのみ。全体の詳細なる究明、完全なる統一に至りては、これは他日に記す。

先生はびつくりして・・。

〇これは檄文だな。

平泉 実にこれは、あなたがいいことばを言ったが檄文ですわ。

先生びっくり、これはひどいことを書いておるやつだって。

〇その変わり目が大正七年ですか。

平泉 これが終り。それからこのときまでが発表が成績順。私は第一席になった。第二席が藤田亮策(1892~1960)さん。第三席が九州帝大の教授になった竹岡〔阿部〕勝也(1993~1958)。第四席が大正大学の教授になった藤本了泰(1892~1945)。このときの大正七年の史学科というのは非常な豊作といわれた年で、人物がみんなそろっていたんです。この前が明治二九年、高山樗牛(1871~1902)、黒板勝美(1874~1946)、宗教学の姉崎嘲風(1873~1949)、哲学の桑木厳翼(1874~1946)、あの辺のそうそうたる人がずらっとおるんです。

この次になると洋紙にインキで書くんだから、ガラッと変わってくる。これは苦労したもんですが楽しいものでした。

〇そういうことは大学の中の雰囲気が非常に変わったということですか。

平泉 そうです。 つまり大学がそのときから崩れていく。これをやるだけの気魄というものがなくなってきた。それからもう一つ、これは明確に言えないけれども、このときまでが論文はすべて文語体、今後ロ語体に変わる。それはずいぶん議論があったことなんです。例えば「史学雑誌」で、外国でも学術的な論文はラテン語で書くんだから、「史学雑誌」などは文語体で書くがよいという説も、先生の間にはあった。しかし、時代は滔々として、わが文語体ではとてもだめだというので口語体になった。それはひとつは時代の流れで当然の道すじなのですが、同時に、ものを塞き止めるだけの気魄がなくなってきた。大学の卒業式などでもそうですよ。押し切ってやっていこう、この問題を前進して解決しようという気魄が、もうないんです。とにかく流されてきた。これから大学はずっと流される。そういう気風ですね。

〇そういうことは研究室の中でも雰囲気が変わってきますか

平泉 変わってくるんです。このときすぐではないが、やがて変わってくるのは女子を中へ入れるということです。それまでは女子を入れるということは思いもよらなかった。女というものは一段学力が低い、それを入れることは大学のすべての水準か下かってくるというので、非常に抵抗があったのですが、とにかく女を入れようということになった。私が講師になったのが十二年ですか、そのときに女の人が入ってきた。最初に入ってきた女の人というのは偉かったですよ。男子学生もたじたじとするほどの人物がそろっていて、偉かったですね。時代の当然の流れであるが当然の流れというのは、やはり一方に塞き止めるだけの力がないという気分があるんですね。

〇正規の学生ではなく、 研究生ですね。

平泉 そうですかいな、 よく私は知らんが

 

〇先生は国史を卒業なさってから大学院に進まれますね。今みたいに指導教官がいて、学生がいて、 指導教官というのはどういう指導をしていたのか。戦前の大学院というのは教室の中でどういうふうな研究を・・。

平泉 何もないんです。

〇スクーリングは全然ないわけですか。

平泉 何もない、一切ないんです。

〇何か特別に、 例えば黒板先生について。

平泉 そういう特別な制度はありません。指導教官ということはあり、お世話を願わなくてはならんはずですが、何ら今のように特別な講義があるわけでもなければ・・。今は修士課程の講義があるでしょう。

〇ございます。   

平泉 それが全然ないんです。ただ自由に学問をする。だから大学院の学生というのは非常に少なかったんです。

〇それは年限を決めて、ある特定のテーマで研究するということですか。

平泉 そういうことでしよう。それはそんなに行くものはなかったんです。私のときには私だけでしようね。何もそれに規定がないんです。

私が卒業したときは今と非常に違うんだ。私はそのときに就職で、来いと招かれたところが五、六か所あった。みんなそうそうたるところですよ。文部省、宮内省、それから高等学校、 いろいろな編纂所、研究所など五、六か所から招かれた。どうしようかなと思ってね。家は貧乏だし。この家は昨日見られたが、ちょっと今はこれだけの神社はないですよ。やせても枯れても境内四万五千坪、山を入れたら七十万坪。そんなところはどこにもない。しかし同時に窮迫の極なんです。いまでも山が六、七十万坪あっても収入はひとつもないです。税金をまかなうのがようやくですね。このほうは全然経済的な考えの外にある。別に私は目 的があってそれは考えている。境内四万五千坪は無税地ですわ。何の収益もないことは当然なんです。それでいてお賽銭はない。今は多いんですが、前にはだれも人はこなかった。政府の待遇は郷社ですよ。府県社の下に郷社、 その下が村社。郷というのは郡ですから、 郡の崇敬を集めているという待遇なんです。

ここは山が十里四方というでしょう。盛んなときの田畑九万石は除くとしても、十里四方の山というのは明治四年まで持っていたんです。ところが難儀なことには氏子が三人しかない。徳川将軍家と松平越前守(越前国守)、勝山の殿様の小笠原家。ほかにはないんですよ。ところが明治四年に全部なくなるでしよう。山は取られたんです。この場所で白山からずっとこちらの山は十里四方ある。これは取られた。その二つをつなぐ道幅二十間幅のこれが取られた。この場所の現地だけで十万何千坪は没収して国有にした。お宮は何もなくなって骨がらみだけこう残った。それが家の姿です。 (テープ反転)

就職の口があったでしよう。それで黒板先生に相談したんです。先生、どうしたものでしよう。ここへ来い、ここへ来いといわれるところがこれだけあるんですがと相談しましたら、全部断われ。ああ、そうですか、全部断わるんですか。断わりなさい。

これは、私が今日あるのは黒板先生のおかげです。実に何ともいえない私の感銘です。私の一生はこれで決まった。つまり、人間がだめになるのは、卒業してすぐ月給をもらって、この月給から離れたら自分は大変だと思うのでしがみつく。みんなの根性はこれなんだ、少しでも月給が上がればよい、それだけを考えている。これで人間がだめになる。ほかの人は就職するがよい。わしは就職の世話をしてやろうと思った。平泉、おまえだけ就職するな。おまえはもっと大きなことを考えているだろう。日本の国のために尽くそうと考えているだろう。それなら就職するな。人間は貧乏で死ぬということはない。飢え死にはしない。本人が価値のないものなら飢え死にをするだろう。本人に価値があれば飢え死にはしないはずだ。それを身をもって体験せよ、おれは飢え死にしないんだということがわかったら、おまえは天下を相手にたたかえる。そこで初めておまえはものになるんだ。えらい教訓ですね。

わかりました、そこで全部断わりました。そして、私のところへ頼みにこられると、友だちをみんな推薦するんです。人のことを言っては悪いが、同級生や友だち、先輩をお世話して、話がくればこの人はいいですよ、と推して、私自身は大学院学生でした。貧乏をせよという先生の教えですから、 そのときにどれくらいの収入があったかね。史学会の委員でどれくらいの手当があったのかはっきり覚えていないが、十円ですかいの。今幾らもらっているか知らんが、十円だったかと思うんですよ。同級生はみんなほうぼうへ勤めて、最下級で七十円。それを私は十円ほどのお手当をもらって史学雑誌の編集をやりながら研究をしておった。

しかし、黒板先生も親切なお方で、その時分は卒業式は七月ですから、おい、平泉とお呼びになって、秋になって、日光の東照宮の歴史を書くことになったんだがおまえやれ。かしこまりましたということで、十一月になって日光へ行った。宮司のほうから話があって、お願いしたいという。黒板先生は心配されて、平泉一人では大変だから助手をだれか付けようとおっしやった。ところが難儀なことに助手になり手はあっても、私より年が上だと具合が悪い。当時私は数えで二十四ですが、二十四以下で助手に使える者はないんだ。幸いなことに広野三郎(1897~1968)という、史料編纂所にずっとおったアララギ派の歌よみですが、号を牛麿、これがその年に国学院大学を出て、私より一つ下なんですが、これならよかろうというので、一つ下という理由で広野を採って、二人で関係することになった。

東照宮へ行ったところ、宮司の案が主任は平泉、助手は広野。私に三十五円、広野に二十五円という案だったのです。それで、私は、宮司さん、すまんが私にひとつ希望があります何なりとおっしゃってください。広野と私と月給を代えて下さい。私が二十五円、広野は三十五円。こうしたんです。宮司はびっくりして、 いいんですかという。 いいんです。このほうが希望なんです。そのかわり私は時間的に何らの拘東を受けません。広野は気の毒だけれども、これはこの仕事をずっと続けて毎日やってもらう。こういう約東で二十五円で、一年間かかって有名な『誤られたる日光廟』を発表したんです。                

これは皆さんも知っておられるだろうけれども、それまで日光の自慢の一つは、日光の今の壮大な建築は寛永元年に工事を始めて、寛永十三年に出来上がった。つまり、十三年の歳月を費やした。その費用は全国の三百諸侯から取り上げて、金は使いほうだいということであった。全国の力を費し、資材は全国から集めたというようなことで得意だった。

それを私は全部うそだと言ったわけです。まず、仕事を始めたのは寛永元年でなく、寛永十一年。出来上がったのは寬永十三年で、年月を清算すると一年半でやったということを発表したんです。

これは先年、文芸春秋の社長で、西洋史を出した池島信平(1909~1973)氏と、国史学会会長の高柳光寿(1892~1969)との対談がテレビに出たんです。日光東照宮史の全体の構想は、本編は私が主任、建築編は大江新太郎(1879~1935)と言って東大工学部の講師です。宝物編は日光東照宮宝物館におる古屋さん、この三本立てだったんです。私のところにだけ広野が助手で付いておった。 ところが仕事がなかなか大変だから、もう一人頼もうというので高柳光寿を呼んできて、広野と並んで私を助けてもらうことになって、高柳も関係しておったんです。その高柳と池島信平との対談がテレビに出た。

ところが高柳光寿が、 日光の研究は面白い。あれは自分らがやったんだが、もとは十三年かかったというけれども、実は一年半だ。全国の大名から金を徴発したというがそれはうそで、全部家光一人から出たんだ。その金は五十六万八千両、米千石だと言ったんです。そうしたら池島は憤然として、それは平泉博士の研究じゃないかと言ったら、高柳が非常にあわてて、いや、平泉氏もやったかと何かモゾモゾ言った。いや、これは明確に平泉博士の研究なんだ。そんなことははっきりわかっているじゃないかと、えらく手厳しくやっつけた。池島という人は男ですね。よくあれだけやったと思う。高柳はこの研究には何ら無関係です。それをよくああいうことがやれると思うんですが、そういうことがありました。私はテレビを見たわけではないんですが、うちの次男とか、その対談を見ていた人から知らせてもらいました。

それを私は二十五円でやっていたんだが、黒板先生は偉いと思いますね。そういうときに私がどれほど苦しんでいるか、先生はよくわかっておられるから、日光へお伴して行くでしよう。私と広野は三等、黒板先生は二等で行く。日光は外人がくるから必ず一等車がありまして、一等では建築の大江新太郎先生がこられる。講師で黒板先生の前に出れば、〔聴取不能〕なんだけれども、金が入ってくる人だから一等で行かれる。汽車は一等、二等、三等とみんな違うんです。それで行って東照宮でいろいろ打ち合わせをする。そうすると、こんな鉢に日光まんじゅうが山盛り出る。これはうまいなと先生も一生懸命あがって、平泉食べろ、はいって食べてる。すると先生は急いで食べられて、もうなくなったか、宮司、もう一ぱいとやられるんです。そうすると宮司がもう一ぱい積むでしよう。先生はそれに絶対手を付けられないで、話が終わる時分に、おい、平泉、これを持って行け、余ったわいと、きれいに一鉢、山盛り下さる。それは何とも言えぬ親分ですね。こんな先生は前後にないです。常に厳しいが同時に最もあたたかい先生でした。うれしいものですね。

そういうことで研究しておって、その間にいろいろな論文ができました。いまの五十六万八千両も決算報告を基凖にして話をしているんだから、だれも反論できない。坪井(九馬三1858~1936)先生はしかられましたね。その研究ができたときに坪井先生はわしに、きみだめですよ、建築のことも知らんものが、建築のことを偉そうに言ったってだめですよといわれた。これは答弁のしようもないから黙っていましたが、建築のほうでどういう反対が出るかというと、その時分に東大工学部の建築学教室を挙げて作ったのが、東大紀要・日光廟建築論というこんな本で、ぜいたくな本ですよ。それに十三年かかって全国の大名から金を徴発し、全国の大工を徴用してこうだという壮大な計画が出ている。それを全部私が破ったでしよう。

そうしたところが建築のほうから異論が出た。ほかのことはわれわれはわからん。歴史上そうなるならしかたがないけれども、建築のほうからいうと一年半ではできないんだ。どこができないかというと漆だ。漆というものは塗っては乾かし、乾くのを待ってまた塗る、また乾く。これで非常に時間がかかるもので、一年半ではとうてい不可能だということだった。そこで私はそれの解明にかかった。

 漆塗りは塗師屋といって日光に多いんです。いま日本中の塗師屋を集めても日光には及ばないくらい、日光には塗師屋がいちばん多い。あの日光廟のためにそれだけ人が集まっている。その塗師屋へ行っていろいろ話を聞いたら、われわれの先祖は寛永の造替のときには非常に楽しかった。これほど楽しかったことはない。酒が飲めたという。大変な酒が集まったのでそれが飲めた。これが私を助けたんです。これはおもしろい。漆の中へ酒を入れると塗ったあとの乾きが早いから、どんどん仕事がはかどる。同時にその酒の半分はおなかに入ったから、これが楽しい彼らの思い出なんです。子々孫々に至るまで彼らの楽しい思い出ですから、よほど欲んだんですね。 これで建築屋の私に対する非難が一つなくなったんです。

それからもう一つと、そうなると仕方がないが、そんなに早くできるものかなということをみんないうんですよ。それで、建築でいちばん難しいものは何かということを聞いたら建築家のほうから、それは城郭の天守閣だというんです。これは極めて狭い場所に、極めて高いものを建てなければならない。しかも戦争だから堅牢無比のものでなければならない。これがどのくらいの年月でできたかが、ひとつの目途になると云うんです。よろしいということで私は名古屋城のことを調べました。日本中の城でいちばん天守閣が立派なのは名古屋です。戦災でだめになったでしょうが加藤清正です。 そこで清正が天守閣を造ったときを調べだしたところが、清正が行って天守閣の最初の礎石を置いたのが正月で、それから建てて金の鯱ほこをのせて肥後へ帰るのが八月、 つまり半年の仕事なんです。それはそうなくてはならない。いつ戦争が起こるかしれないのに、三年計画、五年計画でやっている馬鹿がどこにある。一晩のうちにでも建てたいくらいで、半年かかったのは長いほうだということで私は話をしました。

つまり、今の建築家には日光の建築は十三年かかることが当然である。非常な金を使い、 非常な時間を要するというのが、今の建築家の常識なんです。つまり 今の建築家の堕落と、 ボーナスをもら くれなければストをやるというような根性で何かできるかという議論になってきたんです。それで私はこれも勝った。もうだれも文句の言いようがない。

ところがそういうことが分かったあとで、 工学博士の大熊喜邦(1877~1952)という建築家が、 日光は極めて短時日の間にできたのだということを言い出して、 私の論を全部無視して得意になって建築学会で発表したんですよ。しかし、建築学会の幹事がおもしろい男で、さっきの池島信平と同じですわ。男気を出して私に知らせてきて、大熊が日光廟の発表をするからおいでなさいというので、知らん顔して行ったんです。大熊は得意になって新発見というのでやった。講演が済んだあとで私は大熊さんのところへ行って、大熊さん、平泉ですと名刺を出したんです。大熊氏は驚いて、あやうく壇から転がり落ちるような、非常な動揺でしたね。そんな研究が大学院のときの研究です。大学院としては何らほかの講義も指導も受けてはおらんし、特典はない。ただ、黒板先生が適当に私を指導して、月給を取るなといわれた。これが私の大学院学生の指導方針です。

五十六万八千両という金を家光が使ったが、その金がどこから出たかまで調べたんです。それは家康のへそくりで久能山のお蔵から出たということまで全部解明したんです。苦労したんですがね。そういう研究がいくつかあって、 それが認められて、大正十二年に講師になったが、まだ大学院の学生です。

あなた方の時分の事 局長はだれですか。

〇ぼくは知りません。

平泉 清島書記。

〇清島重徳。       

平泉 それです、それです。その人に私は入学願書を差し出し、大学院学生の願書もその人に受け取ってもらい、 その人が私のところへきて、 学生のまま講師というのは具合が悪いから、大学院へ退学届を出してくださいというので出して、それで講師になって、私が昭和二十年に大学を辞職するときもその人ですよ。私の出入りは全部清島氏が処置してくれた。思い出の人ですが死んだようです。

〇履歴書では、 講師は大学院の学生でありながら嘱託を受けているということになっています。

平泉 具合が悪いからやめてくれと言ってきましたよ。

〇三か月ばかりあります。

平泉 私は手続なんかは考えにないですから、清島さんが見るに見かねて、やめなさいと言いにきたんですよ。

〇履歴書ですと満期と書いてありますが。

平泉 そうですか。

〇五年間です。

平泉 それじゃそうなんですかね。

〇大正十年に宗教制度調査嘱託というのがあります。

平泉 みんなそれは黒板先生関係です。先生は適当に私に多少の収入はあるよう、私をいつも死なん程度に見届けてやるということで、これは大したことはないんですがね。

〇このときはどういうことをおやりになったのですか。

平泉 宗教制度調査というのは、仏教を政府がどういうふうに統括しておったかの問題です。諸宗法度なんかがあるでしよう。ああいうものの研究なんです。幕府が天台宗とか真宗をどういうふうに統括しておったか。例えば鹿児島藩真宗を許さないんです。許されるのは明治四年からです。そういうことを調べたんです。そして私はあとに市村 〔其三郎〕(1902~1983) を推薦してやめて、市村のあとが豊田武(1910~1980)。

〇三月に講師嘱託になって、七月に満期だから。履歴上は退学というのは書かないで五年間いれば満期というふうに手続きの上で書かせていますね。

〇大学院というのは授業料は必要だったのですか。

平泉 必要でしょ。

〇そのお金も要るわけですね。

平泉 少し要るんですが大したことはありまぜん。とにかく東京大学ほど金に無関心なところはないですね。終戦後はだんだん変わっ.たでしようがね。それは実におどろいたところで、私は大学院学生のときに、壱岐対馬に調べに行きたいと言ったら、三上先生が、それは行ってこい、大学院の出張にしてやろうと話してくださって、出張にしてもらったんですよ。そして壱岐対馬を調べに行って成績をあげてきた。それに大学院学生の研究補助を大学院からくださるというので旅費が出たんです。幾ら出たと思いますか。八円ですよ、八円。

〇八円ですか。

平泉 八円という金はおよそ考えられない金なんですよ。何ともいえないものですね。そうしたら三上先生もさすがに気の毒がられてね。私はそのとき、対馬採訪の報告をだしたでしよう。それを史料編纂所で史料として買い上けようということで、幾らか補助してくださったんです。その時分に私は史学会の編集委員を辞めたので、退任の席で、自分の微力のためにお役に立てませんでと挨拶をしたところ、評議委員長の坪井先生は私の挨拶が済んだら、要らんことをいうなといわれたんです。私は腹を立ててね。さんざん骨を折ってきたけれども、お役にも立ちませんでと挨拶をするのは儀礼だ。その儀礼にみんなの前で要らんことをいうなとは、いくらなんでもひどい。これはけんかしようという気になって先生の家へ行ったんです。そうしたら上がれといわれて、座敷へ上がって待っていた。私の座ぶとんがここにあったから、それにすわっていた。そこに離れて先生の座ぶとんがあって、先生はまだ出てこられない。間が大分あいておる。やがて先生が出てこられた。これが癇性病みの先生で、わしはだらしがないのでこうなっておるが、先生はこうなってきせるとたばこ盆を下げて、こうして出てこられて、わしは膝をちゃんとなおしておったところ、先生はそこへすわられるかと思ったらすわらない。ふとんの間へどっかとすわって、きみはえらいことをしてきましたね。みごとでしたといわれたんです。対馬採訪で非常に驚いたほどの研究があった。こっちは文句をいおうと思って行ったところが、そういわれたらこっちも参って、先生と仲直りしました。

先生の褒められたわけは、対馬の宗氏は平宗盛の子孫だということに、宗家の伝えはなっているし、系図も平家の末裔である。ところが私が対馬で見つけた応仁年間の鏡の銘に惟宗何々とあり、惟宗の宗をとって宗氏と言ったので平家ではないんです。惟宗と平家とは相対する氏でしよう。惟宗氏なんです。それを先生は喜ばれまして、えらいことを見つけてきてくれた、 そうだろうと思っておったが、 きみは証拠をつかんできたなと非常に喜ばれた。 そんなことがありました。

それから大正七年の変化は行幸がなくなったこと。成績順ということがなくなったこと。それは一種のデモクラシーの思想というところへつながってきたのですね。 

〇九年に大学で新聞を出し始めるんですが、それはどんな体裁のものだったかご記憶はありますか。

平泉 それは残っていませんか。

〇十二年の十月ぐらいまで、全然残っていないんです。五十七号くらいまで。大学の新聞社にもないし。

平泉 いいものでしたよ。小さいものでしたが、内容もそんなにいやなことはなかった。

〇3年分くらいないんです。震災前と震災直後は全くありません。

平泉 それは私も記憶が明確でないですね。その間の出来事の一つは震災ですね。大正七年にちょっとガグッときた。そして今度は十二年に震災が起こって、これは私どもにとって非常に残念なことは図書館を焼いたこと。これは何とも云えぬ大きな損害ですね。図書館の本の数は百万くらいで、大した数ではないけれども、それは今の図書館とは違う、精選したものなんです。あとは寄付であれ、何であれ集めたでしょう。これは言うと悪いが玉石混淆というか、数が多かったところが必ずしもよいというわけではない。もとのはみんな苦労して集めた本で質がよいでしよう。それからこれは何ともいえない大きな損失だと思うのは、 ふつうの書庫の本と別個に屋根裏のようなところに放り込んであった本が非常に貴重なんです。それは幕府の史料で今の最高裁判所にあたる評定所(寺社・勘定・町奉行) の記録というのが大きな本で、一冊の厚さが大体これでもまだ足らん。これよりもっと大きい。そして大きさはこれのこう取ったものです。それはその何ともいえぬ紙ですよ。さっきお見せ

しようと言った大高檀紙のような立派な、パンパンした紙で、それが何百冊とあるんです。それは幕府が瓦解したので内閣が引き継いで、内閣が大学へ引き継いだものが、全部天井裏に上げてあったんです。ふつうの人は見ないんですが、それを私は講師にしてもらったおかげで、自由に中が歩ける。それを見て写し始めたが、全部写しきれないから主要なところをね。これを見た人は中田薫(1877~1967)先生と私だけだろうと思うんです。文部省の宗教制度の関係もあって、写してはそれを文部省へも持っていっておいたんですが、両方とも焼けてしまいました。それは記憶にはあるけれども歴史的な史料としては記憶は役に立たない。とても役に立つようなものではないですよ。幕府の政治のとり方というのは、すべて先例に従うんですから、ずっと先例を調べてこれをこう処断するというようなことがあるでしよう。非常にそれはわれわれのほうでも楽しいし、事情がよくわかるんです。惜しいことでしたね。

その時分に、図書館はやっとのことで入れたと思ったらなくなって、バラックがやがて建ってそこで講義を始めた。震災が十二年九月一日で、最初に大学で学会が開かれたのが、たぶん十月の末か十一月です。どこかそれはわかっていたはずだが、文学部の事務室が 今どうなっていますか。テニスコートありますか。

〇〔アルバムを見ながら〕 これが旧本館。

平泉 これはイギリス風の品格のある、いい、建物でした。正門がありまして正面が大講堂ですが、そのうしろにグランドがあって、向こうは医学部で、ここに通りがあって鉄門へ行きます。こっちがちょっとこうなって弥生門へ行きます。この角に文学部の事務室がバラックであったんです。その二階で初めて日本学会の講演があって、井上哲次郎(1856~1944)先生が主催しておられた。私は招かれてそこへ行って講演をしましたよ。私が前席で、あとは金田一〔京助〕(1882~1971)さんのアイヌの話でしたが、焼け跡で初めての学術的な講演会というのは、これだったんですよ。それがあった翌週から講義をバラックで始めたんです。

そのときも女子学生がいましたね。待ってください。はっきりしないな。女学生はまだか。女学生は何年です。

〇大正八年から選科とか研究生で人っています。

平泉 話が前後して悪いんですが、重大な問題として私が解明したく思いながら、しない問題は、 アメリカ人留学生がたくさん入ってくるんです。これは非常に重大で、日本はぼんやりしているんですが、全部スパイだということが後から明瞭になりました。これを許すか許さんか、教授会で決定されるんです。みんな得意になって、日本の学問の水準が高くなったので、アメリカ人が来るのだと思って喜んでいるんですが、全部スパイですよ。これが非常な数になったんです。それがどこから入ってきて、いつ帰ったのか、帰るときに挨拶していったので私は覚えているんですがね。帰って間もなく開戦ですよ。

講義はその年の十一月から始まりましたが、行った当時、非常に困ったことが起こったんです。坂本太郎(1901~1987)とか原田亨一(1897~1938)はみんな私の学生ですが外に立っている。どうして入らないんですかと聞きましたら、戸が開いていないんですという。それなら小使いにそういいましょうと小使いに言って、戸を開けてくださいと言いましたら、小使いは私の顔を見ていうのには、今日は平泉先生はお休みですよ。

(笑) よわったなと思ったけれども、「小使いさん、わしがその平泉ですが」 「おや、そうですか。」

わしは当時まだ幾つですかいな。十二年は二十七ぐらいですね。原田なんていうのはわしより年が上なくらいですわ。中には有名な先生で、数学の沢田(吾一1861~1931)先生は六十幾つですから、みんな私より上です。ほかの連中でもそんなに年は違わない。 そこで私を学生と一緒に間違えてくれたんです。家へ帰って家内にそう言ったところ、家内が一計を案じて、鬚を生やしなさいという。これはそのときの鬚で、初めて鬚を生やした。いつも学生と間違えられてはあまりにみじめだからね。

〇研究室の中に講師の部屋というのは割当てられたんですか。

平泉 それがないんです。大体、国史学科では研究室がないんです。焼ける前には史学研究室はあったが、国史の研究室はない。これがあと重大な問題ですけれども、国史学には研究室は要らんという考えが強かったんです。

〇中でですか。

平泉 内部で、しかも教官の間でそれで強かったが、私だけが研究室を必要とするという考えだった。これに最も強硬な反対をされたのは辻(善之助1877~1955)先生なんです。史料編纂所というものが挙げて私に反対なんです。史料編纂所が研究室に該当するものであって、そのほかに研究室は必要でないという議論なんです。ところが私がいうのは、

これは本質が違うんだ。史料編纂所というのは大日本史料を編纂するところであって、それの材料を集め、研究して配列するというのは非常に重大な仕事で、せっかくおやり願いたい。それが国史学の研究に役立つということは云うまでもないが、国史学というのはそれと違う別個のものだ。これの研究法を立て研究指導をするということは、目標が違いやり方が違うんだ。 別に立てなくてはならないというのが私の考えなんです。

私の考えを喜び、われわれも全力を挙げて応援してやろうといわれたのが西洋史の先生で、いちばん熱心に私を支援してくださったのは箕作(元八1862~1919)先生です。史学雑誌を編集しておったときに、私の編集監督が箕作先生で、あるとき教官控室へ先生と打合せをするために行っておった。ほかにはだれも先生はおられないで、箕作先生だけがおられていろいろ話をしておったら、 そこへ東洋史の市村瓚次郎(1864~1947)先生が入ってこられた。そうしたところが、その直前に雑誌の編集で、私が変わったことやったんです。だれの論文でしたかいな、覚えていませんが、一冊に一編全部を載せたんです。 それはふつうの雑誌としてはすべきことではないが、学術雑誌でちょうどひとつに載れば、かえって便利じゃないかという考えがあって、ズバッと載せたら市村瓚次郎先生はそれをしかられるんです。平泉、ああいう編集の仕方というのはないぞ。雑誌というものはいろいろなものを載せるから雑誌なんだ。一つ載せて雑誌とはと叱られた。

それで私は仕方がないから、恐れ入りましたと言ってたんですが、箕作先生は承知されない。市村君、何をいうんだ。君はそう云うことをいう職権はないんだ。平泉君に文句があるのならわしに言え。わしが相手になってやる。わしは平泉の監督をしておる。言うべきことはわしが云うんだ。君は余計なことを言うな。言ったっていいじゃないか。言ったら悪いんだ。

それで実に驚いたことに取っ組み合いなんですよ。そして市村先生のわしの悪口を言いながら、こう回られる。そうすると箕作先生がけしからんと後を追っかけられる。わしは仕方がないから、 いまさらどうにもならんでしょう。出て行くわけにもいかず、しょぼんと座っていましたが、二人がぐるぐる、幾めぐりされたか、回られるんです。 (テープ交換)

研究室はできるだけやってもらいたいというので、非常に熱心だったんです。それで私は史学研究室の中に椅子だけもらっていたんです。

〇その史学研究室というのは、どういう部屋ですか。

平泉 それは正門から入って行って右側に文学部があるでしよう。左側の今の法学部の研究室のほうにあったんです。そこに東洋史西洋史があったので、それを併せて史学研究室という表題になっていた。

東洋史西洋史だけですか。

平泉 ほかのがあったが私は関係ないから行かない。

〇いやいや、国史は。

平泉 国史はないんです。ないのを私はそこへ入ったんです。一人だけ入っているんですから本もなし。私がいるだけ。しかし、私はいわば萌芽をそこに置いたんです。私に、史料編纂所に部屋を当ててやるから来いと云うんですが、行かなかったんです。行けばこの方針は立たないから、一人でおったんです。ばかな話です。人が見たらみんなおろかだというでしよう。

しかし、これで建てるつもりでおったところが震災でみんな焼けてしまいました。その時にこちらの研究室は残ったし、こちらの史料編纂所は残ってますわいな。本館だけ焼けたんですからね。 いよいよ改築する時になって国史研究室とか、東洋史西洋史国史とそれぞれ建てようという私の主張が、教授会で認められてそれぞれ建ったでしよう。 

その時に偉かったのは箕作先生ですよ。大日本史料は全部箕作先生がくださったんです。先生がもらっておられたんですが、それを全部やる、持って行けということで西洋史から国史の研究室へもらったんです。

もう一つ偉いのは黒板先生です。先生の家は本が一杯でした。それで先生はみんな持って行けとおっしゃる。これまた大胆な方ですね。先生の家からごっそりと何台持ってきたかわからないが、全部持ってきた。

国史研究室に寄贈ですか。

平泉 寄贈です。

〇今でも残っているのかな。

平泉 大分残っているでしよう。散佚したものもあるだろうと思います。戦争中など散佚していますからね。根幹は箕作先生と黒板先生の本で箕作先生の本は欠巻があります。というのは貰ったものを貰ったんですから、貰わないものはない。(笑)史料編纂というのは年に何冊か出るでしよう。先生が亡くなってからはもう来ないし、何かの都合で先生が貰われないものはもうそのままない。その欠けているものを史料編纂所から頂戴したいということを私は願い出たんです。私がそれをいつ願い出たか、 それに対する返答がどうであったか、 これが不思議なことにみんな書いてあるんですが、実に冷酷な答えでしたね。これに応ずるか応じないかは、いま返答しかねる故ひとつ調べてみるということで実に冷淡でしたね。私は、どうぞお願いしますと言って帰りましたが。

〇途中で申し訳ありませんが、先生は学生のころ、あるいは大学院へ人られたころ、どこで、

平泉 草っ原ですよ。

〇草っ原ですか。(笑)建物の中では場所はないわけですか。

平泉 みんな草っ原にいたんですよ。

〇今のような体制が昔からあるのかとばかり思っていました。

〇先生が黒板先生とお話しになるのは、どこでなさったんですか。

平泉 それは講義のあとで先生を待ち受けてお話ししたり、史料編纂所に大抵席を持っておられるから、そこへ行って話をするということです。

史料編纂所は自分のほうが中心であって、向こうは要らないということですか。

平泉 そうです。東大国史学史料編纂所が持っているんだという考えです。わたしは外国へ行ったときに、ほかの大事な意味もあるけれども、一つの自分の使命は国史学研究室というものをどういうふうに今後育てていくか、それを私は考えて一番骨を折ったのはライプチッヒで、これは研究室が非常に整っていました。ライプチッヒ、ゲッチンゲン、ミュンヘンハイデルベルクだけは研究室の図面を全部とって、どういうふうに配列しておるか。ドイツ人は非常に分類が上手ですからね。分類をして、この方面の研究をするならここへ行けということで、そこへ行けばずっとそれが並んでいる。それを全部参考にして大いにやろうという考えで帰ってきたんですが、戦論がきざていてそれは出来なかったんです。しかし、計画、その準備は出来ておった。

〇野原というのは・・。

平泉 草っ原というのは我々には非常に懐かしいんでね。行くとだれか草っ原に腰掛けている。あの時分和服が多かったですからね。下駄の上がたたみで、下にはこういう板の六つか七つ付いたもので、袴のここへインキ壺をさげて、みんなその下駄でカタカタ歩いてくんです。なかでもひどいのは足駄をはいて教室の中へ入ってくるのがいる。京都大学の教授になった原隨園(1894~1984)氏は私の一年前ですが、西洋史の教室の助手をしていましたが、これなどは下駄をはいてガタンガタンやるので、また原さんが来たなと笑ったものです。

〇先生が大学院の学生だったころは、先生ご自身の研究はどこでされたんですか。

平泉 仕事は下宿で、研究は図書館と史料編纂所の閲覧室です。そこでものを見せてもらいました。その時分の図書館というのは、何ともいえぬ有り難さでしたね。非常にいい本があったんです。

〇それは焼ける前のことですか。

平泉 焼ける前です。われわれは焼ける前のほうが、自分のものになっていたから懐かしいんです。

〇今は助教授以上が教授会に参加しているわけですけれども、講師になられて、大学の行政には全然かかわらないわけですか。

平泉 全然かかわらない。講師には二通りあるんですな。構成分子としての講師と、応援団みたいな講師と二つあるでしよう。私は講座担当ですから構成分子としての講師ですが、何らそういう職権はないんです。助教授になって大分の間は助教授もないんですよ。

助教授もないんですか。

平泉 全然ないんです。五十年史を書いておるときに、そろそろその要求が出てきたんです。助教授も大事な問題には参与させてもらいたい。

 それは妙なことで私は服部(宇之吉1867~1939)先生に叱られたんです。しかられたと知っても表面は叱られないんだけれども、こういうことが起こったんです。国史、国文はいつも修学旅行をやっておった。これは京都・奈良を見ないではどうにもしようがない。だから、京都、奈良辺の古社寺を必ず回りました。国史は一年生は関東を回り、二年生のときは関西を回るというのが毎年の慣例で、三年は卒業論文にかかる。

それをやっておったところ、滝精一(1873~1945)先生が学部長をしておられた時にある決定が行われたんです。その決定は、今後は修学旅行をするとなれば、それは休暇にのみ行えと言うんです。

それから私は腹を立ててね。休暇と云うとちょっと修学旅行には不適当な時ばかりになる。ことに私どもは秋に行ったのですが、秋の休暇となると十ニ月のほぼ末になるんです。大晦日にお寺やお宮へ行ったって、人は相手にしてくれやしない。それでこれに対して私は、非常に悲しいことだ。なぜこういう問題でわれわれに事情をお聞きにならないか。我々は修学旅行をする時には、その修学旅行のために、例えば十一月にやるとなれば、九月からずっと演習はそれに向ける。それで周密な研究をして、行って実物を見てこうだというので、いろいろ理解して帰ってくる。これは演習のひとつの方式なんです。ところが、休暇にのみやれと云われても出来るものではない。今ままでやった事で一体どこに障りがありますかと云うんで、文句を言ったんですよ。かなり激しく言った。そして、我々が悪いことをしておるのなら処罰してもらいたい。私はそれはあえていとわない。黒白を明白にしてもらって、悪いことをしておるのなら処罰、良いことをしておるのならこれを認めろ、こういう方針でいってもらいたいというので、滝先生はよわられましてね。

なぜ私がそんなことを言い出したんですかね。黒板先生が洋行中で、ほかに国史学を代弁する教授がいなかったんです。辻先生がおられても国史研究室も反対、修学旅行も反対なんですから、これは代弁も何もしてくださらない。私が助教授で事を実行していて悪いといわれたのではたまらんというので、私は文句を言ったんですよ。滝先生は非常によわっておられたんですが、そういうことが他の学科にもいろいろあって、助教授は人事問題以外にはやはり相談に来るべきだという説になって、助教授も関与することになったんです。 ただし、人事問題を除くというのは当然ですわね。

〇それはあらゆる人事は関係ないということですか。

平泉 関係ないんです。

〇昭和四年五月二十二日の教授会から出席していますね。

平泉 そうですか。そのとき初めて出たんです。

〇日によって違うんですけれども、教授会をやりまして、休憩がまん中にあるわけです。休憩前に助教授が一緒の場合は休憩後は助教授だけ退場。

平泉 そうそう。総会みたいなものが初めにあって、大事な問題になると助教授は帰れといわれる。

〇それ以前のとき、講師、助教授の出席しないころには、大事なことはどういうふうに伝達されるんですか。学科の中での会議みたいなものはあったわけです。

平泉 ないです。伝達らしいことはなかったですよ。

〇そんなものですかね。 (笑)

〇この間の教授会でこう決まったからというふうに口頭で。

平泉 そんなことですね。

〇直接関係なければ何も知らせないということですか。

平泉 そうそう、直接関係なければ無罪放免ですわ。 関係なし。〇それはぼくの見た範囲ではわかりません。

〇いや、ありましたよ。

〇いま先生のおっしやったのでは、 出席する助教授もあったということでは。

平泉 それは何か代理で出ていないと困ることがあれば、 あるいは引っぱり出されたんでしようかね。 はっきりわかりません。

〇その学科に教授がいないとか。

〇昭和四年では教授会記録を見ますと、「学部長及び今回助教授を教授会に列席せしむることに決定せる件に関し、説明並びに挨拶あり。」 つまり、この時点から助教授も全員出るようになると思います。ただ、これ以後でも教授だけの教授会がたまにあるんです。

〇おそらく人事の教授会のときでしようね。 (昼食)

 

昭和五十三年十一月二十六日   平泉 澄先生 午後の部              

平泉 これが五十年史の辞令です。さっきの評定所記録は、だいたいこんな紙です。恩賜の時計が包まれていた大高檀紙は別のですよ。だいたいこんな大きさです。こんな立派な紙で、こういうのがこんな分厚いもので、一冊ずしっとしたものが何百冊とある

これがそれを届けられたときの服部先生のお手紙です。

〇服部宇之吉さん。

〇五十年前のものとは思えないですね。

平泉 五十年前ですから驚きますね。

さっきの評定所記録以上の紙で日記というものが、日光の東照宮、京都の東西本願寺妙心寺には、徳川三百年の間の日記が残っています。大したものですね。 みんな見ましたが、日光は私が全部整理したんだから。

〇それは冊子になっているわけですか。

平泉 帳面になっています。今はそんな紙はもうないですわ。だれも使わないし、技術的にも非常に骨が折れるでしようからね。

〇しっかりしているね。

平泉 万代不易の紙ですよ。洋紙にインキではみんな消えるんです。恩賜の時計を包んであった大高檀紙は、たしかにあったんだが、考えてみたら蔵に入っているので出ませんが、これは使った紙で汚れていますけれども豊太閤の文書ですよ。これが大高檀紙で、天正二十年だから、ざっと四百年前です。これは朝鮮征伐のときに高麗国、すなわち朝鮮へ出したものです。朱印は秀吉のものです。

〇墨のにおいがしますね。

平泉 紙に縮緬のようなしわがあるでしよう。

〇それがその紙の特色ですか。

平泉 特色なんです。これの真新しいのであの時計は包んであったのです。

「鎮西高麗国、一、軍勢甲乙人乱暴狼藉のこと。一、放火のこと。一、地下人百姓等に対し非分の儀申しかくること。右の条々固く停止せしめ畢んぬ。もし違反の輩これあるにおいては、速かに厳科に処せられるべきものなり。 天正二十年正月日」

日本軍が今度の戦争で、ほうほうで悪いことをした。戦犯が多かったと米軍も言いふらす

し、ほうばうからそういうことをいわれるものだから、日本人は肩身の狭い思いをしてい

ますが、 そんなことはないんだということです。これは日本軍に対する禁制ですからね。

朝鮮人にこんなものを出したってしようがない。 秀吉のときでも、秀吉は日本軍を固く

いましめている。今度の戦争でもたいていの部隊は非常に厳重に放火、強姦、強奪をいま

しめている。そんなことをくよくよするな、 アメリカがやったことに比べれば、 九牛の

一毛なんだというんですけどね。

紙の判が大きいでしよう。雄大ですわいな。ペラぺラっとして、タイプで打って、どうい

う字かわからん。カタカナでがたがた書いてすべてがけちくさいですわ。

〇一寸変なことを伺いますが、先生はお酒はお飲みになりますか。

平泉 飲みません。酒はいいですけれども、いい酒が第一にない。第二に私らは国家の重大事に関与しましたが、すべての機密は酒からもれる。昭和二十年まで、私は大学の一教授にすぎなかったでしよう。何らの権力も機関も持っていなかったけれども、機密はほとんど全部知っておった。機密が漏れるのはしかるべき地位の人が、酒の席でつい余計なことを言う。ほとんど機密は酒で漏れるということを、身に沁みて感じていますから、自分が重大事に関与する場合には酒を飲んではならん。

〇若いときからお飲みにならないのですか。

平泉 若いときは第一貧乏だし、体は弱いし。わしは弱かったんだよ。そこの大野中学校を卒業したんですが、そのときに一緒に卒業したのが三十八名ですかいな。その送別会のときに誰かが悪いことを言って、この中でだれが一番先に死ぬだろうか 衆口一致で、平泉だという。それから大正四年にわしは四高を出て東大へ入ったんですが、四高では半分が東大へ行き、半分は京都大学へ行きました。そのお別れの席でまた言い出したやつがいまして、 誰が先に死ぬだろうという。問題ない。それは平泉だ。

高等学校へ入るときは、無試験制度で、試験は受けなくていいんだが、身体検査を受けなくてはいけない。受けたところお医者さんが、あなたは高等学校へ入るのはやめなさい。大学を出るまで体が持たないという。それでわしは困ってね、歎願したんですよ。体に一生懸命気をつけますから、どうぞ入れて下さいって。それで小首を傾けながら入れてくれられたんです。それで四高には全部を通じて寮におったから、自然にみんなと交わってね。ここにおると近所はないでしよう。友だちかないんだ。子どものときでも何もいたずらをして遊ぶことがない。けんかをしたことかないし、相撲を取ったこともない。高等学校へ行って寮へ入って、やがて寮委員になりましたからね。寮委員になるとすべてのことに関係しないとまずい。相撲部ができたので私は相撲部で、生まれて初めてただ一回だけ、土俵開きに相撲を取ったんです。そうしたところがいきなり出て、何とかいう手でパッとやったところ、相手は二間か三間先に飛んでしまった。みんなびつくりしてやるんだなと思ったでしょう。しかし、それ一回だけで、二度と勝ったことはない。真珠湾だけ勝ってあとは負けたんだ。

それから剣道の本式の試合はそのとき出たんですがいな。姿勢がいいから形はいいんだ。みんな、やれるんかいなと思って見ている。スッと出て行って、しばらくチョンチョンとやって、スポッと横面をやったらピタッと入った。それもみんながびつくりしてね。横面

で勝つということは、よほどの手練の人でなければならないんですってなあ。見事入ってみんな驚いてワーッと沸いたんです。ところが二度目はだめ。

それから柔道はね、校長が、溝渕(進馬1871~1935)先生といって、四高から五高、三高といった校長ですが、この校長が柔道二段です。それがいつも出られるんですが、校長がいつも、おい、平泉、こいと言って出される。みんな見ていて笑ってね。校長ももうおしまいだ。 平泉を相手にするようではということでしたが、とにかく何でもやった。ク

ロスカントリーレースも出て四里走った。これは二番目ぐらいで通れたんです。

そんなことでだんだん体が出来てきて、そして大学へ入った時に、医局におられた先生が非常にいい人でして、その方が私の命の恩人ですわ。非常に親切な人で、そのときに私の妹が十八かで亡くなって、その葬式を済ませて東京へ出たところが、私の脚に傷が出来て、それが治らない 医局へ行って先生に見てもらったところ、先生はじっと見ておられて、血の色を見られた。そしてこう言われたんですよ。薬は飲まんでよいが、冬の寒いときだけ東京におるのはやめろ、三崎へ行って日光に当たれ。これは懇切をきわめた勧告だったのです。その通り実行して、これで私の一生が決まったんですよ。日光浴をすることによって健康を得た。もと落合先生と言ってその時分には・・。

〇ここに学生部の・・。これは十二年ですけれども、そこまでおられれば。

平泉 いや、おられませんね。

〇学生課の主事補あたりに、医局の先生が入っているものなんですけれども、あれは学生課の管轄で、もし入っていればですが。

平泉 ありません。神村兼亮という先生でした。その方は二十三、四年の卒業ですわ。 〔明治二十三年七月卒業〕 私は卒業式のあとで先生のところへお礼に行ったんですが、その家は伝通院(文京区小石川3-14-6)に突き当たって右に行くと多久蔵主稲荷(小石川3-17-12)というのがあって、そこに幸田露伴さんはおられたが、そこまで行かない前角の家が、黒塀をずっとめぐらした大きなお屋敷で、そこが神村兼亮先生のお屋敷だったんです。そこへお礼に行きました。先生、おかげさまで無事卒業いたしました。先生は新聞で私の銀時計のこともよく知っておられて、非常に喜ばれて、よかった、よくやったということで、しばらく話しておいとまをしようとしたところ、お昼ご飯を一緒にしようと言うので先生がごちそうしてくださったんですよ。

通りへ出たところに西川という牛肉店があって、牛肉を売っていると同時に洋食屋だったので、そこでごちそうしてくださった。実に感銘でしたがね。私は医局にはよく世話しなったんです。

〇それは具合が悪くていらっしやるわけですか。

平泉 私は呼吸器が弱いんです。風邪をひきやすい。それから胃腸が弱しい。

〇そうすると相談にいらっしやるわけですか。

  平泉 そうそう。それであの辺を歩いていると、女の人がよくわしのあとをついて来るんだ。大抵しかるべき奥さんが、娘を連れて婿探しにきているんだ。私が行くとゾロゾロゾロゾロ。カモが行くようなものだ。 (笑)

〇これを見ていると、毎年十二月の賞与は大体八十円ぐらいですか、少ないほうですか。

平泉 少ないか多いか知れないけれども、その時分の八十円というと小学校の先生の俸給の一か月分でしようね。私はそれを少ないと思ったことは一度もないし、大学で金を貰おうと云うことも思っていないけれども、それは一般の水準からすれば非常に低いです。文部省が私のなにを見て、大学はだめだな、平泉にこんなことをしておくのかと憤慨して、それはみんな言った。局長も言ったし外務省も言った。昭和十五年ごろに私の官等が非常に低いでしよう。その時分の私というのは、ほとんど日本全国を指導するほどの力だったでしよう。大学では非常な薄給で身分の低い待遇ですから、大学というのはこういうことをやっておるのかと、みんな笑ったんですが、自分ではそんなことは何とも思っていない。

大学には終始感謝して、私は東大の前を通るときに、脱帽して敬礼せずに通ったことはないですよ。ただ、終戦後の混乱した大学には脱帽したことは一度もない。二度とあんなけちなところへなど。それはそうだけれども、前は非常に感謝しておる。

それはあなた、ひどいものですよ。講師といっても講座担当の講師が四十何円の月給でしよう。

〇月手当百円。講座手当が一か年金五百五十円ということは、月。四十円ですね。これが大正十一一年です。大正十五年、助教授になられたとき、本俸の金額はわかりませんけれども、十二級俸です。

職務俸が三百円

平泉 三百円というのは年でしよう。

〇本俸が付くと講座俸を減らしたのかな。履歴書はどの辺までを先生がお書きになったのですか。

平泉 私は書いていないんです。

〇学業、官職、賞罰なんて書き方も分類されているから。

〇大正十二年に文学部の講師になるまでは事務でまず書いて、あとは書き込めということでしよう。だから賞罰でいったん終わっているんですよ。

平泉  ついでに言っておきますが、大学は非常に薄給だけれども私は何とも思っていない。感謝のみなんです。あとで陸海軍を事実上指導するでしよう。あの時分はみんな軍が恐ろしくて、陸軍、海軍にみんなビリビリですらいな。なるべくそれから逃れようとして、みんな一生懸命逃げ回っているような格好であった。ところが陸軍も海軍も非常に私を尊敬し、信頼しておる。平泉はうまいことをやっておると思って、みんな腹が立つんです。

それならその時分に、私が陸海軍によって何か利益を得ておるかというと、よく行った一つの例は陸軍士官学校。これは頼まれてよく講義に行った。講義は一時間二十円、二時間で四十円もらう。そのために私はどれだけの金を使ったかというと、みんなに印刷物を持って行くわけですが、その印刷物はいつも三修社でやってもらう。これに一回だいたい八十円払っている。むろん赤字ですが、それを私はどうも思わない。とにかく戦争に負けたら大変だから、一生懸命教化しに行っているんで、金儲けに働いているのではない。およそ私は東大以外の私立大学へ行ったことはないんですよ。みんなほかの人は私立大学へ行っているが、私は行っていない。ただ一回あるんです。その一回は東洋大学東洋大学は境野黄洋(1871~1933)という人か仏教のほうの大家で、それが学長をしておった。ところが学校騒動があって学長がいすで殴られてけがをし、入院しておられて だれもあとの引き受け手がない。それで東洋大学から黒板先生に頼みにこられたんですが、先生は私を呼んで、平泉、おまえ東洋大学へ行け、だれも行き手がないんだ、行ってこい。わかりましたとお引き受け

して行ったんですよ。打ち合わせに行きまして、いつから、 時間はどういう時間か、どれほどの学生かと学生の数を聞いたところ、はっきりわかりませんがと口を濁している。いよいよ行ってみたら六百人なんです。向こうはそれを言いにくいから言わなかったんです。それで、だれも殴られるのはいやだから行く者はない。それならわしが行こうというので、これだけは一年間行きました。それは例外です。

〇いつごろのお話ですか。

平泉 十二年です。それは正式のなにでないので、出ていないだろうと思います。そういう非常な事態で、やむをえず引き受けたんです。

  海軍は真珠湾で勝って、その大勢が一変するのはミッドウェーですが、海軍は実は全滅してしまったんです。問題は飛行機で、真珠湾の勝利というのは航空機の勝利で、それを海軍はわかっていなかった。全然それがおわかりにならなかったのが平賀(譲1878~1943)総長。軍艦がみんな焼き鳥になった。あれはみんな平賀さんです。

〇それはどういう意味ですか。

平泉 あの人がつくったんですよ。

〇いや、軍艦が焼き鳥だというのは。

平泉 軍艦は上にマストが出ている。あれはみんな平賀総長ですよ。平賀さんが海軍の造船中将で、 平賀といえば海軍では神様のようにいわれた人で、全世界に鳴り響いた。あの人はあれでいくと思っていたが、あれではいかないんです。そんなものは飛行機の前では何の役にも立たない。それを実証したのは真珠湾です。

真珠湾で、航空機はいかなる巨大な戦艦にも勝るということを、実証したのが日本でありながら、その教訓を生かしたのが米国で、日本は依然として長門、大和でいくという。あと山本五十六(1884~1943)氏か連合艦隊司令長官、みんなこれでやってるでしよう。平賀総長は絶対戦艦が強いんだという確信を持っている。この人はそれがなくなった時は自分の命がなくなる時でしょうね。いま平賀さんの悪口をいう訳ではないが、そこで問題はミッドウェーのあと、どうして大勢を挽回するか、その全責任を負うのが霞ヶ浦なんです。飛行機しかない。そのほかいろいろな部隊があるけれども、それは云うに足らない。大局から見て米英との決戦で大勢を挽回しうるのは霞ヶ浦で、その霞ヶ浦がすぐ私を呼びにこられた。行って私もこれは懸命の努力をした。そのときに海軍から辞令をもらったんですが、報酬年額二百五十円。

〇それはどういう資格ですか。

平泉 嘱託です。私はそんなことは毛頭意に介してはおらん。それは戦争さえ勝てばいいんだからただでいい。自分がそれで暮しを立てる気は毛頭ないんだから。

〇昭和十七年十月二十八日、 平泉教授に対し海軍省より霞ヶ浦海軍航空隊における業務を委嘱。教授会で一応了承を得ています。

平泉 構内に狐の出た話をしましたね。 リース(1861~1928)先生のお嬢さんから聞いたことですよ。リース先生が見えたのは明治二十年ですから、そのころ東大の構内にはまだ狐がおったということが、それでわかるんです。

それから震災後初めての会合というのが、日本学会・文科大学の事務室とありますが、これが十二年十月二十七日。井上哲次郎(1856~1944)先生が出ておられました。高島平三郎(1865~1946)氏もこられ、私が「対馬アジールについて」 というので話をして、次いで金田一さんが「アイヌの歌謡について」というので話があった。これが学術的な会合の初めです。わりに早いですね。九月にあれだけやられて十月二十七日にやったんですから、当時、井上先生なんか誇りにされたことでした。講義を始めたのが十一月七日で演習。この日に出たのか坂本太郎(1901~1987) 中村(吉治1905~1986)、圭室(諦成1902~1966)、という人々です。翌八日は講義で、「中世における精神生活」。これは六十いくつの沢田(吾一1861~1931)老先生も出ておられたし、多久(龍三郎1901~1983)男爵、岩生、それから女の方では。女子聴講生というのは人物がそろっていましたね。谷森さんというのは谷森真男(1847~1924)の娘で、谷森善臣(1818~1911)翁の孫でしよう。明治維新からの大した家ですね。お父さんの真男は貴族院議員でそのお嬢さん。これは出来ました。もう一人は平山ヒサ。これはあとで文部大臣になった松村謙三(1883~1971)の奥さん。抜群の頭脳です。一人は花井さん、これは花井卓蔵(1868~1931)先生のお嬢さんで、お婿さんは検事総長。こういうお歴々がいて、よく出来るんですよ。なかなか女とあなどれない、それはすばらしいものでしたよ。

〇よくご記億でしたね。

平泉 これはちょっとしたものがあって、それから拾い出しておいたんです。

〇出発されたのは五年三月ですが、ヨーロッパに行かれました。これは特別なことではなくて。

平泉 ふつうの留学生です。しかし、好意でわりに早く出してもらえたんです。感謝することで、それで私の学問も道も開けてくるんです。

 その時分の東大は、前の大正七年から昭和の初めの十年間、 表面に出ておらないが非常に難しいときです。内部がすっかり崩れており、非常に難しい時代で、ロシア革命の影響がそこにずっと出ている。それは何とも言えんものですね。その時分に例の森戸辰男(1888~1984)事件が起きた。八年正月の「経済学研究」ですね。あの雑誌は残っていますか。

〇残っています。

平泉 私が気がついた時には、雑誌は全部回収されていました。全部写してはおきましたが、それも焼けました。名文でしよう。

〇ちょっと見たんですか、たいへんなものだと思いました。   

平泉 人生の目標は自由なる人格の実現にある。しかるにそれを阻害するものが三つある。 一つは国家、一つは宗教、もう一つは忘れたが。それを排除することが必要であるというのが論文の趣旨なんです。「クロポトキンの学説について」 というような標題ですね。そこでこれが問題になったときに、学生の間でこれに反発して奮起したものがおる。それがひとつの団結として出たのが興国同志会です。

〇それは上杉(慎吉1878~1929)先生ですか。

平泉 上杉先生というのでなくて。どうして上杉先生は表面に出られないんですかね。 上杉先生の影響はやはり強いと思いますけれども、表面に出ておるのはみんな学生ですね。

〇竹内賀久治(1875~1946)。

平泉 だれですかいの。

〇平沼さんの。

平泉 あの竹内さん そういうのはあるんですが あのときは何とかいう人が中心でやっていましたね。わしはあまりその人を知らないし、連携はなかったんですがね。

〇そのころ先生はそういう動きにご関心はおありでしたか。

平泉 関心は持っていました。これは重大問題ですからね。 国家を破砕し、宗教を否定し、経済組織を破壊しようというんですから、これは重大問題と憂えておったが、私の力が足りないし、 動かなかったんですけれども、そのときに我々と憂いを同じくして、色々と話をした人は例えば岸信介(1896~1987)さん。私より二級ほど下ですわい。彼は法科です。学生のときは妙なもので一年違っても大変なものです。後になれば何でもないけれども、今は岸さんのほうがずつと先輩のような顔をしている。岸さんが病気だったので見舞いに行ったら、非常に恐縮して、寝ていたのに起きてきたその格好をいまでも思い出しますが、岸さんはいまでもその事をよく覚えています。

〇この間岸さんに伺ったら、 興国同志会だということをおっしやっていました。

平泉 そうでしよう。私は卒業していましたが、岸さんはまだ学生でしたが、一方の有力なあれでした。それから中川善之助(1897~1975)は私の一年後輩で、東北大学へ行って金沢大学長になった。三年ほど前にここの庭へ来たんですよ。福井大学の事務局長が案内して 七、八人で来たんです。中川はわしの顔をよく知っていたはずなのにケロッとしておる。中川は違うのかいなと思って、中川さんと云うのは婦人問題を論じている中川さんですかと聞いた。 そしたら福井大学の事務局長が、 わしは何も知らんもんだと思って、 中川先生はこういうお方でとわしに説教したから、いや、よく知ってるんだ。何もかも知ってるんだ。ただ大正八年に別れて以来ですから。四高で知っており、その事件の時に知っており、四、五十年か会わないだけのことなんだ。その四、五十年の間、婦人ばかり相手にしたのが中川さん。男子のみ相手にしたのがわし。そうしたらみんなびっくりして、中川さんは非常に感無量の顔をしておりましたが、あの人は婦人問題に逃れたんですよ。つまり、この問題は難しいからね。これは非常に危険な問題ですから、婦人問題をやっていれば何も問

題はない。そんなことがありました。

それから外務省でどこかの公使になられた石井康(1895~1968)さん、これはいい人でしたね。この人がずいぶん学生で奮起して、この問題は放っちゃおけないというので、憂えて立った人がたくさんいました。岸さんもやつばりそのときは偉かったんです。みんな立ちあがった。ただ、音頭を取った人にそれだけの統括力がなかったんです。それから山川先生に対する信頼がわれわれは強かったですから、山川先生にお任せして問題を解決して貰おうという風で、いわゆる学校騒動とはずいぶん違う。そういう問題があって、私としてはこの十年ほどは憂うつだったんです。 つまり、問題が非常に難しいところへ来ている。共産主義は津々浦々まで伸びつつある。ところが、これという先生方はみんな呑気であり、政府当局も対策を持っていない。さればと云って自分にこれをどうする力もない。非常に煩悶しておった時です。

そのときは私は歴史家としての業績が出ていますから、あのままいけば天下無敵で、それこそ象牙の塔における第一流の学者で立てうるものが、なぜ苦しんだ後、ああいう難しい国事に奔走したのかと世間では云うんですけれども、私から見るとこの間は非常に苦しかった時です。その内にこれは黒板先生のお骨折りですか、外国へ行くことになった。そのときにも黒板先生というのは、ほかの人とは全然違うと思うんですが、その前に文部省で思想善導という事があって、思想局というのが出来たんです。そして日本の古典をみんなに読ませるようにしようというので、今の文章に直した叢書を出したんです。思想叢書と云うんですが、黒板先生には日本書紀をお願いした。これを今の人にわかりやすく書き直してくださいということで、先生は引き受けられたが、神皇正統記がやはりその中に入っていたんです。ところがそれはある人に文部省では委嘱することにしていたんですが、黒板先生は聞かれない。神皇正統記は平泉に委嘱すべきものだ。それ以外に適当な人はないと言って文部省へ申し込まれた。しかし文部省は自分のほうで用意もあったのか、それは困る、別の人に頼むのだと云うことです。

その時に大抵の人なら、文部省の云う事だから仕方ないとなるでしょう。黒板先生はどうしても聞かれない。それなら私は日本書紀を断わると言われたので、文部省は仕方なしに、わしに神皇正統記を持ってきたんですよ。事情を知っているからわしは引き受けた。わしが断わったら黒板先生の立場がないですからね。それが外国へ行く直前なんですよ。きつい話でね。

そこで一生懸命あれを今の文章に直した。これは大変なことで、実は外国行きについて用意もしたかったけれども、そんな暇なんかありはしない。そこで窮余の一策は横浜から船に乗った。船は横浜から出て神戸へ寄って行くでしよう。みんな神戸で乗るんですが、その間数日違うんですよ。平泉はなぜ横浜から乗ったのかとみんな不思議に思ったんですが、それはその原稿を船の中で書くためです。家におったのでは人が来て仕様がない。そこで一切を遮断するために船に籠って書いて、これをたしか香港から送り返しました。

そんなことで三月に出て、五月にマルセイユに着いて、それからすぐにベルリンに行ったんです。ベルリンには五月八日ごろ着いたんですが、着いたらすぐに母の日でしたわ。それまで日本では母の日なんていうのを全然知らなかったら、ムッターの日というのでいろいろな行事がある。そういうものかなと思って見ておったところが、相対性原理のアインシュタインのすぐ近くなんですよ。すぐ近くの下宿を借りたんです。

留学生と言いますが、行ってみて驚いたんですが実質上は学生です。日本で博士だとか、教授だといっても、向こう学生扱いです。そしてまずべルリッツ・シューレヘ行ってドイツ語を一生懸命習い、学校へ手続きをとって入学して、学生としての経路を行くというのが普通の留学生です。

私はそんなことをする気はない。初め非常に苦しんで、ベルリン大学を調べて行ったんですが、ずっと講義目録を見て、ちょうど中世を担当している講義があったので、それを聴かせてもらおうと思って行った。これがまた凡庸愚劣の助教授でした。研究室を訪ねてあなたの講義を聞かせてもらいたいと頼んだら、よろしい、いま講義に行くから付いて来いと云うので付いて行った。彼は廊下の途中で止って、帰るというので、しようがない私も元の部屋へ帰った。なぜ、途中で考えが変わったのかと思ったら、私が風呂敷を持っていたので、それが気になったんです。 部屋へ帰って、あなたの持っているそれは何だ。 これは風呂敷だ。 何が入っているという。ノート一冊と辞書が一冊入っていたんです。そうしたら非常に安心して、ああ、そうかと言ったんですが、武器が入っていると思ったんです。そんなばか者を殺して何になるんですかいな 非常に恐れたんです。

二度目に教室まで行って話を聞いたんですが、実に下らん講義なので、こんなものは聞いてもしようがないからやめた。

しかし、だれが偉いのか、どの人がどういう講義をしていて、それがいいのか、見当がつかなし。ベルリン大学はつまりは構内をちよっとうろっき回っただけでおしまい

それから今度はライプチッヒへ行った。これは非常に私は益した。ライプチッヒは有名な出版屋のズラッと並んだところで、とにかく東大の図書館ぐらいのものが軒並みにあって、いつばいの本ですわ。私が回った限りでは、世界にこれだけのところはないですね。その本屋を回るだけでも益がある。それからライプチッヒの大学へ行って講義を聴かせてもらおうと思って聴きに行った。これまた私に非常に幸せでして、ある教授の講義を聴かせてもらいたい、お聴きなさいと云うので聴いた。演習も聴きなさいというので聴した。その演習はランケ(1795~1886)の直弟子であるギーゼブレヒト(1814~1889)の 「カイゼルツアイト」 というのを使っていた。 それをわしは聴いて非常に面白かった。済んで帰ろうとしたら、明日も来るかと云うので、明日も来ると言ったら、それじゃここを次にやるから読んで来なさいというので本を貸してくれた。こんな本ですかね。

持って帰って読んだら非常に面白かった。そこで翌日までにそれをすっかり翻訳して行ったんです。ところが先生の言われるには、読んで来たかと言われたから、訳して来たと言ったら、これはドイツ人の癖ですわ、私はあんたに訳して来いとは言わなかった。読んでこいと言ったんだと云うんです。わしはそれを聞いて、理解しておる。プロフェッサーは読んでこいといわれたが、私はむろん読んだ。 しかし、ほんとうに理解するということは、翻訳したときに極めて精密に、的確な理解及び判断ができるから訳してきたんだ。それならあなたはどういうことを感じたかというので、そこで私はキーゼブレヒトの批判をやったんです。先生はびつくりして、あなた今晩空いているか、家へ招待したいが来てくれるか、一緒に食事をしようと言う。それでその晩食事に行ったんです。五月に行ったんだから六月ですね。さわやかな初夏(はつなつ)の夕方で非常に爽快な晩でしたわい。先生の食堂というのは二階で、相客は先生の奥さんは亡くなっておられないが、お嬢さんとその若いいなずけと先生で、それに私の四人だった。

そこでいろいろな話があって、あなたは日本の大学ではどういう講義をしておるのか。私はこういう講義をして、こういう演習をやっておる。どういう著述があるのか。【中世に於ける精神生活】【我が歴史観】【中世に於ける社寺と社会との関係】、こういう著述があると言いましたら、先生は非常に驚いて、ライプチッヒであなたの聴くべき講義は一つもない。どの大学にもほとんどない。あなたがドイツにおいて、これならば話相手になり、これならばあなたを刺激するという学者は一人しかない。それはゲッチンゲンのシュラム(1894~1970)教授だ。これがドイツにおける最も新しい、 そしてドイツの学界の将来を指導するのはこの人だ。この人だけが唯一のあなたの学友になれるだろう。こんなところはやめて行きなさいという。私はまだこの教授の講義も聴こうと思うんだがと云うと、聴く必要はない、あんなものはつまらんから行きなさい。それで全部の学者について、これはこういう人だ、これはつまらん、これはこういう人だが一遍会っておきなさいというような指示をみんなしてくれた。

そして、ゲッチンゲンのシュラム教授には私が手紙を書くから行きなさいということで、そこで初めて私は道が開けた。私のドイツ語は貧弱だけれども、意を尽くすことは出来る。それで他のことは放っておいて、そこへ行くという事にしたんですが、その時にまだ何とかいう教授かおった。

非常に親切に道を開いてくれた人はヘルマン(シューマッハ1868~1952)というんです。これはマックスウェーバー(1864~1920)の全集を編集した人です。もとミュンヘンの人で、 マックスウェーバー亡きあとの始末を全部したんですから、学者として有力な人です。この方が非常な驚きで私を推奨してくれて、ゲッチンゲンへ送り出すということになったんです。

そのほかにゲッツという教授がライプチッヒでは威張っていたんですが、ゲッツはつまらん、あんなものに会うのはやめなさいといわれたが、この人にも会ってその講義を聴きました。人を見るということは大事ですからね。

そこで今度は道を変えてゲッチンゲンへ行ったんです。これまた面白いことがあって、ゲッチンゲンへ行くときに汽車に乗っていました。汽車は日本と違って昔の列車のように、 一つ一つ横から入るんです。

〇コンパートメントですね。

平泉 私の向かいにおられる方は、白髪の極めて品格の高いおばあさんで、私と二人だけなんです。狭いところで向かい合っているんですからしようがない。そうするとそのおばあさんが私に向かって、どこから来たかと云う。日本から来た。そうしたらこう言われたんです。どうです、ドイツは気に入りましたか。ガールニヒト(絶対にそうではありません)と言ったらおばあさんはびっくりして、どうしてですかという。

実は私はベルリンに泊っているが、そのベルリンの宿には主婦かおって、おばあさんと妹がいる家庭です。その主婦が非常によい人で、日本人のような気持ちのある人でしたが、この人が非常に歎いておる。どうしたのかと思ったら、おばあさんが病気なので、きょうだいがみんな集まってきて、おばあさんを病院へ送り込もうとしている。それは結構ですねと言ったら、結構でないんだ、病院へ行けば生きては帰らないんだ。日本でもそういう感はありますわい。やっとけと云う。それはひとつのある制度があって、病院へ送り込めば、あまり世話にならずに処置してくれるという考えがあるんでしようね。何とかしておばあさんを助けたいと思うんだが、みんなは金もかかることだし、病院に任せようという考えだといいますからね。それなら医者を家に呼んで治してもらったらいいじゃないか 金がかかると主婦は歎くんです。フラウ・フイミュテンベルヒという人でして、フラウ、そんなに心配しなさんな、わしは少し金に余裕があるから。三百円くるんですよ。三百円来てもみんなは遊ぶのに金がかかる。私は遊ばない。書物を買うだけが私の費用ですから。私は遊んだと思って金を出すから心配しなさんなと、療養費を私が出したんです。

その話を汽車の中でして、日本では自分の親が病気になった時には、昔は娘が身を売ってまでも親を助けようとしたんだ。それが良いとは私は思わないけれども、気持は今でもそういう気持でおる。どんな犠牲を払ってでも親を助け、親の命は延ばしたいと思う。ところがドイツでは自分に負担がかかるのをいやさに、早く処置しょうと考える。こういう考えを我々は好まない。だから前にはドィッは好きだったが、この事件で実にドイツは道徳的に良くないという事を考えていると言ったんです。

そのおばあさんは非常に感じましてね。思うに日本は歴史が古いから、道徳的にも非常に崇高なものを持っているのだろう。悲しい事にドイツは歴史が浅いから、まだそこまで人の心が深まっておらないと言って慚隗された。

あなたはこれからどこへ行くのか。私はゲッチンゲンへ行こうと思う、ゲッチンゲンの大学を目指して行くんだ。それなら私が紹介しましよう。ゲッチンゲン大学の文学部長が哲学のガイガー(1880ー~1938)教授で、そこにあてて手紙を書いた。この紹介状というのが日本では三文の値うちもないですが、ヨーロッパでは紹介状をもらうというのは非常に有効なことです。自分に代わってどれだけにしてくれろということなんです。そういう紹介状をもらって行った。

この人は、わしは全然知らなかったけれども有名な閨秀作家で、その人の甥はどこそこの大学の教授、息子はどこそこの大学の教授という名家です。その人が哲学のガイガー教授に紹介状を書いてくれた。

そこでわしはゲッチンゲンに着いたときには、そのおばあさんの紹介と、ライプチッヒからの紹介と、二つ持って行ったでしよう。はじめに大学の廊下を歩いていたところ、一人の紳士が立っておられる。その周囲に七、八人の学生が立っていて、いろいろ話をしている。その紳士は非常に気高い様子で、終始温顔でニコニコしておられる。これはガイガー教授のような気がしたんです。それで一人の学生が来たから、あの人はガイガー教授かと聞いたらそうだというので、私はそばへ行ってその紹介状を出した。ガイガー教授は非常に喜んで、ガストカルテ、つまり賓客としての待遇を与えてくださって、こんなカルテをくださった。それを持って行けば大学のどこへでも行けるんです。図書の閲覧、講義の聴講も自由自在

それからシュラム教授を訪ねて紹介状を出したら、これまた大変な喜びでね。大学で話をして、これから家へ来なさいと言うので家へ行って話をして、それからほとんど連日ガイガーとシュラムの二人の教授が、交代で私を招待されて、お昼ご飯はガイガー教授が自宅へ招待してくださる。晩ご飯になると別のところでしゃべられる。学生がみんなそれについてくるんです。学生もまた実に人情味の豊かな良い学生がおって、そういうのがみんな私の周りに集まってきて、一週間は天国におるような感じで、まことに楽しかった。向こうも喜び、わたしも喜び、ゲッチンゲンは小さな町ですから、みんなと話しながら歩けば知らん間に町を一巡できるほどのところで、夕方になると方々のチャーチからベルが鳴る。昔の日本の中世の面影の残っている所で、非常に楽しくそこで暮らして、それからミュンヘンへ行ったんです。

ミュンヘンは、ヘルマン教授がもうあなたは行く必要はない。ここはもう学問としては落ちていると言われましたけれども、ここへ行こうと思って私は行ったんです。古文書学の教授が非常に良い人で、自分の演習、講義を聞いて行ってくれと言って、これは大変参考になりました。直接の参考ではないけれども、ああ、こういう教え方をしておられるのかということで参考になって楽しかった。

そのほか色々な事がありましたが、そこではもう一人、私を非常に啓発してくれた人がおりまして、それから今度はハイデルベルヒへ行きました。ハイデルベルヒには歴史学者にはろくなのは居ないが、哲学でリッケルト(1836~1936)先生がまだおられました。ヴィンデルバント(1848~1915)はもう居らない。しかし、リッケルト先生には会いたかったので、訪ねて行ってお会いしたんです。こころよく会ってくださって、いろいろ尋ねられ、こういう事を言われた。あなたはここへ来ても、日本人はここにはたくさん来て居るから賑やかだろうと言われた。いや、日本人は来て居りません。先生は非常に怪訝な顔で、日本人はたくさん居ますよ。いや、日本人は居りません。教授の言われるのは日本から来た人の事でしょう。それはたくさん居ますが日本人はおりません。彼らは西洋文明の糟粕をなめておる連中で、日本の昔の伝統を受けついでおりませんから、日本人ではありません。日本から来た人です。これにはリッケルト先生は非常に驚いて、あなたは素晴らしい事をいうと言うので、それから先生も真剣になって話され、これはお互いに非常に影響を受ける所がありました。私は西南ドイツ学派の中枢にここで触れたことは、非常に楽しかったことです。

それから今度はぐるっと回って、もう一ペんべルリンへ帰って、ベルリンでは二人。今度はだんだんドイツの学界の事情もわかり、私のドイツ語もものになってきた。私のドイツ語は高等学校で習ったあと、大学へきてから一年のときに大津康(1878~1922)先生、二年の時には誰だったかな。その時分のドイツ語のいちばんの重鎮です。みんなびつくりして、ああいう先生に習っているのかって、医学の人なんか驚嘆したんですが、文学部のほうの講義も担当しておられた。それが私はどんな点を与えられたのか知らないけれども、三上参次1865~1939)先生は、平泉はひどいやつだ。ドイツ語では百点を取っていると言われたんですが、とにかく点はいい点をもらっている。しかし、実際ドイツ人の中でどれだけ話せるかわからなかったが、とにかく向こうが親切に意味を汲みとってくれるものだから話が出来て、自由になってきた。

そこでベルリン大学ではドイツ史学会の長老の一人であるオンケン教授とマイネッケ(1862~1954)教授を訪ねようと思いました。 オンケン先生からは丁寧な手紙が来まして、あなたの手紙を見たが自分はいま病気で会えないというお断わりの手紙です。 これは仕方がない そこでマイネッケ先生をお訪ねしました。これは紹介なしで行ったんです。自己紹介ですが心よく会ってくださった。家は古い家で、壁には蔦が一面に繁って、それが秋の初めで色づいている。非常に風格のある家でした。

先生の書斎へお通しくださったのですが、混雑しておる書斎となると日本では内藤湖南(1866~1934)先生がそういうふうでしたね。一杯の本の雑然とした中に先生はおられる。マイネッケ先生の書斎も一杯の書物でうず高い中に先生がおられる。そして耳が遠いのでこうして話をされる。実に温顔で心の深い方でして、その時の話というのは、やはり一生の感銘ですね 今もって忘れる事の出来ぬ二時間かそこらの僅かな時間ですが、感銘ですわ。そして私の尋ねたいと思うことにみな親切に答えてくださり、いろいろ書いてまで下さったんです。それはみんな焼けまして残念ですがね。これがドイツの学問の仕上げです。

それから十月一日にドイツを出て、チェコスロパキアからウィーンを通ってブダぺストへ行って、ブダぺストの大学の教授を訪ねた。どんな人がおるのかと思って、これは興味本位で何も知らずに行ったんですが、これまた面白い人に会って、その人の書斎へ通された。その教授の後ろがずっと書棚になっておって、その人の著述が並んでいる。これがみんな自分の著述だ。非常にたくさんの著述ですねと言ったところ、わしを一体いくつだと思うかというから、わしは平家物語を思い出してこれに答えた。先生の風貌を見ると年は若い。しかし著書を見ると仕事が非常に多いから、余程のお年だろう。大変喜んでね、私の答えもまたよかったんだね。著述が多いから年はとっているように見えるが、顔を見ると若いから若いんだろうと、当たり触わりなしに褒めたんです。 非常に気に入ってね、私に、あなたはどういう著書があるのかというので、自分の著述の話をした。 チャーサル・エレメール教授は非常に驚いて、あなたの学風をその表題で察するところ、ドイツに おいてもごく最近に起こった最も漸新なる学風だ。それをあなたは一体どこから学んだ。だれからも学ばん、自分でこういうのが当然だと考えたと言いましたら、非常な驚嘆でして、最も新しいドイツにおいて前人未踏の境地を行くものとあなたは同等だと言って褒めてくれた。

それからギリシアへ行った。その時分はギリシアまで行くと我々も第一に字が読めず、言葉もわからない。しかし、汽車の中にハンガリア人が一人おって、それといろいろ話をして、 この人から聞いて非常に感心したのは白鳥庫吉(1865~1942)先生。 東大の東洋史の教授ですが、この先生に非常に感歎しておる。ハンガリアでは日本という国があるのか、ないのか、実はだれも知らなかった。ところが白鳥博士が来て、そこで初めて、ああ偉大なる学者白鳥、それを生んだのは日本、そこで初めて日本というものに目をつけるようになったんです。 白鳥と日本というものを自分らは結び付けて考えるんだという。 非常な感銘でしたね。

そしてこの人は自慢が一つある。 それは日本手拭のコレクションです。 私は白鳥先生というのは偉いなあと思いましたね。

私が大学へ入った時は、国史概説は黒板先生、白鳥先生は日本の神代史をやられた。非常な感銘でしたね。私の卒業論文国史の先生が見てくださったが、あとで、きみの卒業論文を見せてくれと言われて、しばらく先生が借りてくださって、すっかり読まれたんです。先生は本当の恩師だと思いますが、はからずもハンガリアで白鳥先生への尊敬がこれ程まで深いものかと驚いたんです。

それからギリシアへ入ったんですが、途中のどこかで止まるんです。 サラトガという所で乗り換えて、またアテネまで行くんでしたわい。 乗り換えの所で難儀したんですよ。ことばがわからないし、プラットホームがないんです。飛び降りるんです。プラットホームがあればいいんだけれども、ないものだから、よじ登るんです。ドイツの女というのは、あんな風になりなさんな。お尻がこんなになる。気持が悪いね。それが登ろうとしても登れない。 みんなこうしている。その汽車の乗り換えの所で、わしは荷物はあるし、全財産を持って歩いているんですからね。 五十日の旅です。ずっとこれからギリシア、イタリアを経てパリまでの五十日間を、大きなトランクを二つ持って歩いたんです。   

  ところがその汽車の中の車掌が、前に日本に抑留されていた人です。第一次大戦チェコの兵隊がいたでしよう、あの一人なんです。それが非常にわしに好意を持って、 日本では非常に世話になった。無事に帰れたのは日本のおかげだと、乗り換えの時にわしの大き

な荷物を持って走ってくれたんですよ。 こっちの汽車は遅れて着て、向こうは出ようとしているので、パーツと飛んで行ってこっちの荷物を放り上げてくれたので、わしもパーツと飛び乗ったんです。そして十月末にアテネのホテルへ入って非常に驚いた。ホテルの女中が云うのには、温かい風呂へ入るか冷たい風呂へ入るかというんですよ。わしらには考えられない。十月の末に水風呂なんていうのは考えられない。初めて、ああそういうものかと思ってね。 私は温かいほうが良いと言って、温かくしてもらって入りましたがね。 ギリシアは十日ほど見ましたかね。

ギリシアには昭和五年十月一日ギリシアアテネ府に到着と書いてあります。これは届けです。

平泉 届けを出したんですね。それからイタリアへ行ってクローチェ(1866~1952)を訪ねた。これは非常に感銘でね。ナポリへ船が着いてそこであがってクローチェさんを訪ねた。これはだれも紹介してくれる人がないから自己紹介ですわ。 それで行ったところが、 非常に喜んで待ち受けられて、いろいろ話をした。書斎を全部解放して、家の中がちょうど図書館のような大きな家でして、有力者と見えますね。その中をずっと案内して、 いろんな物をくれられた。 先生の著述も五、六編くれられた。 それからまた来いと言うので、翌日もまた行って、毎日三日か四日行って、向こうに滞在中クローチェさんを訪ねないことはなし。 写真もくれられた。 南でクローチェ、北でマイネッケ、この両先生の考えが同じなんです。私の考えておることとピタッとくる。そこで私の万物流転が出るんです。

私の本を日本で出して図書館が難儀するのは部類分けです 歴史の方へ入っていないんです。 万物流転というのは何だろう。 人によっては何ら精密な考証がなされてはいない。 私は精密な研究をやったあと、エキスだけを発表している。それをみんなは、だれそれがいつ書いた論文にはこういうものがある。それによるとこうだとか、ゴチャゴチャ書くでしょう。 そんな事はみんな頭の中で整理してしまって、 エキスだけ書くのが私の主義だし、 晢学と歴史とは一緒であって、分ける事が出来ないというような考えですから、私の本は図書館の方では非常に迷惑する。

ところがそれと同じ考えがマイネッケ先生で、先生の著述は歴史の表題ではないですわな。 そういうことでイタリアに一月、ギリシアに半月いましたかいな。 そしてパリへ入った。

 パリに入ったとき私が非常な苦しみに陥ったのは、フランス語が出来ないんですよ。 日本でやってたんです。東大でもしばらくフランス語の講義を聞いたんですがね。 年とってから聞いた外国語というのは覚えられない。英語とドイツ語だけは何とかやれるが、フランス語はどうにも身に付かなかった。それでパリへ着いたとき、単語を十ほど知っているだけなんです。 ボンジュール、 ムッシューぐらいは出来るけれども、あとはどうにもならん。

しかし、わしに非常に勇気を与えてくれたものは、エッフェル塔へ登って周囲をながめておったところ、一人の若者が登ってきた。 そして一緒にながめておる。わし、その男に聞いたんです。 そうしたらその男が恥ずかしそうな顔をして、 私はフランス語はわからないという返事をしたんです。わしは自信を得てね、何だ、こいつ澄ました顔をしているが、これもわからないのか、私だけ卑下することはないんだ。

それからベルリッツシューレヘ行ったんです。ここじゃ仕方がない、初歩から始めなくては。 そうしたところが若い女の子で、割りに綺麗な子ですが、これが先生です。これとどうも気が合わないどうも馬鹿々々しい。こっちは第一流の学者と交わって来た後で、あんた、その女の子にとっちめられている。 フランス語で、雲はどういう色かと聞いてきた。私は、雲の色は白いと答えた。外人は肩をこうやるでしよう。空をこう指した。それで私が窓から見たところが、なるほど雲は白くない。そこで私は、日本の雲は白い、フランスの雲は灰色だと言ったんです。怒りまして、それでけんか別れですが、しかし、それだけ云えるだけの力はそのときに付いたんです。

そして帰って来て、私はもうべルリッツをやめたと言ったところ、下宿のおばさんのマダム・レミーが、私が教えてあげようというのでお願いしました。マダム・レミーは聡明な方で戦争未亡人ですが、きれいな人でしたね。これは泣きの涙なんです。どういう事かと云うと、お昼のご飯のときに単語を二十五覚える。それから晩ご飯に単語二十五を覚えると、一日五十覚えるでしよう。それを十日間やると五百覚える。とにかく死にもの狂いでそれを覚えるんだ。それは容易ではないですよ。前のを忘れたら何もならないからね。毎日五十ずつ覚えていくでしよう。十日間たって今度は文章をお昼二十五、晩二十五覚える。文章を十日間で五百覚えると、大体しゃべれるんです。これは泣きの涙ですよ。とうとうやったので、それから私は活動を始めて、有名な教授に会い、ほうぼう大事な場所を調べ歩いたんですが、 それは二十日間の速成ですわ。

そして出先から手紙をマダム・レミーに出したところ、マダム・レミーは自分はあなたのような優れたお弟子を持っことを誇りとするということで、とにかく文章は名文なんです。ところが実際問題として、マダムから文法は教わっていないんですから変化がわからない。現在と過去の区別がつかないので、何でもいいから現在でやって、カッセ (過去)だというんです。(笑) それは箭快なものですね。どこへ行ってもそれをやっていた。

ところが、いよいよパリ大学のそうそうたる学者に会うことになったんですが、その間に私はずっと研究していて、研究の成果を持って会いし行って議論を吹っかけた。すると先生は違う説を述べる 。そのとき私はうちでいつもマダム・レミーと論戦しているものだから、 その癖が出たんですよ。「ノン・マダム」とやった。(笑) そうしたところ教授はびっくりしてね。おかしくておかしくて。よくやれたもんですわな。

しかし、そのおかげで書物ではバルザックを読み、ルックレーを読み、いちばん私が感銘を受けたのは、伝統に書いておきましたがポール・ブールジェ(1852~1935)先生で、これが私の恩師です。とうとう会えなかったんですわ。非常な老齢でしたから、お会いしたいと思ってお願いしたが、ちょうど寒いときで南に避寒しなければならないので、お会い出来ないことは残念である。こういう本を読んでもらいたいと、懇切に読むべき書物を教えてくだざった。そして写真もあとでもらいましたが、非常にこの人の感銘はドイツのマイネッケ先生と同じように、一生忘れられないですね。

〇フランスはどのくらい、いらっしゃったんですか。

平泉 フランスは十二月の初めに入っているでしよう

〇そこは出ていないんですよ。アテネに着いたところだけ届けが出ていまして、あとの届けは帰朝なさった時です。

平泉 十二月の初めに着いたはずです。そしてパリを立ってイギリスに行くのが四月です。 「四月七日、パリを立ちてロンドンに至る」と。

〇その前、六年二月十八日の教授会で 「平泉助教授病気のため、満期前帰朝したき旨願出ありたる件は、やむをえざるものとして承認するに決す。」

平泉 それは明日話ししますが、 この研究は私の学者としてのものですが、その間に知ったことは世界は大動乱に陥るということを予察したんです。そんなことは届けには書けないですから病気ということにしたんです。

〇実際は病気ではなかったんですか。

平泉 病気ではない。

〇教授会の記録の読み方も難しいね。

平泉 表面に出たことだけで読むのなら、歴史というものは何でもないんです。 大学百年史にしても庶務課の記録だけなら、有っても無くてもいいようなものだ。本当の生命はどういうふうに動いているのか、躍動しておるものをつかまえなければ歴史にはならない。

いまのが表面の学者としての動きです。それが済んだら明日もう一つの重大問題に移ります。

〇それはそういうご旅行の最中に並行して? 

平泉 並行して。 みんなと接触し、新聞を読み、民衆の動きを見ていますから、それで考えて重大なところへきておる。

〇ヨーロッパをお歩きになって、日本というものをヨーロッパの人たちはどういう風に見ていたのでしょうか。ハンガリーの方は、日本はどこにあるのかよく知らなかったという話がございましたが、一般にそんな感じだったのではないかと思います。

平泉 非常に軽くあしらわれていますよ。また留学生を見れば軽くあしらわれても仕方がない

〇当時、留学生は多かったのですか。

平泉 多かったんですよ。多かったのは当時日本は経済的にいちばん安定しておった。 ドイツは第一次大戦の賠償金で疲弊の極にあるでしよう。 その極にあるところへ、 日本の人はみんな威張って行っていたんですよ。冷酷ですね。椅子でも何でもみんな持って帰るという調子でしよう。安くて二束三文ですからね。そういう風であったんですわいな。

ハイデルベルヒで私が夜散歩していた。何とかいう川 〔ネッカー川〕の砂浜の所をずっと歩いていましたわい。夕暮れでした。後からヒタヒタと足音がして私のあとを急いで来るものがある。見たところ壮漢ですわ。鉱夫か何かのような大きな男で、あらくれたのが私の所へ来て 「ヤパーナ」 というので私は立ち止まった。「日本人か」「日本人だ」「日本は今度の大戦では英米のほうへ付いたな。」 こうきたんですよ。非常な反感ですね。怒り猛ってそう云うんです。「そうだ。しかし、それはな、もう一つ前へさかのぼると、ドイツはロシア、フランスと手を組んで日本から遼東半島を取り戻したんだ。」「今度はその仕返しだったのか」というので、私はそうだと答えた。これであいこだ。仲良くしよう。そうかと云うんです。それはあなた、危急存亡の秋で、私は下手をするとやられると思った。

 

〇あのときは円とマルクの関係で、円が非常に強かったときですね。 

平泉 一円が二マルクでした。イギリスでは一ポンドか十円。 フランスでは一フランが八銭。ですから千フランといわれたって驚くことは少ない。 そうすると、ついみんな遊ぶんですね。

アメリカへは行かれたわけですか。

平泉 イギリスからアメリカを通って、概観して帰ってきました。

東海岸からあがって列車で横断してですか。

平泉 例の自由の女神を見て入って、サンフランシスコから船に乗ったんです。私はおそらくここで戦いが起こるだろうと思って、ハワイなどを眺めながら来たんです。

〇そういったお考えがおありだったので、当初ヨーロッパを中心に行かれるはずだったのが、行かれてからでしようか ギリシアアメリカを追加したいという事を文学部の方に言って。

平泉 初めからそういう計画はあったんです。 別にそういう事は抜きにして、この機会に回らなければ、たびたび行けるような所ではないですからね。しかし、それは次々に出さないと、初めからこれだけ回るという事は出来ないです。最初は、「ドイツ国駐在を命ず」でドイツ国に駐在して研究せよという命令ですからね。ドイツを出して、それからだんだん出していけばいい。そういう仕組みなんです。

〇そしてお帰りになったのが昭和六年七月十五日〔七月九日横浜着〕と書いてありますが。 

平泉 そうなんです。帰りの船の中で三雲社長と知り合ったんです。 これは実にいい人と知り合ったものですね。その船は浅間丸という当時日本一の豪華船です。あとで沈められたんですが、実に雄大な船で、その中でデッキゴルフをやりました。私と三雲さんと原田(1888~1947)〔熊吉〕という陸軍中佐と、もう一人陸軍大尉がいまして、四人でデッキゴルフをやっていましたかね。原田中佐はあとで中将になって絞首刑。それから大尉はあとで師団長になって、これはいまでも生きておられますが、三雲さんはああいうことで亡くなられた。とにかく三雲さんと私との結託で奄美大島を取り戻したんです。

助教授が教授会に出られるようになったという時期に、先生が教授会で「現在の制度等につき意見の陳述あり」ということで何かおっしやっているんですが、これはどういう・・。

平泉 書いてありますか。

〇昭和四年の行かれる前ですが、行かれるということが決まったあとの九月です。

平泉 教授会で意見を述べたんですか。     

〇「教授会並びに現在の制度等につき意見の陳述あり。」 ですから教授会なり今の大学の制度についてのご意見を述べられたということです。

平泉 それは何でしようね。

〇その後を続けますと「姉崎、吉田、藤岡、宇野の諸教授及び辰野助教授より意見の陳述あり、右は他日教授会の議題となさずして、懇談的に研究考慮することとす」

その次とその次の次に、やはりそういったことが話し合われているんですが。

〇それは修学旅行の問題ではないでしようか。

平泉 修学旅行以外では私はあまり意見を述べておらんと思いますがね。

〇教授会についての意見と現在の制度についてです。

〇そのあと十月三十日では「平泉助教授より授業に関し現状においては各学科主任教授責任を負う上に不便あり、これをいかにすべきか、及びその他に関する提示あり。」

 

平泉 わからんですね。

〇これ以上は書いてないので、具体的に何があったのか

平泉 わからんですね。

〇それからあと学部規則改正にも関係するような事らしいんですけれども、ちょっとそれ以上はよくわからないんです。

平泉 助教授の間に助教授会というのがあって、非常にみんなにうつ憤があったんです。しかし私はほかの問題には触れないはずですがね。修学旅行だけは勝手に教授だけで制限をつけられるということで、我々の一生懸命の努力というのは無視され、禁止されるという事は不本意だということは述べておるんです。かなり強かったんですよ。

〇ただこれだともう少し広い範囲の話のようですが。

平泉 そんなふうに見えますね。そんな偉そうなことを私は言いませんがね。そういう問題にあまり触れないし、人のことを批判しないのが私の特徴ですわ。森戸事件からあと問題がいろいろ起こるでしよう。例の蓑田胸喜(1894~1946)氏、小田村〔寅二郎〕 氏、あれはみんな酷薄に人身攻撃をやるでしよう。私は全然あれには関係しない。 世間では私がやったように思うんです。美濃部憲法を攻撃するのも平泉がやったんだと云うんですが、全然私は知らない。

美濃部先生と私とは妙な話ですけれども、憲法の批判は別問題ですよ。およそ私は美濃部批判をやったことはない。書くものでは批判しておりますが、それを出しておらない。私が二十七のときは、九州帝国大学創立の時で創立委員が美濃部達吉(1873~1948)先生。美濃部先生はいろいろ調べて私を国史学科の主任教授として招くという案を立てて、懇切に私に勧告された。二十八、九の時分にいち早く私を主任教授として。私の仲間で助教授で迎えられた人も、助手で迎えられた人もいたんだが、主任教授で迎えるというのはおらなかった。私をとにかく向こうの大黒柱で迎えるから来てくれと言われたんですが、それを私は断わった。そしてその次にお会いした時は、何としてもあなたに来てもらいたいと思って、文部省の松浦鎮次郎(1872~1945)君に頼もうと思っていたんだが、手遅れになってきみが東大に残ることになったので、もうこの案は仕方がない、やめますと言われたんですよ。

これはまた近衛公が非常に感心された。私を美濃部さんがそこまで見込んで推していることを、近衛公は非常に感心して、そういうものですかねと驚かれたんですよ。

私はそういう ゴタゴタしたことにはなるべく触れない。

〔五十年史に関して〕こういうものをみんな提供して、うちにあるものをみんな持って行った。おじのところの島田剛太郎(1867~1945)の卒業写真、そのほかそういう写真が何枚かありました。

〇明治二十三年の法科大学の卒業写真とおっしやっていましたね。

平泉 島田剛太郎と書いてあるはずです。書いてないかもわかりませんが、その写真は当時は珍しいものだったんですね。 大久保利謙(1900~1995)がいろいろ書いていますが、悪意があるはずかないし、何ですけれども、目の付けどころが違いますからね。

東京大学朱光会、昭和六年十一月十八日創立。 このときの指導監督者が春山(作樹1876~1935)先生。 これがそのあとですが、文部省教学局の資料です。東京大学朱光会、これは創立年がちょっと違っているんです。

そっちは六年十一月、こっちは七年の一一月です。

平泉 この先生はおやめになったんですよ。

〇朱光会の指導者をですか。 大学をですか。

平泉 ご自分の意思でしよう。 やめさせてくれといわれたんですよ。 これは本来は教授でなければならなかったんでしよう。

私はいつ教授になったんでしよう。

〇十年です。

平泉 そうするとこのときはまだ教授になっていませんね。

〇これは十四年の調査ですね。

平泉 そのときは教授になっているけれども初めの時は違うんですね。

〇では相当の間、春山さんがおやりになったわけですか。

平泉 おそらく私が十年に教授になった時に変わったんですね。

〇実際に朱光会の最初から先生は指導なさっていたわけですか。

平泉 関係しておったんです。

〇七年の二月か、 六年の十一月か、どちらかわかりませんけれども。

平泉 どっちでしょうね。

〇これはもう先生がお帰りになって、その年か、その次の年の初めですから、大して差はないんですけれども。

平泉 これはつまり満州事変から学生がサーッと出てくるんですよ。学生というのは敏感ですね。ロシア革命でパッと増えた。それと同じように満州事変でもパッと増えてくる。非常に敏感です。

〇会員数はそちらで二十五人、こちらで四十四人となっておりますが、大体こんなものですか。

平泉 そんなものでしよう。

〇これは各学部にまたがっているわけですか。

平泉 全学部です。

〇中心はやはり文学部ですか。

平泉 法経が随分います。とにかく総合大学といっても引き出しみたいなものでしよう。各学部がみんな孤立しておって、ただそれを積み重ねての総合大学ということで、実は何もないでしょう。ところが、私という者が来ると全部が一緒に集まる。私の講義はそうですよ。 全部がくる。日本思想史とか、中世の何々という講義をすると、法学部、経済学部、工学部、理学部、医学部、農学部、全部来る。とにかくこういう会が私が居ればみんな来る。総合大学の実をあげたのは私ですよ。いまもってそうで、その連中がずっといままで私のところへ来ます。

〇こういう会は七生社は多少何か。

平泉 これは上杉(慎吉1878~1929)先生ですね。

〇この筧(克彦1872~1961)先生のは、これも何かご関係があったんでしようか。

平泉 私どもは関係ありません。例のああいう古神道で、それはそれで結構でしょう。上杉先生は上杉先生で結構で、私どもと何が違いますわな。

〇学生はそれぞれ重複しているということはなくて。

平泉 重複していません。全部きれいに違うんです。それぞれの匂いが違うんです。

 

〇明日伺うこととしてですね、昭和十三年に日本思想史講座の担当になられましたね。

神道学講座が十三年度からですけれども、その話が昭和二年ごろから大分出ているんです。

平泉 それはこういうことなんです。 最初は上田万年(1867~1937)先生、 三上参次(1865~1939)先生、芳賀矢一(1867~1927)先生なんかのおられた時分、私どもの学生の時分から問題が起こっておった。こういう先生が神道の講座を立てたいということでしたが、なかなか実現しないで、教授がなくて助教授が二人おりました。 田中義能(1872~1946)さんと加藤玄智(1873~1965)さんの二人が助教授でおられたけれども、それは一つの学科には無論ならない。教授がない。それでずっときて・・。

助教授だけという講座なんですか。

平泉 講義があっただけ、講座にならない。 それを世話役としては国史のほうで世話をしろということで、黒板先生が教授会では代弁することになっていて、そのままずっと来たんです。教授会に黒板先生がおられない時には、私がその代弁者になっていたんです。そしてそれがいよいよ常設するのが十三年ですが、その時が大問題でね。私が教授会でそれを提案したんです。神道学科は充実して教授を置くべきものである。それに、五、六人が立って反駁したんです。例えばある教授は神道って何だ、何でもないじゃないか、大体神道の定義は何だというんです。ある人は、文部省に仰合して、あるいは結託してこういう案が出ることはけしからんとか、いろいろな意見が出たんですよ。何か私が文部省をつついて、文部省と共謀してこういう案を出したような事だったんです。いちばん激しかったのは東洋史の池内 「宏〕(1878~1952)さん。 私は全部の非難が出たあと、立ち上がった。私は申し上げましよう。今日、神道学というものの定義がわからない。これは審議に及ばないという意見が出ましたが、伺いたいのは、社会学の定義は決まっていますか。ドイツにおいては社会学というのは長い間、問題があって、歴史学がある以上は社会学は要らないんだということで、ドイツ学会における長い論争のあった問題なんです。いま社会学は決定的にこういう定義ということが、その当時なかったにもかかわらず、社会学の講座は充実し、教授は置かれたでしよう。それから私がいかにも文部省をつついて文部省と連係して、こういう案を出したように言われるが、 そんな事はないんだ。それが残念さに私は前から神道講座を充実すべしと言っておるし、半年ほど前に提案している。その時に一人の賛成なくして否決された。いま文部省から言い出されて、大学か文部省のしり馬に乗らなければならない。

私にとっては非常に心外なことでしたが、皆さんの怠漫及び浅慮のために文部省から圧迫を受けるような立場になったことは、皆さんの責任であって、大学として恥ずべきことである。もし、私の案を採っておられれば、逆に文部省を指導しうる立場にあったんだという論を唱えた。それを私がやったところ、一人の反対もなく全部これに従われた。そこで神道講座をおかれたということなんです。

もう一つは思想史講座でしよう。これがまた問題でね。とにかく文部省から出たのは国体を明らかにする何を置けということなんでしょう。そこで、どういう名前で受けとるかとおいう事になったんです。日本精神史講座とするか、日本思想史講座とするか。

〇国体学講座にするか。

平泉 私は何も言わなかったんです。前の神道で云うだけのことを言って、私の立場はわかっているんです。それで思想史講座として受けとることになって、結局、私の所へみんな押し付けられたんですよ。 私はどっちでもいいんだ。 国史学の第一講座を担当しておるんですからね。それでやれると思うけれども、しかし、今の問題に反対することも賛成することも別に必要はない。黙っていたんですがね。

世間で見るのと中と違うことがあってね。それを云うと私の本来の趣旨に反して、つい内部のあの人がこういうことを言っているということを、明らかにするから具合いが悪いんですけれども、世門では有名なお方が実際になると、まるで変わって来るですわいな。

〇日本思想史講座担任を命ぜられ、同時に国史学第一講座の兼担ということですので、日本思想史講座という講座は、特に新たに人を求めるということをしなかったんですね。

平泉 しなかったんです。

〇これはずっとそうだったんですか。

平泉 あとまでそうです。

〇そ、ついうふうにする意思もなかったということですか

平泉 なかったんです。

〇新しい講座をつくって、人を新たにという構想は全然なかったわけですか。

平泉 大学ではないですね。第一、人がないんですよ。

〇どうもありがとうございました。

 

昭和五十三年十一月二十七日  平泉 澄先生 午前の部曰 

平泉 構内に狐の出たことはベルツ先生の日記に見えておりま す。ベルツ(1849~1913)先生、リース(1861~1928)先生、みんな同じ時分ですわな。お雇い教師はみんな構内に住んでいた、そこへ狐が出たんでしような。

これは、余談みたいなものだけれども、私の学位が新学位令によった最初のものなんです。ここですっかり判が違うでしよう。私はすべて旧制度と新制度のかわり目におったんです。これはこういうものです。つまり、学位論文を提出して学位を得る。その論文は必ず公表して天下にこれを示さなければならないという規則になっていたでしよう、その最初のものがこれなんです

このときに一緒に学位を得た人は、歴史のほうでは仏教のほうの鷲尾順敬(1868~1941)さんです。ところが鷲尾さんは旧制度なんです。なぜそうかわかりませんが、この制度が始まる前に論文を出しておったのでしよう。だからあの人は旧制度で裁かれ、わしは新しい制度によって提出して、新しい制度によって与えられた。鷲尾さんのは公表されておらんのです。

当時、鷲尾さんの言葉としてわしが聞いたのは、自分らは旧制度なんで、ほんとうの学位というのは平泉だ、あれが本当のものだと歎かれたということを聞きました。大正十五年。

〇 その二日後が助教授の辞令ですが、これは何か関係があるのかな。

平泉 講師が決定したときに美濃部達吉博士が私を招いて、きみに何としても九州へ来てもらおうと思って、私は実は松浦鎮次郎さんにも話をして努力しておったんだが、もうこれではっきりしたからと言って、断念された挨拶がありましたがね。

それから土田さんは学生主事ですね。

〇 昨日間違えたんですが、土田さんが学生主事だったのは昭和の十年代ですね。七、八年からだと思います。だから、もっと前から学生部におって。

平泉 何でしよう。そうすると何かそういう名前があったんですね。

〇 学生監という役目はあります。

平泉 それでしよう。

〇 なっておられたんですかね。

平泉 学生監でしよう。それからあの人は神宮皇学館の教頭になっていくんですね。その時分の皇学館の学長はおそらく上田万年先生でしよう。東京から兼ねておられた。そこへ採られたのだろうと思います。

私の留学延期の願が出て、それが許可されたのはいつですか。

〇 昭和五年七月十日に、「ギリシア国及びアメリカ合衆国在留をここに追加す」というふうにあります。

六年三月二十四日、在留期間を昭和六年六月三十日までに短縮。これは文部省からです。

平泉 今日はなぜ短縮したのかという事からお話ししようと思いますが、その前に予感とか予知、洞察という話をしようと思います。今の研究の仕方を私は好まない。今のは見ておると、どこそこの雑誌、何年何月号の何ページから何ページまでに、こういう論文が載っておってこうだ。その次にだれとかというふうに、データを集めるのに狂奔しておるでしょう。間もなくどうにもならない事が起こるだろうと思うのは、百あまりある大学でみんな紀要を出し、雑誌を出し、そのほか無数の雑誌が出ておる。それに関連した論文をみんな集めてそれを読んでおると、若い者はそれだけでヘタへタですわ。何かデータは集まる。ところがこれがいわゆるデモクラシー方式なんですね、数さえ多ければよい、多数決でいくというようなことになりましょう。

研究と云うのはそういうものではなくて英知ですわ。私の日光廟の研究でも、なぜ道が開かれたかというと、ずっと昔からある幕府の記録、それから明治になってからの研究を見ておって、それらの研究の基礎になっている古文書があるんですが その古文書を見てこれは偽文書ではないかと感じた。 そこでこれが偽文書かどうかの鑑定を始めて、これは偽文書だ、それなら本当はどうだと云うので入っていったんです。あれはデータを集めていたら何も出来るものではないんです。

それからこれは非常におもしろい話で、不思議なくらいですが、大正九年、私の年は二十六でした。そのとき三上先生が私を呼ばれて、仕事をひとつ手伝ってくれないかとおっしゃった。私はとにかく親の言いつけはどんな事でも聞く、それから恩師のおっしゃる事は大体従う。これは私の原則ですから。自分の気持ちがそうなんです。かしこまりました、どんな事でしようと言いました処、滋賀県に日野という所がある。そこは蒲生氏郷(1556~1595)の郷里で有名な所ですし、売薬もあるんです。そこに綿向神社という郷社があって、それを県社にしたいという希望がある。町は薬で儲けているから金は持っている。その連中が金を出して県社の出願をしたいが、そのためには由緒がなければならない。その歴史研究を三上先生に頼みに、町長をはじめ町の有力者がずらっと来たので、先生は引き受けられた。しかし、自分は出来ないから、おまえ、これを調べてくれとおっしゃった。かしこまりました、何か材料はありましょうか。向こうから持って来たのはこれだけだと、風呂敷に包んだものを出されて、これで全部だそうだ、これで調べてみてくれと言われた。

かしこまりましたと云うことで、それを調べて見たところが、全部それは徳川の末期、文化、文政、天保安政という時のものばかりなんですが、記録及び文書がある。しかし、由緒になるようなものはその中には一つもない

ところがそれを見ておって、ははあ、これはおもしろいと、私はピンと来たんです。このお宮には何か重要な記録が残っておるということを考えて、 三上先生に、先生、この間史料はいただきましたが、私の察するところ向こうの神社自体には良いものがまだ残っていると思います。彼らはそれを知らないんです、行って調べてみようと思います。わかった、 行ってこい、自分の方から言ってやるということで、先生の方から向こうへ連絡してくださった。それで私は行ったんです。

そうすると向こうでは三上先生を目標に考えておるものだから、三上教授の代理が来ると云うので、町長をはじめ町の主だったもの、氏子総代、 社司など、全部で十五、 六人が駅へ迎えてきた。ところが私は当時数えで二十六。非常に若いので、向こうは怪訝な顔をして、よくおいでくださいましたとは云うものの、私の顔ばかり見ている。

それからとにかくみんなに案内されてそのお宮に行った。社務所は大きな座敷が二間続いてあって、そこでみんなに話をした。お宮には必ず古いものがまだ残っておると思うから、 どうか全部出して見せてくださしい。何もございませんという。いや、あるんです。必ずあるに違いない、 皆さんそれをおわかりにならないだけだから、良いものか、 悪いものか、 古いものか、新しいものか、皆さんはご承知ないはずだ、何でもいいから出してください  皆さんには紙くずだと思われるでしよう。その紙くずを出して下さい、という交渉をしたんです。

みんなはどうも腑に落ちない。またしては私の年を聞く。先生、おいくつなんですか。 数えの二十六ですが、云うとますます軽蔑しよるから、年はいいから、とにかく物を出しなさい。いや、ないんです。あるんだ。それで滔々向こうが癇癪を起こして、おい、紙くずでも出せといわれるから、紙くずを出せと云う事になったんですよ。

そうするとお宮があって、社務所があってずっと離れてこの辺に物置があった。戸がない、 屋根だけの物置で、そこにお祭りの時に使うようなものが横に積んである。その高い処に棒を一本通して、 その棒に竹籠で畳一枚の大きさのものがぶら下がっている。大阪では火事の時にそういうもので物を持ち出すんです。簡単で軽いし 家の中のものを投げ込んで、 二人で持ち出せるようなものでその籠が二棹ある。それに一杯紙くずが入っていたんです。

実はこれは紙くずでございます。二三日うちに紙くず屋がくるはずで、紙くず屋に払う約束をしております。しかし、紙くず紙くずとおっしゃいますから、仕方がない、紙くずを出しますと言って持って来たんです。私はびっくりして、これはえらいことになったと思いましたが、それを顔色には出さないで、わかりました、その紙くずを座敷のまん中へ開けてくださいと言ったんです。座敷が二間になっている、次の座敷のまん中へ紙くずを開けたんですよ。高さはこれくらいのものですわ。それで畳一枚これくらいだから、ずいぶんの紙くずが入っている。 それを山と積み上げた。 それからこれをわしが選択を始めたわけですが、困った事には本当の紙くずなんだ。女の人が髪を梳いて、あと櫛を拭うでしよう。その紙をポイとやったので、 開けて見ると髪の毛が出てくるとか、学校で子どもが天地と書いたような手習いの草紙が入っている。それをだんだんとやっておった。山と積まれた物を全部細かく見ていったが何もない。どうぞ、これを元のところに入れてくださいと、みんな元へ入れてくださいとみんな元へ入れて、次の籠を出してくださいと出してもらって、だんだんやっていった。 みんなは何が出るんだろうというので、非常な興味で私の周りをぐるっと取りまいて見ておった。何も出ないのでみんながあきれて、向こうの座敷へ行って碁を打ちだした。私を馬鹿にし来った態度だったんです。私の周りに五人ぐらい残っていましたかね、それがただ立って見ておる。だんだん見ていってあとこれほどになったんですよ。

私も内心、これは駄目かいなという気もしたが、倦まずたゆまずやった。そうしたら蒲生氏郷が出てきた、天正ですわ。出たぞと言ったらびっくりして、向こうで碁を打っていたやつは碁盤をひっくり返してバタバタとやってきた。何ですか。これは蒲生氏郷だ、四百年前だ、こういう大事なものがあるのを皆さんは知らなかったんだ。そこでみんなはびつくりして、そういうものか出ましたかと云うわけです。

それから出るわ出るわ、そのときに数十通出たんですが、皆戦国時代の永禄と天文とかその辺の古文書がずらっと出たんです。整理して伸ばして積んでいくとこれくらいになる。 これはみんな知らなかったんですが、わしがもし一週間遅くれれば、紙くず屋へやられて燃えてしまうか、梳かれてしまうところだったんだと言ったんです。その時はみんながわしを神様のように見て、非常な感嘆で、今度は彼らのほうから願い出た。先生、私の家に紙くずがございますのでとおっしやるから、あんたんとこのはだめじゃ、それはほんとの紙くずじゃ。 (笑) これは恐るべき勘ですわ。

この話を非常に面白がって聞いて、皮肉を言ったのは幸田露伴(1867~1947)先生。出たからよかったが、出なかったときの平泉の顔が見たいといわれた。何ともいえぬおもしろい話でしよう。どういうわけであんなことになったのか。いまそのお宮では古文書を画帖に貼りまして、そういうのか何冊かできています。そういうことかありましたが、勘というのは非常に大事です。今の学問というのは勘をすべて殺すようになっている。

それから私は、学生の答案というのは非常に慎重に見るんです。これはその人の運命に関するんですからね。評点を付ければそれがやっぱり動かすべからざるものにもなるんですから、非常に慎重にする。いちばん苦労したのは高等文官試験、今の上級国家公務員の試験です。これは内務省や大蔵省、外務省の官吏になって一国を肩に担うんですから、これに上がるか、上がらんかというのは大変なことなんです。それが私の試験委員の時分には三千人ぐらいの受験者ですが論文試験です。内閣の小使いが行李に担いで来るんですが、それが六杯ぐらいあるんです。何がつらいと云ってもそこの試験委員ほどつらいものはない。それをずっと見ているでしよう。十八年ぐらいですわ。

〇 臨時委員か。

平泉 あれは臨時委員です。

〇 いつも臨時委員ですか。

平泉 臨時委員です。

〇それでは昭和十七年からですね。

平泉 これは、七十点台は心配ないんです。合格はするが優秀ではない。満点は付けてくれるなという内閣の指示があって、満点はないんです。先生によって満点を付けられると困る人がいる。先生によって評点がまちまちなんです。ある人が満点を付けると、その人がよく出来ない人でも、ほかの者が引き上げられるでしょう。そこで八十点を上の方とするという内規なんです。これは言わんほうがいいんでしょうけれども。

そこで七十点ならいいが六十点未満の者は捨てられるんですから、私は二度見た。八十点は、ほかの者が悪ければそれで引き上げていくから、これも二度見る。そういう時でもひとつの勘ですね、これはこういう人だという人柄がわかるんですよ。そして上に通ったものが、その次に口頭試問で出てくる。それは実におもしろいですね。全部が私のところへ出るわけではないからわかりませんけれども、見ていると人柄というのはよくわかるんですね、十七、八年前までですと各地方官で、警察本部長とか、裁判官でも要職にみんな居ました。それはみんなわしの試験を受けた連中ですわ。

ところがある時、大学で非常に不思議なことが起こった。国史学科の卒業試験の時に卒業論文の評点をまず付ける。その次に口頭試問がある。評点を付けた時にある学生の評点を投票した。辻(善之助1887~1955)先生、中村孝也(1885~1970)さん、それから助教授で当時おった坂本太郎(1901~1987)氏、私の四人で、紙に書いて出して開けるんです。

〇 点数ですか。

平泉 甲乙丙です。そうしたら、辻さんも中村さんも坂本さんも甲を付けておる。わしは丙なんです。これは開きがひどすぎるですわな。乙ならちょっとしたところでそうかと考えられるが、一方は甲で一方は丙なんです。その時はみんな平泉はひどい点を付けたと言うので、あっと声を立てましたよ。わしは何も言わなかった。

それから一週間ほど経つと口頭試問になってその学生は出てきた。それで文書を出して、 この文書を読んでごらんと言った。それは彼が論文の中に引用したコメントですが読めない。 それで今度はみんながびっくりして、あれが読めないのかと言うんですよ。 そこで私は言ったんです。皆さんは論文試験のときに甲をお与えになったが、私は丙を与えたら、皆さんは非常に驚かれた。あの論文を私は本人の実力とは違うと判断したと言いましたら、三人ともその件はぐうの音も出なかったんですよ。他人のものを引っぱったか、他人の力を借りたか。本人の力ではないという判定なんです。

それから色々な話をしますが、世にも不思議なことは、あるとき修学旅行で奈良へ行った。明日出発して奈良へ行くという前の晩の夢に、こうもり傘を盗まれた夢を見た。そのこうもり傘は新しくていいこうもりだったんですよ。それが盗まれたという夢を夜が明けてから話しましたら、家内は盗まれたら大変だというんで、こうもりの柄に平泉と彫り込んだんです。それを持って行きました。私は学生には一週間の内には雨も降るから傘を持てと云っていたが、最初に薬師寺へ行って金堂へ入る前に、学生みんなが傘を持っていたから、それを束にして、金堂前の茶店に預けた。傘立てに一括りにして入れて私のはその一番まん中に入っていた。それから金堂の中の仏さまをずっと拝んで出てきて傘を受け取ったが、私の傘だけがないんですよ。店で聞いても知りませんという。そういう運命にあったんです。

もう一つはこう云うことがある。これは年をはっきり覚えていませんが、昭和十七年前後ですが、 歌人川田順(1882~1966)さんから手紙をもらった夢を見た。 川田順さんと私とは交渉がないから手紙をもらったことも一度もない。それが川田さんから手紙をもらったというのは、実に不思議なことなんです。不思議な夢を見てな、川田順さんから手紙をいただいたんだと言って朝ご飯を済ませ、九時ごろになったら郵便配達があって、見たら川田さんの手紙が入っている。それは福井の藤島神社にお参りして、お祀りしてある新田義貞公の昔を偲んで、新田公をたたえた歌が五首ほどありました。福井へきて新田義貞公を偲んでこういう歌を詠みましたというんで送ってくださった。それで私はお歌をありがとうございましたと川田さんに礼状を書いて、実は不思議なことで、お歌が着く数時間前に夢の中でこれを見たんですと申し上げました。

川田さんのそのときの返事は、葉書でしたけれどもいい歌でした。

藤島の神もやけだし告げにけん夢てふものは奇しかりけり

おそらく新田義貞公がお知らせになったのだろうが、何と夢というのは不思議なものだろうという歌です。

重大事をいうと人は信用しないで、むしろ不思議がるが、ほとんどみんな予見し得るんです。これは凡人の思い及ばざるところがある。言ったところで、そんなけったいな事があるかと思うだけでしょうね。とにかくわかる。これは云うと都合が悪いから言いませんけれども、いちばん驚くことは、ある人とすれ違ったとき、あの人は三日以内に乗物で怪我をするという予感がしたが、あなたに三日以内に怪我をしますよとは言えるものじゃない。言うべきではないと思って黙っておった。その人はその日に電車から放り出されて怪我をした。 それなら初めに言ってくれれば良いじゃないかと言われるかも知れないが、それはとても言えるものではない。

それからいつ死ぬぞという事も、私が云うと不思議だけれども、福井に妙心寺派の大安寺という寺がある。由緒から云うとうちと兄弟分の寺ですが、元禄のころ大愚和尚の書かれたものが宝物である。言葉は明確に覚えていないが、死亡前三日これを書すとあってその通りその後三日で亡くなった。昔から優れた人は俺はいつ死ぬという事を予言し得るんです。

大体、重大な仕事というものは本当を云うと、予言し得ないものが出来るはずはない。 先がわかるからそれぞれ処置が出来るんです。それが今の考えでは、とてもそんなことは話にならない。

ところで、私自身の考えからいうと、日本は衰亡期に入っておるという重要な時期に来ておる。下手をすれば国家土崩瓦解する所へ来ておるという事を、中学時代から強く感じておった。そのもとをなすものは幸徳秋水(1871~1911)の大逆事件です。明治天皇さまを暗殺しようとする計画で、それには男も女も大勢おってそれに協調する者も随分おる。これが明治四十四年に公表されたんですが、非常な驚きでした。当時私は十六歳ぐらいでしたが、日本の国は非常に不健康で、いつどのようなことになるかわからない状態だという判定をした。見ておるとまことにその通りである。だいたい日露戦争に勝ったあの時分から、内実は腐敗してきておる。

それは大学の様子を見ておるとわかりました。新人会の連中でもその先蹤をなす者をずっと見てくると、みんな日露戦争の前後から大転換しておる。重大な一人は岩波茂雄(1881~1946)です。これなんか前には吉田松陰先生や大西郷を崇拝して、非常に純日本的な行き方ををしておったが、それが日露戦争の時分から大転換をして、共産主義社会主義の方向に向かう。同じ動きをしたのが河合栄治郎(1891~1944)さん。あの人の伝記を見るとそうですよ、前には我々と同じ行き方だったが、それが日露戦争の時分からグラっと変わった。そして彼はイギリスへ行って、ある学者から、日本の青年は今どんなことを考えておるのかそれを聞きたい、その例としてあなた自身の考えを聞きたいといわれ、 そこで自分の考えをずっと述べたんです。それをじっと聞いておった向こうの学者の批評を、彼自身が書いておる。

それは、日本の青年、学生は何というすばらしい西洋文明の理解者であって西洋の学術、文明をとり入れ、それを完全に吸収しておる。そのすばらしさに驚くと同時に、日本自体の伝統というものは、ここには微塵もかげを宿しておらぬ、ということを驚かれたんです。

あの人は嘘をいわない、正直な人ですわ。 その点は私も尊敬するが、正直に書いておる。 我々から見るとそれは赤恥ですわね。それを正直に書いて彼は恥ずるところがない。やっぱり西欧の方へ変わって良いんだという考えでしょうね。そういう風になっておる。

そうしてその次の第一次世界大戦は日本を非常に毒した。第一次大戦では、ドイツ、イギリス、フランスその他は生死の争いをやったが、日本だけは死闘ではない。日本は対岸の火災で、もしそういう言葉を人が云うのなら、言われても仕方がない。火事場泥棒ですよ。向こうでやっておる間に南洋を取り、取れるだけの利権を取ろうという立場でしょう。これは日本の堕落のもとである。その時ですよ、大隈(重信1838~1922)内閣が二十一カ条を支那へ突きつけた(1915年1月)のは。 この態度などは私は弁解できないと思う。私は何でも日本のしたことは少しもいいとは思わない。あれは外務大臣は三井の婿の加藤高明((1860~1926)でしよう。加藤高明が二十一カ条を突きつけたということは、 日本外交の重大恥辱だと思う。イギリスもアメリカも向こうで戦争に熱中しておって東洋に手を出すだけの力もない。その時をねらって支那から取るだけのものを取ろうという考えです。実際はそうですわな。これは弁解の余地がない。こういうやり方をした。これが日本の政治、外交、経済の一切を堕落せしめた。

日本はあのとき非常に船で儲けた。山下汽船はその時の船成金です。 彼らはその金で豪奢な邸宅を構え、女をたくさん買って逸楽を極めておる。これは日本としては恐るべき恥辱の時代だと私は思うんですがね。そして今度はその報いが必ず来るはずなんです。英米はドイツが片付いた上は日本を処置しようという処へ向かって来る。これはこのごろ非常に明確な証拠を得たので、私は今年になってからはじめてこれを断言し得るのですけれども、大東亜戦争のもとをなすものは大正十年、日英同盟が廃棄されたことです。廃棄と云うのは、同時に今度は全員が集まって日本を叩き潰そうという事なんですが、日本は知らない。その証拠はシンガポール築港に出てきています。シンガポールに厖大な軍港を構築して、大軍艦をここへ駐留せしめておくというのは、日本を目標とする以外に目標はないんです。アメリカは英国の同盟国、支那は問題にならない。相手は日本だけなんです。それが大正十年、日英同盟を廃棄すると同時にシンガポールの築港にかかって、厖大な予算を注ぎ込んだ。この時が日本は腹を決めなければならない時なんです。それをそのあとずっと軍縮会議で、日本をやっつけるために軍艦を減らそうとした。戦う以前にまず軍艦を減しておけというのが英米の謀略で、それでずっとやってきた。

私どもがちょうど助教授でおった時分に、ワシントン会議、ロンドン会議といった軍縮会議がたびたび開かれていった。日本の国内では海軍の主流派は軍縮案賛成、わずかに軍令部だけが反対なんです、その軍令部は加藤寛治(1870~1939)大将が軍令部長、次長が末次(信正1880~1944)大将。 これは新聞、雑誌で罵詈讒謗されておって、海軍では主流派に立てないんです。そして恐るべきことは、そういう時に日本の政治というものは、いわゆる政党政治でしよう。そしてどの内闍を立てるかということは、陛下の大権にあるというもののそれは表面で、実権は西園寺(公望1849~1940)公にある。内閣が辞職すれば陛下はご自身でお決めにならないで、西園寺にお尋ねになる。西園寺は興津(静岡県)におって、厖大な邸宅に美女を擁して優雅な生活をしておる。そこへご相談がある。すると西園寺の言うことは決まっておる。日本に政党が二つある、こっちがいかなかったらこっちを立てる。こいつが少しのさばってきたら、こっちでこれを押える。 両方ちゃんぽんに押えておれば国内は安全だ。これが西園寺の原則ですよ。西園寺さんは女を連れて第一次大戦の平和会議に行ったんですよ。

それを私は見ておって、日本は大変な所へ行くと思いました。西園寺という家は、鎌倉時代の承久の変(1221)は後島羽天皇(1180~1239)、順徳天皇(1197~1242)が幕府を討伐して、政権を朝廷へ奪い返して正しい日本の政治をとろうとされた。その運動に対して幕府が反抗して、天皇をみんな島流しにして幕府の政権を固めた。その時に幕府に通謀して朝廷の計画を全部もらしたのが西園寺、これは吾妻鏡にみんな出ています。

それからその次に、もう一度後島羽天皇順徳天皇のご精神を継いで、朝廷に政権を回復しようとされたのが後醍醐天皇(1288~1339)ですが、その後醍醐天皇に対して、北条高時と通謀して抵抗して、後醍醐天皇建武の中興を成就して非常にお喜びである最中に、後醍醐天皇を暗殺して、もう一度北条の天下に戻そうとしたのが西園寺公宗(1310~1335)で、これは太平記にでてくる。その子孫が西園寺公望です、彼は明治の初めに十八、九で山陰道鎮撫総督・北国鎮撫使になって行く。 そして明治四年にフランスに行き、自由民権の思想にかぶれた。それの思想的な盟友が中江兆民(1847~1901)。この連中が日本に革命を起こして、民主国家にしようという運動を明治九、 十年に始めた。 それがどういうものか今は元老として、非常な富、奢りを極めておる。それによって日本が指導されておるのだから、この日本はどう行くかわからない。日本は非常に危いということを思った。

それから私どもが高等学校を出る時分は、みんなどういう所へ行きたいかと云うと、これも実に情けないことだか、 第一の希望は銀行でみんな金が欲しいんです。何と情けない。 男が金の番人をしてそれで一生を 暮す。銀行の悪口をいうわけではないけれども、男としては男らしくない仕事だと思うのに、有為の青年がみな銀行に入りたがる。 軍というものを考えるものは一人もない。陸軍、海軍を有為な青年はみな侮蔑しておる。この傾向は恐るべきことです。そして政治のほうへ向かうものがあっても、政党政治を考えて、自分は何党だというようなことを、高等学校時分から言っておる。これは重大な状態だと私は見ておった。

そのうちに、そんなどころではなくなって全部アカですわ。共産主義が入ってきた。これは実に何ともいえぬ状態で、それは高等学校の動きを見れば非常によくわかる。そして、 高等学校がナンバーの間はまだまだいいんです。ナンバーでないのが出て来ると今度はどか落ちに落ちてくる。この状態を見て日本は非常に危ないと思っておった。そのうちに外国へやってもらうことになって船に乗った。これで私に非常な影響を与えてくれたのは、国内におると周囲の枠がある、 あるいはその空気の中にあるものだから本心を吐露しないが、 外へ出るとみんな本心を吐露するんです。かりに言えば、女遊びをしたい男があっても国内では自分の親もあり、 兄弟もおり、 友だちや周囲が見ておるから大したことはしないが、 外へ出るとその枠がないものだから、自由に勝手なことをするでしょう。それで身を持ち崩す者がある。 周囲に国内では云うことを憚った者が、 外へ出ると非常に楽な気持ちになって本心を吐露する。そこでみんながどういう考えを持っておるか非常によくわかった。

行っているわれわれの仲間は大抵助教授でしたから、それが皇室に対して尊敬の念を持っている者はほとんどいない。もし革命運動が起こった場合には、自分はどちらへ銃口を向けていいか実はわからないという事を言った。 わからないという事はそれだけでも大体わかる。

それなら陸海軍はしっかりしておるのかというとこれもそうではない。海軍の中佐でしたが、戦争になった場合に自分の国を守るというのはわかるか、なぜ皇室を守らなければならないのか。 これは我々にはわからないと云うんです。 軍人でありながら軍人勅諭というものを完全に忘れてしまっている。これはどっちを向くのかわからない。 

  それから名前はわざと言いませんが、 私が行ったとき、 非常におとなしい京都大学助教授で年は若いが誠に温厚な人で、人柄としてはほとんど申し分がない。 頭も優れておる。 これはフランスへ留学したがいい人だなと見ておった。ところがこれはあとでわかったんですが、ロシアからの指令で重大な指令は、全部この人を通じて日本へ入って来ている。こと重大なことはこの人を経由せずしては、信用するなという事ですから、大変なことですよ。 そういう動きになっておる。そこで日本は非常に危いということを、いよいよ痛感しました。

その際、自分で解決がつかずに問題になったのは、マルクスがまだ本当に理解できないから、ほんとうの批判ができない。これに対してドイツ、フランス、イギリスの学者はどういう風に考えているのか、その態度を知りたい。

というのは、日本の西洋史というのは不思議な学問ですね。私も実に不思議に思ったが日本の西洋史の学者というのは全部受け売りなんです。公然と言っておったのは今井登志喜(1886~1950)さんで、西洋史のほうで学位論文が書けるはずはない。われわれは向こうの学者の書いたものを読む以外に研究はできない、ということを彼は公然と言っていた。そういう学位論文のようなものは、西洋史のものであっても日本の歴史の中で書くほかはない。それをやったのは大類(伸1884~1975)博士で、大類さんは 「日本城郭の研究」であって、西洋史の研究ではないんです。今井さんも日本宿駅の研究をやっていました。

ところが私はそんなことは毛頭思わない。東洋史でも西洋史でもみな日本人自身の目で日本人の魂でこれを解決していくということでなくてはならない。それをおやりになったのは白鳥(庫吉1865~1942)先生で、私が先生に本当に傾倒したのは、史記の中に大苑国(ウズベキスタン)というのが出てくるんです。カスピ海のほとりにある国で、そこに貴山城というのがある。それが今のどの地点であるかということの研究を、一年間教わった。実に精緻を極めた研究で、どうしてもここでなくてはならないという地点を定められた。これに反対する者はいま学士院の副院長をしておる、フランス文学の桑原武夫(1904~1988)の親桑原隲蔵(1871~1931)氏。当時、京都大学東洋史の教授で別のところを指しておる。それに対してそんな説はない、こうだということを先生は教えられた。その研究法を私どもは非常にありがたく教えてもらったのですが、白鳥先生は一年間それを講義されて、いよいよ試験になった。

試験問題は、どんな問題が出たと思いますか。「大苑国の貴山城はどこなりしや」というんです。こっちは聴いておるから、桑原教授はこういう説を立てておるが、これはこういう点で成り立たない。これはこうでなくてはならないという事を書いて百点ですわいな。愉快なもんでね。それは日本人の目で見直してそういうところを開拓していくということで、壮快を極めたもので、ハンガリア人が感激したのも当然だと思うんです。

ところが、西洋史は一向それがない。私がいちばん疑問にすることは、日本にさしあたっての問題はロシア革命で、その影響を受けて日本はいま倒れかかっておる。この次は日本革命だという処へ来ておるでしょう。そこでロシア革命に目を付けなくてはならない。ロシア革命というのはフランス革命から出ているんです。この元はフランス革命にある。フランス革命はその元へ行くとアメリカ革命である。 これは西洋史の大筋ですよ。 これを理解しないでは、世界の今日の混乱は理解できないと同時に、日本史の問題なんです。日本の歴史はこれらの問題を抜きにしては解決出来ないということを私は考えた。これは私が西洋史の方から憎まれるひとつのもとです。俺の領分を侵すという考えでしょうね。しかし、そんなことはない。フランス革命がわからないでは西園寺公望かわからない。西園寺公望がわからなくては大正・昭和の日本の政治史がわからない。それからロシア革命がわからないでは、大正・昭和の日本の混迷がわからない。これはみんな我々の手でやるべきだという考えなんです。

そういうことを考えていって、ずっと世の動きを見ると日本は非常に危い。そこでドイツへ行って硯学大家に会って討論して、心ある人はどういう態度で歴史を見ておるのか、それでぶつかったでしよう。ところが実に幸せなことには、どの方も胸襟を開いて核心に触れる話ををみんなしてくれた。 そこで私も非常に自信を得、そして彼らが真剣に自分の道を開拓していく態度に感歎した。

マルクスという者も、ドイツで一生懸命伝記を読み、マルクスを理解するためにはユダヤの歴史を知らなくてはならないので、ユダヤの遺跡をずっとまわった。それからフランスへ入った。フランスへ入って一番大きな問題は、リベルテ(自由)、エガリテ(平等)、フラテルニテ(博愛)が革命の旗印で、フランスの書物はどれを見てもそう書いてある。一七八九年のフランス革命リベルテ、エガリテ、フラテルニテを旗印として立ちあがり、それが順次成功をおさめて、ついにこれまでの君主専制を廃して、民主共和の国にした。これを謳歌している。これがフランスの歴史の大筋ですわ。日本の西洋史の先生はどなたも全部それをそのまま踏襲して、何ら疑うところかない。

私どもは箕作先生の教えを受けたんですが、箕作先生ご自身には非常な感謝をし、感心しておるけれども、先生のフランス革命史というのは、フランスの公式の革命史をただ述べ伝えるだけで、それ以上は一歩も進んでいない。

私はこれは嘘だと思った。この原則的な建前は、フランスの今日の立場を是認するために、後からそういう風に立てたものであって、これは本物ではないという判断をした。 これは勘ですわ。 日光の研究と同じです。そこでフランスへ入って、十しかフランス語がわからないものが、寝食を排するほどに苦労してフランス語を習ったのは、この問題を解決するためなんです。そこで革命当時の古文書を押さえなくてはならない。出来上がった書物はやめて、オリジナルな資料の検討をやったんです。

幸いなことに古文書はまだいくらでも残っている。若いですからね。一七八九年なんていうのはこの間のようなもので、この家と違いはないんだから、私から見ればこの間みたいなものです。それで街を歩くとあるし、買えるので随分買った。幸い私は三百円金を貰っているでしよう。そして私は遊ばないんだからね、カフェへ行かず、酒や女には目もくれないから金は余っているのでそれが買える 自分でそれを持たなければ、いざという時にこれだと云う事が言えなくてはならない。 それからあそこには国民図書館(ビブリオテーク・ナシオナール)があって、当時の革命文書があるんですよ。それを自由に見せてくれたので、毎日行って一生懸命写すんですわ。

それで、インキ壷があってそれが非常におもしろい。私らが大学の講義を聴いた時分は普通のインキ壷に綱が付いていて、その綱を腰へ挟んでは行ったんだけれども、フランスにはそれを入れる筒があるんです。ちょうど茶筒のような木の筒があってそれは蓋をすると中がバネになっていて、キュッと締めると蓋が開かないようになっている。そういうものがあるんです。私は記念にまだ持っていますが、それを持って行って一生懸命写した。

それからさらにパリ、ォルレアン、アルル、アビニオンをずっと回って、至るところ古文書を漁った。買えるものは買う、図書館にあるものはみんな写すという事でずっと回りました。 フランス滞在は五ヶ月ほどでしたが、資料は十分収集した。そこで今度は向こうの学者との討論です。

その時分向こうで一番老大家で、フランスの至宝というものがセーニョボーでした。先生をお訪ねした。これは白髪で赤いガウンを着ておられましたが、年をとり過ぎていて好々爺なんです。お尋ねしますが、リベルテ、エガリテ、フラテルニテはいつからですか。一七八九年です。ああ、そうですということで、こんな老人とけんかをしてもしようがないから、敬意を表して帰りました。

それからサニャック(1868~1954)というのがフランス革命史専門で、パリで革命史を講義していたので、この人に会って聞いた、やっぱり同じことを言う。例のノン・マダムはそのとき出たんだ。 それは違うと言っても彼も頑として聞かない。 私も譲らないので、これはそのままけんか別れです。

それから歴史家の中でも革命ばかりやっている人がいるんです。自分でフランス革命という雑誌を主宰しており、いちばん好きな人物は、私が国史のほうでいえば北畠親房公ですが、彼が理想とするのはロベスピエール(1758~1794)なんです。ひどいのがいるなと思って、それからそのロベスピエールに会いに行った。ところがこの人は優れた人でした。私は非常に驚いて、今日はどんな乱暴な男かと思ってきたんだが、こういう人がいたのかなと思った。この人はすらりとした紳士で、温顔をもって私を迎えてくれた。そしていまの話しに入って、一七八九年七月十四日、バスチーユの獄を破壊した日はリベルテ(自由)のみ。それから一七九二年八月十日、チュイレリ宮殿の襲撃の日にはエガリテか加わって、 ここで旗じるしがリベルテ(平等)、エガリテの二つになった。 そして一八四八年にやっとフラテルニテ(博愛)が加わる 当然そうでなくてはならない。大変な違いでしよう。五十年の開きかある。この最後の点が私には明確でなかったので、リベルテはこの時から、エガリテはこのときからと思うがどうですかと最初に聞いた。 サニャックで懲りたから、またノン・マダムをやってはいかんから、向こうがいう前にまずこのことを言った。

彼はニコニコして聞いていて、あなたのいう通りですという。「それではお尋ねしますが博愛はいつからですか」「四十八年です」「だれですか」「ラマルティーヌ(1790~1869)」 やっぱり偉い人ですね。彼はおそらく外へは言わないのだろうと思う。フランス国としての正式の見解は、最初から自由・平等・博愛だということであの国はあった。そうしないとあの国は崩壊する。国家成立の根本精神が動揺するから言わないのだと思うが、私には全部正直に言ってくれた。 そしていろいろな本をくれました。 この人はその意味では非常に感謝しておるんです。ラマルティーヌに始まるまでは中々私は断言できなかった。いろいろ出てはきていますけれども、それだけ明確。言えなかったが、この人がこうですよと教えてくれた。これは私にとっては実に鬼の首を取ったようなもので、フランス革命の本質というものをこれで完全に理解することができた。

それからさらにアメリカも入るんだけれども、そこまでくると日本の国内の動揺、動乱というものの本義をつかみ得た。ここで初めて理論が立ち得るんです。中途半端なことを言ったのでは、日本の国が今亡びるかどうかというところで、大動揺、大混乱に陥っては寄りどころがない時に、自分の基盤というものをしっかりしなくてはならない。それが出来た。

それからそういうときに非常に感銘を受けたのは、前にベルリンでマイネッケ(1862~1954)先生をお訪ねした時に、先生の親友で経済学のほうで有名なトレルチ(1865~1923)先生がおられるんです。私はトレルチを非常に好きなんです。マイネッケ先生と話をしておったところ、トレルチは自分の親友だが、トレルチもいつもここへ訪ねて来て、あなたのその椅子に座ったんだと言われて、私にとっては非常に感銘でした。こういう優れた人物と会い、それと何らかの近づきを得たということは非常な感銘で、自分はここで初めて立ち得ると云う事に自信を得たんです。

とにかく日本は非常に危いということは前から考えておった。しかし、危くても自分に戦い得るだけの力がないという事は、非常な悩みであった。いよいよここまで来ると戦い得る。 そこで急いで短縮して帰ることになった。前のままでいけば五年の三月に出たのだから、七年の春にならないと帰れない。それまでゆっくりしておることは出来ない。それで病気ということにしたんですが、病気も嘘ではない。弱いんで、ドイツなぞで病気をしたらひどい目に合う。 どこでだったか風邪をひいて医者にかかった。薬をもらって大体治ったからそれで行かなければよかったものを、日本の癖で医者というものには冶るまで診てもらって、これで良いと言われると安心するので、二度目に行ったんです。するとわしの喉をこう撫でて、ああ、治った、これでよかったというんです。それで何ドルか取られた。 (笑) ひどいもんでね。びつくりしたのしないのって、あんた、あんな取り方ってないと思うけど、どうにも仕様がない。

それからベルリンの宿のおばあさんの話でも、とにかく医者にかかったり、向こうで病気したらひどい目に合うんです。見るも無残で非常に高い。そして乱暴ですわ、日本の医者のようにはいかない。一緒に行っていたのが大野中学の一年上級で東大を私と同じに出た鰐淵(健之1894~1989)さんで、彼は医学部で四年だから私の一年先輩だったけれども東大を出たのは一緒です、この方がやはりドイツに留学しておられた。耳鼻咽喉科の専門であとは熊本大学の学長です。これが歯が痛いので歯を抜きに行って帰ってきて、ドイツの医者になんか、かかるものではないとしみじみ言うんです。とにかく実に乱暴な抜き方を

するんですね。それは荒いですよ。

それからこれは私がやったのか、彼がやったのか覚えていませんけれども、医者ではなく散髪屋です。理髪師のところへ行って顔を剃ってもらったところが、どこかを切ったんですよ。切っては困ると言ったら、こんな事をわしはした事がないんだと言うんです。したことはないと言ったって現にやっているじゃないと言っても、いや、おれはしたことがないんだって。こんなことが日本の□□(聴取不能)。正直なところ、日本人というのは軽蔑されていますわい。我々がインドネシアの人に対して持っているような、よくないけれども事実そういう感情がありますわいな。一段下のものだという感情がありましよう。それは何とも言えないことでしたな。

私はそういう時に、病気になると父の夢を見るんです。またお父さんの夢を見た、これは警戒しなくてはならないと思ったんですが、例の神村先生の日光浴は外国では出来ないんです。素っ裸になるんですから、日本でもなかなか出来るところがない。やったのはデルフォイの神殿にお参りした時で、だれも人はいない 日はさんさんと当たるし、これは日光浴に良いとワイシャツを開けて日光浴をして気持ちよかった。

それからローマへ行った時に気分が悪かったんです。夜熱が出て具合が悪い。さて医者にかかるわけにもいかず、日光浴も出来ない。フィレンツェではやはり具合が悪くて、あそこに一週間いましたが、この時には幸いなことに自分の泊まった下宿屋で、ちょうど日光浴が出来る部屋があって、日が当たるんですよ。これは非常に助かったんですが、とにかく体が弱いものだから、死んでしまってはしょうがない。重体になるとどうにも仕様がない。日光浴がしたいという気があったんですが、これは仕方がない。

そのフィレンツェの宿ではおかしいことがあってね。食事の時になるとみんな食堂へ集まる。そうするとその中に主座を占める人がある。ほうぼう世界の隅々から来ておるんですが、その中で大将があるんですよ。女の人でノールウェーの上院議員のお嬢さんだと云うことでした。品のいいきれいなお嬢さんで若いんですよ。とにかくそれが主賓になるんです。その人がおって、みんなその周りを取り巻いて食事をする。その人らは美術の研究に来ていて、ガラスに彩色をしたものがあるでしよう、メジチ家の装飾などを見て自分らもそれを学ぶという。美術家が多かったんです。そのときに何かの話で、日本にもそういうものをやるものもあるのが、本来の日本画とはそういうものではないと、ついうっかりして日本画の講義をしたんです。あんたは描けるかというから、描けると言ったら、描してくれというのでよわってね。それでしようがないから梅の絵を何かに描きました。もの笑いですけれども。困ったのはデルフォイの宿で泊まった時に、あくる日オリンピアに行かなくてはならないが、船が夜中に出るんです。三時ごろ出るから宿を二時半に立たなければならないので、二時半に起こしてくれと言いたいんだけれども、私はギリシア語ができない。それで私の部屋の絵を描いてドアに番号を打って、時計の絵を描いて、メイドがきてノックするところを描いて、それを女中に見せたんです。そうしたらわかって、二時半に起こすというから安心しておったんですが、ちゃんと二時半に起こしてくれました。

それから自信を得てフィレンツェでは、俺は描けると言い出した。それは絵にも何にもなっていないけれども、日本画というのは意味が違うんだ、こういうものだという講釈だけはしたんです。それで帰ってご奉公したいと考えたのが非常によかった。もし前のままで七年の春帰るとなれば間に合わなかったが、六年の七月に帰って、九月が満州事変です。自分が満州にいたわけではないけれども、満州事変を身をもって体験した。あの時の国内の動揺というものを自分の目で見た。みんながどういう考えでおり、どういう風にこれに対処したかを、目で見たことが、私が乗り出すうえにひとつの基準になったんです。

しかし、地位はわずかに東大の助教授でしよう。日本の政治全体から見て私が乗りだすような状態ではない そこで非常な苦慮があたが、六年の七月に帰って、 秋に私の歓迎会が方々で催されたんです。その至る処で説いたことは、歴史家として欧米を見る、と云うような題で、大学で、たびたび話をし、方々で話をした。これは非常に感銘を受けたんです。それで、その時に色々な方からの非常な驚きが、上のほうへあなたの考えを届かさなくてはならないという考えを、みんなお持ちになっておった。

そして七年のごく始め。 当時総長は小野塚(喜平次1870~1944)先生です。これが世しも不思議なことで、 おそらく今の東大では小野塚先生と平泉というものは、 何の関係もなく全然別なもので、平泉というのは軍国主義の頑固親父で、小野塚先生は自由主義の権化のように人は思っておるかもしれない。小野野塚先生の直系をもって自認するものは南原さんでしよ。ところが全然違う。これは驚いたことですね。私の一番の理解者は、大学の全総長を通して小野塚先生で、同時に私を援護してくださった。それは驚きですね。

七年の初めに私をお呼びになったので、上がりました。総長が言われるのには、実は秩父宮殿下が日本政治史のご進論をご希望になって、宮内大臣にしかるべき人選をご依頼になった。宮内大臣は一木喜徳郎(1867~1944)法学博士で憲法学者です。一木宮内大臣は自分を呼んで、ひとつ人選を頼むと言われた。 そこで自分はいろいろ調べたが、君以外にはいない。君を推挙したいと思う。これは上に教授もあり、先輩もあるから、あんたとしてはこれを受けにくいと思うだろうけれども、もしこれを君が断わってくれると、自分としては東京帝国大学としては人がございませんと言って、ご辞退する以外に道はない。そこでこれは断わってくれるな。つまりは、東京帝国大学の名誉のために、君はほかのことを顧慮せずしてこれをお受けしてもらいたい。言い換えると、これは君に対して頼むのではない、総長として命令すると言われたんです。

私はこれを聞いて非常に驚いて、思いもよらん事だった。私は卒業した時には、ほうぼうから口が掛ったでしょう。宮内関係もあったがそれを私は断わった。なぜ宮内省に近づくことを好まんかと云えば、今日の時勢で皇室に忠義を説くなんていうことは、だれも人の好まざるところで、みんな反感を持っている。 天皇に対して尊敬の念を持っておるものは大学に一人もおらない これはほとんど断言してよい。高等官一等、二等の教授は正月の一日には参賀し得る資格があり、本来いえば義務になっているはずで、参賀するのは当たり前なんです、ところがあとで私も高等官一等になって初めてわかりましたが、東大の教授にして喜んで参賀しておるものはだれもいない。これはひとり東大のみではない。文部省でも大蔵省でもみんなくるはずですが来ない。来ておるものは陸海軍だけなんです。これは少将から来るのが、大将は親任官ですから我々と日が違う。これは元日ですかいな。私はあがったことがないからわからんけれども、われわれ高等官一等というのは中将相当ですわ。それは二日の朝かと思いますが、だれも来ておらん。行ってみると陸海軍だけである。そのほかに文官は誰か来ておるかと云うと、誰もおらん。ただ一人、いつでも来ておられる文官は木戸(幸一1889ー~1977)侯爵です。私どもは肩身が狭いが、陸海軍と云うのは勲章をずらっと並べて剣をつって威風堂々としておる。文官というのは寂しいもんですわいな。フロックコートを着てしょぼんとしておるでしょう。行くといつも木戸侯爵と話をしておるんです。

その時分に私は体が弱いものですから、手はしもやけなんですよ。全部しもやけでみんな包帯がしてあるんです。どうしたんですって木戸さんが聞かれる。私は朝、庭で落葉をたいてあたるのか癖でありまして、それをやるものですからしもやけができまして。そんな仕事をしておるのかと笑っておられたんですが、それを今でも思い出します。そんなことであってだれもほかの人は来ておらん。教授諸公は皇室へ近づくことを、余所に対してはそういう身分の高いということを誇りとされるかも知れなんが、忠君の姿勢はあまりないように見える。学生に至っては天皇陛下 とか天皇という言葉を使わない。天ちゃんです。これはかなり失礼な言葉ですね。みんなそれを笑いごとにしておったという時代です。それはまだいい。自由主義者のやることで、もっとひどいものは、もっとひどいことを考えていたでしよう。共産革命を企図するものがおる。みんな若者の熱情が下町のほうのセツルメント(社会事業)の活動に向いているときです。そういうときに私が宮内省と関係を持てばあれは阿諛便侫(あゆべんねい)の徒と思われるでしよう。私はそう思われることを好まない、そうなった時はおしまいだから、宮内省から何らの恩恵に浴していない立場に私はいたい。今日、日本の国を救おうとするものは、野に叫ぶものでなくてはならない 宮中へ入ってしまったらおしまいだろうと云う根本の考えが私には強い。それは黒板先生の、平泉、おまえだけはどこにも就職するな、月給を貰わなくても、何もしないでも食えるというだけの信念を持て、そこまで来た時に天下を相手に戦えるんだと言われた。それと相通じて私は宮内省へ入ることを好まなかった。これは宮内省へ入るのではなく、ご進講ですから、小野塚総長のこの懇切な言葉に打たれて、お受けしたんですよ。それは何とも言えぬ温かい言葉でしたね。そこでご進講申し上げることになった。これが初めに二年というお約束でした。毎週一回、水曜日のタベ二時間、それはあとで延期を願い出て二年半になりました。ご進講が始まったのが昭和七年。それは入っていないでしよう。表向きに辞令のあるようなことではないんです。

〇それは宮家からの依頼というか・・。

平泉 宮家のことはすべて宮内省で統括されていて、宮内省からそう云うことを内々お言い付けになったんでしようね。これはなにをはずれますね。 三月二十三日に講義が始まって、二年半続いた。

 

昭和五十三年十一月二十七日 平泉 澄先生 午前の部㈡

平泉 七年の夏の初めと思いますが、旅順港閉塞の立案者、そして実行の司令官だった有馬 〔良橘〕(1861~1944) 大将が、 明治神宮宮司(昭和6〔1931〕)になっておられた。旅順港閉塞の時分は、 私は九歳か十歳でしたが非常な感銘を受けました。当時、有馬中佐が指揮官でその下に広瀬(武夫1868~1904)少佐がおって、少佐が戦死で中佐になられたんですが、これが我々の理想の人物だった。明治神宮宮司の有馬大将がなぜ私を知っておられるかと云うと、外国へ出掛ける前、昭和五年の春早下ったと思いますが、 海軍の予備、後備の将官の集まりである有終会で話をしてくれといわれて講演をした。その時に山崎闇斎先生の話をした。山崎闇斎(1619~1682)という人は、今は世間からほとんど顧みられておらなしが、仮に云うならば日本の国家哲学というものを考える場合には、その根幹をなすのはこの方の学問・思想であって、それがずっと引き続いて明治維新の大業を成就する。その明治維新の志士というのはほとんど闇斎先生の学問を受け継いだ人だという話をしたんです。だから、こういうふうに思想というものは脈々として流れてきておるものであって、そういう伝統に繋がる事が大切なのだという話をしたんです。

私はそれまで全然知らなかったのですが、有馬大将が有終会の会長でした。私が話をし終わったら立ち上がられて、非常にいい話を聞いて実に感謝にたえない。実は自分は明治天皇(1852~1912)崩御のときに御大葬のお供をして、桃山御陵まで行った。御大葬が終わってから、自分の先柤の墓が京都にあるのでそこへお参りをした。ところが自分の先柤の墓のじき近くに、草がぼうぼうと生えておる墓がある。だれかと思って見たところが山崎闇斎の墓である。どういう人だろうと思って、帰っていろいろ本を調べてみると非常に立派な学者であった。これはと思ってその墓の掃除をするようにお寺へ頼んだ。それから自分もいろいろな機会に話をしたことがある。

ところが、自分などの話ではだれも理解をしてくれず、感激してもくれない。いま平泉の話を聞いて実によくわかり、またみんなが非常に感動している。感謝に耐えないというので懇切な挨拶があった。それで私はその後外国へ行ってしまった。帰ってきて七年の夏の初めに手紙がきたんです。用事があってお訪ねしたいが、いつ訪ねたら善いかという手紙でした。それで私は、向こうからおいで願っては申しわけないから、すぐにお伺いしたんです。「ご用でありますればお伺いしたいと思ってまいりました。」 「よく来てくださいました。実は山崎闇斎先生が亡くなって今年が二百五十年になる。そこでお祭りをしたいと思う。自分はそれを念願するが、自分にはそれができないからあなたに万事頼めないか」 「わかりました、やりましよう、やりましようと言ってもそれは私のほうからお詫びしなければならないことで、本来そういう事は私どもが気付き、また計画しなくてはならないことを、気も付かずにおりまして申しわけございません。いたしましよう。」 「ついては一切のことをあなたに任せる。あなたの好きなようにしろ、ここに金が少しある、これは自分のポケットマネーだ。内容は五百円だが、これで全部賄ってくれないか。こういうことは頼めば金を出してくれる人はあると思う。三井・三菱に話をすれば金は出ると思うが、自分は今日まで人に頭を下げて金を頼んだことがない。出来れば一生これで終わりたいと思う。それで頭は下げない。君にはまことにすまん。わずかの金で辛かろうがこれでやってくれないか」「かしこまりました」と言って帰ってきた。

そこで私は壮大な計画を立てたんです。この事業は有馬大将一人とか、私一人で出来るものではない。中心となるものを立てよう。そこで闇斎先生の学問の系統を受け継いでいる人であって、代表的な人物。この人を抜かしてはならんという人はだれだろう。これをひとつ集めなくてはならない。これが私どもはまだ見聞が狭いのでわからない。それは井上晢次郎(1856~1944)先生で、当時、イノテツ、 イノテツと言って評判が悪いんです。ところが闇斎学派の哲学という本を書いておられるし、学問は実に広くて正確なんです。人柄というか学風においては私どもの好む学風ではない。人はいろいろ言いますわ。しかし、それはそれとして、知識そのものは先生は実に的確である。それで先生にお頼みに行ったんです。「闇斎先生の学問を今日受け継いでおる学者としては主要な人物はだれでしよう。」先生は即座にたなごころを指すが如くにおっしゃられた。漢学では内田周平(1854~1944)・岡次郎の二人。神道のほうの学問では京都大学の講師をしておる出雲路通次郎(1878~1939)、これはほとんど貴族というべき人だ。それからもう一人は東京の山本信哉(1873~1944)。これは偉い人でもう動かすことはできないですね。私はこの点で非常に井上先生に感謝するんです。正確に即座にこれを答えたんです。

そこでそれぞれ頼みに行って、今度、闇斎先生の二百五十年祭をしたいと有馬大将がおっしゃるが、これに協賛してその中心に立ってもらえませんかとお願いしました。四人とも何ともいえぬ喜びで応諾された。そこで中心はできた。

今度はお祭り、講演会、展覧会の三つをやる。その会場は東京帝国大学大講堂、それ以外にない。でき得べくんば東京は東京帝大、京都は京都帝国大学の講堂を使いたいという、壮大な計画を立てたんです。祭典は祭典ですが講演には内田周平先生、上田萬年(1867~1937)先生、徳富蘇蜂(1863~1957)先生の三人をお頼みしたい。これは三人とも応諾された。展覧会は山崎闇斎及び門人、孫弟子、玄孫弟子と、ずっと日本全国にわたって、先生は天和二年(1682)に亡くなるが、それから明治維新までの全部を集める。

それからもう一つは御贈位。これは難しいことで、私はこれをやってはじめて御贈位というのは難しい事だとわかったんですが、我々が宮内省へ申し出た処で許されるものではない。本貫の土地の地方長官を経由しなくてはならないから、山崎闇斎先生は京都府知事を経由して、申立人が遺族及び学界の主流をなしておる人で、この人の言うことなら誰も異論がないという人を、すっと並べなくてはならない。このつらいの、つらくないのって、これは苦労でしたわい。

ところがこれは出雲路さんの態度を見て、黒坂先生が言われたが、ああ、出雲路という人は感心な、ちょうど親の法事をする気持でおるんだなと言われたんですが、一生懸命奔走された。

それから偉かったのは内務省の潮恵之輔(1881~1955)という内務次官です。私は会ったことはなかったんですが、この人に会って頼んだ時にこう言われたんですよ。それは疾く急がなくては間に合いませんわい。とにかくみんなの署名を貰って願書が出来たら府知事の判を早く貰って、そして内務省へ持って来てください。内務省から宮内省へ出すんです。とても普通では間に合わんから内務省から京都府知事へ、取りにきたと言って人を出すから、こっちの方は心配するな。 下の者の判を早く取れ。こんなことをしてくれる内務次官はありゃしません。空前のことですね。これはありがたかった。

それから展覧会は、全国に渡ってずっと集めたわけですよ。これは史料編纂所が協力してくれられた。私の仕事に辻先生が賛成されたり、援助されたことは少ないんだけれども、 これは本来史料編纂所の仕事であるし、自分のほうで欲しいものだから一生懸命協力してくださった。 私の方でなぜ協力を必要とするかというと、物が来た時の保管場所がないんです。史料編纂所には保管場所があるでしよう。来たら保管しておいてくださいと保管先を頼んだら、そういう協力ならいくらでもすると喜んで保管されて、あとで言われたことは、これがもし官庁の仕事であればおそらく数年かかっただろう。それを平泉は二カ月でやった。 これは大変な数でしたから驚嘆されました。大講堂の外の廊下に全部並べた。それから大講堂を借りましたが、これは小野塚(喜平次1871~1944)先生が喜んで協力してくださった。それで大講堂をお借りすることができた。そして高松宮(1905~1987)殿下が台臨になった。秩父宮(1902~1953)殿下は何かでお差し支えがあったんですが、こんなことは東京帝国大学では空前のことです。東大はご承知のように南校が事実上中心ですわい。法学部、文学部は南校の系統でしょう。 西洋の学問なんです。日本の学者、 日本の学問を東大の大講堂において顕彰するというようなことは前古未曽有なんです。同時にこれはおそらく空前にして絶後です。それを遣り遂げたんですから、何ともいえぬ驚きだった。

そして御贈位もあって高い位をお贈りくださった。その時分に私は一人で駆け回るんですからね。 人を頼むことはできない。これが出来たのは国史学科の研究室が主体になって、金が欲しいというてもないからみんなやってくれた。いちばん骨を折ってくれたのが喜田〔新六〕(1903~1964)さん。喜田貞吉(1871~1939)先生のお子さんで、 国史学科を出て当時助手をしていてくれましたがね。あとは皇学館大学助教授になりました。喜田さんはご承知のとおり北朝論者ですし、わしは南朝論者です。喜田先生はうちへ来られて 「きみと山田 (孝雄1873~1958) 君と、南北正閏論は、わしらと考えが違うが、あれは間違っているぞ、宮中では北朝天皇をお祀りになっている」 「私は宮中のことは知りません。どうあそばされるか宮中の思し召し次第で、私は歴史の上からことを考える」 「それならいうが宮内省でも内閣でも、いよいよ北朝の方を正統と決めた時はどうするんだ」 「先生、ご心配くださるな。そのときはそのときで自分は処置しますから」 「それからな、それはそれとして新六(シンロク)のことを頼むぞ」「私は新六さんはいい方だと思うし、よくわかっていますから、この人の将来は私が見ます」 「頼むぜ」「先生、ご心配くださるな、南北正閏論は正閏論で先生と私は意見が違いますけれども新六さんの将来は私がおる限り大丈夫です。必ず将来はお世話します」 「頼むぞ」と言って帰られたんですが、その新六さんがいい人で実に献身的にやってくれました。

大講堂の廊下に並べるでしょう。夜の警戒が出来ないから誰か徹夜でいなくてはならない。それを学生がみんなやってくれたんですが、これが天下を驚かせたのは非常なものなんです。東大の大講堂において山崎闇斎先生の二百五十年祭及び大講演会が行われた。内田周平、徳富蘇峰上田万年がみなその学徳をたたえた。そこへは高松宮殿下も台臨になり、非常に盛大なお祭りがあった。これは非常に大きな感銘を各方面に与えた。

その時に小野塚先生が実になごやかな態度で、まことに済まんけれども十分なことができない。ほんの自分の気持だけだと言ってポケットから出して援助してくださったんですよ。はっきり覚えていないが二十円かそこらだと思います。

金は五百円、有馬大将からお預かりしたんですが、それではとてもこれは出来なかったんです。 いろいろな人の多少の寄付と、収益は本が売れたからです。記念図書の出版をやらなくてはならないので、「山崎闇斎先生と日本精神』 というのを、それに間に合うように急いで書いたんです。 八月に書いて九月中に印刷してお祭りに間に合わせた。この本の収益なんかもあって、全部で金は七百円ほど出来て、それで一切できたんです。

ところが倹約をしているものだから、案内状を出すのに非常に苦労したんです。だれもほかにはわからんから、みんなわしが書いたんです。それで私は一ペん叱られたんですよ。土佐の山内侯爵家に山崎闇斎先生の学統を受け継いだ崎門の学者のものがいろいろあるんです。それの拝借を願い出たところが、 こころよくいろいろ世話してくださった係の人のところへ、案内状を出すのを忘れた。それはロで言ってあるからいいと思って、しなかったんです。後で借りたものをお返しに行ったときに叱られて、われわれのほうへはお祭りの案内状も貰わなかったといわれたので、申しわけございません、会は実はこういう成り立ちで、こういう会計で人を一切使わない 私が全部したんです。物を借りることも、講演の依頼も、お祭りの手順も全部私がしましたので手が足りない。やむをえず、口で話が付いたところは手紙を出さなかったのです。お詫びしますと言いましたら、今度は非常に山内家で恐縮されまして、申しわけない、我々が援助に出なければならないのに、前の言葉はお許しくださいといわれましたがね。

そのときにある外人に案内状を出したんです。何かの関係で、誰だったか覚えていませんがドイツ人でした。それに案内状を印刷したものを入れただけでは読めんでしょう。翻訳も入れて出したんですが、翻訳の手紙を入れておったので切手が足りなかった。他のとは切手が違うはずなんです。それを知らずに入れてしまった。入れたあとでそれに気が付いた。ちょうどそのとき私は安もののタクシーを呼び止めて、それに乗ってどこかへ行くときに、郵便局の前に立っておる郵便箱に投げ込んで行った。ふっと気がついて、あれは切手を郵便局で聞き直して貼り加えるべきであったなと気がついて、おい、帰ってくれと郵便局まで帰って見ると、郵便屋が来て下を開けて取っているところなんです。済まんけどその中の一通だけはまだ切手が足らないと思うから返してくれと言った。ところが郵便屋は返さない。そうはいかない。あんたの郵便かどうかわしはわからない。人の郵便かも知れんから返すわけいかないと言う。そんなことを言ったって、私は取るというんじゃない、切手をもう一枚貼るというんだからいいだろう。何でもいかんと云うんです。

それを局長が向こうから見ておって、 なんじゃなんじゃと言うので、 こういう訳だと言ったら、これはわしが貼ると言って郵便局長が貼ってくれて、それで済んだ。

ところが、それをずっと運転手が見ておって、また車に乗って行ったところが、その運転手が 「だんな」 「何じゃい」 「わしはだんなが好きになりました」 「何が好きになったんだ」 「いや、いまの話を聞いていたが、だんな、あんたはおもしろい人だ、遊びに行っていいですか」 「ああ、いいよ。」そうしたらまたその連転手は正直なやつで、山本信実(1851~1936)先生じゃないが、遊びに来よったんですが、来たところがこんな者と話の仕様がない。何も内容はないでしょう。しかし、この運転手にもひとつの感激があるんですね。わしはあれは相手が日本人なら少しも構わん。相手が外人であればその外人の所へあれが届けば不足額を取られる。すると、日本人というのは人に迷惑をかけることを何とも思わんと思われては残念だから、日本人の面目上あれは何としても不足額をこちらで払いたかったんだということで、非常にそれは愉快な話でした。

その時に京都大学では受け付けなかったんです。止むを得ない、私は京都のほうまで手が伸びないですから、向こうへ任せたところが、京都府教育会というのでやることになって、ある小学校を借りてやった。女学校だったかもわかりませんが、講師は内藤湖南(1866~1934)先生をお頼みしてやった。内藤先生は、自分だけがやるとなあ、年寄りの仕事に思われるから、きみら若い者も加わってくれ、 二人でやろうということになって行った。ところが私の一生の中で、こんなに難しい講演をしたことがない。と云うのは内藤先生はそのとき病気なんです。その病気がどういう性質のものかわしはわからんですが、ある時になると発作が起こって二時間続く。 その二時間を経過すれば何でもない、平常に戻る。 ところが、ちょうどそのとき発作が起こった。講演の日に、実はこういう訳だ、二時間はどうしても苦しんでおるから、まず講演をやっておってくれ、発作が治りしだい行く。いつ治るか的確に言えないが治ったら行く、行ったらわしにさせてくれという。そうするとあなた、私は世にも難しい講演なんですが始めた。講演は全部で二時問ほど予定されておる。私が一時間、先生が一時間で、私はドアを見ながら内藤先生がこられたら、そこで切らなくてはならないからね。こんな難しい講演は今までしたことがない。いつ切ってもよいように、しかし、来なければ二時間続けるという事で、どこまで話したらいいかわからんでしょう。難しい講演でしたがとうとう先生は見えなかったので、全部私が一人でしたんです。

そのあとで内藤先生が、非常に済まなかったから、自分はあなたにお礼のためにしかるべき機会に講演をするといわれて、どこかで講演をされまして、その講演は非常に素晴らしい講演でした。つまり世間では、山崎闇斎という学問は狭くて頑固だと思っておるがそうではないんだ。非常に広い学問で実に精密な学問だ。広範にしてしかも精緻なる学問でありながら、出すときにはエキスだけしか言わない。それであたかも非常に偏狭なように見えるが、それはそうではないんだ。それを私はよく知っておる。

内藤湖南先生ほど支那学において、広範な目の行き届いた人はないですから、この先生の言われることは千鈞の重みなんです。非常にいい講演でしたが、そこでそういうお話しがあった。

そこで今度私は秩父宮殿下にご進講申し上げることになりましたが、これは重大なんですよ。当時の政局の上から云うと重大なことなんです。それから天下に山崎闇斎先生の学問が、東大において顕彰されたということは非常に大きな問題なんです。

そのうちに有馬大将は、ここで私というものを見られたんですね。私の精神というものを見届けられて、そこで破天荒なことを考えられた。それは陛下へご進講申し上げるということです。これはほとんど普通では不可能なことで、有馬大将といえどもどうにもならない 。ところが陸軍の大演習のときには、通例、現場の戦争の歴史をその土地の予備将校が、ご講話申し上げることになっている。群馬県であれば群馬県の昔の歴史の中で戦争の話しがある。それを現場の予備陸軍中佐とかいうのがやるというならわしになっていた。

ちょうどその時、大阪府下における大演習が行われた。七年の秋です。大演習は必ず稲を刈り取ったあとでやる。そうすると大阪府は摂河泉の土地ですから、摂河泉の戦跡となると楠木正成をおいてほかにない。楠木正成、この方の事績を大阪府下のある予備将校が申し上げるというのはもったいない、出来る者がない、 これは平泉以外にないんだということで、有馬大将は当時の陸軍大臣荒木貞夫(1866~1934)大将に話しをされた。これは陸軍大臣の責任でそういうふうに取りはからってもらいたい。

荒木大将は世間でも有名ですが、これまたおもしろいもので、先輩、後輩の関係もあるし、実力とかいろいろなことがある。有馬大将の前へ出ると荒木大将というのは子供みたいなもので、それで話をされた。そして陸軍大臣の推薦で私がご進講申し上げるということに決まった。それは公然たることなんです。それは宮内省から命令が出た。

宮内省の何はみんな出ないんでしよう。これは文部省とか何かの規制をはずれた事ですからね、天皇陛下へのご進講ということは。

〇 七年十二月五日です。

平泉 その前があるんだ、それは後の話でね。大阪府下の大演習は七年の十一月の初めなんです。大阪府へ行っていよいよご進講がはじまるという時になった処、その前日に大阪府下に行在所が設けられた。お城の中に行在所があるんですが、そこへ私に来て欲しいという呼び出しがあった。大阪へ行けば私はここにおりますということが届けてありますから、そこへ呼び出された。上がったところ、宮内官が、わざわざ東京から来てもらいましてご苦労でしたが、実は困ったことが起こって、陛下は風邪をおひきになった。大演習のご進講というのは野原の風の吹きさらしの所でするんですから、それを非常に心配しておるんですが、どうしたものでしようというご相談があったので、 私はすぐ申し上げた。わかりました、ご辞退いたしましよう。何よりも陛下の玉体を大切に考えてください、ご進講はお取りやめ願いましよう、私はこれから東京へ帰りますというんで、すぐご辞退申し上げて東京へ帰ったんです。

私がご進講するという事は新聞に出ていますから、人が見送ったりしておったが、そういうことで取りやめになった。 誠に本意ない事であったんですが、これがまた天祐なんです。 天祐というのは宮内省でもそれを気の毒に思われまして、十二月になって、大阪で気の毒をしたから十二月五日に改めて、宮中で聞こし召されるというご沙汰があった。侍従長終戦の時の総理大臣です。鈴木貫太郎侍従長から、ちゃんと呼び出しが来ましたわい。それで十二月五日に参内してご進講申し上げた。これは内容は言えないんです。宮中の陛下との事は 一切言ってはならんことになっておる。わしは言わない。言わないがこれは普通のご進講ではない。これも天の恵みなんです。とにかく陛下がお出ましになった。私は進み出て控えておる。横におる陪聴者は内大臣牧野伸顕(1861~1949)、宮内大臣一木喜徳郎(1867~1944)、 侍従長鈴木貫太郎(1868~1948)、侍従武官長奈良武次(1868~1962)、宮内次官 〔関屋貞三郎(1875~1950)〕 はよくしゃべる人でしたわい。そこまでが最前列。第二列は宮内省の局課長がずらっとおる。第三列までおって、宮内省の主要なる高官は三十人ほど後におる。その前でご進講申し上げた。

大阪で大演習ならば三十分ですが、今度は一時間である。ただし延びてよいというご沙汰で、実際は一時間十五分だったでしよう。ところが驚いたことに普通のご進講と違うのは、陛下からご下問がある、それにお答え申し上げる。そのうちに陪聴者が質問してきた。それに答える。これが非常に私にはよかった。つまり陛下との問答は慎んでものを言わなくてならない。陪聴者との問答は気楽ですわ。いや、違うんだ、あんたの言うここはこうだと言えるでしよう。 非常に爽快に話があって、さあ、どれくらいやりましたか、一時間四十分ぐらいだったと思いますが、それから別室へ陛下はお入りになり、私どもも別室へ下がって、別室ではさっき最前列におったそれだけが一緒におったので、そこでまた話しをした。

そのときに終始一言も発しなかったのは一木喜徳郎と奈良武次。よく話をされたのは牧野内大臣、その次が宮内次官のこれはちょっと軽い人でよく話をされた。 最後には侍従長から賜りものがありました。これは着物をいただいた、恩賜の御衣ですわ。これは焼け残って今でもありますが、ちゃんと持っておる。そういうことであったんです。

ところが、これが世の中に与えたのは、とにかく平泉というものが非常に重いものになってしまった。陛下の御前に呼び出されたことによって非常に重くなった。大勢の陪聴者がそれぞれの感銘を持って帰って、何かの機会にむしろ喜んで話をしたでしようね。宮中の事は外へ漏れないはすなんだけれども大体の事が漏れてしまった。

そこで今度はみんな私の話を聞きたいという。宮中のことは別にして、どういう風に考えるか、日本はどうなるんだ、どうすべきかということを、みんな尋ねて来るようになった。そこで初めて私は本格的に働けるようになったんです。実質上、日本の指導的な地位に立ち得たんです。もしそれまでフランスやイギリスにまごまごしておったら、この機会は永久に来なかった。やっぱり一年か半年短縮したということは、時期としてはこの時期をはずすべきではなかったんです。ちょうどそれがうまく間に合って、みんなが私にものを尋ねた。日本中その時は、どうしていいかわからなかった訳です。政治、軍事、教育、学問、どういう方向にいったい日本は向かうべきであるのか、だれも見当がつかない。それをこうだということを、私が確信を持って断定し得る力は、ドイツ、フランスで養われたし、そしてそれを言い得る地位は実は陛下によって与えられた。陛下が与えてくださったご意思ではないにせよ、実質上はそこにおいて私がそういう立場を確保した。

平泉 ご進講は昭和七年ですが、昭和七年というのは五・一五の年です。五月十四日だと思いますが、上野の精養軒で当時重要なこれという評論家、憂国の学者、政治家、軍人が大勢集まって会があったんです。私もだれが呼んでくれたのか、それへ招かれて行きましたわい。そうすると、非常に大きな変革期が迫ってきた。それはいつだろうという話が出た。そうすると維新史料編纂官の藤井甚太郎(1883~1958)さんがおって、徳川幕府が滅びる時に、今にも滅びそうに見えておって、なかなかそれがちょっとやそっとでは滅びるようなものではない。嘉永安政から随分長い間ガタガタ、ガタガタやったんだから、いま重大な変革期だというけれども、そんなにガタガタ来るものではない。まだまだだという説を述べていたんです。

私はその時余計なことを言ってね。それは一方から云うとその逆のことが言えるんで、まだまだと思っている内にいつの間にか安政の大獄が起こり、いつの間にか天王山の戦いが起こり、いつの間にか鳥羽伏見の戦いになるんだ。呑気に考えておると、事は明日起こるかもしれませんよと云う事を言った。そうしたら明日起こったんです。私の云う事は非常に適中する。これは自分がそう思うから云うんだけれども、人から見ると何か、そう云う事に関係があるのだろう、関係がなければそれを知っているはずはないと、みんなそういう風に予想する。色々な事からして、どうも色々な動きというものに、平泉は連絡かあるのではないかという心配を、いろいろな人がしたんでしょうね。大学でもするし、宮中でもするし、いろいろなことで私を邪推し、憎む人がありましたが、どうも仕方がないことです。

しかし、 五・一五事件が起こっても、さてどうするかはみんな見当がっかない。事件の内容から言って陸軍、海軍が関与しているし、これにどういう根があるのか、背後にどれほどの力があるのかもわからない。みんな非常に混沌として方向がっかなかった。そういう状態でみんなが道を求めることになって、われわれはどういう方向に・回かい  どういうふうに進んだらよいかをみんなで求めていた。ちょうどそのときぶつかったものですから、私のいうことはみんなの肺腑を突いた。太平のときに言ったところが、だれも何とも思わない。しかし、 いまは目の前にものがひっくり返るんですから、それを見てみんなが非常に動揺してわからないときに道を説くというので、みんな私に着目するに至った。天皇陛下にもその時にご進講申し上げた。

そこでみんなが私の処へ来た。曙町の小さな借家に住んでおって、まだ助教授ですからね。昭和七年というと三十七ですわ。それへお歴々がみんな来るわけです。私の家は大臣も来れば大将も来る。有名な政治家も来るので大勢来ました。

昭和八年正月の十日に大亜細亜協会の創立総会が、華族会館のところの霞山会館であって、そこに招かれて私は行ってみた。これがどういう仕組みであったのかわからんが、私は二階へ上がってその部屋へ人った。大きな広間がありまして、椅子は壁際に馬蹄型に並んでいて、それにみんなは座っておる。端の方は空いていて、奥のほうにずっと座っていましたわ。そのまん中に一つ椅子があってその椅子があれ何椅子って言いますかい。こう両臂かけてうしろが丸くなって、こうかけられる大きな立派な椅子が一つまん中にあって、入り口の法を向いているんです。そこへ近衛(文麿1891~1945)公がかけておられた。

それで私はこの入り口へ立って、まず部屋全体に敬意を表して、それからどちらへ行こうかと思っておったところが、陸軍の中将が出てこられて、私に 「よくこられました、あの中央におられるのが近衛公です」と教えてくださった。そしてその方はすぐそのまま近衛公のところへ行って、いま入って来たのが平泉ですと云うことを言われた。その方は小畑敏四郎(1885~1947)中将で、これは陸軍きっての戦術家で、これだけの俊敏な頭脳はないんです。敏四郎と云うのはよく付けられたと思う。ほんとうに俊敏な頭脳で戦術においては日本の至宝といわれる人なんです。その方が荒木(貞夫1877~1966)大将の右腕とも懐刀ともいわれているんです。七年のご進講のときに荒木さんが私に非常に注目したのが、荒木さんの推薦が利いてご進講になったけれども、陸軍大臣は宮内官でないからご進講の場には荒木さんは出る事は出来ない。そこでどんなご進講を申し上げたのかということを知りたかったんでしようね。そこで懐刀の小畑さんが曙町へ来て、私にいろいろ話しを聞かれた。そういう関係があってこの場の取次は小畑中将がされた。

私はそれを聞いてご挨拶しようと思ってだんだん進んだところ、近衛公も小畑中将から私の話を聞かれ、すぐ進んで来られて二人はまん中で会って、そこで私はご挨拶の名乗りをあげ、近衛公も挨拶されてまたお帰りになった。私もこちらへ行ってこの辺へ腰かけたんです。これが近衛公にお目にかかった最初です。その日は創立の協議会ですから、私どもは何も言うこともない、近衛公も何も言われない、その日はそれで終わったんです。

それが初めですが、その時分の近衛公というのは、国のことを考えるすべての人の輿望を担っており、近衛公によってこの時局は終息するだろうという事で、日本のホープなんです。それでお別れしたところ、やがて近衛公から来てもらえないかと云うご連絡がありましたので行った。そうしたところが、あなたは日本の国の現状をどう判断されるか、今後の日本の動向はどうすべきであると考えられるかということを聞かれて、これを私はずっと二時間述べたんす。

とにかく近衛公ほど聡明な人はない。大学の学者がみんな揃っており、日本の知能が集まっておるけれども、私の見た限りにおいて近衛公ほど頭脳の俊敏な人は誰もいない。頭脳が透徹しておる。学者というものはみんな変なところにこだわりがあって、学問にこだわったり、何か欲望があることは見ておってわかる。近衛公という人は欲があるはずがないんです。近衛という日本の筆頭の重臣の地位を千何百年の間維持してきた家に生まれたというだけで尊敬を受けておられるから、近術公は何も望む必要はない。無欲な人はものが見通せるが、学問があると見通せない。それは恐るべきものです。

私はいろいろな方に親しくしてもらった中で、無欲なるが故に透徹する頭脳というのは、秩父宮殿下、高松宮殿下、それから予想外であったのは満州国の皇帝溥儀(1906~1967)。

話は前後するけれども、満州国で皇帝にご進講申し上げてほしいというご希望があって行ったんですが、これが五回にわたるご進講で、全世界にわたる歴史を申し上げた。それは事重大で、満州国がどういう国体として自覚されるか、日本との関係をどうするかということがこれによって決まるのですから、向こうでは非常に重大視して、一日おきのご進講だったと思います。

宮中でのご進講と同じように重臣が陪聴しておる。国務総理張景恵(1871~1959)、宮内大臣煕洽(1883~1950)、参議府の長など満州国人が四人おる。陸軍では陸軍を代表して、吉岡安直(1890~1947)中将が、皇帝にぴたりと付いて離れない。

この人は皇帝に殉じたあとシベリアで亡くなるんです。この中将がしっかりした人で、学界もずっと見通した人でした。これがいつか私の講演を聞いて非常に驚いて、東京帝国大学を我々はいままで見損なっていた。東大にはまだこんな学者がおったのかと言って、非常な喜びでしたわい。そしてこの決定なども吉岡さんが相談になったのでしようね。この五人が聴いておるところで、二時間講義をするんです、それを皇帝は黙って聴いておられた。私は日本語で、それを満州語に翻訳する人がおってずっと翻訳するということでした。二時間の講義が済んでもうこれで帰ろうという時になって、皇帝から質問された。黙って聴いておられて、みんな覚えておられる。そして質問というのは全部急所へばかり来るんです。これはどうですか、これはどうですかというのを見て私は、この人は優れた人だ、いままでこの人はロボットだと思っておったがそんなものじゃないと、非常に驚いたんですよ。

この皇帝を満州国へ持ってくることに関係したのが、陸軍の首脳部であっちの出先機関ですが、それに大川周明(1886~1957)博士が関係しておる。それで大川博士に会った時に、どうも驚いたことには皇帝はロポットかと思っておったところが、すばらしい頭脳ですねと言ったんです。そうしたら大川さんの答えに、実は私どももみんな驚いたんです、 ロポットにするつもりで連れて来たのがそんなものではなかったんです。愛新覚羅氏の直系というのは実に優れた頭脳ですわい 康煕(1654~1722)帝でも何でも清朝は優れた人がいますわ。これは実はわれわれ案外であったんです。大川さんの言葉そのままに今は思い出せないのですが、ウラル・アルタイ以東において日本の皇族を除いてあれだけの頭脳はありませんという、非常にいい言葉です。私はこの人も日本の皇族の次に加えたい。

それから臣下へ下がると近衛公、これだけの頭脳はない。冬の川底の水がずっと澄んでおる、見ると川底の砂が見える。そういう景色を時々見ますが、会えばその人の腹の底まで見通される。これは人の上に立つ器ですね。来ればその人物を見通してしまう、実にすばらしいお方だと思いました。

その方が 二時間じっと私の話を聴かれて言われたことは、よくわかりました、全部わかりました、全部同感です。こう言われたんですよ。そして、「まことに済まんがもう一晩来てもらえますまいか」「結構ですよ」 「私はもうこれでわかったんですが、木戸侯にもこれを聞かせてやりたい、明日は私と木戸(幸一1889~1977)侯と二人そろって聞かせてもらいたい。」 これは木戸日記に出てきます。これは今度は華族会館で晩餐を一緒にしながらお話を伺いたいということで、翌日また行ってかれこれ三時間でした。

そのとき正直に言うと、木戸侯にはかなり抵抗がある。近衛公はすらっと受けられた。近衛公はわかる。木戸侯はいまの学問で、いろいろな学問を好んで、かえってこだわりがある。結局、わかりましたということであったんですが、これはほんとうにわかれば良かったんですがね。近衛公としては非常に聡明ではあるけれども、断行力のないお方で、これは貴族の通弊なんです。子どもの時から艱難辛苦の中に苦難を排除して来るから断行力が出るのであって、安穏に育った者には断行力はない。そこで木戸侯というのは頼みになる。木戸が一緒ならおれは行く、木戸が付いてきてくれなければ、おれ一人では困るという所があるんです。それで木戸侯を一緒にされたんだけれども、木戸侯にはどうもそこまでは届かなかったように思う。数年の間は木戸侯はそれほどでもなかったんですが、あとになると今度は木戸侯が進んでこられるんです。いよいよやってみると自分の学問ではいかない。ここで根本の重臣が私の理解者になったわけでしよう。それが昭和八年の初めです。

その年の四月に満州に行った。

出ているんですか。

〇出ています、文部省から出張を命す。

平泉 満州へ出張のときに小畑中将が紹介状を書いてくださった。岡村寧次(1884~1966)、河本大作(1883~1955)は同期生です。それで名刺をくださったんですよ。それから、食べものに気をつけてくださいよと征露丸をもらった。その時にある中将が非常に心配して、大丈夫だろうか、満州は危ないですよと言われたんです。

それ以前に実はもう一つあった。ご進講の済んだあとで非常に心配してくださったのは有馬(良橘1861~1944)大将です。非常に喜んでくださったのと同時に非常に心配して、平泉危ないと言うので、有馬大将は平泉を守ってやってもらいたいと、憲兵司令官のところへ頼みに行かれた。その時の憲兵司令官の答えが頗るおもしろい。大将にどう答えたかわしは知らん。人を介して私のところへ言ってきたことは 有馬大将からご依頼があったが、どうかあやしいと思ったときは憲兵隊へしないで、憲兵司令官へ直接電話をしてもらいたい。このことばは意味がある。陸軍の中でもなかなか容易ではない。憲兵隊といえども統一されてはおらん。

ところがそんな馬鹿なことを言ったって、今日危ないと思って憲兵司令官へ電話するようなことはない。とにかく危険というのは防止することは、絶対不可能なんです。それで私は、有馬大将のご好意は非常にありがたい。しかしながら何ら頼む気はない。自分は日本の国のために懸命の努力をするだけであって、それが神意に沿わなければ私はやられる。とにかく神様にお任せするというんで、今日は危険という時は必ず単身で行くんです。あの時分、我々と肩を並べるような人が色々おりましたわい。そういう人は大抵用心棒を連れて歩いた。門人を連れて歩きしてますわい。私は必ず単身である。

それで五・一五のときも曙町の家で、何か用事があって出ておって、帰って来たら家内が「いま恐ろしい人が来ました」「どんな人がきたんだ」「二人来ました、海軍です。それがどう見てもいま人を殺してきたか、これから殺しに行くかどちらかです。お留守だと言ったら、しばらくたってまた来ますというので帰りました」「そうか、 それではおまえは子どもをみんな連れて、植物園へ遊びに行っておいで」と、家族全部が植物園へ出払った。女子どもがいると、うるさいですからね。どうことが起こるかもしれない

そこで単身これを待ち受けた。来た。一人は中尉、一人は少尉でね。そこで、どうぞお上がりくださいと座敷へ上げて、 座ぶとんを並べて、どうそこちらへと言った。二人はこう座ってこうしておる、お辞儀をしない。何もいわん。仕様がないから「あんた、だれそれ中尉ですか」「そうです」「あんた、だれそれ少尉ですか」「そうです」「お尋ねするがあんた方はわしを敵として来たのか、味方として来たのか」「いや、敵ではありません、味方ではないがお話をしたいと思ってきた」「よろしい、敵として来たのであればどういう態度をとっても文句はない。敵でないなら今の態度、それは何だ、不作法だぞ。人の家へ入ってきて黙って座ぶとんの上へ座って、腕を組んでいるというのは何ごとだ」と叱りつけたんですよ。そうすると二人は、失礼いたしましたとそこで初めて手をついて挨拶をした。

そこで色々話をした処、それはみんな五、一五の時の人ですわ。

〇 当日

平泉 当日ではないんです。捕まった後で、それは漏れたんです。しかし、その連中はあとで処分されますが、出動にもれた。捕まって獄へ入っておって、出動しなかったので早く釈放されたんです。出てきてきたんです。実は暫く自分らは獄につながれたが初めてここで大西郷の気持がわかりましたという事で、自分らは歴史の中の重要な仕事を果たした人物の一人だという気持で、非常に思いあがっていたんです。

そこで私が云うには、あんたなあ、荷物はずせ。何のことですか。あんたはみんな二人とも大きな戸板を背中に担いでおる。おれは偉いことをしたんだと云うので、こんなに肩を張っておる。それは重くて仕様がないだろう。そんな事で世の中は通れないんだ。荷物をはずして空身になれば、笑って素直に世の中は通れる。荷物をおろせ。

そうしたら二人とも初めて笑って、そこで非常になごやかになったという事があります。その二人は私を訪ねてくる前か後か、どっちかわからんが、有馬大将へも行っておる。それはあとから聞いた。有馬大将と私とはこの関係においては連絡は何もない。有馬大将へ伺った時に、大将は二人が玄関に立っておる処へドアを開けて出られて、こう言われたそうですよ。馬鹿ものども、貴様らはやるべきことをやっておるのならば神様になれたかも知れん。成り損ないの馬鹿ものどもが、何をうろうろ歩いているんだ。やるといいながらやりもしない。この五・一五事件というのは、全国民の非常な喝采を博したんです。あれで初めてみんなの鬱憤が晴らされたんです。もう日本の政治にはあきあきしておる。

私の友人の品川 〔主計〕(1887~1986) さんが後で満州国の監察院次長になりますが、この人がその時の様子を見ておって、実に驚いたと云うんです。品川さんが下関へ着いたときに五・一五の号外が出た。みんなが非常な喜びで号外売りは号外を売るのではなく、ただでみんな読んでくれと言っている。こんなおもしろいことが起こったんだと、みんな大変な喜びようで、鬱懐が一時に開けたというふうな感じだった。

それを見て、今度は出動しなかった者がおれもやったんだ、仲間だったのだということで出てきた。それを痛罵されたんです。はからずも有馬大将のこの態度と私の態度が、この二人に関しては、全く同一轍に出たんです。

それが七年で、そんなことがあって私が満州へ行く時には、みなさんが非常に心配された。満州がまた動乱の最中で、私が行った時でも川の中を生首が流れているんですからね。それから吉林へ行って私が宿で靴を脱いで入ろうとしている時に、靴をはいて出ようとしてゲートルを巻いている人がおった。立派な人だなと思いながら私は入っていった。それは梅田雲濱(1815~1859)先生の、山田勘解由(登美子?)という人のお嬢さんを貰われたんですかね。「妻は病床に臥し」 の妻は、その山田家の跡ですわ。梅田雲濱先生ゆかりのお方がそこにおられて、ゲートルをはいて出られた。むろん銃を持っておる。この人はその日殺されるんです。私は知らなかったから挨拶もしなかったんが、その日出て行かれて銃殺された。

満州は動乱の最中で非常に危ない。そこへもってきて事情を知っておる人は私を非常に心配しておるが、日本の陸軍が危ない、これは何をするかわからない。それである中将が非常に心配して、気をつけてくださいと言われた。私はピストルを用意しない、何らの武装もしない、何びとも頼まないで、単身であらゆるところへ入って行ったんです。

その時に紹介者はすばらしい人の紹介を持っておる、岡村さんにも会った。そのあとで岡村さんの言ったことには、ちょうど私の友人の品川さんがいるからわかるんですが、品川さんに向かって、あれは何しに来たんだろうな、自分の一番の親友の紹介を持って来たんだが、こうしてくれということを何も言わなかった。私は何らの希望、要求、要請というものをどこにも持っていない。みんなそのときは希望を持っているんです。おれを何とかにしてもらいたい、どこそこの利権を分けてもらいたいということで、それは汚いものでみんな日本から行く人はそれでやっていくし、なだれをうって行ったんです。

ハルピンでは海軍の小林省三郎(1883~1956)少将に会いました。牛のように大きな人で、この方にもご挨拶した。ところが小林さんの言われるのに、何か私のしてよいことがありますか、いや何もございません。どうぞ遠慮なく、何でも私のしてよいことがあればします。これは非常に親切な言葉で感謝すべきですが、なるほどこういうふうでみんなが要求を持って行く。それなのに私は何もありませんと言うていた。

私の満州へ行った目標は、どういう実情であるか、それぞれの人がどんな考えでどんなことをしておるか、それを見に行ったんです。だから要求は何もない。それでずっと見て驚いたのは、もう赤化の手が満州にはずっと伸びている。日本が手をつけるよりはるかに先んじて、はるかに着実に手が伸びておる。日本はその点は何ともいえない浅はかなものですね。みんな地下に本当に入っていてハルピンで地下室へ人って行ったら幼稚園があるんですが、これは驚きました。全部アカの宣伝です。ロシア革命の宣伝でこれは実に驚きました。満州人というものをすべて赤化してしまえ。上では日本の陸軍が暴れていてもかまわん。赤化してしまえば結局はロシアが取れるという見込みでしようね。それはほんとうに驚いて、これは油断のならん状態だと思って、ずっと見て帰った。

 

昭和五十三年十一月二十七日  平泉 澄先生 午後の部㈡

〇 品川主計さんとは昔からのお友だちですか。

平泉 福井の人で、連絡のない方だったのですが、福井県の育英事業で保仁会というのがあるんです。これは福井藩重臣たちが考えて、将来福井瀋の人材が東京で勉強していく上での補助をしてやろうというので、土地を買い求めそこに塾舎を建てて運営をし、金のない者には貸貰制度を設けて、 月に二十円程度の援助をするという仕組みになっておった。 私は家は貧乏だけれども人の援助を借りることは好まないのでそれは受けなかったから、関係はなかったのですが、それの理事をしておったのが芳賀矢一(1867~1927)先生。山本条太郎(1867~1936)、これはあの時分の日本にとっては重大な人物ですわ。それで私は山本条太郎さんをよく知っておる。それから永井環(1865~1941)は東京市の高級助役をして、あと福井市長になった。それから岡田啓介(1868~1952)大将。これがみんな評議員んです。私のおじは岡田さんなどと同期生で、写真に出ている法科大学の島田剛太郎(1867~1945)長崎県知事。これがみんな評議員だったんです。この連中がだんたん年寄ったので若手に代えようという案があって、全部やめて若手にしたんです。そのときに品川さんも選ばれ、私も選ばれた。そのときは鉄道省建設局長(工務局長〕の加賀山〔学〕。

〇 総裁になられた方ですか。

平泉 あれのおじ(兄)ですわ。総裁になったのはまだ学生で、わしは舎監をしておって、あれは貸費生。学生ではいま代議士で要職におるが福田一(1902~1997)、わしの監督下におったんです。そこで品川さんと私とは理事になった。矢板さんというのは下野銀行の取締役、これは福井の橋本景岳先生は若いからお弟子は一人しかない。その一人のお弟子の息子が矢板さんで、栃木県矢板町の矢板という豪族のところへ養子にいったんです。そんなのが数名あと引き受けたんです。そこで品川さんとは懇意なんですがね。

品川さんはそのとき満州国監察院の次長で、院長は満州人ですが、実質は彼が院長ですわいな。ところがこの人は初めは満州国建設ということに反対だったんです。私は反対も賛成もないけれども、満州国の首脳の人たちと懇意だった。それでこの人が行くについてはそういう意味で私が伸良くしてもらう役を果たすことになった。三雲さんでもそうです。三雲さんは北支開発の支社長で、支社長といっても初めの北支開発なんていうのは絶大なもので満鉄に匹敵する、何ともいえん大きなものですよ。ところが非常に三雲さんは心配で、つまり陸軍が心配である。陸軍というのは何をするかわからない。横暴ですからどんなことが起こるかわからない。

それで三雲さんに、三雲さん、心配しなさんな、何かあったらおれは平泉の親友だと言いなさい、危急はそれで逃れる、 あとはおれが飛んでいくという話をしたら、三雲さんは別にそんなものを頼りにもしないだろうが頼むぜと行ったんですが、そんな事情なんです。

満州では品川さんは家を建てている最中でした。それで品川さんに万事世話になって、満州国皇帝はまだそのときは皇帝とは言わすに溥儀執政ですが、溥儀執政が会うと言われてお会いしたんです。ところが私はモーニングがないので、品川さんにモーニングを借りてお会いしました。溥儀さんには執政でお会いし、その次は皇帝でご挨拶し、ご進講も申し上げた。三度お目にかかっていますね。

満州へ行く前に青々塾をたてました。その時分は時代というものを敏感に感じ取るのが感受性の強い学生なんです。上の先生方は何だかわからない。各学部のこれという有為の学生は、みんな私のところへ集まった。講義にも集まる。それから会としては朱光会もできるという調子でしよう。七生会とか、ほかの会とはどういう関係かということですが、主義主張というものはいろいろありましても個人的信頼というのが会のもとですから、それがなければどう動くのかわからない。そういうことで個人の信頼からそれぞれ集まる。上杉先生を信奉するものは上杉先生のところへ集まる。それから蓑田胸喜氏を好きなものはあそこへ集まる。私を信頼するものは私の周囲へ集まるということで集まって、講義でも定員がないんです。法規以外の聴講でだれも届けるものはない。理学部や工学部は届けてきたって受け付けようもないし、向こうの講義を休んでいるんだから表へ出せない。農学部でも何でもくるでしよう。朝行って見るととても教室へは入りきれないし、文学部だけで処置しきれない。そこでモーゼと同じで私は群衆を率いてあっちこっちへ砂漠を彷徨わなければならない。もう少し大きい教室はないかというので交渉しては、その日その日で歩くという状態であった。

それで塾を欲しいということで、私の家は曙町十二番地、塾として借りた借家は二十二番地。これまた愉快で私の家からずっと行くと藤島武二(1867~1943)さんという有名な絵描きさんの家がある。それからもう少し行くと寺田寅彦(1878~1935)さんの家がある。もう少し行くと借家があるのを見つけたんです。それは入った後だんだんわかったんですが、実におもしろい事には婦人解放運動の先駆者、平塚雷鳥(1886~1971)の家なんです。平塚という表札が出ておる。雷鳥はその家の娘だけれども若きつばめのところに出ておる。雷鳥の妹さんがおられてその方が奥さんで、ご主人は北海漁業の重役でお家にはほとんどおられません。雷鳥らのお父さんがおられましたが、これが有名なお方で錦鶏間祗候平塚定二郎(1859~1941)。これは独乙協会大学というのがあるでしょう。あれのいちばん上ですよ。ドイツ語協会の先駆者です。この方の二番目のお嬢さんが家の跡をとってそこにおられた、その方にお願いして家を借りた。

その平塚さんというのは、有名なロエスレル(1834~1894)を連れてきて通訳になった人です。これは日本の憲法をつくった人で、専門は商法です。私のほうから見ると 『仏国革命論」を著した重要な人なんです。そこで初めて定二郎翁にお会いして、ロエスレルの話を聞きましたが、不思議な関係でそこを借りて、そこで八年四月初めに最初に開いて、初めに七名ですかいな。間もなく人が多過ぎるので、すぐに別の家も借りて第二の私塾を開いて、そこで法、経、文、エ、いろいろな何か来ましたね、それでずっとやってきた。それが東京で三つ、四つ、千葉で四つ。 工学部は千葉へ伸びた。あの途端に千葉へ塾を四つやった。盛んなものだね。とにかく東大はやっぱり偉かったですね。就職の勉強のためにしておるのではない。日本の国をどうするか、この際我々が奮起して日本の国を担うんだという意気込みで、 みんな道を究めようとする、 それですからこれはやれるんですね。それでみんな集まってきた。 

京都は京都大学に塾をたてた。仙台は東北大学で仙台に塾をたてた。

〇それはみんな同じ名前の塾ですか。

平泉 そう青々塾です。

〇その第何塾という。

平泉 千一塾まできたんです。表へ出さんが、それは実に盛んなものだね。 アメリカのほうがよく知っている。 いったい私の仕事は日本人は知らない。 いちばん知らないのは国史学科で、愚かなものばかりおって、研究室は私によってつくられ、千辛万苦してつくったところを占領して、私を悪者扱いにしておる。 アメリカのほうがよく見ていますよ。この塾でもグリーングリーンスクールという、 い名前たね。それで千一塾。そのほかにもある。

〇それは名前が違うんですか。

平泉 名前が違う。 いまの塾というのは学生が入っているほんとうの塾です。 ほかのは例えば小学校の先生が集まるとか、 そういうのは別に建物があるわけではない。一つの集まりの名前で、それがまた各地にずっとある。

〇 最初に東京周辺にできた塾は、大体、東大の学生ですか。

平泉 原則として東大。京都はみんな京都大学。仙台は東北大学です。ただ例外的に東京の塾へ早稲田の人が一人入りました。 これは特殊な関係で福井の人です。

〇 塾の経営は独立しているわけですか。

平泉 はじめは私のほうで何もかもやったんですが、こっちは貧乏ですからとても賄うことは出来ない。 それであるところまで来てみんな各自負担する。 そのうちに卒業生が出るから、そこで卒業生が後輩を見ていくということでずっと続いたんです。月給を貰ったら出せということになっているんです。

〇その塾で先生が講義をなさるんですか。

平泉 夜、一週間に一ペん。

〇そんなにたくさん塾があったのでは。

平泉 それは回りはしません。 講義の時にはみんな第一塾 へ集まる。それぞれ塾頭は決めてあるから、塾はその頭によって統轄されていて、私の講義の時はみんな集まる。そのときは百人を越えますから、とても家の中には入れない。先に来たものはみんな座敷に座る。家中ぶち抜いて全部座って、もう席がなくなれば、むしろを敷いてみんな座る。それは盛んなものでどれだけ集まってもだれもわからない。つまり、声を立てるものは一人もおらない。静粛に極めて慎しんで集まってくる。来ても黙って座る、それは一語を発するものもない。

それから礼儀を尊ぶ。これは学問の根本なんです。礼儀が乱れたとき学問はそれでおしまい。だから、みんな非常に礼儀を尊び、慎んで承るということなんです。頭を上げる者もないという調子で、これは学問の本体です。それを厳しくいわれたのは山崎闇斎先生です。それは実にすばらしいもので、仙台の第二師団の将校で、若い将校などみんな来るんですが、元日の夜汽車できて、二日の朝東京に着いて塾へきて、十時からの私の講義を聴いて、そのまま帰って翌日から勤務する。それから海軍は横須賀に軍艦がきているとみんな来る。遠方からくる人々はみんな気の毒に座敷へ上がれないから、庭のむしろの上へ刀を横に置いて座る。 それが一語も発しないでじっと座っておる。咳一つするものもない。微動もしないでずっとこういうままです。それでずっとやってきたから、何ともいえず私も楽しかったが、みんなもあれで一緒の感激ですね。

それに反し来ないものは、正直なところいよいよ戦争になってから逃げ回る。戦争には行きたくないんです。なるべく行かないようにと骨を折ってみたり、それは余計なことなんです。 そして結局行ってもいやな思いで、 聞けわたつみの声で泣き言をいわなくてはならない。国の運命ですから、われわれが国運を打開する、その為には命を捨ててよいという態度ですから、見れば、 この人は魂が出来ておるのかどうかはすぐわかる。 どこへ行っても非常な尊敬と信頼とを得て、みんな苦労していますけれども満足である。そういう風で塾はきたんです。

〇千一塾というのは昭和二十年段階のことですか。

平泉 もっと前です。もっとも陸軍の百三十五師団と同じで、中が抜けている。そのうち詰めるつもりでだんだん番号を打っていったところが、詰まらなかった。 (笑) 戦争が激しくなってそんな余裕はなくなってきた。

〇 若い者もいなくなるということですか

平泉 若い者もいなくなるし、こっちの手もまわらない。 戦争になると大変でしたからね。 そこで跳ぶんですよ。初めはそういう予定で、さらに九州帝大も考えておるし、ずっと考えてあったんだけれども、そこまでいかなかったというわけです。

しかし、千一塾というのはおかしいようだけれども、出征の命令が出ると私の所へみんな挨拶にくる。千一塾、何のたれがしでございます、命を受けましてどこどこへ出動いたします。 実に兆列でした。 日本の若者にあんな見事な態度が玉成されるものかと思いました。あとは玉砕になりましたが立派だったですね。

昭和九年、満州国へ行くときに釜山で汽車に乗った。 広軌だから汽車は大きいでしよう。寝台に乗ったが夜にならないので寝るには早いので腰掛けておった。向かいに腰掛けている人は陸軍大尉で、その人と話して非常に気持ちがあった。 私は大抵の人は友だちになるか、敵になるか一目でわかる。今田新太郎(1896~1949)という若い人などは汽車のプラットホームで会った。若いのに非常に壮快な人で、ちょうど鷹が睨んでおるようにこうして睨んでおる。 だれもほかに人はいなかった。 それで私はこう見て、初めて会ったのでだれもわからんが、今田さんだろうと思って、「今田大尉ですか」 「そうです、今田大尉です」 それで会って仲良しになった。これはいつも絣の着物で家へきましたが、先柤は大和郡山藩の槍奉行、山崎闇斎先生の学問を受け継いだ人で著書もある。お母さんが立派でしたね。この人など一目で仲良くなって、良く家へこられたですわい。辺幅を飾らない、いかにも陸軍の将校らしい、袴をぎゅっと短くはいて絣の着物で筒袖で、こういう人が非常に好きなんです、男らしい男がね。

汽車の中で一緒になったのは松村大尉で、これとそのとき話をして二人とも仲良しになった。それが縁を結んだんです。その人が今度は満州から帰ってきて、陸軍士官学校の教務課へ入った。そこで私に頼んできて、士官学校で講義をしてもらいたいという。不思議なことにそんな因縁があるもので、それで行ったんです。

大講堂にずらっと生徒が入っておる。私はこっちから入って松村大尉の先導で進んで、 こう行ってここで壇へのぼって正面の演壇に行くことになっておった。こう行ってこの壇へ登ろうというこの片隅に一人立っている人がある。だれか私は知らないんです。それが東条〔英機1884~1948〕少将でその時分士官学校の幹事です。幹事というのは校長より大事で、一切は幹事において決する。私は何も知らない。大体、東条という人を知らない。この横を通るときに揖をして壇へ登った。そのときに私は刀を持って行った。大刀をひっさげて行って、東条さんにちょっと会釈をして壇にのばり、演壇上に刀を置いて話を始めた。

この刀は終戦後、人に預けてこちらへ帰ったものだから、預かってくれた人が進駐軍を怖がって、これを土中へ隠した。それで刀が少し崩れましたわい。文久二年十二月、二尺五寸、大刀ですわ。これをひっさげて行ったんです。そして壇上でこれを抜いた。陸軍よ、この刀のごとくにあれ。第一に強くあれ、戦争に負ける陸軍を見たくはない。戦えば必ず勝てり。いかなるものでも手向うものを叩き斬るその力を持て、弱き陸軍を我々は見る気がしない。この刀は何ものをも叩き斬るんだ。その武力を持て。第二に陸軍よ、その武力をなんじの私の意思によって発動するものではないぞ。陛下の勅命によって動け。私の意思を遮断するこの刀を見よ、 ここに「山はさけ海はあせなん世なりとも君にふたごころわがあらめやも。」 これは将軍実朝の歌ですが、すべては陛下によって決する、それ以外私の意思によって動かしてはならん。それはみんなが何とも言えぬ驚きだったんです。

当時はみんな陸軍を恐れておった。五・一五や満州事変から後はそうでしたが、その陸軍に対して大喝一声これをやった。この刀によって私は陸軍というものを鍛え直した。世間の知らん者は、私が陸軍と結託し、また阿諛して威張っているようなことをいう。そんなものではない。陸軍が私を畏れ敬った。

これは土中に置いたために刃が崩れたんですが、明治維新直前の日本精神の生粋ですわ。文久二年というちょうどそのときが。この刀自体はたとえ刃が少し欠けても、歴史的な意味では昭和の日本史の中で重要な働きをしたんですよ。

〇それ以後毎年士官学校へ行かれるようになったわけですか。

平泉 毎年どころではないんです。その講演を二時間やって帰ってきた。要領は今の通り。満州を見てきたのもそれなんです。満州で日本軍がしっかりやっているという、それは良いと思うけれども、それはてんでんばらばらで国策としては動いていない。日本の弱点は国策が立っていないことで、考えてみると日露戦争以後国策はないんです。政友会と民政党がちゃんぽんになって、西園寺公望がまたしてはあっちを立てろ、こっちを立てろで、行く道が立っていないでしよう。国策なしで満州は出先で勝手に考えている。それが悪いというのではないけれども、最も遺憾な状態なんです。

そして出先は中央を馬鹿にする。中央は出先を乱暴者として扱う。これで上手くいく道理はない。それを私が一つにまとめようとする。日本がいま遭遇しようとしている国難に対処するには、全国民が一致団結する以外に道はない。それがてんでんばらばらにお互いに憎み合っているのでは、事はうまくいく道理はない。ところが一つに纏まる為には、陛下の御旗の下に集まる以外にはない。西園寺のもとに集まれと言ったって、誰も集まるものではない。西園寺のために命を捨てろと言っても出来ない。共産党徳田球一(1894~1953)が立って、みんな徳球の為に死ぬかと云っても、そんなことは絶対出来るものではない。三井三菱でいくか、そんなことは不可能。陛下の為にということで、はじめて一つに纏まる。これは絶対に必要なことだ。これが私の根本の信念です。そこで問題は出ておるんですよ。それしか私はみんなに問わない。

私のもう一つの意味は、そのためには宮中はしっかりしてもらいたい。これはしかし外へ向かっていうべきことではない。これはどっちも非常に難しい。世間で云うのは、平泉はもう二度と宮中へは行けない。これは宮内官の考えはそうでしようね。陛下の思し召しだろうと思いますが  宮内官の気持からいえば、ああいうものは二度と宮中へは入れない。それはそれで仕方がない。彼らは彼らでそれが忠誠の道と信ずるならば、それでやっていく。私はそれによ って日本の国は血路を開ける道はないと確信する。

この講演をやった二日ほど後に電話がかかってきた。家内が出て私が出た。東条さんからかかってきた。「東条でございます。これからお伺いしたいと思いますが、お差し支えございませんか」「私のほうは差し支えございません。しかし、閣下はお忙しいでしょうから、 何でしたら私から伺いましようか」、 これは会釈ですわ。そのときの東条さんの答えが非常に立派だった。「いいえ、お願いの筋でございますから東条が参上いたします、梅村大佐を帯同してまいります」「お待ちしております。」 やがて梅村大佐を帯同してこられて座敷へ通られた。挨拶があった後に床の間を見ると、ミトノ正勝の刀とこの刀とが刀掛けにかかっていた。「ああ、先日の刀はこの刀ですか」「そうです」「拝見させてください」「どうぞ」 これを手に特って非常に喜んで見ておられた。

やがて座へ返っての話が 「お願いがごさいます」「どういうことでしょう」「先生に毎々ご講演をお願いしたいのですが、なかなかそうはいきませんのでお弟子を頂戴したい。お第子を士官学校の教官としてお迎えしたい。お話によってよくわかりました、陸軍のいままでの教育は間違っておりました。全部立て直します。ついてはお弟子をください。すぐに全部代えるわけにはいきませんので、とりあえず一名、来年また一名、どんどん代えていきます。まず一名ください。」 それから私の弟子がずっと入ったんです。いちばん多いときには八、九人入った。ほかの者もつられて、同じ精神で統一されていく。それで陸軍士官学校というものを全部立て直した。

それまでの士官学校にはこれだけの気魄はないんです。陸軍といっても前の陸軍は高等学校を落ちたもの、高商を落ちたもの、少し学力がないから陸軍へでも行けということで陸軍へ行ったり、いやいやながらそういうところへ入ったりするものですから気魄が違う。そういうものやら、あそこは学問は狭いし、全体の大規模な構想のうちで自分の進む道を開拓して進んで行くというふうではなかった。それから陸軍でも海軍でも役人でもそうですが、 みんな自分が偉そうになって、隊長の地位に就くと師団長なら師団長はみんな敬礼を受けて 士官の命令は朕の命令と思えと自分が言うんです。上官は下のものにそれをいうべきではない。おれは陛下の勅命によって動くのだ。自分の意思によって動くのではない。自分はこのとおり陛下に従うんだから、おまえたちも同様に従え。陛下の方を向いて、おれに従って礼をせよとやるべきなんだ。

これで私はずっと押したんです。いちばん私を恐れたのは上のほうの人々です。兵隊は私は関係ない。兵隊にまで手を広げることは不可能です。そんなものはどうでもよい。問題は士官がどういう方向に向かうか、これを全部変えていきたい。それで上のほうの将軍連が私を恐れた。

その時分に、私のところへお歴々から手紙が来ています。大将、中将からの手紙がみんな平泉閣下です。陸軍大学校の講義にずっと行きましたが特別講義です。特別講義というのは校長、幹事をはじめとして教官全部が学生とともに聴く。学生というのは大尉、少佐です。教官は大佐あるいはそれ以上。幹事は必ず少将、校長は中将でそれが全部聴くんです。陸大からいつも車がきてそれに乗って行った。その車の運転手が途中で後を振り返って、陸大の特別講義にあなたのような若い者を乗せたことはないと云うんです、非常に憤慨に満ちていう。「そうだろうねえ、ほかの方はどんな方かしらんが」「いや、それは全部大将です、陸大の特別講義は大将に限るんです。陸軍大将もしくは海軍大将で中将までは下りません。 あんたのような若いのは乘せたことはない」「そうだろうね、わしがこれで陸軍にいたら中佐だろうか」と言った。年齢はその時に三十代の終わりです。ところがその運転手は、あんたが中佐になれるものかと言いおった。 (笑) だから、私は一生忘れない非常に名言だね。

私はそんなことは一切頓着ない、とにかくこれを本物にしようと思って行くんですからね。私は陸軍でも海軍でも同様ですけれども官職を抜きにして行く。私は何らの職権を持たない、講義をするだけなんです。だから待遇もまちまちなんです。つまり、私を尊敬してくれる人は閣下扱いするし、何でもない人は何でもない扱いをしてくれる。

一ぺん大しくじりでもやったのは、士官学校へ講演を頼まれた。それで私は行ったんです。これが松村大尉の時はお迎えがあり、一緒に乗って行ったからいいんですが、何も迎えがこない時があって、私は一人でタクシーを拾って乗って行った。士官学校は今の市ヶ谷のあそこですが、下のほうから上がって行ってこう曲がるでしよう。その曲がり角に衛門があったんです。その衛門まできたところ、そこで本来挨拶をすべきだったんです。

ところが大学でも浜尾御門を入るときにだれにも挨拶せずに入るでしよう。こっちはまた講演の内容しか考えておらん。つい、何の頓着もなしにそのままずっと上がって行ったところ、衛兵が鉄砲を持って出てきて、待てーっと云うんです。それを私は聞いたものだから、おい、運転手、車をとめろ、待てと言っているぞと言って車を止めた。そこへ銃をもってきて、将校かという。将校じゃないと言ったら衛兵が怒り出した。将校でもない者が車に乗ったまま素通りするとは何ごとだ、降りろと云う。仕様がない、私は降りたんです。降りるときに運転手に、おまえはもう帰ってくれ、あとはわしがやると言って金を与えて車を帰しておいて、それから衛兵と私との交渉になった。

衛兵が、こっちへ来いと云うので、仕様がないから門衛の処について行った。何しに来たのかというから、わしは校長から頼まれて講演に来たんだけれども、胸くそ悪くなったから帰る、校長にそう言ってくれ。そうしたら衛兵がびつくりして「あんたそんなことを最初言ってくださりゃいいのに」「最初いうも言わんもあるかい、止れというから止ったんだ。降りろというから降りたんだ。何しにきたか最初から聞いてくれればいうんだけれども、怒鳴られて気持が悪くなったから、わしは帰る」 「そんなことを言わんで行ってください」 「いや、胸くそが悪いから帰る」と言って、まるで子どもの喧嘩じゃ。何とも言えんおもしろいものでね。そんなことで陸大、陸士へは八、九人行ってましたが、何ともいえない盛んなものであったらしいんです。私は陸士のほうはだんだん手を抜いて、もっぱら陸大でした。陸士は卒業式に陛下が行幸になる。その直前の最後の講義が私の講義です。沖縄で戦死された牛島〔満〕(1887~1945)中将が校長の時などは昭和十七年、二千何百名の学生でしよう。細長いお盆の上に黒豆を並べたようなものです。それが微動もしないでいる、それに向かって私は二時間の講義をする。拡声器なしです。陸海軍とも拡声器を非常に嫌われた。心魂に徹するためには私の声を肉声で聴きたいというみんなの希望がある。

もう一つ変わった希望は、なるべく和服で来てもらいたい。羽織、袴で行く。これはみんなの希望で、方々の講演がみんなそうなんです。つまりひとつの偶像になっている。そのほうが道を説くにはみんなが非常に感動を覚えるんです。そのかわり、二千人に向かって肉声で二時間講義をしてごらんなさい。からだは綿のごとく疲れますよ。ところがえらいもので、聴いておる黒豆はそんな状態でありながらも、全部私の顔を覚える。そのあとはどこで会っても、パッとこうですよ。私のほうはむろんわからんが、向こうはみんな覚えているし、話もみんな覚えておる。二時間の話をみんな覚えるというのは容易ではないんですが、それもノートをとるわけではない、こうして聴いているんです。

たとえば海軍の軍医学校が十七、八年という時分にはみんな南方へ軍艦が行くでしょう。 その前に軍医をみんな集めて教練をされて、いよいよ出る時には私の講義なんです。それはやっぱり二時間の講義をするんです。いまみんな院長ですが覚えている。今年の六月に朝早く大勢来たから、何が来たんだろうと思ったら、舞鶴の機関学校でお世話になりました第何期生です、みんなで来ましたと言って三十七名ですわ。ここへ一杯入ってね。この連中はわりに早かった。昭和十三年の卒業でございます。その卒業のときに承った話を、いまもって忘れませんと言うんで、みんな挨拶をした。一人が、先生、私がひとっ先生の真似をしてみますとやるんですよ。いかにも私の講演にそっくりで。それは人が真剣な時はああいうものなんですね。本当に真剣になった時は何でも覚えられる。私の風貌というものが焼き付いたごとくになる。もっと驚いたのは、先年札幌へ行ったとき札幌の自衛隊の北方総監があります。そこへ行ったところ総監はちょうど留守だった。留守なら仕方がないから幕僚長にお会いしようかと幕僚長に会った。幕僚長は非常に喜んで先生、来られましたかと言う。これは陸大で教えを受けたんでしょうね。みんなを呼びますから、ちょっと待ってくださいと各部長を集めた。部長が三人か四人きましてね、それが懐しがって、先生と言って私の肩にさわるんですよ。非常にうれしかったですね。そのときにもっと下のもので大隊長級の人がおった。それがきて非常に喜んで、敬意を表して挨拶して、私は昭和二十年五月二十六日の、午後何時何分に新宿駅の階段をおりようとして、登って来られる先生にお目にかかりました。それが最後でいまだにお目にかかりませんでした。これを二十年たった後で言うんです。二十年間これを覚えていたというのは大変なことですね。そういう感銘があるんです。みんなほんとうに何ともいえぬ感動を覚えてくれ、私にもその感動を与えてくれた。そういう関係で陸軍はずっときた。

とにかく戦争が激しくなってから、東大は実質上講義ができない状態です。みんな実際どうなっておるか知らないが、研究室にはだれも出てこない。講義はむろん何もない。自宅おられる方もあるだろうが、疎開でどこかへ行っておられる方もあり、軽井沢へ行っておられる方もあるという状態です。しかし、絡戦の時まで研究室はずっと開けて、朝七時から私は行っておった。国史学研究室は朝七時からずっとおった。私がいなければ助手がいる。だれもこなくても私は仕事をしておった。私は陸大、海軍大学校海軍兵学校陸軍士官学校、 海軍機関学校、霞ヶ浦、それから各部隊から来てほしいでしょう。それを都合つけて全国回ったけれども、東大の正規の時間はひとつもはずしておらん。

東大の講義は火~木曜に集めて、この間は東大におる。講義はずっと続けた。そして講義のない時でも自分の可能な限りは、研究室に勤めておった。海軍でも陸軍でも研究室へきて、 私といろいろ交渉した。そういうことで終戦になった。

終戦になったものだから止むを得ない。即日辞表をしたためたが提出すべき所がない。誰もいない。そこで十五日も十六日もだめで、十七日に教授会が開かれた。そこへ出て行って私は黙って座っておった。みんないろいろなことを言われた。じっとみんなの顔を見、みんなの言うことを聞いたが言うべき事はない。

そこで教授会が散会した時に、学部長は社会学の戸田 〔貞三1887~1955〕さんですから戸田さんの部屋へ行って辞表を出した。そのときの戸田さんは非常にあたたかい立派な態度でした。わかりました、平泉さん、とにかく自由にしばらく休んでくださいと言われた。

私は辞表を出すと同時に、「勅任官は勅許を得ずして任地を去ることを得ず」という個条があるでしょう。こういう非常な事態ですから郷里へ帰りますから、これは特にお許しを願いたい。結構です、ゆっくりお休みください、静養しておいてくだされば、そのうちに私がお迎えにあがります。これはとにかく私がお預かりしておきますということで、戸田さんが処置してくださった。家はもう焼けてないんです。

同時に戸田さんにもう一つお願いがありますのは、こういう時ですから私の持ちものが研究室にありますけれども、持ち帰ることが不可能です、預かってくださいませんかと言ったら、ご心配なく、いつまでも置いてください、少しも差し支えありませんということで、この二つのお許しを願って暇乞いをした。

私の退官願いは何かに残っていますか。

〇十月に受理したという・・。

平泉 それはその時になって、このままおけば追放にかかると見て、戸田さんが処置してくれたんです。ものは十五日に出ておる。その文章はどういうものか知っている人があって、葉書に刷って年賀状でばらまいたんですよ。

                  

退官願 皇国空前の大厄難に遭遇して奉公の誠たらず、護国の力少なきを慚愧し、恐惶の至りに絶えず、慎んで本官を拝辞し奉りたき存念に御座候、何卒ご聴許給わり候様懇願奉り候 昭和二十年八月十五日 東京帝国大学教授 平泉澄 内閣総理大臣男爵 鈴木貫太郎閣下 

 

これは異例の願書で鈴木さんに宛てるべきものではないんです。それは、わしはほかのもので処置されるのはいやだから、宛名としては総理大臣に処置してもらいたいということで事実はどうなっても、宛名は総理大臣にしたんです。そして帰ったんですがね。

戦争が順調に進んでおった時はみんな親切であった。教官といい何といい私に親切で、たとえば真珠湾の大勝の時などは教授会に出ると、辰野 〔隆1888~1964〕さんなどは私の肩を叩いて、平泉さんおめでとうと、まるでわしがしたように言う。それは特別の関係があるんです。真珠湾霞ヶ浦航空隊の働きで、航空隊は昭和十年に行って講義をした。それが非常な感銘だったんです。後へ響くんですけどね。その霞ヶ浦から私へ頼むのに辰野さんを経由したんです。教頭が有名な大佐で、あとで中将になりますが、この人が辰野さんと同期生なんです。辰野さんを介して来てほしいということで、それで行ったんですよ。そういう関係もあって辰野さんは、おめでとうございましたと言ったんです。

それから戦争が悪くなってくると態度が、がらっと変わる。みんな、平泉は悪いことをしよるという風になったんです。一番おもしろいのは法学部長の田中耕太郎(1890~1974)氏。私のライバルみたいな人で、あれは尺貫法の問題で尺貫法を容認すべきか、それともメートル法に統一すべきかという問題の時に、 メートルをもって統一すべしというのが田中耕太郎。私は、日本人の頭脳はメートル法一つしか覚えられないような貧弱な頭脳ではない。 メートルもやればよい。 尺貫法も併せ用いてよい。そのほかャード・ポンドも用いてよい。そんなことによって日本人がどうにもならんような状態になるほど貧困な頭脳ではない。日本の伝統は日本の伝統で保存せよ。貿易の上で必要ならばヤード・ポンドを使えばよし、。メートルも使ってよいというのが私の議論です。その時の内閣の委員はお歴々を網羅した五十人で、そのときの局長が岸(信介1896~1987)さんです。

岸さんは私の家へ来て、 こういうことだから出てきてくださいという。「どういう委員の構成ですか」「メートルが二十五名、メートル反対が二十五名という構成です」「会を開く必要はないじゃないですか、五分五分では何も決まらんでしょう」 と言ってやったら、「そうじゃないんです、世間がうるさいからこうなっているんです」ということでした。そのほかに各省の次官が入り、政府の方も入る。 それで何とかかたをつけるつもりだと云うので、仕様がない入りましようと行ったんです。

そうすると大勢ですから、ずらっと委員が並ぶ。壇上には商工大臣町田忠治(1863~1946)、鮮かな議長ぶりでした。議長の挨拶があり、やがて、メートルを主張する人・。

〇 昭和十年度量衡制度調査会。

平泉 それそれ、十年ですか、若い時ですわ。私の四十の時です。商工大臣が総会の席上である人を指名した。その人が立ってメートル法を主張した。その次に私を指名された。私は堂々と尺貫法の存続を主張した。そうしたところが町田議長が「それでは総会はこれをもって打ち切りといたしまして、特別委員会に付託することにいたします」そうすると「反対ッ」と言ったのが田中耕太郎。「それではご意見もございましようから、多数によって決めることにいたしましよう。・これをもって総会打ち切りに賛成の方はご起立を願います」。みんな立ったんです。田中耕太郎は立たないんです。立たないのを見て、田中が立たないのならわしも立たなし、喧嘩ならこいというんで私も立たなかった。 この二人が立たない。 いよいよ議論になれば、とにかく田中と私しか対抗できるものはない。そこで特別委員会に付託されたでしよう。特別委員会はつまり田中と私の決戦になるんです 田中の味方をするのは山本五十六(1884~1943)と何人かありました。極力私を援助して同感であったのは建築の伊東忠太(1867~1954)先生。立派な先生ですね。伊東忠太先生は、日本の建築は尺貫で出来ておるんだ、これをつぶすとは何ごとだ。あの先生は偉いんですよ。学士院会員になったときに名簿があって署名するんですが、それは日本字を書いて横ヘローマ字を書く。ローマ字の時にはみんな名前を先に書いて苗字を後へ書く。ところが伊東先生は頑としてそれには応じられない。おれはイトウチュウタだ、チュウタ・イトウではないんだという事で、どうしてもチュウタ・イトウとは書かれなかった。これは先生から直接承ったんです。

もう一人、私に尺貫法を援護してくださったのは、平山清次(1874~1943)先生、天文学です。私はどんな場合でも天文学と気が合うんです。後では今度亡くなった京都産業大学の総長荒木俊馬(1897~1978)先生、これは私の兄弟分ですわ。あの人も戦争が負けたときにすぐに辞めたんです。荒木先生はここにすぐこられて、三、四日おられましたよ。非常に天文学と気が合う、不思議なものですね。

同じ建築でも伊東先生はそうだったけれども、何とかいうのは一生懸命尺貫法で騒いでいました。

田中耕太郎氏は、日本が戦争に勝ってくると神妙な顏をしておる。日本が負けてくると非常に愉央になってね。東大にもずいぶんそういうのはおったんですよ。ここまで負けることが好きなやつがいるのでは仕様がないと思っておったが、いよいよ負けてマッカーサ ―によって蹂躙されたあとで東大へ行って、負けることを喜んだ連中に会ったら何も言わない。 「あんた、楽しいですか」「いや、楽しくありません」。それでもう何もいうことはない。

田中耕太郎はそのあと文部大臣になり、最高裁の長官になったでしよう。私は何年も会わずにおったところが、あるとき鹿島の会で偶然彼と一緒になった。鹿島にご馳走の出る会があって、それに行ったところが彼が来ておった。わしは別に鹿島へ行く気はないんだけれども、うちの三男(平泉 渉1929~2015)が鹿島の娘(三枝子)をもらっているものだから、親類だから仕方ない、来てくれというので行ったんです。そして行った処が、田中耕太郎は一生懸命ピフテキを噛りついているんですよ。やあ、田中氏がいるなと思ってそばに行った。彼は食べるのに一生懸命で、わしがそばにおっても気がつかない。一生懸命かじっていた。しようがないから食べるのを待っていた。ムシャムシャ食べて顔をあげた処で、「田中さん、平泉です」・・それが何とも言えぬ顔をして、彼は一語も発しなかった。

大学で私を喜んでくれ、私が正門を入ると、ああ、先生が、見えたと言ってくれたのは門衛。正門に門衛の詰所があるでしよう。あそこに柔道の猛者が大ぜい集まっておった。その連中は非常にわしを好きでね。わしが門を入ると、あっ、来られた。出ると、あっ、帰られたって。どういうのか知りませんがね。何らわしはあそこへ寄ったこともなし、知らんはずなんですけど、懐しんでくれました。彼らが転任するときは挨拶にくる。不思議なもんですね。

おもしろいのは百貨店の娘が転任するとき挨拶にくる。どういうんでしようね。銀座の松屋の女の子が、先生、今度私は売場がかわるからと。

〇 その寒林年譜というのはどういうものですか。

平泉 これはわしの年譜だけれども、門下生にあらざる者には示さん。私の門下生というのは全然意味が違うんですよ。死生これを共にするというところまで来ておる。それは陸軍でも海軍でもみんなそうです。普通のちょっと教わったという関係ではないんです。 (夫人出席)

家内は方々から恨まれていることがあるんです。それは私が当時はやりっ児ですから、十数年の間というのはちょっと私の時代がありますわいな。講演を頼みにくる、断わるのは家内なんです。

―あのとき奧さんに門前払いくったんだって、いまごろ叱られますよ。

平泉 とにかく私の体は一つですから、相手を選ばなくてはならない。東大は決まったもので、そのほかはよほど選ばないと体がもちはしませんわ。本当に大変ですよ。東大で火水木と講演をして、木曜日の夜汽車に乗る。あの時分の汽車はのろいですから、金曜の午後広島へ着いて、それから汽車を乘り換えて呉へ行って船に乗って江田島へ夕方着く。ひと風呂浴びてご飯を食べて夜講義をする。土曜の夜また講義をして、日曜の午前中講義をして、昼ご飯を向こうで食べて、すぐ船に乗る。それで東京駅に着くのが月曜日の朝で、家へ帰ってご飯を食べるとすぐそのままタクシーを飛ばして陸軍大学へ行かなければならない。陸軍大学は十時からなんです。それはとても大変なことです。

―その時分お灸を二百ぐらいすえたんですよ。背中じゅうお灸でカチカチ山の何かみたいになってるの。弱かったですから、しょっちゅう風邪もひきますし、あの時分皆さんがすすめてくださって、日本でいちばん偉いお灸の先生にね。

〇 それは一般に健康の為ということですか。

平泉 そうなんです。

―今でもよう風邪をひかれます、それに太ったことがないですからね。                

平泉 私の家は曙町のずっと奥へ入った所で、 細い道がずっとあってその奥に私の家だけがあった。ある時、門の前を掃除をしておったら、地方の教育会の幹事が私のところへ講演を頼みに来たとみえて、私を捜しているんです。「平泉先生のお宅はこの奥でしようか」 「そうです」「先生はおいででしょうか」「いや、いまお留守です」。(笑) しようがない。

―皆さんはもっと年寄りだと思っていたんでしよう。 あの時分は四十過ぎぐらいですかね。

平泉 一番おもしろいのは、陸軍大学校へ行っておる時分に校長が替わったんですが、替わった校長をまだ知らんから挨拶しようと副官に申し込んだんです。校長がお替わりになったそうで、ご挨拶申し上げたいと思いますが、取り次いでくださいと名刺を渡した。副官は校長室へ行って取り次いで来て、どうぞと言って、それだけで副官はどこかへ行ってしまった。私は行けばいつも校長応接室を私の控え室にしていて、陸大へ行ってもほかの教官と一切顔を合わせない。全然別格なんです。       

  その校長応接室におって、校長の部屋へ行った処が、 校長はドアを開けてドアの所に立っておられる。 手には私の名刺を持っておられる、副官が届けたからね。それで私がそばへ行ったところ、校長は私の言葉を聞かないうちに、ちょっとお待ちくださいと言う。しようがないから私は横へよけて待っていた。ところが校長は外へ出て廊下をあっちこっち見ても誰もいない。 それで私を見て、「あなたは平泉博士ですか」「そうです」「ほう、お幾つですか」。 (笑)私はその時分に四十三、四でしようかね。それで言いました。ほう、私はまた平泉博士というのは 八十幾つの白い髯がフワッとしておる方かと思いました。いや、まだそこまでいきません。

それから石原広一郎(1890~1970)さんなんかもびつくりしていました。この人はシンガポールの攻略に関係したんです。シンガポールの要塞の状態を探るのはこの連中です。苦力になってみんな入っているんですが、この人が私を見て驚いたと言っていましたが、年が若いので見当もつかなかったんでしょう。今よりもまだ痩せていたんです。それから終戦後ここへ帰って来て。紋(新か)三郎が来たのは何年だろう。

―八月に帰って、あれは翌年です。あなたの誕生日。

平泉 雪が降ってね。大雪だったんですよ。勝山まで出られない。その雪の中、みんなで雪おろしをしている処を女が一人で来たんです。それが東大の歯科の金森〔虚男〕教授の紹介を持って来たんです。お願いの筋があって加藤ふさえが行くからよろしく頼むという電報がきた。そして彼女がきた。これは年が二十五ぐらいで新橋の芸者です。何しにきたんだろうと思っていたところ、日本の国は戦い破れた後には、精神的にも打ちのめされて、このままでは日本の国は成り立っていかない。何とかして日本が精神的に立ち上がるようにしなくてはならない。それはどういう方策を立ててどういう方向に向けるべきであるか。これをひとつご指導願いたい。

これは堂々たる男子が考えるべきことだ。男子はそれを考えないで自分の衣食に汲々としておるときに、一芸者がこれを考えてきたんですよ。驚いてね、とにかくお上がりとあがってもらった。雪が深いので一切出られないんです。一週間ほどいたね。

―はい、ちょうど一週間です。

平泉 とにかくそれは口先だけで言っていたのではだめで、学問をしなくてはならない。それからわしの書物、「武士道復活」を読め、「伝統」を読めで、これはすばらしい、小学校三年までしか行かない人が全部読んで完全に理解して、さらに進んで吾妻鏡までやった。驚いたね、吾妻鑑の演習といえば私のは東大で有名な演習でね。その当時、あちらこちらの大学で吾妻鑑の演習があったが、わしのような演習のやれるものは誰もない。非常に楽しいんですわ。みんなもギュウギュウいじめられたんですが、水際立ったものだった。それをその.ふさえさんにもやってみた。みんな覚え、完全にこれを読破していく。

―小さい人なんですよ、細いきれいな人で、雪の精みたいな白い顔で。

平泉 踊りが上手な何ともいえぬ、空中を舞うんです。足が地についていないで空中を舞っているような、何ともいえぬ楽しい・・。

―楽しそうに舞う人でした。

平泉 この人のことは私は今でも忘れないですね。これだけの人が芸者におる。これは不幸なことで、あといろいろやってたんですが、結局、堂々たる男がで出来い事を芸者の一人が考えた処でどうにもなるものではない。結局何もならないで、とうとう一家自殺して果てたんです。

―十二月二十七日なんですよ。だれも弔う人がないから、私はその日だけは覚えているんです。

平泉 うちで弔ったんですわ。

―思い切った人で、 あれは一種の人間と何かの間ぐらいの人ですよ。雪なんかを落すのに、 フワーッと上まで飛んで、上の雪をたたき落としてくれるんです。だから義経が八艘跳びをしたというのも不可能ではないと思いましたよ、 その人を見てて。あんな人はないですね。

こっちへこられて寒かったでしよう。

〇 覚悟してまいりましたけれども、それほどでは。

―この辺としてはこれは変なほど暖かいんですよ。いつも雪になるんじゃないかと恐怖してるんですけどね。 私はあまり雪のほうを知らなかったものですから、最初は喜んでいたんですよ、雪できれいだって。そのうちおそろしくなってきました。

〇奥さんはお国はどちらですか。

―私は大阪の町の子ですから、主人にいつでも町人はと叱られています。

平泉 これは刀箪笥ですよ、二つある、これは異例ですね。一つでいいんだけれども二つ重なってある。

〇  上の潜水艦は何か。

平泉 あれは特殊潜航艇。これのもう一つ先が回天。その回天は私の最愛の門下、黒木 〔博司1921~1944〕少佐。

―あの方なんかあなたに会わせてあげたい人ですわ。そのときにうちに小さいお手伝いの子がいたんですが、その人が忘れられん顔だと言っていました。 高貴な感じで死を覚悟している人の顔なんですね。

平泉 この人の日記は「少年日本史」にも書いておきましたけれども、一年間血で書かれたんです。こんなものは国史二千何百年の中にないですよ。 驚いたものですね。 そしてついに回天でアメリカの戦艦、空母を破砕しようとした。

海軍の主流は私と反対なんです。山本五十六(1884~1943)、米内光政(1880~1948)。

〇 岡田(啓介1868~1952)さんはどうなんですか。 

平泉 初めは私のおじのような人ですけれども、これは反対。 戦争は無理だから手を上げろというんです。非常にしゃくに障るのは、戦争が負けた後、 アメリカの裁判を受けるでしょう。そのときの検事が〔ジョセフ〕キーナン(1888~1954)です。そのキーナンが岡田大将と米内さん、宇垣〔一成〕(1868~1956)大将、若槻礼次郎(1866~1949)を招待するんですよ。 どこか熱海のほうでね。彼らは得意になってその招待に応ずる。その記録があるんですが非常な喜びで、我々に対してかくも懇切な待遇を給わることは感謝に耐えないという。それは副官が迎えに行ってみんなそれぞれついて来てお迎えして、至れり尽くせりの招待だったし、ご馳走してもらった。こんな美酒佳肴に我々は触れたこともないと言って、みんな酒を飲み、帰りはまた自動車で、それぞれ副官が付いてお宅まで届けた。

それが私は憤慨に耐えないのは、その時に一方では東条〔英機1884~1948〕、板垣〔征四郎〕(1885~1948)の死刑が行われていたんですよ。自分の同僚が殺されるときに、招待を受けて酒を飲み、喜びを極めるということは、人間のすべきことではない。これは罵詈讒謗してやりたいと雑誌に書いたんです。それは何とも言えないものですね。岡田さんには良い所もあった。しかし、根本は間違っておる。米内さんもそうだと思う。情ないですよ。

〇 末次〔信正1880~1944〕さんはどうですか。

平泉 末次さんは終始いじめられ通しですわいのう。

〇 石川信吾(1894~1964)。

平泉 これもあとは気の毒な死に方ですわ。

〇さっきの先生のお話で、軍の上層部つまり将軍連は先生のおやりになっているような事はあまり好まないと言うお話しでしたが、将官の中にも支持者はおられたわけでしょう。

平泉 実戦しておると、わしの所へ来るより他はないわけです。米内さんなどは戦争に一ペんも出たことがないし、岡田さんも宇垣さんも実戦には出たことがない。実戦をやってみると彼らが地図で考えているようなものではない。下の人はみんな私によって動くというくらいの勢いなんです。それが海軍としては非常な不幸でしたね。陸軍は上層部もみな私を信頼してくださり、言っては悪いけれども東条さんでも小畑 〔敏四郎1885~1947〕 さんでもそうですが、あとでいえば陸軍大臣阿南〔惟幾1887~1945〕大将、これは入門願書を出されたんですよ、私に対して。それから下村〔定1887~1968〕大将が最後ですがね。手紙には最末の門人、下村定と書いてありますよ。全然態度が違うんです。 それで下村大将はここまでこられたんですよ。知れればふたりとも絞首刑です。マッカーサーがきた直後ですからね。それを忍んでこられて相談があったんです。そのときに困ってね、 これをいかに指導するかというのが問題ですわ。そこで汽車を福井で降りられてからここまで電車に乗ることは禁物なんです、危ない。そこで汽車を降りられたらすぐ、自動車にお乗せしてここまで黙って連れてきたいが、自動車が私にはないし、その時分は今のように自動車がどこにもあるわけではない。極めてまれなことです。

そこで、知事が小幡〔治和1905~1998〕さんでこれは昔の門下。それで小幡さんのところへ行って、大事なお客があるので済まんが自動車を貸してもらえませんかと言ったら、結構です、お使いください。念の為にそれからもし平泉寺までくる余裕がないので、福井で会合するという事になれば、しかるべき所を借りなくてはならない。こっちは金が一文もない。それで料亭で周囲に邪魔の入らないような広い所を借りなくてはならないが、そんなことは私に出来ない。そこで福井銀行へ行って副頭取に会った。この副頭取がわしの知己ですわい。

話を前に戻しますが、世界は大動乱に陥り日本は大国難に遭遇するということを私は看破して、欧州滞在を切りあげて帰る、前から日本は大変なことだと思っていたが、いよいよそれが切羽詰まってきて帰るでしよう。同じ時にヨーロッパにおって、これは大変だということに気がついて、そこで対策を講じなくてはならないと考えたものが、私のほかに二人ある。これが世にも不思議なことに、全部大正七年の東大卒業生です。大正七年というのは東大の〔聴取不能〕でちょうど〔聴取不能

そのときに出た一人は仁科芳雄(1890~1951)。これが理工科の銀時計です。欧米へ行って、原爆をもって国を守る以外にはないということを考える。もう一人は石井四郎(1892~1959)陸軍中将。これは石井部隊ですが私と四高で同期生ですが、厳密に云うと、この人は医学部だから大正八年東大の卒業だと思うんですが、仁科さんもわも大七年には東大におったんです。

この三人は連絡はないんです。私は仁科さんは知らん。石井さんは知っておったが、石井が偉い男だということは知らなかった。ある時、陸軍軍医学校で講演を頼まれて、行ってました。石井さんがおって挨拶をした、おう、石井さんといったんですよ。そうしたら別の陸軍少将が私のそばへきて、この人は石井さんと気軽に呼べるような人ではないんですと注意してくれた。戦争が一つあれば必ず一つの発明があり、勲章が一つ増える、それが石井閣下ですよ。ああ、そういう偉い人ですかと初めて石井というのは偉いものだと思った。

そのうちに石井さんの本当のことを全部私は知ってね。これは大変なことだと思った。化学兵器をもって国を守るんです。陸軍の最後の手段はこれだった。非常に厳重にこれは秘匿されておった。しかし、いよいよ戦局が急迫したとき、私は石井さんを訪ねた。陸軍大臣には会えても石井さんには会えないというくらい全部守られておる。それを石井さんに連絡したら、おいでなさい、話しておくということで会いに行きましたわい。全く隔離されたところで、厳重な警戒のうちにおる。会って石井さんが言うには、あなたはみんな知っておるんだから隠すことはしない、みんな話しする。おれのところで考えておることはこれだけだというんで、全部の計画、準備、設備、 みんな話をしてくれた。石井さん、いざというときは頼むぜというので、非常にこれは自分には頼みになった。

もう一つの原爆のほうも頼みにしたんですが、これは貴族院でたびたび長岡半太郎(1865~1950)氏がしゃべった。あれが余計な事をしゃべった。やるのなら黙ってやればいい、出来もしないものをしゃべると言うのは余計な事なんです。余計な事を言われたなと思いますが、これは結局できすに終わった。

その時に仁科さんの下におった人が二人ばかり、この春、テレビに出たんですが、その話を聞いて私は非常に憤慨したんです。我々は仁科博士の下で原爆の研究に従事したけれども、それは原爆を作って実戦に用いようという意図ではなかった。自分らがこの事に関係しておったのは、いかにして陸軍の微兵を免れかるかということを考えて、その為にここに入っておったのだ。研究するものは理論を研究したのであって、実際には関係しておらんと繰り返し言ったんです。それはどこまで本当なのか、今の時世に媚びて言ったのかわしはわからん。しかし、 事実は何も出来なかったんです。当時、もう一週間早ければ出来たというが、事実はそんなものではありません。五十年も遅れていたんですと言いました。いまさら何を一言うかと思いましたがね。本当に自分の命を捨てる気のない者は、こういう事になるんです。石井さんの方は用意しておったが、これは陛下のお許しがないので、とうとう行われない。そこで何とかして普通の兵器で戦って、いわゆる逆転を私はやりたい。私はプロレスが好きでね。 猪木がさんざん負けて、これはあかんかと思うと、彼は逆転する。それは何とも言えぬ楽しみですわ。それはどんなに負けても最後の一戦で勝てば、終わり善ければ万事よしなんです。 それで回天でも何でも一生懸命やった。

気に入らん人は大勢おったけれども、米内のいちばん信頼したのは井上〔成美1889~1975〕大将で、これがあと海軍次官で、それまでは兵学校長をしておった。わしが情けなく思ったのは・・ (録音に人っているのか、どうしたもんかいな。外へいうことはおやめなさい) 私が兵学校へ行ったんです。食事は校長と教頭と私の三人ですることにいつもなっておる。 その時間になったので部屋に行った。 そうしたらカーテンの陰で校長と教頭と話をしておって、校長が教頭をたしなめておる。 こっちは耳があるから聞く気はないけれども聞こえる。 仕方がないから聞いた。おれは勲一等だ、帳面を見ろ、歴代の校長の中に勲一等の校長は一人もおらない。しかるにおれは勲一等だ。してみればおれに対する待遇は従来の校長とは違うべきはずだ、おまえはそれを心得ろという訓論をしておる。

私どもは未だ曾て勲章をもらおうと思って働いたことは一ペんもないのに、何ということだろうと思った。しかし、私が非常に感謝することは、黒木さんの日記などは海軍次官の責任保管ですが、終戦海軍省がいよいよなくなる時に、全部私に渡してくれた。これは非常にありがたく思っています。焼き捨てもせず、変な処へ処置しないで、私の所へ送り届けてくれた。これは井上大将のほとんど唯一の功績です。 (終)

(校訂 照沼康孝) 

 

これはpdf資料をワード化した際に分かる限りに於いて

人名下に生没年を附した事を記す。

 

小拙、岐阜での遊学時代に稲川誠一(1926~1985)先生の膝下に触れ、その機縁にて昭和53年楠公祭、白山神社内講堂にて平泉澄先生の謦咳に接した者である。

 

2022年7月吉日(タイにて)二谷