正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

神道伝承者としての明恵上人 平泉澄

神道伝承者としての明恵上人

平泉澄

 

 神道と仏教との関係を考察するに、それは宗派により、人により、時代によって、種々の相違があって、一概に之を論ずる事が出来ない。即ち仏教の中に、神道に反対し、之を排除しようとする者もあれば、神道を認めて、之と提携しようとする者もある。而して其の後者の中にも、真に神道を理解するわけでは無く、只便宜の為の提携であって、従って其の提携が、実は自他共に有害であるものもあれば、真に神道を理解し、形は僧徒であり、口に経論を唱えても、奥義に於いては神道の伝承者として考えられる人もある。明治初年の神仏分離は、行き過ぎの為に、幾多の過誤を伴ったにせよ、便宜の提携利用が、実は仏教による神道の汚染、遂にその本質を誤まらしめるのを恐れての、神道の自主独立の運動であって、いはゆる「もと是れ神州清潔の民」、その本来の面目に復帰しようとしたものである。之に反して、真に神道を理解し、神道の解説者おして考えられる人が、僧徒の中にもあり、ひとり解説者という程度に止まらずして、むしろ神道の伝承者、又はその発揮者と云うべき人が、やはり仏者の中にもある。彼の明恵上人の如きは、その最も高遠深厚なるものであろう。

 いふまでも無く明恵房高弁は、華厳宗中興の大器として、世にうたはれてゐる。『元亨釈書』にも、此の人を賛して、中世以来、賢首の宗(華厳の教え、賢首は菩薩の名号)振は、ず、高弁、純誠の質を以て、鑚仰(学徳を仰ぎ慕う)の志を立て、遂によく華厳の海に倒瀾

(くづれてくる大波)をかへし、普賢の教に失地を回復した、として、中興の才器と評してゐるのである。それは正にその通りであろうが、私は此の人の一生をしらべて、その基底に神道の存し、その行動、神道によらずしては理解出来ないものの儼存するのを見るのである。それに就いて、先づ説くべきは、紀州の苅藻島へ宛てて書かれた上人の書状である。

 苅藻島は、『明恵上人行状記』、『同漢文行状記』、及び『明恵上人伝記』など、いづれも苅磨島としてゐるが、読んではカルモと云ったらしく、『紀伊風土記』は苅藻の文字をつかってゐるので、読みやすく、分りやすきに就いて、今は苅藻島とする。紀伊国有田郡湯浅湾内の小島である。

 上人は紀州に生れ、有田川の流域にその一族蔓延してゐた為に、京の高雄や栂御(とがのお)の外に、紀州にその遺跡が数多く存してゐる。それらの遺跡が、七八百年の長い歳月を経過したに(も)拘らず、今以てその位置を確認し得るのは、忠実なる門弟、義林房喜海の深き配慮による。即ち彼は、一方に『行状記』を著して上人の伝記を明かにすると共に、別に遺跡を調査して、一々その標柱を立てた。標柱を立てられたのは、嘉禎二年(1236)の事であって、明恵上人の没後に過ぎず、且つまた喜海は、はやくより上人に随従してゐた人であるから、その標柱は最も信用に価するであらう。但しそれは、初め木柱であった為に、年月を経て次第に朽損して行った。そこで百八年の後、康永三年(1344)、即ち興国五年に、改めて石を以て之を造り、表に喜海の原文を刻み、裏に改造の由来を記した。それが有田川の流域に散在して現存してゐるのは、正に壮観と云ってよい。

 たとえば、金屋町歓喜寺には、畑の中に周廻十二間ばかりの芝地があって、梅の樹が茂ってゐるが、そこには、承安三年(1173)正月八日辰の時に上人が誕生した所であると記した石の率都姿(そとば)が建てられてゐる。また同じく金屋町筏立(いかだち)には、大きな楊梅のかげに、石の率都姿があって、建久(1190~1199・注)の末年、上人が「華厳唯心観行式」ならびに「随意別願文」をつくったのは、此処であると標示してゐる。金屋町糸野には、山の中腹に浄土宗成道寺があって、正平二十一年(1366)丙午の銘のある古鐘を本堂の前から発掘して、今に伝へてゐるが、その後方の谷へ廻ると、そこにも石の標柱があって、建仁二年(1202)上覚上人に就いて入壇灌頂を受けたのは、此処と知らせてゐる。吉備町田殿(たどの)の内崎山(うちさきやま)は、上人の庵室のあった処で、ここで『大疏演義抄』一部の披講が行はれたので、やはり石の率都姿が立てられてあったさうであるが、いつの頃か失はれて、今あるものは、新しい。その外、有田市の星尾(ほしのお)や、吉備町船坂の神谷にも、上人ゆかりの地として標石が立ってゐるさうであるが、私はそれをたづねる事は出来なかった。

 星尾と神谷とを見てゐないので、確言するわけにはゆかぬが、私に巡歴したかぎりに於いては、土地の状況ほとんど八百年前と変らず、いかにも清浄にして崇高の気に充ち、上人の遺徳のしのばれるのは、白上の峰、東西二つの遺跡である。

 白上の峰は、有田郡湯浅町栖原(すはら)に在る。山をのぼりきった所で、峰は左右に分れ、かりに云へば馬蹄形になって、中央に谷をいだいてゐる。その左が西白上であり、右が東白上である。西白上は、直ちに海を見おろし、眺望絶佳、見て飽く事うぃ知らぬ。ここに巨巌数個、あだかも鬼神の築造した巌窟のやうに重なりあってゐる。その巌のすぐ下に、例の標石の率都姿が立てられ、ここは建久の頃、本山高雄をのがれ来って草庵を構へたところであると記されてゐる。景色はいかにも美しいが、漁師共の騒ぎが気に入らぬといふので、やがて上人は東白上に移った。同じ山つづきではあるが、海とは縁が遠くなって、深い谷に臨み、谷をへだてて連山に対してゐる。静寂天地を領し、心を煩はす何物もあるまいと思はれる。石の率都姿には、建久の頃、蟄居修練の間、文殊の姿を空中に見たところであると記されてゐる。

 行状記や伝記に、白上の草庵の状況を記してゐるのは、主として西白上を指してゐるので、東白上には合はない。「前は西海に向へり、遥に海上に向て阿波の島を望めば、雲はれ浪しづかなりと雖、眼なをきはまりがたし」とあるによって知られる。但し此の西白上から眺めても、また山の麓に、森九郎影基が建立し、歓喜三年(1231)上人を招いて供養した施無畏寺から眺めても、美しく見えるのは、苅藻の島であり、その苅藻の先きに遠く見えるのは、鷹島である。此の二つの島は、二つながら上人の遊止した所、もしくは練行した所であり、上人の心に深く刻み込まれて忘れる事の出来ない島であったに拘はず、喜海の表彰にも漏れ、今日も一般には顧みられてゐない。

 鷹島は、今は広川町の共有に属する。『紀伊風土記』によれば、海上二十五町の距離にあって、周囲二十八町ばかり、小松が生えてゐるとある。その浜に小さな石が美しく並んでゐる。上人はそれを持ち帰って机上に置き、やがてそれに、

  われ去りて 後に愛する 人無くば

     飛びてかへれぬ 鷹島の石

と書きつけたといふ。

 しかしそれ以上に重要なるは、苅藻島である。『紀伊風土記』によれば、この島、陸を離るる事二十二町、立苅藻、横苅藻の二つの島が並んでゐる、立苅藻は高さ三十六間、周囲九町余、横苅藻は高さ十八町、廻り四町、共に明恵加持の地であるといふ。しかし実地に就いて見るに、立苅藻と呼ばれる南の島は、人のよじのぼるに適しない。上人が修行をし、祈誓し、且つ思慕してやまなかったのは、蓋し横苅藻、即ち北方の島であらう。『行状記』にいふ、

  上人ソノカミ紀州苅藻ト云フ島ニ渡ル事アリキ、月ト共ニ船ヲで(シ)テ風ニ任(セ)

  テ島ニワタル、団々タル月、光ヲナガシテ磯ノ浪ヲトシ、颯々タル嵐、声冷(すず)(シ

ク)シテ峰ノ梢ニヲ(オの誤)トヅル、情少キ漁者、空(シ)ク見テメヅラシクセズ、

心浅キ釣人、徒ニ過(ギ)テ翫バズ、彼(ノ)徳雲比丘、大海ヲ観ジテ普賢契経ヲ得シ

ガ如キハ、智ニ依(リ)テ心ヲ発セバ、娑婆ニ即シテ忽ニ浄刹ヲミル、随教信順スレバ、

凡身ニ速ニ妙恵ヲ開ク、然者今島モ法門ニ入(リ)テ実相門の道理ヲ思(フ)ニ、顕密

ノ聖教ニ向ヘルガ如シ、更ニ此外ニ何聖教ヲカ求メム、海浪、月ヲヒタシテ、光ヲシヅ

カニセズ、随縁起妄ノ徳ニ類シツベシ、円月、形動ズレドモ、影アラタマラズ、不変性

浄ノ体ニ異(ナ)ラズ、生死海ノ上ニ、仏恵ノ島高(ク)出(デ)タリ、自覚性(版本

聖カトアリ)智ノ宝山ヲ見ルガ如シ、涅槃岸ノフモトニ、無明(ノ)浪アラク立(ツ)、

真海識浪ノ海浜ニ望(ム)ニ似タリ、是則深ク入レバ託事門ノ玄理、又是(レ)事理融

ノ極説也、而(レ)バ知恵ト云(フ)ハ、万鏡ニ対スルニ悉ク得ル所ナリ、シカラザル

ハ只是(レ)凡爾ノ執識ナリ、若(シ)事識ノ分別ヲ亡シテ、普賢円智ヲ似テ、事ニ随

(ヒ)テ縁修シ、境ニ触(レ)テ善順スレバ、挙足下足、文殊ノ心ヲ尽(ク)シ、見聞

覚知、普賢ノ行ヲ極ム、文殊ノ心ナルガ故ニ、其心清浄ニシテ濁乱ナシ、普賢ノ行ナル

ガ故ニ、諸仏菩薩ノ所行ヲ同(ジ)クス、此理ヲヲシフルヲ聖教ト云フ、此智起ルヲ仏

智ト云フナリ、華厳ノ道英法師ハ、聴講ノ暇ノ隙ニ。常ニ僧役ニ供ス、目ヲ閉(ヂ)テ

坐禅スレバ、所詣アルガ如シ、事事務ニ於テ遊観シテ、心ヲシテ空有ニ滞ナカラシム

云々、又海東ノ暁公ハ、亡人ノ廟ニ宿シテ、甚深唯識ノ道理ニ悟入シキ、是等皆初(メ)

テ驚(ク)ベキニ非ズ、然レバ上人、島ニ臨(ン)デ、只法界法門ノ悟ヲ開キ、唯心

無性ノ智ヲミガクノミニ非ズ、又世間遊宴ノ友トシテ、心ヲ遊(バ)シムル情ヲ催ス、

凡夫ノナラヒ、島トテモノサマアシキ大島ノ、常ニ海中ヲスミカトシテ、漁捕ノツリス

ル泊トナリ、海人ノ藻カル島トサタメラレタレドモ、悟ノ前ニハ則(チ)依正無碍ノ観

智ヲ開キ、十身相即ノ成覚ヲ唱フ、

流石に多年上人に随従した人だけあって、喜海はよく上人の心持を理解し、それを解説してゐるが、しかし喜海の解説には、人の胸を打つだけの迫力が感ぜられない。人を驚倒せしめ、人に深き反省を要求し、人を幽玄なる瞑想に導くものは、やはり上人自身の書いた苅藻島宛ての書状である。

 島に宛てられた書状は、之を届けるように命ぜられた使者が、「此の御文をば誰に付け候べき」と反問したのに対し、上人は「只其の苅藻島の中にて、栂尾の明恵房の許よりの文にて候と、高らかに喚ばはりて、打捨てて帰り給へ」と、指示した、とは、『伝記』のいふ所である。それによれば、書状は島へ届けられた筈である。

 しかるに『行状記』によれば、

  是ニ依(リ)テ上人、世間ノ書礼ニナゾラヘテ、島ノ許へツカハス消息トテ書(カ)レ

タル事有(リ)キ、彼状ハ破却セラレニキ、然而其中ニ、法門ニ寄シテ理ヲノベラレタル所、少々覚悟スルニ随(ツ)テ、一両ヲ出(シ)テ、其智ノ深ク入ルトコロヲ注シ顕サムト思(フ)、

とあって、書状は一応書かれたが、島まで届けるに及ばずして破棄せられたかのやうに見える。

 『行状記』が喜海の手に成ったものである事は、それを漢文に訳述せしめた同門高信の、建長七年(1255)七月八日の奥書によって、確実疑を容れない。しかるに『伝記』の奥にも、

  予多年随逐の間、あらあら九牛の一毛を注す、定めて謬りあらん、外見に備ふべからず、喜海

とあって、是れ亦同じく喜海の著述であるかのように見える。従って両書の間に矛盾が無ければ、一人両書を著はしたものであって、只時に前後の差別があるものと考えられるが、実は両書の間には矛盾が存するのである。右に述べた島への書状の中に、桜の大木を想出して

恋しきままに、消息を送りたいと思ひながら、世間のおもはくを恥ぢて果たさなかったといふ一条がある。その桜の木を、『行状記』は、高雄の中門の脇に桜の木が沢山ある中に、月明の夜、常に語らひ遊んだ一本の桜として居り、之に反して『伝記』では、苅藻島にある桜の大木であるとして居る。苅藻島に実情から見て、ここに桜の大木があったとは考へられず、高雄の桜とするのが妥当であると思はれるが、かやうに両書の記事が矛盾してゐる以上、それが同一人の手に成ったものとは考へられない。『伝記』には、前記の外にも、たとへば西行の物語を記して、

  喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を註す、

と特に註記してあって、いかにも喜海の筆の如く見えるが、『行状記』が若し真に喜海の作であるならば、『行状記』と矛盾する『伝記』は、別人の手に成って、而して何等かの事情によって、喜海に仮託したものとしなければならぬ。

 かやうに云へば、古雅樸直なる『行状記』は、いよいよ其の信用を増し、文辞修飾に過ぎたる感じある『伝記』は、ますます其の価値を減ずるやうに思はれるであらうが、必ずしも一概にさう断定するわけには行かぬ。第一に、『行状記』は、もと三巻あったものが、不幸にして其の中巻を失ひ、今は只上下の二巻を伝ふるのみである。上巻は建久九年(1198)に終り、下巻は建暦二年(1212)に始まってゐるので、その中間、即ち建仁元久より建永・承元へかけての記事は欠けてゐる。之に反して『伝記』の方は、全部完備してゐるのであるから、その点、『伝記』の長所としてよいであらう。第二に、『行状記』は、作者喜海の希望により、仁和寺の隆澄僧都に委嘱して、漢文に訳せしめた。その漢文の『行状記』は、上中下三巻、完備してゐるので、以て失はれたる中巻の内容を察する事が出来るが、しかし中巻下巻の内容を、『伝記』の之に当る部分と対比するに、『伝記』にのみ存して、『行状記』には見られないものが、随分多い。ひとり多いといふのみでなく、頗る重要なる記事が、『伝記』のみによって伝へられてゐる。第三に、『行状記』の記事の中にも、恐らく誤であらうと思はれるものがある。即ち『漢文行状記』中巻に、苅藻島の記事があって、島は南北の二つ並び、北島は東西に長く南北に短い、南の島は南北に長く、東西に短い、上人は道忠僧都及び喜海と三人、相共に此の島に渡り、南苅藻島の南端、西面の洞に、わづかに数枚の板をさしかけて草庵に擬し、西に向って釈迦像をかけ、その前で読経念誦する事、五年箇日に及んだとあるが、此の記事は、島の実状にかなはぬ。南北長く東西に短いのは、実は北島であり、西面の洞穴の存するのも、実は北島に外ならぬ。従って右の記事は、『行状記』の原本にあったとすれば、作者喜海の記憶ちがひであり、しからざれば漢文に訳した際に誤ったものとしなければならぬであらう。

 かやうに見てくると、『伝記』を喜海の作とは認めがたいが、それはやはり貴重な史料とすべきであり、『行状記』は喜海の作ではあるが、それにも誤が無いわけではなく、両書とも、その記事は、吟味を加えつつ、取捨して行くべきであろう。

 そこで苅藻の島へ宛てられた消息の話に戻るが、『行状記』のように、書状を書いて見ただけで、やがて破棄したとしては、事いかにも軽い。妙恵上人は、釈迦にも手紙を書き、羅漢にも手紙を出した人である。釈迦へ宛てた書状に、

  あからさまに罷出候て後、なに事か候らん、あまりにこひしくこそおもひまいらせ候へ、成弁が罷還候はん間は、性憲に物をも請てめすべき候、(中略)早々に罷還候て、見参

  すべく候、普賢菩薩にも、同心に仰られ候べく候也、あまりにこひしくこそ思まいらせ候へ、

と書いてある。上人にとっては、釈迦も羅漢も、現に生きて居り、毎日その前に供へられる

物を食べてゐるのである。仏に宛てた書状は、当然仏前に供へられたであろう。同様に島に

宛てた書状は、島へ届けられねばならぬ。島へ届けしめたとする『伝記』の記事は、届けず

に破棄したかの印象を与へる『行状記』よりは、正確に事実を伝へたものと、しなければな

らぬ。殊に使者が反問して、島の誰に渡したらよいか、と云ったのに対し、只島へ向って、

明恵房からの書状だと名乗りをあげて、書状を島へ投げ込んで来い、と答へたとする『伝記』

の記事は、生彩のある伝説として、貴い。

 書状の内容は、『行状記』が詳細であって、且つ桜の木を高雄に在ったものとしてゐる点、

正しいと考へられる。私(平泉澄・注)は当然『伝記』を棄てて、『行状記』を採らねばな

らぬ。但し書状の首尾に存する挨拶の常套語は、『伝記』にはあるが、『行状記』には無い。

これはあるのが正しく、釈迦への書状にも存するので、『伝記』によって、『行状記』を補ふ

事とする。かやうにして、島への書状を整理して見ると、大体次のようなものになる。

  其の後、何条の御事候や。罷り出て候ひし後、便宜を得ず候て、案内を啓せず候。抑も

  島の自体を思へば、是れ欲界繋の法、顕形二色の種類、眼根の所取、眼識の所縁、八事

  俱生の体也。色性即智なれば、覚らざる事なく、智性即理なれば、遍せざる所なし。理は即ち真如也。真如は即ち法身也。法身無差別の理は、即ち衆生界と更に差異なし。然れば非情なりとて、衆生に隔て思ふべきにあらず。何(いか)に況や、国土身(しん)は即ち如来十身の随一なり。盧遮那妙体の外の物に非ず。六相円融無碍の法門を談ずれば、島の自体は則ち国土身也。別相門に出づる時は、即ち是れ衆生身、業報身、声聞身、縁覚身、菩薩身、如来身、智身、法身、虚空身也。島の自体則ち十身の体なれば、十身互に周遍せるが故に、円融自在にして、因陀羅網(いんだらもう)を尽くして、高く思議ほ外に出で、遥に識智の境を越えたり。然ればつらつら華厳十仏の悟の前に島の理を思へば、依正無碍、一多自在、因陀羅網、重々無尽、周遍法界、不可思議、円満究竟、十身具足、毘盧遮那如来と云ふは、即ち島自体の外に、何ぞ是を求めむや。住処は即ち蓮華蔵荘厳世界海、一微塵の中を出でずして、十方刹に遍せり。所説の教は即ち十々無尽の法門、主伴具足せる本部の経王也。三昧を立てずして法輪を転じ、道樹を動せずして六天にのぼると云ふも、外に求むべきに非ず。即ち島の自体に非ずや。然りと雖も、我れいまだ普賢の浄眼をきよめず、法界法爾の覚りをも開かざれば、情非情の情執分別の前に惣相の国土身をのみ見て、別相の微細身、重々無尽、因陀羅のすがたを見ざれば、心浅く、非情なればとて隔つるに似たれども、いみじくたのもしげに思へる心ある友とても、其有様を思ひとけば、島にかはりて自性ある物にも非ず。彼も無明不覚力にて生ぜる所の住相の四相の中に、分別事識細分の位の智相の力用によりて、自心所現の境の上に妄りに分別せる影像也。是れ則ち无明(むみょう)の睡眠いまださめざる間、大夢所現の夢念の境界也。同じく無自性の体なれば、島にかはりて有情なりとて、其体を見るべきに非ず。然而(しかれども)憖(なまじい)に有情類なれば、かたはらの人につつむ程に、物さまあしく、人似ぬやうなるにはばかりて、昔見し月日も遥に隔たるぬれば、見たくも恋しくも覚ゆる時は、磯に遊び島にたわふれし事も思ひ出されて忘れず、然而彼時も有為無常転変の随一なれば、今は過ぎ行きて夢に異ならず。是に付けても生死無常のことはり、心に浮びて、哀に覚ゆるままに、天親論主倶舎論の中に、正量部師が身表業色は行動を体とすと云う義を破せんが為に、以諸有為法、有刹那尽故と結んで、此道理を立て破し給ひし心の内思ひやれば、有為諸行刹那転滅のことわり、其心に浮びすめりしかば、天親論主いかにすぎたる人におはしましけむと、其心かよひて、遥に友に合へるが如し。

  かく申すにつけても、涙眼に浮びて、生滅無常の法門を心地にかきつくる心地す。是に付ても、恋慕の心をもよほしながら、見参(けんざん)する期(ご)なくて過ぎ候こそ、本意なく候へ。凡(およそ)は本覚の山のふもとに円満覚の花披(ひら)け、法性空の中に修正智の月いでて後は、法界皆相即して、依正二報、互に無碍也。一多自在なれば、一塵の中に無尽法界を見る。彼此円融すれば、無尽法界は唯一真心也。然りと雖も、我等が習の前には、真如海のきはに転識の浪高く、心原園の中に分別のおどろしげし。無明の酒に酔ひて、六度の船に乗らず、動念の病にせめられて、恵剣を抜くに力なし。誠に哀哉、悲哉。漫々たる生死の大海をば、一分計(ばかり)もいまだ渡りすぎず、鬱々たる煩悩の稠林(ちゅうりん)をば、一枝も猶剪(き)ることなし。さるままには執取相の天狗にとられて、弥々(いよいよ)三界のあたごの山に昇り、起業相の地孤にみちびかれて、ますます六道のいなりのつかにめぐる。来途、初なし。帰舎、何の日ぞ。かかる我等がためには、只無念の位にのぼり、薩般若智を得むより外は、いみじきも、おろかならむも、とてもかくても有りなむ。此道理の前は、非情なりとても、恋しからむ時は、消息をもまゐらせたし。凡者(およそは)、御事のみに非ず。高尾の中門の脇に桜のあまた候中に、月なむどのあかく候し夜は常にかたらひ遊びし桜の一本候が、境へだたりて常に見ざる時は、思ひいだされて恋しく候へば、消息なむどやりて、何事か有ると申したき時も候へども、物いはぬ桜の許へ消息やる物狂ひありなむなどと、よみ籠られぬべき事にて候へば、非分の世間のふるまひに同ずる程に、思ひながらつつみて候也。然而(しかれども)せむずる所は、物狂はしく思はむ人は、友達になせそかし。宝州にもとめし自在海師にともなひて島に渡り、大海にすましし海雲比丘を友として心を遊ばしめむに、何のたらざるかあらむや。かくいへば、あらまし事に似たり。実に夢の中の旅の友は、さめて後、恨をのこす。法門法界の悟を得給へる彼人達こそ、実の友達なれ。但恨むらくは、かくは思ひながら、一心動転の四相の夢念いまださめざれば、身のふるまひの申す様には似ざれども、真如も随縁門にいでぬれば、違自順他の義を存し、無明も帰本門に入りぬれば、無体即空の義をうしなはず。法身位の菩薩、なほし出観の時、法執分別を起す。菩薩漸く伏道の位に臨んで起事心をたち、ますます勝抜道の位にのぼり、根本心をつくしてのち、無明の風やみ、性海に浪つくる時も、候はむずるぞかし。漸入証理の修行の次第なれば、漸々に断除し、漸々に証得すべき也。しかれば、いみじく心有る人よりも、実(げ)にも面白き遊意の友とは、御所をこそ深く憑(たの)みまゐらせて候へ。年来、世の中を御覧じたれば、昔ならひに土をほりて物語せし者ありしぞかしともや覚(おぼ)し食(め)す覧(らん)。其等は古の事なり。このごろ、さやうの事は、よににぬ事にて候。かく申せば、望あるに似たり。然而和合僧の律儀を修して、同一結界の中に住せり。傍の友の心をまほらずば、衆生を摂護する心なきに似たり、凡(およそ)は過(とが)にして過ならぬ事に候也。取り敢へず候。併(しかしなが)ら後信を期(ご)し候。

  恐惶敬白。

      某 月 日 高弁状

     島殿へ

  非相続の 法にも得ぞ あらせたき

    わ島を我身に 成就せむとて

 これは一面、島へ宛てた書状であり、他面には、華厳の教義による自然観を説き、山河大

地の自然が、無生物であり、我等に対立する異物でなくして、我等と共に、我等と同じく、

毘盧遮那法身仏に外ならず、一切の生物無生物は、相互に円融自在であり、互に映発し、影

響して、此の世界を形成してゐるのであって、一つの島といへども、無限の真理を現前する

事、すぐれたる人物と同様であるとする。その中に因陀羅網といふ語があるが、因陀羅は天

主と訳し、即ち帝釈天であり、因陀羅網は、その帝釈天にある宝網で、之を以て帝釈の宮殿

を覆ひ、之をかけて宮殿を飾ってゐるが、そも網は宝珠宝玉を糸につないで作られて居り、

糸の結び目ごとに珠玉が輝いてゐるが、その光赫々として互に映発し、一珠の中に他の諸の

珠影を現じ、ひとり一珠に一切の珠影をうつすのみでなく、同時に一切の珠玉にうつる一切

の珠玉の影像形体をうつす、更にいへば其の二重所現の珠影の中に、また一切の所懸の珠を

現すといふ。即ち是れ天下の万物、世上の万人、相互に交渉交通あり、連絡影響あって、そ

の関係極めて複雑であり深刻であり、自他の分別しがたく、孤立の不能なるを示すものであ

る。(『因陀羅網』と名づくる書物がある。江戸妙延寺空誓の著すところ、仏教の名目をあげ

て、一々その出典を示してゐる。元禄十二年の版である。)

 さて華厳幽玄の哲理は、明恵上人によって血を与えられ、肉を与えられ、生命を吹き込ま

れた。思弁の中にわづかに形成せらるる空理空論でなくして、山河大地に生命あらしめ、海

中の孤島に恋慕の熱情を寄せた所に、上人の精神の高邁、衆にすぐれたるを見る。而してこ

こに我等は、我が国の古典、『古事記』や『日本書紀』神代の巻の、あの不思議なる国土草

木その他が神の生み給ふ所であり、従って我等と無縁の物でないとする伝説に対して、深遠

なる哲学的解説を与へられるのである。『古事記』によれば、伊邪那岐伊邪那美二柱の神

はオノゴロシマを始めとして多くの島々を生み給ひ、それより海の神、水の神、風の神、木

の神、山の神、野の神等を生み給ひ、之を総計すれば、島は十四、神は三十五に上るが、そ

の後、二神はそれぞれ単独に多くの神を生み給ひ、最後に最も貴い天照大御神月読命(つ

きよみのみこと)、及び須佐之男命を生み給うたとある。而してその島を見、国土を見るに、

伊代はエヒメと呼ばれて女性であり、讃岐はイヒヨリヒコと呼ばれて男性であり、また阿波

は女性、土佐は男性である。筑紫は全部男性、対馬は女性である。是等は、普通の常識より

之を見れば、荒唐無稽、ひとり信ずべからざるのみならず、むしろ笑ふべき事とされるので

ある。戦後の一般の風潮、古典を棄て、神道に背をむけたのは、一つはここに其の理由があ

るであらう。之に対する最も有力なる援護の解説を、私(平泉・注)は明恵上人に見出すの

である。神典は、同時に神道は、上人の苅藻島に与へた書状によって、深遠なる哲理の裏付

を得たと云ってよい。

 思ふに上人の此の思想は、華厳の哲学より学び得たものであらうが、同時に上人をして、

華厳の哲理を理解せしめ、それに生命を吹き込ましめたものは、祖先以来伝承し来った、日

本の神道そのものでは無かったか。祖先以来の神道が、その根柢にあったればこそ、華厳の

教理をたやすく理解し得たのであって、此の思想を、神道と華厳との偶然の一致と見、上人

に於いては、それは華厳から出てゐるのであって、神道とは無縁である、とは見るべきでは

あるまい。

 しかし之に対して、あくまで神道とは無関係であると、主張する人があるかも知れない。

いかにも山河大地みな仏性と解し、因陀羅網、十身周遍、円融自在と観ずるかぎりでは、別

神道をもち出さなくても、華厳だけで説明せられるであらう。しかるに上人の事蹟の中に

は、しかもその精神の最も高潮に達せる時に於いて、神道によらなければ理解出来ないもの

がある。それは承久の変の直後に、栂尾へ上って上人の教を乞はうとした北条泰時に対して、

日本の国体を説いて、その非行を痛責した一件である。

 但し泰時を痛責した一件は、『伝記』に見えてゐるのみであって、『行状記』は、和文漢訳

両本ともに之を載せてゐない。そればかりでなく、承久に敗れた官軍の落人を山にかくまっ

た為に、秋田城介に捕へられて六波羅へ拘引せられ、泰時に向って、

  此の山は、三宝寄進の所たるに依りて、殺生禁断の地なり、仍て鷹に追はるる鳥、猟に逃ぐる獣、皆爰に隠れて命を続ぐのみなり、されば敵を遁るる軍士の、からくして命ばかり助かりて、木の本、岩のはざまに隠れ居候はんをば、我身の御とがめに預りて、難に逢ひ候はんずればとて、情なく追ひ出して敵の為に搦(から)め取られ、身命を奪はれんことを、かへりみぬことやは候ふべき、(中略)隠す事ならば、袖の中にも、袈裟の下にも、隠してとらせばやとこそ存じ候ひしか、向後々々資(たす)くべき候、是れ政道の為に難義なる事に候はば、即時の愚僧が首をはねらるべし、

と、少しも恐るる事なく言ひきり、泰時をして感涙を流さしめたといふ劇的光景は、『伝記』

のみの記すところであって、『行状記』の記さざる所である。六波羅に於いて泰時に応対し、

栂尾に於いて泰時を痛責した事は、二つながら上人一生の大事といふべきであって、之を記

載した事は、『伝記』の殊勲であるが、同時に『行状記』の此の記事が無い所からして、『伝

記』の誇張もしくは虚偽がありはしないか、といふ疑惑もかかる。

 この問題を解明すべき手がかりは、善妙尼寺である。建長五年(1253)三月、門人

順性房高信の記録した『高山寺縁起』によれば、平岡の善妙寺は比丘尼寺であって、中御門

中納言宗行卿の後室が、出家して尼となり、夫(おっと)の菩提を弔はんが為に、西園寺入

道大相国即ち公経に請うて、古い堂を移して建立したものといふ。善妙といふのは、新羅

女神で華厳擁護の誓があるので、その尼寺の鎮守に善妙明神を勧請し、同時に寺の名も善妙

寺といったのである。さてその中納言宗行は、承久討幕の中心人物の一人として、北条に捕

へられ、関東へ下される途中、藍沢原で斬られた、年は四十七歳であった、とは『吾妻鏡

に見える所である。その宗行の夫人が出家して尼(あま)戒光となり、上人に従って仏道

入り、善妙尼寺を建てて、ここに住したのであるが、この尼寺には承久官軍の遺族、物心の

両面に於いてよるべなきもの、上人の徳を慕ひ、その袖にすがって、段々集まって来た。

 性明も、その一人である。この人は、後鳥羽上皇西面の勇士検非違使左衛門尉後藤基清の

妻であった。基清は捕へられた。泰時は、基清の子基網をして之を斬らしめた。夫は、子に

よって斬られた。妻は居るべき所が無い。出家して尼性明となり、明恵をたより、善妙寺に

入った。

 禅恵も、その一人である。この人は、参議定経の女であって、権中納言光親の夫人として、

右大弁光俊を生んだ。光親は、北条討伐の詔書作製の責任者として、四十六歳にして、駿河

国加古坂に於いて斬られた。夫人は善妙寺に入り、名を禅恵と改めた。

 明達も、その一人である。この人は、官軍一方の大将、山城守佐々木広綱の妻であった。

広綱は、宇治を守って敗れ、七月二日に斬られた。その子勢多伽丸、仁和寺に在ったのが、

六波羅へ拘致せられた。仁和寺の道助法親王、この少年の為に命乞ひせられる。母もまた六

波羅に至って哀願する。泰時は一たん之をゆるして放ちかへらしめた。しかるに少年の叔父

佐々木信綱之を訴へたので、泰時は少年を召還して信綱に与へた。信綱直ちに之を斬る。少

年の母は、桂川に身を投じて死なうとしたが、人々に止められて果さず、栂尾に入って上人

の袖にすがる。上人は之を出家せしめ、尼明達として、善妙寺に置いた。寺にある事十二年

貞永元年(1232)正月、上人が亡くなるや、明達は生きる力を失ふ、是に於いて七月八

日、清滝川に身を投じて自らその命を絶った。年は四十七歳。

 同様の尼、この外に、理証あり、真覚あり、明行あり、信戒がある。それらの人々は、上

人によって救はれ、上人の教を奉じて修行し、念誦写経を怠らなかった。今も残る『華厳経

巻五十二の奥書に、

  貞永元年七月二日酉尅書写了 比丘尼禅恵

   願以此経書写功力、生々世々受持夫忘、大師和尚不離暫時、在々所々値遇奉事、

とあるを見れば、是等の不幸なる人々が、いかに大師和尚、即ち明恵上人を慕ひ、しばらく

もそのそばを離れてあるを欲せず、来世に於いても、常に同所に在ってその指教を受けたい

といふ熱望をもってゐたかが察せられる。

 さても善妙寺に集まった官軍遺族の保護の懇切極まりなきを見れば、彼の明恵上人が六

波羅に拘引せられて泰時に対した話も、また栂尾に上って来た泰時を痛責した話も、二つな

がら肯定せられてよい。それらは、『伝記』のみの記すところであって、『行状記』の伝へざ

る所である。しかし『行状記』の伝ふべくして伝へなかったものに、善妙寺の遺族保護とい

ふ重大事があるでは無いか。而して遺族保護の事が、古写経の奥書や、上人真筆の書状現存

して、疑ふべからざる事実であって見れば、全く同一の精神に貫かれてゐる泰時との対談二

件は、之を伝ふる『伝記』の中に、他には猶考へねばならぬものがあるにしても、この対談

に関するかぎり之を是認し肯定してよい。

対談二件のうち、六波羅の方は、前に述べた。ここには栂尾の痛責を引用しよう。『伝記』

にいふ、

  泰時朝臣、此の山中に入来す、法談の次(ついで)に、上人問ひ奉って云はく、(中略)忝くも我が朝は、末代と雖もあらたなる聞えあり、一朝の万物は悉く国王の物にあらずと云ふことなし、然れば国主として是を取られむを、是非に付(つき)て拘り惜まんずる理なし、縦ひ無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕まるる類、義を存せん者、豈いなむことあらんや、若し是を背くべくんば、此の朝の外に出で、天竺・震旦にも渡るべし、伯夷・叔斉は天下の粟(ぞく)を食はじとて、蕨を折りて命を継ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰められて、其の理必然たりしかば、蕨をも食せずして餓死したり、理を知り心を立てたる類、皆是の如し、されば公家より朝恩を召し放たれ、又命を奪ひ給ふと云ふとも力なく、国に居ながら惜み、背き奉り給ふべきにあらず、然るを剰(あまつさ)へ私(わたくし)に武威を振って官軍を亡ぼし、王城を破り、剰へ太上天皇を取りて遠島に遷し奉り、王子后宮を国々に流し、月卿雲客を所々に迷はし、或は忽に親類に別れて殿閣に喚び、或は立所(たちどころ)に財宝を奪はれて路巷に哭する体を聞くに、先づ打ち見る所、其の理に背けり、若し理に背かば、冥の照覧、天の咎めなからんや、大に慎み給ふべし、おぼろげの徳を以て、此の災を償ふことあるべからず、是を償ふことなくんば、禍の来らんこと、踵(くびす)を廻らすべからず、なみなみの益を以て、此の罪を消すことあるべからず、是を消すことなくば、豈地獄に入らんこと矢の如くならざらんや、

まことに痛烈骨を刺す批判である。或はそのあまりに痛烈なるに驚き、つつしみ深き戒律修

行の人の言葉らしからずとして、『伝記』の舞文修飾に出で、上人の真の面目を伝へるもの

ではあるまい、と疑ふ者さへある程である。しかも思へ、『伝記』はたとへ喜海の筆に成っ

たものでないにしても、室町時代の古写本は数部伝はって居り、更に古いものは貞治三年

(1364)の奥書を存し、古写本を検するのみでも、六百年を遡る事明瞭である。実際に

本の作られたのは、やはり鎌倉時代であって、はやく出来た門弟の覚書をもととして、それ

に多少の追加があり、そして最後に権威をつける為に、喜海の作なるがごとく装ったもので

あらう。しかも其の出来たと思はれる鎌倉時代は、国体の大義の一般には分って居らなかっ

た時代である。筆者の作為に出たものであれば、それは筆者の見識以上には決してでない筈

である。若し右にあげた泰時を批判し、痛責する言論を吐露し得る人物を求めるとして、

悠々たる国史三千年のうちに、果して幾人をかぞへ得るであろうか。右の痛責は、印刷して

二頁にもならないが、その内容の豊であり、識見の高く、構想の雄大なる事、一部の『神皇

正統記』に比肩して、少しも遜色なしとしなければならぬ。是れほどのものが、末流の作為

に生れる筈は無い。明恵その人にあらずして、誰が之を喝破し得よう。而して明恵が之を喝

破したに違ひない事は、善妙寺に於ける遺族保護の貴い事蹟が。之を確証するのである。

 此の大見識、大勇気は、一体どこから来るのであるか。それは華厳から出るものではある

まい。仏教の立場から上人を見る者が、之を不可解の事、また不可信の事として、むしろ敬

遠し除去してゐるのは、それを証する。多年随従の喜海でさへ、之が本当に分からないで、

『行状記』の中に、此の重大事を書き漏らしてゐるでは無いか。まことに此の見識、此の勇

気、日本の神道より出てゐるのである。明恵ならずして誰が之を喝破し得よう、と前に述べ

たが、更に云へば、神道ならずして、何が明恵をここまで導き得ようや、である。是に於い

て我等は、明恵上人を、華厳中興の高僧であると同時に、日本の神道の最も高邁なる伝承者

であったとしなければならぬ。

 擱筆に当って感謝しなければならないのは、上人の遺跡探訪に、快く便宜を与へられた諸

氏の懇情である。就中昨年の秋八十二歳の高齢を以て、鷹島苅藻島にも渡り。白上の峰にも

登って、案内せられたのは、地方史家として令名ある西尾秀翁であった。私が、上人の遺文

を些か心読し得るやうになったのは、一に目、その真筆に親しみ、足、その遺跡をたずねた

結果に外ならぬ。且つまたかくして得たる結論に、百万の援軍到るが如き感じして、力を与

へられたものは、昨年十一月、ノルウェーの大船と衝突して火焔に包まれ、全員悲壮なる殉

職を遂げた第一宗像丸の追善法要に当って述べられた増上寺法主、当時八十七歳の椎尾

弁匡大僧正の垂示であった。日く、仏教は印度に起ってインドに亡び、志那に渡って志那に

栄えず、遂に日本に於いて初めて花開き実結んだ。それは仏教渡来以前幾千年、遠く深く伝

はって来た日本の神道に支へられたが為である、と。

 

これは平泉大(おお)先生の遺徳を偲び

Pdf資料をワードに打ち直したもので、一部

修訂を加えたものである。(二谷・タイ国にて・2023年)