正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

林下幽閑の記 平泉澄

     林下幽閑の記

平泉澄

 

 形の上より之を見れば、私は今日最も不幸な者の一人とも考へられるであらう。前には勅任官であつた。今は一野人である。前には十分に俸禄を給せられてゐた。今は収入皆無である。曾ては賓客の来訪頻りであつて、しかも其の中には大臣あり大将あり高位高官の人が多かつた。今は稀に門人の遠く来り訪ふのみで、数日に亘つて人を見ない事が多い。曾ては外出に多く自動車を用ゐた。今は無論徒歩であるばかりでなく、靴や下駄にさへ事を欠く有様である。実際戦災者として配給を受けた兵の下着を着用して、草履をはいて、破れた籠を腰につけて、うしろの谷間に下りたち、蓬を摘み、蕗を採つて、下手な畠作りを補ひ、わづかに飢を凌いでゐる私を見る人は、之を沈淪と観じ、落魄と断ずるに相違ない。そして日々静かに祈りを捧げ、鳥居の前の草取りをしつゝ神に仕へて、その神徳の一端を宣べようと、村人の病気を治療しつゝあるのを知っては、人々はバルザックの「村の牧師」を連想するであらう。いふべくば正に是れ懺悔の生活である。戦勝の日には直ちに官を辞して、戦死した同学を弔いながら、全国行脚の旅に出たいと思つてゐたのが、国の厄難に遭遇して山に籠り、お詫びの為に心身を苦しめてゐるのである。人々が之を憐むべき者と見るのは当然であらう。

 然し一方よりいふならば、私は最も幸福なる者である。煩はしき声名利慾の外に在つて、静かに山に憩ひ水に遊び、優游自適の日々を送つてゐるからである。三十余年都塵にまみれて、心ならずも背いてゐた自然のふところに帰り、日々に変つて極まりなき其の美しさを、飽かず眺めくらしてゐるのである。私は寧ろ之を感謝しなければならない。

 私が感謝するのは、私の一生の中で、丁度最適の時期にこの大変化に遭遇したといふ事である。若し之が三十四十少壮の日であつたならば、十分に力をのべ、心を尽くして御奉公する事の出来ないうちに、結局為すなくして葬り去られるといふ事になつたであらう。それは如何にも残念至極といはなければならぬ。また若し之が六十七十老衰の時であつたならば、折角自然のふところに帰つたとはいふものゝ、山道を登る事も、谷底に下りる事もむつかしく、わづかに杖にすがつて遠望にあまんずるの外は無かつたであらう。しかるに私は五十一歳にして此の大変にあひ、山にこもつて半年ばかりこそ、心身の過労、殆んど病人のやうであつたものの、次第に回復もし、適応もして、今では一生のうちで最も健康な日々を喜んでゐるのである。曾て白楽天が、

  五十未だ全く老いず、

  尚しばらく歓娯すべし、

  これをもつて日月を送る、

  君以て如何となす、

と歌つた句は、そのまま私にあてはめていゝ。白楽天は更に別の詩に於いて、この喜びをくはしく述べてゐる。

  三十四十、五慾牽き、

  七十八十、百病纏ふ、

  五十六十、却って悪しからず、

  恬淡清浄、心安然たり、

  已に過ぐ愛貪声利の後、

  猶在り病羸昏耄の前

  未だ筋力の山水を尋ぬべき無くんばあらず、

  尚心情の管絃を聴くあり、

  しづかに新酒を開いて数盞を嘗め、

  酔うて旧詩を憶うて一篇を吟ず、

私はその一句一句、身にしみて之に感ずるのである。そして此の白楽天が、古人に於いて陶淵明を慕ひ、先輩にあつて韋蘇州を尊び、その高玄清閑を讃美した態度を、ゆかしく思ふのである。

 しかし実生活の上よりいへば、私はやはり陶淵明を思はざるを得ない。忽忙のうちに後事を処理して東京を辞し、郷里にかへつた時に、最初に読んだものゝ

一つは「帰去来の辞」であつた。そして少年の日より読みなれた此の一文に、曾て味ひ得なかつた興趣を覚え、殊にその末尾の一句、「かの天命を楽んで、またなんぞ疑はむ」といふを喜んだのであつた。 

 陶淵明が「帰去来の辞」をつくつたのは、その四十一歳の時であつたから、私の退隠に比して十年も早い。その点に於いて彼は不幸であつたといはねばならないが、不幸なるはそればかりでなく、その帰り来つた旧宅が、決して安住の地でなかつたのである。即ち帰つて四年にして火災にあひ、一切烏有に帰したのである。よつて翌年南村に居を移したが、居を移し、村を易へたといふのであつて見れば、その郷里に於ける根蔕(土台)は、むしろ薄弱であつたのではあるまいか。現に彼は、「人生根蔕無し、飄として陌上の塵(ちまたの塵)の如し」と歌つてゐるのである。

 その点では私は世にも類稀なる仕合者といはねばならない。わたの家は遠く遡れば養老の昔にその基礎を置いて居り、村に於いてはその根幹をなすものである。中世の屋敷は、南谷にあつたといふが、私は捜索して未だ的確にどの土地であるかを知り得ない。現在の屋敷は、もと今天神の社であつたところで、此処に移り住んだのは慶長二年(1597)の事であつて、慶長年間築造の庭は現に存してゐる。建築の方は安永五年(1776)に一たび火災にあひ、同七年に再建せられた。即ち今の家は安永七年に作られたものである。

 安永七年といへば今より百七十年ばかり前(昭和23年当時〔筆録者・注〕)の事である。イギリスであ、ドクター・ジョンソンや、エドモンド・バークの出た時代、ギボンの『ローマ衰亡史』が陸続として公刊せられた時である。ドイツでは、ゲーテがワイマールに在つて政務に携はつてゐた時で、そのイタリヤへ向つて出発したのは、この年より八年後の事である。而してアメリカに於いては、その独立宣言のわづか二年後に当り、丁度独立がフランスによつて承認せられた年である。ギボンやゲーテといへば、それ程にも感じないけれども、アメリカ独立の二年後といふを聞いては、人は今昔の感に堪えないであらう。

 百七十年の星霜は、幾多の人を送迎した。幾多の人の希望と喜悦と悲哀とを経験した。幾多の国家が、この間に興亡し盛衰した。しかるに、それらのあわたゞしい変化推移をよそに見つゝ、此の家は黙々として立つてゐるのである。いや此の家とても、時勢の影響を受けないわけでは、無論なかつた。現にその正門である薬医門は失はれて板塀となり、曾て門番の住んでゐた長屋の跡を通用門として出入りする事になつてゐる、三間に二間の玄関も、五十畳敷の応接の間も失はれて、正門からの歩道は、石を畳んだ上に美しく苔蒸して、徒らに一つの装飾と化してゐる。四間に六間の書院も無くなつて、その跡今は庭となり、数本の桜が植ゑられてゐる。土蔵は三間に四間のもの二棟並んでゐたが、今はその跡畠となつて、茄子や黄瓜が作られてゐる。西の高台には、観月楼といつて、風流な楼閣があり、母屋の二階から橋を渡つてこゝに登れば、廊下を廻ると見るうちに、いつの間にか二階へ出る仕掛になつてゐたさうであるが、これも失はれて了つた。それどころではない。母屋自体が既に大きな変化である。即ちそれは七間に十二間の建物であつたのが、その後半を削られて、今は七間に五間になつてゐる。このうち観月楼のみは慶応年間に取払はれたのであるが、その外はすべて明治初年の処分である。田畠山林悉く上地せしめ、土地人民に対する支配権を奉還せしめた維新の大変革が、この家に与えた影響は、実にかくの如く深刻であつた。記録の上で之を見れば、何といふ痛ましい打撃であらう。手ももがれ、足ももがれたといつていい。しかし歳月と自然とは、七十年の間に、其の傷痕に十分の手当を加へた。杉や松や桜や柿が、あちこちに繁つて屋敷を飾り、人の感傷を慰めるやうになつた。いや明治以前の人は今は殆んど無くなつたので、昔の規模の大さを知る者とて無く、昔の大さを知らねば、現状を見て歎息する筈も無いのである。沿革を無視して現形を見れば、是れ猶豪壮の邸宅」といつてよい。棟の高さは七間もあらうか。箱棟の先端に大きく家紋が彫られてゐる。紋は鬼梶である。その下の唐破風(からはふ)といひ、格子といひ、いづれも装飾少なく簡素であつて、両側へ流れる屋根の反りに浮薄な曲線の無い事と相俟つて、いかにも厳粛沈着の構へである。二階は横に七間、柱の間には全部欄干を通してあつて、それがまた此の家に威厳を添へてゐる。階下は向かつて右が内玄関、通用門からの石畳はまつすぐにこゝへ向かつてゐる。中央は部屋の障子の外、一帯の出格子である。左方は台所口、石畳は中程から分れて此処へも」向かつてゐる。この入口は、その戸が、外側の雨戸といひ、内側の障子といひ、巨大であつて重いのに人を驚かせる。されば時勢の変遷は、この屋敷の中にさへ、時に渦を巻き風を起したが、しかもこの母屋は、傷つきながら百七十年の星霜に堪へ、世の盛衰を静観してゐるといつてよいであらう。

 汽車を離れる事八里である。町を去つて一里である。村内に在つても隣家と隔たる事、坂の石段を数へて五十数段である。住んで此処に在る時、人は家と共に黙々として静観するの外は無い。殊に冬に於いて然りである。冬はこの山中に在つては頗る長い。それは十一月の末に始まつて、三月の末に至る。雪は百二十日の間、大地を蓋いつくすのである。それは降つては消え、消えては降るのではない無い。降ればそのまゝ消えずに百日以上を通すのである。積る高さは、普通にして三四尺、稍(やゝ)積つて七八尺、多い時には一丈に及び、一丈を越ゆるに至るのである。自然の力の偉大さして人力のいかんともすべからざるものである事を痛感するのは、この大雪の夜に如くは無い。

  長き日も さびしく暮れて 友も無く

   酒も無き夜に」 春雨ぞふる

とは、大隈言道の歌であるが、それは寧ろ甘い寂寥に至つては、満目白皚々、終日白霏々、人の往来を隔絶して、孤影大自然の威厳に対する沈痛至極の寂しさである。梁の王籍が詩に、「鳥鳴いて山更に幽なり」といひ、唐の杜甫が詩に、「伐木丁丁として山更に幽なり」といふは、深山幽谷の静寂を写し出して尽きざる妙味があるが、こゝに北国山中の冬は、雪に明け雪に暮れて、人を見ず、鳥さへ鳴くを聞かず、天地たゞ白一色にして更に他の色を交へざる時、その寂しさは、まこと骨身にしみ透るのである。

 降りつゞく雪の山中にとぢこめられた時に、私共を慰めてくれるものは、火である。雪が降れば降る程、火はあたゝかく、なつかしく、慰藉(いしゃ)となり、希望となり、励ましとなる。実際冬の楽しみ、囲炉裏に如くはない。自在かぎに茶釜ををかけて、大きな榾(ほだ)に小さな柴を」さしそへ、さしそへ、燃えゆく火を見つめてゐる時、見つめて物を考へながら、想を遠い南の国に馳せたり、古い昔を偲んだりしながら、豊かな想像、尽きざる思索に、時のたつのも忘れてゐる時、その楽しみは、到底雪無き地方の人々の知り得ない所であらう。白楽天立春の後、花の漸く開くを喜びながら、

  還つて惆悵の心あり、

  紅爐の火に別れんと欲す、

と歌つたのも、彼が日に親しんでゐた為であらうが、しかしかゝる火の慰めを最も詳密に描き出したものか、ホーソーンの「火の信仰」であらう。彼は所謂発明が、人生の絵画的また詩的美しさを汚し去るを悲しみ、殊に不愉快なるストーブの発明によつて、人々団欒の中心であつた囲炉裏がなくなつた事は、社会生活に於いても、家庭生活に於いても、大革命といはねばならないとして、燃ゆる火の親しみ深き炎を、再び見得ない事を悲しんでゐるのである。しかるに私は今や、昔ながらの囲炉裏に、惜しむ所なく薪をくべて、百日余りを心ゆくばかり火に親しみ得るのである。白楽天も来るがよい。ホーソーンも来給へ。こゝの囲炉裏は相当に大きく、四人や五人のお客があつても、大丈夫である。私が冬の間用ゐてゐる小屏風の交張の中に、

  月花の 名残り咄(はなし)や ゐろり端

といふ父の句があつて、それに右扇といふ人が、

 心おきなう更(ふ)かす 雪の夜

と附けてゐる。右扇は元勝山藩士で、禄に離れてから村へ来て書記を勤めてゐたといふ事であるが、年老いて口過ぎに苦労するのを自ら憐んで、左団扇(うちわ)の反対に右扇と号したのでもあらうか。ともかく此の句に対してゐると、浮世の栄辱を離脱した神官と老翁とが、ゐろりを囲んで春秋の興趣尽きざる想出話に夜をふかしてゐる有様が、目に見えるやうである。私は昭和十五年の二月に、丈余の雪に降りこめられて、勝山の旅館に数日の滞留を余儀なくされた事があつた。雪が深いので交通は一切杜絶する。自ら動く事も出来ないと同時に、人の来る事も不可能であつて、明朝の来客を慮る必要はない。そこで朝寝を覚悟で興に乗じて書物に耽り、窓の漸く白むに至つて巻を閉づる事、屢々であつた。私はその数日を、悤忙勤苦(そうぼうきんく)の一生のオアシスであらうと思つた。しかるに今や時勢の激変は、私を永く其のオアシスの中に閉ぢこめてくれたのである。

  夕烟 今日は今日のみ たてゝおけ

  明日の薪は 明日採りて来む

とは曙覧の歌であるが、春夏のうちに用意して一冬の薪は貯へてあるのであるから、明日の薪も憂ふるに及ばぬ。興に任せて夜を更かし、読み耽り、語り明かして、差支へないのである。かゝる夜の火の燃えやうの面白さ、或は舞ふが如く、踊るが如く、或は飛ぶが如く、這ふが如く、鉄砲のはじくが如きもあれば、騎馬の駆けるが如きもあつて、千態万様、変化極まるところが無く、正にこれ自然の演劇、名手不思議の演出である。

 茶釜の水は、何処に之を汲むか。それは流しに流れ落つる筧の水を汲むのである。筧の水は、二六時中、春夏秋冬、不断に流れ落ちて、曽てその音を止めない。それは閑寂なる我が家に於ける唯一の音響である。しかもそれは決して喧騒でなく煩雑でない。いふべくは此の水声のあるあつて、此の家更にしづかなりと言えるであらう。筧は蜿蜒として二町余、森の中を過ぎ、石垣の上を伝はり、時に潺湲(せんかん)の声を立て、時に淙々(そうそう)の響を伝へ、最後に龍頭(りゅうず)より落ち、地下を一くゞりして、さて此の家に流れ込むのである。その源は即ち平泉、神域の中に於いても最も神聖なる所として、尊び、且つ畏れられて来た泉である。即ち今を距る事一千二百年、養老の昔、神影この泉の中の小島に出現」し給ひ、之を拝して神容を写し、木に刻んでお祭りしたのが、此の白山社の起原と伝へられるのである。アシジの聖者サン・フランシスは、神に祈つて山に泉の涌出を見、渇きの為に死に瀕してゐる人を救つたと云ふが、この平泉の神泉も、考へれば実に不思議である。といふのは、この村の水は概して良くなく、どの家へいつても井戸の水は浅く且つ濁つて居り、味もよいとはいへないのである。しかるに唯一つ、此の神泉のみは、深く巌の中より涌き出でて、清冽夏も氷の如く、底の底まで澄み徹つて、曽て濁るといふ事なく、手に掬めば手は冷たさに痺れるが、口に含めば殆んど甘露の味がするのである。

 一体水の味などは、若い時には到底分るものでは無い。ラムネやサイダー、紅茶や珈琲などを喜んでゐる日には、水はどれもこれも一種一様で、単純無味なものと思hがれるのである。私も以前はさうであつた。しかるに今稍老境に入り、座右に大火鉢を備へつけて、寒椿と銘うつた鉄瓶をいつもたぎらせ、書見の段落ごとに茶をたてゝ、しづかに之を味ふやうになつて見ると、水は決して一種一様では無い。あるものは清く、あるものは濁り、或は甘く、或はからく、或は渋味があり、或は香りがあつて、実に複雑多様である。古来茶人が水をやかましく品評して、京にては加茂の御手洗川を第一とし、飛鳥井、常磐井、明星水、柳の水などを賞味してゐるのは、いかにも尤もな事とうなづけるのである。幸なるかな、今の私は、白山の神の御恵みに浴し、そのみたらし、即ち此の平泉に湧き出づる清き水の流れをいたゞいて、朝夕その甘味を汲む事が出来るのである。水を識る者は誰ぞ。石清水の松花堂か、京の庸軒か、はたまた宋の蘇東坡か。私はそれら趣味の達士を招いて、共に此の神泉を味ひ、神徳を讃へたいと思ふ。

 さて筧の水は、途中に分れて庭の北山に小さな瀧をかけ、瀧は流れて大きな池に落ちるやうになつてゐる。一体この庭には古い池が二つあつて、庭の正面東方にあるは水を堪へず、側面北側にあるものだけが漫々たる水に鯉を泳がせてゐるのである。その水のある池も無論面白いが、水の無い池に却つて言ひ知れぬ趣が存する。それは左方に巨巌を重ねて飛瀑の状を写し、やがて石橋を渡して渓流奔湍を想はしめ、遂に大きく開いて中に奇巌を擁し、浪その裾を洗ふ趣を示してゐる。即ち岩石の配置によつて水の存在とその動態を想像せしめてゐるものであつて、いはゞ一つの象徴詩である。もとよりそれは京都の龍安寺の庭のやうに、一本の木もなければ草も無く、たゞ夫れ土塀に囲まれた坪の内に、白い砂を一面に敷きつめて、十五個の石をそここゝに配置したといふ徹底したものではない。徹底した石の庭ではなくて、草木の助けを十分に借り、それによつて人の想像を豊にしてゐるのである。たとへばその島になつてゐる奇巌―これは土地生え抜きの大巌石であらうが、それを巧みに利用した上に、これに多少の木を植ゑて、風趣を一段深からしめてゐるのである。

 石に目を着けて庭を見渡す時には、正面の山の上に立つてゐる本尊石及び之に従属せるいくつかの石もまたよいといはねばならぬ。本尊石といふものは大切なもので、少年の日には何とも思はなかつたが、段々気がついて見ると、庭の品格はこの本尊石できまると言つてよい。しかもその本尊石のよいのは中々無いもので、大抵の庭ではこれが大きすぎる。石が大きくて庭が小さい時には、何となく落着きがなくて借り物のやうである。また石がたゞ肥大であつて風趣に欠けてゐる時には、成金のやうな浅薄さを感ずるものである。しかるに此の庭の本尊石は、庭の割合に小さくて誇揚恫愒(こようどうかつ)の嫌味がなく、簡素であると同時に圭角(けいかく)もあつて、どことなく高士超俗の趣を存してゐる。

 石のついでに述べて置きたいのは、石塔である。この庭には小かげ藪かげにいくつかの石仏があつて、それには延徳とか、永正とか、天文とか四百数十年前の銘が刻んであるが、目ざましいのは永享六年(1434)の五重の石塔である。これは元御手洗池即ち平泉の傍にあつたのを、明治維新の際に此の庭に移したものである。当時石塔は二つあつたが、一基は福井初代の藩主黄門秀康賞美の余り所望してもちかへり、福井城外郭の別荘所謂お泉水に

之を置いたといふ事で、先年まで存してゐたが、一昨年の戦災にどうなつたか、私はまだ其の現状を審にしてゐない。残された一基は現に此の庭の丑寅の隅、椿の丘の中腹に立つてゐる。永享といへば今から五百年も前の事であつて、イギリスでいへばチョーサー逝いて三十余年といふ時分、セクスピーアの出現にはまだ百数十年を要する頃であるから、此の古塔に対して東西の歴史を考へると、是れ亦興味津々として尽きないものがある。

 水の味ひは、赤ネクタイのよく弁ずるところでは無い。石の趣は、無論ジャズを喜ぶ徒輩の解し得ざるところである。それにくらべては、花こそ万人に好かれ、老若を選ばぬやうに思はれるであらう。それは一応その通りである。しかし仔細に観じ来れば、こゝにも年齢の高下と、心情の深浅とは、大いなる差等を存し、段階をつけてゐる。そしてそれは、年浪の寄るにつれて自然に深まりもし、変つてもゆくのであろうが、生死の難関を透過した時に於いては、一朝にして飛躍するものである。佐久良東雄も、

  あすしらぬ このよとおもへば ちりかゝる

   ゆふべの花の 惜しまるゝかな

と歌つてゐるが、既に幾度か爆撃を受け、火焔の中をくゞり、死生の断崖に危き血路を開き来つて、しかもまた明日の運命計るべからざる監視の中に在つて、私の花を見る目は違つて来た。どの花もしみじみ之を眺めるに、その美しさ言語に断え、その趣、筆に尽くせるものではない。言語に現はし、文字に写さうとすれば、美しいといふの外に、何程の事がいへやう。しかし心の感ずるところに至つては、年若く心浅き日と千里を隔てるのである。

 さて今の私は、その美しい花を、ゐながらにして、此の屋敷に眺め得るのである。父逝いて既に二十年、庭園はいたく荒れた。梅の木も二本まで枯れた。今は最早梅は無いのかと思つてゐたのに、早春雪の中に咲いたので分つたが、前庭に一本、後園に一本、いづれも雪国の事とてヒョロリと痩せて高くのびてゐるが、昼之を眺めて飽かず、月に乗じて夜も眺め、月の無い夜も折々窓をあけると、古人の所謂暗香浮動して、我が魂も亦清められる気持がする。かゝる夜こそ『菅家詠草』をひもとくに最適の時である。

 つゞいて桜である。私は最も桜」を喜ぶものであるが、しかし東京の桜はさして賞美に値しない。それは都会の灰色の空、殊には春の曇り日に、花と空とが似よつた色に融け合つて、花の色頗る鮮明を欠くからである。古人が讃歎賞美して止まず、「うち見れど猶飽足らず、言ひもかね、名づけも知らに、くすしきも、あやしき花か」と歌つたのは、東京の花のみを見る人には、溢美過褒(いつびかほう)とあやしまれるであらう。そこへくると此の屋敷である。上には杉の大樹、四時緑りこまやかであつて、下はまた一面の青苔、庭を埋めつくしてゐる。空はと見れば、ガスの濁りがこの山の中にあらう筈はなく、晴れては碧空、曇つては白雲、いづれにせよダラシなくボヤケたものでは無い。その杉の緑の間に咲いて、その苔の青きに散る桜である。しかもそれが杉の大樹と競つて高くのび、長く枝を延ばして、東西連繫し、南北映発するのである。人事を忘れつくして夢に遊ぶは、実に桜花の候、一旬の楽である。

 牡丹は牡丹でまた面白い。これはまだ余りおおきな株ではなく、この数年一向に咲かなかつたさうであるが、私が帰郷以来丹精して世話した効(しるし)があつて、去年も今年も大きな花をつけた。その新芽が鉄板の如き積雪を割つて出てくるのを見て、私は驚き且つ喜んだ。「満城の人狂せるが如し」とまで唐人に愛されたこの花は、私に与ふるに大いなる教訓を以てし、激励を以てしたのである。

 牡丹の花は少ないが、多いのは薔薇である。これは北側に父が新しく作つた庭があつて、その池の向ひ、梅の枯れ株に凭(よ)りそつて植ゑられたものであるが、去年からの世話が届いたのであらう、開花百を数へる日が多かつた。食膳に向ふとき、戸を押せば、花は丁度私の真正面に眺められる。百に余る薔薇の花が、枝もたわわに咲き乱れ、或は梅の古株にもたれ、或は池の面に垂れてゐるのは、また飽かざる眺めである。

 花を数ふれば、次々に咲いて限りもない。あやめである。桜草である。芍薬である。つゝじである。桔梗である。萩である。木犀である。そして花では無いが楓である。秋の紅葉の頃に来て見給え。庭を蓋ひ、池を埋むる紅葉に、人は京の高雄に遊ぶ思がするであらう。そして紅葉が散れば、今度は山茶花である。四季折々の花の眺め、わが目を楽しませ、わが心を豊ならしむる自然の恵みに、私は心から感謝しなければならぬ。

 花がすめば実である。よつて少しく果実に就いて述べて置かう。しかしこれは余り数が多くない。子供の頃には葡萄もあり、梨もあつたが、これは二つとも早く枯れて了つた。李も二本か三本あつたのであるが、いつのまにか姿を消してゐる。今あるものは、第一に胡頽子(ぐみ)である。これは三株も四株もあつて、そのうちの一株は随分大きい。以前母の里が勝山の町に在つて、その裏庭に大きなぐみの木があり、その実がすばらしく大きく、その味格別によろしかつたが、今この屋敷にあるのは、それの子か孫に当るのであらう。しかし実の大さもそれほどではなく、味も落ちている。その上に、虫がついてゐるのが多くて、余りよいものとは云へない。口に入れてはそれほどでないが、梅雨のはれまに裏へ出て、一面の青葉の中に、紅玉燦々として輝いてゐるのを見ると、何ともいへない嬉しさであつて、初夏の景物欠くべからざるものである。時を同じうして、畠の隅々、草原を飾るものは、草苺である。これは植ゑたものでもなければ、世話したものでもない。雑草と共に一面にはびこつて生えてゐるのである。家内などは初めは棘のある嫌な雑草として軽んじもし、嫌つてもゐたが、梅雨時になつて、宝石をまきちらしたやうに、美しい実がなり、その味胡頽子にまさるとも劣らないのを知つて、今度は大いに肩を入れて世話をしようと言ひ出したから、来年からは一層期待してよからうと思ふ。

 しかし胡頽子や草苺は、やはり景物詩であり、お愛嬌である。大切なものは柿であり、栗である。父は頗る柿を好み、また柿の接木(つぎき)が上手であつたから、一時は屋敷のうちに柿の木を数へて五十本に達した事があつた。それが今は十数本に減つた上に、木も段々老境に入って、実の数も少なく、品質も衰へて来た。しかしまだ元気のよいのもあれば、味のよいのもあつて、これは秋の景物詩である以上に、私には無二の嗜好品であり、且つまた絶好の代用食である。大智の鳳山山居の詩の中に、

  艸屋単丁たり二十年、

  未だ一鉢を持して人煙を望まず、

  千林果熟して籃を携へて拾ふ、

  食し罷んで谿辺、石を枕にして眠る、

といふのがあつて、年来好んで誦する所であるが、起句と結句とは別として、中の二句はそのまゝ当てはまるのが、今の私である。秋になると木食上人も中々よいものだと悦に入つてゐたのは一昨年で、去年は殆んど一つもならず、今道心の木食稍あわてざるを得なかつた。

 ところが、天の配剤の妙は、柿のならない年には栗がなり年となつてゐる。去年は栗の

木がどれもどれも枝も撓(たわ)めと実をつけた。これにも大分変遷があつて、私共が子供の時分に拾つた栗の木は大抵なくなつて了つたが、段々跡継ぎが出来て、今を盛りとするのが三四本ある。之を拾ふのがまた面白い。朝、起抜けに籠を携へて木の下へゆく。夜はまだ明けきらず、藪かげは殊にくらくて、一向に見つからない。そのうちに白々と明けても来、目も段々慣れて来て、見直し見直しすれば、前にも後にも右にも左にもそこにもこゝにも一面に栗は落ちてゐる。無心なつて之を拾つてゐると、パタリと新にこぼれ落ちて来る音に、ハツと我にかへる事がある。栗は焼いてよく、煮てよく、御飯に入れてよく、勝栗にしてよく、土中に埋んで春まで貯へてよい。土中に埋めるというので想出したが、もとは門の前に大きな胡桃の木があつて、つその実を拾ふと、四五升にもなつた。それを土中に埋めて置いて皮を剥がすのであるが、好んで胡桃を食べるのは栗鼠(りす)であつて、木へ登つてとりもすれば、土を掘つて盗みもする、その枝を伝ふところ、掘つて逃げるところは、子供の頃にたびたび目撃したものである。

 昔に変らず今も此の屋敷に親しんでゐる動物がある。それはこの庭をかけ廻る度数からいへば、主人である私よりも多いかも知れず、多いとは云へないにしても、直ちに私に次ぐものといへるであらう。それは兎である。私はまだ其の姿を見付けた事は無い。しかし冬の間兎が毎夜この屋敷をかけ廻りかけ廻りして遊んで居り、時には玄関の階段へまで登つてゐる事は、朝起きて戸をあけた時に発見する縦横の足跡で明瞭である。炬燵(こたつ)に入つて芭蕉の『七部集』をひもときながら、戸を隔てゝ月に乱舞する兎の姿を想ふと、まるでお伽の国に在る心持がする。

 このごろ一向来なくなつたのは、雉や山鳥である。三十年前、私が中学へ通つてゐた頃には、雉・山鳥の美しい群が屢々来てくれた。玄関の先きに大きな多羅葉樹があつて、赤い実が雪の上へ落ちる、それをついばみに来るのであつた。鳥の世界にも栄枯盛衰があるのであらう、雉・山鳥は一向見えなくなつたが、昔見た事がなくて、今屢々見るのは、鷹であり、

木菟(みみづく)である。

 一昨年の夏、山に籠って以来、夜毎に近くの杉の梢に鳴く怪しい声を、何とも判断つかずにゐた。それは丁度赤児の鳴声のやうであつて、それは鷹に違ひない、沖縄では若い者は夜中によく木に登つて鷹を捕へるのであるが、その鳴声は、人間の赤児そのまゝだと教へてくれた。いかにもさうであらう、秋の一日、二階の正面の軒下、古い額のかけてあるところに止つてゐる鳥を見ると、明かに鷹であつた。

 木菟を見附けたのは、最近の事である。六月の初め、夕飯の後、たそがれの庭をボンヤリ眺めてゐると、妙な鳥がヒラヒラと軒近く飛ぶ。その飛び方が、普通の鳥とは違つて、あちらへそれ、こちらへそれ、頗る不気味で、まるで魔物のやうである。之を見る事数回にして、やがて家内は、その静止してゐる正体を見究め、木菟と断定するに至つた。

 梟は、昔も今も変らずに、夜になると杉の梢の茂みの中で鳴いてゐる。曾て神泉に川蝉を見、うちの池に白鷺を見た事があるが、今度帰つてからは、未だ見るに及ばない。その美しい色と姿は、見たい気もするが、来れば池の鯉に危難がふりかゝるのであるから、来てくれない方が安心であらう。その外の小鳥は種類も多く、数も多く、到底一々あげつくす事は出来ない。

 以上がこの屋敷の概観であり、私の生活の実相である。官うぃ辞して野に下り、禄を辞して貧に甘んじ、身には弊衣をまとひ、手には不慣れの鍬をとつて、最もつゝましやかな暮らしを立てゝいる私に、神の授け給うた恩恵の豊けさ、私は衷心之を感謝して止まないのである。罪無くして配所の月を見むと願つた顕基の中納言などは、之を聞いてどんなに羨しがることであらう。

                 (『寒林年譜』昭和三十九年四月、私家版)より

 

バルザック(1799―1850)主な作品―1835年『ゴリオ爺さん』、1836年『谷間の百合』、1836年『ファチノ・カーネ』、1836年『サキュバス』、1841年『村の司祭』。

*白楽天(772―846)―白氏文集巻第八「人亦不少酒酤、髙聲詠篇、什大笑飛盃盂。

五十未全老、尚可且歡娯、用茲送日月、君以為何如。秋風起江上、白日落路隅迴首。」

白氏文集卷第五十一「薄官不卑、眼前有酒、心無苦秖、合歡娱不合悲。耳順吟寄敦詩夢得。

三十四十、五慾牽。七十八十、百病纒。五十六十、却不惡。恬淡清浄、心安然。巳過、愛貪

聲利後。猶在、病羸昏耄前。未無、力尋山水。尚有心情聽管絃。閑開新酒嘗數盞、醉憶舊詩吟一篇。敦詩夢得且相勸不用嫌」

陶淵明(365―427)―「帰去来の辞」―「帰去来兮。田園将蕪、胡不帰。既自以心爲形役、奚惆悵而独悲。悟已往之不諌、知来者之可追。実迷途其未遠、覺今是而昨非。他耳順年」

エドモンド・バーク(1729―1797)

*ギボンの『ローマ衰亡史』―エドワード・ギボン(1737―1794)―「古代ローマ帝国の衰亡を記述した歴史書の古典大作」

ゲーテ(1749―1832)

*大隈言道―江戸時代後期の歌人。父は商家大隈言朝。福岡の出身。池萍堂(萍堂)・篠廼舎、観水居などと号した。二川相近に師事して和歌を学び、30歳代半ばで独自の歌風を築いた。また、広瀬淡窓に師事して漢学を学んでいる。佐佐木弘綱、萩原広道などとも交友があった。門下に幕末の勤王歌人の野村望東尼が居る。

*梁の王籍(南朝斉から梁にかけての官僚)、「鳥鳴いて山更に幽なり」「蝉噪林逾静、鳥鳴山更幽

杜甫(712―770)「伐木丁丁として山更に幽なり」―736年25歳、開元24年、斉州に遊んだ時の作。七言律詩。題張氏隠居。「春山無伴獨相求,伐木丁丁山更幽。澗道餘寒歷冰雪,石門斜日到林丘。不貪夜識金銀氣,遠害朝看麋鹿遊。乘興杳然迷出處,對君疑是泛虛舟。」

*白楽天、「還つて惆悵の心あり」白氏文集巻第八「簷坐、還有惆悵心、欲紅爐火郡中即事漫漫、潮初平熈熈、春日至空闊」

*橘曙覧(1812―1868)―幕末期の歌人国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。

*アシジの聖者サン・フランシス(1182―1226)

*福井初代の藩主黄門秀康―松平秀康(1574―1607)徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)[1][2]。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。

*佐久良東雄(1811―1860)―日本の幕末時代の国学者歌人。本姓は飯島。東雄の他の通称に靱負(ゆきえ)、寛、静馬、健雄。雅号は薑園(きょうえん)。尊皇攘夷の志士として活動した。

*「顕基の中納言」(1000―1047)―源 顕基(みなもと の あきもと)は、平安時代中期の公卿。醍醐源氏高明流、権大納言源俊賢の子。官位は従三位・権中納言後一条天皇の側近として仕えた。

徒然草』第五段、「不幸に愁にしづめる人の、かしらおろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、まつこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし。顯基中納言のいひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覺えぬべし。」

 

これは、タイ国に移住前でのpdf資料を、ワード化し提供するものであり、最後の注*は私(二谷)適宜書き添えたものである。また、このように平泉澄博士の論考に関するものを提出する目的は、小拙の最初の師である稲川誠一先生の恩徳に報いる目的の一貫としてのものである事を記す。(2023年・タイ国にて)

稲川誠一(1926―1985)七高で久保田収、東大で平泉澄に師事。日本中世史を専門とし、『新修大垣市史』の中世の部分を担当し、また岐阜県内の東大寺領荘園の研究に従事。日本教師会会長などを歴任している。(ウイキペディアより転載)