正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵転法輪

正法眼蔵 第六十七 転法輪

    一

先師天童古佛上堂擧、世尊道、一人發眞歸源、十方虚空、悉皆消殞。

師拈云、既是世尊所説、未免盡作奇特商量。天童則不然、一人發眞歸源、乞兒打破飯椀。

標題の「転法輪」は本則の『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』略して『首楞厳経』の偽経に対しての道元禅師視点による、真箇の仏経観を「転法輪」の言辞で説くものです。

七十五巻本配列では前巻『三昧王三昧』巻で説く「 釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり」を承けての『転法輪』の巻と考えられ、七十五巻の連続性が認められると思われますが、奥書による示衆年月日では寛元二(1244)年二月二十七日「転法輪」の直近の示衆年月日は同年二月二十四日提唱の「三十七品菩提分法」ですが、七十五巻配列は道元禅師の前年に自身が拾勒されたものとすると、『三昧王三昧』巻と『転法輪』巻との間には二週間程の時差があり、先程云う眼蔵の連続性は後付けとも考えられる事から、寛元四(1246)年九月の『出家』巻までの提唱では体系的な目途はされていなかったと思われます。

本則は『如浄語録』下巻からの引用文で、「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」の経文は『首楞厳経』九「仏告阿難、及諸大衆、汝等当知、有漏世界十二類生、本覚妙明覚円心体、与十方仏無二無別―中略―則此十方微塵国土非無漏者、皆是迷頑妄想安立―中略―汝等一人発心帰元、此十方空、皆悉銷殞」(仏、阿難及び諸の大衆に告げ給わく、汝等当に知るべし、有漏の世界の十二類の生、本覚妙明覚円の心体は、十方の仏と無二無別なりー中略―則ち此の十方微塵の国土の無漏に非ざる者は、皆是れ迷頑妄想の安立なりー中略―汝等一人真を発して元に帰すれば、此の十方の空は、皆悉く銷殞す)

読みは先師天童古仏(如浄和尚)上堂にて挙す、世尊言く、一人の発真帰源は十方虚空なり悉皆消殞す。師(如浄)拈じて云う、既に是れは世尊の説く所、未だ尽く奇特商量を作すこと免れず。天童(如浄)は則ち然らず、一人の発真帰源は、乞児(乞食)の飯椀(応量器)を打破す。と素読されますが、文意は世尊の説く「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」に対し如浄は、世尊の所説ではあるけれども未だ説き尽くされていなく、一人発真帰源は乞食僧が応量器を打ち破る事。と「悉皆消殞」に対し日常生活の具体例での商量に如浄の仏法会が見られます。

 

    二

五祖山法演和尚道、一人發眞歸源、十方虚空、築著磕著。

佛性法泰和尚道、一人發眞歸源、十方虚空、只是十方虚空。

夾山圜悟禪師克勤和尚云、一人發眞歸源、十方虚空、錦上添花。

大佛道、一人發眞歸源、十方虚空、發眞歸源。

この段では五祖法演(―1104)・圜悟克勤(1063―1135)・仏性法泰(不詳)それぞれの「一人発真帰源」に対する拈語を紹介し、最後に道元禅師自身による拈語ですが、取り挙げる人物は臨済宗楊岐派と云われる法脈の師弟関係に当たる人選です。法演和尚は「

悉皆銷殞」に対し「築著磕著」と法性が充ち満ちていると拈語し、孫弟子の法泰和尚は「只是十方虚空」とそのものを云い、克勤和尚は「錦上添花」と郷里の特産物(蜀錦)を喩えにし、表現の帰源する処は「十方虚空」をそれぞれの云い様で表明したまでです。

最後に道元禅師の拈語は「「一人発真帰源」→「十方虚空」→「発真帰源」と円環帰結の同時同体同性同等を主張される拈語です。

因みにこの提唱は『如浄語録』を元に三人の和尚による同則拈提として取り挙げていますが、法演・法泰は共に『嘉泰普灯録』二十六・拈古からの引用、また克勤の拈語は『圜悟録』八・五月旦日上堂語を底本としますが、執筆当時どのように各々の禅籍渉猟をされたのでしょうか。現在ではパソコン検索機能を使い即座に検出可能ですが、侍者和尚であった懐弉が検索作業の助力をされていたのでしょうか。さらに云うと『三十七品菩提分法』巻と『転法輪』巻との間には「三日」しか期日がないこと、資料収集等に要する日時にはとの疑問が付き纏います。

いま擧するところの一人發眞歸源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞嚴經のなかの道なり。この句、かつて數位の佛祖おなじく擧しきたれり。いまよりこの句、まことに佛祖骨髓なり、佛祖眼睛なり。しかいふこゝろは、首楞嚴經一部拾軸、あるいはこれを僞經といふ、あるいは僞經にあらずといふ。兩説すでに往々よりいまにいたれり。舊訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり。しかあれども、いますでに五祖の演和尚、佛性泰和尚、先師天童古佛、ともにこの句を擧しきたれり。ゆゑにこの句すでに佛祖の法輪に轉ぜられたり、佛祖法輪轉なり。このゆゑにこの句すでに佛祖を轉じ、この句すでに佛祖をとく。佛祖に轉ぜられ、佛祖を轉ずるがゆゑに、たとひ僞經なりとも、佛祖もし轉擧しきたらば眞箇の佛經祖經なり、親曾の佛祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、佛祖すでに拈來すれば佛法輪なり、佛正法眼藏なり。

これより五人による拈語に対する拈提を聴聞したい処ですが、本論では偽経に対する註釈を主要部となります。

「一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞厳経のなかの道なり。この句、かつて数位の仏祖おなじく挙しきたれり。いまよりこの句、まことに仏祖骨髓なり、仏祖眼睛なり」

この一人発真帰源の言句は相当に気に入られたものと見え、全くの同文が『永平広録』二・一七九則(寛元四(1246)年六月下旬頃)にも取り挙げられ、仏祖の骨髄眼睛と絶賛の言辞です。

「しかいふこゝろは、首楞厳経一部拾軸、あるいはこれを偽経といふ、あるいは偽経にあらずといふ。両説すでに往々よりいまにいたれり。旧訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり」

「しか云う」は一人発真帰源を指し、「こころ」は仏祖骨髄眼睛を言い、「首楞厳経一部拾軸」の拾軸とは十巻を拾軸と言われます。「偽経」とは偽作の経典を云い名を仏説に借りて後人が創作した経文を云うが、主に支那大陸南北朝・唐期)で創文されたものを云う。「旧訳新訳」とは玄奘(602―664)以前の訳経を旧訳(くやく)以後のものを新訳と呼びならわす。旧訳者の代表格は鳩摩羅什(350―409)である。「神龍年中の訳」とは『続古今訳経図紀』に説く処の首楞厳経は唐の中宗の神龍元年(705)五月に中インド僧の般刺蜜帝が訳出したとするを言うものです。

「しかあれども、いますでに五祖の演和尚、仏性泰和尚、先師天童古仏、ともにこの句を挙しきたれり。ゆゑにこの句すでに仏祖の法輪に転ぜられたり、仏祖法輪転なり」

「しかあれども」は世人が云う般刺蜜帝の訳経を偽経と云うが、百四十年前の法演和尚・百年前の仏性泰和尚、二十年前の如浄和尚がそれぞれ上堂にて拈語される事からして、偽経であっても仏祖の法輪に転ぜられるとの見解です。

「このゆゑにこの句すでに仏祖を転じ、この句すでに仏祖をとく。仏祖に転ぜられ、仏祖を転ずるがゆゑに、たとひ偽経なりとも、仏祖もし転挙しきたらば真箇の仏経祖経なり、親曾の仏祖法輪なり」

前句に引き続き同主旨たる文意ですが、このような拈提は当時の書誌学者等に対するもので、経論師の立場と仏法師との視点との大いなる差異論です。

「たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、仏祖すでに拈来すれば仏法輪なり、仏正法眼藏なり」

ここでは偽経と仏法との比喩論を、このような「瓦礫・黄葉」⇆「優曇花・金襴衣」を例題にしての説明で、無価値な瓦礫黄葉も仏祖(真実)が拈来すれば、価値ある優曇華・金襴衣と同等同格同性に全一的存在が「仏正法眼藏」であるとの提示です。

 

    三

しるべし、衆生もし超出成正覺すれば佛祖なり。佛祖の師資なり、佛祖の皮肉骨髓なり。さらに從來の兄弟衆生を兄弟とせず。佛祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ僞なりとも、而今の句は超出の句なり。佛句祖句なり、餘文餘句に群すべからず。たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を佛言祖語に擬すべからず、參學眼睛とすべからず。而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を擧拈すべし。

衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり」は前巻『三昧王三昧』巻冒頭で説く「驀然として尽界を超越してー中略―仏祖これをいとなみて」に通底するもので、七十五巻本正法眼蔵の連続性を読み取ることが出来ます。この場合の「仏祖」は真実と語換可能です。

「従来の兄弟衆生を兄弟とせず。仏祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ偽なりとも、而今の句は超出の句なり」

超出成正覚以前は兄弟子弟弟子の如くの存在が、超出成正覚の真実態では同程に均等化され、先の首楞厳経が偽経であっても而今の句(一人発真帰源、十方虚空、悉皆銷殞)は超出(真実)の文言であるとの言辞です。

「この句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、参学眼睛とすべからず。而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を挙拈すべし」

相当に一人発真の句は気に入られたようですが、首楞厳経に説く全文言を「仏言祖語」と受け取ってはならず、参学の眼目にはするなとの、あくまで偽経を念頭に置いた提唱のようです。

 

    四

いはゆる轉法輪は、佛祖儀なり。佛祖いまだ不轉法輪あらず。その轉法輪の様子、あるいは聲色を擧拈して聲色を打失す。あるいは聲色を跳脱して轉法輪す。あるいは眼睛を抉出して轉法輪す。あるいは拳頭を擧起して轉法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自轉なり。而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。佛祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに轉法輪なり。轉法輪といふは、功夫參學して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。

この最終段にて「転法輪」の何たるかを説かれます。

「転法輪は、仏祖儀なり。仏祖いまだ不転法輪あらず」

「仏祖儀」の儀とは「たちふるまい・かたどる」の意がありますから、「坐の姿」を表徴するものと見れば前巻『三昧王三昧』巻との整合性が見られます。「仏祖」は真実とも云い換えられると先に云いましたので、真実(尽十方界)は常に法輪を転じ続けていると。所謂は常時新陳代謝している現成を「仏祖」と道元禅師は呼称されているのです。

そこで転法輪の具現例示し、

「あるいは声色を挙拈して声色を打失す。あるいは声色を跳脱して転法輪す。あるいは眼睛を抉出して転法輪す。あるいは拳頭を挙起して転法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり」

このように、現場に即した各々の日常底が法輪という言句を以て円環していると。

而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。仏祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに転法輪なり」

而今の句」は発真帰源・十方虚空・悉皆銷殞の処在では、明星は明星・鼻孔は鼻孔・桃花は桃花・虚空は虚空とそのものの「当体」を「法輪」と見定め、その連続する当体を「転法輪」との意です。

「転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。」

道元禅師の最終結論は「長連床上」僧堂にての坐禅修行を「請益辦道」といい、趙州従諗・馬祖道一等の口癖であった「不離叢林」で以て「功夫参学」を「転法輪」との提唱でした。