正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵自証三昧

正法眼蔵 第六十九 自証三昧

    一

諸佛七佛より、佛々祖々の正傳するところ、すなはち修證三昧なり。いはゆる或從知識、或從經巻なり。これはこれ佛祖の眼睛なり。このゆゑに、曹谿古佛、問僧云、還假修證也無。僧云、修證不無、染汚即不得。しかあればしるべし、不染汚の修證、これ佛祖なり。佛祖三昧の霹靂風雷なり。

「自証三昧」の標題は、本巻中部に説く洞山道微(生没年不詳)と大慧宗杲(1089―1163)との問答での宗杲が云う「本具正眼自証自悟」から採用したものと思われるが、本巻での要旨は「諸仏七仏より仏々祖々の正伝するところ、すなはち修証三昧なり」に収斂されます。修証三昧とは修行と証行の同時同体を云うもので、教証三昧とも行証三昧とも云い替えられます。

その具体例を「或従知識、或従経巻」とされます。この用例は『仏性』・『光明』・『古鏡』・『授記』・『諸悪莫作』・『説心説性』等各巻にて援用されます。

さらにこれら(修証三昧・或従知識経巻)を別語で「仏祖の眼睛」と位置づけますが、これらの語義と同程文体が『看経』巻(仁治二(1241)年興聖寺示衆)冒頭に、「阿耨多羅三藐三菩提の修証、あるいは知識を用い、あるいは経巻を用いる。知識と云うは全自己の仏祖なり。全仏祖の自己、全経巻の自己なるが故にかくの如くなり。―中略―これ活眼睛なり」(「正法眼蔵」二・二〇五・水野・岩波文庫)と有ります。

さらに古則公案である「曹谿古仏、僧(南嶽懐譲)に問うて云わく、還って修証を仮るや也(また)無しや。僧云わく、修証は無きにあらず、染汚(ぜんな)することは即ち得ず」を取り挙げ「修証」の語義に注視させ、南嶽が提示した「不染汚の修証これ仏祖なり」と不染汚つまり無所得無所悟の実修実証こそが仏祖との定義づけで、さらに「仏祖三昧の霹靂風雷」と自然界の猛々しい音響を仏祖と直結させる文体です。

 

    第二段

或從知識の正當恁麼時、あるいは半面を相見す、あるいは半身を相見す。あるいは全面を相見す、あるいは全身を相見す。半自を相見することあり、半佗を相見することあり。神頭の披毛せるを相證し、鬼面の戴角せるを相修す。異類行の隨佗來あり、同條生の變異去あり。かくのごとくのところに爲法捨身すること、いく千萬廻といふことしらず。爲身求法すること、いく億百劫といふことしらず。これ或從知識の活計なり、參自從自の消息なり。瞬目に相見するとき破顔あり、得髓を禮拝するちなみに斷臂す。おほよそ七佛の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。見佗の知識、むかしにあらず、いまにあらず。

「或従知識の正当恁麼時」とは前段で説いたように「知識といふは全自己の仏祖なり」(『看経』巻)を底本にすれば、尽界の全存在を意味しますから此処で説く「半面」「半身」「全面」「全身」「半自」「半他」は相対的範疇ではなく、全機現的意味合いを呈し半も全も絶対的見方を指します。

また「相見」とは「それぞれがそれなる道理」『御抄』(「註解全書」八・四〇九)と解し、全機なる道理を言うものです。

「神頭の披毛せるを相証し、鬼面の戴角せるを相修す。異類行の随他来あり、同条生の変異去あり」

「神頭披毛、鬼面戴角」とは異類行の具体例示をしたまでで、或従知識の正当恁麼時・つまり全自己の状態を、先程の半面を相見し半他を相見し、さらに奇妙奇天烈な神頭披毛を相証しと、「同条生」なる条件に於いても「変異」さまざまな事があると云うことを、一見不可解な文言で以て説く独特な論法です。

「かくのごとくのところに為法捨身すること、いく千万廻といふこと知らず。為身求法すること、いく億百劫といふこと知らず。これ或従知識の活計なり、参自従自の消息なり。瞬目に相見するとき破顔あり、得髄を礼拝するちなみに断臂す」

「為法捨身」とは「仮修証の義なり」『聴書』(「註解全書」八・四四一)と解する事により、「為法」と「捨身」は一等(同等)の位格と成り更に「為身求法」も同義句で、この「修証」という意識態を千万回・億百劫と繰り返す日常底を「或従知識の活計」はたらきと呼び、「参自従自」自己に参じ自己に従う消息であるとの明言です。

そこで為法捨身・為身求法の例示を馴れ親しむ「瞬目に相見するとき破顔」と霊山上での説法風景、さらに「得髄を礼拝するちなみに断臂」と云うおうに達磨と慧可との相見の様子を記述するものですが、先に修証は一等と説いたように釈尊と迦葉・達磨と慧可との一体性つまり解脱の姿を言うものです。

「おほよそ七仏の前後より、六祖の左右にあまれる見自の知識、ひとりにあらず、ふたりにあらず。見他の知識、昔にあらず、今にあらず」

或従知識の結語として過去七仏から六祖の両頭たる青原行思(―740)と南嶽懐譲(677―744)に至る数多の「見自の知識・見他の知識」所謂は、自他を超克した仏祖は時処に関わらず存在するとの言上です。

或從經巻のとき、自己の皮肉骨髓を參究し、自己の皮肉骨髓を脱落するとき、桃花眼睛づから突出來相見せらる、竹聲耳根づから、霹靂相聞せらる。おほよそ經巻に從學するとき、まことに經巻出來す。その經巻といふは、盡十方界、山河大地、草木自佗なり。喫飯著衣、造次動容なり。この一々の經典にしたがひ學道するに、さらに未曾有の經巻、いく千萬巻となく出現在前するなり。是字の句ありて宛然なり、非字の偈あらたに歴然なり。これらにあふことをえて、拈身心して參學するに、長劫を消盡し、長劫を擧起すといふとも、かならず通利の到處あり。放身心して參學するに、朕兆を抉出し、朕兆を趯飛すといふとも、かならず受持の功成ずるなり。

この段は「或従経巻」に対する拈提ですが、前段の或従知識同様に『看経』巻に言う「経巻といふは全自己の経巻なり、全経巻の自己なるがゆえに」に従えば、「或従経巻のとき、自己の皮肉骨髄を参究」つまり自己の全体(皮肉骨髄)の参究とは能見所見能聞所聞を設けずに全機の自己に成り切る事を云うもので、「喩えば三宝で云われる「僧」のようなものです。「僧」は個人ではなく僧団と云う「サンガ」を尊重するもので、個々人を見るのではなく、全体をトータルに捉える事が重要です。

ここでは皮肉骨髄の例示を霊雲の「桃花」また香厳の「竹声」に喩え、「桃花と眼睛」・「竹声と耳根」を別物とはせず「づから」と連続軌道に乗じての拈提です。

「おおよそ経巻に従学する時、まことに経巻出来す。その経巻と云うは、尽十方界、山河大地、草木自他なり。喫飯著衣、造次動容なり」

「経巻」の具体的説明は、「尽十方界」・「山河大地」・「草木自他」と大自然を皮肉骨髄・全自己と表徴し、また「喫飯著衣」・「造次動容」と云った日常底をも「経巻」という真実態であると説かれます。

「この一々の経典に従い学道するに、さらに未曾有の経巻、いく千万巻となく出現在前するなり」

今挙げた要素のひとつ一つが真実を構成する要体ですから、「未曽有・千万巻」と無尽数を言うもので、その真実が「現在出前」と現成の公案として説きます。

「是字の句ありて宛然なり、非字の偈あらたに歴然なり。これらに逢うことを得て、拈身心して参学するに、長劫を消尽し、長劫を挙起すと云うとも、必ず通利の到処あり。放身心して参学するに、朕兆を抉出し、朕兆を趯飛すと云うとも、必ず受持の功成ずるなり」

「是字」は肯定の字句「非字」は否定の偈との能所見で「宛然」「歴然」としますが、先程の「経巻というは尽十方界」から把捉すると、凡見とは異なり是も非も同等となります。

「これら」とは尽十方界の而今現成の事象を「拈身心」つまり尽十方界で拈じ参学すると「長劫」と云う無限の時間を使い尽くし消え失せると。次に言う「長劫を挙起すといふとも、かならず通利の到処あり」は無限の時間を経験するとしても、時処関わりなく通達できると。『聴書』では「通利」を「通彼通是の義」と説かれますが、わかりづらい箇所です。

さらに拈身心に対し「放身心」に対する拈語で、今度は長劫に対し「朕兆」を快出えぐり出し、さらに趯飛(てっぴ)飛び越えても、経巻に対する受持の功成ずるとし、『御抄』(「註解全書」八・四一五)では「長劫と朕兆・通利と受持只同じ道理」と解するが難解である。

 

    三

いま西天の梵文を、東土の法本に翻訳せる、わづかに半萬軸にたらず。これに三乘五乘、九部十二部あり。これらみな、したがひ學すべき經巻なり。したがはざらんと廻避せんとすとも、うべからざるなり。かるがゆゑに、あるいは眼睛となり、あるいは吾髓となりきたれり。頭角正なり、尾條正なり。佗よりこれをうけ、これを佗にさづくといへども、たゞ眼睛の活出なり、自佗を脱落す。たゞ吾髓の附囑なり、自佗を透脱せり。眼睛吾髓、それ自にあらず佗にあらざるがゆゑに、佛祖むかしよりむかしに正傳しきたり、而今より而今に附囑するなり。拄杖經あり、横説縱説、おのれづから空を破し有を破す。佛子經あり、雪を澡し霜を澡す。坐禪經の一會兩會あり。袈裟經一巻十袟あり。これら諸佛祖の護持するところなり。かくのごとくの經巻にしたがひて、修證得道するなり。あるいは天面人面、あるいは日面月面あらしめて、從經巻の功夫現成するなり。

段が変わり「経巻」についての概略的説明ですが、この処では「東土の法本に翻訳せる、わづかに半万軸にたらず。これに三乘五乘、九部十二部あり」と規定されますが、『優曇華

巻では「梅花の五葉は三百六十余会なり、五千四十八巻なり、三乗十二分教なり」さらに『仏教』巻でも「釈迦老漢すでに単伝の教法をあらしめんー中略―上乗一心といふは三乗十二分教これなり」(「正法眼蔵」二・二九六・水野・岩波文庫)と提示されるにも関わらず、敢えて「半万軸」五千に及ばずとされるのは、何がしらの意図が有るのでしょうか。

「これら皆、従ひ学すべき経巻なり。したがはざらんと廻避せんとすとも、得べからざるなり」

文意のままに解します。

「かるが故に、或いは眼睛となり、或いは吾髄となり来たれり。頭角正なり、尾条正なり。他よりこれを受け、これを他に授くと云えども、たゞ眼睛の活出なり、自他を脱落す。た陀吾髄の附嘱なり、自他を透脱せり。眼睛吾髄、それ自にあらず佗にあらざるが故に、仏祖昔より昔に正伝し来たり、而今より而今に附嘱するなり」

この「経巻」という真実を此の処では「眼睛」「吾髄」と拈語し、「頭角正」「尾条正」と全体が「正」という経巻に成り切っていると説き、『御抄』(「註解全書」八・四一七)では頭角正尾条正を「首尾相応したる心地」と解します。

さらに同様に経巻という真実を「他よりこれを受け、これを他に授く」とは自も他もが全てが「経巻」という真実で満ち満ちていますから、「自他を脱落」さらに「自他を透脱」と表現し、同じく「経巻」の象徴としての「眼睛」「吾髄」も言句こそ違いますが、尽界の真実の渦中に於いては「自にあらず他にあらず」と同等の事項と認識されます(尽十方界から眺めて)。

「拄杖経あり、横説縱説、おのれづから空を破し有を破す。払子経あり、雪を澡し霜を澡す。坐禅経の一会両会あり。袈裟経一巻十袟あり。これら諸仏祖の護持する処なり。かくの如くの経巻に従いて、修証得道するなり。あるいは天面人面、あるいは日面月面あらしめて、從経巻の功夫現成するなり」

ひとまずは「或従経巻」についての拈提の締め括りですが、ここでは日常底の調度である

「拄杖・払子・坐禅・袈裟」等を真実態である「経」に据え、それぞれに著語を付します。喩えば払子の先には白いヤクの尻尾が使用される事から、「雪を澡し霜を澡す」と言う具合です。

「これら諸仏祖の護持するところなり」以下は文意のままですが、次に説く処の「経巻に従いて修証得道」と当巻でのキーワードである「修証」の文言が使用されます。「天面人面」と「日面月面」は対句としての形容で、さまざまな日常底での現成が経巻であるとの事です。

しかあるに、たとひ知識にもしたがひ、たとひ經巻にもしたがふ、みなこれ自己にしたがふなり。經巻おのれづから自經巻なり。知識おのれづから自知識なり。しかあれば、遍參知識は遍參自己なり、拈百草は拈自己なり、拈萬木は拈自己なり。自己はかならず恁麼の功夫なりと參學するなり。この參學に、自己を脱落し、自己を契證するなり。これによりて、佛祖の大道に自證自悟の調度あり、正嫡の佛祖にあらざれば正傳せず。嫡々相承する調度あり、佛祖の骨髓にあらざれば正傳せず。かくのごとく參學するゆゑに、人のために傳授するときは、汝得吾髓の附囑有在なり。吾有正法眼藏、附囑摩訶迦葉なり

さほど難なく解読するが、或従知識・或従経巻つまり真実底は「みなこれ自己に従う」とある自己は全自己を云うもので、冒頭に説く「或従知識、或従経巻。これはこれ仏祖の眼睛」とも通底するものです。同様に「遍参知識は遍参自己」ならびに「自己」と「万木百草」との同体同等性を「拈」を介在して説き、これらの修証得道の参学には「自己を脱落し、自己を契証するなり」と『遍参』巻での「遍参はただ祇管打坐、身心脱落なり」(「正法眼蔵」三・二四九・水野・岩波文庫)に見合う拈提文辞です。

「これによりて、仏祖の大道に自証自悟の調度あり、正嫡の仏祖にあらざれば正伝せず。嫡々相承する調度あり、仏祖の骨髄にあらざれば正伝せず。かくの如く参学する故に、人の為に伝授する時は、汝得吾髄の附嘱有在なり。吾有正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり」

「これによりて」の「これ」とは或従知識・或従経巻を指し、「仏祖の大道に自証自悟の調度あり」と説かれますが、此巻では他に四箇処「仏祖の大道」の語句が強調されます。因みに『遍参』巻冒頭では「仏祖の大道は究竟参徹なり」と説破されます。

ここで言う「自証自悟」は傲慢さを云うものではなく、全自己の「自」を指し更に「正嫡の仏祖にあらざれば・仏祖の骨髄にあらざれば」正伝せずと、他に七度にわたり「正伝」を列記し、後に説く大慧宗杲等との違いを表徴するものです。

「かくの如く」とは自証自悟・嫡々相承・仏祖の骨髄等を参学することで、「汝得吾髄」の如く釈尊と迦葉との不可分を言うもので、すべて全自己に包含される拈提です。

爲説はかならずしも自佗にかゝはれず、佗のための説著すなはちみづからのための説著なり。自と自と、同參の聞説なり。一耳はきゝ、一耳はとく。一舌はとき、一舌はきく。乃至眼耳鼻舌身意根識塵等もかくのごとし。さらに一身一心ありて證するあり、修するあり。みゝづからの聞説なり、舌づからの聞説なり。昨日は佗のために不定法をとくといへども、今日はみづからのために定法をとかるゝなり。かくのごとくの日面あひつらなり、月面あひつらなれり。佗のために法をとき法を修するは、生々のところに法をきゝ法をあきらめ、法を證するなり。今生にも法をたのためにとく誠心あれば、自己の得法やすきなり

「為説」は前段に言う汝得吾髄・吾有正法眼蔵附嘱摩訶迦葉の因縁話を指しますが、先程も自他の不可分を説いたように「自他に関われず」また「自と自と、同參の聞説なり」と、全自己(全機)である為に同体同等性が提起されます。

「一耳は聞き、一耳は説く。一舌は説き、一舌は聞く。乃至眼耳鼻舌身意根識塵等もかくの如し」一見すると論理破綻な文章のようですが、これまでに云う全自己や自他不可分を念頭に入れれば、「耳」が働く時には代用物はないわけで、耳のなかに「眼鼻舌身意」が混在すると云う見識です。

「さらに一身一心ありて証するあり、修するあり。耳づからの聞説なり、舌づからの聞説なり。昨日は他の為に不定法を説くと云えども、今日は自からの為に定法を説かるるなり。かくの如くの日面あひ連なり、月面あひ連なれり」

前には六根識等の耳と舌で能聞所聞なき旨を説かれましたが、今度は全体の「身心」の一如なる道理を「一身一心ありて証するあり、修するあり」と修証を入れ換えての拈語です。

「耳づからの聞説なり、舌づからの聞説なり」の「づから」の意は接尾語で、「上代の格助詞「つ」に名詞「から(故)」が付いたもので、名詞に付けてそのもの自身で、の意を表す。たとえば「己(おの)づから」「心づから」「手づから」「身づから」など(『全訳古語例解辞典』第二版・北原保雄編・小学館)と解され、前段に於いても「経巻おのれづから自経巻なり、知識おのれづから自知識なり」の用例があります。

次に同様に文言を「昨日は他の為に不定法を説く」対句として「今日は自からの為に定法を説く」と言うように自他は無い事をこのように言われ、さらに「日面月面」の語で以て能所・主客の設定を取り外されるわけです。

「他の為に法を説き法を修するは、生々の処に法を聞き法を明らめ、法を証するなり。今生にも法を他の為に説く誠心あれば、自己の得法易きなり」

自他の不各別道理を云うものです。

あるいは佗人の法をきくをも、たすけすゝむれば、みづからが學法よきたよりをうるなり。身中にたよりをえ、心中にたよりをうるなり。聞法を障礙するがごときは、みづからが聞法を障礙せらるゝなり。生々の身々に法をとき法をきくは、世々に聞法するなり。前來わが正傳せし法を、さらに今世にもきくなり。法のなかに生じ、法のなかに滅するがゆゑに。盡十方界のなかに法を正傳しつれば、生々にきゝ、身々に修するなり。生々を法に現成せしめ、身々を法ならしむるゆゑに、一塵法界ともに拈來して法を證せしむるなり。

しかあれば、東邊にして一句をきゝて、西邊にきたりて一人のためにとくべし。これ一自己をもて聞著説著を一等に功夫するなり。東自西自を一齊に修證するなり。なにとしてもたゞ佛法祖道を自己の身心にあひちかづけ、あひいとなむを、よろこび、のぞみ、こゝろざすべし。一時より一日におよび、乃至一年より一生までのいとなみとすべし。佛法を精魂として弄すべきなり。これを生々をむなしくすごさざるとす。

この段も前段からの自他一体観ならびに徹底した利他主義が説かれる段ですが、晩年に説く十二巻本の『発菩提心』巻を彷彿させる文体です。喩えば「発心とは始めて自未得度先度他の心を発すなり」「たとえ仏に成るべき功徳熟して円満すべしと云うとも、猶めぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心、我れにあらず他にあらず」「菩提心を起こして後、三阿僧祇劫、一百大劫修行す」(「正法眼蔵」四・一七八・水野・岩波文庫)等々の提唱文を参照するに『自証三昧』巻(1244年二月)から建長年間に懸けての道元禅師変遷心が察せられます。

 

    四

しかあるを、いまだあきらめざれば人のためにとくべからずとおもふことなかれ。あきらめんことをまたんは、無量劫にもかなふべからず。たとひ人佛をあきらむとも、さらに天佛あきらむべし。たとひ山のこゝろをあきらむとも、さらに水のこゝろをあきらむべし。たとひ因縁生法をあきらむとも、さらに非因縁生法をあきらむべし。たとひ佛祖邊をあきらむとも、さらに佛祖向上をあきらむべし。これらを一世にあきらめをはりて、のちに佗のためにせんと擬せんは、不功夫なり、不丈夫なり、不參學なり。

これまでは全自己を以てすれば、東辺西辺・聞著説著・東自西自による能所観法は成立せず、一斉に修証と云う実践をと説いて来ましたが、この段では語調が変わり「未だ明らめざれば人の為に説くべからずと思う事なかれ」と言われます。普通は会得しない仏法を伝授する事は戒に抵触するように思われますが、道元禅師の仏法解釈では完全態は設定しませんから、こう言う提唱になるわけで更に「明らめん事を待たんは無量劫にも叶うべからず」と言明されます。

ここでの「あきらめ」とは納得のことで、全自己ではなく自我意識を云うものです。さらに仏法の無窮を説く為「人仏より天仏」「山の心より水の心」「因縁生法より非因縁生法」と、更に「仏祖向上を明らめよ」と仏法の無限性の提言で、結びには「これら無尽の仏法を理解した後で、他の為にせんと思うは、不功夫(工夫がない)不丈夫(勇猛身がない)不参学(向上心がない)」と言われます。

 

    五

およそ學佛祖道は、一法一儀を參學するより、すなはち爲佗の志気を衝天せしむるなり。しかあるによりて、自佗を脱落するなり。さらに自己を參徹すれば、さきより參徹佗己なり。よく佗己を參徹すれば、自己參徹なり。この佛儀は、たとひ生知といふとも、師承にあらざれば體達すべからず、生知いまだ師にあはざれば不生知をしらず、不生不知をしらず。たとひ生知といふとも、佛祖の大道はしるべきにあらず、學してしるべきなり。自己を體達し、佗己を體達する、佛祖の大道なり。たゞまさに自初心の參學をめぐらして、佗初心の參學を同參すべし。初心より自佗ともに同參しもてゆくに、究竟同參に得到するなり。自功夫のごとく、佗功夫をもすゝむべし。

段が変わり参学の第一歩は大風呂敷を広げるのではなく、「一法一儀」の日常態から積み上げるもので、それが利他行と云う天も衝くような志気になり、その時点で「自他を脱落」と説くように自他の境界域は消尽するとの拈語です。

「さらに自己を参徹すれば、先より参徹他己なり。よく他己を参徹すれば、自己参徹なり」

先に自他を脱落と表現しましたから、自己と他己の同体同性を説きます。

「この仏儀は、たとい生知と云うとも、師承にあらざれば体達すべからず、生知いまだ師に逢わざれば不生知を知らず、不生不知を知らず。たとひ生知と云うとも、仏祖の大道は知るべきにあらず、学して知るべきなり」

ここでの「仏儀」は仏性と捉えて「生知」は生まれつきの知性ですから、本覚的宗旨を説く参随達磨宗をも視界に入れた拈提でしょうか。

「生知」の非を説く提唱は他に『法性』巻(寛元元(1243)年冬)にて「たとい生知なりとも、必ず功夫辨道すべし」(「正法眼蔵」三・九四・水野・岩波文庫)との提唱は道元禅師の心底に通絡するものです。

「自己を体達し、他己を体達する、仏祖の大道なり。ただまさに自初心の参学をめぐらして、他初心の参学を同参すべし。初心より自他ともに同参しもてゆくに、究竟同参に得到するなり。自功夫の如く、他功夫をも勧むべし」

同じように「自他の同参」を初心の語としてキーワードに説くものです。

しかあるに、自證自悟等の道をきゝて、麁人おもはくは、師に傳受すべからず、自學すべし。これはおほきなるあやまりなり。自解の思量分別を邪計して師承なきは、西天の天然外道なり、これをわきまへざらんともがら、いかでか佛道人ならん。いはんや自證の言をきゝて、積聚の五陰ならんと計せば、小乘の自調に同ぜん。大乘小乘をわきまへざるともがら、おほく佛祖の兒孫と自稱するおほし。しかあれども、明眼人たれか瞞ぜられん。

第五段で説いた「自証自悟」は全自己の自を指すと注解しましたが、此処に言う「自証自悟」は次段での大慧宗杲が云う「本具正眼自証自悟、豈有不妄付授也」からのもので、「麁人」とは大慧の宗杲を指し、次節からは具体言辞を以て宗杲の麁人ぶりが説かれます。

なお此の処で「小乘の自調・大乗小乗」なる言句を使用されますが、一般的には小乗は南方仏教・大乗は北方仏教と単純に区分けされますが、「自調」の語に注目しなければならず、看話系の人達の指導法は大抵が出息入息の調整を指示するもので、「大乗の自調」なる語も並記すべきと思われます。

「明眼人」には大乗・小乗の選別は有り得ません。

 

    第六段

大宋國紹興のなかに、徑山の大慧禪師宗杲といふあり、もとはこれ經論の學生なり。遊方のちなみに、宣州の珵禪師にしたがひて、雲門の拈古および雪竇の頌古拈古を學す。參學のはじめなり。雲門の風を會せずして、つひに洞山の微和尚に參學すといへども、微、つひに堂奥をゆるさず。微和尚は芙蓉和尚の法子なり、いたづらなる席末人に齊肩すべからず。

杲禪師、やゝひさしく參學すといへども、微の皮肉骨髓を摸著することあたはず、いはんや塵中の眼睛ありとだにもしらず。あるとき、佛祖の道に臂香嗣書の法ありとばかりきゝて、しきりに嗣書を微和尚に請ず。しかあれども微和尚ゆるさず。つひにいはく、なんぢ嗣書を要せば、倉卒なることなかれ、直須功夫勤學すべし。佛祖受授不妄付授也。吾不惜付授、只是儞未具眼在。ときに宗杲いはく、本具正眼自證自悟、豈有不妄付授也。微和尚笑而休矣。

のちに湛堂準和尚に參ず。湛堂一日問宗杲云、儞鼻孔因什麼、今日無半邊。杲云、寶峰門下。湛堂云、杜撰禪和。杲、看經次、湛堂問、看什麼經。杲曰、金剛經。湛堂云、是法平等無有高下。爲什麼、雲居山高、寶峰山低。杲曰、是法平等、無有高下。湛堂云、儞作得箇座主。使下。又一日、湛堂見於粧十王處。問宗杲上座曰、此官人、姓什麼。杲曰、姓梁。湛堂以手自摸頭曰、爭奈姓梁底少箇幞頭。杲曰、雖無幞頭、鼻孔髣髴。湛堂曰、杜撰禪和。湛堂一日、問宗杲云、杲上座、我這裏禪、儞一時理會得。教儞説也説得、教儞參也參得。教儞做頌古拈古、小參普説、請益、儞也做得。祗是儞有一件事未在、儞還知否。杲曰、甚麼事未在。湛堂曰、儞祗欠這一解在。。若儞不得這一解、我方丈與儞説時、便有禪、儞纔出方丈、便無了也。惺々思量時、便有禪、纔睡著、便無了也。若如此、如何敵得生死 杲曰、正是宗杲疑處。後稍經載、湛堂示疾。宗杲問曰、和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事。湛堂囑曰、有箇勤巴子、我亦不識佗。雖然、儞若見佗、必能成就此事。儞若見佗了不可更佗遊。後世出來參禪也。

この一段の因縁を撿點するに、湛堂なほ宗杲をゆるさず、たびたび開發を擬すといへども、つひに欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書をゆるさず、なんぢいまだしきことありと勸勵する、微和尚の觀機あきらかなること、信仰すべし。正是宗杲疑處を究參せず、脱落せず。打破せず、大疑せず、被疑礙なし。そのかみみだりに嗣書を請ずる、參學の倉卒なり、無道心のいたりなり、無稽古のはなはだしきなり。無遠慮なりといふべし、道機ならずといふべし、疎學のいたりなり。貪名愛利によりて、佛祖の堂奥ををかさんとす。あはれむべし、佛祖の語句をしらざることを。稽古はこれ自證と會せず、萬代を渉獵するは自悟ときかず、學せざるによりて、かくのごとくの不是あり、かくのごとくの自錯あり。かくのごとくなるによりて、宗杲禪師の門下に、一箇半箇の眞巴鼻あらず、おほくこれ假底なり。佛法を會せず、佛法を不會せざるはかくのごとくなり。而今の雲水、かならず審細の參學すべし、疎慢なることなかれ。

前半部の和文道元禅師自身による大慧伝、漢文での本則は『大慧宗門武庫』からの引用です。和文体は平易に読み下され漢文体は後ほど訳文にしますが、先にも言明したように標題の「自証三昧」は大慧宗杲が云い切った「自証自悟」が元になり、これまでの提唱ならば「修証三昧」との標題でも障りないものでした。

大慧宗杲は元祐四(1089)年に安徽省宣州で生まれ隆興元(1163)年に化されますが、道元僧団とは因縁深く仁治年間(1240―1243)には義介・義演等日本達磨宗徒が参随し、生涯道元禅師の侍者位を温座した孤雲懐弉も大日能忍を祖とする達磨宗出自でありますが、能忍の師は大慧の宗杲の弟子である拙庵徳光(1121―1203)であることから、初期道元教団を担った人脈は紛れもなく邪禅と称した妙喜(宗杲の号)の薫陶を受けた僧団と起居を共にするも此れ現成でありましょうか。

紹興」は初期南宋時代に元号で1131年から1162年までを云います。

「径山(きんざん)の大慧禅師」とは紹興七(1137)年に浙江省径山能仁寺に住持するを云い、「宣州の珵禅師」は瑞竹(明教)紹珵(生没年不詳)を指し、「雲門の拈古」は雲門文偃(864―949)の『雲門広録』三巻・「雪竇の頌古拈古」は雪竇重顕(980―1052)『明覚録』六巻を指し、それらが大慧禅師の参学のスタートであったと。

「洞山の微和尚」は洞山道微(生没年不詳)を云い、江西省筠州洞山に住したことから洞山の微和尚と云う。「芙蓉和尚の法子」とは洞山良介から曹山・雲居と続く法脈で大陽警玄(943―1027)・投子義青(1032―1083)・芙蓉道楷(1043―1118)と続く法系で、後の道元禅師に列席する法絡は道微の法兄にあたる丹霞子淳(1064―1117)・真歇清了(1088―1151)と続き、同時代に宏智正覚(1091―1157)・大慧宗杲が法筵を広げたわけである。

次に道微和尚の入室を許されず湛堂準和尚(1061―1115)に参ずからの漢文を石井修道著『説心説性・自証三昧考』(駒沢大学仏教学部研究紀要第六十七号・平成二十一年三月・ダウンロ―ド可・以後自証三昧考と略記)からの訳出文を参考に記す。

➀湛堂一日問宗杲云、你鼻孔因什麼、今日無半辺。

你の鼻孔は何故(什麼)半分ないか。

杲云、宝峰門下。湛堂云、杜撰禅和。

宗杲が答う、宝峰(あなた)の門下ですから。湛堂云う、いいかげんな禅坊主が。

②杲、看経次、湛堂問、看什麼経。

宗杲が看経(かんきん)の時に湛堂が問うた、何の経を読むか。

杲日、金剛経

宗杲が答う、金剛(般若)経です。

湛堂云、是法平等無有高下。為什麼、雲居山高、宝峰山低。

湛堂が云うには、金剛経では高下あることなしと云うが、なんとしてか雲居山は高く、宝峰山は低いか。

杲曰、是法平等、無有高下。

宗杲が答うには、是(金剛経)の法は平等にして高下なし。

湛堂云、你作得箇座主。

湛堂が云うには、你(宗杲)は一人の教家人に作ってしまった。

③又一日、湛堂見於粧十王処。問宗杲上座曰、此官人、姓什麼。

又ある日湛堂が十王像を見て、宗杲上座に問うて云う。この官人の姓はなにか。

杲曰、姓梁。

宗杲が答える、姓(名)は梁です。

湛堂以手自摸頭曰、争奈姓梁底少箇幞頭。

湛堂は手で頭をなでて云った。姓が梁とする者(湛堂自身)に、幞頭(ずきん)が無いのはどうしたものか。

杲曰、雖無幞頭、鼻孔髣髴。

宗杲が云うのには、ずきんは無くても、鼻の孔はそっくり(髣髴)です。

湛堂曰、杜撰禅和。

湛堂は云う、いいかげん(杜撰)な禅坊主め

④湛堂一日、問宗杲云、杲上座、我這裏禅、你一時理会得。教你説也説得、教你参也参得。教你做頌古拈古、小参普説、請益、你也做得。祗是你有一件事未在、你還知否。

湛堂ある日、宗杲に問うて云う、杲上座、我が禅を、你は一気に理解した。你に説法させれば説き、你をして参禅させれば参ずる。你に頌古拈古、小参普説、請益を做(作の俗字)せれば、你また作得す。ただ是れ你には一件の事末在あり、你また知るや否や。

杲曰、甚麼事未在。

宗杲が云う、甚麼事(なに)が未在か。

湛堂曰、你祗欠這一解在。加。若你不得這一解、我方丈与你説時、便有禅、你纔出方丈、便無了也。惺々思量時、便有禅、纔睡著、便無了也。若如此、如何敵得生死。

湛堂は云う、你はただこの一解を欠くこと在り。繁(大悟徹底しカッと一声すること)。若し你がこの一解を得ないならば、我が方丈を出た途端に無くなってしまう。眼ざめて思量する時は禅が有るが、睡ってしまった途端に無くなってしまう。若しこのようであるならば、どうして生死(まよい)を相手に立ち向かえるか。

杲曰、正是宗杲疑処。

宗杲が答えるに、正に是れが宗杲の疑う処です。

⑤後稍径載、湛堂示疾。

のちに少々年を経て、湛堂は病を示した。

宗杲問曰、和尚百年後、宗杲依附阿誰、可以了此大事。

宗杲が問うに、和尚百年後、宗杲は誰に師事し、この大事を了ずればよいでしょか。

湛堂嘱曰、有箇勤巴子、我亦不識他。雖然、你若見他、必能成就此事。你若見他了不可更他遊。後世出來参禅也。

湛堂は云いつけた。勤巴子(圜悟克勤・四川省巴州出身による呼称)という者が居り、我もまた他(かれ)を識らない。你がもし他に見(あ)えば、必ず能くこの大事を成就できよう。你が若し彼に会見し終われば更に他所に遊山してはならない。後に参禅了畢できるだろう。

「この一段の因縁を検点するに、湛堂なお宗杲を許さず、たびたび開発を擬すと云えども、遂に欠一件事なり。補一件事あらず、脱落一件事せず。微和尚そのかみ嗣書を許さず、なんぢ未だしき事ありと勧励する、微和尚の観機明らかなること、信仰すべし。正是宗杲疑処を究参せず、脱落せず。打破せず、大疑せず、被疑礙なし。そのかみ妄りに嗣書を請ずる、参学の倉卒なり、無道心の到りなり、無稽古のはなはだしきなり。無遠慮なりと云うべし、道機ならずと云うべし、疎学の到りなり。貪名愛利によりて、仏祖の堂奥を犯さんとす。憐れむべし、仏祖の語句を知らざることを。」

これから古則話頭に対する拈提で平易な文体ですが、この徹底した批評は後段に説く『大慧語録』巻六「大慧普覚禅師塔銘」(以後「塔銘」に略記)の改変による影響でしょうか。(詳細は前出『自証三昧考』頁一―六)

「稽古はこれ自証と会せず、万代を渉猟するは自悟と聞かず、学せざるによりて、かくの如くの不是あり、かくの如くの自錯あり。かくの如くなるによりて、宗杲禅師の門下に、一箇半箇の真巴鼻あらず、多くこれ仮底なり。仏法を会せず、仏法を不会せざるはかくの如くなり。而今の雲水、必ず審細の参学すべし、疎慢なることなかれ」

ここに言う「稽古」も「万代を渉猟」も日常底の一コマですから、これを「自証自悟」とは認識できない事を、「仮底なり」つまり「うわべだけの人」「ニセ者」「まやかし」と断定されます。

次に説く「仏法を会せず、仏法を不会せざる」と毎巻の舌法で以て、宗杲の如くに嗣書を頂点に据えた思考法では片手落ちとの拈提です。

而今の雲水」とは懐弉・詮慧をも含む山内大衆に呼びかけるもので、次節に説く「神悟」に対し審細に参学し疎慢になるなとの道元禅師の老婆親語調です。

 

    七

宗杲因湛堂之囑、而湛堂順寂後、參圜悟禪師於京師之天寧。圜悟一日陞堂、宗杲有神悟、以悟告呈圜悟。悟曰、未也、子雖如是、而大法故未明。又一日圜悟上堂、擧五祖演和尚有句無句語。宗杲聞而言下得大安樂法。又呈解圜悟。圜悟笑曰、吾不欺汝耶。

これは『塔銘』(「大正蔵」四七・八三六・下)からの引用文ですが先ずは訳文にすると、

「宗杲は湛堂の云いつけで、湛堂示寂の後に、東京開封府(江南省開封市)の天寧寺に於いて圜悟克勤(1063―1135)に参禅した。圜悟がある日の陞堂(上堂)で、宗杲は神悟を感得し、その悟りを圜悟に報告した。圜悟が云うには、子(なんぢ)は神悟を得たと云っても大法は故(ことさ)らに未明だ。またある日圜悟は上堂し、五祖法演(―1104)和尚の有句無句の話頭を取り挙げた。(有句無句は『真字正法眼蔵』中・五十七則参照)宗杲は有句無句の話頭を聞き言下に大安楽法を得たと云い、また圜悟は笑って云う、吾(圜悟)は汝(宗杲)には欺かれなどはしない」

と訳し、さらに本則と比較する為前記『塔銘』を並記す。

「遂津致行季来京師。見勤于天寧。一日勤陞堂。師豁然神悟。以語勤。勤日。未也。子雖有得矣。而大法故未明。又一日勤挙演和尚有句無句語。師言下得大安楽法。勤拊掌日。始知吾不汝欺耶。」

比較すると提唱本則は原文そのままの引用ではなく、道元禅師による作為的改変の跡が見て取れます。

本則の・印の圜悟笑日の添語により圜悟と宗杲との距離は縮小されませんが、原文では圜悟は手を叩いて「吾(圜悟)は汝(宗杲)に欺かれていなかった」と師と弟子との距離の親近さが読み取れます。

これ宗杲禪師、のちに圜悟に參ずる因縁なり。圜悟の會にして書記に充す。しかあれども、前後いまだあらたなる得處みえず。みづから普説陞堂のときも得處を擧せず。しるべし、記録者は神悟せるといひ、得大安樂法と記せりといへども、させることなきなり。おもくおもふことなかれ、たゞ參學の生なり。

これから数段の懸けての拈提ですが、ここでは本則である『塔銘』には不載の「書記に充す」また「普説陞堂のときも得処を挙せず」と径山等での住持職時を取り挙げるが、本則に云う「神悟・得大安楽法」の根拠の未載を「ただ参学の生なり」と言わしめる拈提でしょうか。

 

    八

圜悟禪師は古佛なり。十方中の至尊なり。黄蘗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり。佗界にもまれなるべき古佛なり。しかあれども、これをしれる人天まれなり、あはれむべき娑婆國土なり。いま圜悟古佛の説法を擧して、宗杲上座を撿點するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらず、いかにいはんや師よりもすぐれたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。

圜悟克勤を黄檗希運と並び称する事例は他では見られませんが、「古仏」と称する尊宿は「先師古仏(如浄)」・「曹谿古仏(六祖慧能)」・「宏智古仏」・「趙州古仏」・「嵩山高祖古仏(菩提達磨)」それに『面授』巻にては「黄檗は古仏なり」(「正法眼蔵」三・一五六・水野・岩波文庫)と記され、いかに圜悟が評価されていたかが窺えますが、当時の宗教界では道元禅師が思う程には評価が成されていなかった事がわかります。

またこの段の拈提では宗杲を「上座」と呼び他では宗杲禅師と呼び、「圜悟禅師は古仏なり」と師と同様に尊称を以て書き分けることから、「上座」を一段下に置くと云う見方もあるようですが、「上座」は法臘20歳より49歳までの比丘、「和尚」を法臘10歳以上の智慧比丘とされますから、蔑称で以ての「宗杲上座」との呼びかけではないと思われます。

 

    九

しかあればしるべし、宗杲禪師は減師半徳の才におよばざるなり。たゞわづかに華嚴楞嚴等の文句を諳誦して傳説するのみなり。いまだ佛祖の骨髓あらず。宗杲おもはくは、大小の隱倫、わづかに依草附木の精靈にひかれて保任せるところの見解、これを佛法とおもへり。これを佛法と計せるをもて、はかりしりぬ、佛祖の大道いまだ參究せずといふことを。圜悟よりのち、さらに佗遊せず、知識をとぶらはず。みだりに大刹の主として雲水の參頭なり。のこれる語句、いまだ大法のほとりにおよばず。しかあるを、しらざるともがらおもはくは、宗杲禪師、むかしにもはぢざるとおもふ。みしれるものは、あきらめざると決定せり。つひに大法をあきらめず、いたづらに口吧々地のみなり。

ここでは再び宗杲に対する批評ですが、「減師半徳」とは師の徳を半分減ずの意で、師匠と同程度の力量で嗣法しても師匠の圜悟の評を下げるだけで、「見過於師」師を超えてこそ「方堪伝授」仏々の伝法に堪え得るとの意で、此処にも黄檗の言動と対比せられる文言です。

宗杲が考える仏法理解は、大なり小なりの隠遁者が先尼外道等が説く処の心常相滅の邪見を、仏法と勘違いしているから、仏祖の大道未だ参究はしていないと。

「圜悟よりのち、さらに他遊せず、知識をとぶらわず。妄りに大刹の主として雲水の参頭なり」

この文章、一般論では宗杲は圜悟の下で大悟(三十七歳)し、四十九歳で浙江省臨安府径山能仁寺に住持し、さらに六十八歳では浙江省慶元府阿育王山広刹寺に晋山されての事情を示唆し、更に雲水の参頭と云い放ち諸寺での住職とは認めぬものです。続けて『大慧語録』等の説法も「六寸の舌鋒」による吧々地と、親近者にとっては苦々しい言説であろう。(吧々地については『真字正法眼蔵』中・三十八則参照)

 

    十

しかあればしりぬ、洞山の微和尚、まことに後鑑あきらかにあやまらざりけりといふことを。宗杲禪師に參學せるともがらは、それすゑまでも微和尚をそねみねたむこと、いまにたえざるなり。微和尚はたゞゆるさざるのみなり。準和尚のゆるさざることは、微和尚よりもはなはだし。まみゆるごとには勘過するのみなり。しかあれども、準和尚をねたまず。而今およびこしかたのねたむともがら、いくばくの懡嫁なりとかせん

ここでは本則に挙げた洞山道微・湛堂文準を引き合いに出した拈提です。

道元禅師在宋時は『辨道話』にて「見在、大宋には臨済宗のみ天下にあまねし」(「正法眼蔵」一・一四・水野・岩波文庫)と言われるように、大慧宗杲の孫・曾孫時代であり士大夫(居士)も含めると相当数と見込まれ、その連中の一部が保身の為道微・文準両和尚を槍玉に挙げる状況を「懡嫁」つまり恥ずかしい事だと言われます。

 

    十一

おほよそ大宋國に佛祖の兒孫と自稱するおほかれども、まことを學せるすくなきゆゑに、まことををしふるすくなし。そのむね、この因縁にてもはかりしりぬべし。紹興のころ、なほかくのごとし。いまはそのころよりもおとれり、たとふるにもおよばず。いまは佛祖の大道なにとあるべしとだにも知らざるともがら、雲水の主人となれり。

ここも在宋留学時の状況を説明するもので、「紹興のころ」は宗杲四十四歳から七十四歳までの時期で、その間五十三歳から六十八歳の十五年間は湖南省衡州・広東省梅州に流罪されるという波乱万丈な人生でしたが、「今はその頃よりも」と提唱時の寛元二年1244年を以て「今」とするのか、在宋時の1225年頃とするのか判断しかねますが、宗杲の云う神悟・大安楽法をピックアップし、日本達磨宗・大日能忍の無師独悟を承認した仏照徳光、さらに徳光の弟子である浙翁如琰(1151―1225)・無際了派(1149―1229)それぞれに参禅した道元禅師からは、ここでの「今」は在宋時の前出両僧ならびに波著寺に住する懐鑑をも見据えた構文だと考察されます。

 

    十二

しるべし、佛々祖々、西天東土、嗣書正傳は、青原山下これ正傳なり。青原山下よりのち、洞山おのづから正傳せり。自餘の十方、かつてしらざるところなり。しるものはみなこれ洞山の兒孫なり、雲水に聲名をほどこす。宗杲禪師なほ生前に自證自悟の言句をしらず、いはんや自餘の公案を參徹せんや。いはんや宗杲禪老よりも晩進、たれか自證の言をしらん。

しかあればすなはち、佛祖道の道自道佗、かならず佛祖の身心あり、佛祖の眼睛あり。佛祖の骨髓なるがゆゑに、庸者の得皮にあらず。

『自照三昧』巻の締め括りの結語は道元禅師自身の法脈の正統性を強調するもので、六祖からの直系である青原・石頭・薬山と連綿する洞山・曹山に続く曹洞法脈を正禅と宣揚する論法は、『仏道』巻で言う「家風有別者、不是仏法也」(「正法眼蔵」三・二一・水野・岩波文庫)の言明から類推するに道元禅師の本意ではないようにも思われるが、このように説かざる得ない山内の閉塞感を払拭する意味合いをも含意する拈提であると読み解き擱筆とする。