正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

泰澄の伝記について

             泰澄の伝記について 『福井県史』通史編より抜書(一部改変)

  白山信仰の開創者として、奈良時代に活躍したとされる泰澄については、諸本に種々の伝記が残されている。そのうち最古の成立とされ、泰澄の行状について最も具体的な内容の知られるのは『泰澄和尚伝記』である。この奥書によれば、天徳元年(九五七)のころ、三善清行の子で、白山で修行した経歴を有する天台宗の僧浄蔵の口授した内容を、その門人で大谷寺の寺院仏法興隆の根本の人とされる神興が筆記したものとされている。正中二年(一三二五)という最も古い書写の年紀を有するのが金沢文庫本の『泰澄和尚伝記』(『資料編』一)で、このほか同系統の写本として、大永年間(一五二一~二八)ころの書写と考えられる勝山市白山神社所蔵の平泉寺本、南北朝期ころの書写といわれる石川県尾口村の密谷氏所蔵の尾添本、貞享二年(一六八五)書写の水戸彰考館本、明治以降に書写された石川県鶴来町の白山比神社所蔵本などがある。このほか元和五年(一六一九)書写の奥書をもつ朝日町の越知神社所蔵本が二種類伝わっている。また、泰澄や白山のことが掲載されている史料としては、平安後期に成立した『大日本国法華験記』や『本朝神仙伝』、鎌倉末期に成立した虎関師錬による仏教史書元亨釈書』、江戸期の『本朝高僧伝』などが存在する。ここでは、金沢文庫本『泰澄和尚伝記』(以下『伝記』)にしたがって、「泰澄和尚伝」の要旨を確認しておこう。

  (1)泰澄は、越の大徳または神融禅師ともいい、越前国麻生津の三神安角を父、伊野氏の

      女性を母として、天武天皇の白鳳二十二年六月十一日に生まれた。

    (2)幼いころから一般の児童とは異なり、泥で仏像を造ったりしていたが、持統天皇七年(

      六九三)にこの地を訪れた道照(昭)が神童であることを見抜き、両親にその旨を伝え

      た。

  (3)一四歳の時に十一面観音の夢告を受け、越知峰の坂本の岩屋に通い、後年この峰に

      篭もって修行に励んだ。

  (4)大宝二年(七〇二)には伴安麻呂が勅使として遣わされ、泰澄は鎮護国家の法師とな

      った。

    (5)この年、能登島より小沙弥が訪れ、やがて泰澄の身の回りの世話をするようになり、臥

      行者とよばれた。

    (6)臥行者は北海の行船から米を徴収し和尚に供していたが、和銅五年(七一二)中央の

      政府に納める米を運搬して出羽よりやってきた船の船頭神部浄定はこれを断った。臥

      行者が怒ると、船の米は飛んで越知峰に来集したため、仏徳の不思議を見て浄定は

      和尚に謝った。そして米を返してもらい、これを中央に届けたのち和尚の弟子となって

      側に侍した。

    (7)和尚は霊亀二年(七一六)に貴女(白山神)の夢告を受け、養老元年(七一七)四月一

      日その母のゆかりの地である白山の麓の大野隈苔川東伊野原に来宿した。

    (8)この東の林泉に貴女が現われ、自分は伊弉諾尊(伊弉尊の誤記か)で、妙理大権

      現と号すと語った。

    (9)さらに和尚が白山天嶺の禅定(霊山の頂上)に登ると、緑碧池の側で最初九頭竜王

      、次に白山神の本地仏である十一面観音が現われた。

    (10)また左孤峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右孤峰で阿弥陀の現身の大

      己貴を感得し、和尚はこの峰に居した。

    (11)のち養老六年には浄定行者とともに都に赴いて元正天皇の病の治療にあたった。そ

      の効あって和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、諱を神融禅師と号した。

    (12)また神亀二年(七二五)七月には白山妙理大権現に参詣した行基と出会い、行基

      質問に答えて種々の現瑞などを語り、行基は極楽での再会を誓った。

    (13)ついで天平八年(七三六)に都に出て玄に会い、十一面経を授けられた。

    (14)翌九年には当時大流行していた天然痘の鎮撫のため、勅を受けて十一面法を修した

      。その功によって大和尚の位を賜わり、また諱を泰澄と号した。

    (15)その後、天平宝字二年(七五八)からは越知峰の大谷仙窟に蟄居し、ここを入定の地

      と定めたが、この間神護景雲元年(七六七)には一万基の三重木塔を勧進造立し、勅

      使吉備真備に付けて奉った。

    (16)同年三月十八日和尚は予言どおり結跏趺坐し、大日の定印を結んで八六歳で遷化し

      た。その遺骨は石の柩に入れ、大師房に葬った。

       『泰澄和尚伝記』の検討

 先にみた『伝記』の要旨である(1)~(16)の内容について、それぞれに説明を加えながら具体的に検討してみよう。

    (1)泰澄の生まれたとされる麻生津は、「朝津」「浅水」とも表記され、その故地とみられる

      福井市三十八社町には、泰澄の開創と伝える泰澄寺が現存し、本堂・大師堂などの伽

      藍や、産湯の井戸と伝える井戸など泰澄ゆかりの遺跡が残っている。一説には、泰澄

      の父三神安角がこの近辺の日野川水系で船頭を営んでいたとの伝承もあり、白山信

      仰を水運と結び付ける一つの論拠とされている(山岸共「泰澄伝承」『白山信仰』)。

      また泰澄の生年である白鳳二十二年については、平泉寺本などの写本には同十一年と

      ある。いずれにしても、『伝記』 中のほかの年代の表記と泰澄の年令から逆算して、天

      武天皇十一年(六八二)に該当することになる。

   (2)道昭は白雉三年(六五三)に入唐し、日本に法相宗を伝えたとされる高僧で、法興寺

      飛鳥寺)の禅院に住した。和銅三年の平城遷都後、全国を周遊したという。ただ、持統

      天皇七年に彼が越前に来たという形跡は、ほかの史料には存在しない。

    (3)越知山は、福井市丹生郡朝日町・織田町の境にある海抜六一三メートルの山で、『

      伝記』にいう坂本の岩屋と伝える金堂とよばれる小さな洞窟が、その麓の朝日町に存

      在する。越知山は、明治初年の神仏分離まで修験の行場として栄えたが、分離ののち

      越知神社となった。白山の遥拝所としての性格を有し、白山と同様に三所の神を祀り、

      奥之院には臥行者の修行の場と伝える遺跡も存在する。また、もとこの別当寺であっ

      た朝日町の大谷寺(天台宗)は、泰澄入定の地と伝え、十五世紀には白山中宮平泉寺

      に対し本宮と称し、一一院三二坊を有する大寺院であった(本川幹男「越知山修験道

      の展開と変遷」『白山・立山と北陸修験道』)。現存する大谷寺大長院には泰澄の廟と

      いわれる石造九重塔があり、この石塔には、「元亨第三 癸亥 三月四日 

      願主金資 行現 大工平末光」という銘が残っている。元亨三年(一三二三)の年紀をもつこの石塔は国の重要文化財に指定されている。このほか、同寺には白山の本地仏で最古の遺例という十二世紀後半の木造十一面観音坐像・同阿弥陀如来像・同聖観音像や、明応二年(一四九三)五月二十六日の銘のある泰澄大師・臥行者・浄定行者の三尊像など、白山・泰澄関係の文化財が多数伝わっている。

  (4)伴安麻呂すなわち大伴安麻呂は、大伴長徳の子で、歌人として有名な大伴旅人の父にあたる。大宝二年の段階では、彼は従三位式部卿の地位にあったが、彼が勅使として越前に赴いたという記録は『伝記』以外には存在しない。

  (5)小沙弥(のちの臥行者)の出身地能登島は、能登半島の東側、内能登の七尾湾に浮かぶ四七・五平方キロメートルの島で、現在石川県鹿島郡能登島町となっている。ここには、須曾蝦夷穴古墳という高句麗形式の古墳が現存し、古くから朝鮮半島との関係が指摘されている。高句麗といえば、泰澄の祀った白山比神を「高句麗姫」とみなし、白山信仰高句麗の信仰が移入されたものとみる見解も存在する(玉井敬泉「白山信仰の祭神と信仰」『白山信仰』)。

 (6)神部浄定(のちの浄定行者)の運んできた米俵が空を飛んで越知山に至ったという説話については、種々の観点からその意義づけが試みられている。一つは、出羽から中央に輸送される税としての米という理由で神部浄定が施入を拒んだところ、米が越知山へ飛び去ったという点について、これを地方に住む人びとの中央の行政、とくに課税に対する反抗の姿勢を示すものと受け取る見解がある(浅香年木「『泰澄和尚伝』試考」『古代文化』三六―五)。あるいはまた、これに類する米の飛行の説話、たとえば播磨の法華山一乗寺の法道仙人と船師の藤井、信貴山寺の命蓮と富豪との話など共通した説話の内容から、「飛鉢法」は水上輸送された官米の掠奪の実態を象徴しているとされる見解や(田中久夫「能登法音信仰」『観道仙人と十一面観音信仰』)、山林修行者がその糧を得るために修した「飛鉢法」が、その行者の偉大さを潤色する要素となったとするもの(長坂一郎「『泰澄和尚伝』と越知山」『福井県立博物館紀要』一)などがある。

 (7)泰澄が来宿した苔川東伊野原の「苔川」は、他本には「筥川」とあり、かつて「箱ノ渡」と

   よばれた渡し場のあった九頭竜川のことと考えられている。その東の伊野原は、現在の勝山市猪野と推定され、この北の下毛屋の地に室町時代ごろのものと思われる泰澄の母の供養塔が立っている(平泉澄「泰澄和尚伝記考」『白山信仰』)。

 (8)伊野原の東の林泉が、のちに越前馬場の中心として栄えた中宮平泉寺の地で、神仏分離白山神社となっているが(写真148)、その境内にはこの林泉と伝えられる御手洗池が存在する。平泉寺は平安時代から中世にかけて、北陸で屈指の勢力を有した天台宗の大寺院で、六千の坊があったというが、天正二年(一五七四)一向一揆の焼討ちを受け、一山灰燼に帰した。白山信仰の中心地として栄え、ここから白山に至る禅定道が続いていた。現在南谷・北谷の坊跡の地域で発掘調査が進められ、坊の規模や構造、掘割りなどが明らかになりつつある。

 (9)ここにみえる九頭竜王の出現については、『白山之記』や『白山上人縁起』など(『資料

編』一)、これにふれない伝も存在する。その理由について、もともと白山神の本地垂迹の伝承は、貴女すなわち伊弉尊から十一面観音、九頭竜王から十一面観音という二つの型があったが、後者がより古いものと考えられ、平安中期には両方の型を合わせて貴女から九頭竜王、さらに十一面観音という展開が伝記に表現された。しかし、のち中央の神仏習合思想の影響を受けるなかで、九頭竜王(竜形の神)の存在がしだいに軽視されるようになり、やがてこのことにふれぬ伝もできたもので、またこのことは、人びとから畏怖の対象とされた竜形の神から農業神である女神(貴女)へ、さらには神仏習合本地仏へという白山信仰の性格の変遷の順序を表わすものであるとする見解が出されている(下出積與「庶民層における神の形態の意味」『古代日本の庶民と信仰』)。

  (10)白山最高峰の御前峰(海抜二七〇二メートル)に対し、左孤峰が別山(海抜二三九九メートル)、右孤峰が大汝峰(海抜二六八四メートル)で、御前峰―伊弉尊―十一面観音、別山―小白山大行事―聖観音、大汝峰―大己貴―阿弥陀如来という垂迹神本地仏の関係をもち、三所権現を構成する。ただ、十世紀初めの『延喜式』には白山比神しかみえないことから、もともと白山の神はこの一神であったと考えられている(下出積與「泰澄伝承と白山信仰」『山・立山と北陸修験道』)。

 (11)養老六年の七月から八月にかけて、泰澄は弟子の浄定行者と上京し、天皇の看病にあたったとあるが、『続日本紀』には、この年に元正天皇が重病となったといった記事はうかがわれない。「護持僧」というのも平安期になってから用いられるようになった呼称で、この時代にはふさわしくない。

 (12)神亀二年白山を訪れた行基と出会ったとされるが、これもまた『続日本紀』や行基伝の類にも裏づけとなる記事は見あたらない。

 (13)玄は天平七年に唐より帰朝し、経論五千余巻を将来した。この中には、密部の十一面観音関係の経典が含まれ、以後この経典が多く書写され、十一面観音信仰の隆盛に大きく影響したといわれる。その意味では、玄帰朝の翌年に上京した泰澄が玄から十一面経を授けられたというのは、ありえないことではない。

(14)玄の帰朝と時を同じくして、北九州より天然痘の流行が始まり、天平九年にはついに都に伝わって、当時政権を担当していた藤原武智麻呂ら四兄弟を相次いで死に至らしめたというのは、著名な事実である。ただ、この時泰澄が平城京で疱瘡終息のため十一面法を修したという記録はほかにみえず、また大和尚位を授かったとあるが、具体的な僧位の規定がなされたのは二〇年ばかりのちの天平宝字四年のことである。

(15)ここにいう三重木塔一万基とは、天平宝字八年の藤原仲麻呂の乱後、重祚した称徳天皇が、乱で没した人びとの冥福を祈るため発願した百万塔の一部のことと考えられる。神護景雲元年には、たしかにその製造事業が進められていたが、それは平城京でのことであり、また当時吉備真備は右大臣の任についており、彼が勅使となったという記録もない。

 (16)先に述べたように、泰澄は越知山にて八六歳で遷化したといい、大谷寺にはその供養塔が残っている。この『伝記』以外の泰澄伝に『伝記』にない内容がうかがわれるものもあるが、ここではとりあえず『伝記』を主たる材料として検討を加えることにしたい。

     『泰澄和尚伝記』の性格

この『伝記』については、これまで種々の観点から分析が加えられている。そこに述べられた個々の事実については、具体的な年次が示されてはいるが、泰澄という人物の存否はさておいても、伝記の内容そのものが完全に後世の作とみなされたり、かなりの部分に後世の潤色が加わっているという見方が有力である。なかには『伝記』奥書の天徳年間の成立を疑問視し、その成立年代を鎌倉時代にまで引き下げるもの、天徳年間の成立を認めながらも、それが成立した時点ですでにかなりの潤色が加わっているとするもの、それがまた、現存する最古の写本である正中年間書写の金沢文庫本が成立する以前に改変が加えられたとするものなど、その見解も研究者によってさまざまであり、定説どころか、いずれが最も有力な見解であるかもすぐには判定できないのが実情である。

もっとも、後世の潤色は否定できないものの、まったくの後世の述作とみなすのはいささか無謀で、泰澄が生存したとされる奈良時代の段階で、やはり伝の基盤となった何らかの事実は存在したと受け取るべきであるように思われる。たしかに、道昭・玄・行基といった著名な僧が、年代的にも矛盾なく登場するにもかかわらず、逆にこれらの僧の伝記や『続日本紀』などの史書に泰澄の名がまったくみえないことからすれば、泰澄の伝記作成の際に、ほかの文献をもとに潤色されたとみなされてもやむをえないものといえる。しかし、『伝記』に述べられたできごとが後世の人により泰澄の権威、ひいては白山の崇高性を標榜するための所為であったにせよ、泰澄あるいは白山信仰とまったく無縁の人物を登場させたとは考えられない。やはりそこには、信仰の体系や人物像などの面で、これらの僧と泰澄との直接の接触を説いても、疑いなく受け容れられるだけの余地が存在すると考えられたからこそ、このような伝が残されたと推測されるのである。

泰澄和尚

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1 泰澄和尚とは

(1)泰澄和尚とは

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は越前国麻生津の三神安角を父、伊野氏の女性を母として、天武天皇11年(682)6月11日に生まれた。幼い頃から普通の児童とは異なり、泥で仏像を作ったりしていたが、持統天皇7年(693)[11歳を重視すれば持統天皇6年(692)]にこの地を訪れた道昭が神童であることを見抜き、両親にその旨を伝えた。14歳[元和本・大谷寺本では11歳]の時に十一面観音の夢告を受け、越知峯の坂本の岩屋に通い、後年この峰に籠もって修行に励んだ。

大宝2年(702)には伴安麻呂が勅使として遣わされ、泰澄は鎮護国家の法師となった。この年、能登島より小沙弥が訪れ、やがて泰澄の身の回りの世話をするようになり、臥行者と呼ばれた。臥行者は北海の行船から米を徴収し和尚に供していたが、和銅5年(712)中央の政府に納める米を運搬して出羽よりやってきた船の船頭の神部浄定は、これを断った。臥行者が怒ると、船の米は飛んで越知峰に来集したため、仏徳の不思議を見て浄定は和尚に謝った。そして米を返してもらい、これを中央に届けたのち和尚の弟子となって傍らに侍した。

泰澄は霊亀2年(716)、白山神とみられる貴女の夢告を受けた。養老元年(717)4月1日、母のゆかりの地である白山の麓の大野隈、苔川東の伊野原に来宿した。すると貴女は東の林泉に来るように告げた。泰澄は林泉に来て祈念すると、貴女が再び現れ、自分は伊弉諾尊伊弉冉尊か)で、妙理大権現と号すと語った。さらに白山天領の禅定(霊山の頂上)に登ると、緑碧池(翠ヶ池)の側で最初に九頭龍王が、次に白山神の本地仏である十一面観音が現れた。続いて左弧峰で聖観音の現身である小白山別山大行事、右弧峰で阿弥陀の現身である大己貴を感得した。その後、白山に居し、日夜苦行を積んだ。

養老6年(722)には浄定行者とともに都に赴き、元正天皇の病の治療にあたった。その功から和尚は護持僧として禅師の位を授けられ、諱を「神融禅師」と号した。また、神亀2年(725)7月には白山妙理大権現に参詣した行基と出会い、その質問に答えて種々の現瑞などを語り、極楽での再会を誓った。天平8年(736)には都に出て玄昉に会い、十一面経を授けられた。翌9年(737)には、当時大流行していた天然痘の鎮撫のため、勅を受けて十一面法を修した。その功により「大和尚」の位を賜り、諱を「泰澄」と号した。

天平宝字2年(758)からは越知峯の大谷仙崛に蟄居した。神護景雲元年(767)には一万基の三重木塔を勧進造立し、勅使の吉備真備に付けて奉った。このとき泰澄は3月に入定することを予言した。同年3月18日、泰澄は予言通り結跏趺坐し、大日の定印を結んで、86歳で遷化した。その遺骨は石の柩に入れ、大師房に葬った。

(2)泰澄の伝承と人物像

数々の逸話が残る泰澄だが、その伝説が語り継がれるのは、福井県内だけにとどまらない。人々のために霊験を振るった泰澄の軌跡は全国で確認されており、北は山形県から南は長崎県まで、その数800余りを数える。神通力をもって出現させた湧き水など、摩訶不思議な話も含めると、2,000は下らないとされる。

 さて、小林祟仁氏の「泰澄の人物像」(『智山学報』第52輯所収・ネット閲覧可)という論文がある。ここでは泰澄に関する史料、とくに従来重要視されなかった幾つかの別伝を整理し、7つの側面にまとめられた。1が白山開山者、2が遍歴修行者、3が神祗信仰者、4が密教信仰の先駆者、5が朝廷の護持僧、6が神仙的人物、7が法華経持経者である。

小林氏によると、これらの要素が互いに結びつき全体として、ひとつの泰澄像が形成されたと述べる。これだけの側面が並ぶと、まさに泰澄は「異人」(普通の人と違ってすぐれた人、仙人など不思議な術を使う人など)というに相応しい人物だろう。

実際に、標高2000mを超える白山の開山、北陸さらには近江・畿内にかけての広範囲にわたる足跡、各霊地における神祗信仰との関わりは、斗藪(とそう)という山林修行の一形態を想起させるものである。なかでも『泰澄和尚伝記』に描かれた密教僧的な泰澄像を踏まえて元亨釈書(「禅文化研究所」にてダウンロード可)や真言伝』には、泰澄を空海以前の真言の験者とみる立場を載せるが、実際には雑密的な信仰に関する断片的な事例が天平年間(729~749)以降に表面化してくることは確かである。

さらに、奈良時代初期の段階での雑密信仰の浸透度も含め、こうした人物像が後世の潤色に過ぎないのか、それとも泰澄の実像に近いのか、あるいは北陸における何人何代かの宗教者の足跡が、泰澄という人物に凝縮して伝承されたのだろうか。もし、これらの人物像が奈良初期の時点であり得たとするならば、天平期以降の仏者による山林修行、のちの平安仏教や修験道へと繋がる先駆的なあり方として注目される。

 

2 泰澄は実在したのか?

(1)泰澄の実在性に関する議論

白山を開山した高僧・泰澄とは、どのような人物だったのか。泰澄が実在の人物か否かについては意見が分かれる。『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は天皇の病を治し疫病を鎮めるなど都での活躍が語られる。泰澄の生涯を記した『泰澄和尚伝記』はその書写年代が新しく、奈良時代国史にもその名が登場しないことから、研究者の間では架空説が展開し、神話さながらの伝承が非科学的で信憑性に欠け、また伝説の多さから複数の人物の業績が一人に集約されたとする複数説もある。

泰澄が架空の存在ならば、なぜ『泰澄和尚伝記』をはじめ『元亨釈書』『真言伝』などに、その事蹟が記されたのだろうか。伝記に新しい時代の説話的な要素があるからと言って、その存在を完全に否定できるだろうか。その実在に迫るうえで鍵となるのが、奥書に泰澄と記された『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第21(「大正蔵」二四・三〇一下・satにて検索可)という経典や、越知山山頂周辺で発見された考古資料の数々である。その関連史料を見ていこう。

泰澄が実在したか否かについては、『泰澄和尚伝記』とそれ以外の泰澄伝に関する史料を除けばほとんど見当たらないが、「泰澄」の名が記された奈良時代唯一の史料がある。宮内庁書陵部に保管された『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第21という経典である。奥書には「天平二年庚午六月七日、為/上酬慈蔭、下救衆生、謹書写畢/泰澄」とある。上は仏菩薩の慈悲に報い、下は衆生を救済するためという写経の目的と、天平2年(730)6月7日に謹んで書写し終えたと記される。

 経典名の「説一切有部」とは部派仏教(小乗仏教)の一派の名称で、また「毘奈耶」とあるのは戒律・教団の規律のことである。8世紀に唐の義浄という僧が「根本説一切有部毘奈耶」という50巻の仏典を翻訳したが、これらは説一切有部の一派で誦された戒律(毘奈耶=律蔵)である。「雑事」は諸律の雑犍度、すなわち修道の資具に関する規定を説いた篇章に相当し、戒律を制した因縁や仏とその弟子に関する説話などを集めた書物である。義浄による翻訳で、40巻で構成されるが、そのうち巻第21を仏の慈悲の恩徳に報い、衆生を救済するという目的で、泰澄が写経に関係したことがわかる。

この人物が白山信仰の開創者と同一人物かどうかは定かではないが、もしそうならば奈良時代の史料として泰澄の実在を示す唯一の事例となる。この写経に関わった人物像について、高瀬重雄氏の言を借りると、「上は慈蔭に酬い、下は衆生を救わんがために謹書」したとすれば、またこの写経が写経生ではなく、しかも泰澄自らの手になったとすれば、その文字の精緻さや筆づかいの厳正さもその教養と人となりの一端を示しており、単なる在野の私度僧以上に、越の大徳と呼ばれるにふさわしい教養ある僧侶といわねばならない。『泰澄和尚伝記』に記された都での活動を積極的に評価すれば、泰澄の真筆であったことも充分に考えられる。

泰澄にまつわる伝説・伝記にみえる事跡は荒唐無稽なものも多いが、奈良時代以来の山林修行僧の一端を示している。8世紀の神仏習合から10世紀以降の本地垂迹説にかけて、その思想が広がるなか白山修験への動きも高まっていき、泰澄の事蹟として様々な要素が付加されたものと思われる。しかし、本郷真紹氏も述べるように、伝記には明らかに後世の付加・潤色と認められる部分が存在するので、そのまま奈良時代を生きた一僧の集態を伝える書物として扱うことはできないが、後世創作されたものとして独自の価値を見出さないというのも、正しい姿勢とはいえないように思われる。

天皇の病を治す行為は護持僧の位置づけで、国史にこそ登場しないが、地方で活動した山林修行僧の名声が中央にまで届き、律令国家や王権の興味をひいて中央に召し出され、天皇らの看病に従事したというのも日本霊異記(「新日本古典籍総合データベース」にて閲覧可)などの事例より存在したことが認められるし、その功績によって特別の地位・待遇を得たというのも充分にあり得ることであった。

加えて、越前国生まれの泰澄の伝承が、なぜか都周辺に色濃く残ることは、その活動領域の広さを示している。『泰澄和尚伝記』における泰澄の事蹟は法相宗僧と関わる内容に仕上がっているが、『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第21の写経が法相宗である法隆寺一切経として収められたことを踏まえると、その事業に関わった泰澄は、伝記に描かれた人物像を思わせるだけのものを充分そなえていただろう。

(2)実在性の考古学的痕跡となるか

泰澄の研究に関して、この20年で進んだことは考古資料の増加であろう。

まず、泰澄の生誕地として知られる麻生津の地には、福井市今市町の今市岩畑遺跡がある。発掘調査により奈良時代の遺構・遺物が数多く発見され、仏教色の強い遺物も含まれていた。墨書土器も多く出土し、なかでも「大徳」と記されたものは注目される。須恵器は杯蓋の内側で、8世紀のものと考えられる。越前町の佐々生窯跡のものと酷似するので、丹生窯産とみられる。大いなる「徳」と解すれば、単なる吉祥句になる。泰澄は「越の大徳」とも称されたので、その存在や信仰を思わせる遺物ということで注目される。泰澄の生まれた伝承地で発見されたことの意義は大きい。

それでは越前町内をみてみる。平成22年(2010)に越知山(標高612.8m)山頂付近で採集された奈良時代の須恵器の甕は注目される。採集の場所は殿池の北側、駐車場下に展開する川沿いからで、山頂近くの遺物が長年の風雨や地形の崩れなどで転落し流れ出したとみられる。甕の頸部から肩部にかけての部位で、残存幅5.6㎝×縦8.5 ㎝、厚さ0.7~1.1㎝、図上復元を試みると、頸部径25.2㎝・残存高3.8㎝・最大径35.5㎝をはかる。丹生窯産に特徴的な須恵器で、頸部から肩部にかけて薄緑色の自然釉付着のあり方は、越前町の佐々生1・2号窯跡や樫津1・2号窯跡に類似品があるので、8世紀中頃に比定できる。

奈良時代の遺物が山頂付近に存在したとしか言えないが、誰かが越知山に登り何らかの痕跡を残したことは間違いなく、山林修行者であった可能性は高い。しかも、甕は据え置くことが前提となるので、水甕として使用されたものか、頂上付近に宿坊のような建物が存在したことも考えられるだろう。いずれにせよ、その胎土や焼成の具合などから時期が8世紀中頃に限定できた点で大きな成果であり、泰澄の存在を考えるうえで重要な発見であった。

また近年では、越知山山頂において須恵器の破片が採集された。口頸部だけが完形で、口径は4.8㎝、残存高は3.0㎝をはかる。胴部から剥離した痕跡があり、外面には押捺が明瞭に認められるので、口頸部と胴部との接点を粘土で覆い固定したとみられる。頸部には横2.5㎝、縦5㎜程度の細長い長方形を呈し、まったく欠落のない面が一方向にだけつくので、小型の平瓶とみられる。丹生窯産に特徴的な黒色粒子は顕著ではないが、他の平瓶の事例から8世紀のものである可能性が高い。

他にも、越前町の大谷寺遺跡の成果がある。泰澄が修行し亡くなられた大谷の地にある遺跡として知られるが、「神」「山内」など多くの墨書土器が出土した。なかには「泰」を思わせる文字がある。須恵器の杯の底部に記されたもので、10世紀前葉に比定できる。横幅6.0㎝×縦幅7.0㎝をはかり、ベタ高台の底面のほぼ中央に記されている。泰澄の「泰」ともとれるが、「泰」は墨書土器に多く記される「吉」「平」「富」「福」のような吉祥句ともとらえられる。「泰澄」を示すものであれば、その存在を考えるうえで重要な資料になるだろう。

加えて、越前町小川の白瀧洞窟で採集された須恵器がある。洞窟は大谷寺区から南西3㎞の地点、越知川の谷沿いに位置する。詳しくは、小川方面から越知川を上流に向かって川沿いに2㎞ほど行った場所になる。朝日地区と織田地区境付近の朝日側にあたる。そのまま川沿いに行くと、織田地区の入尾を抜け、劔神社がもと鎮座した座ヶ岳の丘陵の北側につながる。洞窟の手前には15m程の落差をもつ滝があり、地元では「白瀧」と呼ぶ。滝を左側から迂回し真上に出ると、人が数人ほど座れる大きな平石が目にはいり、その奥には大岩の裂け目により自然に形成された洞窟が展開している。内部は数人がはいれるほどの空間で、険しい山と渓流と滝の存在から修行場にふさわしい。

洞窟内では過去に古代の須恵器が採集されており、古くから利用されていたことがわかる。須恵器は7㎝×7.5㎝の破片で、甕の胴部とみられる。外面にはタタキ痕があり、2か所に横方向のカキメを施す。内面は同心円文タタキ痕を残すが、表面を丁寧にナデ消す。産地は特定できないが、内外面には黒色粒子をまばらに含むことから丹生窯産であった可能性が高い。時期は7~9世紀頃に比定できる。

『泰澄和尚伝記』には、泰澄の最初の修行地として「坂本岩屋」が登場する。白滝洞窟は岩屋といえるもので、泰澄が南無十一面観世音神変不思議を唱え、越知峯によじ登るとした場面を彷彿とさせる。実際に泰澄がここで修行したかはわからないが、10世紀中頃に成立した泰澄伝が存在したとすれば、その伝を記した筆者は白瀧の存在を知っていた可能性が高い。洞窟内には須恵器が採集されたので、物的証拠が加わる。『泰澄和尚伝記』の内容の信憑性、泰澄のような山林修行者が存在したことを証する貴重な資料といえる。

泰澄そのものを示す物証は発見されていないが、その存在を思わせるような考古資料は揃い始めており、いよいよ文献史料からもその存在を見直す時期にきているのかもしれない。

 

3 『泰澄和尚伝記』は、いくつあるのか?

(1)『泰澄和尚伝記』の色々

『泰澄和尚伝記』の写本として一般に知られているものは、金沢文庫本・尾添本・平泉寺本・尊経閣文庫本・元和本などの5系統であるが、平泉澄氏により諸本の校合がおこなわれ、その全文の公表により研究者間で知られることとなった。

現存最古のものが金沢文庫本で、その写しとされる彰考館本、それを謄写した東京大学史料編纂所本がある。石川県ゆかりで密谷家所蔵本が尾添本で、同系統のものとして飯田瑞穂氏により紹介された尊経閣文庫本があげられる。福井県ゆかりのものは平泉寺白山神社所蔵の平泉寺本で、欠損がなく平泉澄氏が校訂時に重視している。他に越知神社所蔵本が3点、越知山大谷寺所蔵本が1点あり、元和本と慶安本の系統に分かれる。

元和本は、福井県丹生郡越前町に所在する越知神社の所蔵本のひとつで、福井県白山信仰関係古文書調査報告書』(「福井県立図書館」で閲覧可)「越知神社文書目録」の番83、架蔵番号95である。巻子本1巻。8丁。毎行は16~19文字である。外題は「泰澄和尚縁起」、内題は「泰澄大師伝記」、尾題は「泰澄和尚伝記終」とある。末尾は金沢文庫本と似るが、独自の記述がみられる。

その由緒を探ると、一条天皇朝の寛弘年間(1004~1012)に勅の仰せにより、官庫へ申し降るところの本がもとで、奥書には「于時元和五年極月下旬書之畢 大谷寺聡源」とある。大谷寺僧の聡源が元和五年(1619)極月下旬に書写したとみられる。「私云」には山門の密厳院で記したとあり、山王七社の客人権現である白山妙理権現の由緒と六月中旬の降雪などが語られている。

他本との違いをあげると、『泰澄和尚伝記』では伝を筆記した「神興」について単に「神興」とするが、元和本では「大谷精舎寺院」「聖人」を加え、「伝聞」以降の白山登山前に越知峯で魔難を払い、怨霊を退けてから参詣すべきだとの旨を削除し、すべて本地の禅頂は慈悲喜捨誓願にして怠りないもので、垂迹霊場の邪正といった救済の手段は日々新しくあるべきだと書き加える。

「或人伝」以降は他本と同様であるが、「之」の加筆や「入寂」を「入定」とするなど文言の違いはある。他にも「妙理」を「越知」と書き換えるなど、越知山に対する宣揚が認められる。

(2)他の諸本

 他に平泉寺本と慶安本がある。平泉寺本は、福井県勝山市に所在する平泉寺白山神社の所蔵本である。袋綴1冊。本文は11丁である。毎面は10行、毎行は17~20字である。本文には散逸・破損のない完本で、現在は「白山縁起」との合綴により1冊となるが、慶安2年(1649)正月19日寂の実承僧都の時代、寛永・正保年間には独立していたとみられる。

 「白山縁起」は寛永年間(1624~1644)頃の書写とされるが、『泰澄和尚伝記』の方はそれより遙かに古色を帯び、少なくとも100年の開きがあるとし、辻善之助の鑑定から永正(1504~1520)か大永年間(1521~1527)か、降っても天文年間(1532~1555)以後の書写とみられている。内題は「泰澄和尚伝記」、尾題は「泰澄和尚伝」とある。

慶安本は、福井県丹生郡越前町に所在する越知神社の所蔵本である。『福井県白山信仰関係古文書調査報告書』「越知神社文書目録」の番号八四、架蔵番号九六である。奥書は元和本と同じ「抑和尚伝記」以下の記述があり「或人云」も付され、「于時慶安戊丑夏五月日 沙門卞海書」とある。同じゆかりの本であるが、元和本とも相違し加筆修飾が多い。戊丑という干支はなく、慶安元年(1648)は戊子、同2年(1649)は己丑である。いずれかの誤りで、平泉澄は十二支の方を誤ることはないから慶安2年とみてよいとしている。

 他にも、越知神社には越知神社所蔵の慶安本の転写本とみられる所蔵本があり、また越知山大谷寺には年紀を欠くが、元和本の転写本とみられる所蔵本(大谷寺本)がある。

 

4 泰澄伝が複数あるのは、なぜ?

(1)奥書に見る原伝の存在

 現存最古の書写とされる『泰澄和尚伝記』(以下、『伝記』と略する)が、正中2年(1325)の年紀をもつ金沢文庫本であるが、その成立に関する経緯が末尾に添えられる。内容は「然るに、今、天徳元年丁巳、三月二十四日、風土の旧記を勘へ、門跡の首老、浄蔵貴所の面授の言談に依りて、門徒の小僧、神興等、粗ら操行を記し、以て後代の亀鏡に備へをはんぬ。浄蔵貴所は徳行群を抽き、修験名高し、善相公の八男、玄昭律師の入室なり。又安然写瓶の門人、大恵悉曇の弟子なり。言談皆口実なり。誰か信ぜらんや。(中略)或人云はく、此の伝記は浄蔵貴所の口筆を以て、神興聖人注記しをはんぬ。(以下略)」とある。

 天徳元年(957)に浄蔵が語った内容を神興らが記録したとあり、そのあと浄蔵の紹介が続く。次に、別の奥書が付され、同様の内容を繰り返し、浄蔵の出自や泰澄を十一面観音の示現だと述べる。そして正中2年(1325)5月24日の書写が明記される。重要なのは、10世紀成立とされる『伝記』のもととなる原泰澄伝の存在が示された点にある。その存否に関して証明は難しいが、他にも原伝の存在を示した書物はある。

 虎関師錬が著した『元亨釈書』(以下、『釈書』と略する)である。元亨2年(1322)に成立したもので、泰澄に関するものは、巻第15「越知山泰澄」と巻第18「白山明神」に分けて記される。「越知山泰澄」には「賛に曰く。予、此の書を修せんとして広く諸記を索むるに、澄師の事を得ること多し。其の間、恠誕寡なからず。弊朽せる一軸あり。後に題して云く、天徳二年、浄蔵が門人神興、口授を受けて伝を作ると。蔵公の霊応博究なり。思うに興が所聞は妄ならず。今の撰纂は諸を興の伝に采れり」とある。

 『伝記』金沢文庫本と『釈書』の泰澄伝のどちらが先に成立したかについては意見が分かれる。また、奥書に記された天徳年間の2つの年紀には、どのような意味があり、違いがあるのか。ここでは数ある伝の存在について考えてみたい。

(2)『元亨釈書』と『泰澄和尚伝記』の前後関係

 虎関師錬の奥書の言を信じれば、『釈書』所収の「越知山泰澄」は『伝記』をもとに記述をおこない、部分的に書き直したというが、一方で『釈書』に潤色を加えたものが『伝記』という見解がある。その前後関係を明らかにするには文字レベルで比較検討する必要がある。ときおり『釈書』はテーマ別に組み直す箇所もあるので、『伝記』をもとに時系列を意識して並び替えをおこなうと、『伝記』をもとに『釈書』が記された可能性が高くなった。以下に詳しくみてみる。

 まず、道昭が北陸道に修行に赴き11歳の小童を見たとき、奇瑞があるとし父母に神童だと告げた場面である。『伝記』は持統天皇7年(693)、『釈書』は持統天皇6年(692)とあるので、どちらかが誤認・誤記となる。年号と年齢の関係を追うと、『伝記』では白鳳11年・誕生、持統天皇7年・11歳、大化元年(持統天皇9年)・14歳、大宝2年・21歳、和銅5年・31歳、養老元年・36歳、養老6年・41歳、神亀2年・44歳、天平8年・55歳、天平9年・56歳、天平宝字2年・77歳、神護景雲元年・86歳の12か所、『釈書』では白鳳11年・誕生、持統天皇6年・11歳、神護景雲元年・86歳の3か所で示される。

 どちらが誤認・誤記にあたるのか。結論は『伝記』の方である。『伝記』にある白鳳11年(682)誕生とすれば、大化元年(695)の14歳、大宝2年(702)の21歳、和銅5年(712)の31歳、養老元年(717)の36歳、養老6年(722)の41歳、神亀2年(725)の44歳、天平8年(736)の55歳、天平9年(737)の56歳、天平宝字2年(758)の77歳、神護景雲元年(767)の86歳はうまく対応するが、持統天皇7年(693)の11歳だけが異なる。

 素直に数えると、持統天皇7年は693年で、年齢は12歳となる。11歳時の年号は持統天皇6年(692)が正しいので、編集時に改めたと考えられる。『釈書』をもとにしたならば『伝記』も6年としたはずであり、わざわざ年齢を間違って記述する必要はない。したがって、『伝記』をもとに執筆する際に7年の間違いに気づき、持統天皇6年に訂正した可能性が高い。

 他にも訂正は確認できる。養老6年の記述に着目すると、『伝記』が「清冷殿」、『釈書』が「清涼殿」とするのは師錬が訂正したとみられ、「大地振」を「地震」としたことも同じ意味合いでとらえられる。なお、地震の表現は『釈書』巻第18「願雑十之三 尼女四 如意」で、「中夜地大震」とあり、「振」の字は使われていない。また、「咲」「笑」を他の箇所で見ると、『伝記』では「文武天皇御在位大宝二年壬寅歳、(中略)、同年従能登嶋小沙弥尋来、和尚含咲感歎言」、「神亀二年乙丑歳、(中略)、菩薩和尚、相互微咲」の2か所にあり、いずれも「咲」の字を使用する。

 しかし、『釈書』では同じ箇所を「大宝二年、(中略)、澄含笑曰」、「年少簪纓嘲笑之」、「先神亀二年、行基法師登白山、基見澄微笑如旧識」と「笑」の字を用いる。『釈書』全体での「笑」の表記は、同じ巻第15「方応八」を見ると、「南天竺 菩提」にある「基迎笑」、「勝尾山 善仲」にある「啼哭、常含笑」、巻第18「願雑十之三」を見ると、「藤敦光女」にある「女笑而不言」などがあげられる。つまり、『伝記』が「笑」を採用してもいいはずだが、実際は「咲」である。ということは師錬が『釈書』の記述時に表現を同じように統一したと考える方が自然であろう。

 編集の視点で他の事例を見ると、用語を短くする傾向が認められる。書き出しでは『伝記』が「白山行人泰澄和尚者、(中略)、俗姓三神氏、越前国麻生津三神安角二男也」と、『釈書』が「釈泰澄、姓三神氏、越之前州麻生津人」である。『釈書』は他に道昭・最澄空海などの僧侶も「釈――」と記すので、泰澄だけ「白山行人」としないのは当然である。「俗姓」を「姓」とするのも同じ編集とみられる。

 年号についても、『伝記』では「天渟名原瀛真人天武天皇飛鳥浄御原宮御宇、白鳳十一季壬午歳」「文武天皇御在位、大宝二年壬寅歳」「日本根子高瑞浄足姫元正天皇御在位、養老元年丁巳歳」と天皇名・宮名や年号・干支など長々と記述する。しかし、『釈書』では単に「白鳳十一年」「大宝二年」「養老元年」とする。人名や地名も同様であり、『釈書』では「泰澄」が「澄」、「浄定行者」が「定」、「臥行者」が「臥」、「道昭」が「昭」、「行基」が「基」などと略される。

 『釈書』全体にいえるが、『伝記』の「越前国」・「出羽国」を『釈書』が「越之前州」・「越前州」、「羽州」とすることと同じで、執筆にあたり典拠史料そのままではなく、文字数を減らし統一する意識が働いている。したがって『釈書』をもとに『伝記』が記述されたとは考えにくく、むしろ師錬による編集の結果とみるべきであろう。つまり、師錬は基本的に短くまとめることを意識しているので、『伝記』をもとに記述したことは明白である。

 しかし、一方で『伝記』には認められない表現も認められる。泰澄は左澗(谷)の孤峰に向かうが、そこで出会った彩色された人物が小白山(別山)大行事で、聖観音菩薩の現身あるいは変身とし、また右の孤峰で出会った奇服の老翁が妙理大菩薩の輔佐である大己貴で、西刹主としている。両書ともに似た語句を使って同じような内容を述べるが、異なる箇所がある。

 『伝記』では「宰官人」、『釈書』では「偉丈夫」とするが、手に金の箭(長さや太さをそろえてつくった矢のこと)を握り、肩に銀弓を係ける点で共通する。宰(つかさ)とは仕事を処理する主任の役のことで、宰相・宰司のように天子を補佐して政治を行う大臣のことを意味するので、大行事という名からも補佐としての役割がうかがえる。しかし「宰官人」はその表現としてふさわしくないとの判断からか、体格のすぐれた男性という意味の「偉丈夫」に書き換えられた可能性が高い。

 さらに、泰澄が疱瘡の流行を鎮めた功から、大和尚位を授けられ「泰證」と号したが、亡父安角の名をもとに「泰澄」としたいと天皇に申し出た場面がある。両書とも「聞之」と記すが、天皇(上)はこれを聞いてと続き、『伝記』では「感涙千行」、『釈書』では「竜顔潸然」とある。幾筋も流れる涙という「感涙千行」とは過剰な表現であったせいか、天子の貌を示す「竜顔」から涙がはらはらと流れるさまを示す「潸然」とするので、表現を書き直したようにも思える。

 加えて、称徳天皇と泰澄で交わした書跡にまつわる場面がある。両書とも「願」「留」と「高」「置」の文字で共通するが、文脈には違いがある。『伝記』は天皇が首を傾け再拝して白山妙理大菩薩の書跡をとくに高いところへ置くが、『釈書』では泰澄が天皇の宸筆を門徒達に対して高く置けとある。違いはあるが、天皇との関わりの点で共通する。前者は『伝記』の「感涙千行」という天皇の過剰な表現を、他でも使用した「潸然」の表現に改め、後者も『伝記』の泰澄や妙理大菩薩の重視に対する表現を書き直したようにとらえられる。

 『伝記』にみる文字量が多く潤色のある過剰な表現を、師錬の編集のもとに短くシンプルに書き直した可能性が高い。つまり、前後関係は明らかであり、『伝記』から『釈書』が成立したと考えた。『釈書』の泰澄伝は天徳2年(958)、浄蔵口授を神興が筆録した「弊朽せる一軸」によったとあるので、その一軸とは泰澄のことを記した古色蒼然たる一巻の巻物とみられる。『伝記』金沢文庫本が天徳元年(957)の年紀であるので、両者には年紀に齟齬が認められる。同じ書物なのか、それとも別のものなのか。どちらかに誤写が生じたとの見解はあるが、原伝が別々に存在していたことも否定できない。

 しかも、栄海が正中2年(1325)に著した『真言伝』巻4にも、別の泰澄伝を思わせる奥書がある。奥書には「私云。此和尚ノ事。伝ノ中ヨリ略シテ書出侍リ。彼伝天暦元年作云云。伝ノ文章、古ノ文体ニ似ズ。能ク是ヲ尋ベシ。伝ニハ生得ノ恵解有リテ、真言ノ効験ヲ施スト云ヘリ。其上師承ヲ尋ネ及バズ。シカレドモ猶正説ヲ勘ベキ事也。(以下略)」とある。栄海は伝の執筆にあたり、天暦元年(947)作のものをもとにそれを節略したとある。巻4の末尾には栄海が38歳の時、正中2年(1325)6月30日に撰述したとある。なお、6月30日は金沢文庫本書写の約1か月後にあたる。注目するのは伝の成立年代で、天徳元年と同2年より遡った天暦元年(947)とある。つまり9から10世紀にかけての3つの原泰澄伝が存在した可能性を示している。

 さらに、越知山での修行開始年齢に着目すると、それがより浮き彫りとなる。たとえば『伝記』金沢文庫本と『釈書』がともに14歳で、他の尾添本・平泉寺本も同様である。しかし、『真言伝』は11歳とあり、他にそれを採用するのは、越前町の越知神社が所蔵する『伝記』元和本である。

 元和本は元和5年(1619)の書写であり、奥書には「抑和尚伝記、雖所々相替、本々区々、此本者一条院御宇、於寛弘年中、仰勅従官庫申降処之本也、然於正本、為当社御貴宝、深入函納神殿畢、恐々、於写本者為将来亀鏡、(以下略)」とある。元和本の原本が一条天皇朝の寛弘年間(1004〜1012)に勅に依って官庫から「申降たる処の本」であったことが記される。元和本は『伝記』をもとにするが、なぜか修行年齢が14歳ではなく、11歳なのである。『真言伝』の影響ともとらえられるが、大谷寺独自の伝承で、それを採用したことも考えられる。

 他にも、原伝が複数存在した可能性を示す写本がある。大永年間(1521〜1527)の書写とされる平泉寺白山神社所蔵の平泉寺本の奥書には「書本云、俗名通憲小納言入道信西本、以保元元年丙子三月十八日、自文庫盗取出、書写畢云云」とある。平泉寺本は、小納言の藤原通憲所有の信西本が保元元年(1156)に文庫より盗み取り出され書写されたものという。これを信ずれば時代は下がるが、異なる泰澄伝が存在したことになる。

 さらに『白山記録十種』においても、貞観2年(860)の年紀をもつ「神融大師誕生并遷化之記」(以下『遷化之記』)が所収されている。

 これらの諸本を年代別に並べると、貞観2年(860)の『白山記録十種』、天暦元年(947)の『真言伝』、天徳元年(957)の「金沢文庫本」、天徳2年(958)の『元亨釈書』「越知山泰澄」「白山明神」、寛弘年間(1004〜1012)の「大谷寺本」、保元元年(1156)の「平泉寺本」となる。奥書などに創作や付加がないとは言い切れず、内容も『伝記』と同じもの、あるいは近いものであったかの確証はないが、ひとつ言えるのは元和本に「相替、本々区々」とあるように、内容を異にする伝が複数存在した点である。いずれにせよ『伝記』につながる原泰澄伝なる書巻が、遅くとも平安後期までには整備されたことは確かであろう。

(3)貞観本の存否

 そこで、『白山記録十種』所収の「白山大権現縁起 壱軸」を見てみる。一軸を全体でみれば、『釈書』泰澄伝のスタイルに似ている。『遷化之記』はその事蹟を年譜形式で述べた『元亨釈書』の「越知山泰澄」に対応し、「白山之縁起」は泰澄が白山神に導かれ、十一面観音を感得するまでの行動を述べた『釈書』の「白山明神」に対応する。とくに、前半部の「白山之縁起」は泰澄直筆とされる神亀2年(725)の年号が付される。『泰澄和尚伝記』『元亨釈書』では越前国の越知山を拠点としていたが、「白山之縁起」は「吾在加賀国於医王山、見白山高嶺雪」と加賀国の医王山としているので、加賀側からの潤色が認められる。

 また、同年6月2日とあるのは霊亀2年(716)とわかるので、35歳時の貴女による誘いや養老元年(717)の白山登頂などの内容は『伝記』と同じである。しかし「白山之縁起」には林泉の場面はないまま白山登頂となる。神世七代・地神五代の記述も同じであるが、『伝記』の舞台は林泉であった。つまり、越前馬場の拠点である林泉の場面は削除され、代わりに禅頂池の話や四寸本尊の内容が記される。

 最後に「再号加賀国白山妙理大権現」とあるので、加賀側からの論理で再構築したことがわかる。それから「白山二十一社」「神融密左右語曰」「遷化之記」と続くが、「白山二十一社」は『白山之記』、「神融密左右語曰」は『伝記』をもとにし、最後にある清和天皇朝の貞観2年(860)の書記は『遷化之記』のみを指すものとみられる。

 まず、『伝記』を要約した箇所がある。『伝記』では「非凡庸、不可軽蔑、父母蒙其教誡、特尊重所撫育也」とする箇所を、『遷化之記』ではそれを「云云」とする。同じように「至于後年者、偏栖彼嶺久修練行、自落鬢髪乃為比丘形、以藤皮苔衣蔽膚、以松葉花汁助命、生得智解忽発、布字月輪在心、自然覚悟暗催、入我々入無外、六時礼讃累年不退、三昧坐禅積日無倦、修験漸秀、為世宝、呪功早越為国師矣」を「略之」としている。『遷化之記』では、天平8年の「神融生年五十五歳也」と年齢が示されたあと、同9年では「和尚生年五十六也」の記述を削除している。

 一方で、『伝記』を読みやすくするためか、『遷化之記』では「修行之時」「十四歳之時」「汝所坐之蓮花」「比丘之形」「可施十一面之利生」「越知峯麓岩屋之内入畢」「聖武天皇之御在位」「神融之状曰」とあり、所々で「之」を加える。『伝記』では年齢を「十四」「八十六」とするのを『遷化之記』では末に「歳」と補う。

 次に、編集という視点でみると、意図的な削除は最初の部分である。『遷化之記』では「人王四十代天武天皇御宇、白鳳十一年壬午六月十一日、白雪皎誕生」とシンプルに記されるが、『伝記』では「白山行人泰澄和尚者(中略)月満産生時」とある出自について意図的な削除がなされる。同じような編集は天平宝字2年(758)のとき越知峯の大谷仙崛に蟄居するとの内容の削除にもみられる。

 他に、『遷化之記』だけにある「其後蒙勅、宣白山麓垂跡、神殿新有建立、国家泰平、祈給利生、他異也、雪山之頂、本地仏体自彫割、貴賤歩運奉恭敬、供養竭身心罪業」、「従白山禅頂覆紫雲、聖衆来迎之粧」の記述についても加賀側の宣揚とみたい。神功皇后を一代として数えたことは神皇正統記などとも共通する。その点では鎌倉時代から南北朝時代に下る要素といえるので、貞観2年の年紀は後世の潤色となってしまう。

 しかし、『伝記』にない7歳時の記述が気になる。「行越知之峯、杉之本端坐」とあるのは、大谷仙崛での蟄居の記述を削除すると、越知山関係の記述がなくなるため、7歳の記事をつくることで矛盾の解消をはかったとみられる。そのあと、14歳の時に越知峯麓の岩屋に向かうので、結局は矛盾することになるが、『伝記』では「越知峯坂本巌屋」とあるのを『遷化之記』では「坂本」の削除により解消したようである。

 こうしてみると、『白山大権現縁起』の一軸は前半部の神亀2年(724)の泰澄直筆とされる「白山之縁起」、後半部の『遷化之記』ともに『伝記』、とくに尾添本系をもとに加賀側の視点で書き換えられたとみられるが、『遷化之記』にみる7歳の記述は『伝記』とは別系統の古伝であったことも否定できない。

 最後に、『伝記』と『釈書』の奥書にあった2つの天徳年間(元年と2年)、また『真言伝』の天暦本も含めて3種存在したとみられる9、10世紀の原伝の存在について結論を述べておく。

 もう一度触れると、『伝記』本文の末尾から奥書にかけて、泰澄の生前・入滅後の不思議・徳行・異相・権化にまつわる説話は枚挙にいとまがないが、首尾一貫していないので、天徳元年(957)3月24日に、浄蔵貴所が風土旧記を勘案して語ったものを、弟子の神興らが記して後代の亀鏡としたと記す。それから浄蔵に関する記述が続き、次も同様の内容が繰り返されるが、浄蔵の出自や泰澄を十一面観音の示現だと述べる。

 このように『伝記』には原伝となる天徳元年本の存在が示されたが、『釈書』には「弊朽せる一軸」の存在が示され、天徳2年(958)という年紀が示されている。重要なのは年紀に齟齬が認められる点である。同じ書物なのか、どちらかに誤写が生じたのか、それとも別々の伝が存在したのか。結論をいえば『釈書』に関しては、師錬が元年を2年に書き直した可能性が高い。

 そこで『釈書』所収の「資治表」(7巻)の記述をみてみる。その前に「資治表」とは、仏教伝来時の欽明から順徳までの歴代天皇の治世を仏教とのかかわりを中心として、『春秋』に倣った編年体で述べた通史的部分である。『元亨釈書』にこの部分を設定することで、宗派史や寺院史から切り離された仏教の歴史を書くことができたのだという。「資治表」のなかでは、天徳元年に関して「十有一年春、夏、秋、冬十月庚辰、天徳と改元す、天徳元年に十月二十七に改む」とし、天徳年間は元年の10月27日を改元としている。

 しかし、『伝記』には天徳元年3月24日で改元前にあたり、実際は天暦11年なのである。すなわち、師錬が編纂の過程で改元の矛盾に気づき、意図的に1年遅らせた可能性が高い。師錬は泰澄伝の記述にあたり「弊朽せる一軸」をもとにしたが、天徳元年3月24日という具体的な年月日に修正を加え、単に天徳2年とだけ記したと考えておきたい。

 これが異なる年号の併存した理由である。となれば、両書は同じ伝にもとづいた可能性が高い。それは師錬が数あるなかで選んだ「弊朽せる一軸」の伝で、現存最古の『伝記』と極めて近い形の伝であったかと推察される。

 一方、天徳年間より古い『真言伝』の奥書にある天暦本の存在は、どうなるか。『真言伝』の泰澄伝については、「伝」の中より略して書き出すとあるので、栄海は執筆にあたり天暦元年(947)の年紀をもつ伝をもとに節略したことになる。しかし、この伝は天暦元年(947)作のもので古の文体に似ず、よくこれを尋ねるべきだと疑いを残している。

 先に、『伝記』と『釈書』は、天徳元年(957)という同じ年紀をもつ本と考えたが、『真言伝』の栄海の言を信じれば、天暦本が存在していたともとらえられる。しかし、同じ天の付く年号であるので、「暦」は誤記ともとらえられる。栄海の年齢も板木に「生年三十八」と記すのは、「卌八」→「卅八」→「三十八」という変遷で誤ったとの指摘があるので、それらを踏まえると「暦」は誤記ととらえられる。

 詳細は触れないが、『伝記』と『真言伝』を比較すると、『真言伝』の方は書き下し文であるが、両書は同じような内容が書かれている。しかし、『真言伝』には『泰澄和尚伝記』にない「真言秘密ノ行」の語句があるなど、真言宗の立場から若干の編集がなされる。忠実に書き下し文にする一方で、段落を削除するなど大胆な編集も加えている。

 両書に若干内容の異なる内容が含まれることは、栄海の言うように『真言伝』が『伝記』をもとに記されたことを示している。とすれば、『真言伝』にある天暦元年(947)本ではなく、天徳元年(957)本であった可能性が高い。

 なお、修行時の年齢には明確な違いがある。『真言伝』では修行年が11歳、『伝記』では14歳、これについては『真言伝』の節略という編集方針から11歳からの記述を同年でつないだ可能性もあるが、元和本も同じ11歳であるので、大谷寺独自の伝が存在していたことも充分に考えられる。11歳修行とする伝は他にも存在することから、金沢文庫本・尾添本・平泉寺本などとは別系統の伝の存在を暗示するものなので、今後さらに検討を深めていく必要があるだろう。

 まとめると、これまで『釈書』の泰澄伝に関しては『伝記』→『釈書』、『釈書』→『伝記』という2つの成立説があったが、『釈書』所収の際に記述上の明らかな間違いを訂正し、文言などの編集をおこなっていることから、師錬の言うように『伝記』の「弊朽せる一軸」をもとに『釈書』「越知山泰澄」「白山明神」をかき分け、『釈書』にある「天徳二年」の年紀についても、改元の関係で『伝記』の「天徳元年」をもとに2年に直したと考えた。『真言伝』についても天暦元年の年紀については天徳の誤記ともとらえ、『釈書』と同じような天徳年間の年紀のある『伝記』をもとに成立したととらえ直した。

 つまり、『伝記』『釈書』『真言伝』の泰澄伝がもとにした原伝は、いずれも天徳元年(957)本であったことになる。貞観本の存否については判断しかねるが、7歳の記述に独自性があるので、10世紀中頃の原泰澄伝が完全にひとつであったとは断言できないだろう。

 

5 『泰澄和尚伝記』は完全な創作なのか?

(1)『泰澄和尚伝記』の風景

 泰澄の生涯を記した『泰澄和尚伝記』は、内容に平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての説話的要素が多分に認められることから、成立を新しくみる説が主体的である。『泰澄和尚伝記』の信憑性を疑う声は大きく、泰澄さえも架空の人物とする見解が一部で見受けられる。確かに『泰澄和尚伝記』の内容のすべてが事実とは考えにくいが、すべてを否定することはできないだろう。

 一方、奥書にある天徳元年(957)の年紀を評価し、天徳本の存在を積極的に認める説がある。原泰澄伝が存在したのか、しなかったのか、それを証明することは難しいが、原姿たるものがあり、そこから段階的に付加され、最終的に現在の形の伝として完成したことも充分に考えられる。仮に原泰澄伝が存在したとすれば、9、10世紀頃の越前国の社会的状況を踏まえる必要があるだろう。

 そこで、注目するのは近年増加してきた考古資料である。福井県内における山岳信仰の関係遺跡や山林寺院の発掘調査事例が増加し、報告書が刊行されるなど基礎資料はそろってきている。また、これまで蓄積された分布調査成果もあわせ、考古学を中心としたより具体的な泰澄の研究が可能となっている。

 ここでは『泰澄和尚伝記』に記された内容は完全に創作なのか、それとも原形となるようなものがあったのか、伝記を記した人物が当時たどっただろう道筋、見たであろう風景を探り、『伝記』に書かれた場所の比定、伝承・伝説などをみていく。また、泰澄の死後、『伝記』がどのような事象を反映させたのか、これまで蓄積されてきた考古学的な成果とあわせてみていこう。

(2)生誕地の麻生津と泰澄の修行道

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は俗姓が三神氏で、越前国麻生津の三神安角の2男とある。母は伊野氏で白玉の水精を取って懐中に入る夢を見て懐妊し、天武天皇11年(682)6月11日に誕生したと記される。麻生津とは福井市浅水町付近と考えられ、現在もその南に位置する福井市三十八社町に泰澄寺は現存し、生誕の地として知られる。

 麻生津が文献に登場するのは平安時代である。『和名類聚抄』(「奈良文化財研究所」古代地名検索システム・利用可)では「丹生郡朝津郷訓阿佐布豆」、延喜式巻第28(「桑原文庫」島根大学デジタルアーカイブ・閲覧可)の兵部省では「朝津 駅馬 伝馬各五疋」とある。津という表記と周囲を流れる浅水川の存在から河川交通の要所だったこと、北陸道の朝津駅の付近から陸上交通の拠点であったことがわかる。天台宗僧の光宗が著し正和3年(1314)の成立とされる『渓嵐拾葉集』には、「越州浅津船渡子」(「大正蔵」七六・七八三中・satにて検索可)とある。泰澄の父が船守であったという伝承も、麻生津という地域の歴史性に由来するとみられる。

 福井県鯖江市の立待地区から越知山の方に真っ直ぐ西に向かうと、丹生山地にぶつかる。その麓に鎮座するのが八坂神社である。泰澄伝承は確認できないが、越知山信仰圏への入口としてその歴史は古いとみられる。牛頭天王を祀る応神宮や境内にはその神宮寺である応神寺の存在も知られる。また、多数の諸仏群があり、国の重要文化財である。のちほど取り上げる木造十一面女神坐像も末社の御塔神社から発見された像である。

 八坂神社から1.4㎞南にあるのが越前町の朝日観音である。現在の朝日観音は朝日山の中腹に位置し、集落よりも高所にある。養老元年(717)泰澄より開かれた古刹で、霊木より彫り上げたという「朝日観音」の伝説をもつ正観音菩薩立像、平安末期~鎌倉初期の制作とみられる千手観音菩薩立像などが安置される。晴天の時には境内から北東を臨むと白山の稜線がくっきりと姿をあらわす。白山遥拝の地としても知られている。

(3)最初の修行地、大谷寺と越知山山頂の遺跡

 泰澄最初の修行地が「越知峯の坂本の岩屋」である。金沢文庫本などでは、持統天皇9年(696)泰澄14歳のとき夢告をうけて夜な夜な外出し、坂本の岩屋で百辺礼拝して、声に「南無十一面観世音神変不思議」と唱え、それから越知峰によじ登ったとある。しかし元和本などには修行年齢が11歳と記され、現在の大谷寺は持統天皇6年(692)に開かれたという。地元では越知山といえば裏山にそびえる堂山を指す。西の越知山とは区別し「元越知山」と呼ぶ。つまり越知山は2つある。となれば、泰澄が大谷寺周辺で修行しているなかで、西の越知山の方はのちに開かれたことになる。

 なお、西の越知山の麓、越前町森には金堂がある。泰澄が修行したあと越知山に登ったと伝えられた所で、現在は石の祠があり、内部の岩壁には十一面観音が陽刻される。明治時代初頭までは堂が建ち、木造十一面観音菩薩立像が安置されていた。2つの越知山。はたして当初、泰澄はどこで修行していたのだろうか。

 泰澄が修行した越知山。その山頂付近は朝日町時代から数年にわたり分布調査をおこなってきたが、これまで古代の遺物は確認できなかった。採集遺物の大半は近世以降であり、泰澄が生きた時代の考古学的痕跡は発見されないでいた。福井県丹生郡誌』には、過去に平安時代の須恵器製大瓶が出土したとある。かつて越知山山頂で祀られていた大谷寺所蔵の十一面観音菩薩坐像・聖観音菩薩坐像・阿弥陀如来坐像(三尊一具)の仏像(福井県指定文化財)は平安時代後期の制作とされる。遺物や彫刻などで追える開山時期は平安時代には遡るとみられていた。

 しかし近年、越知山の山頂から奈良時代に遡る考古資料の発見が相次いでいる。先に紹介した須恵器は丹生窯跡で生産された奈良時代(8世紀中頃)のもので、開山伝承にせまるものといえる。また、臥行者旧跡で発見された須恵器も貴重なものである。時期は判断しかねるが、その形の特徴などから奈良時代と考えられる。これらの須恵器は、いずれも越知山山頂およびその付近で採集されたものであるので、誰かが奈良時代に持ってあがったことがうかがえる。それを残した人物が泰澄かどうかはわからないが、奈良時代に越知山あたりで活動していた山林修行者であった可能性は高いだろう。

(4)貴女の夢告と白山への登頂

 養老元年(717)、泰澄36歳の4月1日に、泰澄は白山の麓・大野の隅の苔川の東、伊野原に赴く。そこで観念を凝らして呪功を運び、天に喚び掛け、骨を砕き肝を奢るまでに力をいれると、夢中に出てきた貴い女性が再び現れ、「ここは貴方のお母さんの産穢の場所で、結界ではありません。この東の林泉は私が現れるところです。早く来なさい」と命じて姿を消したとある。ここで登場する場所が母の故郷の「伊野原」で、東側に位置する「林泉」である。泰澄の母は伊野氏であり、伊野原という地名はここに由来するとみられる。

 それから泰澄は東の「林泉」に訪れると、貴女が再び姿を現す。そして自分は伊弉諾尊で、妙理大菩薩と号すと語った。貴女の姿をした妙理大菩薩と出会った「林泉」は現在の白山平泉寺にあたるとされる。白山への越前側からの登拝道の起点となる勝山市の白山中宮平泉寺は、現在の白山神社境内地に中心伽藍があった。最近の調査によると境内地から9世紀の須恵器がわずかながら出土しており、平安時代初め頃には明寺山廃寺・上開谷遺跡・マンダラ寺遺跡など、越前国の山林に展開する諸遺跡のような小規模な寺が成立していたとみられる。

 さて、泰澄が白山天嶺の禅定(霊山の頂上)に登り、緑碧池(翠ヶ池)の側で祈りをこらすと、目の前に九頭龍王が現れる。真身ではないことを泰澄が責め立てると、ついに白山神の本地仏である十一面観音菩薩の玉体があらわれる。また、白山の主峰に連なる左孤峰(大汝峰)では大己貴尊が現れ、阿弥陀如来を拝する。さらに、右孤峰(別山)では小白山別山大行事という神が現れ、阿弥陀如来を拝することになる。それから泰澄はこの峰に居したとある。泰澄は養老元年(717)に白山の開山をおこなったあと、越知山に蟄居(帰山)した天平宝字2年(758)まで修行していたという。

 泰澄の事績が歴史事実かどうかはさておき、なかでも泰澄の白山山頂で十一面観音菩薩を感得するところは、物語上でクライマックス・シーンである。貴女は結局、九頭竜王を経由して、最後に十一面観音菩薩という変化をとげる。つまり、本地である十一面観音菩薩が、貴女・伊弉冉尊という仮の姿であらわれ、泰澄を導くことから10世紀以降に本格化する本地垂迹説にもとづく内容となっていることに気づく。

(5)泰澄、越前五山を開く

 越前五山といえば泰澄が710年代に開いたことで知られるが、決して伝承などではなく、越知山をはじめ他の山の山頂やその周辺において須恵器が採集されるなど考古学的な痕跡が発見されている。ここでは越知山・白山以外の三山を取り上げる。

 文殊山は越前五山の中心的な位置で、養老元年(717)の開山とされる。山頂では8世紀後半以降の遺物が採集され、須恵器の有台杯に記された「寺」墨書は注目すべきもので、山頂に宗教施設が存在したことを示している。周辺には数々の寺院が展開し、とくに二上観音堂には木造十一面観音菩薩立像(10世紀)が安置されていた。

 日野山は丹生郡の南境に位置する。過去に山頂では須恵器が採集されたと聞くので、開山時期は古代まで遡るようである。北側に展開する尾根中腹では荒谷大寺跡が存在し、多くの平坦面などの遺構と石造物が残る。周辺には寺院・神社が数多く展開し、平安時代の仏像も数多く存在している。

 吉野ヶ岳は福井平野一帯の信仰の山として知られる。山頂から少し下った蔵王堂付近には平安時代の仏像が安置、付近からは須恵器の壺片(8~9世紀)が採集されている。これまで吉野ヶ岳山頂は遺跡として認識されていなかったが、平安前期まではその痕跡を追うことができる。

 こうしてみると、越知山は8世紀中頃、文殊山は8世紀後半、吉野ヶ岳は8~9世紀の遺物が確認されており、誰かが山頂に登り何らかの痕跡を残していたことが知られる。周辺あるいは麓には社寺が展開することから、標高1,000mを超えない低山を中心とした信仰圏が、各地で形成されていたことを示している。県内の数ある山のなかで越前五山と称され、しかも泰澄の開山伝承をもつ山で須恵器などの古代の遺物が採集できることは、泰澄の事蹟を考えるうえで重要といえるだろう。

 さて、これまで県内の山林寺院は、8世紀後半から9世紀にかけて盛行するが、それよりも古い遺物が出土したのが、文殊山の東奥、城山(標高404m)山頂付近で発見された鯖江市の三峯寺跡である。鯖江教育委員会の発掘調査により、8から9世紀にかけての土師器・須恵器・緑釉陶器が出土したが、なかには8世紀前葉の須恵器が含まれていた。須恵器蓋には灯明痕や鉄鉢があり、土師器椀には赤彩がなされていた。山頂付近で何らかの祭祀がおこなわれ、それがⅣ区まで流れ込んだとみられる。山頂付近に展開する三峯村には717年の開村(寺ととらえれば開基)伝承をもつことから、考古学と照合された珍しい事例といえるだろう。

(6)泰澄入寂の地、大谷寺

 長年白山で苦行を修した泰澄は天平宝字2年(758)、77歳の年に白山から下山する。それからは元々の修行地であった越知山に帰山することになる。『泰澄和尚伝記』には越知峯の「大谷仙崛」に蟄居したと記されている。「仙崛(窟)」の意味を調べると、「仙人のすみか」「俗世間をはなれたすみか」とある。

 つまり、「大谷の仙窟」とは、泰澄が晩年に俗世間を離れ住んだ場所と解釈できる。現在の大谷寺の地は、大谷寺という寺名や集落名からも、元越知山を中心とした現在の大谷寺付近に比定できる。西の越知山の字が今でも大谷寺ということからも、その領域はさらに広大だったことがうかがえる。「大谷」の地名が古いことを証明する遺物は、平成14から17年にかけて実施された発掘調査で発見されている。

 これまで大谷寺の裏山(元越知山・標高200m)には大規模な平坦面が確認されていたが、発掘により大型・小型の基壇状遺構が検出され、大量の須恵器が出土した。墨・煤付着の土師器・須恵器、転用硯、墨書土器、浄瓶・六器などの仏具の存在から平安前期(9~10世紀)の山林寺院の営まれたことが明らかとなっている。数多くの遺物のなかには墨書土器があり、「大谷」と記されたものも含まれていた。人名なのか、地名なのか。いずれにせよ、この地が『泰澄和尚伝記』にある「大谷」の地として1200年前に認識されていたとみられる。

 のちほど触れるが、注目すべきは「神」と記された墨書土器2点である。これらの土器は平坦面東端で白山遥拝に適した地で、付近には小型基壇状遺構が造られている。神社遺構の可能性が指摘でき、山林寺院での神祀りのあり方を知るうえでも重要な発見となった。

 なお、大谷寺には泰澄の廟所として石造九重塔が建つ。笏谷石(緑色凝灰岩)製で、元亨3年(1323)の銘をもつ。泰澄伝の収録された『真言伝』が正中2年(1325)、『泰澄和尚伝記』金沢文庫本の書写年代が同じ正中2年(1325)。14世紀前葉には大谷寺だけでなく、泰澄に対する宣揚が進んだとみられる。

 泰澄は天平宝字2年(758)越知峰の大谷仙窟に蟄居し、ここを入定の地と定めたが、神護景雲元年(767)には一万基の三重木塔を勧進造立し、勅使の吉備真備に付けて奉った。同年3月18日、泰澄は予言どおり結跏趺坐し、大日の定印を結んで奄然として入定遷化した。その遺骨は石の枢に入れて大師房に葬ったという。86歳であった。大谷寺周辺には遷化した地を思わせる岩場や、泰澄の石棺が埋まられたことが想定できそうな円形の塚状遺構などがある。

6 泰澄は複数いたのか?

(1)『大日本国法華経験記』(鎮源が長久年間(1040―44)に著した仏教説話集)と『本朝神仙伝』大江匡房(1041―1111)による神仙説話集)の泰澄

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は越前国生まれであるが、他の平安時代の史料などには加賀や越後などと出てくる。しかも越後では泰澄ではなく、神融である。平安時代には泰澄らしき人物が複数存在したのだろうか。ここでは『泰澄和尚伝記』以外の平安時代の史料について触れる。

 まずは、鎮源が著し長久4年(1043)に成立したとされる『大日本国法華経験記』(以下、すべて『法華験記』と略する)「越後国の神融法師」である。ここには「沙弥神融[俗に古志の小大徳と云ふ。多くの名あり、これを注さず]は、越後国古志郡の人なり。(中略)神融上人妙力の力に依りて、現に法験を施し、後に菩提を証せり。神護景雲年中に入滅せり」とある。最初と末尾の部分であるが、沙弥神融は越後国古志郡の人で、俗に古志の小大徳で数多くの名あり、これを注さないとしている。越後国の国上寺が舞台で、塔を壊す雷神を『法華経』の力によりとらえるという内容である。注目するのは神融が、泰澄とは記されず越後国の人とある点、入滅した時期が記された点にある。

 神融とは『泰澄和尚伝記』では養老6年(722)に元正天皇の病治癒の効により護持僧として禅師の位を授かり神融禅師と号したとある。また、神護景雲年中とは『泰澄和尚伝記』では泰澄55歳のとき天平宝字2年(758)に大谷の仙崛に蟄居したあと、神護景雲元年(767)に86歳で入寂したとある。部分的ではあるが、両書には共通点が認められる。

 同じような譚が12世紀初頭の成立とされる今昔物語集巻12の1(「実践女子大学」蔵・特殊コレクション・閲覧可)「越後国の神融聖人、雷を縛りて塔を起つる語」である。ここには「今は昔、越後の国に聖人ありけり。名をば神融と云ふ。世に古志の小大徳と云ふは、これなり。(以下略)」とある。これも越後国の神融聖人が『法華経』の力により雷をとらえる内容で、『法華験記』をもとに記述したとみられる。泰澄と出てこない点で共通するが、入滅の時期が示されていない点で異なるが、古伝のひとつと考えられる。

 次に、大江匡房が著し天永2年(1111)以前の成立とされる『本朝神仙伝』である。ここには「泰澄は賀州の人なり。世に越の小大徳と謂ふ。神験多端なり。万里の地といへども一旦にして至り、翼なく飛びつ。白山の聖跡を顕して、兼てその賦を作れり。今に世に伝へたり。(中略)泰澄、数百年を経て死なず、その終りを知らず」とある。泰澄は加賀国の人で世に越の小大徳という。神験は多端で、万里の地といえども一旦にして至り、翼なく飛び、白山の聖跡を顕してその賦を作る。吉野山に至り一言主の縛を解こうとして加持すると三匝は解けたが、暗(そら)から声あり再び元に戻ってしまう。その声の本覚を問うと稲荷の社では夢に一女が現れ、本体観世音・常在補陀落・為度衆生故・示現大明神と告げる。阿蘇社に詣でると池の上で九頭龍王が現れたが、泰澄の言により金色の3尺の千手観音に変わったという。

 注目するのは『泰澄和尚伝記』では越前国の生まれ、『法華験記』では越後国の神融とするなか、ここでは加賀国の泰澄とする点である。『法華験記』『今昔物語集』『本朝神仙伝』は越の小大徳とする点で共通するが、『法華験記』は神護景雲年間の入寂、『神仙伝』は不死とする。しかも一言主の縛を戻した存在の正体を知る過程で登場する『本朝神仙伝』の「夢有一女」や「有九頭竜王」は、『泰澄和尚伝記』の霊亀2年の「和尚至霊亀二年夢、以天衣瓔珞飾身貴女」、養老元年の「爾時従池中、示九頭龍王形」と対応するが、変化が千手観音の点で異なる。

 その死に関しても『本朝神仙伝』の「泰澄経数百年不死、其終」、『泰澄和尚伝記』は「奄然入定遷化、春秋八十六也」とある。伝説的な要素が強く創作性が加えられ、役行者と並ぶ神仙として位置づけられる。なかでも霊異の契機として一女が登場し本体が観音だと語り、九頭龍王から千手観音に変わる点は、『泰澄和尚伝記』における夢中の貴女から九頭龍王、十一面観音へと変化する内容を彷彿とさせる。

 ちなみに、『法華験記』は輪廻思想を前提に法華経持経者の説話の集大成であり、なかでも山岳信仰や神祗信仰との交渉などの土着性が濃厚だという。一方、『神仙伝』は平安朝の文人の神仙思想の伝統を受け中国の神仙伝に範をとり、日本で匡房の神仙観にかなう人物を拾い出し本朝の神仙列伝として述作した、信仰的というより知的な文学的作品である。

 『法華験記』にみられる説話の持経者は修行のため山岳にこもり宗教生活を営むが、苦行の末に魔縁を降伏し羽化して飛行、長寿を獲得し鬼神などを駆使するなど神仙的な世界が描かれており、こうした修行者のあり方は『本朝神仙伝』で描かれる人物たちに通じるものといえる。

 そこで、『泰澄和尚伝記』で越前国生まれの泰澄が、なぜ加賀国越後国の人とあるのかを考えてみたい。『本朝神仙伝』で加賀とすることについて、山岸共氏は泰澄を加賀とみるのは加賀側の強調から出たものと述べる。つまり越前側の人物であったことが前提となる。

 また、神仙の伝として記されるので、『法華験記』と『泰澄和尚伝記』の共通とする神護景雲年中入定の内容を不死とした創作性の強いものである。ここでの泰澄は役行者からの流れで話が続く形で登場するが、一言主に七匝の縛をかけたのは役行者で、これを解こうとしたのが泰澄である。加持により三匝は解けたが、結局暗から声がありその呪縛は元に戻り、その本地の追求へと話が展開していく。つまり、役行者からの連関で成立するもので、神仙伝という書物の性格からその終わりを知らずとして終結させる独自の神仙譚ととらえられる。

 こうした独自の編集は創作性の強さを物語る。加賀国の人とあるのは越前国の出身という原典をあえてずらして記述した可能性が高い。その経緯としては大江匡房が加賀側の伝承を入手しそれを採用したのか、それとも中央に確固たる泰澄伝が流布していたので神仙伝に収録することをはばかり、泰澄伝をもとにその伝とわからないよう独自に書き換えたともとらえられる。

 これは越前国の泰澄、神融の別称、養老年間の白山開山、神護景雲年中の入定という骨子をもつ伝ありきで、それを異伝という形へと編集し直したという見解である。つまり中央で越前国の白山を開いた泰澄という認識が広まっていたので、その亜流として加賀にし意図的に越前の表現を避けたとは考えられないだろうか。

 たとえば、『本朝神仙伝』における夢の一女→九頭龍王→千手観音の変化も、これをもとに『伝記』の貴女→九頭龍王→十一面観音という変化がつくられたかに思えるが、この伝を仮に『泰澄和尚伝記』に採用したとすれば、なぜ千手観音観ではないのか、あるいは不死の話を反映させなかったのか、疑問が残る。となれば、やはり逆に解するのが妥当である。

 のちほど触れるが、10世紀末の白山観音という認識が宮廷に古くからあり、また藤原敦光の語る泰澄大師による白山・養老年間という記述を踏まえると、すでに泰澄伝の原形に貴女→九頭龍王→十一面観音という本地に至る過程が語られていたからこそ、匡房が神仙の伝という書物の性格を踏まえてその差別化をはかるために、夢の一女から十一面観音への変化をもとにその設定をずらすような形で創作を加え、夢の女と千手観音として書き直したと考えられる。

 こうした視点は下出積與氏がこれらに近い見解を簡潔に述べる。『本朝神仙伝』にみる泰澄と九頭龍王垂迹神形との間に並ならぬ関係性を示したことについて、匡房が頭の中だけで『泰澄和尚伝記』を採用して阿蘇社に九頭龍王を結びつけたと強解できないこともないが、それにしても平安頃に泰澄といえば龍形神を想起する雰囲気がまったく存在しなくては、こうした記文は生まれてこないのではなかろうかとしている。

 この指摘を深読みすると、匡房が泰澄伝をもとに『本朝神仙伝』の独自の伝を記したともとらえられる。加えて『法華験記』と『本朝神仙伝』に共通する「古志(越)の小大徳」という記述も気になる。

 加えて『法華験記』と『本朝神仙伝』に共通する「古志(越)の小大徳」という記述も気になる。『法華験記』が『本朝神仙伝』の記述に影響を与えたことは考えにくいので、もともと11世紀後葉から12世紀初頭にかけての宮廷で、泰澄=越の小大徳との共通認識があったことを示している。

 以上を勘案すると、『本朝神仙伝』をもとに『伝記』が成立したのではなく、『泰澄和尚伝記』の骨子となる原形がすでに11世紀には成立していたと結論づけたい。

(2)『白山之記』(長寛元年1163成立)と『白山上人縁起』(「本朝続文粋」巻一一所収)と続古事談(「新日本古典文学大系41」)の泰澄

 それでは、加賀側からの視点で長寛元年(1163) 以降に成立したとみられる『白山之記』と『続古事談』についてみてみる。詳細にみると、『白山之記』は越前を意識した加賀側が記したものといえる。なかでも泰澄大師とあることや嘉祥元年(848)に鎮護国家の壇場とするのは古い認識を示すもので、養老3年(719)としたことも独自の伝承にもとづいたのかもしれないが、白山本宮にかかるその化現については霊亀元年(715)と1年遡ることも逆に考えれば、すでに越前側あるいは中央で『泰澄和尚伝記』のような認識があったことを意味している。

 『本朝神仙伝』の記述も踏まえると、泰澄は霊亀元年に貴女の夢告を受け白山に向かい山頂に登り、その本地を探求する場面でも九頭龍王を経由して十一面観音へと変化し、また壇場との表現から鎮護国家の法師であったというような記述も12世紀中頃までに語られていた可能性が高い。

 『白山之記』より少し時代がくだるが、『本朝続文粋』には藤原敦光による「白山上人縁起」が収録される。泰澄にまつわるもので、保安2年(1121)の成立とされる。ここには「白山は山嶽の神秀なり。(中略)養老年中、一聖僧有り。泰澄大師是れなり。初めて霊崛を占い、権現を崇め奉りて以降、効験は遐邇に被り、利益は幽顕に及ぶ。其の場に参詣する者、百日は葷腥を断じ、基の砌に来至する者、二里に涕睡を禁ず。信心の清浄に依りて、感応の掲焉有り。(以下略)」とある。養老年間(717~724)に泰澄大師が初めて白山の霊崛を占して権現を奉じたとする。

 注目するのは『泰澄和尚伝記』の要素と近い白山・養老年中・一聖僧、泰澄大師の3つがそろう点にある。1121年の時点で泰澄が白山を開き、養老年間に白山で何らかの活動をしていたとの認識が敦光にはあり、12世紀前葉に都で、しかも当時の知識人によりその事蹟が知られていたことを示している。

 次に時代はくだるが、健保七年・承久元年(1219)の成立とされる『続古事談』第4巻所収の「神社仏寺」には「巌間寺、正法寺といふ。山城国宇治郡上醍醐の奥、笠取山の東の峯也。越の小大徳といふをこなひ人、十二年をこなひたる所也。日本第三の霊験所とぞ。一は熊野、二は金峯山也。この大徳をば泰澄法師ともいふ。又金鎮法師とも。越後国古志郡の人也。白山をこなひて、次にこの所に来れり。一搩手半の金銅の千手観音を本尊にて、身をはなたずいたゞきたてまつりけるを、此所のひつじさるの方に桂木のありけるを切て、自レ手等身の千手観音を作て、此金銅の仏を籠たてまつりて安置したるなり。この人は唐へわたりて、かれにてうせにけり。(以下略)」とある。

 山城国の巌間寺(岩間山正法寺)について記されたもので、その開基が越の小大徳、泰澄法師とも金鎮法師ともいう。越後国古志郡の人とし、越後国・小大徳とするのは『法華験記』『今昔物語集』にもとづいたものである。泰澄が白山修行のあと本寺に訪れ、本尊は金銅で1尺2、3寸程の千手観音であったが、自らが桂木を切りつくり等身の像を安置したとある。こうした諸伝が泰澄複数説の根拠ともなるが、ひとつ言えるのは原伝たる存在を除けば「神融」「越の小大徳」「泰澄」は12世紀の院政期あたりには同一人と考えるむきが強まっていたと思われる。

 まとめると、『本朝神仙伝』にある九頭龍王の登場、本地を問い観音に変化すること、『法華験記』の神護景雲年中入定の記述を含めて考えると、年譜的な形式かはわからないが、11世紀後半には『泰澄和尚伝記』の骨子たる伝が流布し、都あるいは周辺の人々記すものに影響を与えたとみられる。大江匡房は政治家・漢文学者であり、宮廷随一の教養人である。中国の神仙伝を意識して生まれた『本朝神仙伝』の性格を踏まえると、創作とはいえ原型を念頭に置きながら意図的に違う形に再設定したような配慮がうかがえる。藤原敦光についても学者で文人でもあるので、養老年間に一聖僧がいて泰澄大師だとする記述は信憑性が高い。推測の域を出ないが、導き出せる結論として11世紀後葉までに存在していた泰澄伝の内容を以下の9点にまとめる。

 

  1、泰澄は大師と尊称された。

   2、越の小大徳とされた。

   3、神融と称された。

   4、鎮護国家の法師であった。

   5、霊亀2年に女性の夢告があり、養老年間に白山に登った。

   6、白山は中央で知られる修行地であった。

   7、山頂において九頭龍王が現れ、本地たる十一面観音へ変化した。

   8、白山といえば観音の住む補陀落浄土の地で、本地が十一面観音であった。

   9、神護景雲年間に亡くなった。

 さらにいえば泰澄伝が越前ではなく、宮廷ないしは中央寺院など都やその周辺のどこかで、すでに泰澄の伝が流布していた可能性が高い。

(3)加賀馬場と美濃馬場

 『白山之記』によると、天長9年(832)白山には禅定道とよばれる越前・加賀・美濃からの3つの登拝路(三馬場)が開かれたとある。各基点は馬場と称され、越前・白山平泉寺、加賀・白山本宮、美濃・白山長滝寺といった拠点的な寺社が所在していた。加賀禅定道の拠点となる白山本宮には白山比咩神社が位置する。『文徳天皇実録』の「加賀国白山比咩神従三位」の記事を根拠とすると、遅くとも9世紀には成立していたとみられる。

 『白山之記』によれば、白山七社である本宮四社(白山宮・金剣宮・岩本宮・三宮)と中宮三社(中宮・佐羅宮・別宮)に加え、江沼郡には白山五院(柏野寺・温泉寺・極楽寺大聖寺・小野坂寺)、三箇寺(那谷寺・温谷寺・栄谷寺)、加賀国府周辺には白山中宮八院(護国寺、昌隆寺、松谷寺、塵花寺、善興寺、長寛寺、涌泉寺、隆明寺)などで構成されていた。なかでも隆盛時の中宮(笥笠中宮神社・吉野谷村)は本宮をしのぐものであったという。また、那谷寺もその一院として、塔中寺院250か寺が軒を並べ勅願所であったと伝えている。これらは泰澄が逗留した地として加賀の山岳信仰の基礎を築いた寺院として知られていた。

 のちほど触れるが、中央僧による白山入山の記録が9世紀後葉にあらわれる。白山山頂の発掘調査では9世紀後半以降の須恵器などが出土しているので、文献史料と考古資料の一致をみている。どうも『白山之記』が記すように、9世紀中頃から白山へ向かう禅定道が確立していたようである。考古学的な痕跡をもとに古代における白山禅定道の復元を試みると、加賀禅定道の主要ルートである本宮→中宮→尾添→白山は知られているが、考古学的に分かる資料は少ない。

 注目するのは、加賀国府から中宮にかけてのルートであり、ある程度の考古学的な裏付けをもとに復元は可能とみられる。そこで注目するのは加賀国府近くに展開する石川県小松市の浄水寺跡である。本遺跡では発掘調査により大量の墨書土器が出土したことで知られており、「浄水寺」「吉谷寺」「□□寺」などの寺名の他に、「三坂□」「三坂□□」墨書土器が確認された。現在も三坂町、下吉谷町・上吉谷町があり、実際に三坂峠があるので、国府から白山に向かう途中の地名や峠名と考えられる。

 つまり、国府の背後にそびえる観音山を中心としたひとつの信仰空間の形成が前提となるので、観音山→三坂峠(三坂町)→吉谷寺(下吉谷町・上吉谷町)→中宮→白山というルートが想定できる。このことは10世紀には加賀国府から三坂峠を越えて中宮を経由して白山に登拝する加賀禅定道が成立していたことを示している。それは国府中宮八院を拠点とした白山信仰のネットワークが確立していたことを意味している。

 次に美濃馬場である。長良川最上流の白山中宮長滝寺(現・長滝白山神社、白山長滝寺)があり、古来は白山の南からの登拝口で、ここからの道を美濃禅定道という。白山へは前谷、桧峠を越え石徹白に入り、石徹白の白山中居神社からは、石徹白の大杉、神鳩、銚子ヶ峰、別山に至る。さらに油坂、南竜ヶ馬場を経て白山山頂の御前峰に登る。

 美濃禅定道の拠点である長滝寺の背後には毘沙門岳(標高1386メートル)がそびえる。この山頂では須恵器片・灰釉陶器などが採集されており、長滝寺との関係性が指摘できる。毘沙門岳からは尾根筋を通ると白山へとつながり、毘沙門岳→野伏ヶ岳→願教寺山→別山のルートが想定できる。これらの山頂において考古学的な痕跡は少ないが、毘沙門岳山頂から須恵器が確認できることは、このルートが古代にまでさかのぼる可能性を示している。

 先に紹介したが、越前禅定道の拠点である白山平泉寺旧境内からは9世紀の須恵器が出土しており、仏具らしきものの破片も確認できる。ただし、白山へつながるルートにおいて考古学的な痕跡は確認されていない。おそらく三頭山→法恩寺山→経ヶ岳→赤兎山→白山というルートが設定できるが、現段階で考古資料による裏付けはない。

(4)豊原寺ともうひとつの禅定道

 白山の三馬場について見てきたが、禅定道の起点として越前・加賀・美濃馬場以外に重要な地があるので、4つ目の馬場と禅定道として触れておきたい。

 福井県坂井市丸岡町東郊の山中に展開した豊原寺である。室町時代に成立した『白山豊原寺縁起』によれば、大宝2年(702)に泰澄が開創し、天長年間(824〜834)に昌滝和尚が中興して以降、隆盛に向かったとある。延喜8年(908)に鎮守府将軍藤原利仁の祈願所として多くの寺領寄進を受け、12世紀には押領使の藤原以成が伽藍を建立して500余坊の規模となったという。

 発掘調査により近世の講堂跡下層からは須恵器・土師器・灰釉陶器が出土し、9世紀頃のものも確認できた。須恵器には浄瓶などの仏具を含むことから、平安前期には山林寺院が営まれていた可能性が高い。泰澄の生きた時代のものはないが、昌滝和尚による中興期の遺物は確認できるので、縁起の内容についても、ある程度実態を反映しているだろう。また、豊原寺跡の院・坊のうち、江戸時代に再興された華蔵院跡の下層からは、12・13世紀の土師器がまとまって出土した。丸岡町田屋の豊原家には、江戸時代に講堂の本尊であった薬師如来坐像阿弥陀如来坐像(ともに平安後期)が所蔵されているので、縁起にあるように12世紀が伽藍規模の拡大期にあたっていたとみられる。

 さて、9世紀から山林寺院として活動をおこなった豊原寺であるが、その背後の山や近くの吉谷寺跡背後からは、点在する考古資料をつなげていくと、白山へのルートが存在していた可能性が高い。まず、豊原寺背後にそびえる南丈競山(標高1045m)の山頂では、鉄鉢・転用硯など須恵器(9世紀)が採集された。浄法寺山と比べ山頂の平坦面は広く、仏具も確認できることから仏堂が存在していたか、白山に向かう際の宿坊として機能していたのか。

 さらに、尾根沿いに東に行くと、浄法寺山(標高1053m)につながる。山頂では須恵器片・八花鏡片(9世紀)などが採集され、ガラス製の首飾りを入れた赤彩土師器5点(9世紀)が埋納されていた。ここでも山頂で何らかの祭祀を執りおこなったとみられる。しかも、豊原寺東の吉谷寺跡背後にそびえる火燈山(標高803m)の山頂からは、煤の付いた須恵器の杯(9世紀)が採集され、その名の通り火にまつわる何らかの祭祀を執りおこなっていた可能性が高い。

 これらの考古資料は、いずれも9世紀に比定できる。豊原寺からは南丈競山→北丈競山→浄法寺山、また吉谷寺からは火燈山のルートが想定できる。2つのルートは、みつまた山で合流し、大日山を経由して白山へつながるが、遅くとも平安前期(9世紀)には開通していた可能性が高い。

 

7 泰澄伝は平安時代にできたのか?

(1)白山平泉寺と延暦寺

 『泰澄和尚伝記』を中心に、鎌倉時代末期に成立した『元亨釈書』『真言伝』の泰澄伝、説話にみる泰澄伝や『白山之記』などを見てきた。また、説話の要素をもとに、伝記自体を完全の創作とみることはできないことも触れた。ここからは泰澄伝は鎌倉時代以前に成立していたのか、『泰澄和尚伝記』奥書にあるような泰澄伝の原姿たるものを明かにするため、平安時代を中心に中央寺院との関係性のなかで泰澄伝を位置づけ、考古学の成果を踏まえながら見ていこう。

 まずは、『泰澄和尚伝記』に登場する越前馬場の拠点、白山平泉寺と中央寺院の関係について触れる。『本朝世紀』久安3年(1147)4月13日条には、「以越前国白山社可為延暦寺末寺之由、可被下宣旨之由、所訴申也、件社、当時非叡山末寺、園城寺長吏僧正覚宗所執行社務也、而社領字平清水住僧等、依僧正苛酷猥注寄文、始所寄与延暦寺也」、翌月の『百錬抄』久安3年(1147)5月4日条には「覚宗入滅之後、以白山可為延暦寺末寺之由、被仰下事、仁平二九覚宗入滅」とある。

 覚宗の在職により平泉寺は12世紀中頃に園城寺末寺であったかにみえるが、その支配は院宣によりこれを領する程度のもので、個人的なつながりにより覚宗が院の権力を背景として平泉寺を支配していたに過ぎないという。

 久安3年(1147)4月7日、延暦寺の僧綱・已講らが院の御所に群参し、園城寺長吏覚宗の平泉寺社務執行を停止して平泉寺を山門(延暦寺)の末寺にするよう訴える事件が起きるが、その背景には「社領字平清水住僧ら、僧正の苛酷によって、みだりに寄文を注し、始めて延暦寺に寄与するところなり」とあるように、覚宗の峻厳な統制への住僧らの反発があったとみられる。それから院は覚宗没後に末寺化の宣下をおこなうことを約束すると、仁平2年(1152)9月の彼の死とともに平泉寺は延暦寺の末寺に入ったようである。

 延暦寺の末寺化が12世紀中頃になされたとみられるが、『平家物語』延慶本「卅 以平泉寺被付山門事」には「延暦寺衆徒等解請院庁裁事/請曲垂恩恤、任応徳寺牒ニ、以白山平泉寺永為当山末寺状」とある。山門衆徒が久安3年(1147)4月、応徳の寺牒に任せて平泉寺を延暦寺末寺とすべき奏状を院庁に送ったという文書である。同じような記述は『平家物語長門本などにもある。これを信じて応徳元年(1084)の寺牒により白山の僧らによる寄進があったとすれば、平泉寺は11世紀末頃に延暦寺末寺であったことになる。

 中央寺院とのつながりは考古資料による関係性が指摘できる。報告書では、白山平泉寺旧境内(国重要文化財)出土の手づくね成形の土器皿は、京都の年代観によれば11世紀後葉から12世紀前葉にかけてのものがあり、12世紀前葉までに京都系土師器皿が定着したとみられている。その背景として、平泉寺に住み比叡山で修行した勝義大徳が70歳で没したという『三外往生記』天承2年(1132)の記述を取り上げ、畿内との宗教的な繋がりをひとつの背景とし、京都系土師器皿の出現以降、京都の型式変化にある程度対応することは北陸西部に共通した様相で、京都との断続的な情報流通のあり方が反映された結果とみられている。

(2)日吉社の展開と阿弥陀信仰の展開

 天台宗との関係を見てみる。後白河天皇の撰で、治承4年(1180)~文治元年(1185)の成立とされる梁塵秘抄(「梁塵秘抄・無型その文学とその朗読」にて四句神歌三四五)にて閲覧可)巻第2には、「勝れて高き山、大唐唐には五台山、霊鷲山、日本国には白山天台山、音にのみ聞く蓬莱山こそ高き山」とある。こうした末寺化に対して、社寺の社会的活動として注目されるのが、比叡山の山僧と日吉社の神人である。延暦寺が近江から北陸にわたり莫大な所領を抱え、荘園の年貢物の輸送を通して北陸から琵琶湖の水運と商品の流通に与えた影響は大きく、その消費経済が山門を中心として展開し、山徒や神人の営利活動を活発にしたことで知られる。彼らが山門の権威を借りて高利貸(借上)として活躍したとき、常に利用したのは日吉社からの御供米(上分米)であった。

 そこで、保延2年(1136)9月付の『壬生家文書』「明法博士勘文案」を見ると、日吉社大津左方・右方神人たちから上分米を借用して、いまだに返済しない滞納者の注文(リスト)と神人らの返済要求を受けて公家に訴えた日吉社司らの解状を記している。そこでは散位の藤原忠恒が債権者で、越前国木田庄の住人が債務者として記されるので、越前国における日吉社神人らの活動が読み取れる。網野善彦氏も日吉社大津神人に注目し、日吉神人が賀茂・鴨社供祭人のような顕著な海民的性格をもっていなかったことは間違いないとはいえ、大津神人に関しては、粟津橋本供祭人とともに古代の近江国の贄人にまでさかのぼる、海民的特質をもつ神人と考えるべきだと述べる。

 少し時代は下るが、越前国のなかでも、とくに丹生山地内での山門の進出がみられる。越知山の南に位置する織田庄は13世紀前葉に天台門跡のひとつである妙法院と関係を示す史料が妙法院文書』8にある。阿波守の高階宗泰が建保6年(1218)に本家職を七条院に寄進し、七条院は安貞2年(1228)にこれを妙法院の尊性親王に譲り、宗泰も領家職を妙法院が管理する円音寺に寄進したため、織田庄は妙法院により一円管理されることになった。また、天台宗延暦寺管主の補任歴名記である天台座主記』の文永五年(1268)11月8日の記事には、山門領とされる10か所の荘園宛てに三塔の興隆を注下されたとあり、そのなかに越前国の織田庄と大虫庄がみられる。

 これらの史料から越前国織田庄は13世紀前葉に後鳥羽天皇生母の七条院殖子の所領として成立したが、ほどなくして天台門跡の妙法院に所属し、『泰澄和尚伝記』が最終的に完成したとみられる13世紀後葉には山門領であったことを示している。なお、『越知神社関係文書』「大門山王神田宛行状」には「大門山王神田」とあり、大谷寺近くにも山門の痕跡が認められる。

 山門の展開については平泉隆房氏の詳細な研究がある。中世前期までに創始され勧請された日吉神社白山神社の検証をした結果、日吉神社白山神社のなかに延喜式内社(論社を含む)の後身とみられるものがいくつもあり、それぞれの式内社が何らかの理由で衰退に向かった際に、日吉や白山勢力が入り込んでそこを足掛かりとしたとし、日吉神社は古代の北陸道沿いにあり、主要街道から河川を遡っていくような事例がいくつもみられ、北陸道にあって海岸伝いの進出は古くから広範囲にわたり認められると述べる。

 その創建が平安前・中期以前に遡る日吉神社も散見するが、日吉社領の越前国での展開は鎌倉時代に入ってから本格化し、南北朝期の混乱のなかで白山信仰関係の社寺のなかで動きがあり、あるいは日吉神人の新たな活動が始まったものと位置づけるべき事例もあるという。白山信仰と日吉信仰との協調が認められ、白山神人と日吉神人がそれぞれの地域で提携していたことが判明している。

 部分的な史料ではあったが、越前における山門の展開を見てきた。応徳元年(1084)の記述を積極的に評価すると、延暦寺の末寺化は11世紀後葉に遡る可能性が指摘できる。先に白山平泉寺旧境内出土土師器皿中に11世紀末から12世紀初頭と思われる考古資料の存在について触れたが、当該期の越前・加賀国でも同じような傾向が見て取れる。

 京都系の手づくね土師器で、越前国最古とされるのは、福井県鯖江市の石田中遺跡SP13出土の一括資料で、京都系の影響を受けて生産された11世紀中葉・後葉に位置づけられるという。また、加賀国最古とされるのは石川県小松市の額見町遺跡H区P393、SB306出土資料で、口縁部の二段ナデの特徴から11世紀第4四半期で、口縁部二段ナデを施す大皿の定着は11世紀中頃とみられている。

 これらを踏まえると、京都系の影響による手づくね土師器皿の導入は、白山平泉寺旧境内の11世紀後葉、石田中遺跡の11世紀中・後葉、額見町遺跡の11世紀中頃・後葉とみれば、その生産や流入の時期は中央寺院と末寺化の動きと軌を一にした可能性が指摘できる。

 大津神人の海民的性格や京都系の考古資料を踏まえると、『渓嵐拾葉集』に記された泰澄は河川交通などで活動した日吉神人の存在が浮き彫りとなる。長谷川賢二氏は『渓嵐拾葉集』にのみ泰澄を船頭の子とする伝承が収められたのは、山門内部に限定された泰澄観であって同次元とは考えがたく、そのような観点から「船渡子」の意味を考えると日本海水運と関わると思われる日野川水運の一角の把握を進めつつある越知山に対する山門の関心のあり方が交通・流通支配という点にあったことが表明されているとし、山門が日吉神人を通じて日本海沿いの交通、流通の支配を広範に展開していたことを想起すればごく当然のことであり、越知山にとっては山門という中央の巨大な宗教権門に接触することで自己の権益の保証、さらには権威性を獲得し宗教、経済活動の安定化につなげていこうとしたと述べる。

 いずれせよ『泰澄和尚伝記』の舞台となる越知山と白山は11から12世紀にかけて延暦寺とその鎮守である日吉社の影響が強くあり、考古資料の様相とも連動した動きをとることから、泰澄伝の成立を考えるうえで重要な視点といえるだろう。

(3)白山における天台浄土教の影響

 白山の本地仏について、これまで11世紀末から12世紀初めにかけて白山権現、12世紀に入ると白山妙理権現という尊称となり、その本地がすぐに説かれて加賀白山では天台浄土教の影響により現行と異なる阿弥陀如来であったが、同時に越前白山の治病の霊験をもつ池水も著名で、のちに妙理権現の本地十一面観音が影向することになったとする見解があった。はたしてそうか。

 11世紀末から13世紀にかけて天台宗の影響が見られるなかで、12世紀前半から中頃にかけての白山における阿弥陀信仰を示す史料を取り上げると、蓮禅が著した『三外往生記』が注目される。なかに平泉寺僧の勝義大徳のことが記される。勝義は越前国山麓の平清水(平泉寺のこと)に常住した僧侶で、比叡山の根本中堂に2000日夜にわたり参籠し修行を終えて平清水に帰り、その性繰はけちけちと物惜しみせず、千僧供養の法会は五度におよび三時に阿弥陀供養法を修した。往生をとげる最期は持仏堂に入って坐し、阿弥陀経を読経しながら逝去、そのとき雲は寺内に満ちたという。天承2年(1132)正月のことで、勝義70歳である。

 平泉寺中興の祖とみられる勝義は、比叡山での修行のあと平泉寺に帰り、天台浄土教の影響を受けた阿弥陀信仰者とみられる。入寂から遡ると康平5年(1062)頃の生まれで、平泉寺での活動時期は11世紀末から12世紀前葉にかけての時期とみられ、応徳元年(1084)の延暦寺末寺化の動きとも照応する。

 次に、明治39年(1906)に京都市東山区小松町の松原通で出土した一連の仏教遺物の埋蔵者である僧西念が平安時代後期に自筆した「僧西念願文」には、加賀国白山妙理権現の御宝殿内に、紺紙金字法花経の一部と具経ならびに願文をともに籠め、等身すべて金色の阿弥陀如来一体を供養のために籠めたとある。他に、妙理権現とするのは、真言中興の祖にして新義真言宗の始祖である覚鑁(かくばん)の伝記で、14世紀頃の成立とされる『大伝法院本願聖人御伝』である。覚鑁が康治2年(1143)に根来寺(大円明寺)の鎮守(大神宮寺)として寺社を建立したときのことを記した部分に、我は白山妙理権現だと名乗ったとある。妙理権現の名は12世紀中頃に都だけでなく紀伊国まで広まっていたことになる。

 さらに『本朝続文粋』所収の藤原敦光が著し、保安2年(1121)の成立とされる「白山上人縁起」の後半部には、肥前国松浦郡の西因が白山で43年修行して保安2年(1121)に笥笠神宮寺に阿弥陀如来像を安置したという阿弥陀信仰者のことが記される。注目するのは西因と白山の関係である。西因は14歳で出家し20歳のとき比叡山に登りのちに大乗戒を受けると、承暦2年(1078)に白山に至り修行すること43年の保安2年(1121)六月一日、笥笠神宮寺(中宮の神宮寺)を道場として昼夜弥陀の宝号を念じ、精舎を建て半丈六で金色の阿弥陀如来像一体を安置し、白山妙理権現の本地を説いた。

 泰澄伝の関係では妙理権現の本地は十一面観音であるが、「初めて弥陀の身を現すなり」と阿弥陀如来となる点で、天台浄土教の影響を強く受けていたとみられる。部分的な史料であるが、11世紀末から12世紀前半にかけて白山は阿弥陀信仰全盛期で、白山周辺で活動した人物に阿弥陀信仰者が多いことがわかる

 

8 なぜ菩薩が中央に配置されたのか?

(1)三所権現本地仏

 『泰澄和尚伝記』によると、貴女に誘われて御前峰に登った泰澄は、九頭龍王から十一面観音への変化を感得し、次に左の弧峯(別山)に登り一人の宰官人(小白山別山大行事)と出会うと聖観音となり、右の弧峯(大汝峰)に登り奇服の老翁(大己貴)と出会うと西刹主となった。中心に本地たる十一面観音、脇侍に如来と菩薩を配するのが白山三所権現の形態である。

 福井県越前町の大谷寺には、これらを物語る彫刻が存在する。木造の十一面観音・阿弥陀如来・同聖観音で、ともに60㎝の前後の坐像である。12世紀後半で、平安時代後期の特色をもつ三尊一具の作品[福井県指定文化財]である。白山三所権現本地仏は、加賀・美濃に中世以降のものが存在するだけで、この三尊は白山本地仏中最古の遺例とされる。他にも大谷寺には鎌倉時代制作の銅造のもの[越前町指定文化財]が知られる。

 注目するのは白山の御前峰に位置づけられた本地仏が十一面観音なのかである。しかも菩薩にもかかわらず、なぜ中心に配されたかである。本来ならば阿弥陀如来が中央で、2つの観音は脇侍のはずである。しかも、『泰澄和尚伝記』において林泉での告白は伊弉諾(冉)尊で、妙理大菩薩であった。つまり、貴女→伊弉諾(冉)尊・妙理大菩薩→十一面観音という変遷をたどることから、妙理大菩薩が重要な信仰要素とみられる。

 長寛元年(1163)以降の成立とされる『白山之記』には「白山妙理菩薩」、『泰澄和尚伝記』には「妙理大菩薩」「妙理権現」とあるが、最初に現れた貴女は、最終的に翠ヶ池で感得した十一面観音に集約していく。本質的には白山神=十一面観音の認識は古くからあったとみているが、遅くとも「妙理」の共通語句は12世紀中頃に確立していたことになる。妙理とは何か、また十一面観音菩薩聖観音菩薩、阿弥陀如来三所権現は、いつ成立したのか。ここでは、これらについて考えてみたい。

(2)三所権現の成立と展開

 一般的に個々の神に本地仏が定まるのは12世紀で、日吉社や春日社などが本地垂迹説の理論化の進展という全体的な所論にしたがい、その設定が進む。越知山・白山も同様であった。なかでも別山の神を「小白山別山大行事」としたのは天台宗の影響が強い。

 下出積與氏は、比叡山での修行に関して論寒湿貧を取り上げ、仏法上の論をたたかわせることが叡山天台の特徴のひとつであり、その際の判定役が行事で、とくに大行事とは論を含めて大法会をとりしきる総指揮官の役を意味する僧を指すという。また、山岸共氏は大行事の語義について、熊野新宮や山王権現でも武神であることから神の称号としては武勇神に用いられ、別山の「一宰官人、手握金箭肩係銀弓」とも共通するという。

 とすれば、三所権現本地仏は中央の影響下で成立したことになる。下出氏も本地仏として十一面観音・阿弥陀如来聖観音という三峰三神の本地が全部そろい、その俗体も貴女・老翁・弓矢を持つ宰官と欠けるところのないこと自体が在地において形成されてきたものではなく、中央の仏教界で生まれ完成された理論的な本地垂迹説による神仏習合の顕現であったことの証左だと述べる。

 確かに中央からの導入かもしれないが、越前国では中心たる俗体の貴女と本地たる十一面観音とが古くから習合していた可能性が高い。山岸共氏によると、越前は神仏習合の先進地で観音は早くから白山と結び付いていたので、白山権現の成立後に単なる本地として当てられたものではないとし、しかも観音は民間仏教で現世利益の神(仏)であり、より直接的には危難よけの神であったから、海上で遭難の危険にさらされやすい海民には受け入れやすく、観音の浄土補陀落は海に近い山上にあると説かれていたから白山と結ばれやすかったとしている。

 加えて、十一面観音菩薩の設定理由は、泰澄の生まれた福井平野南部、その修行地である丹生山地から白山が遥拝できることを最大の要因とみたい。山岸共氏は、日野川の流域から近江湖北にかけては早くから白山を観音浄土として仰いでいた公算が大きく、日野川の流域は白山を望む地域であり、日野川の特徴は南から北にゆるやかに流れ、東西から支流を入れて南越の交通・運輸の大動脈をなして南は近江の琵琶湖水運に連なり、北は九頭竜川と合して日本海海運に接するところにあるので、麻生津生まれの泰澄が船渡の子と語られた背景には、本地域には川や海の仕事に従事する多くの民が水と縁のある観音信仰を受入れ、独立的な白い峰である白山を観音の補陀落浄土と仰いだとみている。

 実際に白山は滋賀県湖北の山々あるいは琵琶湖上の地点からも望まれ、観音の山として仰がれたところには泰澄の伝承が重なり分布している。なかでも泰澄が最初に修行し晩年に蟄居した丹生山地、とくに越知山からの白山は絶景で、御前峰・大汝峰・別山の三峰が雄大にその姿を見せる。大谷寺からもその姿を拝することができ、泰澄入寂の地としてふさわしい立地といえる。

 しかも、大谷寺では木造十一面観音・聖観音阿弥陀如来という三尊一具の三所権現の坐像(福井県指定文化財)が生まれている。これらの本地仏はもともと秘仏として越知山山頂に安置され、開帳時には大谷寺に降ろしていたが、明治時代には常置された。その制作は平安時代後期、12世紀後半から13世紀初頭にかけてとみられ、『白山之記』から続古事談(建保七年(1219)成立の一八五話からなる説話集)までの記述と矛盾するものではない

 以上を整理すると、白山の三所大権現とは御前峰=伊弉冉尊=十一面観音、別山=小白山大行事=聖観音、大汝峰=大己貴尊=阿弥陀如来であるが、とくに白山において阿弥陀信仰が語られるのは「白山上人縁起」、「僧西念願文」、『三外往生記』、『続古事談』のように11世紀末以降から12世紀前葉にかけてで、白山が阿弥陀信仰者の活動地で、教理的に天台浄土教の影響下にあったことはすでに述べた。

 浄土信仰の萌芽は奈良時代にあったが、直接の起源は比叡山常行三昧堂に修せられた「不断念仏」であり、それから横川の恵心院に住した源信(942~1017年)は末法濁世にはただ念仏のみがまことの教えであるとして、それに関係のある経論の文章を集め『往生要集』を撰し、浄土信仰の教理的基礎づけをすると、同じ頃に慶滋保胤(~1002年)が『日本往生極楽記』(「新日本古典籍総合データベース」にて閲覧可)を編纂することで天台浄土教は展開し、極楽浄土への信仰が隆盛することになる。

 浄土信仰の広がりにより、八幡神の本地も釈迦三尊から阿弥陀如来へと変化したという。この状況は白山にもいえることで、白山神は十一面観音が元々の本地であったが、西因・勝義などの阿弥陀信仰者の存在から本地が阿弥陀如来と認識されるようになり、それが最終的に中央の方から小白山別山大行事が加えられたとみる。また、『長秋記』長承3年(1134)2月1日条にある熊野社の本地仏の記述が12世紀中頃であることを考慮すると、白山もその頃には三所権現の本地として定着したとみられる。

 9世紀中頃の当初は、宗叡や賢一など中央僧による苦行目的の入山であったが、それ以降白山が土着の信仰を越えたものとなり、観音菩薩の色彩を有していたのだろう。湖北には泰澄開基と称する十一面観音が多く、越前・若狭でも十一面観音信仰が強くあり、その途中に阿弥陀信仰が浸透し、三峰三神の本地仏が設定される過程のなかで、本来ならば中央に配されるはずの阿弥陀如来が脇侍となる変則形態をとったが、阿弥陀信仰の盛行した時期にもかかわらず、中央には配されないほど白山神=十一面観音という根強い信仰があったため、イレギュラーな本地仏になったのだろう。

 その設定は白山三峰のよく眺望できる越前側でおこなわれ、その時期は『白山之記』の記述内容や大谷寺所蔵の三所権現本地仏の存在などから12世紀中頃から13世紀初頭にかけてで、その背景には別山大行事という名称から天台宗側からの理論導入があったとみられる。

 そこで、白山平泉寺が注目される。11世紀末から12世紀中頃にかけて延暦寺末寺となることで理論的実践の拠点として機能したとみる。繰り返すが、その整備の過程については、もともと白山神=十一面観音の認識があったので、阿弥陀如来を脇侍に配するという変則的な三所権現が設定されたとみている。

 さらに、背景にある寺院の存在形態を考えると、長坂一郎氏は寺門(園城寺)との関係を重視した。確かに覚宗が検校をかねるが、平泉寺への影響は一時的で、広い意味では天台宗との関係であったとする長谷川賢二氏の見解を重視し、諸要素の越前への展開を勘案すれば山門の影響ととらえる方が妥当である。大谷寺側が園城寺派で、平泉寺との対立構造のなかで『泰澄和尚伝記』が成立したならば、どうして伝記に越知山から白山へ、白山から越知山へという流れが必要であったのか。

 加えて、白山修行の際に越知山での禊が強調されたのは不自然である。それよりも越知山と白山が同時期に密接に関わり同じ末寺にあったので、2つを包括するような形で『泰澄和尚伝記』をまとめる必要があったと考える方が自然で、それが伝記最後の「凡厥在世滅後」以降の記述にあらわれ、12世紀後半に浄蔵という人物に仮託させ、より強固な越知山と白山という関係性を確固たるものにした可能性が高い。

 したがって、前段階の泰澄伝を考えると、本地仏という観点からは12世紀中頃という年代が画期として設定でき、奥書に浄蔵のことが記されたのも中央の理論が導入される過程で、天台宗の宣揚のため元々の伝に付加されたとの結論に至る。しかし、『泰澄和尚伝記』の記述を越前側の関係寺院がおこなったのか、それとも中央のどこかで記されたものなのかは、さらに検討していく必要がある。

(3)妙理の由来

 白山は奈良時代頃から北陸の土壌が産んだ独特の神仏習合が進展し、その後の本地垂迹のあり方から、観音菩薩の住む補陀落浄土として考えられていた。それは都でも知られており、あとで詳しく触れるが、清少納言の『枕草子』に記される「白山の観音」からも、白山における神仏習合の様子かうかがえる。おそらく、そのときの白山神は白山大菩薩として考えられたとみるが、11世紀になると権現思想が盛行するようになり、白山権現として認識されるようになった。

 それでは、白山神といえば、『泰澄和尚伝記』にもあるように「妙理大菩薩」・「妙理権現」と呼ばれるようになったのか。「妙理」と付されたのだろうか。そもそも「妙理」とは何だろうか。

 『広説仏教語大辞典』では「深妙不可思議な理法。こよなき真理」、『新版 禅学大辞典』では「妙なる真理。幽玄なことわり」とあり、「妙」には深妙・幽玄で不可思議という意味がある。不可思議といえば『伝記』にある泰澄の「其声唱南無十一面観世音神変不思議者」が思い浮かぶ。妙理とするのは白山に住む観音に対する深妙で、不可思議さにあったのだろうか。それとも十一面観音の点で不可思議な霊験というイメージがともなうのはさることながら、白山三所権現は中央に十一面観音、脇侍に阿弥陀如来聖観音という変則形態それ自体が妙なこととして感じられたのだろうか。

 

9 泰澄は都で有名だったのか?

(1)都で知られていた白山と泰澄

 清少納言枕草子「職の御曹司におはします比(83段)」には、「師走の十よ日の程に、雪いみじう降りたるを、女官どもなどして、縁にいとおほくをくを、おなじくは、庭にまことの山をつくらせ侍らんとて、さぶらひめして仰せ事にていへば、あつまりてつくる。(中略)五日のほどに雨降れど、消ゆべきやうもなし。すこしたけぞおとりもてゆく。「白山の観音これ消えさせ給な」といのるも物くるほし。(中略)さてその雪の山は、まことの越のにやあらんと見えて、消えげもなし。くろうなりて見るかひなきさまはしたれども、げに勝ちぬる心ちして、いかで十五日まちつけさせんとねむずる」とある。

 清少納言が宮中に仕えていた頃、女官が庭に戯れで作った雪山の消えないことを白山の観音に、これ消えさせないでと祈り、その結果を踏まえて本当の越国の雪山かと見えて消えなかったという。「白山の観音」の表現から宮廷中で観音霊場として信仰されるとともに観音の住む補陀落浄土の地であり、「これ消えさせ給な」の表現から白山は雪山の象徴的な存在で、白山神は雪を操る存在であったことがわかる。この記事は長徳4年(998)のこととみられるので、10世紀末の宮廷での白山とその信仰に対する認識を示している。

 そこで、ここでは白山だけでなく、宮廷あるいは都・その周辺で泰澄のことも知られていなかったのか。泰澄伝にみる空海伝の要素から、先に取り上げた「白山大菩薩」の成立と本地垂迹説に至るまで諸々の問題について考えてみる。

 それでは、まずは、藤原明衡が著し天喜・康平年間(1053~1064)の成立とされる『新猿楽記』には「度度通ヒ大峯葛木踏辺道。年年熊野金峯越中立山。伊豆ノ走湯。根本中堂。伯耆ノ大山。富士ノ御山。越前ノ白山。高野。粉河。箕尾。葛川等之間。無不競ヒ行ヲ挑マ験ヲ。山臥修行者。昔雖役行者浄蔵貴所。只一陀羅尼之験者也。今於右衛門尉次郎君者。已ニ智行具足生仏也」とある。平安後期の漢文で記された往来物で、その当時の社会生活を知るための貴重な文献である。越中立山伯耆の大山、富士の御山などと並んで越前の白山があげられ、山臥修験者として役行者と浄蔵貴所の名があがる。11世紀中頃には白山が代表的な山岳修験の霊場であったことを示している。

 また、藤原為隆(1070―1130)はその日記永昌記天永元年6月27日条には「参白山権現也、予依服薤不下車、但依今暁夢想弥成信仰、令立五箇大願、観音利生更勿生疑、次帰蓽」とある。為隆が天永元年(1110)6月27日に夢の告げによりいよいよ信仰を増し、5つの大願を成就するため白山権現に参り、観音の利生が間違いなく自身に及ぶことを確信したとある。為隆が参詣した白山権現は、越前・加賀・美濃の地ではないはずなので、都あるいはその近辺に勧請された白山社とみられる。

 そこで再度注目するのは、藤原敦光が著し保安2年(1121)の成立とされる『本朝続文粋』巻第11「白山上人縁起」である。敦光は藤原明衡の子であるので、中央での認識を示す重要史料である。本縁起には「白山者山嶽之神秀者也。介在美濃飛騨越前越中加賀五箇国之境矣。其高不知幾千仭。其周遙亘数百里。天地積陰。冬夏有雪。譬如忩(上に「艹」が付く)嶺。故曰白山。夏季秋初。気喧雪消。四節之花。一時争開。側聞。養老年中。有一聖僧。泰澄大師是也」とある。

 『新猿楽記』と比べて具体的に記される。養老年間に泰澄大師がいて、初めて白山の霊崛を選んで修行し権現を崇めたという。一聖僧とあるので、一人だとわかる。『泰澄和尚伝記』と同じ開山時期であるので、12世紀前葉の宮廷では泰澄大師による養老年中の開山という認識が広まっていた可能性が高い。

 つまり、当時の政治の中枢部にあって、実録的な要素の強い『本朝続文粋』に『泰澄和尚伝記』の要素が部分的であれ記されたことは、12世紀前葉にその原形たる何かが成立していたとみられる。対するのが伝説的要素をもち創作性の高い二書である。『新猿楽記』と同時期とされる『法華験記』と、その少しあとに成立した『本朝神仙伝』である。

 まずは、『法華験記』巻下 第81であるが、「沙弥神融俗云古志小大徳、有多名、不注之、越後国古志郡人矣、(中略)、神融上人依妙法力、現施法験、後証菩提、神護景雲年中入滅矣」とある。『伝記』と比較すると、沙弥神融が越後国の人で泰澄とは記されない点で異なるが、泰澄とおぼしき神融が神護景雲年中に入滅した点で共通する。これをどうとらえたらいいのか。『法華験記』の神融伝をもとに『伝記』の原形をつくったのだろうか。内容は超人的なもので、泰澄とおぼしき人物が『法華経』の力で雷をとらえるという伝説的要素が強いので、その信憑性となると疑わしい。

 つまり、越前国の泰澄大師、白山での十一面観音の霊験という『伝記』につながる原形の確固たるものがすでに中央のどこかで成立していれば、その編者ないしは筆者が書物の性格を考慮し、異説として本流の伝と差別化するため、越前国越後国、十一面観音法→法華経など独自に編集を加え、創作性の強い内容に書き換えたともとらえられる。

 先の2つと別系統の泰澄伝となるが、大江匡房が著し天永2年(1111)以前の成立とされる日本最初の神仙説話集『神仙伝』「四 泰澄」を改めて取り上げる。『神仙伝』には「泰澄者、賀州人也、世謂之越小大徳、神験多端也、雖万里地一旦而到、無翼而飛、顕白山之聖跡、兼作其賦、于今伝於世、到吉野山、欲解一言主之縛、試苦加持三匝已解、暗有声叱之、繋縛如元、又向諸神社問其本覚、於稲荷社数日念誦、夢有一女、出自帳中告曰、本体観世音、常在補陀落、為度衆生故、示現大明神、詣阿蘇社有九頭龍王、現於池上、泰澄曰、豈以畜類之身、領此霊地乎、可示真実、日漸欲晩、有金色三尺千手観音、現於夕陽之前池水之上、泰澄経数百年不死、其終」とある。

 加賀国の人である泰澄は神験が多端で、自ら空を飛び白山の聖跡を顕してその賦を作るとあり、数百年経っても死なない人物として描かれる。山岸共氏は、泰澄を加賀の人とみるのは加賀側の強調から出たものと述べるので、越前側の人物であったことが前提となる。

 また、神仙の伝として記されるので、『法華験記』と『伝記』に共通する神護景雲年中入定の内容を不死とした創作性の強いものである。ここでの泰澄は役行者からの流れで話が続く形で登場するが、一言主に七匝の縛をかけたのは役行者で、これを解こうとしたのが泰澄である。加持により三匝は解けたが、結局暗から声がありその呪縛は元に戻り、その本地の追求へと話が展開する。つまり、役行者からの連関で成立するもので、神仙伝という書物の性格から、その終わりを知らずとして終結させる独自の神仙譚ととらえられる。

 独自の編集は創作性の強さを物語る。加賀国の人とあるのは越前国の出身という原典をあえてずらして記述したとみている。匡房が加賀側の伝承を入手しそれを採用したのか、それとも中央に確固たる泰澄伝が流布していたので神仙伝に収録することをはばかり、泰澄伝をもとにその伝とわからないよう独自に書き換えたともとらえられる。

 これは越前国の泰澄、神融の別称、養老年間の白山開山、神護景雲年中の入定という骨子をもつ伝ありきで、それを異伝という形へと編集し直したとみたい。つまり中央で白山を開いた越前国の泰澄という認識が広まっていたので、その亜流として加賀にし、意図的に越前の表現を避けたとは考えられないだろうか。

 たとえば、『神仙伝』では泰澄が吉野山一言主の縛を解くため加持すると三匝は解けたが、暗から声あり再び元に戻る。その声の本覚を問うと、稲荷の社では夢に一女が現れ、本体が観世音で常に補陀落であるなど告白があり、阿蘇の社に詣でると、池の上で九頭龍王が現れ、泰澄の言により金色の三尺の千手観音に変わったとある。夢の一女→九頭龍王→千手観音の変化も、これをもとに『泰澄和尚伝記』の貴女→九頭龍王→十一面観音という変化がつくられたかに思えるが、この伝を仮に『泰澄和尚伝記』に採用したとすれば、なぜ千手観音観ではないのか、あるいは不死の話を反映させなかったのか、疑問が残る。

 となれば、逆に解するのが妥当である。10世紀末の白山観音という認識が宮廷に古くからあり、また藤原敦光の語る泰澄による白山・養老年間という記述を踏まえると、すでに泰澄伝の原形に貴女→九頭龍王→十一面観音という本地に至る過程が語られていたからこそ、匡房が神仙の伝という書物の性格を踏まえて、その差別化をはかるために、夢の一女から十一面観音への変化をもとに、その設定をずらすような形で創作を加え、夢の女と千手観音として書き直したと考えられる。

 こうした視点は下出積與氏がこれらに近い見解を簡潔に述べる。『神仙伝』にみる泰澄と九頭龍王垂迹神形との間に並ならぬ関係性を示したことについて、匡房が頭の中だけで『伝記』を採用して阿蘇社に九頭龍王を結びつけたと強解できないこともないが、それにしても平安時代頃に泰澄といえば龍形神を想起する雰囲気がまったく存在しなくては、こうした記文は生まれてこないのではなかろうかとしている。

 この指摘を深読みすると、匡房が泰澄伝をもとに『神仙伝』の独自の伝を記したともとらえられる。加えて『法華験記』と『神仙伝』に共通する「古志(越)の小大徳」という記述も気になる。『法華験記』が『神仙伝』の記述に影響を与えたことは考えにくいので、もともと11世紀後葉から12世紀初頭にかけての宮廷で、泰澄=越の小大徳との共通認識があったことを示している。以上を勘案すると、『本朝神仙伝』をもとに『泰澄和尚伝記』が成立したのではなく、『泰澄和尚伝記』の骨子となる原形がすでに11世紀には成立していたと結論づけたい。

 そこで、『白山之記』の評価を再確認する。加賀の視点で記された長寛元年(1163)成立とされる『白山之記』には「加賀国石川郡味智郷有一名山、号白山、其山頂名禅定、住有徳大明神、即号正一位白山妙理大菩薩、其本地十一面観自在菩薩、(中略)其麓泰澄大師行道跡、雖経四百有余歳、其跡不生草木、聖跡新也、若是雖大師入滅後、常行給凡眼不及歟、即彼山泰澄大師奉行顕給也、(中略)従劫初以来常雖仏菩薩集会砌、機感時至、養老三年己未七月三日御宅宣成始、至此長寛元年癸未四百四十五ヶ年也、(中略)/一、白山本宮、(本地十一面観音)霊亀元年陮(雖)他(化)現給、殊有勅命、被造立四十五宇神殿仏閣、被奉免若干神講田等、鎮護国家壇場被定置者、嘉祥元年戊辰也」とある。

 『白山之記』は加賀側が記したものなので、泰澄大師とあることと嘉祥元年(848)に鎮護国家の壇場とするのは古い認識を示すもので、養老3年(719)としたことも独自の伝承にもとづいたのかもしれないが、白山本宮にかかるその化現については霊亀元年(715)と1年遡ることも逆に考えれば、すでに越前側あるいは中央で『泰澄和尚伝記』のような認識があったことを示している。『神仙伝』の記述も踏まえると、泰澄は霊亀元年に貴女の夢告を受け白山に向かい山頂に登り、その本地を探求する場面でも九頭龍王を経由して十一面観音へと変化し、また壇場との表現から鎮護国家の法師であったというような記述も、12世紀中頃までに語られていた可能性が高い。

 まとめると以下になる。まず、清少納言中宮定子に仕えた人物であったので、『枕草子』にある「白山の観音」の文言は、宮廷での白山における観音信仰の高さがうかがえる。次に、藤原明衡は『本朝文粋』を撰するなど後冷泉朝第一の詩人で、文章博士を兼ねながら東宮学士・大学頭を歴任するなどその博学は抜群であり、加えて大江匡房は政治家としては伝統的な有職故実を重んじ、和歌についても漢文学者としての知識をもとに後世に多大な影響を与えるなど、ともに宮廷随一の教養人である。中国の神仙伝を意識して生まれた『神仙伝』の性格を踏まえると、創作とはいえ原形を意識して意図的に違う形に再設定した配慮がうかがえる。藤原敦光についても侍読という天皇の側に仕える学者で文人であるので、「白山上人縁起」にある養老年間に一聖僧がいて泰澄大師だとの記述は信憑性が高い。

 したがって、宮廷あるいは中央ないしはその周辺のどこかで、すでに泰澄の伝が流布していた可能性が高い。しかも、清少納言の認識では白山は観音の住む補陀落浄土の地で、『新猿楽記』(「新日本古典籍総合データベース」にて閲覧可)を著した藤原明衡の認識では山臥などの修験者が修行をおこなう場としても知られている。

 推測の域を出ないが、導き出せる結論として11世紀後葉までに存在していた泰澄伝の内容は以下の九点にまとめられる。1 泰澄は大師と尊称された。2 越の小大徳とされた。3 神融と称された。4 鎮護国家の法師であった。5 霊亀2年(716)に女性の夢告があり、養老年間(717~724)に白山に登った。6 白山は中央で知られる修行地であった。7 山頂において九頭龍王が現れ、本地たる十一面観音へ変化した。8 白山といえば観音の住む補陀落の地で、本地が十一面観音であった。9 神護景雲年間に亡くなった。さらにいえば泰澄伝が越前ではなく、のちほど検討するが宮廷ないしは中央寺院など都あるいはその周辺で成立した可能性を指摘しておきたい。

(2)都周辺に分布する泰澄関係の寺社

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄は元正天皇の病気治癒をおこない、都に訪れているが、その道筋に泰澄伝承が色濃く残ることは、南都と越前とのつながりのなかで生まれ、そこには南都による北陸進出があり、その背景に泰澄のような僧たちの活動があったように思えてならない。

都の周辺には泰澄伝承がみられる。滋賀県大津市岩間寺をはじめ、京都盆地の北方に位置する愛宕山(標高924m)、南山城に位置する鷲峰山(標高682m)などである。先に触れた越前から湖北にかけての泰澄伝承の流れのなかでとらえられる。都周辺に伝が点在することについては本郷真紹氏が次のように述べる。

 中央で栄えた仏教文化が地方にも伝播した結果、地方寺院の建立や特定の信仰がおこなわれたという中央から地方への一方向のとらえ方をするのであれば、行基空海の伝承や『泰澄和尚伝記』の道昭・行基というように、中央で活躍した著名な僧の伝承が地方に残されるものであるが、逆に越前の地方僧である泰澄の足跡が都近辺の地域に多数残されていることは、各地に勧請された白山神社と合わせて重要な意味を含むとしている。

 この点について従来は、後世修行の場として白山がしだいに中央でも認識され、開創者たる泰澄が山林修行僧の理想的な存在として受け取られ、行場としての性格を有する山岳寺院にその足跡を残したとか、気候条件によって実際に白山を遥拝できる近江・山城の地域で、その信仰が栄えた結果生じた現象であるといった解釈がなされる。

 都やその周辺で泰澄の伝が語られるに至った契機として、やはり近江・京都・宇治など畿内から白山が見えることが大きい。他に調べると白山は愛知県からも見えることがわかり、となれば太平洋沿岸と日本海沿岸の両方から拝める希有な山といえるので、白山信仰の広がりについても改めて問い直す必要がある。遠くに聳える白山を望んだとき、そこから北東方向に展開する白の聖なる地は観音の住む補陀落浄土さながらに映じ、こうした地理的条件のなかで白山・泰澄の名が中央に知られるきっかけとなったのではないか。白山と泰澄に関わる伝が都まで及び、白山神社が勧請されていくなかで、宮廷あるいは中央寺院などでその伝記が記されたことも充分に考えられる。

 たしかに白山信仰あるいは行場としての白山の性格がしだいに認識され、その結果として白山と共通する要素を有する寺院に泰澄との関係にふれた伝が形成されたことは考えられるが、越前における山林修行や十一面観音の信仰が中央の影響を受けたとすれば、当然同様の性格を有する越前の寺院に道昭や行基と同様に、役小角や玄昉などの開基と伝えられるものがほとんど見受けられず、逆に中央で越前出身の泰澄の伝が多くうかがえることは、ある面では越前で展開された信仰の影響が中央にまでおよんで重視されたことを示すとみられている。

(3)泰澄と法相宗とのつながり

 天台宗僧の浄蔵口述や三所権現の設定など『泰澄和尚伝記』の性格に天台宗の影響を強く意識したとする見解はあるが、本郷真紹氏は疑念を抱く。伝に登場する道昭は日本法相宗の祖と崇められる人物、玄昉も法相宗の僧であり、天台宗がひとつの独立した宗派として確立する過程で、宗祖の最澄は大乗戒壇の設立をめぐって南都(奈良)の諸宗と対立し、南都の学僧と積極的に論争している。とくに、関東における法相宗の中心的な存在であった徳一との三乗一乗をめぐる論争は有名で、こうした法相宗との確執の経緯を後世の天台宗の高僧が知らなかったとは考えられず、もし仮に天台宗僧がことさら泰澄と法相宗の高僧とを結びつけた伝記を著述したとすれば、それは一体いかなる意図のもとでなされた作為ということになるのであろうかと述べる。

 実際に『泰澄和尚伝記』をみると、泰澄と触れ合う僧すべてが法相宗の人物になる。11歳のとき泰澄を見つけて神童と称したのは道昭で、44歳のとき泰澄と語り合い極楽での再会の約束したのが行基、55歳のとき経論5000巻を見せ、とくに十一面経を授けたのが玄昉である。加えて、入唐し玄奘三蔵に法相教学を学んだ日本法相宗の開祖が道昭で、薬師寺法相宗を主として教学を学んだのが行基法相宗の義淵の弟子で、入唐し智周に法相を学び、天平7年(735)に経論5000巻の一切経と諸々の仏像を持ち帰ったのが玄昉である。

 日本法相宗の流れを追うと、奈良時代に最も勢力があり興福寺元興寺が中心であった。道昭(629~700)は入唐し玄奘にしたがい法相をうけて帰朝、元興寺に住したのが法相の初伝である。智通・智達が入唐し慈恩について法相を学んだ。元興寺に住し法相を弘めたので、元興寺の伝または南寺の伝という。玄昉(~746)は入唐し智周に法相を学び経論5000余巻をもたらした。興福寺に住したので興福寺の伝または北寺の伝というが、朝廷の内道場に入り僧正に任ぜられる。

 また、興福寺藤原氏の氏寺であり、その支持をうけて栄え多くの学僧を輩出し、奈良時代法相宗が最も盛んであった。義淵(644~728)も興福寺に住し学徳一世に高く、道昭の下に行基(668~749)がいて、諸国を巡歴し産業の開発と社会事業につくしている。

 ちなみに中国唐代の仏教家で、法相宗の初祖たる基(638~682)が入定したのが永淳元年(682)のことである。『泰澄和尚伝記』によると、泰澄の生年は天武天皇11年(682)とあるので、基の没年に生まれたことになる。つまり、泰澄伝の作者が基の没後を意識して泰澄の生年を設定し、道昭・玄昉・行基との接触も含めて考えると、泰澄の生涯が暗黙のうちに法相宗の人物と関わるように設定された可能性が高い。泰澄は法相宗とつながりがあり、伝の作者がそれを強く意識していことは確かであろう。

 さらに、法相宗といえば興福寺が関係するので、古代の越前・若狭の関係史料を日本三代実録で見てみる。元慶5年(881)7月17日条には、天平勝宝元年(749)4月1日詔により丹生・大野・坂井郡の田地601町余を興福寺に施入したが、天平勝宝元年以前に公田であった地は、たとえ興福寺領の四至の内にあっても、その領とはせず公田とするとの措置がとられたとある。また、同年9月26日条には、若狭国の稲2000束をはじめ10か国の稲を興福寺に施入し、鐘楼・僧房造営料にあてる財源には、三宝施料稲穀を用いたとある。元慶七年(883)12月25日条によると、結局のところ越前国の田地112町余は、天平勝宝元年(749)4月1日詔により興福寺に返入されてしまう。

 畿内から近いこともあってか、奈良時代からの興福寺との関係が越前・若狭国にはあり、とくに泰澄の痕跡が色濃く残る丹生・大野・坂井郡のあたりに興福寺領の田地が展開したことを示している。興福寺藤原氏の氏寺の性格があり、越前国といえば奈良時代以来、歴代の国司をつとめた藤原氏とのつながりも強い。丹生・大野・坂井あたりの興福寺領で、藤原氏との関係性が深いとすれば、伝への天台宗系による付加が12世紀になされる以前に、法相宗の影響のもとで泰澄のことが語られていた可能性を指摘したい。

(4)泰澄の偉人化、空海伝の影響か

 法相宗とのつながりについて見てきたが、次に飯田瑞穂氏が「『泰澄和尚伝』をめぐって」(「藝林」34号p2~38 ) の論文で指摘した『泰澄和尚伝記』と空海伝との類似性について触れる。

 空海伝は数多くあるが、『泰澄和尚伝記』との記述上の類似性では『金剛峯寺建立修行縁起』があげられる。左方の上が『泰澄和尚伝記』で、下が『金剛峯寺建立修行縁起』で、共通文字を傍線で示したが、5、6歳と神童のこと、入定に関する具体的な表現が酷似するのがわかる。

 金剛峯寺建立修行縁起』は康保5年(968)の成立とされるが、実際の成立年代には諸説ある。具体的には触れないが、「天王寺西門修日想観。出家首上現宝冠」に注目し、四天王寺の西門で日想観をおこなう信仰が含まれ、寛弘四年(1007)に四天王寺四天王寺御手印緑起』が偽作されて以来盛んになったことから、その上限は寛弘四年(1007)頃と推定されている。

 また、縁起の作成契機として正暦の大火により既存の縁起が焼失し、新たに作成する必要があったので、正暦5年(994)からそう遠く経ない時期の寛弘4年(1007)頃に作成されたとみられている。天徳元年(957)の年紀をもつ『泰澄和尚伝記』。康保5年(968)の年紀をもつが、実際は11世紀初頭頃の成立とみられる『金剛峯寺建立修行縁起』。泰澄伝と空海伝、どちらがどちらに影響を与えたのだろうか。

 泰澄伝と共通語句をもつ空海伝を時系列に整理すると、最も早い時期に成立したのは大師自身の遺言という体裁をもつ『御遺告』[二十五箇条]で10世紀後葉、その諸本は11世紀に成立し、12世紀には大師の説話伝承が収集・整備され、平安・鎌倉時代の説話集などの典拠となっていく。

 清寿の弘法大師伝』(1002年)には『泰澄和尚伝記』の共通語句はないが、『金剛峯寺建立修行縁起』(1007年)では泥土の仏像作りと童堂造り、両親不語のこと、神童とあるのは5、6歳のこととし、結跏趺坐で定印を結ぶ入定の場面も記される。『泰澄和尚伝記』との類似性は童堂造りの場面で、「以草木」とするのは『金剛峯寺建立修行縁起』だけである。

 その後も経範の『大師御行状集記』(1089年)では神童とされたのが9歳、泥土の仏像作りと童堂造りが12歳など年齢により書き分けられ、聖賢の『高野大師御広伝』(1118年)には両親不語のときの年齢が異なるものの、5、6歳の泥土の仏像作りと童堂造りから、8、9歳の神童の呼称、結跏趺坐にて定印を結ぶという入定に至るまでが『泰澄和尚伝記』と似た形となっている。

 つまり、『泰澄和尚伝記』にある幼少と入定に関する記述は11世紀初頭にその要素をそろえるが、共通語句でいえば「以草木」とある点で、 『金剛峯寺建立修行縁起』が最も酷似している。①5、6歳、②9歳、③12歳に書き分けた点では、11世紀末の『大師御行状集記』も構成が似ており、『泰澄和尚伝記』と同じように、5、6歳のときに泥土の仏像作りと童堂造りとするのは、12世紀前葉の『高野大師御広伝』である。

 泰澄伝と空海伝、どちらが先に成立したか。空海伝でも泥土の仏像作りと童堂造りが5、6歳あるいは12歳と認識が不統一であるものの、11世紀初頭から12世紀前葉にかけての空海伝と酷似することは確かで、共通語句の点では11世紀初頭の成立とされる『金剛峯寺建立修行縁起』との親和性がある。天徳元年(957)に泰澄伝が成立していて、その原伝にこれらの要素があったとすれば、空海伝に影響を与えたことになるが、その証明は難しい。ここでは空海伝をもとに泰澄の偉人化をはかるためにその伝に採用したとみておく。

(5)菩薩号の成立

 『泰澄和尚伝記』にある貴女の告白中の「妙理大菩薩」について深める。はたして八幡大菩薩のような古い菩薩号があったのか。菩薩とは、観音などのように仏教では仏の次に位置づけられ、すべての生あるもの(衆生)の救済に努力し理想を現実する人をいう。これは、神仏習合の思想面が徐々に前進するなかで、神に菩薩号を奉るというもので、一般的には9世紀頃に現われるが、八幡神の場合はもう少し早かったらしい。

 『新抄格勅符抄』所収の延暦17年(798)12月21日の太政官符に「八幡大菩薩宮并比咩神封一千四百十一戸」、『類聚三代格』巻1所収の「大同三年(808)七月十六日の太政官符」に「応令国司出納八幡大菩薩宮雑物事」とある。また、続日本後紀天長十年(833)10月28日条には「縁景雲之年八幡大菩薩所告」とあり、「景雲之年」を神護景雲年間(767〜770)とみれば、8世紀後半の事例といえる。

 一部の史料がのちの時代に編纂されたことを差し引いたとしても、8世紀後葉から9世紀前葉にかけて八幡神に菩薩号が奉献され、「八幡大菩薩」と称されていたことがわかる。

 平安時代になると、東大寺要録』巻第4所収の「弘仁十二年(821)八月十五日官府」に「天応之初、計量神徳、更上尊号、曰護国霊験威力神通大菩菩薩、延暦二年五月四日託宣、吾無量劫中、化生三家、修方便、導済衆生、吾名是大自在王菩薩、宜今加号曰護国霊験威力神通大自在王菩薩者如此之験不可勝計」とある。八幡神は天応の初に天応元年(781)に「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、延暦2年(783)5月4日に「自在王」を加えて「護国霊験威力神通大自在王菩薩」となる。『扶桑略記欽明天皇32年正月条に「我名曰護国霊験威身神大自在王菩薩」、『八幡愚童訓』上に「護国霊験威力神通大自在王菩薩也告給」とある。

 これらは、のちの編纂史料となるので、直ちに事実とすることはできないが、八幡神に対する菩薩号の奉献は華厳経(「大正蔵」九・三九五上)法華経(「大正蔵」九・一上)『自在王菩薩経』(「大正蔵」一三・九二四中・satにて検索可)などの仏典にもとづくものという。具体的に鎮護国家の仏神として成長した姿がうかがえ、弥勒寺僧集団がなした仏典研究の一大結実とみられている。

 また、伊勢国の多度神の菩薩号の事例も知られる。伊勢国桑名郡多度神宮寺伽藍縁起并資材帳』には以下のように記されている。天平宝字7年(763)に神社の東に井戸があり、満願禅師がそこを道場として居住し丈六の阿弥陀如来を安置していた。多度神は長い間にわたり重い罪業をつくり、その報いとして神として存在しているので、神身を離れて仏道に帰依したいとの託宣を発し、これを聞いた満願が神社の南の地を清め、小堂を建て神像を安置し「多度大菩薩」と称した。次に、多度の主帳である水取月足が銅製の鐘と台を寺に納め、続いて新麿が三重塔を建てた。

 神身離脱譚による神宮寺の創建で、8世紀中頃の菩薩号の事例として注目される。多度神が菩薩と称されたのは、託宣をきっかけに多度神が仏に帰依し満願が小堂を建て神像を安置したことによる。

 このように9世紀中頃になると他の神への菩薩号の事例が知られるが、日本文徳天皇実録天安元年(857)10月己卯条には「在常陸国大洗磯前、酒列磯前両神、号薬師菩薩名神」とある。常陸国に鎮座する大洗磯前・酒列磯前の両神は薬師菩薩名神を号するという記事で、9世紀中頃における神々を菩薩と称した早い事例といえる。

(6)本地垂迹説の展開

 ここまで見てくると、官府などの公の文書に登場する神への菩薩号は八幡神がその端緒と考えられ、神仏習合におけるその果たした役割の大きさが注目される。八幡大菩薩の顕現は、仏典による神仏関係の理論づけを促進させるきっかけとなり、本地垂迹説が起こる引金となっていき、9世紀中頃には垂迹思想の嚆矢とみられる史料が散見される。

 まず『日本三代実録貞観元年(859)8月28日条には、延暦寺の恵亮が賀茂神と春日神のために比叡山に年分度者2人を置くことを表請した文がある。賀茂神分の1人は『大安楽経』、加えて『法華経『金光明経』(「大正蔵」一六・三三五中)を修し、春日神分の1人は維摩経(「大正蔵」一四・五五二上)、加えて『法華経』『金光明経』を修するとあり、皇覚(如来)が教え導くのには実の姿もあれば仮の姿もあり、大士(菩薩)が仮の姿と現れるのにはあるいは王となり、あるいは神となると記される。

 次に『石清水神社文書』太宰府蝶の承平7年(937)10月4日条には、太宰府から筥崎宮に出された文書がある。『法華経』を納める宝塔院が宇佐弥勒寺に予定されていたのが、筥崎神宮寺に変更されたことについて彼宮(宇佐宮)と此宮(筥崎宮)では土地は異なるが、権現菩薩(八幡大菩薩)が垂迹されることは同じだとしている。

 また、応和2年(962)の奥書をもつ『大安寺塔中院建立縁起』には、大安寺僧の行教が入唐帰朝のさい、豊前国宇佐八幡宮に一夏九旬の間に参籠すると、衣の袖上に釈迦三尊が顕現したという。これは八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが成立していたことを示唆する。いわゆる八幡本地衣上影現説話であるが、これを初出にそれ以降『続古事談』など多くの文献で散見されるようになる。それが大江匡房の『本朝神仙伝』などにみられるように11から12世紀にかけて古来の地域神に本地仏が設定され、本地垂迹説が結実する時代となっていく。

 これらの史料により9世紀中頃から10世紀にかけて、仏菩薩の仮の姿としての神という観念が現れたことが読み取れる。

 『日本三代実録貞観元年(859)8月28日にある「大士垂迹」の記事は、貞観2年(860)の年紀をもつ『遷化之記』と年代が近い。内容的に『伝記』をもとに節略したのが『遷化之記』と考えたが、仮に七歳の記述が独自の要素で、この頃に泰澄伝が中央で語られたとすれば、『日本三代実録貞観2年(860)2月10日・同年12月20日・翌年8月16日に、越前国丹生郡出身の大学博士である大春日雄継が清和天皇に進講していることとも関係があるかもしれない。

 時代が下り10世紀中頃であったとしても、『大安寺塔中院建立縁起』にみられる八幡本地衣上影現説話は、八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが成立していたことを意味するので、『泰澄和尚伝記』の奥書で示された天徳元年(957)の年代にも近い。先の事例を勘案すると、泰澄伝にある十一面観音の垂迹が貴女に象徴される白山神とする思想が10世紀頃までに語られてもいいことになる。しかも、初期の神仏習合で登場する地域神のなかに宇佐の八幡神があることは知られるが、縁起上はそれより古いのが越前国の気比神、若狭国の若狭比古神である。のちほど触れるが、それらに時期的に匹敵する初期神宮寺が、越知山麓に鎮座する劔神社の剣御子神宮寺である。

 古くから広大な杜による神地が形成され、梵鐘(国宝)の銘文が示すように遅くとも神護景雲四年(七七〇)に剣御子神宮寺が創建されていた。劔神社境内に残された礎石、周辺で操業した瓦窯などを踏まえると、8世紀前葉まで遡り考古学的に証明できる初期神宮寺として全国でも希有な事例といえる。この劔神社の鎮座する織田からは、やはり白山が遥拝でき、その北西側には越知山が位置する。神宮寺の創建に泰澄の関与を考えたことはあったが、白山神と関係していた可能性も指摘できる。

 加えて、越知山周辺の考古資料を取り上げると、越前町の越知山大谷寺裏山に展開する大谷寺遺跡には、神社関連施設とみられる小型基壇状遺構がつくられると、その周辺からは「神」墨書土器が出土し、しかもその出土地点は白山遥拝に最も適した立地であり、その時期も9世紀後葉から10世紀前葉に比定できることから、十一面観音を本地として白山神を垂迹とする思想が生じていても不思議ではない。越前国には『伝記』にあるような泰澄を生む風土、神仏習合を深化するに至った土壌があったことが何よりの証左といえるだろう。

 それは先に述べたように、福井平野や南越盆地などの平野部から白山がよく見えることと関係するが、実際に越知山を擁する丹生山地側に立つと、白く聳える白山は圧倒的な姿で、泰澄が白山へと向かい再び越知山へ帰ったとする回帰的な蓋然性が備わり、また『泰澄和尚伝記』にあるような十一面観音を中心とする本地垂迹説が語られるに至った歴史的素地ができあがっていたとみられる。しかも、それが9世紀中頃における遺跡立地のあり方、遺構・遺物など考古資料にも色濃くあらわれている。

 それでは、本地垂迹説が平安時代に説かれるようになり、またたく間に列島を席巻していった要因は何なのか。

 佐藤弘夫氏は以下のように述べる。その背景には、10世紀頃から急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行があったとし、この世と断絶した死後の世界としての他界浄土の観念が定着し、古代的な一元的世界観に対する他界浄土―此土の二重構造をもつ中世的な世界観が完成するという。そして阿弥陀仏の極楽浄土、観音菩薩補陀落浄土弥勒菩薩の兜率浄土、薬師仏の浄瑠璃世界、釈迦仏の霊山浄土など、他界浄土が人々の憧れの的となり、そうしたなかで天竺(インド)から遠く離れた辺土である此土では、末法辺土の救済主としての垂迹―神がクローズアップされる。垂迹がこの世に出現した理由は末法辺土の衆生を正しい信仰に導き、最終的に浄土に送り届ける役割があり、最も効果的な実践が垂迹のいる霊地におもむき結縁することであった。

 こうした思想状況のなかで、白山が観音菩薩の住む補陀落浄土とみなされ、『枕草子』の記述のように10世紀末の宮廷でも認識されるに至った。とくに、神仏習合の進んだ越前国では、白山に十一面観音が住むとの認識はさらに遡り、遅くとも中央僧の入山の始まる9世紀中頃には存在していた可能性は高い。

(7)白山大菩薩の成立

 ここまで見てくると、時代的には先駆的とされる八幡神の菩薩号の事例が8世紀後葉から9世紀初頭にかけて、大洗磯前・酒列磯前の両神が9世紀中頃であるので、神仏習合の歴史的素地をもつ越前国で、その象徴的ともされる白山神に対する菩薩号が存在したとすれば、いつになるだろうか。

 明確な史料は見出せないが、『越知神社関係文書』「法華八講会差定」には以下のように記される。大谷寺の法華八講に関する史料で、文保元年(1317)3月18日の年紀をもつが、「白山大菩薩」とあるのに注目する。元和本では「妙理」を「越知」とするなど、越知山側の宣揚が認められたが、14世紀前葉の史料に残る白山神に対する菩薩号を示す数少ない事例であるので、もっと評価する必要があるだろう。

 先に検討したように、菩薩号は豊後国八幡神の事例が8世紀後葉から9世紀初頭にかけてで、常陸国の大洗磯前・酒列磯前の両神の事例が9世紀中頃であった。推測の域を出ないが、神仏習合の進んだ越前国では、9世紀中頃までには白山神に対する菩薩号が存在していても不思議ではない。これは白山遥拝と関係の深い明寺山廃寺・大谷寺遺跡の白山を意識した立地や大谷寺遺跡出土の「神」墨書土器など、9世紀後葉から10世紀前葉の遺物の存在からも首肯されるべきだろう。

 しかし、『泰澄和尚伝記』は「白山大菩薩」でなく、「妙理大菩薩」と記す。ここでは天徳元年(957)の年紀をもつ伝記の存在を認め、十一面観音を本地仏としその垂迹を白山神とする思想的あるいは信仰的なものが越知山側に形成されていたとみるので、10世紀中頃までは純粋に「白山大菩薩」と認識された可能性が高い。そのあと、十一面観音自体が不可思議な真理をもつ存在であったので、「妙理」という用語を加えられ、「(白山)妙理大菩薩」と認識されるに至ったのだろうか。

 このことは、八幡神が8世紀後葉に「八幡大菩薩」と菩薩号であったものが、「護国霊験威力神通大菩薩」となり、「自在王」を加えて「護国霊験威力神通大自在王菩薩」、「護国霊験威身神大自在王菩薩」と称されたことと同じ展開とみている。つまり、10世紀中頃までに「白山大菩薩」から「(白山)妙理大菩薩」へと変化し、権現思想が11世紀に本格化することで「(白山)妙理権現」が成立したとみられる。

 また、「白山大菩薩」の痕跡は12世紀後半の『白山之記』にある「白山妙理大菩薩」、「(白山)妙理権現」の痕跡は「僧西念願文」、『大伝法院本願聖人御伝』にある「白山妙理権現」に認められる。とくに『白山之記』は『泰澄和尚伝記』ありきの加賀側を宣揚する書物であり、菩薩の方が古い表現ととらえられる。したがって、繰り返すが、「妙理権現」から「妙理大菩薩」への流れではなく、「白山大菩薩」→「白山妙理大菩薩」の過程を経て「白山妙理権現」と称された可能性が高い。

 この証左として『泰澄和尚伝記』にある「妙理」に注目すると、本文中では「妙理大菩薩」と6か所にわたり記されるが、奥書には「泰澄和尚者、妙理権現本地十一面観音普門示現声聞形而已」とある。奥書は天台宗の影響で12世紀後半に加えられたとみるので、『伝記』にある二種類の「妙理」について用語の不統一のまま記されたことは、2段階の編集がなされたことを意味する。その点からも「大菩薩」→「権現」という流れがわかるだけでなく、もともとあった泰澄伝に対して大幅な書き換えをおこなわず、そのまま前段階のものを採用した可能性を示唆している。

(8)中央僧の白山入山

 9世紀まで遡った史料を追う。まず9世紀前葉には中央でも山岳修行が重視され、それと関連して『釈家官班記』(「京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」閲覧可)には、承和3年(836)には近江・美濃・山城・摂津・大和の5か国の七高山で薬師悔過がおこなわれ、畿内周辺では高山が尊ばれる風潮となっていた。

 こうした官による山岳神の待遇する流れのなか、国史に初めて白山神の名があらわれる。『日本文徳天皇実録』仁寿3年(853)10月己卯条には「加加賀国白山比咩神従三位」とあり、白山比咩神が朝廷から従三位の神階を叙せられた。同年の記事を追うと、6月10日には大和国の金峰神、同月11日には尾張国の多天神、同月15日は伊予国の村山神、7月5日に駿河国の浅間神が名神を預かると、7月12日には多天神が従五位上、同月13日には浅間大神従三位に叙され、8月15日には正二位勲一等の気多大神に封戸10煙・位田10町を加えた。そのあとに白山比咩神の神階奉授の記事となるが、他との関連性は認められない。

 9世紀まで遡った史料を追う。まず、9世紀前葉には中央でも山岳修行が重視され、それと関連して『釈家官班記』には、承和3年(836)には近江・美濃・山城・摂津・大和の5か国の七高山で薬師悔過がおこなわれ、畿内周辺では高山が尊ばれる風潮となっていた。こうした官による山岳神の待遇する流れのなか国史に初めて白山神の名があらわれる。

 『日本文徳天皇実録』仁寿3年(853)10月己卯条には「加加賀国白山比咩神従三位」とあり、白山比咩神が朝廷から従三位の神階を叙せられた。同年の記事を追うと、6月10日には大和国の金峰神、同月11日には尾張国の多天神、同月15日は伊予国の村山神、7月5日に駿河国の浅間神が名神を預かると、7月12日には多天神が従五位上、同月13日には浅間大神従三位に叙され、8月15日には正二位勲一等の気多大神に封戸10煙・位田10町を加えた。そのあとに白山比咩神の神階奉授の記事となるが、他との関連性は認められない。

 その後、貞観元年(859)正月27日条には「加賀国白山比女神正一位」とあり、貞観元年正月27日に京畿七道の諸神267社に対して階を進め、あるいは新叙したとき、加賀国の白山比女神が正一位に叙せられる。比咩と比女の違いはあるが、同一の神名とみられる。神階昇叙の記事であるが、隣国の有力神である越前国の気比神と能登国の気多神が正二位から従一位とされたのに比べ高い地位とはいえない。これは広域統治圏の在地首長に成長した道君が、白山信仰の司祭権を掌握しその禅定道を支配することにより、ウジナを「道」に固定化させるに至ったという独自の政治展開がその要因ともみられる。

 延喜式(「桑原文庫」島根大学デジタルアーカイブ・閲覧可)巻第10神名下には、加賀国42座のうち石川郡10座の筆頭として白山比咩神社が記載されるが、小社の扱いで名神大社の気比・気多神と比べ重視された形跡はなく、越前・若狭国にも白山神社は収載されていない。

 それでは、いつから白山や白山神が中央で知られる存在になったのか。白山比咩神が正一位に叙された9世紀中頃になると、白山には中央からの仏教徒が苦行をもとめ入山し、練行を始める記事が散見される。最古のものが『日本高僧伝要文抄』(「東京国立博物館デジタルライブラリー」にて閲覧可)所収の「尊意贈僧正伝」であり、「号曰度賀尾寺、有苦行僧、名曰賢一、(中略) 元慶二年春、賢一永出久住之伽藍、遠入越洲之白山」とある。賢一は13代天台座主である尊意の幼年の師で、円珍に従い戒を受け、のちに座主に任じたとある。ここでは度賀尾寺(高山寺)にいる苦行僧の賢一が、元慶2年(878)春に越の白山に入るから再会を期し難いと告げ、尊意に薬師如来像を残して去ったことが記される。

 他にも『日本三代実録』元慶8年(884)3月26日条には、僧正法印大和尚位の宗叡が元慶8年(884)3月26日に亡くなったと出てくる。宗叡は入唐八家の一人で、帰国ののち東寺に帰着すると権律師・権少僧正・東寺二長者を歴任し僧正に任じられたという。この記事によると、14歳で比叡山に入り内供奉十禅師の載鎮に師事して出家し、のちに広岡寺の義演から法相宗義、延暦寺の義真から天台宗大義を学んだ。円珍に従い園城寺金剛界胎蔵界の両部大法を受けた際に、叡山神から苦行を庇護するとの託宣を受け、のちに彼が越前白山に至ったとき、託宣の通り2羽の烏が前後を飛随し、また夜中に火があらわれ路を照らしたという。

 2人の僧は円珍の法流に属するので、白山の修験化が園城寺系により進められたとの山岸共氏の見解があり、円珍の弟子である康済が昌泰2年(899)に立山に寺院を建立したことも併せて考えるべきだと述べる。康済は、越前国敦賀出身で円珍に灌頂を受け、寛平6年(894)に天台座主園城寺の長吏をかねるなど、白山と寺門との関係性を考えるうえで重要といえる。

 加えて、『日本三代実録』元慶2年8月13日条には「勅以加賀国石川郡止観寺為天台別院」とある。円珍天台座主にあった元慶2年(878)に止観寺が天台別院となることも、おそらく同寺は白山と交渉する所が加賀国に多かったとする。一方で、由谷裕哉氏のように越前・加賀・美濃の白山三馬場が11、12世紀頃そろって比叡山末寺となる以前には、法相宗に属していたとの説が存在していたとし、平安時代中期頃に越前側で成立したとみられる草創期の白山修験道が、南都法相系の密教修験道勢力の影響下にあったと述べる。

 賢一と宗叡の2人の僧は苦行目的の修行で、中央の仏教徒にとって白山がその舞台であったことを示しているが、『白山之記』によれば、天長9年(832)に越前・加賀・美濃の三方面から登拝路ないしは拠点の馬場が開かれたとあるので、2人の僧の入山と時期的に近い。また、国学院大学が昭和61年(1986)に実施した白山の調査により、山頂遺物のうち土器などに関しては9世紀後半のものが存在することから、『白山之記』にあるように9世紀中頃に禅定道が開かれたことは確実視でき、加えて、白山麓の拠点寺院や白山につながる禅定道沿いに、9世紀の遺物が発見されることとも矛盾しないことから、高山に苦行を求め中央などの修行僧による入山が、9世紀中頃に始まったものと考えられる。

(9)泰澄の神通力

 泰澄の神通力に関して触れる。泉鏡花の小説『夜叉ヶ池』には、泰澄の神通力に関する記述がある。

  ここに伝説がある。昔、人と水と戦って、この里の滅びようとした時、越の大徳泰澄が行力で、竜神をその夜叉ヶ池に封込んだ。竜神の言うには、人の溺れ、地の沈むを救うために、自由を奪わるるは、是非に及ばん。そのかわりに鐘を鋳だて、麓に掛けて、昼夜に三度ずつ撞鳴らして、我を驚かし、その約束を思出せよ。(中略) が、約束は違えぬ、誓は破らん――但しその約束、その誓を忘れさせまい。思出させようとするために、鐘を撞く事を怠るな。――山沢、そのために鋳た鐘なんだよ。だから一度でも忘れると、たちどころに、大雨、大雷、大風とともに、夜叉ヶ池から津波が起って、村も里も水の底に葬って、竜神は想うままに天地を馳すると……こう、この土地で言伝える。……そのために、明六つ、暮六つ、丑満つ鐘を撞く。

 泰澄が竜神を封印した際に鐘を撞くことを約束した内容である。泉鏡花による創作だが、地元の夜叉龍神社や夜叉姫伝説をもとにしたと考えられる。南越前町は泰澄伝承の根強い地で、広野の白山神社では十一面観音像を祭神に祀り、そのあと合祀された春日神社には十一面観音像2躯が安置された。こうした話は、大野市の刈込池など福井県内の伝承・伝説に出てくるが、越前町の朝日観音にも泰澄による悪魔降伏の逸話がある。その真偽はともかく、封じ込めや悪魔降伏が語られる点が興味深い。

 泰澄の神通力は木造泰澄坐像からも知られる。明応2年(1493)の墨書から15世紀末に制作された最古のものである。形姿を見ると、左斜方向に視線を向けて趺坐する形で、左手は屈臂して掌を上にむけて五指を軽く曲げ、右手は屈臂して掌を膝上に伏せ五指を伸ばす。本像は通例の白山曼荼羅に描かれる泰澄の画像と似ており、曼荼羅の方が年代的に古いことから、画像が先に成立し彫像がそれに倣ったとされる。しかし両者には決定的な違いがある。それは彫像の泰澄が触地印を結ぶ点にある。釈迦が修行中に悪魔の妨害を受けたとき、指先で地面に触れて大地の神を出現させ悪魔を退けた印である。

 泰澄の触地印は他にもある。越知山大谷寺所蔵の「越知山三所大権現垂迹図」も左右は逆だが、触地印を結ぶ。中世の大谷寺の衆徒・山伏達にとって泰澄は実在の人物で祖師と考えられたことから、神通力という越知山独自の認識で語られていたのだろう。

 龍や封じ込めで思い出されるのが、泰澄が白山山頂の緑碧池で出会った九頭龍王である。翠ヶ池は鎌倉時代の説話集である『古事談』に興味深い逸話がある。第五の「神社仏寺」に収録された「白山御厨池住龍王事」である。白山権現の住む山にある御厨池は、諸龍王が集まり供養を備える池であった。池には人が近づくことができず、寄る人がいると雷電が猛烈となり人を害するが、かつて浄蔵と最澄などが権現に申し請い池の水を汲んだという。これを聞いた日台は三七日籠もり、権現に祈り池畔に向かい供養法を勤行すると、天は晴れ雷雨の気もなくなったので、池水を二升ばかり取って帰り、その水を病気の人に塗り飲ませると癒えてしまったという。

 御厨池の初出とみられ、最澄とあるのは浄蔵との併記から天台宗の影響か、あるいは最澄は泰澄の誤記ならば『泰澄和尚伝記』との関係性をうかがわせる。

 これと関連して、宗蓮が著し寛喜3年(1231)の成立とされる『大法師浄蔵伝』にも龍のことが出てくる。浄蔵49歳の夏の白山安居時に聞いた故老の伝えである。往昔に神融という苦行人がいて景雲年中に初めて白山を開き、『法華経』の力により毒龍悪鬼などを御厨の大池に籠めたという。開山年代が慶雲ならば704~708年、神護景雲ならば767~770年である。養老年間が一般的な認識なので別伝といえる。

 次に、浄蔵が白山に赴き、水を持ち帰る話が語られる。修行者は池畔に近づけず、もし近づけば、天地は震え吼えて四方は暗闇になる。浄蔵は真偽を確かめるため、晴天の昼に池の水を竹筒に汲んで帰りかけると、急に雷雨となり天地が震裂し、山川も崩壊して毒龍の形を現し、口から黒雲をはいたので、浄蔵は恐れて神呪を誦し、下山して京都に入る。そのあと霊水を人々に施すと、病人は平癒したという。

 最後に 泰澄と記された『根本説一切有部毘奈耶雑事』(「大正蔵」二四・三〇四中一七)巻第21には以下のようにある。宿世の悪業により醜い姿となってしまった龍王が悩み苦しみ、世尊に相談すると、世尊は自ら作ったものは自分が受けるもので、自分は変わってやれないと答えるという譚が収録される 。

 詳細には検討していないが、この経典に目を通すと、「供養を為さん」「身に七頭ありて」「本の龍身」「諸蟲蠅蛆の類ありて」「当に龍身を免るべし」とあり、『泰澄和尚伝記』や『古事談』の譚との共通性が認められる。泰澄といえば、龍を思い起こす。泰澄が龍王にまつわる宿世の譚を知っていて、この経典の写経に関わったとすれば、泰澄にかかる龍や龍王の伝は『根本説一切有部毘奈耶雑事』などがもとになり、語り継がれたことも考えられるだろう。

 

10 越知山・白山の関係は、中世の認識なのか?

(1)白山入山時の清浄性

 『泰澄和尚伝記』の末尾に以下のように記される。

 泰澄の生前および逝去後の不思議な徳の高い行動、通常とは異なる様相、神仏が形を変えて出現する権化などにまつわる話は枚挙にいとまがなく、種々の異なる説があり、首尾も一様でなかった。しかし、天徳元年(957)3月24日に、風土旧記を勘案し、門跡の首老である浄蔵貴所から直接対面して聞いた談話により、その門徒である小僧の神興らが大まかに泰澄の操行を書き記し、後代の模範として備えようとするものである。浄蔵貴所はその徳行が群を抜き、またその修験も著名である。貴所は三善清行公の八男で、玄昭律師の門下である。また、安然が伝えた仏法の奥義を受け継ぐ門人で、大恵の悉曇の弟子でもある。言談はすべて浄蔵の語った事実であり、誰もこれを信じない者はなかろう。

 このあとも、以下のように続く。

 伝え聞くところによると、泰澄が常に言うには、「白山の禅定は結界無漏の清浄な仙崛であり、容易には登り難い所である。まずは越知峯に登って魔難を払い、怨霊を退けてから参詣すべきである。末代悪世において厳重の勝利を得るか否かは、ひとえに妙理大菩薩にかかっているのである」と。この泰澄の言葉は、真実である。いま現に朝野・遠近を見ても、白山に参拝する人々は竹や葦のように数多く、将来において、いよいよその霊験は不可思議なものとなろう。

 ここで重要なのは、白山の禅定は清浄な仙崛で、容易には登り難い所であるので、まずは越知峯に登り魔難を払い、怨霊を退けてから参詣すべきだとしている点である。越知山と白山の一体観が説かれているわけだが、こうした2つの関係性は、いつから語られたことなのか。これまで指摘されてきたように中世に生まれた発想なのか。ここでは越前側の白山信仰について、越知山周辺の考古資料をもとに9世紀の状況とともに深めていく。

 そこで、越知山の入口部に位置する里の山寺と称される明寺山廃寺と、元越知山山頂に展開する大谷寺遺跡という2つの山林寺院を中心に、越知山・白山との一体観の信仰という視点で検討してみたい。

(2)大谷寺遺跡の様相

 越前町の大谷寺遺跡は、越知山と白山をともに遥拝できる地を選定している。そのため、泰澄が養老元年(717)に越知山から白山へ行場を移動したと語られるだけの地理的な要因をもつ。平成14年から17年にかけて実施した発掘調査では、山頂の巨大な平坦面に10か所(A~J)のトレンチを入れた。

 H・Iトレンチでは大型の基壇状遺構を検出した。裾部で南北25.2m×東西16mの長方形を呈し、高さ0.5~0.9m。平坦部は南北12.1m×東西10mの長方形を呈し、基壇は地山の削り出しによるものであった。平坦面上からは溝状遺構・不明遺構・土坑・柱穴跡などが検出された。建物跡に関連する遺構と考えられる。遺構の深さは比較的浅く、周辺に礎石が散乱することから、礎石を据えた遺構(SX-01・02)とみられる。基壇状遺構上に建物跡が存在したとすれば、礎石建物跡であった可能性が高く、講堂などの大型建物が予想される。出土遺物の状況から13世紀までは機能したとみている。

 遺構上面では、方向の異なる溝状遺構(SD-01)が検出され、別の時期の建物跡が存在した可能性が高い。他にも基壇状遺構からは柱穴跡などが検出されたが、その性格まではわからなかった。

 出土遺物としては須恵器・土師器・灰釉陶器・緑釉陶器・陶磁器・越前焼などがある。特殊品として香炉・六器・転用硯などの仏具、墨・煤付着の土師器・須恵器、墨書土器など寺院活動を示すものが目立つ。仏事に関する遺物が主体的な点では、明寺山廃寺と似ているが、狭いトレンチ調査にもかかわらず、緑釉陶器の香炉や灰釉陶器の浄瓶、「大谷」「山内」「鴨家」などの墨書土器は遺跡の性格を考えるうえで重要な遺物といえる。須恵器は蓋・皿・杯・椀が多く、9世紀中頃から10世紀前葉に比定できる。杯蓋の天井部に鈕の痕跡が認められるため、9世紀前葉に遡る可能性が高い。

 また、転用硯や灯心油痕をもつ器、黒墨の付着する筆ならしをした器などもあった。多くの転用硯は智識写経など僧による継続的な寺院活動の痕跡を示すものである。灰釉陶器6点は9世紀中頃から10世紀代に比定できる。過去に灰釉陶器の浄瓶も採集された。緑釉陶器は3点出土した。香炉の蓋1点と鈕1点、椀1点。9世紀中頃から10世紀代にかけての仏具と考えられる。

 遺物が大量に出土したなか、越前焼の少なさに特徴がある。12世紀後葉に越前焼が成立したことを考えると、それを数点しか含まないことは土師器皿・陶磁器の時期と符合する。山頂遺跡は13世紀頃にいったん断絶し、その中心施設は越知山大谷寺周辺に集約され、山頂は聖地として本地堂など一部の建物を残すに留まったものと考えられる。

 注目されるのは、Jトレンチで検出された小型の基壇状遺構である。裾部で南北13.2m以上×東西14.7m、高さ0.4~1.3m。平坦部では南北8.8m×東西8.4mの長方形を呈する。造成土などから出土した須恵器は、9世紀中頃から10世紀前葉にかけての時期に比定できた。それ以降の遺物を含まないため、基壇の造成は10世紀前葉に限定できる。基壇造成の前には下層遺構が存在していた。地山は面的に広がるふたつの平坦面があり、北側では谷状地形が展開していた。下層遺構に柱穴跡6基・土坑1基・溝遺構1基が検出された。遺物は出土しなかったが、基壇状遺構の造成以前の9世紀中頃から10世紀前葉に比定できる。

 なかでも注目されるのは、2点の「神」墨書土器で、平坦面の最東端にあたる小型の基壇状遺構あたりで出土した。「神」墨書土器が出土した地点は、広大な平坦面のなかでも白山に最も近い東にあたり、その遥拝には絶好のロケーションの場所である。、付近からは「神」墨書土器が出土したため、神祀りをおこなった神社遺構であった可能性も考えられる。仏教色の強い遺物のなか、ある地点で「神」墨書土器か出土することは、白山に対する神祀りの祭祀を執りおこない、神の器はそのときに用いたと考えられる。器の時期は、神仏習合の進む平安前期とみられ、『泰澄和尚伝記』の奥書にある伝記の成立した10世紀中頃という年代とも近い。

(3)明寺山廃寺の様相

 越前町の大谷寺から福井平野にむかい、現在の福井県道3号線(福井大森河野線)を通り6㎞ほど行くと、白い建物が右手に見える。建物の手前が鐘島遺跡で、奥の露頭の箇所の上部が明寺山廃寺である。

 明寺山廃寺の場所に立つと、そこからは越知山や白山がともに遥拝できる。出土遺物のなかには、写経やその校訂、密教修法などの仏事を主体的とする遺物が多いなか、脇堂とされる掘立柱建物跡と「旦宮」と読める墨書土器からは、神社遺構とそれにともなう祭祀の存在がうかがえる。しかも、脇堂下には大量の土師器の短胴甕が廃棄されており、越知山方向の南西側を意識した禊を思わせる痕跡といえる。なにより麓の拠点集落である鐘島遺跡からは「御山内」墨書土器が出土し、大谷寺遺跡の「山内」墨書土器、現在付近に山内町が存在することも踏まえると、同じ越知山信仰圏を示す証拠といえる。明寺山廃寺は、越知山内の領域へ入る際の禊ぎの場で、境界祭祀がおこなわれた場ともとらえられる。

 このように里に近い場所に建てられた寺は、ときに里の人々が写経し、万灯会のような仏教行事をおこなうとともに、越知山にまつわる神祗・道教的な祭祀をおこなう信仰の空間であり、修行のためだけの場ではなかったことがわかる。

(4)越知山・白山一体観の信仰の成立

 大谷寺遺跡と明寺山廃寺、2つの遺跡の位置を調べると、越知山と白山を結んだ線上にほぼ配され、その出土遺物は泰澄入定後約60年後の9世紀中頃以降が中心で、寺院内で神祀りをおこない、10世紀前葉まで継続する点で共通している。しかも、大谷寺遺跡では、白山が遥拝できる場所に「神」墨書土器は廃棄され、明寺山廃寺では、越知山側にむかって禊を思わせる特殊な祭祀を執りおこなっていた痕跡が認められる。

 広い視野で見ると、無関係とみられた両遺跡は越知山―白山の聖なる線上に形成されるなど、その関係性は強い。9世紀中頃には山林寺院を介してつながり、ともに越知山と白山を意識した経営がなされた可能性が高い。とくに、両遺跡からは「山内」墨書土器が出土した。浅香年木氏は、白山信仰を検討するなかで、「路」だけでなく「山」という広がりをもつ宗教的な空間と、その施設こそが「山内」の語の根本にあった意味であろうとし、「山」の地域とともに「山内」と呼ばれる宗教的な空間を形成していたと述べる。とすれば、古代においては越知山内という、ひとつの宗教的な空間が形成されていたとみられる。

 さて、越知山と白山を結んだ直線上に大谷寺遺跡、明寺山廃寺・鐘島遺跡が一直線上に並ぶことから、「越知山・白山信仰の一体観の信仰」ととらえられる。しかも、この線上にのる遺跡は3つだけではない。その福井側の延長線上に、福井市朝宮町の朝宮大社遺跡が存在する。山頂から少し下った標高72mの所に東西51m、南北40mの長方形を呈し、1820㎡程の大規模な平坦地があり、東側の平野部を意識し展開している。南側には基壇状遺構が確認でき、付近には須恵器・土師器などの遺物を含むという。須恵器は9世紀頃のもので、山頂全体に複数の基壇状遺構をともなう山林寺院と考えられる。

 平坦面の付近に立つと、福井平野が一望でき、晴れた日には白山が姿を見せる。詳細はわからないが、越知山・白山の線上に営まれた遺跡で、白山の北東方向を意識した突出部のような小規模な平坦面も展開している。白山信仰関係の宗教施設と考えている。なお、遺構付近の字は「大社」で、集落名は「朝宮」という。山林寺院のなかに、白山を意識した神社遺構が存在していた可能性も充分に考えられるだろう。

 さらに、『泰澄和尚伝記』における越知山から白山という修行場移動の内容は、平安前期に精査された可能性が高い。それは、苦行を目的とした中央僧による白山の入山記録、『白山之記』にみる三馬場の開通、白山山頂採集の遺物と白山麓の拠点寺院出土の土師器・須恵器、禅定道採集の考古資料など、すべての時期が一致するからである。しかも、『泰澄和尚伝記』にみる越知山から白山という流れについても、9世紀中頃の事象が反映された可能性が高い。

 いま一度、8、9世紀の事象を整理すると、越前・加賀では山林寺院が郡境・国境沿いや郡の中心に位置し、また海・平野から見て目立つ低山の多くに、8、9世紀の須恵器が確認される。しかも、低山を中心に山林寺院などの宗教施設が数多く展開し、ひとつの信仰空間を形成していた。しかし、9世紀中頃には大きな変化が起きる。白山入山と白山神の記録、白山採集遺物の時期とそれに伴う禅定道の成立から、白山を中心とした高山のネットワークの確立をみることができる。

 まとめると、『泰澄和尚伝記』では8世紀前半に泰澄による越知山(低山)から白山(高山)への移動が語られるが、現段階では考古資料の裏付けはない。しかし、9世紀中頃以降、山林寺院衰退の事例と白山などの高山における考古遺物の存在から確実に画期が存在している。つまり、低山をめぐる信仰から高山の信仰(白山信仰)へと変化し、それにともなう白山に関わる寺院や禅定道などが整備された可能性が高い。

 これは、僧侶がさらに呪験力の獲得を目指した行場の拡大であり、他に先駆けて白山が行場として開拓されたことを示している。このような9世紀中頃における画期が、10世紀に成立した『泰澄和尚伝記』において、泰澄という人物に託した、ひとつのメッセージだったのかもしれない。

 

11 泰澄は剣御子神宮寺の創建に関わったのか?

(1)初期神宮寺の創建

 『泰澄和尚伝記』では、夢告による貴女から伊弉諾尊・妙理大菩薩を経由し、九頭龍王、そして十一面観音という変化が語られ、これらを感得したのが泰澄であった。つまり、泰澄伝では貴女の本当の姿が実は十一面観音であったと気づいたことに意味があり、これが伝のもつ最大の命題といえる。伝記では整備された、いわゆる本地垂迹説が語られるが、それ以前は雑然とした神仏混淆であり、神身離脱・護法善神などの譚にあらわれる神仏習合であった。これらを象徴するのが奈良時代から始まる神宮寺の創建である。

 そこで神宮寺を追うと、泰澄の修行地である越知山周辺には著名な宗教施設が知られる。福井県越前町織田に鎮座する劔神社である。劔神社では初期神宮寺が710年代に創建されており、境内やその周辺で考古学的な痕跡が確認されている。劔神社には泰澄の伝承は残されていないが、初期神宮寺が創建された地と泰澄修行の地が重なるだけでなく、越知山山頂では8世紀中頃の須恵器も発見されている。越前国の初期神宮寺である剣御子寺、神仏習合の祖とも目される泰澄とまったく関係ないのだろうか。ここでは、そのことについて考えてみたい。

(2)越前・若狭における初期神宮寺の成立

 奈良時代初期になると、神宮寺の存在が史料上にあらわれる。神宮寺とは神社境内や神地などに創建された寺院のことで、越前・若狭国には古い譚が知られる。気比神社と気比神宮寺、若狭彦神社と若狭比古神願寺である。

 気比神社は現在の氣比神宮で、敦賀市曙町に鎮座する越前一宮である。気比神宮寺は『藤氏家伝』によれば、霊亀元年(715)藤原武智麻呂霊夢により建立したとあり、記録上は最古の神宮寺とされる。若狭比古神社は現在の若狭彦神社で、小浜市遠敷に鎮座する若狭国一宮である。若狭神宮寺類聚国史天長6年(829)に若狭比古神が神身離脱を願いでた際、すでに養老年間(717~724)に神主である和宅継の曾祖赤麿が仏道に帰依し道場を建て神願寺と称した伝承をもつ。史実とは言いがたい部分はあるが、神宮寺成立記録としては極めて早い時期である。

 気比神宮寺について泰澄が関係した可能性はないのか。『気比宮社記』(「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧可)所収の敦賀に鎮座する道後神社の記載のなかで、泰澄が霊亀元年(715)氣比神宮に参籠して行法を勤め、道後神の神徳を唱えて観世音菩薩を彫像したとある。泰澄による神仏習合の事例で、文献上の創建と同年代である。「武智麻呂伝」にもとづく創作かもしれないが、社記の旧記曰くの表現から、古い伝承であったとも考えられる。

(3)泰澄と3つの神宮寺との関係

 奈良時代初期に初期神宮寺が創建されたとされる敦賀の気比神社であるが、『織田劔大明神記録』など劔神社縁起では剣神とともに軍神として語られ、その関係性は深い。劔神社古絵図』には御本社の横に同規模の建物の気比社が描かれ、秋季例大祭や御幸大祭では気比神と剣神の神輿がともに神幸する。両神社の位置関係をみても、織田盆地北の座ヶ岳を基点として、氣比神宮を結んだ直線上に劔神社は鎮座している。気比の御子神たる剣神の性格をあらわしている。また、奈良時代初頭前後には氣比神宮仲哀天皇劔神社忍熊皇子の霊が祀られたあと、両社に初期神宮寺が創建されることになる。

 劔神社の神宮寺は考古学的な成果から奈良時代初頭に遡り、気比神宮寺は『家伝』下 武智麻呂伝によると、霊亀元年(715)近江国司の藤原武智麻呂が創建したとある。いずれも最古級の神宮寺として知られる。気比神宮寺の存否については、気比神宮寺を維持してきた豪族が、のちに政権を握った藤原仲麻呂接触する目的で工作したとの見解はある。しかし、なぜ霊亀元年に設定し、気比の名前を出すことができたのかという疑問があり、本当に710年代に神宮寺が存在していたのではないかとの見解もある。若狭比古神願寺にも養老年間(717~724年)の成立譚がある。これも最古級の事例である。

 村山修一氏によると、気比と若狭比古の両社については地域的にあまり隔たらず、時代も相接するところから、2つの神宮寺の設立には同一僧侶による神仏習合的教化活動があったという。それが泰澄かどうかはわからないが、剣御子神宮寺については、越知山と距離的に近いこと、原泰澄伝の成立時期と年代的な齟齬がないことから、泰澄のような仏教者が関与していたとみられる。若狭比古神願寺(神宮寺)についても、泰澄の弟子である滑元の創建という寺伝がある。先の「旧記」の存在や気比と剣にともなう神宮寺の成立時期を踏まえると、気比神宮寺も含めて泰澄な人物がプランナーとして関与していた可能性は高い。

 『泰澄和尚伝記』によると、泰澄はたんなる地方の山林修行者ではなく、元正天皇の病気平癒をおこなう看病禅師としての側面がある。泰澄を架空の人物とみて、その業績は『続日本紀』にもとづく創作との見解はあるが、近江から京都に広がる泰澄伝承と十一面観音の道、近江国司の藤原武智麻呂が創建したとの伝えと、劔神社付近で焼成された瓦が湖東式で朴市秦氏と関係することから、泰澄による畿内・近江の活動が追え、神宮寺を介した両者の関係も見えてくる。

(4)心礎から見た交流

 西井龍儀氏の塔心礎の分類によると、劔神社の心礎は柱穴式で柱穴+舎利孔をもつⅠB型式、舎利孔をもつものに位置づけられる。被熱の範囲が柱穴部分のみに認められることから、礎石は露出せず地下に埋められていた可能性が高い。心礎としては小さく、金堂などの礎石であったとの見解もあるが、孔をもち地下に埋設する礎石であれば心礎の蓋然性が高く、しかも奈良前期以前に比定できるとすれば、初期神宮寺に伴うものであったと考えられる。

 北陸のなかで類例を探すと、柱穴や舎利孔の規模でいえば、新潟県胎内市中条町の乙宝寺のものに酷似している。乙宝寺のものは柱穴に添って一部欠損するが、西井氏の分類の柱穴式ⅠB型式で、柱穴の直径は0.6m、深さ0.3m、中央部の舎利孔は直径0.23m、深さ0.15mをはかる。中条町史』によると7世紀末頃から奈良時代初期頃の白鳳様式とされるが、平野団三氏の見解によれば、東北蝦夷討伐の前進基地磐舟の柵近くの大寺にともなうものとみられている。

 なお、劔神社と乙宝寺のものは直径0.67m前後をはかり、北陸の他のものと比べると小規模であるが、同規模の柱穴としては石川県加賀市の弓波廃寺や同県羽咋市の柳田シャコデ廃寺のものと近い。

 ともに舎利孔をもたないが、瓦や須恵器の分析などから弓波廃寺は石川県野々市市の末松廃寺に後続する7世紀末を前後する時期、柳田シャコデ廃寺についても白鳳期まで遡る可能性も指摘されている。ただし、柳田シャコデ廃寺については気多神社にともなう神宮寺とし、8世紀前半まで下るとの見解はある。また、弓波廃寺についても弓浪神に神階奉授の事例として出てくる忌波神社と関係し、神仏習合を示す神宮寺ととらえることができれば、劔神社と同じような時期の初期神宮寺の事例ととらえることもできる。

 さらに、神宮寺と国家との関わりである。考古資料に則すると、若狭比古神と気多神(柳田シャコデ廃寺を神宮寺とした場合)についてはその神宮寺に平城宮式瓦を一部に含み、いずれも8世紀中頃に位置づけられる点である。しかも、共通するのは在地の有力氏族が、8世紀前葉に神宮寺的性格を帯びた寺院を創建したあと、一段階遅れて平城宮式瓦の導入した点にある。

 具体的には、若狭比古神の場合、平城宮式瓦(6225型式)が国分寺造立の時期と一致することから国家との関係のなかで理解できる。気多神の場合、平城宮式瓦(6664もしくは6666型式)の退化型式であることから年代的には少し下る。天平神護元年(765)に「原気多神戸」の一部に対する封戸制の適用と連動し、757年の2次立国後による能登国府との関連が指摘できる。これらの神宮寺は8世紀中頃に律令国家のてこ入れがおこなわれた可能性が高い。

 今後、神宮寺の成立と展開を考えるうえで、国家との関係性を検討していく必要があるだろう。

 

12 おわりに

(1)『泰澄和尚伝記』の成立過程

 ここまで『泰澄和尚伝記』(以下、『伝記』と略する)と泰澄について時代をさかのぼる形で、泰澄伝とその関連史料を中心に、考古資料なども踏まえて紹介してきた。結論をいえば、奥書の通り天徳元年(957)に成立した原伝があり、それが数段階の過程を経て整備されて、私々が目にする『伝記』というひとつの完成形になったと考え、また伝記内容の信憑性の高さを証明する考古資料の存在など、これまで議論できていなかったところまで踏み込めたとも考えている。

 正史に出てこない泰澄であるが、同時代の考古資料などから伝記が成立したとされる9、10世紀における越知山・白山一体観の信仰など、これまでにない泰澄像と伝記成立の契機や社会的背景にも少しは迫れたように思う。最後に本文ではわかりにくい部分があったので、企画展覧会で考えた泰澄とその伝記の成立過程について結論を提示しておく。

 泰澄伝の成立は、揺籃期(9世紀後葉~10世紀中頃)[第1画期a・b]、形成期(11世紀後半)[第2画期a・b]、発展期(12世紀)[第3画期]、完成期(13世紀後葉~14世紀初頭)[第4画期]とする。『伝記』における、どの要素がいつ成立し付加されたかを特定するのは困難で推測の域を出ないが、史料などの成立の上限をとらえ、それが語られた社会的背景などを勘案したうえで比定したつもりであるので、飛鉢譚など未検討の部分も含め検討していけばより明確な位置づけがなされていくものと考えている。したがって、ここに提示する見解は予察の部分も含んでいると理解されたい。

 まず、『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第21の書写をおこなった「泰澄」は越の大徳と呼ばれるにふさわしい教養ある僧侶とみられるので、『伝記』『元亨釈書』で記された越知山の泰澄であったとすれば、伝記のモデルとなる人物としてはふさわしい。これが泰澄本人かはわからないが、その実在か否かにかかわらず、その修行地とされる越知山山頂付近からは8世紀中頃の須恵器甕片、その周辺の洞窟からも古代の須恵器甕が採集されるなど貴重な発見が相次いでいるので、8世紀に越知山とその周辺の丹生山地を行場とした山林修行者が活動する、山林斗藪の盛んな地であったことはたしかである。

 その関連でいえば、文殊山奥の三峯山山頂付近に展開する鯖江市の三峯寺跡からは、その開山時期とみられる8世紀前葉の遺物が出土し、また泰澄が生誕地の麻生津近くに展開した今市岩畑遺跡からは8世紀の「大徳」と墨書された須恵器も確認される。また、泰澄の修行地に最も近い拠点となる地が織田であり、劔神社境内に8世紀前葉の初期神宮寺が創建されたことも積極的に評価すれば、泰澄という人物が生まれ活動するだけの歴史的素地が越前国には備わっていたといえるだろう。

(2)揺籃期

 実際に泰澄について具体的に語り記されたのは、大谷寺遺跡や明寺山廃寺が形成される9世紀後葉頃とみられる。2つの遺跡は越知山―白山という配置を意識した遺跡のあり様で、共通する「山内」墨書土器の出土は同一の越知山信仰圏を思わせるもので、とくに大谷寺遺跡は泰澄が亡くなったとの伝承地で「泰」を思わせる墨書土器が出土し、また寺院でありながらも白山側の一角で神祀りを執りおこなった痕跡も認められる。

 また、泰澄の開山伝承をもつ低山からは八、9世紀前半のものが出土するが、白山につながる標高1000mを超える高山の山頂とその禅定道からは9世紀後半以降のものが採集され、拠点寺院の創建も進み、同時に中央僧の入山も認められるようになる。これは『伝記』にある泰澄の越知山から白山へという行場の移動を象徴するものといえるので、最初の泰澄伝が成立したとすれば『伝記』にある「大谷仙崛」を思わせる大谷寺遺跡で「大谷」「神」など墨書で記されるのが9世紀後葉から10世紀中葉にかけての時期とみている。これを[揺籃期]ととらえる。

 なかでも、貞観2年(860)の年紀をもつ『遷化之記』、『伝記』の天徳元年(957)に神興が筆記したとされる伝との時期と相応するが、遺跡の状況などから前者を第1a画期、後者を第1b画期としておく。『遷化之記』は『伝記』にもとづく偽書とみたが、7歳の記述など独自の内容もあり、9世紀後葉は苦行を求め中央僧が入山しているので、もともと越前国で流布していた泰澄の伝が彼らに知られることになった可能性が高いだろう。このことが10世紀中頃における泰澄伝の記述の直接的な契機となったものととらえられる。

 『伝記』のもととなる伝記が存在したとすれば、流布した伝承が越前国のなかで語られていたのか、それとも苦行目的の中央僧により都に持ち込まれ、伝の原形が成立したかは特定できないが、天徳元年(957)に何らかの形の書物が存在した可能性を考えておきたい。それより語られるだけの要素があまりにも多く、その素地が越知山周辺で熟成していたことだけはたしかである。仮に古い純粋な伝が成立していたとみれば、興福寺など法相宗の関係者が記述したか、あるいはその影響を受けた伝であった可能性が高い。

 とくに、越前国気比神宮寺・剣御子神宮寺など初期神宮寺の創建など神仏習合の進んだ地であったので、大谷寺遺跡や明寺山廃寺の遺跡配列など9世紀の状況を勘案すると、古い記録こそないが、白山といえば八幡神でいうところの八幡大菩薩に象徴される、『伝記』にある白山神=白山大菩薩という仏神としての認識がこの頃から確立し始め、そのような流れのなかで白山神を女神と位置づけ十一面観音を本地とする垂迹思想が遅くとも10世紀には確立し、11世紀にかけて流布していた可能性が高い。

 しかし、『伝記』には「白山大菩薩」でなく、「妙理大菩薩」と記される。ここでは10世紀頃に天徳元年の年紀をもつ伝記の存在を認め、十一面観音を本地仏としその垂迹を白山神とする思想的あるいは信仰的なものが越知山側に形成されていたとみるので、9世紀後葉ないしは10世紀中頃までは純粋に「白山大菩薩」と認識されたが、泰澄伝の整備にあたり十一面観音という存在自体が不可思議な真理をもつものであったので、「妙理」という仏教用語が加えられ、「妙理大菩薩」あるいは「白山妙理大菩薩」と認識されはじめた。

 併せて、白山は中央でも著名になった。9世紀後葉には宗派を超えて苦行を目的とした中央僧の行場として開かれていたことが大きく、10世紀末の『枕草子』にみる「白山の観音」の記述をはじめ、11世紀には宮廷で白山を開いたされる泰澄の存在が語られるようになったとみている。それは白山が都から鬼門に位置し、都の周辺の高所から見える地理的環境が大きく、しだいに中央でも白山は観音の住む補陀落浄土という認識が強くなった。

(3)形成期

 伝記の観点からみると、天徳・天暦の年紀をもつ3つの伝はすべて同系統で、天徳元年(957)の年紀を有していた一本の原姿たる泰澄伝だと結論づけた。ただ、浄蔵の口述とあるのは白山との関わりが12世紀中頃に生まれたことから仮託とみたが、天徳本そのものの存在を否定したわけではなく、泰澄は越前国の生まれで、越知山で修行し養老年間に白山を開き、十一面観音の信仰者で神融の別称をもち、神護景雲年間に入定したというような、それこそ空海伝の影響を受け『遷化之記』で記されたようなシンプルな伝が成立していた可能性は高い。

 とくに、11から12世紀前葉にかけての時期に次の段階があったとみられる。これを[形成期]としたい。あえて区切れば2回の小画期が設定できる。まずは元和本の奥書に示された官庫から寛弘年間(1004~1012)に流出したとある伝で、これらを信じれば11世紀に成立していた泰澄伝が存在し、11世紀前葉を[第2a画期]とみたい。かつ中央とのつながりが感じ取れるもののなかに、藤原敦光の「白山上人縁起」がある。

 これは12世紀前葉には泰澄という一聖僧がいて、養老年間に白山を開いたことが宮廷で語られていたことを示すので、11世紀後葉には『伝記』の前提となるシンプルな泰澄伝なるものが中央で流布していた可能性が高い。したがって11世紀末頃を[第2b画期]としておく。

 それを裏付けるのが、複数の人物を一人に仮託したとの説の根拠ともされる『大日本国法華経験記』や『本朝神仙伝』にみられる神融・泰澄の記述である。泰澄伝が成立していたがゆえに、その書物の性格あるいはその立場などから別の異伝が派生していったと結論づけた。つまり12、13世紀までに中央あるいは越前・加賀などに部分的に存在していた泰澄の伝をかき集めて、14世紀にまとめて『伝記』を作ったとするのは論理的でなく、説明できないものが多々あることを述べた。問題はどの時点で、どこまでの内容を完備したかである。

 11世紀までに完成していた泰澄伝は、以下の9点に集約できる。1 泰澄は大師と尊称された。2 越の小大徳とされた。3 神融と称された。4 鎮護国家の法師となった。5 霊亀2年(716)に女性の夢告があり、養老年間(717~724)に白山に登った。6 白山は中央で知られる修行地であった。7 山頂において九頭龍王が現れ、本地たる十一面観音へ変化した。8 白山といえば観音の住む補陀落浄土の地で、本地が十一面観音であった。9 神護景雲年間に亡くなった。

 ただし『泰澄和尚伝記』にある5、6歳の仏像作りと童堂造りのこと、11歳(12歳)のとき神童と称し、晩年に結跏趺坐して定印を結び入定したとの内容については11世紀初頭から12世紀前葉にかけての空海伝を意識したもので、共通語句の点では11世紀初頭の成立とみた『金剛峯寺建立修行縁起』と共通する部分が多いので、真言宗の影響を受けた古密教僧としての泰澄の偉人化が進んだ結果とみられる。

(4)発展期

 それから泰澄伝は12世紀中葉から後半にかけて次の段階があった。これを[発展期]ととらえる。また、平泉寺本の奥書に示された小納言の藤原通憲所有の信西本が保元元年(1156)に文庫より盗み出されて書写したとの伝であるので、越前国では延暦寺による平泉寺の末寺化の波が大きく、あわせて大谷寺もその傘下に入ったとみている。

 『伝記』の内容が越知山から白山、白山から越知山とする一体観は9世紀中頃からあるとしても、そこに白山登山の前に越知山で禊ぎをするなどの記述からより両者の一体観が強調される。仮に園城寺が平泉寺との対抗により越知山に進出し伝記を創出したならば、わざわざ林泉の貴女の語りを経由する必要はない。つまり越知山側と平泉寺側をうまく取り込んだ形としている点で、12世紀中頃に天台宗色に染まっていくなか延暦寺側から浄蔵という人物を登場させ、彼に語らせることでひとつに取りまとめた。この12世紀中頃を[第三画期]ととらえる。

 何より伝記の内容についても泰澄が法相宗の人物とのつながりをもつもので、山門の手により泰澄伝を完全に書き換えられなかったのかの疑問についても、逆に解すれば泰澄の伝が中央で確立していたがゆえに手を加えることがかなわず、浄蔵口述という説明を加えることでうまく天台宗側に包括させ、神興筆記とし大谷寺に設定することで調整をはかったものと思われる。加えて、12世紀後半の成立とみられる『白山之記』の記述があるので、白山三所権現本地仏設定にも山門の影響が及び、小白山別山大行事を加えることで独自の主張に成功している。

 なお、権現とは10世紀中頃までに「(白山)妙理大菩薩」へと変化したものが、11世紀に本格化する権現思想が登場することで呼称されたと考え、12世紀中頃の史料にも「白山妙理権現」が散見されるようになる。この頃から三所権現が確立したとみられるが、その設定については越前側からの白山遥拝が条件で、天台宗による延暦寺末寺化がきっかけとなり越知山や白山関係寺院が取り込まれる形で生まれたものと考えた。

 そこには天台浄土教の影響で阿弥陀信仰を取り入れ妙理大菩薩との接続をはかり、十一面観音・聖観音阿弥陀如来という最終的に仕上がったものは変則の形態で、その確立も12世紀中頃とみられる。それに対応する本地仏が大谷寺所蔵の最古の白山三所権現の仏像であり、平安時代後期という制作年代とも一致する。したがって、12世紀中頃に三所権現の要素が泰澄伝に加えられた可能性が高い。

(5)完成期

 最後に、12世紀後半に三所権現の要素を加えられた泰澄伝は、その100年後の13世紀後葉に最終的な整備がなされる。これが[第4画期]で、14世紀初頭までを[完成期]ととらえる。最新の要素とみた貴女の天神・地神の神統譜を語る場面については鎌倉時代後期以降に流通、流伝した説話内容とも深い関わりがある点で13世紀後葉頃に下がり、あわせて伏臥・飛鉢・早足・強力などのさまざまな説話的要素が加えられたとみられる。加えて『元亨釈書』奥書にある「弊朽せる一軸」、『真言伝』奥書にある「和尚之事、伝中より書出」とあるのはこの時に成立した伝であり、現在我々が目にしている『伝記』そのものであった可能性が高い。

 最後に、泰澄の人物像について考える。『伝記』に記されたように、都で活動したという業績を積極的に評価すれば、『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第21は泰澄の真筆と考えたい。奈良時代における写経の目的に注目し、跋文を集成し分析を加えた『上代写経識語注釈』によると、四恩(人がこの世で受ける四種の恩)を目的とするものはあるが、慈蔭(仏菩薩の慈悲をこうむったこと)に酬いるとするのは奈良時代では本経だけだという。

 また、父母の追善など祖先信仰に関わるものではなく、「下は衆生を救わんがため」とあり、本経を書写した泰澄という人物は悟りを目指す存在(菩薩)として、ともに衆生を救うことを願っていたのかもしれない。こうした利他行を主とする菩薩的な行動については、自分がさとるだけで満足するのではなく、衆生をさとらせるため積極的に働きかける行為のことである。これは民衆のために社会事業をおこなったことで知られる道昭や行基など法相宗僧の存在が浮き彫りとなる。

 法相宗といえばインド瑜伽行派唯識)の思想を継承する中国唐代創始の大乗仏教宗派のひとつである。ここでは泰澄伝にある思想的なものと法相宗の教理との関係までは検討しないが、法相宗唯識思想は泰澄を考えるうえで注目できる。

 井上薫氏によると、民衆は貧弱と苦悩からの救済を望んでやまないので、行基は伝道と社会事業を積極的におし進め救済の要求に応じたという。行基が出家してまもなく読了した『瑜伽論』には無量の衆生を教化し苦を寂滅することが強調され、『唯識論』には大乗戒にいう菩薩的行動が重んぜられ、この教えは行基の民間活動に具体化され、民衆が業を捨てて行基のもとに走り集まった勢いに政府は心胆を寒うし、行基の活動の弾圧へとつながったという。つまり、泰澄による写経の目的を彷彿とさせる。

 さらに、本経には「法隆寺一切経」の黒印があり、法隆寺に納められた経典だとわかる。法隆寺法相宗である。『伝記』に記された泰澄は道昭・玄昉・行基など法相宗の人物と接し、中国の法相宗の初祖、基の没年(682年)の生まれであり、法相宗と強い関係性が認められる。北伝たる興福寺法相宗である。藤原氏の氏寺でもある興福寺に注目すると、越前国には興福寺領の存在を色濃く確認でき、泰澄伝が及ぶ湖北にも彫刻などの分析からその展開が認められるという。法相宗を探っていくと、泰澄の謎が解けていくように感じる。

 いずれにせよ、天平2年(730)に法隆寺と関係し、写経に従事した人物が泰澄であることは確かなので、あとは白山開創者か否かの問題につきる。『日本霊異記』を読むと、護持僧として地方出身の僧が都で活動することがあり、また越前を活動地としていたはずの泰澄の伝承が都周辺に残ることは、その活動領域の広さを示している。仮定を重ねることになるが、 先に検討した理由から『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻第21の写経に関与した泰澄は、伝記のモデルとなった白山行人の泰澄その人と考えたい。

 『伝記』には説話的要素を含み、書き加えられた痕跡があるので、原姿たる伝の内容を知るのは難しい。奥書にあるように、泰澄伝が天徳元年(957)に成立したとすれば、その筆者は法相宗関係者だった可能性が高い。それは事蹟の大部分が法相宗僧と関係するからである。仮に平安後期以降に天台宗派がその編纂に関わっていたとすれば、法相宗を宣揚する内容にはならないはずである。法相宗僧により語られた伝を取り込むため、天台宗僧が三所権現本地仏を設定し、天台宗僧の浄蔵に語らせたと考える方が自然である。

 以上のことから導き出せる結論として、泰澄は越前国出身の越知山などで修行した唯識思想を学んだ僧で、興福寺法隆寺などに出入りし都でも活動していた法相宗僧であり、しかも神宮寺の創建にも関与した人物とみておきたい。

載した。

 

これは自身の勉強の為、織田文化歴史館デジタル博物館より抜き書きしたものを、敢えて一部改変したものである。図録等で確認されたい方はデジタル博物館にて御覧ください。

天龍寺指南録

 天龍寺指南録

         1頁(以下略)

当院開山斧山和尚・諱号宝鈯

越中射水郡人也・其家世々・為

猪股氏之股肱・薙髪之後・有故

厚蒙清涼院殿撫育・因是前中

書・法名鉄関公・創立当院・請為

開祖・初住干武陽品川県・天龍

而為第四世矣・天龍者・駿府

 

斧山和尚―品川天龍寺三世。天正十四年(1586)―寛文五年(1665)七九歳寂

清涼院殿―越前藩初代藩主、結城秀康の側室。寛永十七年(1640)七月二十一日逝去。

清涼院殿久窓貞昌大姉と受号。三人の子供を授かり、長男忠直は文禄四年(1595)六月十日。長女は慶長元年に。(名前不詳・徳川二代将軍秀忠の養女になり後毛利家の嫁ぐ)。次男忠昌は慶長二年(1597)十二月十四日に生れる。その忠昌の長男が初代松岡藩主の昌勝である。出自は備前(岡山)出身・中川出雲守一元の娘と推測される。

鉄関公―松平昌勝の戒名、見性院殿従四位下前中書鉄関了無大居士による。

武陽―武蔵国

品川天龍寺―瑞雲山天龍寺。品川区南品川4‐2‐17。初代松岡藩主昌勝の祖母が開基開山は一庭氷見和尚。天正九年(1582)創建―慶長十八年(1613)寂す。

第四世―三世の間違い

 

 

      2

大谷県大祥寺・四世一庭和尚

之所開而・大源和尚之法流也・

当院開闢者・承応二巳暦・至今

元禄十六未・都五十年歟・開山

示寂寛文五乙巳・六月七日也・

前住宝逸 寛文五巳暦・入院

在住八九年之間・因事退院・相

次一年宝岸白龍両主看院・

前住俊益 延宝二年・入院在

住七年・同七年之冬・移席於

州織田芳春寺

前住覚林瑞 延宝七年・自同州

中津原少林寺入院・在住三年

乎・因事退院欲移錫於摂州大

法輪寺・未住而化・相次三年

無住・宝岸看院・

 

大祥寺―大正寺の誤りか?(静岡市駿河区大谷(おおや)3660―1)

一庭和尚―駿州大祥(正)寺五世品川天龍寺開山

大源和尚―太源宗真(―1370(1))総持寺三世

承応二巳―1653年

元禄十六未―1703年

寛文五乙巳―1665年

宝岸寺―福井県吉田郡永平寺町春日3-15-1

白龍寺―廃寺

延宝二年―1674年

若州織田芳春寺―福井県三方郡美浜町佐田106-8

同州中津原少林寺福井県越前市中津原町67-1

 

 

      3

前住海音 天和二年・入院

亨四年・移席於武陽勢田谷高

徳寺

前住大夢 貞亨四年・入院在

住七年・元禄六年・二月移席於

上州木崎大通寺

現住雄峯 元禄六酉・六月

四日入院・

龍頓 丹龍 禅波 文慶

相次住・

延宝四年・檀施無資・衣鉢貧瘻・

而僊□山之勤・因訟吉禅役局

請為本院塔司・因是 □山三

十一世愚門和尚・有付当院之

証文・

 

天和二年―1682年

貞亨四年―1687年

武陽―武蔵

勢田谷高徳寺―世田谷区豪徳寺2-24-7・招き猫発祥地

元禄六年―1693年

上州木崎大通寺―群馬県太田市新田木崎町1391-1

念四日―二十四日

延宝四年―1676年

三十一世愚門和尚―永平寺32世大了愚門(1613-1687)延宝6年(1678)『永平紀年録撰述

 

4 

右因伝説記焉・前住入院年

号在住年算・恐有差誤・請考

官庁・簿書則明如指掌・

  △附源心菴開基

慶安四卯暦・至今元禄十六未

都五十三年・為土屋宗右衛門

妻源心寿本創立焉・勧請永平

二五世良義和尚為開祖・住持

元旦 早起洗面著衣住持勿

室ニテ法衣ヲ礼シ・次内看経罷テ・

大殿打板三下・大衆住持俱入

テ禅坐ス・司鐘ノ人鳴鐘・百八

声ス鐘罷テ開定シ・献餅諷経・

次礼間デ・主賓祝礼畢テ著座

ス・侍者住持エ円餅ヲ進・次ニ

 

源心菴―廃寺。所在地等は不明。

慶安四卯―1651年。

元禄十六未―1703年。

永平二五世良義和尚―天海良義・万斛大鐘禅師・永平寺入院は慶安元年(1648)八月二十八日、慶安三年(1650)十月四日示寂。武蔵国龍渊寺十八世(彩埼玉県熊谷市上之336)。天龍寺塔頭源心菴は良義の開山

梅干・湯・菓子・茶ヲ・引・喫シ罷□・

殿鐘三会・住持上殿シ・驀直拈

香万歳聖ス・行事如恒畢テ・

主賓ノ拝有リ・侍者捧香・住持

巡堂ス・諸堂・前夜ヨリ燈燭ヲ

点ズ・鎮守諷経有・深雪ノ時節ハ

大殿ニテ諷経スベシ・巡堂罷・飯台ニ

テ雑煮ヲ喫ス・且茶堂ニテ喫茶

シ・礼賓ヲ待ナリ・来賓ニハ菓子

茶ヲ引ノミ・禺中巡寮ノ式有・

午時 殿鐘三会・般若ヲ転・金

剛経ヲ誦ス・斎ハ一汁三菜・霊

屋飯台同彩・塔頭菴内三朝二

斎ヲ喫セシム・隣峯二ケ寺

来ニハ・住持答拝・湯茶菓子ヲ引

ノミ・

 

禺中―巳刻午前10時

塔頭―白龍寺・宝岸寺か?

隣峯二ケ寺―吉嶺寺か?

 

 

     6

晡時 念経如常・昏鐘百八声・

薬石時ノ恒随・典座二月檀越

参詣ノ用意ス・預料理人・一人

ヲ招クベシ・大檀越ノ分ハ・芋

子皮ヲ取二十斗・大根皮ヲ取

少・結昆布少・香菜少・汁ハ垂味

噌也・吸物ハ・椎茸・或ハ焼麩・是

料理人心次第・伴侍ノ膳ニ拾

人前程・弁過ス可・是ハ大根・芋

子・昆布・焼豆腐・常ノ味噌汁也・

門ヨリ内エ入タル人ニハ・皆

出可・歩行ハ門外ニ有共・呼入

テ喫セシム・檀越在江戸ノ時ハ

是無シ・

二日 念経如恒・土地堂念誦

預メ殿司洗米・香華ヲ具フ・念

 

晡時―午後4時頃

昏鐘―晩鐘とも暮鐘とも云う。夕刻の鐘。

薬石―夕食の隠語

典座―六知事の職(台所)

土地堂念誦―今は三八念誦に行う。

 

       7

経後・方丈ニ至テ・大衆設拝菓

子茶ヲ引・梅干湯ヲ略ス・喫シ

了テ・住持巡堂罷・仏前ヘ香粥

ヲ供・飯台ニテ喫ス・粥ハ香汁・香

菜ノミ・禺中檀越参詣・住持八

疋間・迎エ・焼香了テ室ノ間

エ通シ・住持対坐ス・菓子茶ヲ

点ジ・雑煮ヲ供・吸物ヲ進メ・又

茶ヲ点ズ・伴ノ侍ニハ・飯台座ニテ

雑煮ヲ喫セシムノミ・帰鈑ニモ住持

ハ疋間ノ・縁迠送出・ 但在江

戸ノ節々・慶礼ヲ認メ・扇子等ニ

拾添在江戸番頭中迠□ス也・

扇子の義ハ・江戸檀家・・年内

ヨリ頼□也・久事ハ左ニ記・旦

家老中・□□・番頭檀那中□慶

 

梅干湯―客人に対する接待茶

香粥―香菜を入れたお粥歟・ほかに白粥・瓔珞粥・五味粥等あり

禺中―巳刻午前10時

 

      八

礼ヲ□スナリ・

午時 修証転般若金剛経

若心経消災咒ニテ・普回向ス・日

中恒規・霊屋乗・如前日・飯台同

彩・晡時念経略・衆寮ニ於テ・龍

□諷経ス・楞厳咒ヲ誦ス・喫茶

祝礼・知客ニ祝義ヲ備ス・

三日 念経祝礼巡堂・如前日

韋駄天諷経有・米一舛・洗米一

器・香華灯燭ヲ辦ズ・楞厳咒ヲ

諷誦ス・典座エ賀義ヲ通ス・御

粥如前日・

午後満散・転般若・金剛経・如前

日・洗米香華を供・衆立テ楞厳

咒ヲ挙・維那満散ノ回向ス・方

丈エ帰テ各礼三拝・満散ノ賀

 

転般若―六百巻般若経の転読を云う。

金剛経金剛般若波羅蜜経の略。金剛はvajraを云い、金剛杵とかダイヤモンドを云う。

般若心経―大般若経六百巻のエッセンスを262文字に凝縮した経文と云われますが、サンスクリット原典には一切顛倒の一切が無く、2文字付加された経文が日本で読誦されているわけです。この一切(梵語ではsarba)が付加された経緯はわかりません。

消災咒―通常禅林で誦する消災咒は不空訳・仏説熾盛光大威徳消災吉祥陀羅尼経を云う。

普回向―禅門では『法華経』化城喩品の「願以此功徳、普及於一切、我等与衆生、皆共成仏道」。浄土宗門では『感無量壽経疏』の「願以此功徳、平等施一切、同発菩提心、往生安楽国」。を読経後に訓読する。

楞厳咒―首楞厳経の略で『宝慶記』第六問答にて如浄の言辞として偽経説を云う。亦『永平広録』巻五383上堂(建長二年・1250)に於いても楞厳の儀経ならびに孔子老子の言句も見るなとの言辞あり。

韋駄天諷経―梵語skandaの音訳で、ヒンズー教のシバ神に属する。寺院では神像を厨房近くに安置し、毎月五日に韋駄天諷経を誦すとするが、当院では瑩山清規方式に従う。

維那―禅門ではイノ・浄土門はイナ・真言宗ではユイナと各宗で呼び慣わします。

 

 9

詞ヲ伸ブ・維那ニ賀儀ヲ備フ・

斎ハ・如前日・晡時満散ノ故ニ・

略ス・殿鐘如恒・薬石後・住持四

日檀越礼賀ノ用意ス・進物ハ

別記・六疋四人・艸履取一人・傘

持一人・進物持二人・伴僧ハ有

合・客ニ及デ仏前荘厳を拂・

四日 念経如恒・遷無童子・初

月忌・一汁三菜・剃髪終テ・茶堂

ニテ茶を喫ス・剃髪ノ初故ニ・住

持ヨリ辨ズ・浴シ了テ・家中エ礼

ヲ通ス・宝白モ・此日ニ礼賀ス・

音物ハ・持参ノ軽重ニ随ベシ・

晡時念経ノ後・達磨エ茶湯ヲ

供・諷経ス・

 

晡時―午後4時頃。

遷無童子―初代松岡藩主松平昌勝の二男鍋千代。寛文十一年(1671)十一月四日没。

戒名は量玄院殿遷無大童子

宝白―宝岸寺・白龍寺か?

 

 

一〇

五日 達磨エ仏ヲ供養ス・

香花・菓子・茶湯・一汁三菜・大悲

神咒ニテ・

六日 年越ノ故ニ・非時一汁

一菜・七種ヲ春ニ至テ辨ズ・

諸堂灯明ヲ点ズ・開山和尚エ・

茶湯ヲ備エ・菓子ヲ献ジ・楞厳

咒ニテ諷経ス・

七日 人日ノ故ニ・祝聖有・念

経如恒・礼間ニテ各礼三拝・菓

子茶ヲ喫ス・巡堂ノ因・辨才天

諷経ス・楞厳神咒ヲ挙ス・飯台

ニテ七種菜羹ヲ喫ス午時開

山和尚エ仏餉ヲ供シ・楞厳咒

ニテ回向ス・一汁三菜・飯台一

汁二菜・

 

餉―干したごはん。

羹―アツモノと読み、野菜・山菜等を入れた吸い物を云う。『示庫院文』では御羹・飯羹の語句が散見される。

開山和尚―斧山宝鈯和尚は富山・射水の人。養山(不明)和尚に就いて得度し、太源下二十二世法孫。品川天龍寺三世(秀康側・清涼院の知古)。松岡初代藩主昌勝に請われて、承応二年(1653)江戸から松岡に来越し、清涼山天龍寺とす。寛文五年(1665)六月七日寂。法臘六十二春秋、宝逸・俊益に嗣法。

 

 

十一

八日 火徳諷経有・香華・灯燭

預メ・殿司辨之・旦永平寺エ年

礼・住持登山スベシ・但風雨渾

霊ナラバ・此日ニ□□・十日ノ

中ニ・登山スベシ・拝物別記ス・

両末ヲ此日非時ニ□ク事・一

汁三菜・黄門公・モ同彩・

九日 普菴諷経アリ・孝顕寺

此方ヘ礼賀ノ前ニ通ス・住持

病気ノ節ハ・使僧ニテ通ス・

十四日 年越ノ故・非時ハ一

汁一菜・諸堂灯燭ヲ・点ズ事・

十五日 念経如恒・祝聖有之・

鎮守・有供・其前各大殿ニテ修・礼

間ニテ各礼三拝・喫茶巡堂・飯台

小豆粥ヲ喫・但餅ヲ入・午時一

 

火徳諷経―不明

殿司―殿主とも云う。仏殿の荘厳・香華・供物等の世話する役僧。

黄門公―結城秀康(1574―1607)。戒名の「孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士」から越前の黄門と称された。

普菴諷経―不明

孝顕寺―福井県福井市足羽一‐七‐一六・越前松平家初代結城秀康菩提寺。越前曹洞宗触頭として本寺の永平寺に代わり教団を代表して諸藩との交渉に当たった寺歴が有る。(『福井県史』通史編等参照)

 

 

十二

汁三菜ニテ・禅翁院・仏餉ヲ供・飯

一汁二菜

十八日 衆寮ニテ観音諷経・洗

米・香華・菓子・灯燭・普門品ヲ普

誦ス・多衆ノ節ハ・□王ノ故ニ

懺法ヲ・禺中ニ修ス可・

二十日 朝課後・礼間ニテ法衣ヲ

礼三拝ス・飯台ニテ礼餅ヲ喫

但小豆煮也・非時一汁一菜・晡、

清涼院実相院梅林院ノ・牌

前ヲ荘厳シ・茶湯ヲ献ズ・諷経

アリ・

二十一日 朝課後・清涼・実相・梅

林・仏餉ヲ供・二汁五菜・月忌

初ノ故・楞厳咒ヲ挙ス・檀越在

館ノ時ハ・禺中・参詣有・住持

 

禅翁院―初代松岡藩主松平昌勝の七男昌貢の戒名・禅翁院殿釣雲祖月大居士。天和二年(一六八二)―宝永六年(1709)二十八歳。品川天龍寺に葬る。

禺中―午前10時頃。

晡時―午後4時頃

清涼院―松平昌勝の祖母にあたる人。越前藩初代藩主結城秀康の側室。寛永十七年(生年不明―1640)七月二十一日没。慶長十二年(1607)秀康が逝去し同時に出家し清涼院と号し、寛永十七年に没し清涼院殿久窓貞昌大姉の戒名となる。

実相院―松平昌勝の側室。中根孫右衛門好貞の娘。

梅林院―不明。

 

十三

闍山伴僧ニテ鈑・非時ニ登也・

二十三日 真光浄天ニ仏餉ヲ

供・一汁三菜也・

二十五日 寿証院ノ・忌ノ故ニ・

牌前荘厳シ・仏餉ヲ供・一汁三

菜也・

二十七日見性院殿・初月忌ナ

レバ・前夜ヨリ掃□・仏前荘厳

茶湯香花ヲ供ス・当日ハ・□□

香卓ニ炉ヲ点シ・客寮中間ニ

並テ・家中ノ参詣ニ用・念経罷

仏餉・二汁五菜・飯台一汁一菜・

禺中檀越・参詣有・住持闍山非

時登鼓スルハ前ノ如・晡時永

平和尚ヘ・茶湯香花菓子・灯燭

ヲ献ズルナリ・

 

真光浄天―昌勝の十一人の子供の一人、理世姫。天和二年(1681)十月二十三日、六歳にて没。真光浄天童女。母親は側室、越前笈松勘兵衛の孫である上坂氏。

寿証院―福井藩三代藩主松平忠昌の側室。初代松岡藩主昌勝の母。出自は白石左エ門信久の娘で本名を木曽と云い、俗名は菊と名乗る。

見性院殿―福井藩三代藩主松平忠昌の長男。初代松岡藩主、松平昌勝。幼名を仙菊で寛永十三年(1636)三月十一日江戸の浅草屋敷で生まる。十三歳にて元服し中務大輔昌勝と改名。元禄六年(1693)七月二十七日、江戸にて没。享年五十八.。

現今八月二十七日の御像まつりは、昌勝への供犠である。

 

 

十四

二十八日 百遍消災咒・香花・洗

米・灯燭・何月如是・念経罷・諸堂

就テ永平和尚ニ・仏餉ヲ献ズ・

茶湯・菓子・住持九拝・大衆三拝

大悲神咒ニテ・回向シ・礼三拝シ

退ク・飯台一汁一菜・

二月朔日 祝聖・各々諷経・如

前・念経罷・礼間ニテ各礼三拝・喫

茶菓・巡堂後・献仏餉霊屋ニ就テ・

隆芳專光院ニ・供ス・二汁五菜・

但前夜ヨリ・香花茶湯ヲ置・飯

台一汁一菜・

九日 晡時陀羅尼を略・十四

日迠・毎暮遺教経ヲ誦ス可・涅

槃会像ヲ今日ヨリ荘厳スレ

モ今ヨリ相略シ・十四日ノ飯

 

隆芳―不明。、

專光院―松岡初代藩主昌勝の正妻。菊姫と云い戒名が專光院か?

長男綱昌の母であり出自は松平遠江守定行の娘。

 

 

十五

後ニ・荘厳ス可・香花・茶湯・毎日

献ズ可・

十三日 斎後ヲ二分ニシ・

家中町ヲ行鉢シ・仏餉ニ献シ

極良因者乎・

十四日 客殿荘厳シ・涅槃像

ヲ中間ニ安ジ・灯燭・香花・菓子・重

々・晡時課誦・遺教経・次茶湯礼

九拝・闍衆展坐具・九拝・楞厳咒

デ回向・

十五日 粥前ニ五穀食ヲ・応量

器ニ盛テ・仏前ニ献・主賓礼罷

茶堂ニテ喫了ス・禺中法花(華)寿量

品ヲ誦シテ・普回向ス・午時住

持拈香シ罷テ・焼香三拝・次湯

三拝・次茶菓三拝・此間鐘鼓ヲ

 

行鉢―托鉢を云う。

遺教経―禅門に於いては挽課にて、一、小欲二、知足、三、楽寂静、四、勤精進、五、不妄念、六、修禅定、七、修智慧、八、不戯論の八大人覚を誦する。

五穀―いわゆる雑穀と云われるもので、キビ・アワ・ヒエ・オオムギ・コムギ等を云う。

 

 

    十六

鳴ス・住持・仏餉ヲ供・前□ヲ唱・

闍衆同九拝シ了・楞厳咒デ回

向シ・後唄罷テ・礼三拝シ退ク・

仏餉一汁三菜・飯台同彩・

二十二日 先日ノ祭礼ノ故ニ・

非時・一汁一菜・翌日ハ・洗米香

花・小豆飯ヲ・高卓ニ点シ・方丈

於テ諷経ス・楞厳咒ヲ挙ス・飯

台前夜ノ通リ・

三月朔日 念経如恒・此時節

寺社奉行・通・家老ヲ招ク可・相

伴ハ・総役人ナリ・料理ハ一汁

五菜程・後川饂飩・又ハ蕎麦切・

二月ノ末ニテモ・三月初ニテモ・

三日 上巳ノ佳節ナレバ・仏前ニ

桃花ヲ挿可・念経後・住持拈香

 

後唄ー処世界如(しーしかいじ)虚空(きくう)、如(じ)蓮華不著(れんかふじゃ)水(しい)、心清浄超於(しーしじんちょうい)彼(ひ)、稽首(きーしゅ)礼(りん)無上(ぶじょう)尊(そん)。

梵唄とも云い、僧堂での食終了時。授受戒最後に唱う。禅苑清規には

帰依仏。得菩提道心常不退。

帰依法。薩般若得大総持門。

帰依僧。息諍論同入和合海。が付加される。

上巳ー五節句は人日(一月七日)・上巳(三月三日)・端午(五月五日)・七夕(七月七日)・重陽(九月九日)を云い、旧暦三月は桃の時節である事から桃の節句とも称す。

 

 

     十七

表嘉□・礼ノ間ニテ主賓各礼三

拝・喫茶ス・菓子ハ艸餅ナリ・預

典座弁ジ置ベシ・飯台一汁二

菜・

二十日 此前後大檀・江戸御駕

也・前日□末同道ニテ鈑・鈔別ニ

出・前是ノ日・今□迠・飛脚ヲ出ス・

進物筥入・五厘饅頭百也・番頭

中迠・披露状を・久事左ニ記・

四月七日 斎後ニ右衆・草木

ノ花ヲ摘テ・誕生の花堂ヲ荘

厳ス・浴湯ハ諸薬ヲ煎石鉢ニ入

仏体ヲ浸ス可・香花灯燭・菓子

□ニ・晡時茶湯・楞厳咒・

八日 喫粥如常・禺中寿量品

普回向ス・午時拈香・次浴仏・次茶

 

四月七日―平成28年4月にバンコック(クルンテープ)中央駅(ホアランポーン)にて、浴仏祭壇が設置されタイ人が甘露(アムリッタ)を注ぐ光景を見る。

諸薬―不明。普通は天からの甘露を云い、甘茶を釈迦像に注ぐ。

 

    

十八

湯・菓子礼拝ノ間・鏡餅如前・仏

餉楞厳咒デ献ズ・飯台同彩也・

十三日 晡時衆寮□・楞厳咒

ニテ・諷頌有リ・

十四日 晡時伽藍堂ニテ・□鉢

馬形ヲ以テ・土地堂諷経ス・灯

燭十二灯也・供具赤白黒・染・諷

経了テ・埋却ス・祖堂ニテ達磨・永

平・当寺開山ヘ・茶湯ス・

十五日 入□拈香・楞厳会ヲ

始・毎日洗米・香花・半□迠ハ・年

花ヲ用ベシ・半□後木花ヲ用

ベシ・此日ヨリ日中ヲ勤ハ・可・

金剛経ヲ誦ス・粥飯ニ□・住持

意次第・粥後飯後・香数ハ住持・意

入次第・

 

 

    十九

五月五日 端午佳節ノ故ニ

拈香・祝礼罷・粽子ヲ喫シ・茶ヲ

吸・見性院牌前ヲ荘厳ス・家中

人事に備フ・五嘉節共・如是・当

月中・大檀江戸ヨリ帰鼓ナリ・住

持・ハ疋間の縁迠□ニ出・可入都

ノ節ハ・門頭迠出・是モ今礼迠

飛脚ヲ□□・進物参勤ノ返リ

入都ノ賀ヲ述ルニハ・一来一本

ナリ・台ハ白木是也・乗物デ中

門迠至ル・

六月朔日 半夏故ニ・垂偈有

斯月ニ入・大檀在江戸ノ時ハ・

暑勢□川安名ノ・封冊ヲ通・艸

香左ニ記ス・

七日 当寺開山・当月月忌ナリ・

 

端午佳節ー菖蒲の節句とも称す。元来は五月の最初の午の日に行事されたが、現今は五月五日に行なう。五月を「毒月」とも称し、食中毒の防止の意も含意され、菖蒲・ヨモギ等の香葉を軒先に吊るす風習もある。

粽子(ちまき)―茅(ちがや)の葉で包んでいた為、茅巻(ちまき)と呼ばれる。粽を食する起源は中国詩人屈原の、投身自死からの怨霊による、邪気払いの習俗とされる。

五嘉節―人日(一月七日)・上巳(三月三日)・端午(五月五日)・七夕(七月七日)・重陽(九月九日)を云う。

半夏―永平寺年中行事によると、夏至から十一日目に当る半夏生には大布薩講式を行う。

当寺開山・当月月忌―寛文五年(1665)六月七日・世寿七九春秋。

 

 

      二〇

前夜ヨリ・牌前ヲ荘厳シ・楞厳

咒デ回向ス・当日ハ□末ヲ・拈

テ・諷経ス・香湯茶菓を献ス・

七月朔旦 此日中□ヨリ・諸

経咒ヲ諷誦シ・含霊ノ為ニス・大

幡を大殿ノ□□ニ・竿頭ニ掛・

如来ノ幡ヲ・施食ノ棚ノ上

掛・十六日迠・晩課施食会ヲ行・

七日 前ノ節句ノ何ノ如・此

前ハ八日ノ施食ニ・役人ヲ□

侍僧ヲ通ス・役人ハハ番頭・奉行

寺社・横目・中川主鈴殿・寺社手

代両人・

八日 大施食・前日棚ヲ中庭

荘ル是ハ最前公条ヨリ・諸□参ル

時節如是・□□不来ニ依テ・大机

 

如来幡―不識。五如来宝号は南無多宝如来。南無妙色身如来。南無甘露王如来。南無広博身如来。南無離怖畏如来を指す。

晩課施食会―大悲心陀羅尼は如常。続いて甘露門を唱え回向。

中川主鈴殿―不明。

 

 

   二十一

ヲ路地ニ居・四方ニ新サヲ建・縄ヲ

張・如来ノ名号ヲ懸ク・供具

三器・内一器・飯一器・素麺一器ハ

荒布・飯ニハ真幡ヲ立・小幡ヲ立・縁ノ棚ハ

八疋間ノ正面ニ安ズ・供物小器ニ・飯

洗米・浄水・香華・灯燭・中央ニ万霊ノ

牌ヲ安ズ・兼テ茶湯器ヲ備フ・声台少数ヲ荘ル・

法事ハ念経罷ナリ・前日□末・侍

僧ヲ通ス・霊供一汁三菜・飯台同

彩・喫□二ケ寺・五鈔・学者・二鈔宛・

十二日 午時迠・仏前霊屋ヲ荘

厳ス・仏前□□ヲ張・前卓ニ□ヲ掛・

霊屋モ同彩・此日荘物□・御石塔

桃灯・蝋燭・雑用より来ル・十三四ノ朝

来ル事モ有・

十三日 午時霊屋・供養ス・二

 

如来ノ名号―不明。

真幡―施餓鬼会に用いる小さな小幡を云う。椙樹林清規下・年中行事には晡時、水陸会あり、飯には小幡を立つ、真幡七如来とある。

 

 

     二十二

汁五菜也・斎罷衆寮ニ就テ・諷経ス

晩課ヲ略ス・堂上并闍衆開山塔ヲ

拝シ・諷経ス・諸亡霊ノ石塔に銘シ

誦経ス・茄子洗米ニ混ジ・庫下ヨリ殿司ニ

渡ス・浄水ヲ瀉デ・卵塔ノ辺ヲ一匝ス・

黄昏ニ及デ・灯籠ヲ点ズ・夜五ツ切ヲ・門

ヲ為ス・十五日迠如是・

十四日 五更時分ヨリ・庫下ニ□

テ赤飯ヲ蒸ス・先是ヲ早晨・霊屋・供・

念経後・茶堂ニテ喫ス・禺中大檀・参

詣常ノ如ト雖共・料理人一人・膳

番中相□・右ノ人□前日ヨリ・□

内頼□スナリ・大檀ハ・葛餅・并氷砂

糖・香物・麩・椎茸・山芋・抔ノ・煮染ヲ

什ルナリ・伴ノ侍ニハ・飯台座ニテ・赤飯・香

物・焼豆腐・昆布等ノ・煮染ヲ什ル□

 

堂上ー堂頭か?

庫下ー庫裏ならびに典座?

卵塔ー卵の形に似る事から卵塔と云うが、無縫塔とも云い、住持職の墓石を指す。

五更―寅の刻を指し、午前4時前後の許容時刻。

早晨―早朝・夜明け。

 

 

     二十三

午時二汁五菜・薬石素麺・飯台

モ同彩也・晡時伽藍堂ニテ・□□

馬形ヲ以テ・土地堂念経ス・式ハ如常・此

晩課□翌朝・惣霊施食修行ノ

由使僧を以テ・諸檀方通・

十五日 解夏垂語・念経祝礼

如常・次諸檀方・到来ヲ待テ・施餓

鬼を修ス・霊供一汁三菜・霊屋二汁

五菜・来客飯台一汁五菜・薬石

団子・夜ニ入荘厳ヲ払フ・

二十七日 見性院殿・餉円ノ

故ニ・前夜ヨリ香華ヲ改・菓子二ケ・蝋

燭二挺・楞厳咒ニテ・回向ス・二汁五

菜・飯台・一汁二菜

八月二十七日 永平御忌故・大

檀在府ニテモ・断ヲ通・御山日中前ニ

 

見性院殿―初代松岡藩主、松平昌勝。

 

 

   二十四

□山ス・仏餉代・白□一両・持参ス伴

一人・僕一人・住持登山ス□・□□

開山ノ御牌前ヲ荘厳シ・茶湯ヲ献ス

可・二十八日仏餉・一汁三菜・飯台

一汁二菜

九月九日 重陽拈偈有・祝聖

家中参詣・飯台一汁二菜・喫茶

如常・

二十一日 実相院餉月ノ故ニ・

七月二十七日ノ・何ノ如シ

十月朔日 開炉住持・垂偈有

如常・

五日 達磨忌前夜ヨリ祖像ヲ中

央ニ安ジ・香花ヲ改灯燭二・菓子二・楞

厳咒ニテ回向ス・当日禺中住持拈

香餘如前・□・一汁三菜・飯台一

 

実相院―松平昌勝の側室。中根孫右衛門好貞の娘。

    二男・鍋千代。三男・昌平。四男・昌純。七男・昌貢。菊姫・津や姫の六人の子を産む。

達磨忌―『宝林伝』では526年12月5日。『景徳伝灯録』では495年10月5日に150歳で遷化するとする。

 

 

     二十五

汁二菜・

十三日 晡時・衆寮諷経有・

十四日 土地堂念誦有・

十一月 初旬永平寺・歳暮ニ登

山ス・是ハ住持心入次第・進物モ同

彩ナリ・

十二月朔日 八日迠・定中

生粥飯ニアラズトモ・此八日ノ中ハ

粥飯ニテ可勤・鐘鼓ヲ禁・坐禅専一ノ

風ヲ守ベシ・飯ハ一汁一菜・薬石

時ノ宣ニ随ベシ・規矩ハ粥後・三炷

飯後・三炷・夜坐五炷・早晨一炷・

是モ・住持心入・次第七日ノ夜

八炷を以開定ス・

七日 典座此夜ニ当テ・諸堂

灯燭ヲ点・開定ヲ待・五炷ノ香了テ・薬

 

十四日土地堂念誦―結制・解制の前日に土地神に対する作礼。

         夏安居では4月14日・7月14日。冬安居では10月14日・1月1           4日に行持。

定中―午前三炷・午後三炷・夜坐五炷とするが、辨道法に見る日分行持では、黄昏坐禅1時~20時。打眠20時~2時。後夜坐禅2時~5時。僧堂行粥5時30~6時10.早晨坐禅7時~11時。僧堂行鉢11時10~11時50.。看読13時10~15時50。晡時坐禅16時~17時。晩参17時~18時とされる。

 

 

       二十六

石ヲ喫ス・又坐スル事三炷・香了開

定・殿鐘ト相混ジ鳴ス・殿鐘ハ百八

・其間陀羅尼・諸咒を誦・住持巡

堂・経了テ五味粥ヲ献ズ・大悲咒ヲ

誦・礼拝シ退ク・

八日 念経懈怠・剃髪沐浴・斎

時鳴鐘・住持拈香・餘ハ如前式・経ハ

楞厳咒ナリ・

九日 二祖断臂ノ故ニ・坐禅ス・

翌朝・就祖堂・仏餉ヲ献ズ・

十日 先後典座・預メ正月ノ

買物ヲ調也・其入用ノ物・左ニ記

灑洗・此日ノ時□スベシ・一汁

二菜・

二六七日 此時□・□・歳末ノ賀

儀ヲ通ス・進物左ニ記・

 

百八声―煩悩の数、または年分の12月・24節気・72候の合計とも云われる。

    『勅修百丈清規』八・法器章には「杵を引き緩を宜しく、声を揚げ長く欲す、

凡そ三通は各三十六下、総て百八下」とある。

五味粥―紅(くん)糟(ぞう)とも称し、12月8日成道日、雑穀に衆味を混じた御粥。

二祖断臂―12月9日嵩山少林寺の達磨に求法するが、入許できず臂を断った求法赤心を云う。

 

      二十七

二十八日 公儀ヨリ・円餅来ル

但御位牌斗・大ノ時ハ・此日仏前

霊屋荘厳ス・小ノ時ハ二七日ニモ・荘

ルナリ・

歳末 晡時念経後・茶堂ニテ礼

賀ス・喫茶菓・表歳末ノ賀詞・此

夜ヨリ・諸堂ニ灯明ヲ点ズ・三朝

如是・神前仏前・各松竹梅の枝ヲ

供・荘厳ノ縄引ベシ・年御棚

モ如是・年内ニ立□ナラバ・典

座黄昏ニ・普門品ヲ誦・神咒ヲ唱

典座僕ヲ引・豆ヲ抑テ誰名ス・

了テ・茶堂至テ喫茶・賀儀百銭・

扇子二本・奴ニ出ス・ 餅暮ハ二

四日ナリ・円餅ノ数・心入次第

其時小豆ニテ・煮・闍山喫ス・境頭

 

公儀―おおやけを指し、幕府・朝廷・政府を云う。

大ノ時―月30日、小は29日とするが、月の満ち欠けの周期は29.5日である為。

 

 

       二十八

共ニ・歳末ノ小偈有ベシ・

六月二十四日 檀君誕生ノ故

両末ヲ招キ午時般若ヲ転ジ武運

長久福寿無量を祈ルナリ則

塗台ニテ礼ヲ上ル也・文左ノ如シ

奉転読大般若経檀君本命元辰福寿無量之条

大檀越・年頭

台束 一本 台ハ塗台ナリ

  大檀在江戸年頭

焼□五本入 掛流台ニテ

 代物白銀一□位右ハ年内在江戸ノ檀

中・頼江武ニテ調ルナリ・

蜜柑百 大檀越歳暮

 右ハ塗台ニテ極月二七八日ノ比上ルナリ

 

檀君誕生―初代松岡藩主・昌勝の三男である昌平である。

      延宝三年(1675)六月二十三日松岡で生れる。享保九年(1724)

      四月二十七日江戸屋敷で数え歳五十春秋にて没。

      豊仙院殿従四位下前拾遺補闕円誉照元安住大居士。西久保天徳寺に葬る。

      天徳寺は浄土宗寺院・光明山和合院天徳寺。在港区虎ノ門3‐13‐6

      天文二年(1533)創建。江戸三十三観音霊場二十番札所。

 

 

      二十九

筥入五厘饅頭百 但長サ一疋横八寸

        高サ三寸五分□□□□

右ハ大檀那参勤帰鼓ノ時今庄□□スナリ□

納豆箱 指渡シ五寸高サ一寸四分

 右ハ檀中役人其□心入次第□ス数ハ

不記此外三本入二本入男扇女扇水引

半紙茶袋杯調ルナリ茶袋ハ笠□ヲ

半分ニ切リ拵ルナリ・

  納豆之法

大豆一斗 小麦一斗 塩三升

水六升 振麹二升

右之通六月土用之内調合シ仕込也

麦ハ成程縄引塩□ヲ煎ジ合□

強ク置ク可・紫□□三升

生姜二斗右ニ品ハ少遅ク

入ルルナリ大檀在□ノ節ハ一斗

 

一疋―匹とも書く。反物2反分の22mとの、40尺とも80尺とも?

一斗―18ℓ

升―1.8ℓ

六月土用―18日または19日頃。

 

 

三十

五六升斗御在江戸ノ時ハ一斗三升

斗・

  醤油之法

大豆一斗 小麦一斗 塩一斗(今時ハ八升モ入ルル也

水二斗 振麹二升斗

右ハ六月土用之内仕込ナリ

釜ニテ水ヲニヤシ塩ヲザルニ入コシ

入ニスルナリ水ハ一石ノ内・減リ水

五升余リ入ルルナリ二番右ノ半

分宛ナリ七十日迠過候テ寸ヲ立

扱□ナリ・□□仕込火ニ当樽に入ルルナリ

預之覚

一下・綿 二百□□□

一下・麻 二百□□□

 

 

   三十一

右者当寺物成三内慥受取申

候重白本手形出□節引□可

申候    天龍寺

 月日    納所印

 御納戸三役人・□□也

 預之覚

一 米一俵□

右者当寺物成之内為先渡慥

□□□候重□本手形出候節

引替可申候 天龍寺

  月日     納所□

  荘奉行名□□ナリ

  浅漬

大根 百  塩五合 上中下取込

 

    三十二

  客味噌之法

大豆五升 糀七升五合又ハ六升斗

塩一升五合 冬ハ一升二合位

 右之通大豆少生煮ニシテ調

合スルナリ

  定

吾宗之寺院愈須仏制須禁葷酒及

菓酒入門内勿論雖到他家堅不可飲

用若有違把之僧侶作法事罰之者也

        大中寺 名牛

 元禄十丑仲冬 龍穏寺 印冊

 孝顕寺    総寧寺 緑岩

 

大中寺―栃木県栃木市大平町西山田にある関三刹寺院。

    1591年(天正19)徳川家康より曹洞宗関八州僧録職に任命さる。

龍穏寺―埼玉県入間郡越生町(武蔵野)にある曹洞宗寺院。

    1612年(慶長17)に関八州僧録職に任命さる。

総寧寺―千葉県市川市(下総)にある曹洞宗寺院。

    1612年(慶長17)に関八州僧録職に任命さる。

元禄十丑仲冬―1697年11月。

孝顕寺―福井市足羽1丁目7―16.

    初代越前藩主結城康公の菩提寺。当時は曹洞宗寺院であったが、現今は無宗派単立寺院

 

   三十三

  鉄砲御改証文之事

一鉄砲御改ニ付毎年証文仕当地改役

人□迠指出申候拙寺塔司門前ニ至ル

迠御改ニ付所持不仕候勿論預リ鉄

砲無御座候以後共急度相守事

申候以上  越前吉田郡松岡

 元禄十五午三月日 清涼山天龍寺 

              名判

一紫色之袈裟掛落并緋紫□之衣堅ク

著用仕間敷候

 右三ケ条堅ク□相守者也

 元禄十五午二月十六日

一今度永平寺総持寺就御願被仰

出候語条目一通永平寺総持寺

両寺之添書二通以上三返何茂直ニ

 

元禄十五―1702年

 

    三十四

扱見被成右之通堅ク□□相守

本山開山忌之節ハ無懈怠□被相勤候

檀用又ハ病身之時節ハ以吏僧被相勤

具節拙寺方・□相□且又福井

領之寺院他国・□之□拙寺・□

其□候

  月日       孝顕寺

   諸寺様

   定

曹洞一宗寺院移転之事従本寺撰其

器量而今住職古来之式何而候所

頃年不達本寺任自己了簡移転式

之後住相居候ニ付右来之通其本寺本

寺ヨリ後住之僧申付度者

奉行所・申之候所願之返被おう仰

渡候間以来移転之節ハ後住之僧ニ

 

本山開山忌―陰暦8月25日

   三十五

不相構従其本寺修法修学之僧遂

吟味相応之住職□申付□物重授

之義ハ御条目之通弥堅□相守者也

右ハ寅十二月十八日御奉行所於御列

座以御書付被殿慶候間急度被

存甚肯向後違乱有之間敷

  十二月日  大中寺 白巌 

        龍穏寺 □天

        総寧寺 峻巌

  定

宗門出世未熟之徒或不如法不器之僧

号開基并門檀之願ヨリ一派之小本寺

常会之地ニモ致住職義宗門之弊悪

旦隠居願之後住又ハ□□之遺書其

人境相□之吟味可有之但不如利情

事随其宜事

 

    三十六

近年常法幢之地結衆不満ニ□会之

間不修不学空世利ヲ貪修学共法式

不止之幸理間ニハ有之由相聞向後厳

密ニ有勤行事

随意舎并一解江湖宗門之旧式ヲ

忘異風ヲ相学条不届ニ御法慶

先三ケ寺右条目三通不一致惑乱此已

後随意会一夏江湖ハ不及申常法幢

江茂直ニ支配之□ハ三ケ寺ヨリ不時□入

穿鏧遠国之□ハ寺院相□ニ一致吟

味ハ自然宗門之定法相乱之輩於有

之ハ訴□旅所・支配頭・□□之上関三

ケ寺・一致註逢イ若隠置自脇於為顕

然ハ其寺法幢師首座三役者ハ不及申事

配頭寺々并隣端寺院共々□越慶

    

 

三十七

会中之諸式淡伯於□相守義麗遺

分之働有間敷結衆ハ若共□順先規

定法事

惣而講談之節不可俳謗自他宗勿

論講師講席之儀先規之通可相守

右之条々堅可相守事若違犯之族

者俗法可罰之者也

           大中寺

宝永八卯正月二十三日 龍穏寺

           総寧寺

 三ケ条触状

曹洞一宗寺院移転之事自本寺撰

其才徳□ 住職古来之式何也然共

頃年不達本寺任自己之了簡或雖

 

宝永八ー1711年。

 

   三十八

非修非学貪賄賂今住職輩間有之

法式□乱宗風衰廃不可勝言也吉

祥寺後住之義者直訴干奉行所

泉寺青松寺泉岳寺者達於関東

三ケ寺従三ケ寺告来於奉行所

□何也自餘之寺者達於本寺□□其

指揮右因総寧寺龍穏寺大中寺

訴出如斯裁断畢永平寺此分

者也

 宝永七寅十二月十八日 森出羽印 

            本弾正印

            島伊賀印

            安右京印

       総寧寺

       龍穏寺

       大中寺

宝永七―1710年

 

  三十九

去冬依願礼 仰慶ハ寺院移転

式後住之事遠境ニテハ自然心悍□

□□有之式与□□□委細書什ヲ以

触ハ下右之文言三ケ寺私意之様ニ

被存候方間ニ有之由依之今度御

本昏三写□越□間□□之迥□

被引背先書□□方・指返□被中人

卯七月

       大中寺

       龍穏寺

       総寧寺

      孝顕寺

 

四十

 指上申宗門手形之事

一 何誰 禅曹洞宗 寺号判

一 同妻 禅・・宗 寺号判

一 同息 禅・・宗 寺号判

右者代々当寺旦那□御座候

御法度之宗門□者無御座候

自然切支丹宗門之由訴人於

有之者拙僧罷出急度相扱

申候依而為後日一礼如件

  年号月日  寺号判

  寺社奉行

鉄砲御改一礼之事

 

追記

これは2016年頃に、天龍寺方丈から不出の史料である「天龍寺指南録」を借り受け、報恩行の一環として、ワード化し註を附したものであります。

長らくパソコン内に眠っていたものをブログ内にて公開し、あらためて仏恩に報いんとするものである。 

                            薄伽梵徒 釋信道 叩頭拝

酒井得元 龍吟提唱

、  龍吟提唱

 義雲頌著 第五十一龍吟 是什麼章句

吟曲付曾落五音、花開枯木帯春心、 

宮商角羽同和処、此引調高誰敢侵。

 

面山述賛 第五十一龍吟 述云  

三十二相是枯木、六十四音是龍吟、

了之回光則六凡四聖無分外底法、

賛言、一代時教、枯木龍吟、鴉鳴雀噪

總是梵音、機輪撥転上中下、言語道断古来今。

 

まず義雲の頌著から入ってまいります。皆さんもご存じの通り、この義雲さんは永平寺の五代さんで中興義雲大和尚と云われる人で、1253年から1333年までの人です。

義雲さんの龍吟に対する著語は、「是(これ)什麼(なん)の章句(しょうく)ぞ」ですが、これは禅語でありまして「什麼(なんの)」ということばが大事なんですね。実は私(得元老師)はこの「什麼(なんの)」を疑問詞とは採らないんです。「什麼」は中国読みでは「シェンモ」ですが我々は「シモ」と読んでいます。

「什麼物恁麼来」は六祖のことばで「なにものかいんもらい」と読みますが、この「なにもの」には正体はありませんぜ、これは。どれに限るものがない事が「なにもの」ですよ。これこそはと云ったものがないのが「なにもの」だ。つまり「なにもの」と云うのは一切の物を称して「なにもの」と云うわけだ。普通の我々の日常会話の「なにもの」と違いますよ。禅語はこの「なにもの」という語が使われるようになってから中国禅宗は趣きを発揮するようになったんです。元祖はこの六祖の「什麼物恁麼来」からですよ。これ以前には直接この「なにもの」は語録等に出て来ませんでした。『信心銘』の中にもこの言葉はなかった。五祖(大満弘忍)からもこの言葉は出て来ませんでした。六祖(大鑑慧能)が始めてこの言葉を開拓したとしてもいいんじゃないかと思う。

「什麼(なに)」という言葉を私流に申しますと云うと「真実」ということを表現し、このくらい仏法の真実という言葉を明確に示した言葉はないんじゃないかと思う。だいたい真実というものは「これこそが」というものはありませんもの。私たちが学問をやりまして一所懸命追求している、あの追求とうとうこれが本物だという・これが真実だというものは、真実じゃないんですね、私がそう思っただけのものだ。自分がそう思えるようなものを、どこまでも人間は追求している。だからして必ず反対論が出てきて、そうすると猛烈なケンカをすることになる。真実は取り消しになり、いつしかその真実を語った者が博物館入りしますね。そうして哲学史なら哲学史の中に入っちまう。哲学史というのは、これまで人間がどういう風な考えをしたかというものを並べ、昔こんなことをやったんだという宝物です。博物館にある鍋や釜を持ってきましても私らの飯は炊けませんものね。「真実」というのは、ああいう博物館入りの物ではなく、生きているんです。それで「なにもの」と云ったんです。

つまり「龍吟」という言葉がこれほどまでに「真実」を表現したことばはないと云うことですね。そういう著語ですよ。

まづ「禅」というものと「学問」との間に隔たりがあるのもその辺りから来るものです。残念ですけどね、これは。たとえ学問はどんなに進んでも、宗教としての「禅」は一致しません。仕方がない、これが「龍吟」の所以です。

吟曲不曾落五音 花開枯木帯春心

宮商角羽同和処 此引調高誰敢侵

まづ頌を見てみましょう。

吟曲曾(かつ)て五音に落ちず

花枯木に開いて春心を帯(お)ぶ

宮商角羽同和の処

此(こ)の引調高く誰か敢えて侵さん

私は始めの吟曲不曾落五音を見るとすぐ思い出す。これは洞山の玄中銘の句ですよ。

「胡笳曲子、不堕五音。韻出青霄、任君吹唱。」

胡笳ノ曲子ハ、五音ニ堕セズ。韻ハ青霄ヨリ出ズ、君ガ吹唱スルヲ任ズ。

「胡笳」というのは胡人ですね。北方民族・野蛮人のことでその連中が笛を吹くわけだ。ところがあの笛は音階に背いているそうですよ。

昔、沢木老僧がある所に講演に行ったそうですよ。そこでは講演の前に尺八を吹くんだそうですよ。その尺八が非常に気持ち良く、静まりかえって話もやりやすかったそうだ。そこで講演が終わったあとで、その尺八の演奏者の人たちに「今日の尺八は素晴らしかったですよ」と云ったそうだ。

そうしたら彼らが云うには「この頃の音楽界では私らの尺八を問題にしない」と。音階がないからだめだってさ。ドレミファソラシドの音階に当てはまらんそうだよ。それで音楽じゃないと笑われてバカにされると。

そういうことを聞いてまして、そこで和尚さっそく胡笳の五音には「吟曲不曾落五音」ということがありますから、ご心配なくと云ってやったと。

ですから、この偈を見るとその時のことを思い出すんですよ。音階というものはね、西洋音楽ではドレミファソラシドの八音でしょう。でもこればっかりが全てじゃありませんぜ。

―この間テープ欠けるー

これを称して枯木と云ったんだ。この枯木の絶対性を称して龍吟と表現したと取っていただきたい。従いまして、俺は徹夜して坐禅しておった。とうとう俺は絶対的な体験をした。何ともないというのが本当ですよ、これは。絶対的体験はある一時の興奮でしかすぎない。一時のある景色でしかすぎない。一度人間はそういう体験をすると、うれしくてしょうがないからね、嬉しかった事はなかなか忘れないものだよ。そうして何かあると嬉しかった物語を語るわけだ。今どうだと云うと、あの時の体験~。人間には記憶があるからよくない。それが普通の宗教的体験というものになる。神秘的経験とか、そんなとこになりますけどね。

この尽十方界真実というものは、あなたを喜ばせるものではない。感激させるものでもなんともない。私たちはそれに対して一向に感ずることはできない。この感ずる事ができない事を称して枯木と称したんだ。だから「枯木龍吟」というのは枯木であるというのが素晴らしい活動である。これを「龍吟」と表現した。必ずしも龍吟というのは音じゃありませんぜ。活動を称して「枯木裏の龍吟」と云ったんだ。

ですからして、「花枯木に開いて春心を帯ぶ」

仏教者という者は何処に気が付かなければならないか、どういう処に眼をつけなければならんか。この枯木に眼を開いていただきたい。枯木に眼を開く処に世界が開けてくるものだ。それが「花枯木に開いて春心を帯ぶ」という表現をしたんだ。私達は枯木ということに気がつき、そこに初めて私たちの人生に明るいものが生まれて来るわけだ。目や耳で見ようにも見えず聞くこともできない。感覚以前の問題だ。

そこで「宮商角羽同和の処」。この龍吟は五音なんていうものに左右されませんぜ、これは。そこでは皆な入っちまうんだ。宮も商も角もあったもんじゃなく、みんなそこで一緒くたんになっちまうんだ。同和の処。ケンカしませんぜ、これは。みなそこに収まっちまうんだ。今は宮だとか商だとか、そんなものありゃしない。

「此の引調、高し誰か敢えて侵さん」

これが全ての表現ですよ。枯木がもとですよ。枯木によって全てのものが支えられている。だから枯木は尽十方界真実人体というふうに解釈してもらうとわかる。この尽十方界の活動している処を称して同和の処と云ったんだ。

此の引調・音階だよ。非常に高尚だもの、宇宙いっぱいがそうだから。ですから誰か敢えて侵さん。だれもこいつをどうすることもできないよ。作ったものじゃないですから、自然のあり方ですから。それで此の引調高く誰か敢えて侵さんと云うんですね。

 

面山述賛 

述云、三十二相是枯木、六十四音是龍吟、了之回光則六凡四聖無分外底法、

賛言、一代時教、枯木龍吟、鴉鳴雀臊、總是梵音、機輪撥転上中下、言語道断古来今。

面山さんの生まれは1689年亡くなられたのが1769年の方で、正法眼蔵各巻に述賛というものを付けていらっしゃいます。読んでみましょう。

「述して云く、三十二相は是れ枯木、六十四音は是れ龍吟、之を了じて回光すれば、則ち六凡四聖分外底の法無し。賛に言く、一代の時教、枯木龍吟、鴉鳴雀臊、總て是れ梵音、機輪撥転す上中下、言語道断古来今。」

まづ「三十二相は是れ枯木」

三十二相八十種好と云いまして仏さんの人相のことですね。仏の姿を称して三十二相と云い、仏様の実態を称して八十種好と云ったと受け取ってください。これが「枯木」であります。こういうふうに面山さんは採ったんです。なかなか上手い表現をしたと思いますね。

それから六十四音と申しますのは、仏の声は六十四音あるそうです。つまり仏の表現を「枯木」であり「龍吟」であると云うことですね。

「之を了じて回光すれば則ち六凡四聖分外底の法無し」

之(枯木・龍吟)を了じて(理解して)回光(照らす)すれば、則ち六凡(六道)四聖(仏・菩薩・縁覚・声聞)分外底の法無し。こうなると皆「枯木」と「龍吟」の中に入ってしまうのね、これは。凡夫も枯木と龍吟の中に入ってしまいますぜ。

賛に言く。一代時教、枯木龍吟

お釈迦さまの一代で説かれた教えというものがあります。何を説かれたかと云うと、枯木龍吟以外説かれたものはなかったと云うことです。

概念の世界ですと「枯木龍吟」という感じは出て来ませんけどね。あの漢字がいっぱい羅列してあるものなんか見ても「枯木龍吟」なんて事は云ってませんぜ、これは。例えば倶舎論とか唯識のあれなんか。

沢木老僧が云ってましたよ。「ドウガクショ」(?)という36巻もの書があるものね。法隆寺の同級生が36巻の書を丸暗記しておったって云うものね。沢木老僧、法隆寺で正月は帰る寺がないものだから、憲道さんと云う法隆寺育ちの和尚は、その36巻もの「ドウガクショ」をよく覚えておったそうだ。丸暗記だもんな。正月の二月堂とか回る時その「ドウガクショ」を丸暗記で云うんだそうだ。実際呆れたそうだ、沢木老僧は。

しかし、この表現はいいでしょう。「一代時教、枯木龍吟」

「鴉鳴雀臊」鴉が鳴いたり、雀が臊(さわ)いだりするのも總て是れ梵音と云うことになる。

私が子供の頃、すぐ裏が東海道線でしたよ。時間の関係で汽車がひっきりなしで通過したもんですよ。振動が激しいんですよ、家がガタガタガタいう。普通の人は地震かと思うよ、地盤の関係です。人と話ができませんよ、これは。それが毎日年がら年中それを繰り返しておりますと、この振動がないと変になるのね。その振動のせいで胃袋が悪くなった人は一人もいないのね。生まれた時からこれ(振動)を梵音と聞いたらいいのね。自然の音調と聞いたら障りにならんでしょうね。私はこの總て梵音という処をいただきたい。

「機輪撥転上中下」

機輪とは真実の活動のことを云います。全てのものが真実の回転をしている(撥転)上中下と。

言語道断古来今

信心銘のことばを拝借したんだね。ことばで表現できないから言語道断で、古来今とは永遠ですから、永遠の真実はことばで以て表現できない。

要約しますと「枯木龍吟」ということは、言葉で以て表現出来るものではないと云う事になります。真実もことばで以て表現できない。ことばはただ讃嘆するだけで、讃嘆したところで実際に「枯木龍吟」は伝わるわけじゃありません。概念を超越してもらわないとならないと云うわけだな。

これが言語道断古来今ということですね。

 

これから本文に入ってまいります。

この「正法眼蔵第六十一」と申しますのは、先程も紹介しましたように七十五巻本の順序でございます。

舒州投子山慈済大師、因僧問、枯木裏還有龍吟也無。

師日、我道、髑髏裏有獅子吼

舒州というのは何処かと申しますと、安徽省安慶市懐寧県という処の寂住院という処に居りました。投子山という場所はそんなに不便な所でもないんですね。揚子江の近くですね、これは。この慈済大師は普通は投子大同(819―914)と呼ばれている人です。石頭希遷(700―790)から見ますと丹霞天然(739―824)・翠薇無学・投子大同となりますから曾孫に当たるんですね。

この投子大同に対し僧が質問しました。

「枯木裏還って龍吟有りや也(また)無しや」枯木には龍吟が有るだろうか無いだろうかと云う問題提起ですね、これは。

これに対して「我は道う、髑髏裏に獅子吼あり」髑髏はシャレコウベのことで、獅子吼とはお釈迦さまの説法を云い、第一義諦を獅子吼と受け取ってください。

シャレコウベの中に獅子吼があると云うと変な風に考えますぜ。この間ある所へ行きましたら、木材に詳しい和尚に会いましてね、説法聞いたよ。立派な本堂でしたよ。その和尚云うには、私の寺では欅は使っておりませんと。私らは欅が最高だと思ってましたが、その和尚が云うには欅は最高じゃありませんよと云うんだ。欅は20年位しか寿命がありませんと云うんだ。そこでは津軽のヒバを使うんだそうだ。津軽のヒバは半永久に使えるそうだ、はっきり知りませんけどね。ですから、その和尚の寺では安物の欅なんか使いませんとさ。

とにかく、全てのものには寿命がありますぜ。その寿命の事実を「枯木」と云ったんだ。宇宙の真実を称して「枯木」と云うんだ。「枯木」に花が咲いた所にいろんな様相があるんだ。この「枯木」に花が咲いた様相を「龍吟」と云ったんだ。

そこで本文に入ってまいりますと、

枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。

外道と云う者は理想主義ですぜ、みんな。必ず理想と云うものがありますよ。極点に向かって暴走させるのが外道ですぜ。外道の教祖は、自分で決め込んだ最高のものを持っていますよ。それを振り回すもんだから、そいつに騙されて一所懸命努力するようになる。

ですから、外道には尽十方界の真実はありませんし、個人の満足しかありません。外道と云うのは思想家と云ってもいいな。自家製の真実を持っている、これが外道やね。広い世界にありながら自分の部落を作って潜り込んでしまう。ちょうど貝殻みたいなもんだ。人間にはそういう風な貝殻的習癖がありますよ。それが外道ですよ。

しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。

外道の云う枯木と仏祖の云う枯木は違いますよ。彼ら(外道)の枯木は理想像だ。煩悩が起こって来ないような、すかっとした状態。私(得元老師)は見たことはなかったんですが、中国のお坊さんには断食することがあったのね。沢木老僧が昭和のはじめに中国のお寺をずーと歩き回りました。その時に大きな寺に行きますと、片隅に大きなカメがあったそうだよ。それから姿勢の悪い仏さんがあったそうだ。漆が塗ってあってね、金箔が押してあるんだそうだ。ところが、あんまり姿勢が悪く、このカメは何だと聞くと私(中国僧侶)が死んだらこのカメに入れてもらうんだってさ。カメに入れて三年経ってミイラに成っていたら成仏した証となり、こいうふうに棚に祀ってもらえるんだそうだ。私の成仏は「これですよ」と云ったのを聞いて、沢木老僧変な感じをしたそうだよ。ミイラ崇拝になっちまう、これは仏法じゃないよ。

いつの間にやら人間の情と云うものが暴走するわけだな。それが「枯木」じゃありませんぜ、これは。

仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし

次元が違います。

外道は枯木を談ずといへども枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや

同じように、「枯木」を談ずるけれども枯木を知らない。私たちの本来のあり方が龍吟だ。大自然の動き、尽十方界の真実が「龍吟」ですよ。

外道は枯木は朽木ならんとおもへり

これは朽ちた木だ。腐った木と思ってしまう。

不可逢春と学せり

だから春にならんとな。人間の理想主義というのは、こんな所にまで暴走するんですからね。世の中では人間を「万物の霊長」と云いますけど、どうかなー。他の動物なんかは着物を着んでもいいしさ、デパート行って買い物せんでもいいしさ、ちゃーんと天然自然に毛皮が備わっているものな。寝間着に着替えんでも、どこでも寝られることになっている。人間は彼らの毛皮を剥いて人間が着てるものね、ミンクは恨んでいるだろうなー。こないだ電車に乗ったら、首が付いたの有ったぜ。

仏祖道の枯木は海枯の参学なり。海枯は木枯なり、木枯は逢春なり。木の不動著は枯なり。いまの山木・海木・空木等、これ枯木なり。萌芽も枯木龍吟なり。百千万囲とあるも、枯木の児孫なり。

「海枯不尽底」海枯れて底を尽くさずと云う言葉があります。海はどんなに枯れても底を現わさないということですね、これは。これが「海枯」という意味だね。太平洋が枯れたらどうだい、おもしろかろうなー。

「海枯の参学」の「海」とは無限を表すのね、無量無辺を云う。永遠に変化しないことが「海枯」です。やり終えた、仕上げたと云う事はありませんぜ。

「海枯は木枯なり」の木が枯れるとはどういう事かと云うと、「逢春なり」と云うことだ。変なことばだな、これは。実際困るでしょう、道元さん頭がどうかしてるんじゃないか?と思うでしょう。海が枯れて木が枯れる、関係ないじゃないか、こう云いたい処だ。つまり、木の枯れるということも逢春も「海枯」の一ツの風景だと見て下さい。つまりこの「海」は無量無辺を云うわけだ。無量無辺の中には、あらゆる事がその中に含まれているよ。含まれていなかったら「海」じゃないもんな。

「海」を考えてごらん。「大海不宿死屍」・大海は死屍を宿さずと云う言葉があるな。私(得元老師)は最初こう思ったんだ。海岸に死骸が上がってるでしょう、海は死骸が嫌いだから海岸に打ち上げたんだと思っていたんですよ。ところが「大海」というのは、そういう意味じゃないのね、「大海」というのは塩水ばっかりじゃないね。魚も鯨も何もかもあの(大海)中に生きてるんですよ。ですから「海」と云うのは全体を称して「海」と言うのね。

私の知り合いがこんな事云うたことがある。鯨が脱糞しますとね、大変だってね。その周辺が物凄く汚れるんだってね。量が多いんだってね、そのはずだよ一トンぐらい食べるんだから。その知り合いが云うには鯨というのは養殖ができないよ、と云っとったよ。あのエサの賄いが出来ないそうだよ。やっぱりあの鯨というのは「大海」でないと生活できないそうだよ。

日本海では、鯨の養殖は無理でエサが足りないそうです。その人は海洋学の先生だったよ。海洋学というのは潮の流ればかりと思ってましたが、規模が大きいんだね。

とにかく「海」というものは、あらゆるものを含んでいるから「海」と云うんだね。そうすると「大海不宿死屍」と云う死骸が海の中に入ったら死骸でなくなるのね。魚も「海」だよ、海の中にいる間は。

そうすると「海枯は木枯なり」という事もわかってもらえるでしょう。つまり木が枯れるという事も「海枯」の一ツの風景ですよ。それから春に逢うという事も「木枯」の一ツの風景ですね。

「木の不動著は枯なり」

変なことばでしょう。「不動」ということに「著」が付きましたね。「著」は助辞ですから「木の不動」ということですね。「不動」というのは絶対的なと云うことで、「木」は「木」であると云う事を称して「枯」と云ったんだ。

「いまの山木・海木・空木等、これ枯木なり」

今度は「山木」と云いました。「山」・「海」・「空」これは「海枯」の風景ですね。だからして「木」という言葉で以て「山という事を表現すると「山木」になり、「海」を表現すると「海木」になる。「空」は青空で、これも「海枯」の一ツの風景ですから同格になり「木」になり、「これ枯木なり」

「萌芽も枯木龍吟なり」

「萌芽」というのも「木」ですからこう云ったんで、芽も動きますから「枯木龍吟」と云ったんだ、それぞれ変化しますから。

「百千万囲とあるも、枯木の児孫なり」

百千万囲というのは、我々をとり囲んでいる全てのものを云い、これらも「枯木」の一族でないものはない。だからこの「枯木」は枯れ木じゃありませんぜ。この段で一番大事なことは、「仏祖道の枯木は海枯の参学なり」です。

 

枯の相・性・体・力は仏祖道の枯樁なり、非枯樁なり

枯の相性体力これは「十如是」のことを云ったんですね。『法華経』に於いては「十如是」というものがあります。つまり「十如是」というのは真実のあり方を「十如是」ということですね。ここでは真実そのものを「枯」と云ったんだ。真実というものは永久に変わらないものですよ。全てのものに影響されません、そのことを「枯」と云ったんだ。枯れて「枯」になったんじゃなく、いつ枯れたというものではない。

「枯の相性体力は仏祖道の枯樁なり」の「枯樁」とは杭のことを云い、棒杭です。「枯」というもののいろんな姿があり、これを棒杭であったり棒杭でなかったりと、いろんなことがある。

 

山谷木あり、田里木あり。山谷木、よのなかに松柏と称ず。田里木、よのなかに人天と称ず。依根葉分布(根に依って葉分布す)、これを仏祖と称ず。本末須帰宗(本末須らく宗に帰すべし)、すなはち参学なり。

道元禅師の仏法は必ず両面を採ります。片方だけは決して採りません。プラスと云いましたら必ずマイナスも採ることになっている。仏法と云ったら非仏法だな、必ず云います。会仏法なら不会仏法と、必ずなきゃならない。と申しますのは紙を使うのもね、裏があってこそ必ず字が書ける。裏に支えられて表があり、表ばっかりの紙も裏ばっかりの紙もありゃしないでしょう。

ですから「枯樁・非枯樁」があるわけだ。これは大事なことですぜ、喜びばっかりじゃ困るぜ悲観することもなきゃ。腹が減ることもありゃ、満腹することもある。あの満腹というのはおもしろいね。腹が減るからいいのね、ありゃ。腹が減らんかったら気持ち悪いね。朝起きたら腹が減ってるでしょう。あの気持ちのいいことな。腹が減らんかったら、こんなに不愉快なことないもんな。

ところがある時、これが悲劇になることがあるでしょう、飯がない。次の飯が望めないと云うことになるとね、時々刻々悲しみが近づいてくるものな。腹の中がドンドン淋しくなる、皆さんもそういう立場になってごらん。人生おもしろいから。

これが「枯樁なり、非枯樁なり」

「枯木」にもいろんな「枯木」があります。世の中の表情を「枯木」と受け取ってください。悲しむという事も「枯木」の表情・喜ぶという事も「枯木」の表情・病気する事も「枯木」の表情・死ぬという事も「枯木」の表情と思ったらいいでしょうが。

それを次に「山谷木あり、田里木あり、山谷木よのなかに松柏と称ず」と。

山谷木というのは山の中の木でしょう、あるいは里のき。

「田里木よのなかに人天と称ず」

山の中には人間はいません、里の方には人間が居ますから。我々は「田里木」ですよ。

「根に依って葉分布す」

根は単なる根ではありません。根があって葉が繁茂しなかったら根じゃないものね、これは。その根というものが「枯木」ですよ。「枯木」が繁茂している。

「これを仏祖と称ず」

仏祖というのは開山堂のお位牌じゃありません。道元禅師の「仏祖」は全自己の「仏祖」という意味になりまして、宇宙の真実を称して、つまり尽十方界の真実を称して「仏祖」と云うわけだ。「仏祖」を修行するから「仏祖」になったんですぜ、これは。

「本末須らく宗に帰すべし、すなはち参学なり」

私たちの修行というものは、「枯木」を修行することです。この「枯木」の修行法は「只管打坐」ということになるわけだ。つまりこの「只管打坐」の修行というものは、あらゆる現象に捉われないで、「枯木」を修行することだ。尽十方界の真実を修行することだ。もっとはっきり云うならば、「身心脱落」を修行することだ。精神的なもんじゃありません。人間は精神活動が盛んですから、やる事なす事ということが先行しております。唯物論とか観念論とか云う意味じゃありませんぜ、これは。唯物論というのは人間が考えた一ツの論理、唯心論というのも人間が考えた一ツの論理の世界だよ。人間の性格によって考えたことだ。人間の考えというのは夫々の生活によって違いますからね。いつの間にやら、その生活が人間の性格をつくってますよ。だからね、お寺なんかで育つというと、観念論的になるよ。それから普通の生活では拝金主義になるね。いづれにしろ、如何なる思想であっても、その人の思考法によるわけだ、真実じゃありませんぜ、これは。結局は真実というものは、人間が考えたものじゃありませんからね。宇宙の真実というものは、人間が考えることじゃありません。私たちの眼の前にある事実、同時にここに生きてる事実、この全ての事実が尽十方界の真実です。この事実に対して私たちはお目にかかることはできないし、感ずることもできない。あの時、体験したすばらしい経験も一ツの表情にしかすぎない。お天気のようなもんだ。今日は素晴らしい日本晴れ。日本晴れも、ほんのわづかの様相だよ。雨が降ったら日本晴れも吹っ飛んじまうわ-。昨日の日本晴れ何処行った?知らねえな。

これが本当の「脱落」だ。これを修行することだ。人間は苦しい時には、苦しみが無くなるようにと願いを持つ事になってる。例外なしにさ。私はこれまで、苦しい時にはもっと苦しむようにとか、受験勉強してどうか不合格になりますようにとか、こんなお願いは聞いた事ないな、人間の習性としては。病気になったら、治りますようにと駆け回り猶更疲れる。大抵の病人は治す為に苦労するんで、ノイロ-ゼ患者がそうでしょう。治す為にますます病気が重篤になる。

 ―テ―プ欠―

「脱落」というのは物がなくなる事じゃないですぜ。間違ってもらっちゃ困りますぜ。私は「脱落」したから親が死んでも悲しくないとか、悲しいことが無くなり楽しいことばっかり、そんなのはどうかしてるよ。なかにはそんな事狙って、一所懸命に修行する人もありますよ。そういう修行すると頭の構造が変になってくるのね。異常状態になる。異常を「さとり」と心得るバカ者もあるわけだ。人間なるが故にだな、これは。なるほど人間というのはそんなものだ。そこでこの「枯木」ということをよく学んでいただきたい。

だからここでは「本末須べからく宗に帰すべし、すなはち参学すべし」こいう風に言葉をかえる。修行というものはこれです。「もとに帰る」ということだな。特別の状態になる事じゃありませんぜ。

かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。幾度逢春不変心(幾度か春に逢うて心を変せず)は、渾枯の龍吟なり。宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり

-提唱かわる-

「枯木」であるというは、一体どういう事であろうか。先ずこれを、はっきりとしていただきたい。「枯木」をはっきりしておかないと、この「龍吟」の巻はわからません。「枯木」とは木が枯れた事じゃございません。つまり「枯木」とは永久に変わらないものが「枯木」です。春になろうと秋になろうと、ちょっとも変わらない。夏になっても「枯木」冬になっても「枯木」。こいうのが「枯木」です。

実はこの巻の「枯木」は何を表したかと申しますと、「解脱」ということを「枯木」と言い換えたと受け取っていただきたい。「解脱」・「脱落」そのものですね。

要するに「枯木」とは尽十方界真実人体が「枯木」です。ですから「枯木」以外のものは世間にはないと云うことです。それを頭に入れて読んでいただくと、わかっていただけると思うんです。外道・二乗の連中が一所懸命努力して「解脱」するとか「脱落」するとか云いますと、人間否定で、乾物(ひもの)になることですよ。また自殺行為にもなりますよ。そういう行為は「仏法」じゃありませんぜ。私たちがこういう風に生きている事実には変わりありませんよ。例えば時が来れば腹が減り、風邪を引くこともある。風邪引くのも身体の「おつとめ」だな、仕方がない。不愉快と感ずることも、ガッカリすることも、喜ぶことも、全て避けることはできません。こういうことを『御抄』では「荘厳」と言ってますよ。おもしろい言葉ですね。お寺では本堂に幕を掛けるでしょう。本尊さんの前には御花を立てたり御供え物をしたりと、こういうのを「荘厳」と申します。「荘厳」とは実際の働きをすることですね。

これが私たちの宗旨です。ですから「さとり」というものは、人間が人為的に異常な状態を作り上げる事ではなかった、と云う事です。「灰身滅智」のように「枯木」を考えてはいけません。この「枯木」の活動は個人のものではございません。尽十方界真実の活動です。この様相を「龍吟」と云ったんです。「龍吟」の意は、龍が歌ったと云った小さな事じゃございませんよ、これは。宇宙全体の蠢きと云ったらいいかもしれない。これが「枯木裏龍吟」と云うことです。「龍吟」は「龍吟」として受け取ればいいのですが、いざ事があると表面上の波に引っ掻き回されて「龍吟」を忘れてしまう。これが人生であり凡夫という者だ。お釈迦様みたいな立派な人でも病気はしましたぜ。風邪も引いたでしょうね。お布施が少なかったら、がっかりしとったらしいから、私たちとちょっとも変わらないのね。

この人生上の全てのものを大切にしなければならない。苦しい事は苦しいまま、嬉しい時は嬉しいまま素直にいただくことが大事だ。これが「枯木龍吟」という意味にとっていただきたい。

「かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり」

これはどういう事を云ったかと申しますと、我々の眼の前にはいろいろな人間が居ります。大きいのも居れば小さいのも居る。人間ばかりじゃありません。一枚の紙があるとすれば、隣りには大きい机がある。こういうのを称して「長法身法身」と云うわけだ。

この世の中にあるいづれの物も、勝手に存在してる物はありませんぜ。みな尽十方界の真実として存在して居ります。

人間ばかりが尽十方界真実じゃ御座いません。リンゴ一ツでも尽十方界真実リンゴと云っていい。また尽十方界真実ノミと云ってもいいな。この頃はノミをあんまり見かけませんけどね。昔は棚経に行きますと、あちこちの家からノミをいただいてくるんですぜ。着物を玄関で脱がされ裸になり、それから中に入ったもんだよ。そりゃ大変でしたぜ、この頃はノミがいなくて淋しいですぜ。体中にノミの斑点がついていたもんですよ。それが当たり前でしてね。ついつい昔を懐かしんで、こんな話をしてしまいました。

「もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず」

みんな「枯木」で御座います。「枯木」は永久に変わらないという事ですから、尽十方界の真実を称して、これを「枯木」と云う。春になろうと秋になろうと、いろいろ様相はありましょうけど、尽十方界真実に於いては変わりがない。これを「枯木」と云うわけだ。その働きを「龍吟」と云うわけです。「龍吟」とは全てのもののあり方を「龍吟」と云います。

「幾度逢春不変心」

これは大梅法常禅師(752―839)のことですね。大梅さんが山の中に入ってしまって全然出て来なかった。それで塩官斉安(―842)の道場の雲水が杖を探しに行って、道に迷ってしまって山を出る道を見失ってしまった。その時に一人の和尚が坐禅してをり、どういうふうに山を下ればいいですかと尋ねると、大梅法常は知らないと云う。いままで山を下りた事がないから知らないと云う。雲水はさらに聞くと、大梅は「隋他去」と云ったそうで、更に雲水は大梅に向かって何年山居するかと聞くと、山の樹々が芽吹き、緑になり、枯れ落ちる光景を「幾度か春に逢うて心変わらず」と云う話です。

「この心を変ぜざる」状態が「渾枯の龍吟なり」。

渾枯と申しますのは、尽十方界が「枯木」であるという事を云ったわけだ。「渾枯」と申しますのは、この宇宙全体が「枯木龍吟」で御座います。「枯木龍吟」以外のものは何もなかったと云う意味です。

「宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり」

宮商角徴羽と云うのは中国の音階なんですね。西洋のドレミファソラシドが、中国ではこの五音になるわけだ。ここで「龍吟」と云うからには音として聞こえますから、こう表現したんです。「龍吟」と云うものは音階に填まりません。五音で処理するわけにはいきません。

義雲さんの頌の箇所でも云いましたが、洞山の『玄中銘』の句―胡笳の曲子は、五音に堕せず。韻は青霄より出づ、君が吹唱するを任す―を紹介しましたが、必ずしも音階に合わなかったら、音楽にならんと云う事はありませんぜ、これは。昔は日本の琴とか尺八とかは、音階に填まらないそうで、当時の演奏者は僻んでましたぜ、浪花節もそうやね。この頃はそういう事は云わなくなったそうです。本当の音楽は音階を超えたものでなければ、本物の音楽はありませんぜ、これは。

私らの処には声明というものがありますよね。あの声明も音階に表そうとして苦労している人がいるらしいね。あれはやっぱり音階じゃ表せないらしいですよ。私ら習う時にはね、個人と個人で習いまして、喉のここをこうするか、あ―するかが口伝らしいよ。今はすっかりご無沙汰だ。

この前同窓会がありまして賀茂川に行ったんです。(得元老師70歳の昭和55年頃)私が幹事やりましてね、世話人ですから行きましたよ。そうしたら唄歌えでしょう、わしゃ唄知らんもんな。皆歌うんだが、こちらだけは調子はずれだ。五音に堕せずと云うことになる。

「宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり」

つまり音階と云うものも「龍吟」の中に入ってしまうという事です。音階が全てじゃありませんよ、それを超えたものが「龍吟」と云う事です。この「龍吟の二三子」と云う表現なかなかいいでしょう。音楽家さん達は音階にばかり縛られてますけど、我々みたいに音階なしの唄を歌う、この方が本当だよ。そのかわり聞き手がないからね。

しかあるに、遮僧道の枯木裏還有龍吟也無は、無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり、話頭の現成なり

遮僧の遮は「這󠄀」と同じですよ。遮(こ)の僧の道う所の枯木裏に還(かえ)って龍吟有りや也(また)無しや。この僧が「枯木裏云々」を発明したかどうかはわかりませんが、「枯木の中にかえって龍吟があるでしょうか、ないでしょうか。」次に云う「無量劫のなかに」の「無量劫」ということが大事なんだ。「無量劫」とは永遠のことですね。この「劫」は時間のことですが、大変な時間ですよ。それが無量ですよ、無量無辺ということです。我々が測ることができない事が無量無辺です。私たちはどういう風に生きてるか、知らんもんね、これが無量無辺ですよ。お医者さんでも、人間がどういう風に生きてるかをご存じないでしょう。どういうわけで新陳代謝をやっているのか。胃袋がどうして塩酸を出してやっているのか、ご存じないと思うな。胃袋の塩酸とか膵臓インスリンは生理学の実験でわかりますけど、自分の体はどうにもならんもんね。これが本当の無量無辺と云う事です。大自然の絶対的を称して無量無辺と云ったんです。この絶対的なことに対してびっくりしないものな。私らがびっくりすると云うのはね、大きな建物にびっくりしたりさ。私はいつも新宿へ行ったら高い建物に感心しますよ。ところがあそこに行った時には感心するんですけど、駒沢から見ると、あ―あれかと思うぐらいでしょう。大した事ないね、あれ(高層建物)。我々は絶対的なものに対しては、何ともないと云うことやね。我々が神様の恩恵を蒙ったり、大変な恩寵を感じたりする、碌なことないね。何ともないと云うことが本当の御利益だな、これは。有難いということだ。これを忘れたらいけませんぜ。これが無量劫ということだ。漢和辞典で調べても「無量劫」はわかりませんよ。

「はじめて問頭に現成せり」

これは単なる起語←調べて下さい。じゃ御座いません。

「枯木裏」すばらしい言葉だな。「龍吟有りやまた無しや」と云いますけど、「ありやまたなしや」と云う疑問詞がおもしろいな、これは。疑問詞と云うのは、禅語では必ず疑問詞という事が当たり前になってますね。と云うのは全てのものを断定する事は許されないからだ。「龍吟」と云ったら「龍吟」しか頭に考えないでしょう。この「龍吟」は宇宙の動きを称して「龍吟」と云ったんですぜ、これは。普通の人が考えた「龍吟」とは違いますから。仕方がないからここで「龍吟有りやまた無しや」と云う疑問詞を使っている処に含み置きを願いたい。禅語の特徴と思って下さい。断定したらいけないんだ。ですから中国の禅宗が発展したのは、疑問詞で発展したんですね、これは。大乗仏教の論部の方にはこういう表現はありませんぜ。禅に於いて初めてこういう形態になったんです。

「無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり」

質問という形になって出て来たんだと。この質問という事が答えなんです。喩えて云いますと、「如何なるかこれ仏法の大意」と云うでしょう。仏法とは何ですか、と聞こえるでしょうが、ところが「如何なるかこれ仏法の大意」と云う事が、仏法の正体を云ってるんですよ、これは。単なる質問じゃありません。「いかなるか」は「いかなるも」と読んでもいいんですぜ。断定する事はできないから「いかなるか仏法の大意」ですよ。

それと同じで、「問頭」と云うのは仏法を最もよく表現したものです。ですから「問頭に現成せり」現成と云う言葉は、一体どういう言葉かと申しますと、いままで無かったものが現れるという事では御座いません。私らの「正法眼蔵」に於きましては、「現」と云うのは「生のまま」を「現」と云い、「成」とは生のままが完全と云う意で、私(得元老師)は「現成」とは「現実」というふうに解釈して居ります。

現実を眺めて見るときに、わかるものは何もありませんぜ、これは。みな「これは何だろうか」と見るのが本当のものの見方ですよ。はっきり知ませんぜ、言葉と云うものは不完全ですからね。ですから「活頭の現成なり」こう云う話になったと。いま一度「現成」とは、生きた真実であると。

「枯木裏かえって龍吟有りや無しや」

単なる言葉ですけど、これは生きた現実でありますから、「問頭に現成せり、活頭の現成なり」とこういうふうに云うわけです。

投子道の我道、髑髏裏有獅子吼は、有甚麼掩処なり。屈己推人也未休なり、髑髏遍野なり」

慈済大師の道場で、ある僧が「枯木裏かえって龍吟有りやまた無しや」と質問した。そこで投子が「我は道う」と云いますが、「枯木裏龍吟」の質問には答えていませんね。「髑髏裏に獅子吼有りシャレコウベの中に獅子吼がある」と答え、また「甚麼の掩処か有らん」を言葉を換えて云うならば、「何の隠される処があるだろうか」つまり「全部開けっ放しじゃないか」という意味です。この言葉はそっくりそのまま「枯木裏還有龍吟也無」を表現しているものです。これを「甚麼(なん)の掩処か有らん。」

「己を屈して人を推すや未休なり」

これは「おのれの他にまた人あるべからず」と云うことで、「一方を証すれば一方はくらし」(『御抄』「曹洞宗全書」注解二・一一四二上)と昔から註釈を加えて居ります。おのれを屈して人を推薦し、未だ休んだことがない。と申しますのは、何を云ったかと云いますと、「自己を主張しない」・「自分勝手な主張をしない」ことです。

「髑髏遍野なり」

「遍野」というのは「枯木」と同義語です。「髑髏」はシャレコウベのことで永久に変化しないもので、春になろうと夏になろうと、シャレコウベはシャレコウベ。つまり宇宙全体のことをシャレコウベ「髑髏」と云ったんです。「遍野」は尽界の意で、「髑髏」は「枯木」に置き換えただけの話です。

 

さて、それで昔の人たちが、こう云う問題を提起して居ります。

香厳寺襲燈大師、因僧問、如何是道。

師云、枯木裡龍吟。

僧日、不会。

師云、髑髏裏眼晴。

後有僧問石霜、如何是枯木裡龍吟。

霜云、猶帯喜在。

僧日、如何是髑髏裏眼晴。

霜云、猶帯識在。

又有僧問曹山、如何是枯木裡龍吟。

山日、血脈不断。

僧日、如何是髑髏裡眼晴。

山日、乾不尽。

僧日、未審、還有得聞者麼。

山日、尽大地未有一箇不聞。

僧日、未審、龍吟是何章句。

山日、也不知是何章句。

聞者皆喪。

香厳智閑(―898)に対して僧が問う、「いかなるかこれ道」。実際は答えを出しているんですぜ。それに対し香厳智閑、「枯木裡龍吟」と云ったんですね。僧は「不会」わかりませんと云った。これに対し香厳は「髑髏裏眼晴」と云ったんですね。

今度は後に僧あって石霜(807―888)に問うた、「いかなるかこれ枯木裡龍吟」。石霜云く、「なお喜びを帯ぶること在り」。僧が「いかなるかこれ髑髏裏眼晴」と云うと、石霜が「なお識を帯ぶること在り」。

それから今度は曹山(840―901)に問う、「いかなるかこれ枯木裡龍吟」と云ったら、曹山は「血脈不断」と申しました。僧が日く「いかなるかこれ髑髏裡眼晴」と云った時に、曹山は「乾不尽」と申しました。僧が日うには、「未審いぶかし、かえって得聞者有りや」聞く者が有るんでしょうか、と云ったら、曹山は「尽大地未だ一箇の不聞有らず」。僧日く「未審いぶかし、龍吟これ何の章句ぞ」曹山日く、「またこれ何の章句か知らず。聞く者皆喪す。」

  ―テープ欠―

尽十方界の真実と云うものは、「あ―わかった」と納得のいくもんじゃ御座いませんから、納得ができたらだめですぜ、これは。納得というものは、どういうものであるかを願いいただきたいんだ。納得というのは、自分にそういう思想があるんだ。その思想にぴったり合致した時に「あ―わかりました」と云うだろう。私もこういうふうに考えていました、だろう。宇宙の真実がそんな事で以て片づけられたら叶わんな。だから「不会」というのが正解ですよ、これは。そうなると、おもしろいですねこれは。学校の試験の時に「不会」と出したら、これ正解になるわけだな。落第一人もいなくなっちまうな。この「不会」わかりません、とは違うよ。答案書きとは違いますよ。

 

「後に僧有りて石霜に問う」この石霜という人は枯木堂で有名な人物ですね。この石霜に問うた。「如何是枯木裡龍吟」、石霜が云うには「なお喜びを帯ぶること在り」。これは何を云ったかと申しますと、「枯木というものも単なる枯木じゃなく喜びもあるぜ」と云い、次に云う「如何是髑髏裏眼晴」と云いますと、「なお識を帯ぶること在り」。何故こんな事云ったかと申しますと、先程「枯木」というものは尽十方界真実を称して「枯木」と云ったと、永久に変わらないものが宇宙の真実で、永久に変わらないものを「枯木」と云ったと。我々から云いますと、私たちの体というものは尽十方界真実人体で御座います。人生にはいろんな事があります。どんな事があっても尽十方界真実人体を超えることは出来ませんぜ、その中でやってるんだ。

この頃では宇宙にロケットを打ち上げてるでしょう。そうすると、人間の能力を超えたように思うけど超えては居りません。人間が考えたことなんです。つまり人間の生命活動の中であんな(宇宙探査)ことやってるんだ。尽十方界真実人体を飛び越えることは出来ませんぜ。錯覚を起こしたらいけませんぜ。尽十方界真実人体の中の風景ですぜ。その事を「なお喜びを帯する在り」と申します。

それから「如何是髑髏裏眼晴」

シャレコウベの中の眼玉。この眼玉という事が「龍吟」と同じやね。これは何を云ったかと申しますと、「枯木」のあり方を「龍吟」と云う、こう私は解釈いたしました。「枯木」の表情だな。この「髑髏裏の眼晴」はこのようにとって頂きたい。

必ずしも眼玉(眼晴)というわけじゃ御座いません。つまりこの髑髏というもので、人間は生活して居りますよ。髑髏を離れては人間は有りませんもんね。この髑髏が尽十方界真実人体ということになります。あらゆる事が髑髏裏のなかで活動して居ります。今の宇宙ロケットだって髑髏裏の活動ですよ。その活動の状態を称して「髑髏裏の眼晴」と云ったわけで、そうして石霜は「なお識を帯すること在り」・意識があるのは、そこから来たんだと。どんなに私たちが分別判断しようと大した事ありません。尽十方界真実人体の様相でしか過ぎない。これを超えるわけにはいかないと云う意味です。

今度は「又僧、曹山に問う」

この曹山という人物は曹山本寂です。この人が曹洞宗に於ける処の元はこの曹山ですね。この人が洞上五位説というものを創っています。洞山から五位顕訣というものを戴いて、曹山が普及させたと云う事になって居りますけれども、洞山には大勢のお弟子さん(法嗣二六人)が居りますけれども、他のお弟子さんには一人も取り扱って居りませんから、この五位顕訣は曹山が発明したものでしょうね。この五位説が当時の流行に乗りまして、宋の時代には盛んにもてはやされた訳だ、大変便利だから。それで五位説にあだ名が付いちゃった、曹洞(そうどう)と云うあだ名が。曹洞宗というのは五位宗のことですね、これは。その元祖がこの曹山という人。曹山という人は他の人と違いまして、非常に学問的な人だった、概念的な人だった。それが他のお弟子さん達と違うんですね、哲学的な人物です。こういう人物ですから、あういう五位説を創ったと見た方がいいかも知れない。

「如何なるか是れ枯木裡の龍吟」

これに対し曹山は「血脈不断」と云いました。「血脈」と申しますと、お寺には「血脈」というものがあります。これはお釈迦様から伝わった名前が書いてあるんですよ。これを普通は「血脈」と云いますけど、ここでの「血脈」はそんな事ではないのね、これは。

「血脈不断」と申しますのは、「枯木裡龍吟」と云うものは永久に変わらないと云う事ですから「血脈不断」と云うわけだ。云うならば仏が「血脈」である。仏祖が「血脈」である、と云うふうに取ったらいいかな。その正体は「枯木裡龍吟」と云う事が、「仏」であり「祖」である。永久に変わらないものですから「血脈不断」とこう云った。

「如何なるか是れ髑髏裡の眼晴 曹山が云う乾不尽」

「乾不尽」という事は乾れる事でしょう。乾れても尽くさないと云う事やね。先程私は「海枯れて底を尽さず」と云いました。無量無辺を海と云いました。ここでは「髑髏裡の眼晴」に対して「乾不尽」と云いました。これは「海が枯れても枯れ尽くす事はない」と云う無限を云うわけです。何故かと申しますと「髑髏裡の眼晴」だ。髑髏裡というものが、尽十方界真実人体をこう表現したわけだ。髑髏ですから人情も何もありませんし、人間的損得勘定もありません。これを「枯木」と同義語で取り扱ったんです。ここでは永久に変化しないものを「乾不尽」と云ったわけです。

「僧日く、未審(いぶかし)還(かえって)得聞者有り麼」

僧の問いは枯木裡龍吟に対しては血脈不断。髑髏裡眼晴に対しては乾不尽と、「龍吟」であるからには声を出すものであるという概念があるので、龍が吟ずるのを得聞者・聞く者は有りやと聞いたわけです。

そこで曹山は「尽大地一箇の不聞者未だ有らず」

龍吟の声を聞かない者は一人もいないと。何を云っているかと申しますと、この世に存在しているものは全て「龍吟」であると。これを「一箇の不聞者未だ有らず。」音があるから聞くんじゃありません。存在している事が真実を聞いている、と云う事です。私たちが呼吸しているのも尽十方界の真実を呼吸してるんです。ノミ一匹にしろ尽十方界真実がノミたらしめているんですよ。聞くというのは、耳で聞くばっかりじゃありませんぜ、これは。

そこで僧は「いぶかし(未審)、龍吟是れ何の章句ぞ」

「龍吟」は何を云ってるんでしょうかという事で、そこで曹山が云うには「也(また)是れ何の章句ぞ知らず」何を云ってるかわからないと。いちいち言葉で云ってるわけじゃなく、呼吸をしている事実が「聞いている事」ですよ、これは。ノミが跳ねることも「聞いている事」です。「聞く者皆喪す」の「喪」という事は全てのものが龍吟以外のものはありません。と云う事は全てが「龍吟」ですから聞くことは出来ない事を「喪」と云ったんです。

いま擬道する聞者吟者は、吟龍吟者に不斉なり。この曲調は龍吟なり

「擬道する聞者」の「擬道」は云おうとしている、「聞者」聞く人、あるいは「吟者」うたう人は、「吟龍吟者に不斉」吟龍吟者とは違い、「曲調は龍吟なり」ですが、これは何を云ったかと申しますと、聞者という者も質問するという事も「吟龍」ですね。ただ姿が違っているから、「吟龍吟者n不斉なり」と云ったんだな。しかし違ってはいますが、龍吟の表情としての曲調でしかありません。全てのものが「龍吟」の様相である。

枯木裡・髑髏裡、これ内外にあらず、自他にあらず。而今而古なり。

「枯木裡」ということ、あるいは「髑髏裡」ということ。この裡(うち)と云う言葉がありますけれども、この裡には内も外も御座いません。尽十方界のことを「枯木裡」と云い、「髑髏裡」も尽十方界のことを云ったものです。ですから「内外にあらず」。俺だお前だという事はありません、ですから「自他にあらず」。「而今而古」は恒古恒今・古(いにしえ)に恒(わた)り、今に恒る。永遠っということやね。

猶帯喜在はさらに頭角生なり、猶帯識在は皮膚脱落尽なり。

これはどういう事かと云いますと、「猶喜びを帯する在り」これは尽十方界真実の世界には、いろんな現象が御座います。お天気がそうでしょう。お天気と云いましても雨の降る日もあるし、寒い日もあるし、大風の吹く日もあります。春もあるし秋もある。こいう事が「なお喜びを帯すること在り」でしょうね。「頭角生なり」・『御抄』では「荘厳功徳」と云ってますね。枯木龍吟の上の荘厳功徳とは綾模様と云っていい。私たちの人生と云いましても、ただ飯を食ってるんじゃありませんぜ。食事と食事の間にもいろんな事がありますぜ、これは。本読んだり新聞見たり、井戸端会議を開いたりと様々なことをやってましょう。河の流れで云うと水面にいろいろと模様があるのは当たり前でしょう。その模様は河を塞いだりはしませんよ。お構いなく河は流れ続けて居りますよ。河の流れそのものを「解脱」と云うわけだ。「解脱」と云う事になる。ですからその中の感情に引っ張り回されない事ですね。大抵の人はそれ(感情)が人生の全てと思ってる。ですから、そういう人たちには「解脱」とか「身心脱落」というものは、わかっちゃもらえませんね。「身心脱落」とか「解脱」を一ツの心境のように考える、大きな間違いですよ。「なりゃ」しませんぜ、「なった」のは演出してるよ。タバコ飲んだようなものだな。

「猶帯識在は皮膚脱落尽なり」

いま申しましたように、河の表面にはいろんな模様があります。模様があっても「枯木」というもの「髑髏」というものを左右するものではありません。「髑髏」も「枯木」も相変わらずやって居ります。そのことを「皮膚脱落尽」と云ったんです。私らは着眼点を換えて見るというのが大事だな。私たちが坐禅するのは心境を作ることじゃありませんぜ、尽十方界真実人体を修行することです。尽十方界真実人体を実践することで、一寸坐れば一寸の仏と云い、日常の行為を棚上げした姿が坐禅です。どんな事が浮かんでこようが、手足を動かしませんから仕事はしませんぜ。私らの人生は頭の中に浮かんで来なかったら何にもしませんよ。思い出すから手足を動かし台所に行き、つまみ食いやるわけだ。自然に思い出す、おもしろいね。頭を振って思い出すもんじゃないものね、自然と思いが涌いて来る。そこに人間の生活が始まり、失望・落胆というものが出て来るんだ。そこが人生の荘厳というものだな。失望・落胆は人生の飾り物で、必ずあるものですからね、ご承知おき願いたい。それが「猶帯識在は皮膚脱落尽なり」ということです。

先程は「猶識を帯する在りは皮膚脱落尽なり」・解脱の事を云ったんですね。我々はいろんな儀式をして居りますが、全て「脱落」に於いてやっている。そういう事を「皮膚脱落尽」と云う表現をしたわけです。何を云ったかと申しますと、我々の人生というものは、皆「脱落尽」という事を云っているわけですね。

人生の一大事という事もありましょうが、決して一大事ではないんです。尽十方界真実の中でやってる事に過ぎませんから、心配しなくてもいいと云うのが「脱落尽」で、いろんな出来事が人生上では有りますが、尽十方界真実の風景・様相ですから、様相に振り回されたらいけない。

人間苦しい時には苦しさが無くなるように、病気の時には治りますようにと祈願しますが、これも一種の風景でして、病気は自然に治るもので治らなかったら死ぬだけですから、心配しなくていい。死も避ける事は出来ませんぜ。死んだ時には悲しい顔してお悔やみ申し上げる、冬の寒い時には綿入れを着る、これが風景です。夏の暑い時に綿入れを着、お悔やみの時にゲラゲラ笑ったら変ですぜ。これを総称して「皮膚脱落尽」という事です。

曹山道の血脈不断は、道不諱なり、語脈裏転身なり

「道不諱」の諱は忌み嫌うの「諱」です。「道」は「血脈不断」を指しますから、血脈不断を「嫌っても仕方ない」とのこと。つまり「血脈不断」と申しますのは、皆さんがこういうふうに生きていらっしゃる事が「血脈」です。尽十方界真実人体として生きている事が「血脈」で御座います。

「語脈裏転身なり」とは、「枯木裡龍吟」と云う事と「髑髏裏眼晴」という事です。この言葉で以てこの言葉の中で全てをやって居ります。それを「語脈裏転身」と云います。

乾不尽は海枯不尽底なり、不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり

乾いても乾いても尽きる事は出来ませんぜ、海がそうですからね。その事を「海枯不尽底」なり。この「海」は太平洋の海を云ったんじゃありませんぜ。この宇宙の事実を称して「海」と云ったんだ。「不尽底なり」尽くす事は出来ませんぜ。「不尽是乾」・絶対に乾くという事はないですぜ。と云うのは「枯木裡龍吟」という事は永久に無くなる事では御座いません。我々は「龍吟」をやって居ります。毎日朝から晩まで「龍吟」をやって居ります。腹が減っては「龍吟」、失望しても「龍吟」。ですから「乾上又乾なり」・何処までも続けて居ります。云いますと何処までも「龍吟」であります。乾き尽きる事はありません。ですから俺はもう「悟ったから」もう悩む事はないと云うバカな事はありません。いつまで経っても悩み続けます。喜ぶ事も失望する事もある。これらは「枯木の荘厳道具」ですから。

聞者ありやと道著せるは、不得者ありやといふがごとし。

「龍吟」を耳で聞いた事があるかと云うは、得る者はないと云う意で、何から何までも「龍吟」で御座います。朝から晩まで「龍吟」尽くしですから「不得者」・つまり聞いた事がない、と云う事です。「龍吟」は耳に届くばかりじゃありませんよ。我々の生きてる事も「龍吟」です。空気が有るという事実も「龍吟」です。全てが「龍吟」ですから特別の体験は有りませんぜ。仏法というものには特殊な体験・経験は有りませんぜ。絶対的な体験、そんなものはお前さんが思った事で、ノボセタだけの話だ。ノボセも一時的な事で、すぐに熱が冷めますよ。熱が冷めたら昔の事を思い出し悦に入るわけだ。そこが臨済の禅との違いで、よく心得ていただきたい。

尽大地未有一箇不聞は、さらに問著すべし、未有一箇不聞はしばらくおく、未有尽大地時、龍吟在甚処、速道速道。

甚大地とは尽十方世界のことで単なる空間を云うものではなく、全てが活動しています。これを「未有一箇不聞」と云うわけです。「さらに問著すべし」・問著は聞くと云う事ですけど、ここでは「問題にしなさい」との意で、「未だ一箇不聞は有らず」はしばらく置いて、「未だ尽大地有らざる時」・尽大地は尽十方界ですから、尽十方界が無くなる事はありません。「龍吟甚麼の処にか在る」・どこにも龍吟はあります。全て龍吟ばかりですよ。これを「甚(なん)の処にか在る」・特定された場所ではありませんから、「どこにでも在る」。

「速道速道」とは「さあ云え」との事ですが、念押しの言句です。何を云ったのかと云うと、仏の世界は特別の世界ではないという事だ。この現実世界が諸相実相で御座います。この事実が真実そのものです。その事をこう云ったわけだ。つまり「正法眼蔵の成仏」と云う事は、世の中が変わる事では御座いません。現実そのものが「成仏」ですよ。これが大乗仏教の極意というものです。

未審、龍吟是何章句は、為問すべし、龍吟はおのれづから泥裡の作声挙拈なり、鼻孔裏の出気なり。

「龍吟」は一体何を云ってるのかね、「為問」すべし」質問しなさい。

  (龍吟はおのれづから泥裡の作声挙拈なり)←聞き取れず

「鼻孔裏の出気」とは、鼻の孔(あな)から息を吐き出している。この呼気が「龍吟」です。皆さん生きていらっしゃる、その事が「龍吟」で御座います。「鼻孔裏の出気」というのは人間だけじゃありませんぜ、猫だって犬だって魚だってやってますぜ、みんな。この生きてる表情が「鼻孔裏の出気」です。これが「龍吟」と云うことだ。

也不知、是何章句は、章句裏有龍なり

「也(また)知らず、是(これ)何の章句ぞ」・言葉と云うのは人間世界の約束事でしてね、約束事ですから人種が違えば言葉が違うのは当たり前でしょう。生活が違うから言葉も違ってくる。ですからインドの言葉が、そっくりそのまま中国語に訳されるわけにはいきませんぜ、これは。中国人が夢にも見たことないような事が、インドにもある。またインド人からすると、中国人が使っている言葉がインドにはない事もありますよ。「章句裏有龍なり」・章句は表現ですね。その表現の中には龍がある。

聞者皆喪は、可惜許なり。

「聞者皆喪」は「聞くという事は皆(全部)亡くなってしまう」と。聞くというのは耳で聞くばかりではなく、眼で聞き、皮膚で聞いてますぜ。そういうように「龍吟」は耳で聞くものじゃ御座いません。そういう事を「聞者皆喪」と云うわけだ。「可惜許なり」・惜しい事だの意で、「龍吟」を聞く事はないから、惜しいことだ。

いま香厳・石霜・曹山等の龍吟来、くもをなし水をなす。不道道、不道眼晴髑髏、只是龍吟の千曲万曲なり。

いま古則公安をやりました。香厳のことば・石霜のことば・曹山のことば、三人の言葉を吟味して参りました。三人の言葉は性格により違って居りますけども、みな「龍吟来」に於いては変わりありません。それぞれの個性によって表現しました。つまり、この「龍吟来」というのは「雲をなし水をなす」・つまり雲水という自然活動だ。「不道道」は「不道」ということばと「道」ということばで以て表す。つまり「龍吟来」という事は音が聞こえる場合と、聞こえない場合があります。道の場合・不道の場合がありますからして。

同時に「不道眼晴髑髏」・シャレコウベのひとみは永久に道(い)わないですよ。この道わない事が「龍吟」をやってますよ。「只是龍吟の千曲万曲なり」・「龍吟」にはいろんな・あらゆる表現があります。これを「千曲万曲」と云うんですね。シャレコウベも白いものも欠けたのもあります。私は向こうに居りました時、昭和二十二年でしたかね、引き上げの間際になりましてね。まあ、あの時ぐらい日本人がよく死んだ時はなかったね。お医者がいないし薬がないでしょう、病気で死んじゃうんですよ。ところがね、葬式をする方法がない。仕方がないから山に置いてきたんです。ボロに包んでね、置いてきました。二十二年の暮れでしたけども、二十三年の秋にそこへ行って来ましたよ。そうしたらね、累々として有るんですよ、みんなね。シャレコウベが全部転がってます。その時に初めて知りましたね、シャレコウベってこんな格好してるんだって、直々手に取った事ありませんからね。そうしたら歯がみんな無いのね、死ぬとこういう風になるんだって事を。男か女かの区別はね、髪の毛がその辺にあるかどうかでしたね。何だか可哀そうな気がしましてね、お経を挙げてきましたけどね。白骨が山ほど有りましたぜ。こんな事も「龍吟の千曲万曲」という事になりますね。

猶帯喜在也蝦蟇啼、猶帯識在也蚯蚓  

「喜びを帯びる」とはどういう事かと申しますと、「枯木」は単なる枯れ木じゃ御座いません。そこに、いろんな風景があります。「蝦蟇」というのは「がまがえる」の事ですね。がまがえるが啼くと云うのも「枯木」の鳴き声ですね。あるいは「髑髏の龍吟」かも知れませんね。それから「猶識を帯する在り、也(また)蚯蚓鳴なり」・識というのは識別・意識ですね。この意識活動も蚯蚓みみずが鳴いているのと同じだ。私はまだ蚯蚓が鳴くのは聞いた事ないけどね。皆さん、聞いた事ありますか。おそらく聞いた事ないだろうな。

これによりて血脈不断なり、葫蘆嗣葫蘆なり。乾不尽のゆゑに、露柱懐胎なり、燈籠対燈籠なり。

これらは皆、尽十方界真実の姿ですから「血脈不断」と云ったわけだ。「葫蘆」と云うのはカヤですね。葫蘆はどこまでも葫蘆で御座います。去年もそこにカヤが生えて居った。今年もカヤが生えて居った。「乾不尽のゆゑに」・乾れる事はありませんね、これは。いつまで経っても生えて居るのを「乾不尽」と云ったんです。「露柱懐胎」と云う事は、ここに柱がありますね、外に出て居りますから「露柱」と云うんですね。この露柱が子供を孕むと云うと、この言葉は現実じゃ御座いません。これは禅語ですね。「露柱懐胎」と同義語で「石女夜生児」と云う言葉もありますね。また「石の上に華を植える」・そんなバカな事できますか。と云う事が「露柱懐胎」と云う事だ。つまり何を云ったかと申しますと、人間の常識で解決はできません。私たちだけが了解すると云う事が真実じゃ御座いません。我々は眼で確認して安心して居りますけれども、それだけで尽十方界の真実を尽くす事はできません。そこで「露柱懐胎」と云う言葉があるんです。「燈籠対燈籠」・燈籠は相も変わらず燈籠をやって居ります。我々が理解しようとしまいが石燈籠のままです。燈籠はいろんな影響は受けません。雨が降ろうと風が吹こうと燈籠をやって居ります。この事を「燈籠対燈籠」と云うわけだ。つまり「枯木」の姿には変わりがない。「龍吟」に於いては変わりはない、と云う事を云ってるわけです。

正法眼蔵第六十一。この六十一というのは七十五巻本の順序の六十一巻目です。

この時、寛元元年癸卯十二月二十五日。1242年です

禅師峰(ぜんじぶ)・これは勝山の付近ですね、今でもあります。

弘安二年と云いますと1279年・永平寺の於いて之を書写すと云うのは、懐奘禅師がお書きになったと思います。1280年に懐奘禅師は亡くなって居ります。亡くなる一年前の書写ですね。弘安二年三月五日永平寺に於いて之を書写す。

 

この提唱録は数年前に横浜の方より譲り受けたテープをもとに、自身の勉学用に作成したものであり、文中に於ける字句は正確さを欠くものと思われるが、御容赦願いたい。

 

酒井得元 坐禅箴 提唱

    坐禅箴 提唱 昭和49年5月24日 

宗門の道元禅師の坐禅が「どうあらねばならないか」と云う事が一番はっきりと言われているのがこの「坐禅箴」の巻です。坐禅箴の次は内容を補足する形式で「海印三昧」と続き、まことに具合よく配列され有難いことです。

それでは本文に入ってまいります。

 

    一段 薬山の非思量

薬山弘道大師、坐次有僧問、兀兀地思量什麽。師云、思量箇不思量底。僧云、不思量底如何思量。師云、非思量

大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし。兀坐正伝すべし、兀座坐の仏道につたはれる参究なり。兀兀地の思量、ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり

薬山弘道大師という方は薬山惟儼(745―828)禅師ですね。薬山禅師という人は宗門に於いては非常に重要な方で、この人は山西省の山の中の人なんですね。ここは不便な所なんですね、十七歳の時に広東省の潮陽の慧照禅師により得度いたしまして、それから禅をやり始めて湖南省の石頭希遷(700―790)禅師の所へ行き参門したわけです。その時の薬山は石頭に「三乗十二分教ほぼ知る。ここで禅を勉強したい」と頼むと、石頭は相手にせず云うには「江西の馬祖道一(709―788)の所へ行きなさい」と云った。その時の言葉が「蚊子の鉄牛に登れるが如し」と云ったそうです。蚊が鉄の牛に針を刺したが歯が立たないとの事です。

薬山は江西馬祖の所に三年ちかく居ったんですかね。馬祖は薬山に対し絶賛して居りますね。それから薬山は馬祖の道場で侍者を努めて居りました。

いよいよ嗣法の段になりまして馬祖が云うには、「おまえの本当の師匠は私(馬祖)じゃない、本当の師匠は石頭希遷だから石頭の所に行きなさい」と云いました。その時薬山は変な顔をしたそうです。

これは大切な事なんですね。実際の指導は馬祖から受けましたが、しかしながら師匠が直接教育しないで他所(馬祖)に預けたという事に大変な意味があるんですね。

薬山が馬祖の所で最初に云った「蚊子の鉄牛に登れるが如し」という事が本当の嗣法だから、石頭希遷の所に帰りなさいと馬祖道一から云われます。これは何を云ったかというと、薬山が石頭の所での最初に云った「蚊子の鉄牛」がそのまま三年後の石頭の於いても同じ「蚊子の鉄牛」が機縁となり、最初と最後の言葉が同じであることが重要なんです。

馬祖の道場を辞して後は石頭の道場で努めましたが、石頭山から薬山に移ったわけです。薬山という山は芍薬山と云ってもいいそうですね。薬草の山だそうですよ。場所は江西省で、揚子江の沿岸なんですね。

薬山が山に居りました時、地方長官の李翺嚮という人が来参しましたが薬山は読経の最中で、自分を取り合ってくれない事に腹を立て出て行こうとした時、読経が終わりまして李翺嚮は薬山の威厳に満ちた相貌に感服し三拝したそうです。その時のことばが「練得身形似鶴形」(身形を練(ね)り得て鶴形に似たり)と云ったそうです。李翺嚮の評は薬山を鶴に喩えての絶賛です。そのあとは李長官は薬山のパトロン(経済的後援者)になったといった逸話の多い薬山惟儼です。

 

この度は「坐禅箴」の巻に入ってまいりました。ずーっと、この眼蔵会は七十五巻本の順序によりまして、一番最初にこちら様で「現成公案」をやったはずで御座います。今回は十二番目の「坐禅箴」になりました。

この和尚の特に有名な話が「非思量」の話頭です。この「非思量」という言葉は薬山禅師から始まるんですが、この因縁談がこの則です。

薬山弘道大師、坐の次いで僧ありて問う、

兀々地什麼(なに)をか思量す。

師いわく、箇の不思量底を思量す。

僧いわく、不思量底、如何(いかん)が思量。

師いわく、非思量。

これは実に愉快な問答なんですが、返り点のない方がいいんです。

「兀々地思量什麼(ソモ)」となりますね。道元禅師の眼蔵解釈からしますと、この「什麼」ナニがないと眼蔵が成り立たないんですね。ナニと申しますのは質問の言葉じゃないんです。我々はうっかり「何々」と云いますが、ナニで良いんですね。普通このナニは理解できないからナニと云いますが、すでに気が付いているのね。このナニには限定的意味合いを持っていないわけでしょう。はっきり云う事は出来ないでしょう。それでいいんですね、本当は。すべては什麼なんです。私は底抜けの事実と云うんですよ。万法がナニですよ。

ですから質問の意味じゃなくて、本人は立派な答えを出してるんですよ。道元禅師の宗門には質問はないんです。臨済宗あたりでは擬団と云うものがありまして、大擬団を以て坐禅をし、大擬団を解決するとなってますけど、道元禅師の宗旨には絶対そういう事はないわけだ。

ではこの「僧が問う」となってますから、疑問詞じゃないかと思われるでしょうが、疑問じゃないんです。我々の頭は「不信に思う」と云う事は当たり前なんだ。我々の「わかった」と云うのは言葉の上で「わかった」だけですからね。本当に「わかった」んじゃありませんよ。

と云うのは、私たちは言葉の習慣を持ちましてね、この時にはこういう風にするという事がちゃんと決まってるんですよ。言語的習慣がありましてね、お経だってそうでしょう。途中で読み方を間違ったり発音を間違えると、あんまりいい感じはしないものね、それでわかるでしょうが。いつもの習慣通りで読み方をすると、非常に心安い思いがする。他の響きをされると場違いな感じがするものね。大抵の人間の相違の違いはそれぐらいですよ。どっち向いても構わないんですが、自分の習慣に従うと安気ですね。実はこれは「わかった」んじゃないんだ。言葉の辻褄が上手く合っただけなんです。

数学がそうでしょう。1+1=3ですが、私らの所では百でも千でもと幾つにでもなる。本当はそうなるんですよ。3になるなんて決まっちゃいないんですから。ところが、こいいう風に1+1=3と決めちゃっているわけですから、1+1=百じゃ満足しません。つまり納得とはこいいう事だ。

ところが大自然というものは論理がありませんよ。学問を過信しちゃいけませんぜ。私らも学問の限界がよくわかりましてね。学問も信用しませんよ。自然というものには合理・不合理がないんですよ。学問の世界に居りますと矛盾がありますが、この世の中・宇宙には矛盾がないんだ。人間世界には顔を見るのも嫌だという事がありますが、大自然の青空も元にはそんな事全然ないものね。吉良上野と四十七士が同じように見えるのね。見えるんじゃない、同じように取り扱います。ですから吉良上野だって青天井の元では大手を振って歩けますね。ところが四十七士の前へ行くと困るものね。ところが上(大自然)の方では平気で取り扱っている、助かるじゃないか。

大自然には論理も矛盾もない。人間世界でも「納得」がいったら大間違い。宗教の世界は人間世界を離れて絶対世界へ行きますから、人間世界では矛盾であっても構わないんです。そこに本当の道がある。

この「什麼」・ナニというのが本当の道なんです。本当の信仰という事になりますと、自分の納得がいく・いかんの問題じゃありませんよ。親鸞聖人がね、上手いこと言ってるでしょうが。「善き人の薦めによって念仏を称えることになった」とね。親鸞さんは法然さんに教えて貰って念仏を称えるようになったと。ところが念仏を称えた結果が、どうなるかこうなるか、そんな事どうでもいいとね。「地獄行きにてもありなん、極楽行きにてもありなん、存知せられなり」(『歎異抄』第二章)と言ってますね。この境地は素晴らしいね、あそこまで行くと。

仏法というものはそういうものなんだ。坐禅して、とうとう俺は悟った矢でも鉄砲でも持って来い、なんて云うのは大きな間違いで、底が無いのが本当なんだ。俺はもう迷わないと云うのが迷ってる証拠なんだから。こういう事を越えた所でないと本物じゃない。

坐禅を仕上げてしまったから俺はもう坐禅はいらん、そういうお粗末じゃ困るんだ。そんなのは自己陶酔に落ちたか、自己欺瞞に陥ってるかですよ。

我々の安心というものは「ナニ」という事なんです。無限の底だ、解決なし。この解決なしという坐禅ですよ。

ですから道元禅師の坐禅を学ぶには、この「坐禅箴」の初めのことばを御覧いただきたい。

「兀々地」というのは、我々の本来の姿をゴツゴッチと云うんですよ。つまり坐禅した姿、手を組み足を組んだ姿、これが大事なんですね。坐禅で一番大切なことは、坐ってからじゃなしに坐るという事が大切なんです。

坐るという事は自己を放棄した姿です。我々は坐りませんと、自己を放棄する事が出来ない。我々の自己というものは朝から晩までどういう事かと云うと、

寝てる時は生活じゃないですからね、その時には地位も名誉も財産も何もないんだから、関係ないでしょう。金庫の中に入れとかなくちゃ、盗まれてもわかりませんものね。寝顔は万国共通ですよ、勲一等であろうが寝てる時には何の価値もないですよ。勲章があるとよく寝られる、そんな事ないよ。

お酒を飲むとよく寝られると云いますが、私(酒井老師)には心臓がドキドキして駄目なんです。大乗寺の清水浩龍老師(昭和43年から昭和50年まで永平寺西堂・群馬県龍華院前住・昭和50年3月20日遷化)は酒が好きで、私も付き合いましたが往生しました。

つまり眼が醒めてる時は、あれがしたい俺はこうする、と云う事が起こります。それで終始一貫グルグル廻って居ります。これが日常生活ですよ。

ですから、日常生活だけが生命の全体じゃないわけだ。我々の生命というのは、眼が醒めておろうが寝ておろうが、そんな事お構いなし生きてます。

この生きている体の中で、眼が醒めている時に「あーしたい、こーしたい」とがんばってるのが人生ですよ。従いまして栄養失調三度程やりますと、人生失くなりますよ。植物的存在になりましてね。私はその時の経験者ですから。敗戦のお陰で、いい経験しました。人生何もないですよ、呼ばれても耳が聞こえませんし、目だって見ていません。植物人間ですよ。あとから思うと、あの時は人生なかったなあと思うんですよ。

ですから本来の自己はどういう事かと申しますと、水面に現れる泡や水しぶきが人生でありますから本来自己は大元の河そのものが本来自己でしょう。

ですから坐禅しないと本来の自分がわかりません。手を組み足を組み「じーと」とするわけだ。仕事を持たないと色々な事が浮かんで来るでしょうが。

建仁寺の竹田黙雷(1854―1930)の所で、ある女将が行ったそうだ。公案をもらったがわからなかったそうだ。そこで「じーと」坐ってたら五年前の貸しを思い出したそうです。忙しさに生活していると、そんな些細なこと思い出す暇ありませんものね。その三年前の貸し金は水面に現れた「アブク」みたいなものでしょうが。そこで手を動かし足を動かすから人生が始まるんだ。

水面ですから、波も泡も立つのが当たり前でしょう。そこで「オレ」が「オレ」がの自分が出て来て人生が始まるわけだ。

ところが坐禅をしても浮かんで来るのが当たり前で、「無念無想」になるのが坐禅ではない。

ですから「兀々地」というのは、手を組み足を組んだ本当の私たちの姿勢ですぜ。「兀々地の思量」と申しますのは頭の生理現象や。河の流れで申しますと、途中で岩にぶつかって水しぶきを上げたり、平穏な時もあったりとします。この流れそのものを「思量」と云うんです。云い換えれば「兀々地の表情」と云ってもいいでしょう。あらゆる事がある、決まった事はありません。坐禅の時にはこう考えなきゃならん、そんな事はない、いろんな考えが涌いて来る。

「兀々地思量什麼」兀々地什麼(なに)をか思量。これが本当の姿です。これを「正法眼蔵涅槃妙心」の当体と言ったらいい。「涅槃妙心」というのは感激したあなたの「お気に入り」じゃありませんぜ。脚が地に著かんとか、脚の踏む処を知らずというのはただの興奮ですから、興奮した処に本物はない。

この僧は知らずに自分で答えを出している。

「兀々地ナニをか思量する」

師いわく、「思量箇不思量底」

この思量箇不思量底は薬山禅師の「有る僧」に対する解説です。

この「思量」は生命の表現です。大河の表情と云ったらいいですね。表情の無いのは無いんだから。この「思量」は何を思量しているかと云うと、「不思量底を思量」していると。この「不思量底」の「不」は否定の「不」じゃありません。この「不」は自然の姿を「不」と表現したんです。

たとえば青空は何故青いか、これは説明できないでしょう。自然の表情があういう格好なんだから。地球は何故丸いか、だれも知らない。人間の顔見てごらん、みんな人間面してるね、この中で猫の顔は一人も居りません。似てる人は居るかもしれないが、猫じゃないですからね。生まれてこのかた、自然と人間顔、理由はないものね。このように自然の表情を「不」・「非」と云うんです。

ですから「不の思量」つまり自然の表情を思量していると、こう云ったらいい。そこで「思量箇不思量底」に対して、僧はさらに問います。

「不思量底、如何思量」不思量底、如何が思量せん。普通は「不思量底をどういうふうに思量するのか」と読解しがちですが、「不思量底は如何が思量なり」と解します。この場合「如何」と「なり」とは同じ意味で無限の意味合いがあります。無限の表情を「如何(いかん)」と表現します。「如何」は「思量」に対する形容詞です。つまり「不思量底」の本体は「如何」である。

何でも考えられるでしょう。たとえば夢では母親の顔が友達の顔になってみたり、外国人の顔になったりと変幻自在です。つまり思量という頭の働きは大波・小波のようなもので、無条件に波が立つでしょう。これを「いかんが」と云うんです。

深層心理でも何でもありませんよ。生命そのものの表情を「如何が思量」。ここでは自分が納得するものは一片もありませんよ。自分(自我)抜きの生命そのものを「如何思量」と云うんです。

最後に「師(薬山)いわく、非思量」

これは結論ではなく、とりあえず「非思量」と云ったもので、「非思量」も「不思量」も同義語です。「非思量」は「非の思量」と読み、先程の「不」と同様に、自然の働きを「非思量」という。

大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし。兀坐正伝すべし、兀座坐の仏道につたはれる参究なり。兀兀地の思量、ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。

      提唱テープ欠

大師の道かくのごとくなるを証して、兀坐を参学すべし。兀坐正伝すべし、兀座坐の仏道につたはれる参究なり。兀兀地の思量、ひとりにあらずといへども、薬山の道は其一なり。

いはゆる思量箇不思量底なり、思量の皮肉骨髄なるあり、不思量の皮肉骨髄なるあり

僧のいふ、不思量底如何思量。まことに不思量底たとひふるくとも、これ如何思量なり

兀兀地に思量なからんや、兀兀地の向上なにによりてか通ぜらる、賤近の愚にあらずば、兀兀地を問著する力量あるべし、思量あるべし。

思量箇不思量底ということである。思量はどこまでも不思量底でなければならない。我々人間の小細工で考える事ではない。「皮肉骨髄」というのは全体という事ですね。「思量」も「不思量」も同じ事なんです。思量も本質に於いては不思量、不思量も現実の姿が非思量。部分的な事を云ってるんじゃありません。俺はこれを考えてるじゃなく、考えそれ自身です。

欲しいというのは一つの働きですけども、欲しいという内容になりますと、人前では云われないもんだから欲しい欲しいと悩んでる連中もいる。菓子が欲しいという者、娘さんが欲しいという者、お金が欲しい者が居りますが、この欲しいという事自体をここでは「皮肉骨髄」と云ってるわけです。その内容を問題にしてるわけではないですよ。欲しいという事が「生命の表現」なんです。

私たちの日常生活は、どこで問題にしているかというと非思量の中の皮肉骨髄の中の部分品で以てワッサモッサやってるわけでしょう。饅頭欲しいけどあいつがくれないとか、娘さんを欲しいが親が反対してくれないとかは、思量の中の皮肉骨髄で以て問題が起こっているに過ぎない。一遍忘れたらおしまいです。非思量から見てみたら何でもない事ですよ。

「僧のいふ不思量底如何思量。まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり」

ここで区切りますよ。

不思量底というものは、いかに思量したもんでしょうかと普通は読みますが、不思量底如何思量。先ずその言葉置いといて。

「まことに不思量底たとひふるくとも」

この「ふるくとも」というのは『御抄』(「曹洞宗全書」注解一・二四一上)の方では「しばらくさて置いて」と云う意味にとったらいいとね、ここでは問題にしないと。

「さらにこれ如何なり」この如何というのは、どんな思量も有り得ると、無限にありますから。例えば思量には、牡丹餅を考える事もあるだろうし、お布施を考える事もあるだろうし、あるいは学問的な事を考える事もあるだろうし、明日の事を考える事もあるだろうし、色々ありますね、これが思量のあり方です。

ですから「如何思量」。生きてる限りは脳の新陳代謝が有りますから、次から次へと考えが浮かんできても良いわけですよ。そいう事を「如何思量」。我々の生きている生の姿を、そのまま受け取るのが禅者の立場です。

心理学者は違いますよ。条件によってどういう風な心持ちになるかと、理解しようとするんですね。それが宗教と科学との違いですね。科学の方は一つ前にある現象がわからないもんですから、納得いかないもんだから、自分の言葉の通ずる範囲に置き換える。作り換えてわかったものは、作り変えたものであって、現実じゃないんですぜ。

たとえば医者の方では、多くの材料を使ってマウスを研究する。胃袋に穴を開けて胃酸がどうとか、縷々研究論文を発表しますけれども、結局その論文はその人が自画像ですよ。頭には浮かんで来た要点を文章にしたんですから。

ところがマウスの全体はどういう事かと云いますと、生きてる事実そのものですから、研究論文のマウスはその一部でしかありませんから、マウスの真実は説明できません。禅も心理学の影響を受けたらいけませんぜ。昔インスタント禅というのが有りましてね。一週間で見性が出来るとね。今週の見性者は誰さんと誰さんとね。こんなのは宗教じゃないね。こんなのは異常心理を作る会合で、人間を何と心得ているか。

人間というものはね、注文通りになるもんじゃありません。自然を冒涜する事になりますよ。私達の人生というのは心配をしたり、喜んだり悲しんだり、滑ったり転んだりと、或いは自殺する程に悩んだりしながら、生きてるのが本当の生き方ですよ。朝から晩までニコニコするのが人生じゃないんだ。

地球の表面のように山あり谷あり砂漠ありだ。人間の人生もこういうものですよ。ですから眼蔵の『谿声山色』の巻を読みますと、うーんと唸りたくなる。道元禅師の仏法はこういうもんだと、よーくお分かり頂けると思う。自分の都合の良いように朝から晩まで喜んでるのが人生ではない、虫が好いと云うもんだ。

ですから本当の生命というものは、悲しんじゃならんと云うんじゃなくて、いろんな姿を表しながら生きていると。大河のようにある時は汚物を流し、ある時は大きな魚を泳がせる事もあるだろう、ある時は澄む事もあるだろう、これが大河というものです。

ですから、我々の先達の達磨さんだって、毎日ニコニコした人生を送っちゃ居られませんよ。自分に都合好い事ばかりが人生じゃありません。

そういう意味に於いての「如何が思量」です。

「兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賎近の愚にあらずは、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし」

まづ「兀々地に思量なからんや」兀々地に思量があるのは当たり前です。兀々地の表現が思量ですね。兀々地の姿が思量です。生きてますからね。坐禅して居ったら衛藤即応先生(1888―1958)からこんな事云われましたよ。「君はいつも摂心やってるけどな、脚は痛くないだろうね」と、それで「脚はしょっちゅう痛くなるし、背骨も痛いです」と云うと衛藤先生が云うには「まだだめだね」と云われた事はよーく覚えて居りますよ。

その時に衛藤先生、タバコ飲みながら「坐禅儀を考えて居る」と。その時に「考えるより坐禅した方がいいんじゃないですか」と云ったもんだ。感覚が違うから仕方がない。タバコ飲みながら「非思量」・「不思量底」・「安楽の法門」と。あの先生無邪気だから、坐禅して安楽の法門に入ると、脚も痛くなくなり、小便も行かなくてと考えていたんじゃないかな。先生に「材木じゃありませんよ」と云っても通じないんだな。姿勢を保っていれば、脚の痛くなるのも当たり前。眠くなる事当たり前で、生きてるんですからね。ですから立ち上がり経行(きんひん)したりと、これが人生でしょう。

「兀々地に思量なからんや」思量というのは表情です。「兀々地の向上」と云いますのは、我々が休みなく兀々地を修行する事が「兀々地の向上」です。私たちは休みなく一生涯この坐禅をするんです。飯の食える期間は坐りなさいと云うんです。いつになったら坐禅を卒業出来ますかと聞かれたら、卒業は出来ません毎年留年だな。人生は永久に卒業は出来ませんよ。卒業と云ったら四角の箱に横たわる時でしょうね。生きながらえている事実を尊ぶんですよ。これが真実なんですよ。我々が満足してニコニコする事ばかりが人生じゃありません。

「兀々地の向上なにによりてか通ぜざる」

この兀々地の向上に何故普通の人は通じないのだろうか。

「賤近の愚にあらず」

賤近というのは卑しい人ですね。ここで云う卑しい人というのは、自分が満足しよう、自分が偉くなってやろうと思う連中ですよ。なんとか悟りを開いてやろうという人。そいう人間以外ならわかってもらえるだろうと。

「兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし」

問著というのは聞くと云う事じゃありませんよ。「眼蔵」では「問処はなお答処の如し」という原則があります。ですから「兀々地を答える力量がある」と云うんです。そういう兀々地をすると云うのが此処では「思量」と云うんです。『御抄』(「曹洞宗全書」注解一・二四一上)では「兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし」を「仏祖の坐禅の理を参学する人を云う也」と註解されます。

 

大師いはく、非思量。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり

非思量にたれあり、たれわれを保任す、兀兀地たとひ我なりとも、思量のみにあらず兀兀地を挙頭するなり。兀兀地たとひ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん

しかあればすなはち兀兀地は、仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり

「玲瓏」とは無色透明のことで影の無い事でしょう。何にも残留物がない、そういう事が「

玲瓏」ですね。

ですから「非思量を使用すること玲瓏なり」とは、黙って坐る只管打坐のことですよ。そこで黙って坐って居る時に、「あー素晴らしい」と云う境地が起こったとしたら、跡形が残ってしまうわ。ただ坐ってるんですから、何にも後遺症は残りませんわ。日常生活でも後遺症は残らないでしょう。生かされてもらっている事に何とも思わないでしょう。日ごろ呼吸をし、心臓が動いてますが何とも思っちゃいないでしょう。ところが鼻が詰まると呼吸がし辛くなると始めて呼吸を意識するでしょう。心臓も然りです。

うまり坐禅して居りまして何か気持ち良い事が起こりましたら、それは「玲瓏」ではありません。「非思量」の本当の姿は「玲瓏」なんです。

ですから「非思量を使用すること」とは日常生活を云い、「不思量底を思量するには、かならず非思量をもちいるなり」これは変な言葉ですけど、「不思量底を思量する」とは兀坐して坐禅する事です。

坐禅するには必ず非思量を用いるなり」とは結局本来の姿を実証する事です。日常の何ともない純粋の姿を実践した事が坐禅・兀々地です。

なぜ道元禅師がこのように言うかというと、その頃(仁治三(1242)年以前)の坐禅がいかに間違いが多かったかと云う事がわかります。

「非思量にたれあり、たれわれを保任す、兀兀地たとひ我なりとも、思量のみにあらず兀兀地を挙頭するなり」

原初的な姿が非思量ですよ。つまり自然そのものの姿・表情ですね。「たれ」は不思量・思量を指して「たれ」と言ったんだ。「たれ我を保任す」とは非思量と思量との関係を述べたものです。つまり紙の裏表と云っていいでしょう。「兀兀地たとひ我なりとも」兀兀地はたとえ非思量・不思量でありましても、兀兀地は何処までも兀々地のままを「兀兀地を挙頭するなり」と言います。それを「兀兀地たとひ兀兀地なりとも、兀兀地いかでか兀兀地を思量せん」と、全てが兀兀地に尽きてしまうわけです。

「しかあればすなはち兀兀地は、仏量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、会量にあらざるなり」

兀々地は説明は要りません。人はよく私に何の為に坐禅するんですかと聞く。わかりませんね、と答えると相手はわからんらしいな。その「わからん」と云うのを、わかってもらえんから困るわね。このわからず坐禅すると云う処をわかってもらえるといいんですがね。大抵の人は大義名分がはっきりしてましてね、坐禅をするとこんな功徳・御利益があると、だから坐禅すると。これじゃ「兀々地」になりませんわ。兀々地なるがゆえに坐るんですよ。坐禅した時には「あなた」が坐ったんじゃありませんぜ。兀々地が兀々地するんですから。「あなた」の正体をお考え願いたい。私ならば酒井得元という名札が付いてますね。本当の姿ならば「私」はありませんよ。本当の私の姿は兀々地です。「皆さん方」もそうですよ。そこには「名札」は付いて居りませんよ。存在する意味すら有りません。

禅者には人生論なんてありませんよ、あろうはずがありません。本当の意味というのは無意味に徹する事ですよ。

「兀兀地は、仏量にあらず」兀兀地は仏さんとして処理してはいけないし、「法量にあらず」法として処理してはいけないし、「悟量にあらず」悟りで以て処理してはいけないし、「会量にあらざるなり」会得して処理してもいけません。宇宙そのものの姿を兀兀地というわけだ。沢木老僧(1880―1965)が昔こんな事云っとったよ。「俺はな、今トルーマン蒋介石と共に坐っているんだ」と、私らその時、老僧の気持ちはわかりませんでしたけどね。この歳(酒井得元老師65歳頃)なってみると、ようやく此の「兀兀地」という意味がわかるんですよ。

俺はどういうふうに生きるかを投げ出してしまって、本当の姿は「兀兀地」であると。道元禅師の「尽十方界真実人体」の語句は、ここから出て来るんですね。これは坐禅人に於いて初めて出て来る。宇宙全体の真実が人体ですよ。人体そのものが「兀々地」

「薬山かくのごとく単伝すること、すでに釈迦牟尼仏より直下三十六代なり、薬山より向上をたづぬるに、三十六代に釈迦牟尼仏あり、かくのごとく正伝せる、すでに思量箇不思量底あり。

「単伝」というのは人からもらったんじゃないんで、自分自身を自覚する事です。「伝」は伝えるという意味もありますが、達磨の『一心戒文』を見ますと「伝は覚なり」とあります。

薬山は自分自身を兀坐として発見したんです。兀坐が成仏ですよ。お釈迦さまも兀々地ですよ。それぞれが兀々地を「単伝」したんだ。人からもらったんじゃないんですよ。

「すでに釈迦牟尼仏より直下三十代なり」と云うふうにしてずーと来たわけですね。薬山が正伝したその内容はと云いますと、お釈迦さまの正伝でもあるし、達磨大師の兀坐でもあるし、迦葉尊者の正伝でもあると云う事になりますね。

ですから曹洞宗門では『嗣書』巻に「釈迦は我に嗣法す」(実際は記載なし)とありますが、ここから来るんです。今の自分の兀坐はお釈迦さまの兀坐を実修していると。今の兀坐を昔お釈迦さまが実践したんだと。そこで、こういう特別な表現が生まれて来た。その兀坐が「思量箇不思量底」という兀坐です。

まとめますと全ては兀坐です。人間的には無意味な坐り方ですね。無内容な坐禅という事ですね。他宗からは「枯木然りの坐禅」・「時間潰しの坐禅」と云われますが、弁肯する必要はありません。ですから「黙照禅」と云われるでしょう。黙照とは馬鹿が案山子の如く坐ってるという形容です。黙照というあだ名を付けたのは大慧宋杲(1089―1163)ですが、大慧の書のなかで批難されます。同時代に宏智正覚(1091―1157)が居りますが彼はなんともなく過ごしていますが、真歇清了(1088―1151)は憎々しく思ったようです。

沢木老僧が云ってましたよ。室町時代に鍋かぶりの日親(1407―1488)という日蓮宗の坊さんの行為(投獄のあとの釈放時の態度)は大人げないとね。こちらは只管打坐ですから投獄される事もありません。

それから、こんな話も云ってました。

戦後の混乱時に、沢木老僧鹿児島へ行きまして講演会をやったそうです。その講演にはキリスト教の神父さんも居りまして、話が終わった時点で曹洞宗門の坊主が壇上に登り、その神父さんの頬をピシャリと叩くと神父さんは何するかと怒り、すかさずその坊主は反対の頬を叩くと、一層神父さんは怒ったそうだ。そしてその宗門の坊主は身を反転し聴衆に向かって「この神父は大嘘つきだ」と叫んだそうだ。「神父は先程は右の頬を打たれたら左の頬を差し出せと説教したが、この神父は御覧の通り隣人愛どころか儂を怒鳴りつけているぞ」と聴衆に云うと、会場は騒然となったそうだ。お陰でその時の講演会は滅茶苦茶になったそうです。

先程の「鍋かぶりの日親」同様、この曹洞宗門の坊主も大人気ない者だと云ったのが思い出され印象的なんですよ。

しかあるに近年おろかなる杜撰いはく、功夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也。この見解なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり、いかでか学仏法の漢といはん

見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし

又一類の漢あり、坐禅辨道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず、行亦禅坐亦禅、語黙動静体安然なり。ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。

臨済の余流と称するともがら、おほくこの見解なり、仏法の正命つたはれること、おろそかなるによりて、恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。

「近年おろかなる」というのは、その頃の禅風ですね。「杜撰」とはお粗末な者です。「功夫坐禅」は坐禅を努力して、「得胸襟無事了」というのは胸がスーとする事で、擬団を解決したとか云う事があるでしょう。「便是平穏地」はすっかり良い思いになった心地です。「この見解」こういう気持ちになった事です。「小乗の学者におよばず」小乗の学者でもこんな馬鹿なことは云わないと。「人天乗よりも劣なり」人間界天上界ですね、そいいう連中よりも劣っている。「いかでか学仏法の漢といはん」こんな事が仏法であってたまるかと。よく漆桶打破とか云うでしょう。あの事を云ってるんですよ。擬団を氷解してしまったとか。こう云う連中の事を「いかでか学仏法の漢といはん」と言ったんです。

「見在大宋国に恁麼の功夫人おほし」こういう風な連中ばかり。「祖道の荒蕪かなしむべし」仏祖道が如何に荒廃していたかと。「又一類の漢あり」こういう連中もいると。「坐禅辨道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず」初心晩学の一年生のやる事であって、仏祖の修行ではない。「行亦禅坐亦禅、語黙動静体安然なり」証道歌で云う処の言葉です。「ただいまの功夫のみにかかはることなかれ」兀坐は初心晩学がやる事で、どうでもいい事だと。

臨済の余流と称するともがら、おほくこの見解なり」悟ってしまえば何やってもいいじゃないかと云う連中ですね。「仏法の正命伝われる事疎そかなるによりて恁麼道するなり」これは本当の仏法が伝わってないからですね。このような(恁麼道)発言をしているんだと。

「なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる」人間には初心も後心もありませんよ。去年も今年も同じように尽十方界真実人体の真実ですよ。「初心何処の処にかおく」いったい初心はどこにあるんですか。

しるべし学道のさだまれる参究には、坐禅辨道するなり

その標榜の宗旨は、作仏をもとめざる行仏あり、行仏さらに作仏にあらざるがゆゑに、公案見成なり。身仏さらに作仏にあらず、籮籠打破すれば坐禅さらに作仏をさへず。正当恁麼のとき、千古万古ともにもとより仏にいり魔にいるちからあり、進歩退歩したしく溝にみち壑にみつ量あるなり

学道の参究は坐禅辨道に決まってます。三十年飯食ったから、もう要らんという訳にはいかんでしょう。飯食ってる間は坐禅しなくちゃだめですよ。「その標榜の宗旨」というのは、ここに挙げられている宗旨はと云うことで、「作仏を求めざる行仏あり、行仏さらに作仏に非ざるがゆえに」成仏を目指しての坐禅ではなく、行仏で充分ですから行仏更に作仏に非ざると説き、「公案現成なり」とは、その身そのままが真実であると云う事やね。公案の解釈を問題の解決と思ったら大きな間違いなんです。一般には公案を公府の案牘と云うふうに愛なってますけど、曹洞宗門では公府の安牘という定義は採りません。中国明時代の中峰明本と云う人が公府の安牘と云い出しました。我々の公案の解釈は『御抄』(「曹洞宗全書」注解一・一下)の中にあります。現は「そのまま」成は「完全」ですから、公案とは「現実そのままが完全」であり「現実そのままが真実である」と解釈されます。

「身仏さらに作仏にあらず」の身仏は身仏でよく、作仏をすれば兀坐にはなりません。

「籮籠打破すれば坐禅さらに作仏をさへず」の籮籠とは手段・方法と云っていいでしょう。籮は獲物を捕る仕掛けで、籠は魚を捕る網の事ですから籮籠打破とは何の造作もしない事を云うもので、坐仏は無条件に成仏を「坐仏さらに作仏をさえず」と云います。

「正当恁麼のとき、千古万古ともにもとより仏に入り魔に入るちからあり、進歩退歩したしく溝にみち壑にみつ量あるなり」正当恁麼は以上まとめるとの意で、千古万古は永遠を云い、仏になったり悪魔になったり、進歩したり退歩したりとどれもが真実で嘘じゃない。「親しく溝にみち壑にみつ」とは兀坐が宇宙一杯の行であると云うのを、こう言われます。

第一段に於きましては、如何に兀坐が偉大であるかを述べたものです。

 

  第二段  江西南嶽問答

江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかたつねに坐禅す。

南嶽あるとき、大寂のところにゆきてとふ、大徳坐禅図箇什麽。この問、しづかに功夫参究すべし。そのゆゑは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか、当時坐禅せるに、いかなる図か現成すると問著するか、審細に功夫すべし。彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あること学習すべし。遠を貴することなかれ、遠を賎することなかれ、遠に慣熟なるべし。近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし。

「江西大寂禅師、因みに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかたつねに坐禅す。

南嶽ある時、大寂の所に行きて問う、大徳坐禅図箇什麽」

大寂禅師は馬祖道一(709―788)のことです。この人は四川省成都辺りの人であったらしいですね。大慧禅師は南嶽懐譲(677―744)のことで、長沙(湖南省)より南の方に衡山という処に南嶽という山があり、そこに居りましたから南嶽と云うんです。

「密受心印」これがよく問題になるんです。密受は、こっそり密かにもらう事では御座いません。秘密の密ではなく親密の密です。親密とは仏道が体に浸み込むことやね。生活の中に浸み込んでることですよ。この馬祖江西大寂禅師は坐禅に打ち込む事が出来たから「密受心印」だ。ある時から馬祖は南嶽の山中に伝法院と云う処に引き籠ってしまったんです。それで心配になって懐譲(南嶽大慧禅師)は馬祖の住処の伝法院に出向いた時の話です。

「大徳、坐禅図箇什麽」普通は「坐禅して箇の什麼をか図る」と読みますが、「坐禅は箇の図什麼なり」と私(酒井得元老師)は読みます。「図」とは努力・工夫する事ですね。つまり坐禅は工夫する内容が「什麼」である。「什麼」というのは生かされている事実ですよ。生きてる事によって考えさせられているんです。坐禅は「図什麼」でなければいけないと。こういう事を懐譲は馬祖におっしゃった。

「この問、しづかに功夫参究すべし。そのゆえは、坐禅より向上にあるべき図のあるか、坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか、すべて図すべからざるか」

この「問」というのは実は「図什麼」という答えなんです。

坐禅=兀坐=図什麼ですから、宇宙一杯という事です。宇宙一杯の真実が私を現成させているんですから。生きてる事に私個人はありませんよ。私は生きてるんじゃなく、生かされているんですから。その生かされている実修を「兀坐」と云ったわけですから、「坐禅より向上にあるべき図のあるか」は坐禅より上等のものが有るだろうかと言い、「坐禅より格外に図すべき道のいまだしきか」は坐禅を超えたものが有るのかと言い、「すべて図すべからざるか」と三問ともに歟を付加しますが全て断定のことばです。「いかなる図か現成すると問著」いかなる図かは無限を言い、坐禅は無量無辺の事実を実証するわけです。「審細に功夫すべし」と。

「彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あること学習すべし」

これには故事があります。葉公(せっこう)は龍が好きでいつも龍の絵を描いていると、本物の龍が葉公の前に現れると、葉公は腰を抜かしたそうです。この話の喩は偽物が好きで、本物は嫌いという喩えです。宗門でもこんな話がありますよ。わしは道元さんは好きだが、大嫌いだと。つまりは道元思想は好きだが坐禅は嫌い、これです。

ですから坐禅談義よりは坐禅を勧めることを「彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし」と言ったんですが、無所得・無所悟の話を聞き実際に只管打坐をやってみると、彫龍・真龍の違いがよくわかります。そこで宗門では「聞法」が昔から行われてきましたが、古叢林に於いてはその家風がありまして、昭和30年代当たりの大乗寺僧堂の清水浩龍老師・修禅寺の丘球学(1877―1953)老師ぐらいまでは「聞法」の伝統がありましたね。真龍・彫龍がよくわかっていたんでしょう。彫龍はニセモノ・真龍はホンモノと区分けをしてはいけないとの事です。

「遠を貴することなかれ、遠を賎することなかれ、遠に慣熟なるべし。近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聡明ならしむべし」

昔(大正初期)忽滑谷快天(ぬかりやかいてん・1867―1934)さんに就いて静岡県を回っていた事があるんですよ。その時に聞いた話に、無二の親友の橘成典(1859―1939・大正6年―同7年永平寺後堂・引き続き同12年まで監院を務む)さんが静岡県森町の大洞院で住職をしていた(大正五年)。この方がこんな事云ったことがある。わしらの時代には英語が流行って、皆が大学で英語やって教会にまで行ったと。忽滑谷さんと私は共に教会に通ったもんだと。忽滑谷さんは慶応に行ったけど、わしは行かなかったという話がある。その時には皆が流行ものに飛びついたと云う事を沢木興道老僧が云ってましたよ。法隆寺に居た時に橘成典さんが来て、沢木お前も英語をやれと。坐禅ばっかりやってると将来淋しい思いをすると云ったそうです。

こういう処からもわかるように、坐禅を遠方に置き英語を近に置く事もあるが、「遠に慣熟・近に慣熟」とそれぞれに彫龍にも真龍にも親しみなさいと言うんです。

「耳を重くする事なかれ、耳を軽くする事なかれ」とは周囲の評判に振り回されず、「耳目をして聡明ならしむべし」と耳目という感覚をはっきりとした態度を持ちなさいとの言です。

 

江西いはく、図作仏この道、あきらめ達すべし。作仏と道取するは、いかにあるべきぞ。ほとけに作仏せらるゝを作仏と道取するか、ほとけを作仏するを作仏と道取するか、ほとけの一面出両面出するを作仏と道取するか。図作仏は脱落にして、脱落なる図作仏か。作仏たとひ万般なりとも、この図に葛藤しもてゆくを図作仏と道取するか。

しるべし、大寂の道は、坐禅かならず図作仏なり、坐禅かならず作仏の図なり。図は作仏より前なるべし、作仏より後なるべし、

作仏の正当恁麼時なるべし。且問すらくは、この一図、いくそばくの作仏を葛藤すとかせん。この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。このとき、尽作仏の条々なる葛藤、かならず尽作仏の端的なる、みなともに条々の図なり。一図を迴避すべからず。一図を迴避するときは、喪身失命するなり。喪身失命するとき、一図の葛藤なり。

南嶽ときに一塼をとりて石上にあててとぐ。大寂つひにとふにいはく、師作什麼まことに、たれかこれを磨塼とみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく作什麼と問せられきたるなり。作什麼なるは、かならず磨塼なり。此土佗界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、万般の作業に参学すべき宗旨あることを一定するなり。しるべし、仏をみるに仏をしらず、会せざるがごとく、水をみるをもしらず、山をみるをもしらざるなり。眼前の法さらに通路あるべからずと倉卒なるは、仏学にあらざるなり。

―この段テープ欠―

 

 第三段

南嶽いはく、磨作鏡。この道旨あきらむべし。磨作鏡は、道理かならずあり。見成の公案あり、虚設なるべからず。塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし。古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし、もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、仏祖の道得なし、仏祖の開口なし、仏祖の出気を見聞せず。

これは普通我々の読みますのは「磨して鏡と作す」となりますが、これは「まさきょう」と読んでおいた方が良い。磨いて鏡とすると云うならば、気違い沙汰ですね。ここはそういう事ではありません。「磨の作鏡」ははっきりした道理です。

亜ら「現成の公案あり」これは真理の実践なんです。「虚説なるべからず」無駄事ではない。

「塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし」許多とはいろいろですね。榜様というのは、お手本とか見本とか云う事ですね。つまりは塼は塼であっても鏡は鏡であっても、相手が何であっても磨くという道理があるという真実がある事を知る必要がある。重点は磨くという事である。

「古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし、もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、仏祖の道得なし、仏祖の開口なし、仏祖の出気を見聞せず」

磨塼という言葉が出てますけれども、磨塼とは無所得・無所悟で磨くことです。目的なく磨く事で、結果なしと云うことです。宇宙の動きはどういうふうになるって事はないものね。地球はずーと昔から回ってますよね。裏山の木は春になると緑になり秋になると枯れる。竹の子は春になって人間に食べられて又来年出てくる。いつも同じこと繰り返してます。自然は同じ事やってます。人間世界も同様です。赤ん坊は一年二年と成長し六〇歳になるといつの間にか老人顔になり、同じように死んでくね、時には例外があって良さそうだがね。こういう事実を「無所得。無所悟」と云うんです。これが「磨塼」ですよ。これは世間では虚しいことですよ、結果が出ないんですから。これが本当の姿ですよ、飽きもせずやる。

磨塼と云う和尚が神戸の般若林に居ましたね、再興した人ですよ。法華を勉強した人らしく、天下の磨塼と云われたそうで、私(酒井得元)の老僧の守口慧徹は森田悟由禅師(永平寺六十四世・天保五(1834)―大正四(1915))に就く前は磨塼さんの所に居ったと云うからね。最後は森田禅師に就いて可愛がられて、終生、森田さんの写真を掲げ拝んで居りましたがね。そこで鈴木天山禅師(永平寺六十九世・三重県四天王寺福井県宝慶寺等住持・文久三(1863)―昭和十六(1941)と仲良くなって兄弟弟子みたいになりましてね。

磨塼和尚にはこんな話が有りましたね。ある雲水が磨塼を凹ましてやろうと、独参し滔々と自分の意見を述べると、磨塼さんは感心して聞いたそうだ。得意気な雲水は鼻高々になると、

磨塼和尚はお茶を出して歓待すると、その雲水は恐縮し出されたお茶をひっくり返すと磨塼和尚は、「それだけ勉強されたんだから茶碗の一つや二つひっくり返してもいいかな」と言われたそうです。その言葉に雲水は凹んだそうですが、我々の宗門にはそういう型破りな先輩が居た事は愉快でね、この『坐禅箴』の「磨塼」と云う語を聞くと、般若林の磨塼和尚を思い出すんですよ。

「塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし。古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし」

明鏡も古鏡「磨塼」という事がなけりゃいけませんわ。あなた方が此の処に存在する事も「

磨塼」なんですね。「磨塼」があなた方の本音の姿ですよ。

「もし諸鏡は磨塼より来たると知らざれば、仏祖の道得なし、仏祖の開口なし、仏祖の出気を見聞せず」

仏祖の本当のあり方は「磨塼」である。普通の解釈はムダですが、道元禅師なればこそ、この磨塼は生きますね。

大寂いはく、磨塼豈得成鏡耶。まことに磨塼の鐵漢なる、佗の力量をからざれども、磨塼は成鏡にあらず、成鏡たとひ聻なりとも、すみやかなるべし。

磨塼したんでは鏡に出来ないじゃないかという事ですけれど、これが私達には大切なんですね。磨塼して永久に鏡に成りませんもんね。それがいいんですよ。

「磨塼の鉄漢なる」鉄漢と申しますのは、永久に変わらないと云う事です。煮ても焼いても同じ顔、こういうのを「鉄漢」と云うんですね。他からの力を借用しても塼を磨いては鏡に成らず。「成鏡たとひ聻」の聻(ニイ)とは「それっきり」の意で、「すみやかなるべし」とは鏡は何処までも鏡であり続けている事です。つまりは「磨塼」と「成鏡」には関係性がないと云う事を「聻」と云う語で表したんです。

この永久に姿が変わらないと云う「尽十方界」なんです。何年経ったら功徳が有ったなんて事はなく、いつまで経っても「無所得・無所悟」です。

南嶽いはく、坐禪豈得作佛耶。あきらかにしりぬ、坐禪の作佛をまつにあらざる道理あり、作佛の坐禪にかゝはれざる宗旨かくれず。

坐禅豈(あ)に作仏を得(えて)んや。という坐禅でないと只管打坐の坐禅にはならん。只管に坐禅だ。それが宇宙の事実だ。これが本当の成仏ですよ。坐禅は仏に成るのを待ってるんじゃありませんぜ。「作仏の坐禅にかゝはれざる宗旨かくれず」とは作仏と坐禅は別物だと云うことです。作仏を求める坐禅を無駄な坐禅と云うんですよ。私達は明日の為に生きてるんじゃありませんよ。成仏の為の坐禅なら無駄な坐禅ですよ。見性する為の坐禅なら人生を無駄に費やす事になる。わが宗門では準備期間はありません。

大寂いはく、如何即是。いまの道取、ひとすぢに這頭の問著に相似せりといへども、那頭の即是をも問著するなり。たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。われに親友なるはかれに親友なり。如何即是、すなはち一時の出現なり。

「如何即是」はどうしたらいいんでしょうか、と普通は読みますが「如何」を『御抄』(「曹洞宗全書」一・二四八下)では「いかなるも作仏なり」と云ってますね。

「一筋に這頭の問著に相似せりと云えども、那頭の即是をも問著するなり」

「這頭」はこの場合はという意で、質問(問著)に似ているけれども、「那頭」はあの場合で、あっちこっち質問だと言ってるんです。

宗門の安心(あんじん)は、これでいいと云う一服じゃいけませんぜ。昔大中寺に居りました時に沢木老僧に「安心と云う額を書いてくれませんか」と云ったら、「不安心と書いてやろう」と云う。変な和尚だなと思いました、不安心と書くとはね。

これにはこんな逸話があるんです。沢木老僧、法隆寺に居る時に吉田寺(斑鳩町小吉田にある浄土宗寺院・別名ぽっくり寺)という寺がありまして、それが尼寺なんですよ。その尼寺の家庭教師に頼まれたと。そこには金持ちの尼(叔母と姪)さんが寺を経営し、毎日お茶やお華を楽しんでいたそうなんですよ。ところが毎日芸事やってもつまらんから、仏法を勉強したいという事になりました理由は、安心を求めたいと思ったそうです。

その二人の師寮寺は、法隆寺の裏の三十の塔がある法輪寺の老僧のお弟子さんだったんだ。(法琳寺とも書き三井寺とも云う。創建は聖徳の子山背大兄王(やましろのおおえのおう)が推古三十(622)年、また670年説あり。昭和十九年雷火で消失、昭和五十年に飛鳥様式で幸田文氏等尽力で再建)

その老僧、雷親父みたいな恐い和尚だったそうですよ。二人の尼さんはその老僧の処に相談に行ったそうですよ、安心を授けていただきたいと。そうしたら和尚が云うには、今から安心が欲しいとはとんでもないと、わしは八十歳を過ぎても安心しまい・安心しまいと努力して居るのにと、怒られたそうです。

そういう事情で、二人の尼僧は法隆寺の佐伯定胤(1867―1952・第百三代別当)の処に相談に行くと、佐伯さんが云うには「お前さん達もそういう道心を起こしたか」と、そうしたら家庭教師を就けてやるかと云う事で、沢木老僧が二人に教えたのは『永平清規』『典座教訓』『学道用心集』を教えたそうです。その時のことばが「安心しないと努力する」だったそうだ。

それで「問著」の姿が「安心」なんです。解決しない、未解決を問著なりと言ったんです。

「、親友の親友に相見する時節を知るべし。我に親友なるは彼に親友なり」の親友とは坐禅と作仏との関係で、「如何、即是すなわち一時の出現なり」の一は無辺際を指し、無限の真実を云うものです。

 

    第四段

南嶽いはく、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。しばらく車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を參究せんには、不行ありとも參ずべし、不行なしとも參ずべし、時なるべきがゆゑに。若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず。打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛とひとしかるべきか、ひとしからざるべきか。世間に打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、佛道に打車の法あることをしりぬ、參學の眼目なり。たとひ打車の法あることを學すとも、打牛と一等なるべからず、審細に功夫すべし。打牛の法たとひよのつねにありとも、佛道の打牛はさらにたづね參學すべし。水牯牛を打牛するか、鐵牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打なるべきか、盡界打なるべきか、盡心打なるべきか、打迸髓なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。大寂無對なる、いたづらに蹉過すべからず。塼引玉あり、回頭換面あり。この無對さらに攙奪すべからず。

「南嶽いはく、人の車を駕するが如き、車もし行かずんば、打車即是、打牛即是」おもしろい言葉ですね。「しばらく車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行」いよいよ解説になるわけです。

人が車を駕するとは、人が車に乗って車が進まなかったら、車を叩いたらいいのか、こう云う事ですね。変な問題でしょう。普通は車が動かなかったら牛を叩くのが当り前でしょう。

これは「人が車を駕するようなもので、もしも車が進まなかった場合には、車を叩くのも善し牛を叩くのも善し」と読んでもいいですよ。

「車若不行」車もし行かずんば、に対し「いかならんかこれ車行」「いかならんかこれ車不行」変な問題になりましたね。この場合には「車若不行」と一つの単語にし訓読しません。車は動くばかりが車ではなく、動かない車もあるわけです。

「たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。流は水の不行と云うつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を参究せんには、不行ありとも参ずべし、不行なしとも参ずべし、時なるべきがゆえに」

今度は「水の流れ」に喩えての説明です。水は流れるばかりが水ではなく、流れないと云う事もあって「水」なんです。ですから水流は車行なるかと疑問符にしてますが、水流・水不流ともに車行の意味合いです。車には両面ありまして進む場合、進まない場合がありまして、その時次第で断滅の関係です。

坐禅と作仏の関係も同様に坐禅はいつでも坐禅で、坐禅が変化して作仏に変貌するものではなく、坐禅坐禅に徹しなさいと言わんが為の喩えです。

「若不行の道、ひとえに不行と道取せるにあらず。打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛と等しかるべきか、等しからざるべきか。世間に打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、仏道に打車の法あることを知りぬ、参学の眼目なり」

普通の凡夫には目的がありまして、目的を達する事が人生なんですよ。仏法から申しますと目的を達するばかりが能じゃない。それが「参学の眼目」です。

「たとひ打車の法あることを学すとも、打牛と一等なるべからず、審細に功夫すべし。打牛の法たとひ世の常にありとも、仏道の打牛は更に尋ね参学すべし」

坐禅坐禅、作仏はどこまでも作仏というわけで、別物ですよ。仏になる為の坐禅じゃありませんぜ。「打車と打牛は一等なるべからず」同じじゃありませんよ。車を動かす為に世間では牛を叩きます。仏道の打牛は、車が動こうが動くまいが関係ありません。

「水牯牛を打牛するか、鉄牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打なるべきか、尽界打なるべきか、尽心打なるべきか、打迸髄なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし」

この「打牛」は尽十方界が回転」する「打牛」なんですね。それをこう云う風に言うわけです。仏法では牛は大変に結構なことなんですよ。お釈迦様のあだ名が牛王大沙門と云い『四十二章経』に於いても行者を「重きを負うて泥中を行くが如し」(仏言。沙門行道。如牛負行深泥中)と牛を喩えにして語られます。ここでの牛はお釈迦様を云うんですね。

「水牯牛を打牛」するとは水牯牛=お釈迦様を打牛ですから、坐禅する事を云うんですね。ですからお釈迦様でもいろいろあります。鉄牛・泥牛とね。

薬山は石頭の所で蚊子の鉄牛に登るが如しと云いましたが、実は仏法の修行、私達の坐禅の様子なんです。鉄牛には針は刺せないし歯が立たない。歯が立たないのに立ったような気になっちゃいけません。

 

そこで想い出すのが、沢木老僧から聞いた事ですが、昔「無人島」という雑誌を大谷大学の人達が出していたそうですよ。その中に妙好人のことが載っていたと。南無と云うは「命乞えの裸参りが頓死した」。それから「ツンボが立ち聞きしてアカナンダ」という心だと。

これが蚊子の鉄牛に登るが如しです。我々の手に負えるものなら尽十方界ではありません。我々自身が尽十方界ですよ。我々は聞く必要はないんです、ツンボですから。命乞えをせんでよかったのね、どうせ頓死するんだから。そういう事が「鉄牛打」です。

「泥牛を打牛する」泥牛と申しますのは龍山のことばで、「泥牛闘って海に入るも、直に今に至るも消息なし」没渉跡だ。「鞭打なるべきか」鞭で打ったほうがいいか。「尽界打なるべきか」尽十方界の打です。「尽心打なるべきか」この場合の心は、一切法これ心なりです。つまりは尽十方界が生きていると云う事実を称して心と云うんだ。ここに云うべきかは断定の語法として受け取ってください。

「打迸髄なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし」

「迸」はホトバシルの意で髄をぶっ叩くという事ですね。真髄まで骨の髄まで叩く、という意味ですね。

「拳頭打」は頭をげんこつで打つ事であり、「拳打拳」げんこつがげんこつを打つ事であり、「牛打牛」牛が牛を打つ事です。一人芝居みたいなもんですわね。要はどんな行動でも尽十方界ので終わると。第三者的になる事はできない、そんな意味合いにお考え願いたい。

「大寂無対なる、いたづらに蹉過すべからず。拋塼引玉あり、回頭換面あり。この無対さらに攙奪すべからず」

最後に来まして馬祖は黙ってしまった。黙っちまうのが本当なんですね。『維摩経』に「入不二法門」という巻がありますが、無言無説が本当の価値ですね。また「維摩の一黙は雷の如し」と云うのは禅宗の人が讃嘆する為に付言したもので『維摩経』にはありませんぜ。無言無説が本当ですね。

「いたづらに蹉過すべからず」

普通の解釈では馬祖が物云えなくて黙ってしまった。の意ですが道元禅師の解釈では、黙った事がいいんだと馬祖に肩を持つものです。

「拋塼引玉」とは海老で鯛を釣ると同じです。「回頭換面」の意は表面通りに無対と

と見ちゃいけませんよと云う事で、この無言が大変な事ですよと。

「この無対さらに攙奪すべからず」

攙奪と云うのは、攙奪行市(ざんだつこうし)と云う言葉があります。投げ売りをする事ですね。つまり、この大寂の無対を大いに買ってやろうじゃないかと云う事です。

 

    第五段

南嶽、又しめしていはく、汝學坐禪爲學坐佛。 この道取を參究して、まさに祖宗の要機を辦取すべし。いはゆる學坐禪の端的いかなりとしらざるに、學坐佛としりぬ。正嫡の兒孫にらずよりは、いかでか學坐禪の學坐佛なると道取せん。まことにしるべし、初心の坐禪は最初の坐禪なり、最初の坐禪は最初の坐佛なり。

これからは坐禅の解説と思ってください。

「南嶽、又しめしていはく、汝学坐禅為学坐仏」

送り仮名を付けますと、汝は坐禅を学す、これ(為)坐仏を学す。を汝の学坐禅は、これ額坐仏なり。と読みます。

「この道取を参究して、まさに祖宗の要機を辦取すべし」

「祖宗」と云うのは達磨宗で、「要機」は肝心要な所という事ですね。これを「辦取」学び取ってもらいたい。つまりわが宗門の極意と云うものは、学坐禅が学坐仏という事です。

「いはゆる学坐禅の端的いかなりと知らざるに、学坐仏と知りぬ」

学坐仏がどういう事かわからなくても差し支えないんだ。坐禅をする事が学坐仏になるんだと。「学坐禅の端的いかなりと知らざるに」知らなくても差し支えないんですよ。そのままが学坐仏である事がよくわかる。

「正嫡の児孫にあらずよりは、いかでか学坐禅の学坐仏なると道取せん」

本当の仏教者でなければ、こういう事は言いません。坐禅をする事が坐仏である。坐仏という言葉は他には有りませんよ。臨済宗の語録にも坐仏と云うことばは有りませんよ。わが宗門だけの語法です。

「誠に知るべし、初心の坐禅は最初の坐禅なり、最初の坐禅は最初の坐仏なり」

最初の坐禅がそのまま坐仏なんです。坐禅を何年やったら坐仏するという事じゃありませんぜ。真似は真似事で本物なんです。我々の日常と云うのは、どんな一瞬でもかけがえのない絶対的な時間なんですよ。大智禅師(1290―1366)に「十二時法語」というのがあります。この法語を見ると、やっぱり永平さんの児孫だなと思い知れますね。法語の中には休む時には休む時の心得がありますぜ。それを仏祖に渡らせ候と云うんだ。

 

     第六段

坐禪を道取するにいはく、若學坐禪禪非坐臥。 いまいふところは、坐禪は坐禪なり、坐臥にあらず。坐臥にあらずと單傳するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、たれか智斷をもとめん。

坐禅を道取するに」とは坐禅を説明するにはと云った具合で、「若学坐禅」もし坐禅を学すれば、「禅非坐臥」禅は坐臥にあらず。ただ座ったんじゃ禅には成りませんよ。坐が禅に成らなきゃならないんだ。そこが要点ですね。私達の日常生活には行住坐臥がありますね。これを四威儀と云いましてね。この日常生活の坐臥が禅じゃありません。

「いま云うところは、坐禅坐禅なり、坐臥にあらず」

坐っただけが禅ではなく、生活姿勢の坐臥では禅ではないと。

「坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり」

「単伝」というのは眼蔵独特な用法で、「単伝」は人から物を貰うんじゃないですよ。人から貰うんでは複数ですから単伝にはなりません。亦伝える物が有ったら単伝にはなりません。単伝を天桂伝尊(1648―1735)さんは「自己が自己に単伝す」と云われます。本当の自己に成り切ることですね。

昔、私が京都の紫竹林学堂安泰寺(大正十年四月開創)に居りました時、その時の堂頭さんが衛藤即応(1888―1958)先生なんですよ。ところがそこの理事で、御開山のお弟子さんが丘宗潭(1860―1921)さんのお弟子さんの丘球学(1877―1953)さんで、その球学さんがよくそのお寺に泊まられるんですよ。そこで私達と過ごされた事がよくありましたよ。紫竹林寺でよく衛藤さんと球学さんは一緒になるんですよ。二人は仲が良いんですね。時に球学さんが「忙しい忙しい」とおっしゃる。片方の衛藤先生は、丘さんに対し「自分が忙しくしているんじゃないか」と。衛藤先生というのは不精もんでね、まったく体を動かさんもんね。いつも机に向かって煙草のんでね。そりゃ忙しくないもんね。二人の生活態度が違うでしょう。丘さんは雲水上がりでね。衛藤さんの云った事は一つの真理ですね。

満州の犬を思い出しますね。満州人が犬に車を引かせる事が居るのね。大きな犬でその鼻先に肉を付けてますから、犬は心ならずも一日中車を引くことになります。岡山県でも田起こしには牛の鼻先に、旨そうな草をぶら下げて仕事する事を老僧から聞いた事があります。

そこで「坐禅坐禅なり」ですよ。自分に親しむ為、手を組み足を組んで正身端坐をする事ですよ。あぐらをかくのは坐禅じゃありませんよ。「坐臥にあらずと単伝する」とは徹底的に自己に親しむと云う事が単伝。単伝でなければ坐禅にはなりません。

満州の犬・岡山の牛では困ります。手を組み足を組んで止静が鳴ったらよそ見をしない、これで自己を取り戻すんですよ。じーとして浮かんで来るのは生活以前の事で、生活というのは手足を動かし、それにより人生が始まりますから、じーとしているのが父母未生已然という事ですね。朕兆已然と云う事は遠い過去の事じゃなかった。我々の坐禅しているこの事実が父母未生已然の事実、この事実が大自然の姿、生命そのものの姿ですよ。坐禅した姿を尽十方界真実人体と云うんだ。坐禅は妥協しちゃいけませんぜ。

昔、こんなのが駒沢大学に居ましたね。「私は勉強する時、坐禅して勉強します」と。坐蒲を敷いて結跏趺坐して勉強するんだそうだが、それは坐禅じゃないよ。ただ足を組んでるだけで、仕事するんですからね。この人は岡山の牛をやっているんだ。そんなながら坐禅坐禅じゃありませんよ。

「坐臥にあらずと単伝するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり」

坐禅も坐臥には違いないですが、無限の坐臥と云うことですね。「無限の坐臥」と申しますのは、我々の日常生活は有限ですが、宇宙の生命がそこに有りますから無限の生命です。本当の「自己」と申しますのは、人から横っ面張られて「俺を何だと思ってるんだい」と云うのは自己意識でありまして、貴方を生かしている大自然そのものが「自己」なんです。

私が永平寺に居る時には、なっちませんでしたぜ。堂行寮の連中普段は威張り散らすが、坐禅の時には握り飯抱えたような顔してますからね。みんな坐禅が嫌いだったな。時間潰しの坐禅と私には受け取れましたがね。

臘八接心では貼(添)菜ばかりで、朝課ではお経を長々と読み行茶の時には茶菓子と、さらに提唱があり、また大盛りの貼菜の昼食とね。私の安居した時の永平寺の接心は接心じゃないね。維那が口宣を止めると次に後堂さんの口宣と、その口宣も世間話でね。あれじゃ時間潰しの坐禅は助かるわな。夜坐の三炷目には普勧坐禅儀の長いお経だ。接心中一日三回お経読むんだぜ。

この前、沢木老僧と接心頼まれまして、神奈川県に行って来ましたよ。晋山結制の後の附録の接心ですよ。その時に晋住和尚が口宣をやりましてね。その和尚、沢木老僧に叱られましたよ。

私の孫師匠森口恵徹(1857―1937)は説教師で上手かったんだ。有名なんですよ、その時代には。二祖さんの六五〇回忌(昭和五年(1930))遠忌には永平寺の布教部長やってたんだから。

晩年には可愛がられて、京都大学の時に鳥羽の常安寺に呼ばれたんですよ。その時に参禅会があったんだ。私の師匠に云わせますとね、「老僧の坐った処見たことない」と云ってましたがね。それから坐禅が始まるんですけど、坐蒲が有るわけじゃなしに坐るんですよ。画mm来説教師ですから、一炷坐る間中喋りっ放しで、それから「和尚や、普勧坐禅儀を始めなさい」です。それを読み終えると「今日の参禅会はこれで終り」です。いつ坐禅をしたか、座禅を知らんも程があるね。

この前も静岡県にある新しい道場が出来まして、若い連中が行ったそうですよ。そうしたら、そこの和尚、私の孫師匠といっしょらしく、坐禅中ずーと喋っていたそうだ。もう困ったから帰って来たと云ってましたがね。想像がつきますね。

姿勢が崩れたらいけませんから、どこまでも端坐を全うする事です。これが坐禅のコツですよ。これを忘れたら居眠り坐禅になっちまう。私に云わせると居眠り坐禅公案禅は、ガラクタと同じようなものでしょうね。

本物の坐禅を求めて永平寺をやめて、臨済宗の寺を久松真一(1889―1980)先生に紹介されまして行きましたが、期待はずれで坐禅はしませんでしたよ。坐禅は形式的にやりますけど、朝の暁天坐禅・夜坐もありませんし、老師と云われるお師家さんは坐禅堂には出て来ませんしね。坐ったの見た事ないよ。臘八接心の最初の日の巡堂で見ただけです。単伝の坐禅がない。本当の坐禅は単伝に徹する事が生命ですよ。

「なんぞ親疎の命脈をたづねん」親しいとか疎縁とかどうでもいい。

「いかでか迷悟を論ぜん」迷いがどうだの、悟りがどうだの一切必要ありません。単伝に徹する事でいいんです。迷悟なんか問題じゃありません。

「たれか智断をもとめん」智断は解脱のことです。解脱を求める必要もない。

 

     第七段

南嶽いはく、若學坐佛、佛非定相 。いはゆる道取を道取せんには恁麼なり。坐佛の一佛二のごとくなるは、非定相を莊嚴とせるによりてなり。いま佛非定相と道取するは、佛相を道取するなり。非定相佛なるがゆゑに、坐佛さらに迴避しがたきなり。しかあればすなはち、佛非定相の莊嚴なるゆゑに、若學坐禪すなはち坐佛なり。たれか無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん。取捨さきより脱落せるによりて坐佛なるなり。

「若学坐仏、仏非定相」もし坐仏を学せば、仏は定相にあらず。これは若学坐仏、仏非定相と棒読みにした方がいいでしょうね。

「いはゆる道取を道取せんには恁麼なり」道取の取は強めの助辞ですから、この発言はという意で、同じ道取を繰り返しますが、こういう言い用しかしか言い用がないと云う意味合いです。

「坐仏の一仏二仏の如くなるは、非定相を荘厳とせるによりてなり」これは、だれが坐っても仏さんなんだ。若い者が坐っても坐仏、老僧が坐っても坐仏ですよ。年齢の如何、男女の如何にも関わりません。坐禅したら坐仏なんです。その根本となるものが「非定相」なんです。「荘厳」この場合は姿ですね。非定相という姿でなければならない。

「いま仏非定相と道取するは、仏相を道取するなり」仏の仏相を道うは仏の相(姿)を道うと。

「非定相仏なるが故に、坐仏さらに迴避しがたきなり。しかあればすなはち、仏非定相の荘厳なる故に、若学る坐禅すなはち坐仏なり」定相という事は黙って静かになる事ですね。「非定相」は定相に非ずと読んだら間違いで非定相でなければならない。つまり定相の根本条件が非であるとの意です。この非は非思量の非と同じ非です。人間の小細工でやってる定相であってはならない。数息観や不浄観が小細工ですよ。道元禅師の坐禅には数息観はございませんよ。全てを放棄した姿が非定相ですよ。

「坐仏さらに迴避しがたきなり」坐仏を嫌だと云う訳にはいきませんぜ。非が仏の姿ですから。仏非定相という荘厳ですから、若学坐禅を行ずることが非定相を行じ、それが坐仏であると。

「たれか無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん。取捨さきより脱落せるによりて坐仏なるなり」自然には取捨はありません。人間の世界に於いて取捨がある。気に入ったのは取り込み、気に入らんのは捨てるでしょうが。ですから『信心銘』(三祖僧璨撰)では「至道無難、唯嫌揀択」と申します。嫌うのはこちらの都合で嫌うんですから。自我が入ったら非じゃありません。定相も人間の小細工が入る定相ではありません。ですから只管打坐なんです。非定相を別語で只管打坐と言うんです。

 

     第八段

若執坐相、非達其理。 いはゆる執坐相とは、坐相を捨し、坐相を觸するなり。この道理は、すでに坐佛するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ。いまだかつて坐せざるものにこの道のあるにあらず。打坐時にあり、打坐人にあり、打坐佛にあり、學坐佛にあり。たゞ人の坐臥する坐の、この打坐佛なるにあらず。人坐のおのづから坐佛佛坐に相似なりといへども、人作佛あり、作佛人あるがごとし。作佛人ありといへども、一切人は作佛にあらず、ほとけは一切人にあらず。一切佛は一切人のみにあらざるがゆゑに、人かならず佛にあらず、佛かならず人にあらず。坐佛もかくのごとし。

南嶽江西の師勝資強、かくのごとし。坐佛の作佛を證する、江西これなり。作佛のために坐佛をしめす、南嶽これなり。南嶽の會に恁麼の功夫あり、藥山の會に向來の道取あり。しるべし、佛々祖々の要機とせるは、これ坐佛なりといふことを。すでに佛々祖々とあるは、この要機を使用せり。いまだしきは夢也未見在なるのみなり。おほよそ西天東地に佛法つたはるゝといふは、かならず坐佛のつたはるゝなり。それ要機なるによりてなり。佛法つたはれざるには坐禪つたはれず、嫡々相承せるはこの坐禪の宗旨のみなり。この宗旨いまだ單傳せざるは佛祖にあらざるなり。この一法あきらめざれば萬法あきらめざるなり、萬行あきらめざるなり。法々あきらめざらんは明眼といふべからず、得道にあらず。いかでか佛祖の今古ならん。こゝをもて、佛祖かならず坐禪を單傳すると一定すべし。

佛祖の光明に照臨せらるゝといふは、この坐禪を功夫參究するなり。おろかなるともがらは、佛光明をあやまりて、日月の光明ごとく、珠火の光燿のごとくあらんずるとおもふ。日月の光耀は、わづかにこれ六道輪廻の業相なり、さらに佛光明に比すべからず。佛光明といふは、一句を受持聽聞し、一法を保任護持し、坐禪を單傳するなり。光明にてらさるゝにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。

しかあればすなはち、古來なりといへども、坐禪を坐禪なりとしれるすくなし。いま現在大宋國の諸山に、甲刹の主人とあるもの、坐禪をしらず、學せざるおほし。あきらめしれるありといへども、すくなし。諸寺にもとより坐禪の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禪するを本分の事とせり、學者を勸誘するにも坐禪をすゝむ。しかあれども、しれる住持人はまれなり。このゆゑに、古來より近代にいたるまで、坐禪銘を記せる老宿一兩位あり、坐禪儀を撰せる老宿一兩位あり。坐禪箴を記せる老宿一兩位あるなかに、坐禪銘、ともにとるべきところなし、坐禪儀、いまだその行履にくらし。坐禪をしらず、坐禪を單傳せざるともがらの記せるところなり。景徳傳燈録にある坐禪箴、および嘉泰普燈録にあるところの坐禪銘等なり。あはれむべし、十方の叢林に經歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禪のおのれが身心をきらふにあらず、眞箇の功夫こゝろざゝず、倉卒に迷醉せるによりてなり。かれらが所集は、たゞ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の經営なり。觀練薫修の階級におよばず、十地等覺の見解におよばず、いかでか佛々祖々の坐禪を單傳せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩學すててみるべからず。

坐禪箴は、大宋國慶元府太白名山天童景徳寺、宏智禪師正覺和尚の撰せるのみ、佛祖なり、坐禪箴なり、道得是なり。ひとり法界の表裏に光明なり、古今の佛祖に佛祖なり。前佛後佛この箴に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。かの坐禪箴は、すなはちこれなり。

若執坐相、非達其理。 いはゆる執坐相とは、坐相を捨し、坐相を觸するなり。この道理は、すでに坐佛するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ。いまだかつて坐せざるものにこの道のあるにあらず。打坐時にあり、打坐人にあり、打坐佛にあり、學

、學坐佛にあり。

     ―テープ欠―

「たゞ人の坐臥する坐の、この打坐仏なるにあらず。人坐のおのづから坐仏仏坐に相似なりといへども、人作仏あり、作仏人あるがごとし。作仏人ありといへども、一切人は作仏にあらず、ほとけは一切人にあらず。一切仏は一切人のみにあらざるが故に、人必ず仏にあらず、仏必ず人にあらず。坐仏もかくの如し」

「ただ人」とは一般の人との意で、一般の人が胡坐をかくのが「打坐仏」と云うんじゃありませんぜ。私らの坐るというのは仏様の坐を坐るんで、自分勝手な坐りじゃないですよ。川上哲治(1920―2013)が坐禅したとか、精神修養の為に相撲取りが坐禅したとか云いますが、私たちの坐禅は信仰の坐禅ですよ。人間的効果を狙うのは坐禅とは呼べません。宗門の坐禅は何処までも坐仏の坐です。

「人坐のおのづから坐仏仏坐に相似なりといへども、人作仏あり、作仏人あるが如し」

人が自分から足を組んで仏に同じようにしたと云っても、人作仏・作仏人ありと変な言葉でしょう。「人作仏」というのは人が仏を作る。あるいは仏と作りし人。あるいは仏と作りし人。人が作仏する。こう読んでもいいですよ。いろいろ言い回しがあります。第二段に「

彫龍を愛するより、すすみて真龍を愛すべし。彫龍・真龍ともに雲雨の能あること学習すべし」とありますが、彫龍というのは人間が真似たことですよ。真龍というのは仏なんです。坐禅することが彫龍、坐仏は彫龍に相当します。彫龍がそっくりそのまま真龍に成るんですよ。どんな人間でも坐禅の真似をすれば、真似が本物に成るんです。ですから彫龍・真龍ともに雲雨の能あること学習すべしと有りますね。

「人坐」はたしかに仏じゃない。人坐がそのまま坐仏・仏坐と、彫龍と同様似ています。仏の成り具合を「人作仏」と言ったり「作仏人」と言うんだと。これは同じ意味ですよ。

「作仏人ありと云えども、一切人は作仏にあらず、ほとけは一切人にあらず」

だれもが作仏人と言うわけではありませんよ。坐れば作仏人ですが坐らなければ作仏人じゃありません。仏は一般人ではありませんから、一切人にあらずです。

「一切仏は一切人のみにあらざるが故に、人必ず仏にあらず、仏必ず人にあらず。坐仏もかくの如し」

一切仏に成るには手続きがあります。そのままでは仏じゃありませんぜ。その手続きは坐仏という手続きです。坐仏という条件が備わってこそ仏に成る。

これまでが坐禅の概略の説明でした。

「南嶽江西の師勝資強、かくの如し。坐仏の作仏を証する、江西これなり。作仏のために坐仏をしめす、南嶽これなり」

南嶽(懐譲)は師匠・江西(馬祖)は弟子の関係を「師勝資強」と云ったんです。『景徳伝灯録』五・南嶽章そのまま読んでも、このような解釈は出来ませんよ。永平門下人は『坐禅箴』巻に示されるよう読解し、親しむよう願いたいものです。

「坐仏の作仏を証する」とありますが、坐仏の作仏を実証すると置き換えると理解しやすく、実践するの意です。馬祖がそれを実行した「江西これなり」。作仏の為に坐仏を示したのが南嶽であると。二人の役割を南嶽→作仏→坐仏を江西→坐仏→作仏と配役したと。

「南嶽の会に恁麼の功夫あり、薬山の会に向来の道取あり。知るべし、仏々祖々の要機とせるは、これ坐仏なりと云うことを。すでに仏々祖々とあるは、この要機を使用せり。いまだしきは夢也未見在なるのみなり。おほよそ西天東地に仏法伝わるゝと云うは、必ず坐仏の伝わるゝなり」

南嶽懐譲の道場に、このような修行が行われていたと。薬山惟儼の道場では先程示した非思量の道取ありと。

知るべし仏祖の肝心要な処は、坐仏であると。仏祖となるには坐仏をしなければならない。そこまで到達しない者は、まだ夢にも見ていないだろう。

西天はインドで東地は支那ですね。仏法が伝わるとは坐仏が伝わります。学問では信仰が伝わりません。

私が知ってる、ある有名な世界的学者なんですけどね、その人の信仰ときたら、無邪気なもんでね。その辺の爺さん婆さんと同じような信仰なんです。そこには伝統のと云うものがわかっちゃいない。その人には坐仏が伝わらないからです。

「それ要機なるによりてなり。仏法伝われざるには坐禅伝われず、嫡々相承せるはこの坐禅の宗旨のみなり」

仏法=坐禅の連綿性を云います。私の子供の頃習ったのは、禅宗は仏法の総譜なりと思ってたんです。ところが境野黄洋(1871―1933)さんが書いた『日本仏教史小史』を見てみると、どれが仏教の本家筋かさっぱりわからんもんね。我々の日常は五十七仏を称えますが、境野さんの本には何も触れてないんです。

正法眼蔵の研究書がありますが、なかにはとんでもない語訳が有りますよ。駒沢大学では眼蔵の現代語訳演習をしますが、出来上がったものは喰わせもんばかりで、辻褄合わせの和訳ですから、さっぱりわかりません。

道元禅師の文章は非常に簡潔ですから、補足説明が大変なんです。岸沢惟安(1865―1955)さんの『正法眼蔵全講』二十四巻のような膨大な量になるんです。

「この宗旨いまだ単伝せざるは仏祖にあらざるなり。この一法あきらめざれば万法あきらめざるなり、万行あきらめざるなり。法々あきらめざらんは明眼と云うべからず、得道にあらず。いかでか仏祖の今古ならん。こゝをもて、仏祖かならず坐禅を単伝すると一定すべし」

この宗旨云々が私たちの信仰ですよ。仏教史の立場ではなく、正伝の仏法が私達の信仰ですよ。

私は三年に一回づつ立正大学に特別講義に行きますよ。東京の大学では各校が巡回して私が立正大学に行くと、立正大学の先生が駒沢大学に来て講義するんですよ。私らから見ると日蓮さんはお粗末ですが、立正大学では日蓮お上人ですからね。

この頃はクリスチャンの方も仏教を理解する為、プロテスタントの牧師さん百五六十名が総持寺に来たんですよ。それに総長の榑林皓堂(1893―1988)さんと私が講義しましたよ。次は上智大学に行かなきゃなりませんよ。この前は修道院に行きましたよ。向こうの行鉢も体験し、コーヒーもおいしかったですよ。日本人はいないんですよ。カトリックの修道士で日本に来て五年以内の人なんですよ。

その時に云うのが、「私の話は眉唾ものだから気をつけて聞け」と云うんですよ。と云うのは、宗教というのは自分が信じる宗教が一番いいと思ってるんですからね。日常品の箒ならデパートの特売場で間に合わせられますが、これが宗教・信仰になったら百円均一では済まないでしょう。

教会の話の時でも「私の云う事は自分の宗教が一番いいものと信じていると、他の宗教はボロカスだと思っているから、そのつもりで聞いてくれ」と云うんですよ。向こうさんもニコニコしながら、その通りという顔してますがね。

万法あきらめざる・万行きらめざると繰り返し強調されます。「法々あきらめざらん」とは坐禅が坐仏であり仏坐である事を指します。「いかでか仏祖の今古ならん」の今古は永遠の意で、「仏祖かならず坐禅を単伝するお一定すべし」と皆さん単伝してください。

「仏祖の光明に照臨せらるゝと云うは、この坐禅功夫参究するなり。愚かなるともがらは、仏光明をあやまりて、日月の光明ごとく、珠火の光燿のごとくあらんずると思う。日月の光耀は、わづかにこれ六道輪廻の業相なり、さらに仏光明に比すべからず。仏光明と云うは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。光明にてらさるゝにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり」

「仏祖の光明」と云うことが出てまいりました。我々が坐禅するというのはなか々の事ですね。縁がないわね。この道元禅師の坐仏・仏坐の坐禅をやろうと思っても余程運が良くなければ出会えませんわ。私ら寺出身ですから、自分で選んで曹洞宗の坊主なったんじゃないよ。私が坐禅始めたのは中学(旧制)の時ですよ。四年生・五年生になりますと、校長が修身の授業やりましてね。その校長は坐禅マニアで修身の時間に坐禅をやらせるんですよ。柔道場は畳敷きですからそこへ連れて行きやるんですが、私らは修身の時間はお説教と云ってましたがね。六祖さんの話もお寺さんからではなく、その校長から聴いたもんね。その校長は鎌倉の釈宗演(1860―1919)のお弟子さんだったんだね。その奥さんが寺の娘だったそうだ。その校長が禅宗ゼンシュウと云うから、家に帰ってこの辺に禅宗の寺が有るかと聞いたら「うちが禅宗だ」と云ったね。私ら寺に居っても坐禅したのを見た事ないしね、私は自分で選んだ訳でもないのに、気が付いたら坐禅してた。余程運が良いのね。

「仏祖の光明に照臨せらるゝと云うは、この坐禅功夫参究するなり」

たしかに仏さんの恵みとしか考えなきゃ、坐禅功夫なんて考えられませんもんね。

「愚かなる輩は、仏光明を誤りて、日月の光明ごとく、珠火の光燿の如くあらんずると思う」

なんだか仏光明と云うとカーッと照らすような気がするのね。「珠火の光燿の如くあらんずると思う」大抵宗教の物語はそうじゃないですかね。

「日月の光耀は、わづかにこれ六道輪廻の業相なり」

六道輪廻と申しますのは、六道と云うと地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天と申しまして、その間を巡る業相と云いまして、人間的なものですね。異常心理と云っていい。幻覚症状と云ったらいい。私の叔母が死ぬ時には、阿弥陀仏の来迎図が見えたらしく、二十五菩薩名を唱えながら死んでったそうです。山越えの弥陀図の古いものには、印相の所から糸が垂れていて、死ぬ間際にその糸を握りながら阿弥陀様と共に、西方浄土に往くという信仰が平安朝から有ったそうです。

「さらに仏光明に比すべからず。仏光明と云うは、一句を受持聴聞し、一法を保任護持し、坐禅を単伝するなり。光明に照らさるるに及ばざれば、この保任なし、この信受なきなり」

道元禅師の仏光明という一句を受持聴聞とは仏祖のおことばを頂戴する事で、一法を保任護持し、そして坐禅を単伝する事だと。よく聴聞し如法に坐禅する、これが仏光明に照らされて居ればこそ坐禅が出来る。つまり仏の恵みによって正しい坐禅が出来るという事です。有り難いことですよ。

「しかあればすなはち、古来なりと云えども、坐禅坐禅なりと知れるすくなし。いま現在大宋国の諸山に、甲刹の主人とあるもの、坐禅をしらず、学せざるおほし。あきらめしれるありと云えども、すくなし。諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、学者を勧誘するにも坐禅をすゝむ。しかあれども、しれる住持人は希なり」

「古来なり」とは昔からと云う事で、達磨さんが支那に来たのが五百年代ですから、道元禅師在宋期は千二百年代ですから、七百年近く経ってるわけです。

大抵は坐禅を解脱の手段として考える。坐禅坐禅として取り扱う事がなかったら、「坐禅坐禅なりと知れる少なし」と言ったんです。

当時の「大宋国の諸山」と申しますと五山十刹と云われる寺々の主人達は悟り禅をやってたから「坐禅を知らず」と言います。その時分は看話禅の真っ盛りですからね。その中には坐禅の要術を心得ていた人も「あきらめしれるありと云えども、すくなし」と。

このすくなしの中には如浄禅師も入るわけです。そのまた師匠の真歇清了という人もその中に入るわけですね。宏智禅師もそうです。ほんのわづかであったと、そういう意味合いです。

どの寺でも坐禅する時間が決まってたんですね。清規というものが有りましたから。その時分の清規は『禅苑清規』だったでしょうね。道元禅師が帰朝されてから勅修清規が出まして(元の至元四年(1338)百丈山の徳輝が編集)、螢山清規は勅修清規が元になるでしょう。

坐禅を本分の事」として坐禅を勧めていたけれども、本当の坐禅を知ってる連中は、ほんのわづかであったと。

「この故に、古来より近代に至るまで、坐禅銘を記せる老宿一両位あり、坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、坐禅儀、いまだその行履にくらし。坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。景徳伝灯録にある坐禅箴、および嘉泰普灯録にあるところの坐禅銘等なり。あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生を過ごすと云えども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫こゝろざゝず、倉卒に迷醉せるによりてなり。」

昔から道元禅師の時代までに坐禅銘を書いた老宿一両位あり、坐禅儀を撰した一老宿が居た。坐禅箴を書いた一老宿が居る。坐禅銘は採るべき所なく、坐禅儀は坐禅の仕方を書いたものですが、「その行履にくらし」とは坐禅の実際がわかっちゃいないと。「坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり」小説家や新聞記者のような者が、何も知らずに文章の継ぎ足しでやるようなもんです。

坐禅儀」というものには、仏心智才と長蘆宗賾の坐禅儀が有ります。「坐禅銘」は仏眼清遠(『嘉泰普灯録』)・天台大静(『諸祖師偈頌』二)・同安常察(『諸祖師偈頌』一)道元禅師は後に言う宏智禅師撰の「坐禅箴」を推奨する為のものです。

「景徳伝灯録にある坐禅箴」景徳伝灯録は三〇巻あります。宋の景徳元年(1004)に出来ております。この語録集は千七百人を取り扱っています。臨済の人たちが云う1700の公安というのはこの事ですね。

「嘉泰普灯録にあるところの坐禅銘」嘉泰普灯録というのも三十巻で、嘉泰四年(1204)成立です。仏心智才の坐禅儀があります。

 

「あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫こゝろざゝず、倉卒に迷醉せるによりてなり。かれらが所集は、たゞ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり。観練薫修の階級におよばず、十地等覚の見解におよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。

坐禅箴は、大宋国慶元府太白名山天童景徳寺、宏智禅師正覚和尚の撰せるのみ、仏祖なり、坐禅箴なり、道得是なり。ひとり法界の表裏に光明なり、古今の仏祖に仏祖なり。前仏後仏この箴に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。かの坐禅箴は、すなはちこれなり。」

    ―テープ欠―

    第九段

 坐 禪 箴           勅謚宏智禪師 正覺 撰

佛々要機、祖々機要。不觸事而知、不對縁而照。不觸事而知、其知自微。不對縁而照、其照自妙。其知自微、曾無分別之思。 其照自妙、曾無毫忽之兆。 曾無分別之思。 其知無偶而奇。曾無毫忽之兆、 其照無取而了。水清徹底兮、魚行遲々。空闊莫涯兮、鳥飛杳々。

いはゆる坐禪箴の箴は、大用現前なり、聲色向上威儀なり、父母未生前の節目なり。莫謗佛祖好なり、未免喪身失命なり、頭長三尺頸長二寸なり。

何だかキツネに撮まれたような変な文ですね。

「大用現前」とは大変な事だという事ですね。仏法が丸出しだと云ってもいいですね。それから「声色向上威儀なり」声色向上と云いますと、私たちの感覚ですよ。感覚を超越した所のあり方が「威儀」です。我々の感覚世界を超えた所の真実世界という処です。

「父母未生前の節目なり」父母未生前と云いますのは、人間以前の姿ですかね。つまり坐禅の姿を父母未生前の姿と云います。本来の姿のことを云うんです。それから「莫謗仏祖好」仏祖を謗ずること莫くんば好し。趙州のことばの中にこの言葉が有るんです。いろんな説法をいたしましても、その説法がうっかりいたしますと、仏祖を冒瀆する事になる。ですからしゃべらん方がいいんだ。ところがこの坐禅箴は仏祖を冒瀆していないと云う事ですから、及第を言ってるんです。これには『禅林類聚』の中にあることばで、趙州の弟子のなかで「光孝慧覚禅師というのが、法眼文益(885―958)の処に到りまして、法眼が「お前何処から来たか」と聞くから「趙州」と答えた。そうすると法眼は「この頃趙州の処では庭前の栢樹子と云うが本当か」と聞くと、慧覚は「そんな事ございません」と云うんだ。法眼はさらに「如何是祖師西来意に対し、いつも趙州は庭前の栢樹子と云う有名な話を何故お前は知らないんだ」と再問すると、慧覚は「趙州にはそんな庭前の栢樹子というものはない」と云い、さらに「和尚(法眼)先師を謗ずる事なくんば好し」と、私の師匠(趙州)を馬鹿にするなと云ったと。このような故事から「莫謗仏祖好」としたんですが、最高の褒めことばです。

それから「未免喪身失命」の喪身失命とは命が失くなる事で、凡夫が仏に成ること・解脱を云うんです。つまりこの宏智の坐禅箴は身心脱落そのものと云う意味です。

それから「頭長三尺頸長二寸」というのは、頭の長さが三尺で首の寸法が二寸。異様な形という事ですが、三尺・二寸は寸法うぃ云うのではなく、無限の姿を言ってます。もともとこれは曹山録のなかに、「如何是沙門行」と云ったら、「頭長三尺頸短二寸」と云ったと。つまりは、祖師西来意は無限大のものであると云うものである。これも坐禅箴を讃嘆した言葉です。

いはゆる坐禪箴の箴は、大用現前なり、聲色向上威儀なり、父母未生前の節目なり。莫謗佛祖好なり、未免喪身失命なり、頭長三尺頸長二寸なり。

佛々要機。佛々はかならず佛々を要機とせる、その要機現成せり、これ坐禪なり。

祖々機要。先師無此語なり。この道理これ祖々なり。法傳衣傳あり。おほよそ回頭換面の面々、これ佛々要機なり。換面回頭の頭々、これ祖々機要なり。

これから宏智の坐禅箴の拈堤です。

「佛々は必ず仏々を要機とせる」当たり前の事でしょう。仏は何処までも仏でなきゃいけませんわね。仏は仏であると云う要機によって仏に成っていると。その要機の肝心要が坐禅である。

「祖々の機要」これは仏祖を分けたもので本来は一つなんですが、文学的表現で仏と祖に分けての説明です。

「先師無此語」先師に此の語無しとは、法眼和尚の処に趙州のお弟子さんが往った時に、法眼が「お前さんは趙州さんの所から来たけど、趙州さんには庭前の柏樹子があるそうだが本当かい」と聞いたら、趙州の弟子の慧覚は「そんなものはありません」と答えたが、法眼さん納得せず、「如何是祖師西来意と聴いたら庭前の栢樹子と云うのは皆承知だ。知らないのはお前だけだ」と。それに対し慧覚は「先師に此の語無し」と答える。

この「先師無此語」どういう事かと云うと、先師はだれでもいいんです。趙州に限りません。機要についての発言がない。仏坐には言葉は有りません。大自然には説明がありません。事実そのものを「先師無此語」と云ってるんです。

九段目に「若執坐相、非達其理。若し坐相を執すれば、其の理に達せず」とありましたが、本当に坐禅をした時には、お前の理解はないんだと。納得ではないんだと非達其理。納得しようがしまいが坐れるものでなければならない。この実態を「先師無此語」と言ったんだ。

「この道理これ祖々なり」坐禅そのものが仏祖で機要ですね。「法伝衣伝あり」仏法には法伝と衣伝両方あるんですね。仏法を伝えるのと袈裟を伝えるのは一緒なんですね。仏教徒のある所で袈裟のない所はないものね。仏教徒は皆袈裟を掛けてる。仏法が伝わるとは袈裟が伝わる事なんですね。坐禅は単なる坐禅ではなく仏坐なんですね。坐禅はそっくり仏に供養しきったものなんですね。坐禅は自分がするんでなくて、仏様がやっていると。体はそうであっても裸では居られませんから、仏様と同じものを着なきゃ仏坐にはなりませんから、お袈裟が必要なんです。ですから「正法眼蔵」には『袈裟功徳』巻と『伝衣』巻があるんです。宗門だけですよ、大衣を拝むのは。お袈裟を頭の上に頂くのは他の宗旨には無いことですよ。わが宗門のお袈裟は装飾ではありませんし、信仰ですから『袈裟功徳』巻のようなものがあるんです。

「おほよそ回頭換面の面々、これ仏々要機なり。換面回頭の頭々、これ祖々機要なり」

「回頭換面」は首を回すことで、「換面回頭」も同じことで、人間が変わる様を云うもので、凡夫が仏に変わる事を「仏々要機、祖々機要」と言ったんです。坐禅した様子を回頭換面もしくは換面回頭と形容したんです。

不觸事而知。知は覺知にあらず、覺知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆゑに、知は不觸事なり、不觸事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。その不觸事といふは、明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なり、坐破嬢生皮なり。

「不觸事而知」事に触れずして知る、有名なことばですよ。よく坐禅をして居りまして漆桶打破したとか、坐禅したら悟りが開けて宇宙全体わかったとか、そんな事を「不触事而知」と云うんじゃありませんよ。

「知は覚知にあらず、覚知は小量なり」覚知は寒い暑いの感覚の事です。考えることも「覚知」です。この覚知は感覚器官の中の問題で、小さいものです。

「了知の知にあらず、了知は造作なり」了知の了は了解のことです。了知も覚知も同じようなものです。

「かるが故に、知は不触事なり、不触事は知なり」体全体、生きてる事実を知と云ってるんです。我々の生きてる姿が自然の姿で、これを知と呼ぶんです。病気の診断は、医者ではなく体がやってます。医者は事後判定ですが、体は時々刻々と自然と共に知で生き続けています。このことを「事に触れずして知る」と言います。

「遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず」遍く知るなんて事は云えません。自分がわかったと云う事はないので、自知と局量すべからず。

「その不触事といふは、明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なり、坐破嬢生皮なり」明頭来云々は臨済録に出てまいります普化和尚の伝言で、「明るければ明るいまま、暗ければ暗いまま」の意で、朝になれば眼が醒め、夜になれば眠くなるといった本来の在り方を云ったもので、

坐破嬢生皮とは、生身の体で以て坐禅する事が不触事で、打坐が宇宙いっぱいに通ずる事を云います。

不對縁而照。この照は照了の照にあらず、靈照にあらず、不對縁を照とす。照の縁と化せざるあり、縁これ照なるがゆゑに。不對といふは、遍界不曾藏なり、破界不出頭なり。微なり、妙なり、回互不回互なり

「不対縁而照」縁に対せず照らす。これは同じ事を云ってるんです。先の不触事而知に対する対句で、縁は所縁ですから対象なしに照らすの意です。ここの照はサーチライトで照らすんじゃありませんぜ。「霊照」は霊体が照らし出す事でもなく、「不對縁」を照らすと云うことです。不対縁とは我々の生きている・生かされてる事が照であると。我々の本来の面目・姿を照と云うんだ。坐禅をしなければ本来の姿はないわけです。ですから只管打坐した坐禅を不対縁と云う。

「照の縁と化せざるあり、縁これ照なるが故に」

対立関係がありませんから、縁はないですよ。縁と照とは同じものです。我々は相手なしに黙って坐禅している。これを照と云うと。

「不対と云うは、遍界不曾蔵なり、破界不出頭なり。微なり、妙なり、回互不回互なり」

宇宙一杯が「遍界不曾蔵」で、不曾蔵とは曾(かつ)て蔵(かく)さずですね。宇宙は何処まで往っても遍界なんです。どんな場でも遍界なんです。つまりどのような人間でも坐禅すれば、宇宙いっぱいの坐禅なんです。本来の姿は個人持ちは御座いません。私たちの命は個人ではなく、遍界そのものなんです。遍界が私達に物云わせ考えさせてるんです。遍界そのものが自己で、これを不対と云うんです。黙って坐る事が遍界不曾蔵です。遍界と云うと高い山登って「あー広いなー」とそんなチッポケな事云うんじゃありませんよ。富士山から東京まで見えますが、お前さんの視界だけしか見えませんよ。見えた範囲で感心してるんですからね。その見ていると云う事が、宇宙一杯の力によって、私たちはその遍界を見ているんですから。

「破界不出頭なり」そこには境涯はありません。世界崩壊ですよ、自由自在ですね。界は破れ頭は出さず、ですから何処にも出る余地は有りませんぜ。

「微なり、妙なり、回互不回互なり」

ところがこの微細なものが、遍界不曾蔵で坐ってるんですから、大したもんですね。そういう味わいの事を「妙なり」と言うんです。回互不回互つまり坐禅は個人一人きりで孤独なんですが、その極限が不回互で、ところがその不回互でありましても、その極限が遍界不曾蔵に置いているわけですから、回互不回互と言うんです。遍界は無限ですから、その事を「回互不回互」と言ったんです。

其知自微、曾無分別之思。思の知なる、かならずしも佗力をからず。其知は形なり、形は山河なり。この山河は微なり、この微は妙なり、使用するに活潑々なり。龍を作するに、禹門の内外にかゝはれず。いまの一知わづかに使用するは、盡界山河を拈來し、盡力して知するなり。山河の親切にわが知なくば、一知半解あるべからず。分別思量のおそく來到するとなげくべからず。已曾分別なる佛々、すでに現成しきたれり。曾無は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち曾無分別は不逢一人なり。

この「知」と云いますのは、不触事而知の知ですから対象なしです。坐禅そのものが知そのものである。つまり遍界不曾蔵で宇宙いっぱいを知る事になる。そういう意味の「知」です。

「其知自微」其の知自づから微なり。この知というものは微妙なもので、私達の感覚ではどうする事も出来ないわけですから、微と云います。

「曾無分別之思」曾(かつ)て分別の思なし。そこには人間の入る余地がない。私たちの感覚で以て判断したり分別する事は絶対に出来ません。

「思の知なる、必ずしも他力をからず」無分別之思・普通は分別の思なしと読みますが、無分別之思としましょう。其の知は微妙なもので、昔から無分別之思であったと。無分別を世間ではデタラメやる事を云いますが、仏教ではこの無分別が重要なことなんです。私たちの生きてる姿が無分別なんです。無分別の思は知で、「他力をからず」とは、それ自身の生きてる力の事を知と言ったわけですから、「他力をからず」。

「其知は形なり、形は山河なり」其の知は形(ぎょう)なり。つまり私たちは人間の形をし、眼鼻があり、呼吸している。その姿が「知」なんです。感覚の知ではなく宇宙生命そのものが知ですよ。この体が知で形なんです。ですから山の形も知で、川の姿も知。我々の体も山の形も知であるからには同じなんだ。猫の「ニャーン」も知だね。「形は山河なり」山河の姿と私の存在は同じなんだ。私一個の小さな存在がノミと同じなんだ。私のこの小さな存在が、太陽と同じことやね。私が風邪ひいて咳すると太陽が黒点作ってデリンジャー現象起こして、電波障害起こし大騒ぎする。あれも太陽の風邪かも知れませんがね。その位のもんですよ。そのハタラキを「知」と呼ぶんです。

「この山河は微なり、この微は妙なり、使用するに活潑々なり」

このハタラキは非常に微妙なものです。私たちが微なら山河も微です。このあり方を妙と云うんです。「使用する」とはそのハタラキの事ですね。実にイキイキした状態が「活潑々」です。山に樹木が生えている姿が活潑々ですよ。我々から云うと病気をしたり、風邪をひいたり、不景気な顔になったり、愚痴を並べてみたり、これらも自然の生き生きした姿活潑々ですよ。これが知です。

「龍を作するに、禹門の内外に関われず。いまの一知わづかに使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知するなり。山河の親切にわが知なくば、一知半解あるべからず」

昔の支那の物語では禹門は黄河の上流なんですがね、そこが急峻で谷に成ってるんですね。

その谷に鯉が登るんですよ。大抵の魚は登れないんですが、登りきった鯉は龍に成るんですが、それが登龍門の話です。龍に成るには禹門という関所が在りまして、そこを通過しなければ龍にはしてやらんと。仏法にはそんな関所は有りませんせんぜ。だれでもが坐禅してもらえれば仏ですよ。それを言ったんですね。

「今の一知わづかに使用するは、尽界山河を拈来し、尽力して知するなり」

一知わづかにと申しますと、ほんのわづかな営みを小さな男がするだけで、その坐ったという事が尽十方界ですね。宇宙いっぱいの事をやってるんですよ。

ですから「尽界山河を拈来して」宇宙を生かしている生の事実を受け止めたものが坐禅。平生、我々そんな事は問題にしないで明け暮れて居ります、これを人生という。「尽力して知するなり」努力して坐禅する事ですね。

「山河の親切にわが知なくば、一知半解あるべからず」

「山河の親切」とは、自然にピッタリの事を親切と言います。つまり尽十方界にピッタリですよ。つまり坐禅をする事により自然と一体になる。これが「知」です。「一知半解あるべからず」一知半解と申しますのは大きさに関わりません。「一知」というのは尽界を云うわけですね。我々が黙って坐って事が尽界そのままになりますから。尽界そのものの親切によって私達は生きて居ります。そのことを山河の親切にわが知があるんです。それで日常生活やっているわけです。どんな小さな日常生活の営みも、宇宙の智慧によってやってるわけですね。

我々は主客顛倒して居ります。本来の主人公はと云いますと、「俺が俺が」じゃなくて我々が知らない自然の力に依って物を見させてもらている、経済問題も考えさせてもらっている、宇宙のことも考えさせてもらっている、と云う「一知半解」。これも元は何処かと云えば宇宙いっぱいの智慧から出て居る。

「分別思量のおそく来到すると嘆くべからず。已曾分別なる仏々、すでに現成しきたれり。曾無は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち曾無分別は不逢一人なり」

この「分別思量」と申しますのは、私達の知覚の事を云いますが、我々は中々分別は出来ません。分別が到来しない事もありますわね。そんな事は心配しなくていいですよ。本来は我々の体がわかってるから、心配しなくていいんだ。物がわからなくても生きていけますよ。猫が胃袋の構造・ジアスターゼの役割を知らなくても、我々より丈夫ですよ。

本来の智慧と云うものがありますから、宇宙とそっくりそのまま共通の智慧が有りますから、それがやってくれますから大丈夫。そういう所を「分別思量のおそく来到すると嘆くべからず」と。

「已曾分別」は昔ながらの分別で、本来の智慧と云ったらいいね。仏は本来の智慧です。いつでも現成してるんです。われわれの本来は仏です。体の方でちゃんと感覚してますよ。いちいち寒暖計を見ないと着物を着れないと云う事ありませんもんね。私の部屋には温度計なんか有りませんでしたよ。暑けりゃ暑く、寒けりゃ寒いだけで、それで済んでましたよ。ですから本来の智慧が体には有りますから、「已曾分別なる仏々、すでに現成しきたれり」です。

「曾無は已曾」曾無は曾て分別の思無しの曾無で、曾無も已曾も同じことで、本来の智慧です。「已曾は現成なり」我々の面目はすでにある、いうでもある。「しかあればすなはち曾無分別は不逢一人なり」曾無分別は本来の知ですから、人様からお厄介になる必要はない事を「不逢一人」と言ったんです。元々本来自然に具わっていると云う事です。有難いことですよ。我々には何の不足が有りますかね。世間の顔みると、みんな不足ったらしい面してるもんな。不足を云えると言うことが授かってるんだものね。不平を言える事が有り難いことやね。

其照自妙、曾無毫忽之兆。毫忽といふは盡界なり。しかあるに自妙なり、自照なり。このゆゑに、いまだ將來せざるがごとし。目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、直須旨外明宗、莫向言中取

則なるは、照なり。このゆゑに無偶なり、このゆゑに無取なり。これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我卻疑著なり。

「其照自妙」其の照自づから妙なり、これはいいですね。「曾無毫忽之兆」曾て無毫忽之兆なりと読みます。昔から毫忽の兆なんかありゃしないと。「毫忽といふは盡界なり」毫忽といふのはほんの僅かと云う意味ですが、毫忽という事が尽界なり。大きな声出す時だけが大変じゃなく、小さな咳払いと同じ構造なんですよ。

「しかあるに自妙なり、自照なり」こういう事が自妙と云う事ですね。自然そのものが現われているから自照と云ったわけです。「この故に、いまだ将来せざるがごとし」どっからも貰わなくてもいいですよ。みんなそれぞれが備わっています。不平云う処、ありゃしませんよ。不自由も感ずるまで恵まれてるんじゃないかと。恵まれてなかったら不平も云えません。

「目を怪しむことなかれ、耳を信ずべからず、直須旨外明宗、莫向言中取則なるは、照なり。この故に無偶なり、このゆえに無取なり。これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我却疑著なり」

我々は自分の感覚器官だけで以て右往左往して居りますけれども、目が見えなくても狼狽える事はない。自分の耳で聴いたばかりが、いいんじゃないですから。それ以外のものが有る。感覚が全てではないと云う事ですね。「直須旨外明宗」は須らく旨外明宗すべし。旨外とは世間以外のことですね。世間の常識で判断してはいけません。それ以上のものを明らめていかなければならない。「莫向言中取則」言中に取則すること莫れですね。言葉だけで判断してはいけません。こういう事が「照」であると。

「この故に無偶なり、この故に無取なり」偶とは並ぶ形、独立の形を偶と云う。坐禅には相手がありませんが、宇宙と共に坐ってるんだ。余所から見たら不満足のようだけれども、これ位完全なものはありません。他に取り込むものもありませんし、必要もありません。

「これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我却疑著なり」一人きりが完全である事を奇特なものと戴き、信じ保任することです。つまり坐禅する事が宇宙いっぱいの真実と了解したことです。この了解は自己合点の了解ではなく、「我却疑著」として疑問として残っているんです。この疑著は解決できないものです。

水清徹底兮、魚行遲々。水清といふは、空にかゝれる水は清水に不徹底なり。いはんや器界に泓澄する、水清の水にあらず。邊際に涯岸なき、これを徹底の清水とす。うをもしこの水をゆくは行なきにあらず。行はいく萬程となくすゝむといへども不測なり、不窮なり。はかる岸なし、うかむ空なし、しづむそこなきがゆゑに測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり。坐禪の功徳、かの魚行のごとし。千程萬程、たれか卜度せん。徹底の行程は、擧體の不行鳥道なり。

「水清徹底兮」水清うして底に徹すとは、底が見える事では御座いません。時間がありませんから、宏智さんの本文だけ説明しますよ。底が抜けることです。底がないんです。我々の坐禅は底なしの坐禅で、影がないんです。それが只管打坐の坐禅と云うんだ。

「魚行遅々」魚は何処に行くとか目的なしで、ゆったりしてる。これが我々の坐禅の姿ですよ。我々の本当の生き方は「水清うして底に徹し、魚行いて遅々たり」

空闊莫涯兮、鳥飛杳々。空闊といふは、天にかゝれるにあらず。天にかゝれる空は闊空にあらず。いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。隱顯に表裏なき、これを闊空といふ。とりもしこの空をとぶは飛空の一法なり。飛空の行履、はかるべきにあらず。飛空は盡界なり、盡界飛空なるがゆゑに。この飛、いくそばくといふことしらずといへども、卜度のほかの道

取を道取するに、杳々と道取するなり。直須足下無糸去なり。空の飛去するとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を參究する道取にいはく、只在這裏なり。これ兀々地の箴なり。いく萬程か只在這裏をきほひいふ。

「空闊莫涯兮」空というものは果てしがないもんですから、「鳥飛杳々」鳥飛んで杳々たりと。無限に坐ってる姿を云うわけです。

時間がありませんから、これで以て宏智禅師の偈頌を終わることにします。

宏智禪師の坐禪箴かくのごとし。諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禪箴あらず。諸方の臭皮袋、もしこの坐禪箴のごとく道取せしめんに、一生二生のちからをつくすとも道取せんことうべからざるなり。いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。

先師上堂の時、よのつねにいはく、宏智、古佛なり。自餘の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。知人の眼目あらんとき、佛祖をも知音すべきなり。まことにしりぬ、洞山に佛祖あることを。いま宏智禪師より後八十餘年なり、かの坐禪箴をみて、この坐禪箴を撰す。いま仁治三年壬寅三月十八日なり。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を算數するに、わづかに八十五年なり。いま撰する坐禪箴これなり。

宏智禅師偈頌に対する道元禅師の拈語です。

この「道取せん事うべからざるなり」のうべからざるなりとは、この坐禅を無限に行じて往かなければならないと云う事です。わかったと云うことは有りませんぜ。「わかった」と云ったら間違いですよ。ほかにこのような宏智禅師の坐禅箴はありません。

「先師」とは如浄禅師。「よのつね(尋常)に云わく、宏智古仏なり」これは最高の形容ですよ。「洞山に仏祖あること」とは洞山門下だけに、こういうような仏祖が在り得て他にはなかった、と云うことです。つまりは洞山門下だけが、仏法の正伝であることを言われるものです。

宏智禅師の坐禅箴に触発されて道元禅師も坐禅箴を創作したと。宏智禅師の坐禅箴を作り変えたと云う人が居ますが、作り変えたんじゃないですよ。ある先生の研究では、宏智さんの坐禅箴は此の箇所が重要、道元さんの坐禅箴はこっちに重点があると比較をしますが、私の見解では優劣の差異はありません。

「仁冶三年」と申しますと千二百四十二年でありますから、道元禅師数え年四十三歳の時のものです。「紹興二十七年」と申しますと千百五十七年ですね。この年は宏智禅師亡くなられた年です。その間は僅か八十五年であると。

坐 禪 箴

佛々要機、祖々機要。不思量而現、不回互而成。不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自證。其現自親、曾無染汚  其成自證、曾無正偏 曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正

偏之證、其證無圖而功夫。水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。

仏々の要機、祖々の機要。不思量にして現ず、不回互にして成ず。不思量にして現ず、其の現自づから親なり。不回互にして成ず、其の成自づから証なり。曾て正偏無し。曾て染汚無きの親、其の親無委にして脱落なり。曾て正偏無きの証、其の証無図にして功夫なり。水清うして地に徹し、魚行いて魚に似たり。空闊うして天に透ず、鳥飛んで鳥の如し。

宏智禪師の坐禪箴、それ道未是にあらざれども、さらにかくのごとく道取すべきなり。おほよそ佛祖の兒孫、かならず坐禪を一大事なりと參學すべし。これ單傳の正印なり。

 正法眼藏坐禪箴第十二

宏智禪師の坐禪箴に不足はないけれども、こういうふうにも言う事が出来ると。おほよそ仏祖の児孫、必ず坐禅を一大事なりと参学すべし。これ単伝の正印なりと。

これを以て三日間の坐禪箴の巻提唱を終わります。

 

この提唱録は数年前に横浜の方より譲り受けたテープをもとに、自身の勉学用に作成したものであり、文中に於ける字句は正確さを欠くものと思われるが、御容赦願いたい。

酒井得元 現成公案  眼蔵提唱

酒井先生による眼蔵提唱

正法眼蔵 第一 現成公案

    はじめに

現成公案という事について、ざっと話しておきましょう。

正法眼蔵』を勉強するのに、『正法眼蔵御抄』があります。京都の永興寺の詮慧門下の人たちは、おそらく余り多くの人達ではないと思いますが、心血を注いで「眼蔵」の参究をしていた。その参究記録が『御抄』なんです。

その『御抄』に「現は隠顕にあらず、成は作学にあらず。公と云うは平等義也、案と云うは守分の義也。平不平名日公、守分名日案。(「註解全書」一・一八三)

「現は隠顕にあらず」と云いますから、現は無かったものがそこに現れるという意味ではない。「成は作学にあらず」ですから、成は努力を重ねて何ものかに成るという意味ではない。成は成仏の成です。つまり謂うと、現成という事は、今まで無かったものが忽然として現れて来ると云う意味ですが、『御抄』のご指示によりますと、「現」というのは「そのまま」で、現実そのままが「現成」です。現実そのものが仏の姿である。これが現成です。

それから「公案」の公は、「平不平を名づけて公と云う」。平不平に返り点をつければ、「不平を平らげる」と読めますから、地ならしみたいに考えますけど、そういう意味ではない。これは「平と不平と」と読む。つまり平は平でよろしい、不平は不平でよろしい、と云う事です。

今度は「案」。この案というのは「守分の義」分を守る、こういう意味です。自分に自信を持つ、これが現成公案です。つまり、公案というのは、どれを見ても真実で、どんな状態にあっても、その状態の如何に関わらず、すべて真実である。

ですから、現成公案とは、現成が公案であり、公案が現成である。現成と公案は同じ意味になります。そこで宗門では、現成公案公案現成。と云うふうに上下を入れ替えても同じ意味に使うわけです。

もう一つ紹介しますと、『永平広録』第一に現成公案についての上堂があります。

 

上堂゚云゚諸人直須辦肯箇見成公案゚作麼生是見成公案゚便是十方諸仏古今諸祖是矣゚而今現成゚諸人見也麼゚而今掲簾放簾、上床下床是矣゚好箇見成公案゚諸人為甚不会不参゚山僧今日゚不惜性命゚不惜眉毛゚為諸人再説゚為諸人重説゚卓拄杖一下便下座゚

 

上堂に云く、諸人、直に須く箇の見成公案を辦肯すべし。作麼生か是れ見成公案。便ち是れ十方の諸仏、古今諸祖是れなり。而今現成゚諸人見也麼゚而今掲簾放簾゚上床下床是なり。好箇見成公案なり、諸人、甚と為てか不会不参なる。山僧今日、性命を惜しまず、眉毛を惜しまず、諸人の為に再説し、諸人の為に重説せん。卓拄杖一下して便ち下座す。

 

「諸人、直に須く箇の見成公案を辦肯すべし」箇は下の「見成公案」を強めた詞です。見は現と同じです。

「作麼生か是れ見成公案」この詞の使い方が実に妙を得ている。「作麼生というものが現成公案なり」と読んでもいい。単なる疑問詞ではありません。ちゃんとここで現成公案の正体を示しています。

「便ち是れ十方の諸仏、古今諸祖是れなり」『傘松道詠』の「峰の色、渓の響きもみなながら、わが釈迦牟尼の、声と姿と」の歌を思い出して下さい。諸仏諸祖とは過去の物語ではなく、この現成公案、どれも仏の御姿で、「而今現成す」。現在眼の前に展開している現実に、仏さまが現成しているではないか。

而今掲簾放簾゚上床下床是なり」我々が日常やってる僧堂での簾の上げ下げ。坐禅が始まれば僧堂の前門後門の簾を下ろし、坐禅が終われば簾を上げる。それが現成公案です。

「好箇見成公案なり」見成公案は夢物語ではないのです。我々の日常せの一挙手一投足が仏の行いでなければいけない。これが我が宗旨の「作法是れ宗旨、威儀即仏法」です。威儀とは、立ち居振る舞いの事です。日常生活が仏作仏行にならなければ仕方がない。日常生活が仏作仏行というのは現成公案なるが故です。

「諸人、甚と為てか不会不参なる」どうして解らないのか。普通ならそう言いたい所ですが、後で説明します。

「山僧今日、性命を惜しまず、眉毛を惜しまず、諸人の為に再説し、諸人の為に重説せん」道元禅師のご努力は、現成公案なのです。修行が現成公案で、夢物語でも概念でもない。仏作仏行ですから、念のため再説されたものです。

「卓拄杖一下して便ち下座」拄杖をドスンと、今は使わないが、昔は修行僧の必需品でした。ドスンと示されたのには、別に意味はない。自分の日常生活をよく眺めてもらいたい、と念の為に、「今の自分のこれを見てくれ、これが現成公案で、ほかではない」。日常生活が現成公案でなければならないと、念を押されて下座された。

この上堂で、「現成公案」の意味が理解いただけたと思います。

 

    一 諸法の仏法なる時節

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

「諸法の仏法なる時節」

時節とは何々の時という時間の問題ではない。諸法の仏法なる時節と、万法ともにわれにあらざる時節という二つの時があるのではなく、「正当恁麽時」という詞と同じ意味にとればいい。正当恁麽時とは、前からずっと述べてきて、そこで一区切りをつけて、さて正味のところは、と詞を換えて述べる時、正当恁麽時とする。宋の時代から使われ始めた表現法で、もっとはっきり示してみようか、という程の意味です。

「諸法の仏法なる時節」の諸法とは、『御抄』では「諸法とは是れ什麽物か恁麽来なるなり」(「註解全書」一・一八七)と示されています。什麽物、これには絶対に答がない。つまり、真実を表した詞なのです。仏法の真実とは諸法実相という詞で表されますから、「諸法」とは、ありとあらゆるものです。

つまり森羅万象がみな仏法で、見るもの聞くもの全てが仏の御姿となり、「峰の色 渓の響きもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」。これが私たちの信仰というものです。自分が熱を上げるようなものは信でもなんでもない。信ずるものと信ぜられるものがあるなら、本当の信じゃない。本当の信は「私はこれを信じます」と握っているものではない。

「すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり」

これは迷いや悟りも実は仏法である。修行も生も死も諸仏も衆生も仏法である。これは現成公案に於いて言われることで、欲深い人間や摘まみ食いに終始する次元の人間には有り得ません。現成公案に徹し切って言えるものです。

宗門では迷いが悪いとは云わず、悟りが善いとも云いません。仏法の姿・真実の姿は色々の形で現れる。その時の姿が迷・悟という姿や修行という姿・生や死で現れる事もある。「生死は仏の御いのちなり」(「生死」巻)という言葉もあるでしょう。

他の祖師方にはこんな言葉は出てこない。生死は厭わなきゃならん、叩き潰さなきゃならん。しまいには飯も食べずに頑張る、まさに一人相撲です。相手がいないのに一所懸命に頑張る。こうなると、現成公案という仏からみると御愛嬌になります。

この第一段は、『正法眼蔵』全巻に一貫したお言葉です。また我々の修行はこれを一貫させるものでなければならない。

「万法ともに我にあらざる時節」

「われにあらざる」とは吾我に非ず。で、「あらざる」とは有るとか無いとかの問題ではない。漢字では「非我」になるが、この「非」は否定の意味ではない。『正法眼蔵』の「非」や「不」の用語例は、是非の非ではない。否定の詞でもない。あるいは無生の「無」、諸悪莫作の「莫」と、現成公案の意味合いがそのまま、「非」・「不」と思ってよい。

「万法ともにわれにあらざる」とは「万法が無我である」と解釈する人も居るが、ここでは『御抄』の「万法非吾我(非の吾我)」(「註解全書」一・一八八)と解釈した方がいいでしょう。つまり諸仏と衆生と、全部が仏であり、仏の姿が非吾我となります。

「迷いなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし」

そこには迷悟も諸仏も衆生も生も滅もない。つまり「まどいなく」とは、我々に与えられている欲もまどいも、本来欲じゃないものです。つまり諸法無我という事です。そこには迷いも諸仏も衆生も、特別なものとして有るわけでは無い。生も滅も格付けは出来ず、全てのものが仏のお姿であり現成公案である。という意味合いが簡潔に述べられている。

仏道もとより豊倹より跳出せる故に、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」

「豊倹」の豊は豊かで、倹はその反対。普通に言いますとプラスとマイナス。仏道は多いとか少ないとか、そういうような事を、もとより=本来、跳出=超越している。そしてそこに、「生滅あり、迷悟あり、生仏あり」。その仏道には、ある時は生という姿の時もあり、滅という波の時もある。迷悟という渦巻を立てて流れている場合もあり、生=衆生という波が流れている時もあり、仏という波を呈して流れている時もある。

「しかもかくの如くなりと云えども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」

現実を見ると、華が散ると惜しいと思い、草が生えると嫌気がする。こういう事を踏まえて現実を生きている。日頃の生活が又各別な意味となってくる。

沢木老僧がよく言っていた。彼はいろいろなお師家さんい会ってますが、「あいつに会ったよ」「どうでした」「うーん、よく作ってる」。「作り物」。あまり作っていると、自身の本音が分からんようになる。「作り物」とは巧みな表現だと思います。「作り物」になってはダメです。真実というものを見失ってしまう。

「自己を運びて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」

自己を運ぶー一体どういうことか。こちらから向こうへ行くのか。ここを『御抄』では「自己を運んでと云う自己は、仏法時節の自己也。仏を運んでと云わん同事也。運ぶと云うは、尽十方界自己なる道理を運とは云う也」(「註解全書」一・一九四)。この「尽十方界自己なる道理」は大変なことです。この尽十方界は『眼蔵』で一番よく使われている詞です。

もう一つ紹介すると、「唯仏与仏」の巻に、「仏のいふみづからは尽大地にてあるなり。しかあれば、みづからとしるもしらぬもみなともに、おのれならぬ尽大地はなし」。これは『眼蔵』の中では晩年のものです。晩年の『眼蔵』のまろやかさは、初期のものを一所懸命しておきますと、そのまろやかな味が感ぜられます。逆に後の方を読んでから前の方を眺めてみると、前のものが、ひとしおはっきりと解ります。『眼蔵』というものは、何度も味わうべきものです。もっとも、大乗経典とか大乗論部とかいうものは、みなそうなんです。

あの『起信論』なんか面白いです。私は学生時代に、林屋友次郎(1886―1953)という先生に『大乗起信論』を習った事がありまして、「大乗経典というものは、初めから読むのと、逆に後から読むのとは、また味が違う。両方から読まなければいけない」と、言われたものです。『正法眼蔵』がまさにそうです。

ここで「自己」というものを、はっきりさせておきますと、自己とは「尽十方界」で「尽大地」と言っても同じです。これは宇宙全体のことですから、無限の世界です。

仏法には、外道と仏道を分けて考えますが、どういう風に違うか、はっきりしておいて頂きたい。「心外に法を求むるを外道という」という定義がありますが、ところが、この「心」を解釈間違いして、小さな自分の心にしてしまう場合がある。自分の魂・精神と考えてしまう場合が多い。そうじゃない、そもそも仏法は身心一如です。

身心一如とは、「心」と「身」とは仏法では同等なんです。心を離れた身も、身を離れた心も、現実にはあるものではない。

「修証」とは「修行」と「さとり」という事ですけれども、私はこれに「実」の字をつけ加える事にしている。実修実証。真実の修行をする、真実の証しをする、というわけです。

我々が坐禅するというのは、自己をはこびて万法を修証しているんです。普段、我々が自分自分と云ってる自分を、本来の姿に返してしまう。本来の姿に返すとは、尽十方界なる道理にしてしまう。そうすると、それが万法を修証する事になる。我々が坐禅をすることは、単なる静座法とは違い、万法を修証している事になります。

「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」の万法と自己とは一体だから反対に言ったまでの事で、文章の綾として「悟」と「迷」を取り替えたまでの事。迷いであろうと悟りであろうと、その時々の事実ですから価値は同じです。迷いが悪くて悟りがよいとか、悟りを取って迷いは捨ててしまうとか、そうではなく、迷いは迷いで以てその時の現成公案で、悟りは悟りで以てその時の現成公案ということです。

 

    二 迷を大悟するは諸仏なり

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず、しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれどもかがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず、一方を証するときは一方はくらし。

「迷を大悟するは諸仏なり」

迷いを本当の迷いと思っていますが、人間の嫌がる迷いではありません。迷いであろうと、これは現成公案の迷いで、「大悟」と「迷」は同じ意味にとったらいい。ですから詞を替えて「大悟を大悟する」と言ってもよく、この場合を「諸仏」と云う。

「悟に大迷なるは衆生なり」

「悟に大迷する」を「大迷に大迷する」と言ってもいい。そしてその場合を「衆生」と云ったらいい。それはその時の姿の相違だけで、諸仏も衆生も、現成公案に於いては同体なのです。

「さらに悟上に得悟する漢あり」

我々は本来成仏で、本来悟りなんです。その真実の上で修行をする、これが「悟上に得悟する漢あり」という事です。大乗仏教は本来成仏を元にしています。本来成仏ならば何故に修行するのかー初歩的な質問です。本来成仏に保証されて我々は生かされている。ところが保証されている我々が、どのような生活をしているかと云うと、自我だけです。人間の普段の構造は、自己満足の追求ばかりで、学問するにも宗教に於いても。

ですから、真実の行とは、いつも自我の追求に明け暮れる自分を、自我の活動をしないように、所謂染汚しないように、個人持ちを作らないように、という努力が必要です。この「不染汚の行」が只管打坐です。

「悟上に得悟の漢」とは、我々が坐禅することです。それは本来の悟りの中に於いて、本来の自己を忠実に保とうと努力する事で、これが不染汚の行です。自分の満足を捨てて自己本来の姿を取り戻す、これが我々の坐禅です。

「迷中又迷の漢あり」

「迷中又迷の漢」と申しましても、迷いは其の時の状態が迷いと云うなら、それは尽十方界の活動です。いろんな活動が浮かんで来ても。それが尽十方界のハタラキなんです。その尽十方界の活動を、個人持ちにしなければいい。どんな考えが浮かんできても浮かびっ放しにする。これが大事なことです。

丘球学(1877―1953)和尚の十八番(おはこ)は、「坐禅して妄想が浮かんできても浮かびっ放し、追うな追うな」。これが迷中又迷の漢です。つまり、そのままにしておけばいい。それを何とか悟ろうとか、必要ないことで、現成公案に反します。

「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」

「オレはとうとう成仏したぞ、サトリを開いた」なんて、思い上がりもいい加減にしろ、という事だ。本来そんなものがあってはならない。仏というのは感覚ではなく、思想ではありません。

「しかあれども証仏なり」

悟上得悟の漢・迷中又迷の漢は不染汚の行です。つまり「証仏」とは仏を実践することで、実修実証です。

「仏を証しもてゆく」

私たちの宗門の信仰生活は、どこまでも只管打坐が中核である事は云うまでもない。

「悟上得悟の漢・迷中又迷の漢」こういう詞は『眼蔵』独特のもので、他には見当たらない。こういう処に道元禅師の宗教の徹底ぶりがよく示されている(「迷中又迷」に関しては、『大慧語録』十九(「大正蔵」四七・八九三上)に在り)。

宗教はレリジョン(religion)の訳ですけれども、あれを訳した人は、私たちが学生時代まで東大の宗教学の助教授の現役で居りましたから、あまり古い話ではない。加藤玄智(1873―1965)という人で、訳した時の状況を話してもらった事をまだ記憶しております。あれは『碧巌録』から借用したと云うが、碧巌録の宗教と学者が使う宗教とは、同じ詞でも意味が全く違い、一緒くたにされては困ります。

私が申します宗教とは、いづれにも片寄らない・万国共通・宇宙共通の教えで、これが本来の宗教で、手前味噌ですが、道元禅師の宗教こそが本当の宗教です。仏とは、本来の自己が仏ですから、それを修行しなければ仏ではない。修行している時が仏なのです。

「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども」

ここで言う「したしく」とはどういう事かと云うと、我々はものを見る時、「見る自分」と「見られる対象」といった相対的な関係で、見たり聞いたり、いろんな事をやっているが、これでは「したしく」ないのです。この相対的なものがないと云うのが「したしい」と云う事です。

私たちが物を見たり聞いたりする場合、自己意識は働いています。見る主体に対して、見られる客体があると、思っていますが、本当は見る・聞くと云っても、小さな「自分」が見聞きしているのではなく、自身・色・音、それらを取り囲んでいる全てを含んだ、この全体、これが「見」であり「聞」であるわけです。

『中論』などでは能取=見るもの、所取=見られるもの。として説明しますが、普通の人間は、自我の段階ですから、この能所の世界でしか生きていない。そこでは好き嫌いが問題で、この能所の中で、自分の都合のいいように解決しようとするから、悲観・楽観から逃れられない。

本当のものの在り様は、能所を全体として見る。ですから「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取する」という事になる。

「鏡に影を宿すが如くにあらず、水と月との如くにあらず、一方を証する時は一方は暗し」

鏡にものを映す、映すものと映されるものとの関係ではない。「水と月」との関係も同じ。

「一方を証するときは一方はくらし」では、見るという時は、その時の身心の在り方で、聞く時は、その時の身心のあり方で、その時々の身体の在り様・様相が尽十方界であり、仮りそめのものは何一つもない。それが真実の様態であり、これが現成公案である。どんな些細な事でも無駄にはできない。

 

    三 仏道をならふ

仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心、および陀己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり、法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。

仏道を習うと云うは、自己を習うなり、自己を習うと云うは、自己を忘るるなり、自己を忘るると云うは、万法に証せらるるなり」

これは有名な詞で、よく引用されるものです。これは此の巻の峠のように言われていますが、「自己」をこれほどはっきり打ち出された詞は、古今未曾有です。

本来、我々は万法に保証されている。すべてのものが何から何までも保証しつくされている。私の体の中には、自分のものは何一つなく、全て恵まれたものです。万法に証せられた事実、これが本当のあり方なんです。

この本当のあり方を自覚する事が「わすれる」ということで、忘れるとは頭の問題ではなく、「万法に証せられている」ことを実証する事で、この保証されている事を実践する事は、坐禅する事実ですから、「自己をならう」も「自己をわするる」も坐禅を組むことであったわけです。

「万法に証せらるると云うは、自己の身心、および陀己の身心をして脱落せしむるなり」

これは足を組みてを組んで、仏さまの教え通りにしてこそ初めて出来る。頭に想いが浮かんで来ても、、絶対追わづに、じっとしておればいい。正身端坐を崩さないよう努力するを「自己の身心陀己の身心をして脱落せしむる」となるのです。

「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」

「悟迹」の迹は「あとかた」の意ですが悟りという意味で、もうお悟りという事もお休みだ。

それから「休歇なる悟迹」。これは、「悟迹の休歇」「休歇なる悟迹」この二つを同じ意味にとったらいい。悟ったというような事はやめてしまえば、何でもない。この何でもないが、本当の悟りです。そこには何ら悟った・悟らんというものがなくなる。そこを繰り返して、

「休歇なる悟迹を長長出ならしむ」。悟りも返上して、ただ坐る。これが只管打坐の只管を徹底した詞です。

一口に申しますと、無所得無所悟の只管打坐を徹底的に行ずる、これが「自己をならふ」ということです。これ以外、自己をならふという事は有り得ない。その瞬間々々にいろんな様相があろうとも、これらは皆、真実の様態で、現成公案ここに極まりです。

「人はじめて法を求むる時、はるかに法の辺際を離却せり」

人間が初めて法を一所懸命目指す。ところが目指せば目指す程「法の辺際を離却せり」で、ますます離れてしまう。求めれば求める程、反作用で遠のいて行く。そこで私たちには法の求め方というものがある。その法の求め方が、無所得無所悟の坐禅をする事になる。

だから「人はじめて法を求むる時」その法が、果たして本当の法であるかどうかを見究めねばならない。これが発心という大事な由縁です。自分は一所懸命に求道していると云うが、本当か分かりません。

「法すでにおのれに正伝する時、すみやかに本分人なり」

この「正伝」については、『諸悪莫作』巻の「聞書」に「相伝相嗣」(「曹洞宗全書」注解一・六五五)と、かっきり示されています。相伝相嗣とは、師匠から物を貰うことを言っているのではなく、自己が自己に相嗣するを「正伝」と云う。

我々の本来の姿、実は、これが正法である。正法とは邪法に対するものではなく、我々の此の尽十方界真実人体、これが正法です。宇宙全体の事実が正法ですから、形や感覚はない。つまり本来の自己を正しく修行する、これが本当の正伝です。

「法すでにおのれに正伝する時」とは、坐禅するより他に道は在りません。

「すみやかに本分人なり」の本分人とは本来人で、万法に証せられている自身で、どなたも本来人に於いて変わりはない。

以上が総論で、これから各論に入っていく。懇切丁寧に、一々、例を挙げて説明される。

 

    四 人、船にのる

人船にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して、万法を辦肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして、箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

「人船に乗りてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、岸の移ると誤まる」

今日ではあまり船には乗らないが、電車に乗っても同じで、対象物が動くように見えるもので、皆さんご存じの事です。

「目を親しく舟につくれば、舟の進むを知るがごとく」

舟が進むのが本当か、あるいは岸が移るのが本当か。これは考えてみると面白い。新幹線に例えてみると、レールが走る、こう考えてもいいでしょう。ものの立場によって、どちらでも考えられます。

「身心を乱想して、万法を辦肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」

私たちの物の見方がはっきりしません。その時々の調子で以て、ものを見ている。いろんな考え方で、立ち位置で勝手にものを見ていますから、人間は正しくものを見る事は出来ない。大概は色メガネでもって見ている。

坊さんは世の中を見るのに、坊さん流にものを見る。政治家は政治家的に、学者は学者的に、皆それぞれ違う。こういうのを「身心を乱想して」という事になる。

色メガネをかけないで、ものを見るにはどうすれば良いか。職業を離れ、欲を離れなければならない。結局のところ色メガネの世界とは、自我の世界。自我の世界が色メガネをつくり、欲が自我の形成をする。この自我を超越しなければ、本当のものの見方は有り得なく、坐禅するしか方途はない。

つまり自分の欲を中心にものを見るから、すべてが自分を中心に回転していると錯覚する事になる。

「もし行李を親しくして、箇裏に帰すれば、万法の我にあらぬ道理あきらけし」

「行李(あんり)」とは自分の生活態度で、親しく自分で見れば分かるでしょう。

「箇裏」とは自分自身の中に立ち入ってみる。しうすると万法に証せられている事がはっきりする。我々はすべて丸抱えで生きているんです。「万法の我にあらぬ道理あきらけし」そこには、我というものは無く、万法にすべて支えられている。

「ただわが身をも心をも、はなちわすれて仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて」(『生死』巻(「岩波文庫」㈣・四六六)とあるように、全部丸抱えです。自分自分で呼吸している者は一人も居なく、すべて生かしてもらっている。我々は「ただ」仏のままに坐り、仏のままに修行していくのです。

 

    五 たき木は、灰となる

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり、かの薪、灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

「たき木、灰となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず」

これは有名な喩えで、薪は灰となる。ところが灰は薪には戻りません。

「しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」

ところが灰は後のもの、薪は先のもの。と見てはいけない。常識では、薪を燃やすと灰になる、確かにそうですが、仏法では薪が前で、灰が後と見てはいけない。と、説くものです。

「知るべし、薪は薪の法位に住して、先あり後あり」

薪は薪のあり方としてある。これを「法位」というわけです。薪はどこまでも薪のあり方で以て、「薪は薪の法位に住して、先あり後あり」前後ともに薪である。昨日も薪であったなら、今日も明日も薪である。

「前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり」

前後はあります。昨日もと今日というふうに。ところが「前後際断せり」前後がない。つまり、薪の前に何かがあって薪になったとか、薪がなくなって何かになる、という事はない。何もなかった処に薪が現れ、時が経って薪が他の物に変わる。そういう事ではなく、薪はどこまでも薪で、灰はいつまで経っても灰のままですが、これを前後際断せり。

「かの薪、灰となりぬる後、さらに薪とならざるが如く、人の死ぬる後、さらに生とならず」

薪は一度灰になればそれっきり。それと同じように、人は死んだら生き返りません。「生き返った」?あれは誤診で、死んだのではなく、生きとったんです。

「しかあるを、生の死になると云わざるは、仏法の定まれる習いなり」

仏法ではこう言う。道元禅師の言われる仏法は、宇宙の真実で、あらゆる世界に通ずる真理です。

「この故に不生と云う」

この説明は後にします。

「死の生にならざる」

死んだのが生き返る、そんな事はない。死はどこまでも死。

「法輪の定まれる仏転なり」

これは「仏法の定まれるならひ」と対句に用いられ、同じ意味です。詞を換えて表現する、これが決まりです。

「この故に不滅と云う」

そこで「不生」の説明から入りますと、この「不生・不滅」は、生にあらず、滅にあらずと云う意味ではない。これは「不の生・不の滅」と読まなければならない。これを他の詞で置き換えますと、非思量・不思量で、非も不も尽十方界のあり方を述べたもの。

ですから、この場合『御抄』では、「不生を全生」(「曹洞宗全書」一・一〇)と云い、不滅を全滅と示される。普段の我々の世界でいう生滅とは違う。

これは全機と同じで、「生也全機現」、全機とは宇宙の様相のことで、尽十方界の様態を全機と云う。この場合、「生」というのは時の様相ですから「不生」と云い、「不滅」も同じ。非思量も同じで、思量に非ずではなく、自然の姿が非思量です。

「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」

「一時」とは単なる一時的な仮の姿という意味ではありません。その状態は、その時で絶対的なもので、掛け替えのないものである。どの瞬間にあっても、これは尽十方界の事実ですからどこまでも大切にしなければならない。

だから、大智禅師(1290―1366)に『十二時法語』がある。これを見ると、お粥の時にはお粥のあり方がある。お経を読む時には経を読むあり方がある。休む時には休むあり方がある。休憩するにも仏で、「法語」によると、坐禅の時ばかりが仏ではない。休む時には徹底して休む、これが仏の御姿なんです。

これは、菊池武時(1292―1333)の為に示されたものですが、十二時中全部が仏の修行でなければならない。大智禅師の詞で云うなら、生も仏の姿、死も仏の姿である。と言っていい。

それを喩えて言いますと、

「喩えば、冬と春との如し。冬の春となると思わず、春の夏となると云わぬなり」

混乱してはいけない。冬は冬で、どこまでも冬であって春ではない。きちんと様相が決まっている。間違ってはいけません。

もう一つ例示を出すと、人間には人間の様相がある。病気の時は病気の姿が現成公案、健康の時には健康の姿が現成公案の真実の姿。病気の時に、健康の時の事を考えジタバタする、これは間違いですよ。病気の時には病気のあり方である、安身立命があり。その位の覚悟で以て、病気に立ち向かわなければならない。

つまり、それに融け込む事で、これを「随処に主となる」という。そこでは他人ではダメ、それに為り切ることです。

春は春で現成公案、冬は冬で現成公案。誤魔化してはいけない、絶対的事実ですから。

 

    六 さとりをうる

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狹を辦取すべし。

「人のさとりを得る、水に月の宿るが如し」

それはちょうど、月と水の関係のようなもので、悟ってみた処が何も変わりがない。

「さとり」と云うと、天桂伝尊(1648―1736)の詞が一番面白い。「肩の荷をかうるが如し」。モッコを担いで暫くすると重きなってきて、向こうの者に「おい、肩かえよう」「よしきた」と反対の肩へと、ちっとも荷物は変わってないのに、何だか軽くなったような気がする。

悟りも迷いも、そう変わりない。つまり、悟も迷もその時々の様相でしかなく、迷とか悟とか云う世界はほんのわずかなものです。迷いも決して間違いという事でもなく、これもまた生きている真実のその時の姿です。

ちょうど、お月さんがが水に宿っているようなものです。肩の荷かるくスイスイと、モッコ担いでる時のようなもの。と謂っていい。

「月濡れず、水破れず」

両方とも何という関係はない、その時の状態ですから。水は水で変化がなく、月は月で変化がない。ここで謂うならモッコ担ぎのようなもので、別に変わりはない。

「広く大きなる光にてあれど」どんな大きな光でも「尺寸の水にやどり」。どんな小さなことでも個人的なものは一つもない。ちょっとした風邪でも身体が引いたんだ。身体という元手がなければ風邪も引かれん。どんな小さな事でも、誤魔化すわけにはいかない。常に我々は現成公案に取り囲まれていて、これが「大きなる光」です。

「全月も弥天も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る」

悟りも一時のくらいなりで、絶対的なものではありません。そのときは絶対的な事実ですが、これだけを得たならば、という事ではない。次には迷う事だってある。

「さとりの人を破らざる事、月の水を穿たざるが如し」

悟ったからと云って、人間が変化するわけではない。時々の様相で、月が映ったのも、水のその時の様態ですから。

「滴露の天月を罣礙せざるが如し」

「滴露」と云っても尽十方界の事実ですから、あのように露に為っているわけではない。水がそのような性質があるのは、自然界の事象ですから仕方がない事です。皆さんの顔だって自分の好みではなく、授かった・与えられた顔ですから、卑下する必要はない。

「深きことは高き分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狹を辦取すべし」

全てのものは、尽十方界という立場でものを見る。尽十方界には大きさも深さもない。高い低いは底を基準にして云うが、宇宙には底はない。

何処を基準にして、高い低い深いを云う歟。だれが言い出したか、自我の世界が謂ってる事です。自分に手の届かない処は遠く、自由に出来る処は近いと感ずる。これらは皆、人間世界だけの範疇のものです。

我々の身体の世界には深いも広いも大きい小さいもなく、自我が生んだ副産物で、尽十方界は自我を超越した世界ですから、そいうものはない。ですから、尽十方界を表現するのに「無量無辺那由他阿僧祇劫」という事が『法華経』に於いて盛んに説かれる。これが大乗の特徴。

自然には上下ってものは決まってない、見方によって変わる。深いも高いも「一時のくらい」に於いては同じようなものです。

時節に長い短いはありますが、長短は、その時の情勢の変化に過ぎません。長は長で現成公案で、短は短のままで現成公案で、その時の尽十方界の事実の様相です。

ですから、大水・小水に隔てなく照らし、広い狹いをよく分明にして見ろ。との言で、「天月の広狹を辦取すべし」と、一つのまとまりを付けるわけです。

 

    七 法の参飽

身心に法いまだ参飽せざるには、法すでに足れりと覚ゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずと覚ゆるなり。たとへば船に乗りて山なき海中に出でて、四方を見るに、ただまろにのみ見ゆ、更に異なる相、見ゆることなし。しかあれどこの大海、まろなるにあらず方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし、ただわが眼の及ぶところ、しばらくまろに見ゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、多く様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円と見ゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでに足れりと覚ゆ」

まことに素晴らしい詞です。この「足れり覚ゆ」というのは一体誰が「たれりとおぼゆ」かと云う事を考えてもらいたい。

我々がものを考えるとは、胃袋が活動する事と同じ事、腎臓で小便作る事と同等で、頭だけが特別な事をしているのではない。

私たちが頭で考えるとは、「オレ」を中心にして考え、それが人生のすべてになっている。つまり謂うと、自我の追求ばかりやってる連中、自我の恍惚のみを究明する人たちには、「法すでにたれり」で、彼らの最後の結論は「満足した」だけで、酒飲みが酔っ払ったようなものです。

「法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずと覚ゆるなり」

満足感は何処にあるかと云うと、個人にある。本来の自己、本来の生き方には満足感は絶対にない。

我々の生きているとは、ただ生きている。始めも終わりもないから、年百年中ずっと飯を食べ続けなければならない。これが無量無辺。

本来の身心は無量無辺・無始無終で、満足という事はなく、「なんともない」。これが「法もし身心に充足すれば」です。本当の生き方の時には、「ひとかたはたらずと覚ゆるなり」という事。

「例えば船に乗りて山なき海中に出でて、四方を見るに、ただまろにのみ見ゆ、更に異なる相、見ゆることなし」

自分の見える範囲しか見えなく、我々の物も考え方は、自我の範囲だけしか考えられない。ものを考えるにも、自分の経験した範囲しか考えられないんです。

我々が物を見る場合、何かに初めてお目にかかる。その時には今まで経験した事を、頭の中で総動員して「あれはこうで、これはちがう」と、最後に「あ、これはこうだ」と判断するが、頭の中にカードがないと答は出て来ないというのが、我々の判断で、それ以外の事は何もできない。

「しかあれどこの大海、まろなるにあらず方なるにあらず、残れる海徳、尽すべからざるなり」

海の形には、丸や四角では表現されず、海徳として言い尽す。

「宮殿のごとし、瓔珞のごとし、ただわが眼の及ぶところ、しばらくまろに見ゆるのみなり」

これは『摂大乗論釈略疏』(「大正蔵」六八・一八五上)には、一水四見の見方を紹介される。

一つの水を見るにも、人間は水と見、餓鬼は膿血と見、天人は瑠璃と見、魚は宮殿楼閣と見る。それぞれによって見方は違ってくる、つまり自我によって物を見るから違いが生ずる。山を見るにも、材木屋は石高でみるが、我々は情景として見るようなもの。

「かれがごとく、万法もまたしかあり」

万法もその通りで、我々には万法は絶対に見極める事はできない。我々の感覚や認識の判断では見る事は不可能です。

その物を見る、聞くというハタラキそのものが尽十方界の仕業である。その真実の具体的なものが。この生身の体なんです。

「塵中格外、多く様子を帯せりと云えども、参学眼力の及ぶばかりを見取会取するなり」

「塵中」というのは世間のこと。塵とは塵埃を云うのではなく、十二処十八界を見れば分かる。我々の認識生活、眼耳鼻舌身意の六識+六根+色声香味触法=十八界。塵とは私たちの認識世界で、自我の対象です。「格外」とは、それを越えたもので、越えるとは相手にしないのではなく、全部支えているもの。

「塵中格外」これで全てを表し、そこには色んな様相があり、生きている。例えば川の流れにも、いろんな波や渦を巻きながら流れている。これを「多く様子を帯せり」。我々は自分の能力以外は認識できず、自我の範囲だけしか認得できない事を「参学眼力の及ぶばかりを見取会取するなり」と云う。

「万法の家風を聞かんには、方円と見ゆるより他に、残りの海徳山徳多く極まりなく、四方の世界あることを知るべし」

「万法」とは一切法のことで、仏法を云う。「万法の家風」というと、無限の家風にも聞こえますが、仏法そのもののあり方を万法の家風と云う。

金剛経』(「大正蔵」八・七五一中)に「一切法は皆仏法なり」とあります。仏法とは一切法であり、一切法は仏法である、とは仏教の常識です。万法の家風とは仏法の本筋、仏法そのものです。「方円と見ゆる」とは、あなたの見方、現在の見方で、我々は方円としか見る事が出来ないが、その外には無限のものがある。つまり、「残りの海徳山徳多く極まりなく」無限で窮まるものがない。「四方の世界あることを知るべし」窮め尽したと思っても、そう云った陶酔に入り込むだけの事。

「かたはらのみかくの如くあるにあらず、直下も一滴もしかあると知るべし」

「かたはら」とは傍ら。お前一人のことではない。との意。「直下」とは脚下の意で、「一滴」とは水の雫です。

どんなものであっても、自分の足元であっても、見極める事はできない。自分のものと思っても、思ってる外に、「残りの海徳山徳多く極まりなし」で、永久に究める事は出来ない。

 

    八 魚、水を往く

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。用小のときは使小なり。かくのごとくして頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも道をうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

「魚水を往くに、往けども水の際なく、鳥、空を飛ぶに、飛ぶと云えども空の際なし。しかあれども、魚鳥、未だ昔より水空を離れず。ただ用大の時は使大なり。用小の時は使小なり」

魚というものは一生水の中で満足で、池の中を泳いで五十年経って、これで卒業なんて事はない。本当の修行には卒業なんて有るはずはない。

大きな魚は大きな処を回り、メダカのような小さな魚は何処でも不自由しない。ところが、魚というものは水から出してしまうと死んでしまい、鳥も空を離れたら生きてはいけぬ。

「ただ用大の時は使大なり。用小の時は使小なり」とはクジラとメダカを考えればいい。

「かくの如くして頭々に辺際を尽さずと云う事なく、処々に踏翻せずと云う事なしと云えども」

クジラは太平洋が住み家で、メダカだと小さな水盤で十分です。それぞれの分があり、それが尽十方界という事になる。小さなものは小さなもので以て完全無欠で、これで尽十方界。大きいものは大きいもので尽十方界。それをこのように表現された。「踏翻」とは自由自在に振る舞う事で、処々で完全無欠。

「鳥もし空を出づれば、忽ちに死す、魚もし水を出づれば忽ちに死す」

自明の理です。

「以水為命知りぬべし、以空為命知りぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし」

「以水為命」魚で云うと、水から出すと死んでしまう。そうならば、魚の命のポイントは水にあるのか。水が魚の命ならば、水を飲んで今日は鯛を食ったと思えばいいが、そうはいきません。水はどこまでも水のままです。

「以空為命」空が鳥の命?空を見ても鳥は飛んでこない。青空が卵なんか産むはずもない。そうすると生命ではない。

「以鳥為命、以魚為命」鳥の命、魚の命というものは、鳥が命か、魚が命か?そうでもない、先ほど云うように、水が無かったら魚は死に、空が無かったら鳥は在り得ない。

「以命為鳥、以命為魚」命を以て鳥となすか、命を以て魚となすか。ですが、つまり謂うならば、魚が生きているとは、魚個人の問題ではなく、鳥が生きている事も、鳥自身の問題ではない。つまりは魚と水は一つで、そこに始めて魚が生きている。と言えるわけです。

鳥が飛ぶことも尽十方界のあり方で、魚が泳ぐという事も現成公案で、真実の様相なんです。だから此の巻は、認識論で解釈しては間違い。西洋の哲学とか思想とかは、自我の世界の思索ですから、そのあたりの区別をはっきりとすべきである。

世間での「正法眼蔵」研究は、道元の思想としての問題提起で、自分たちの思想の態度で見ようとするから、方角違いになってしまいがちです。

「このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくの如し」

「寿者命者」とは外道の詞ですが、魚と水との関係、鳥と空との関係を、如何に説明しようと分析しても、これらは事実ですから、どこまでも決定的な解釈はありません。「ああ分かった」―こういう事は在り得ません。

我々の現成公案の仏法に於いては、ヤレヤレという納得は絶対に許されない。解釈・分析を持ち込んではダメなんです。そこに「眼蔵」の眼蔵たる所以がある。

「しかあるを、水を究め、空を究めて後、水・空を往かんと擬する鳥・魚あらんは、水にも空にも道を得べからず、所を得べからず」

「水を究めるも、空を究める」も、無限ですから適いません。

唯識の方には見分・相分という詞があり、「相分転じて見分を知る」ということがある。朝目が覚めるでしょう、その目が覚めるとはどういう事か。目が覚めるのが先か、外が見えるのが先か。普通、目が覚めたから外が見える、と思うでしょう。

ところが実際はそうではない。目が見えるから目が覚めたんです。事実は、こちらが見たから、外が明るいのが見えたんですが、それが自分に何故わかるかと云えば、外が見えたから目が見え、外が見えたから、自分が物を見ている事を比知した。それで目が覚めた事が分かった。と認識する。

つまりは、我々には自分の見る事も直接的には分からない。第三者になれないから分からない。それと同じように、どんなに自分を見究めようと思っても、見極められない。これを無量無辺という。そのことを、ここで示されているのです。

「この所を得れば、この行李従いて現成公案す」

この事実をかっきり掴めば、一つの行為(行李)というものが偉大なものか、単なる見ること自体が「現成公案」というものです。

ですから宗門に於いては、日々の生活を大切にする。真実・本物というものを、鶏の餌拾いのように、探すものではない。

大智禅師の法語の中に、「妄念は静かに坐禅するから起きてきる」とある。つまり静かにする時に限って出てくる、静かにし坐禅するから出て来るんです。

公案坐禅中にオモチャにするものではなく、日常生活に於いて、修道に於いて、いつも公案というものを鑑にして、我々は自分の生活を反省しなければならない。ですから公案は当て物でもなく、課題でも解くものでもない。この公案に対する態度はどうあるべきかは、『正法眼蔵』に示される通りである。

黙って坐禅すれば、いろいろなものが浮かんでくる。それは妄念でも何でもなく、追いかける事で妄念になる。ただ浮かんでくるのは、生きている姿なんです。

つまり、その場で黙って坐り、どんな心理状態であろうが、追いかけず求めない。この状態を「この所を得れば」と云う。自然に只管打坐し、正身端坐の時が現成公案なんです。

「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、先よりあるにあらず、いま現ずるにあらざるが故に、かくの如くあるなり」

人間の自我の世界といっても身体には選択はない。あるのは窓口あたりの自我だけで、目・鼻・耳・口の周辺だけです。これより奥へ入ると、もう選り好みはありません。不味い食べ物はこの辺りを誤魔化せば何でも食べられる。従って「大小」とか「自」とか「他」というのは、真実の道ではありません。自他の世界も、排他的エゴから来る。特定のものじゃなく、いつでもが「かくの如く」あるのです。だから如是という詞がある。お経の始まりには「如是我聞」とするのは、『大智度論』に決められていて、この如是を自由自在に使いこなすのは禅の語録だけです。

「しかあるが如く、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」

『御抄』(聞書)には、「得一法通一法と云うは得坐禅通作仏を云わんが如し。人の坐禅するにこの功徳いかなりと知らず。しかあれどもこれ坐禅なり、坐禅なれば作仏なり」(「註解全書」一・二二七)とあります。この「得一法通一法」の「一法」を、「坐禅」と「作仏」とに替えて、「得坐禅通作仏」と。面白いと思います。

我々の坐禅というものは、まことに簡単なものです。これに掛け値なしに、正しく坐っていただく事は誰でも出来ます。これが仏に通ずる、作仏に通ずる、という事になる。ですから「得一法通一法、遇一行修一行」。対句ですから、同じ意味に取ればいい。坐禅する事がそのまま作仏であり、作仏は坐禅する事である。

「これにところあり、みち通達せるによりて、知らるる際の知るからざるは、この知る事の、仏法の究尽と同生し同参する故にしかあるなり」

「これにところあり」とは、前にあった「得一法通一法」のこと。「みち通達せるによりて」の「通達せる」とは、全部極めての意ではなく、どのように通達するかと云うと。「知らるる際の」とは知見の限界。「知るからざるは」とは、「はっきりしている」という古語に「しるし」という詞があり、その反対で不明なこと。見渡す限り限界がない。これが大事な事。

ところが、この我々の身体は黙っていても、分かっても分からなくても結構。そんな事はお構いなしで、年百年中、完全無欠な働きをしています。

仏教学の基礎的な言葉で申しますと、我々が物を知覚し認識するとは、五蘊・十二処・十八界でやっている。十八界とは眼耳鼻舌身意の六根と、色声香味触法の六境と、眼耳鼻舌身意の六識の道具立てで、我々の知覚認識の世界が説明される。

六根に対し六境があり六識が起こる。唯識教学の方では、前五識(眼耳鼻舌身の五識)を第六識(意識)が統制する。そして第六意識を更に統制しているのが、第七識です。これは自我の意識で染汚識(ぜんましき)とも云う。これが我々の普通の自我生活で、日常です。こればっかりで、喜んだり、ガッカリするのもここでやっているが、ところがこれは、支える身体全体がなければいけない。

「この知る事の、仏法の究尽と同生し同参する故にしかあるなり」

この「知る」とは、私たちの身体が真実そのものであり、知覚意識の生活に於いては蹴散らす事はあっても、真実に於いては蹴散らしは絶対にない。この真実の実修実証が坐禅であり、この真実の実践を「知る」と云うのです。先の「知らるる際の」の「知る」は知覚のことで、ここでは本来の実践の姿を「知る」とする。

我々の只管打坐の坐禅が「知る事」であり、それがそのまま「仏法の究尽」と連なり、「同生し同参」するとは、仏法そのものになる。を謂う。

「得処かならず自己の知見となりて、慮知に知られんずると習うことなかれ」

「得処」とは普通、大悟とか何とか云うが、私たちの方から云いますと、「俺は得た」というものは在りません。つまり謂うなら得処とは坐禅を意味します。坐禅したからと云っても、そこには一つも受け取りも有りませんから、得処は知見にはなりません。

「証究すみやかに現成すと云えども、密有必ずしも現成にあらず、見成これ何必なり」

「証究」とは一つのものを究めると思われるかも知れませんが、ここでは坐禅の実修実証を謂うものです。「密有」とは『御抄』(「聞書」)によりますと、「密有は一切衆生悉有仏性の有なるべし」(「註解全書」一・二二七頁)とあります。密は秘密の密ではなく、親密の密であります。

この密有が、全てのものの真実のあり方ですから、密有すなわち真実のあり方は、「現成にあらず」、我々の眼の前に出現するものではなく、捉えられるものではない。

「何必」とは「なんぞ必ずしも~ならんや」という意味ですから、何必にはいろんな姿があるわけです。つまり何必がそのまま仏法の道理で、何必とは、ある一定のものに限定されず、「何々でなければならない」と云うものではない。

つまり「見成」とは、必ずしも、これこれと限定されたものではなく、あらゆる可能性を包含する識語である。

 

麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の酥酪を参熟せり。

これは有名な話です。麻谷山宝徹禅師、この方は馬祖道一禅師のお弟子としか分かりません。

ある時、暑かったのでしょう、和尚が扇を使っていた。そこへ僧がやって来て、「風性というのは常住なものである、処として周ねからずという事なしで、風性のない処は何処にもない。それならば、和尚、別に扇を使わなくてもいいではないか」と。和尚日く、「なんぢは只、風性常住を知ってはいるが、いまだ処として到らず、という事なき道理を知らず」とはねのける。僧が日くに、「和尚の云う無処不周底の道理とは、一体何ですか」。ところが和尚は返事しません。知らん顔して扇を使って、澄ましておった。その時に、初めて僧が「有り難うございました」と感謝の礼拝をした。という古則です。

「麻谷山宝徹禅師、扇を使う因みに、僧き来りて問う、風性常住無処不周なり、何をもてか更に和尚扇を使う。師云く、你ただ風性常住を知れりとも、未だ処として到らずと云う事なき道理を知らずと。僧云く、如何ならんかこれ無処不周底の道理。時に師、扇を使うのみなり。

僧、礼拝す」

「風性常住」とは主義でもイズムでもなく、人間が考えると思想になってしまう。思想とは、人間が「こういうものだ」と自分で決めて合点することです。

風性常住という事は、確かにその通りです。ところが、人間がそれを取扱うと一つの思想、すなわち合点になってしまう。これは「こういうふうだ」という了解事項、或いはそれが信条になってしまう。こうなると「風性常住」という事ではなくなる。

風性常住とは思想ではなく、あなたと関係ない。「無処不周」というのも、あなたの了解事項ではない。

例えば『建撕記』に「本来本法性・天然自性心」。これは本来成仏のことです。本来成仏であるなら、何故に修行が必要か。怠けても仏ではないか、何も修行する必要ないではないか。この辺りまでいくと、一つの思想になってしまい、了解事項になってしまう。それは仏法の世界にはなく、自我の段階であり、次元が違う。

「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし」

「仏法の証験」のあらたかさは、誰でもが修行すれば結果が現れるから「証験」です。この「証」を修と一緒にして、実修実証と考えます。実験と同意で、仏法は実際に行じなけれがならない。

我が宗門では、修と証は同じ意味に使われます。修の所にはじめて証があり、修することが証する事なのです。修行して何年ぐらいしたら証が表れるか、という事ではない。同時に顕われる、それをここでは「証験」と言われた。

「正伝の活路」の正伝とは血統を云うのではなく、我々の本来のあり方を務める事が「正伝」で、真実を修行すること。

我々の本来の姿は、宇宙の真実を実修実証していて、現実が事実なんです。現在の現実は、この修行している我々なんです。この真実を釈迦仏も修行された訳です。釈迦牟尼の師匠は、この現実だったのです。

つまり我々の坐禅の行は現成公案であり、坐禅は自我を超越する道ですが、何のことはない正身端坐が「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし」なんです。

「常住なれば扇を使うべからず」

永遠に常住であるから扇を使わなくてもいい、と云う事はない。

「使わぬ折りも風を聞くべきと云うは、常住をも知らず、風性をも知らぬなり」

使わなくても、風が来ると思うのは常住を知らない事で、それは貴方の勝手な観念・概念の世界の解釈と云うものです。

貴方が考えたようなものは本来の常住ではなく、常住とは宇宙の真実であり、人間が口を挟む問題ではない。

「風性は常住なるが故に」

ですから何処でも、修行はしなければならない。

「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ」

「仏家の家風」というものは、この「大地の黄金」を実修実証するものですから、このように「現成せしめ」と言われる。つまり仏者にはこの大地は仏国土で、現成公案に於いては、どんなに苦しい状態にあっても仏国土です。苦しい・つらい・嫌だと云うのは自我の段階が謂うことで、これを超越した現成公案からは、すべてが真実なんです。

「長河の酥酪を参熟せり」

「酥酪」とは醍醐味の意で、最高の食べ物(ヨーグルト)を言ったのでしょう。つまり、その河も単なる長い河(揚子江)ではなく、これを醍醐の世界にする事が出来る。つまりは現成公案なるが故に、私たちは只管打坐の修行をする事で、この穢土を本来の仏国土とする事ができる。

これで現成公案の巻を読み終えたこととします。

 

   正法眼蔵 第一 現成公案 提唱(終)

 

これは酒井得元老師『正法眼蔵―現成公案の巻』からの抽出文である。原本では話し言葉で記述されるが、ここでは「です・ます」調の文章体とする。また当巻冒頭は「義雲頌著・面山述賛」から始まるが省略した。

 

 

酒井得元 摩訶般若波羅蜜 眼蔵提唱

 

酒井得元先生による眼蔵提唱

    正法眼蔵 第二 摩訶般若波羅蜜

    一 はじめに

この「般若波羅蜜」の巻は、次の「仏性」の巻への中継ぎのような気のする巻です。是は「眼蔵」中でも短い巻です。何故この「般若波羅蜜」が仏性への中継ぎかと申しますと、『法華経』の「唯有一乗法、無二亦無三」「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」という、これを最も具体的に示されたのが「現成公案」の巻であります。

現成公案を元にしたものが我々の坐禅でありますが、概念の世界と実際の世界とには非常に大きなギャップがあり、このギャップを、もっと念入りにハッキリ示して下さったのが、この「般若」の巻ですよ。

この「般若波羅蜜」の巻によって「無所得」という事を、ここで根本的に学んで頂きたい。無所得という事は無量無辺という事ですが、この無量無辺がどのように展開するかと申しますと、「仏性」の巻に於いて「一切衆生悉有仏性」という事になる。「一切衆生は悉有なり、仏性なり」と独自な読みです。いわゆる漢文の先生の読み方は日本流の漢文の読み方でしてね、本当の漢文ならば中国語ですよ。中国語ならば中国流に読んだらいい。中国流に読みますと御開山のお読みになる、大胆なほどにね。

この巻の後に「仏性」の巻が控えておりますが、前奏曲的な意味でこの「般若」の巻を今から読むわけです。これでは本文に入ってまいります。

    二 観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり。五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するに云はく、色卽是空なり、空卽是色なり、色是色なり、空卽空なり。百艸なり、万象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、浄慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜而今現成せり、阿耨多羅三耨三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、世の常に行なはる行住坐臥なり。

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。

「観自在菩薩」これは観音さんですけれども、『正法眼蔵』の中に「観音」の巻がある。道元禅師さまの観世音菩薩についての印象的な詞は、「暗夜に背手して枕子を摸するが如し」「通身是れ手眼」「遍身是れ手眼」という詞が出て来ますね。通身是れ手眼・遍身是れ手眼と申しますと、身体全体、これが手や眼になる。それから、真っ暗な所で物を探すならば、手をこうして(両手を背中に回して)動かさなければならんでしょう。この「摸するが如し」が観音さまの正体で、全身で活動する姿が「観自在菩薩」です。

「観自在菩薩」は永久に仏には成りませんよ。そして自分の功徳が熟して、自分が成仏の番になっても返上ですよ。みーんな他の方に回してしまう。これは何を表しているか、これが本当の成道というもの。つまり尽十方界の真実の修行という事です。我々が「成道を獲得した・見性を得た」とかいうのは、オレを満足させる自我の世界で、自我を満足した処が何にもならんでしょう。

天桂伝尊が、悟りと迷いの区別をはっきり示してくれましたよ。「肩の荷を替うるが如し」。全くその通り、同じものです。別に変わった事はない、昼の世界もあれば、夜の世界もある。すべてのもの、これが摩訶般若というものでしょう。その摩訶般若の実際を表したものが観世音菩薩です。

ですから観世音菩薩の行が行深般若波羅蜜です。般若波羅蜜多を修行する、これが仏道者の根幹です。これは観世音菩薩に限った事ではない、誰でもが般若波羅蜜多を修行するという事でなければならない。般若波羅蜜多は他の詞で云えば、尽十方界の真実を修行する事。

渾身の照見五蘊皆空なり

「渾身の照見」と申しますと、我々の身体全体だ。照見は照らして見るという事でしょう。そうしますと、向こうに対象があって、それを身体全体で向こうを見る、しかしながら、この般若波羅蜜多の世界は、見るものと見られるものの対立関係ではありません。見る・見られるの関係は、自我の世界だけの事。

昔はわたしも、西田哲学に凝った事があります。その頃の記憶では、見るものと見られるものの関係で盛んに説いておったね。結局これでは自我の世界だけしか説いていません。現在『正法眼蔵』の研究者が沢山おりますが、残念ながら方角違いの研究ばかりで手がつけられない。彼らは道元禅師を自分の思想のレベルにおいて考えている。だから皆、自分の都合のいい所だけ読む。そして理解できない所は道元の思想が未解決と云うんだ。彼らの立場からでは未解決でしょうね。

五蘊皆空なり」普通は『般「若心経』では「五蘊皆空なりと照見する」と読む。ところが『眼蔵』では「渾身の照見」と言う。渾身の照見という事で、意味が全く違ってきます。尽十方界そのもののあり方が、その時のあり方で、活動が渾身の照見という事になる。その照見の実態が「五蘊皆空」である。

五蘊」と申しますと、普通は「四大・五蘊」です。四大は地・水・火・風だ。四大が集まって我々という事になる。この我々が実際的に身心として活動する時、身心としての活動の様相が五蘊という形態をとる。色・受・想・行・識という形態をとる。つまり謂うと、観世音菩薩が般若波羅蜜多を行ずるとは、只管打坐の事ですよ。これが行深般若波羅蜜多でしょう。坐禅している。それは「渾身の照見」・「五蘊皆空」つまり謂うと身体全体のあり方であり、只管打坐が尽十方界の真実を行じているのである。

五蘊は色受想行識なり。五枚の般若なり。

その次に「五蘊は色受想行識なり」。色受想行識と申しますと、色身は身心の生の身体で、尽十方界の現実は身心です。人身と云ってもいい。人身の実際のあり方はどうかと云うと、色受想行識というあり方をしている。その色受想行識は、どの働きも、色の働きも受の働きも、どんな働きも、それぞれが皆勝手に働いてはいません。どのような働きも全部、尽十方界の真実の様相を示すものです。色にしても様相。姿を示すものです。この姿が般若です。

どれも色は色、受は受、想は想で、全てが尽十方界のそれぞれの姿です。一つも欠かすわけにはいかん。どれもこれもが現成公案として真実です。それを般若と言ったので「五枚の般若」という事です。

照見これ般若なり。

この照見は五蘊のハタラキです。五蘊の活動を照見と言ったわけです。渾身の活動で、この活動そのものが「般若」です。つまり真実の姿。

この宗旨の開演現成するに云はく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百艸なり、万象なり。

今までの所を一度改めて開演するという意味です。この場合の現成は公案現成の意味です。つまりここでは、この宗旨を広く述べる、解説する事です。「色」と申しますと、我々は物質と意訳していますが、これはサンスクリット系統の訳です。あれは直訳日本語と云いまして読みづらい。あれは言語に忠実というより、日本語に不慣れで、日本語になっていない。

ですから「色」に対し唯識では「質礙の義」と云います。質礙とは衝立の事で、つまり眼識の衝立、認識の衝立です。物を見る場合、向こうを意識するでしょう。意識する場合は、向こうに物があるでしょう。それにぶつかり見る事ですから、衝立の意味とする。「質礙の義」は。つまり謂うなら色法は我々を取り囲んでる環境全てが「色法」になる。こうなると皆が色法になるでしょう。

「空即是色」。単なる存在ではありません。色法も尽十方界の真実の一様相です。そういう意味でこれが「空」で、意味する処は尽十方界の真実の段階に於けるあり方を称して「空」と云い、空でないものはない。

「空即是色」。空という事は大体が真実ですけども、実感はありません。何処で我々はこれを認識するかは「色」という事で我々は感覚する。眼の前に展開する実体が「空」の実態です。

「色是色」。「色」というのは、決して他のものではない。色は何処までも色で、この「色是色」でなければ、「空」とはならない。この事が現成公案です。我々の眼の前に在るものは絶対的なものです。回避すべからざるもの、痛い時には痛は避けられない。

「空即空」。「即」は普通の読みでは「空は即ち空なり」と読みますが、この即の用法はそうではありません。「即心是仏」という詞があるでしょう。あの時は「即ち」と読んではならない。あの「即」は「心」を強めた詞です。「心そのものは」「心こそは」と、即心は読みます。この場合も同じこと。空はどこまでも空そのものである。「空」とは絶対的の姿であるというダメ押しみたいなものです。

「百艸なり万象なり」。「百草なり」というのは、我々の眼の前にある処のあらゆる現象を、百艸という。龐居士の「明々百草頭、明々祖師意」から来たのでしょうが、「万象」も同じで我々の眼の前にあるのはみな万象、事件ですから。

般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。

これは十二処・十八界という事です。十二処(新訳)がここでは十二入(旧訳)になってます。十二処というのは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根と、色・声・香・味・触・法の六境です。それから眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、色・声・香・味・触・法の六境と、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識とで十八界です。

眼根が眼識を働かせ、耳根が耳識を働かせ、鼻根は鼻識を働かせ、舌根は舌識を働かせ、身根は身識を働かせ、意根は意識を働かす。これは何を対象にしているかと言いますと、色・声・香・味・触・法、こういう構造です。これが十二処は十二ありますから「十二枚の般若」、十八界は十八ありますから「十八枚の般若」です。

つまりは私たちは、こういうような自我の活動、日常生活は自我の活動でしょう。自我の活動には道具立てや調度品が必要です。それらが無かったら暮らせません。人生と云いましても調度品が重要です。人間の自我の活動をするにも道具立てが必要で、六根・六境・六識の十二処・十八界がそれに当たります。これは勝手に作られたものではなく、尽十方界の真実である身心のあり方になります。

また四枚の般若あり、苦集滅道なり。

「苦集滅道」というのは、上座仏教あたりで盛んに説かれる、解脱の道を苦集滅道と説きます。上座仏教では「苦」は何故に苦であるかと云うと「集」により苦である。その苦を今度は「滅」しなきゃならない。その滅する事で「道」に達する、つまり「苦集滅道」は解脱への定番なんです。苦も集も滅も道も調度のようなもので欠かせない。ですから、これも「般若」という事になるんじゃないかと、そいう意味になります。

また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、浄慮、般若なり。

これは布施・持戒・忍辱・精進・精進・智慧と普通言っている六波羅蜜の事で、大乗仏教に於ける修行形態で、要諦とも言っていい。これを最も具体的に説いたのは大乗論部の『摂大乗論』でしょう。読んでおりますと「六波羅蜜」の項では実に上手く説いてあり、感心します。しかしこれは説明で、どれもこれもが般若波羅蜜なんです。

また一枚の般若波羅蜜而今現成せり、阿耨多羅三耨三菩提なり。

「一枚の般若波羅蜜」と申しますと、今まで六枚あった、或いは四枚あった、或いは一八枚あった、一二枚あったと。どういう関係かと云うと、これは別です。そうして、ここでは「一枚の般若」、一枚で全体を表す、これより他はない。つまり尽十方界を一枚とする、尽十方界の真実を捉まえて「般若波羅蜜」。

而今現成せり」とは、現在で、「現」と云うのはありのままです。それから「成」とは完成の意で、ありのままが完全な姿。つまり「而今現成せり」で今現在このまま、そのものが般若波羅蜜です。現実そのもの、これが般若波羅蜜です。般若波羅蜜以外何ものもない、これが阿耨多羅三耨三菩提です。

「阿耨多羅三耨三菩提」というのは、『金剛経』では「法の阿耨多羅三耨三菩提を得ることなし」とあり、「これが阿耨多羅三耨三菩提だ」と。この而今現成のもの、現実全部で、全体が阿耨多羅三耨三菩提だと。

また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。

過去・現在・未来、いつでもこれは般若です。而今現成せり阿耨多羅三耨三菩提を承けまして、昨日のそうで、今日も明日もそうであると、こういう意味です。般若のあり方として「三枚」と言うわけです。

また般若六枚あり、地水火風空識なり。

四大元素から六大元素になりましたが、四大・五大・六大と云いましても、これも尽十方界の真実の中の調度品になるわけです、一つも欠損する事は出来ません。地・水・火・風・空・識の皆が絶対的存在で、「六枚の般若」です。

また四枚の般若、世の常に行なはる行住坐臥なり。

「行住坐臥」は四威儀と申しますが、この四つの動作が私達の日常生活を形作っているでしょう。これを離れて生活は出来ず、どの一つも欠かせません。一つ一つが尽十方界の姿であり真実です。

そうしますと、「般若波羅蜜」という事は、日常生活の一コマ一コマが皆、般若の実態ということになるわけです。

 

    二 釈迦牟尼如来の会中

釈迦牟尼如来会中有一苾蒭。竊作是念、我応敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅。而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、知見蘊施設可得。亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得。亦有独覚菩提施設可得。亦有無上正等菩提施設可得。亦有仏法僧宝施設可得。亦有転妙法輪、度有性類施設可得。仏知其念。告苾蒭言。如是如是、甚深般若波羅蜜、微妙難測。

而今の一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり、この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いはゆる戒定慧乃至度有情類等なり。これを無といふ。無の施設、かくの如く可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

この引用文は『大般若波羅蜜多経』二九一(「大正蔵」六・四八〇中)からです。

釈迦牟尼如来会中有一苾蒭。竊作是念、我応敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅。而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、知見蘊施設可得。

釈迦牟尼如来の会中に一苾蒭有り。竊かに是の念を作す。我れ応に甚深般若波羅蜜多を敬礼すべし。此の中に無諸法の生滅なしと雖も。而も戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊の施設可得あり。

これは五分法身の事で、解脱に対する装置のようなもので、指導の装置、学人を指導する、般若波羅蜜多へはそういうように指導するかと云った施設で、そういうものが可得ですから、有る。

亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得。

亦た預流果・一来果・不還果・阿羅漢果施設可得あり。

これは四果と申しまして、上座部の修行の位です。ふつう上座部の修行は、一番初めに五停心があって四念住がある。四念住の別相念住・総相念住を経て、それから「煗・頂・忍・世第一法」をやって、その世第一法の修行が済んでから、いよいよ「預流果」に入る。預流果はまだ足を突っ込んだばかり。それで「一来果」は一遍、出戻りする事がある。その次に「不還果」に入りますともう大丈夫、後戻りなし、落第なしだ。一来果には留年がある。ところが不還果になりますと、もうこれは絶対に留年なし、卒業間違いなし。それから「阿羅漢」になりますと卒業ですから、学ぶことがないから無学。こういう四つのお膳立てがあります。このように般若波羅蜜への道を開いていく。

亦有独覚菩提施設可得。

独覚は縁覚です。これは般若波羅蜜への指導の装置がある。

亦有無上正等菩提施設可得。

無上正等菩提になりますと今までは小乗でしたけれども、ここで大乗の修行になります。

亦有仏法僧宝施設可得、亦有転妙法輪、度有性類施設可得。

こういうように、ありとあらゆる般若波羅蜜への指導の施設にこと欠きません。

仏知其念。告苾蒭言。如是如是、甚深般若波羅蜜、微妙難測。

其の念というのは、その比丘の考え方を賛成される。この測り難しは、寄り付き難いではなく、般若波羅蜜多は完璧であるという事が、我々の思量を越えたものである事を微妙にして測り難しと言ったのである。

而今の一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。

これは経文を眼蔵流に書き替えたもので、般若がどういう般若になったかと云うと、「雖無生滅の般若」という詞が新しく造語された。愉快ですね、この言葉。「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」そのこと自身が敬礼で、敬礼という事は相手があって、その相手に対して敬礼するのですが、我々が拝むという事も般若波羅蜜なんです。

この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いはゆる戒定慧乃至度有情類等なり。

「正当敬礼時」は、正に敬礼の時に当たって。という云い方ですが、これは「敬礼そのもは」という意味です。「ちなみに施設可得の般若現成せり」とは、ありとあらゆるものが般若波羅蜜である。「戒定慧」は三学ですが、ここでは「乃至度有情類等なり」と言いますから、全部まとめてここに書いてあります。

これを無といふ。無の施設、かくの如く可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

「無」という事は、我々の平生使う有に対する無、そう云う有・無の「無」とは違います。これは「仏性」の巻にある「無仏性」の無と同じ無で、物が存在しないという意味ではない。

これは自我の段階の無ではない。この無は普遍の意味と同じです。満ち満ちて全部が般若波羅蜜です。これを「無」と云うわけです。一万年考えても般若の正体には達せず、何億年経っても般若波羅蜜の偉大さには分かろうはずがない。どっち向いても般若ばかりで、「どんな感じ」「こんな感じ」はないでしょう、これが「甚深微妙難測の般若波羅蜜」です。

私達の只管打坐の坐禅が、謂うならば「無の施設」の坐禅です。特別の経験は狙ってはならない。我々の坐禅には目標がない、これが素晴らしい事で、只管打坐では絶対に目標は持たない。坐禅の一番大切な事は、じーっとしている、あの静けさなんです。

 

    三 天帝釈、具寿善現に問うて言わく

天帝釈問具寿善現言。大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如何学。善現答言。憍尸迦若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如虚空学。しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。

この引用文も『大般若波羅蜜多経』二九一(「大正蔵」六・四八〇中)からの続きです

天帝釈問具寿善現言。

「天帝釈」と申しますと帝釈天で、憍尸迦は彼が人間だった頃の名前です。「具寿善現」とは須菩提の事です。

大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如何学。

「大徳」とは須菩提に対する呼び掛けです。学せんと欲うならば、どういうように学んだらいいですか。と言う。

善現答言。憍尸迦若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如虚空学。

「善現」つまり須菩提が答えます。憍尸迦、若し菩薩摩訶薩・甚深波羅蜜多を学せんと欲わば、当に虚空の如くに学すべし。虚空という事は目標を立てるにも目標の立てようがない。手がかりを求めようにも手がかりがない、これが答えなんです。

「如何が学すべし」を具体的に表した詞が「虚空の如く学すべし」。つまり我々の坐禅がこれです。般若波羅蜜とは、我々がこのように生かされている真実の事を「般若波羅蜜」と言うんです。この般若波羅蜜には手応えがない、我々の日常生活では手応えばかり楽しんで、「あれを掴んだ」「これを持った」と云いますが、本当は掴んでは居りません。

「如何が学すべし」これが只管打坐のことで、「虚空の如く」とは無所得無所悟に坐禅する。ですから全然反応がない。黙って坐っている、つまり虚空の如き坐禅を、お互いに大事にすることです。

しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。

「虚空」という事は、私たちの本当の生き方を称して虚空と言ったんです。我々の本当の生き方の姿を具体的に虚空と云う、謂うならば我々の本来の姿は、ある目的の為に生きているのではない。目的というのは、自我の昼間の世界の人生にしか在りません。

私達の坐禅は虚空を実践することです。虚空というものは概念ではありません。所謂、無所得無所悟で只管打坐する事が「虚空」である。学般若でなければ虚空ではなく、概念ではないので、平常は虚空は在りません。「虚空」は学般若に於いて初めて虚空がある。只管打坐する時に「虚空」が在る。

 

    四 天帝釈また仏に白して言さく

天帝釈復白仏言、世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説。我当云何而為守護。唯願世尊垂哀示教、爾時具寿善現謂天帝釈言。憍尸迦汝見有法可守護不。天帝釈言、不也。大徳、我不見有法是可守護。善現言、憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説。甚深若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深若波羅蜜多、常不遠離。当知一切人非人等、伺求其便。欲為損害。終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異、為欲守護虚空。しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。

大般若波羅蜜多経』二九一(「大正蔵」六・四八〇中)からの引用になります。

天帝釈復白仏言。

天帝釈が仏さまに、このように申し上げた。

世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦。

「善男子・善女人」と云うのは、これは仏教の修行者のことを一般に善男子・善女人と云い「私たちは」と云う事です。「所説」は、仏さまがお説きになっていらっしゃいます。「甚深般若波羅蜜多に於いて、受持読誦し、如理思惟」これを受持読誦して如理思惟すると云うのは、説きました般若波羅蜜多十分に聞いてこれを守りますと、そうしてそれを十分に身につくように消化するように努める。これが如理思惟で、間違って自分勝手にこれを考えてはいけません。

昔から宗門では「聞いて聞いて聞きまくれ」という詞がある。そういうように聞く事によって、その自分流の解釈をしないで、そっくりそのまま受け入れるようになる。これが大切なんだ。眠とってもいい。昔の人が云っている、眠ていても「毛穴から入る」。どうか知りませんが、毛穴から入ると云われている。まあ形容の意味ですけれどもね、聞いて聞いて「何はともかく聞け」という事です。そうすることで初めて我々に如理思惟する事が出来る。ですから「眼蔵」の研究者でも、とんでもない自己流の解釈ばっかりやる人が多く、ほとんどそうだと謂っていい。

如理思惟、為他演説、我当云何而為守護、唯願世尊垂哀示教、爾時具寿善現謂天帝釈言。

そこで他の人にも、仏さまから聴聞した甚深般若波羅蜜多を広めようと思うと。「我」の天帝釈は、お釈迦様の信者であると同時に天界の支配者ですから、この天帝釈が仏法を守護しようと云う訳です。つまり、この場合の守護は般若波羅蜜多です。どうか私(天帝釈)に対し、守護の仕方をお示し願いたい。こういうゆうに懇願した訳です。その時に、お釈迦様は答えられなく、侍者和尚の須菩提がこれに対して答える。『般若経』の中には解空第一須菩提尊者が居て、お釈迦様の代弁をします。ここでも須菩提がお釈迦様に為り代わります。

憍尸迦汝見有法可守護不。天帝釈言、不也。大徳、我不見有法是可守護。

「憍尸迦」は帝釈天の俗名です。須菩提は憍尸迦に、こうお前は守護する対象があると思っているかどうかな、こう言われます。すると天帝釈は「不也」ございません。「大徳」(須菩提)と言う。「我」(憍尸迦)には守護すべき相手が見当たりません。と答える訳です。

善現言、憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説、甚深若波羅蜜多、即為守護。

その時に須菩提が天帝釈に言うのには、修行者たちが居て「是の如き説」(法の是れ守護すべき有るを見ず)つまり守るべきものがない。これが「甚深若波羅蜜多」であって、「即ち守護すべし」。つまり、無所得・無所悟の修行をしなさい。これが般若波羅蜜多を守護する事になるぞ。と謂う訳です。

若善男子善女人等、作如所説、甚深若波羅蜜多、常不遠離。当知一切人非人等、伺求其便、欲為損害、終不能得。

「常に遠離せず」とは、いつも「甚深若波羅蜜多」と一体である、を云う。「人非人等」というのは人間と人間以外の全部が般若波羅蜜多に手がかりを求めようと思うこと。あるいは般若波羅蜜多に損害を与えてやろうと思う。ところが終に得(般若波羅蜜多)ることは能わず。手がかりも、ぶち壊しも出来ない、こういう事です。

憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異、為欲守護虚空。

須菩提は憍尸迦に、本当にこの般若波羅蜜多を守護しようと思うならば、守る事がない・守る事が出来ない、このように修行する。つまり私たちで云うならば、何も求める事なく、ひたすらに修行する事です。「甚深般若波羅蜜多」がその正体です。三に「虚空は学般若なり」とありましたが、これを承けてます。つまり本当に我々が只管打坐をする事が「虚空」で、「守護」するとは、只管打坐が「甚深般若波羅蜜多」であるし、守る事になる。

この守るものがあって、それを一所懸命に守る事は、これが染汚(ぜんな)です。我々は何か一つのものを、一所懸命に抱いて離さないようにする、これが染汚という事です。人間というものは変なもので、何か握ってないと安心が出来ない。捉まえていると自分たちが守られているような気になる。これが普通の人情です。坐禅をしても、何かを握りたいと思って懸命に努力する。これが染汚の修行です。

正法眼蔵』の狙いもそこにあるんです。守る所のないものを修行する、これが只管打坐の修行です。

しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。

「受持読誦」というのは、このお経の趣旨を、十分に読んで守って頂きたい。読むだけではしょうがない、日夜にこれを受持して頂き、受持するだけでなく、これを身につけて頂かなければならない。「如理思惟」我々はいろんな事を考えます。この自分を放っておいても、ものを考える。その考えるというのにブレーキを掛けなければ。考えるという事に対して、いつも軌道修正をいつもしなければ、とんでもない自分勝手の方向に突っ走ってしまいます。ですから如理思惟と云う事がある。そうしなければ無所得・無所悟の坐禅は出来ません。

これが般若を守る事になり、この坐禅が「守護般若」にならなければいけない。「欲守護」は我々が一所懸命に般若波羅蜜多を守ろうと努力する、これが欲守護です。「受持読誦等なり」は、一所懸命に間違わないように読んで、間違いなく守って行く。これより他には、只管打坐の坐禅・無所得無所悟の坐禅をする。それによって初めて「甚深般若波羅蜜多」を守る事が出来る。

この「般若波羅蜜多」の巻は簡単ですが、よくよく読んで頂きますと、この巻は只管打坐という我々の坐禅を、よく説明されています。

 

    五 先師古仏云わく

先師古仏云、渾身似口掛虚空、不問東西南北風、一等為他談般若。滴丁東丁滴丁東。

これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

この詩は『宝慶記』の中に出ているでしょう。この詩に対し道元禅師は、大変随喜されており、非常に褒めておられます。昔からこの詩は東洋一だという話があります。

渾身似口掛虚空。

「渾身口に似て虚空に掛く」お寺の軒端には、必ず風鈴が付いていますが、あれです。「渾身口に似て」と云うのは、風鈴は全部が口です。それが「虚空に掛かる」虚空の中にぶらさがっている。つまり「鈴」というものは身体全体が口で、そして「虚空と一体」であると、こういう訳です。

不問東西南北風。

どっちの風が吹かなければならない、と云う事はない。風が吹きさえすれば鳴る。これは方角なしで、尽十方界を表している。

一等為他談般若、滴丁東丁滴丁東。

「一等」は皆、平等です。あの「チチントンリャン・チチントン」と鳴ってる声が般若の声で、具体的に「般若」を示してくれる。つまり、「般若波羅蜜」は概念ではなく、尽十方界の活動、真実そのものを般若波羅蜜と云う。単に智慧と訳しますがそうではなく、すべてのものが般若の現われである。

これを道元禅師は、これに韻を合わせて、ご自身でも一遍作り替えている。

渾身是口判虚空、居起東西南北風。一等玲瓏談己語、滴丁東丁滴丁東。(『永平広録』九・五八)

「渾身是れ口、虚空を判ず」

身体全体が口で、虚空全体を表現している。虚空と一体です。

じーとして坐る私達の坐禅がこうなんです。私たちは坐禅をする時には、自分の行為は一切ありません。自分の為にする事は一切ありません。ですから躰全体を仏さまに預けてしまうんです。そこには自分はなく、仏さまです。

「居ながらに起こす東西南北の風」

この呼吸みたいなもので、自然と窓が開いてますから、どっちの方角の風でも入って来ます。

「一等玲瓏、己語を談ず」

玲瓏は無色透明な姿で、どこにも陰がない。ですから一等玲瓏は平等を云う。己語を談ずとは、自己を語る事で、般若波羅蜜が談じ行ぜられている。こういう意味合いです。

これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

「仏祖嫡嫡の」仏祖の本当の姿が「談般若」であり、これ以上の本物の般若はこれしかありません。「渾身般若なり」躰全体が般若であり、身体が般若を表現する。「渾他般若なり」自分ばかりではなく、皆がやっているんです。「渾自般若」自分もそうで、この場合の自・他の詞は、他も自も同じものです。「渾東西南北般若」東も西も南も北も皆「般若」で、東西南北に相当するものが他であり自である。

従って我々の坐禅はどんな状態であってもいいんだ。ある一つの状態を目指して一所懸命に努力するのが坐禅ではない。坐禅には目標がなく、有ってはならない。どんな状態変化であろうとも、それは談般若である。

一所懸命に歯を食いしばって頑張り、額には青筋を立て頑張る。よくそういうのが、本当の修行・宗教と思い込んでるが、人間の好み通りに、ブレーキをかけずに暴走させれば、変な人間になってしまいます。

ですから坐禅も、下手な事すれば化け物屋敷になる。それは他でもない、煩悩と闘っている姿が妖怪屋敷です。そういうのが正法とは言わない。

 

    六 釈迦牟尼仏言わく、捨利子よ

釈迦牟尼仏言、舎利子、是諸有情、於此般若波羅密多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅密多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所以者何。般若波羅密多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅密多。般若波羅密多、即是仏薄伽梵。仏薄伽梵、即是般若波羅密多。何以故。舎利子、一切如来応正等覚、皆由般若波羅密多得出現故。舎利子、一切菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流等、皆由般若波羅密多得出現故。舎利子、一切世間十善業道・四静慮・四無色定・五神通、皆由般若波羅密多得出現故。

しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅密多なり、般若波羅密多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄なり、不増不減なり。この般若波羅密多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

これは『大般若経』第一七二巻の「讃般若品」(「大正蔵」五・九二五上)にあります。

釈迦牟尼仏言わく、舎利子よ、是の諸の有情は、此の般若波羅密多に於いて、応に仏の住するが如く供養し礼敬すべし。

お釈迦さまが舎利弗に呼び掛けられた。諸の有情は般若波羅蜜多を仏さまに供養礼敬しなさいと。あ、g

般若波羅密多を思惟すること、応に仏薄伽梵を供養し礼敬するが如くすべし。

般若波羅密多を思惟する、というのは取り扱うという事です。薄伽梵は世尊の事で、世尊の原語に当たる梵語です。仏世尊を礼敬するようにしなさい。

所以は何ん。般若波羅密多は、仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は、般若波羅密多に異ならず。

般若波羅密多は、そっくりそのままが仏薄伽梵と同じものである。我々がゴータマと言ったり世尊と云ってますけど、上座仏教ではそれでも良かったが大乗仏教では、この釈迦仏が単なるインドの王子ではなく、宇宙一杯の真実にまで発展した、それが大乗仏教です。ですから高祖の『傘松道詠』の中に「峰の色、谷の響きもみなながら、わが釈迦牟尼の、声と姿と」ということになる。これが「仏薄伽梵」で、同時にこれが「般若波羅蜜多」の実態なんです。

般若波羅密多は即ち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵は即ち是れ般若波羅密多なり。

とうとう最後にはこうなります。そっくりそのままが、仏様そのものです。

真宗妙好人で伊勢の村田静照(1835―1932・三重・明覚寺)という和上ですけども、「木に刻んだり絵に描かれたんでは阿弥陀様も、さぞかしお困りでしょう」とね。実感だな。阿弥陀様というのは尽十方無礙光如来ですから、この宇宙全体です。宇宙が仏さまの光明である。ですから歎仏会では「法界蔵身阿弥陀仏」とある。

曹洞宗の坊さんの中には、南無阿弥陀仏という言葉を嫌って、毛嫌いする人がある。小児根性丸出しで「オレの宗旨は自力行だ」と云って、中には観音さんの名号を唱えるのが居ますが、根性が狭いじゃないか。宗派を超越しなければならない。

この場合の「仏薄伽梵」というのは、宇宙全体の真実になる。

何を以ての故に、舎利子よ、一切の如来応正等覚は、皆般若波羅密多に由りて出現するを得るが故に。

如来さまのお悟りは、その元は「般若波羅蜜多」から出現する。般若波羅蜜多がなければ「如来正等覚」なんかありはしない。

舎利子よ、一切の菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流等は、皆般若波羅密多に由りて出現するを得るが故に。

一切の菩薩摩訶薩も、「独覚」というのは縁覚。それから「阿羅漢・不還・一来・預流」というのは声聞です。こういう者も皆が般若波羅蜜多によって出現する。般若波羅蜜多がなければ出現しません。

舎利子よ、一切世間の十善業道も四静慮も四無色定も五神通も、皆般若波羅密多に由りて出現するを得るが故に。

正法眼蔵』の中で、「三十七品菩提分法」の巻ですが、あれは小乗仏教のものですが、全部あれを大乗仏教の修行の方に取り入れてます。実はあれは道元禅師の独断ではなく、この『大般若経』のここにある。これは重要な事です。「一切世間の十善業道も四静慮も四無色定も五神通も全部、これは「般若波羅蜜多」のお姿であり表情である。

つまり申しますと、形が三角であろうが四角であろうが、ありとあらゆるものが、般若であり現成公案である。現成公案というのは道元禅師の独断ではなく、大乗仏教の根源である『大般若波羅蜜多経』に歴然たる根拠が展開されている。

しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅密多なり、般若波羅密多は是諸法なり。

この「是諸法」の是は諸法を強めたもので、諸法と云いますと一切法ですから、般若波羅蜜多以外には有り得ない。すべてが般若波羅蜜多の姿で、どんなものをとっても、かりそめのものは存在しない。みな尽十方界の真実である。こういうような意味合いです。

この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄なり、不増不減なり。

「空相」というのは真実の姿を空相という。次元を越えた世界の真実を謂う。「不生不滅」の不は「不の生、不の滅」と読み、「生ぜず、滅せず」という事ではない。つまり「不」とは我々人間の、自我の段階の詞ではなく、般若波羅蜜の段階にある詞で、般若波羅蜜そのものを「不」と云う。「不垢不浄・不増不減」もそうで、垢というも浄というも、増も減も般若波羅蜜そのものです。

この般若波羅密多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。

生も滅も垢も浄も増も減も皆般若波羅蜜多の姿ですが、私たちの段階ではないので「不」の字を付け不生不滅と云う。それが「仏薄伽梵の現成せるなり」です。

問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

「問取すべし、参取すべし」とは、これをよく聞いて、或いはこれを疑問に持ち、大いにこれを参得しなさい。との意。我々が一番尊敬しなければならないもの、供養礼敬すべきは「仏薄伽梵」です。「奉覲」というのは「みたてまつる」で、仏さまを拝む時には必ずお顔を見なければならない。お顔を仰がないで初めから頭を下げてはいけない。「承事」は一切の仏様を頂く事です。つまり我々の仏さまの拝み方は、「奉覲承事」でなければならない。この奉覲承事がここで云う「供養礼敬」で、供養するとは「仏薄伽梵に奉覲承事・奉覲承事の仏薄伽梵」ですから、般若波羅蜜を行ずる事が奉覲承事であるし、また奉覲承事が般若波羅蜜で、般若の一つの姿である。

 

    正法眼蔵 第二 摩訶般若波羅蜜 提唱(終)

 

これは酒井得元老師『正法眼蔵・真実の求め・摩訶般若波羅蜜』からの抽出文である。原本では話し言葉で記述されるが、ここでは「です・ます」調の文章体とする。また当巻冒頭は「義雲頌著・面山述賛」から始まるが省略した。