正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

酒井得元 摩訶般若波羅蜜 眼蔵提唱

 

酒井得元先生による眼蔵提唱

    正法眼蔵 第二 摩訶般若波羅蜜

    一 はじめに

この「般若波羅蜜」の巻は、次の「仏性」の巻への中継ぎのような気のする巻です。是は「眼蔵」中でも短い巻です。何故この「般若波羅蜜」が仏性への中継ぎかと申しますと、『法華経』の「唯有一乗法、無二亦無三」「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」という、これを最も具体的に示されたのが「現成公案」の巻であります。

現成公案を元にしたものが我々の坐禅でありますが、概念の世界と実際の世界とには非常に大きなギャップがあり、このギャップを、もっと念入りにハッキリ示して下さったのが、この「般若」の巻ですよ。

この「般若波羅蜜」の巻によって「無所得」という事を、ここで根本的に学んで頂きたい。無所得という事は無量無辺という事ですが、この無量無辺がどのように展開するかと申しますと、「仏性」の巻に於いて「一切衆生悉有仏性」という事になる。「一切衆生は悉有なり、仏性なり」と独自な読みです。いわゆる漢文の先生の読み方は日本流の漢文の読み方でしてね、本当の漢文ならば中国語ですよ。中国語ならば中国流に読んだらいい。中国流に読みますと御開山のお読みになる、大胆なほどにね。

この巻の後に「仏性」の巻が控えておりますが、前奏曲的な意味でこの「般若」の巻を今から読むわけです。これでは本文に入ってまいります。

    二 観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり。五枚の般若なり。照見これ般若なり。この宗旨の開演現成するに云はく、色卽是空なり、空卽是色なり、色是色なり、空卽空なり。百艸なり、万象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、浄慮、般若なり。また一枚の般若波羅蜜而今現成せり、阿耨多羅三耨三菩提なり。また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、世の常に行なはる行住坐臥なり。

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。

「観自在菩薩」これは観音さんですけれども、『正法眼蔵』の中に「観音」の巻がある。道元禅師さまの観世音菩薩についての印象的な詞は、「暗夜に背手して枕子を摸するが如し」「通身是れ手眼」「遍身是れ手眼」という詞が出て来ますね。通身是れ手眼・遍身是れ手眼と申しますと、身体全体、これが手や眼になる。それから、真っ暗な所で物を探すならば、手をこうして(両手を背中に回して)動かさなければならんでしょう。この「摸するが如し」が観音さまの正体で、全身で活動する姿が「観自在菩薩」です。

「観自在菩薩」は永久に仏には成りませんよ。そして自分の功徳が熟して、自分が成仏の番になっても返上ですよ。みーんな他の方に回してしまう。これは何を表しているか、これが本当の成道というもの。つまり尽十方界の真実の修行という事です。我々が「成道を獲得した・見性を得た」とかいうのは、オレを満足させる自我の世界で、自我を満足した処が何にもならんでしょう。

天桂伝尊が、悟りと迷いの区別をはっきり示してくれましたよ。「肩の荷を替うるが如し」。全くその通り、同じものです。別に変わった事はない、昼の世界もあれば、夜の世界もある。すべてのもの、これが摩訶般若というものでしょう。その摩訶般若の実際を表したものが観世音菩薩です。

ですから観世音菩薩の行が行深般若波羅蜜です。般若波羅蜜多を修行する、これが仏道者の根幹です。これは観世音菩薩に限った事ではない、誰でもが般若波羅蜜多を修行するという事でなければならない。般若波羅蜜多は他の詞で云えば、尽十方界の真実を修行する事。

渾身の照見五蘊皆空なり

「渾身の照見」と申しますと、我々の身体全体だ。照見は照らして見るという事でしょう。そうしますと、向こうに対象があって、それを身体全体で向こうを見る、しかしながら、この般若波羅蜜多の世界は、見るものと見られるものの対立関係ではありません。見る・見られるの関係は、自我の世界だけの事。

昔はわたしも、西田哲学に凝った事があります。その頃の記憶では、見るものと見られるものの関係で盛んに説いておったね。結局これでは自我の世界だけしか説いていません。現在『正法眼蔵』の研究者が沢山おりますが、残念ながら方角違いの研究ばかりで手がつけられない。彼らは道元禅師を自分の思想のレベルにおいて考えている。だから皆、自分の都合のいい所だけ読む。そして理解できない所は道元の思想が未解決と云うんだ。彼らの立場からでは未解決でしょうね。

五蘊皆空なり」普通は『般「若心経』では「五蘊皆空なりと照見する」と読む。ところが『眼蔵』では「渾身の照見」と言う。渾身の照見という事で、意味が全く違ってきます。尽十方界そのもののあり方が、その時のあり方で、活動が渾身の照見という事になる。その照見の実態が「五蘊皆空」である。

五蘊」と申しますと、普通は「四大・五蘊」です。四大は地・水・火・風だ。四大が集まって我々という事になる。この我々が実際的に身心として活動する時、身心としての活動の様相が五蘊という形態をとる。色・受・想・行・識という形態をとる。つまり謂うと、観世音菩薩が般若波羅蜜多を行ずるとは、只管打坐の事ですよ。これが行深般若波羅蜜多でしょう。坐禅している。それは「渾身の照見」・「五蘊皆空」つまり謂うと身体全体のあり方であり、只管打坐が尽十方界の真実を行じているのである。

五蘊は色受想行識なり。五枚の般若なり。

その次に「五蘊は色受想行識なり」。色受想行識と申しますと、色身は身心の生の身体で、尽十方界の現実は身心です。人身と云ってもいい。人身の実際のあり方はどうかと云うと、色受想行識というあり方をしている。その色受想行識は、どの働きも、色の働きも受の働きも、どんな働きも、それぞれが皆勝手に働いてはいません。どのような働きも全部、尽十方界の真実の様相を示すものです。色にしても様相。姿を示すものです。この姿が般若です。

どれも色は色、受は受、想は想で、全てが尽十方界のそれぞれの姿です。一つも欠かすわけにはいかん。どれもこれもが現成公案として真実です。それを般若と言ったので「五枚の般若」という事です。

照見これ般若なり。

この照見は五蘊のハタラキです。五蘊の活動を照見と言ったわけです。渾身の活動で、この活動そのものが「般若」です。つまり真実の姿。

この宗旨の開演現成するに云はく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百艸なり、万象なり。

今までの所を一度改めて開演するという意味です。この場合の現成は公案現成の意味です。つまりここでは、この宗旨を広く述べる、解説する事です。「色」と申しますと、我々は物質と意訳していますが、これはサンスクリット系統の訳です。あれは直訳日本語と云いまして読みづらい。あれは言語に忠実というより、日本語に不慣れで、日本語になっていない。

ですから「色」に対し唯識では「質礙の義」と云います。質礙とは衝立の事で、つまり眼識の衝立、認識の衝立です。物を見る場合、向こうを意識するでしょう。意識する場合は、向こうに物があるでしょう。それにぶつかり見る事ですから、衝立の意味とする。「質礙の義」は。つまり謂うなら色法は我々を取り囲んでる環境全てが「色法」になる。こうなると皆が色法になるでしょう。

「空即是色」。単なる存在ではありません。色法も尽十方界の真実の一様相です。そういう意味でこれが「空」で、意味する処は尽十方界の真実の段階に於けるあり方を称して「空」と云い、空でないものはない。

「空即是色」。空という事は大体が真実ですけども、実感はありません。何処で我々はこれを認識するかは「色」という事で我々は感覚する。眼の前に展開する実体が「空」の実態です。

「色是色」。「色」というのは、決して他のものではない。色は何処までも色で、この「色是色」でなければ、「空」とはならない。この事が現成公案です。我々の眼の前に在るものは絶対的なものです。回避すべからざるもの、痛い時には痛は避けられない。

「空即空」。「即」は普通の読みでは「空は即ち空なり」と読みますが、この即の用法はそうではありません。「即心是仏」という詞があるでしょう。あの時は「即ち」と読んではならない。あの「即」は「心」を強めた詞です。「心そのものは」「心こそは」と、即心は読みます。この場合も同じこと。空はどこまでも空そのものである。「空」とは絶対的の姿であるというダメ押しみたいなものです。

「百艸なり万象なり」。「百草なり」というのは、我々の眼の前にある処のあらゆる現象を、百艸という。龐居士の「明々百草頭、明々祖師意」から来たのでしょうが、「万象」も同じで我々の眼の前にあるのはみな万象、事件ですから。

般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。

これは十二処・十八界という事です。十二処(新訳)がここでは十二入(旧訳)になってます。十二処というのは、眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根と、色・声・香・味・触・法の六境です。それから眼・耳・鼻・舌・身・意の六根と、色・声・香・味・触・法の六境と、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識とで十八界です。

眼根が眼識を働かせ、耳根が耳識を働かせ、鼻根は鼻識を働かせ、舌根は舌識を働かせ、身根は身識を働かせ、意根は意識を働かす。これは何を対象にしているかと言いますと、色・声・香・味・触・法、こういう構造です。これが十二処は十二ありますから「十二枚の般若」、十八界は十八ありますから「十八枚の般若」です。

つまりは私たちは、こういうような自我の活動、日常生活は自我の活動でしょう。自我の活動には道具立てや調度品が必要です。それらが無かったら暮らせません。人生と云いましても調度品が重要です。人間の自我の活動をするにも道具立てが必要で、六根・六境・六識の十二処・十八界がそれに当たります。これは勝手に作られたものではなく、尽十方界の真実である身心のあり方になります。

また四枚の般若あり、苦集滅道なり。

「苦集滅道」というのは、上座仏教あたりで盛んに説かれる、解脱の道を苦集滅道と説きます。上座仏教では「苦」は何故に苦であるかと云うと「集」により苦である。その苦を今度は「滅」しなきゃならない。その滅する事で「道」に達する、つまり「苦集滅道」は解脱への定番なんです。苦も集も滅も道も調度のようなもので欠かせない。ですから、これも「般若」という事になるんじゃないかと、そいう意味になります。

また六枚の般若あり、布施、浄戒、安忍、精進、浄慮、般若なり。

これは布施・持戒・忍辱・精進・精進・智慧と普通言っている六波羅蜜の事で、大乗仏教に於ける修行形態で、要諦とも言っていい。これを最も具体的に説いたのは大乗論部の『摂大乗論』でしょう。読んでおりますと「六波羅蜜」の項では実に上手く説いてあり、感心します。しかしこれは説明で、どれもこれもが般若波羅蜜なんです。

また一枚の般若波羅蜜而今現成せり、阿耨多羅三耨三菩提なり。

「一枚の般若波羅蜜」と申しますと、今まで六枚あった、或いは四枚あった、或いは一八枚あった、一二枚あったと。どういう関係かと云うと、これは別です。そうして、ここでは「一枚の般若」、一枚で全体を表す、これより他はない。つまり尽十方界を一枚とする、尽十方界の真実を捉まえて「般若波羅蜜」。

而今現成せり」とは、現在で、「現」と云うのはありのままです。それから「成」とは完成の意で、ありのままが完全な姿。つまり「而今現成せり」で今現在このまま、そのものが般若波羅蜜です。現実そのもの、これが般若波羅蜜です。般若波羅蜜以外何ものもない、これが阿耨多羅三耨三菩提です。

「阿耨多羅三耨三菩提」というのは、『金剛経』では「法の阿耨多羅三耨三菩提を得ることなし」とあり、「これが阿耨多羅三耨三菩提だ」と。この而今現成のもの、現実全部で、全体が阿耨多羅三耨三菩提だと。

また般若波羅蜜三枚あり、過去現在未来なり。

過去・現在・未来、いつでもこれは般若です。而今現成せり阿耨多羅三耨三菩提を承けまして、昨日のそうで、今日も明日もそうであると、こういう意味です。般若のあり方として「三枚」と言うわけです。

また般若六枚あり、地水火風空識なり。

四大元素から六大元素になりましたが、四大・五大・六大と云いましても、これも尽十方界の真実の中の調度品になるわけです、一つも欠損する事は出来ません。地・水・火・風・空・識の皆が絶対的存在で、「六枚の般若」です。

また四枚の般若、世の常に行なはる行住坐臥なり。

「行住坐臥」は四威儀と申しますが、この四つの動作が私達の日常生活を形作っているでしょう。これを離れて生活は出来ず、どの一つも欠かせません。一つ一つが尽十方界の姿であり真実です。

そうしますと、「般若波羅蜜」という事は、日常生活の一コマ一コマが皆、般若の実態ということになるわけです。

 

    二 釈迦牟尼如来の会中

釈迦牟尼如来会中有一苾蒭。竊作是念、我応敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅。而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、知見蘊施設可得。亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得。亦有独覚菩提施設可得。亦有無上正等菩提施設可得。亦有仏法僧宝施設可得。亦有転妙法輪、度有性類施設可得。仏知其念。告苾蒭言。如是如是、甚深般若波羅蜜、微妙難測。

而今の一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり、この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いはゆる戒定慧乃至度有情類等なり。これを無といふ。無の施設、かくの如く可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

この引用文は『大般若波羅蜜多経』二九一(「大正蔵」六・四八〇中)からです。

釈迦牟尼如来会中有一苾蒭。竊作是念、我応敬礼甚深般若波羅蜜多。此中雖無諸法生滅。而有戒蘊、定蘊、慧蘊、解脱蘊、知見蘊施設可得。

釈迦牟尼如来の会中に一苾蒭有り。竊かに是の念を作す。我れ応に甚深般若波羅蜜多を敬礼すべし。此の中に無諸法の生滅なしと雖も。而も戒蘊・定蘊・慧蘊・解脱蘊・知見蘊の施設可得あり。

これは五分法身の事で、解脱に対する装置のようなもので、指導の装置、学人を指導する、般若波羅蜜多へはそういうように指導するかと云った施設で、そういうものが可得ですから、有る。

亦有預流果、一来果、不還果、阿羅漢果施設可得。

亦た預流果・一来果・不還果・阿羅漢果施設可得あり。

これは四果と申しまして、上座部の修行の位です。ふつう上座部の修行は、一番初めに五停心があって四念住がある。四念住の別相念住・総相念住を経て、それから「煗・頂・忍・世第一法」をやって、その世第一法の修行が済んでから、いよいよ「預流果」に入る。預流果はまだ足を突っ込んだばかり。それで「一来果」は一遍、出戻りする事がある。その次に「不還果」に入りますともう大丈夫、後戻りなし、落第なしだ。一来果には留年がある。ところが不還果になりますと、もうこれは絶対に留年なし、卒業間違いなし。それから「阿羅漢」になりますと卒業ですから、学ぶことがないから無学。こういう四つのお膳立てがあります。このように般若波羅蜜への道を開いていく。

亦有独覚菩提施設可得。

独覚は縁覚です。これは般若波羅蜜への指導の装置がある。

亦有無上正等菩提施設可得。

無上正等菩提になりますと今までは小乗でしたけれども、ここで大乗の修行になります。

亦有仏法僧宝施設可得、亦有転妙法輪、度有性類施設可得。

こういうように、ありとあらゆる般若波羅蜜への指導の施設にこと欠きません。

仏知其念。告苾蒭言。如是如是、甚深般若波羅蜜、微妙難測。

其の念というのは、その比丘の考え方を賛成される。この測り難しは、寄り付き難いではなく、般若波羅蜜多は完璧であるという事が、我々の思量を越えたものである事を微妙にして測り難しと言ったのである。

而今の一苾蒭の竊作是念は、諸法を敬礼するところに、雖無生滅の般若、これ敬礼なり。

これは経文を眼蔵流に書き替えたもので、般若がどういう般若になったかと云うと、「雖無生滅の般若」という詞が新しく造語された。愉快ですね、この言葉。「雖無生滅の般若、これ敬礼なり」そのこと自身が敬礼で、敬礼という事は相手があって、その相手に対して敬礼するのですが、我々が拝むという事も般若波羅蜜なんです。

この正当敬礼時、ちなみに施設可得の般若現成せり。いはゆる戒定慧乃至度有情類等なり。

「正当敬礼時」は、正に敬礼の時に当たって。という云い方ですが、これは「敬礼そのもは」という意味です。「ちなみに施設可得の般若現成せり」とは、ありとあらゆるものが般若波羅蜜である。「戒定慧」は三学ですが、ここでは「乃至度有情類等なり」と言いますから、全部まとめてここに書いてあります。

これを無といふ。無の施設、かくの如く可得なり。これ甚深微妙難測の般若波羅蜜なり。

「無」という事は、我々の平生使う有に対する無、そう云う有・無の「無」とは違います。これは「仏性」の巻にある「無仏性」の無と同じ無で、物が存在しないという意味ではない。

これは自我の段階の無ではない。この無は普遍の意味と同じです。満ち満ちて全部が般若波羅蜜です。これを「無」と云うわけです。一万年考えても般若の正体には達せず、何億年経っても般若波羅蜜の偉大さには分かろうはずがない。どっち向いても般若ばかりで、「どんな感じ」「こんな感じ」はないでしょう、これが「甚深微妙難測の般若波羅蜜」です。

私達の只管打坐の坐禅が、謂うならば「無の施設」の坐禅です。特別の経験は狙ってはならない。我々の坐禅には目標がない、これが素晴らしい事で、只管打坐では絶対に目標は持たない。坐禅の一番大切な事は、じーっとしている、あの静けさなんです。

 

    三 天帝釈、具寿善現に問うて言わく

天帝釈問具寿善現言。大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如何学。善現答言。憍尸迦若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如虚空学。しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。

この引用文も『大般若波羅蜜多経』二九一(「大正蔵」六・四八〇中)からの続きです

天帝釈問具寿善現言。

「天帝釈」と申しますと帝釈天で、憍尸迦は彼が人間だった頃の名前です。「具寿善現」とは須菩提の事です。

大徳、若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如何学。

「大徳」とは須菩提に対する呼び掛けです。学せんと欲うならば、どういうように学んだらいいですか。と言う。

善現答言。憍尸迦若菩薩摩訶薩、欲学甚深若波羅蜜多。当如虚空学。

「善現」つまり須菩提が答えます。憍尸迦、若し菩薩摩訶薩・甚深波羅蜜多を学せんと欲わば、当に虚空の如くに学すべし。虚空という事は目標を立てるにも目標の立てようがない。手がかりを求めようにも手がかりがない、これが答えなんです。

「如何が学すべし」を具体的に表した詞が「虚空の如く学すべし」。つまり我々の坐禅がこれです。般若波羅蜜とは、我々がこのように生かされている真実の事を「般若波羅蜜」と言うんです。この般若波羅蜜には手応えがない、我々の日常生活では手応えばかり楽しんで、「あれを掴んだ」「これを持った」と云いますが、本当は掴んでは居りません。

「如何が学すべし」これが只管打坐のことで、「虚空の如く」とは無所得無所悟に坐禅する。ですから全然反応がない。黙って坐っている、つまり虚空の如き坐禅を、お互いに大事にすることです。

しかあれば学般若これ虚空なり、虚空は学般若なり。

「虚空」という事は、私たちの本当の生き方を称して虚空と言ったんです。我々の本当の生き方の姿を具体的に虚空と云う、謂うならば我々の本来の姿は、ある目的の為に生きているのではない。目的というのは、自我の昼間の世界の人生にしか在りません。

私達の坐禅は虚空を実践することです。虚空というものは概念ではありません。所謂、無所得無所悟で只管打坐する事が「虚空」である。学般若でなければ虚空ではなく、概念ではないので、平常は虚空は在りません。「虚空」は学般若に於いて初めて虚空がある。只管打坐する時に「虚空」が在る。

 

    四 天帝釈また仏に白して言さく

天帝釈復白仏言、世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦、如理思惟、為他演説。我当云何而為守護。唯願世尊垂哀示教、爾時具寿善現謂天帝釈言。憍尸迦汝見有法可守護不。天帝釈言、不也。大徳、我不見有法是可守護。善現言、憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説。甚深若波羅蜜多、即為守護。若善男子善女人等、作如所説、甚深若波羅蜜多、常不遠離。当知一切人非人等、伺求其便。欲為損害。終不能得。憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異、為欲守護虚空。しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。

大般若波羅蜜多経』二九一(「大正蔵」六・四八〇中)からの引用になります。

天帝釈復白仏言。

天帝釈が仏さまに、このように申し上げた。

世尊、若善男子善女人等、於此所説甚深般若波羅蜜多、受持読誦。

「善男子・善女人」と云うのは、これは仏教の修行者のことを一般に善男子・善女人と云い「私たちは」と云う事です。「所説」は、仏さまがお説きになっていらっしゃいます。「甚深般若波羅蜜多に於いて、受持読誦し、如理思惟」これを受持読誦して如理思惟すると云うのは、説きました般若波羅蜜多十分に聞いてこれを守りますと、そうしてそれを十分に身につくように消化するように努める。これが如理思惟で、間違って自分勝手にこれを考えてはいけません。

昔から宗門では「聞いて聞いて聞きまくれ」という詞がある。そういうように聞く事によって、その自分流の解釈をしないで、そっくりそのまま受け入れるようになる。これが大切なんだ。眠とってもいい。昔の人が云っている、眠ていても「毛穴から入る」。どうか知りませんが、毛穴から入ると云われている。まあ形容の意味ですけれどもね、聞いて聞いて「何はともかく聞け」という事です。そうすることで初めて我々に如理思惟する事が出来る。ですから「眼蔵」の研究者でも、とんでもない自己流の解釈ばっかりやる人が多く、ほとんどそうだと謂っていい。

如理思惟、為他演説、我当云何而為守護、唯願世尊垂哀示教、爾時具寿善現謂天帝釈言。

そこで他の人にも、仏さまから聴聞した甚深般若波羅蜜多を広めようと思うと。「我」の天帝釈は、お釈迦様の信者であると同時に天界の支配者ですから、この天帝釈が仏法を守護しようと云う訳です。つまり、この場合の守護は般若波羅蜜多です。どうか私(天帝釈)に対し、守護の仕方をお示し願いたい。こういうゆうに懇願した訳です。その時に、お釈迦様は答えられなく、侍者和尚の須菩提がこれに対して答える。『般若経』の中には解空第一須菩提尊者が居て、お釈迦様の代弁をします。ここでも須菩提がお釈迦様に為り代わります。

憍尸迦汝見有法可守護不。天帝釈言、不也。大徳、我不見有法是可守護。

「憍尸迦」は帝釈天の俗名です。須菩提は憍尸迦に、こうお前は守護する対象があると思っているかどうかな、こう言われます。すると天帝釈は「不也」ございません。「大徳」(須菩提)と言う。「我」(憍尸迦)には守護すべき相手が見当たりません。と答える訳です。

善現言、憍尸迦、若善男子善女人等、作如是説、甚深若波羅蜜多、即為守護。

その時に須菩提が天帝釈に言うのには、修行者たちが居て「是の如き説」(法の是れ守護すべき有るを見ず)つまり守るべきものがない。これが「甚深若波羅蜜多」であって、「即ち守護すべし」。つまり、無所得・無所悟の修行をしなさい。これが般若波羅蜜多を守護する事になるぞ。と謂う訳です。

若善男子善女人等、作如所説、甚深若波羅蜜多、常不遠離。当知一切人非人等、伺求其便、欲為損害、終不能得。

「常に遠離せず」とは、いつも「甚深若波羅蜜多」と一体である、を云う。「人非人等」というのは人間と人間以外の全部が般若波羅蜜多に手がかりを求めようと思うこと。あるいは般若波羅蜜多に損害を与えてやろうと思う。ところが終に得(般若波羅蜜多)ることは能わず。手がかりも、ぶち壊しも出来ない、こういう事です。

憍尸迦、若欲守護、作如所説。甚深般若波羅蜜多、諸菩薩者無異、為欲守護虚空。

須菩提は憍尸迦に、本当にこの般若波羅蜜多を守護しようと思うならば、守る事がない・守る事が出来ない、このように修行する。つまり私たちで云うならば、何も求める事なく、ひたすらに修行する事です。「甚深般若波羅蜜多」がその正体です。三に「虚空は学般若なり」とありましたが、これを承けてます。つまり本当に我々が只管打坐をする事が「虚空」で、「守護」するとは、只管打坐が「甚深般若波羅蜜多」であるし、守る事になる。

この守るものがあって、それを一所懸命に守る事は、これが染汚(ぜんな)です。我々は何か一つのものを、一所懸命に抱いて離さないようにする、これが染汚という事です。人間というものは変なもので、何か握ってないと安心が出来ない。捉まえていると自分たちが守られているような気になる。これが普通の人情です。坐禅をしても、何かを握りたいと思って懸命に努力する。これが染汚の修行です。

正法眼蔵』の狙いもそこにあるんです。守る所のないものを修行する、これが只管打坐の修行です。

しるべし、受持読誦、如理思惟、すなはち守護般若なり。欲守護は受持読誦等なり。

「受持読誦」というのは、このお経の趣旨を、十分に読んで守って頂きたい。読むだけではしょうがない、日夜にこれを受持して頂き、受持するだけでなく、これを身につけて頂かなければならない。「如理思惟」我々はいろんな事を考えます。この自分を放っておいても、ものを考える。その考えるというのにブレーキを掛けなければ。考えるという事に対して、いつも軌道修正をいつもしなければ、とんでもない自分勝手の方向に突っ走ってしまいます。ですから如理思惟と云う事がある。そうしなければ無所得・無所悟の坐禅は出来ません。

これが般若を守る事になり、この坐禅が「守護般若」にならなければいけない。「欲守護」は我々が一所懸命に般若波羅蜜多を守ろうと努力する、これが欲守護です。「受持読誦等なり」は、一所懸命に間違わないように読んで、間違いなく守って行く。これより他には、只管打坐の坐禅・無所得無所悟の坐禅をする。それによって初めて「甚深般若波羅蜜多」を守る事が出来る。

この「般若波羅蜜多」の巻は簡単ですが、よくよく読んで頂きますと、この巻は只管打坐という我々の坐禅を、よく説明されています。

 

    五 先師古仏云わく

先師古仏云、渾身似口掛虚空、不問東西南北風、一等為他談般若。滴丁東丁滴丁東。

これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

この詩は『宝慶記』の中に出ているでしょう。この詩に対し道元禅師は、大変随喜されており、非常に褒めておられます。昔からこの詩は東洋一だという話があります。

渾身似口掛虚空。

「渾身口に似て虚空に掛く」お寺の軒端には、必ず風鈴が付いていますが、あれです。「渾身口に似て」と云うのは、風鈴は全部が口です。それが「虚空に掛かる」虚空の中にぶらさがっている。つまり「鈴」というものは身体全体が口で、そして「虚空と一体」であると、こういう訳です。

不問東西南北風。

どっちの風が吹かなければならない、と云う事はない。風が吹きさえすれば鳴る。これは方角なしで、尽十方界を表している。

一等為他談般若、滴丁東丁滴丁東。

「一等」は皆、平等です。あの「チチントンリャン・チチントン」と鳴ってる声が般若の声で、具体的に「般若」を示してくれる。つまり、「般若波羅蜜」は概念ではなく、尽十方界の活動、真実そのものを般若波羅蜜と云う。単に智慧と訳しますがそうではなく、すべてのものが般若の現われである。

これを道元禅師は、これに韻を合わせて、ご自身でも一遍作り替えている。

渾身是口判虚空、居起東西南北風。一等玲瓏談己語、滴丁東丁滴丁東。(『永平広録』九・五八)

「渾身是れ口、虚空を判ず」

身体全体が口で、虚空全体を表現している。虚空と一体です。

じーとして坐る私達の坐禅がこうなんです。私たちは坐禅をする時には、自分の行為は一切ありません。自分の為にする事は一切ありません。ですから躰全体を仏さまに預けてしまうんです。そこには自分はなく、仏さまです。

「居ながらに起こす東西南北の風」

この呼吸みたいなもので、自然と窓が開いてますから、どっちの方角の風でも入って来ます。

「一等玲瓏、己語を談ず」

玲瓏は無色透明な姿で、どこにも陰がない。ですから一等玲瓏は平等を云う。己語を談ずとは、自己を語る事で、般若波羅蜜が談じ行ぜられている。こういう意味合いです。

これ仏祖嫡嫡の談般若なり。渾身般若なり、渾他般若なり、渾自般若なり、渾東西南北般若なり。

「仏祖嫡嫡の」仏祖の本当の姿が「談般若」であり、これ以上の本物の般若はこれしかありません。「渾身般若なり」躰全体が般若であり、身体が般若を表現する。「渾他般若なり」自分ばかりではなく、皆がやっているんです。「渾自般若」自分もそうで、この場合の自・他の詞は、他も自も同じものです。「渾東西南北般若」東も西も南も北も皆「般若」で、東西南北に相当するものが他であり自である。

従って我々の坐禅はどんな状態であってもいいんだ。ある一つの状態を目指して一所懸命に努力するのが坐禅ではない。坐禅には目標がなく、有ってはならない。どんな状態変化であろうとも、それは談般若である。

一所懸命に歯を食いしばって頑張り、額には青筋を立て頑張る。よくそういうのが、本当の修行・宗教と思い込んでるが、人間の好み通りに、ブレーキをかけずに暴走させれば、変な人間になってしまいます。

ですから坐禅も、下手な事すれば化け物屋敷になる。それは他でもない、煩悩と闘っている姿が妖怪屋敷です。そういうのが正法とは言わない。

 

    六 釈迦牟尼仏言わく、捨利子よ

釈迦牟尼仏言、舎利子、是諸有情、於此般若波羅密多、応如仏住供養礼敬。思惟般若波羅密多、応如供養礼敬仏薄伽梵。所以者何。般若波羅密多、不異仏薄伽梵、仏薄伽梵、不異般若波羅密多。般若波羅密多、即是仏薄伽梵。仏薄伽梵、即是般若波羅密多。何以故。舎利子、一切如来応正等覚、皆由般若波羅密多得出現故。舎利子、一切菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流等、皆由般若波羅密多得出現故。舎利子、一切世間十善業道・四静慮・四無色定・五神通、皆由般若波羅密多得出現故。

しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅密多なり、般若波羅密多は是諸法なり。この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄なり、不増不減なり。この般若波羅密多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

これは『大般若経』第一七二巻の「讃般若品」(「大正蔵」五・九二五上)にあります。

釈迦牟尼仏言わく、舎利子よ、是の諸の有情は、此の般若波羅密多に於いて、応に仏の住するが如く供養し礼敬すべし。

お釈迦さまが舎利弗に呼び掛けられた。諸の有情は般若波羅蜜多を仏さまに供養礼敬しなさいと。あ、g

般若波羅密多を思惟すること、応に仏薄伽梵を供養し礼敬するが如くすべし。

般若波羅密多を思惟する、というのは取り扱うという事です。薄伽梵は世尊の事で、世尊の原語に当たる梵語です。仏世尊を礼敬するようにしなさい。

所以は何ん。般若波羅密多は、仏薄伽梵に異ならず、仏薄伽梵は、般若波羅密多に異ならず。

般若波羅密多は、そっくりそのままが仏薄伽梵と同じものである。我々がゴータマと言ったり世尊と云ってますけど、上座仏教ではそれでも良かったが大乗仏教では、この釈迦仏が単なるインドの王子ではなく、宇宙一杯の真実にまで発展した、それが大乗仏教です。ですから高祖の『傘松道詠』の中に「峰の色、谷の響きもみなながら、わが釈迦牟尼の、声と姿と」ということになる。これが「仏薄伽梵」で、同時にこれが「般若波羅蜜多」の実態なんです。

般若波羅密多は即ち是れ仏薄伽梵なり。仏薄伽梵は即ち是れ般若波羅密多なり。

とうとう最後にはこうなります。そっくりそのままが、仏様そのものです。

真宗妙好人で伊勢の村田静照(1835―1932・三重・明覚寺)という和上ですけども、「木に刻んだり絵に描かれたんでは阿弥陀様も、さぞかしお困りでしょう」とね。実感だな。阿弥陀様というのは尽十方無礙光如来ですから、この宇宙全体です。宇宙が仏さまの光明である。ですから歎仏会では「法界蔵身阿弥陀仏」とある。

曹洞宗の坊さんの中には、南無阿弥陀仏という言葉を嫌って、毛嫌いする人がある。小児根性丸出しで「オレの宗旨は自力行だ」と云って、中には観音さんの名号を唱えるのが居ますが、根性が狭いじゃないか。宗派を超越しなければならない。

この場合の「仏薄伽梵」というのは、宇宙全体の真実になる。

何を以ての故に、舎利子よ、一切の如来応正等覚は、皆般若波羅密多に由りて出現するを得るが故に。

如来さまのお悟りは、その元は「般若波羅蜜多」から出現する。般若波羅蜜多がなければ「如来正等覚」なんかありはしない。

舎利子よ、一切の菩薩摩訶薩・独覚・阿羅漢・不還・一来・預流等は、皆般若波羅密多に由りて出現するを得るが故に。

一切の菩薩摩訶薩も、「独覚」というのは縁覚。それから「阿羅漢・不還・一来・預流」というのは声聞です。こういう者も皆が般若波羅蜜多によって出現する。般若波羅蜜多がなければ出現しません。

舎利子よ、一切世間の十善業道も四静慮も四無色定も五神通も、皆般若波羅密多に由りて出現するを得るが故に。

正法眼蔵』の中で、「三十七品菩提分法」の巻ですが、あれは小乗仏教のものですが、全部あれを大乗仏教の修行の方に取り入れてます。実はあれは道元禅師の独断ではなく、この『大般若経』のここにある。これは重要な事です。「一切世間の十善業道も四静慮も四無色定も五神通も全部、これは「般若波羅蜜多」のお姿であり表情である。

つまり申しますと、形が三角であろうが四角であろうが、ありとあらゆるものが、般若であり現成公案である。現成公案というのは道元禅師の独断ではなく、大乗仏教の根源である『大般若波羅蜜多経』に歴然たる根拠が展開されている。

しかあればすなはち、仏薄伽梵は般若波羅密多なり、般若波羅密多は是諸法なり。

この「是諸法」の是は諸法を強めたもので、諸法と云いますと一切法ですから、般若波羅蜜多以外には有り得ない。すべてが般若波羅蜜多の姿で、どんなものをとっても、かりそめのものは存在しない。みな尽十方界の真実である。こういうような意味合いです。

この諸法は空相なり、不生不滅なり、不垢不浄なり、不増不減なり。

「空相」というのは真実の姿を空相という。次元を越えた世界の真実を謂う。「不生不滅」の不は「不の生、不の滅」と読み、「生ぜず、滅せず」という事ではない。つまり「不」とは我々人間の、自我の段階の詞ではなく、般若波羅蜜の段階にある詞で、般若波羅蜜そのものを「不」と云う。「不垢不浄・不増不減」もそうで、垢というも浄というも、増も減も般若波羅蜜そのものです。

この般若波羅密多の現成せるは仏薄伽梵の現成せるなり。

生も滅も垢も浄も増も減も皆般若波羅蜜多の姿ですが、私たちの段階ではないので「不」の字を付け不生不滅と云う。それが「仏薄伽梵の現成せるなり」です。

問取すべし、参取すべし。供養礼敬する、これ仏薄伽梵に奉覲承事するなり。奉覲承事の仏薄伽梵なり。

「問取すべし、参取すべし」とは、これをよく聞いて、或いはこれを疑問に持ち、大いにこれを参得しなさい。との意。我々が一番尊敬しなければならないもの、供養礼敬すべきは「仏薄伽梵」です。「奉覲」というのは「みたてまつる」で、仏さまを拝む時には必ずお顔を見なければならない。お顔を仰がないで初めから頭を下げてはいけない。「承事」は一切の仏様を頂く事です。つまり我々の仏さまの拝み方は、「奉覲承事」でなければならない。この奉覲承事がここで云う「供養礼敬」で、供養するとは「仏薄伽梵に奉覲承事・奉覲承事の仏薄伽梵」ですから、般若波羅蜜を行ずる事が奉覲承事であるし、また奉覲承事が般若波羅蜜で、般若の一つの姿である。

 

    正法眼蔵 第二 摩訶般若波羅蜜 提唱(終)

 

これは酒井得元老師『正法眼蔵・真実の求め・摩訶般若波羅蜜』からの抽出文である。原本では話し言葉で記述されるが、ここでは「です・ます」調の文章体とする。また当巻冒頭は「義雲頌著・面山述賛」から始まるが省略した。