正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

酒井得元 現成公案  眼蔵提唱

酒井先生による眼蔵提唱

正法眼蔵 第一 現成公案

    はじめに

現成公案という事について、ざっと話しておきましょう。

正法眼蔵』を勉強するのに、『正法眼蔵御抄』があります。京都の永興寺の詮慧門下の人たちは、おそらく余り多くの人達ではないと思いますが、心血を注いで「眼蔵」の参究をしていた。その参究記録が『御抄』なんです。

その『御抄』に「現は隠顕にあらず、成は作学にあらず。公と云うは平等義也、案と云うは守分の義也。平不平名日公、守分名日案。(「註解全書」一・一八三)

「現は隠顕にあらず」と云いますから、現は無かったものがそこに現れるという意味ではない。「成は作学にあらず」ですから、成は努力を重ねて何ものかに成るという意味ではない。成は成仏の成です。つまり謂うと、現成という事は、今まで無かったものが忽然として現れて来ると云う意味ですが、『御抄』のご指示によりますと、「現」というのは「そのまま」で、現実そのままが「現成」です。現実そのものが仏の姿である。これが現成です。

それから「公案」の公は、「平不平を名づけて公と云う」。平不平に返り点をつければ、「不平を平らげる」と読めますから、地ならしみたいに考えますけど、そういう意味ではない。これは「平と不平と」と読む。つまり平は平でよろしい、不平は不平でよろしい、と云う事です。

今度は「案」。この案というのは「守分の義」分を守る、こういう意味です。自分に自信を持つ、これが現成公案です。つまり、公案というのは、どれを見ても真実で、どんな状態にあっても、その状態の如何に関わらず、すべて真実である。

ですから、現成公案とは、現成が公案であり、公案が現成である。現成と公案は同じ意味になります。そこで宗門では、現成公案公案現成。と云うふうに上下を入れ替えても同じ意味に使うわけです。

もう一つ紹介しますと、『永平広録』第一に現成公案についての上堂があります。

 

上堂゚云゚諸人直須辦肯箇見成公案゚作麼生是見成公案゚便是十方諸仏古今諸祖是矣゚而今現成゚諸人見也麼゚而今掲簾放簾、上床下床是矣゚好箇見成公案゚諸人為甚不会不参゚山僧今日゚不惜性命゚不惜眉毛゚為諸人再説゚為諸人重説゚卓拄杖一下便下座゚

 

上堂に云く、諸人、直に須く箇の見成公案を辦肯すべし。作麼生か是れ見成公案。便ち是れ十方の諸仏、古今諸祖是れなり。而今現成゚諸人見也麼゚而今掲簾放簾゚上床下床是なり。好箇見成公案なり、諸人、甚と為てか不会不参なる。山僧今日、性命を惜しまず、眉毛を惜しまず、諸人の為に再説し、諸人の為に重説せん。卓拄杖一下して便ち下座す。

 

「諸人、直に須く箇の見成公案を辦肯すべし」箇は下の「見成公案」を強めた詞です。見は現と同じです。

「作麼生か是れ見成公案」この詞の使い方が実に妙を得ている。「作麼生というものが現成公案なり」と読んでもいい。単なる疑問詞ではありません。ちゃんとここで現成公案の正体を示しています。

「便ち是れ十方の諸仏、古今諸祖是れなり」『傘松道詠』の「峰の色、渓の響きもみなながら、わが釈迦牟尼の、声と姿と」の歌を思い出して下さい。諸仏諸祖とは過去の物語ではなく、この現成公案、どれも仏の御姿で、「而今現成す」。現在眼の前に展開している現実に、仏さまが現成しているではないか。

而今掲簾放簾゚上床下床是なり」我々が日常やってる僧堂での簾の上げ下げ。坐禅が始まれば僧堂の前門後門の簾を下ろし、坐禅が終われば簾を上げる。それが現成公案です。

「好箇見成公案なり」見成公案は夢物語ではないのです。我々の日常せの一挙手一投足が仏の行いでなければいけない。これが我が宗旨の「作法是れ宗旨、威儀即仏法」です。威儀とは、立ち居振る舞いの事です。日常生活が仏作仏行にならなければ仕方がない。日常生活が仏作仏行というのは現成公案なるが故です。

「諸人、甚と為てか不会不参なる」どうして解らないのか。普通ならそう言いたい所ですが、後で説明します。

「山僧今日、性命を惜しまず、眉毛を惜しまず、諸人の為に再説し、諸人の為に重説せん」道元禅師のご努力は、現成公案なのです。修行が現成公案で、夢物語でも概念でもない。仏作仏行ですから、念のため再説されたものです。

「卓拄杖一下して便ち下座」拄杖をドスンと、今は使わないが、昔は修行僧の必需品でした。ドスンと示されたのには、別に意味はない。自分の日常生活をよく眺めてもらいたい、と念の為に、「今の自分のこれを見てくれ、これが現成公案で、ほかではない」。日常生活が現成公案でなければならないと、念を押されて下座された。

この上堂で、「現成公案」の意味が理解いただけたと思います。

 

    一 諸法の仏法なる時節

諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり。

万法ともにわれにあらざる時節、まどひなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷悟あり、生仏あり。しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり。自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

「諸法の仏法なる時節」

時節とは何々の時という時間の問題ではない。諸法の仏法なる時節と、万法ともにわれにあらざる時節という二つの時があるのではなく、「正当恁麽時」という詞と同じ意味にとればいい。正当恁麽時とは、前からずっと述べてきて、そこで一区切りをつけて、さて正味のところは、と詞を換えて述べる時、正当恁麽時とする。宋の時代から使われ始めた表現法で、もっとはっきり示してみようか、という程の意味です。

「諸法の仏法なる時節」の諸法とは、『御抄』では「諸法とは是れ什麽物か恁麽来なるなり」(「註解全書」一・一八七)と示されています。什麽物、これには絶対に答がない。つまり、真実を表した詞なのです。仏法の真実とは諸法実相という詞で表されますから、「諸法」とは、ありとあらゆるものです。

つまり森羅万象がみな仏法で、見るもの聞くもの全てが仏の御姿となり、「峰の色 渓の響きもみなながら わが釈迦牟尼の 声と姿と」。これが私たちの信仰というものです。自分が熱を上げるようなものは信でもなんでもない。信ずるものと信ぜられるものがあるなら、本当の信じゃない。本当の信は「私はこれを信じます」と握っているものではない。

「すなわち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり」

これは迷いや悟りも実は仏法である。修行も生も死も諸仏も衆生も仏法である。これは現成公案に於いて言われることで、欲深い人間や摘まみ食いに終始する次元の人間には有り得ません。現成公案に徹し切って言えるものです。

宗門では迷いが悪いとは云わず、悟りが善いとも云いません。仏法の姿・真実の姿は色々の形で現れる。その時の姿が迷・悟という姿や修行という姿・生や死で現れる事もある。「生死は仏の御いのちなり」(「生死」巻)という言葉もあるでしょう。

他の祖師方にはこんな言葉は出てこない。生死は厭わなきゃならん、叩き潰さなきゃならん。しまいには飯も食べずに頑張る、まさに一人相撲です。相手がいないのに一所懸命に頑張る。こうなると、現成公案という仏からみると御愛嬌になります。

この第一段は、『正法眼蔵』全巻に一貫したお言葉です。また我々の修行はこれを一貫させるものでなければならない。

「万法ともに我にあらざる時節」

「われにあらざる」とは吾我に非ず。で、「あらざる」とは有るとか無いとかの問題ではない。漢字では「非我」になるが、この「非」は否定の意味ではない。『正法眼蔵』の「非」や「不」の用語例は、是非の非ではない。否定の詞でもない。あるいは無生の「無」、諸悪莫作の「莫」と、現成公案の意味合いがそのまま、「非」・「不」と思ってよい。

「万法ともにわれにあらざる」とは「万法が無我である」と解釈する人も居るが、ここでは『御抄』の「万法非吾我(非の吾我)」(「註解全書」一・一八八)と解釈した方がいいでしょう。つまり諸仏と衆生と、全部が仏であり、仏の姿が非吾我となります。

「迷いなく、さとりなく、諸仏なく、衆生なく、生なく滅なし」

そこには迷悟も諸仏も衆生も生も滅もない。つまり「まどいなく」とは、我々に与えられている欲もまどいも、本来欲じゃないものです。つまり諸法無我という事です。そこには迷いも諸仏も衆生も、特別なものとして有るわけでは無い。生も滅も格付けは出来ず、全てのものが仏のお姿であり現成公案である。という意味合いが簡潔に述べられている。

仏道もとより豊倹より跳出せる故に、生滅あり、迷悟あり、生仏あり」

「豊倹」の豊は豊かで、倹はその反対。普通に言いますとプラスとマイナス。仏道は多いとか少ないとか、そういうような事を、もとより=本来、跳出=超越している。そしてそこに、「生滅あり、迷悟あり、生仏あり」。その仏道には、ある時は生という姿の時もあり、滅という波の時もある。迷悟という渦巻を立てて流れている場合もあり、生=衆生という波が流れている時もあり、仏という波を呈して流れている時もある。

「しかもかくの如くなりと云えども、華は愛惜に散り、草は棄嫌におふるのみなり」

現実を見ると、華が散ると惜しいと思い、草が生えると嫌気がする。こういう事を踏まえて現実を生きている。日頃の生活が又各別な意味となってくる。

沢木老僧がよく言っていた。彼はいろいろなお師家さんい会ってますが、「あいつに会ったよ」「どうでした」「うーん、よく作ってる」。「作り物」。あまり作っていると、自身の本音が分からんようになる。「作り物」とは巧みな表現だと思います。「作り物」になってはダメです。真実というものを見失ってしまう。

「自己を運びて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり」

自己を運ぶー一体どういうことか。こちらから向こうへ行くのか。ここを『御抄』では「自己を運んでと云う自己は、仏法時節の自己也。仏を運んでと云わん同事也。運ぶと云うは、尽十方界自己なる道理を運とは云う也」(「註解全書」一・一九四)。この「尽十方界自己なる道理」は大変なことです。この尽十方界は『眼蔵』で一番よく使われている詞です。

もう一つ紹介すると、「唯仏与仏」の巻に、「仏のいふみづからは尽大地にてあるなり。しかあれば、みづからとしるもしらぬもみなともに、おのれならぬ尽大地はなし」。これは『眼蔵』の中では晩年のものです。晩年の『眼蔵』のまろやかさは、初期のものを一所懸命しておきますと、そのまろやかな味が感ぜられます。逆に後の方を読んでから前の方を眺めてみると、前のものが、ひとしおはっきりと解ります。『眼蔵』というものは、何度も味わうべきものです。もっとも、大乗経典とか大乗論部とかいうものは、みなそうなんです。

あの『起信論』なんか面白いです。私は学生時代に、林屋友次郎(1886―1953)という先生に『大乗起信論』を習った事がありまして、「大乗経典というものは、初めから読むのと、逆に後から読むのとは、また味が違う。両方から読まなければいけない」と、言われたものです。『正法眼蔵』がまさにそうです。

ここで「自己」というものを、はっきりさせておきますと、自己とは「尽十方界」で「尽大地」と言っても同じです。これは宇宙全体のことですから、無限の世界です。

仏法には、外道と仏道を分けて考えますが、どういう風に違うか、はっきりしておいて頂きたい。「心外に法を求むるを外道という」という定義がありますが、ところが、この「心」を解釈間違いして、小さな自分の心にしてしまう場合がある。自分の魂・精神と考えてしまう場合が多い。そうじゃない、そもそも仏法は身心一如です。

身心一如とは、「心」と「身」とは仏法では同等なんです。心を離れた身も、身を離れた心も、現実にはあるものではない。

「修証」とは「修行」と「さとり」という事ですけれども、私はこれに「実」の字をつけ加える事にしている。実修実証。真実の修行をする、真実の証しをする、というわけです。

我々が坐禅するというのは、自己をはこびて万法を修証しているんです。普段、我々が自分自分と云ってる自分を、本来の姿に返してしまう。本来の姿に返すとは、尽十方界なる道理にしてしまう。そうすると、それが万法を修証する事になる。我々が坐禅をすることは、単なる静座法とは違い、万法を修証している事になります。

「万法すすみて自己を修証するはさとりなり」の万法と自己とは一体だから反対に言ったまでの事で、文章の綾として「悟」と「迷」を取り替えたまでの事。迷いであろうと悟りであろうと、その時々の事実ですから価値は同じです。迷いが悪くて悟りがよいとか、悟りを取って迷いは捨ててしまうとか、そうではなく、迷いは迷いで以てその時の現成公案で、悟りは悟りで以てその時の現成公案ということです。

 

    二 迷を大悟するは諸仏なり

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず、しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれどもかがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず、一方を証するときは一方はくらし。

「迷を大悟するは諸仏なり」

迷いを本当の迷いと思っていますが、人間の嫌がる迷いではありません。迷いであろうと、これは現成公案の迷いで、「大悟」と「迷」は同じ意味にとったらいい。ですから詞を替えて「大悟を大悟する」と言ってもよく、この場合を「諸仏」と云う。

「悟に大迷なるは衆生なり」

「悟に大迷する」を「大迷に大迷する」と言ってもいい。そしてその場合を「衆生」と云ったらいい。それはその時の姿の相違だけで、諸仏も衆生も、現成公案に於いては同体なのです。

「さらに悟上に得悟する漢あり」

我々は本来成仏で、本来悟りなんです。その真実の上で修行をする、これが「悟上に得悟する漢あり」という事です。大乗仏教は本来成仏を元にしています。本来成仏ならば何故に修行するのかー初歩的な質問です。本来成仏に保証されて我々は生かされている。ところが保証されている我々が、どのような生活をしているかと云うと、自我だけです。人間の普段の構造は、自己満足の追求ばかりで、学問するにも宗教に於いても。

ですから、真実の行とは、いつも自我の追求に明け暮れる自分を、自我の活動をしないように、所謂染汚しないように、個人持ちを作らないように、という努力が必要です。この「不染汚の行」が只管打坐です。

「悟上に得悟の漢」とは、我々が坐禅することです。それは本来の悟りの中に於いて、本来の自己を忠実に保とうと努力する事で、これが不染汚の行です。自分の満足を捨てて自己本来の姿を取り戻す、これが我々の坐禅です。

「迷中又迷の漢あり」

「迷中又迷の漢」と申しましても、迷いは其の時の状態が迷いと云うなら、それは尽十方界の活動です。いろんな活動が浮かんで来ても。それが尽十方界のハタラキなんです。その尽十方界の活動を、個人持ちにしなければいい。どんな考えが浮かんできても浮かびっ放しにする。これが大事なことです。

丘球学(1877―1953)和尚の十八番(おはこ)は、「坐禅して妄想が浮かんできても浮かびっ放し、追うな追うな」。これが迷中又迷の漢です。つまり、そのままにしておけばいい。それを何とか悟ろうとか、必要ないことで、現成公案に反します。

「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず」

「オレはとうとう成仏したぞ、サトリを開いた」なんて、思い上がりもいい加減にしろ、という事だ。本来そんなものがあってはならない。仏というのは感覚ではなく、思想ではありません。

「しかあれども証仏なり」

悟上得悟の漢・迷中又迷の漢は不染汚の行です。つまり「証仏」とは仏を実践することで、実修実証です。

「仏を証しもてゆく」

私たちの宗門の信仰生活は、どこまでも只管打坐が中核である事は云うまでもない。

「悟上得悟の漢・迷中又迷の漢」こういう詞は『眼蔵』独特のもので、他には見当たらない。こういう処に道元禅師の宗教の徹底ぶりがよく示されている(「迷中又迷」に関しては、『大慧語録』十九(「大正蔵」四七・八九三上)に在り)。

宗教はレリジョン(religion)の訳ですけれども、あれを訳した人は、私たちが学生時代まで東大の宗教学の助教授の現役で居りましたから、あまり古い話ではない。加藤玄智(1873―1965)という人で、訳した時の状況を話してもらった事をまだ記憶しております。あれは『碧巌録』から借用したと云うが、碧巌録の宗教と学者が使う宗教とは、同じ詞でも意味が全く違い、一緒くたにされては困ります。

私が申します宗教とは、いづれにも片寄らない・万国共通・宇宙共通の教えで、これが本来の宗教で、手前味噌ですが、道元禅師の宗教こそが本当の宗教です。仏とは、本来の自己が仏ですから、それを修行しなければ仏ではない。修行している時が仏なのです。

「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども」

ここで言う「したしく」とはどういう事かと云うと、我々はものを見る時、「見る自分」と「見られる対象」といった相対的な関係で、見たり聞いたり、いろんな事をやっているが、これでは「したしく」ないのです。この相対的なものがないと云うのが「したしい」と云う事です。

私たちが物を見たり聞いたりする場合、自己意識は働いています。見る主体に対して、見られる客体があると、思っていますが、本当は見る・聞くと云っても、小さな「自分」が見聞きしているのではなく、自身・色・音、それらを取り囲んでいる全てを含んだ、この全体、これが「見」であり「聞」であるわけです。

『中論』などでは能取=見るもの、所取=見られるもの。として説明しますが、普通の人間は、自我の段階ですから、この能所の世界でしか生きていない。そこでは好き嫌いが問題で、この能所の中で、自分の都合のいいように解決しようとするから、悲観・楽観から逃れられない。

本当のものの在り様は、能所を全体として見る。ですから「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取する」という事になる。

「鏡に影を宿すが如くにあらず、水と月との如くにあらず、一方を証する時は一方は暗し」

鏡にものを映す、映すものと映されるものとの関係ではない。「水と月」との関係も同じ。

「一方を証するときは一方はくらし」では、見るという時は、その時の身心の在り方で、聞く時は、その時の身心のあり方で、その時々の身体の在り様・様相が尽十方界であり、仮りそめのものは何一つもない。それが真実の様態であり、これが現成公案である。どんな些細な事でも無駄にはできない。

 

    三 仏道をならふ

仏道をならふといふは、自己をならふなり、自己をならふといふは、自己をわするるなり、自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるといふは、自己の身心、および陀己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり、法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。

仏道を習うと云うは、自己を習うなり、自己を習うと云うは、自己を忘るるなり、自己を忘るると云うは、万法に証せらるるなり」

これは有名な詞で、よく引用されるものです。これは此の巻の峠のように言われていますが、「自己」をこれほどはっきり打ち出された詞は、古今未曾有です。

本来、我々は万法に保証されている。すべてのものが何から何までも保証しつくされている。私の体の中には、自分のものは何一つなく、全て恵まれたものです。万法に証せられた事実、これが本当のあり方なんです。

この本当のあり方を自覚する事が「わすれる」ということで、忘れるとは頭の問題ではなく、「万法に証せられている」ことを実証する事で、この保証されている事を実践する事は、坐禅する事実ですから、「自己をならう」も「自己をわするる」も坐禅を組むことであったわけです。

「万法に証せらるると云うは、自己の身心、および陀己の身心をして脱落せしむるなり」

これは足を組みてを組んで、仏さまの教え通りにしてこそ初めて出来る。頭に想いが浮かんで来ても、、絶対追わづに、じっとしておればいい。正身端坐を崩さないよう努力するを「自己の身心陀己の身心をして脱落せしむる」となるのです。

「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」

「悟迹」の迹は「あとかた」の意ですが悟りという意味で、もうお悟りという事もお休みだ。

それから「休歇なる悟迹」。これは、「悟迹の休歇」「休歇なる悟迹」この二つを同じ意味にとったらいい。悟ったというような事はやめてしまえば、何でもない。この何でもないが、本当の悟りです。そこには何ら悟った・悟らんというものがなくなる。そこを繰り返して、

「休歇なる悟迹を長長出ならしむ」。悟りも返上して、ただ坐る。これが只管打坐の只管を徹底した詞です。

一口に申しますと、無所得無所悟の只管打坐を徹底的に行ずる、これが「自己をならふ」ということです。これ以外、自己をならふという事は有り得ない。その瞬間々々にいろんな様相があろうとも、これらは皆、真実の様態で、現成公案ここに極まりです。

「人はじめて法を求むる時、はるかに法の辺際を離却せり」

人間が初めて法を一所懸命目指す。ところが目指せば目指す程「法の辺際を離却せり」で、ますます離れてしまう。求めれば求める程、反作用で遠のいて行く。そこで私たちには法の求め方というものがある。その法の求め方が、無所得無所悟の坐禅をする事になる。

だから「人はじめて法を求むる時」その法が、果たして本当の法であるかどうかを見究めねばならない。これが発心という大事な由縁です。自分は一所懸命に求道していると云うが、本当か分かりません。

「法すでにおのれに正伝する時、すみやかに本分人なり」

この「正伝」については、『諸悪莫作』巻の「聞書」に「相伝相嗣」(「曹洞宗全書」注解一・六五五)と、かっきり示されています。相伝相嗣とは、師匠から物を貰うことを言っているのではなく、自己が自己に相嗣するを「正伝」と云う。

我々の本来の姿、実は、これが正法である。正法とは邪法に対するものではなく、我々の此の尽十方界真実人体、これが正法です。宇宙全体の事実が正法ですから、形や感覚はない。つまり本来の自己を正しく修行する、これが本当の正伝です。

「法すでにおのれに正伝する時」とは、坐禅するより他に道は在りません。

「すみやかに本分人なり」の本分人とは本来人で、万法に証せられている自身で、どなたも本来人に於いて変わりはない。

以上が総論で、これから各論に入っていく。懇切丁寧に、一々、例を挙げて説明される。

 

    四 人、船にのる

人船にのりてゆくに、目をめぐらしてきしをみれば、きしのうつるとあやまる。めをしたしくふねにつくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して、万法を辦肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる。もし行李をしたしくして、箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。

「人船に乗りてゆくに、目をめぐらして岸を見れば、岸の移ると誤まる」

今日ではあまり船には乗らないが、電車に乗っても同じで、対象物が動くように見えるもので、皆さんご存じの事です。

「目を親しく舟につくれば、舟の進むを知るがごとく」

舟が進むのが本当か、あるいは岸が移るのが本当か。これは考えてみると面白い。新幹線に例えてみると、レールが走る、こう考えてもいいでしょう。ものの立場によって、どちらでも考えられます。

「身心を乱想して、万法を辦肯するには、自心自性は常住なるかとあやまる」

私たちの物の見方がはっきりしません。その時々の調子で以て、ものを見ている。いろんな考え方で、立ち位置で勝手にものを見ていますから、人間は正しくものを見る事は出来ない。大概は色メガネでもって見ている。

坊さんは世の中を見るのに、坊さん流にものを見る。政治家は政治家的に、学者は学者的に、皆それぞれ違う。こういうのを「身心を乱想して」という事になる。

色メガネをかけないで、ものを見るにはどうすれば良いか。職業を離れ、欲を離れなければならない。結局のところ色メガネの世界とは、自我の世界。自我の世界が色メガネをつくり、欲が自我の形成をする。この自我を超越しなければ、本当のものの見方は有り得なく、坐禅するしか方途はない。

つまり自分の欲を中心にものを見るから、すべてが自分を中心に回転していると錯覚する事になる。

「もし行李を親しくして、箇裏に帰すれば、万法の我にあらぬ道理あきらけし」

「行李(あんり)」とは自分の生活態度で、親しく自分で見れば分かるでしょう。

「箇裏」とは自分自身の中に立ち入ってみる。しうすると万法に証せられている事がはっきりする。我々はすべて丸抱えで生きているんです。「万法の我にあらぬ道理あきらけし」そこには、我というものは無く、万法にすべて支えられている。

「ただわが身をも心をも、はなちわすれて仏のいへになげいれて、仏のかたよりおこなはれて」(『生死』巻(「岩波文庫」㈣・四六六)とあるように、全部丸抱えです。自分自分で呼吸している者は一人も居なく、すべて生かしてもらっている。我々は「ただ」仏のままに坐り、仏のままに修行していくのです。

 

    五 たき木は、灰となる

たき木、はひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり。前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり、かの薪、灰となりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは、仏法のさだまれるならひなり。このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば、冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり。

「たき木、灰となる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず」

これは有名な喩えで、薪は灰となる。ところが灰は薪には戻りません。

「しかあるを、灰はのち、薪はさきと見取すべからず」

ところが灰は後のもの、薪は先のもの。と見てはいけない。常識では、薪を燃やすと灰になる、確かにそうですが、仏法では薪が前で、灰が後と見てはいけない。と、説くものです。

「知るべし、薪は薪の法位に住して、先あり後あり」

薪は薪のあり方としてある。これを「法位」というわけです。薪はどこまでも薪のあり方で以て、「薪は薪の法位に住して、先あり後あり」前後ともに薪である。昨日も薪であったなら、今日も明日も薪である。

「前後ありといへども、前後際断せり。灰は灰の法位にありて、後あり先あり」

前後はあります。昨日もと今日というふうに。ところが「前後際断せり」前後がない。つまり、薪の前に何かがあって薪になったとか、薪がなくなって何かになる、という事はない。何もなかった処に薪が現れ、時が経って薪が他の物に変わる。そういう事ではなく、薪はどこまでも薪で、灰はいつまで経っても灰のままですが、これを前後際断せり。

「かの薪、灰となりぬる後、さらに薪とならざるが如く、人の死ぬる後、さらに生とならず」

薪は一度灰になればそれっきり。それと同じように、人は死んだら生き返りません。「生き返った」?あれは誤診で、死んだのではなく、生きとったんです。

「しかあるを、生の死になると云わざるは、仏法の定まれる習いなり」

仏法ではこう言う。道元禅師の言われる仏法は、宇宙の真実で、あらゆる世界に通ずる真理です。

「この故に不生と云う」

この説明は後にします。

「死の生にならざる」

死んだのが生き返る、そんな事はない。死はどこまでも死。

「法輪の定まれる仏転なり」

これは「仏法の定まれるならひ」と対句に用いられ、同じ意味です。詞を換えて表現する、これが決まりです。

「この故に不滅と云う」

そこで「不生」の説明から入りますと、この「不生・不滅」は、生にあらず、滅にあらずと云う意味ではない。これは「不の生・不の滅」と読まなければならない。これを他の詞で置き換えますと、非思量・不思量で、非も不も尽十方界のあり方を述べたもの。

ですから、この場合『御抄』では、「不生を全生」(「曹洞宗全書」一・一〇)と云い、不滅を全滅と示される。普段の我々の世界でいう生滅とは違う。

これは全機と同じで、「生也全機現」、全機とは宇宙の様相のことで、尽十方界の様態を全機と云う。この場合、「生」というのは時の様相ですから「不生」と云い、「不滅」も同じ。非思量も同じで、思量に非ずではなく、自然の姿が非思量です。

「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」

「一時」とは単なる一時的な仮の姿という意味ではありません。その状態は、その時で絶対的なもので、掛け替えのないものである。どの瞬間にあっても、これは尽十方界の事実ですからどこまでも大切にしなければならない。

だから、大智禅師(1290―1366)に『十二時法語』がある。これを見ると、お粥の時にはお粥のあり方がある。お経を読む時には経を読むあり方がある。休む時には休むあり方がある。休憩するにも仏で、「法語」によると、坐禅の時ばかりが仏ではない。休む時には徹底して休む、これが仏の御姿なんです。

これは、菊池武時(1292―1333)の為に示されたものですが、十二時中全部が仏の修行でなければならない。大智禅師の詞で云うなら、生も仏の姿、死も仏の姿である。と言っていい。

それを喩えて言いますと、

「喩えば、冬と春との如し。冬の春となると思わず、春の夏となると云わぬなり」

混乱してはいけない。冬は冬で、どこまでも冬であって春ではない。きちんと様相が決まっている。間違ってはいけません。

もう一つ例示を出すと、人間には人間の様相がある。病気の時は病気の姿が現成公案、健康の時には健康の姿が現成公案の真実の姿。病気の時に、健康の時の事を考えジタバタする、これは間違いですよ。病気の時には病気のあり方である、安身立命があり。その位の覚悟で以て、病気に立ち向かわなければならない。

つまり、それに融け込む事で、これを「随処に主となる」という。そこでは他人ではダメ、それに為り切ることです。

春は春で現成公案、冬は冬で現成公案。誤魔化してはいけない、絶対的事実ですから。

 

    六 さとりをうる

人のさとりをうる、水に月のやどるがごとし。月ぬれず、水やぶれず。ひろくおほきなるひかりにてあれど、尺寸の水にやどり、全月も弥天も、くさの露にもやどり、一滴の水にもやどる。さとりの人をやぶらざる事、月の水をうがたざるがごとし。人のさとりを罣礙せざること、滴露の天月を罣礙せざるがごとし。ふかきことはたかき分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狹を辦取すべし。

「人のさとりを得る、水に月の宿るが如し」

それはちょうど、月と水の関係のようなもので、悟ってみた処が何も変わりがない。

「さとり」と云うと、天桂伝尊(1648―1736)の詞が一番面白い。「肩の荷をかうるが如し」。モッコを担いで暫くすると重きなってきて、向こうの者に「おい、肩かえよう」「よしきた」と反対の肩へと、ちっとも荷物は変わってないのに、何だか軽くなったような気がする。

悟りも迷いも、そう変わりない。つまり、悟も迷もその時々の様相でしかなく、迷とか悟とか云う世界はほんのわずかなものです。迷いも決して間違いという事でもなく、これもまた生きている真実のその時の姿です。

ちょうど、お月さんがが水に宿っているようなものです。肩の荷かるくスイスイと、モッコ担いでる時のようなもの。と謂っていい。

「月濡れず、水破れず」

両方とも何という関係はない、その時の状態ですから。水は水で変化がなく、月は月で変化がない。ここで謂うならモッコ担ぎのようなもので、別に変わりはない。

「広く大きなる光にてあれど」どんな大きな光でも「尺寸の水にやどり」。どんな小さなことでも個人的なものは一つもない。ちょっとした風邪でも身体が引いたんだ。身体という元手がなければ風邪も引かれん。どんな小さな事でも、誤魔化すわけにはいかない。常に我々は現成公案に取り囲まれていて、これが「大きなる光」です。

「全月も弥天も、草の露にも宿り、一滴の水にも宿る」

悟りも一時のくらいなりで、絶対的なものではありません。そのときは絶対的な事実ですが、これだけを得たならば、という事ではない。次には迷う事だってある。

「さとりの人を破らざる事、月の水を穿たざるが如し」

悟ったからと云って、人間が変化するわけではない。時々の様相で、月が映ったのも、水のその時の様態ですから。

「滴露の天月を罣礙せざるが如し」

「滴露」と云っても尽十方界の事実ですから、あのように露に為っているわけではない。水がそのような性質があるのは、自然界の事象ですから仕方がない事です。皆さんの顔だって自分の好みではなく、授かった・与えられた顔ですから、卑下する必要はない。

「深きことは高き分量なるべし。時節の長短は、大水小水を撿点し、天月の広狹を辦取すべし」

全てのものは、尽十方界という立場でものを見る。尽十方界には大きさも深さもない。高い低いは底を基準にして云うが、宇宙には底はない。

何処を基準にして、高い低い深いを云う歟。だれが言い出したか、自我の世界が謂ってる事です。自分に手の届かない処は遠く、自由に出来る処は近いと感ずる。これらは皆、人間世界だけの範疇のものです。

我々の身体の世界には深いも広いも大きい小さいもなく、自我が生んだ副産物で、尽十方界は自我を超越した世界ですから、そいうものはない。ですから、尽十方界を表現するのに「無量無辺那由他阿僧祇劫」という事が『法華経』に於いて盛んに説かれる。これが大乗の特徴。

自然には上下ってものは決まってない、見方によって変わる。深いも高いも「一時のくらい」に於いては同じようなものです。

時節に長い短いはありますが、長短は、その時の情勢の変化に過ぎません。長は長で現成公案で、短は短のままで現成公案で、その時の尽十方界の事実の様相です。

ですから、大水・小水に隔てなく照らし、広い狹いをよく分明にして見ろ。との言で、「天月の広狹を辦取すべし」と、一つのまとまりを付けるわけです。

 

    七 法の参飽

身心に法いまだ参飽せざるには、法すでに足れりと覚ゆ。法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずと覚ゆるなり。たとへば船に乗りて山なき海中に出でて、四方を見るに、ただまろにのみ見ゆ、更に異なる相、見ゆることなし。しかあれどこの大海、まろなるにあらず方なるにあらず、のこれる海徳、つくすべからざるなり。宮殿のごとし、瓔珞のごとし、ただわが眼の及ぶところ、しばらくまろに見ゆるのみなり。かれがごとく、万法もまたしかあり。塵中格外、多く様子を帯せりといへども、参学眼力のおよぶばかりを見取会取するなり。万法の家風をきかんには、方円と見ゆるよりほかに、のこりの海徳山徳おほくきはまりなく、よもの世界あることをしるべし。かたはらのみかくのごとくあるにあらず、直下も一滴もしかあるとしるべし。

「身心に法いまだ参飽せざるには、法すでに足れりと覚ゆ」

まことに素晴らしい詞です。この「足れり覚ゆ」というのは一体誰が「たれりとおぼゆ」かと云う事を考えてもらいたい。

我々がものを考えるとは、胃袋が活動する事と同じ事、腎臓で小便作る事と同等で、頭だけが特別な事をしているのではない。

私たちが頭で考えるとは、「オレ」を中心にして考え、それが人生のすべてになっている。つまり謂うと、自我の追求ばかりやってる連中、自我の恍惚のみを究明する人たちには、「法すでにたれり」で、彼らの最後の結論は「満足した」だけで、酒飲みが酔っ払ったようなものです。

「法もし身心に充足すれば、ひとかたはたらずと覚ゆるなり」

満足感は何処にあるかと云うと、個人にある。本来の自己、本来の生き方には満足感は絶対にない。

我々の生きているとは、ただ生きている。始めも終わりもないから、年百年中ずっと飯を食べ続けなければならない。これが無量無辺。

本来の身心は無量無辺・無始無終で、満足という事はなく、「なんともない」。これが「法もし身心に充足すれば」です。本当の生き方の時には、「ひとかたはたらずと覚ゆるなり」という事。

「例えば船に乗りて山なき海中に出でて、四方を見るに、ただまろにのみ見ゆ、更に異なる相、見ゆることなし」

自分の見える範囲しか見えなく、我々の物も考え方は、自我の範囲だけしか考えられない。ものを考えるにも、自分の経験した範囲しか考えられないんです。

我々が物を見る場合、何かに初めてお目にかかる。その時には今まで経験した事を、頭の中で総動員して「あれはこうで、これはちがう」と、最後に「あ、これはこうだ」と判断するが、頭の中にカードがないと答は出て来ないというのが、我々の判断で、それ以外の事は何もできない。

「しかあれどこの大海、まろなるにあらず方なるにあらず、残れる海徳、尽すべからざるなり」

海の形には、丸や四角では表現されず、海徳として言い尽す。

「宮殿のごとし、瓔珞のごとし、ただわが眼の及ぶところ、しばらくまろに見ゆるのみなり」

これは『摂大乗論釈略疏』(「大正蔵」六八・一八五上)には、一水四見の見方を紹介される。

一つの水を見るにも、人間は水と見、餓鬼は膿血と見、天人は瑠璃と見、魚は宮殿楼閣と見る。それぞれによって見方は違ってくる、つまり自我によって物を見るから違いが生ずる。山を見るにも、材木屋は石高でみるが、我々は情景として見るようなもの。

「かれがごとく、万法もまたしかあり」

万法もその通りで、我々には万法は絶対に見極める事はできない。我々の感覚や認識の判断では見る事は不可能です。

その物を見る、聞くというハタラキそのものが尽十方界の仕業である。その真実の具体的なものが。この生身の体なんです。

「塵中格外、多く様子を帯せりと云えども、参学眼力の及ぶばかりを見取会取するなり」

「塵中」というのは世間のこと。塵とは塵埃を云うのではなく、十二処十八界を見れば分かる。我々の認識生活、眼耳鼻舌身意の六識+六根+色声香味触法=十八界。塵とは私たちの認識世界で、自我の対象です。「格外」とは、それを越えたもので、越えるとは相手にしないのではなく、全部支えているもの。

「塵中格外」これで全てを表し、そこには色んな様相があり、生きている。例えば川の流れにも、いろんな波や渦を巻きながら流れている。これを「多く様子を帯せり」。我々は自分の能力以外は認識できず、自我の範囲だけしか認得できない事を「参学眼力の及ぶばかりを見取会取するなり」と云う。

「万法の家風を聞かんには、方円と見ゆるより他に、残りの海徳山徳多く極まりなく、四方の世界あることを知るべし」

「万法」とは一切法のことで、仏法を云う。「万法の家風」というと、無限の家風にも聞こえますが、仏法そのもののあり方を万法の家風と云う。

金剛経』(「大正蔵」八・七五一中)に「一切法は皆仏法なり」とあります。仏法とは一切法であり、一切法は仏法である、とは仏教の常識です。万法の家風とは仏法の本筋、仏法そのものです。「方円と見ゆる」とは、あなたの見方、現在の見方で、我々は方円としか見る事が出来ないが、その外には無限のものがある。つまり、「残りの海徳山徳多く極まりなく」無限で窮まるものがない。「四方の世界あることを知るべし」窮め尽したと思っても、そう云った陶酔に入り込むだけの事。

「かたはらのみかくの如くあるにあらず、直下も一滴もしかあると知るべし」

「かたはら」とは傍ら。お前一人のことではない。との意。「直下」とは脚下の意で、「一滴」とは水の雫です。

どんなものであっても、自分の足元であっても、見極める事はできない。自分のものと思っても、思ってる外に、「残りの海徳山徳多く極まりなし」で、永久に究める事は出来ない。

 

    八 魚、水を往く

うを水をゆくに、ゆけども水のきはなく、鳥、そらをとぶに、とぶといへどもそらのきはなし。しかあれども、うをとり、いまだむかしよりみづそらをはなれず。只用大のときは使大なり。用小のときは使小なり。かくのごとくして頭々に辺際をつくさずといふ事なく、処々に踏翻せずといふことなしといへども、鳥もしそらをいづれば、たちまちに死す、魚もし水をいづればたちまちに死す。以水為命しりぬべし、以空為命しりぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし。このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくのごとし。しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかんと擬する鳥魚あらんは、水にもそらにも道をうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり。このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、さきよりあるにあらず、いま現ずるにあらざるがゆゑに、かくのごとくあるなり。しかあるがごとく、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり。これにところあり、みち通達せるによりて、しらるるきはのしるからざるは、このしることの、仏法の究尽と同生し同参するゆゑにしかあるなり。得処かならず自己の知見となりて、慮知にしられんずるとならふことなかれ。証究すみやかに現成すといへども、密有かならずしも現成にあらず、見成これ何必なり。

「魚水を往くに、往けども水の際なく、鳥、空を飛ぶに、飛ぶと云えども空の際なし。しかあれども、魚鳥、未だ昔より水空を離れず。ただ用大の時は使大なり。用小の時は使小なり」

魚というものは一生水の中で満足で、池の中を泳いで五十年経って、これで卒業なんて事はない。本当の修行には卒業なんて有るはずはない。

大きな魚は大きな処を回り、メダカのような小さな魚は何処でも不自由しない。ところが、魚というものは水から出してしまうと死んでしまい、鳥も空を離れたら生きてはいけぬ。

「ただ用大の時は使大なり。用小の時は使小なり」とはクジラとメダカを考えればいい。

「かくの如くして頭々に辺際を尽さずと云う事なく、処々に踏翻せずと云う事なしと云えども」

クジラは太平洋が住み家で、メダカだと小さな水盤で十分です。それぞれの分があり、それが尽十方界という事になる。小さなものは小さなもので以て完全無欠で、これで尽十方界。大きいものは大きいもので尽十方界。それをこのように表現された。「踏翻」とは自由自在に振る舞う事で、処々で完全無欠。

「鳥もし空を出づれば、忽ちに死す、魚もし水を出づれば忽ちに死す」

自明の理です。

「以水為命知りぬべし、以空為命知りぬべし。以鳥為命あり、以魚為命あり。以命為鳥なるべし、以命為魚なるべし」

「以水為命」魚で云うと、水から出すと死んでしまう。そうならば、魚の命のポイントは水にあるのか。水が魚の命ならば、水を飲んで今日は鯛を食ったと思えばいいが、そうはいきません。水はどこまでも水のままです。

「以空為命」空が鳥の命?空を見ても鳥は飛んでこない。青空が卵なんか産むはずもない。そうすると生命ではない。

「以鳥為命、以魚為命」鳥の命、魚の命というものは、鳥が命か、魚が命か?そうでもない、先ほど云うように、水が無かったら魚は死に、空が無かったら鳥は在り得ない。

「以命為鳥、以命為魚」命を以て鳥となすか、命を以て魚となすか。ですが、つまり謂うならば、魚が生きているとは、魚個人の問題ではなく、鳥が生きている事も、鳥自身の問題ではない。つまりは魚と水は一つで、そこに始めて魚が生きている。と言えるわけです。

鳥が飛ぶことも尽十方界のあり方で、魚が泳ぐという事も現成公案で、真実の様相なんです。だから此の巻は、認識論で解釈しては間違い。西洋の哲学とか思想とかは、自我の世界の思索ですから、そのあたりの区別をはっきりとすべきである。

世間での「正法眼蔵」研究は、道元の思想としての問題提起で、自分たちの思想の態度で見ようとするから、方角違いになってしまいがちです。

「このほかさらに進歩あるべし。修証あり、その寿者命者あること、かくの如し」

「寿者命者」とは外道の詞ですが、魚と水との関係、鳥と空との関係を、如何に説明しようと分析しても、これらは事実ですから、どこまでも決定的な解釈はありません。「ああ分かった」―こういう事は在り得ません。

我々の現成公案の仏法に於いては、ヤレヤレという納得は絶対に許されない。解釈・分析を持ち込んではダメなんです。そこに「眼蔵」の眼蔵たる所以がある。

「しかあるを、水を究め、空を究めて後、水・空を往かんと擬する鳥・魚あらんは、水にも空にも道を得べからず、所を得べからず」

「水を究めるも、空を究める」も、無限ですから適いません。

唯識の方には見分・相分という詞があり、「相分転じて見分を知る」ということがある。朝目が覚めるでしょう、その目が覚めるとはどういう事か。目が覚めるのが先か、外が見えるのが先か。普通、目が覚めたから外が見える、と思うでしょう。

ところが実際はそうではない。目が見えるから目が覚めたんです。事実は、こちらが見たから、外が明るいのが見えたんですが、それが自分に何故わかるかと云えば、外が見えたから目が見え、外が見えたから、自分が物を見ている事を比知した。それで目が覚めた事が分かった。と認識する。

つまりは、我々には自分の見る事も直接的には分からない。第三者になれないから分からない。それと同じように、どんなに自分を見究めようと思っても、見極められない。これを無量無辺という。そのことを、ここで示されているのです。

「この所を得れば、この行李従いて現成公案す」

この事実をかっきり掴めば、一つの行為(行李)というものが偉大なものか、単なる見ること自体が「現成公案」というものです。

ですから宗門に於いては、日々の生活を大切にする。真実・本物というものを、鶏の餌拾いのように、探すものではない。

大智禅師の法語の中に、「妄念は静かに坐禅するから起きてきる」とある。つまり静かにする時に限って出てくる、静かにし坐禅するから出て来るんです。

公案坐禅中にオモチャにするものではなく、日常生活に於いて、修道に於いて、いつも公案というものを鑑にして、我々は自分の生活を反省しなければならない。ですから公案は当て物でもなく、課題でも解くものでもない。この公案に対する態度はどうあるべきかは、『正法眼蔵』に示される通りである。

黙って坐禅すれば、いろいろなものが浮かんでくる。それは妄念でも何でもなく、追いかける事で妄念になる。ただ浮かんでくるのは、生きている姿なんです。

つまり、その場で黙って坐り、どんな心理状態であろうが、追いかけず求めない。この状態を「この所を得れば」と云う。自然に只管打坐し、正身端坐の時が現成公案なんです。

「このみち、このところ、大にあらず小にあらず、自にあらず他にあらず、先よりあるにあらず、いま現ずるにあらざるが故に、かくの如くあるなり」

人間の自我の世界といっても身体には選択はない。あるのは窓口あたりの自我だけで、目・鼻・耳・口の周辺だけです。これより奥へ入ると、もう選り好みはありません。不味い食べ物はこの辺りを誤魔化せば何でも食べられる。従って「大小」とか「自」とか「他」というのは、真実の道ではありません。自他の世界も、排他的エゴから来る。特定のものじゃなく、いつでもが「かくの如く」あるのです。だから如是という詞がある。お経の始まりには「如是我聞」とするのは、『大智度論』に決められていて、この如是を自由自在に使いこなすのは禅の語録だけです。

「しかあるが如く、人もし仏道を修証するに、得一法通一法なり、遇一行修一行なり」

『御抄』(聞書)には、「得一法通一法と云うは得坐禅通作仏を云わんが如し。人の坐禅するにこの功徳いかなりと知らず。しかあれどもこれ坐禅なり、坐禅なれば作仏なり」(「註解全書」一・二二七)とあります。この「得一法通一法」の「一法」を、「坐禅」と「作仏」とに替えて、「得坐禅通作仏」と。面白いと思います。

我々の坐禅というものは、まことに簡単なものです。これに掛け値なしに、正しく坐っていただく事は誰でも出来ます。これが仏に通ずる、作仏に通ずる、という事になる。ですから「得一法通一法、遇一行修一行」。対句ですから、同じ意味に取ればいい。坐禅する事がそのまま作仏であり、作仏は坐禅する事である。

「これにところあり、みち通達せるによりて、知らるる際の知るからざるは、この知る事の、仏法の究尽と同生し同参する故にしかあるなり」

「これにところあり」とは、前にあった「得一法通一法」のこと。「みち通達せるによりて」の「通達せる」とは、全部極めての意ではなく、どのように通達するかと云うと。「知らるる際の」とは知見の限界。「知るからざるは」とは、「はっきりしている」という古語に「しるし」という詞があり、その反対で不明なこと。見渡す限り限界がない。これが大事な事。

ところが、この我々の身体は黙っていても、分かっても分からなくても結構。そんな事はお構いなしで、年百年中、完全無欠な働きをしています。

仏教学の基礎的な言葉で申しますと、我々が物を知覚し認識するとは、五蘊・十二処・十八界でやっている。十八界とは眼耳鼻舌身意の六根と、色声香味触法の六境と、眼耳鼻舌身意の六識の道具立てで、我々の知覚認識の世界が説明される。

六根に対し六境があり六識が起こる。唯識教学の方では、前五識(眼耳鼻舌身の五識)を第六識(意識)が統制する。そして第六意識を更に統制しているのが、第七識です。これは自我の意識で染汚識(ぜんましき)とも云う。これが我々の普通の自我生活で、日常です。こればっかりで、喜んだり、ガッカリするのもここでやっているが、ところがこれは、支える身体全体がなければいけない。

「この知る事の、仏法の究尽と同生し同参する故にしかあるなり」

この「知る」とは、私たちの身体が真実そのものであり、知覚意識の生活に於いては蹴散らす事はあっても、真実に於いては蹴散らしは絶対にない。この真実の実修実証が坐禅であり、この真実の実践を「知る」と云うのです。先の「知らるる際の」の「知る」は知覚のことで、ここでは本来の実践の姿を「知る」とする。

我々の只管打坐の坐禅が「知る事」であり、それがそのまま「仏法の究尽」と連なり、「同生し同参」するとは、仏法そのものになる。を謂う。

「得処かならず自己の知見となりて、慮知に知られんずると習うことなかれ」

「得処」とは普通、大悟とか何とか云うが、私たちの方から云いますと、「俺は得た」というものは在りません。つまり謂うなら得処とは坐禅を意味します。坐禅したからと云っても、そこには一つも受け取りも有りませんから、得処は知見にはなりません。

「証究すみやかに現成すと云えども、密有必ずしも現成にあらず、見成これ何必なり」

「証究」とは一つのものを究めると思われるかも知れませんが、ここでは坐禅の実修実証を謂うものです。「密有」とは『御抄』(「聞書」)によりますと、「密有は一切衆生悉有仏性の有なるべし」(「註解全書」一・二二七頁)とあります。密は秘密の密ではなく、親密の密であります。

この密有が、全てのものの真実のあり方ですから、密有すなわち真実のあり方は、「現成にあらず」、我々の眼の前に出現するものではなく、捉えられるものではない。

「何必」とは「なんぞ必ずしも~ならんや」という意味ですから、何必にはいろんな姿があるわけです。つまり何必がそのまま仏法の道理で、何必とは、ある一定のものに限定されず、「何々でなければならない」と云うものではない。

つまり「見成」とは、必ずしも、これこれと限定されたものではなく、あらゆる可能性を包含する識語である。

 

麻谷山宝徹禅師、あふぎをつかふちなみに、僧きたりてとふ、風性常住無処不周なり、なにをもてかさらに和尚あふぎをつかふ。師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理をしらずと。僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに師、あふぎをつかふのみなり。僧、礼拝す。仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりもかぜをきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ、長河の酥酪を参熟せり。

これは有名な話です。麻谷山宝徹禅師、この方は馬祖道一禅師のお弟子としか分かりません。

ある時、暑かったのでしょう、和尚が扇を使っていた。そこへ僧がやって来て、「風性というのは常住なものである、処として周ねからずという事なしで、風性のない処は何処にもない。それならば、和尚、別に扇を使わなくてもいいではないか」と。和尚日く、「なんぢは只、風性常住を知ってはいるが、いまだ処として到らず、という事なき道理を知らず」とはねのける。僧が日くに、「和尚の云う無処不周底の道理とは、一体何ですか」。ところが和尚は返事しません。知らん顔して扇を使って、澄ましておった。その時に、初めて僧が「有り難うございました」と感謝の礼拝をした。という古則です。

「麻谷山宝徹禅師、扇を使う因みに、僧き来りて問う、風性常住無処不周なり、何をもてか更に和尚扇を使う。師云く、你ただ風性常住を知れりとも、未だ処として到らずと云う事なき道理を知らずと。僧云く、如何ならんかこれ無処不周底の道理。時に師、扇を使うのみなり。

僧、礼拝す」

「風性常住」とは主義でもイズムでもなく、人間が考えると思想になってしまう。思想とは、人間が「こういうものだ」と自分で決めて合点することです。

風性常住という事は、確かにその通りです。ところが、人間がそれを取扱うと一つの思想、すなわち合点になってしまう。これは「こういうふうだ」という了解事項、或いはそれが信条になってしまう。こうなると「風性常住」という事ではなくなる。

風性常住とは思想ではなく、あなたと関係ない。「無処不周」というのも、あなたの了解事項ではない。

例えば『建撕記』に「本来本法性・天然自性心」。これは本来成仏のことです。本来成仏であるなら、何故に修行が必要か。怠けても仏ではないか、何も修行する必要ないではないか。この辺りまでいくと、一つの思想になってしまい、了解事項になってしまう。それは仏法の世界にはなく、自我の段階であり、次元が違う。

「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし」

「仏法の証験」のあらたかさは、誰でもが修行すれば結果が現れるから「証験」です。この「証」を修と一緒にして、実修実証と考えます。実験と同意で、仏法は実際に行じなけれがならない。

我が宗門では、修と証は同じ意味に使われます。修の所にはじめて証があり、修することが証する事なのです。修行して何年ぐらいしたら証が表れるか、という事ではない。同時に顕われる、それをここでは「証験」と言われた。

「正伝の活路」の正伝とは血統を云うのではなく、我々の本来のあり方を務める事が「正伝」で、真実を修行すること。

我々の本来の姿は、宇宙の真実を実修実証していて、現実が事実なんです。現在の現実は、この修行している我々なんです。この真実を釈迦仏も修行された訳です。釈迦牟尼の師匠は、この現実だったのです。

つまり我々の坐禅の行は現成公案であり、坐禅は自我を超越する道ですが、何のことはない正身端坐が「仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし」なんです。

「常住なれば扇を使うべからず」

永遠に常住であるから扇を使わなくてもいい、と云う事はない。

「使わぬ折りも風を聞くべきと云うは、常住をも知らず、風性をも知らぬなり」

使わなくても、風が来ると思うのは常住を知らない事で、それは貴方の勝手な観念・概念の世界の解釈と云うものです。

貴方が考えたようなものは本来の常住ではなく、常住とは宇宙の真実であり、人間が口を挟む問題ではない。

「風性は常住なるが故に」

ですから何処でも、修行はしなければならない。

「仏家の風は、大地の黄金なるを現成せしめ」

「仏家の家風」というものは、この「大地の黄金」を実修実証するものですから、このように「現成せしめ」と言われる。つまり仏者にはこの大地は仏国土で、現成公案に於いては、どんなに苦しい状態にあっても仏国土です。苦しい・つらい・嫌だと云うのは自我の段階が謂うことで、これを超越した現成公案からは、すべてが真実なんです。

「長河の酥酪を参熟せり」

「酥酪」とは醍醐味の意で、最高の食べ物(ヨーグルト)を言ったのでしょう。つまり、その河も単なる長い河(揚子江)ではなく、これを醍醐の世界にする事が出来る。つまりは現成公案なるが故に、私たちは只管打坐の修行をする事で、この穢土を本来の仏国土とする事ができる。

これで現成公案の巻を読み終えたこととします。

 

   正法眼蔵 第一 現成公案 提唱(終)

 

これは酒井得元老師『正法眼蔵―現成公案の巻』からの抽出文である。原本では話し言葉で記述されるが、ここでは「です・ます」調の文章体とする。また当巻冒頭は「義雲頌著・面山述賛」から始まるが省略した。