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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第十八 観音 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第十八 観音 註解(聞書・抄)

 

 雲巖無住大師、問道吾山修一大師、大悲菩薩、用許多手眼作麼。道吾曰、如人夜間背手摸枕子。雲岩曰、我會也、我會也。道吾曰、汝作麼生會。雲巖曰、遍身是手眼。道吾曰、道也太殺道、祗道得八九成。雲巖曰、某甲祗如此、師兄作麼生。道吾曰、通身是手眼。

 道得觀音は、前後の聞聲まゝにおほしといへども、雲巖道吾にしかず。觀音を參學せんとおもはば、雲巖道吾のいまの道也を參究すべし。いま道取する大悲菩薩といふは、觀世音菩薩なり、觀自在菩薩ともいふ。諸佛の父母とも參學す、諸佛よりも未得道なりと學することなかれ。過去正法明如來也。

 しかあるに、雲巖道の大悲菩薩、用許多手眼作麼の道を擧拈して、參究すべきなり。觀音を保任せしむる家門あり、觀音を未夢見なる家門あり。雲巖に觀音あり、道吾と同參せり。たゞ一兩の觀音のみにあらず、百千の觀音、おなじく雲巖に同參す。觀音を眞箇に觀音ならしむるは、たゞ雲巖會のみなり。

詮慧

〇尽十方界一隻眼と体脱の時は、観音もあるべき道理なり。眼は諸縁を縁としてこそ見るべきに、尽界眼ならん時、何をか見るべき、用作什麽の道理なるべし。

〇抑も「観音」と云うは、世の音を観ずるなり。「観自在」と云うは、六道に遍満して自在なる也。

十一面観音(は)、常義也。十二面観音(は)、本観音の一面を具足して、十二面也。三二・三・四身あり、子細如面。面ぞ身ぞに付きては、数般と云う詞あり。是は別義なし。数を挙げらるる也。又数般と云う詞あり。是は数を挙げず、品々ありと也。

〇「未得道なりと学することなかれ」と云うは、仏に変わる事なしとなり。或いは変わるべし。これ菩薩の時は変わるに似たれども、諸仏の父母、或いは過去七仏などと習うとき、何れが仏に変わると云うべきぞや、「過去の正法明如来」と号す。

経豪

  • 「観音」と云う事、在家出家に云い慣れたる名なり。或いは六観音、八大観音と褒め、教にも殊談之。耳(身?)近なる菩薩也。然而祖門には、今の雲巌道吾の観音の参学を可用也。
  • 是は千手の(と?)身は一体にて、千手千眼を用いては、何の料りぞと不審したるように聞こゆ。非爾、此の千手千眼は眼はあれども、色法をも不見、千手あれども探り取らるべき物もなし。全手全眼なるがゆえに。仍此道理が、「作麽」とは、例の云わるる也。
  • 此の詞は、人の夜、手を後ろにして、枕を探るが如しと云えり。夜間は不見色法道理にあたるべし。「背手摸枕子」は、手の外に取るべき物なき道理にあたるべき也。全手全眼(の)
    道理是なり。
  • 此の「遍身手眼」は、全手の心、全眼の理也。
  • 是は言い寄せたれども、猶不及十成ゆえに、「八九成の道は」、十成に猶不及と云いたるように聞こゆ。是又しかあらず、人の十人して持ち上げべからん人物を、七八人して持ち上げたらば、弥々いかめしき力量にてこそあるべけれ。其の定めに十成なるべき事を、八九成ならんは、今一重力量もありぬべし。但是は八九成十成、更(に)勝劣あるべからず。不始于今事也。
  • 「雲巌は遍身是手眼とあり、道吾は通身是手眼」とあり。遍与通(の)字の変りたる許り也。雲巌の「遍身」とあるは、猶身に千眼を具足したる心地もありぬべき歟。「通身」とあるは、今一重手眼の全体なる義も表れぬべし。但雲巌の遍身、道吾の通身、努々各別の義あるべからず。只同事也。この道吾雲巌は薬山の下にて、同法と云いながら、四十余年間、殊(に)相互法談を談じて、是処をば証明し、不是処をばせん却せし人也。更彼詞不可有浅深

勝劣也。

  • 是は妙覚果満の仏と、今の大悲菩薩と、浅深勝劣を不可談と云う心なり。
  • 是は「観音を保任せしむる家門あり」とは、今の雲巌道吾の事也。「観音を未夢見なる家門あり」とは、祖門に所談の観音にあらざる所を指すなり。「雲巌に観音あり」とは、今の「用許多手眼作麼」の詞歟。此の雲巌道吾の「一両の観音のみにあらず」、此の雲巌道吾の観音には「百千の観音皆同参する也」と云うなり。「雲巌会のみ也」とは讃嘆(の)詞歟。

 

所以はいかん。雲巖道の觀音と、餘佛道の觀音と、道得道不得なり。餘佛道の觀音はたゞ十二面なり、雲巖しかあらず。餘佛道の觀音はわづかに千手眼なり、雲巖しかあらず。餘佛道の觀音はしばらく八萬四千手眼なり、雲巖しかあらず。なにをもつてかしかありとしる。

 いはゆる雲巖道の大悲菩薩用許多手眼は、許多の道、たゞ八萬四千手眼のみにあらず、いはんや十二および三十二三の數般のみならんや。許多は、いくそばくといふなり。如許多の道なり、種般かぎらず。種般すでにかぎらずは、無邊際量にもかぎるべからざるなり。用許多のかず、その宗旨かくのごとく參學すべし。すでに無量無邊の邊量を超越せるなり。いま雲巖道の許多手眼の道を拈來するに、道吾さらに道不著といはず、宗旨あるべし。

 雲巖道吾はかつて藥山に同參齊肩より、すでに四十年の同行として、古今の因縁を商量するに、不是處は剗卻し、是處は證明す。恁麼しきたれるに、今日は許多手眼と道取するに、雲巖道取し、道吾證明する、しるべし、兩位の古佛、おなじく同道取せる許多手眼なり。許多手眼は、あきらかに雲巖道吾同參なり。いまは用作麼を道吾に問取するなり。この問取を、經師論師ならびに十聖三賢等の問取にひとしめざるべし。この問取は、道取を擧來せり、手眼を擧來せり。いま用許多手眼作麼と道取するに、この功業をちからとして成佛する古佛新佛あるべし。使許多手眼作麼とも道取しつべし、作什麼とも道取し、動什麼とも道取し、道什麼とも道取ありぬべし。

詮慧

〇此の「大悲菩薩の手」は、物を取らざらん、本意なるべし。ゆえに背手摸枕子と云う。今の菩薩の眼には、物を不見と云わん、又本意なるべし。不見一法名如来と、永嘉真覚大師仰せらる也。仏法の所談如此。

経豪

  • 是は「雲巌道の観音は道得と云い、余仏道の観音は道不得」とあり、勝劣ありと聞こゆ。其の故は「雲巌道は用許多手眼とあり、余仏道の観音は或いは十二面、千手眼、八万四千手眼」などとある所を、しばらく如此被挙也。さればとて釈尊所談の観音を、劣也と云うべきにあらず。仏言何違此道理、更(に)今(は)人の思い習わしたる所を、蹔く如此云う也。此の「用許多手眼」の数般、いくらと限るべき、際なき所を「用許多手眼」とは挙げらるる也。能々可心得事也。
  • 是は「雲巌の許多手眼」の詞を、道吾さらに嫌わずと云う心也。薬山下にて雲巌道吾四十年之間、同法とは云いながら、相互無隔心法を談ぜし人也。共に「雲巌の許多手眼」の詞をば、「道吾道不著と云わず」。「道吾証明す」と云う也。
  • 「許多手眼の道は、雲巖道吾同參也」とは、共に此の詞をば、雲巌道取し、道吾証明すとて許之。今は「用作麽」の詞を、雲巌の道吾に問取する事を云う也。最初に雲巌の大悲菩薩

用許多手眼作麽と云いし詞の「作麽」を云う也。

  • 此の詞は、ただ打ち任せて思い付きたるように、大悲菩薩の許多の手眼を用いては、何料りぞと問いたらんには、「経師論師、十聖三賢等の問取に等しめざるべし」は、争か云うべき。いかなる我等も問取しつべき問取也。此の詞にて、先ずようあるらんとは心得ぬべし。普通の問取とは不可心得。
  • 是は「用作麽」の詞を如先々、問取と不可心得。「作麽」の詞一切に可渡。「作麽」の詞がやがて、「道取を挙来し、手眼を挙来する」也。此の「用許多手眼作麼と道取する、功業の力として成仏し、古仏新仏となる」と云うなり。「作麽」の詞(は)、法性にも、仏性にも、三昧陀羅尼にも、諸仏にあたるべし。即不中(の)道理也。
  • 是は「用作麽」と云いつる「用」の詞を取り替えて、必ず「用」の詞ならずとも、「使許多手眼作麼とも、、作什麼とも、動什麼とも、道什麼とも云うべし」となり。此義可渡万事。

 

 道吾いはく、如人夜間背手摸枕子。

 いはゆる宗旨は、たとへば、人の夜間に手をうしろにして枕子を模索するがごとし。模索するといふは、さぐりもとむるなり。夜間はくらき道得なり。なほ日裡看山と道取せんがごとし。用手眼は、如人夜間背手摸枕子なり。これをもて用手眼を學すべし。夜間を日裡よりおもひやると、夜間にして夜間なるときと、檢點すべし。すべて昼夜にあらざらんときと、檢點すべきなり。人の摸枕子せん、たとひこの儀すなはち觀音の用手眼のごとくなる、會取せざれども、かれがごとくなる道理、のがれのがるべきにあらず。

 いまいふ如人の人は、ひとへに譬喩の言なるべきか。又この人は平常の人にして、平常の人なるべからざるか。もし佛道の平常人なりと學して、譬喩のみにあらずは、摸枕子に學すべきところあり。枕子も、咨問すべき何形段あり。夜間も、人天昼夜の夜間のみなるべからず。しるべし、道取するは取得枕子にあらず、牽挽枕子にあらず、推出枕子にあらず。夜間背手摸枕子と道取する道吾の道底を檢點せんとするに、眼の夜間をうる、見るべし、すごさざれ。手のまくらをさぐる、いまだ劑限を著手せず。背手の機要なるべくは、背眼すべき機要のあるか。夜眼をあきらむべし。手眼世界なるべきか、人手眼のあるか、ひとり手眼のみ飛霹靂するか、

 頭正尾正なる手眼の一條兩條なるか。もしかくのごとくの道理を檢點すれば、用許多手眼はたとひありとも、たれかこれ大悲菩薩、たゞ手眼菩薩のみきこゆるがごとし。

詮慧

〇「如人夜間背手摸枕子」と云うは、人も夜間も皆手眼にてあるなり。尽十方界を取り尽したるゆえに、「如人夜間背手摸枕子」と云う。不融事而知、不対縁而照と云う程の事也。如何是一切衆生悉有仏性とも、狗子仏性とも、狗子無仏性とも、般若波羅蜜とも云わん。答えにも、此の「如人夜間」の答えは、不可相違と心得べし。以此詞実相をも心得、法性をも可心得。如此心得ば、仏性にも隔つあるべき也。一切衆生悉有仏性を、頂寧と云うも、眼睛と云うも、「夜間」の詞に同じ。「夜間」と云えばとて、暗しと許りは心得まじ。諸法を説き尽すを「日裏看山と云わんが如し」。学人坐禅を用いて、「作麽」と云わん答えにも、「如人夜間」の答えありぬべし。

〇「夜間」の詞、眼にあたると云うは、不見のゆえに、法身の仏を談ずるには、眼なし身なし。過去の正法明如来は、今の大悲菩薩也。不見一法如来なれば、眼に不見、手に不取べし。

〇「夜間は暗き道得也。なお日裡看山と道取せんが如そ」と云うは、此の「夜間」と「日裏」と、彼是通ずらん事、尤不審也。但看人と日と山とは同じなるべきか、別なるべきか。諸法の中に実相を見、三界の中に一心を見る。日裏看山、用作麽。用作麽と云うは、何事と云うべき答うべき答えを待つにあらず。やがて用作麽と道取すべき也。たとえば尽十方界一隻眼と云わん時は、無可見物ゆえに、用作麽なるべし。

〇「如人夜間」の詞、これ「夜間」と云えばとて、暗きにあらず。境を別に置いて、見るべきものなきを、しばらく「夜間」と云う。ゆえに彼には、「日裏看山」と体脱す。取るべきものを別に置かぬゆえに、「背手摸枕子」の詞あり。

〇「枕を取る」と云わん、手が手を取らんずる也。「推出」と云わん、手が手を推出也。「牽挽」と云わんは、手が手を引かんずるにてある也と可心得。手の外に枕不可用。しかればこそ、取と云わず、押し出だすと云わず、引くとも云わず、ただ摸すと許り云う也。「摸」の字にて、枕子は形なきものと心得也。これ大海死屍を心得んが如し。「用許多」を以て、「作麽」と説くなり。

経豪

  • 是は「如人夜間背手摸枕子」と云うは、たとえば人の夜、手を後ろにして、枕を探るが如しとあり。未だ手に当り探り得たり枕なし。夜間に模索する喩えに「日裏看山」と云う詞、喩えになるべしとも不覚、不相応に聞こゆ。但仏法の上に、「日裏」と云い、「看山」と云わんは、打ち任せて「日の裏に看山」とは不可心得。仏法に「看山日裏」と云うは、能見所見の義不可有。以山見山とも可心得。然者今の「如人夜間背手摸枕子」のあわいも、夜間には不見と許りは不可思歟。「日裏看山」程に可心得也。一筋に夜間にて、枕子を探り求めずと許り不可心得事也。
  • 是は此の「用手眼如人夜間背手摸枕子」とは、手眼はあれども、見色法事なし、取るべき物なき所を云う也。以之用手眼をも可学とは云う也。「夜間を日裏に思いやる」とは、猶能所もあるように聞こゆ。昼夜各別なる様に聞こゆ。只夜間にして夜間を思いやる義もあるべし。夜間の外に物なく、交るべき物なき道理也。「惣て昼夜にあらざらん時」と云うは、夜間と云うも、人天の昼夜にあらず。枕子も手を背にして探ると云う義も、我等が思い習わしたる義に非ず。今以手眼道理、昼夜とも談ぜん時は、非昼夜ざらん時とも云うべきか。所詮ここには三つの義あるべし。一つには夜間を日裏より思いやると。二つには夜間なるとき夜間を思いやると。三つには惣て昼夜にあらざらん時の義と也。雖有三重義、更其義不可違。只同心なるべし。
  • 是は摸枕子の道理、「たとい観音の用手眼の如く、心得ずとも、用手眼の道理は、逃れ逃がるべきにあらず」と云う心地なり。たとい仏性にあらずと、逃れんと思うとも、更に回避の余地あるべからずと云う程の義也。
  • 是は如人夜間と、道吾の云いつる「人」の事なり。今(の)詞は喩えと聞こえたり。夜間にて不見(の)たとえに被引たりと聞こゆ。其れを「譬喩の言」と可心得かとはあるなり。「又此の人は平常人にして」とある「平常人」は仏法人也。「平常の人にして、平常の人なるべからざるか」と云う。「平常人」は打ち任せたる人也。「若し仏道の平常人と学して、譬喩の言なるべからざるは、摸枕子の枕子も何形段」とは、日来我等が心得つる、枕子探るなどと不可心得。以尽十方界為枕べし。此の道理が「何形段」とは云わるる也。何れの詞に、いづれも籠りたるなり。
  • 背手摸枕子とこそあれば、実にも枕子を取得とも、又引き出すとも、押し出すとも云わず。ゆえに、如此被釈也。
  • 是は夜間相対して、能見所見を云うにあらず。今の道理は眼が眼を見、夜間が夜間を見る道理なるべし。是を「見るべしとも、過ごさざれ」とも云う也。又「手の枕子を探る」と云えども、此の手も枕も、惣て際限なし。「眼の夜間」も只だ同心なるべし。
  • 是は右の道理にては、背手すと云う道理あるべくは、「背眼」と云う義もなどかなからんと也。凡夫の上にてこそ、「背眼」の詞は被驚ぬべけれ。乃至鼻孔を背すとも、耳根を背すとも云う道理あるべき也。此の道理現前するを、「夜眼を明らむべし」とは云うなり。
  • 是は依報正報、皆只「手眼のみ也」と云う心也。「手眼世界」は依報、「人手眼」は正報、皆手眼なるべし。但依報正報と云うも、蹔くの事也。只以手眼(は)、依報とも正報とも云うべし。此の理が「手眼の飛霹靂」と云わるる理なるべきなり。「頭正尾正の手眼なるべし、千眼の一条両条なるか」とは、手眼世界、人手眼をも云うべきか。「頭正尾正をも、一条両条」とも云うべし。「一条両条」と云えばとて、二三の局量に滞るべきにあらず。
  • 右に「所挙の道理を、検点すれば、用許多手眼は喩いありとも、大悲心菩薩」とは、何れか云わるべきぞ。如此談ずれば、「只手眼菩薩許り聞こゆる也」と云う也。手眼の至極究尽する時は、大悲菩薩とは云わるべからず。只手眼菩薩許り也。如此の道理あるゆえに、手眼菩薩用許多大悲菩薩作麽と云いつべしとあるなり。法の道理如此、ともかくも入り違えて、無尽に談ずれども、只一法の道理なるべし。

 

 恁麼いはば、手眼菩薩、用許多大悲菩薩作麼と問取しつべし。しるべし、手眼はたとひあひ罣礙せずとも、用作麼は恁麼用なり、用恁麼なり。恁麼道得するがごときは、徧手眼は不曾藏なりとも、徧手眼と道得する期をまつべからず。不曾藏の那手眼ありとも、這手眼ありとも、自己にはあらず、山海にはあらず、日面月面にあらず、即心是佛にあらざるなり。

 雲巖道の我會也、我會也は、道吾の道を我會するといふにあらず。用恁麼の手眼を道取に道得ならしむるには、我會也、我會也なり。無端用這裡なるべし、無端須入今日なるべし。

 道吾道の儞作麼生會は、いはゆる我會也たとひ我會也なるを罣礙するにあらざれども、道吾に儞作麼生會の道取あり。すでにこれ我會儞會なり、眼會手會なからんや。現成の會なるか、未現成の會なるか。我會也の會を我なりとすとも、儞作麼生會に儞あることを功夫ならしむべし。

詮慧

〇「我会也、我会也」と云うは、雲巌に仰せては云わず。用許多手眼の時は、雲巌の身はあるかなきか不審也。是は会作麽生也。非疑殆。「我」と云うは、作麽生の我也。

〇「我会也、我会也」、是又我を誰に仰せて云うにあらず。如人夜間の我、許多手眼の我也。言語の外に我を置きて会すと云わず。「会」と云うも、大悲菩薩の詞等を会するにてなし。「会」を「菩薩」と心得也。

〇「大悲菩薩許多手眼」、かく云えばとて、千手千眼と云う様に、数多と云うにあらず。衆生の願いに仰せて観音の慈悲ある時、大いに付きて、千手とも、千眼とも云うにて、なき所を、「許多」とは云い替えるなり。ここを仏の言にも勝れて褒む。仏よりも未道得也と、学する事なかれとも云う。又観音諸仏の父母とも云う也。手も眼も身も、差別辺際なければ、観音とて別に呼び可出体なし。

〇今の雲巌道吾問答を、能々可心得也。此の宗門の習い事にて、不審の問答にてなし。問いと聞こゆるを、動執すべき也。凡そ教に云う実相の観、真如の詞も、能入を置きて、所観がある時に、今の本意にはあらず。雲巌の問する大悲菩薩、用許多手眼作麽の詞より、初めて重々問答の詞(は)、皆観音の大慈大悲の義也。問答無相違、無勝劣(は)、同事也。

〇「汝作麽生会」、是も非汝非誰ざる汝也。「大悲菩薩の用許多手眼作麽」の「作麽生会」なるべし。

〇「無端用這裏なるべし、無端須入今日なるべし」と云う、此の「無端」は、無境無像、そのゆえと云う事なしとは得たれども、有端とも云うべし。自然成仏道の自然なるべし。衆生如教行なるゆえに、いまの「無端」は、三界唯一心程の無端なるべし。

経豪

  • 打ち任すは眼も手も、具足する物なり。仍此手眼は、用は何の要ぞと不審したる様に思い習わしぬべし。而今所談の心地は、手眼の外に又物不交。手眼の独立の上は、「用作麽」と云う詞が不審とはならず。只「手眼」の功徳荘厳にて、蹔く「用作麽」と云わるる也。ゆえに可用、用にならざるゆえに、「用作麽は、用恁麽也、恁麽用也」とは云うなり。
  • 「徧手眼なるゆえに、不曾蔵也、徧手眼と道得する期を、不可得」とは、徧手眼の外に道得すべき人あるべからざる道理也。仍如此云わるるなり。
  • 是は「不曾蔵の那手眼、這手眼」共に只以手眼、「那」とも「這」とも談ず也。「手眼」の時節には、「自己とも山とも、日面月面、即心是仏とも不可云」。只手眼也と云う也。
  • 是は「道吾の道を、我会すと云うにはあらず。用恁麼の手眼を、道取に道得ならしむるには我会也、我会也」とは、打ち任すは我れ心得たりと云うと聞こゆ。但如此心得ば、甚だ其の咎多し。其の故は雲巌与道吾、各別の人に成りぬべし。雲巌・道吾の皮肉(は)、更非一非二。吾亦如是、汝亦如是なるべし。又道取と人と又相対すべし。ゆえに被嫌也。此の「用恁麽の手眼」と云うは、前に恁麽用・用恁麽と云わるる、「用恁麽」なり。「用恁麽を手眼」と談ぜば、「我」と云わるる我も、吾我の「我」にあらず。会も物を置きて会すべき、人の有とは不可心得。此の上は、「我」も手眼、「会」も手眼と可心得。共に手眼の道理を被述詞也と可心得歟。六祖南嶽の問答に、汝も亦如是、我も亦如是とありし、「我」なるべし。
  • 今の詞は、「無端」と云うは、無辺際の義也。「用這裏」も、「須入今日」と云うも、今は皆「手眼」なり。手眼が手眼を用う程の義、手眼が手眼に入道理なるべし。此の「無端用這裏、無端須入今日」の詞は、「我会也、我会也」とも云わるるなり。共に手眼が手眼なるゆえに。
  • 是は「我会也は我会也」にて、我会也の道理の外にあらざれども、又しばらく「道吾に、你作麽生会」の道取、などかなからんと云う心なり。仏性と云う道理許りにて、蚯蚓と云う道取などかなからんと、云わん程の心なるべし。
  • 是は雲巌の我会也と、道吾の你作麽生会との二つを取り合わせて、「我会作会」とは云う也。此の道理なるべくは、我も手眼、你も手眼、会も手眼ならば、「眼会手会」と云う詞もありぬべし、と被釈也。又「現成未現成」の詞を、しばらく付くる也。只是も共に手眼なるべし。
  • 我を置いて物を会すと云えば、猶能所(の)各別あるように聞こゆ。「会」を「我也」と云えば、能所は離るる也。「你作麽生会」も如前、「会」を「我」と云いつるが如く、「会」を「你」と云う事を功夫すべしと云うなり。

 

 雲巖道の遍身是手眼の出現せるは、夜間背手摸枕子を講誦するに、遍身これ手眼なりと道取せると參學する觀音のみおほし。この觀音たとひ觀音なりとも、未道得なる觀音なり。雲巖の遍身是手眼といふは、手眼是身遍といふにあらず。遍はたとひ遍界なりとも、身手眼の正當恁麼は、遍の所遍なるべからず。身手眼にたとひ遍の功徳ありとも、攙奪行市の手眼にあらざるべし。手眼の功徳は、是と認ずる見取行取説取あらざるべし。手眼すでに許多といふ、千にあまり、萬にあまり、八萬四千にあまり、無量無邊にあまる。只遍身是手眼のかくのごとくあるのみにあらず、度生説法もかくのごとくなるべし、國土放光もかくのごとくなるべし。かるがゆゑに、雲巖道は遍身是手眼なるべし、手眼を遍身ならしむるにはあらずと參學すべし。遍身是手眼を使用すといふとも、動容進止せしむといふとも、動著することなかれ。

 道吾道取す、道也太殺道、祗道得八九成。

 いはくの宗旨は、道得は太殺道なり。太殺道といふは、いひあていひあらはす、のこれる未道得なしといふなり。いますでに未道得のつひに道不得なるべきのこりあらざるを道取するときは、祗道得八九成なり。

 いふ意旨の參學は、たとひ十成なりとも、道未盡なる力量にてあらば參究にあらず。道得は八九成なりとも、道取すべきを八九成に道取すると、十成に道取するとなるべし。當恁麼の時節に、百千萬の道得に道取すべきを、力量の妙なるがゆゑに些子の力量を擧して、わづかに八九成に道得するなり。たとへば、盡十方界を百千萬力に拈來するあらんも、拈來せざるにはすぐるべし。しかあるを、一力に拈來せんは、よのつねの力量なるべからず。いま八九成のこゝろ、かくのごとし。しかあるを、佛祖の祗道得八九成の道をきゝては、道得十成なるべきに、道得いたらずして八九成といふと會取す。佛法もしかくのごとくならば、今日にいたるべからず。いはゆるの八九成は、百千といはんがごとし、許多といはんがごとく參學すべきなり。すでに八九と道取す、はかりしりぬ、八九にかぎるべからずといふなり。佛祖の道話、かくのごとく參學するなり。

 雲巖道の某甲只如是、師兄作麼生は、道吾のいふ道得八九成の道を道取せしむるがゆゑに、祗如是と道取するなり。これ不留朕迹なりといへども、すなはち臂長衫袖短なり。わが適來の道を道未盡ながらさしおくを、某甲祗如是といふにはあらず。

 道吾いはく、通身是手眼。

 いはゆる道は、手眼たがひに手眼として通身なりといふにあらず、手眼の通身を通身是手眼といふなり。

 しかあれば、身はこれ手眼なりといふにあらず。用許多手眼は、用手用眼の許多なるには、手眼かならず通身是手眼なるなり。用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし。いはんや雲巖の遍と道吾の通と、道得盡、道未盡にはあらざるなり。雲巖の遍と道吾の通と、比量の論にあらずといへども、おのおの許多手眼は恁麼の道取あるべし。

 しかあれば、釋迦老子の道取する觀音はわづかに千手眼なり、十二面なり、三十三身、八萬四千なり。雲巖道吾の觀音は許多手眼なり。しかあれども、多少の道にはあらず。雲巖道吾の許多手眼の觀音を參學するとき、一切諸佛は觀音の三昧を成八九成するなり。

 

 正法眼藏觀音第十八

 

  爾時仁治三年壬寅四月廿六日示

 

 いま佛法西來よりこのかた、佛祖おほく觀音を道取するといへども、雲巖道吾におよばざるゆゑに、ひとりこの觀音を道取す。

 永嘉眞覺大師に、不見一法名如來、方得名爲觀自在。の道あり。如來と觀音と、即現此身なりといへども、佗身にはあらざる證明なり。

 麻浴臨濟に正手眼の相見あり。許多の一々なり。雲門に見色明心、聞聲悟道の觀音あり。いづれの聲色か見聞の觀世音菩薩にあらざらん。百丈に入理の門あり、楞嚴會に圓通觀音あり、法華會に普門示現觀音あり。みな與佛同參なり、與山河大地同參なりといへども、なほこれ許多手眼の一二なるべし。

詮慧

〇「遍身」と云うは、此の「遍」も能く遍所(は)遍を尽くらば有際限。我が不覚不知ればとて、「遍」を世間の遍満とは心得まじ。惣て分量には不可拘。恒河沙と云うも、たとえば大河の沙の、多きにてこそあれ、我らが数え尽すまじければとて非無辺際。恒沙の外の河もあり、砂もあるべし。東方万八千土を照らすと云うも、已に際限聞こゆ。仏は能放の仏、光明は所放の光明と覚ゆ。いまの「許多」には不可及也。有量の無量、無量の無量と云う事あり。有量の無量は、色相の仏の寿命也。無量の無量と云うは、法身の仏の寿命也と云う。是は猶又、有無の見解を不離、宗内には異也。寿をも命と許りは不心得也。

〇「遍身是手眼」ならんには、観音を拝せん時は、眼にて拝すべき也。手眼遍身也、能具所具の眼にてなし。「通身是手眼(道吾詞)、教に云う通教の心地の「通」にてなし。彼是を置かざる「通」也。惣て身手眼の三、何を本として、今二つを令具足べきにてなし。ゆえに「通身」なるべし。「用許多身心作麽」と云う。

〇「不留朕迹」と云うは、褒むる詞也。迹を留むるは嫌う所也。雲巌道吾(は)、無勝劣也。「臂長衫袖短」と云うは、頭三尺、頸短二寸などと云う心地にて心得べき也。

〇許多手眼の一二なるべしと云うは、許多の内の一二と見えたり。但又八九成の数ほどなれば、少なき一二とは心得まじ。所詮は許多の、全一全二なるべし。

〇「遍身是手眼」、此の手眼は、身に具足したる手眼にあらず。遍身を手眼と云うゆえに、全身全手全眼なるべし。世間を置いて、遍満と仕うにてなし。能所なき「遍」なり。

〇「太殺道」、これ露(あら)わなりと也、実の事なし。ゆえに八九成なり。十を残したる、八九にあらざるゆえに。

〇「見色明心、聞声悟道」と云うは、「色」がやがて「心」、「声」がやがて「悟道」にてあるなり。

〇「某甲祗如此」、是又それかくとは、雲巌ぞなどとは心得まじ。師兄とて外に置くべからず。

〇「通身是手眼」、遍身と云うも通身と云うも、同じ詞也。此の遍通を満たしたるに心地にては心得まじ。已上何れの詞も非問答勝劣。只観音一体の上にて、如此説かるるなり。

〇遍身用許多作麽と云わんにも、如人夜間背手摸枕子という間(に)可符合。

〇通身用許多作麽と云わんにも、如人夜間背手摸枕子という間(に)可符合。是等の義を許多手眼の、一二なるべしちは云う也。

経豪

  • 是は「遍身是手眼の出現せる」と云えば、観音の御身は一体にて、千の手、千の眼が、ひしと遍満して御身に取り付きたるように心得なり。雲巌道の観音(は)、爾にはあらざる也。この「雲巌道の遍身手眼、又、夜間背手摸枕子」の詞を、世人講誦しながら、遍身是手眼也と。尋常に人の思いたるように、道取せると参学する観音のみ多しと被嫌。ゆえに「未道得なる観音なり」とは避けらるるなり。
  • 是は雲巌の、「遍身是手眼」の「遍」は、たとい遍界と云うとも、「身手眼の正当恁麽は、遍の所遍なるべからず」。所詮以手眼「遍」と仕うべし。雲霧の空に遍したるように不可心得。手眼の上に「遍」と云う詞を、蹔く置くべきなり。「攙奪行市の手眼にあらず」とは、今打ち任せて人の心得たる遍ぞ、攙奪行市の手眼とは云わるべき。所詮、「雲巌道の遍身是手眼」の如く可心得也。
  • 「是と認ずる見取、行取、説取あらざる也」とは、手眼の外には、見取証取等あるべからざると云う也。「手眼すでに許多と云う」上は、千万とも八万四千とも、打ち任せたる数量に拘わるべからざる義なり。幾らともいへ、数量の多少に拘わる程の義をば許多手眼には不用也。
  • 是は只手眼許りを、如此談じたるにてはなし。観音の対所備機、説法度生し給うも、観音は能化の菩薩、所化の衆生の為に、説法すとは不可心得。能化所化観音なるべし。ゆえに観音の観音を化すると可心得也。此の故に「度生説法も、如此と云う、国土放光も如此と云う」心地は、只如度生説法可心得となり。

所居国土と、観音と、光とを、各々不心得也。以観音放光と談じ、放光の姿を観音と談ず也。更に不可能所各別。此の道理を以て、「雲巌道の遍身手眼なるべし」とは云う也。全雲巌道の遍は遍身ならしむるには非ず也。

  • 是は「遍身是手眼を使用す」とは、此の詞は使用すとも、打ち任せて心得たるように、不可存と云う心地也。「動容進止し、動著することなかれ」とは此心なり。
  • 是は如文。無殊子細。
  • 是又如文。実に「十成也とも、道未尽なる力量ならば」無其詮。「八九成也とも道取すべきを八九成に道取する」力量あらば、八九成も十成の道取と同じかるべしと云う也。
  • 是又如文。「百千万の詞にて、道取すべき事を、力量妙にして僅かなる詞にて云い表わしたらん」は、今一重力量もあるべき事也。いかさまにも、此の」八九成」などと云う詞(は)、不可拘数量詞なるべし。
  • 百千人、乃至十廿人して、持つべからん者を、一人して持ち上げん力量、実に尋常の力量に超過すべし。「八九成」の道も是程の事也と云うなり。
  • 如文。八九成の詞を不足也と、打ち任せて心得たる僻見を被嫌なり。
  • 是又如文。此の「八九成は、百千と云わんが如し、許多と云わんが如し」とあり、始めには数量に拘わるべからずとあり。ここには「百千乃至許多と云わんが如く、可参学也」と云えば、参差したるように聞こゆ。但始めの心地は、百千万は多く、八九成は少なき心地を、謝せんとて、不可拘数量とは云う也。今は許多の道理の上は、「百千万とも許多とも云わん」、さらに又其の失あるべからざる也。
  • 是は八とも九とも云わば、一に治定したる心地もありぬべし。八九と受けぬる上は、先ず数量に留まらざる詞とは知りぬべし。常の詞にも、明日明後日などと云うは、一定其の日と定ねたる詞にはあらず。所詮ひしと定まりたる心地にはあらざる也。
  • 是は「雲巌道の某甲只如是は、道吾の道得八九成の道を」、我も如此心得たりと云う也。人の詞を非不審。「不留朕迹」とは、雲巌なるべきか、道吾なるべきか、彼にも是にも留まらぬ所を、「不留朕迹」と云うなり。是は古き詞也。仏性与蚯蚓も「不留朕迹」にあたるべし。「臂長衫袖短」とは、只一物なれども、又しばらく、二と云わるる事もある道理に云うなり。たとえば無差別、理(ことわり)なれども、蹔く雲巌与道吾、呼び出さざる程の事也。此の心地を「臂長衫袖短」とは云う也。
  • 如文。所詮雲巌わが所存如此。人はおかに心得たるぞと云うにはあらぬ也。
  • 是は身をば置いて、其の上に手眼の等しと、取り付けたるを云うにはあらず。只手眼の当体を「通身」と云う也。別物にあらず。身を置いて其の上に手眼を取り付けたると心得は可同凡見、非仏法。
  • 「用手用眼」は全手全眼と云わんが如し。仏々聻也、性々聻也と云いし程の事也。「通身」と云えば、いかにも身を置いて、其の上に手眼を具足したるように被心得ぬべき所を為謝。如此返々被釈也。
  • 是は所詮、身に手眼の取り付けたる様に聞こゆ。又人も如此思い付けぬべきを、只身と云う物はあるまじ。手眼を通身と談ずる時に、手眼の通身なるべし。然者ここに「身心」とて、別の身の被引出んずるに心地にてはなし。手眼の身心なる理を、表さん料りに、「用許多身心作麼と問取せんには、通身是作麼なる道得もあるべし」とは相搆手眼の外に、別に身と云う事を、思い付けさせしとて、如此被釈也。只とかく詞は多いようなれども、「以手眼身」と談ずるは、手眼(の)外(は)別(の)身なき理を、幾たびも表さん料り也と可心得。
  • 是は雲巌は遍身是手眼と云い、道吾は通身是手眼とあれば、「通」は猶親しく、「遍」は今少し疎(うと)きように覚ゆ。但「雲巌道吾のの遍通」の詞、共に手眼の上の遍通なれば、なじかは勝劣あるべきなれども、「おのおの許多手眼は如此」云わるべしと也。
  • 是は「釈迦老子の観音は数量に拘わり、雲巌道吾の観音は許多手眼」とあれば、猶仏言は不是に、祖言はかさみたる様に聞こゆ。努々不可有其義、争か去る義あるべき。仏言の理が響きて、今の道理あるゆえにこそ、今の祖言も出で来る上は、勿論仏言の理ならでは、争か今の雲巌道吾も、此理を露わざるべき。只一旦詞の聞こゆる所を、如此云わるるなり。随って「多少の道にあらず」と、被決上は勿論(の)事也。仏言の「千手眼も、三十三身、八万四千も、皆許多手眼」と可心得也。
  • 此の詞(は)、又逆に聞こゆ。仏言を参学してこそ、一切の仏祖も、観音三昧を成八九成すべきに、今(の)詞は被驚ぬべし。但仏祖の皮肉、始めて可驚にあらず。如此談ずれば、弥法の親切なる道理も現るるなり。仏祖(の)無差別の義も聞こゆる也。
  • 是は無風情、雲巌道吾の許多手眼、如人夜間背手摸枕子の詞を被讃也。
  • 是も「不見一法名如来」の詞、打ち任すは難心得詞也。「即現此身也と云えども、他身には非ず」と云えり。観音は等覚の菩薩、如来は果地の仏。打ち任すは浅深ありぬべし。然而今所談の上は、観音与仏、さらに不可有差別。浅深を談ずべからざる也。
  • 「正手眼」の事、追可決。雲門(の)詞に「見色明心、聞声悟道」を持って観音とは談ずるか。
  • 「入理門」(の)事、追可決。「楞厳会」とは、首楞厳経説事也。「法華会」とは、法華の普門品事也。
  • 是は与仏同参、与山河大地、同参也と云えり。無別子細。ここに「猶是許多手眼の一二なるべし」と云えば、許多手眼は勝りて、今右に所挙(の)、真覚大師、麻谷、臨済・雲門、百丈、乃至楞厳・法華等の観音は、猶許多手眼には不及。纔か一二なるべしと云うように聞こゆ。非其義、此の一二は全一全二なるべし。非数量一二なり。是は祖師等中に被談観音、人々の詞を被挙也。上にも許多の一一也とあり。許多の一二なるゆえに、非数量一二也。実にも仏の究尽する時、余仏皆蔵身す。祖師讃嘆の詞も可準之歟。いかさまにも勝劣差別の義にあらず。能々可了見事なり。

観音(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

2022年3月(バンコック北郊にて)