正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十一 授記 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第二十一 授記 註解(聞書・抄)

 

 佛祖單傳の大道は授記なり。佛祖の參學なきものは、夢也未見なり。その授記の時節は、いまだ菩提心をおこさざるものにも授記す。無佛性に授記す、有佛性に授記す。有身に授記し、無身に授記す。諸佛に授記す。諸佛は諸佛の授記を保任するなり。得授記ののちに作佛すと參學すべからず、作佛ののちに得授記すと參學すべからず。授記時に作佛あり、授記時に修行あり。このゆゑに、諸佛に授記あり、佛向上に授記あり。自己に授記す、身心に授記す。授記に飽學措大なるとき、佛道に飽學措大なり。身前に授記あり、身後に授記あり。自己にしらるゝ授記あり、自己にしられざる授記あり。佗をしてしらしむる授記あり、佗をしてしらしめざる授記あり。

 まさにしるべし、授記は自己を現成せり。授記これ現成の自己なり。このゆゑに、佛々祖々、嫡々相承せるは、これたゞ授記のみなり。さらに一法としても授記にあらざるなし。いかにいはんや山河大地、須彌巨海あらんや。さらに一箇半箇の張三李四なきなり。かくのごとく參究する授記は、道得一句なり、聞得一句なり。不會一句なり、會取一句なり。行取なり、説取なり。退歩を教令せしめ、進歩を教令せしむ。いま得坐披衣、これ古來の得授記にあらざれば現成せざるなり。合掌頂戴なるがゆゑに現成は授記なり。

詮慧

〇一向「授記」を説く時は、未来の事を云う様に覚ゆ。法華を説く時は、一向実相一乗の法とのみ聞き、心を説く時は三界も一心也。山河大地も日月星辰も心なり又非心とも説くべし。「授記」と云う事、一代教門の見処は、三周(上中下根)声聞に対して云うには、法華已前は、不可成仏と嫌われて、而弾呵淘汰の調熟を経て、いま法華の会にして、初住無生の位に叶うも、未来に可成仏と蒙って、浄仏国土成就衆生の願を興す。是こそ「授記」とは心得れども、今は又しかにはあらず。この巻に明かす如く、「授記」を心得べき姿様々なり。教に二乗(は)、他を化する心なきゆえに、所被の機縁なし。其の機なければ人相成道の義不可叶。しかれども内証には、初住無生の位に叶いぬれば、化度衆生の行を立て、未来成仏の授記を蒙るなり。

〇菩薩の位より作仏あり、八相成仏は応化の姿なり。応化は娑婆を化す。可化衆生のある程出世しまします。仏の寿命は可化衆生のある程也。可化衆生多くは八十涅槃もあるべからず。千年万年も御座(おわ)しますべきなり。

〇「未発菩提心」と云うも、授記の上の未発菩提心なり。今の「授記」は山河大地、須弥巨海、張三李四、聞得一句などと云う(は)、不審なる様なれども、仏成道の時、大地有情同時成道と被仰ぬる時に非可疑。又受記の様をも、日来聞き習いつる見を改めぬる上は、難き事あるべからず。「仏祖単伝の大道は授記也。仏祖の参学なきものは夢也未見在也」とあれば、未発菩提心の物と云うも、我等が思うが如くの未発にてはなし。成仏と云う義も、たとえば灯来たれば暗は去る程の事也。日来の衆生が失せて、面を替えて成仏するにあらず。灯来たればとて暗の去り方見えねども、明なる程の義也。明は覚なり。

〇仏の三十二相八十随形好と云うは、悟りに付いて掛かる姿にいま成ると思うは、僻事也。過去遠々の修行に応(こた)えて、相好も徳も現るるにてこそあれ、悟りに付けて出で来るにてなし。諸事我等が吾我の身心を本として、仏法をあて見る。これ天地懸隔の論にも不及(の)事也。応仏の時、八相成道するには、未来を授記する道理あり。内証法身の時は、未来は難云、教行証の三立(を)一に心得べし。

〇教には事理不二と云う詞あれども、事の時(は)理をも具し、理の時(は)事をも具すと云う。今は不可然、三界の法をやがて事と説けば、三界の法をやがて理と説くべき也。二つを置きて不二と説く(は)、世間の心得様也。三界万法は一心の所作と云いて、一一の上に心を置きて唯心と云う。今は不可然、一心の上にこそ、三界を談ずれ(ば)、三界与心(は)能所の法にあらず。

経豪

  • 各一法究尽の理現成する時、今は「授記」の一法現成するなり。授記と云う事打ち任せて、人の心得ようは、修行功満じて後、作仏決定する時、何劫を経て後、可作仏。各々名号所居士等を被示すを、授記と思い習わしたり。今の仏祖所談の「授記」(は)非爾、「仏祖の授記参学せざる者(は)」、実にも今の「授記夢也未見なるべきなり」。
  • 「未発菩提心の者にも授記す」とは、争か打ち任せては(あら)ざる授記あるべき。是は菩提心を発不発の沙汰に不可及。此の「未発菩提心」の姿が、やがて「授記」にてあるなり。対人発不発の義を非論、発菩提心菩提心発と談ぜしが如し。「無仏性、有仏性」の詞も、只授記の上の有無也。仏性の時、此の有無の沙汰ありき、不可違彼。「有身無身の授記」(は)、身を置きて有無と云うにあらず。「有身・無身」共に授記なるべし。「諸仏は諸仏の授記を保任す」と云う詞(は)難心得。祖門の授記の道理にては、如此云わるる也。機法の二つを並べて不談ゆえに、「諸仏は諸仏の授記を保任する」道理なるべき也。授記許りに不可限。已に『仏性』の草子の時も、仏性の内に具足する法なり。修行満ちて仏果菩提の現わるる所を成仏と云うと。打ち任せては談之。祖門(の)授記(は)只同事也。
  • 「得授記の後に作仏す」とこそは、打ち任せては心得られぬべけれ。然而此の授記のよう(は)不可然、「作仏の後に得授記すと不可参学」と云う事(と)、非各別物。又前後際断の授記なる上は、只一物の上の詞也(と)、可心得。授記がやがて作仏なるゆえに、「授記時に作仏あり」とは云うなり。「授記時に修行有り」と云うも、修行がやがて授記なるゆえなり。修行満じてこそ、打ち任すは作仏すと云う事はあるべきを、今は成仏も修行も差別なしと談ずるゆえに、「授記時に作仏あり、授記時に修行有り」と云えば、作仏与修行が各別にあらざる道理(と)聞こえるなり。所詮又授記が作仏とも、修行とも云わるる也。「自己に授記す、身心に授記‘す」とは、此の自己と云わるる自己は非吾我、尽十方界の自己也。自己授記なるべし、身心以同前なり。「飽学措大」とは満足したる詞也。授記をよく学しつれば、「仏道に飽学措大也」と云う也。
  • 此の「身」と云う詞(は)、委しく前に釈之。今の「身前身後」(の)前後(は)、被吾我(の)前後。授記の上の前後なるべし。此の「知不知」(は)、又凡慮の知不知に不可拘。授記の上の知不知なるべし。ゆえに知は善く、不知は科(とが)なるべからず。会不会程の詞也。授記(と)自己(は)只一物なるゆえに、「授記は自己を現成せり、授記これ現成の自己也」とはあるなり。
  • 如文。
  • 此の「山河大地、須弥巨海」の当体が、やがて授記なるゆえに、如此云わるるなり。「張三李四」は姓也。各別したる姓也。是は「須弥巨海・山河大地と授記」とが、只一物なる道理を説く時、張三李四の如く各別ならざる証拠に被引也。張三喫酒李公酔と云う詞あり。是は張三が飲みたる酒に、側(そば)なる李公が飲まざる酒に酔いたる事を被引は、法の自他なき道理を表さん料り也。是は各別にあらざる事を云わんとて、相違したる「張三李四なき也」とは云う也。
  • 右に如云、授記(の)打ち任すは、修行(の)功満じて、成仏すべき期を、授記するとこそ心得るに、此の授記の姿は、「道得一句、聞得一句、乃至不会会取一句也」とあり。授記の姿は、我々が上に得難き事也とこそ、思い習わしたりつるを、今の授記の道理にては「道得一句も授記なり、聞得一句も授記なり。不会一句も、会不会」共に授記なるべし。今の授記の道理(は)、尤も可然。一法としても、授記にあらざるなしと上にあり、有謂事也。
  • 「進退」共(に)授記なり、「得坐披衣も合掌頂戴」も。聊かの作業とこそ心得つるを、今は是等皆授記也と云うなり。『法性』草子に、「著衣喫飯言談等、皆是法性也」と云いしが如し。

 

 佛言、それ授記に多般あれども、しばらく要略するに八種あり。いはゆる、瓔珞第九、八種授記あり。

 一者、自己知、佗不知。己知佗不知者、發心自誓未廣及人、未得四無所畏、未得善權故。二者、衆人盡知、自己不知。衆人盡知、己不知者、發心廣大得無畏善權故。三者、自己衆人、倶知。皆知者、位在七地、無畏善權、得空觀故。四者、自己衆人、倶不知。皆不知者、未入七地、未得無著行。五者、近覺、遠不覺。遠者不覺者、彌勒是也。諸根具足、不捨如來無著之行故。六者、遠覺、近不覺。近者不覺者、此人未能演説賢聖之行、師子膺是也。七者、倶覺。近遠倶覺者、諸根具足、不捨無著之行、柔順菩薩是也。八者、倶不覺。近遠倶不覺者、未得善權、不能悉知如來藏、等行菩薩是也。

 餘經又云、近知者。從現佛得記也、如彌勒等。遠知者。不從今佛、從當佛得記。如佛語弊魔、彌勒當與汝記。遠近倶知者。今當佛倶與記也。近遠倶不知者。今當佛倶不記也。

 かくのごとくの授記あり。

 しかあれば、いまこの臭皮袋の精魂に識度せられざるには授記あるべからずと活計することなかれ、未悟の人面にたやすく授記すべからずといふ事なかれ。よのつねにおもふには、修行功滿じて作佛決定する時授記すべしと學しきたるといへども、佛道はしかにはあらず。或從知識して一句をきゝ、或從經巻して一句をきくことあるは、すなはち得授記なり。これ諸佛の本行なるがゆゑに、百草の善根なるがゆゑに。もし授記を道取するには、得記人みな究竟人なるべし。しるべし、一塵なほ無上なり、一塵なほ向上なり。授記なんぞ一塵ならざらん、授記なんぞ一法ならざらん、授記なんぞ萬法ならざらん、授記なんぞ修證ならざらん、授記なんぞ佛祖ならざらん、授記なんぞ功夫辦道ならざらん、授記なんぞ大悟大迷ならざらん。授記はこれ吾宗到汝、大興于世なり、授記はこれ汝亦如是、吾亦如是なり。授記これ標榜なり、授記これ何必なり。授記これ破顔微笑なり、授記これ生死去來なり。授記これ盡十方界なり、授記これ徧界不曾藏なり。

詮慧

〇「一者、自己知、他不知」と云うは、自己も我等が吾我に対したる自にあらず。知も慮知の知に非ず、不触事而知の知也。ゆえに授記と云わるるなり。いま「自己ぞ、他ぞ、知ぞ不知ぞ」と云う事は、自己に授記すと云い、又自己に知られぬ、知らしむる授記と云い、他をして知らしめざる授記ありなどと云いつる詞に付けて、引此文也。不可同世間。

「二者、衆人尽知、自己不知」と云うは、衆と云えばとて、その事となく、人の多く集まりたるにはあらず。諸仏とも云い、一仏とも云うは、多少の義に非ず、これほどの衆なり。

三者、自己衆人、倶知」と云うは知の上の自己与衆人なり。

「四者、自己衆人、倶不知」、知を不知とも仕う也。

「五者、近覚、遠不覚」と云うは、自己の上に置きて知不知を論ずるこそ、遠近の差別はあれ。諸法実相の時、いづくを本としてか、遠とも近とも説くべき。覚も十方仏土中、唯有一乗法と云えば、覚不覚(の)義(は)、俱に不可準世間(の)詞也。

「六者、遠覚、近不覚」と云うは、子細同上。

「七者、倶覚」と云う。

「八者、倶不覚」と云うは、この二つは衆人俱知不知にて心得べし。都て八種の授記無差別なり。

〇「今この臭皮袋の精魂に、識度せられざるには、授記あるべからずと、活計する事なかれ」と云う、此の詞を聞きては、吾我の身心に仰せて心得るゆえに、さては授記蒙ること、始めて悦ぶべきにあらず。もとよりの授記人なりと思う(は)、僻見なり。今の「臭皮袋」と云わるるは、この授記の様を聞きつる後の「臭皮袋」なるゆえに、日来の吾我を包み持ちたりつる皮袋にはあらざるべし。知不知、覚不覚(は)皆授記也。

〇「未悟人面に、たやすく授記あるべからずと云う事なかれ」と云い、「未悟人面授記すべからずと云う事なかれ」と聞く時、すでに解脱の人面なれば、世間に云う未悟人なるべからず条顕然なり。もしかく聞けども猶心得ずと云い難きありとも、たとえば授記の名字則(即)の位が、「或従知識、或従経巻の授記」と云うは、今(の)「未悟人面授記すべからずと云う事なかれ」と云う詞を聞くなり。此の外の或従知識、或従経巻あるべからず。不覚の上(に)授記あり、未悟の受記なかるべきにあらず。未悟と云うも我等が未悟にはあらざるべし。我等と云う時は、吾我を離れざれば、授記の機に能わず、漏れたるに似たり。しかあれども、受記の方には、吾我と云う事を置かねば、我を隔てずと習うなり。如此云えば、又教の方の詞にも、理に仰せ事に仰せて云う事あり。又仏法の方より云う時は、諸法漏らさず、草木国土悉皆成仏と云う。仏見に約し、衆生に約すること如此。しかれども能見所見あり。見と云う物を置きて、仏見と云い、衆生見と云う時に、この宗門には相違するなり。

〇仏語を悟りと取り、迷妄の衆生見を惑いと下すこと無謂。衆生を迷と説くこそ、やがて悟りを説く詞なれ。仏見(の)衆生(見)と相違すべきにあらず。

〇「諸仏の本行なるが故に、百草の善根なるがゆえに」と云う、「諸仏の本行」とは、百草の残所なきをこそ云う時に、「百草の善根」とは云うなり。

〇「授記これ吾宗到汝、大興于世なり、授記はこれ汝亦如是、吾亦如是なり」と云う、この「吾宗」の詞を初祖に付け、「汝」の詞を二祖に付けば、只自他の見に拘わるべからず。ゆえに付き下の詞には「汝亦如是、吾亦如是」と云う。

〇「授記これ標榜なり、授記これ何必也」と云う、「標榜」とは、標(しる)しなる時に授記をもと、悪しく心得て、未来の事を云うと思うが如く也。標しとは物の正しくならぬ已前に現したる事を云うかと覚えたるを、やがて授記とは指す也。「何必」)も)同心也。

〇「授記なんぞ大悟大迷ならざらん」と云うは、此の「大迷」(は)又我等が迷にあらず。大悟の大迷也。ゆえに授記也。凡そ説行証の三つを立てず。故に授記も未来を約束する義にてはなし。説の所に行証あらわるるが如く、授記は仏也。仏なるゆえに、山河とも巨海とも説かる。坐禅(の)坐禅なる程の事也。

経豪

  • 是瓔珞経(実際は『妙法蓮華経文句』第七上「大正蔵」三四・九七b二・注)の文歟。是は自他与知不知、衆人自己知不知、近覚遠不覚等の詞あり。所詮今の「自他」(は)授記のうえの自他知不知、又迷妄の知不知なるべからず。「遠近覚・不覚」(は)共に授記の上の道理なるべし。
  • 如前云、「授記」と云う事は、今の修行の功に酬いて、未来可作仏ようを、授け給うをこそ、幾たびも授記とは心得付けたるを、「この臭皮袋の精魂に授記あるべしとは覆えざる所を」、如此被嫌也。未悟の人面にも、授記あるべしとは覚えず。実にも授記の外に余る一法なからん上は、未悟の人面ぞ、臭皮袋の精魂ぞなどと嫌う物あまた出で来たせば、仏祖の授記と云う事は、其理(を)皆破るべし尤有謂也。
  • 如文。一句を見聞するを授記とは、打ち任すは難云、但仏祖の一句と云う詞は、いかにと可心得ぞ。一句なれば少しく不足に、万句は多く満足したりとは不可心得。仏祖の一句の外に、惣て欠けたる義不可有。此の一句半得(の)授記なるべき道理(は)必然なり。此の「得授記」の道理が、「諸仏の本行なる也」。「百草の善根」と云うも、諸仏本行と云う程の道理也。
  • いま授記の道理を参学せん人(は)、皆「得記人、究竟人なる」べき条(は)勿論也。公界の調度なる授記の理に暗くして、迷妄の方を執して、此の吾我の身心にては、争か得記人なるべき、究竟人にあるべからずと思う所が、今の授記の道理に背く所を被制也。此の身心は皆授記の理に被罣礙、蔵身したるなり。返々憑敷事也。一塵の法なを無上なるべからんには、「授記争か(なんぞ)一塵ならざらん、授記争か(なんぞ)一法ならざらん」と、各々(の)法を被挙也。「功夫辦道」は学行の位とこそ覚えたれども、今は「授記なんぞ、功夫辦道ならざらん」とあり、勿論事也。
  • 是は黄檗臨済に法を許可し給いし時の詞也。実是授記なるべし。乃至「授記はこれ汝亦如是、吾亦如是なり。授記これ標榜なり、授記これ何必なり。授記これ破顔微笑なり、授記これ生死去来なり。授記これ尽十方界なり、授記これ徧界不曾蔵也」とあり、ここには百千無量の詞を挙げんも、皆授記の理あらわるべきなり。

 

 玄沙院宗一大師、侍雪峰行次、雪峰指面前地云、這一片田地、好造箇無縫塔。玄沙曰、高多少。雪峰乃上下顧視。玄沙云、人天福報即不無、和尚靈山授記、未夢見在。雪峰云、儞作麼生。玄沙曰、七尺八尺。

 いま玄沙のいふ和尚靈山授記、未夢見在は、雪峰に靈山の授記なしといふにあらず、雪峰に靈山の授記ありといふにあらず、和尚靈山授記、未夢見在といふなり。

 靈山の授記は、高著眼なり。吾有正法眼藏涅槃妙心、附囑摩訶迦葉なり。しるべし、青原の石頭に授記せしときの同參は、摩訶迦葉も青原の授記をうく、青原も釋迦の授記をさづくるがゆゑに、佛々祖々の面々に、正法眼藏附囑有在なることあきらかなり。こゝをもて、曹谿すでに青原に授記す、青原すでに六祖の授記をうくるとき、授記に保任せる青原なり。このとき、六祖諸祖の參學、正直に青原の授記によりて行取しきたれるなり。これを明々百草頭、明々佛祖意といふ。

 しかあればすなはち、佛祖いづれか百草にあらざらん、百草なんぞ吾汝にあらざらん。至愚にしておもふことなかれ、みづからに具足する法は、みづからかならずしるべしと、みるべしと。恁麼にあらざるなり。自己の知する法、かならずしも自己の有にあらず。自己の有、かならずしも自己のみるところならず、自己のしるところならず。しかあれば、いまの知見思量分にあたはざれば自己にあるべからずと疑著することなかれ。いはんや靈山の授記といふは、釋迦牟尼佛の授記なり。この授記は、釋迦牟尼佛の釋迦牟尼佛に授記しきたれるなり。授記の未合なるには授記せざる道理なるべし。その宗旨は、すでに授記あるに授記するに罣礙なし、授記なきに授記するに剩法せざる道理なり。虧闕なく、剩法にあらざる、これ諸佛祖の諸佛祖に授記しきたれる道理なり。

 このゆゑに古佛いはく、

  古今擧拂示東西  大意幽微肯易參

  此理若無師教授  欲將何見語玄談

 いま玄沙の宗旨を參究するに、無縫塔の高多少を量するに、高多少の道得あるべし。さらに五百由旬にあらず、八萬由旬にあらず。これによりて、上下を顧視するをきらふにあらず。たゞこれ人天の福報は即不無なりとも、無縫塔高を顧視するは、釋迦牟尼佛の授記にはあらざるのみなり。釋迦牟尼佛の授記をうるは、七尺八尺の道得あるなり。眞箇の釋迦牟尼佛の授記を點撿することは七尺八尺の道得をもて撿點すべきなり。しかあればすなはち、七尺八尺の道得を是不是せんことはしばらくおく、授記はさだめて雪峰の授記あるべし、玄沙の授記あるべきなり。いはんや授記を擧して無縫塔高の多少を道得すべきなり。授記にあらざらんを擧して佛法を道得するは、道得にはあらざるべきなり。

 自己の眞箇に自己なるを會取し聞取し道取すれば、さだめて授記の現成する公案あるなり。授記の當陽に、授記と同參する功夫きたるなり。授記を究竟せんために、如許多の佛祖は現成正覺しきたれり。授記の功夫するちから、諸佛を推出するなり。このゆゑに、唯以一大事因縁故出現といふなり。その宗旨は、向上には非自己かならず非自己の授記をうるなり。このゆゑに、諸佛は諸佛の授記をうるなり。

 おほよそ授記は、一手を擧して授記し、兩手を擧して授記し、千手眼を擧して授記し、授記せらる。あるいは優曇華を擧して授記す、あるいは金襴衣を拈じて授記する、ともにこれ強爲にあらず、授記の云爲なり。内よりうる授記あるべし、外よりうる授記あるべし。内外を參究せん道理は、授記に參學すべし。授記の學道は萬里一條鐵なり。授記の兀坐は一念萬年なり。

 古佛いはく、相繼得成佛、轉次而授記。

 いはくの成佛は、かならず相繼するなり。相繼する少許を成佛するなり。これを授記の轉次するなり。轉次は轉得轉なり、轉次は次得次なり。たとへば造次なり。造次は施爲なり。その施爲は、局量の造身にあらず、局量の造境にあらず、度量の造作にあらず、造心にあらざるなり。まさに造境不造境、ともに轉次の道理に一任して究辦すべし。造作不造作、ともに轉次の道理に一任して究辦すべし。いま諸佛諸祖の現成するは施爲に轉次せらるゝなり。祖師の西來する施爲に轉次せらるゝなり。いはんや運水般柴は、轉次しきたるなり。即心是佛の現生する轉次なり。即心是佛の滅度する、一滅度二滅度をめづらしくするにあらず、如許多の滅度を滅度すべし、如許多の成道を成道すべし、如許多の相好を相好すべし。これすなはち相繼得成佛なり、相繼得滅度等なり。相繼得授記なり、相繼得轉次なり。轉次は本來にあらず、たゞ七通八達なり。いま佛面祖面の面々に相見し、面々に相逢するは相繼なり。佛授記祖授記の轉次する、回避のところ、間隙あらず。

 古佛いはく、我今從佛聞、授記莊嚴事、及轉次受決、身心遍歡喜。

 いふところは、授記莊嚴事、かならず我今從佛聞なり。我今從佛聞の及轉次受決するといふは、身心遍歡喜なり。及轉次は我今なるべし。過現當の自佗にかゝはるべからず、從佛聞なるべし。從佗聞にあらず。迷悟にあらず、衆生にあらず、草木國土にあらず、從佛聞なるべし。授記莊嚴事なり、及轉次受決なり。轉次の道理、しばらくも一隅にとゞまりぬることなし。身心遍歡喜しもてゆくなり。歡喜なる及轉次受決、かならず身と同參して遍參し、心と同參して遍參す。さらに又、身はかならず心に遍ず、心はかならず身に遍ずるゆゑに身心遍といふ。すなはちこれ徧界徧方、徧身徧心なり。これすなはち特地一條の歡喜なり。その歡喜、あらはに寤寐を歡喜せしめ、迷悟を歡喜せしむるに、おのおのと親切なりといへども、おのおのと不染汚なり。かるがゆゑに、轉次而受決なる授記莊嚴事なり。

詮慧

〇玄沙院宗一大師与雪峰問答段

「行次、雪峰指面前地云、這一片田地、好造箇無縫塔。玄沙曰、高多少。雪峰乃上下顧視。玄沙云、人天福報即不無、和尚霊山授記、未夢見在。雪峰云、儞作麼生。玄沙曰、七尺八尺」、雪峰無縫塔と云う、「無縫」は心得べきようあり。遍法界とも説き、三界一心なりとも説く。これ「無縫」の詞也。一片の田地に際源ありと不見心外無別法と説く程の事也。「無縫塔」は雪峰の授記也。仏より相伝の授記と云わば、縫目もや、出で来たらんずらん不審也。只雪峰の授記と云うべし。「面前地一片田地」とは、三界とも、尽十方界とも云わんが如し。「好造箇無縫塔」と云うは、心外無別法と説くが如し。雪峰の詞は無残所、諸法を説き尽すなり。「高多少」この詞は、如是是仏と云う程の事也。「上下顧視」すと云えば、分量の沙汰に不及、只上下を顧視する許り也。今の無縫塔の分ぞ、上下顧視にてはあるべき。「人天福報は即不無」と云うは、作業に関わる様に聞こゆ。但この「福」と云うは、後生に得するなどと云うに非ず。無縫塔の詞を聞きつるか、人天の福にてある也。「見六道衆生、貧窮無福恵」(『総持抄』澄豪撰「大正蔵」七七・六三b一七・注)と云うは、今(の)無縫塔の詞を不聞衆生なるべし。

〇「高著眼」と云うは、許多手眼と云いし詞也。此の「眼」は仏法の眼、授記の眼也。尽十方界一隻眼と云う眼なり。所対の境を置いて見歟不見歟。如此云わば、「霊山授記も夢也未見在」とこそ言わめ。仏の法を迦葉に附属する時、仏は在るか無きか。若し仏の皮肉を迦葉受くと云わば、迦葉在りや無しや。仏とや云うべき、迦葉とや云うべき。汝得吾皮肉骨髄也、吾亦如是汝亦如是と心得也。この道理を「霊山の授記は、夢也未見在」と云う也。仏(が)外道に問答の時、我行無師法と被仰心地ぞ。今の「霊山の授記、夢也未見在」には当るべき。

〇「吾に正法眼蔵有り」と云う(は)、吾は正法眼蔵也。たとえば正法眼蔵正法眼蔵ありと云わんが如し。仏に正法眼蔵のあるにはあらず。正法眼蔵の上に、仏もあるべし祖もあるべし。

〇「未合なるに不授記」とは、仏々に授記するを合すと仕う。しからざらんには未合なるべし、ゆえに仏の授記(は)仏に授記し、雪峰の授記(は)雪峰に授記するなり。

〇「授記あるに授記するに罣礙なしと云い、授記なきに授記するに、剰法せざる道理也」と云うは、授記に授記すれば、罣礙なきは云われたり。授記なきに授記せん、などが剰法なかるべきと聞こゆ。然而有に授記し、無に授記する時に、その上は実に剰法と難云。仏法の上の有無なるゆえに、衆生無仏性、衆生有仏性程の事也。

〇六祖の下に南嶽は授記有り、青原は授記無しとも云わんが如し。南嶽は有を解脱し、青原は無を解脱する程の義也。

〇「古仏云、古今挙払示東西、大意幽微肯易参。此理若無師教授、欲将何見語玄談」

此の段、無別義。先の玄沙と雪峰との、無縫塔の事を、重ねて釈する証拠に被引之歟。諸仏諸祖に授記し来れる道理也。このゆえに「古仏云、古今挙払示東西」とある也。雪峰の問答に、得失勝劣のあるに非ず。雪峰(と)玄沙(の)相互に証明する一句の道得也。不審の非問答也。

〇「釈迦牟尼仏の授記を点撿する事は七尺八尺」と云うは、先の雪峰の詞をば霊山の授記未夢見在と云い、今の授記は「七尺八尺」と云えば、此の七尺八尺と云うぞ。まことの授記と云うに似たれども、只是は仏性の上に有とも説き、無とも説き、衆生とも云い、蚯蚓とも仕うが如し。総て雪峰与玄沙(の)勝劣あるべからず。師勝資強と云うべし、得皮肉骨髄也、亦如是・汝亦如是の道理也。斯く心得ぬる上は、霊山の授記を未夢見在と云えばとて、褒めたりとも、謗りたりとも云うべからず。「八尺七尺」の詞も、又以同。霊山の授記も有と云うべき道理もあり、無と云うべき道理もあり。たとえば仏性の有無これ同じ。仏の国々名号の授記有りし事は、授記の一分也。国々名号に限りたる授記あるべからず。「無縫塔」の詞(は)授記也。「上下顧視」も授記なり。「七尺八尺」も授記なり。「無縫塔を高多少」と云い、又「顧視」するも、只今際限の分を云わぬは、仮にてこそあれ。「上下とも七尺八尺とも、高多少」とも云うを、世間の詞になぞらえて心得は、猶塔の際限あり、「五百由旬にあらず」と云う時に、「上下も高多少」も只上々下々、高々多々、少々と一つづつに心得べし。面々授記の詞也。各一句の道得也。問いとなり、答えとなるにはあらず。無縫塔に付きて、高多少と云わず、高多少の詞に付きて、上下顧視にあらぬなり。授記の上にある霊山雪峰なれば、道理未夢見在也。

〇「当陽に、授記と同参する」とは、明らかに当るとなり。

〇「古仏云、相継得成仏、転次而授記」、仏の仏に成るを「相継」とは説き、「転次而授記」と説く也。「転次」は大地有情同時成道と可心得。世間に仰せて心得には、ただ次々に廻ると覚ゆ。是は「転」を転は得、「次」を次は得なり。

〇「即心是仏滅度する」と云うは、上に「現生する転次」とあるゆえに、ここには「滅度」と仕う也。

〇「如許多の滅度を滅度すべし」とは、すでに「即心是佛の滅度する、一滅度二滅度をめづらしくするにあらず」と云う。是は全滅の義也。仏滅は度数に拘わるべからず、全滅なるべし。仏は往来娑婆八千返のなどと被仰ぐ、この心也。照東方万八千世界などと云う同じ意也。

〇「古仏言、我今従仏聞、授記荘厳事、及転次受決、身心遍歓喜

「荘厳」とは、授記の時、国々名号を説く時の荘厳の事也。「及転次受決」の「決」は作仏也。其の時「身心歓喜」也。この「身心遍歓喜」と云うは、又汝得吾皮肉骨髄にてもあるべき也。仏と衆生と各別して、「我今従仏聞」にはあらず。但此の時より、やがて「我今従仏聞も遍歓喜なる」なり。

〇仏の聞なれば、能聞所聞にあらず、仏聞には授記也。「荘厳事」は只授記の上に仕う、国々名号を説荘厳也。「及転次受決」と云う、是又次第相伝などとする転次にてなし、転次而授記の所に明かすが如し。此の「身」は尽十方界真実人体の「身」也。この「心」は三界唯心の「心」也。其の時「遍」と云うに足らず、可悦心いづくにか置く。法華一乗の「心」を以て、「我今従仏聞も身心遍歓喜」も心得べし。この「遍歓喜」を「不染汚」と云う。

経豪

  • 是は雪峰・玄沙(の)師資問答也、文に聞こえたり。「無縫塔」の詞いと不被心得、只所詮無辺際(の)心地歟。「玄沙、高多少」の詞(は)、又如何是、又際限なき詞也。「乃至上下顧視」の姿(は)、是又滞る所あるべからず。于茲「人天の福報不無、和尚霊山授記、未夢見在」とあれば、人天の福報はありとも、霊山授記は、未得給と、師の雪峰を下したるように聞こゆ。大方も争か飾る事あるべき。今の「人天の福報」と云うも、今の人天有漏の法は不可心得。授記の上の被報也。「霊山授記」と談ずる時は、和尚は霊山授記に隠れて、「未夢見在」の道理なるべし。「和尚授記」の理の現るる時は、「霊山授記は、又未夢見在」なるべし。所詮一方を証すれば一方は暗き道理なり。「作麽生」の道理(は)、又先々事旧了。授記の道理が作麽生と云わるるなり。又「玄沙の七尺八尺」の詞、是又寸尺等に拘わるべきにあらず。火爐闊とありし時、七尺八尺と云いし詞に、不可違。只同事なるべし。
  • 「高著眼」とは、高く隠れざる眼と云う詞也。今の「吾有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉」、則ち「著眼」の心なるべし。
  • 青原の石頭に授記せしとあるは可然。「石頭に授記せし時の同参は、摩訶迦葉も青原の授記を受く、青原も釈迦の授記を授くるがゆえに」とあり、此の詞大いに被驚ぬべし。但授記の所談の様、今更此の不審に不可滞。尤も摩訶迦葉も青原の授記を受くる道理あるべし。乃至七仏も、青原南嶽の授記を受くるとも云いぬべし。始めて非可驚。四十仏四十祖などと数えしに不可違也。「正法眼蔵附属有在」は、釈尊与迦葉間とこそ思いしかども、今の授記の道理の上は、「仏々祖々の面々に、正法眼蔵附嘱有在なるべき」也。
  • 無殊子細、如文。代々授記の道理を以て、「明々百草頭とも明々仏祖意」とも云うなり。此れは古き詞也。「明々仏祖意」は謂われあり。「明々百草頭」の詞(は)、不被心得ぬとyなれども、詮は塵々法々などと云う程の義なり。
  • 「百草与仏祖」(は)、各別なるようなれども、只一物なるべし。「吾汝」等との百草仏祖なるべし。吾亦如是、汝亦如是(は)、只一体なるべし。
  • 「みづから具足する法、自ら必ず知る事なし」、刹那に生滅しもて行くも、最後身菩薩にあらざれば、知る事なし。乃至往住坐臥に具足する法、自ら知る事なし。世間の法すら猶如此。「今の知見思量分にあらざれば、自己に不可有と、疑著する事なかれ」とは、今の授記(は)自己の分に能わず、過分也と思う事なかれと云う也。授記の道理の方よりは、此の自己則ち授記也。授記にあらざる一法、あるべからざる上は、自己の分に能わずとて、授記を別の法に思う事が、甚だ授記の理を隔つるなり。
  • 霊山百万衆々会の中にして、釈尊優曇華を拈じて、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶大迦葉と被仰ぎ、迦葉破顔せし姿(を)。尤も授記の至極と云いぬべし。但此の道理は、只「釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏に授記し御す」道理なるべし。全く釈迦与迦葉(の)不可各別(は)、是授記の道理也。
  • 「授記の未合」と云う事あるべき事ならねども、所詮今の仏祖所談の授記の理ならでは、授記の道理にてはなき也と云う心地也。世間に心得る授記の道理などとを蹔く「未合」などと名づくべきやらん。
  • これは「授記あるに授記するに罣礙なし、授記なきに授記するに剰法せざる道理」とは、授記が二重に重なりたるように聞こゆ。授記の理(は)重なればとて、二重なるべきにあらず。一なればとて不足なるべきにあらず。授記の上に、有無の詞あり。是は仏性の上に有仏性、無仏性を談ぜしが如し。只ここの本意は、授記の道理(は)「虧闕なく、剰法にあらざる」道理を述べん料り也。又「諸仏祖の諸仏祖に授記し来れる道理也」とは、諸仏祖の当体(は)、則ち授記なるゆえに如此云わるる也。
  • 是は古き祖師の詞(『景徳伝灯録』二九「大正蔵」五一・四五六b・注)を被挙也。此の詞は所詮「若無師教授、欲将何見語玄談」と云う詞が、肝心と聞こゆる也。祖師の法は無師無言談などと云う族多く歟。尋師訪道(が)、尤も祖師の本意也。其の師の弟子に授くる法の道理こそ、無師独悟とも唯仏与仏とも云わるれ。
  • 是は「玄沙の高多少」の詞を被讃嘆也。実(に)「高多少」の詞(に)、辺際あるべからず。「五百由旬、八万由旬」等の量をば慣れたる「高多少」也。ここに雪峰の「上下を顧視するを嫌うに非ず」とは、玄沙(は)雪峰の上下顧視するを嫌いたる詞かと聞こゆ。霊山授記は、未夢見在などと云う所が、嫌われたるように聞く所を、「上下を顧視するを嫌わず」とは云うなり。此の「人天の福報」とは、授記の上の福報なるべし。「無縫塔高を顧視するは、釈迦牟尼仏の授記にはあらざるのみ也」とは、無縫塔高を顧視するは、只雪峰の授記にてこそあれ、「釈迦牟尼仏の授記にはあらず」と云う也。雪峰の授記、何の不足有りてか、釈迦牟尼仏の授記を奪わずとも、隠る所あらん。一方を証すれば一方は隠るる道理なるべし。是は「雪峰の無縫塔高を顧視する」を讃嘆する詞也。
  • 是は「玄沙の七尺八尺」の詞を被讃也。上には雪峰無縫塔高を顧視するを讃嘆し、ここには「七尺八尺」の玄沙の詞を被讃也。「釈迦牟尼仏の授記を点撿する事は、七尺八尺の道得を以て撿点すべき也」とは、今の授記の道理、七尺八尺の詞に満足したる所を如此被讃嘆也。
  • 如文。「七尺八尺の道得を是不是すべからず。雪峰の授記あり、玄沙の授記もあり」とは、上に「無縫塔高を顧視するは、釈迦牟尼仏の授記にはあらざるのみなり」と云うは、「雪峰の授記なり」。「真箇の釈迦牟尼仏の授記を点撿する事は、七尺八尺の道得を以て撿点すべき也」とあるは、「玄沙の授記なるべし」。
  • 如文。所詮授記の上に無縫塔の詞も、高多少の詞も、七尺八尺の言も道得する也。「授記の道得にあらざらんを挙して、仏法を道得するは、道得にはあらざる也」と云う。
  • 此の「自己」は授記なるべし。今の授記の道理を以て、「会取・聞取・道取する」を、現成公案とする也と云う心なるべし。
  • 「授記の当陽」とは、当体などと云う心地也。授記と授記と(が)同参すと云う程の詞なるべし。「授記を究竟せん為に、如許多の仏祖は、現成正覚し来たれり」とは、此の仏祖がやがて授記なるゆえに、如此云う也。「諸仏を推出す」と云うも、諸仏与授記が一物なる道理を「推出」とも云う也。全く別物を置きて推出する義にあらず、此の道理を「唯以一大事因縁故出現」ちは云う也。
  • 「非自己」と云う詞、今ふと指し出でたるように聞こゆ。是は前に「自己の真箇に自己なるを会取し聞取し道取すれば、定めて授記の現成する公案ある也」とあり。其の詞に対して、又「非自己」の詞を被出すれども、自己の上の非自己なるべし。会不会、見仏不見仏の理なるべし。此の「非自己の授記を得る」道理は、諸仏は諸仏の授記を得ると云う程の道理なるべし。
  • 此の「一手・両手・千手眼、乃至優曇華・金襴衣」等は、表す事にて是を捧げて、授記を授けんとするにはあらず。此の「一手・両手・千手眼」共に皆授記なり。「優曇華・金襴衣」等が、皆悉く授記なるゆえに、「強為にあらず、授記の云為也」とは云うなり。
  • 如文。内外共授記なる道理也。故に「内外を参究せん道理は、授記に参学すべし」と云う也。内も外も授記なるゆえに。
  • 是又いづくまでも、授記の道理(は)、無辺際義也。
  • 今授記の詞に付けて、此の法華経(『妙法蓮華経』序品「大正蔵」九・五b・注)の文を被引出也。「相継」と云うは、次第次第に相継て、伝供なんどするようなる事を云い付けたり。今の授記の上にも、彼を授記し授記するように、心得也。今の授記(は)非爾、成仏の姿を「相継」と云う也。釈迦牟尼仏のの釈迦牟尼仏に授記する姿(が)「相継」なるべし。
  • 「転次」の様、打ち任せて心得には異なるべし。是が彼へ転ずるを「転次」とは心得。今の「転次」は、「転得転、次得次也」と被釈。仏性のとき仏々聻なり性々聻也と談ぜし心地なり。「転得転は次得次」と心得也。此の時、改旧見、解脱の「転次」の道理を表す也。今の経文の「相継得成仏、転次而授記」、此の道理なるべし。「たとえば造次なり、造次は施為なり、施為は局量の造身にあらず、と造境にあらず」と被釈は不審なし。所詮たとえば「造次也」とは、喩えば授記也と云う心地也。「施為」(も)又授記也。授記は「局量の造身にあらず、局量の造境にあらず、度量の造作にあらず、造心にあらず」と云う也。
  • 造作の上に不造作、造境の上に不造境(は)尤もあるべし。見不見の道理(も)
    同じかるべし。所詮「造境不造境と云うも、造作不造作」と云うも、已前の「転次の理に一任して究尽」して可心得と云うなり。
  • 「諸仏祖の現成するは、施為に被転次」とは、諸仏諸祖(は)授記なるゆえなり。又「五仏六祖」とある詞ぞ、耳に立つ様に覚ゆれども、仏祖の皮肉の隔てなき道理、今始めて非可驚。其の上「五仏六祖西来」の義なし。旁ら驚耳に似たり。然而是又「五仏六祖西来の姿、西来すともせず」とも非可論是非。不西来と云わば、五仏六祖西来の姿、已に能所彼此ありぬべし、不可然事也。達磨不来東土、二祖不往西天と云いし程の詞なるべし。又「運水般柴」の当体やがて授記なるべし。
  • 「即心是仏の現生あるべし、即心是仏の滅度」と云う事、今の生滅に対したる詞に非ず。転次の上の生滅なるべし。滅度の上にも「如許多の滅度あるべし、如許多の成道あるべし、如許多の相好あるべき」也。詮は塵々法々の上に授記の理ある事を明かさるる也。此の道理を以て、「相継得成仏」とは云う也。相継得成仏と云う道理の上には、「得滅度。得授記、得転次」等の現あるべしと也。不可限是等、諸法此現なるべし。
  • 「転次は本来に非ず」とは、只去る物の固まりたるようにて、あるようには思うべからず。此の「転次」の道理(は)、「仏面にも祖面にも」渡るべし。ゆえに「いま仏面祖面の面々に相見し、面々に相逢するは相継也」とあり。「七通八達」とは、只通達の義也。七八の詞の用にはあらず。『仏性』の草子に、「仏之与性、達彼達此」と云いし程の義也。相継・転次・授記(は)只一物なるべし。「仏授記、祖授記の転次、かつて回避の所、間隙あるべからざる」道理なり。
  • 是は法華経四巻文(『法華経』五百弟子受記品「大正蔵」九・二九b・注)也。釈尊陳如已下、五百の声聞に対して、授記し給うを聞きて、身心歓喜したるように被心得たり。而今釈尊与五百声聞、自他にあらず。釈尊釈尊を従仏聞したる道理なるべし。ゆえに今の「我今従仏聞は授記荘厳事」也。自他を置きて是が彼に授記すとは不可心得也。此理を表す時、「授記荘厳事かならず我今従仏聞也」とは被釈也。詞の前後は常見解を離れん為也。
  • 如前云、五百声聞等、得仏の授記歓喜すと不可心得。唯仏与仏の授記の道理が、「及転次受決とも、身心遍歓喜」とも心得に、一理なる所が如此、「我今従仏聞の及転次受決すると云うは、身心遍歓喜」とは云わるる也。「及転次は我今なるべし」とあり、実(に)此の転次我今の道理、過現当の自他にあらざるべき条、勿論也。仏の授記を受けて、未来に成仏すべしと授記を受くると、心得ときは、争か過現当に拘わらざるべき。「従他聞にあらず、乃至迷悟・衆生・草木国土等にあらず」と云うは、などが此義なからんなれども、只「従仏聞なる授記荘厳事」と云わん時は、従仏聞にてありなん。彼是と不可云と云う(は)、一筋の義也。始終非可向背、此義先々常事也。称一方は一方は暗き心なり。
  • 如前云、「転次の道理、一隅を可守にあらず」、遍諸法に談ぜらるる也。
  • 歓喜なる及転次受決」とは、歓喜と転次受決と身と同参と遍参と心と身と無差別。一物なるがゆえに、如右く云わるる也。ゆえに「身心遍」と被決也。「身と同参して遍し、心と同参して遍参す。又身は必ず心に遍す、心は必ず身に遍す」とは、彼等皆無差別。一物なるがゆえに、あちこち入れ替えて談ずれども、更其理不相違也。
  • 今の道理が「界にも遍し、方にも遍し、身にも遍し、心にも遍する」也。「特地一条」とは、只一通りにて、又余物の交わらぬ道理を云う也。
  • 此の詞は「寤寐をやがて歓喜と談じ、迷悟をやがて歓喜」と云う也。ゆえに「親切なる」也。歓喜与寤寐、歓喜与迷悟(は)相互親切なるゆえに「不染汚也」とは云わるる也。此の道理を「転次而受決なる授記荘厳事也」とは云うなり。

 

 釋迦牟尼佛、因藥王菩薩告八萬大士、藥王、汝見是大衆中、無量諸天龍王夜叉乾闥婆阿修羅迦樓羅緊那羅摩睺羅伽、人與非人、及比丘比丘尼優婆塞優婆夷、求聲聞者、求辟支佛者、求佛道者、如是等類、咸於佛前、聞妙法華經一偈一句、乃至一念隨喜者、我皆與授記。當得阿耨多羅三藐三菩提。

 しかあればすなはち、いまの無量なる衆會、あるいは天王龍王、四部、八部、所求所解ことなりといへども、たれか妙法にあらざらん一句一偈をきかしめん。いかならんなんぢが乃至一念も、佗法を隨喜せしめん。如是等類といふは、これ法華類なり。咸於佛前といふは、咸於佛中なり。人與非人の萬像に錯認するありとも、百草に下種せるありとも、如是等類なるべし。如是等類は、我皆與授記なり。我皆與授記の頭正尾正なる、すなはち當得阿耨多羅三藐三菩提なり。

 釋迦牟尼佛告藥王、又如來滅度之後、若有人聞妙法華經、乃至一偈一句、一念隨喜者、我亦與授阿耨多羅三藐三菩提記。

 いまいふ如來滅度之後は、いづれの時節到來なるべきぞ。四十九年なるか、八十年中なるか。しばらく八十年中なるべし。若有人聞妙法華經、乃至一偈一句、一念隨喜といふは、有智の所聞なるか、無智の所聞なるか。あやまりてきくか、あやまらずしてきくか。爲佗道せば、若有人の所聞なるべし。さらに有智無智等の諸類なりとすることなかれ。いふべし、聞法華經はたとひ甚深無量なるいく諸佛智慧なりとも、きくにはかならず一句なり、きくにかならず一偈なり、きくにかならず一念隨喜なり。このとき、我亦與授阿耨多羅三藐三菩提記なるべし。亦與授記あり、皆與授記あり。蹉過の張三に一任せしむることなかれ、審細の功夫に同參すべし。句偈隨喜を若有人聞なるべし。皮肉骨髓を頭上安頭するにいとまあらず。見授阿耨多羅三藐三菩提記は、我願既滿なり、如許皮袋なるべし、衆望亦足なり、如許若有人聞ならん。拈松枝の授記あり、拈優曇華の授記あり。拈瞬目の授記あり、拈破顔の授記あり、靸鞋を轉授せし蹤跡あり。そこばくの是法非思量分別之所能解なるべし。我身是也の授記あり、汝身是也の授記あり。この道理、よく過去現在未來を授記するなり。授記中の過去現在未來なるがゆゑに、自授記に現成し、佗授記に現成するなり。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏、因薬王菩薩・・当得阿耨多羅三藐三菩提」段

法華経』の説く時を聞くに、只上中下根の菩薩の悟りを得る差別許り也。何事か法華の詮と不聞。方便品の十如是が実相と説く。故に但「聞法華経」と云えばとて、聞くことのありとは難云。聞彼聞是と云わば、能聞所聞ありぬべし。其の事と不聞を聞法の詮とするなり。一句一偈が一念也。妙法の「聞」は無所聞を指す。無所聞と云うは、能所なく吾我なきを指す也。又「一念」をもて、やがて「随喜」と仕う。随喜これ「授記」なり。斯く云うとき愚蒙のやから、法華経読誦、一句一偈を聞きつれば、これこそ「一念随喜」なれ。これ授記也と了見し、無所聞を為詮なれば、さらば聞かでありなんと云う(は)、浅猿事也。無能所無所聞(の)義が法華の詮と能く参学しての上の事也。我妙法随喜の身と覚えねばとて、他法(法華外也)随喜の身と云うべからず。「咸於仏前は、咸於仏中也」。やがて法華中也。

〇「人与非人の万像」と云うは、所求所解の区(まちまち)なる事也。しかれども、「如是等類は我皆与授記」と云えば漏るべからず。

〇「百草下種」と云うは(各々求法事也)

釈迦牟尼佛告薬王・・我亦与授阿耨多羅三藐三菩提記、段。

先の「如来滅度後」と云う事、能々可学なり。「何れの時を滅と云うべきぞ」。八相皆如来也、滅相は可棄歟。如何、八相互融と云う。「滅後」はいたづらに如来なき時とは心得まじ、滅後を世間の死後に習いて心得んは邪法なるべし。仏に三世を隔つる事なし。「一仏成道、観見法界、草木国土、悉皆成道」(『渓嵐拾葉集』「大正蔵」七六・五四九c二三・注)と云う、草木のあらんを、今は成仏の時刻と知るべし。草木を見るは、如来成道の朝なり。一仏の上天、是を草木の上天と心得べし。八相の義以之可准知也。

〇教にも応身の時こそ、八相とは談ずれ。法身の時八相なければ無滅相、成仏三世に拘わらねば入滅又三世に関わるべからず。滅とは五陰の離散を云うと心得は、わづかの人間の見也。人間を去るを滅とも云うべきか。仏すでに人間を去りて、入滅せさせ御しませども、常在霊鷲山と被仰れば、我等が離散の如くにはあらず。仏は又常住なるを滅と被仰ぎ、入滅しはつれば、常在霊鷲山なる故に、三蔵教には八十入滅と見る。通教には不然、重々に立之、別教には無量と説き、円教には都て不談入滅、勿論事也。

〇「如来滅度之後」は、いづれ時節到来なるべきぞ。「四十九年なるか、八十年中なるか。しばらく八十年中なるべし」と云うは、この疑いにて可知也。二千余年の星霜を、滅後と数うべからず。「四十九年」と云うは、化度利生の説法の時刻也。「八十年」と云うは、出胎より入涅槃に至るまで、八相の時刻也。これ互融なれば、四十九年も、八十年も共に滅後とも談ずべき也。五百塵点劫も同じかるべし。仏には無始無終、無前後、一方に難定哉。仏の時刻は不可似衆生。一念万年とも談じ、無縫塔の七尺八尺とも同時也。芥子に入須弥山、又其見同事也。「為他道せば若有人の所聞なるべし」と云う、「為他道」は若有人聞、「若有人聞」は、所詮法華也。

「一句一偈也」と云うは、法華の一因一果也。千万の句也とも偈也とも、「一念随喜」の謂われを説くは、「一偈也、一句也」これ唯有一乗法と云うがゆえに、句偈を聞きて、随喜すべし、とは心得まじ。「句偈随喜」を「若有人聞」なるべしと云うゆえに、「一句一偈随喜、皆若有人聞」也。

〇「我亦与授阿耨多羅三藐三菩提記なるべし。亦与授記あり、皆与授記あり。蹉過の張三に一任する事なかれ」と云う、張三李四などと云う詞は、させるあつる所なき詞なり、ゆえに「張三に一任せしむることなかれ」と云う。是は化一切衆生、皆令入仏道の義也。

〇「若有人聞ならん、拈松枝の授記あり」と云うは、この「有人」は所聞也。有智無智等の所聞には非ず。

〇「如許皮袋」と云うは、若有人聞の人也。無際限を「如許」と云う。

〇「松枝の授記」と云うは、迦葉伝正法眼蔵時、拈優曇華とも云う。又松枝を拈じ御しとも云う此事也。

〇「靸鞋の転授」とは、附法の時、鞋の方々(かたがた)をもて、授記したる事のある也。この蹤跡也。

「そこばくの思量に分別之所能解」と云う、是我等が思量にあらざるなり。

「我身是也の授記、汝身是也の授記」と云うは、顕本して我昔は何れにてありき。汝は又何れにてありし、と云う事也。法華の面如此、所詮吾亦如是、汝亦如是也。

〇「衆望亦是」なれば、「我身是也の授記、汝身是也の授記」なり。

〇「自授記に現成し、他授記に現成する也」と云う、「見授阿耨多羅三藐三菩提記は、我願既満也」。これ自授記なり、他授記は「衆望亦是」なるべし。是授記中に剜来する也。

経豪

  • 経文の面は、如右挙。於無量集会中、釈尊の妙法華経を説かるるを聞きて、「一念随喜せし者、皆与授記。当得阿耨多羅三藐三菩提」と見たり。実に此の一分の義なかるべきにあらず。但法華の心地は、能説の釈尊、所説の法を聴法の衆、各別に置かるべしや。ゆえに「今の無量なる衆会、或いは天王龍王、四部、八部、所求所解ことなりと云えども、誰か妙法にあらざらん」とは云う也。是皆法華同体なるゆえ也。一句一偈又多少に拘わるべからず。仍て「いかならん汝が、乃至一念も、他法を随喜せしめん」とは云う也。他法更不可相交。ゆえに如此被云うなり。「如是類」と云わるる類、「是法華類也」。
  • 如文。「咸於仏前」と云えば、猶仏前に聴法集会したる様に聞こゆ。今の咸於仏前の前は前後際断したる前なるべし。ゆえに「咸於仏中」と心得也。無量の衆会と云うとも、「百草に下種せる有りとも、如是等類なるべし」、一分も法華の外なる物ありと不可心得也。
  • 「如是等類」を、各別に心得て、彼等に「我皆与授記す」と心得は、「頭正尾正」なるべからず。今は「如是等類と我皆与授記」とが非各別、相対の義を離れて、一物なる所を、「頭正尾正」とは云う也。此の道理を所詮「当得阿耨多羅三藐三菩提」とは云うなり。
  • 此の詞大いに動執生疑せらる。其の故は四十九年は説法利生の時分、八十年は在世の時節とこそ心得に、今は「如来滅度後」とて、説法四十九年並び在世八十年の時節を被挙、事尤不審也。但釈尊の在世滅度、是又差別相違の法にあらず。経説已に分明、常在霊鷲山、及余所住処ともある上は勿論事也。説法の年記も五十年四十九年、経説不同歟。入滅も或八十、或八十三、或七十九、異説也。然而「しばらく八十年中なるべし」と云うなり。
  • 如前云、此の経文の面は、有人法華経を聞きて、「一偈一句一念随喜の者」ありと聞こえたり。能説所聞の差別あるべからず。法華の上の一偈一句、総て多少浅深あるべからず。一微塵と説くも、無量億劫と云わんも、数量に滞るべからず。所詮今の法華を「若有人聞」と指す也。たとえば此の「若有人聞」は、是什麽物恁麽来の道理なり。何を指して「若有人聞」と云うにはあらず。此の「一偈一句、一念随喜」(は)、又只同物なり。全能聞の人が、所聞の法を随喜すと不可心得なり。ゆえに「有智無智」、乃至あやまり・あやまらずの沙汰あるべからず。只若有人聞(の)妙法華経なるべし。故に「有智無智等の諸類也とする事なかれ」とは被決也。
  • 是は如文。詮は法華経の無量無辺と云うも、只一句一偈なるべし。「一句一偈」は不足に、「無量」は多かるべしと不可心得。一句の外に更(に)あまる一法あるべからず。「一念随喜」又同じ、此理を以て、「我亦与授阿耨多羅三藐三菩提」と云う也。
  • 此の「亦与授記、皆与授記」の詞は、右の経文の両段を被挙、素の詞を被取出也。詮は是等の詞一理なるべし。張三に一任せざるべしと云う也。
  • 「句偈随喜」(は)、彼此の聞不聞にあらず。「句偈随喜を若有人聞」と談ず也。「頭上安頭」と云うは只一物也。されば法の喩えに取る時も、ここには猶「頭上安頭」と云えば、両物が重なりたる心地も、聊か迷いぬべし。せめて「句偈随喜」等の隔てなく、一物なる道理を、今一重親切に表さんとて、ここには「頭上安頭するに、いとまあらず」と云わるれども、始終此の詞を嫌うにはあらず。
  • 是は「阿耨多羅三藐三菩提記を授け給うを見て、我願既満、衆望亦足」と悦ぶを、ここには見授阿耨多羅三藐三菩提と云いしかども、被心得ぬべし。只所詮此の道理は、「我」と「衆」とが各別に聞こゆる所を、「我願の我」も「如許皮袋」なり。「衆望亦足の衆」も若有人聞なるべし。「若有人聞」は、能聞所聞なるようなる所を、若有人をやがて所聞と談ずる所を、「若有人聞なるべし」とは云う也。此理(は)又「見授阿耨多羅三藐三菩提」なるべし。
  • 正法眼蔵には、是法思量分別とあり、非の詞を被略。経には「是法非思量分別之所能解(『法華経』方便品「大正蔵」九・七a二〇・注)とあり。所詮そこばくの思量分別とある上は、非思量の面目、又嫌わるべき物にあらず、是れ授記なるべし。仍て経の「非」の字も嫌う詞とは不可心得也。思量の上の非思量、于今始めざるべし。是等(は)皆授記の道理なるべし。是等を是法非思量分別之所能解なるべしと云う也。経文は是法非思量とあり、是は非の詞を被略。実にも「拈松枝、拈優曇華」等を、やがて「是法思量分別之能解」と談ずる上は、「非」の詞あるべき様なし。経には「此甚深微妙なるあいだ、我等が思量分別の及ぶ所にあらず」とあり、ゆえに「非」の詞はある也。
  • 是は「我身・汝身」、皆授記の上の義也。「過去・現在・未来」(も)、又授記なるべし。打ち任せて、立つる三世にあらざるべし。ゆえに「授記中の過去・現在・未来なるがゆえに」とはある也。「自授記・他授記」、是又授記の自他なるべし。

 

 維摩詰、謂彌勒言、彌勒、世尊授仁者記、一生當得阿耨多羅三藐三菩提、爲用何生得受記乎。過去耶、未來耶、現在耶。若過去生、過去生已滅。若未來生、未來生未至。若現在生、現在生無住。如佛所説、比丘、汝今即時、亦生亦老亦滅。若以無生得受記者、無生即是正位。於正位中、亦無受記、亦無得阿耨多羅三藐三菩提。云何彌勒受一生記乎。爲從如生得受記耶、爲從如滅得受記耶。若以如生得受記者、如無有生。若以如滅得受記者、如無有滅。一切衆生皆如也、一切法亦如也。衆聖賢亦如也。至於彌勒亦如也。若彌勒得受記者、一切衆生亦應受記。所以者何、夫如者不二不異。若彌勒得阿耨多羅三藐三菩提者、一切衆生皆亦應得。所以者何、一切衆生即菩提相。

 維摩詰の道取するところ、如來これを不是といはず。しかあるに、彌勒の得受記、すでに決定せり。かるがゆゑに、一切衆生の得受記、おなじく決定すべし。衆生の受決あらずは、彌勒の受記あるべからず。すでに一切衆生、即菩提相なり。菩提の、菩提の授記をうるなり。受記は今日生佛の慧命なり。しかあれば、一切衆生は彌勒と同發心するゆゑに同受記なり、同成道なるべし。たゞし、維摩道の於正位中、亦無受記は、正位即受記をしらざるがごとし、正位即菩提といはざるがごとし。また過去生已滅、未來生未至、現在生無住とらいふ。過去かならずしも已滅にあらず、未來かならずしも未至にあらず、現在かならずしも無住にあらず、無住未至已滅等を過未現と學すといふとも、未至のすなはち過現來なる道理、かならず道取すべし。

 しかあれば、生滅ともに得記する道理あるべし、生滅ともに得菩提の道理あるなり。一切衆生の授記をうるとき、彌勒も授記をうるなり。

 しばらくなんぢ維摩にとふ、彌勒は衆生と同なりや異なりや。試道看。

 すでに若彌勒得記せば、一切衆生も得記せんといふ、彌勒、衆生にあらずといはば、衆生衆生にあらず、彌勒も彌勒にあらざるべし。いかん。正當恁麼時、また維摩にあらざるべし。維摩にあらずは、この道得用不著ならん。

 しかあればいふべし、授記の一切衆生をあらしむるとき、一切衆生および彌勒はあるなり。授記よく一切をあらしむべし。

詮慧

維摩詰与弥勒問答段

維摩詰・・一切衆生即菩提相」。「授仁者記」と云うは、「仁者」は弥勒事也。維摩は授記の生を疑うに似たれども、如来是を不是と云わず。ただ維摩授記を証明する也。

〇三世を置いて過去已に過ぎぬ、現在不住、未来未至と心得也ときこそあれ。従無住法立一切法とこそ仏法には談ずる時に、今不然、また未至を既至とも可仕。総て去来の法にあらざれば、無住を以て住とも云い、去をして来とも仕うに無障也。会不会ともに仕うゆえに。

一切法の中、一の詞に未至と仕い、無住と仕うにてこそあれ。生滅去来の法の如く思いて、仕うにはあらず。一心常住なればこそ、三世不可得とも仕え、無能所ゆえに常住なれば不可得なり。

〇又無生ぞ、正位ぞと、嫌うは云われたれども、小乗の法に談ずるゆえに、授記の具足になるべからず。

〇又「如」は誠(に)不可有生滅。「如」は一切衆生一切法衆聖賢の上なるべし。弥勒受記の条、不可疑れば、一切衆生の授記決定なり。「一切衆生、即菩提相」と云うゆえに。

「正位に無受記」と云うは、二乗の無生は正位なり、但弥勒已に等覚菩薩也。正位と云うべし。

無為の正位に入るは、翻復する事能わずと云う文あり。無為の正位は、二乗の上に談ずる事也。無余涅槃と云うも、無為の正位と云うも、二乗の事也。大乗にも是等はあれども、ここにはしばらく、二乗の談を置く也。但「衆聖賢亦如」なりと云いつる時に大小乗共授記と聞けるは、一切衆生の方より「如」と談じつる時に、弥勒衆生に漏れず。「一切衆生、即菩提相」と云えば、得阿耨多羅三藐三菩提也。

〇「如生」と云うは、如に生滅なけれども、理に約して云う詞なり。

○「授記よく一切をあらしむる」なりと云うは、授記の上に、一切衆生及び弥勒はあるべし。一切衆生及び弥勒に授記すとは心得まじきなり。

○凡そ維摩詰、弥勒の授記を疑うに似たり。三世の受記を難し、生滅如等の義を疑う。「若弥勒得受記者、一切衆生も受記すべし」などと、あるまじき様なる詞に、聞こえては、又「一切衆生皆亦応得、所以者何、一切衆生は即菩提相也」とあり。旁不審也、但弥勒の授記決定しぬ。疑う所にあらず、さらば又維摩の僻見かと覚えたり。不可得の義を云うも、無生の義を談ずるも、小乗権門の詞に同じ。しかあれば維摩を避くべきに、如来これを不是と云わずとあれば、維摩の詞を不可非也。此の上は弥勒の授記不疑之、衆生授記又同、維摩の詞をば、又仏不是とは不被仰。所詮維摩の詞を可用証拠大切なるに、祖師の詞多く証拠となるべし。仏性の時、蚯蚓切れて両段となる。いぶかし、仏性いづれの所にか有ると云いし時、ただ莫妄想とこそ、師は被仰しか。或いは清浄本然云何忽生山河大地と問いし答えには、同じ問い(を)用之。如来入滅とは談ずれども、常在霊鷲山とあり。維摩(の)詞(を)疑うに似たれども、かれも受記を説き、これも受授を説く。雪峰の這一片田地好造箇無縫塔の詞も一句道得、玄沙の高多少も一句道得。雪峰の乃上下顧視も重ねたる一句の道得。雪峰の你作麽生も、重ねたる一句の道得、玄沙の七尺八尺も、又重ねたる一句の道得と心得るように維摩詰の詞も道得の一句なるべし。

経豪

  • 維摩弥勒の問答、文に聞こえたり。奥に次第に可被釈之。維摩の詞、御釈に被非たるようなれども、已に此の詞を被引出。今は「如来不是いわず」とあり、不可棄置。其の上、「夫如者、不二不異、若弥勒得阿耨多羅三藐三菩提者、一切衆生皆亦応得、所以者何、一切衆生即菩提相」、此詞不可嫌也。
  • 受記は、未来の事と心得付けたり、今の受記しかあらず。ゆえに「受記は今日の命也」と云う也。弥勒衆生と打ち任すは相違あるべし。受記の方よりは、「一切衆生弥勒と、同発心、同受記、同成道なるべき」理必然なるべし。
  • 是は「正位が、やがて受記なる道理を知らざるが如し」と蹔く被下也。「正位即菩提なるべし、又過去生已滅、未来生未至、現在生無住」と心得は、只打ち任せたる凡夫二乗等が心得たる小乗見なるべし。受記の上は三世不可然ゆえに、「過去必ずしも已滅にあらず」とら云うなり。「無住・未至・已滅等を、過未現と学すとも、未至の則ち過現来なる道理道取すべし」とは、所詮過去已滅、未来未至、現在無住を過未現とは云うとも、此の「未至の則ち過現来なる道理を道取すべし」とはある也。此の心地は過去の上に無住未至已滅し、現在の上に無住未至已滅を談ずべき也。此の時日来の三世の旧見は破るる也。
  • 「滅の得記」と云う事、打ち任すは難云歟。今の受記の道理如此可被談也。只「生滅共に受記する道理」に、可落居ゆえなり。
  • 如文。「一切衆生の授記を得る」と云わん時は、弥勒漏るべきにあらず。ゆえに「弥勒も授記を得る也」とは云う也。「蹔く汝維摩に問う」とは、例の開山御詞なり。所詮此の道理は、弥勒衆生(は)一なるべし、異也と云う道理もあるべし。是什麽物恁麽来の道理なるべし。「若弥勒得記せば、一切衆生も得記せん」と云う、弥勒衆生と無二無三同体なる道理明らけし。此の上は「弥勒衆生にあらずと云わば、衆生衆生にあらず、弥勒弥勒にあらざるべし」とは、此の一物なる衆生弥勒を、「弥勒衆生にあらず」と云わば、衆生も破れ、弥勒も破るべし。理に背く上は、詮は衆生弥勒も、あらぬ物になりぬるはと云う心也。維摩に非ざる上は、又この道得も用いても、詮なしと云う心歟。但此の詞の下には、弥勒衆生に非ずと云わん、更不可背理。弥勒衆生に蔵身する方よりは、弥勒衆生にあらず、衆生弥勒にあらずと云う不可不棄也。
  • 一切衆生に蒙ぶらしめて、授記と云う事はあるべきを、今の授記のようは、「授記の上に一切衆生および弥勒等あらしむるなり」。かくの如く談ずる時、弥勒衆生も授記も、只一なる道理は現前するなり。

授記(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

 

2022拈6月吉日 タイ国にて 記