正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十三 都機 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第二十三 都機 註解(聞書・抄)

 

諸月の円成すること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず。円成の諸月なる、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず。

このゆゑに、釈迦牟尼仏言、仏身法身、猶若虚空。応物現形、如水中月。いはゆる如水中月の如如は水月なるべし。水如、月如、如中、中如なるべし。相似を如と道取するにあらず、如は是なり。仏身法身は虚空の猶若なり。この虚空は猶若の仏身法身なり。仏身法身なるがゆゑに、尽地尽界尽法尽現みづから虚空なり。現成せる百草万象の猶若なる、しかしながら仏身法身なり、如水中月なり。

月のときはかならず夜にあらず、夜かならずしも暗にあらず。ひとへに人間の少量にかかはることなかれ。日月なきところにも昼夜あるべし、日月は昼夜のためにあらず。日月ともに如如なるがゆゑに。

一月両月にあらず、千月万月にあらず。月の自己、たとひ一月両月の見解を保任すといふとも、これは月の見解なり、かならずしも仏道の道取にあらず、仏道の知見にあらず。しかあれば、昨夜たとひ月ありといふとも、今夜の月は昨月にあらず、今夜の月は初中後ともに今夜の月なりと参究すべし。月は月に相嗣するがゆゑに、月ありといへども新旧にあらず。

詮慧

〇上十五日は善知識、下十五日は悪知識と云う事もあり。

〇先ず此の「諸月」と云うは、正月より十二月までの月にあらず。一日より卅日に至る月のみにあらず。法性(と)同じ仏性と云い、箒を挙げて云う、是等諸月也。

上十五日を智徳(善知識)に喩う。次第に煩悩が欠けて、智徳の月になるを云う。下十五日の月を断徳に喩う。是は只一時の智、一時の煩悩断とこそ云え、月を取るには、等覚の位をば十四日の月に喩え、真言には月輪と云う。いま以月(の)詞、法文を表すに、今の「諸月の円成」は不円成(の)時刻に対して云うにはあらず。仍て「前三三後三三」也。やがて「円成を諸月」と云う。円成ならぬ月(は)不可有始終、不可闕ゆえに。

〇又「前三三のみにあらず」と云えば、さては後三三也とこそ云うべきを、ともに「あらず」と仕うこと不審に似たり。前三三後三三をもとより嫌わず、すでに「三三にあらず」と云いつれば、前三三後三三の道理は、決定して置きたる也。前後の三三の外に、中三三もあり、いかなる三三もありぬべきかと覚えたれども非爾。

〇「諸月を先に置き、円成」と云えば、隠るも、などかなからんと覚ゆ。然而「前三三後三三」にも欠けざる程は聞こえれども、又円成の諸月と云いつれば、いとど月の欠くべきとは不聞。「円成の上の月」なるゆえに、只円成の詞を以て諸月と仕い、諸月の詞を以て円成と可心得。たとえば仏性を談ずる時、悉有仏性と云うを聞くには、悉有は只(の)詞許りにて、仏性は別に聞こえれども、悉有の一分以てこそ衆生と説き、衆生の徒らなる詞とは聞こえず。やがて仏性にてあるなり。所詮諸月と談ずる時は、円成の詞を待つべからず。円成は不用得也。円成の詞を使わん時は、諸月(の)詞(は)、同じく不用得也。

〇「諸月の円成なること、前三三のみにあらず、後三三のみにあらず」(は)、諸月の円成也、円成の諸月なること、「前三三のみにあらず、後三三のみにあらず、円成の諸月なる」なり。諸月を説けば円成なり、円成を説けば諸月なるのみにあらずと云うは、諸月の円成のみにあらざるは「諸月の円成也」、のみと云えば、別法あるに似たれども、只諸月と円成と前後ある程也。以同体、前後と仕う也。

経豪

  • 「諸月の円成する」と云うは、尽十方界諸月なる道理を云う也。ゆえに「前三三後三三」と云わる。是れ則ち不拘数量、円満満足(の)詞なり。又「円成の諸月なる」と初めにあるは、猶月の外に所照の別にあるべきように聞こえる心地も、猶差し出でぬべし。「円成の諸月」と云えば、円成を以て諸月と談ずれば、能所を離れたる道理、今少し明らか也。是又前三三後三三なるべし。
  • 此の「仏言」打ち任せては、仏真法身は虚空の如し、応物現形して衆生を化する応身相好の姿なりと心得。是は「如水中月」と、美しく喩えに為して如此談ず也。仏祖所談非爾、文に分明に聞こえたり。詮は今の喩えと聞こゆる「如水中月」をやがて「仏真法身」と取る也。「如」と云う詞(は)、喩えとのみ思い習わしたり。今の「如」は「水如・月如・如中・中如なるべし」とあり。其の上「相似を如と道取するに非ず」と被釈分明也。此の「水・如・月・中」(は)、只同じ丈なるべし。今の喩えとなりたる月を、やがて此方(こなた)には「仏真法身」と取るべきゆえに、能所彼是あるべからず、喩えとなるべからざる也。「如は是也」とは、如は如也と云う心也。更喩となるべき詞と不可心得也。
  • 此の仏真は如虚空とあれば、一向喩えかと聞こえるを、今は「仏真法身は虚空の猶若也。この虚空は猶若の仏真法身也」とあり。知りぬ「虚空も猶若も、仏真法身也」と云い、譬喩の詞にあらずと云う事を。
  • 此の「尽地・尽界・尽法等虚空也」と云う詞、不聞習。尽地争か虚空なるべきと覚えたり。然而自元、虚(うつ)け虚けとしたる物を虚空と不可心得。仏真法身を以て虚空と談ずる上は、「仏真法身の姿、尽地・尽界・尽法・尽現」なるべし。「現成せる百草万象の猶若なる、仏身法身なるべし、如水中月なる」道理なるべし。
  • 月は必ず夜出ると云う事、実に人間の小量也。諸月円成の上の月(は)、如此なるべからず。夜も必ず暗くなるべしと思うは小量也。「日月なき所」と云うは、浄土天上なるべきか、是等皆小量に関わりたる見解なり。
  • 実に「日月(は)必ず(しも)不可為昼夜。此の日月共に如々なるべし、ゆえに一月両月千月万月にあらず」とあり。「月の自己」とは、たとえば尽十方界と云う程の心地也、此れ円成なる自己也。「たとい一月両月の見解を保任すち云うとも、是は月の見解也」とは、此の「一月両月」の詞も、只月の上の荘厳功徳なるべし。月の上の保任にて置きて、「仏道の道取に非ず、仏道の知見に非ず」とて、月の一法独立の上の荘厳にて置かん。此の上は仏道の道取、仏道の知見と、しばらく云わじと云う心地なり。
  • 如文。打ち任せて凡夫の見解は、昨夜の月が今夜の月にてもあれ、去今両夜こそ替わるとも、月は同月也とこそ覚えたれども、今は夜月は今夜月にて前後際断すべしと云うなり。
  • 「月は月に相嗣す」とは、諸法非月。一法なき道理を如此云う也。月(の)外に物なければ、所挙の諸法皆、月は月に相嗣したる道理なるべし。昨夜月は旧し、今夜月は新しと云うべからず。只月は月なるべき也。仍「非新旧」と云う也。

 

盤山宝積禅師云、心月孤円、光呑万象。光非照境、境亦非存。光境俱亡、復是何物。いまいふところは、仏祖仏子、かならず心月あり。月を心とせるがゆゑに。月にあらざれば心にあらず、心にあらざる月なし。孤円といふは、虧闕せざるなり。両三にあらざるを万象といふ。万象これ月光にして万象にあらず。このゆゑに光呑万象なり。万象おのづから月光を呑尽せるがゆゑに光の光を呑却するを、光呑万象といふなり。たとへば月呑月なるべし光呑月なるべし。ここをもて、光非照境、境亦非存と道取するなり。得恁麽なるゆゑに、応以仏身得度者のとき、即現仏身而為説法なり。応以普現色身得度者のとき、即現普現色身而為説法ない。これ月中の転法輪にあらずといふことなし。

たとひ陰精陽精の光象するところ、火珠水珠の所成なりとも即現現成なり。このすなはち月なり、この月おのづから心なり。仏祖仏子の心を究理究事すること、かくのごとし。古仏いはく、一心一切法一切法一心。しかあれば、心は一切法なり一切法は心なり。心は月なるがゆゑに、月は月なるべし。心なる一切法、これことごとく月なるがゆゑに、遍界は遍月なり。通身ことごとく通月なり。たとひ直須万年の前後三三、いづれか月にあらざらん。いまの身心依正なる日面仏月面仏おなじく月中なるべし。生死去来ともに月にあり。尽十方界は月中の上下左右なるべし。いまの日用、すなはち月中の明明百草頭なり、月中の明明祖師心なり。

詮慧

〇盤山宝積禅師段

「心月孤円、光呑万象。光非照境、境亦非存。光境俱亡、復是何物」、「孤円」と云うは円成なり、「孤円」と仕いぬる上は、何れの詞も足らず聞こゆ。「呑」と云うも、全体月也。月外(の)物なし、「孤円」なるゆえに。

〇心月孤円光非照境、心月孤円境亦非存(存はあるとなり)、心月孤円光境俱亡(心月孤円事也)

心月孤円復是何物、化一切衆生皆令入仏道(是光呑月義なり)。

〇総て月を円(まろ)き物と、人間界に知れども、これはただ遠近の見許り也。此の人間界の月も、天上にて見ん時は円(まろ)なる光にてあるまじ。宮殿とこそ見んずれ。人を見牛馬、若し鳥の如きを見るも、遠く成りぬれば其の実不見。人は鳥にも蠅にも紛(まが)うべし。又人間界にも水一の上に置いて、四見の不同あり。まして仏見と衆生見との間、いかばかりの相違と云うにも不及なり。

経豪

  • 文面に聞こえたり。「心月孤円」は全月なる道理也。「光呑万象」と云うは、打ち任すは月の光(が)万象を照らすこそ思い習わしたるを、此の万象をやがて月と談ずる所を、「光呑万象」とは云う也。又「光非照境、境亦非存」とは、今(の)光呑万象の姿(が)、「光非照境」なるべし。「境亦非存」とは、境が月なるゆえに境亦非存と云う。「光境俱亡、復是何物」とは、光も境も俱に亡したりとは、光も境も亡したる姿が、「復是何物」とは云わるるなり。是則什麽物恁麽来の道理なり。
  • 打ち任すは、心は身具足する法、空なる月に此心をば喩え、胸中月などと云う。心月輪などと云うも此の心地歟。今の月は以心談月。此れ月心なるゆえに、心与月(は)、只一物なり。ゆえに「非月ざれば心にあらず、心にあらざる月なし」と云う也。
  • 如文。以全月「孤円」と云う也。ゆえに「不虧闕」也。
  • 万象をすでに月と談ずる上は、「万象にあらず、此のゆえに光呑万象」とは云う也。万象と月光と一体なる所が、「万象が月光を呑尽する」とは云うなり。此の道理が「光の光を呑却する所を、光呑万象と云う」とは被釈也。
  • 如文、無別子細。
  • 観音三十三身の所変、「以仏身得度すべき者をば、現仏身而為説法す」と云えば、観音は能変、衆生は所変人と聞こえたり。経文(の)詞は不違ずとも、其意相違すべし。是は得度者をやがて観音と談ず也。仍て能変所変にあらず、観音の観音を得度すと心得也。「光」も観音、「境」も観音なるべし。観音(が)観音を呑尽すとも可心得也。この理を「月中の転法輪に非ずと云うことなし」とは云うなり。
  • 「陰精」と月、「陽精」は日也。「火珠(日)、水珠(月)の所成也とも、即現現成」とは、たとい火珠水珠の所成也とも、即現現成とは、只心月なるべしと云う也。心与月(の)一体なる事を被明也。仏祖の心を談ずる道理如此と云う也。
  • 法与月(の)一なる道理を被述べて、「心は月なるがゆえに、月は月なるべし」とあり。所詮心与法、月と(は)、全て不可各別なり。「尽界月なるゆえに、遍界は遍月なり。通身悉く通月也」とあり。只月の一法の究尽する所、諸法月にあらざる道理なき所を、心も月、遍界も月、通身も月と被落なり。
  • 「直須万年前後三三」とは、三世九世共に月也とあり。「身心依正」是れ月也。「日月仏・月面仏・月中仏」とは、三世諸仏より始めて非月と云う事なしと云う心也。
  • 如文。「生死去来・尽十方界」は皆月也。「月中・上下」とは、只月上の上下左右なるべし。
  • 「日用」と者、我等が日々に成す所の所作なり。「明明百草頭」とは、我等が行住坐臥、皆「月中の明明百草頭也」と云う也。諸法万法皆月中の明明百草頭と云う心なり。

 

舒州投子山慈済大師、因僧問、月未円時如何。師云、呑却三箇四箇。僧云、円後如何。師云、吐却七箇八箇。いま参究するところは、未円なり円後なり、ともにそれ月の造次なり。月に三箇四箇あるなかに未円の一枚あり。月に七箇八箇あるなかに円後の一枚あり。呑却は三箇四箇なり。このとき円未円時の見成なり、吐却は七箇八箇なり。このとき円後の見成なり。月の月を呑却するに三箇四箇なり 、呑却に月ありて現成す、月は呑却の見成なり。月の月を吐却するに七箇八箇あり、吐却に月ありて現成す、月は吐却の現成なり。このゆゑに、呑却尽なり吐却尽なり、尽地尽天吐却なり、蓋天蓋地呑却なり。呑自呑他すべし吐自吐他すべし。

詮慧

〇舒州投子山慈済大師与僧問答段

「舒州投子山慈済大師、因僧問、月未円時如何。師云、呑却三箇四箇。僧云、円後如何。師云、吐却七箇八箇」、先には光呑万象と云い、今は「呑却三箇四箇」と云う。少なく呑みたるに似たり、万象を「呑」より劣に聞こゆ。但今は不可然、数に拘わるべからず、前三三後三三と云うゆえに。月に円未円のあるは、世間の月也。円成の月には未円あるべからず、さ程ならんには、又円の字(は)不用得也。円は未円に対するゆえに、孤月ならんには、又前後の詞(は)無詮。以不虧闕為円、是非方円也、円故也。而未円とはなど云う、是れ会不会を仏と説けば、円未円共月を説く詞也。「円後」の「後」の字は、只円の時刻を以て「後」とは仕うなり。「呑却吐却」の詞は只平等の詞也、無勝劣。

〇『涅槃経』には天に月あり、不円満時なき也。然而中間に雲あり、雲遮るゆえに、月まどかならず。然而月は円也、又「未円」と云い、「円後」と云うも、月四を廻るあいだ、日の光に冴えられて、人間の見にこそ隠れども、実には月不虧とあり。是も衆生の見に仰ぎての事也。いまの心月孤円の義には不可及。呑却万像と云うも、諸法を実相と呑むなり。又「呑却三箇四箇、吐却七箇八箇」と云うも、三四を吞むと云えば、今六七は残ると聞こゆ。七八を吐くと云えば、二三は残るようなれども、不可然。其のゆえは仏法(は)、数に拘わらざる事は、ことより聞く所也。又十成の道得より、八九成の道得は力量勝りたりと談ずれば、今の「呑吐」に付けても、此の丈に可心得。

経豪

  • 月の円未円(に)、得失の義あるべからず。「三箇四箇、七箇八箇」(は)、又増滅多少の義にあらず。「呑却・吐却」(は)、皆月上の詞也。「未月」の姿も月、「月」の姿も月、「呑却」も月、「吐却」も月、「三箇も四箇」も月、「七箇八箇」も月なるべし。
  • 所前云の道理なるべし、如文。
  • 上の詞を如此被釈也。是皆月の上の功徳荘厳なるゆえに、如此云うなり。
  • 前に云う道理は、只「月の月を呑却する」なり。呑却と月と一物なるゆえに、「呑却に月ありて、現成す」とは云わるる也。月を吐却の道理、又如此聊かも不可違道理なり。
  • 今の理が「呑却尽・吐却尽」と云わるる也。下詞に分明に聞こえたり。此の「自他」(は)。月の上の自他なり。ゆえに「呑自・呑他・吐自・吐他」と云うべきなり。

 

釈迦牟尼、告金剛蔵菩薩言、譬如動目能揺湛水、又如定眼猶廻転火。雲駛月運、舟行岸移、亦復如是。いま仏演説の雲駛月運、舟行岸移、あきらめ参究すべし。倉卒に学すべからず凡情に順ずべからず。しかあるに、この仏説を仏説のごとく見聞するものまれなり。もしよく仏説のごとく学習するといふは、円覚かならずしも身心にあらず、菩提涅槃かならずしも円覚にあらず、身心にあらざるなり。

いま如来道の雲駛月運、舟行岸移は、雲駛のとき月運なり。船行のとき岸移なり。いふ宗旨は、雲と月と同時同道して同歩同運すること、始終にあらず前後にあらず。船と岸と同時同道して同歩同運すること、起止にあらず流転にあらず。

たとひ人の行を学すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらざるなり。起止を挙揚して人の行に比量することなかれ。雲の駛も月の運も船の行も岸の移も、みなかくのごとし。おろかに少量の見に局量することなかれ。雲の駛は東西南北をとはず、月の運は昼夜古今に休息なき宗旨、わすれざるべし。船の行および岸の移、ともに三世にかかはれず、よく三世を使用するものなり。このゆゑに直至如今飽不飢なり。

しかあるを愚人おもはくは、くものはしるによりて、うごかざる月をうごくとみる。船のゆくによりて、うつらざる岸をうつるとみゆると見解せり。もし愚人のいふがごとくならんは、いかでか如来の道ならん。仏法の宗旨、いまだ人天の少量にあらず、ただ不可量なりといへども、随機の修行あるのみなり。たれか舟岸を再三撈摝せざらん、たれか雲月を急著眼看せざらん。しるべし、如来道は雲を什麽法に譬せず、月を什麽法に譬せず、舟を什麽法に譬せず、岸を什麽法に譬せざる道理、しづかに功夫参究すべきなり。月の一歩は如来の円覚なり、如来の円覚は月の運為なり。動止にあらず進退にあらず。すでに月運は譬喩にあらざれば、孤円の性相なり。しるべし、月の運度はたとひ駛なりとも、初中後にあらざるなり。このゆゑに第一月第二月あるなり。第一第二、おなじくこれ月なり。

正好修行これ月なり、正好供養これ月なり、払袖便行これ月なり。円尖は去来の輪転にあらざるなり。去来輪転を使用し使用せず放行し把定し、逞風流するがゆゑに、かくのごとくの諸月なるなり。

詮慧

釈迦牟尼仏言段

「仏告金剛蔵菩薩言、譬如動目能揺湛水、又如定眼猶廻転火。雲駛月運、舟行岸移、亦復如是」(是眼と水と火と似有彼是差別、不可然と被釈也)、今の文は『円覚経』(「大正蔵」一七・九一五c四・注)の文也。この経の大意は、已に題目にあらわす、円覚の義を述ぶるゆえ也。而れども「譬如動目、如廻転火、雲月舟岸」等を挙げて、「如是」と云う時に、一向「譬え」と聞こゆ。実と譬えと、二つにならば、円覚の義欠けたるに似たり。但是を譬えとは不可心得。都て仏法に無彼比、無能所。教に一は向譬とぞ談ぜんすらん。経文まことに分明なり。然而嫡々相伝の仏法の教に超越する心地は専らこれなり。

〇「月与雲」を云うに、「月」は法性也。「雲」は無明也と云い、月に雲の懸けるをば、月の法性を無明の雲が去ゆる也と云う。この義まことに世間の眼には、云われたるに似たれども、仏法の理を説く時(は)、無明即法性、法性即無明(『摩訶止観』三上「大正蔵」四六・二一b二九・注)と説く。この時、隔つと恨むべからず。覆うと嘆くべからず。又水中の月と云う事を談ずるにも、月の水に宿るは、機感相応の義などと云う。是も月と水とを各別して談ずる謂われなし。いづれが月いづれが水、更不可各別。親切に説く時、「修行をも、供養をも、払袖便行をもすでに月」とこそ説け。水与月を置きて、相応とも如とも云うにはあらず。又仏面を如満月と説くも、ただ円(まろ)なる物と云うにはあらず。総て欠けたる所なく、曇る所なきを挙ぐるにてこそあれ、円也と喩えず。或いは画餅不充飢と云うも、やがて充飢と心得也。又「目と水と雲と月と舟と岸」とを、各別に思う時(は)、動かぬ水も動き、火も廻り、床も月も行き、移らぬ岸も移ると覚ゆ。一心一切法一切法一心とこそ云えば、今の見(を)、不可妄見。雲は駛り、月は動き、岸は移ると見るこそ正見なれ。必ず(しも)衆生の見本と思うべからず。三界唯一心と習うは、仏道の定まれる法也。然者心寂静ならば、三界も寂静なるべし。心動著せば三界も動ずべし。この義ならば、又雲駛らば、尤も月運ぶべし。舟行かば岸移るべし。

〇「雲駛、東西南北を問わず」と云うは、円月の駛りなり。「月の運、昼夜古今に休息なし」と云うは、この「運」は孤月の運なり。

〇「直至如今飽不飢」と云うは、仏法の事を云う也、不飢なり。いまの今剛蔵菩薩に告げ給う、仏の御詞は世間の見にては喩えと聞く。今は不可然、仏以一音演説法、衆生随類各得解(『維摩経』上「大正蔵」一四・五三八a二・注)とあるゆえに、但又如此云う。文に付きて、仏は一音なれども、各得解なれば、各別に聞くとばかり、倉卒に聞く。仏の御本意に違(たが)うは、衆生の見。但衆生なれども、仏法相伝確かにて、仏説を仏説の如くに聞く時、更に譬喩にはあらざるなり。いまの「動目」と云うは、尽十方界沙門一隻眼の、眼の丈を、「動目」とも云うべし。「定眼」(も)又同じ。いづれを水とも火とも、雲とも月とも舟とも、岸とも分くべからず。三界唯一心と云うぞ、今の「廻転」の義なるべき。今の小乗教をこそ、大乗とは学すれ。且くは三十七品菩提分法と云うは、小乗に取りても助法にてこそあれども、仏祖の言句に等しめて、心得に少しも不違也。

〇「円覚」とは、『円覚経』の事也。「円覚」は必ず(しも)円也と指さず、身心を指す。此の身(は)尽十方界、三界唯心なり。全機こそ円覚なれ。

〇「正好修行、正好供養、払袖便行」とは、南嶽流―馬祖与西堂(智蔵・西堂をば大空教禅師とも云う)、南泉(普願)・百丈(懐海)三人皆馬祖弟子同法なり。馬祖下―中秋翫月次、師指月云、正当恁麽時如何、西堂(智蔵)云、正好修行、百丈(懐海)云、正好供養、南泉(普願)払袖便行す。

〇師日、経入蔵、禅帰海、唯有善願独超物外と云いしなり。独超物外と云えばとて、西堂、百丈に南泉は勝りたりと云うにはあらず。三人の詞を馬祖証明し給う也と可心得。この三人の詞(は)世の常の月とは心得難し。仏道には如此云うべき也。

〇三界を一心と談ず。心を月と談じ、像を月と談ず。像諸法なり、諸法実相也。光を万像と談ず。是等をよく心得るに、一として無不通。これを又或いは「呑」とも仕い、或いは又「吐」とも仕う。亦「光非照境」と云い、「境又(亦)非存」と云う。「光境」とも「亡」と云いて、結句に「是何物」ぞと云う。如此云えば何と説かんも、其理不可違也。如何是仏と云う詞にも、仏の始終は解き尽すと心得が如し。都て一代正教の詞を以て問わんに、此の義(は)先師の御詞なれども、七十五帖の仮名の正法眼蔵には不見と答えん輩は、非正嫡。先師の会下とは不可謂。いづれの詞也とも可答。たとえば天台の論義などとを構えたるように、向宗門、新成妙覚の仏顕本すやと云わんに、この義説かれずと云うべからず。趙州・宏智如きを古仏と云うがゆえに、又仏界・衆生界増滅のことを問うに可答。諸法仏法なる時節に有諸仏・有衆生・有生・有滅・有迷・有悟と云う、この義ならざらんや。帖々見んあ有此事。蹔く一句を挙ぐるものなり。

経豪

  • 是は『円覚経』の文也。今の「雲駛月運、舟行岸移」は、是凡夫妄見の至りなり。詮は雲駛(はし)る時は月も駛り、舟行く時は岸も移るべき也。努々(ゆめゆめ)彼是を置きて相違(の)法と(は)不可心得也。
  • 如文。円覚ならば、円覚にてあるべし。円覚を身心とも、菩提涅槃とも云いて、要なしと云う也。円覚ならば円覚、身心ならば身心、菩提は菩提、涅槃は涅槃なるべし。一法究尽の理、如此なるべし。其れは是れ也と参学する事あるべからず。是が雲駛りは月も駛り、舟行きは岸も移る道理に当る也。「雲与月、舟与岸」(の)二物相対すべからざる道理に被引合也。
  • 「「雲与月、舟与岸(は)、同時同道、同歩同運する」也。是又始終前後に拘わるべきにあらず。「起止」と云う事は、此の「岸」を如此「起止」と云う文字に書かれたるか。岸も止(とど)まる道理にも便りありぬべき文字か。又「人の行を学すとも、人の行は起止にあらず、起止の行は人にあらず」とは、前には雲与月、舟与岸を、同時・同道・同歩・同運と談じ、ここには「人は只人なるべし、起止と云うべからず、起止の行は非人」と云いて、一法独立の姿を被出也。是は弥(いよいよ)甚深の義に聞こえたり。但彼是(と)面は替えたるようなれども、其心一也。ゆえに「起止を挙揚して、人の行に比量すべからず」と被嫌なり。
  • 如文。詮は雲与月を喩え、舟と月(岸?)とを喩えとすべからず。只雲も月も、舟も岸も、一法一法独立すべしと也。
  • 実にも此の雲駛の様、東西南北の沙汰あるべからず。尽界皆雲なる時、何れをか東西南北とせん。月の道理又如此、打ち任すは夜物とのみ心得。然而是又尽界皆月なる時、「昼夜古今の休息あるべからず」、道理必然事也。
  • 此の「船行岸移道理、三世に拘わるべからず」、今の道理の上に、三世を談ずる所が、三世を使用する道理に当るべき也。「直至如今飽不飢」とは、円満満足の心地也。法の究尽の理、如此云わるべきか。此の後愚人思わくとて、凡見を被出如文。
  • 法の道理(は)只不可量也。然而随機の修行ありと云う也。「随機の修行」と云うは、如今(の)文・文句・句、如此森羅の事々等にて、法を表す事を可云歟。此の「舟岸・雲月」の道理、幾たびも参学すべしとなり。
  • 是は「雲」は只雲なるべし。「月」は只月なるべし、「舟」も「岸」も同前。是を彼に喩う事を被制也。譬喩なるべくは、月は月に喩え、舟は舟に喩うべき也。二物相対の義あるべからず。
  • 文に分明也。以月如来の円覚とすべし。此の道理、又「如来の円覚は、月の運為也」と云わるる也。実にも「動止進退にあらざるべし、月運は又非喩之」、道理(は)先々談旧了。以之「孤月の性相」とはすべき也。
  • 月運の道理、駛と云うとも初中後に拘わるべからず。「第一月第二月」と云う事、世間には目(を)覆いせば月ならぬ月が一つ見える也。妄月なるべし。第一月の月を妄ならぬ月と可取歟。是は迷妄の見也、可用見にあらず。
  • 此の「第一第二同じく是れ月」の道理也。さらに第二月は妄、第一月は真と云う差別あるべからず。「正好修行、正好供養、払袖便行」などと云う詞は、古き祖師の詞也。同じ翫月し時の詞をたよりに被引出也。是等の姿、皆月也と全て談ず也。
  • 「円」はまろく、「尖」は鋭(する)どなる姿。「去来転輪にあらず」とは、三日よりの月は細く、十四十五円満して、又十六日より次第に欠けて細くなるなどと、不可心得所を、「あらず」と被嫌歟。実に此の姿(が)輪転と、妄見の方よりは云われぬべし。是は不可用一筋を被載なり。次(の)「去来輪転を使用せず、放行把定し、逞風流す」とは、三世を月の上に使用しつるように、月の上に「去来輪転を使用す」と云う道理もあるべし。「使用せず」と云う道理もあるべき也。「放行・把定」又同じ。捨つるも取るも、此上道理なるべし。「逞風流す」とは、この風情などと云う程の心也。以是等理、如此諸月ある也とは云うなり。

都機(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

2022年 7月吉日 記