正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第十九「古鏡」を読み解く

     正法眼蔵第十九「古鏡」を読み解く

 

 諸佛諸祖の受持し單傳するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鑄なり、同參同證す。胡來胡現、十萬八千、漢來漢現、一念萬年なり。古來古現し、今來今現し、佛來佛現し、祖來祖現するなり。

 第十八祖伽耶舎多尊者は、西域の摩提國の人なり。姓は鬱頭藍、父名天蓋、母名方聖。母氏かつて夢見にいはく、ひとりの大神、おほきなるかゞみを持してむかへりと。ちなみに懷胎す、七日ありて師をむめり。師、はじめて生ぜるに肌體みがける琉璃のごとし。いまだかつて洗浴せざるに自然に香潔なり。いとけなくより閑靜をこのむ、言語よのつねの童子にことなり。むまれしより一の淨明の圓鑑、おのづから同生せり。

 圓鑑とは圓鏡なり、奇代の事なり。同生せりといふは、圓鑑も母氏の胎よりむめるにはあらず。師は胎生す、師の出胎する同時に、圓鑑きたりて、天眞として師のほとりに現前して、ひごろの調度のごとくありしなり。この圓鑑、その儀よのつねにあらず。童子むかひきたるには圓鑑を兩手にさゝげきたるがごとし、しかあれども童面かくれず。童子さりゆくには圓鑑をおほうてさりゆくがごとし、しかあれども童身かくれず。童子睡眠するときは圓鑑そのうへにおほふ、たとへば花蓋のごとし。童子端坐のときは圓鑑その面前にあり。おほよそ動容進止にあひしたがふなり。しかのみにあらず、古來今の佛事、ことごとくこの圓鑑にむかひてみることをう。また天上人間の衆事諸法、みな圓鑑にうかみてくもれるところなし。たとへば、經書にむかひて照古照今をうるよりも、この圓鑑よりみるはあきらかなり。

 しかあるに、童子すでに出家受戒するとき、圓鑑これより現前せず。このゆゑに近里遠方、おなじく奇妙なりと讚歎す。まことに此娑婆世界に比類すくなしといふとも、さらに佗那裡に親族のかくのごとくなる種胤あらんことを莫怪なるべし、遠慮すべし。まさにしるべし、若樹若石に化せる經巻あり、若田若里に流布する知識あり。かれも圓鑑なるべし。いまの黄紙朱軸は圓鑑なり、たれか師をひとへに希夷なりとおもはん。

 あるとき出遊するに、僧伽難提尊者にあうて、直にすゝみて難提尊者の前にいたる。尊者とふ、汝が手中なるは、まさに何の所表かある。有何所表を問著にあらずときゝて參學すべし。

 師いはく、諸佛大圓鑑、内外無瑕翳。兩人同得見、心眼皆相似。

 しかあれば、諸佛大圓鑑、なにとしてか師と同生せる。師の生來は大圓鑑の明なり。諸佛はこの圓鑑に同參同見なり。諸佛は大圓鑑の鑄像なり。大圓鑑は、智にあらず理にあらず、性にあらず相にあらず。十聖三賢等の法のなかにも大圓鑑の名あれども、いまの諸佛大圓鑑にあらず。諸佛かならずしも智にあらざるがゆゑに諸佛に智恵あり。智恵を諸佛とせるにあらず。

 參學しるべし、智を説著するは、いまだ佛道の究竟説にあらざるなり。すでに諸佛大圓鑑たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。いはゆるこの大圓鑑、この生に接すべからず、佗生に接すべからず。玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髓鏡にあらず。圓鑑の言偈なるか、童子の説偈なるか。童子この四句の偈をとくことも、かつて人に學習せるにあらず。かつて或從經巻にあらず、かつて或從知識にあらず。圓鏡をさゝげてかくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かゞみにむかふを常儀とせるのみなり。生知の辨恵あるがごとし。大圓鑑の童子と同生せるか、童子の大圓鑑と同生せるか、まさに前後生もあるべし。大圓鑑は、すなはち諸佛の功徳なり。

 このかゞみ、内外にくもりなしといふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、兩箇おなじく得見あり。心と眼とあひにたり。相似といふは、人の人にあふなり。たとひ内の形象も、心眼あり、同得見あり。たとひ外の形象も、心眼あり、同得見あり。いま現前せる依報正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。われにあらず、たれにあらず、これは兩人の相見なり、兩人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる。

 心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。相似は心眼なり。たとへば、心眼各相似といはんがごとし。いかならんかこれ心の心に相似せる。いはゆる三祖六祖なり。いかならんかこれ眼の眼に相似なる。いはゆる道眼被眼礙なり。

 いま師の道得する宗旨かくのごとし。これはじめて僧伽難提尊者に奉覲する本由なり。この宗旨を擧拈して、大圓鑑の佛面祖面を參學すべし、古鏡の眷屬なり。

 第三十三祖大鑑禪師、かつて黄梅山の法席に功夫せしとき、壁書して祖師に呈する偈にいはく、

  菩提本無樹  明鏡亦非臺

  本來無一物   何處有塵埃

 しかあれば、この道取を學取すべし。大鑑高祖、よの人これを古佛といふ。

 圜悟禪師いはく、稽首曹谿眞古佛。

 しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本來無一物、何處有塵埃なり。明鏡非臺、これ命脈あり、功夫すべし。明々はみな明鏡なり。かるがゆゑに明頭來明頭打といふ。いづれのところにあらざれば、いづれのところなし。いはんやかゞみにあらざる一塵の、盡十方界にのこれらんや。かゞみにあらざる一塵の、かゞみにのこらんや。しるべし、盡界は塵刹にあらざるなり、ゆゑに古鏡面なり。

 南嶽大慧禪師の會に、ある僧とふ、如鏡鑄像、光歸何處師云、大徳未出家時相貌、向甚麼處去。僧曰、成後爲甚麼不鑑照師云、雖不鑑照瞞佗一點也不得。

 いまこの萬像は、なに物とあきらめざるに、たづぬれば鏡を鑄成せる證明、すなはち師の道にあり。鏡は金にあらず玉にあらず、明にあらず像にあらずといへども、たちまちに鑄像なる、まことに鏡の究辨なり。

 光歸何處は、如鏡鑄像の如鏡鑄像なる道取なり。たとへば、像歸像處なり、鑄能鑄鏡なり。大徳未出家時相貌、向什麼處去といふは、鏡をさゝげて照面するなり。このとき、いづれの面々かすなはち自己面ならん。

 師いはく、雖不鑑照、瞞佗一點也不得といふは、鑑照不得なり、瞞佗不得なり。海枯不到露底を參學すべし、莫打破、莫動著なり。しかありといへども、さらに參學すべし、拈像鑄鏡の道理あり。當恁麼時は、百千萬の鑑照にて、瞞々點々なり。

 雪峰眞覺大師、あるとき衆にしめすにいはく、

 要會此事我這裡如一面古鏡相似。胡來胡現、漢來漢現。時玄沙出問、忽遇明鏡來時如何。師云、胡漢倶隱。玄沙云、某甲即不然。峰云、儞作麼生。玄沙云、請和尚問。峰云、忽遇明鏡來時如何。玄沙云、百雜碎。

 しばらく雪峰道の此事といふは、是什麼事と參學すべし。しばらく雪峰の古鏡をならひみるべし。如一面古鏡の道は、一面とは、邊際ながく斷じて、内外さらにあらざるなり。一珠走盤の自己なり。いま胡來胡現は、一隻の赤鬚なり。漢來漢現は、この漢は、混沌よりこのかた、盤古よりのち、三才五才の現成せるといひきたれるに、いま雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現せり。いまの漢は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり。いま雪峰道の胡漢倶隱、さらにいふべし、鏡也自隱なるべし。

 玄沙道の百雜碎は、道也須是恁麼道なりとも、比來責儞、還吾碎片來。如何還我明鏡來なり。

 黄帝のとき、十二面の鏡あり。家訓にいはく、天授なり。又廣成子の崆峒山にして與授せりけるともいふ。その十二面のもちゐる儀は、十二時に時々に一面をもちゐる、又十二月に毎月毎面にもちゐる、十二年に年々面々にもちゐる。いはく、鏡は廣成子の經典なり。黄帝に傳授するに、十二時等は鏡なり。これより照古照今するなり。十二時もし鏡にあらずよりは、いかでか照古あらん。十二時もし鏡にあらずは、いかでか照今あらん。いはゆる十二時は十二面なり、十二面は十二鏡なり、古今は十二時の所使なり。この道理を指示するなり。これ俗の道取なりといへども、漢現の十二時中なり。

 軒轅黄帝膝行進崆峒問道乎廣成子于時廣成子曰、鏡是陰陽本、治身長久。自有三鏡云天、云地、云人。此鏡無視無聽。神以靜、形將自正必靜必清、無勞汝形無揺汝精乃可以長生

 むかしはこの三鏡をもちて、天下を治し、大道を治す。この大道にあきらかなるを天地の主とするなり。俗のいはく、太宗は人をかゞみとせり。安危理亂、これによりて照悉するといふ。三鏡のひとつをもちゐるなり。人を鏡とするときゝては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用舎をしりぬべし、たとへば、魏徴をえしがごとく、房玄齢をえしがごとしとおもふ。これをかくのごとく會取するは、太宗の人を鏡とすると道取する道理にはあらざるなり。人をかゞみとすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。人物の去來をみるに、來無迹、去無方を人鏡の道理といふ。賢不肖の萬般なる、天象に相似なり。まことに經緯なるべし。人面鏡面、日面月面なり。五嶽の精および四涜の精、よを經て四海をすます、これ鏡の慣習なり。人物をあきらめて經緯をはかるを太宗の道といふなり、博覧人をいふにはあらざるなり。

 日本國自神代有三鏡、璽之與剣、而共傳來至今。一枚在伊勢大神宮一枚在紀伊國日前社一枚在内裡内侍所。

 しかあればすなはち、國家みな鏡を傳持すること、あきらかなり。鏡をえたるは國をえたるなり。人つたふらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく傳來せり、天神より傳來せると相傳す。しかあれば、百練の銅も陰陽の化成なり。今來今現、古來古現ならん。これ古今を照臨するは、古鏡なるべし。

 雪峰の宗旨は、新羅新羅現、日本來日本現ともいふべし。天來天現、人來人現ともいふべし。現來をかくのごとく參學すといふとも、この現いまわれら本末をしれるにあらず、たゞ現を相見するのみなり。かならずしも來現をそれ知なり、それ會なりと學すべきにあらざるなり。いまいふ宗旨は、胡來は胡現なりといふか。胡來は一條の胡來にて、胡現は一條の胡現なるべし。現のための來にあらず。古鏡たとひ古鏡なりとも、この參學あるべきなり。

 玄沙出てとふ、たちまちに明鏡來にあはんに、いかん。

 この道取、たづねあきらむべし。いまいふ明の道得は、幾許なるべきぞ。いはくの道は、その來はかならずしも胡漢にはあらざるを、これは明鏡なり、さらに胡漢と現成すべからずと道取するなり。明鏡來はたとひ明鏡來なりとも、二枚なるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。古鏡あり明鏡ある證験、すなはち雪峰と玄沙と道取せり。これをば佛道の性相とすべし。これ玄沙の明鏡來の道話の七通八達なるとしるべし。八面玲瓏なること、しるべし。逢人には即出なるべし、出即には接渠なるべし。しかあれば、明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。明鏡に古の道理ありやなしや、古鏡に明の道理ありやなしや。古鏡といふ言によりて、明なるべしと學することなかれ。宗旨は、吾亦如是あり、汝亦如是あり。西天諸祖亦如是の道理、はやく練磨すべし。祖師の道得に、古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか、いかん。まさにひろく諸佛諸祖の道にわたる參學あるべし。

 雪峰道の胡漢倶隱は、胡も漢も、明鏡時は倶隱なりとなり。この倶隱の道理、いかにいふぞ。胡漢すでに來現すること、古鏡を相罣礙せざるに、なにとしてかいま倶隱なる。古鏡はたとひ胡來胡現、漢來漢現なりとも、明鏡來はおのづから明鏡來なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隱なるなり。しかあれば、雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。正當明鏡來のとき、古鏡現の胡漢を罣礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。いま道取する古鏡の胡來胡現、漢來漢現は、古鏡上に來現すといはず、古鏡裡に來現すといはず、古鏡外に來現すといはず、古鏡と同參來現すといはず。この道を聽取すべし。胡漢來現の時節は、古鏡の胡漢を現來せしむるなり、胡漢倶隱ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、來におろそかなり。錯亂といふにおよばざるものなり。

 ときに玄沙いはく、某甲はすなはちしかあらず。雪峰いはく、なんぢ作麼生。玄沙いはく、請すらくは和尚とふべし。

 いま玄沙のいふ請和尚問のことば、いたづらに蹉過すべからず。いはゆる和尚問の來なる、和尚問の請なる、父子の投機にあらずは、爲甚如此なり。すでに請和尚問ならん時節は、恁麼人さだめて問處を若會すべし。すでに問處の霹靂するには、無廻避處なり。

 雪峰いはく、忽遇明鏡來時如何。この問處は、父子ともに參究する一條の古鏡なり。

 玄沙いはく、百雜碎。この道取は、百千萬に雜碎するとなり。いはゆる忽遇明鏡來時は百雜碎なり。百雜碎を參得せんは明鏡なるべし。明鏡を道得ならしむるに、百雜碎なるべきがゆゑに。雜碎のかゝれるところ、明鏡なり。さきに未雜碎なるときあり、のちにさらに不雜碎ならん時節を管見することなかれ。たゞ百雜碎なり。百雜碎の對面は孤峻の一なり。しかあるに、いまいふ百雜碎は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか。更請一轉語なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず。古鏡明鏡はたとひ問來得なりといへども、玄沙の道取を擬議するとき、砂礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雜碎なりぬべきか。碎來の形段作麼生。萬古碧潭空界月。

 雪峰眞覺大師と三聖院慧然禪師と行次に、ひとむれの獼猴をみる。ちなみに雪峰いはく、この獼猴、おのおの一面の古鏡を背せり。

 この語、よくよく參學すべし。獼猴といふはさるなり。いかならんか雪峰のみる獼猴。かくのごとく問取して、さらに功夫すべし。經劫をかへりみることなかれ。おのおの一面の古鏡を背せりとは、古鏡たとひ諸佛祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり。獼猴おのおの面々に背せりといふは、面々に大面小面あらず、一面古鏡なり。背すといふは、たとへば、絵像の佛のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。獼猴の背を背するに、古鏡にて背するなり。使得什麼糊來。こゝろみにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。各背一面のことば、虚設なるべからず。道得是の道得なり。しかあれば、獼猴か、古鏡か。畢竟作麼生道。われらすでに獼猴か、獼猴にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴にある、自知にあらず、佗知にあらず。自己の自己にある、模索およばず。

 三聖いはく、歴劫無名なり、なにのゆゑにかあらはして古鏡とせん。

 これは、三聖の古鏡を證明せる一面一枚なり。歴劫といふは、一心一念未萌以前なり、劫裡の不出頭なり。無名といふは、歴劫の日面月面、古鏡面なり、明鏡面なり。無名眞箇に無名ならんには、歴劫いまだ歴劫にあらず。歴劫すでに歴劫にあらずは、三聖の道得これ道得にあらざるべし。しかあれども、一念未萌以前といふは今日なり。今日を蹉過せしめず練磨すべきなり。まことに歴劫無名、この名たかくきこゆ。なにをあらはしてか古鏡とする、龍頭蛇尾

 このとき三聖にむかひて、雪峰いふべし、古鏡古鏡と。

 雪峰恁麼いはず、さらに瑕生也といふは、きずいできぬるとなり。いかでか古鏡に瑕生也ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、歴劫無名とらいふをきずとせるなるべし。古鏡の瑕生は全古鏡なり。三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりけるゆゑに、道來せる參究は一任に古鏡瑕なり。しかあれば、古鏡にも瑕生なり、瑕生なるも古鏡なりと參學する、これ古鏡參學なり。

 三聖いはく、有什麼死急話頭也不識。

 いはくの宗旨は、なにとしてか死急なる。いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か佗門か。盡十方界か、大唐國裡か。審細に功夫參學すべきなり。話頭也不識は、話といふは、道來せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり。たとへば、話頭も大地有情同時成道しきたれるか。さらに再全の錦にはあらざるなり。かるがゆゑに不識なり。對朕者不識なり、對面不相識なり。話頭はなきにあらず、祗是不識なり。不識は條々の赤心なり、さらにまた明々の不見なり。

 雪峰いはく、老僧罪過。

 いはゆるは、あしくいひにけるといふにも、かくいふこともあれども、しかはこゝろうまじ。老僧といふことは、屋裡の主人翁なり。いはゆる餘事を參學せず、ひとへに老僧を參學するなり。千變萬化あれども、神頭鬼面あれども、參學は唯老僧一著なり。佛來祖來、一念萬年あれども、參學は唯老僧一著なり。罪過は住持事繁なり。

 おもへばそれ、雪峰は徳山の一角なり、三聖は臨濟の神足なり。兩位の尊宿、おなじく系譜いやしからず、青原の遠孫なり、南嶽の遠派なり。古鏡を住持しきたれる、それかくのごとし。晩進の龜鑑なるべし。

 雪峰示衆云、世界闊一丈、古鏡闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺。時玄沙、指火爐云、且道、火爐闊多少。雪峰云、似古鏡闊玄沙云、老和尚脚跟未點地在。

 一丈、これを世界といふ、世界はこれ一丈なり。一尺、これを世界とす、世界これ一尺なり。而今の一丈をいふ、而今の一尺をいふ、さらにことなる尺丈にはあらざるなり。

 この因縁を參學するに、世界のひろさは、よのつねにおもはくは、無量無邊の三千大千世界および無盡法界といふも、たゞ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方をさすがごとし。この世界を拈じて一丈とするなり。このゆゑに雪峰いはく、古鏡闊一丈、世界闊一丈。

 この一丈を學せんには、世界闊の一端を見取すべし。

 又古鏡の道を聞取するにも、一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず。一丈の闊は世界の闊一丈に同參なりとも、形興かならずしも世界の無端に齊肩なりや、同參なりやと功夫すべし。古鏡さらに一顆珠のごとくにあらず。明珠を見解することなかれ、方圓を見取することなかれ。盡十方界たとひ一顆明珠なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。

 しかあれば、古鏡は胡漢の來現にかゝはれず、縱横の玲瓏に條々なり。多にあらず、大にあらず。闊はその量を擧するなり、廣をいはんとにあらず。闊といふは、よのつねの二寸三寸といひ、七箇八箇とかぞふるがごとし。佛道の算數には、大悟不悟と算數するに、二兩三兩をあきらめ、佛々祖々と算數するに、五枚十枚を見成す。一丈は古鏡闊なり、古鏡闊は一枚なり。

 玄沙のいふ火爐闊多少、かくれざる道得なり。千古萬古にこれを參學すべし。いま火爐をみる、たれ人となりてかこれをみる。火爐をみるに、七尺にあらず、八尺にあらず。これは動執の時節話にあらず、新條特地の現成なり。たとへば是什麼物恁麼來なり。闊多少の言きたりぬれば、向來の多少は多少にあらざるべし。當處解脱の道理、うたがはざりぬべし。火爐の諸相諸量にあらざる宗旨は、玄沙の道をきくべし。現前の一團子、いたづらに落地せしむることなかれ、打破すべし。これ功夫なり。

 雪峰いはく、如古鏡闊。

 この道取、しづかに照顧すべし。火爐闊一丈といふべきにあらざれば、かくのごとく道取するなり。一丈といはんは道得是にて、如古鏡闊は道不是なるにあらず。如古鏡闊の行李をかゞみるべし。おほく人のおもはくは、火爐闊一丈といはざるを道不是とおもへり。闊の獨立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照すべし。如々の行李をも蹉過せしめざるべし。動容揚古路、不墮悄然機なるべし。

 玄沙いはく、老漢脚跟未點地在。

 いはくのこゝろは、老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに。脚跟といふはいづれのところぞと問取すべきなり、脚跟といふはなにをいふぞと參究すべし。參究すべしといふは、脚跟とは正法眼藏をいふか、虚空をいふか、盡地をいふか、命脈をいふか、幾箇ある物ぞ。一箇あるか、半箇あるか、百千萬箇あるか。恁麼勤學すべきなり。

 未點地在は、地といふは、是什麼物なるぞ。いまの大地といふ地は、一類の所見に準じて、しばらく地といふ。さらに諸類、あるいは不思議解脱法門とみるあり、諸佛所行道とみる一類あり。しかあれば、脚跟の點ずべき地は、なにものをか地とせる。地は實有なるか、實無なるか。又おほよそ地といふものは、大道のなかに寸許もなかるべきか。問來問去すべし、道佗道己すべし。脚跟は點地也是なる、不點地也是なる。作麼生なればか未點地在と道取する。大地無寸土の時節は、點地也未、未點地也未なるべし。

 しかあれば、老漢脚跟未點地在は、老漢の消息なり、脚跟の造次なり。

 婺州金華山國泰院弘瑫禪師、ちなみに僧とふ、古鏡未磨時如何。師云、古鏡。僧云、磨後如何。師云、古鏡。

 しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし、活古鏡なり。おほよそ鏡を磨して鏡となす、塼を磨して鏡となす。塼を磨して塼となす、鏡を磨して塼となす。磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。おなじく佛祖の家業なり。

 江西馬祖、むかし南嶽に參學せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、傳法院に住してよのつねに坐禪すること、わづかに十餘歳なり。雨夜の草庵、おもひやるべし、封雪の寒床におこたるといはず。

 南嶽、あるとき馬祖の庵にいたるに、馬祖侍立す。南嶽とふ、汝近日作什麼。馬祖いはく、近日道一祗管打坐するのみなり。南嶽いはく、坐禪なにごとをか圖する。馬祖いはく、坐禪は作佛を圖す。南嶽すなはち一片の塼をもちて、馬祖の庵のほとりの石にあてて磨す。馬祖これをみてすなはちとふ、和尚、作什麼南嶽いはく、磨塼。馬祖いはく、磨塼用作什麼南嶽いはく、磨作鏡。馬祖いはく、磨塼豈得成鏡耶。南嶽いはく、坐禪豈得作佛耶。

 この一段の大事、むかしより數百歳のあひだ、人おほくおもふらくは、南嶽ひとへに馬祖を勸勵せしむると。いまだかならずしもしかあらず。大聖の行履、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか爲人の方便あらん。爲人のちからは佛祖の骨髓なり。たとひ構得すとも、なほこれ家具なり。家具調度にあらざれば佛家につたはれざるなり。いはんやすでに馬祖を接することすみやかなり。はかりしりぬ、佛祖正傳の功徳、これ直指なることを。まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作佛す。馬祖作佛するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禪すみやかに坐禪となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古佛の骨髓に住持せられきたる。

 しかあれば、塼のなれる古鏡あり、この鏡を磨しきたるとき、從來も未染汚なるなり。塼のちりあるにはあらず、たゞ塼なるを磨塼するなり。このところに、作鏡の功徳の現成する、すなはち佛祖の功夫なり。磨塼もし作鏡せずは、磨鏡も作鏡すべからざるなり。たれかはかることあらん、この作に作佛あり、作鏡あることを。又疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、餘時のはかるところにあらず。しかあれども、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなはちこれ磨塼作鏡なるべし。

 いまの人も、いまの塼を拈じ磨してこゝろみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥團なりとかろしめば、人も泥團なりとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼來塼現の鏡子あることを。又たれかしらん、鏡來鏡現の鏡子あることを。

 

 正法眼藏古鏡第十九

 

  仁治二年辛丑九月九日觀音導利興聖寶林寺示衆

  同四年癸卯正月十三日書冩于栴檀林裡

 

正法眼蔵を読み解く古鏡」(二谷正信著)

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詮慧・経豪による註解書については

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