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中國初期禪宗の無修無作説と道元の本證妙修説 石井  修道

講 演 

中國初期禪宗の無修無作説と道元の本證妙修説

石井  修道

 

道元の修證觀は本證妙修と一般に言われるが、この問題を嚴密に檢討したのは、鏡島元隆氏の「本證妙修の思想的背景」(『宗學研究』第七號、一九六五年、後に『道元禪師とその周邊』に補訂再録、大東出版社、一九八五年)及び「本證妙修覺え書(『駒澤大學佛敎學部論集』第一八號、一九八七年、後に『道元禪師とその宗風』に再録、春秋社、一九九四年) であろう。その斬新さは、後者の次の主張に求められる。

私(鏡島) は道元禪師が『辧道話』で用いられている「修證一等という言葉と、「證上の修」、すなわち「本證妙修」という言葉との間に、ある距りをおいて理解している。すなわち、「修證一等という言葉よりも、「本證妙修」という言葉の方が、道元禪師の修證觀を示すにより適切であると考えている。どうして、「修證一等」と、「本證妙修」を區別するかというと、その理由はつぎのようである。

多くの人によって、道元禪師の「本證妙修」 は、禪師の敎えである「修證一等と同義語として解されている。ここからして、「本證妙修」の起原が中國禪宗の「南嶽不染汚の話」に求められるのである。衞藤即應先生も(『宗砠としての道元禪師』 三一〇頁)、榑林皓堂先生も (『道元禪の研究』一四二頁)、そのように解されているのであるが、「南嶽不染汚の話」は「修證一等」の淵由とはなっても、「本證妙修」の淵由とはならないと私は考える。というのは、「南嶽不染汚の話」は、修は證を期してはならない、證を目的とした修は染汚であるとして、不染汚の修證が説かれるのであるが、それは 「修證一等」の淵由としてはまさしくその通りである しかし、「修證一等」ということは、始覺門の修行といわれる臨濟禪でも説かれることであり、そのことは衞藤先生も認めていることである(『正法眼藏序説』二一三頁)。であれば、道元禪師の修證觀の特質を示すには修證一等では足りないのであって、禪師の修證觀は 「修證一等をも超えたものでなければならない

    同じことは、如淨禪師の修證觀との關係からしても言える。『寶慶記』によって明らかであるように、如淨禪師の修證觀は「修證一等」に立っている。もし、如淨禪師の修證觀が即道元禪師の修證觀であれば、「修證一等」をもって道元禪師の修證觀の特質となし得ようが、私は道元禪師の修證觀は如淨禪師と根底において一つであっても、さらにこれを超えたものがあると考える(拙著『天童如淨禪師の研究』參照)。それ故に、この道元禅師の修證觀の特質を示すには、「修證一等」というよりは、「本證妙修」という言葉の方がもっと適切である。(後著九五―九六頁)

 

ここには、まだまだより厳密に檢討すべき殘された課題があるように見うけられるので、ここに問題提起を試みようとするものである。

まず、道元の「本證妙修説」の根據とされる 『辦道話』の第七問答を紹介しよう。

とうてていはく、この坐禅の行は、いまだ佛法を證會せざらんものは、坐禪辦道してその證をとるべし。すでに佛正法をあきらめえん人は、坐禪なにのまっところかあらむ。

しめしていはく、癡人のまへにゆめをとかず、山子の手には舟棹をあたへがたしといへども、さらに訓をたるべし。

それ、修證はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。佛法には、修證これ一等なり。いまも證上の修なるゆゑに、初心の辦道すなはち本證の全體なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに證をまつおもひなかれとをしふ、直指の本證なるがゆゑなるべし。 すでに修の證なれば、證にきはなく、證の修なれば、修にはじめなし。 ここをもて、釋迦如來・迦葉尊者、ともに證上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく證上の修に引轉せらる。佛法住持のあと、みなかくのごとし

すでに證をはなれぬ修あり、 われらさいはひに一分の妙修を單傳せる、初心の辦道すなはち一分の本證を無爲の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ證を染汚せざらしめんがために、佛祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれ、本證手の中にみてり、本證を出身すれば、妙修通身におこなはる

又、まのあたり大宋國にしてみしかば、諸方の禪院みな坐禪堂をかまへて、五百六百および一二千僧を安じて、日夜に坐禪をすゝめき。その席主とせる傳佛心印の宗師に、佛法の大意をとぶらひしかば、修證の兩段にあらぬむねをきこえき。

このゆゑに、門下の參學のみにあらず、求法の高流、佛法のなかに眞實をねがはむ人、 初心後心をえらばず、凡人聖人を論ぜず、佛祖のをしへにより、宗匠の道をおうて、坐禪辧道すべしとすゝむ。

きかずや、祖師のいはく、(a)「修證はすなはちなきにあらず、染汚することはえ」。

又いはく、(b)「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。 (岩波文庫本 (一)ー二八―三〇頁)

 

この中で、道元の (a) のより詳細な「南嶽不染汚の話」の引用としては、『永平廣録』卷七の四九〇上堂がある。

上堂。云、記得。南嶽懷讓禪師、初參曹谿之時、六祖問、汝什麼處來。讓云、嵩山安國師處來。祖云、是什麼物恁麼來。讓罔措。終至八年、讓告祖云、懷讓會得某甲初來時、和尚接某甲、是什麼物恁麼來。祖云、汝作麼生會。 讓云、説似一物即不中。祖ム、還假修證也無。讓云、修證即不無、汚染即不得。祖云、只是不汚染、即諸佛之所護念。汝亦如是、吾亦如是、乃至西天諸祖亦如是。 (春秋社本四ー七〇頁) (『洗淨』春秋社本二ー八〇頁も參照)

これが次の 『天聖廣燈録』 卷八 「南岳懷讓章」からの引用であることも、つとに指摘されてきている。

時有同學坦然。知師志氣高邁、勸師同謁嵩山安禪師。安啓發之、不契。乃直詣曹溪禮六祖。祖問、什麼處來。師云、嵩山安禪師處來。祖云、什麼物與麼來。師無語。經于八載、忽然有省。乃白祖云、某甲有箇會處。祖云、作麼生。師ム、説似一物即不中。祖云、還假修證也無 師云、修證即不無、不敢汚染。祖云、柢此不汚染、是諸佛之護念。吾亦如是、汝亦如是。西天二十七祖般若多羅讖汝日、震旦雖闊無別路、要假兒孫脚上行。金難解銜一粒米、供養什邡羅漢僧  (續藏卷一三五ー三二五左上) (『行持』 (岩波文庫本一ー三三三頁)に引用される『禪林寶訓』卷一 (大正卷四八ー一〇一八c) も參照)

このように、「本證妙修」説を遡及していけば、六祖慧能(六三八ー七一三)と南嶽懷讓(六七七ー七四四)の唐代禪に行き着くことになる。

それでは、唐代の禪と道元の主張が一致するかどうかを後に檢討する前に、ここで、視點を變えて、道元の修證觀と宋代の修證觀との相違を、大慧宗呆(一〇八九ー一一六三) の説を通して確認しておこう。

大慧との修證觀の相違を考える時に、筆者が常に取り上げる箇所の一つが、『大慧普覺禪師語録』卷一八「孫通判請普説」の次の文である。

又云、始覺合本之謂佛。言以如今始覺合於本覺。往往邪師輩、以無言默然爲始覺、以威音王那畔爲本覺。固非此理。既非此理、何者是覺。若全是覺、豈更有迷。若謂無迷、爭奈釋迦老子於明星現時忽然便覺、知得自家本命元辰元來在這裏。所以言、 因始覺而合本覺。如禪和家、忽然摸著鼻孔、便是這箇道理。然此事人人分上無不具足。

 〈又た云く、 始覺本と合して之れを佛と謂う。言(いうこころ) は如今(いま)の始覺を以て本覺に合す。往往邪師の輩は、無言默然を以て始覺と爲し、威音王那畔を以て本覺と爲す。固(もと)より此の理にあらず。既に此の理にあらざれば、何者か是れ覺なる。若し全て是れ覺ならば、豈に更に迷い有らんや。若し迷い無しと謂わば、釋迦老子の明星現ずる時に忽然として便ち覺し、自家の本命元辰の元來(がんらい)這裏に在るを知得るを爭奈せん。所以に言う、始覺に因りて本覺に合す、と。 禪和家の如く、忽然として鼻孔を摸著するは、便ち是れ這箇の道理なり。然も此の事は人人分上、具足せざるは無し。〉

(大正卷四七ー八八八a 、『四卷本普説』卷四「妙心居士孫通判請普説」東洋文庫本三丁左も參照)

 

ここは大慧が「看話禪」の立場(=始覺門)から言う「默昭邪禪」(=本覺門)との相違を述べたところで、「覺」(=悟)の必要性を主張する箇所である。そのことを次のように圖式化しておいた。 (拙著『禪語録〈大乘佛典 中國・日本篇 〉』四八五頁、中央公論社、一九九二年)

唐代禪(→默照禪)徹底的自己肯定=絶對的自己肯定看話禪         相對的自己肯定→否定

→絶對的自己肯定

 

大慧が現實の迷いを「否定」する「悟」を導入したことは、明らかに今囘、問題にしている道元の「本證妙修(=證上の修) と異なる修證觀が見られる。筆者はその相違は、自明の理であって、默照禪と異なることを強調したのが、拙著『宋代禪宗史の研究』 (大東出版社、 一九八七年) であるが、その點はここでは割愛することにしよう。

更に、大慧がいかに「悟 (=覺)を強調したかは、『大慧普覺禪師語録』卷二一「示呂機宜〈舜元〉(法語)を見れば、より一層そのことが判明しよう。

近世叢林有一種邪禪。執病爲藥、自不曾有證悟處、而以悟爲建立、以悟爲接引之詞、以悟爲落第二頭、以悟爲枝葉邊事。自己既不曾有證悟之處、亦不信他人有證悟者。一味以空寂頑然無知、喚作威音那畔空劫已前事。逐日瞳却兩頓飯、事事不理會、一向嘴盧都地打坐、謂之休去歇去。纔渉語言、便喚作落今時、亦謂之兒孫邊事。將這黑山下鬼窟裏底爲極則、亦謂之祖父從來不出門。以己之愚、返愚他人。釋迦老子所謂、譬如有人自塞其耳、高聲大叫、求人不聞。此輩名爲可憐愍者。

〈近世の叢林に一種の邪禪有り。病に執して藥と爲し、自ら曾て證悟の處有らずして、而も悟を以て建立と爲し、悟を以て接引の詞と爲し、悟を以て第二頭に落つと爲し、悟を以て枝葉邊の事と爲す。自己既に曾て證悟の處有らず、亦た他人に證有ることを信じず。  味に空寂頑然として無知なるを以て、喚んで威音那畔、空劫已前の事と作す。日を逐うて兩頓の飯を瞳却し、事事、理會せずして、一向に嘴(し)盧(ろ)都(と)地(じ)に打坐し、之れを休し去り歇し去ると謂う。纔(わず)かに語言に渉るや、便ち喚んで今時に落つと作し、亦た之れを兒孫邊の事と謂う。這の黑山下鬼窟裏の底(ところ)を將ちて極則と爲し、亦た之れを祖父より從來(このか)た門を出でずと謂う。己の愚を以て、返りて他人を愚な らしむ。 釋迦老子の所謂(いわゆ)る、譬如(たとえ)ば人有りて自ら其の耳を塞ぎて、 高聲に大いに叫んで、人の聞かざるを求むがごとし。此の輩をもて名づけて憐愍すべき者と爲す。〉(大正卷四七ー九〇一c。  拙著『禪語録』一六一頁參照。)

 

この看話禪の體系を構築する過程が大變興味深く、紹興四年(一一三四)の大慧四十六歳の時に、福建省の默照禪批判を通して確立したことが、『四卷本普説』卷三 「方敷文請普説」で確認できるのである。

後來住洋嶼庵、從三月初五、至三月二十一、連打發十三人。又接得箇八十四歳老和尚、喚作大悲長老、問他、不與萬法爲侶者、是甚麼人。云、喚不起。又問、喚不起者、 是甚麼人、速道速道。他豁然省、浹背汗流。元初盡是不信悟底、忽然一時悟。山僧從此話頭方行、毎與人説

〈後來(のち)に洋嶼庵(ようしょあん)に住す、三月の初五より、三月二十一に至るに、十三人を連打發す。又た箇の八十四歳の老和尚、喚んで大悲長老と作すを接得し、他に問う、萬法と侶爲(ともた)らざる者、是れ甚麼人ぞ。云く、喚び起こしきれす。又た問う、喚び起こしきれざる者、是れ甚麼人ぞ、 速(すみや)かに道え、速かに道え。他豁然として省し、背を浹(うるお)して汗流る。元初盡く是れ悟を信ぜざる底にして、忽然として一時に悟る。 山僧これより話頭方(はじ)めて行い、毎に人の與(ため)に説く。(東洋文庫本八丁左、『大慧普覺禪師年譜』 紹興四年條參照)

わずか半月の閒に「悟」 を信じない者十三人を一氣に悟らせた經驗を通して自信を得て後に、「山僧これより話頭方(はじ)め、毎に人の與(ため)に説くというのである。「悟」を信じない人びととは、大慧のいう福州の默照邪禪を指すのである。

大慧の主張が「悟」を目的とするところから、道元の入宋當時の禪宗、特に直接見聞した大慧派の人びとの坐禪觀とは異なることは、『永平廣録』卷八「法語十一」に次のように明らかなのである。

  就中有行有教有證。彼行者、功夫坐禪也。此行到佛尚不退者例也、所以被佛行也。敎證準而可瞼歟。此坐禪也、佛佛相傳、祖祖直指、獨嫡嗣者也 餘者雖聞其名、不同佛祖坐禪也。所以者何、諸宗坐禪、待悟爲則 譬如假船筏而度大海、將謂度海而可抛船矣。吾佛祖坐禪不然、是乃佛行也。所謂佛家爲體者、宗説行一等也、一如也。宗者證也、説者敎也、行者修也。向來共存學習也。

〈中に就いて行有り敎有り證有り。彼の行というは、功夫坐禪なり。此の行は佛に到りてすら尚お退かざるは例なり、佛に行ぜられる所以なり。敎と證も準じて撿すべきか。此の坐禪や、佛佛相傳し、祖祖直指して、獨り嫡嗣なる者なり。餘者は其の名を聞くと雖も、佛祖の坐禪に同じからざるなり。所以は何(いか)んとなれば、諸宗の坐禪は、悟を待つを則と爲す。譬如(たとえ)ば船筏を假りて大海を度(わた)るがごとく、海を度れば船を抛つべしと將謂(おも)えり。吾が佛祖の坐禪は然らず、是れ乃ち佛行なり。所謂(いわゆ)る佛家の爲體(ていたらく)は、宗説行一等なり、一如なり。宗とは證なり、説とは敎なり、行とは修なり。向來共に學習を存するなり。

(春秋社本四ー一六二―一六四頁)

以上のように、宋代禪と道元においては、 修證觀が全く異なることを、概觀してみたが、 更に道元には、「『説心説性』『自證三昧』考 (『駒澤大學佛敎學部研究紀要』第六七號、二〇〇九年)で論じたように、直接の大慧批判の著述も存在し、それを檢討すればより一層明確になるのである。

それでは唐代の禪と道元の主張は一致すると言えるのであろうか この問題を考えるに當って『辧道話』の本證妙修説に引用される (b) の「道をみるもの、道を修す」を根據としている問題を取り上げてみよう。

その語の基づくところは、司空山本淨(六六七ー七六一) の語と思われる。本淨の傳は、『宋高僧傳』卷八「唐金陵天保寺智威傳」の付傳(本淨) にあり、次のように簡單ではあるが、ほば略傳としてまとまっている。

次に司空山釋本淨、姓は張氏、東平(山東省)の人なり。少くして空門に入り、其の節操を高くす。遊方して曹溪の六祖に見え、疑滯を決了せり。 開元の初(七一三~)、南嶽の司空山に於て、閑放自ら處(お)り、人、我を知らず。蔽僞するが故なり。天寶中(七四二―七五六)、楊庭光の藥を采るに因りて、邂逅して相い逢い、 道を論ずること終日なり。迥りて奏じて詔して京に赴かしめ、白蓮華亭に於て安置す。帝は佛法の幽深なるを知るも、孰んぞ商擢に堪えん。敕して太平寺の遠法師及び兩街の三學の碩德を召し、發問鋒起して、百矢の一兔を逐うが若し。淨は擧措容與として四面枝梧す。譬えば墨瞿の九攻の機械を解くがごとし。既にして辯は建瓴の若し。詶抗の餘、乃ち了義敎を引きて援證す。復た伽陀を説きて、一も留滯無し。皇情懌悅し、觀る者歎嗟す。上元二年(七六一)五月五日を以て歸寂す。壽齡九十五。敕して大曉禪師と謚す。亦た所居を帶びて名と爲し、司空山禪師と日う。

(大正卷五〇ー七五八c)

 

ここに楊庭光(『傳燈録』ハ楊光庭ニ作ル)と出會ったことと、「伽陀を説」いたことについて觸れられているが、『景德傳燈録』にしても、『祖堂集』にしても、現在傳承されているものは、そのことにほば限定することができる。 司空山本淨の『景德傳燈録』卷五の章を、十段に分けると、③~⑨までに「偈」があり、全段、語句の異同はあるが、問答の順序も同じで『祖堂集』卷三にもあるのである。道元の場合は『景德傳燈錄』の引用に限られるので、 密接に關連する所の『景德傳燈錄』を抜粋して掲げてみよう。

➀司空山本淨禪師者、絳州人也。姓張氏。幼歲披緇、于曹谿之室受記。 隸司空山無相寺。

(司空山本淨禪師は、絳州(山西省)の人なり。姓は張氏。幼歲にして緇を披(き)て、曹谿の室に于(おい)て記を受ㄑ。司空山無相寺に隸す。)

  ②唐天寶三年、玄宗遣中使楊光庭人山采常春藤。因造丈室禮問日、弟子慕道斯久、願和尚慈悲、略垂開示。師日、天下禪宗碩學成會京師。天使歸朝、足可咨決。貧道隈山傍水、無所用心。光庭泣拜。師日、休禮貧道。天使為求佛耶、問道耶。日、弟子智識昏昧。未審佛之與道其議云何。師日、若欲求佛、卽心是佛。若欲會道、無心是道。曰、云何卽心是佛。師日、佛因心悟、心以佛彰。若悟無心、佛亦不有。日、云何無心是道。師日、道本無心、無心名道。 若了無心、無心卽道。光庭作禮信受。旣迴闕庭、具以山中所遇奏聞。卽敇光庭詔師。 十二月十三日、到京。敇住白蓮亭。

(唐の天寶三年(744)、玄宗、中使楊光庭を遣わし山に入りて常春藤を采(と)らしむ。因みに丈室に造(いた)りて禮問して日く、弟子、道を慕うこと斯に久し、願わくは和尚慈悲もて、略して開示を垂れんことを。師日く、天下の禪宗の碩學は咸(み)な京師に會す。天使歸朝して、咨決すべきに足らん。貧道は隈山傍水にて、心を用いる所無し。光庭泣いて拜す。師日く、貧道を禮するを休めよ。天使は為(は)た佛を求むる耶、道を問う耶。日く、弟子が智識昏昧なり。未審(いぶか)し、佛と道とは、其の議は云何(いかん)。師日く、若し佛を求めんと欲せば、卽心是れ佛なり。若し道を會せんと欲せば、無心是れ道なり。曰く、云何が卽心是れ佛なる。師日く、佛は心に因りて悟る、心は佛を以て彰(あら)わる。若し無心を悟らば、佛も亦た有らず。日く、云何が無心是れ道なる。師日く、道は本より無心なり、無心を道と名づく。 若し無心を了(さと)らば、無心は卽ち道なり。光庭は作禮して信受す。旣に闕庭に迴り、具(つぶさ)に山中の遇する所を以て奏聞す。卽ち光庭に敇して師を詔せしむ。 十二月十三日に、京に到る。敇して白蓮亭に住せしむ。

➂④ 省略

⑤  又有眞禪師者問云、道旣無心、佛有心否。佛之與道、是一是二。師日、不一不異。 日、佛度衆生、爲有心故 道不度人、爲無心故。一度一不度、 何得無二。師日、若言佛度衆生、道無度者、 此是大德妄生二見。如山僧即不然。佛是虚名、道亦妄立。二倶不實、總是假名。 一假之中何分二。 問日、佛之與道、從是假名、當立名時、是誰爲立。若有立者、何得言無。 師日、佛之與道、因心而立。推窮立心、心亦是無。心既是無、 即語二倶不實。知如夢幻、 即悟本空。彊立佛道二名、此是二乘人見解。師乃説無修無作偈日、

 見道方修道、不見復何修。

 道性如虚空、虚空何所修。

 偏觀修道者、撥火覓浮□(氵+区)

 但看弄傀儡、線斷一時休。

 (又た眞禪師なる者有りて問うて云く、道既に無心ならば、佛は心有るや。佛と道とは、 是れ一なるや、是れ二なるや。師日く、一にあらず異にあらず。日く、佛は衆生を度す、心有るが爲の故に。道は人を度さす、無心なるか爲の故に。一は度し一は度さず、何ぞ二無きを得ん 。師日く、若し佛は衆生を度し、道は度すこと無きと言わば、此れは是れ大德妄りに二見を生ぜり。山僧の如きは即ち然らず。佛は是れ虚名にして、道も亦た妄りに立つ。二倶に實にあらす、總て是れ假名なり。一假の中に何ぞ二を分たん。 問うて日く、佛と道とは、從い是れ假名なるも、名を立つる時に當りて、是れ誰か立つるを爲さん。若し立つる者有らば、何ぞ無と言うことを得ん。師日く、佛と道とは、心に因りて立つ。心を立つるを推窮するに、心も亦た是れ無なり。心既に是れ無ならば、即ち二倶に實ならざるを悟る。夢幻の如きを知れば、即ち本空を悟る。彊いて佛と道との二名を立つるは、此れは是れ二乘人の見解なり。師は乃ち無修無作の偈を説いて日く、

 道を見て方めて道を修す、見ざれば復た何ぞ修せん。道の性は虚空の如し、 虚空は何ぞ修する所あらん。偏く道を修する者を觀るに、火を撥(はら)いて浮□(氵+区) を覓むるかごとし。

 但(も)し傀儡を弄するを看ば、線斷ちて一時に休せよ 。)

⑥ 又有法空禪師者問日、佛之與道、倶是假名、十二分敎亦應不實。何以從前尊宿、皆言修道。 師日、大德錯會經意。道本無修、大德彊修。道本無作、 大德彊作。道本無有、 彊生多事。道本無知、於中彊知。如此見解、與道相違。從前尊宿、不應如是。自是大德不會。請思之。 師又有偈日、。

道體本無修、不修自合道。

若起修道心、此人不會道。

 棄卻一眞性、卻入鬧浩浩。

 忽逢修道人、第一莫向道。〈有ハ別本ノ宋版ニ事ニ作ル。祖モ事ニ作ル〉

〈又た法空禪師なる者有りて問うて日く、佛と道とは、倶に是れ假名ならば、十二分敎も亦た應に實ならざるべし。何以(なにゆえ)に從前の尊宿は、皆な道を修すと言うや。 師日く、大德は錯りて經意を會せり。道は本より修無きに、大德は彊いて修す。道は本より作無きに、大德は彊いて作せり 道は本より無事なるに、彊いて多事を生ぜり。道は本より知無きに、中の於て彊いて知れり 此の如き見解は、道と相違す。從前の尊宿は、應に是の如くなるべからず。是れより大德は會せざるなり。請う之れを思え。師又た偈有りて日く、

  道の體は本より修無し、修せずして自ら道に合す。

若し道を修するの心を起こさば、此の人は道を會せず。

 一の眞性を棄卻して、鬧浩浩に卻入す。

忽(も)し道を修するの人の逢えば、 第一に道に向かうこと莫れ。〉

⑦⑧⑨ 省略

⑩ 上元二年五月五日鍗寂。敕謚大曉禪師。

〈上元二年(七六一)五月五日に歸寂す。敕して大曉禪師と謚す。〉

(禪文化本八〇~八三頁。禪文化本ハ東禪寺版宋版)

全文を 『祖堂集』 と比較しながら司空山本淨その人の主張を檢討する必要性を感するが、道元との比較においては混亂を生ずるので、必要最小限に留めておこう。

ここで道元の「道をみるもの、道を修す」の引用には、原意から二重の意味での逸脱が見られる。第一は「見道方修道」の五字について言うと、「方」の一字を省略することによって、道元は「修」と「證」が同時と讀み替えており、元來は、「修」が先にあり、その後に 「證」が成り立つという異時であったものである。南嶽懷讓と馬祖道一との問答の磨墫作鏡の話を、鏡島元隆氏がその著『道元禪師と引用經典・語録の研究』 (木耳社、一九六五年)で「原文では修行の發足點と到達點とが異時として示されたものが、同時として讀なおされている例」と指摘した例と同じであり、この磨墫作鏡の話が道元の主張にいかに重大であるかについては、筆者も何度もくりかえしてきたことである。 例えば、「なぜ道元禪は中國で生まれなかったか (拙著『道元禪師 正法眼藏行持に學ぶ』所收、禪文化研究所、二〇〇七年)に、道元の磨墫作鏡の話のテキストを掲げ、次のように示めしておいた。

道元のテキスト、眞字『正法眼藏』第八則。

洪州江西馬祖大寂禪師 〈嗣南嶽、諱道一〉、參侍南嶽、密受心印、蓋拔同參。住傳法院、常日坐禪。南嶽知是法器、往師所問日、大德坐禪圖箇什麼。師日、圖作佛。南嶽乃取一塼、於師庵前石上磨。 師遂問、師作什麼。南嶽日、磨作鏡。師日、磨墫豈得成鏡耶。南嶽日、坐禪豈得作佛耶。師日、如何即是。南嶽日、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。師無對。南嶽又示日、汝爲學坐禪、爲學坐佛。若學坐禪、禪非坐臥。若學坐佛、佛非定相。於無住法、不應取捨。汝若坐佛、即是殺佛 若執坐相、非達其理。師聞示誨、如飲醍醐。(春秋社本五ー一一一八~三〇頁)

磨塼作鏡の話はもちろん中國にあったが、道元のテキストは中國に存在しない。それは(イ)『景德傳燈録』卷六 「馬祖道一章」と (ロ)卷五 「南嶽懷讓章」の合糅という新たな話であったからである。

 

(イ)唐開元中、習禪定於衡嶽傳法院、遇讓和尚。 同參九人、唯師密受心印。(禪文化本ー八八頁)

(ロ) 開元中有沙門道一〈即馬祖大師也〉。住傳法院常日坐禪。師知是法器。往問日、大德坐禪圖什麼。一日、圖作佛。師乃取一塼於彼庵前石上磨。一日、磨塼作麼。師日、磨作鏡。 一日、磨墫豈得成鏡耶。 師日、磨塼既不成鏡、坐禪豈得成佛耶。一日、如何即是。師日、如牛駕車、車不行、打車即是、打牛即是。一無對。師又日、汝爲學坐禪、爲學坐佛。若學坐禪、禪非坐臥。若學坐佛、佛非定相。 於無住法、不應取捨。汝若坐佛、即是殺佛。若執坐相、非達其理、一聞示誨、如飮醍醐。 (同ー七六~七頁)

道元のテキストが中國には絶對に存在しないということは、何度強調してもし過ぎることはないし、道元禪は中國禪からでは生まれてこないものなのである。中國のテキストでは、馬祖の坐禪が「習禪定」であり、「道一聞示誨、如飲醍醐」を經て、「密受心印」すると傳えるが、その説こそ道元の最も嫌悪したものであった。 それ故に道元の「南嶽磨墫作鏡の話」の馬祖の坐禪は「密受心印」後の坐禪でなければならなかった。

これらの關係を圖示すれば、次のようになろう。

 

唐代禪  磨塼(習坐禪)→不作鏡(不作佛)の示誨→開悟→密受心印

道元禪  密受心印→ 磨塼(習坐禪・修)=作鏡(作佛・證)

 

つまり、道元の話は、流布本『普勸坐禪儀』の「坐禪は習禪にあらず、唯だ是れ安樂の法門なり、菩提を究盡するの修證なり」 (春秋社版全集四ー一七八頁) の説を思い出すと共に、馬祖の坐禪がすべて「密受心印」後の坐禪として一貫して説いていることは、『古鏡』、『坐禪箴』、『行持』で確認でき、その一貫性は驚くべきことと考えたのである。

さて、司空山本淨の引用は、それに留まらない第二の相違があり、それが元來の本淨の主張だったのである。 眞禪師 (『祖堂集』ハ白馬寺惠眞ニ作ル) への答えでは、 佛は假名で、道も妄立であり、 彊いて佛と道の二名を立てるのは、 二乘の見解であると否定しているのである。その偈のタイトルとは、「無修無作偈」であり、それに相當する 『祖堂集』 では、 「無修偈」と言っている。その偈のタイトルが示すように、「道の本性は虚空の如きものであり、虚空であるならば何ぞ修すべき所があろうか」と言い、結局、修すべき道はないと言っているのである。續く法空禪師への答えを參照すれば、道は修すべきものでもなく、作すべきものでもなく、道は「本來無事」と言っており、その趣旨は道を修するのは、むしろ空しい努力であるとすら言っているのである。

今囘の論文は、司空山本淨を中心としているので、『祖堂集』の資料價値が 『景德傳燈録』 に比べて高いことを考慮して、その主張の 「無心是道」の特色を更に一つ取り上げて問題にしてみよう。『景德傳燈録』の楊光庭と司空山本淨との問答は②のようになっていた。

光庭泣拜。師日、休禮貧道。天使爲求佛耶、問道耶 日、弟子智識昏味。未審佛之與道其議云何。師日、若欲求仏、即心是佛。 若欲會道、無心是道。日、云何即心是佛。師日、佛因心悟、心以佛彰。若悟無心、佛亦不有。日、云何無心是道。師日、道本無心、無心名道。若了無心、無心即道。光庭作禮信受。

この②に相當する『祖堂集』は、後半に語句を異にして、修證論か見られる。

中使設禮再請。師日、爲當求佛、爲復問道。 若求作佛、即心是佛。若欲問道、無心是道。中使不會、再請説之。師又日、若欲求佛、即心是佛、佛因心得。若悟無心、佛亦無佛。 若欲會道、無心是道。中使日、京城大德皆令布施、持戒、忍辱、苦行等求佛、今和尚日、 無漏智性、本自具足、本來淸淨、不假修行。故知、前虚用功耳。 (中華書局本上ー一七九~一八〇頁)

『祖堂集』のみに見られる司空山本淨の「無漏智性、本自具足、本來淸淨、不假修行」の語句は、圭峯宗密(七八〇ー八四一)の 『禪源諸詮集都序』卷一の五種禪(外道禪・凡夫禪・小乘禪・大乘禪・最上乘禪) の最上乘禪の説明に近似している。

 

若頓悟自心本來淸淨、元無煩惱、無漏智性、本自具足、此心即佛、畢竟無異、依此而修者、是最上乘禪。亦名如來淸淨禪、亦名一行三味、亦名眞如三昧。此是一切三昧根本。若能念念修習、自然漸得百千三昧。達摩門下展轉相傳者、是此禪也。達摩未到、古來諸家所解、皆是前四禪八定、諸高僧修之、皆得功用。南岳天台令依三諦之理、修三止三観、敎義雖最圓妙、 然其趣入門戸次第、亦只是前之諸禪行相。唯達摩所傳者、頓同佛體、迥異諸門。 (大正卷四八ー三九九b )

ここは圭峯宗密の「頓悟漸修説」である。また、宗密の、慧可の達磨得法の「本無煩惱、 元是菩提」という極頓(ごくとん)説が、四明知禮(九六〇ー一〇二八)の『十不二門指要鈔』卷上(大正卷四六ー七〇七b) で批判され、引いては榮西(一一四一ー一二一五)の『興禪護國論』において、修行不要論としての日本達磨宗批判に展開することは、道元を考える場合に注目されるのである。 (拙稿「『四馬』考」參照、『駒澤大學佛敎學部研究紀要』五九號、 二〇〇一年)

また、司空山本淨と同樣の説として黄檗希運(生沒年不詳) の 『黄檗斷際禪師宛陵録』 がある。

上堂云、即心是佛 上至諸佛、 下至蠢動含靈、皆有佛性、同一心體。所以達摩從西天來、 唯傳一心法、直指一切衆生本來是佛、不假修行。但如今識取自心、見自本性、 更莫別求。云何識自、即如今言語者 正是汝心。」 (大正卷四八ー三八六b )

ここにも修行不要論があり、 興味深いことは、筆者が「道元日本達磨宗批判」(『道元禪の成立史的研究』所收)で、日本達磨宗の所依の經典としての黄檗希運の 『傳心法要』 や 『宛陵録』 を指摘したが、近年、名古屋の眞福寺文庫においてもその證據となるテキストの存在が報告されるに至っている。ここでも司空山本淨の修證觀が、先に述べたことと共通することが確認できるであろう。

このような説は、司空山本淨に限られる特殊なものであろうか。 禪宗史上に大きな影響を與えた荷澤神會(六八四ー七五八)に對して、胡適(一八九一ー一九六二)は、神會が王維に答えた説とその特色を次のように述べている。

   所以神會對王維説、衆生若有修、即是妄心、不可得解脱。這是純粹的自然主義了。 (『 神會和尚遺集』五三頁、胡適記念館、 一九六八年)

つまり、胡適は神會の説を、「これは純粹の自然主義である」と評していたのである。荷澤神會は司空山本淨と六祖慧能門下の兄弟弟子に當たるのである。

かつて小川隆氏は「荷澤溿會の人と思想」(『禪學研究』六九、一九九一年二月) の中で、神會の修證論を次のように表現していた。

   一般に「する」論理、ないし「なる」論理によって理解されている修證の理論を、神會はすっかり「である」の論理によって書き換え、主體の質的轉換や新たな價値の獲得・創出を含意しない、本來相の無媒介の是認という思想に改變しているのである。(小川隆著『神會ー敦煌文獻と初期の禪宗史ー』臨川書店、二〇〇七年も參照)

この分析は、まことに興味深いものがある。このような流れが形成されると、唐代の禪は一般に「無事禪」と呼ばれる特色を持つようになるのである。中でも臨濟義玄(?ー八六六) の 『臨濟録』 (=『天聖廣燈録』卷一一臨濟義玄章) の次の説示は有名である。

師又云、佛法無用功處、祗是平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯、困來即臥。 愚人笑我、智乃知焉。古人云、向外作功夫、總是癡頑漢。你且隨處作主、立處皆眞。

 〈師又た云く、佛法は功を用いる處無し、祗だ是れ平常無事にして、屙屎送尿、著衣喫飯、困じ來たれば即ち臥す。愚人は我を笑うも、智乃ち焉(これ)を知る。古人云く、外に向かって功夫を作すは、總て是れ癡頑の漢なり 倆且く隨處に主と作れば、立處皆な眞なり〉

(續藏卷一三五ー三四六左下)

唐代の無事禪は馬祖禪の特色である「作用即性説」、つまり心の本質である佛性の「體」と心のはたらきである佛性の「用」は同一であると分析されることにもなる。それを別の表現ですれば、日常のあらゆる行爲がそのまま佛性のはたらきとされるのである。

ところで、本證妙修とか、證上の修ということが、道元自身の傳記の上でどのように示されていたのかを檢討してみたのか、今年のハワイで開催された「道元の靈夢の中での大梅法常との出會いと修証観」であり、今囘の發表と密接に關連するのである。その發表の要旨の一つは、道元は 『永平廣録』卷四の三一九上堂で、大梅法常(七五二ー八三九) について、師の天童如淨の説を繼承して次のように本證妙修説で解釋している。

上堂。佛佛祖祖正傳正法、唯打坐而已。先師天童示衆云、汝等知大梅法常禪師參江西馬大師因縁也不。他問馬祖、如何是佛。祖云、即心即佛。便禮辭、入梅山絶頂、食松華、衣荷葉、日夜坐禪而過一生。 將三十年、不被王臣知、不赴檀那請。乃佛道之勝躅也。測知、坐禪是悟來之儀也。悟者只管坐禪而已。

〈上堂。佛佛祖祖の正傳の正法は、唯だ打坐のみ。先師天童、衆に示して云く、汝等、大梅法常禪師の江西馬大師に參ぜし因縁を知るや。他、馬祖に問う、如何なるか是れ佛。祖云、即心即佛。便ち禮辭し、梅山の絶頂に入りて、松の華(み)を食し、荷葉を衣て、日夜坐禪して一生を過ごす。將に三十年にならんとするも、王臣に知られず、檀那の請に赴かず 乃ち佛道の勝躅なり。測り知りぬ、坐禪は是れ悟來の儀なり。悟は只管坐禪のみなることを。〉 (春秋社本三ー二〇六頁)

 

實際の大梅は「坐禪是悟來之儀」として、「日夜坐禪而過一生」ではなくて、今まで紹介した唐代禪でいえば、「無事禪」として生涯を送ったのであって、決して積極的な「悟者只管坐禪」 の行の強調ではなかったのではないか。 このことが天童如淨との出會い以前における大梅山での靈夢で經驗した、大梅法常からの梅華による傳法と結びつくと考えてよいのではないかということである。

以上のように、道元の本證妙修説は、司空山本淨の元來の主張からみると、唐代禪にも遡及できないどころか、そこには「修」の強調はなく、唐代當時の六祖慧能の『曹谿大師傳』の「道は心に由りて悟る。豈に坐に在らんや」 (駒澤大學禪宗史研究會編『慧能研究』四五頁、大修館書店、 一九七八年。拙著『禪語録』二五頁參照)とか、その門下の永嘉玄覺(六七五ー七一三) の『證道歌』で有名な「行もまた禪、坐もまた禪、語默動靜體安然」(『景德傳燈錄』卷三○所收、禪文化本六二四頁)に見られるような、四威儀の中の「坐」の開放が確認できるのである。

  最後に、ここに重大でしかも難問題に遭遇することになる。果たして六祖慧能と南嶽懷讓の「南嶽不染汚の話」の問答が、道元の「本證妙修」說と完全に一致するかどうかという 問題に立ち返らなければならない。道元のこの話の從來の解釋に對して、筆者は常に『正法眼藏隨聞記』卷六の說を參考にしてきた。

  ただ身心を佛法 なげすてて、更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく、是れを不染汚の行人と云うなり。「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ。」と云う、このこころなるべし。(ちくま学芸文庫本三九四頁)

 このように「南嶽不染汚の話」を解釈すれば、「不染汚の修証」は、無窮の修証として「修」がどこまでも強調され、道元の修証観として問題を生じることはないことになろう。

 しかし、唐代の中国禅の意味するところは、以上に検討してきたような修証観であるとすれば、南嶽懐譲の説については、その法嗣の馬祖道一の有名な『景徳伝灯録』巻二八の示衆こそ最も適切な。しかも見事な注釈になっていると言えるのではなかろうか。

江西大寂道一禪師示衆云、道不用修、但莫汚染。何為汚染。但有生死心、造作趣向、皆是汚染。若欲直会其道平常心是道。謂、平常心無造作、無是非、無取捨、無斷常、無凡無聖。經云、非凡夫行、非賢聖行、是菩薩行。只如今行住坐臥、應機接物、盡是道。道卽是法界。乃至河沙妙用不出法界。

この說は、唐代禪の典型的な「無事禪」や「平常心是道」の主張とされるものであって、確かに「汚染(道元のいう染汚)」には、「造作」つまり「ことさらな行い」や「趣向」つまり「目的意識をもつこと」の否定はあるが、「道不用修」の主張が「平常心是道」の具體的な修證論であって、唐代禪の流れと一致するのである。さすれば、「南嶽不染汚の話」の「修證は即ち無きにあらず、敢えて汚染せず」の解釋は、唐代禪の流れとして受け取る必要があるのではなかろうか 決して冒頭に掲げた 『辧道話』の「修をはなれぬ證を染汚せざらしめんがために、佛祖しきりに修行のゆるくすべからさるとをしふ」というような解釋はできないのではなかろうか。

今囘の問題提起は、道元と唐代禪との關係を考察したものであるが、重大な課題が含まれていることは、ご理解いただけたと思われる。

 

(1) 衞藤即應『宗祖としての道元禪師』(岩波書店、一九四四年)。

(2)榑林皓堂『道元禪の研究ーその性格と構造』(東京、禪學研究會、 一九六三年)。

(3)衞藤即應 『正法眼藏序説』 (岩波書店、 一九五九年)。

(4)鏡島元隆 『天童如淨禪師の研究』 (春秋社、 一九八三年)。

(5)拙著 『道元禪師 正法眼藏行持に學ぶ』 二二二頁では、出典不明としていたが、その後に 『禪林寶訓』 であることが判明した。

 (6)この一文は、無盡居士張商英(一〇四三ー一一二一)の『註淸淨海眼經』の「如是我聞一時佛在」の「八成就」を説いたところの引用である。拙著『宋代禪宗史の研究』三四三頁參照。『淸淨海眼經』とは、『首楞厳經』のことで、明の錢謙益撰『楞嚴經疏解蒙鈔』 卷末三に「張無盡不依唐譯、改題爲淸淨海眼経。―具云大佛頂神呪無上寶印十方如來淸淨海眼經。」 (續藏卷二一ー三七四左下~三七五右上)とある。『首楞厳經』との關係を知ったのは、廣田宗玄氏の學位論文 (花園大學) の『大慧宗呆の禪思想成立に關する研究』を副査で讀んだ時のことである。

(7)この時に大慧が著わしたものに、「辯邪正説 (辯正邪説とも)」があったことが知られていて、筆者は以前その著は不傳と考えていた。廣田宗玄氏は「大慧宗呆の「辯邪正説」について」(『禪學研究』第七八號、二〇〇〇年)及び「大慧宗呆の邪禪批判の諸相ー「辯邪正説」 の檢討を通して」 (『禪文化研究所紀要』第二七號、二〇〇四年)で、大慧の『正法眼藏』の末尾の「示衆」がそれに相當することを主張した。その成果を承けて、唐代語録研究班編「『正法眼藏』卷三下末示衆譯注」 (『禪文化研究所紀要』第二七號、二〇〇四年)が公刋されている。

 (8)水野彌穗子校注『正法眼藏』(一)(岩波文庫、 一九九三年) 三〇頁及び補注四三七頁に指摘がある。

(9)道元の『正法眼藏』には、二種類あって、一般に知られている假名 (和文) で書かれたものの他に、近年注目されている漢字で書かれたものがあり、兩者を區別して前者を假名 (假

 字) 『正法眼藏』、後者を眞名(眞字(しんじ)) 『正法眼藏』と呼んでいる。後者は中國禪者の三百の話を集めたもの(『三百則』とも通稱) で、その基本的な撰述意圖は前者の臺本とされる。撰述時期は、嘉碵元年(一二三五)の「序」があるので、この年と考えられ、道元が三六歳の時で、最も初期の著述に當たる。 

(10) 例を『古鏡』にとると、「江西馬祖、むかし南嶽に參學せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨墫のはじめのはじめなり。馬砠、傳法院に住してよのつねに坐禪すること、わづかに十餘歳なり」 (岩波文庫本 (一l) ー四〇頁) とある。

(11) この圭峯宗密の五種禪の分類が、道元禪を含みきれないことについては、 拙著「宗密の五種禪再考」 (『道元禪の成立史的研究』 所收、 大藏出版、 一九九一年) で檢討したことがある。

(12) 日本達磨宗とは、比叡山に傳承された唐代禪で無師獨悟した大日房能忍を派祖とする禪を指し、榮西に先んじて關西で勢力をもった集團である。攝津の三寶寺が活躍地點である。 そもそも、道元敎團の主要な構成員であった元日本達磨宗出身者に對して 道元の生涯においてどのように敎化していくかが最大の難問題であったと考えられる。榮西の『興禪護國論』 では、日本達磨宗の主張を次のように記す。

或人妄稱禪宗、名曰達磨宗。而自云、無行無修、本無煩惱、元是菩提。是故不用事戒、不用事行、只應用偃臥。何勞修念佛、供舍利、長齋節食耶、云云。 (柳田聖山訓注一〇八頁。

『中世禪家の思想』所收、岩波書店、一九七二年)

( 13) 和田有希子「新出初期禪宗聖敎斷簡の復原と研究」(研究代表阿部泰郎 『中世宗敎テクスト體系の復原的研究ー眞福寺聖敎典籍の再構築ー』所收、科學研究費補助金(基礎研究(B)) 研究成果報告書)參照。その中の『傳心法要』について、「文治五年、遣宋使歸朝時、宋國佛照禪師送遣新渡心要、有先段無後段。 而奧有此傳心偈等。 已上十八行二百七十七字是祕本歟。 大日本國特賜金剛阿闍梨〈能忍〉、爲弘廻之、廣燈心要後段、了彫繼之也。後賢悉之。彫料淨施財者尼無求」の興味深い「奧書」が紹介されている。目下、その後にも離散した寫本の同定作業が繼續されている。

 (14) 日本語の元原稿については、『駒澤大學佛教學部論集』第四二號(二〇一一年一〇月刋行)に發表したが、シェフェリー・ コテック(JeffreyKotyk)(駒澤大學大學院修士課程二年)氏の英譯もアメリカの雜誌 (SUNYPress)に發表の豫定である。

( 15) 入矢義高編『馬祖の語録』 (禪文化研究所、 一九八四年)三二~三三頁參照。

(16 ) 曹洞宗では、宗風として、「威儀即佛法」「作法是宗旨」と通常暄傳しているか、「禪學大辭典』 (大修館書店) の編纂中に前者の出典が不明であると耳にしたことがあった。「威儀即佛法は、道元の認めなかった「作用即性」説に近いのではないか。もしそう言えるとすると、全く間違った道元の主張を後生大事に抱え込んだことになろう。『行佛威儀』の冒頭は「諸佛かならず威儀を行足す、これ行佛なり」(岩波文庫本(一) ー一五一頁)とあるから、それに基づけば「威儀即行佛」となろう。後者は『洗淨』に「その宗旨はかりつくすべきことかたし、作法これ宗旨なり、得道これ作法なり」(岩波文庫本(三)― 一八六頁) とあるから、間違いとは言えないが、ここでいう「宗旨」とは、直接には前文の 「佛果にいたりてなほ退せず、發せざるなり」であり、それを承けて、『洗淨』の冒頭にある「南嶽不染汚の話」と『大比丘三千威儀經』を踏まえて説いているのである。もし「作法是宗旨」を「威儀即佛法」と竝列的に解釋するとやはり「作用即性」説となろう。筆者は「威儀即行佛」「作法是佛作」か、「威儀作法是佛作佛行」として、道元の主張を誤らないようにすべきではないかと思っている。

〈キーワード〉道元、本證妙修説、司空山本淨、南嶽不染汚の話、無修無作説

〔付記〕

この論文は、 二〇一一年六月十一日に開催された早稻田大學東洋哲學會第二十八囘大會の講演をもとに加筆補正したものである。

 

 

これは『東洋の思想と宗敎 第二十九號』をダウンロードしたpdf論文を

ワード化し掲載したものである。多少の修訂を行なった旨を記す。(タイ国にて・二谷)