正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第十九 古鏡 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第十九 古鏡 註解(聞書・抄)

 

諸佛諸祖の受持し單傳するは古鏡なり。同見同面なり、同像同鑄なり、同參同證す。胡來胡現、十萬八千、漢來漢現、一念萬年なり。古來古現し、今來今現し、佛來佛現し、祖來祖現するなり。

詮慧

〇此の「古」の字は、古しとは心得まじ。非対新、物の極めたる心なり。諸法実相と説き、三界を一心と説く、今の「古鏡」(と)同事也。

〇「古鏡」は『観音』の草子に、大悲菩薩許多手眼と云う、同じかるべし。「諸仏諸祖の受持し単伝する」(は)、古鏡用作麽と云うべし。「諸仏諸祖の単伝」は、払子拄杖とも云わんが如し。今の古鏡の「古」(は)、すでに新古を超越したる時に、「古来古現」とも云う、これ古鏡の古也。此の「古来古現は、今来今現也。今来今現は、又仏来仏現なり、祖来祖現」と云う。顕然の道理なり。「漢来漢現」又同じ。

〇天台に三諦を説く時、「鏡」に喩うる事あり。是猶世間の見を不離也。今の「鏡」に映る諸法を仮諦と説く。此の仮を映す「鏡」を空諦と説く。「鏡」に映れども如無其実なる所を中道と説かる。是猶大円鏡、古鏡などと談ずる所には不及。能所を置きて映すと云うゆえに。

〇教に伝教附財と云う天台の名目あり。是は以二乗為菩薩使、ようよう機を近づけん為の方便なり。但直指の法とこそ、此の宗門を云う時に、方便も譬喩も不可入。『見成公案』一帖、『摩訶般若』『仏性』等の一帖にても、可足事なれども、さすがにものを初めて聞くになれば、覚束なきゆえに、七十五帖の草子も出で来るは、しばらく伝教附財にもあたるなり。法を習う上は法と習うと、能所を置く事なけれども、又今の学人もあるが如し。能々心得て可学也。不可似教学也。

〇「胡来胡現、十万八千」と云うは、是は「来」と「現」と一つに心得なり。又「来現」の間を、「十万八千」と云う。空与地相去る事十万八千里と云うにて心得べし。又空と空と相去るとも云いつべし。

経豪

  • 「諸仏諸祖」の外に、鏡を別に談ずると不可心得。今所伝の「諸仏諸祖を以て古鏡」とは談ずるなり。ゆえに「同見・同面・同像・同鋳・同参・同証」とは云わるる也。「胡」も古鏡なれば、「胡来胡現」と云われ、「漢」も古鏡なれば、「漢来漢現」とは云う也。「十万八千も、一念万年」も、古鏡の上の十万八千一念万年也。不可拘数量、依報正報、皆「古鏡」なるべし。「仏来仏現し、祖来祖現」(も)、皆「古鏡」の上の所談なるべし。是れ則ち仏祖所談の「鏡」の道理なるべし。「諸仏祖の受持し、単伝する」と云えば、各別相対すべき様に聞かれども非爾。以諸仏祖段古鏡所を、「受持し単伝する」とは云うなり。

 

 第十八祖伽耶舎多尊者は、西域の摩提國の人なり。姓は鬱頭藍、父名天蓋、母名方聖。母氏かつて夢見にいはく、ひとりの大神、おほきなるかゞみを持してむかへりと。ちなみに懷胎す、七日ありて師をむめり。師、はじめて生ぜるに肌體みがける琉璃のごとし。いまだかつて洗浴せざるに自然に香潔なり。いとけなくより閑靜をこのむ、言語よのつねの童子にことなり。むまれしより一の淨明の圓鑑、おのづから同生せり。

 圓鑑とは圓鏡なり、奇代の事なり。同生せりといふは、圓鑑も母氏の胎よりむめるにはあらず。師は胎生す、師の出胎する同時に、圓鑑きたりて、天眞として師のほとりに現前して、ひごろの調度のごとくありしなり。この圓鑑、その儀よのつねにあらず。童子むかひきたるには圓鑑を兩手にさゝげきたるがごとし、しかあれども童面かくれず。童子さりゆくには圓鑑をおほうてさりゆくがごとし、しかあれども童身かくれず。童子睡眠するときは圓鑑そのうへにおほふ、たとへば花蓋のごとし。童子端坐のときは圓鑑その面前にあり。おほよそ動容進止にあひしたがふなり。しかのみにあらず、古來今の佛事、ことごとくこの圓鑑にむかひてみることをう。また天上人間の衆事諸法、みな圓鑑にうかみてくもれるところなし。たとへば、經書にむかひて照古照今をうるよりも、この圓鑑よりみるはあきらかなり。

 しかあるに、童子すでに出家受戒するとき、圓鑑これより現前せず。このゆゑに近里遠方、おなじく奇妙なりと讚歎す。まことに此娑婆世界に比類すくなしといふとも、さらに佗那裡に親族のかくのごとくなる種胤あらんことを莫怪なるべし、遠慮すべし。まさにしるべし、若樹若石に化せる經巻あり、若田若里に流布する知識あり。かれも圓鑑なるべし。いまの黄紙朱軸は圓鑑なりたれか師をひとへに希夷なりとおもはん。

詮慧

〇「七日ありて師をむめり」と云う事は、人界の習い(は)、打ち任すは十箇月胎内に宿る。七日は似不打任、但業力所感の事なれば不知。この祖師いかなる業報にてかましますらん。其の上四洲は皆人間界なれども、北洲は懐胎七日なり。寿千歳なり。無非業。東西洲には寿減ずる上、適有非業死、云々。我が国にも化生の人あらば、上は七日の胎生不可疑。老子七十年はらまれたり。又夢に見えて生ずる子あり。脇尊者六十年はらまる。是を思うに必ず十箇月と限るべからず。七日もなどかなからん。畜類の所生一様にあらず。

〇「童子迎い来たるには、円鑑を両手に捧げ来たるが如し。しかあれども童面かくれず。童子去りゆくには円鑑を覆うて去りゆくが如し、しかあれども童身かくれず」と云う、「去来」は他人に仰せてこそ云え、童子ばかりの上にては、如何なる時を、「去」と云い、「来」と云うぞ。去来はしばらく置く、童子と人との間に、いつも鑑はある物か、不審也。所詮曇りなく、隔てなければ、円鑑と童子と、一体と心得べき歟。

〇「童子すでに出家受戒する時、円鑑これより現前せず。このゆえに近里遠方、同じく奇妙也と讃嘆す」と云うは、「鏡」を奇妙也と云うのみにあらず。「円鏡」の不現なるを云う心もありぬべし。此の「鏡」(の)出家の時より隠るる事不審也。此の「鏡」(は)世間の鏡なるゆえに、出家の時よりは隠ると心得べき歟。或いは天の送食を得、或いは鳥獣(に)供花せしも、悟道の後は無其義。或いは土地神(が)不見師(の)事あり。如此の事は、一つは境界相隔つるゆえなれば、準是等義者、鏡の劣にして、出家受戒後不現とも覚ゆれども、其の義審らかならず。然者諸仏大円鏡なるべきか、此義不審也。大円鑑の方より童子の鏡をば不可隔。童子の方より大円鑑とは云い難きをや。「若樹若石に化せる経巻あり、若田若里に流布する知識あり。彼も円鑑なるべし」と云う上は、円鑑隠るるにあらず。若樹若石、若田若里、現前するゆえに、広くなるというべし。隠るる失あるべからず。悟道にもあれ、出家にもあれ、必ず大鑑に勝りたるゆえに、隠るるぞ、見えぬぞと云うべきにあらず。大地も仏(の)我道の時、大地有情同時成道と云えば、無寸土とも云うべし。今も童児出家しぬれば、円鏡の姿同じければ、見えずとも、などが了見せられん。始めて諸仏諸祖の受持単伝するは古鏡也。同見同面、同像同鋳、同参同証すと云う時に、鏡を帯したる時も童児なり。今の童児の出家したるにてこそある時に同じの義不可相違。其の上先師の御詞に、「有何所表を問著にあらずと聞きて参学すべし。師日、諸仏大円鑑、内外無瑕翳。両人同得見、心眼皆相似。しかあれば、諸仏大円鑑、なにとしてか師と同生せる。師の生来は、大円鑑の明なり」とあれば不可有不審。

経豪

  • 如文。童児出家受戒の後、円鑑かくれて、現前せざる事、此の草子の面に不見。不審也。但会仏法の後、天厨送食をとどむ。境界の隔てたるゆえなり。不現前の義もあるべし。又童子の円鏡別物にあらざれば、円鑑かくれて、不現前と云う道理なかるべきにあらず。
  • 日来我等が思い習わしたる鏡に違する所、今又顕然なり。仏祖(の)円鑑(は)如此談ず也。

 

 あるとき出遊するに、僧伽難提尊者にあうて、直にすゝみて難提尊者の前にいたる。尊者とふ、汝が手中なるは、まさに何の所表かある。有何所表を問著にあらずときゝて參學すべし。

 師いはく、諸佛大圓鑑、内外無瑕翳。兩人同得見、心眼皆相似。

 しかあれば、諸佛大圓鑑、なにとしてか師と同生せる。師の生來は大圓鑑の明なり。諸佛はこの圓鑑に同參同見なり。諸佛は大圓鑑の鑄像なり。大圓鑑は、智にあらず理にあらず、性にあらず相にあらず。十聖三賢等の法のなかにも大圓鑑の名あれども、いまの諸佛大圓鑑にあらず。諸佛かならずしも智にあらざるがゆゑに諸佛に智恵あり。智恵を諸佛とせるにあらず。

 參學しるべし、智を説著するは、いまだ佛道の究竟説にあらざるなり。すでに諸佛大圓鑑たとひわれと同生せりと見聞すといふとも、さらに道理あり。いはゆるこの大圓鑑、この生に接すべからず、佗生に接すべからず。玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髓鏡にあらず。圓鑑の言偈なるか、童子の説偈なるか。童子この四句の偈をとくことも、かつて人に學習せるにあらず。かつて或從經巻にあらず、かつて或從知識にあらず。圓鏡をさゝげてかくのごとくとくなり。師の幼稚のときより、かゞみにむかふを常儀とせるのみなり。生知の辨恵あるがごとし。大圓鑑の童子と同生せるか、童子の大圓鑑と同生せるか、まさに前後生もあるべし。大圓鑑は、すなはち諸佛の功徳なり。

詮慧

天台に鏡像円融の喩えと云うも、鏡に影を映す事をこそ、喩うる時に、能所に拘わる。又両鏡を置きて、彼の鏡に映る影が、又この鏡に映る時に、鏡が影を映す事は、世間に談ずるに拘わらざる也。今の古鏡大円鏡などと云うには不可似事也。胡来胡現・漢来漢現と云うも、鏡と胡漢と別に置きて談ずるにはあらず。境智無二とは云えども、教の談ずるには、いかにも不離能所也。

〇凡そ古鏡を説くに「大円鑑」と云う。これ仏法の譬えを云うに似たり。誠に仏法には法譬因縁と云う事あり。いま「古鏡」と説き、「円鑑」と説く。譬えに似たればとて、又世間の銅鏡と心得んはあたるべからず。三界の内に猶不同の事多し。須弥山一つを中に置きて、北洲は千年決定保ち、西洲は五百、今の東洲は二百五十年を保つ。南洲に至りて百二十五年、其の上(は)不定の寿命なれば、胎内にても死、五歳十歳にても死、如此不同顕然也。是皆業報の致す所なり。しかれば仏道衆生界(の)、何事か同じかるべき。しかあれば、鏡と説く時も、我等が鏡と心得んには変るべし。形の映るを鏡と心得るは凡見なり。あるいは五智慧を云う中に、大円鏡智と云う。是一切の智(の)浮かぶを云う。是も猶世間の心地に似たり。又「古鏡」を諸仏諸祖単伝し来ると云う。般若には畢竟皆空と説き、法華には実相と説く。如此(の)事をこそ、仏祖の単伝とは云うべけれども、今すでに「古鏡」と云う。法華・華厳の詞に取り替えて、古鏡おも云いつべし。法界唯心とも説き、又諸仏各々也とも説く。又其体一也とも説く。今、同見同面、同像同鋳、同参同証と説き、同じかるべし。只似古鏡、法華とも華厳とも可心得也。心鏡相対して知る智は、智と不可云。不触事而知の智なるべし。

〇「十聖三賢等の法の中にも、大円鑑の名あれども、今の諸仏大円鑑にあらず。諸佛必ずしも智にあらざるがゆえに」と云う、此の「大円鑑」は大円鏡智と云う心地也。童子の偈の大円鑑には不可及。

〇応仏は福智相い備わりて、相好円満すと云う。智のみにあらず。相好は福の果なり。

〇古今の仏事悉く此の円鑑に向いて、見ること覆うと云う。此の仏事は世間修善事なり。正法と云い難し。

〇若田若里の古鏡あり、黄紙朱軸の古鏡ありと云う。円鑑ありとも云いつべし。抑も出家の後、映る鏡は、諸仏大円鑑よりは劣也。すでに出家後失するがゆえに、そもそも「汝が手中なるは、まさに何の所表かある」と。尊者問之、其の答えに、「師、諸仏大円鑑、内外無瑕翳」と云う時に、年来現ずる円鑑を、諸仏の大円鑑と云うに似たり。但永平寺和尚の言語に、「有何所表を問著にあらずと聞きて参学すべし」とあれば、汝何姓などと云いしが如き、何所表か有ると問われて、仏法を演説するにてもあるか。然者出家の時失せし円鑑の大円鏡には相違し、参差したりと疑うにも不及。各別の鏡なるゆえに、「手中なるは、有何所表」と云うは、ただ汝が眼睛にいかなる所表があるとも、始めて云わんが如し。童児が持つ鏡を問いと思うべからず。よくよく審細にすべし。

〇「諸仏大円鑑、内外無瑕翳。両人同得見、心眼皆相似」、同見同面ならんを仏と可知。異見異面ならんは、仏に不可有。此の「同」の字は来現の二字を以て可心得。来現(は)又非一非二、来は現也。胡来胡現は鏡来鏡現也。此の「来」の字(は)、又世間の去来と不可心得。来時は漫天ともに来たり、去時は漫天共に去ると云うが如し。

〇胡来胡現と云うは両人なし、来は現也。漢来漢現も同事也。両人同得見と云うは、只了見一許也。一人もなし、何を況や両人乎。同見同面これなり。「心眼皆相似」と云うは、心が心に相似し、眼が眼に相似するなり。「大円鏡は智にあらず、理にあらず」と云うは、教は鏡智などと云う智にはあらずと也。智にあらざれば、又理にもあるべからずと也。諸仏智慧を説かん時は、如何是仏智慧と問うべし。諸仏の皮肉骨髄を智慧とは云わん時は、智慧とて又別に説かるべからず。

〇「玉鏡にあらず銅鏡にあらず、肉鏡にあらず髄鏡にあらず」と云う、皮肉骨髄(は)皆鏡あり、其の事を明かす也。

経豪

  • 如今文者無風情。尊者に両手の鏡を、何の所表ぞと被問たりと聞こゆ。但非其義、「何所表かある」は、何れの所表もある也。やがて古鏡なる所表にてもあるべし。三昧、陀羅尼乃至実相等の所表にてある所を、「有何所表」とは云わるる也と可心得也。是什麽物恁麽来の道理なるべし。
  • 此の「師、諸仏大円鑑」の偈の心(は)、奥に委被釈之。「何としてか、師と同生せる」とは、大円鑑と師と両物にあらぬ所を、「師の生来は大円鑑の明也」とは云う也。諸仏諸祖をすでに円鏡と談ずるゆえに、「諸仏は此の円鑑に同参同見也」と云う。又「諸仏は大円鑑の鑄也」とは云うなり。「大円鑑は智にあらず」と云うは、五智を立てて大円鏡をば、智の位にあてて教には談之。今の円鏡しかあるべかず。ゆえに大円鏡の名あれども、「今の諸仏大円鑑に非ざるなり」とは被釈也。
  • 是は又如文。如前云う五智等を立て、諸仏を智と談ずべきにあらず。諸仏を智とは談ずる也。
  • 是又如文。此の大円鑑の道理(は)、「此生に接すべからず、他生に接すべからず。乃至

玉鏡、銅鏡、肉鏡、髄鏡とも不可云」、只「大円鑑也」と云うなり。

  • まことに匪直也人。童子円鑑を捧げて、説偈する道理、円鑑与童子二上は、「童子の説偈とや云うべき、円鑑の言偈とや云うべき」と受けらるる也。所詮何れにも可当也。即不中道理也。
  • 是は前の円鑑の言偈か、童子の説偈かと云う程の義也。「大円鑑の生」の上には、「前後生」と云う義もあるべきなり。「大円鑑は則ち諸仏の功徳也」と云うより、以前に童子の、諸仏大円鑑、内外無瑕翳。両人同得見、心眼皆相似と云う文の心を被釈せり。

 

 このかゞみ、内外にくもりなしといふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、兩箇おなじく得見あり。心と眼とあひにたり。相似といふは、人の人にあふなり。たとひ内の形象も、心眼あり、同得見あり。たとひ外の形象も、心眼あり、同得見あり。いま現前せる依報正報、ともに内に相似なり、外に相似なり。われにあらず、たれにあらず、これは兩人の相見なり、兩人の相似なり。かれもわれといふ、われもかれとなる。

 心と眼と皆相似といふは、心は心に相似なり、眼は眼に相似なり。相似は心眼なり。たとへば、心眼各相似といはんがごとし。いかならんかこれ心の心に相似せる。いはゆる三祖六祖なり。いかならんかこれ眼の眼に相似なる。いはゆる道眼被眼礙なり。

 いま師の道得する宗旨かくのごとし。これはじめて僧伽難提尊者に奉覲する本由なり。この宗旨を擧拈して、大圓鑑の佛面祖面を參學すべし、古鏡の眷屬なり。

経豪

  • 如文。此の鏡(は)両方映りて明らか也、実に尋常の鏡には異也。内外の詞(は)文に聞きたり。全内全外なるべし。
  • 「心与眼相い似たり」と云うは、人の人に逢うとは唯仏与仏也。
  • 世間の法すら、猶我は我と思えども、人は他と思い、内外も又如此。いわんや仏法の上の相見相似の詞(は)、不可同世間之条(は)勿論(の)事也。
  • 文に聞こえたり。所詮打ち任せて「相似」と云う詞を、世間に心得るは、物を一つ置きて、彼に是が相似すとこそ云うに、是は能所各別の咎不可遁。非仏法所談。今の「相似」は仏与仏(の)相似也、祖与祖(の)相似也。唯仏与仏の道理を以て「相似」と仕う也。仏性は仏性に相似なり、法性は法性に相似なるなり。今の相似の道理が「心眼隔相似」とは云わるるなり。実に此の相似の談(は)、かうこそ親切の相似なるべけれ。いかにも両物相対の法は、親切の義は不可有。
  • 「心の心に相似せる」道理は、三祖六祖のあわい程の事也と、其の証しに被出也。五祖六祖とも、三祖四祖とも云いたきように覚ゆ。三祖六祖相い遠なるように聞こゆれども、所詮祖師の皮肉の所通、初祖六祖と云わんも、四祖五祖と云わんも、只同じかるべし。更に不可有差別浅深事也。「道眼被眼礙」とは、古き祖師の問答に、泉眼不通ば、被砂塞却、道眼不通ば、被礙何と云う問いの答えに、「被眼礙」と云う也。此の心地を今被引出也。尽十方界沙門一隻眼を、被眼礙の至極とは云うべけれ。
  • 是又如文。」此の道理を挙拈して、大円鑑の仏面とも祖面とも可学、是を古鏡の眷属也」と云うなり。是も古鏡を本にして、自余を眷属とすとは、人の家人等を数多持ちたるを「眷属」と云うようには不可心得。心眼ぞ相似ぞ、道眼ぞ。被眼礙を、大円鏡仏面祖面等が、古鏡の一体なる所を、蹔く「古鏡」と云う草子なるゆえに。彼(の)眷属とは云う也。大円鑑の眷属とも、乃至仏面祖面の眷属とも云わん。更不可違道理也。

 

 第三十三祖大鑑禪師、かつて黄梅山の法席に功夫せしとき、壁書して祖師に呈する偈にいはく、

  菩提本無樹、 明鏡亦非臺。

  本來無一物、 何處有塵埃。

 しかあれば、この道取を學取すべし。大鑑高祖、よの人これを古佛といふ。

 圜悟禪師いはく、稽首曹谿眞古佛。

 しかあればしるべし、大鑑高祖の明鏡をしめす、本來無一物、何處有塵埃なり。明鏡非臺、これ命脈あり、功夫すべし。明々はみな明鏡なり。かるがゆゑに明頭來明頭打といふ。いづれのところにあらざれば、いづれのところなし。いはんやかゞみにあらざる一塵の、盡十方界にのこれらんや。かゞみにあらざる一塵の、かゞみにのこらんや。しるべし、盡界は塵刹にあらざるなり、ゆゑに古鏡面なり。

詮慧

〇「明鏡亦非台」と云うは、「普賢身相如虚空、依真而住非国土」(『大方広仏華厳経』七「大正蔵」一〇・三四a三・注)と云う文あり。是無台心也。神秀上座偈、心如明鏡台の詞には異なり。

〇「古仏」と云う事、十九出家、三十成道。是を新成妙覚遍照尊と云う。今「大鑑を古仏」と云う。釈迦者顕本するを古仏と云い、大鑑は依教古仏と云う也。

経豪

  • 今「明鏡亦非台」と云う詞に付けて、此の草子に被引出歟。「何処有塵埃」の詞に、普通の所談の心地に違する分は聞きたり。又神秀の見解に超過したる分も顕然也。已下如文。「命脈あり」は、道理ありと云う心地なり。

 

 南嶽大慧禪師の會に、ある僧とふ、如鏡鑄像、光歸何處。師云、大徳未出家時相貌、向甚麼處去。僧曰、成後爲甚麼不鑑照。師云、雖不鑑照、瞞佗一點也不得。

 いまこの萬像は、なに物とあきらめざるに、たづぬれば鏡を鑄成せる證明、すなはち師の道にあり。鏡は金にあらず玉にあらず、明にあらず像にあらずといへども、たちまちに鑄像なる、まことに鏡の究辨なり。

 光歸何處は、如鏡鑄像の如鏡鑄像なる道取なり。たとへば、像歸像處なり、鑄能鑄鏡なり。大徳未出家時相貌、向什麼處去といふは、鏡をさゝげて照面するなり。このとき、いづれの面々かすなはち自己面ならん。

 師いはく、雖不鑑照、瞞佗一點也不得といふは、鑑照不得なり、瞞佗不得なり。海枯不到露底を參學すべし、莫打破、莫動著なり。しかありといへども、さらに參學すべし、拈像鑄鏡の道理あり。當恁麼時は、百千萬の鑑照にて、瞞々點々なり。

詮慧

〇「如鏡鋳像、光歸何処。師云、大徳未出家時相貌、向甚麼処去。僧曰、成後為甚麼不鑑照。師云、雖不鑑照、瞞佗一点也不得」、是れ明鏡亦非台の心なり。此の時は破鏡とも云うべし。此の道理こそ、鏡にまことの、万像映す光を持つ物なり。この光を鋳たすを「鏡」と習う。しかるに今「鏡を像に鋳ると云いぬれば、すでに映すべき像を、先に鋳てんには鏡の光、実にも何れの処にかあるべき。像のみ現前して鏡は無きが如し。「帰」すと云う字は、像帰像所と可心得。

〇出家の後、失いしぬる鏡、劣なるかと覚ゆれども、是は只一時の規則也。失うと云えども、所詮已に諸仏大円鏡と云えば、劣にして失せぬると云うべからず。大徳の相貌も、大円鑑にて可心得。替り替らずの沙汰、これも一時の説法と可心得。大徳の上の詞也。

〇「大徳未出家時相貌、向什麼処去と云うは、鏡を捧げて照面するなり。此の時、いづれの面々か則ち自己面ならん」と云うは、すでに鏡を像に鋳ぬれば、今像なる大徳相貌はすでに鏡なれば、ただ向鏡見鏡なり。ゆえに「いづれの面々か則ち自己面ならん」と云う也。大悟底人却迷時如何と云いし時、破鏡不重照の詞あり。其の時も未破鏡の時、心を破るべからずとある時に、「未出家時」とを、両方に不可置なり。「大徳未出家時相貌」と問うは、被礙鏡瞞々照々也。又不対縁而照なるべし。「鑑照せず」と云えば、暗しと聞けども不瞞と云う。海枯れたれども不到底と云う(は)、只同義なるべし。

〇「僧云、成後為甚麼不鑑照」と云うは、「成」と云う字は鏡の上の詞也。「不鑑照」は鋳像故也。「鏡を像に鋳す」と云う上は、「光帰何処」の詞(と)、謂われ有りと聞こゆ、鏡も不可有。「大徳未出家時相貌、向什麼処去」の詞に可心得合。大徳未出家時の相貌と出家時の相貌(は)、同人にてこそあれ。剃髪したれども、相貌は替わるべからずと云わんは、当たるべからず。いかでか替わらであるべき。髪鬚もなし、衣装振舞替わる。仏弟子となれば、世間には父母をも不拝して世を遁るは、尤可替。但「鏡を像に鋳る、光何れの処にか帰する」と云うは、やがて鏡も像も光も無差別。然而鋳ぞ帰するぞなどと云うが如きを、「相貌向什麼処去」と云う(は)、同じ丈(たけ)也。「不鑑照」と云いて、やがて「雖不鑑照、瞞佗一点也不得」とある時に、照らさねばとて、暗からぬなり。「向什麼処去」と云う程の詞なり。光も鏡もなからん。是を「大円鑑」と可心得。又光を帰と許り不可云。鏡何所にか帰するとも可云。仏法には浪を含みて水を得ると云う事あり。これ浪与水(の)、不各別(の)、道理を述ぶるに似たれども、これも浪と水とを置きて、汲むと云えば有能所。

〇「未出家」と云えば、是は俗の時と必ずしも不可心得。又出家時・未出家時(は)替るとも替らずとも云え。実には共(に)不可取。いづれを要と云う義なし。鏡を本ともせず。光を本ともせぬにて、計り知るべし。「向甚麼処去」と云えばとて、その姿(を)映すとも云わず。「甚麼処」と云うゆえに。「雖不鑑照、瞞佗一点也不得」と云う詞は同じと心得べし。鑿照瞞佗一なるべし、不鑑照と云うも、鏡の一を説く也。「不鑑照」と云うは、鏡を像に鋳ると心得也。以光仏と説かん時、仏不可暗。明見不見は不暗なり。不見一法名如来(『観音』最後部有・注)の心地なるべし。

〇「海枯不到露底を参学すべし」と云うは、「枯る」とは云えども、海不可失。今の「海」と云うは、東西に岸なく、上下に浅深なし。「徹底」と云うは、究尽也、未尽也。ゆえに鑑照不得、瞞佗不得の道理に「海枯不到露底」の道理を引き合わするなり。海枯れて底をば見ると云う事あるべし。浪の下にて見えざりつる所が、いま枯るれば見ゆと云いつべし。此の義一(理)あるべし。次(に)海(の)枯るれば、いたづらなる沙ある地にてこそあれ。海の底と難云ければ、海の底を不見と云う。足下をば不見と云う事のあるも、此義なるべし。足の下なる程は、足隔てて不見なり。足の来ぬれば、いたづらなる土地となるゆえに、都て足下は不見と説くなり。但是等の理をば、今の証拠とすべきにはあらず。

〇「莫打破、莫動著」と云うは、破れて非不鑑照、動じて非瞞佗。このゆえなり。

経豪

  • 是は出家と云うも、未出家と云うも、大徳の上の詞なるべし。「如鏡鋳像」の只同心なるべし。鏡も像も只一物なるゆえに。「如鏡鋳像、光帰何処」の答えに、「師、大徳未出家時」とある詞は、彼の詞を許す詞也。ゆえに「証明、すなわち師の道にあり」と云う也。
  • 如文。非金乃至像にあらずと云えども、今(は)鋳像と談ずるか。鏡の至極したる理なりと云う也。
  • 文に聞きたり。「光帰何処」と云えばとて、不審したる詞にあらず。打ち任すは鏡に像は映る物也。今は此の像を、やがて鏡と談ず。ゆえに像が鏡なる所を、「光帰何処」とは云うなり。又「像帰像処也、鋳能鋳鏡」とは、像を以て鏡を鋳る道理を如此云うなり。
  • 「照面」と云うは、鏡ならぬ一物なき所を云う也。ゆえに自己ならんと云うも此の道理なり。鏡の外に自己面あるべからず。出家も未出家も大徳の上の詞也。「什麽処去」は、例の全鏡なる道理を以て、如此云う也。「如鏡鋳像、光帰何処」の詞と不違。只同心なり。
  • 「雖不鑑照」と云う、下には二つの意あるべし。一は尽十方界全鏡なる道理が、「不鑑照」とは云わるべし。次に森羅万象が鏡なれば、是を「鑑照」すとも云うべし。「瞞佗一点也不得」の道理も是れ同じかるべし。「海枯不到露底を可学」とは、全海の道理也。「莫打破、莫動著」と云うは、『仏性』の草子の長沙段に、「莫妄想」と云いし詞に同じ。此の「鏡」の道理(を)造作し、強為したる義にあらず。此の「鏡」の姿が「莫打破、莫動著」と云わるるなり。「莫妄想」と云うも、妄想を置きて制止の詞にあらず。只仏性の理がもとより、莫妄想なるなり。諸悪莫作の莫作の詞(も)同之。
  • 「拈像鋳鏡」とは、如文。像を以て鏡と談ずる道理が、如此云わるる也。「百千万の鑑照」とは、鑑照と云うも能照所照があるにてはなし。以鏡鑑照とは仕う也。如前云う、鑑照と云う理も、不鑑照と云う理もあるべし。以鏡一物不鑑照とも、鑑照すとも云うゆえに。「瞞佗一点也不得」とは、「瞞」は昧まかずと云う心なり。「瞞佗」と云えばとて、物を見せぬを鑑照と云うとは不可心得。瞞佗がやがて鏡なるべし。鏡外に余物なき上は昧まかずも鏡、昧まかざぬも鏡なるべし。今の不得、又得不得に拘わるべき不得にあらざる也。此の「瞞」、鏡なる上は、瞞佗はやがて鏡の現成公案なるゆえに、「瞞々点々」と云わるるなり。「点」の道理、是に同じきゆえに、瞞の究尽、点の究尽なる所が、「瞞々点々」とは云わるるなり。

 

 雪峰眞覺大師、あるとき衆にしめすにいはく、

 要會此事、我這裡如一面古鏡相似。胡來胡現、漢來漢現。時玄沙出問、忽遇明鏡來時如何。師云、胡漢倶隱。玄沙云、某甲即不然。峰云、儞作麼生。玄沙云、請和尚問。峰云、忽遇明鏡來時如何。玄沙云、百雜碎。

 しばらく雪峰道の此事といふは、是什麼事と參學すべし。しばらく雪峰の古鏡をならひみるべし。如一面古鏡の道は、一面とは、邊際ながく斷じて、内外さらにあらざるなり。一珠走盤の自己なり。いま胡來胡現は、一隻の赤鬚なり。漢來漢現は、この漢は、混沌よりこのかた、盤古よりのち、三才五才の現成せるといひきたれるに、いま雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現せり。いまの漢は漢にあらざるがゆゑに、すなはち漢現なり。いま雪峰道の胡漢倶隱、さらにいふべし、鏡也自隱なるべし。

 玄沙道の百雜碎は、道也須是恁麼道なりとも、比來責儞、還吾碎片來。如何還我明鏡來なり。

 黄帝のとき、十二面の鏡あり。家訓にいはく、天授なり。又廣成子の崆峒山にして與授せりけるともいふ。その十二面のもちゐる儀は、十二時に時々に一面をもちゐる、又十二月に毎月毎面にもちゐる、十二年に年々面々にもちゐる。いはく、鏡は廣成子の經典なり。黄帝に傳授するに、十二時等は鏡なり。これより照古照今するなり。十二時もし鏡にあらずよりは、いかでか照古あらん。十二時もし鏡にあらずは、いかでか照今あらん。いはゆる十二時は十二面なり、十二面は十二鏡なり、古今は十二時の所使なり。この道理を指示するなり。これ俗の道取なりといへども、漢現の十二時中なり。

軒轅黄帝膝行進崆峒、問道乎廣成子。于時廣成子曰、鏡是陰陽本、治身長久。自有三鏡云天、云地、云人。此鏡無視無聽。抱神以靜、形將自正。必靜必清、無勞汝形、無揺汝精、乃可以長生。

 むかしはこの三鏡をもちて、天下を治し、大道を治す。この大道にあきらかなるを天地の主とするなり。俗のいはく、太宗は人をかゞみとせり。安危理亂、これによりて照悉するといふ。三鏡のひとつをもちゐるなり。人を鏡とするときゝては、博覧ならん人に古今を問取せば、聖賢の用舎をしりぬべし、たとへば、魏徴をえしがごとく、房玄齢をえしがごとしとおもふ。これをかくのごとく會取するは、太宗の人を鏡とすると道取する道理にはあらざるなり。人をかゞみとすといふは、鏡を鏡とするなり、自己を鏡とするなり。五行を鏡とするなり、五常を鏡とするなり。人物の去來をみるに、來無迹、去無方を人鏡の道理といふ。賢不肖の萬般なる、天象に相似なり。まことに經緯なるべし。人面鏡面、日面月面なり。五嶽の精および四涜の精、よを經て四海をすます、これ鏡の慣習なり。人物をあきらめて經緯をはかるを太宗の道といふなり、博覧人をいふにはあらざるなり。

 日本國自神代有三鏡、璽之與剣、而共傳來至今。一枚在伊勢大神宮、一枚在紀伊國日前社、一枚在内裡内侍所。

 しかあればすなはち、國家みな鏡を傳持すること、あきらかなり。鏡をえたるは國をえたるなり。人つたふらくは、この三枚の鏡は、神位とおなじく傳來せり、天神より傳來せると相傳す。しかあれば、百練の銅も陰陽の化成なり。今來今現、古來古現ならん。これ古今を照臨するは、古鏡なるべし。

 雪峰の宗旨は、新羅新羅現、日本來日本現ともいふべし。天來天現、人來人現ともいふべし。現來をかくのごとく參學すといふとも、この現いまわれら本末をしれるにあらず、たゞ現を相見するのみなり。かならずしも來現をそれ知なり、それ會なりと學すべきにあらざるなり。いまいふ宗旨は、胡來は胡現なりといふか。胡來は一條の胡來にて、胡現は一條の胡現なるべし。現のための來にあらず。古鏡たとひ古鏡なりとも、この參學あるべきなり。

 玄沙出てとふ、たちまちに明鏡來にあはんに、いかん。

 この道取、たづねあきらむべし。いまいふ明の道得は、幾許なるべきぞ。いはくの道は、その來はかならずしも胡漢にはあらざるを、これは明鏡なり、さらに胡漢と現成すべからずと道取するなり。明鏡來はたとひ明鏡來なりとも、二枚なるべからざるなり。たとひ二枚にあらずといふとも、古鏡はこれ古鏡なり、明鏡はこれ明鏡なり。古鏡あり明鏡ある證験、すなはち雪峰と玄沙と道取せり。これをば佛道の性相とすべし。これ玄沙の明鏡來の道話の七通八達なるとしるべし。八面玲瓏なること、しるべし。逢人には即出なるべし、出即には接渠なるべし。しかあれば、明鏡の明と古鏡の古と、同なりとやせん、異なりとやせん。明鏡に古の道理ありやなしや、古鏡に明の道理ありやなしや。古鏡といふ言によりて、明なるべしと學することなかれ。宗旨は、吾亦如是あり、汝亦如是あり。西天諸祖亦如是の道理、はやく練磨すべし。祖師の道得に、古鏡は磨ありと道取す。明鏡もしかるべきか、いかん。まさにひろく諸佛諸祖の道にわたる參學あるべし。

 雪峰道の胡漢倶隱は、胡も漢も、明鏡時は倶隱なりとなり。この倶隱の道理、いかにいふぞ。胡漢すでに來現すること、古鏡を相罣礙せざるに、なにとしてかいま倶隱なる。古鏡はたとひ胡來胡現、漢來漢現なりとも、明鏡來はおのづから明鏡來なるがゆゑに、古鏡現の胡漢は倶隱なるなり。しかあれば、雪峰道にも古鏡一面あり、明鏡一面あるなり。正當明鏡來のとき、古鏡現の胡漢を罣礙すべからざる道理、あきらめ決定すべし。いま道取する古鏡の胡來胡現、漢來漢現は、古鏡上に來現すといはず、古鏡裡に來現すといはず、古鏡外に來現すといはず、古鏡と同參來現すといはず。この道を聽取すべし。胡漢來現の時節は、古鏡の胡漢を現來せしむるなり、胡漢倶隱ならん時節も、鏡は存取すべきと道得せるは、現にくらく、來におろそかなり。錯亂といふにおよばざるものなり。

 ときに玄沙いはく、某甲はすなはちしかあらず。雪峰いはく、なんぢ作麼生。玄沙いはく、請すらくは和尚とふべし。

 いま玄沙のいふ請和尚問のことば、いたづらに蹉過すべからず。いはゆる和尚問の來なる、和尚問の請なる、父子の投機にあらずは、爲甚如此なり。すでに請和尚問ならん時節は、恁麼人さだめて問處を若會すべし。すでに問處の霹靂するには、無廻避處なり。

 雪峰いはく、忽遇明鏡來時如何。この問處は、父子ともに參究する一條の古鏡なり。

 玄沙いはく、百雜碎。この道取は、百千萬に雜碎するとなり。いはゆる忽遇明鏡來時は百雜碎なり。百雜碎を參得せんは明鏡なるべし。明鏡を道得ならしむるに、百雜碎なるべきがゆゑに。雜碎のかゝれるところ、明鏡なり。さきに未雜碎なるときあり、のちにさらに不雜碎ならん時節を管見することなかれ。たゞ百雜碎なり。百雜碎の對面は孤峻の一なり。しかあるに、いまいふ百雜碎は、古鏡を道取するか、明鏡を道取するか。更請一轉語なるべし。また古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するにあらず。古鏡明鏡はたとひ問來得なりといへども、玄沙の道取を擬議するとき、砂礫牆壁のみ現前せる舌端となりて、百雜碎なりぬべきか。碎來の形段作麼生。萬古碧潭空界月。

詮慧

〇「要会此事」と云うは、是什麽事也(仏事と云うべし)。「如一面古鏡相似」也と云うは、一面はやがて「胡来胡現」也。「忽遇明鏡来時如何、胡漢倶隠」と云うは、雖不鑑照、瞞佗一点也不得と心得べし。「一珠走盤」と云うは、玉盤に走ると云えば、玉与盤(の)二つに聞ける故に、玉盤に走り、盤玉に走るとも云う也。「胡来胡現、漢来漢現」と云うは、世間に付いたる詞也。「今雪峰の道には、古鏡の功徳の漢現せり」と云い、「今の漢は非漢」と云う。世間の「胡来胡現の来」は、自東来自西来るなり。「現」と云うは、無かりつる物の現ずるなり。今は不然、漢にあらざるゆえに。明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なる也。漢の字(は)不用と云うべし。胡来胡現、漢来漢現は一面の古鏡と説く、これなり。「百雑砕」と云うも一面の義也。

〇「雪峰道の胡漢倶隠、更に云うべし、鏡也自隠なるべし」と云うは、是は明鏡也。以来現、俱に隠ると仕う也。隠砕還(と)同程(の)詞也。「還吾砕片」と云うは、是は明鏡也。「万古碧潭空界月」と云うは、碧潭がやがて空界月なる也。万古碧潭と云う時に、前後も拘わらぬ心也。古鏡明鏡・胡来胡現・漢来漢現・胡漢倶隠(と)、如此云うは、鏡を像に鋳ると云う時に、光も帰処も各別に云わるべき様なし。ただ全鏡・全像・全鋳全光・全帰也。来現を鏡の外に置くべからず。これも全鏡と談ぜん為也。

経豪

  • 此の問答のよう如文。先ず「要会此事」の詞、何事と不聞、頗る荒涼に覚えたり。又不審なり、但今の御訓釈に「雪峰道の此事」とは、是什麽事と可参学とあれば不審なし。此の詞(は)例の不審にあらず。今は古鏡の道理が、「要会此事」とも云わるべき歟。
  • 「如一面古鏡」とあれば、今は喩えと聞こえたり。煩悩に不被染まる詞とも聞こえたり。又万像映れども、此の像の体は清浄なる様にも思うべし。但「一面とは辺際ながく断じて、内外さらに非ざる也」とあれば、今は日来思い習わしつる、鏡にはあらざる条、無疑歟。今所談の姿如此なるべし。「一珠走盤」とは、至りて円に成りぬる珠は、盤の上にしばらくも居る事なし。其の定めに今の古鏡の道理、惣ていつまでも無際限方の理に被引出也。
  • 今の「胡來胡現は、一隻の赤鬚也」とは、胡は来、漢は現と云えば、胡も漢も来も現も替りたるように聞こゆ。但赤鬚胡胡鬚赤と云う詞あり。是は只同事也。今の「胡来胡現」も只同じきゆえに、此の赤鬚の喩えを被出なり。古鏡を以て胡来とも胡現とも談ずべし。全非他物也。「漢来漢現」の道理(は)又如此、「漢」と云えば漢土の漢にあらず。是も以古鏡談漢也。「混沌」は、漢胡の天地開け初めを云う。「盤古」とは、其の時の王の名也。「三才五才の現成せると云い来たれるに、いま雪峰の道の漢現は」、古鏡の功徳を道理也と云うなり。ゆえに「非漢」とは、尋常に心得る漢には非ざるゆえに、漢現也と云うなり。
  • 是は此の胡漢共に、古鏡の上の胡漢なるゆえに、「鏡也自隠」とは云わるる道理なるべし。尽十方界古鏡なる道理を、蹔く「鏡也自隠」とも云うべきなり。
  • 「百雑砕」と云えばとて、一鏡がグザグザと割れたるように不可心得。古鏡の理の千変万化する道理が、「百雑砕」と云わるるなり。又於一物上、百雑砕と談ぜんも不可相違。破鏡不重照の破鏡を談ぜしが如し。「百雑碎は、道也須是恁麼道也」とは、謂わば須く如此云うべしと讃じたる詞也。「比来責你、還吾砕片来。如何還我明鏡来」とは、百雑砕とは数多に砕けたるとこそ思い付けたるに、今は「以明鏡来、百雑砕」とは云うなりと云う心也。
  • 是如文。外典の書き事を被引載歟。非仏法沙汰、但今此の草子に被引載事は、十二面の鏡、十一面乃至十二面に一面を用い、十二月に毎月毎面を用うなどと、鏡事を被書載。『古鏡』草子に便りあり、仍被引出歟。外典の方よりは、何れも皆、仏祖所談の鏡也と可談也。如此落居せん料りに、是等をば被書出也と可心得。但外書の心地も云わく、鏡は広成子の経典也とあり、天地人を鏡とも云う。外典如此談之、況仏法乎。
  • 是又如文。是等皆外書事也。閑に可訪明師。但如前云、是皆古鏡の眷属也と、自ら宗門は可談也。
  • 如文。打ち任せては博覧なる人を以て、為鏡、太宗は被仰と心得たり。今は「五嶽の精、および四涜の精、世を経て四海をすます、これ鏡の慣習也。人物をあきらめて経緯をはかるを太宗の道と云うなり」とあり、所詮天地人と明らめ知るを、太宗の人を以て鏡とすと云う詞とは可心得。文に委しく見たり。宗(むね)と外書の事を被書也。如文。
  • 是は「百練の銅も、今来も今現も、古来も古現」も、古鏡の上の談也と可心得。
  • 是は上に雪峰の詞に、「如古鏡一面、漢来漢現、胡来胡現」と詞を委しく云えば、必ず胡来胡現、漢来漢現許りの詞ばかりにてあるまじ。此の道理は「新羅新羅現、乃至天来天現、人来人現とも云うべし」となり、此の「現」と云う事も「不知本末現」。「現を相見する」とは、只現が現と相見すると云うなり。「必ずしも来現許りを知とも会とも不可学」と云うなり。
  • 是は「胡来胡現」と云えば、猶能所あるように聞こゆ。只胡来ならば一向胡来、胡現ならば物も混じらぬ胡現なるべし。現ぜん為に来たれる「来」にあらずと也。『仏性』の草子に、余りに委しく談ぜし時、仏々聻也・性々聻也と云いし程の心地なり。「胡来は胡来、胡現は胡現となる時、一条の胡来胡現」とは云わるる也。独立の義也。全来全現なるべし。「古鏡」と云う詞ありとも、此の古鏡の道理は「如此可参学也」。
  • 雪峰は「古鏡」と云い、玄沙は「明鏡来」と云う詞あり。此の「如何」の詞(は)、物を置きて不審したる如何にあらず。
  • 「今所云の道理、まことに幾許りなるべきぞ」とは、此の「道得」の道理(は)、不可有辺際。雪峰には「胡来胡現・漢来漢現」の詞あり、玄沙には「明鏡来」の詞あり。古鏡与明鏡は先(の)詞の面は替わりたるに似たり。但終始更不可乖角。然而明鏡与古鏡の詞は、違いたれども、「来」の詞は「漢来漢現の来」と、「「明鏡来の来」とは、同じとは蹔く不可談。「雪峰の来」の詞は雪峰に付け、「玄沙の来」の詞は玄沙に付けんとなり。「来の詞」(は)一也とぞ云いぬべけれども、如此談ずれば違したる詞あり。一なる物ありと云えば、能所彼此の心地いかにも指し出だすなり。ゆえに「漢来の来」をば幸夫に付け、「明鏡来の来」をば、玄沙に付けんと云う也。詞一つを通用せんと云う心地を制する也。たとえば雪峰・玄沙は長老なるべし。其の姿(は)替わりたれども、所住の寺院は同物也。何と云わん程の義也。此の心地を嫌う也。かく云えば長老与寺院(の)各別になる替わる姿も同物も出で来るなり。雪峰の長老なる時は、寺院も何れも皆雪峰也。玄沙長老なる時は、同じく是れ玄沙の皮肉なるべしと云わんと也。始終替わるべきには有らねども、先ず一姿の意己なるべし。如此談ずればこそ、弥々不各別道理も潔白なれ。又明鏡来と古鏡とが、「二枚なるべからず」道理が、「古鏡は古鏡、明鏡は是れ明鏡」とは云う也。
  • 是は玄沙雪峰の詞を被讃嘆也。
  • 是は三聖院慧然禅師道、我逢人即出、出即不為人云々。興化道、我逢人即不出、出則便為人。三聖院の詞を取りて、如此打ち替えて被道。是は我と云うも非吾我、即出も逢人も、不為人と云い、便為人と云うも、只同理也。只面の替わりたる許り也。今(の)雪峰与玄沙、古鏡(の)詞に、胡来胡現と云うも、明鏡来と云うも、不違所の証文の被引出之也。
  • 是は例えの詞也。同也とも云うべし、異也とも云うべし。又明鏡に此の道理もあるべし。古鏡にも此の道理あるべし。如此の理通ずればこそ、解脱の仏法なれ。
  • 是は古鏡は古鏡、明鏡は明鏡と、一筋を通して談ぜんと也。前に如此、雪峰の古鏡の詞、漢来漢現の詞をば、又玄沙の詞、一筋に通さんと云う義也。「吾亦如是」の時は、吾はなきが如しと云う程の道理也。然而始終更不可各別。如此談ずればこそ始中終、能所彼此の道理を離るれ。
  • 是は此の草子の奥に、祖師の問答に、古鏡未磨時如何と問いし時、古鏡と答え、磨後如何と問いし時、又古鏡と答う。古鏡に已に磨する事あり。明鏡時もなど磨の道理なからんぞと云う也。
  • 是は「胡漢俱隠」は、雪峰の古鏡の時の詞也。いま云う心地は、玄沙の明鏡来の詞出で来る時は、雪峰の胡漢俱隠の詞は隠るる也と云うを、胡漢すでに来現する事、古鏡を相罣礙せざるに、胡漢俱隠ならずとも、さてありなんと覚ゆる也。然而古鏡の時は、胡来胡現・漢来漢現也とも、明鏡来の時は明鏡来なるべきゆえに、「古鏡現の胡漢は、俱隠なる也」とあり。文に明らか也。所詮「古鏡の時の胡漢俱隠」の詞は、「明鏡来の時は胡漢共に隠るるなり」。所詮一方を証すれば、一方は暗き道理に可落居也。
  • 古鏡与明鏡(は)一物なるべきゆえに、「雪峰の上に古鏡一面、明鏡一面あるべし」。此の道理ゆえに又玄沙の上にも、古鏡一面、明鏡一面あるべき也。ゆえに「明鏡来の時節に、古鏡現の胡漢を罣礙すべからざる道理」分明也。
  • 是は此の「胡漢来現仁万古鏡也」。ゆえに古鏡を地盤にして、「其の上に胡漢来現が有るぞとも云わず」。今の胡来胡現を指して、やがて「古鏡を談ずる」也。故に如此云うなり。
  • 是は如前云。「胡漢来現の時」とは、古鏡を以て胡漢と談ずる心地なり。「胡漢俱隠ならん時節も、鏡は存取すべし」と云う、見解を嫌うなり。「胡漢俱隠ならん時節」は、古鏡も胡漢も皆隠るべし。只明鏡の全体ばかりなるべし。
  • 雪峰玄沙(の)師資の問答、見于文。師の雪峰の詞を、我はしかあらずと被非たるように聞こえたり。又雪峰(が)弟子に被訓じて、おめおめと、先の玄沙の詞を被述したるようなれども、所詮此の道理(は)、師資の皮肉の所通に此の問答あるなり。ゆえにいたづらに蹉過すべからずとはある也。「請和尚問」とは玄沙也。此の時節は定めて此の問答の道理が、「霹靂するには、無廻避処」なるなり。
  • 「父子」とは、雪峰与玄沙也。玄沙にも忽遇明鏡来の詞あり、雪峰も「忽遇明鏡来」の詞あり。共にこれ「一条の古鏡」の道理也と云うなり。
  • 「百雑砕」と云えば、方円なる物がグダグダと、割れ砕けたるように心得られぬべし。只今は無風情、古鏡・明鏡を以て、「百雑砕」とは云う也。今(は)古鏡と云い、明鏡と云い、乃至胡漢来現などと、様々(に)古鏡の道理(が)現るる時(を)、百雑砕と云うとも心得ぬべし。是は数多あるに、似たれども、只古鏡の荘厳功徳なるべし。
  • 雑砕にあらずと云う所なき。是れ則ち明鏡の道理なる所を、如此云う也。
  • 如文。「未雑砕の時の前後」(は)未雑砕也。古鏡なり、明鏡也。「孤峻」とは只一通りと云う心也。
  • 是は例えば、古鏡をも明鏡をも、百雑砕と道取するなり。
  • 是は忽遇明鏡来時如何と、雪峰の被仰たる詞に、百雑砕と玄沙被仰ぬれば、無異義。明鏡を百雑砕と被仰たると云う条は勿論也。但「古鏡を道取するにあらず、明鏡を道取するに非ず」とは、古鏡明鏡を道取すると云わずとも、只百雑砕と物に引きしろわせずして、と云うと心得る分も有りなどと、先師の御意楽なり。「砂礫牆壁」等の詞が、皆「百雑砕」なるべき也。砂礫のみに限るべからず。塵々法々とも如云。
  • 百雑砕の姿がいかなるべきぞと云えば、満月の光明の尽界を照りたるぞと被喩えたるように聞こえたれども、是は人間界の月、人間の光なり、非可用。此の「碧潭空界」をやがて「月」と談ず也。仍月の外に交わるべき物なし。祖門の月の談じよう(は)如此。掃地掃床し、払袖せし姿をこそ「月」とは談ぜしが故、百雑砕の時は塵々法々百雑砕なるべし。

 

 雪峰眞覺大師と三聖院慧然禪師と行次に、ひとむれの獼猴をみる。ちなみに雪峰いはく、この獼猴、おのおの一面の古鏡を背せり。

 この語、よくよく參學すべし。獼猴といふはさるなり。いかならんか雪峰のみる獼猴。かくのごとく問取して、さらに功夫すべし。經劫をかへりみることなかれ。おのおの一面の古鏡を背せりとは、古鏡たとひ諸佛祖面なりとも、古鏡は向上にも古鏡なり。獼猴おのおの面々に背せりといふは、面々に大面小面あらず、一面古鏡なり。背すといふは、たとへば、絵像の佛のうらをおしつくるを、背すとはいふなり。獼猴の背を背するに、古鏡にて背するなり。使得什麼糊來。こゝろみにいはく、さるのうらは古鏡にて背すべし、古鏡のうらは獼猴にて背するか。古鏡のうらを古鏡にて背す、さるのうらをさるにて背す。各背一面のことば、虚設なるべからず。道得是の道得なり。しかあれば、獼猴か、古鏡か。畢竟作麼生道。われらすでに獼猴か、獼猴にあらざるか。たれにか問取せん。自己の獼猴にある、自知にあらず、佗知にあらず。自己の自己にある、模索およばず。

 三聖いはく、歴劫無名なり、なにのゆゑにかあらはして古鏡とせん。

 これは、三聖の古鏡を證明せる一面一枚なり。歴劫といふは、一心一念未萌以前なり、劫裡の不出頭なり。無名といふは、歴劫の日面月面、古鏡面なり、明鏡面なり。無名眞箇に無名ならんには、歴劫いまだ歴劫にあらず。歴劫すでに歴劫にあらずは、三聖の道得これ道得にあらざるべし。しかあれども、一念未萌以前といふは今日なり。今日を蹉過せしめず練磨すべきなり。まことに歴劫無名、この名たかくきこゆ。なにをあらはしてか古鏡とする、龍頭蛇尾

 このとき三聖にむかひて、雪峰いふべし、古鏡古鏡と。

 雪峰恁麼いはず、さらに瑕生也といふは、きずいできぬるとなり。いかでか古鏡に瑕生也ならんとおぼゆれども、古鏡の瑕生也は、歴劫無名とらいふをきずとせるなるべし。古鏡の瑕生は全古鏡なり。三聖いまだ古鏡の瑕生也の窟をいでざりけるゆゑに、道來せる參究は一任に古鏡瑕なり。しかあれば、古鏡にも瑕生なり、瑕生なるも古鏡なりと參學する、これ古鏡參學なり。

 三聖いはく、有什麼死急、話頭也不識。

 いはくの宗旨は、なにとしてか死急なる。いはゆるの死急は、今日か明日か、自己か佗門か。盡十方界か、大唐國裡か。審細に功夫參學すべきなり。話頭也不識は、話といふは、道來せる話あり、未道得の話あり、すでに道了也の話あり。いまは話頭なる道理現成するなり。たとへば、話頭も大地有情同時成道しきたれるか。さらに再全の錦にはあらざるなり。かるがゆゑに不識なり。對朕者不識なり、對面不相識なり。話頭はなきにあらず、祗是不識なり。不識は條々の赤心なり、さらにまた明々の不見なり。

 雪峰いはく、老僧罪過。

 いはゆるは、あしくいひにけるといふにも、かくいふこともあれども、しかはこゝろうまじ。老僧といふことは、屋裡の主人翁なり。いはゆる餘事を參學せず、ひとへに老僧を參學するなり。千變萬化あれども、神頭鬼面あれども、參學は唯老僧一著なり。佛來祖來、一念萬年あれども、參學は唯老僧一著なり。罪過は住持事繁なり。

 おもへばそれ、雪峰は徳山の一角なり、三聖は臨濟の神足なり。兩位の尊宿、おなじく系譜いやしからず、青原の遠孫なり、南嶽の遠派なり。古鏡を住持しきたれる、それかくのごとし。晩進の龜鑑なるべし。

 雪峰示衆云、世界闊一丈、古鏡闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺。時玄沙、指火爐云、且道、火爐闊多少。雪峰云、似古鏡闊。玄沙云、老和尚脚跟未點地在。

 一丈、これを世界といふ、世界はこれ一丈なり。一尺、これを世界とす、世界これ一尺なり。而今の一丈をいふ、而今の一尺をいふ、さらにことなる尺丈にはあらざるなり。

 この因縁を參學するに、世界のひろさは、よのつねにおもはくは、無量無邊の三千大千世界および無盡法界といふも、たゞ小量の自己にして、しばらく隣里の彼方をさすがごとし。この世界を拈じて一丈とするなり。このゆゑに雪峰いはく、古鏡闊一丈、世界闊一丈。

 この一丈を學せんには、世界闊の一端を見取すべし。

 又古鏡の道を聞取するにも、一枚の薄氷の見をなす、しかにはあらず。一丈の闊は世界の闊一丈に同參なりとも、形興かならずしも世界の無端に齊肩なりや、同參なりやと功夫すべし。古鏡さらに一顆珠のごとくにあらず。明珠を見解することなかれ、方圓を見取することなかれ。盡十方界たとひ一顆明珠なりとも、古鏡にひとしかるべきにあらず。

 しかあれば、古鏡は胡漢の來現にかゝはれず、縱横の玲瓏に條々なり。多にあらず、大にあらず。闊はその量を擧するなり、廣をいはんとにあらず。闊といふは、よのつねの二寸三寸といひ、七箇八箇とかぞふるがごとし。佛道の算數には、大悟不悟と算數するに、二兩三兩をあきらめ、佛々祖々と算數するに、五枚十枚を見成す。一丈は古鏡闊なり、古鏡闊は一枚なり。

 玄沙のいふ火爐闊多少、かくれざる道得なり。千古萬古にこれを參學すべし。いま火爐をみる、たれ人となりてかこれをみる。火爐をみるに、七尺にあらず、八尺にあらず。これは動執の時節話にあらず、新條特地の現成なり。たとへば是什麼物恁麼來なり。闊多少の言きたりぬれば、向來の多少は多少にあらざるべし。當處解脱の道理、うたがはざりぬべし。火爐の諸相諸量にあらざる宗旨は、玄沙の道をきくべし。現前の一團子、いたづらに落地せしむることなかれ、打破すべし。これ功夫なり。

 雪峰いはく、如古鏡闊。

 この道取、しづかに照顧すべし。火爐闊一丈といふべきにあらざれば、かくのごとく道取するなり。一丈といはんは道得是にて、如古鏡闊は道不是なるにあらず。如古鏡闊の行李をかゞみるべし。おほく人のおもはくは、火爐闊一丈といはざるを道不是とおもへり。闊の獨立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照すべし。如々の行李をも蹉過せしめざるべし。動容揚古路、不墮悄然機なるべし。

 玄沙いはく、老漢脚跟未點地在。

 いはくのこゝろは、老漢といひ、老和尚といへども、かならず雪峰にあらず。雪峰は老漢なるべきがゆゑに。脚跟といふはいづれのところぞと問取すべきなり、脚跟といふはなにをいふぞと參究すべし。參究すべしといふは、脚跟とは正法眼藏をいふか、虚空をいふか、盡地をいふか、命脈をいふか、幾箇ある物ぞ。一箇あるか、半箇あるか、百千萬箇あるか。恁麼勤學すべきなり。

 未點地在は、地といふは、是什麼物なるぞ。いまの大地といふ地は、一類の所見に準じて、しばらく地といふ。さらに諸類、あるいは不思議解脱法門とみるあり、諸佛所行道とみる一類あり。しかあれば、脚跟の點ずべき地は、なにものをか地とせる。地は實有なるか、實無なるか。又おほよそ地といふものは、大道のなかに寸許もなかるべきか。問來問去すべし、道佗道己すべし。脚跟は點地也是なる、不點地也是なる。作麼生なればか未點地在と道取する。大地無寸土の時節は、點地也未、未點地也未なるべし。

 しかあれば、老漢脚跟未點地在は、老漢の消息なり、脚跟の造次なり。

詮慧

〇雪峰真覚大師と、三聖慧然禅師と(の)問答段。「一群れの獼猴を見る。ちなみに雪峰いわく、この獼猴、各々一面の古鏡を背せり。この語、よくよく参学すべし」。一面の古鏡は猿なり、猿は古鏡なり。「獼猴各々一面の古鏡を背せり」と云う「各」の字は『仏性』の時談ぜし、悉有の悉に字程に可心得。「各」の字は猿也。

〇鏡に付けて談法文(は)、時(に)有種々(の)詞。其の詞に付けて、又其の事を定むる時、仏法(と)世法(は)可有差別。世法の如きならば、獼猴を聞いて不驚。世の常の猿と領解し、鏡と聞きては丸なる銅の鋳像と覚え、一面を背中に背したると云う(は)、初めて疑う。世の常の鏡を背中に負いたる猿を見て、仏法と思いなさん事、歴劫にも不可叶事歟。所詮今の問答、獼猴鏡の詞(は)、衆生与仏性可心得。悉有仏性と談ずる時は、以悉有仏性と談ずる様に、今は背すると説くとも心得べし。諸仏面々の古鏡を表す、其時又獼猴の古鏡なる理を表す也。古鏡を以て仏法を説き時こそあれ、払子拄杖にて説かん折は、払子を獼猴が背したるとも云うべし。猿を見る時は獼猴と云う。但馬を見ん時は馬とも、牛を見ん時は牛とも云うべきか。日来は只畜生随一の猿と思い、今一面の古鏡を背せば、しかにはあらず。仏性也、衆生也。先ず此の獼猴を裏返して、日来の猿とは思うべからず。しかあれば背の字も、尤可心得所なり。所詮鏡を見、猿を猿と見ん道理なるべし。仏性と云えば衆生は隠れ、衆生と云えば仏性は隠れ、坐禅すれば殺仏すと云う程の事也。

〇如何是霊雲の見し桃花とも、香厳の聞きし竹響とも問わんが如く、如何是雪峰の獼猴とも問うべし。只世間の、花色・竹響・猿鏡にて(は)、努々(ゆめゆめ)不可有也。此の詞(は)又非問答。いかならんと云うか、やがて獼猴なるべし。

〇今の獼猴の背する古鏡一面は、諸仏面、諸祖面なり。これ又面々の大面小面にあらず。只一面なり。たとえば鏡一なりと云う。実相と談ずれども、日来の大小の局量に拘わるべからず。我等が存する実相にもあるべからず。一面の古鏡と見んとき実相也。局量を以て一の古鏡と云うべし。「経劫をかへりみる事なかれ」と云うは、古鏡の「古」(は)、必ずしも古きにてなき事を云う也。

〇「我等已に獼猴歟、獼猴に非ざるか。誰にか問取せん」と云う。是は獼猴の解脱也。又吾我の解脱に非ず乎。我等獼猴なるゆえに。

〇「無名」と云うは、歴劫にも未だ、古鏡と云う談なし。仍無名と云うなり。

〇「無名真箇に無名ならんには、歴劫未だ歴劫に非ず」と云うは、又歴劫と無名と別に心得て、歴劫を経し時節と、無名と二つにはあらず。ゆえに真箇の無名は歴劫に非ずと云う也(歴劫とは差今時なり。歴劫無名は猿の背也)。

〇「瑕生也」と云うは、瑕生の詞は古鏡也。然者古鏡の古鏡出で来ぬやと云う程の事也。

〇「窟を不出」と云うは、わろき窟を不出と云うにはあらず。古鏡の窟を不出となり。

〇「有什麼死急、話頭也不識」と云うは、獼猴が獼猴にあらざるか、誰にか門取せんと云う心地にて可心得。(不識と云う詞の出で来るゆえに、死急とは云うなりと知るべし。死を不識と云わんとなり)

〇「死急」と云う詞は、話頭也不識なり。古鏡を見れば、我等は喪身失命す。此の失命が「死急」にてある也。仍話頭なり不識なり。

〇「再全の錦」と云うは、「大地有情同時成道と云いぬれば、再全の錦にあらず」。今の話頭

大地有情同時成道の話頭なれば、再全に非ずと也。

〇「老僧罪過」と云うは、古鏡也瑕生の義なり。この詞を罪とも云う。又此の罪過(は)世間の罪にあらず。長老の罪也。仍非世間又如世間ならば、又老僧と難云。「瑕生」と云う「瑕」も、世間の瑕に非ざる也。(住持の事繁を罪と云う時に、寺を事行せんをもて罪と仕う也)

〇「雪峰示衆云、世界闊一丈、古鏡闊一丈。世界闊一尺、古鏡闊一尺」、一丈と仕い一尺と仕う。是諸法を一心と云い、諸法を一法と云う。此の諸の字は多きに覚え、一法(は)少なき心地あり。但非爾。各々無尽の法を、一心一法と仕う。日来の見を離れて、いかなる故実があると思うべし。近代(は)諸法を善と思えば善となり、悪と思えば悪となると云う。一心の仕い様あれ。業に依りてこそ諸法はあれ。源一心なれば一也とも云う。是等は解脱にあらず。一心一法と云うは、この詞の要あるにはあらず。「一丈これ世界也」と云うにつきて、日来の丈尺の離れ、丈尺の解脱は此の詞に聞こゆ。

〇問、「世界」の詞の大切歟。丈尺の詞の大切歟。闊の詞の大切歟。以何為詮哉。

〇答、「世界闊一丈、古鏡闊一丈」と云いて、聞こえぬべきに、重ねて「世界闊一尺、古鏡闊一尺」とある。何の故ぞや。「一丈」の詞は、世界と古鏡との、親切なる事を明かし、「一尺」の詞は丈尺と等しく、親切なる所を云う也。而今の丈を云い、而今の一尺を云う。更に異なる丈尺にあらずと云うは、誰人ありて、定むべきぞや。其人を別に置かざるを、而今と指すなり。

〇「玄沙、指火炉闊多少」と云わん。答うには、火炉の闊さ、一丈とも一尺とも云うべきかと覚ゆるを、似古鏡と云う時、世界とも心得ぬべし。古鏡(を)古鏡と心得ぬべし。道不足と不可思。「闊の独立をも功夫すべし、古鏡の一片をも鑑照すべし」とあり。

〇古教照心と云いて、法文を談ぜん時は、法性とも真如ともぞ云いたきを、古鏡などと云い致すこと不審なれども、尽界を心とも身とも説く上は、鏡となどか云わざらん。諸法実相なるゆえに。

〇「老」と云う事、必ず雪峰に付けて云うにはあらず。如来と云う詞(は)、仏ごとに付けて云う。必ずしも釈迦老師一仏にも限らざるが如し。「老和尚」とは雪峰をも云うべし。玄沙をも云うべし。悟道の住持なるべし。年の老い許りをば云うべからず。

而今と指す事、身上の只今と覚ゆ。しかにはあらず、今一丈世界、一尺世界と云うに付けて云うなり。

〇「古鏡は胡漢の来現にかかわれず」と云うは、やがて古鏡が胡来胡現と云わるる所を指すなり。不可有勝劣也。「二寸三寸と云い、七箇八箇」と云うは、員数又広狭の分にてはなし。三昧も二寸、陀羅尼も三寸と云わんが如し。「大悟不悟と算数し、仏々祖々と算数す」。

〇「動執の時節話にあらず」と云うは、「火炉の闊多少」の詞を動執にあらずと云う也。「向来の多少」と云うは、日来の我等が見を云う也。「動容揚古路」と云うは、むかしよりの仏道を説くを、「揚古路」と云う也。「不墮悄然機」と云うは、驚くに不及。古路なれば、いたづらに不可墮悄然也。「点地也是、不点地也是」と云うは、大道を以てやがて「脚跟」とす。大悟也是、不悟也是と云う程の「点地未点」也。

〇「玄沙云、老漢脚跟未点地在」と云うは、老漢は必ず雪峰に付きたる名字にあらず。発明したる長老の名あるべし。「脚跟」と云えば、又足かと聞こゆれども、今は不然。「正法眼蔵とも、虚空とも、尽地とも、命脈とも云うべきがゆえに、幾箇ある物ぞ。一箇あるか、半箇あるか、百千万箇あるか、恁麼勤学すべき也」とあり。此の上は又、地をもかく可談ゆえに。「地と云うは是什麽物なるぞ」と挙げらるる(已下略之)、足下無絲去の心也。

〇諸仏所行道と見ると、地を指しぬる上は、尤可謂。大地有情同時成道と仏(は)被仰ゆえに。このとき「点地未点地」いかなるべきぞ。「大地無寸土の時節は、点地也未、未点地也未なるべし」、此の道理を「老漢の消息、脚跟の造次」と云うなり。又「脚跟未点地」の心は心不可得の義なるべし。地を世間大地と見る時こそ、到る到らずと云う沙汰もあし。身土不二とも談じ、山河大地とも説く時、「未点地」の詞(は)不可用。又心不可得と云う言を聞いても、心を我等に等しめて、過去は過ぎぬ。現在は不住、未来は未至と説く時、不可得ぞと心得、天地はるかの相違也。不可得も「未点地」も、是程の事也。「点地・未点地」(は)、ただ一時の説法也。何れの是と(も)指さず。不鑑照と説くも未点也。古鏡の磨未磨、脚跟の未点地在(は)、同じ詞なり。

経豪

  • 如文。抑も雪峰の獼猴を見る、いかなるべきぞ。雪峰の三世諸仏を見、代々祖師を見ると可心得歟。又雪峰の雪峰を見、獼猴が獼猴を見るとも可心得歟。此の道理を「功夫し、経劫を顧る事なかれ」とはある也。只我等が猿の一群れ行くを見る分ならんには、何としてか「功夫すべし」ともあるべき。所詮雪峰与獼猴のあわい不可有差別。能見所見の差なし。雪峰は古鏡と見る歟、古鏡が古鏡を見るかの道理なるべし。
  • 是又如文。所詮打ち聞くは、猿が一面の古鏡を持したるように心得ぬべし。但背したりとは、いかなるべきぞ。物を背するとは二ある様なれども、背したる後は只一也。只所詮、獼猴を古鏡と談ず也。今の獼猴と古鏡と(は)、全非二物。諸仏祖を以て古鏡と云うとも、只古鏡は古鏡なるべし。
  • 是は各々の獼猴、各々の鏡を背すると不可心得。只「一面古鏡也」。
  • 是は古鏡与獼猴(は)不各別。一物の上の道理を如此被述也。如文。「使得什麼糊来」とは、物を背するには、糊にても布糊にても用之。此の指すは何にて(も)可背ぞと云う心なり。
  • 今の獼猴と古鏡とのあわい、実(に)獼猴が古鏡か。いかなる道理ぞと受けらるる也。いづれの道理もあるべきゆえに、我等と獼猴と、是又同不同の義(を)如前云、ゆえに可問取人なき道理也。此の理「自知にもあらず、他知にもあるべからず。自己与自己のあわい、模索せられざるべき也」。不触事而知の知也。
  • 「歴劫無名」と云う詞は、劫初には物の名と云う事なし。後に善と云う詞も、悪と云う事も、乃至邪正等の名を付くる也。然者今の詞は、元初には無名なり。何として古鏡とは名づくるぞと、三聖は被示すと心得られぬべし。非爾、歴劫と云うも、無名と云うも、獼猴と云うも、皆古鏡也と被示すと可心得。ゆえに雪峰の詞を「証明する」とは被釈なり。
  • 「歴劫」の詞(は)如前云、「一心一念」などと云えば、又元初の一念。此の慮知の一心などと不可心得。此の「一心一念(と)歴劫無名」(は)、只同事也。「劫裏の不出頭」とは、歴劫の劫の事也。所詮「劫」の時は指し出す物なし、劫の外は又交わるべき物なき道理が、「不出頭」とは云わるるなり。(三聖は臨済弟子上足也。雪峰は徳山弟子。弟子勝ると云うべし)
  • 「無名与歴劫」の一物なる詞也。「日面月面」とは、同品なる心を指すなり。
  • 是は一方を証すれば、一方は暗き道理也。「無名」と談ぜん時は、歴劫あるべからず。「三聖の道得もあらざるべし」。只無名の現前許り也と云う心なり。
  • 「一念未萌」の事如前。「今日」と云えばとて、我等が所見の今日なるべからず。「一念未萌」も、全体一念未萌也。今日も不可有際限なり。
  • 是は「歴劫無名」と呼び出す時は、しばらく古鏡は隠るるなり。其れを「歴劫無名、高く聞こゆ」とは云う也。歴劫と云い、無名と云い、古鏡と云う所が「龍頭蛇尾」とは云わるるなり。龍ならば首尾龍なるべし。是こそ同物なるゆえに、無名と云い、歴劫と云い、古鏡と云う所が、其の体は一にて、頭与尾、蹔く面の違いたるようなる所を、如此云也。然而始終更不可向背也。
  • 是は雪峰に替りて先師被仰(の)詞也。実(に)歴劫も無名も、古鏡ならんには、古鏡(は)古鏡の道理の外(は)不可有也。「瑕生也」の詞(は)、又悪しく成りて瑕生也と云うにあらず。「古鏡の瑕生也は、歴劫無名とら云うを、きずとせるなるべし」とあれば、不審すべきにあらず。古鏡は歴劫無名を瑕生也とし、歴劫無名は、古鏡を瑕生也とせるなり。乃至仏性は蚯蚓を瑕(きず)とする也。古鏡を瑕ともすべし。ゆえに「古鏡の瑕生は、全古鏡也」と云わるるなり。
  • 是は古鏡瑕生、三聖の差別なき所を云うなり。三聖すでに歴劫無名の詞を道得す。歴劫無名又古鏡の瑕生也と云う上は、「三聖古鏡瑕生也の窟を出でざりける」条勿論なり。
  • 是は又無風情。只「古鏡与瑕生」一なる道理なり。
  • 今の「死急話頭」等の詞、何事ぞやと不審なれども、所詮「死急話頭」(は)、共に古鏡の上の功徳荘厳なるべし。古鏡を無名とも、歴劫とも云い、「死急話頭」と(の)道理(は)、今始めて不可驚。其の上「死急とは今日か明日か、自己か他門か、尽十方界か、大唐國裏か」と談ず程の「死急」。已下只是古鏡なるべし。此の道理が、例え有什麽とは受けらるる也。
  • 「話」と云うに付けて、「道来せる話もあり、未道得の話もあり、道了也の話」も、彼是あまた(数多)あれども、「今は話頭なる道理が、現成すると也」。何れの話の道理も只一なるべし。
  • 如文。今の「話頭」は、舌端の能として、只語とこそ思い付けたるに、「大地有情同時成道」の道理なるだけに、話頭の詞をも可心得。「再全の錦」とは、錦の汚れたるを洗いて、又用いる事也。今の「話頭」は此の定めに強為して、話頭と云うにあらず。所詮以古鏡「話頭」と取るべき也。「不識」の詞(は)、又只知らずして不識にあらず。会不会・見不見程の義也。「対朕者不識」は、梁武帝与初祖の詞を被引載也。「対面が不相識」の道理なるべし。話端の当体をやがて不識とは談ず也。
  • 如文。此の不識独立の姿(が)、「条々赤心也、明々不見なり」。
  • 「雪峰罪過」とは、我悪しく云いたりと被仰たるように聞こゆ。「しかは心得うまじ」とあれば勿論なり。「屋裏の主人翁」とは、三世十方諸仏諸祖程の丈(たけ)也。仏法の参学を以て「老僧」とは云うべき也。雪峰たとい我が体を指して、老僧と被仰るとも、雪峰の皮肉すでに無辺際上は、只我々が心得たりつる。吾我の身ひとつを指して、老僧とは不可心得也。凡そは「老僧」の詞(は)、讃嘆(の)詞也。釈迦老子、老漢などと云う、長老とも云う。必ずしも「老」と許り不可心得。今は「千変万化、神面鬼面」(を)、彼是共(に)「老僧参学」と可取也。如文。
  • 如文。「仏面(来)祖面(来)、一念万年を参学せん」、皆是老僧参学なるべし。
  • 「罪過」の詞、科(とが)とのみ心得ぬべきを、「住持事繁」とあり。所詮寺院にて入堂・入室・請益等の姿(が)、是れ「罪過」なるべし。
  • 是は両位の尊宿を、讃嘆(の)詞なり。
  • 此の詞(は)不被心得。「世界闊一丈」と云う事、打ち任せて、あるべき義にあらず。「古鏡闊一丈」とあり、是又不打任。彼是(の)詞(は)、耳目驚ろかれぬべし。ただし此の「丈尺」の様、於仏法上の所談なる上は、頗る始めて非可驚。勿論(の)事也。「丈尺」(は)、さらに長短に拘わるべからず。
  • 所詮「世界の広さは、無尽法界と、小量の自己を以て知見する事を、隣里の彼方を指すが如し」とは、被嫌なり。「只世界を拈じて、一丈とする也」とあり。小量の知見の非可及。無尽法界也。
  • 今は丈尺に拘わらぬ道理を以て、名一丈也。「世界闊」の如く、「古鏡の闊」の様をも可心得となり。
  • 此の「一丈の闊」とは、古鏡の闊也。古鏡の闊と、世間の闊との「闊」は同事也。然而其の姿(は)、「世界の無端に斉肩也や同参也や「とは、所詮「斉肩」の義も「同参」の義もありぬべし。然而世界与古鏡の面は替われども、「闊」は同事とは不可云。胡漢来現の時の「来」を談ぜしが如し。

談ぜしが如し。

  • 是は「一顆珠」とは、世間の珠也。この珠の如く、円なる物を珠とは云うぞとも、又「明珠」などと見解する事なかれと被嫌也。如今存ぜんは、非仏法。世間の鏡なるべし、争か如此存せん。
  • 「古鏡まことに胡漢来現、多にも大にもあるべからず。縦横の玲瓏条々」なるべし。
  • 「闊と云えばとて、広を云わんとにはあらず」とあり、顕然也。大小多少に拘わらざる古鏡なり。古鏡の姿(は)、胡漢来現に拘わるべからず。無尽の功徳多かるべし。縦横の玲瓏に条々なる姿なり。古鏡の功徳を云う。総体なる姿を「広」と云い、狭きに対したる広にはあらざるべし。古鏡の上の「二寸三寸」、古鏡の上の「七箇八箇」也。
  • 如文。所詮「仏道」には、数量を超越するゆえに、「大悟不悟・仏々祖々」の当体を以て、「二両三両乃至五枚十枚と見成する」なり。
  • 古鏡(の)「一丈一枚」等(は)、只同じ心地なるべし。
  • 今「玄沙の云う、火炉闊多少」の詞(は)、実に委しく可参学詞也。「多少」の詞(は)、不可有際限。是什麽物恁麽来程の詞也。此の「火炉闊」の姿、際限なき道理が「多少」と云わるる也。ゆえに「かくれざる道得なり」とは云う也。
  • 実(に)此の「火炉を見る人、誰人」なるべきぞ。玄沙の火炉を見るか、火炉の玄沙を見るか。火炉が火炉を見るかの道理也。又「火炉闊多少」の詞が、辺際なき道理か。今「七尺八尺にあらず」とは云う也。「動執」とは、あらざる外の詞の出で来る時、動執と云う事は出で来る也。是は非其義。火炉闊多少の詞が、動執話にはあらざる也。見を破せん料りに、火炉闊多少と被仰たるにはあらざる也。
  • 「闊多少の言来たりぬれば、向来の多少は非多少ざる」とは、此の「多少」は数量に拘わらず、無辺際(の)多少也。ゆえに日来思い付きたりつる多少は、非多少ざる道理なり。諸相諸業も火炉闊多少の前には、相をも量をも超越したる義なし。
  • 火炉と云えば只尋常には、一団子なる物と思いつる見解を被嫌なり。ゆえに「打破すべし」とはある也。
  • 是は火炉闊多少と玄沙のあれば、火炉闊一丈ともあるべきに、「如古鏡闊」と雪峰の被仰たるは、云い損じたるように諸人思うなり。其れを「閑に可照顧」とはある也。奥の詞に聞きたり、「闊の独立をも功夫すべし」とあり。尤も心をつけて可照顧也。「如々の行李をも蹉過せしめざるべし」とあり、「如」と云う詞は喩えとなる。今の「如古鏡闊」の「如」は努々非譬喩ゆえに、「如々の行李をも蹉過せしめざるべし」とは被釈也。
  • 「動容揚古路」とは、本覚の面目の現るるなどと云う程の詞也。「不墮悄然機」とは、いたづらなる道理に不墮心也。是は「如古鏡闊」の、いたづらならざる所の詞を表す心地なるべし。此の詞は香厳禅師の聞竹響、悟道の時の頌也。

一撃忘所知、更不自修治、動容揚古路、不墮悄然機、処々無蹤跡、声色外威儀、諸方達道者、咸言上々機、云々。

  • 此の詞は雪峰を玄沙(が)謗(そし)りたる詞と聞こゆ。大方も弟子として、争か玄沙(が)雪峰を謗る事あらん。今の「老漢」とは、諸仏諸祖と云う程の詞なり。又雪峰は老漢なるべきか。ゆえにと云い参差たるようには聞けれども、例事也。「老漢」とは三世諸仏、代々祖師という程の詞なれば、此の時は「雪峰にあらざる」道理あり。「雪峰」と云う時は、又三世諸仏諸祖等、皆雪峰に蔵身するがゆえに、「雪峰は老漢なるべし」と云わるるなり。
  • 「脚跟」と云えば、打ち任すは雪峰の足の裏未だ地につかずとて、浮かれたるように聞こゆ。しかあるを「脚跟とは、正法眼蔵か、虚空か」などと云う程の丈に、成りぬる上の脚跟なれば、以凡見非可是非。日来の見解破れぬる条は、勿論(の)事也。所詮今の「脚跟」とは、やがて以老漢姿、脚跟と可云歟。打ち任せたる脚跟は、二物なるべきに、今は「百千万箇あるか」と文。旁不可貽凡見ものなり。
  • 実に「地」と云う事、何々と可定ぞ。不審也、今の「地一類の所見許り、蹔く地と云う」、正儀難測也。此の地を「不思議解脱法門と見るあり、諸仏諸行道と見る一類」もあるべし。今の「脚跟」は、更に可点地なき也。脚跟の姿を以て、やがて「点」とも可仕歟。「実有か、実無か」、いづれも不可遁。又「寸許りなり」と云う道理もあるべき也。此の道理を「問来問去、道他道己あるべし」とは云うなり。
  • 此の脚跟の道理、「点地を是とすべしや、不点地をや是とすべき」。此の道理を「作麽生」と云わるるなり。ゆえに「未点地と道取する也、大地無寸土の時節は、点地也未、未に点地也未」と、云わるる道理也。
  • 是は「老漢脚跟未点地在」の詞は、雪峰老漢の有り様(は)、功徳荘厳を述ぶる也。「脚跟の造次」とは、しばらく脚跟の一途の姿を述ぶる詞也と可心得也。

 

 婺州金華山國泰院弘瑫禪師、ちなみに僧とふ、古鏡未磨時如何。師云、古鏡。僧云、磨後如何。師云、古鏡。

 しるべし、いまいふ古鏡は、磨時あり、未磨時あり、磨後あれども、一面に古鏡なり。しかあれば、磨時は古鏡の全古鏡を磨するなり。古鏡にあらざる水銀等を和して磨するにあらず。磨自、自磨にあらざれども、磨古鏡なり。未磨時は古鏡くらきにあらず。くろしと道取すれども、くらきにあらざるべし、活古鏡なり。おほよそ鏡を磨して鏡となす、塼を磨して鏡となす。塼を磨して塼となす、鏡を磨して塼となす。磨してなさざるあり、なることあれども磨することえざるあり。おなじく佛祖の家業なり。

 江西馬祖、むかし南嶽に參學せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、傳法院に住してよのつねに坐禪すること、わづかに十餘歳なり。雨夜の草庵、おもひやるべし、封雪の寒床におこたるといはず。

 南嶽、あるとき馬祖の庵にいたるに、馬祖侍立す。南嶽とふ、汝近日作什麼。馬祖いはく、近日道一祗管打坐するのみなり。南嶽いはく、坐禪なにごとをか圖する。馬祖いはく、坐禪は作佛を圖す。南嶽すなはち一片の塼をもちて、馬祖の庵のほとりの石にあてて磨す。馬祖これをみてすなはちとふ、和尚、作什麼。南嶽いはく、磨塼。馬祖いはく、磨塼用作什麼。南嶽いはく、磨作鏡。馬祖いはく、磨塼豈得成鏡耶。南嶽いはく、坐禪豈得作佛耶。

 この一段の大事、むかしより數百歳のあひだ、人おほくおもふらくは、南嶽ひとへに馬祖を勸勵せしむると。いまだかならずしもしかあらず。大聖の行履、はるかに凡境を出離せるのみなり。大聖もし磨塼の法なくは、いかでか爲人の方便あらん。爲人のちからは佛祖の骨髓なり。たとひ構得すとも、なほこれ家具なり。家具調度にあらざれば佛家につたはれざるなり。いはんやすでに馬祖を接することすみやかなり。はかりしりぬ、佛祖正傳の功徳、これ直指なることを。まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作佛す。馬祖作佛するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禪すみやかに坐禪となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古佛の骨髓に住持せられきたる。

 しかあれば、塼のなれる古鏡あり、この鏡を磨しきたるとき、從來も未染汚なるなり。塼のちりあるにはあらず、たゞ塼なるを磨塼するなり。このところに、作鏡の功徳の現成する、すなはち佛祖の功夫なり。磨塼もし作鏡せずは、磨鏡も作鏡すべからざるなり。たれかはかることあらん、この作に作佛あり、作鏡あることを。又疑著すらくは、古鏡を磨するとき、あやまりて塼と磨しなすことのあるべきか。磨時の消息は、餘時のはかるところにあらず。しかあれども、南嶽の道、まさに道得を道得すべきがゆゑに、畢竟じてすなはちこれ磨塼作鏡なるべし。

 いまの人も、いまの塼を拈じ磨してこゝろみるべし、さだめて鏡とならん。塼もし鏡とならずは、人ほとけになるべからず。塼を泥團なりとかろしめば、人も泥團なりとかろからん。人もし心あらば、塼も心あるべきなり。たれかしらん、塼來塼現の鏡子あることを。又たれかしらん、鏡來鏡現の鏡子あることを。

詮慧

〇婺州金華山国泰院弘瑫禅師の段。「僧問、古鏡未磨時如何。師云、古鏡。僧云、磨後如何。師云、古鏡」、此の「古鏡の未磨・磨後」(は)、古鏡の一面也。「磨自・自磨」と云う(は)、水銀等にて磨せるゆえに、このとき総て古鏡の外の法(は)不可有。唯有一乗法也。世間の鏡(の)、磨時は明也、未磨の時は暗し。これ共(に)古鏡の上の道理也。たとえば諸仏覚後如何と云わば可答諸仏、不覚の時如何と云わば、可答諸仏。会不会已前に、以仏祖面目為古鏡と云うなり。この心也。

〇南嶽・江西問答段、委在坐禅箴、聊其詞相違あれども其心相同じ。

〇江西・南嶽磨塼段。「磨塼の法なくば、争か為人の方便あらん。為人のちからは、仏祖の骨髄也」と云うは、是「為人」のと云えば、人を余所に置きて云うと聞こゆ。非爾、又「方便」と云えば、実教とも不覚。方便は二乗を教う。仏説なれども仏性・真如の道理に不及れば、方便なるを、今者「方便」とも云えども、「仏祖の骨髄也」とあれば大乗也。実教也。

〇「磨塼の法」と云うは、磨塼作鏡とも、磨塼作塼とも、鏡磨作鏡とも心得るが如く、「為人」は人々の上を云うべし。

経豪

  • 問答の様如文。此の古鏡の様、実に磨時・未磨時、共に古鏡なるべし。以古鏡理、磨とも未磨とも、磨後とも談ずるゆえに、様々鏡の上の功徳荘厳あれども、只「一面の古鏡なるべき」道理也。
  • 所詮、古鏡をば古鏡にて磨する也。水銀等にて磨するは、打ち任せたる鏡也。今(の)古鏡しかあるべからず。
  • 「磨自・自磨にあらざれども、磨古鏡也」とは、「磨」とは何事の道理なると云う事なし。曇れるを解くにもあらず。只古鏡の上に「磨」と云う道理ある也。此の道理が、「磨自・自磨」とは云わるる也。実(に)未磨時なればとて、全古鏡程の詞。又古鏡の独立したる姿也。
  • 此の詞(は)南嶽与江西(の)問答に、磨塼作鏡の詞あり。其れを今(は)古鏡に付けて被引出也。是等の詞(は)、無尽なれども、皆古鏡の上の荘厳調度也。余物非相交、又非強為造作義也。打ち任すは塼を磨して鏡となさんは大功也。鏡を磨して作塼義、頗似無所據、是れ世間の心地也。塼を鏡となすも、鏡を塼となさんも、只同心なるべし。
  • 江西馬祖問答、『坐禅箴』の時、委しく沙汰ありき。只同事なる様なれども、今(の)「磨塼作鏡」の詞(は)、『古鏡』の草子に尤も便りあり。仍被引出之歟。「磨塼」と云えば、塼は土くれ、徒ら物と許り思うべからず。今(は)「心印を密受する」姿を、やがて磨塼と取るべきがゆえに、「磨塼のはじめの初めなり」とは云うなり。
  • 此の問答如文。「和尚作什麽」の詞(と)不被心得。其の故は、塼を磨するを見て作什麽と問いすべき様なし。不審也、此の問い定んで子細あるらん。又此の「作什麽」の詞、「磨塼豈得成鏡耶」の詞に、「坐禅豈得作仏耶」と云う詞も、只同心なるべし。「磨塼」の道理は「作什麽」なるべし。今更非可不審事也。
  • 是は磨塼すとも、更(に)鏡となるべからず。坐禅もこの定めに、坐禅すとも不可成仏と、ざの執を破せん料りに、江西馬祖を南嶽は勧励せしめん料りに如此云わるると、多分人(は)心得たる所を如此被挙也。非爾、坐禅与作仏、不別道理こそ、「坐禅豈得作仏耶」とは云わるれ。努々勧励の詞にあらず。「磨塼豈得成鏡耶」と(の)道理も只「坐禅豈得作仏耶」の道理に不可心得合也。努々不可違也。是を悪しく人の心得也(を)、能々可了見事也。「大聖の行履はるかに、凡境を出離す」とは、仏祖の行履、行住坐臥、語黙動静(を)、一物としても、いたづらなる詞、いたづらなる振舞不可有ゆえに、「凡境を出離す」とは云う也。
  • 実(に)今の磨塼の法を、我等が思うが如くならば、「為人の方便あるべからず」。此の「方便」と云うも実事に対したる方便には不可有。
  • 如文。是はたとい、落ち下がりたる、卑しき詞に似たれども、馬祖の詞は、「仏家の家具調度也」と云う心地なり。
  • 文に聞きたり。磨塼はいかにも、鏡となるべからずとのみ、凡見はあり。今(の)仏法には磨塼を以て鏡と談ずる所が、磨塼の鏡となる時とは云わるる也。此の道理の上に現前する時、「馬祖は作仏する」也。此の道理ならば、実(に)馬祖の作仏と云う義も不可有。馬祖与作仏(は)各別也と談ぜんは、鏡与塼(も)各別也と云う程の義なり。塼(は)いかにも鏡となるべからずと云う道理、実(に)争かあるべき、其の心地を如此被述也。只所詮今の道理は、馬祖が馬祖となり、磨塼が磨塼となるなり。此の理あるゆえに、「坐禅(速かに)坐禅となる」也。塼は鏡なる事が「古仏の骨髄に被住持来る」也。
  • 塼の古鏡となる所を、「塼のなれる古鏡あり」とは云う也。「磨する」と云う事は、曇れる鏡を磨するは常の習い也。是は以鏡磨と談ずる時に、「従来も未染汚なる也」とは云うなり。ゆえに「塼の塵あるにはあらず」と云う也。是れ則ち汚(けが)れ、塵あるを、磨すると云わざる道理必然に聞きたり。只塼の上に、磨の道理あるべき所を如此云う也。此の理が「作鏡の功徳現成する」とも云わるる也。「作」の字(は)、造作の作にあらざる道理顕然也。
  • 如文。打ち任すは、磨塼は作鏡すべからず。「磨塼は作鏡となるべき」条、無不審。但今の磨塼の道理、作鏡の所談、尤も如此云わるべし。磨塼も鏡と談ぜずば、まことに磨鏡も作鏡すべからざる道理明らけし。此の「作」は造作の作にあらず。坐禅をやがて作仏と談じ、磨塼をやがて作鏡と談ずる上は、此の「作」(は)強為してなすべき作にあらず。ゆえに「此の作に作仏あり、作鏡あり」とは云う也。
  • 「古鏡を塼と磨しなすこと」、打ち任すは、あるべからず。但今の磨塼作鏡の道理の上には、「古鏡を磨する時、塼と磨しなす」べき也。磨塼与鏡(の)至りて親しき時、かかる道理あるなり。此の「磨」の道理(は)、いかなるゆえに「磨す」と云う義なし。只古鏡の上の荘厳功徳にて、磨の道理(は)現前する也。ゆえに「余時のはかる所にあらず」と被釈なり。
  • 是は南嶽(の)云うべき道理を‘、云い表すゆえに、此理が「畢竟じて、磨塼作鏡」とは云わるる也と云う心地也。
  • 此の「今の人、今の塼」とは、我等とも心得ぬべし。然而仏道(の)人也。「今」と云えば、始中終に拘わりたるように不可心得。
  • 是又如文。「塼与鏡、人与仏」差別なきを、塼は土くれ、いたづらなる物。鏡は銅(あかがね)。一切の境を照らす重宝也。人は未断惑の凡夫、繋縛の穢身也。仏は極果円満体。三世了達の智慧ゆえに、善悪天地懸隔すなどと心得るは、今の所談に大いに相違すべし。故に「塼もし鏡にならず」と云わば、「人仏になるべからず」と云う義、尤も此の詞(は)有其謂。「塼も泥団也と軽(かろ)しめば、人も亦軽かるべき」道理顕然也。「人与仏、塼与鏡」(の)只一物なる理あるゆえに、「人心あらば、塼も心あるべき也」とは被釈なり。
  • 此の詞は初めに、雪峰与玄沙問答に、胡来胡現、漢来漢現と云いし詞あり。其れを今(は)胡来胡現・漢来漢現の道理のゆく所は、「塼来塼現・鏡来鏡現」の道理なる所を、今(の)云い表さるる詞也と可心得。

古鏡(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。

 

2022年6月擱筆(タイ国にて)