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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十六 仏向上事 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第二十六 仏向上事 註解(聞書・抄)

 

 高祖筠州洞山悟本大師は、潭州雲巖山無住大師の親嫡嗣なり。如來より三十八位の祖向上なり、自己より向上三十八位の祖なり。

 大師、有時示衆云、體得佛向上事、方有些子語話分。僧便問、如何是語話。大師云、語話時闍梨不聞。僧曰、和尚還聞否。大師云、待我不語話時即聞。

 いまいふところの佛向上事の道、大師その本祖なり。自餘の佛祖は、大師の道を參學しきたり、佛向上事を體得するなり。まさにしるべし、佛向上事は、在因にあらず、果滿にあらず。しかあれども、語話時の不聞を體得し參徹することあるなり。佛向上にいたらざれば佛向上を體得することなし、語話にあらざれば佛向上事を體得せず。相顯にあらず、相隱にあらず。相與にあらず、相奪にあらず。このゆゑに、語話現成のとき、これ佛向上事なり。佛向上事現成のとき、闍梨不聞なり。闍梨不聞といふは、佛向上事自不聞なり。すでに語話時闍梨不聞なり。しるべし、語話それ聞に染汚せず、不聞に染汚せず。このゆゑに聞不聞に不相干なり。

 不聞裏藏闍梨なり、語話裡藏闍梨なりとも、逢人不逢人、恁麼不恁麼なり。闍梨語話時、すなはち闍梨不聞なり。その不聞たらくの宗旨は、舌骨に罣礙せられて不聞なり、耳裡に罣礙せられて不聞なり。眼睛に照穿せられて不聞なり、身心に塞卻せられて不聞なり。しかあるゆゑに不聞なり。これらを拈じてさらに語話とすべからず。不聞すなはち語話なるにあらず、語話時不聞なるのみなり。高祖道の語話時闍梨不聞は、語話の道頭道尾は、如藤倚藤なりとも、語話纏語話なるべし、語話に罣礙せらる。

 僧いはく、和尚還聞否。

 いはゆるは、和尚を擧して聞語話と擬するにあらず、擧聞さらに和尚にあらず、語話にあらざるがゆゑに。しかあれども、いま僧の擬議するところは、語話時に即聞を參學すべしやいなやと咨參するなり。たとへば、語話すなはち語話なりやと聞取せんと擬し、還聞これ還聞なりやと聞取せんと擬するなり。しかもかくのごとくいふとも、なんぢが舌頭にあらず。

 洞山高祖道の待我不語話時即聞、あきらかに參究すべし。いはゆる正當語話のとき、さらに即聞あらず。即聞の現成は不語話のときなるべし。いたづらに不語話のときをさしおきて、不語話をまつにはあらざるなり。即聞のとき、語話を傍觀とするにあらず、眞箇に傍觀なるがゆゑに。即聞のとき、語話さりて一邊の那裡に存取せるにあらず、語話のとき、即聞したしく語話の眼睛裏に藏身して霹靂するにあらず。しかあればすなはち、たとひ闍梨にても、語話時は不聞なり。たとひ我にても、不語話時即聞なる、これ方有些子語話分なり、これ體得佛向上事なり。たとへば、語話時即聞を體得するなり。このゆゑに、待我不語話時即聞なり。しかありといへども、佛向上事は、七佛已前事にあらず、七佛向上事なり。

詮慧

〇「仏向上」は一祖の上を云うべし。世間出世に各々分上に詞多し。教門宗々の廃立各々也。一仏の所説に付きて、機を表す詞あれども、義は又各々也。但其の至極する時、仏向上事等の詞出でく。余門には総て此の詞なし。

〇「如来より三十八位祖向上也、自己より向上三十八位の祖也」と云うは(一祖の上へ三十八位と云うべし)、是等の詞(は)他門には不談歟。如来よりは向下とも仕い、自己よりは向上などと仕うも、上下の詞(は)、世間に習うべからず。

〇自己は非汝、非誰ざる自己なり。自己は洞山かと聞こゆ。しかにはあらず、その人を指したる自己ならば、世間の自己なるべし。一定いづくを始めと定むべからず。只仏上にも三十八とも数え、洞山一人の上にても三十八とも云うべき也。仏法の外なる仏あるべからず。祖より外の仏法なかるべし。「自己より向上」と云う詞(は)この義也。代々と算数する三十八位にあらず、仏向上事を説く「三十八位」なり。以詞心得とは云わず、「仏向上事」を以て語話をば心得べき也。

〇「仏向上事を体得すれば、語話の分有り」と云う時に、語話の分を知らん事は、仏向上事にて有るべし。又「仏向上事は、如来より三十八位祖向上也、自己より向上三十八位の祖也」と云うまで、一代聖教の意は体脱すべきなり。一切衆生悉有仏性と談ずるも、三界唯一心と云うも、唯一乗法と云うも、諸法実相と云うも、「如来と洞山との三十八位の祖向上」なる道理に、聊かも無相違也。所詮「三十八位」は、ただ一師の上にあるべし。「親嫡嗣なり」と云うゆえに、三十八位までの員数とは不可思。仏向上なるゆえに、「六十劫をも食頃」(『法華経』序品「大正蔵」九・四a二七・注)とこそ、経には説け、無量仏を供養すとも是程なるべし。

〇洞山悟本大師段、体得仏向上事・・待我不語話時即聞。

「不聞」というは、仏向上事の聞にては不可有。只世間の聞なり、ゆえに「不聞」と云う。舌頭より生ずる語話ならざるゆえに、凡そは如何是「体得仏向上事」とぞ問うべき置初問、第二重詞(に)一の不審也。但し「体得仏向上事は方有些子語話分」也。「語話は闍梨不聞」。此の不聞「和尚聞否」也。和尚還聞くは、「待我不語話即聞」にてある時に、次第に説きあらわす上は、体得仏向上事有何不審哉と覚ゆ。

〇「和尚還聞否」と云うは、先ず何としてか不聞とぞ問うべきに、やがて「聞否」の詞(は)似総々。聞くべき事を聞くかと問い、若しくは闍梨こそ不覚にて不聞也とも、和尚は学道人なれば、聞くかなどと云うにはあらず。「語話の時不聞」と云うことを猶「即聞」と云う道理もありやと問う心地なり。又「聞」も「語話」もいか程を指して、「語話とも聞とも‘」云うぞと問うなり。語話がやがて不聞なるゆえに。

〇凡そ見仏聞法の道理は、世界を以て見、身を以ても見、心を以ても見、耳を以ても見る也。聞も亦如是、此の一地を承けて、今も如此云う也。

〇「待我不語話時即聞」と云うは、世間には語話時は聞也。諸法なるゆえに、仏法には「不語話の時を即聞」と云う。無言説と云うゆえに、如此ならば舌頭の響く所を語話と云わず。いかならんか語話なるべき、能々可尋知事也。法華の時説を勘うるに、霊山の説不聞に当る、そのゆえは一字不説と仏被仰、十方仏土中唯有一乗法と云う。一乗の法の外に物なきゆえに、誰聞くと不可云、此義にて可心得か。

〇「即聞」と云うは、応以仏身得度者、即現仏身而為説法と云う。現ずるも仏身、得度せんとするも仏也。しかれば「即聞」も仏なるべし、「不語話」も仏なるべし。衆生と云う事聞こえず。現身を説法と云う也。現身が「語話」にてある也。此時「闍梨不聞の語話」なり。現身説法と云わば、其の時は闍梨あるべからず。

〇「仏上に至らざれば、仏向上を体得する事なし」と云うは、「仏上・仏向上」ただ同じ詞なり、無差別也。舌論の語話こそ、顕隠与奪もあれ、仏向上の時は不然。

〇「聞に染汚せず、不聞に染汚す」と云うは、一の「染汚」は取り、一の「染汚」は捨つるに似たり如何。この「染汚」を各別して善悪と取るべきにはあらず嫌うにあらず、只「聞には染汚せず」とも、「不聞には染汚す」と仕い替うる許り也。「聞不聞に不相干也」と云うは、この「相干」は世間の法に「不相干」と云う也。

〇「逢人不逢人」と云うは、なべて人に逢うぞ、人に逢わぬぞと云うにてはなし。「不聞裏蔵闍梨」の心地也。

〇「舌骨に罣礙せらる」と云うは、如来遍覆三千大千世界と談じぬる上、誰かあるべきぞなれば不聞なり。「舌骨」と云う「舌」(は)仏向上事の舌骨也、遍覆三千の「舌」也。世間の舌にあらず、しかも如此也と云えども、なんぢが舌頭にあらずと云う。闍梨か舌頭か舌頭にあらずと云うは、闍梨舌頭にあらずとなり。

経豪

  • 先ず「仏向上事」と云えば、仏より上に猶勝りたる事のあらんずるか、乃至仏に取りても御くし頂上などとの事を云う程に心得(は)、不可然。只今の仏法の所談、併せて是れ仏向上事なるべし、世間の人上を云うも、強ちその人の頂上、顔などとの事を云うにあらざれども、ただ其の人の上の事を云うをば人上を云うなどと名づけたり。又「如来より三十八位祖向上也」とあり、仏与祖差別あるべからざれば、題目には「仏向上」と云いて、ここには「祖向上」とあり。「自己より向上三十八位の祖也」とあり。上も下も「三十八位、祖向上也、向上三十八位の祖也」と云々。是は所詮三十八位の祖(は)、悉く今の洞山に蔵身する也。「三十八位」と云うは、廿八祖より六祖まで三十三祖、青原より洞山まで五代、都合三十八祖也。今の「自己」は洞山(の)自己也。この問答は「仏向上事を体得して、些子の語話分有るべし」と、大師被仰るを、「僧、如何是語話」と問いたるを、大師答うに「語話時闍梨不聞」と被仰るを、重ねて「僧、和尚還聞否」と奉問うに付けて、「大師、待我不語話時即聞」と美しう問答あるように聞こゆ。是は仏向上事の上に「語話と不語話」と、「聞与不聞」(と)談ずるなり。世間の問答の詞にあらず。「語話」も仏向上事なるべし。此理の上に、「不語話」の詞あるべし。「語話時は闍梨不聞」の道得あるべし。「闍梨」とは指今僧歟。又大師道の「不語話を以て即聞」と談ずる也。聞与語話(は)非二、ゆえに此の「仏向上」の詞(が)、洞山(の)始めて被示したる詞也。ゆえに「大師その本師也」とは云う也。
  • 今の仏向上、まことに因果にあらざるべし。然而「語話の不聞」と云う事を「体得し、参徹する事ある也」と云う也。
  • 実(に)「仏向上に至らざらんに、仏向上を体得すべからざる」条勿論也。此の語話の道理を離れて、仏向上事と云う義あるべからず。「語話と仏向上事」とのあわいが、「相顕にあらず、乃至相奪に非ず」とは云わるる也。彼が是に成ると云う義がなき時に、隠顕とも与奪にてもなき也。此道理は此仏向上に限るべからず。此法文の図(は)皆如此なるべし。「闍梨」とは指此僧歟。
  • 「闍梨不聞」と云うは、聞くべきか不聞にはあらず。「仏向上事の理が自不聞なる」道理也。
  • 是は上の語話時不聞の理を被釈なり。「語話の詞、聞に染汚せらるべからざる」也。此の語話がやがて聞なるゆえに、「不聞に染汚す」とは云わるる也。是は「聞不聞に不相干なる」道理なるべし。
  • 是は「不聞裏闍梨をかく(蔵)し、語話裏に闍梨をかく(蔵)す」と云う、然者「不聞与語話」が、前後に経ぬしに成りたりと聞こゆ。但し「此不聞、此語話、闍梨」(は)、皆一物なれば、かく(蔵)ると可云歟、かく(蔵)れずと可云歟。然而今(は)詞のあらわるる分に付いて談ず也。此の「不聞裏蔵闍梨、語話裏蔵闍梨」のあわいが、「逢人不逢人、恁麽不恁麽」とは云わるる也。会不会、見不見程の道理なるべし。
  • 「闍梨語話時の理が、闍梨不聞なる」也。闍梨も語話も不聞も不各別ゆえに、又「その不聞たらくの宗旨は」とて、不聞の姿を無尽に明かさる。打ち任すは「不聞」と云う詞は、耳根に仰せて云う詞なり。今は「舌骨・耳裏・眼睛・身心」等を挙げて、「不聞也」と被挙也。六根皆不聞の道理なるべし。又「しかあるに、不聞也」と云えば、上に舌骨より身心に至るまで、色々に被挙所を「しかあるゆえに」と云うかと被心得たり。其の分もなかるべきにはあらねども、只「しかあるゆえに、不聞也」とは、上の詞を不奪とも、只法の理が「しかあるゆえに、不聞也」と云わるべき也。是れ則ち即不中の道理なるべし。
  • 彼是を挙げて語話と云えば、喩えになりたるようにも聞こゆ。只不聞は不聞なるべし。語話と必ず談ずべきにあらぬ道理也。「語話時不聞なるのみ也」と云う。

闍梨語話時則闍梨不聞也とは、闍梨語話一なるゆえに闍梨不聞とは云う也。

  • ここには「語話と闍梨と不聞」と三ある様に聞こゆ。但し是は「語話の道頭道尾」と云えば、首尾語話と云う心地也。実にも「語話と闍梨不聞」(は)不各別ゆえに、此道理は「如藤椅藤の理」なるべし。「語話纏語話の理」なり。「語話に罣礙せらるる」なり。
  • 是は「和尚還聞否」とは、僧の高祖に尋ね申したるように聞くる所を、「和尚を挙して聞語話と擬するにあらず。挙問さらに和尚にあらず、語話に非ざるがゆえに」とは、「和尚還聞否」と、「挙問」にあらざるなり。
  • 如右云、和尚に挙問するには非ざれども、「僧の擬議する所は、語話時に即聞を参学すべしや否やと咨參する也」となり。但し倩(つくづく)案之、此の語話の道理を、「即聞」と云い、「参学あるべし」と云わん義尤も当るべき也。
  • 所詮今の語話還聞等の道理は、「語話則ち語話也と問取也、還聞これ還聞也」と云う道理に可落居也。
  • 此理又如此と問答すれども、「汝が舌頭にて云うにはあらず」と也。詮は仏向上の道得也、舌頭なり。
  • 打ち任すは語話時には即聞の道理あり、不語話時に不聞の道理なるべし。但し是は凡聖の見なり、仏向上事の上には今義あるべからず。詮は語話・不語話(は)非得失、不語話の全体を以て即聞と云うべし。語話又究尽の時、尤も不聞の理あるべし。ゆえに「高祖道は待我不語話時即聞」と被仰也。此の「我」は洞山事也。

「不語話の時(刻)」と云う、物のあらんずるを待つように思うべからず。ゆえに「いたづらに不語話の時を差し置きて、不語話を待つには非ざる也」とは云うなり。

  • 「即聞与語話」のあわいを重ねて委しく被釈也。詮は「即聞と談ずる時、語話と云う物の傍観するにあらず」。即聞の時は即聞の外に残る一法あるべからず。「真箇の傍観と云う」べくは、即聞の時は即聞を傍観とし、語話時の語話を傍観とすべきなり。
  • 即聞与語話のあわいを云うに、「即聞と談ずる時、語話が去りて、一辺の那裏に存取せるに非ず、語話の時、即聞親しく語話の眼睛裏に蔵身して霹靂するにあらず」とは、所詮一つが外に側(そば)に又かくれてあるべきにあらず。即聞なる時は又不可有。一法の無辺際(の)道理を如此被釈也。「蔵身」の詞は常に被引出、是が彼に蔵身すると云う義(は)常事也。然而かかる又一義もあるべきゆえに、如此被釈なり。所詮ともかくも、詞も面も替えたるようなれども、其理総て不可違。是仏向上事の姿なるべし。
  • 是は悟話・不語話・闍梨・聞不聞等の詞あり。又本の詞に、語話時闍梨不聞とある所を、「たとい闍梨にても語話時は不聞也」と云うなり、本の詞に不違。「たとい我にても不語話時即聞なる」とあり、是又本の詞に、待我不語話時即聞とあり。ゆえに此詞を「体得仏向上事也」と云うなり。
  • 語話時不聞とこそあるを、ここには「語話時即聞」とあり。是は理の響く所を、とかく入れ違えて被釈也。語話時不聞なる道理の上に、又「語話時即聞なる」道理あるべき所を如此被述也。此の上は上の詞に対して、「待我不語話時即聞也」とぞありたきように覚ゆれども、此理の上は「語話時は即聞、不語話時は即聞ならん」、更に不可有難事也。
  • 是は「仏向上」と云えば、七仏已前遥かなる詞に思い付きたるを非爾、只「七仏の上事也」と云うなり。乃至「七仏」と云えば、猶仏に蒙ぶらしめて云う様にも心得つべし。草木山河大地の上に談ぜんも、「仏向上事」なるべし。されば奥にも、如何是仏向上事と問せられて、拄杖頭上挑日月と、答えたる事もある也。

 

 高祖悟本大師、示衆云、須知有佛向上人。時有僧問、如何是佛向上人。大師云、非佛。雲門云、名不得、状不得、所以言非。保福云、佛非。法眼云、方便呼爲佛。

 おほよそ佛祖の向上に佛祖なるは、高祖洞山なり。そのゆゑは、餘外の佛面祖面おほしといへども、いまだ佛向上の道は夢也未見なり。徳山臨濟等には爲説すとも承當すべからず。巖頭雪峰等は粉碎其身すとも喫拳すべからず。高祖道の體得佛向上事、方有些子語話分、および須知有佛向上人等は、たゞ一二三四五の三阿僧祇、百大劫の修證のみにては證究すべからず。まさに玄路の參學あるもの、その分あるべし。

 すべからく佛向上人ありとしるべし。いはゆるは、弄精魂の活計なり。しかありといへども、古佛を擧してしり、拳頭を擧起してしる。すでに恁麼見得するがごときは、有佛向上人をしり、無佛向上人をしる。而今の示衆は佛向上人となるべしとにあらず、佛向上人と相見すべしとにあらず。たゞしばらく佛向上人ありとしるべしとなり。この關棙子を使得するがごときは、まさに有佛向上人を不知するなり、無佛向上人を不知するなり。その佛向上人、これ非佛なり。いかならんか非佛と疑著せられんとき、思量すべし、ほとけより以前なるゆゑに非佛といはず、佛よりのちなるゆゑに非佛といはず、佛をこゆるゆゑに非佛なるにあらず。たゞひとへに佛向上なるゆゑに非佛なり。その非佛といふは、脱落佛面目なるゆゑにいふ、脱落佛身心なるゆゑにいふ。

詮慧

〇高祖悟本大師段。(雲門、保福、法眼、都合四人詞被連之)

已前の詞、何れも同じかるべし。是は師々の詞を集めて云う許り也。其の意旨一なるべし。

〇「悟本大師の示衆して、須知有仏向上人」と云いし時、雲門、保福、法眼等の同時にあるにあらず。後の詞どもを、寄せられたるなり。

〇「名不得、状不得」と云う(雲門〔悟本?〕大師の非仏の詞を釈也。名不得、状不得は非仏也。所以言非とあり)、此の「不得」は心不可得の不得也。「名」と云うも尽界に満したる名也。「状」と云うも尽界の状なるゆえに不得なり。如世間談の「名并状」にはあらず。可得ことなきゆえに「不得」と云うにはあらず。

〇「名不得、状不得」と聞けば、法身の仏をば、青黄赤白黒にあらず、非色非身非有非無などと説く。然者名づけ、かた(状)どる方なければ、「名不得、状不得」の詞と云われたりと覚えれども、又しかにはあらず。只仏を指して「名不得とも、状不得とも」云うべし。「所以言非」とあり、又保福の「仏非」と云うにて可心得合也。

〇「悟本大師は非仏、保福は仏非」と云う、これともに其物其事にはあらずと云う「非」にてはなし。これ仏の上の「非」也。四句百非の非にあらず、非心非仏の「非」なるべし。

〇「弄精魂」と云う、これ衆生の慮知念覚かと覚えたれども不然、仏向上の「精魂」也。精魂はやがて精魂を弄する也。

〇「有仏向上人を不知する也、無仏向上人を不知する也」と云う、此の「不知」は有仏向上人、無仏向上人也。抑も「仏向上人」と云う事、能々心得ての上の事也。「人」と云うは、いたづらなる我等を指しては云わじ。宗門の用うなる達磨西来、不立文字、直指人心、見性成仏と云う「人」なり。この事を専門家の末流僻見に住して云うには、人身は業報所成の身、五陰積聚の物なれば、生老病死の四苦に転ぜられ、非可執心こそ無念寂静にして、湛然常住なれ。これ仏心と等しきゆえに、直指人心こそあれ、以心伝心の法とて仏迦葉に附法し坐(ましま)しし時は、何れを伝と云う事なし、心をこそ伝えしかなどと云う。これ教に云い触るしたる身心一如の義にだにも及ばず。身劣にして用いずば、心甚だ用い難し。心を用ゆべくば、人身も難棄。直指人心と云う人は、今の「仏向上人」なるべし、尽十方界真実人体の「人」なるべし。此の謂われをこそ、雲門の「名不得、状不得」とも、悟本大師の「非仏」とも、保福の「仏非」とも、法眼の「方便呼為仏」とも云之。能々可了見合也。

〇此の「方便呼為仏」と云う、方便をば、尤も方便をと可読也。方便にと呼んでは聊か其の意趣可相違。「為仏の方便」なるゆえに、実法に対したる方便にはあるべからざるなり。

経豪

  • 初めは仏向上事とあり、今は「仏向上人」とあり。実にも仏向上の上に「仏向上人」と云う事あるべし。此の答えに「非仏」と被仰ぐ、是は此の人を嫌いて非人と被仰歟と。此非は覚えたtれども、「仏向上の非」(を)、何としてか是非の非に混すべき。即心是仏の上の、非心非仏非定相仏の「非」なるべし。此の大師の詞を後に、雲門、保福、法眼等、随詞被下語(は)、文に聞こえたり。非仏は猶凡見にもまがいぬべし。保福の詞に「仏非」とあり、是は是非の非にあらざる分、分明也。又「方便を呼んで為仏」とあれば、実事に対したる方便かと聞こゆ非爾、「仏向上の方便」也。助法にあらざるべし、其已下は大師を讃嘆(の)御詞也。
  • 是は如文。大師御詞を返々被讃嘆なり。「玄路」とは祖門の参学の事也。
  • 是は高祖の須知有仏向上人の詞を重ねて被挙也。「仏向上の上に人と云う事あるべし」とは、大師の弄精魂なるべし。乃至大師の弄精魂にてもあるべき也。「古仏を挙して知り、挙頭を挙起して知る」とは、此の「古仏挙頭知」の道理、又仏向上事なるべし。此上には「無仏向上人を知る(是は先師御詞也)。「有」は本の詞、「無」は先師の被釈御詞なり。実に有仏向上人の上には、無仏向上人の道理、尤もあるべきなり。
  • 如文。仏向上の外に又人ありて、後になるべしと云うべきにあらず。仏向上の外に別人ありて、相見すると云うべからず。「只仏向上人有りと知るべき」道理なり。
  • 「関棙子を使得する時、有仏向上人を不知す」と云う道理あるべき也。仏向上の上の「有無・知不知あるべき」道理を被明也。此の「仏向上人を非仏と云うべき」と也。如此なればこそ、「仏法の関棙子」とは云わるべけれ。
  • 所詮造作の義を離れたる、解脱の上(の)「仏向上の仏」(を)、如此云わるべき也。如文。
  • 如文、又如前云。

 

 東京淨因枯木禪師〈嗣芙蓉、諱法成〉、示衆云、知有佛祖向上事、方有説話分。諸禪徳、且道、那箇是佛祖向上事。有箇人家兒子、六根不具、七識不全、是大闡提、無佛種性。逢佛殺佛、逢祖殺祖。天堂収不得、地獄攝無門。大衆還識此人麼。良久曰、對面不仙陀、睡多饒寐語。

 いはゆる六根不具といふは、眼睛被人換卻木槵子了也、鼻孔被人換卻竹筒了也、髑髏被人借作屎杓子了也。作麼生是換卻底道理。このゆゑに六根不具なり。不具六根なるがゆゑに鑪鞴裏を透過して金佛となれり、大海裏を透過して泥佛となれり、火焔裡を透過して木佛となれり。

 七識不全といふは、破木杓なり。殺佛すといへども逢佛す。逢佛せるゆゑに殺佛す。天堂にいらんと擬すれば天堂すなはち崩壞す、地獄にむかへば地獄たちまちに破裂す。このゆゑに、對面すれば破顔す、さらに仙陀なし。睡多なるにもなほ寐語おほし。しるべし、この道理は、擧山匝地兩地己、玉石全身百雜碎なり。枯木禪師の示衆、しづかに參究功夫すべし、卒爾にすることなかれ。

詮慧

〇東京浄因枯木禅師段。

禅師示衆云、知有仏祖向上事、方有説話分・・対面不仙陀、睡多饒寐語。

「人家の児子」と云うは、仏向上人也。仏祖の家門に入りて仏法を習う人。仏祖とならんことは、蹔く置く、天堂地獄には決定逸かれぬる者也。この門家に入る人、皆六根不具なるべにはし。

〇「六根不具」と云うは、仏向上事の時は、この人界の六根不可有、ゆえに「不具」と云う。尽十方界真実人体と云う。世間の六根争か可具足哉。詮は仏祖の六根と者、能具所具にあらざる也。余家六根不具、七識不全と云わんを心得には、六根が二三も欠けたらんを不具と取り、七識が二三も無からんずるを、たとい有りとも、悪業の識のみ起らんを、不全などと云わんずると思えり。しかにはあらず、一向この六根は不具の物、七識は不全と云うべし。さてこそ衆生界は、一向やぶれて仏向上なれ。

〇「七識不全」と云うは、心意識に関わるは世間なり。心意識を離れたるを仏法と云う。しかれば仏向上の時は、七識不全となり。但し又仏法に六根と云い七識と云う事有りとも、其の時は尽十方界をして、六根とも七識とも可仕也。

〇「大闡提、無仏種性」と云うは、仏性を談ぜし時、衆生う、衆生無仏性と談ずる心地にて可心得。「闡提」とは不可成仏者の名也。廃種の二乗と云うも「無仏種」を云う也、永く不成仏の者を云う。『涅槃経』には闡提猶可成仏(不見・注)と談ず也。又大悲闡提の菩薩と云う事あり、是は又別事也。衆生化度の為に、一衆生も残らん程は、大慈大悲の心にて、仏に成らんと誓う大乗の菩薩ある也。不可類二乗事也。

〇「逢仏殺仏、逢祖殺祖」と云うは、坐禅の時、殺仏と云う心地にて可心得也。殺仏などと云いつれば、殺の詞を恐れて、耳を塞ぐ族多し、まことに不知の前には非無謂。ただし「殺」と云うは親切の義、非可恐。その上殺すと云えばとて、ただ徒らなる詞、一一非可驚。抑も仏は死するものか、被殺ものか。此理を能々案じ解してのうえの事也。提婆に逢いし時、出仏身血罪を表さん為なり、非実。然而出血までこそあれ、殺とは云わざるべし。又「逢仏は殺仏」と云う、たとえば仏の仏を殺すべきか、仏にあらずして不可逢、仏祖にあらずは祖に不可逢也。

〇「天堂収不得、地獄摂無門」と云えば、天堂は有れども収め難く、地獄は有れども接するには無門と云うかとも心得られぬべけれども、始めに逢仏殺仏、逢祖殺祖と云う時に、天堂も地獄も、この児子向かわば破れ得ずべきなり。

〇教に地獄天宮皆為浄土、有性無性斉成仏道(『円覚経』「大正蔵」一七・一七b六・注)などと云うをば、衆生悤々に聞きて悦び、今の枯木禅師の詞は、向上人を説く時に、衆生の耳には下がりて覚ゆ、無力事也。

〇「対面不仙陀」と云うは、この六根不具人は「不仙陀」となり、「仙陀」とは田舎人也。又仙陀婆と云う事あり、言葉なきを「不仙陀」とも云うべし、仙陀客をば田舎人と云う。此の「対面不仙陀」と云う詞の、ここに出で来る事は、語話分と云いつる事のゆえに被引出也。王索仙陀婆と云うは、詞にてあるを、王臣仙陀婆の詞の上に、種々の悟りを得て、王に物を奉るを、今は「不仙陀」とあれば、言葉がなきに当るゆえに、不語話の時、即聞の義を謂わんとして、「対面不仙陀」と云う也。

〇「睡多饒寐語」と云うは、此の六根不具人は睡(ねぶ)りの時も詞を多く豊か也となり。「換却」と云うは、実に只今売買の法あるべき様に覚ゆ。しかにはあらず、たとえば一心に三界を換却と云わんが如し。三界唯一心なれば、仏の皮肉に衆生の皮肉を

被(かぶ)るなり。

〇「鑪鞴裏を透過す」と云うは、金は鑪鞴裏に不可全、然而仏向上金仏は鑪鞴裏の透過する故に如此云う。「大海裏を透過す」と云うは、泥仏大海裏には崩れぬべし、然而仏向上は透過の故に如此云う也。「火焔裏を透過」と云うは、木は火焔裏には不可全、然而透過すれば如此云う也。「鑪鞴裏を透過して金仏となれり」と云うまでは猶、世間の詞にも思うべし。「金仏」をば、たたら(鑪鞴)にてこそある時に、鑪鞴の内を過ぎてと心得る程に、「大海裏を透過して泥仏となる」と云う時こそ、迷惑すれ仏向上の義かかると可習也。

〇「七識不全と云うは、破木杓也」と云う、世間の七識が仏向上には破れぬる也。此の破を「破木杓」と仕う。「殺仏すと云えども、逢仏す」と云うは、殺すと云うも、逢うてこそ殺す時に逢うと仕う。「天堂・地獄」の事は、仏向上人、都て境界ならざる所を云うなり。「対面すれば破顔す」と云うは、仏与迦葉の例也。仏の附属を得し時が、破顔なるなり、いたづらに破顔せしにてなし。「挙山匝地両知己、玉石全身百雑砕」と云うは、「挙山匝地」とあれば、山与地二つの詞に聞こゆ。然而「両知己」と云う云う時に、二つのあわい親切にして、「知己」と云わるる也。人二人の逢いたるも疎(うと)からず。甚深なるをば知己の中と云うが如し。仏対面すれば、迦葉破顔する程也。「玉石を全身」と知る也。「百雑砕」と云う上は、又玉ぞ石ぞの差別も不可有。「百砕」は解脱也、三界唯一心と知る也。

経豪

  • 如此示衆者、大いに驚耳目ぬべし。其の故は「六根不具、七識不全」、是先ず浅ましき名目共なり。次に「大闡提、無仏種性」とあり、「闡提」とは永く仏に成るべからざる者の名。「無仏種性」の詞(も)、又被驚ぬべし。「逢仏殺仏、逢祖殺祖」の詞以外事也。彼是驚疑怖畏しつべし、但し仏向上事の上の衆生(は)、今更非可驚。「随六根不具」と云うは、尽十方界沙門一隻眼なれば、能見所見なき所、六根不具なるべし。又一眼の法界を尽す時、余りの五根なき所をも不具とも可云歟。此の不具更に非得失義。七識又以同前、能知所知なき所、しばらく「七仏不全」と云わるべし。仏向上事を以て、大闡提無仏種性と談じ、蹔く何をか恐畏すべき。「逢仏殺仏」、此の「殺」の詞(は)、『坐禅箴』の時委しく沙汰ありき。所詮至りて親切に談じ、仏時殺仏と云う詞は出で来るなり。仏与迦葉のあわいを云えば、迦葉の身心は仏に蔵身せらるるゆえに、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉とも被仰しか、此の姿を「逢仏殺仏」と云わるる也。「逢祖殺祖」の理、只同じかるべし。「天堂収不得、地獄摂無門」、まことに「天堂」此内に収むべからず。「地獄摂門」の詞ぞ、あしからず聞こえれども、善悪勝劣の取捨あるまじき上は勿論。「識此人麼」とは、人家の児子と謂わるる人事也。「対面不仙陀、睡多饒寐語」とは、此れ仙陀知臣にて王の意を知りて、索鹽奉馬の臣なれども、是は猶両人あり。是は非其義、対面すれば仙陀はなき也。一法究尽の道理のゆえなり。「睡多饒寐語」とは、ねぶりの中には又語もあるまじき道理なれども、「寐語」ありと云う。
  • 是は古き詞共なり。所詮心得られぬ詞多く、くたくたとあるようなれども、眼はあれども不見也。木槵子に取り換えたるゆえに、木槵子(は)物を見る事不能。「鼻孔」(も)又同じ。「髑髏被人借作屎杓也」などと云う、是又不被心得様なれども、古き詞を被取出上、「眼も、鼻も、髑髏も」あれども、徒事なる事に、被引出也。是れ則ち「六根不具」の道理なり。又「作麽生是換却底の道理」と云う詞(も)例事也。いかなる道理なるとも難定。又いかなる道理にてもある所が如此謂わるる也。「六根不具」と云えば、猶旧見も差し出でぬべし。不具の六根と云えば、はるかに解脱の詞に聞こゆる也。
  • 是は皆解脱したる心地也。「金仏」と云うも、「鑪鞴裏」の為す所なり。「泥仏」も水を離るべきにあらず。「木仏又火焔裏」には免がるべからず。彼等を「透過して、金仏とも泥仏とも木仏」とも可談也と云う也。
  • 「破木杓」とは、解脱の詞に仕うなり。
  • 此の道理の上には天堂あるべからず、地獄あるべからざるゆえに、「崩壊すとも破裂す」とも云う也。もとよりなき道理を「崩壊破裂」と仕うなり。此理「対面すれば仙陀なし」と云わる、「睡多なるにも、寐語多し」と云わるる也。
  • 是は山をば山が知り、地は地が知ると云う心なり。又「玉石の全身なる姿を百雑砕」とは云う也。玉石独立の姿を如此云うなり。

 

雲居山弘覺大師、參高祖洞山。山問、闍梨、名什麼。雲居曰、道膺。高祖又問、向上更道。雲居曰、向上道即不名道膺。洞山道、吾在雲巖時祗對無異也。

 いま師資の道、かならず審細にすべし。いはゆる向上不名道膺は、道膺の向上なり。適來の道膺に向上の不名道膺あることを參學すべし。向上不名道膺の道理現成するよりこのかた、眞箇道膺なり。しかあれども、向上にも道膺なるべしといふことなかれ。たとひ高祖道の向上更道をきかんとき、領話を呈するに、向上更名道膺と道著すとも、すなはち向上道なるべし。なにとしてかしかいふ。いはく、道膺たちまちに頂□(寧+頁)に跳入して藏身するなり。藏身すといへども、露影なり。

詮慧

〇雲居山弘覚大師段

「大師参洞山・・吾在雲巌時祗対無異也」、先には「道臂」と云々、「向上更に道うべし」と云いて、後「不名」と云う。勝劣あるに似たれども不可然、語話時不聞、待我不語話即聞と云いしこと也。只即聞不聞程の差別也。「名什麽」と云う心地にて、「名」も「不名」も心得べし。「向上」と云う詞、我より上と不可心得事明らか也。「不名」とは云い替えたれども、「道膺の上に道膺」とも「不名道膺」とも云うなり。仏より已前なるゆえに非仏と云わず、仏より後なるゆえに非仏と云わずと云う道理に当て、「名道膺とも不名道膺とも」心得べし。「名・不名」は仏性の上の有無也。道膺の全面を向上(と)心得也。

〇「真箇の道膺也、しかあれども向上にも道膺なるべしと云う事なかれ」とは、たとえば三界を三界と名づくる事なかれと云う程の義也。

経豪

  • 此問答審細すべし。「闍梨名什麽」の詞、只普通にも師資のあわい、争か始めて名字の不審あるべき。実にも此の闍梨の名、なにとあるべきぞ。仏性ばるべきか、法性なるべきか、三昧陀羅尼なるべきか、真如実相なるべきか故に、「闍梨什麽」と云わるるか。是什麽物恁麽来の詞の理是れなり。これ「道膺」と無風情名字を被答。是又いかなるべきぞ、此の答えには有仏性と答え、無仏性と答え、或いは実相真如と答え、少しも今の「道膺」と被答えたるに不可相違。只尋常に人の名字は何と尋ぬに、某となりたるなどと卒爾に不可心得事也。ここに「高祖又向上に更に道え」とあれば、此の上に猶深き義もあるべきを、前の答えは不及。重ねて猶上の義を云えと被仰たるように聞こゆ非爾、只仮令向上の義を二度云えなどと云わん程の事也。其の時、向上にいわば「即不名道膺」と被仰。是こそ法文なれと被心得ぬべし非爾、道膺の上の「不名道膺」の道理なるべし。全非得失義。「祗対無異也」の詞は、被印可、詞なるべし。
  • 是は如前云、不名道膺の詞は、道膺の向上也。「適来の道膺には不名道膺」の道理ある也と云うなり。
  • 如文。此の「不名道膺の理」を会する時、「まことの道膺也」と云う也。所詮只問いに付けて、我名字を被答などと許り心得は、非真箇道膺べし。今向上の道膺を指して「真箇の道膺」とは可云也。「然而(しかあれども)向上にも道膺なるべしと云う事なかれ」とは、本の詞を働かせて置かん料りなり。本の詞には向上道には、不名道膺とある所を、「向上にも道膺なるべしと云う事なかれ」とあるなり。
  • 是は前に高祖の向上更道と云うに付けて、不名道膺とありつる詞を、不名の詞を略して、只「名道膺と道著すとも、此詞向上道なるべし」と云う也。是れ則ち道膺とありつるに悪しき詞、向上道不名道膺(の)詞こそ、善けれと可心得所を、道膺も不名道膺も皆共に「向上道なるべし」と云う也。会不会、見仏不見仏の理なるべし。
  • 是は「道膺は道膺の頂□(寧+頁)に跳入して蔵身する也」と云うなり。道膺と不名道膺とのあわいが、如此云わるべき也。たとえば釈尊与迦葉の聞を云うに、釈尊に迦葉の蔵身すと云うべきか。所落居の道理は、釈尊釈尊に蔵身し、迦葉の迦葉に蔵身する理也。かく「蔵身すとは云えども」、かくれうすべきにあらず。弥(いよいよ)釈尊も迦葉も「露影する」道理なるべき也。

 

 曹山本寂禪師、參高祖洞山。山問、闍梨、名什麼。曹山云、本寂。高祖云、向上更道。曹山云、不道。高祖云、爲甚麼不道。師云、不名本寂。高祖然之。

 いはく、向上に道なきにあらず、これ不道なり。爲甚麼不道、いはゆる不名本寂なり。しかあれば、向上の道は不道なり、向上の不道は不名なり。不名の本寂は向上の道なり。このゆゑに、本寂不名なり。しかあれば、非本寂あり、脱落の不名あり、脱落の本寂あり。

詮慧

〇曹山本寂禅師与洞山問答段

「非本寂」と云う「非」は物を非ずるにはあらず。四句百非には異なるべし。不名の上は、非本寂也。喩えば一心これ三界也と云う、三界これ一心也と云う。一心非三界とい云わんが如し。一心三界なればこそ、非三界とも説け、この心地なるべし。

経豪

  • 是は前の洞山ヨ道膺問答に聊かも不違なり。只詞の面の聊か違いたる許り也。「不道」の詞の交わりたると云う。「不道」の詞に付けて、「為甚麼不道」と云う詞の相交わる許り也。但し此詞交わりたればとて、其理更不可違事也。凡そは向上に尤も不道の理あるべし。只云うべき事を云わずして、不道なるに非ず。又就之「高祖の為甚麼不道」の詞も、不審の義にあらず。「向上の不道為甚麼」の道理なるべし。付此詞「不名本寂」とあり。此の「不名某」の道理、前に委しく注了。就之高祖被許可歟。
  • 「向上の道は不道也」と云うなり。
  • 如文。「不名と不道」と只同理なり。只「不名本寂」と云えば、猶本寂を置きて不名の詞を、着せたるようにも聞こえぬべきに、「不名の本寂」との「の」字を被加えぬれば、「不名が本寂なる」道理明らかに聞こゆる也。是れ則ち「向上道」なるべし。「このゆえに本寂不名」とあれば、弥(いよいよ)「不名与本寂」(は)、取り放ちたるべき物にあらず。又「非本寂」と文、此の「非」は是非の理、今更ここに非可出現。非定相仏とも云い、非思量とも云いしが如し。此の草子の上に保福の詞に、仏非などと云う程の「非」なるべし。

 

 盤山寶積禪師云、向上一路、千聖不傳。

 いはくの向上一路は、ひとり盤山の道なり。向上事といはず、向上人といはず、向上一路といふなり。その宗旨は、千聖競頭して出來すといへども、向上一路は不傳なり。不傳といふは、千聖は不傳の分を保護するなり。かくのごとくも學すべし。さらに又いふべきところあり、いはゆる千聖千賢はなきにあらず、たとひ賢聖なりとも、向上一路は賢聖の境界にあらずと。

詮慧

〇盤山宝積禅師段

「賢聖の境界に非ず」と云うは、先の千聖をば許し、今の賢聖をば、境界にだにも非ずと嫌う、不審なきにあらず。但し「向上一路」方には、「千聖も凡夫も不伝の分あるべし」と也。「保護する」ゆえに、又賢聖方には、この「賢聖」と云う詞が、「向上一路の境界にあらず」と被嫌也。「賢聖」の詞は一なしと許すが為、嫌う方あるべし。賢聖と云うまでは、其の分際を立て、位々を置くゆえに、「向上一路には境界」と難云。且つ所々に多く十聖三賢も、夢也未見と云うゆえに、これに一つの通路あるべし。この「境界」と云う詞を「保護」の詞に取り替えて心得る方もありぬべし。保護する上は、境界と隔つべきにあらず。「千聖」と云う「千」の字は、諸に当るべし。諸聖と心得也。

経豪

  • 「向上の一路」の両字を被付。是は宝積禅師の詞より出でたりと云う也。已下如文。
  • 千聖競頭して出来すと云えども」とは、幾千万の禅師出来すと云えども、「向上には不伝なるべし」と也。「千聖は不伝の分を保護す」と也。「如此も学すべし」とは、かかる義一あるべしと也。
  • 前に云う義「一」、又ここには「千聖千賢たとい有りとも、たとい賢聖也とも、向上一路は賢聖の境界に非ず」と云う義もあるべし。

 

 智門山光祚禪師、因僧問、如何是佛向上事。師云、拄杖頭上挑日月。

 いはく、拄杖の日月に罣礙せらるゝ、これ佛向上事なり。日月の拄杖を參學するとき、盡乾坤くらし。これ佛向上事なり。日月是拄杖とにはあらず、拄杖頭上とは、全拄杖上なり。

詮慧

〇智門山光祚禅師段

拄杖頭上の上は向上の上也、全拄杖の心也。向上事、向上人、向上一路、如此挙げて談之。しかれば向上仏身とも、向上唯心とも、向上実相とも談ずべし。此の宗門に拄杖を以ても仏祖と仕い、日月星辰仏身と仕う。無差別也。「拄杖の日月に罣礙せらる」と云うは、拄杖と日月と無差別所を罣礙せらると説くなり。「挑」と云う詞は罣礙と云う事なりと可心得。この「拄杖日月」は向上の一路なり。

〇「日月の拄杖を参学する時、尽乾坤暗し」と云う、是は日月の拄杖を参学するゆえに、拄杖のみ見前して、余は暗しとなり。「仏向上事」は如此也となり。但し「日月は是拄杖とにはあらず」と云う、日月を強為して、拄杖と為すにあらずと也。拄杖は拄杖也。

経豪

  • 「いわく、拄杖の日月に罣礙せらるる、これ佛向上事也」とは、日月与拄杖、大いに違いたる姿なり。所詮「拄杖の日月に罣礙せらる」とは、日月と談ぜん時は、拄杖日月に罣礙して隠るべき歟。只黒く円なるものの上に、今の日月の輝きてあるにはあらず。「拄杖に又日月の罣礙せらるる」時、如前なるべし。仏祖仏向上の拄杖、日月の能々可思慮事也。
  • 「日月の拄杖を参学する」とは、この日月与拄杖一物なる上は、日月の拄杖を参学せん時、「拄杖頭上挑日月」と本の詞あれば、「日月これ拄杖とは云わじ」と云う心地也。さればとて始終非可各別。
  • 是は日月をして拄杖也と云うにもあらず、只「拄杖頭上とは全拄杖」の道理なり。

 

 石頭無際大師の會に、天皇寺の道悟禪師とふ、如何是佛法大意。師云、不得不知。道悟云、向上更有轉處也無。師云、長空不礙白雲飛。

 いはく、石頭は曹谿の二世なり。天皇寺の道悟和尚は藥山の師弟なり。あるときとふ、いかならんか佛法大意。この問は、初心晩學の所堪にあらざるなり。大意をきかば、大意を會取しつべき時節にいふなり。

 石頭いはく、不得不知。しるべし、佛法は、初一念にも大意あり、究竟位にも大意あり。その大意は不得なり。發心修行取證はなきにあらず、不得なり。その大意は不知なり。修證は無にあらず、修證は有にあらず、不知なり、不得なり。またその大意は、不得不知なり。聖諦修證なきにあらず、不得不知なり。聖諦修證あるにあらず、不得不知なり。

 道悟いはく、向上更有轉處也無。いはゆるは、轉處もし現成することあらば、向上現成す。轉處といふは方便なり、方便といふは諸佛なり、諸祖なり。これを道取するに、更有なるべし。たとひ更有なりとも、更無をもらすべきにあらず、道取あるべし。

 長空不礙白雲飛は、石頭の道なり。長空さらに長空を不礙なり。長空これ長空飛を不礙なりといへども、さらに白雲みづから白雲を不礙なり。白雲飛不礙なり、白雲飛さらに長空飛を礙せず。佗に不礙なるは自にも不礙なり、面々の不礙を要するにはあらず、各々の不礙を存ずるにあらず。このゆゑに不礙なり。長空不礙白雲飛の性相を擧拈するなり。正當恁麼時、この參學眼を揚眉して、佛來をも覰見し、祖來をも相見す。自來をも相見し、佗來をも相見す。これを問一答十の道理とせり。いまいふ問一答十は、問一もその人なるべし、答十もその人なるべし。

詮慧

〇石頭無際大師与天皇寺道悟問答段

「道悟問、如何是仏法大意。師云、不得不知。道悟日、向上更有転処也無。師云、長空不礙白雲飛」、「仏法の大意」と云う事、能々可心得。いま「不得不知」と云うは大意なり。『法華経』の大意と云うは、「三世諸仏出世之本懐、一切衆生成仏之直理路也、大都若有聞法者、無一不成仏」(如文不見但し若有聞法者、無一不成仏は同経方便品「大正蔵」九・九b三・注)と云う。是を常に心得には、三世諸仏をば仏に付け、一切衆生を世間に仰ぎ、若有聞法をば法に付く、今は不可然、只仏法大意を三度開演するにてこそあれ、仏ぞ法ぞ衆生ぞとて各別すべき所なし。

〇「不得不知」は二つの読みあるべし。一者知らざる事を得ずと云うとも心得べし。是は皆知る道理と聞こゆ。一者、得ず。知らずと二つの詞にも心得べし。知らざる事を、得ずと云わん時は知ると心得べき歟。しかにはあらず、石頭の本意は不知是道と云う。古き詞あり、この心なるべき歟。先の千聖不伝程に可心得。「不得不知」と云う詞、たとえば色即心也などと云わんが如し。但し不知是道、慮知のかたに心得は、そもそも誰人ありて不知とは知るべきぞと云う。難ありぬべし。「不知」は不可得なるべし。三世のありようを三度あらわすと心得べし。「不得不知」と読まん時も、心地は不可相違。両方ともに知らざる所を、「不知」と仕い、得ざる所を「不得」と云うにはあらず、「不得不知」は道也。

〇「向上更有転処也無」と云うは、「転」と云うは、たとえば水(の)氷となり、氷(は)水精となる程の事を云うべきか。是れ方便也ただし「向上更有転処」と云わん時は、「転」がやがて現成の時にてあらんずる時に、「方便」が即仏と云わるる也。

〇「転処と云うは方便也」と云うは実教方便教などと云う。方便にはあらず。「方便」は諸仏なり諸祖也。不名道膺の「転処」を指して、「方便」と云うゆえに。

〇これは「面々の不礙を要するにはあらず、各々の不礙を存ずるにあらず」と云う、向上の礙はこれ程となるを云うべし。面々の不礙にはあらず、抑も転ぞ、礙ぞと談じても、世間の法にては、いづれも無其詮。「転」と云わんに、水を転じて氷となると云いても、要なし。凡夫転じて成仏せんこそ、大要なれ。ゆえに今の向上の転を習うべし。「礙」と云わんも、風を障子が冴ゆるぞ、水を石が冴ゆるぞと云いても不要也。業報が成仏を礙えんこそ大事なれ。それ又この向上の礙にて習うべし。

〇「長空不礙白雲飛」と云うは、空限りなければ、雲の飛ぶも礙りなしと心得るまでは非本意。空は空を不礙、雲は雲を不礙なり。空与雲二つにはあらず。

〇「問一答十」の詞、必ず願うべきにあらず。問一答一何ぞ劣なるべき、かの香厳の昔は、問一答十の誉れありとこそ褒められしかども、父母未生前の一句を云えと言われし時、口を閇(とじ)き、問も答も其の人ならんに取りての事也。

経豪

  • 問答詞見于文。「仏法の大意」を問する。初心晩学の詞に似たれども、石頭与道悟問答、実に初心にあらざるべし。ゆえに「初心晩学の可堪に非ざる也」とは云う也。
  • 得べきを不得、可知を知らざるにはあらず。只仏法の道理(は)「不得不知」也。文に分明也。「不得不知」の道理を此段に被釈也。
  • 是は向上の外に、自是上に又転ずる事ありなんやと問いしたりと聞こゆ。「更有転処也無」の詞、やがて向上の転処なるべし。転処の現成は向上の現成なるべし。此の「方便」(は)又実に対したる非方便。法眼の詞に呼方便為仏と云う也、方便也。「以諸仏諸祖、為方便」上は勿論事也。
  • 此の「更有」の詞は、問いの詞とこそ聞こえたるを、此の更有をやがて向上の転処とすべし。又「更有あらば、又更無もあるべきにあらず」と云々、所詮向上の更有、向上の更無なるべしと云うなり。
  • 此の詞は「空に白雲が飛びたる姿」を談じたるように見えたり。如此心得は無風情。凡夫迷見なり、向上の所談頗る如無所用。是は「長空与白雲」(は)非別物。白雲飛ならば長空も飛なるべし。長空白雲一なるゆえに、「長空不礙白雲飛」と云う詞は出で来る也。此の道理は「長空さらに長空を不礙也。長空これ長空飛を不礙也」と云う道理なるべし。又「白雲みづから白雲を不礙也」とも云わるる也。「長空与白雲」(を)、各別に思い習わしたる時こそ、詞の失も出で来れ。「長空白雲」一体なる上は、とかく談ずるに総非相違法也。是を向上道とするなり。
  • とは白雲長空親切なる道理の上には、「白雲飛不礙也、白雲飛さらに長空飛を礙せず」と蹔く云わるる也。此理のなかるべきには非ずとも、かく談ずるに無罣礙也。ここの「自他」は長空与白雲をしばらく自他と云う也。長空も不礙也、白雲も不礙なる道理を、「他に不礙なるは自にも不礙也」と云うべき也。如此云えばとて、此の「不礙」が長空の不礙、白雲の不礙、自の不礙、他の不礙などと面々各々にあるべきにてなき所を「面々不礙を要するにはあらず、各々不礙を存するに非ず」と云う也。只不礙なる道理なるべし。
  • 此の「長空不礙白雲飛の道理を挙して、正当恁麼時、この参学眼を揚眉して、仏来をも祖来をも、乃至自来他来」等の詞を、以之可心得合と云う心なり。以此理「問一答十の理とはせり」と也。所詮仏向上の道理の上に、無尽の詞の出来するも、是程に可心得と云う也。
  • 「問一答十」と云う詞、問は纔かに、答えは抜群の器と被心得ぬべし。打ち任すは問いには答十は勝りて心得。今の「問一答十」は不然也、問一与答十(は)只同じかるべし。其の故は問一の道理は不足にて、答十の道理が是にも超過し、乃至理も多くは、実‘(に)勝劣の義もやあるべからん。仏法自元勝劣多少に拘わらぬ道理なるべし。其の上「問一」の所に極まりて、無残所。「答十」もここに極めて無闕所上は、「問一答十」(の)詞(は)、只等しと心得也。仍て「問一もその人なるべし、答十もその人なるべし」とは云う也。

 

 黄檗云、夫出家人、須知有從上來事分。且如四祖下牛頭法融大師、横説豎説、猶未知向上關棙子。有此眼腦、方辨得邪正宗黨。

 黄檗恁麼道の從上來事は、從上佛々祖々、正傳しきたる事なり。これを正法眼藏涅槃妙心といふ。自己にありといふとも須知なるべし、自己にありといへども猶未知なり。佛佛正傳せざるは夢也未見なり。黄檗は百丈の法子として百丈よりもすぐれ、馬祖の法孫として馬祖よりもすぐれたり。おほよそ祖宗三四世のあひだ、黄檗に齊肩なるなし。ひとり黄檗のみありて牛頭の兩角なきことをあきらめたり。自餘の佛祖、いまだしらざるなり。

 牛頭山の法融禪師は、四祖下の尊宿なり。横説豎説、まことに經師論師に比するには、西天東地のあひだ、不爲不足なりといへども、うらむらくはいまだ向上の關棙子をしらざることを、向上の關棙子を道取せざることを。もし從上來の關棙子をしらざらんは、いかでか佛法の邪正を辨會することあらん。たゞこれ學言語の漢なるのみなり。しかあれば、向上の關棙子をしること、向上の關棙子を修行すること、向上の關棙子を證すること、庸流のおよぶところにあらざるなり。眞箇の功夫あるところには、かならず現成するなり。

 いはゆる佛向上事といふは、佛にいたりて、すゝみてさらに佛をみるなり。衆生の佛をみるにおなじきなり。しかあればすなはち、見佛もし衆生の見佛とひとしきは、見佛にあらず。見佛もし衆生の見佛のごとくなるは、見佛錯なり。いはんや佛向上事ならんや。しるべし、黄檗道の向上事は、いまの杜撰のともがら、領覧におよばざらん。たゞまさに法道もし法融におよばざるあり、法道おのづから法融にひとしきありとも、法融に法兄弟なるべし。いかでか向上の關棙子をしらん。自餘の十聖三賢等、いかにも向上の關棙子をしらざるなり。いはんや向上の關棙子を開閉せんや。この宗旨は、參學の眼目なり。もし向上の關棙子をしるを、佛向上人とするなり、佛向上事を體得せるなり。

詮慧

黄檗出家人段。この段には法融禅師、実にも従上来事は不知と探るなり。

出家人須知有従上来事分・・

「眼脳」と云うは、眼ありて邪正を弁(わきま)うべしとなり。ゆえに「方辨得邪正宗党」と云う、「宗党」と云うは邪正宗党の党類と云う也。

〇仏向上と云うは、仏に至りて、進みて更に仏を見るなりと云うは、仏の仏に成ると云う程の事也。進みてと云うも仏の上の事也。

〇抑も「黄檗は百丈の法子として、百丈よりも勝れ、馬祖の法孫として、馬祖よりも勝れたり」とあり、法の上手なる事は、世に褒むる所也。但し法は馬祖、百丈より伝わる者なれば、等しかるべし。たとえば家を作る匠あるべし。三間にてもあれ、五間にてもあれ、家の指図は同じねれども、上手の作りたるは異なるべき程の事也。又法融禅師は世に聞こえ高き師也。仏向上事を知らざるべしと、怪しむ人あるべからず。然而黄檗は「未知向上関棙子」と被仰る。法融は名誉無比類、曾ては百鳥花を銜(ふく)みて此れを供養しき、先蹤まれなるべし。但し仏向上事を知らざらん事無力。

〇十一人の祖師の詞を挙げらる。法融をば不知とあり。以之可知。祖師の言語は義をも可云にてなし。ただ公案を額に懸けて、証道を待つべしと云う教え、甚だ不得其意。しか云う如くなるべくは、洞山の仏向上事の後は、すべて云うべき事なしとて、さてこそ止むべきに多くの祖師問答すべきにあらず。知るべきは仏向上事、習うべきは仏向上人、尋ぬべきは仏法大意なり。

経豪

  • 「従上来事」と云うは、仏向上事(と)同事也。実に出家人として尤も可知事也。「従上は仏々祖々、正伝し来たる事」とあれば、不可有不審。又正法眼蔵涅槃妙心を「従上来事」と可云也。如文。
  • 此の「自己」は始めに「夫出家人」とあるを、自己と指す歟。但し此の自己(は)、尋常の吾我等にあるべからず。従上の「自己」なるべし、正法眼蔵涅槃妙心なる道理なる「自己」を知るもあり。「猶未知」もありと、当時現量に任せて云われたる、一往分もありぬべし。但し是は猶能知所知を離れず。只是は「従上の須知猶未知」なるべし。自己の道理又「須知猶未知也」。知不知に関わらぬ道理なるべし。此義「仏々正伝せざるは夢也未見なるべき」也。
  • 黄檗を讃嘆詞也、如文。

牛頭法融禅師天厨送食云、殊に由々しかりし祖師也。而黄檗横説豎説を許されず、未学難測事也。但し眼目備えたる黄檗等の御詞、定んで子細あるらん。此の詞は一向、法融の向上の関棙子を不知事を被説なり、如文。

  • 仏与衆生を相対して見仏すと云うは、麗しき非見仏、已見見仏錯也と被嫌。仏が仏を見る則ち仏向上来時の見仏なるべし。此の道理を「仏に至りて、進みて更に仏を見る」と云うなり。
  • 此の詞前後相違して聞こゆ。其の故は上には「衆生の仏を見るに同じき也」と云いて、やがて其の次に「衆生の見仏と等しきは、見仏にあらず」とあれば、違いたるように聞こゆ。但し前の衆生の仏を見るに同じしと云わるる「衆生」は、尽十方界真実人体の「衆生」也。又『現成公案』に「諸法の仏法なる時節、諸仏あり衆生あり」と云わるる「衆生」なり。此の「衆生の仏を見るようは」、いかなるぞと云えば、上に如云、仏に至りて進みて更に仏を見る、「見仏なるべし」。下に「見仏もし衆生の見仏と等しきは、見仏にあらず。衆生の見仏如くなるは、見仏錯也」と被嫌は、我々が心得たる三十二相八十種好等の仏を余所に見、又或いは化仏の現相ぞなどと云う程の見仏を如此被嫌也。能々可思量分別事也。
  • 是は文に聞こえたり。「法融に不及もあり、おのづから等しき有りとも、是は法融に法兄弟也」と被嫌詞也。仍て「争か向上の関棙子を知らん」とあるなり。
  • 実にも「十聖三賢」などと云いて、位を定めたる分にては、今の「関棙子の道理を不可知」。不可及事也。

仏向上事(終)

仏歴2565(2022)年7月26日 午後 記

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。