正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵見仏

正法眼蔵第五十六 見仏  

釋迦牟尼佛、告大衆言、若見諸相非相、即見如來。

いまの見諸相と見非相と、透脱せる體達なり。ゆゑに見如來なり。この見佛眼すでに參開なる現成を見佛とす。見佛眼の活路、これ參佛眼なり。自佛を佗方にみ、佛外に自佛をみるとき、條々の蔓枝なりといへども、見佛を參學せると、見佛を辦肯すると、見佛を脱落すると、見佛を得活すると、見佛を使得すると、日面佛見なり、月面佛見なり。恁麼の見佛、ともに無盡面無盡身無盡心無盡手眼の見佛なり。而今脚尖に行履する發心發足よりこのかた、辦道功夫、および證契究徹、みな見佛裏に走入する活眼睛なり、活骨髓なり。しかあれば、自盡界佗盡方、遮箇頭那箇頭、おなじく見佛功夫なり。

「若見諸相非相見如来」は『金剛般若波羅蜜経』からの引用で、如是我聞一時仏在から始まり、

須菩提 於意云何 可以身相見如来不 不也世尊 不可以身相得見如来 何以故 如来所説 身相即非身相 仏告須菩提 凡所有相皆是虚妄 若見(○○)諸相(○○)非相即(○○○)見(○)如来(○○)」

鈴木大拙博士トレードマークの「即非の論理」の箇所です。

「いまの見諸相と見非相と、透脱せる体達なり。ゆゑに見如来なり。この見仏眼すでに参開なる現成を見仏とす。見仏眼の活路、これ参仏眼なり」

ここに云う冒頭文が『見仏』巻に於いての要旨です。

「見諸相非相」の経文を「見諸相」と「見非相」に分けて共に「見」を付加した所に拈提の意味があり、その見諸相・見非相を透脱する所に「見如来」と説かれます。

「透脱」は解脱とも脱却とも説かれ、「体達」も「透脱」と同義語です。

この「見諸相」・「見非相」・「見如来」の関係を『聞書』では、「能見所見とは見ず体脱すべし」と説かれます。

このような仏の見方を「見仏眼」と云い、そのような状態がオープンになった状況を「見仏」とし、見仏眼の外に「参仏眼」とも云うとの冒頭主旨です。

「自仏を他方に見、仏外に自仏を見る時、条々の蔓枝なりといへども、見仏を参学せるとー中略―見仏を使得すると日面仏見なり、月面仏見なり」

「自仏他方・仏外自仏」とは内外のことをつ云うもので、その色々な状態を「条々の蔓枝(つるとえだ)」に喩え、具体的に「参学」・「辨肯」・「脱落」・「得活」・「使得」の語句で表し、さらに縮めて「日面仏月面仏」との論法で、「見仏」を解体し咀嚼し新たに再構成するといった、禅哲学独特な論法が展開されます。

「恁の見仏ともに無尽面・無尽身・無尽心・無尽手眼の見仏なり」

前句に続けて、恁麽(そのような)見仏を無尽(面・身・心・手眼)と丁寧に説きます。

而今脚尖に行履する発心発足なりこのかたー中略―自尽界他尽方、遮箇頭那箇頭、おなじく見仏功夫なり」

これは見仏の姿を時系列に述べたもので、脚尖(あしさき)で立って発心し辨道功夫(修行)し、証契究徹すること自体が活眼晴・活骨髄(いきいきした日常生活)として現出され、自他の尽界尽方(すべての方角)遮那頭(こちらあちら)とすべてが「見仏」ということである。

 

如來道の若見諸相非相を拈來するに、參學眼なきともがらおもはくは、諸相を相にあらずとみる、すなはち見如來といふ。そのおもむきは、諸相は相にはあらず、如來なりとみるといふとおもふ。まことに小量の一邊は、しかのごとくも參學すべしといへども、佛意の道成はしかにはあらざるなり。しるべし、諸相を見取し、非相を見取する、即見如來なり。如來あり、非如來あり。

この段は「若見諸相非相」に対する読み方の問題提起で、典型的な日本的訓読法を紹介されるが、この巻は禅師峰(やましぶ)での示衆であり、推測では平泉寺の南谷系僧(学問僧)も参随し、また日本達磨系僧の一団も、「諸相を相にあらずと見る、すなはち見如来」といった訓読法での仏法解会が、眼にあまるものがあったことでの提唱だと思われます。そこであらためて「諸相を見取」・「非相を見取」と第一段の念押しをし、如来だけでは片手落ちになる為、「非相」に対したる「非如来」も添語するわけです。

第二段 

清涼院大法眼禪師云、若見諸相非相、即不見如來。

いまこの大法眼道は、見佛道なり。これに法眼道あり、見佛道ありて、通語するに、競頭來なり、共出手なり。法眼道は耳處に聞著すべし、見佛道は眼處聞聲すべし。

しかあるを、この宗旨を參學する從來のおもはくは、諸相は如來相なり、一相の如來相にあらざる、まじはれることなし。この相を、かりにも非相とすべからず。もしこれを非相とするは捨父逃逝なり。この相すなはち如來相なるがゆゑに、諸相は諸相なるべしと道取するなりといひきたれり。まことにこれ大乘の極談なり、諸方の所證なり。しかのごとく決定一定して、信受參受すべし。さらに隨風東西の輕毛なることなかれ。諸相は如來相なり、非相にあらずと參究見佛し、決定證信して受持すべし。諷誦通利すべし。かくのごとくして、自己の耳目に見聞ひまなからしむべし。自己の身心骨髓に脱落ならしむべし。自己の山河盡界に透脱ならしむべし。これ參學佛祖行李なり。自己の云爲にあれば、自己の眼睛を發明せしむべからずとおもふことなかれ。自己の一轉語に轉ぜられて、自己の一轉佛祖を見脱落するなり。これ佛祖の家常なり。

法眼文益(885―958)「若見諸相非相、即不見如来」の出展は『宏智広録』・三・拈古十六則 「挙経云、若見諸相非相、即見如来。法眼云、若見諸相非相、即不見如来。師(宏智)云、世尊説如来。法眼説祖師禅。会得甚奇特、不会也相許」

「いまこの大法眼道は見仏道なり。これに法眼道あり、見仏道ありて、通語するに競頭来なり共出手なり。法眼道は耳処に聞著すべし、見仏道は眼処聞声すべし」

法眼は示衆説法では、「不見如来」と云ったが、道元禅師の拈提では、法眼の云った道(ことば)であり、通語(法眼と見仏の合い通ずる道理)が「競頭来」(先を争ってくる)・「共出手」(共に手をさし出す)である。法眼のことばは耳で聞き、見仏のことばは眼で聞きなさいとの拈提ですが、法眼と見仏とを相対的位置付けのように説かれますが、只同時の道理を言わんとするものです。

「しかあるを、この宗旨を参学する従来のおもはくは、諸相は如来相にあらざる、まじはれることなし。この相を、かりにも非相とすべからず。もしこれを非相とするは捨父逃逝なり」

法眼の云った話頭に対し、これまでの一般的見解は、「諸相」というのは全て「如来相」であり、一ツとして如来相でないものはなく、他所から如来相でないものが入り込むことはないと。世界は全て如来相ばかりで「非相」なるものはなく、これを非相と云うのは、『法華経』・信解品で説く「捨父逃逝」のようなものであると。

「この相すなはち如来相なるがゆゑに、諸相は諸相なるべしと道取するなりといひきたれり。まことにこれ大乗の極談なり、諸方の所証なり。しかのごとく決定一定して信受参学すべし」

そのままの意で、如来は諸相・非相と云った概念を持たず、諸相は諸相のままと云ったものが「大乗」の極みであり、諸方それぞれの学人がすでに実証されていることであり、諸相は諸相なりと信じて参学しなさいと。

「さらに随風東西の軽毛なることなかれ。諸相は如来相なりー中略―自己の耳目に見聞ひまなからしむべし」

此処の意もそのままに解すれば難なしと思われますが、『御抄』に於いては「諸相は如来相と云う義を大乗の極談とほめられるが、能見所見の義が残滓し、自己の耳目にひまならるべし、より能を離れ所見を見る。これが仏祖所談の義」との註解です。

「自己の身心骨髄に脱落ならしむべし。これ参学仏祖行李なり。自己の云為にあれば、自己の眼晴を発明せしむべからずとおもふことなかれ。自己の一転語に転ぜられて、自己の一転仏祖を見脱落するなり。これ仏祖の家常なり」

「自己の身心骨髄に脱落・自己の山河尽界に透脱」とは、徹底的に自己を解脱(開放)しなさいと。この行持自体を「参学」と云い、「仏祖」の「行李」(日常底)であると。

「自己の云為にあれば、自己の眼晴を発明せしむべからずとおもふことなかれ」

「云為」とは、云は言語。為は為作・行為の合成語で言語動作の意(『禅学大辞典』・大修館書店)ですから、自分のことばであっても、自己の眼晴(ひとみ)を発明(開らかせる)はずはないと思ってはいけない。

「自己の一転語に転ぜられて、自己の一転仏祖を見脱落するなり。これ仏祖の家常なり」

如来相という一転語により、一回坐禅するごとに一回仏祖の身心を転ずることを見るが、それをも脱落すること。(『正法眼蔵』三・水野弥穂子校注・岩波文庫

 

このゆゑに、參取する隻條道あり。いはゆる諸相すでに非相にあらず、非相すなはち諸相なり。非相これ諸相なるゆゑに、非相まことに非相なり。喚作非相の相ならびに喚作諸相の相、ともに如來相なりと參學すべし。

「隻条道」は、「一隻(せき)と説き又蔓蔓と説き、二つのことばを合わせて隻条道と云う」(『聞書』)とのことで、いろいろな説き方のことばがあるとのことです。

「諸相すでに非相にあらず、非相すなはち諸相なりー以下略」

「諸相」・「非相」・「如来相」の関係を何やらこまごま説教されるが、「諸相と非相とは全く別物でなく、諸相如来とも非相如来と云うことができる。」(『御抄』)

 

參學の屋裏に兩部の典籍あり。いはゆる參見典と參不見典となり。これ活眼睛の所參學なり。もしいまだこれらの典籍を著眼看の參徹せざれば參徹眼にあらず、參徹眼にあらざれば見佛にあらず。見佛に諸相處見、非相處見あり。吾不會佛法なり。不見佛に諸相處不見、非相處不見あり。會佛法人得なり。法眼道の八九成、それかくのごとし。

「参学の屋裏に両部の典籍あり。参見典と参不見典」

参学という屋裏(いえのなか)には両部(二つ)の典籍(経典)があり、参見典(経典を見て参ずる)と参不見典(経典を見ずに参ずる)である。これは見如来と不見如来に喩えての例示です。

「これ活眼晴の所参学なり」

「活眼晴」とは、活き活きした瞳のことですから、観念・概念の学道ではなく、実修の伴った参学の所という意味です。

「もしいまだこれらの典籍を著眼の参徹せざれば、参徹眼にあらず、参徹眼にあらざれば見仏にあらず」

これら(見如来・不見如来)を著眼看(眼をつけて看る)という参徹をしなかったら、参徹眼(徹底した参学)とは云われず、見仏(徹底した仏行)ではない。

「見仏に諸相処見、非相処見あり、吾不会仏法なり。不見仏に諸相処不見、非相処不見あり、会仏法人得なり。法眼道の八九成それかくのごとし」

「諸相処見・非相処見」の読みは、諸相の処(ところ)が見・非相の姿が見と解釈すると、其の場其の場に徹し、またあらゆる事に参徹することが見仏であり、吾不会仏法が見仏という拈提ですが、「吾不会仏法」には六祖の答話が底本にある。

「曹谿山大鑑禅師に因みに僧が問う。黄梅の意旨何人か得たる。師云く、仏法の会する人

得たり。僧云く、和尚還って得たりや否や。師云く、我れ不得。僧云く、和尚甚として不得なる。師云く、我(○)不会(○○)仏法(○○)」(『真字正法眼蔵』・上巻・59則)

 

「不見仏に諸相処不見、非相処不見あり、会仏法人得なり。法眼道の八九成、それかくのごとし」

次は見仏に対し、不見仏は諸相の処が不見・非相の処が不見と、対句としての解釈法で、法眼の云った「見如来」に対する「不見如来」を八九割と讃嘆したもので、ですから最初に法眼に対しては「大」の形容を冠したわけです。「八九成」とは道元禅師の褒めことばですが、経豪和尚は「八九成と十成には勝劣あるべからず」と釈しています。

 

しかありといへども、この一大事因縁、さらにいふべし、若見諸相實相、即見如來。

かくのごとくの道取、みなこれ釋迦牟尼佛之所加被力なり。異面目の皮肉骨髓にあらず。

如来・不見如来の御語は、「一大事因縁」の末に出て来たことばであるが、道元禅師みづからが釈尊と大法眼の土俵に行司として参随し、「若見諸相実相は即見如来」と云い放つ提唱です。このように諸相実相の言い得るは釈尊の「加被力」つまりおかげ様で、言い得て、「異面目の皮肉骨髄にあらず」とは、釈迦法力の外の面目にあらず、との提案です。

第三段

爾時釋迦牟尼佛、在靈鷲山。因藥王菩薩告大衆言、若親近法師、即得菩薩道。隨順是師學、得見恒沙佛。

いはゆる親近法師といふは、二祖の八載事師のごとし。しかうしてのち、全臂得髓なり。南嶽の十五年の辦道のごとし。師の髓をうるを親近といふ。菩薩道といふは、吾亦如是、汝亦如是なり。如許多の蔓枝行李を即得するなり。即得は、古來より現ぜるを引得するにあらず、未生を發得するにあらず、現在の漫々を策把するにあらず、親近得を脱落するを即得といふ。このゆゑに、一切の得は即得なり。

隨順是師學は、猶是侍者の古蹤なり、參究すべし。この正當恁麼行李時、すなはち得見の承當あり。そのところ、見恒沙佛なり。恒沙佛は、頭々活々聻なり。あながちに見恒沙佛をわしりへつらふことなかれ。まづすべからく隨師學をはげむべし。隨師學得佛見なり。

「若親近法師、即得菩薩道、随順是師学、得見恒沙仏」(若(も)し法師に親近せば、即(すみや)かに菩薩の道を得、是の師に随順して学せば、恒沙の仏を見るを得ん)『法華経』。法師品の最後部の経文引用です。(原文は即を速とする)

「親近法師といふは二祖の八載事師の如し。のち全臂得髄なり。南嶽の十五年の辨道のごとし、師の髄を得るを親近といふ」

この法師品の解釈を普通は、「親近法師と云うは、たとえば師に給仕し、或いは焼香礼拝するを親近と云うべきで、親近の功によって法師は菩薩道の果(結果)を得る」(『御抄』)と解釈しがちですが、道元禅師は達磨と慧可・慧能と南嶽との関係を「親近」とする拈語です。

「菩薩道といふは、吾亦如是、汝亦如是なり。如許多の蔓枝行李を即得するなり」

親近法師と菩薩道の間(あわい)を「吾亦如是、汝亦如是」との拈語ですが、これは慧能と懐譲との初相見時の慧能の答話(『真字正法眼蔵』・中・1則)ですが、先に「南嶽の十五年の辨道」の対語だと思われます。具現的表現として、「如許多」(たくさん)の蔓や枝の例示の如くに様々な表情があるとの言で、生活の場合それぞれを菩薩道と捉えるものです。

「即得は古来より現ぜるを引得するにあらず、未生を発得するにあらず、現在の漫漫を策把するにあらず、親近得を脱落するを即得といふ。このゆゑに一切の得は即得なり」

「古来より現ぜるを引得する」とは、昔からあるものを引っ張り出す。「未生を発得する」とは、ないものを得る。「現在の漫漫を策把する」とは、実体のないものをつかむこと。「即得」とはこれらを云うのではなく、「親近法師」の姿を即得と言い換え、さらに「親近の得」を脱落・そぎ落した姿を「即得」と云われますから、一切(すべて)の得は即得と念押しの云い様です。『御抄』では、これらの状況を「即得の理の如なるべし」と理論づけします。

「随順是師学は、猶是侍者の古蹤より参学すべし」

句が変わって「随順是師学、得見恒沙仏」についての拈提で、随順是師学(随順は是(これ)師学なり)は、侍者のようだと云うのが古くからのあり方で、この古人の先蹤を参学しなさいと。

「この正当恁麼行李時、すなはち得見の承当あり。そのところ、見恒沙仏なり」

この(随順是師学)修行をする時が「得見」に「承当」(あてはまる)し、それが「見恒沙仏」ということである。つまりは恒沙(ガンジス川の砂)の仏を見るとは、全てが見仏という比喩です。

「恒沙仏は、頭頭活鱍鱍(魚の如くぴちぴち)聻(これだけ)であり、あながちに(むやみに)見恒沙仏と云う概念観を、走り回り追従することなく、まづは「随師学」を参学すれば、それが「得見仏」である。

つまりはこの段の要旨は、「親近法師」=「見恒沙仏」=「得仏見(見仏)」という理論を導くものです。

第四段

釋迦牟尼佛、告一切證菩提衆言、深入禪定、見十方佛。

盡界は深なり、十方佛土中なるがゆゑに。これ廣にあらず、大にあらず、小にあらず、窄にあらず。擧すれば隨佗擧す、これを全収と道す。これ七尺にあらず、八尺にあらず、一丈にあらず。全収無外にして入之一字なり。この深入は禪定なり、深入禪定は見十方佛なり。深入裏許無人接渠にして得在なるがゆゑに、見十方佛なり。設使將來、佗亦不受のゆゑに、佛十方在なり。深入は長々出不得なり、見十方佛は只見臥如來なり。禪定は入來出頭不得なり。眞龍をあやしみ恐怖せずは、見佛の而今、さらに疑著を抛捨すべからず。見佛より見佛するゆゑに、禪定より禪定に深入す。この禪定見佛深入等の道理、さきより閑工夫漢ありて造作しおきて、いまの漢に傳受するにはあらず。而今の新條にあらざれども、恁麼の道必然なり。一切の傳道受業かくのごとし。修因得果かくのごとし。

この段は『法華経』・十四・安楽行品に説かれる「深入禅定、見十方仏」に対する拈提ですが、ここでは釈迦牟尼仏が、「一切証菩提衆」に説法したと説かれますが、原文は「世尊と文殊師利」との問答ですので、これは「禅師峰山」に結集した学道人を示唆するものと思われます。経文は「仏之大道 国土厳浄 広大無比 亦有四衆 合掌聴法 又見自身 在山林中 修習善法 証諸実相 深入(○○)禅定(○○) 見(○)十方仏(○○○)」からの引用です。

「尽界は深なり、十方仏土中なるがゆゑに。広・大・小・窄にあらず」

普通われわれが「深」を想像する時、眼下に対する認識を持ちますが、ここでの「深」は四方八方いづれの方角・方向性でも構いません。「深」は概念的範疇では捉えきれないもので、「十方仏土中」の拈語は、『十方仏』巻を受けてのものです。

「挙すれば随他挙す、これを全収と道す。これ七尺・八尺・一丈にあらず。全収無外にして入之一字なり」

ここは前句の「十方仏土」を挙すとの拈提で、これを「全収」(大地全収)と云い、先ほどの広・大・小・窄にあらずと同様七・八尺・一丈にあらずと云い、「全収無外」(全収の外に物なき理)にて深入の「入之一字」との前置き文です。

「この深入は禅定なり、深入禅定は見十方仏なり。深入裏許無人接渠にして得在なるがゆゑに、見十方仏なり。設使将来、他亦不受のゆゑに、仏十方在なり」

ここで始めて道元流漢文読みが披瀝され、「深入裏許無人接渠」の解釈は、この禅定裏にすべて一人も接すべき物なき道理が「得在」であるから「見十方仏」であり、「設使将来、他亦不受」(たとい将(も)って来たとしても、他(かれ)もまた受けない)であるから「仏十方在」(仏は十方に在(あ)る)である。

「設使将来」の話頭は、

僧が洞山に問う、時々勤払拭、莫遣惹塵埃

什麼としてか他の衣鉢を得ざりし。

洞山云く、たとい本来無一物と云うも、また未だ他の衣鉢を得べからず。しばらく云え、什麼人が得る。

僧、九十六転語を下すも皆相契せず。末後に云く、設使将来、他亦不要(たといもって来たとしても、他たまた受けず)

洞山深肯す。(『正法眼蔵』⑶・水野弥穂子校注・岩波文庫

「深入は長長出不得なり、見十方仏は只見臥如来なり。禅定は入来出頭不得なり」

時有僧問、如何是沙門眼。

時に僧が問う、如何なるかこれ沙門の眼

師(長沙景岑)云、長長出不得。又云、成仏成祖出不得、六道輪廻出不得。

師云く、長長に出で得ず(どんな場合でも、法界・三界からは出られない)、又云く、仏となり祖となるも出で得ず、六道に輪廻するも出で得ず。(『景徳伝灯録』・十・長沙章)

このように「長長出不得」語は見られますが、無際限の姿を表徴した語句としての「深入長長出不得」です。「只見臥如来」の姿が「見十方仏」と同格に規定され、「禅定は入来出頭不得」(入ったら頭を出すことができない)。これは「深入長長出不得」と対をなす語句です。(「柏樹子」巻に即見臥如来の語あり)

「真龍をあやしみ恐怖せずは、見仏の而今、さらに疑著を抛捨すべからず。見仏より見仏するゆゑに、禅定より禅定に深入す」

この箇所わかりづらい文体で、各先人の解釈を列記すると

「彫龍を愛した葉公(せっこう)のように、真龍に出会った時に変だと思ったり恐怖したりしなければ、見仏の而今を、改めて疑著(うたがい)を抛捨(なげすてる)することはできない」(『原文対照現代語訳正法眼蔵』・六・春秋社・水野弥穂子氏)

「世間では仏と云えば三十二相八十種好のこと、彫龍を見て真龍を恐怖するなり、始めから怪しみ恐怖しなかったら、今さら真龍を見て疑著を抛捨することは必要ない、怪しむによりて疑著もある、最初から怪しまず恐怖しなければ疑著は無い、故に抛捨すべき無しと云う」(『聞解』・面山和尚)

「見仏の而今、さらに疑著を抛捨すべき也とある、ありぬべき・すべからずとある語句、心得るべからず、但この言葉に付いて、二つの考え方がある、一つは見仏の上に始めから疑著と云う、べからずと云う事があれば、疑著を抛捨すべからずと云う義があり、二つめは深入禅定と見十方仏と云うべきかの心を疑著と云うべきか」(『御抄』・強豪和尚)

「色相の仏と云うは、まことの仏を色にて説くなり、いまの見仏は、まことの仏を談ずれば、この時は見るべき仏もなしと云う」(『聞書』・詮慧和尚)

「見仏の而今、さらに疑著を抛捨すべからず。というのは疑いは疑いのままでよく、無理やりに投げ捨てる必要はなく、また見仏より見仏する、禅定より禅定に、とは当たり前の平常底を云うものです」(『見仏提唱テープ』・酒井得元老師)

「この禅定・見仏・深入等の道理、さきより閑工夫漢ありて造作しおきて、いまの漢に伝受するにはあらず。而今の新条にあらざれども、恁麼の道必念なり。一切の伝道受業かくのごとし、修因得果かくのごとし」

ここで「禅定」・「見仏」・「深入」を一括して取り上げるのは一体性を云うもので、「閑工夫漢ありて」と云うのは、いたづらに功夫する者と詮慧和尚はし指摘し、おそらくは見性禅派を示唆するもので、「いまの漢に伝受するにあらず」は、この道元門下には「閑工夫の漢」は伝受させない、の意が含意されるものと思われる。「而今の新条にあらざれども恁麼の道必念」は、今あらたにできるではなく、只「見仏」の眼さえ開けば、恁麼の道は必然として現前するとし、「修因得果とは、因を先に立てて果を得るとは云わず、得果の得は深入の入也」(『聞書』)とある。

第五段

釋迦牟尼佛、告普賢菩薩言、若有受持、讀誦正憶念、修習書冩、是法華經者、當知是人、則見釋迦牟尼佛、如從佛口、聞此經典。

おほよそ一切諸佛は、見釋迦牟尼佛、成釋迦牟尼佛するを成道作佛といふなり。かくのごとくの佛儀、もとよりこの七種の行處の條々よりうるなり。七種行人は、當知是人なり、如是當人なり。これすなはち見釋迦牟尼佛處なるがゆゑに、したしくこれ如從佛口、聞此經典なり。釋迦牟尼佛は、見釋迦牟尼佛よりこのかた釋迦牟尼佛なり。これによりて舌相あまねく三千を覆す、いづれの山海か佛經にあらざらん。このゆゑに書冩の當人、ひとり見釋迦牟尼佛なり。佛口はよのつねに萬古に開す、いづれの時節か經典にあらざらん。このゆゑに、受持の行者のみ見釋迦牟尼佛なり。乃至眼耳鼻等の功徳もまたかくのごとくなるべきなり。および前後左右、取捨造次、かくのごとくなり。いまの此經典にむまれあふ、見釋迦牟尼佛をよろこばざらんや、生値釋迦牟尼佛なり。身心をはげまして受持讀誦、正憶念、修習書冩是法華經者則見釋迦牟尼佛なるべし、如從佛口、聞此經典、たれかこれをきほひきかざらん。いそがず、つとめざるは、貧窮無福慧の衆生なり、修習するは當知是人、則見釋迦牟尼佛なり。

今回取り上げる経典は『法華経』二十八品ある中の最後部「普賢菩薩勧発品」です。

「而能作是神通之願守護是経。我当以神通力守護能受持普賢菩薩名者。普賢。若有受持(○○○○)読(○)誦(○)正憶(○○)念(○)修習(○○)書写(○○)是(○)法華経者(○○○○)。当知是人則見釈迦牟(○○○○○○○○)尼仏(○○)。如従仏口聞(○○○○○)此(○)経典(○○)。当知是人供養釈迦牟尼仏。当知是人仏讃善哉」

「能く是の神通の願を作して是の経を守護す。我当に神通力を以て、能く普賢菩薩の名を受持せん者を守護すべし。普賢、若し(○○)是(○)の(○)法華経(○○○)を(○)受持(○○)・読誦(○○)し(○)正憶念(○○○)し(○)修習(○○)し(○)書写(○○)する(○○)こ(○)と(○)あらん(○○○)者(○)は(○)、当に(○○)知る(○○)べし(○○)。是(○)の(○)人(○)は(○)則ち(○○)釈迦牟(○○○)尼仏(○○)に(○)見えて(○○○)、仏(○)口(○)より(○○)此(○)の(○)経典(○○)を(○)聞(○)く(○)が(○)如(○)し(○)と(○)。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり。当に知るべし、是の人は仏、善哉と讃めらるるなりと」

なお普賢はサンスクリット語ではサマンタバドラと云い、文殊の智・慧・証の徳を代表するのに対し、普賢は理・定・行の徳を表す。文殊は右手に智剣・左手に青蓮華を持ち獅子に坐するに対し、普賢は白象に乗って仏の右方に侍し、文殊と共に仏の化導摂益を助成する。

「おほよそ一切諸仏は、見釈迦牟尼仏、成釈迦牟尼仏するを成道作仏といふなり」

「一切諸仏は釈迦牟尼仏に蔵身して、余の諸仏ここには出現すべからず。只釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏なる所を、見釈迦牟尼仏とも、成釈迦牟尼仏とも云う也。この道理を成道作仏と云う。ただこの道理は必ずしも釈迦一仏だけに限るべからず、阿弥陀・薬師・普賢文殊などを論ずる時も、先のように論ずべし」(『御抄』)

「かくのごとくの仏儀、もとよりこの七種の行処の条々より得るなり。七種行人は当知是人なり。これすなはち見釈迦牟尼仏処なるがゆゑに、したしくこれ如従仏口、聞此経典なり」

「仏儀」とは仏威儀の略で、これを得るには、「七種の行処の条々」が必須条件で、受・持・読・誦・正憶念・修習・書写の七項目が数えられます。

この「七種行人」は「当知是人」・「如是当人」つまり「当」と「如」は同語としての拈提で、この連続体を「見釈迦牟尼仏」つまりは、修行(七種行処)本体そのままを云い、現実には「如従仏口、聞此経典」(仏の口から、この経典を聞くが如し)としての日常底です。

釈迦牟尼仏は見釈迦牟尼仏よりこのかた釈迦牟尼仏なり。これによりて舌相あまねく三千を覆す、いづれの山海か仏経にあらざらん。このゆゑに書写の当人、ひとり見釈迦牟尼仏なり」

ここでは「山海仏経」の語で以て大自然と「書写当人」とを同等視される拈提で、釈迦というのは「見釈迦牟尼仏」(見は釈迦牟尼仏)という修行があって釈迦なり。とし、この修行によりて舌相遍く三千(大千世界)を覆(おおう)し、いづれもが山海(大自然)すべてが仏経となる時、「書写当人」と「見釈迦牟尼仏」とが同体一体との提唱です。この場合の「書写当人」とは坐禅の姿を抽象化した語です。

「仏口はよのつねに万古に開す、いづれの時節か経典にあらざらん。このゆゑに受持の行者のみ見釈迦牟尼仏なり」

右の文に続いての実修(修行)についての言句ですが、「仏口」三世九世尽十方界(『御抄』)は、万古(永遠)に開放され、いつでもが仏の口より出る経典そのままでない時はない。こういうわけで、常に経典を聞きたいなら、経典の「受持」する「行者のみ見釈迦牟尼仏」と言い放ち、「行」の重要性を説法されます。

「乃至眼耳鼻等の功徳もまたかくの如くなるべきなり。および前後左右、取捨造次、かくのごとくなり」

「眼耳鼻等」その「前後左右」・「取捨造次」(選択)の功徳も先の仏口と同様、万古に開放されているとの言です。

「いまの此経典に生まれ値う、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや、生値釈迦牟尼仏なり。身心を励まして受持読誦、正憶念、修習書写是法華経者、則見釈迦牟尼仏なるべし、如従仏口、聞此経典、たれかこれをきほひきかざらん。いそがず、つとめざるは、貧窮無福慧の衆生なり、修習するは当知是人、則見釈迦牟尼仏なり」          

ここに云う「此経典」・「見釈迦牟尼仏」・「生値釈迦牟尼仏」は異語同義語としての列挙で、これらを「身心」で以て七種の「行」で励ませば、おのずと「是法華経者」・「則見釈迦牟尼仏」さらに「如従仏口」・「聞此経典」と、円環的連続性を説く説法で、逆に受持読誦等に不急不勤の者には「当知是人、則見釈迦牟尼仏」は望めないとのことで、旧来の天台等の解釈との相違に、聴講する参学人驚いたものと想像される。

第六段

釋迦牟尼佛、告大衆言、若善男子善女人、聞我説壽命長遠深心信解、則爲見佛、常在耆闍崛山共大菩薩諸聲聞衆囲遶説法。又見此娑婆世界其地琉璃坦然平正

この深心といふは娑婆世界なり。信解といふは無廻避處なり。誠諦の佛語、たれか信解せざらん。この經典にあひたてまつれるは、信解すべき機縁なり。深心信解是法華、深心信解壽命長遠のために、願生此娑婆國土しきたれり。如來の神力慈悲力壽命長遠力、よく心を拈じて信解せしめ、身を拈じて信解せしめ、盡界を拈じて信解せしめ、佛祖を拈じて信解せしめ、諸法を拈じて信解せしめ、實相を拈じて信解せしめ、皮肉骨髓を拈じて信解せしめ、生死去來を拈じて信解せしむるなり。これらの信解、これ見佛なり。

しかあればしりぬ、心頭眼ありて見佛す、信解眼をえて見佛す。たゞ見佛のみにあらず、常在耆闍崛山をみるといふは、耆闍崛山の常在は、如來壽命と一齊なるべし。しかあれば、見佛常在耆闍崛山は、前頭來も如來および耆闍崛山ともに常在なり、後頭來も如來および耆闍崛山ともに常在なり。菩薩聲聞もおなじく常在なるべし、説法もまた常在なるべし。娑婆世界、其地琉璃、坦然平正をみる、娑婆世界をみること動著すべからず、高處高平、低處低平なり。この地はこれ琉璃地なり、これを坦然平正なるとみる目をいやしくすることなかれ。琉璃爲地の地はかくのごとし。この地を琉璃にあらずとせば、耆闍崛山耆闍崛山にあらず、釋迦牟尼佛は釋迦牟尼佛にあらざらん。其地琉璃を信解する、すなはち深信解相なり、これ見佛なり。

この段は『法華経』・十七・「分別功徳品」からの引用文で、世尊と弥勒菩薩との寿命劫数長遠についてのものです。

弥勒の別名は阿逸多(アジタ)ともいわれ、実在のバラモンの弟子であったが、後世両者は同一視され、阿逸多とマイトレーヤの、別称となる。阿逸多とマイトレーヤは、イランのミトラ神と習合することにより、メシア(救世主)的神格を帯びることになったという。ミトラ神はゾロアスター教の強力な神格であり無敵の存在だとし、阿逸多は無能勝の意で、決して勝るものなしという意味である。またミトラ神はパーリー語でメッテーヤと云いマイトレーヤと共通音韻がある。古代インドでは太陽を指してマイトレーヤと云うこともあり、イラン世界のミトラ神と仏教の習合過程の中で、マイトレーヤ・阿逸多を同一視する思想が生まれ、仏教的メシアニズムが生み出したといわれる。(『弥勒信仰の発生と起源』・インターネット)

「この深心といふは娑婆世界なり。信解といふは無廻避処なり。誠諦の仏語、たれか信解せざらん」

先程からの道元禅師特有の解釈技法は、この段に於いても例外はなく、「寿命長遠」に対する形容詞である「深心」は「娑婆世界」に同化し、「信解」は「無廻避処」との認識ですが、まずは「深心」と云うものを、心理現象として捉えなくて、名詞語としての採用に独自性があり、さらに「娑婆世界」の語は「寿命長遠」とは何ら結びつかないものとの同等性を説くわけですから、興味津々の解釈です。

次に「信解」=「無廻避処」と説きますが、先の「深心娑婆世界」とは特別なことではない事の喩え、「信解無廻避処」は信解でない処あるべからずとの意で、日常底の比喩を云うものです。

「誠諦の仏語たれか信解せざらん」は「爾時仏告諸菩薩及一切大衆諸善男子・汝等当信解如来誠諦之語」(「如来寿量品」)からの引用で、経典の縦横無尽な引用添語には目を見張るものがあります。

「この経典にあひたてまつれるは信解すべき機縁なり。深心信解是法華、深心信解寿命長遠のために、願生此娑婆国土しきたれり」

「信解すべき機縁」はそのままの意で、信解という行為が縁になってと云い、「深心信解」と「法華」との関係性は普通、法華と人はそれぞれ別のカテゴリーで考えるが、カテゴリーと云う概念を取り払うことが提唱のポイントです。

そこで「深心信解」=「是法華」=「寿命長遠」との連関を説くと、おのづと最初の拈語である「深心」=「娑婆世界」を考慮に入れると、「此娑婆世界」が導き出される論法です。

如来の神力・慈悲力・寿命長遠力・心・身・尽界・仏祖・諸法・実相・皮肉骨髄・生死去来を拈じて信解せしむるなり。これらの信解、これ見仏なり」

この箇所も文意のままに受け止め、如来の神力等は各人が心・身等を拈じた時点で、「信解」・「見仏」等と云った現成の真実が眼前するとの拈語です。

「しかあれば知りぬ、心頭眼ありて見仏す、信解眼をえて見仏す、ただ見仏のみにあらず、常在耆闍崛山をみるといふは、耆闍崛山の常在は、如来寿命と一斉なるべし」

先程からの「見仏」の定義の続きで、「心頭眼」は、自己の正体である心の真実を見極める(水野弥穂子注)とのことで、この心頭眼ならびに信解眼と云う身体眼的以外の見仏眼をも「見仏」の定義化する考察で、さらに「常在」と「耆闍崛山」と「如来寿命」の「一斉」との同等性を示し、カテゴライドされた娑婆常識を分解します。

因みに、耆闍崛山(ぎじゃくっせん)は霊鷲山(りょうじゅせん)と呼ばれますが、耆闍崛山はパーリー語でギッジャ・クータ・パッバータからの音写語で、霊鷲山サンスクリット語グリドラ・クータにちなんだ訳語で、グリドラはハゲワシの意から霊鷲山と云われる。

「しかあれば見仏常在耆闍崛山は、前頭来も如来および耆闍崛山ともに常在なり、後頭来も如来および耆闍崛山ともに常在なり。菩薩声聞も同じく常在なるべし、諸法もまた常在なるべし」

さらに「見仏」の範囲が広がり、「常在」・「耆闍崛山」との同体を説きますが、「前頭来」も「後頭来」も共に「如来」と「耆闍崛山」と「常在」を前後左右に分断せず、前頭来は前頭来のみで、前に対する後頭来でないことは注意する必要があります。『聞書』でも「前頭来後頭来と云うは前後が無いことば也」との註釈があります。

「娑婆世界、其地瑠璃、坦然平正をみる、娑婆世界をみること動著すべからず、高処高平、低処低平」

「分別功徳品」提唱の最後部の拈提です。

「娑婆世界」を見る時には、ひとつひとつの現象に眼を奪われず、ただ平常底の「高処高平、低処低平」・「全高全平、全低全平」と云った道理を大切にするようにとの言説で、「高処高平、低処低平」のことばは、『真字正法眼蔵』・上・二十三則に云う処の、仰山と潙山との問答話での仰山慧寂の答話で、『典座教訓』にも引用されます。

「この地はこれ瑠璃地なり、これを坦然平正なるとみる目をいやしくすることなかれ。瑠璃為地の地はかくのごとし」

経文で説く「瑠璃地」を色メガネ的視座から「坦然平正」と、「いやしい」見方を度外視し、瑠璃も坦然も娑婆の「見仏」であることを説かれます。「目をいやしくすることなかれ」を『坐禅箴』では「目をかろくすることなかれ」と表現されます。

「この地を瑠璃にあらずとせば、耆闍崛山耆闍崛山にあらず、釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏にあらざらん。其地瑠璃を信解する、すなはち深信解相なり、これ見仏なり」

これまでは一貫して高処高平、低処低平なる「平常底」・「日常底」の拈提でしたが、ここで結論的にこの大地が瑠璃(平常底)でないなら、耆闍崛山という当たり前が成り立たず、同様に釈尊釈尊としては呼ばれなくなってしまう。ですから「其地瑠璃」を日常底と変哲ない事と「深信解相」と云い、または別語で「見仏」と呼びならわす。最初は「深心信解」の拈提に始まり、「深信解相」の構築に変遷した提唱です。 

 

釋迦牟尼佛、告大衆言、一心欲見佛、不自惜身命。時我及衆僧、倶出靈鷲山。

いふところの一心は、凡夫二乘等のいふ一心にあらず。見佛の一心なり。見佛の一心といふは、靈鷲山なり、及衆僧なり。而今の箇々、ひそかに欲見佛をもよほすは、靈鷲山心をこらして欲見佛するなり。しかあれば、一心すでに靈鷲山なり、一身それ心に倶出せざらんや。倶一身心ならざらんや。身心すでにかくのごとし、壽者命者またかくのごとし。かるがゆゑに、自惜を靈鷲山の但惜無上道に一任す。このゆゑに我及衆僧、靈鷲山倶出なるを、見佛の一心と道取す。

ここに説く経文は、寝言にも出るような聞きなれた「自我偈」の跋文ですが、「一心」についての拈提から始まります。

普段我々が棒読みで経文を読誦する時には、「一心に仏を見奉り、不惜身命すれば、仏および衆僧ともに霊鷲山に出づ」と無条件に訓読法で変換していますが、拈提では「一心」=「見仏」=「霊鷲山」であり「及衆僧」との解釈です。これまでも言語を変え同程のことを説かれますが、「見仏」とは仏を修行することですから、「一心」は心理作用の他に「行」を、「衆僧」も身体と共に「行」が不可欠との提言でしょうか。

而今の個々、ひそかに欲見仏をもよほすは、霊鷲山心をこらして欲見仏するなり」

而今の個々」は衆僧の各人を云い、多少なりとも「欲見仏」を発意すれば、先ほどの「霊鷲山」自体が「心」という現実と一体化し、個々の学人と地続きになることを、このように言明されます。論理は理解できても、飛躍すぎる思考理論の向きも、無きにしはあらずの感があります。

「しかあれば、一心すでに霊鷲山なり、一身それ心に俱出せざらんや。俱一身心ならざらんや。身心すでにかくのごとし、寿者命者またかくのごとし」

一心霊鷲山を先に説いたように、一身も同様に一身霊鷲山また一身心霊鷲山とも寿者命者霊鷲山との可なり。

「かるがゆゑに、自惜を霊鷲山の但惜無上道に一任す。このゆゑに、我及衆僧・霊鷲山・俱出なるを、見仏の一心と道取す」

「自惜」は寿量品に云う不自惜身命の自惜であり、「但惜無上道」は勧持品で説く我不愛身命、但惜無上道であるが、「自惜」は努力することであり、さらに向上に無上道を努力すると解す。ですから「我及」も衆僧も「霊鷲山」・「俱出」ともども向上一路の「見仏」・「一心」と言うことができる。

 

釋迦牟尼佛、告大衆言、若説此經、則爲見我、多寶如來、及諸化佛。説此經は、我常住於此、以諸神通力、令顛倒衆生、雖近而不見なり。この表裡の神力如來に、則爲見我等の功徳そなはる。

この段は『法華経』・十一・見宝塔品偈文からの引用であるが、短文ながら難解な拈提です。

「説此経」を説かんが為の拈語ですが、説此経は「我常住於此、以諸神通力、令顛倒衆生、雖近而不見」(『法華経』・九・寿量品)なりと説きますが、「我」とは釈尊であり、「住於此」は仏の住所と解して、「我常住於此」を法界の道理とし、「以諸神通力」はそのままの意で、次句は「令顛倒衆生可令見」と説くべき所を、「而不見」と説く『法華経』の「神力如来」なる重層性を説く拈提ですが、ここに云う「表裡」の表を「則為見我」・裡(裏)は「而不見」と見なし、「神力如来に則為見我等の功徳そなはる」とは、見不見の「見」と則為見我

等の「見」の同時同体を説かんが為の拈語ですが、道元禅師の「語言」に対する「こだわり」を見る段です。

 

釋迦牟尼佛、告大衆言、能持是經者、則爲已見我。亦見多寶佛、及諸分身者。

この經を持することかたきゆゑに、如來よのつねにこれをすゝむ。もしおのづから持是經者あるは、すなはち見佛なり。はかりしりぬ、見佛すれば持經す。持經のもの、見佛のものなり。しかあればすなはち、乃至聞一偈一句受持するは、得見釋迦牟尼佛なり。亦見多寶佛なり、見諸分身佛なり、傳佛法藏なり、得佛正眼なり、得見佛命なり、得佛向上眼なり、得佛頂眼なり、得佛鼻孔なり。

この段は『法華経』・二十一・如来神力品偈文からの引用で、前段に於ける「若説此経」の説と対置する「持是経者」に対する拈提です。

「この経を持することかたき」の経とは、巻紙の経文ではなく自己の正体を云うもので、「持是経者」乃至「見仏」とは只管打坐を意味し(酒井得元老師)、「一偈一句受持」とは坐禅を意味する(水野弥穂子氏)とそれぞれ註釈されますが、此巻原文には「坐」の一字もなく何故このような語法での提唱になったかは、「禅師峰」での示衆設定に絡んでの事情からでしょうか。

このわづかな些事なことである一句一偈受持する事が「得見の釈迦牟尼仏」と云い、以下文言の如くで「亦見の多宝仏」・「見の諸分身の仏」・「伝の仏法蔵」・「得の仏正眼」・「得の見仏命」・「得の仏向上眼」・「得の仏頂寧眼」・「得の仏鼻孔」と同等であると。つまりは「尽十方界」と「一偈一句」との連動関の説法です。

 

雲雷音宿王華智佛、告妙莊嚴王言、大王當知、善知識者、是大因縁。所謂化導、令得見佛、發阿耨多羅三藐三菩提心

いまこの大會は、いまだむしろをまかず。過去現在未來の諸佛と稱ずといへども、凡夫の三世に准的すべからず。いはゆる過去は心頭なり、現在は拳頭なり、未來は腦後なり。しかあれば、雲雷音宿王華智佛は、心頭現成の見佛なり。見佛の通語いまのごとし。化導は見佛なり、見佛は發阿耨多羅三藐三菩提心なり。發菩提心は見佛の頭正尾正なり。

この段は『法華経』・二十七・妙荘厳王本事品からの引用で、此処に云う「大因縁」とは、妙荘厳王の二子の教訓によって、同王は忽然と邪見を改め、仏所に参じ出家得道した因縁です。

「いまこの大会(だいゑ)は、いまだむしろ(筵)をまかず」

この場合の「大会」は法華の講座を指し、雲雷音宿王華智仏の昔から釈迦の法華講座に至るまで、休みなく行持されることを筵を巻かずといわれます。

「過去・現在・未来の諸仏と称ずといへども―中略―雲雷音宿王華智仏は、心頭現成の見仏なり」

凡夫の三世論とは、雲雷仏は過去・釈迦仏は現在と見る段見であり、そのような凡夫見に準じてはならない。

「過去は心頭、現在は拳頭、未来は脳後なり」

前句の三世観に対し仏法の三世観は、過去=心頭・現在=拳頭・未来は脳後と云うふうに、すべて同体での表徴との提唱で、「心頭」の頭には意味はなく名詞接尾詞で、精神作用の「心」ではなく、「心」という生きている現成を云うものです。同じく「拳頭」の頭も同程で「にぎりこぶし」は身体の一部で、「脳後」は「あたまのうしろ」の意でこれも法体の一部であり、遠い昔の歴史や未来の物語を講釈することよりも、現今に過去現在未来を内包する天台の「一念三千世界」的思考法だと思われます。

ですから(しかあれば)「雲雷音宿王華智仏は心頭現成の見仏」とは、雲雷仏の過去と心頭の過去が現成した姿が「見仏」と云う仏法世界のことです。

「見仏の通語いまのごとし。化導は見仏なり、見仏は阿耨多羅三藐三菩提心なり。発菩提心は見仏の頭正尾正なり」

ここに云う「見仏の通語いまのごとし」の「いま」という語よりも「かくのごとし」と置き換えた方が、次句に云う化導=見仏・見仏=発阿耨多羅三藐三菩提心との整合性からも適語と思われる。

この段の法華経文に対する拈提は、「化導」や「発耨多羅三藐三菩提心」といった普通一般に云う手段(方便・方法)が「見仏」と同体と見、「発菩提心」つまり発心(現在)という初期の心も化導(未来)も三藐三菩提心(過去)も頭正尾正(頭尾ともに同体)として見るべきとの提唱です。

 

釋迦牟尼佛言、諸有修功徳、柔和質直者、則皆見我身、在此而説法。

あらゆる功徳と稱ずるは、拕泥帶水なり、隨波逐浪なり。これを修するを吾亦如是、汝亦如是の柔和質直者といふ。これら泥裏に見佛しきたり、波心に見佛しきたる、在此而説法にあづかる。

しかあるに、近來大宋國に禪師と稱ずるともがらおほし。佛法の縱横をしらず、見聞いとすくなし。わづかに臨濟雲門の兩三語を諳誦して、佛法の全道とおもへり。佛法もし臨濟雲門の兩三語に道盡せられば、佛法今日にいたるべからず。臨濟雲門を佛法の爲尊と稱じがたし。いかにいはんやいまのともがら、臨濟雲門におよばず、不足言のやからなり。かれら、おのれが愚鈍にして佛經のこゝろあきらめがたきをもて、みだりに佛經を謗ず。さしおきて修習せず。外道の流類といひぬべし。佛祖の兒孫にあらず、いはんや見佛の境界におよばんや。孔子老子の宗旨になほいたらざるともがらなり。佛祖の屋裡兒、かの禪師と稱ずるやからにあひあふことなかれ。たゞ見佛眼の眼睛を參究體達すべし。

この段で『法華経』引用は終わりで、今回は如来寿量品からの提唱で「功徳」についての拈提です。

「あらゆる功徳と称ずるは、拕泥帯水なり随波逐浪なり。これを修するを吾亦如是、汝亦如是の柔和質直者といふ」

「拕泥帯水」とは泥を引き水を被ることで、満身が汚濁に満ちている様態。向下門の意を呈し、和光同塵と同義語で、相手の根機境遇に同和して救済すること」

「随波逐浪」とは打ち寄せる大波小波に任せ少しも逆らわないように、学人の機根に応じ接得する放行の手段」(ともに『禅学大辞典』・駒沢大学

これらは共に現実をそのまま受け入れるもので、特定の学人を想定せず、だれもが実修でき得ることから「吾亦如是・汝亦如是」と仏のありかたと定め、これらを総称して経文に言う処の「柔和質直者」であるとの提唱です。

「これら泥裏に見仏しきたり、波心に見仏しきたる、在此而説法にあづかる」

「泥裏波心」とは前句を縮めて云ったもので、現成の真実が「見仏」つまり成仏であるとの事で、それらが「在此而説法」ここでの説法であるとの拈提で、法華経文による提唱を終了します。

これまでの『法華経』の引用品は、十法師品・十一見宝塔品・十四安楽行品・十六如来寿量品・十七分別功徳品・二十一如来神力品・二十七妙荘厳王本事品・二十八普賢菩薩勧発品の跋文で「見仏」関連経文でした。

「しかあるに近来大宋国に禅師と称ずるともがら多し―中略」―仏祖の屋裡児、かの禅師と称ずるやからに相い会うことなかれ、ただ見仏眼の眼晴を参究体達すべし」

この箇所は字義通りに解釈できるが、同様の提唱が『仏道』巻(寛元元(1243)年九月十六日)・『仏経』巻(寛元元(1243)年九月)両巻に収録されるが、これまでの法華経文に対する拈提の語調からは、唐突感は拭い得ず、亦先の両巻ともに大宋国杜撰に対し、必定して「先師古仏」・「先師天童和尚」の例示を示すが、この巻にても同様な手法が成され、「先師天童古仏挙」と掲げますが、この「先師天童古仏」の導入は、「禅師峰山」で続行される提唱の伏線と考えられます。

 

先師天童古佛擧、波斯匿王問賓頭盧尊者、承聞尊者、親見佛來、是否。尊者以手策起眉毛示之。先師頌云、

策起眉毛答問端 親曾見佛不相瞞 至今應供四天下 春在梅梢帶雪寒

いはゆる見佛は、見自佛にあらず、見佗佛にあらず、見佛なり。一枝梅は見一枝梅のゆゑに、開花明々なり。

いま波斯匿王の問取する宗旨は、尊者すでに見佛なりや、作佛なりやと問取するなり。尊者あきらかに眉毛を策起せり、見佛の證験なり、相瞞すべからず。至今していまだ休罷せず。應供あらはれてかくるゝことなし。親曾の見佛たどるべからず

此段古則の出典は『如浄録』・下・頌古からの引用ですが、『梅華』巻(寛元元(1243)年十一月六日・問を請に改変)ならびに『永平広録』・七・530則(建長四(1252)年末頃)にも引用されます。

「波斯匿王(はしのくおう)とは、釈尊時代の中インドキョーサラ国の王であり、釈尊とほぼ同年配で、晩年は王子のビンダカに王位を奪われ釈尊より一年程前に悲惨な死を遂げた歴史上の実在の人物です。

「賓頭廬(びんずる)尊者」とは仏弟子十六羅漢の第一で、白頭長眉(膝上まで垂れる)の羅漢。神通を世人に用いて仏に叱責され、仏命により涅槃には入らずに南方で衆生を教化し、中国では唐代まで聖僧として食堂に像を安置し、日本では堂の前に置き撫仏とし、除病を祈る慣習を生む。(ともに『禅学大辞典』・駒沢大学

「見仏は見自仏にあらず見他仏にあらず見仏なり。一枝梅は見一枝梅のゆゑに開花明々なり」

ここで云う言句が此則に対する要旨文です。これまでも言われるように、「見仏」とは相対的位置状態ではなく、全体「尽界」が見仏ですから、自他に対する仏はあり得ませんから、これ以外に表現方法はありません。「一枝梅は見一枝梅」の見一枝梅は「見仏一枝梅」の略語で、「」開花明々」とは一枝梅のほかに余りものがなく、梅は何時でも何処でも梅であり開花分明とのことです。

「波斯匿王の問取する宗旨は、尊者すでに見仏なりや作仏なりやと問取するなり。尊者あきらかに眉毛を策起せり、見仏の証験なり、相瞞すべからず」

ここでの拈提で「見仏」と「作仏」を問うが、どちらに答えても可とすべきですが、この巻は「見仏」についての提唱ですから、「見仏」に導くための論法で、「眉毛策起」とは眉を吊り上げ、仏の威容を象徴的に示す動作であり、この現成が「見仏」であり「相瞞」(だます)していない証験(証拠)だとの拈提です。

「至今していまだ休罷せず。応供あらはれてかくるることなし。親曾の見仏たどるべからず」

前々段に云う筵をたたまずに関連した文章で、今まで休みなく「見仏」として現われ、応供(仏名の異称)の名で呼ばれ、「親曾の見仏」(親しく見仏になっている)として隠れることはないとの提唱です。

 

かの三億家の見佛といふは、この見佛なり。見三十二相にはあらず。見三十二相は、たれか境界をへだてん。この見佛の道理をしらざる人天聲聞縁覺の類おほかるべし。たとへば、拂子を豎起するおほしといへども、拂子を豎起するはおほきにあらずといふがごとし。

「三億家の見仏」は『大智度論』・九からの引用です。

「如説舎衛城中九億家、三億家眼見仏、三億家可聞、有仏而眼不見、三億家不聞、不見。仏在舎衛二十五年、而此生不聞、不見、何況遠者」

「舎衛城中九億家あり。三億家は眼に仏を見たてまつる。三億家は耳に仏有りと聞きて而も眼に見たてまつらず。三億家は聞かず見ず。仏、舎衛国に在すこと二十五年、而も此の衆生は聞かず見ず。何に況や遠き者をや」

『聞書』註解には「九億の衆生の内、三億の衆生見仏と云うも今の見仏の義也。但九億皆見仏と云う義もあり、三億を見る事は勿論。三億聞仏見と聞くこと勝劣あるべからず、ゆゑに見仏すと云うべし。三億不見不聞と云うも、今の即不見如来見非相、非如来と云う心地にては九億皆見仏と云うべし」の解釈がなされることから、提唱時には「三億家の見仏」についての次項について道元禅師当人から示衆学人に対し註釈がなされ、それを詮慧和尚はメモを取ったか記憶に留めたかして、このように後日『聞書』として残されたのでしょうか。

「見三十二相は、たれか境界を隔てん。この見仏の道理を知らざる人天・声聞・縁覚の類多かるべし」

相好や音声で判断(人天・声聞・縁覚)するのは「見仏」ではなく、一切の相を離隔して見る人は少ないとのことです。

「払子を竪起する多しといへども、払子を竪起するは多きにあらずといふがごとし」

「禅師」による払子の使い方は同様でも、色相の仏(三十二相)を見るのと、策起眉毛の親曾見仏の違いを云うものです。

 

見佛は被佛見成なり。たとひ自己は覆藏せんことをおもふとも、見佛さきだちて漏泄せしむるなり。これ見佛の道理なり。如恒河沙數量の身心を功夫して、審細にこの策起眉毛の面目を參究すべし。たとひ百千萬劫の昼夜、つねに釋迦牟尼佛に共住せりとも、いまだ策起眉毛の力量なくは、見佛にあらず。たとひ二千餘載よりこのかた、十萬餘里の遠方にありとも、策起眉毛の力量したしく見成せば、空王以前より見釋迦牟尼佛なり。見一枝梅なり、見梅梢春なり。しかあれば、親曾見佛は禮三拝なり、合掌問訊なり。破顔微笑なり、拳頭飛霹靂なり、跏趺坐蒲團なり。

「見仏は被仏見成なり。たとひ自己は覆蔵せんことをおもふとも、見仏さきだちて漏泄せしむるなり。見仏の道理なり」

「見仏」というのは仏に見成せられる事で、自己があり仏を見るとは思い及ばず、全体(尽界)が「見仏」ですから、其の「見仏」の一部に自己が内包されるわけですから、自己は覆蔵せんことを思ってもその道理はなく、如何に「見仏」にあらずと思っても「見仏」の道理が先立って現れ、漏れる様態はないとの提言です。

「如恒河沙数量の身心を功夫して、審細にこの策起眉毛の面目を参究すべし」

ガンジス河の底にある無量の砂粒を喩えに出し、策起眉毛と云う「見仏」の実践を、ガンガーの砂粒同様に何万回何億回も参学究辨しなさいとの言です。

「たとひ百千万劫の昼夜、常に釈迦牟尼仏に共住せりともー中略―空王以前より見釈迦牟尼仏なり、見一枝梅なり、見梅梢春なり」

この文章自体に難解な語句はないが、「見釈迦牟尼仏」・「見一枝梅」・「見梅梢春」の同等なる理は、一枝の梅も梅の梢が膨らむ時節を春と呼ぶのも、自然の摂理の運行であり、その代名詞を「見釈迦牟尼仏」と云い「見仏」と表現するまでです。

「しかあれば、親曾見仏は礼三拝なり、合掌問訊なり、破顔微笑なり、拳頭飛霹靂なり、跏趺坐蒲団なり」

「礼三拝」・「合掌問訊」・「破顔微笑」・「拳頭飛霹靂」・「跏趺坐」つまりは日々の功夫の連続・連関(日常底)を親曾=見仏と捉え、事法理法は無く能所空寂の故に、見仏の時節自行に於いて跏趺坐し端坐することの重要性を、この段になり披瀝されますが「天童古仏」を引き合いに出される拈提での常套裏言です。

 

賓頭盧尊者、赴阿育王宮大會齋。王行香次、作禮問尊者曰、承聞尊者、親見佛來、是否。尊者以手撥開眉毛曰、會麼。王曰、不會。尊者曰、阿那婆達多龍王、請佛齋時、貧道亦預其數。

いはゆる阿育王問の宗旨は、尊者親見佛來是否の言、これ尊者すでに尊者なりやと問取するなり。ときに尊者すみやかに眉毛を撥開す。これ見佛を出現於世せしむるなり、作佛を親見せしむるなり。

阿那婆達多龍王請佛齋時、貧道亦預其數といふ、しるべし、請佛の會には、唯佛與佛、稻麻竹葦すべし。四果支佛のあづかるべきにあらず。たとひ四果支佛きたれりとも、かれを擧して請佛のかずにあづかるべからず。

尊者すでに自稱す、請佛齋時、貧道またそのかずなりきと。無端にきたれる自道取なり。見佛なる道理あきらかなり。

請佛といふは、請釋迦牟尼佛のみにあらず、請無量無盡三世十方一切諸佛なり。請諸佛の數にあづかる無諱不諱の親曾見佛なり。見佛見師、見自見汝の指示、それかくのごとくなるべし。阿那婆達多龍王といふは、阿耨達池龍王なり。阿耨達池、こゝには無熱惱池といふ。

ここで取り上げる提唱は『禅宗頌古聯珠通集』・三に記載されるもので、この話頭に対し仏印元・仏慧泉・保寧勇がそれぞれ拈提しますが、その保寧仁勇頌に対する提唱は次段です。

「阿育王問の宗旨は、尊者親見仏来是否の言ー中略ー見仏を出現於世せしむるなり、作仏を親見せしむるなり」

ここも文意字義通りでよいが、先段に云う「策起眉毛」も「撥開眉毛」も同じ動作で、眉を跳ね上げ存在(見仏)を表す示威行為で、云うならば拈華に対する「微笑」に相当するものです。こう云った具体的身体行為が「見仏」の現成として「出現於世」させると説かれますが、この出現於世は「方便品」中に「一大事因縁故出現於(○○○)世(○)」・「仏知見便得清浄故 出現於(○○○)世(○)」・と見在されます。この「見仏」提唱以外では『正法眼蔵』七十五巻中「諸法実相」・「梅華」両巻のみに付加されますが、いつもながらの語彙の豊かさ、提唱文に対する適切な拈語等々感嘆の極みです。

「作仏を親見せしむ」とありますが、「作仏」であっても「見仏」であっても「請仏」であろうと何ら変わりはありません。作は仏であり、見は仏であり、請は仏でありますから。

阿那婆達多龍王請仏斎時、貧道亦預其数といふ。知るべし請仏の会には、唯仏与仏、稲麻竹葦―中略―請仏の数に預かるべからず」

阿那婆達多龍王が、仏を請待して斎食(正命食・昼食)を差し上げた時、貧道(ビンズル)もまたその数に入っていた。この話頭に対する拈提は、仏の法席には唯仏与仏(仏ばかり)が稲麻竹葦(多数)の如くに参集し、四果(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)支仏(辟支仏)のような学人は請仏の数にはカウントされない。

「尊者すでに自称す、請仏斎時、貧道またそのかずなりきと。無端にきたれる自道取なり、見仏なる道理あきらかなり」

賓頭廬尊者には、仏の一員としての認識・自覚を有する為に、昼食供養に招待された時は自分もそのメンバ―に入っていたと、「無端」(なにげなく)に自ら云った事自体が「見仏」である道理(証明)は明白である。

「請仏といふは請釈迦牟尼仏のみにあらず、請無量無尽三世十方一切諸仏なり。請諸仏の数にあづかる無諱不諱の親曾見仏なり。見仏見師、見自見汝の指示それかくのごとし」

「請仏は一切諸仏なり」は文意のままで、「無諱不諱」とは「はばからず自賛(『御抄』)の意で、諱は本名を云い通称は字(あざな)であるから、この場合は貧道其数が無諱不諱に当たり、親曾見仏と説かれ、同じように「見仏」と同様に「見師」・「見自」・「見汝」も同義語と参学せよとの語です。

阿那婆達多龍王といふは、阿耨達池龍王なり。阿耨達池ここには無熱悩池といふ」

そのままの意で、「無熱悩池」は漢訳語ですが、この文章なんら効用なく不要の感あるが、敢えて付加するなら文の初句に配置した方が良い気がする。

 

保寧仁勇禪師頌曰、

我佛親見賓頭盧 眉長髪短雙眉

阿育王猶狐疑  摩尼悉哩蘇

この頌は、十成の道にあらざれども、趣向の參學なるがゆゑに拈來するなり。

この頌の原典は前段でも云うように、本則に対する「仏印」・「仏慧」・「保寧」三員による中の保寧仁勇の語句ですが、「趣向の参学」と指摘するように、気に入れられたものにも関わらず拈提せずに終わっています。

「オンマニシリソロ」の陀羅尼に対し、詮慧和尚は「訳するには及ばず」と説き、強豪和尚は「唵摩尼は梵語なり、無辺際を云い、我仏親見の道理、狐疑をこのように云うと説かれ、真言の方より付字義釈すれば、唵は三身義・摩尼は宝部接属・悉哩蘇嚧は成就・満足のことば」と説き、「趣向参学なるがゆゑに」に対しては「そもそも趣向の分はあるべきか」と小拙と同様な見解です。

 

趙州眞際大師、因僧問、承聞和尚、親見南泉、是否。師曰、鎭州出大蘿蔔頭。

いまの道現成は、親見南泉の證験なり。有語にあらず、無語にあらず。下語にあらず、通語にあらず。策起眉毛にあらず、撥開眉毛にあらず、親見眉毛なり。たとひ軼才の獨歩なりとも、親見にあらずよりは、かくのごとくなるべからず。

この鎭州出大蘿蔔頭の語は、眞際大師の鎭州竇家園眞際院に住持なりしときの道なり。のちに眞際大師の号をたてまつれり。

かくのごとくなるがゆゑに、見佛眼を參開するよりこのかた、佛祖正法眼藏を正傳せり。正法眼藏の正傳あるとき、佛見雍容の威儀現成し、見佛ここに巍々堂々なり。

 

正法眼藏見佛第五十九

爾時寛元元年癸卯冬十一月朔十九日在禪師峰山示衆

  寛元二年甲辰冬十月朔十六日在越州吉田縣大佛寺侍者寮書冩之  懷弉

最後に道元禅師お気に入りの趙州和尚「親見南泉」についての拈提ですが、ここで云う「見仏」とは「有語」・「無語」・「下語」・「通語」といった言語的理解ではなく、また「策起眉毛」・「撥開眉毛」といった身体的動作でもなく、「親見」と云う機縁を以ての眉毛(現成体)が大切である。軼才(すぐれた能力)があっても「親見」という現成には及ばぬと云うことが、この段の主旨です。

ここで云う「大蘿蔔頭」(大根」は、趙州にも南泉にも眉毛にも喩えられる。

「真際大師の号をたてまつれり」とあるが、此巻でも「禅師と称ずる不足言のやから」と指弾されるが、朝廷(皇帝)からの諡号である大師号を積極的に使用されるが、趙州も例外ではない。(如浄に関しては例外)

最後に正法眼蔵の正伝は雍容たる仏威儀を伴い、「見仏」という仏祖正法眼蔵は巍巍堂堂との結語です。

この「見仏」巻は『金剛般若経』から始まり八品の『法華経』を拈提し、『如浄語録』・『禅宗頌古聯珠通集』・『聯灯会要』と提唱されたが、後半三部は文脈上から異質な文体のように思われ、「禅師峰上」にての提唱は、平泉寺徒に対したる法華解釈学に重点を置いたものと推察され、提唱後に付加したものと推論するものである。