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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十七 夢中説夢 註解(聞書・抄)

正法眼蔵 第二十七 夢中説夢 註解(聞書・抄)

 

諸佛諸祖出興之道、それ朕兆已前なるゆゑに舊窠の所論にあらず。これによりて佛祖邊、佛向上等の功徳あり。時節にかゝはれざるがゆゑに壽者命者、なほ長遠にあらず、頓息にあらず。はるかに凡界の測度にあらざるべし。法輪轉また朕兆已前の規矩なり。このゆゑに、大功不賞、千古榜様なり。これを夢中説夢す。證中見證なるがゆゑに夢中説夢なり。

詮慧

〇凡そ経論及び世間(の)詞(は)、四教三観(蔵・通・別・円―四教、従仮入空観・従空入仮観・中道正観の天台止観に基づく・注)にあてて、これほど・これほどと云う、皆有故。輪転生死の詞をも、諸法実相と説く時、無相違。「仏以一音演説法、衆生随類各得解」(『維摩経』上「大正蔵」一四・五三八a二・注)也。又経を釈するに、如是我聞の詞を四教に釈して談之、尤も巧み也。今「夢」と説くを一向迷法と云う。不可然、世界を生死の長夜と談ずる時、夜と云うに付けて、生死の眠とも、夢とも談ずるゆえに、三界法(も)又皆夢なり。其の時の説は、又夢なれば夢中説夢と談じて、ただ夢の中に夢を説くと心得を、同じ経文の

夢中説夢なれども、今の夢をば悟りと取る。たとい三界を夢ぞ迷いぞと説くとも、三界唯一心と体脱の時、迷妄残りなし。今の夢なるべし、法に約して説く時、すでに「十方仏土中、唯有一乗法」(『法華経』方便品「大正蔵」九・八a一七・注)と云う。一乗の外に、誰ありて、儚(はかな)き夢を見るべきぞ。身を説くに法身法界に遍ずと云う。この時又説の義あるべからず。「中」と云う字、内外の中にあらず、上下に対したる中にあらず。ゆえに「中」の字不用、ただ夢に付きたる「中」也。一切衆生悉有仏性と談ずる時の悉有程也。「説」の字、是も能説所説の説にあらず。然者又「説」の字も不用歟。一代聖教の詞をば、対機随情の説とのみ云う。是れ無相伝方の義也、祖師法を開演し御(ましまし)し時、仏説法・法説法と談ず。是等の「説」と「夢中説夢」の「説」は心得べし。

〇又「火焔三世の諸仏の為に説法、三世諸仏立地聴法」(『雲門録』中「大正蔵」四七・五五五c一〇・注)すと云う事あり。

〇夢中の中の字も不用、説の字も不用と云う程ならば、夢の字も不用と云いつべし。かく云う時は、されば是を言語道断と云うと思えり。邪見也、是は詞のなきを言語道断と云わんずると思う也。十方仏土中と説く、是言語道断也。諸法実相と云う、是言語道断と可心得なり。

〇仏は覚悟の如来衆生は迷妄の族と云う。是までは唯有一乗と難云。悟りの仏も何所に置くべきぞ。このとき悟上得悟の漢、迷中又迷の漢とこそ云わるれ。総て日来の夢の見を改むべき也、ゆえに仏祖国祖会夢中説夢なり。

〇「仏祖辺仏向上、朕兆已前」ならば、中の字、説の字の詞(は)是程なり。

〇「朕兆已前」とは、たとえば、あとありと云う也。ゆえに朕兆と云うまでは、時節際限あるに似たり、然者「已前」と云う也。「旧窠の所論」と云うは、旧(ふる)き窠(す)と云う時に、三界の事あとある方に聞こゆれば、「所論に非ず」と云う也。

〇「大功不賞」と云うは、功の至りて大ならん時は、賞とて如何に行うべきぞ。功に報う程の事をこそ、賞とは云うべきに、功が大ならんには、賞に対すべきなき故を云う也。たとえば尽十方界真実人体ならん。この人に何事を賞とて可行哉、無相対法なり。

〇「千古榜様」とは、古き印、又古き様などと云う心地なり。この大功不賞が、古くよりかく謂い習いたると也。

〇「証中見証」と云うは、夢中説夢の織りなせる様を説くなり。夢は証なり、但し証も「証中見証」の証の外ならば、今の夢中説夢の夢に引きなき難し。教行に被待れる証にはあらざるべし。「夢」の詞に付いて、内外の義を存し、「説」の詞に付いて、能説の人を置き、夢は則ち所説の詞と解する時、夢は迷也、夢中説は空説の法と思う(は)、これ誤り也。いま云う所は、「夢の全面を中と説く」、この「中」に外ある事なし。「説の時節」に能説の人を置かず、夢の始終なり、ゆえに「夢中説夢」也。説夢は夢中なり、迷中又迷を無実の事の上に、無実を説くようには不可心得。

経豪

  • 先ず「夢中説夢」と云う詞を世間に心得には、「夢」は実性なく、儚(はかな)く、定めなき事の喩えなり。「夢中」に得宝と見るも、覚後は無其実。乃至闘諍喧嘩、付善悪、「夢中」の事は、覚むれば皆以不実事也。されば我等が行住坐臥の作法、万事夢ならずと云う事なし。況や「夢中説夢」と云えば、今一重(に)無正体、儚き様に思い付きたり。今の「仏祖所談の夢中説夢」のよう非爾、『空花』所談の時、能々事旧了。今夢中説夢と空花と、更不可違道理也。

「諸仏諸祖出興之道」と云えば、諸仏与娑婆世界を各別に心得て、仏の娑婆に出で給うように心得らる。しかにはあらず、諸仏諸祖の姿則ち出興なるべし。諸仏諸祖の外に又、別に出興の士あるべからず。此の道理を「朕兆已前」とは云うなり。故に「旧窠の論に不及」也。「仏祖辺」と云えばとて、仏祖のほとり(辺)と不可心得。「仏祖辺」は只仏祖なるべし。「時節に拘わらざる道理也。寿捨命者、長遠頓息にあらず」。凡界と測度を離るべきなり。

  • 「法輪転」と云えば、声聴の説なるべしと不可心得。今の「法輪転」とは、以諸仏諸祖

可云也。ゆえに是も同じ「朕兆已前の規矩」とは云う也。この法輪転の道理を「大功不賞」とは云う也。大功は尤も可有賞、道理也。然而ここには大功不賞なる道理なるべし。この「夢中説夢の道理」、千変万化する所を「千古榜様」とは云う也。此の「夢中説夢」(の)詞は、「証中見証」と云う程の理なり。

 

 この夢中説夢處、これ佛祖國なり、佛祖會なり。佛國佛會、祖道祖席は、證上而證、夢中説夢なり。この道取説取にあひながら佛會にあらずとすべからず、これ佛轉法輪なり。この法輪、十方八面なるがゆゑに、大海須彌、國土諸佛現成せり。これすなはち諸夢已前の夢中説夢なり。徧界の彌露は夢なり、この夢すなはち明々なる百草なり。擬著せんとする正當なり、粉紜なる正當なり。このとき、夢草中草説草等なり。これを參學するに、根莖枝葉、花果光色、ともに大夢なり。夢然なりとあやまるべからず。

詮慧

〇「夢中説夢を仏国とも、又祖道祖席など」と云う。是を依正二報と心得んは無詮。やがて夢中説夢が、仏国とも祖席とも現るるなり。更非依正也。或いは依正無二とも、身土不二とも仏土不二と云う此れなり。但し又依正各別とも云わるべき也。其の故は仏説けば仏のみ現前し、国土と説けば国土のみあり。心と説けば心のみある所を、各別とは云う也。心仏及衆生、是三無差別にて可心得。総て夢中説夢の外の道理不可有也。

〇「諸夢已前」と云うは、世間の夢より先と云う也。「夢草・中草・説草」と云うは、夢(は)則ち明々百草と上に云いつる時に、さらば夢中説皆草也となり。「根茎枝葉、花果光色、ともに大夢」と云うは、夢草・中草・説草の根ぞ茎ぞとは不可心得。只根も大夢、茎も大夢と心得也。百草も説法も同じ詞也。

〇「夢然也とあやまるべからず」と云うは、世間の夢と誤るべからずとなり。

経豪

  • 如右云、「仏国仏会、祖道祖席は、証上而証、夢中説夢」の理也。
  • 如文。
  • 実にも「此の法輪十方八面なるべし、大海須弥、国土諸法」(は)、この法輪の現成せる也。「諸夢已前の夢中説夢夢」とは、透脱脱落の夢中説夢也と云う心地也。
  • 「徧界の弥露」とは所詮尽界夢中の現るる姿を云う也。「この夢則ち明々なる百草」とは、必ず(しも)草とは不可心得。只明々なる諸法と云う心地也。この夢の諸法に明らかなる心地を云う也。此の「疑著」の詞は、それがそれと云う程の詞也。
  • 是は前に百草等也と云う、草の詞に付けて、今夢中説の字に「夢草・中草・説草等」也と付けらるる也。夢中説夢の明々百草なる道理を被明也。「草」の字に付けて、又「根茎枝葉、花果光色」とあり、所詮是等皆夢中説夢の功徳荘厳なるべし。「大夢也、夢然也」とあり、是は夢中説夢と云う心地なり。ただいたづらなる夢と不可心得と云う心なり。

 

 しかあれば、佛道をならはざらんと擬する人は、この夢中説夢にあひながら、いたづらにあるまじき夢草の、あるにもあらぬをあらしむるをいふならんとおもひ、まどひにまどひをかさぬるがごとくにあらんとおもへり。しかにはあらず。たとひ迷中又迷といふとも、まどひのうへのまどひと道取せられゆく道取の通霄の路、まさに功夫參究すべし。

 夢中説夢は諸佛なり、諸佛は風雨水火なり。この名号を受持し、かの名号を受持す。夢中説夢は古佛なり。乘此寶乘、直至道場なり。直至道場は乘此寶乘中なり。夢曲夢直、把定放行逞風流なり。正當恁麼の法輪、あるいは大法輪界を轉ずること、無量無邊なり。あるいは一微塵にも轉ず、塵中に消息不休なり。この道理、いづれの恁麼事を轉法するにも、怨家笑點頭なり。いづれの處所も恁麼事を轉法するゆゑに轉風流なり。このゆゑに、盡地みな驀地の無端なる法輪なり。徧界みな不昧の因果なり、諸佛の無上なり。しるべし、諸佛化道および説法蘊、ともに無端に建化し、無端に住位せり。去來の端をもとむる事なかれ。盡從這裡去なり、盡從這裡來なり。このゆゑに、葛藤をうゑて葛藤をまつふ、無上菩提の性相なり。菩提の無端なるがごとく、衆生無端なり、無上なり。籠籮無端なりといへども、解脱無端なり。公案見成は放儞三十棒、これ見成の夢中説夢なり。

詮慧

〇「諸仏は風雨水火なり」と云うは、大地有情同時成道の心なり。「此の名号を受持し、かの名号を受持す」とは、風雨水火の仏なれば、風雨水火を名号と云う也。

〇「怨家笑点頭」と云うは、煩悩即菩提とも云い、三界唯一心とも云う此の心也。夢中説夢の道理なり。

〇「放你三十棒」、是に付けて賞罰の棒あるべし。いま祖師の三十棒は、汝得吾皮肉骨髄の義なり。

経豪

  • 是は「迷」と云う詞に付けて、凡夫の迷と心得ゆえに、悪しき物とのみ心得たり。迷中又迷、悟上得悟と『現成公案』にありし詞の如く心得る通路を、「まさに可参学」と云う也。
  • 「夢中説夢は諸仏也」とある上は、不及子細。諸仏は三十二相の姿とのみ、打ち任すは思い付きたり。水火を諸仏也と云う義、今更非可不審。
  • 法華に三車の喩えを儲けて、大白牛車に乗じて、「直至道場」とあり、如此心得は、大白牛車を乗り物として、道場に至ると被心得(は)、然者法華に背くべし。此の法乗と道場と(は)不可有差別、ゆえに「直至道場は、乗此宝乗中也」とは被釈也。道場是法乗也、法華是道場也。又「曲直、把定放行」(は)、皆夢中説夢の上の功徳なるべし。
  • 是は「大法輪」と云うは、尽界尽十方界などと云いたる程の心地也。此の「法輪」の姿(は)、多少広狭に拘わらず。「無量無辺」と云えばとて、広く一微塵にも消息不休なる姿不足なく、ともに円満の心地を被釈也。是れ転法輪の道理なり。この「法輪」は木にも草にも、諸法に渡りて、大転法輪なる道理あるべき也。
  • 此の「転法輪の道理」が何れに向けて転法するも違わず、中あしからぬと云う也。「怨家」とは敵也、「敵が笑いて点頭せん」は、不可向背姿也。此の道理を如此云うべき也。又「何れの処所もこの転法輪の道理なるゆえに、転風流也」と云う也。上には「逞風流」、ここには「転風流」只同事也。
  • 所詮只尽地尽界、皆「無端の道理を以て則ち法輪」と云うべし。法輪許りに不可限、諸法無端の理也。「徧界皆不昧因果」とは、因は果を待つ、果は因に待たるると不可心得。無端の因果也、ゆえに「不昧因果」とは云うなり。因果に昧からずと云う心地なり。
  • 「諸仏の化導、及び説法蘊」等、化すべき衆生を置きて化すと心得。「説法蘊」も上聖の下位に蒙ぶらしむる口業とのみ心得たり。今は諸仏を以て「化導」と談ず、ゆえに諸仏の諸仏を化導するなり。化一切衆、皆令入仏道の金言(は)尤も可符合。「説法蘊」も如此、草木風水の姿(も)「説法蘊」也。能説所説不可有。一法一法の無端なる姿が、「無端に住位せり」とは云わるる也。「去来」を談ずるようも彼此より去来の義にあらず。「尽従這裏去、尽従這裏来」なるべし。ゆえに慮見の去来を離れたるなり。此理が「葛藤を植えて、葛藤を纏う」理なるべき也。
  • 「籠籮」は繋縛の詞に似たれども、是は籠籮も無端の籠籮、解脱も無端の解脱と云う也。「放你三十棒」は、杖にはあらず、本来本有の法の理を指すなり。是れ則ち無端の三十棒なるべし。

 

 しかあればすなはち、無根樹不陰陽地喚不響谷、すなはち見成の夢中説夢なり。これ人天の境界にあらず、凡夫の測度にあらず。夢の菩提なる、たれか疑著せん。疑著の所管にあらざるがゆゑに。認著するたれかあらん、認著の所轉にあらざるがゆゑに。この無上菩提、これ無上菩提なるがゆゑに夢これを夢といふ。中夢あり、夢説あり、説夢あり、夢中あるなり。夢中にあらざれば説夢なし、説夢にあらざれば夢中なし、説夢にあらざれば諸佛なし、夢中にあらざれば諸佛出世し轉妙法輪することなし。その法輪は、唯佛なり與佛なり、夢中説夢なり。たゞまさに夢中説夢に無上菩提衆の諸佛諸祖あるのみなり。さらに法身向上事、すなはち夢中説夢なり。こゝに唯佛與佛の奉覲あり。頭目髓腦、身肉手足を愛惜することあたはず、愛惜せられざるがゆゑに、賣金須是買金人なるを、玄之玄といひ、妙之妙といひ、證之證といひ、頭上安頭ともいふなり。これすなはち佛祖の行履なり。これを參學するに、頭をいふには人の頂上とおもふのみなり。さらに毘廬の頂上とおもはず、いはんや明々百草頭とおもはんや、いはんや頭聻をしらず。

詮慧

〇「無根樹・不陰陽地・喚不響谷」と云うは、是何れもあるまじき事也。然者帝釈は我が所に、この事なしと被仰。今朕兆已前の夢中説夢の時は、是等皆あるべきもの也。是れ「無上菩提の法なる」ゆえなり、三界唯一心とも尽十方界眼睛とも光明とも説く。いづくを「根とも、樹とも、陰陽とも、地とも、喚とも、響とも、谷とも」不可差別。無不之字も難置也。

「売金須是買金人なるを、玄之玄、妙之妙と云い、証之証と云う」とあるは、人頂上と「毘廬の頂上」とは異なり。人は我が頂ばかりに限る、毘廬は一切処と云う、ゆえに「頭上安頭の頭」を、毘廬程に可心得也。

〇「頭上安頭」の事、愚人は剰法を誡むると思う。これ一心の法を沙汰する族、万法は心が所作なり、善悪の二法ともに心也。心これ仏也、しかれば「頭上安頭」と云うは、仏を仏に重ね、心に心を重ぬと説くと思えり。まことに同じ詞なりと云えども、見解相違、天地懸隔なり。心の外に法を求むる(を)、頭上安頭とは心得まじ。

〇仏以一音演説法、衆生随類各得解と云う、まことにいま仏を不心得る輩も、如何是仏と問う。又仏の案内を知りたる者も、如何是仏と問い、清浄本然云何忽生山河大地と問う。又返答の詞にも、此文を云う(は)、迷悟ともに同じ詞なり。随類各得解、如此あやまらざる詞は、邪正凡聖共に用う也。

〇「頂を云うには、人の頂上と思うのみ也。さらに毘廬の頂上と思わず、いわんや明々百草頭と思わんや」と云う、この頂は頭上安頭と云う頭なり、百草頭也。然者毘廬の頂上と思わんこそ仏家の習いごと仏法かと思うに思わずと云うは、すべてあるまじきもの也。たとい有りと云うとも、頂上も世間に思うが如くあるべからず。毘廬遮遍一切処、当知諸法悉是仏法と云うゆえに。

〇昨夢は世間の夢也。如今夢中説夢は、値仏の慶快也と云う、是仏法也。

経豪

  • 是は七賢女の喩え也。是を今は夢中説夢と可談也と云う也。ゆえに「人天の境界にあらず、凡夫の測度に非ず」と云う也。
  • 実に菩提の夢なる道理、疑著すべきにあらず、又夢の外に疑著すべき誰なし。菩提の外に疑著すべき誰なき道理なるべし。夢が転じて菩提になるとも云わず。只「菩提は菩提、夢は夢なる也、所転にあらざる」也。
  • 是は夢中説夢の道理を、あちこち打ち替えてと、かく被釈也。所詮夢の理(を)、「中夢とも夢説とも、乃至説夢、夢中とも」無尽に云わるる也。夢の上の理なるべし、是は無風情。夢中説夢を悪しく可心得あいだ、如此委しく被釈也。「中」と云えば、只やすめ詞、「説」も能説所説のように心得ぬべし。仍て「中」も夢上の「中」、初中後に拘わらぬ中なるべし。「説」も中程の説と云う也。彼等の詞を為解脱也。又「説夢に非ざれば諸仏なし、夢中に非ざれば諸仏出世し、転妙法輪する事なし」とは、説夢を以て諸仏と談じ、夢中を以て諸仏出世とも、転妙法輪とも」談ず也。
  • 如文。此の夢中説夢、転法輪の姿は、「唯仏与仏の道理」なるべしと云うなり。
  • 是は今の夢中説夢が無上菩提、諸仏諸祖にてある也と被仰也。是れ則ち「法身向上事、夢中説夢也」と云う也。
  • 是は「唯仏与仏の奉覲」とは、仏に奉覲とは不可心得。「唯仏与仏を則ち奉覲」と談じ、「仏に仏の奉覲する」道理也。此の道理の上は、「頭目髄脳、身肉手足を愛惜す」と云う道理は総てあるべからず。何が何を愛惜すべき、一物の上の愛惜いかなるべきぞ。此の道理は「売金須是買金人」の道理也。只金を売る者には、金を買う程の理也。只同物なる理なる理なり、ゆえに「玄之玄、妙之妙、証之証、頭上安頭」と云う程の理なるべし。
  • 「頭聻」とは、只是が是なる事を云う也。人の頭とのみ心得べからず。「毘廬の頂上」とは、無始無終・無辺際の義也。仏向上程の頂上なるべし。

 

愚人これをきゝて剩法をいましむる言語とおもふ。あるべからずといはんとては、いかでか頭上安頭することあらむといふを、よのつねのならひとせり。まことにそれあやまらざるか。説と現成する、凡聖ともにもちゐるに相違あらず。このゆゑに、凡聖ともに夢中説夢なる、きのふにても生ずべし、今日にても長ずべし。しるべし、きのふの夢中説夢は夢中説夢を夢中説夢と認じきたる。如今の夢中説夢は夢中説夢を夢中説夢と參ずる、すなはちこれ値佛の慶快なり。かなしむべし、佛祖明々百草の夢あきらかなる事、百千の日月よりもあきらかなりといへども、生盲のみざること。あはれむべし、いはゆる頭上安頭といふその頭は、すなはち百草頭なり、千種頭なり、萬般頭なり、通身頭なり。全界不曾藏頭なり、盡十方界頭なり。一句合頭なり、百尺竿頭なり。安も上も頭々なると參ずべし、究すべし。

 しかあればすなはち、一切諸佛及諸佛阿耨多羅三藐三菩提、皆從此經出も、頭上安頭しきたれる夢中説夢なり。此經すなはち夢中説夢するに、阿耨菩提の諸佛を出興せしむ。菩提の諸佛、さらに此經をとく、さだまれる夢中説夢なり。夢因くらからざれば夢果不昧なり。たゞまさに一槌千當萬當なり、千槌萬槌は一當半當なり。かくのごとくなるによりて、恁麼事なる夢中説夢あり、恁麼人なる夢中説夢あり、不恁麼事なる夢中説夢あり、不恁麼人なる夢中説夢ありとしるべし。しられきたる道理顯赫なり。いはゆるひめもすの夢中説夢、すなはち夢中説夢なり。

詮慧

〇「争か頭上安頭する事あらんと云うを、世の常の習いとせり。まことに其れ誤まらざるが説と現成する、凡聖共に用いるに相違あらず。このゆえに、凡聖共に夢中説夢なる、昨日にても生ずべし、今日にても長ずべし。知るべし、昨日の夢中説夢は、夢中説夢を夢中説夢と認じ来たる。如今の夢中説夢は、夢中説夢を夢中説夢と参ずる、則ちこれ値仏の慶快也」と云う、此の詞を聞くには、先の夢中説夢は凡夫の見と聞こゆ。非爾、凡夫を分かたんは、今の夢中説夢の義にあらざるべし。夢中にこそ凡聖を摂せんずる時に、これこそ「値仏の慶快」とも謂わるれ。

経豪

  • 愚人の迷見の様、文に聞こえたり、不可用。実にも此の夢中説夢の詞、「凡聖共に用いるに相違なき也。昨日にても生ず」は凡見、「今日にても長ずべし」と云うは聖見なり。
  • 「昨日の夢中説夢」は、只凡夫の思い付きたるように、儚く自性なき詞に思う所を、「夢中説夢を夢中説夢と認じ来たる」とは云う也。「如今の夢中説夢は、夢中説夢を夢中説夢と参ず」とあるは、今仏祖相伝の理の方の夢中説夢なり。ゆえに「値仏の慶快也」と云う也。此の両様の理が、「凡聖共に用いるに相違あらず」とは云わるるなり。
  • 如文。
  • 「頭上安頭」と云えば、只頭の上に頭を重ぬべき様に心得て、さる事のあるまじき事に云うとのみ心得を、今の頭上安頭の「頭」と云う事を可心得ようを明かさるる也。如文、「頭」の究尽の道理を、一一に被明也。
  • 是は「頭上安頭」を被釈に、頭は上に被明ぬ。今安上も、今の頭の如く可参究と云う也。然者日来心得所の「頭上安頭」には可水火也。又「一切諸仏及諸仏阿耨多羅三藐三菩提、皆従此経出」と云う経文(『金剛般若波羅蜜経』「大正蔵」八・七四九中・注)は、所詮諸仏の諸仏より出、此経の此経より出る道理なるべし。是れ則ち「頭上安頭の道理」也、是則「夢中説夢なるべし」と云うなり。
  • 如前云、皆従此経出とある所を、「此経より出る」と云うは、只仏より仏が出で、経より経を出す道理を如此云う也。是れ「夢中説夢の道理」に当るべし。
  • 是は因果不可各別、因を待つ果にあらず。夢中説夢程の因果也、ゆえに「夢因昧からず、夢果不昧なる」道理顕然也。
  • 仏法の上の「一槌」の道理は、「千当万当なるべし、千槌万槌は一当半当」の理なり。仏法の関捩子程の「一槌」なるべし、此の「一槌」に当らずと云う物、不可有也。
  • 文に聞こえたり。恁麽事を得ると思わば、則是恁麽人也。既是恁麽人也、何愁恁麽事と云いし心也。恁麽事も夢中説夢也、恁麽人も夢中説夢也。又恁麽事の上に不恁麽事なる理、如此。
  • 此の夢中説夢の道理の現われたる道理を、「顕赫也」とは云う也。明らかなる道理也と云う也。「ひめもす(終日)の夢中説夢」と云うは、無始無終なる心地也。辺際なく障る所なき理を云う也。此の道理「夢中説夢なるべし」。

 

 このゆゑに古佛いはく、我今爲汝夢中説夢、三世諸佛也夢中説夢、六代祖師也夢中説夢。

 この道、あきらめ學すべし。いはゆる拈花瞬目すなはち夢中説夢なり、禮拝得髓すなはち夢中説夢なり。

 おほよそ道得一句、不會不識、夢中説夢なり。千手千眼、用許多作麼なるがゆゑに、見色見聲、聞色聞聲の功徳具足せり。現身なる夢中説夢あり、説夢説法蘊なる夢中説夢あり。把定放行なる夢中説夢なり。直指は説夢なり、的當は説夢なり。把定しても放行しても、平常の秤子を學すべし。學得するに、かならず目銖機輌あらはれて、夢中説夢しいづるなり。銖輌を論ぜず、平にいたらざれば、平の見成なし。平をうるに平をみるなり。すでに平をうるところ、物によらず、秤によらず、機によらず。空にかゝれりといへども、平をえざれば平をみずと參究すべし。みづから空にかゝれるがごとく、物を接取して空に遊化せしむる夢中説夢あり。空裡に平を現身す、平は秤子の大道なり。空をかけ物をかく、たとひ空なりとも、たとひ色なりとも、平にあふ夢中説夢あり。解脱の夢中説夢にあらずといふことなし。夢これ盡大地なり、盡大地は平なり。このゆゑに廻頭轉腦の無窮盡、すなはち夢裏證夢する信受奉行なり。

詮慧

〇「夢中説夢の把定放行なる、夢中説夢也」と云うは、煩悩即菩提と把定せん。煩悩として可断もなく、菩提として表すべきなしと放行するも、「夢中説夢也」と可心得。

〇「平常の秤子を学すべし」と云うは、平常人、平常心などと云う、学道の上の平常なり。「秤子」と云うは、夢中説夢を秤子として諸法をかくべし。迷と説き悟と説く時も、断迷開悟の時も、この夢中説夢の平にかけんずる也。「見色見声、聞色聞声」をかくべし。但し夢中説夢に不及ずんばかかるべからず。「平」と云うは夢中説夢也。

〇「銖輌を論ぜず」と云うは、目銖輌は置けども、銖輌をば不論。只「平」を用う也、ゆえに如此云う也。この「平」を銖輌すべきがゆえに。

〇「平に至らざれば平の見成なし」と云うは、たとえば夢中説夢に至らざれば、夢中説夢なしと云う程の事也。

〇「物によらず、秤によらず、機によらず、空にかかれりと云えども」と云うは、夢中説夢秤の平にあらずは、空をも不可用、凡夫外道の空ぞ物ぞば、都て此秤には拘わらざるなり。

経豪

  • 此の御釈に分明に聞こえたり。已に「以三世諸仏、六代祖師、夢中説夢」と談ず、日来の夢に不可准条顕然也。
  • 所詮是等(拈花瞬目、礼拝得髄など・注)皆、今は「夢中説夢」と可心得也。
  • 見色明心、聞声悟道とあり、今は「見色見声、聞色聞声」とあり。眼処聞声方得知と云う詞と同じかるべし。今の詞(は)、仏法の上の所談、不始于今事也。「現身なる」とは、観音の三十三所変に、応以仏身得度者而為説法とあり、可得度者を置きて、能化所化あるに非ず。観音の観音を得度する理也、是則夢中説夢也。「説夢説法蘊」も、能説所聞にあらず。是則「夢中説夢の理」也。「把定放行なる夢中説夢道理」也。「直指の理は説夢なる」べし。「的当」と云うは、あたる詞也。
  • 是は世間調度の秤子は、聊かの物の増減に依りて高下ある也。仏法の秤子は、総て高下と云う事不可有、平常の秤子なるべき也。「目銖機輌あらわれて、夢中説夢し出づる也」とは秤の上の具足共を被呼出、例風情也。秤子の上の荘厳なるべし、「目も銖も、機も輌も」各々に独立すべき也。是則夢中説夢なり、ゆえに「銖輌を不論」也。「平に至らざれば、平の現成なし」とは、今の平常の理に不至ば、平の現成なしと云う也。
  • 「平を得る」とは、誰人が得べきぞ、平は平が得べき也、見るべき也。平を得る道理(は)又実にも「物に依るべからず、機にも不可依」。又「空にかかれり」とは、只世の常に思い付きたる虚空に秤かかるべき歟。争か去る事あるべき、此の空が秤なる所の如此云う也。「平を得ざれば平を見ず」とは、打ち任せたる秤は、聊かの増減に依りて、高下不同也。此の「秤子」は総て高下不可有、此道理を如此可云也。
  • 「みづから空にかかれる」と云うは、空が平にても、秤子にてもあるある道理を云う也。「物を接取して空に遊化せしむる夢中説夢」とは、物を秤子に取り入れて、空に遊化すと云うとも、尋常の秤にて物をかくる定めには不可心得。夢中説夢程の理なりと云う歟。「空裏」と云えば、又空を置きて其の内とは、不可心得。空与平(の)一物なる姿を現身と可云歟。平は実に秤子の大道なるべし。「空をかけ物をかく」とあり、空をかくる事いかにもあるべからず、但空与秤子と一物なる道理を、「空にかくとも、物をかく」とも云うべし。此の「物」と云うは、則ち「秤子」なるべし、秤子が秤子をかくべき也。

此の「秤」ぞ「平」ぞと云えば、文の違い目あなたこなたへ入れ違えて、心得にくし。仮令仏法にて蹔く此の段を心得ば、把定して放行しても、仏性の蚯蚓を可学。学得するに必ず、悉有狗子あらわれて、夢中説夢し出づる也。狗子を論ぜず、仏性に至らざれば仏性の見成なし。仏性を得るに仏性を見る也。すでに仏性を得る所、物によらず、悉有によらず、蚯蚓によらず、法界にかかれりと云えども、仏性を得ざれば仏性を見ずと参究すべし。みづから法界にかかれるが如し。物を接取して法界に遊化せしむる夢中説夢也。如此秤子、平等の詞を仏性の調度に取り替えて心得は、此の道理も易くあらわるる也。此理三界唯一心にも、『摩訶般若』にも、何れの草子にも取り替えて、如此心得は不可有相違なり。

  • 是は空色共に平の上に談ずる所也、ゆえに「夢中説夢」と云わる。是れ則ち「解脱の夢中説夢なる」ゆえに、如此被云也。解脱ならぬ夢中説夢あるべからず。
  • 如文。「以尽大地、夢とも、平とも可心得」也、是れ則ち夢の千変万化する道理如此。彼是に渡りて談ずるに、総不向背也。是を解脱の夢中説夢とは云う也。
  • 「廻頭転脳」とは、只一頭(かしら)を以て、あなたこなたを見る程の事也。只一物があちこち被談ず姿也。此の夢の理(は)如此、此理又「無窮なるべし」。是は則ち「夢裏証夢する」程の理也。「信受奉行」と云う詞、経々の終りに定まりてある詞なり。是は今の経を

信受して、其の上に奉行すべき事を如此云う也。今の「信受奉行」と云う詞(は)、其の義にてはあるべからず。夢中説夢程の「信受奉行」なるべし。信受是夢也、奉行是夢也。ゆえに夢中説夢の道理に等しき詞と可心得也。

 

  釋迦牟尼佛言、

  諸佛身金色 百福相莊嚴 聞法爲人説 常有是好夢

  又夢作國王 捨宮殿眷屬 及上妙五欲 行詣於道場

  在菩提樹下 而處師子座 求道過七日 得諸佛之智

  成無上道已 起而轉法輪 爲四衆説法 徑千萬億劫

  説無漏妙法 度無量衆生 後當入涅槃 如烟盡燈滅

  若後惡世中 説是第一法 是人得大利 如上諸功徳

 而今の佛説を參學して、諸佛の佛會を究盡すべし。これ譬喩にあらず。諸佛の妙法は、たゞ唯佛與佛なるがゆゑに、夢覺の諸法、ともに實相なり。覺中の發心修行菩提涅槃あり。夢裏の發心修行菩提涅槃あり。夢覺おのおの實相なり。大小せず、勝劣せず。

 しかあるを、又夢作國王等の前後の道著を見聞する古今おもはくは、説是第一法のちからによりて、夜夢のかくのごとくなると錯會せり。かくのごとく會取するは、いまだ佛説を曉了せざるなり。夢覺もとより如一なり、實相なり。佛法はたとひ譬喩なりとも實相なるべし。すでに譬喩にあらず、夢作これ佛法の眞實なり。釋迦牟尼佛および一切の諸佛諸祖、みな夢中の發心修行し、成等正覺するなり。しかあるゆゑに、而今の娑婆世界の一化の佛道、すなはち夢作なり。七日といふは、得佛智の量なり。轉法輪、度衆生、すでに徑千萬億劫といふ、夢中の消息たどるべからず。

 諸佛身金色、百福相莊嚴、聞法爲人説、常有是好夢といふ、あきらかにしりぬ、好夢は諸佛なりと證明せらるゝなり。常有の如來道あり、百年の夢のみにあらず。爲人説は現身なり、聞法は眼處聞聲なり、心處聞聲なり。舊巣處聞聲なり、空劫已前聞聲なり。

 諸佛身金色、百福相莊嚴といふ、好夢は諸佛身なりといふこと、直至如今更不疑なり。覺中に佛化やまざる道理ありといへども、佛祖現成の道理、かならず夢作夢中なり。莫謗佛法の參學すべし。莫謗佛法の參學するとき、而今の如來道たちまちに現成するなり。

詮慧

釈迦牟尼仏言段 「諸仏身金色・・如上諸功徳」

「金色福荘厳と云う、法を説くには聞法為人説、常有是好夢と云いつれば、今夢これなり」、是等の文を見ても、教の方には、されば夢中の権化とて、有為報仏にてこそあれ、無作の三身は、覚前実仏と云うとぞ心得れども、今は此夢を実仏と取る也。無作と取る也、一乗の法なるゆえに、説法を云うに、「又夢作国王、捨宮殿眷属、及上妙五欲」と云う時、又今夢あり、是好夢也。世間の夢に不可准。四安楽の行人夢に唱八相と云う、是はあらんずる事を兼ねて、夢に見ると云う心地也。しかにはあらず、夢をやがて正と説くべし。たとえにあらず、端相にあらず。「常有是好夢」なり、法は好夢なるべし。

〇「過七日、得仏之智、成無上道」と云う、「為四衆説法、徑千万億劫」と云う、この二つの仏言(は)似相違。但し「七日」と説くも、人間界の七日にあらず、「諸佛之智、転法輪」のあいだ也。「法輪」もとより始めなく終りなし、ゆえに「七日」と限るは、只「転法輪」の時刻也。「千万億劫」と云うも、世間に談ずる年月劫にてはなし。無際限事をしばらく「億劫」と云う也。無量恒河沙などと云うが如し。

〇「烟尽燈滅」と云うは、仏涅槃の事也。薪にて焼き賜わり死し事也。祖仏の滅は、教にも

覰見の不同と談ず也。常在霊鷲山と云うゆえに。

〇「心処聞声」と云うは、眼処聞声、方得知と云う心也。

〇「夢覚の諸法ともに実相也」と云うは、夢と覚と二つを挙げて云う也。実相の一の上に置きて、夢をも建立し、覚をも建立すべし。

〇「莫謗仏法」と云うは、仏をば謗る事なし、仏法莫謗の道理也。仍て「参学するとき如来道現成なり」。

経豪

  • 此の『法華』の文(「安楽行品」「大正蔵」九・三九下・注)を打ち任せて心得様は、聞法為人説の力によりて、夢中に如経文、かかる好夢を見るべしと心得。然者実(に)始終益の有らんずらん事は、さこそ有らんずらめども、醒めて後は頗る不可有正体事也。今の所談非爾、これ譬喩にあらず。諸仏の妙法只唯仏与仏なるゆえにとあり、分明也。
  • 夢は無実性、実体なき物。覚こそいみじけれ(すばらしい・注)、実なれとのみ思い付きたり。是は凡夫の上の見解、不是用。「夢覚共に実相也」と談ずなり。「覚中の発心、修行、菩提、涅槃は勝り、夢裏の発心、修行、菩提、涅槃は劣也」と思わぬべき所を共に出でて、「おのおの実相也、大小勝劣に非ず」と被釈なり。
  • 「夢覚共に如一也、実相也」と談ずる上は、夢は只儚き物、覚後はうつつ(現)と難是非。「たとい譬喩言ありとも、仏法には是を実相と談ず」。其の上今の経文全て非譬喩義、夢相を仏法の真実と談ず也。
  • 今の夢を以て、「諸仏諸祖とも、発心修行、成等正覚とも」談ず也。ゆえに如此云うなり。
  • 「一化の仏道を今は夢作也」と可心得也。今経に「七日」と云うは、我等が非七日、得仏智の量なるべし。然者百千万億劫と云わんが如し、不可有辺際七日也。「転法輪、度衆生、すでに徑千万億劫」と云う、是は夢中の蹔時の事なれども、如此「徑千万億劫と見、夢中の消息たどるべからず」とは、是を疑う事なかれと云う心なり。
  • 是は吉夢を感じたるとこそ心得に、此の「好夢をやがて諸仏也と証明せらるるなり」とあり。大いに日来の見に違するものなり。
  • 是は常有是好夢とある、「常有」を被釈也。此の常有是好夢とある、「百年の夢のみにあらず」、夢は蹔時なるようなれども、此の好夢已に諸仏也と談ずる上は、実(に)「百年の夢のみにあらず」、無辺際夢なるべし。「為人説」とあれば、為人説かと覚えたれども、此の「為人」の人は「現身也」とあり、不可有不審。「聞法は眼処聞声」とあり、此の「聞法」(は)能聞所聞にあらず。眼処聞声なり、眼処を聞声とするゆえに、又必ず(しも)眼処許りを聞声と不可談。「心処聞声、旧巣処聞声、空劫已前聞声の道理もあるべし」と也。
  • 如文。所詮「好夢は諸仏也と云う事」を、不可疑と云う也。
  • 「覚中にこそ仏化はあれ」、夢中は徒事なりと思うを、此の旧見を被破なり。「仏祖の道には、必ず夢作夢中」を以て仏祖と習うなり。
  • 如文。此の詞無術事也。不及力、小乗権門の見に成りぬれば、別して「謗法せん」とは争か思うべきなれども、自然に見解だにも仏法に違えば、「謗法となる」なり、能く可斟酌事也。「莫謗の参学」と云わんは、今の夢中説夢の道理なるべし。

夢中説夢(終)

2022年8月1日 雨季の泰国にて 記

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。