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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十九 山水経 註解(聞書・抄)

正法眼蔵 第二十九 山水経 註解(聞書・抄)

 

 而今の山水は、古佛の道現成なり。ともに法位に住して、究盡の功徳を成ぜり。空劫已前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。山の諸功徳高廣なるをもて、乘雲の道徳かならず山より通達す、順風の妙功さだめて山より透脱するなり。

詮慧

〇「山水」衆生の依正と見る時こそあれ、大地有情同時成道と談ずる上、「山水」も日来の山水にあるべからず。「経」の字は聖教の都て(の)名なり。

〇行住坐臥の様、世間にも種々也。今の青山の歩みの様、審細に可了見也。如世間、山が働き歩みたらんも、只一旦の不思議、目を驚く許りなり。更に無其詮、石女が児を生ぜんも亦同じ。法華の序分に、地六種に震動(『法華経』方便品「大正蔵」九・二b一二・注)すなんと云う。たとえば東の地上がれば西は下がり、南の地上がれば、中の地高くなると云うも、詮は大地有情同時成道と体脱すべし。牆壁瓦礫を仏心ぞなどと云う。是今の青山の運歩なるべし、庭前柏樹の動は祖師意なるべし。

〇修行と云わんも、只徒らに足に運ぶ許りにてはあるべからず。初地より二地三地へ進む、是修行也。いたづらなる行にはあらず。仏法には三界を一心と知る運歩なるべし。諸法を実相と知る運歩なるべし。

〇諸法が仏法なるゆえに、「山水」も仏性也と云うぞと、邪解しぬべし。しかにはあらず、「古仏道と云い、空劫已前の消息と云い、朕兆未萌の自己」と云いつれば、世間の山水に超越する事勿論也。仏法の上に心を付けて見るべし。ただ世間の諸法とは不可思。「空劫」は成住壊空の四劫の内より、然者父母未生と云う同心也。又成劫已前とも、住劫已前とも云わんが如し。

〇入山修道と説くは、山に入りて後、道を修する詞とのみ聞く、入山与修道二つにてはなし。修道の所がやがて入山なる事を可心得也。修道の分際なければ、山の縦横もいか程と難知。

〇「乗雲の道徳、順風の妙功」と云うも、山に付きたる詞、山に付きて明らむべき也。「乗雲」と云う詞、仙人もしは、僧にも付けて云う。是はただ山の説法なれば、「乗雲の道徳」とも、又「順風の妙功」とも云うなり。雲を僧の名に付けて云う事は、如雲に集まり、如雲に散ずるゆえと世間に思えたり。是は非本意、散空して蹤跡なき物と覚えれども知らず。雲の蹤跡いかようにか有るらん、水の蹤跡も、山の蹤跡も、非一様は難定。尽十方界真実人体と云い、三界唯一心と云うこそ、雲衲の道理にてあれ。

経豪

  • 今「而今」と指すは、仏法の上を云う也。此の詞の如きは、古仏の山水と云う事を説かれたるかと聞こゆ、非能説所説義べし。「今の山水がやがて古仏の道現成」と現るる也、非仏口業。仍て「究尽功徳を成ぜり」とは云うなり。又「空劫已前」と云えば、只久しく遥かなる事を云うかと覚ゆれども、是は只機に可対所なく、只仏の本懐などと云わん程の事也。只所詮以解脱姿、「空劫已前の消息」とは可云歟、「朕兆未萌の自己」と云うも、空劫已前と云う詞と同じ也。
  • 「山の功徳高広なる間、乗雲とも談じ、順風とも」山にたよりある詞共を以て、山水の功徳を表わさる也と可心得べし。

 

 大陽山楷和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生兒。

 山はそなはるべき功徳の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり。その運歩の功徳、まさに審細に參學すべし。山の運歩は人の運歩のごとくなるべきがゆゑに、人間の行歩におなじくみえざればとて、山の運歩をうたがふことなかれ。

 いま佛祖の説道、すでに運歩を指示す、これその得本なり。常運歩の示衆を究辦すべし。運歩のゆゑに常なり。青山の運歩は其疾如風よりもすみやかなれども、山中人は不覺不知なり、山中とは世界裏の花開なり。山外人は不覺不知なり、山をみる眼目あらざる人は、不覺不知、不見不聞、這箇道理なり。もし山の運歩を疑著するは、自己の運歩をもいまだしらざるなり、自己の運歩なきにはあらず、自己の運歩いまだしられざるなり、あきらめざるなり。自己の運歩をしらんがごとき、まさに青山の運歩をもしるべきなり。

詮慧

〇大陽山楷和尚段

「和尚示衆云、青山常運歩、石女夜生児」、この詞世間には有るまじき事のように聞こゆ。これを仏法の心地を示すと思うて見ん時、いかなるべきぞ。たとい山歩み、石生子とても、なにの詮か有るべき。日来の見の驚く許り也。仏法に法性と説き真如と説くに、何れなる事か有る。されども是に功徳備わり、道を得る事可有は、今の「青山常運歩」の詞も、「石女夜生児」の詞も、何れも無得益哉。生児事、胎卵湿化不同なり。石の生ずらん事如何、是を截断衆流の句と云う非なり。世間に血肉を受けて子と称ずると、仏法に一句半句を得て子と云うと、是等を以ても能々心得べし。「今此三界皆是我有、其中修行悉是吾子」(『法華経』譬喩品「大正蔵」九・一四c二六・注)と云う。又三界唯一心とも云い、諸法実相と云う。是等にて子の有様を見るべし、又草木国土悉皆成仏と説く。此の時又何れが父なるべき。大地有情同時成道と説く、このとき「石女夜生児」なるべき歟。

〇「山の歩み、石女の生児」も、分々の見解、能々可思い合す也。百足(むかで)の足、馬の脚の如しと説かん時、百足を見て馬を未知衆生あらば、馬の足は百足と心得。馬を見て未だ百足を見ざらん衆生あらば、百足の足四ある物とぞ知らんずる。この如の字は、ただ馬は馬の如く、百足は百足の如しと、足を心得べし。たとえば心仏及衆生の文を、心の程に仏も衆生もあると心得てこそ、是三無差別とも悟れ、心仏衆生三の物を一に心得なす様には云うべからず。所詮此の「青山常運歩、石女夜生児」の詞を、日来の見をだにも離れば、仏法の方にては、少しも不可驚、不可不審事也。

〇この山水古仏也と可心得、そのゆえは古仏の道現成なりとは云うなり。道現成は仏身也、諸法をこそ仏身とも習え。しかれば仏身也、仏身ならんには、山水の放光現瑞せんすること不可疑。謂わんや歩みを運ばんをや。

〇「夜生児」と云う、「夜」は如人夜間の言にても、可思合なり。抑も又昼夜の詮あるにはあらず、道理の隠れたるようにも、聞こゆるに付けて、「夜」の字は加えたるか。

〇「山の運歩は人の運歩の如くなるべきがゆえに」と云うは、此の「人」は我等が事にてはなし、平常人歟。尽十方界真実人体の「人」歟。「山の運歩」に等しめば如此可心得也。世間の山は不動の物と心得、それは三界に仰いで、九山ぞ須弥ぞと云うまでこそあれ、それなを壊劫の説き得すと云う。地震と云う事ある時、大地山河皆動ず、眼前の法すら如此。まして仏道の山の運歩推して疑わざれ。

〇仏は往反すとも云う、不動不転とも云う。ともに化道の義なり、偏(ひとえ)に落つべからず。

〇「山中人は不覚不知也」と云うは、此の「山中人」は人の山に入りたるとは心得まじ。三界を心としたる人が、若しは尽十方界を体としたる人かと心得也。そのとき「不覚不知也」、世間の只起界の様を立つるにも、毘嵐風吹いて、国土は木の葉の如く散ずなれども、不知して衆生は住みたる事もあり、不知事は如此あるなり。

〇「世界裏の花開」とは、世間人(の)悟道程の事也。ゆえに人与山不可対、仍不見とは云う也。「山外人」と云うも、所詮如上也。門外の法に拘わらざる処を云う也。

〇「自己の運歩をも、いまだしらず」と云うは、この「自己」と云うは、山の運歩を自己と習うべき也。

経豪

  • 是は芙蓉道楷禅師(の)事也。「青山常運歩、石女夜生児」の詞、驚耳すべし。実(に)能々審細に可参学事也。無審細参学は、驚疑怖畏の分はありとも、其の理は現るべからざるものなり。
  • 「山の運歩は人の運歩の如し」とある、「人」は尽十方界真実人体の「人」なるべし。実にも人間の行歩の如く見ざればとて、疑う事あるべきにあらず。
  • 如文。
  • 「世界裏の花開」とは、山与世界が同じ程なる也。山は狭(せば)く、世界は広きにあらず、運歩する常なるべし。「其疾如風」とは、此の青山の運歩の道理、始中終に関わらず。

青山常運歩ならぬ時刻、片時もなき所を、「其疾如風」とは云うなり。山ならぬ所あるべからざる道理なるゆえに、「不覚不知なるべし」。「山中人」とは、やがて以山人と談ず也。別人のあるにあらず、ゆえに「不覚不知也」。「山外人」とは、又山の外に外人あるべきにあらず、山中の上には「山外人」と云う事もあるべし。是は只山の上の中外なるべし、是又「不覚不知の道理」なり。此の「青山常運歩」を明らめん眼目ならざらん人は、「不覚不知、不見不聞なるべし」と云う也。是は凡見に仰ぎての不覚不知、不見不聞等なるべし。

  • 如文、無別子細。此の「自己」は仏法の自己也。

 

 青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま青山の運歩を疑著せんことうべからず。いく法界を量局として青山を照鑑すべしとしらず。青山の運歩および自己の運歩、あきらかに撿點すべきなり。退歩歩退、ともに撿點あるべし。

 未朕兆の正當時、および空王那畔より、進歩退歩に運歩しばらくもやまざること、撿點すべし。運歩もし休することあらば、佛祖不出現なり。運歩もし窮極あらば、佛法不到今日ならん。進歩いまだやまず、退歩いまだやまず。進歩のとき退歩に乖向せず、退歩のとき進歩を乖向せず。この功徳を山流とし、流山とす。

 青山も運歩を參究し、東山も水上行を參學するがゆゑに、この參學は山の參學なり。山の身心をあらためず、やまの面目ながら迴途參學しきたれり。

 青山は運歩不得なり、東山水上行不得なると、山を誹謗することなかれ。低下の見處のいやしきゆゑに、青山運歩の句をあやしむなり。少聞のつたなきによりて、流山の語をおどろくなり。いま流水の言も七通八達せずといへども、小見小聞に沈溺せるのみなり。

 しかあれば、所積の功徳を擧せるを形名とし、命脈とせり。運歩あり、流行あり。山の山兒を生ずる時節あり、山の佛祖となる道理によりて、佛祖かくのごとく出現せるなり。

詮慧

〇「進歩退歩蹔くもやまず」と云えば、世間の行歩こそ、止り進む事もあれ、仏法の「歩」は蹔くも止まずと心得也。

〇「東山水上行」と云うは、この行は仏行也。「東」の字は南西北に対して云うにはあらず。山はみな「東山」と云う也。「所積の功徳を挙せるを形名とし、命脈とせり」と云うは、今の「山水経」のあり様なり。

経豪

  • 山は非情、自己は有情とこそ思い習わしたるに、今の詞は相違す。然而青山の理(は)、有情非情を超越した上の談也、仍如此云也。
  • 今青山運歩の道理、辺際なき処を、「幾法界を量局として」とは云う也。
  • 此の自己と云わるる上に、「退歩歩退の道理あるべき」事を云う也。其れと云うは、以山退歩とも歩退とも仕う也。所詮「未朕兆の正当時、及び空王那畔より、進歩退歩に運歩しばらくも止まず」とは、此の進歩退歩が、いづくか始め終りと云う際限を超越したるなり。法の際限なき道理を、「未朕兆とも空王那畔とも」云う也、非久義。
  • 運歩もし蹔くも休する道理なく、窮極の義なき所」を如此被釈也。
  • 進歩退歩非各別上は、「進歩も退歩も乖向すべからず、退歩も進歩も乖向すべからざる」道理也。一法の究尽する姿を如此被釈也。此理を以て「山流とも流山とも」可談也。
  • 文に聞こえたり、東山与運歩(の)一体にして、中あしからぬ道理が、如此云わるる也。
  • 「参学」は人の作業とこそ思うに、是は山が山を参学する也。此の道理が「迴途参学し来たれり」とは云うなり。
  • 是は山は争か運歩すべき、東山は争か水上行すべきと「誹謗する事なかれ」と、凡夫の邪難を被破なり。
  • 如文。
  • 実にも我等が見所の流水は、常の事なるに依りて、不驚とも、つやつや流水の道理いかなるとも、「七通八達せざるなり」(は)、只旧見に任せて不驚許り也。
  • 「所積の功徳」とは、右に云う運歩、流行、山の山児、山の仏祖となると等、各々の所挙を云うなり。是等皆「山の所積の功徳」なるべし。

 

 たとひ草木土石牆壁の見成する眼睛あらんときも、疑著にあらず、動著にあらず、全現成にあらず。たとひ七寶莊嚴なりと見取せらるゝ時節現成すとも、實歸にあらず。たとひ諸佛行道の境界と見現成あるも、あながちの愛處にあらず。たとひ諸佛不思議の功徳と見現成の頂□(寧+頁)をうとも、如實これのみにあらず。各々の見成は各々の依正なり、これらを佛祖の道業とするにあらず、一偶の管見なり。

 轉境轉心は大聖の所呵なり、説心説性は佛祖の所不肯なり。見心見性は外道の活計なり、滯言滯句は解脱の道著にあらず。かくのごとくの境界を透脱せるあり、いはゆる青山常運歩なり、東山水上行なり。審細に參究すべし。

 石女夜生兒は、石女の生兒するときを夜といふ。おほよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理しるべし。生兒のときは親子竝化するか。兒の親となるを生兒現成と參學するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なりと參學すべし、究徹すべし。

詮慧

〇「天を補し、地を補す。天石あり、地石あり」と云う、「補す」と云う事は助くると也。天を助くと心得事は、「石」を以て今仏道を云う時、「男石女石」と云う。」石女」と云うに付けて、「夜生児」と云い、石女の詞に被引て、「男石」も出でく。「非男女石」(も)、又以ても、今は天を解脱し、地をも解脱すべし。ゆえに「補す」と云う。是れ「天石なるべし、地石なるべし」。

〇「生児の時、は親子並化」と云うは、児の親となるか、親の児となるかと云う。「今此三界皆是我有、其中衆生悉是吾子」(『法華経』譬喩品「大正蔵」九・一四c二六・注)と云う(は)、仏身の三界と云う。されば何れが父、何れが子、ゆえに如此説くなり。

経豪

  • 所積の功徳の各々に、今至さるるが如く、現成すとも「疑著すべからず、動著すべからず」となり。「たとい七宝荘厳也とも、たとい諸仏行道の境界なりとも、たとい諸仏不思議の功徳也とも是等に止まり愛すべからず」と云う也。是は只一法に止まりて、所積山の功徳・七宝荘厳許り也、乃至諸仏行道の境界等許りに止まりて、是許りと思う事なかれ。是は各々の「見成は各々の依正なり、是等を仏祖の道業とするにあらず、一偶の管見なり」と云うなり。
  • 「転境転心の詞より、滞言滞句までの詞」は、被嫌う詞なり。是は転彼して是に為すなどと云う心地也。喩えば山は人間の調度なれば、彼を転じて仏体と談ぜんとも、乃至牆壁は卑しき調度なれば、彼を転じて金と為さんとも云わんずる心地を、今は被嫌なり。只青山運歩の詞を働かさず、是を彼に転ずると云う事もなくて、すぐに談ずるに何の不足か有らん。此の道理を「如此(かくのごとく)の境界を透脱せる」とは云う也。
  • 「石女」とは、子(が)生まれざる女を云う歟。但し此の「石女」とは石を云う歟。「夜生児」と云えばとて、昼夜の夜にあらざる歟。「石女の生児する時を夜と云う」、ゆえに石女の生児する姿いかなるべきぞ(と)、奥に委しく被釈之。所詮胎内より小児を生ずる義にてはあらず。只以石女当体、夜生児と談ず歟。東山運歩程の石女夜生児なるべし。「男石非男女石」とは、石女の道理の上に、例(の)如此の功徳荘厳可有歟。「天を補し地を補し、天石地石等」事(は)、俗の詞に似たりも、如此理ありと次に引出也。
  • 文に聞こえたり。「親子並化するか」とは、相並ぶかと云う心也。「児の親となると云うと、親の児となる」と云うとは、文字の上下したる許り也、只同事歟。子が親となり、親が子となる道理(と)、只同じかるべき也。石女の親となし、児となす(は)、不可有差別歟。

 

 雲門匡眞大師いはく、東山水上行。

 この道現成の宗旨は、諸山は東山なり、一切の東山は水上行なり。このゆゑに、九山迷廬等現成せり、修證せり。これを東山といふ。しかあれども、雲門いかでか東山の皮肉骨髓、修證活計に透脱ならん。

 いま現在大宋國に、杜撰のやから一類あり、いまは群をなせり。小實の撃不能なるところなり。かれらいはく、いまの東山水上行話、および南泉の鎌子話ごときは、無理會話なり。その意旨は、もろもろの念慮にかゝはれる語話は佛祖の禪話にあらず。無理會話、これ佛祖の語話なり。かるがゆゑに、黄檗の行棒および臨濟の擧喝、これら理會およびがたく、念慮にかゝはれず、これを朕兆未萌以前の大悟とするなり。先徳の方便、おほく葛藤斷句をもちゐるといふは無理會なり。

 かくのごとくいふやから、かつていまだ正師をみず、參學眼なし。いふにたらざる小獃子なり。宋土ちかく二三百年よりこのかた、かくのごとくの魔子六群禿子おほし。あはれむべし、佛祖の大道の癈するなり。これらが所解、なほ小乘聲聞におよばず、外道よりもおろかなり。俗にあらず僧にあらず、人にあらず天にあらず、學佛道の畜生よりもおろかなり。禿子がいふ無理會話、なんぢのみ無理會なり、佛祖はしかあらず。なんぢに理會せられざればとて、佛祖の理會路を參學せざるべからず。たとひ畢竟じて無理會なるべくは、なんぢがいまいふ理會もあたるべからず。しかのごときのたぐひ、宋朝の諸方におほし。まのあたり見聞せしところなり。あはれむべし、かれら念慮の語句なることをしらず、語句の念慮を透脱することをしらず。在宋のとき、かれらをわらふに、かれら所陳なし、無語なりしのみなり。かれらがいまの無理會の邪計なるのみなり。たれかなんぢにをしふる、天眞の師範なしといへども、自然の外道兒なり。

詮慧

〇「匡真大師いわく、東山水上行」、是を「道現成」と云う。又「諸山を東山」と仕うべし。これ東西等(の)方角にあらず、「光照東方万八千土」(『法華経』序品「大正蔵」九・四a一八・注)と経に明かす。仏の光隔つる所なし、東方一方を照らすべからず。余方亦然と云う、尽界皆照と心得なり是程の「東山」なり、又「山は必ず水上行」と心得なり。

〇「小実の撃不能なるところなり」と云うは、古き詞に「多虚不如少実」(『雲門広録』「大正蔵」四七・五四八c一五・注)と云う事あり。実にも虚しき事の多からんよりは、少しきならん実は大切也。「撃不能」は、なきと云う心なり。悪からん一類の群を為さんよりは、善からんものの少なからんば勝るとなり。

〇「外道よりも愚かなり、俗にあらず僧にあらず、人にあらず天にあらず、学仏道の畜生よりも愚かなり」と云う、学仏道の畜生とは如何なるべきぞ、畜類聞法得道其数多、五百蝙蝠、一千の遊漁の試しあり、龍女成仏非畜類哉。『梵網経』には「畜生乃至変化人」(「大正蔵」二四・一〇〇四b九・注)とこそあれ、法師の詞を聞けば、悉く「第一清浄者」(「同経同所b一〇・注」と許さる、勿論なり。

〇「念慮の語句なる事を知らず、語句の念慮を透脱する事を知らず」とは、凡夫が念慮の及ぶまでを語句として、或いは如何是仏と云われて、挙喝行棒する。何れとも不心得ればとて、是を無理会語と名づく(は)迷い也、仏祖の語句は念慮知覚を透脱するなり。「無理会語」と云う事、こなたには無理と仕うべき事ありとも、この「無」の字は有に対したる無にあらず。無仏性の「無」なり。「念慮を透脱」と云うは、今の石女夜生児なり。

経豪

  • 「東山水上行」の詞、又珍しき(すばらしい・注)。但し此の「東山」の詞、只東西南北に対したる東山にあらず、凡そ四方を立つる事は中には主を一つ置きて、四方を立つる時、東西南北あるべし。吾我を置かでは、何れに付けて四方を立つべきぞや。又今は「東山水上行、この道現成の宗旨は、諸山は東山也」と云う也、所詮諸山を以て東山と談ずべし。今の「諸山」と云うは尽界なるべし、又「一切の東山を以て水上行」と談ずべし。日来の旧見に任せたる、四方四角の山、日来思い付きたりつる水上を、打ち任せて人の行歩するように、旧見を不失して心得とき、此の詞も被驚也。「九山迷廬」も今は此の道理にて「現成せり」と云うなり。
  • 文に聞こえたり。是は人の邪見を被嫌なり。「小実の撃不能」とは、まこと少なく無実事に仕い付けたり。「南泉の鎌子話」とは、南泉普願禅師は、鎌を何時(いつ)となく、被持ちたりけり。或いは南泉の通路は何処(いづ)方へ曲がるぞと、南泉に奉問。答うに、此の鎌は三十文にて取りたる鎌也と被答たる。此の僧(は)鎌を尋ね申すにあらず、此の南泉の路を尋ね申す也と、重ねて奉問。答うに、此の鎌は善く立つなりと被答たる事ありき、此の事を被引歟。是等皆「無理会語なり」と、世人(は)云うなり。是も南泉の答えも僧の問いも何れと思い、いかが問答ありつらん難知。一向無徒事ぞと難定。祖師の問答者、徒事とは難云。「小獃子」とは、えのこ(犬子・注)を云う歟。「小乗声聞・外道等」は、たとえば真実の仏法こそ及ばねども、彼等も仮に邪見にてもあれ、理一を談ず也。争か今人の心得たる無理会語の様に、一向に徒事をば云わんずる。実にも小乗声聞外道等よりも、彼等が見を取るべき也。
  • 如今云、「教うる師範」と云う事は、いかにもあるまじきを、如此邪計し来る歟。

 

 しるべし、この東山水上行は佛祖の骨髓なり。諸水は東山の脚下に現成せり。このゆゑに、諸山くもにのり、天をあゆむ。諸水の頂□(寧+頁)は諸山なり。向上直下の行歩、ともに水上なり。諸山の脚尖よく諸水を行歩し、諸水を趯出せしむるゆゑに、運歩七縱八横なり、修證即不無なり。

 水は強弱にあらず、濕乾にあらず、動靜にあらず、冷煖にあらず、有無にあらず、迷悟にあらざるなり。こりては金剛よりもかたし、たれかこれをやぶらん。融じては乳水よりもやはらかなり、たれかこれをやぶらん。しかあればすなはち、現成所有の功徳をあやしむことあたはず。しばらく十方の水を十方にして著眼看すべき時節を參學すべし。人天の水をみるときのみの參學にあらず、水の水をみる參學あり、水の水を修證するゆゑに。水の水を道著する參究あり、自己の自己に相逢する通路を現成せしむべし。佗己の佗己を參徹する活路を進退すべし、跳出すべし。

詮慧 水段。

〇「強弱湿乾、動静冷煖、有無迷悟にあらず」と云うは、解脱の義を指すなり。「凍りては金剛よりも硬し、乳水よりも柔らか也」。「誰か是を破らん」と云う。「金剛・乳水共に破らん」と仕う事は、人間界の力にては、破り難しとなり、仏道の水を謂わんとなり。「十方の水を十方にして著眼看すべきなり」と云う、是は諸類世間の水也。「水の水を澄す」と云うは、やがて水の澄也。仏法の道理(の)自他なき所を云う。

経豪

  • 「諸水皆東山の脚下に現成せり」とは、此の「諸水が東山」なる道理なるべし。此の「諸水」の究尽の理、「雲に乗り天を歩む」と云わるる也。「諸水の頂□(寧+頁)は諸山」歟云々、是又以山為水、以水為山、道理なるべし。山与水(は)不可各別。山水(の)各別は凡見也。更不足為仏法。此の道理が「向上直下の行歩也」とは仕う也。
  • 諸山与諸水(の)一物なる道理が、「行歩とも趯出す」とも云わるる也。故に「運歩七縦八横也」とも。所詮縦横無窮に拘わる所なき道理を如此云うべきなり。
  • 是は六祖与南嶽問答の御詞也。打ち任せて此の詞を心得には、「修証」と云う事なきにはあらず。然而此の「修証」は不染汚の修証なるゆえに、不混尋常修証を如此云う様に心得たり。此の道理も一往なかるべきにあらず、但し真実所落居は、如此云えば、猶善悪も有りぬべし。此の「修証」各別にあらず、又修証を即不無と云うにあらず、修証は本にて、即不無は詞に成りたりと聞こゆ。不可然、只「修証と即不無」とは同じ丈なるべし。修証程なる丈の即不無なるべし。山水のあわい、運歩乃至水上行のあわい(は)、修証程のあわいなり。仍て此処には「修証即不無」の詞は出で来たるか。
  • 是は日来我等が見解の水にあらざる道理顕然に聞こゆ。打ち任せたる水(は)「動静冷煖」なる物也。今は是を「非ず、非ず」と被嫌、仏水の方よりは皆被棄也。
  • 前段には凡夫所見の水にあらずと被嫌、今の詞は凡夫所見の水の姿を被明。参差(しんし・不揃い・注)したるように聞こえれども、蹔く又現所対の水の様をも一姿被説歟。但し終りに、「現成所有の功徳を怪しむ事能はず、蹔く十方の水を十方にして、著眼看すべき時節を参学すべし」とあれば、現成所有の功徳を是非して怪しみも、疑いもする事なかれ。是をば、おしやぶりて、「十方の水を十方にして、著眼看すべし」と云う道理に可落居也。
  • 前の道理は、「水の水を見、水の水を修証し、水の水を道著する」道理なるべし。「自己の自己に相逢し、他己の他己を参徹する」も、「水の水を見、水の水を修証する」理なるべし。

 

 おほよそ山水をみること、種類にしたがひて不同あり。いはゆる水をみるに瓔珞とみるものあり。しかあれども瓔珞を水とみるにはあらず。われらがなにとみるかたちを、かれが水とすらん。かれが瓔珞はわれ水とみる。水を妙華とみるあり。しかあれど、花を水ともちゐるにあらず。鬼は水をもて猛火とみる、膿血とみる。龍魚は宮殿とみる、樓臺とみる。あるいは七寶摩尼珠とみる、あるいは樹林牆壁とみる、あるいは清淨解脱の法性とみる、あるいは眞實人體とみる。あるいは身相心性とみる。人間これを水とみる、殺活の因縁なり。すでに隨類の所見不同なり、しばらくこれを疑著すべし。一境をみるに諸見しなじななりとやせん、諸象を一境なりと誤錯せりとやせん、功夫の頂□(寧+頁)にさらに功夫すべし。しかあればすなはち、修證辦道も一般兩般なるべからず、究竟の境界も千種萬般なるべきなり。さらにこの宗旨を憶想するに、諸類の水たとひおほしといへども、本水なきがごとし、諸類の水なきがごとし。しかあれども、隨類の諸水、それ心によらず身によらず、業より生ぜず、依自にあらず依佗にあらず、依水の透脱あり。

 しかあれば、水は地水火風空識等にあらず、水は青黄赤白黒等にあらず、色聲香味觸法等にあらざれども、地水火風空等の水、おのづから現成せり。かくのごとくなれば、而今の國土宮殿、なにものの能成所成とあきらめいはんことかたかるべし。空輪風輪にかゝれると道著する、わがまことにあらず、佗のまことにあらず。小見の測度を擬議するなり。かゝれるところなくは住すべからずとおもふによりて、この道著するなり。

詮慧

〇「随類の諸水、それ心によらず、身によらず、業によりて生ぜず、依自にあらず」と云う、人間の依正等の水にてあるまじとなり。

〇「地水火風空等の水、おのづから現成せり」と云うは、山水経の「水」也。世間の地水火風空等にあらず、たとえば胎卵湿化生の外に、胎卵湿化生ありと云う(は)、同心なるべし。「地」と云うも必ず(しも)世間の大地のみ不可思。心地とも云う、仏地とも云う。詞も区々(まちまち)なるべし。

〇「かかれる所なくば、住すべからずと思う」と云うは、「かかる」は住也とのみ思うゆえなり。空にかかるもあり、逆さまに住する、異類異形多し。

経豪

  • 如文。天人は雷声をば音楽と聞こうる、雨をば妙花の降ると見る。実に諸見の不同、毎事難定事也。「殺活の因縁」とは、生き死ぬと云う詞也。此の各々の所見(が)、「殺活」の道理なるべし。
  • 実に諸類の見解、不一巡上は、「一境が諸見しなじな也」と云うべきか。又「諸象を取り集めて、一境也」とすべきか。尤も不審也、非仏法所談は、凡見の上にては、総て此義難是非事なり。
  • 「修証辦道も、只一二と思うべからず」無尽なるべし、「究竟の境界も、又千種万般なるべし」。打ち任せて人の思うは、宗々(かずかず)入門区々(まちまち)なれども、只究竟の理は一也と心得たり。不可然、入門しなじな(品々)ならば、究竟もしなじななるべし。喩えば正法眼蔵の第一『現成公案』より、七十五帖『出家』に至るまで、しなじなの法門あり、皆是究竟ならずと云う事なし。又七十五帖、しなじな有るようなれども、只一法の理なるべし、此理なるべし。
  • 実にも諸類の水一物を置きて、諸類水と見るはあるべきに、或いは猛火と見、或いは瑠璃と見、或いは宮殿と見、或いは七宝摩尼と見、乃至樹林牆壁、又清浄解脱の法性と見る上は、実に「本水なきが如し」何れをか本水と定むべき、「諸類の水なきが如く」なる道理顕然也。
  • 前に所明の随類の諸水の姿、心にも身にも依らず、業よりも生ぜず、依自他等にあらず、如此談ずれば、「依水の透脱となるなり」と者(は)、解脱の理也と云うなり。
  • 「地水火風空識、青黄赤白黒、色声香味触法にはあらず」と被嫌、然而地水火風空等の水、おのづから現成せりとは被嫌方は、凡夫所具の五大五色六触等也。今の「地水火風空等の水、おのづから現成せり」と云う方は、解脱の五大等なるべし。
  • 而今の国土宮殿、何物の能成所成と明らめ云わん事かたし。空輪風輪等にかかれる」と云うは、「自他のまことあらず」。ゆえに「小見の測度を擬議する也」とあり。小乗等の正像さまざま器世間の様を説くと云うも、皆「小見の測度なるべし」。今の理に不可及、天地懸隔と云いつべし。如文、空輪風輪等なくば、「かかるべき所なく、住すべき所なしと思う見に依りて」、此の道著は出で来る也と云うなり。

 

 佛言、一切諸法畢竟解脱、無有所住。

 しるべし、解脱にして繋縛なしといへども諸法住位せり。しかあるに、人間の水をみるに、流注してとゞまらざるとみる一途あり。その流に多般あり、これ人見の一端なり。いはゆる地を流通し、空を流通し、上方に流通し、下方に流通す。一曲にもながれ、九淵にもながる。のぼりて雲をなし、くだりてふちをなす。

 文子曰、水之道、上天爲雨露、下地爲江河。

 いま俗のいふところ、なほかくのごとし。佛祖の兒孫と稱ぜんともがら、俗よりもくらからんは、もともはづべし。いはく、水の道は水の所知覺にあらざれども、水よく現行す。水の不知覺にあらざれども、水よく現行するなり。

 上天爲雨露といふ、しるべし、水はいくそばくの上天上方へものぼりて雨露をなすなり。雨露は世界にしたがうてしなじななり。水のいたらざるところあるといふは小乘聲聞教なり、あるいは外道の邪教なり。水は火焔裏にもいたるなり、心念思量分別裏にもいたるなり、覺智佛性裏にもいたるなり。

詮慧 仏言段

〇「一切諸法畢竟解脱、無有所住」、この言を見るに、「一切諸法が解脱也」と云う事不可疑。ゆえに諸法実相とも談ず。「解脱」と云うに付いては、迷妄の法を置いて解脱すると思う。是は二乗三乗外道も、皆分々解脱すとは心得。今は仏法を解脱と指す、不対迷也。「諸法住位」と云うは、先に「一切諸法を畢竟しては解脱と云う、解脱は又無有所住」と云う、ゆえに替えして心得ときは、「無有所住は住位」と説かるる也。経言、「安住実智中、我定当作仏」(『法華経』譬喩品「大正蔵」九・二b六・注)、これは到るべき所に至るも、住可知事を知るも住となり。必ず(しも)起居に付きたる住とばかり不可思。「諸法の住位」は無有所住なり。尽十方界真実人体と云うも、一切諸法畢竟解脱、無有所住、尽十方界眼睛とも、鼻孔とも云う、皆無所住なるべし。

〇「所知覚不覚とも云い、現行とも」云えば、又もとより水非情の法なれば、知らずと解しつべし。それも謂われなし。衆縁和合の法、たとえば人と成りて物を分別するに似たれども、眼何として物を見ると云う(は)、謂われも知らず、少(小?)人何として成長すとも、覚えざるが如く也。正法と云うは、地水火風空(有情なり、正法なり)、依法と云うも地水火風空(非情なり、依法なり)。

〇「水は火焔裏にも至るなり、心念思量分別裏にも至るなり、覚智仏性裏にも至るなり」と云うは、すべて五大一一互具して、隠る事なき道理を如此説く也。心外無別法と云う時、いかなるべきぞ、煙は水と為ると云う事あり、水火互融すと知るべし。

経豪

  • 此文釈の面、前後参差(しんし・不揃い・注)して聞こゆ。「仏言は一切諸法畢竟解脱、無有所住」とあり、御釈にも「解脱して繋縛なしと云えども、諸法住位せり」とあり。相違して聞こゆ、但し無有所住の理は諸法住位なるべし。此の「無有所住」と云う詞、只可住所のなくて、浮かれたる様にて、無有所住と云うにはあらず。只法体が一法に不止道理が、「無有所住」と云わるる也。此の道理は又「諸法住位」の道理なるべし、即不中の理なるべし。「水を流注して不止と見る一途あり」と(の)文(は)実(に)顕然事也。「全人見の一端也」とある上は無不審、又当事現前存知無疑事也。「その流れに多般あり」とは、左に被出各々御釈事也。
  • 多般ありと被云、是等事歟。「地を流通し、空を流通す」などと云う詞、世間にはなしと難云歟。但し如此の所談も、内外典にも有之歟。尤不審也、追可尋決。
  • 是は「水は江河大海にのみ有りと知之、而俗猶如此云う」に、仏道に争か水の縦横究尽の理なからんと云わん料りに、是等の詞を被引出也。
  • 実にも「水必ずしも所知覚、不所知覚にあらざれども」、現行する道理顕然なり。
  • 「上天為雨露」と云うは、水の上天総て際限あるべからず。「雨露は世界に随うて品々(しなじな)」とは、或いは妙花と見るもあり、餓鬼は猛火と見るらん、如此各々あるべき也。
  • 『倶舎』等には、水の不致所を立て、風の不致所を云う。是は「小乗声聞教の所談あり、外道の邪教也」と被下なり。
  • 是は今仏祖の所談の水、如此なるべし。是は則ち「火焔裏、乃至心念思量分別裏」を、やがて水と談ずるゆえに如此云也。

 

 下地爲江河。しるべし、水の下地するとき、江河をなすなり。江河の精よく賢人となる。いま凡愚庸流のおもはくは、水はかならず江河海川にあるとおもへり。しかにはあらず、水のなかに江海をなせり。しかあれば、江海ならぬところにも水はあり、水の下地するとき、江海の功をなすのみなり。

 また、水の江海をなしつるところなれば世界あるべからず、佛土あるべからずと學すべからず。一滴のなかにも無量の佛國土現成なり。しかあれば、佛土のなかに水あるにあらず、水裏に佛土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかゝはれず、法界にかゝはれず。しかも、かくのごとくなりといへども、水現成の公案なり。

 佛祖のいたるところには水かならずいたる。水のいたるところ、佛祖かならず現成するなり。これによりて、佛祖かならず水を拈じて身心とし、思量とせり。

 しかあればすなはち、水はかみにのぼらずといふは、内外の典籍にあらず。水之道は上下縱横に通達するなり。しかあるに、佛經のなかに、火風は上にのぼり、地水は下にくだる。この上下は、參學するところあり。いはゆる佛道の上下を參學するなり。いはゆる地水のゆくところを下とするなり。下を地水のゆくところとするにあらず。火風のゆくところは上なり。法界かならずしも上下四維の量にかゝはるべからざれども、四大五大六大等の行處によりて、しばらく方隅法界を建立するのみなり。無想天はかみ、阿鼻獄はしもとせるにあらず。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。

詮慧

〇「一滴の中にも無量の仏国土現成なり。仏土の中に水あるにあらず、水裏に仏土あるにあらず。水の所在、すでに三際にかかわれず」と云う、是は仏法の不思議にて、一滴の中にも仏国土ありと云うにてはなし。『山水経』と今の文を題して、始めの詞に、古仏の道現成と云う時に、この道又一滴の水にも離る事なければ、仏国土と云うにてこそあれ、我等が見る水のわづかに、「一滴の中に国土有り」と云うにはあらざるべし。

〇「地水のゆく所を下とするなり。下を地として、水のゆく所とするに非ず」と云う、又「火風のゆく所は上なり。法界必ずしも上下四維の量に拘わるべからざれども、四大五大六大等の行処に依りて、しばらく方隅法界を建立するのみ也」と云う、此の「上下」は仏祖の向上向下の如く心得なり。仏より向下三十代、祖より向上三十代と云う。仏を上と付け、祖を下と付くるに似たれども、世間の上下にはあらず。仏道にはいづくを始めとし、いづくを終りと難定。上下なし、方域際限なき也。

〇「無想天は上(かみ)、阿鼻獄は下(しも)とせるにあらず。阿鼻も尽法界、無想も尽法界」と云うは、此の「尽」は仏法に仕う。尽十方界の尽には及ばざれども、一四州の分量に超過して、天は下、阿鼻は上、天は内、阿鼻は外なる世界もあるべし。定むべからざる所を、しばらく「尽」と仕うなり。

経豪

  • 「賢人」は只水辺を所住とするかと思い習わしたり。今は「江河の精より(く?)賢人となる」とあり、不審事也。かかる義もあるか、当道に可訪決、仏法の方より談ぜば、江河則賢人也とも、以精賢人とも談ぜん。強ち不可相違事歟。
  • 「江河海川に水ありと思う」は常事也。「水の中に江河を為す」と云う事、未聞事也。是は水をやがて江海と談ずるゆえに、如此云わるるとなり。「江海ならぬ所にも水あり」とは、江海許りに不止して、或いは清浄解脱の法性とも見、真実人体と見、身相心性と見、如此各々なる道理なるべし。「水の下地するとき、江海をなすのみ也」とは、是は思水の一途の現成の姿なり。
  • 「水の江海をなしつる所なれば、世界も不可有、仏土も不可有と思う事なかれ」とは、此の水やがて世界也、仏土也。又此の「一滴を無量の仏国土」と談ずゆえに、只「水の水となる」道理に可落居也。此理を蹔く「水現成の公案也」とは云う也。
  • 「仏祖与水」(の)親切なる道理を如此云也。
  • 如文。
  • 水は窪(くぼ)くさがりたる所へこそ流るれ、上へのぼる事なしとのみ思い付きたる凡見を如此被挙也。外典にも上天為雨露と云う時に、「内外の典籍にあらず」と被嫌なり。所詮「水之道は上下縦横に通達する也」とは、今仏祖所談の水なるべし、水ならぬ一法なきゆえに。
  • 「火風上にのぼり、地下下にくだる」と、打ち任すは凡夫の見解にも思い付きたり。是は日来の旧見の上下也。今は「仏道の上下を参学する也」と被釈は、非凡見条分明也。所詮「仏道の上下」と云うは、今の火風を上とし、地下を下とするなり。上下をば別に置きて、此の上に火風地水などとを外に談じて、上下を立つるにあらず。火風の姿上也。地水の姿下なるべし。此の上は打ち替えて上下を云わん、更不可有相違なり。ゆえに非凡見上下也。旧見の上にだにも、一隅に不止道理あり、其のゆえは我が空と思うを地と見る世界あり、虚空の上に水あるべし。かかる上は凡夫の上だにも難一決、況や仏道の上の参学不及沙汰事也。
  • 我を経ぬしとて、中央と云う事を置いてこそ、四方上下と云う事は云わるれ。法界の量に任ずる時、更四維上下不可有、「蹔くの建立なるべし」。
  • 是は共に「尽法界を以て、無想とも阿鼻とも」談之。此の上は旧見の上下にあらず。又此道理の上は、阿鼻に堕せん事、恐怖すべからず。可堕身何所にかある不審也。已下文に見えたり。

 

 しかあるに、龍魚の水を宮殿とみるとき、人の宮殿をみるがごとくなるべし、さらにながれゆくと知見すべからず。もし傍觀ありて、なんぢが宮殿は流水なりと爲説せんときは、われらがいま山流の道著を聞著するがごとく、龍魚たちまちに驚疑すべきなり。さらに宮殿樓閣の欄堦露柱は、かくのごとくの説著あると保任することもあらん。この料理、しづかにおもひきたり、おもひもてゆくべし。この邊表に透脱を學せざれば、凡夫の身心を解脱せるにあらず、佛祖の國土を究盡せるにあらず。凡夫の國土を究盡せるにあらず、凡夫の宮殿を究盡せるにあらず。

 いま人間には、海のこゝろ、江のこゝろを、ふかく水と知見せりといへども、龍魚等、いかなるものをもて水と知見し、水と使用すといまだしらず。おろかにわが水と知見するを、いづれのたぐひも水にもちゐるらんと認ずることなかれ。いま學佛のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとゞこほるべからず。すゝみて佛道のみづを參學すべし。佛祖のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか所見すると參學すべきなり、佛祖の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり。

詮慧

〇「仏祖の屋裏また水ありや、水なしやと参学すべき也」と云うは、尽界を水と談ずる事あり、尽界を仏身と習い、一心と習う時、水いづれの所にか置くべきと尋ぬべき也。五大の中の水と不可思、非如人間界也。水雨露となる事あり、甘露にて降る事もあり。修羅道には弓箭󠄀にて降る事もあるべし。

一切法は縁に合うて変わる也。寒き時は凍る物あり、熱くて凍る事あるべし。寒くて硬き物あり、熱くて硬き物あり、各々非一。

経豪

  • 是は「水有りと云う道理あるべし、水なしと云う道理あるべし」、ゆえに仏道は有無の二見を離れたるなり。

 

 山は超古超今より大聖の所居なり。賢人聖人、ともに山を堂奥とせり、山を身心とせり。賢人聖人によりて山は現成せるなり。おほよそ山は、いくそばくの大聖大賢いりあつまれるらんとおぼゆれども、山はいりぬるよりこのかたは、一人にあふ一人もなきなり。たゞ山の活計の現成するのみなり、さらにいりきたりつる蹤跡なほのこらず。世間にて山をのぞむ時節と、山中にて山にあふ時節と、頂□(寧+頁)寧眼睛はるかにことなり。不流の憶想および不流の知見も、龍魚の知見と一齊なるべからず。人天の自界にところをうる、佗類これを疑著し、あるいは疑著におよばず。しかあれば、山流の句を佛祖に學すべし、驚疑にまかすべからず。拈一はこれ流なり、拈一これ不流なり。一回は流なり、一回は不流なり。この參究なきがごときは、如來正法輪にあらず。

詮慧

〇「山は入りぬるよりこのかたは、一人に逢う一人もなき也。ただ山の活計の現成するのみ也、さらに入り来たりつる蹤跡なお残らず」と云うは、身土不二とも云う。心境如々とも説く、大地有情同時成道とも説く。山は依法、人は正法と云う時こそあれ、山を身心としつる上は、不逢人也。山にも逢わざる也。ゆえに「入りぬれば蹤跡なし」とも云う也。仏界衆生界の増滅も是程に心得也。

経豪

  • 水は已前段に被釈之。ここよりは山事を被説也。此の「大聖・賢人・聖人等山に住む」、先蹤等を挙げらるるに似たれども、是は併(あわ)せて山の究尽する道理、又山の上の功徳荘厳なるべし。所詮此の「賢人・聖人等の姿」(は)、悉是全山なる理なるべし。已下如文。
  • 全山なる間、「入りぬるより以来(このかた)は、一人に逢う一人もなき道理なり」。是れ併(あわ)せて「山の活計現成の道理」なるべし。
  • 「山中にて山に逢う時節」とは、全山なる道理なり。山が山に逢うなり。「不流の義、龍魚の知見と斉ならん」(は)、仏道と云うべからざる也。
  • 是は我等が人天に住するをも、他類は実に何とか疑著すらん、覚束なし。然者「山流の詞をも仏祖に可学」。只おのれが「驚疑する心地許りに不可任」となり。
  • 生をば愛し死をば恐れ、善は善く、悪は悪しき物。迷は捨つべき物、悟は取るべき物などと心得は、不可為仏法。流の上には不流、会の上には不会。即心是仏の上には非心非仏、如此談ぜざらんには、「如来正法輪に非ず」と被嫌也。

 

 古佛いはく、欲得不招無間業、莫謗如來正法輪。この道を、皮肉骨髓に銘ずべし、身心依正に銘ずべし。空に銘ずべし、色に銘ずべし。若樹若石に銘ぜり、若田若里に銘ぜり。

詮慧 古仏云段

〇「欲得不招無間業、莫謗如来正法輪」、この詞を聞くには、無間獄あり。但し落ちざらん為に、莫謗如来正法輪と云うに似たり。然而「莫謗如来正法輪の時節」には、尤も無間獄に落つべし。「莫謗の時刻」には無間業と云う事がなき也。無間獄はありとも、不堕と習わず。ゆえに「招」の字は置かるる也。「無間業と如来正法輪」とは、いかにも一具の法文には謂われぬ事也。入仏道の初門には習う事あり。功徳は罪を逃れん為に行じ、善業は善業を得ん為に行ずと思うべからず。自らの為に行ぜず、只仏道の為に仏道は行ずと教うる此の故なり。「欲得不招無間業、莫謗如来正法輪」は、心外無別法と説く、この心也。是什麽物恁麽来と説く此心也。非取捨非善悪法を開演する時、如此云わるるなり。又「莫謗」の詞いかなるべきぞ、莫妄想と云う時も、妄想を置きて、なかれと云うにあらず。又諸悪莫作と云う時も、諸悪は只莫作とこそ談ずれ。悪と云う事を置きて莫作と誡めたるに非ず。今の「莫謗如来」の「莫」の字如此なるべし。是は上の七文字の、「欲得不招無間業」を別に置きて、「莫謗如来正法輪」と教えたるにてはなし。上下の七文字二句は不分。総じて仏法を開演するに、如此「欲得不招無間業、莫謗如来正法輪」と云う也。

経豪

  • 是は今の「皮肉骨髄身心、乃至空色若樹若石、若田若里等」が、「如来の正法輪なる道理」を被釈なり。

 

 おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高徳やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、樹石鬱茂なり、禽獣靈秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり。

 帝者おほく山に幸して賢人を拝し、大聖を拝問するは、古今の勝躅なり。このとき、師禮をもてうやまふ、民間の法に準ずることなし。聖化のおよぶところ、またく山賢を強爲することなし。山の人間をはなれたること、しりぬべし。崆峒華封のそのかみ、黄帝これを拝請するに、膝行して叩頭して廣成にとふしなり。釋迦牟尼佛かつて父王の宮をいでて山へいれり。しかあれども、父王やまをうらみず、父王やまにありて太子ををしふるともがらをあやしまず。十二年の修道、おほく山にあり。法王の運啓も在山なり。まことに輪王なほ山を強爲せず。しるべし、山は人間のさかひにあらず、上天のさかひにあらず、人慮の測度をもて山を知見すべからず。もし人間の流に比準せずは、たれか山流山不流等を疑著せん。

詮慧

〇「樹石鬱茂なり、禽獣霊秀也。これ聖賢の徳を蒙ぶらしむるゆえなり」と云う、山に樹が多く茂りて、世間に見るが如くあり。禽獣が多くて其内霊秀も有らんは、今の本意に引き難し。有何詮乎、仏世にいづれは三界さかりなりなどと謂わん程の丈を云う也。三界を一心と体脱するゆえに、只いたづらに木草が栄え、鳥獣が多からんするにてはなし。

経豪

  • 「山は国界に属せりと云えども、山を愛する人に属す」とは、此の愛する人(が)是山なるべし、山が山を愛する也。「山必ず主を愛す」と云うも此理也。山則主なるべし、主則山なるべき也。
  • 今所談出之、「樹石鬱茂、禽獣霊秀等」は山に付きたる具足、又山に住む禽獣等なれば、被呼出、是等皆山なるべし。今の「聖賢山也、此の樹石鬱茂、禽獣霊秀等の聖賢の徳を蒙ぶらしむる」とは、樹石鬱茂、禽獣等も山也。聖賢も山なり。しばらく「聖賢の徳を蒙ぶらしむる」と云えども、只樹石鬱茂、禽獣霊秀等の徳を聖賢蒙ぶらしむると云う道理あるべき也。
  • 様々の姿を表さるる様なれども、只全山の道理が無尽に云わるる也と可心得。又「聖賢の山を好み、帝者の山に幸して、賢人を拝し、大聖を拝問する」も、山の徳を挙ぐる時、此の現前の姿を上げて、山の徳を挙ぐる一端とせる一筋もあるべけれども、只所落居は、彼等皆全山の道理なるべし。
  • 是は「聖化の不及所なしと云えども、全く山賢を強為することなし」、是等山の徳なるべし。全山の理をも可心得也。是等皆古く有りし事共を前後に被挙して、玉の功徳荘厳と談ず也。如文。
  • 是も山の徳を被挙随他一也、如文。
  • 「流」と云う詞を、凡慮の測度に任せず、山の深広なる姿を参学せん時は、「山流山不流」の詞、更に「疑著すべからざる」事也。

 

 あるいはむかしよりの賢人聖人、まゝに水にすむもあり。水にすむとき、魚をつるあり、人をつるあり、道をつるあり。これともに古來水中の風流なり。さらにすゝみて自己をつるあるべし、釣をつるあるべし、釣につらるゝあるべし、道につらるゝあるべし。

 むかし徳誠和尚、たちまちに藥山をはなれて江心にすみしすなはち、華亭江の賢聖をえたるなり。魚をつらざらんや、人をつらざらんや、水をつらざらんや、みづからをつらざらんや。人の徳誠をみることをうるは、徳誠なり。徳誠の人を接するは、人にあふなり。

経豪

  • 文に聞こえたり。釣る人と、釣らるる物と二つあるべからず。「釣が釣りを釣る道理」なるべし。
  • 今の「徳誠和尚」と云うは、薬山の弟子道悟、雲巌等の同法なり。「薬山を離れて、江心に住みき」、道悟に誂(あつら)えて、法器の者あらば、吾が住む所へ教え送れと云いて、江心に住す。道悟、夾山を教えて、徳誠の許へ遣しき。船子和尚の下にて夾山悟道す。其の後徳誠和尚は舟を踏み返して、終(つい)に浪中へ沈みけり。此の因縁を今被書載歟。此の道理先に如云。魚は魚を釣り、水は水を釣り、人は人を釣る道理なるべし。徳誠をば徳誠が見るべき也。全く余人が所見あるべからず。「徳誠の人を接し、人に逢う」と云うは、徳誠を接し。徳誠が徳誠に逢うなり。

 

 世界に水ありといふのみにあらず、水界に世界あり。水中のかくのごとくあるのみにあらず、雲中にも有情世界あり、風中にも有情世界あり、火中にも有情世界あり、地中にも有情世界あり。法界中にも有情世界あり、一莖草中にも有情世界あり、一柱杖中にも有情世界あり。有情世界あるがごときは、そのところかならず佛祖世界あり。かくのごとくの道理、よくよく參學すべし。

詮慧

〇「世界に水ありと云うのみあらず、水界に世界あり」と云う、かく聞く時は謂われたり。器世間の安立を云うに、九山八海とて山巡り、海巡りかくのみして、山九海八あれば、此の一山一海の間々にあらん世界をば、水の中の世界とも心得ぬべし。この見世間に仰ぎて心得にてこそあれ、水も尽界、山も尽界と習わん時は、水の詮ならん所には、水の中にこそ世間もあるらめ。

経豪

  • 人間界にも、水中に龍宮もあり、況や仏道の「水中に世界ある事」を、「雲中・風中・火中・地中・法界中・一莖草中・一柱杖中」などとに、「有情世界あり」と云えり。是は右に所挙の各々の詞を、則ち有情世界と談ず也。此の「有情世界」と云うは尽十方界也。

 

 しかあれば、水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり。たとへば非流と強爲するがゆゑに。水は水の如是實相のみなり、水是水功徳なり、流にあらず。一水の流を參究し、不流を參究するに、萬法の究盡たちまちに現成するなり。

経豪

  • 是は水を只流る物と許り心得は、「流の詞、水をも謗するなり」と云うなり。
  • 山流山不流と云う道理の上に、「非流と云う詞を強為して」、談じ表さるる也。この理は只「水は水の如是実相のみ也、水是水功徳也」と云うは、水の外に物なき道理が、只水は水也と被云也。とかく談ずれども、只云いては、「水は水の理のみ」あるなり。
  • 「流不流の理を参究すると、万法究尽現成するなり」とは、諸法に流不流の道理あるべし。則ち会不会、悟不悟、見不見、聞不聞、即心是仏の上の非心非仏等是なるべし。此理又「万法究尽の現成」とは談ず也。

 

 山も寶にかくるゝ山あり、沢にかくるゝ山あり、空にかくるゝ山あり、山にかくるゝ山あり。藏に藏山する參學あり。

詮慧

〇「宝にかくるる山あり、沢にかくるる山あり」と云うは、必ず「宝」と云う文字「沢」と云う文字のここに大切の道理があるにはあらず。諸法何れも同じかるべしと云えども、蹔く是を挙ぐる也。三界は一心にかくれぬとも、一心は三界にかくれぬとも、色即是空、空即是色とも云い、以色空をかくすとも云わんが如し。「宝山」などとも云えば、「宝」の字もとより「山」と云うに、「沢」も引き寄せられたるなり。

経豪

  • 是は「以宝為山、以沢為山、以空為山」道理、如此云わるる也。「蔵に蔵山する参学あり」とは、山が山なる道理(を)、「蔵に蔵山する」とも云わるべき歟。

 

 古佛云、山是山、水是水。

 この道取は、やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり。しかあれば、やまを參究すべし、山を參窮すれば山に功夫なり。

 かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり。

詮慧 古仏言段

〇「古仏云」と云えば、古き仏の説法に「山是山」と云いたるにてはなし。山是山と云いしが、仏法の正当なる所を「古仏云」と云う。已前に水界ありと云う心地にて、「山是山」とも云う也。

〇「山是山、水是水」、是は山を世間の眼にて見る時、山も山にあらずと説き、水も水にあらずと云うなり。山を仏法にて見る時こそ、「山是山、水是水」なれ、この道理なるべし。

青原惟信禅師上堂。老僧三十年前未参禅時。見山是山、見水是水。及至後来親見知識有箇入処。見山不是山。見水不是水。而今得箇休歇処。依然見山秖是山。見水秖是水。大衆這三般見解、是同是別。有人緇素得出。許汝親見老僧(『続伝灯録』二二「大正蔵」五一・六一四b二九・注)。

経豪

  • 此詞難心得。但「山是山、水是水」と云うは、凡見の山水を云うにはあらず。仏祖所談の山水なるべしと云うなり。
  • 「山に功夫なり」と云う、この詞少し何とやらん誓いたる様に聞こゆ。但し此の草子には如此詞のみ所々に多し。是も山のとも、山をとも云わば、猶山与人の各別なるように可聞。「山に功夫也」と云えば、山の外に相交わる物なき道理、今少し確かに聞こゆる也。
  • 以此山水道理、賢とも聖とも云うべきなりと也。

山水経(終)

2022年8月10日 記

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。