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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第三十二 伝衣  註解(聞所・抄)

正法眼蔵 第三十二 伝衣  註解(聞所・抄)

 

 佛々正傳の衣法、まさに震旦に正傳することは、少林の高祖のみなり。高祖はすなはち釋迦牟尼佛より第二十八代の祖師なり。西天二十八代、嫡々あひつたはれ、震旦に六代、まのあたり正傳す。西天東地都盧三十三代なり。

 第三十三代の祖、大鑑禪師、この衣法を黄梅の夜半に正傳し、生前護持しきたる。いまなほ曹谿寶林寺に安置せり。諸代の帝王あひつぎて内裏に請入して供養す、神物護持せるものなり。

 唐朝の中宗肅宗代宗、しきりに歸内供養しき。請ずるにもおくるにも、勅使をつかはし、詔をたまふ。すなはちこれおもくする儀なり。代宗皇帝、あるとき佛衣を曹谿山におくる詔にいはく、

 今遣鎭國大將軍劉崇景、頂戴而送。朕爲之國寶。卿可於本寺安置、令僧衆親承宗旨者、嚴加守護、勿令遺墜。

 しかあればすなはち、數代の帝者、ともにくにの重寶とせり。まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、この佛衣くににたもてるは、ことにすぐれたる大寶なり。卞璧に准ずべからざるものなり。たとひ傳國璽となるとも、いかでか傳佛の奇寶とならん。大唐よりこのかた瞻禮せる緇白、かならず信法の大機なり。宿善のたすくるにあらずよりは、いかでかこの身をもちて、まのあたり佛々正傳の佛衣を瞻禮することあらん。信受する皮肉骨髓はよろこぶべし、信受することあたはざらんは、みづからなりといふとも、うらむべし、佛種子にあらざることを。

 俗なほいはく、その人の行李をみるは、すなはちその人を見なり。いま佛衣を瞻禮せんは、すなはち佛をみたてまつるなり。百千萬の塔を起立して、この佛衣に供養すべし。天上海中にも、こゝろあらんはおもくすべし。人間にも、轉輪聖王等のまことをしり、すぐれたるをしらんは、おもくすべきなり。

 あはれむべし、よゝに國主となれるやから、わがくにに重寶のあるをしらざること。まゝに道士の教にまどはされて、佛法を癈せるおほし。その時、袈裟をかけず、圓頂に葉巾をいたゞく。講ずるところは延壽長年の方なり。唐朝にもあり、宋朝にもあり。これらのたぐひは、國主なりといへども國民よりもいやしかるべきなり。

 しづかに觀察しつべし、わがくにに佛衣とゞまりて現在せり。衣佛國土なるべきかとも思惟すべきなり。舎利等よりもすぐれたるべし。舎利は輪王にもあり、師子にもあり、人にもあり、乃至辟支佛等にもあり。しかあれども、輪王には袈裟なし、師子に袈裟なし、人に袈裟なし。ひとり諸佛のみに袈裟あり、ふかく信受すべし。

 いまの愚人、おほく舎利はおもくすといへども、袈裟をしらず、護持すべきとしれるもまれなり。これすなはち先來より袈裟のおもきことをきけるものまれなり、佛法正傳いまだきかざるゆゑにしかあるなり。

 つらつら釋尊在世をおもひやれば、わづかに二千餘年なり。國寶神器のいまにつたはれるも、これよりもすぎてふるくなれるもおほし。この佛法佛衣は、ちかくあらたなり。若田若里に展轉せんこと、たとひ五十轉々なれりとも、その益これ妙なるべし。かれなほ功徳あらたなり。この佛衣、かれとおなじかるべし。かれは正嫡より正傳せず、これは正嫡より正傳せり。

詮慧

〇此の伝衣の本意は、仏衣なるゆえに、絹布帛の如きの見を解脱すべき也。更(に)絹は浄しなどと云う論には不可及、世間の衣服に異なり。袈裟を世間の衣服に等しめて思う程の族の、絹布の論はする也。仏鉢と云う上は、木ぞ金ぞ石ぞ土ぞと論ずるに不及、只仏鉢と云うべし。今の袈裟も此の定めなり。次には浄穢の二を解脱すべし。三界に穢(けが)れたりと思う者は浄也。ゆえに十種の衣財を出ださる、何れが浄なるべき。但求願衣、王職衣ぞ、別に穢れた物にてはなき。是は施主国王などとの、誠の心を起こして施するゆえに浄と取る。只浄(きよ)きと取るにてはなし。人間界に主ある者、人の惜しみ用いぬべき物は、悉く穢れたる物なるべし。次には仏法に談ずる三界唯一心、心外無別法と説き、諸法実相と云う。只この袈裟と同じ、袈裟を仏衣と云う、解脱服ぞなどと云う。まづ袈裟の体を、絹布帛などとの類いに思わば、仏衣にあらず、解脱と云い難し。三界唯一心と説くを、凡夫の心得るは、三界の詞をば我等が見る所の大地山河草木国土と見て、一心ぞと思うは、袈裟を知らざるべし。不可解脱服三界を仏見の様に見るこそ、唯一心とは云え。諸法を諸法と見るは、世間の迷なり。是をやがて実相と云うべからず。諸法を仏の見の如く知る時こそ実相なれ。袈裟をも是程に心得とき、仏衣ぞ解脱服ぞなどとは云うべきなり。或いは仏の方をば一向理と付けて、事は凡夫の方と思いながら、事理不二などと談ずる(は)、無詮事也。袈裟は舎利よりも軽べし、能々可心得也。

経豪

  • 是は初祖の御事なり。凡そ此の草子無指沙汰、大略読渡許也。
  • 是は六祖御事也。五祖より此の仏衣を夜半に正伝しき。神秀此の憤りに堪えず、袈裟を奪わんとて兵(秀方の)を興(僧なり)しき。六祖を追い立てまつりしに堪えずして、六祖伝衣を石の上に棄てて、逃げ去り給いき。其の時神秀(道明)此の袈裟を取らんとせしに、石に吸い付きて総て取られざりき。其の時神秀(道明)礼拝して奉帰き。此の時より大国に安置して、国宝と成りにき、希代事也。

 

 しるべし、四句偈をきくに得道す、一句子をきくに得道す。四句偈および一句子、なにとしてか恁麼の靈験ある。いはゆる佛法なるによりてなり。いま一頂衣九品衣、まさしく佛法より正傳せり。四句偈よりも劣なるべからず、一句法よりも験なかるべからず。

 このゆゑに、二千餘年よりこのかた、信行法行の諸機ともに隨佛學者、みな袈裟を護持して身心とせるものなり。諸佛の正法にくらきたぐひは袈裟を崇重せざるなり。いま釋提桓因および阿那跋達多龍王等、ともに在家の天主なりといへども、龍王なりといへども、袈裟を護持せり。

 しかあるに、剃頭のたぐひ、佛子と稱ずるともがら、袈裟におきては、受持すべきものとしらず。いはんや體色量をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。いはんやその威儀、ゆめにもいまだみざるところなり。

 袈裟をばふるくよりいはく、除熱惱服となづく、解脱服となづく。おほよそ功徳はかるべからざるなり。龍鱗の三熱、よく袈裟の功徳より解脱するなり。諸佛成道のとき、かならずこの衣をもちゐるなり。まことに邊地にむまれ末法にあふといへども、相傳あると相傳なきと、たくらぶることあらば、相傳の正嫡なるを信受護持すべし。

 いづれの家門にか、わが正傳のごとく、まさしく釋尊の衣法ともに正傳せる。ひとり佛道のみにあり。この衣法にあはんとき、たれか恭敬供養をゆるくせん。たとひ一日に無量恒河沙の身命をすてて供養すべし。生々世々の値遇頂戴をも發願すべし。われら佛生國をへだつること十萬餘里の山海のほかにむまれて、邊邦の愚蒙なりといへども、この正法をきゝ、この袈裟を一日一夜なりといへども受持し、一句一偈なりといへども參究する、これたゞ一佛二佛を供養せる福徳のみにはあるべからず、無量百千億のほとけを供養奉覲せる福徳なるべし。たとひ自己なりといへども、たふとぶべし、愛すべし、おもくすべし。祖師傳法の大恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずは、畜類よりも劣なるべし、畜類よりも愚なるべし。

 この佛衣の功徳、その傳佛正法の祖師にあらざる餘人は、ゆめにもいまだしらざるなり。いはんや體色量をあきらむるにおよばんや。諸佛のあとをしたふべくは、まさにこれをしたふべし。たとひ百千萬代ののちも、この正傳を正傳せん、まさに佛法なるべし。證験これあらたなり。

 俗なほいはく、先王の服にあらざれば服せず、先王の法にあらざればおこなはず。佛道もまたしかあるなり。先佛の法服にあらざればもちゐるべからず。もし先佛の法服にあらざらんほかは、なにを服してか佛道を修行せん、諸佛に奉覲せん。これを服せざらんは、佛會にいりがたかるべし。

 後漢の孝明皇帝、永平年中よりこのかた、西天より東地に來到する僧侶くびすをつぎてたえず、震旦より印度におもむく僧侶、まゝにきこゆれども、たれ人にあひて佛法を面授せりけるといはず。たゞいたづらに論師および三藏の學者に習學せる名相のみなり。佛法の正嫡をきかず。このゆゑに、佛衣正傳すべきといひつたへるにもおよばず、佛衣正傳せりける人にあひあふといはず、傳衣の人を見聞すとかたらず。はかりしりぬ、佛家の閫奥にいらざりけるといふことを。これらのたぐひは、ひとへに衣服とのみ認じて、佛法の尊重なりとしらず、まことにあはれむべし。

 佛法藏相傳の正嫡に、佛衣も相傳相承するなり。法藏正傳の祖師は佛衣を見聞せざるなきむねは、人中天上あまねくしれるところなり。しかあればすなはち、佛袈裟の體色量を正傳しきたり、正見聞しきたり、佛袈裟の大功徳を正傳し、佛袈裟の身心骨髓を正傳せること、たゞまさに正傳の家業のみにあり。もろもろの阿笈摩教の家風には、しらざるところなり。おのおの今案に自立せるは正傳にあらず、正嫡にあらず。

 わが大師釋迦牟尼如來、正法眼藏無上菩提を摩訶迦葉に附授するに、佛衣ともに傳附せりしより、嫡々相承して曹谿山大鑑禪師にいたるに三十三代なり。その體色量を親見親傳せること、家門ひさしくつたはれて、受持いまにあらたなり。すなはち五宗の高祖、おのおの受持せる、それ正傳なり。あるいは五十餘代、あるいは四十餘代、おのおの師資みだることなく、先佛の法によりて搭し、先佛の法によりて製することも、唯佛與佛の相傳し證契して、代々をふるに、おなじくあらたなり。

経豪

  • 是は打ち任せて人の思わくは読経念誦などとをば、忌みじき事に思い慣わしたれども、袈裟は如何なる事とも、不知不思入所を如此被釈なり。四句偈、一句子等に袈裟の勝劣あるまじき事を委しく被釈之。如文。

 

 嫡々正傳する佛訓にいはくは、

  九條衣     三長一短 或四長一短

  十一條衣    三長一短 或四長一短

  十三條衣    三長一短 或四長一短

  十五條衣    四長一短

  十七條衣    四長一短

  十九條衣    四長一短

  二十一條衣   四長一短

  二十三條衣   四長一短

  二十五條衣   四長一短

  二百五十條衣  四長一短

  八萬四千條衣  八長一短

 いま略して擧するなり。このほか諸般の袈裟あるなり。ともにこれ僧伽梨衣なるべし。

 あるいは在家にしても受持し、あるいは出家にしても受持す。受持するといふは、著用するなり。いたづらにたゝみもたらんずるにあらざるなり。たとひかみひげをそれども、袈裟を受持せず、袈裟をにくみいとひ、袈裟をおそるゝは天魔外道なり。

 百丈大智禪師いはく、宿殖の善種なきものは袈裟をいむなり、袈裟をいとふなり、正法をおそれいとふなり。

経豪

  • 九条衣より二十五条衣までは、今現在せるか。二百五十条衣、乃至八万四千条衣、其の体色量如何なるべしとも、不口伝、尤不審也。定(んで)子細あればこそ、此の草子に載せらるらん。其子細追可一決。

 

 佛言、若有衆生、入我法中、或犯重罪、或墮邪見、於一念中、敬心尊重僧伽梨衣、諸佛及我、必於三乘授記。此人當得作佛。若天若龍、若人若鬼、若能恭敬此人袈裟少分功徳、即得三乘不退不轉。若有鬼神及諸衆生、能得袈裟、乃至四寸、飲食充足。若有衆生、共相違反、欲墮邪見、念袈裟力、依袈裟力、尋生悲心、還得清淨。若有人在兵陣、持此袈裟少分、恭敬尊重、當得解脱。

 しかあればしりぬ、袈裟の功徳、それ無上不可思議なり。これを信受護持するところに、かならず得授記あるべし、得不退あるべし。たゞ釋迦牟尼佛のみにあらず、一切諸佛またかくのごとく宣説しましますなり。

 しるべし、たゞ諸佛の體相、すなはち袈裟なり。かるがゆゑに、

 佛言、當墮惡道者、厭惡僧伽梨。

 しかあればすなはち、袈裟を見聞せんところに、厭惡の念おこらんには、當墮惡道のわがみなるべしと、悲心を生ずべきなり、慙愧懺悔すべきなり。

 いはんや釋迦牟尼佛、はじめて王宮をいでて山にいらんとせし時、樹神ちなみに僧伽梨衣一條を擧して釋迦牟尼佛にまうす、この衣を頂戴すれば、もろもろの魔嬈をまぬがるゝなり。時に釋迦牟尼佛、この衣をうけて、頂戴して十二年をふるに、しばらくもおかずといふ。これ阿含經等の説なり。

 あるいはいふ、袈裟はこれ吉祥服なり。これを服用するもの、かならず勝位にいたる。おほよそ世界にこの僧伽梨衣の現前せざる時節なきなり。一時の現前は長劫中事なり。長劫中事は一時來なり。袈裟を得するは佛標幟を得するなり。このゆゑに、諸佛如來の袈裟を受持せざる、いまだあらず。袈裟を受持せしともがらの作佛せざる、あらざるなり。

 搭袈裟法

 偏袒右肩は常途の法なり、通兩肩搭の法もあり。兩端ともに左の臂肩にかさねかくるに、前頭を表面にかさね、前頭を裏面にかさね、後頭を表面にかさね、後頭を裏面にかさぬる事、佛威儀の一時あり。この儀は、諸聲聞衆の見聞し相傳するところにあらず。諸阿笈摩教の經典に、もらしとくにあらず。

 おほよそ佛道に袈裟を搭する威儀は、現前せる傳正法の祖師、かならず受持せるところなり。受持かならずこの祖師に受持すべし。佛祖正傳の袈裟はこれすなはち佛々正傳みだりにあらず。先佛後佛の袈裟なり、古佛新佛の袈裟なり。道を化し、佛を化す。過去を化し、現在を化し、未來を化するに、過去より現在に正傳し、現在より未來に正傳し、現在より過去に正傳し、過去より過去に正傳し、現在より現在に正傳し、未來より未來に正傳し、未來より現在に正傳し、未來より過去に正傳して、唯佛與佛の正傳なり。

 このゆゑに、祖師西來よりこのかた、大唐より大宋にいたる數百歳のあひだ、講經の達者、おのれが業を見徹せるもの、おほく教家律教等のともがら、佛法にいるとき、從來舊巣の弊衣なる袈裟を抛卻して、佛道正傳の袈裟を正受するなり。かの因縁、すなはち傳、廣、續、普燈等録につらなれり。教律局量の小見を解脱して、佛祖正傳の大道をたふとみし、みな佛祖となれり。いまの人も、むかしの祖師をまなぶべし。

 袈裟を受持すべくは正傳の袈裟を正傳すべし、信受すべし。僞作の袈裟を受持すべからず。その正傳の袈裟といふは、いま少林曹谿より正傳せるは、これ如來より嫡々相承すること、一代も虧闕せざるところなり。このゆゑに、道業まさしく稟受し、佛衣したしく手にいれるによりてなり。

 佛道は佛道に正傳す、閑人の傳得に一任せざるなり。俗諺にいはく、千聞は一見にしかず、千見は一經にしかず。これをもてかへりみれば、千見萬聞たとひありとも、一得にしかず。佛衣正傳せるにしくべからざるなり。正傳あるをうたがふべくは、正傳をゆめにもみざらんは、いよいようたがふべし。佛經を傳聞せんよりは、佛衣正傳せらんはしたしかるべし。千經萬得ありとも、一證にしかじ。佛祖は證契なり。教律の凡流にならふべからず。

 おほよそ祖門の袈裟の功徳は、正傳まさしく相承せり、本様まのあたりつたはれり。受持あひ嗣法して、いまにたえず。正受せる人、みなこれ證契傳法の祖師なり。十聖三賢にもすぐる、奉覲恭敬し、禮拝頂戴すべし。

 ひとたびこの佛衣正傳の道理、この身心に信受せられん、すなはち値佛の兆なり、學佛の道なり。不堪受是法ならん、悲生なるべし。この袈裟をひとたび身體におほはん、決定成菩提の護身符子なりと深肯すべし。一句一偈を信心にそめつれば、長劫の光明にして虧闕せずといふ。一法を身心にそめん、亦復如是なるべし。

 かの心念も無所住なり、我有にかゝはれずといへども、その功徳すでにしかあり。身體も無所住なりといへどもしかあり。袈裟、無所從來なり、亦無所去なり。我有にあらず、佗有にあらずといへども、所持のところに現住し、受持の人に加す。所得功徳もまたかくのごとくなるべし。

 作袈裟の作は、凡聖等の作にあらず。その宗旨、十聖三賢の究盡するところにあらず。宿殖の道種なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといへども、袈裟をみず、袈裟をきかず、袈裟をしらず。いかにいはんや受持することあらんや。ひとたび身體にふるゝ功徳も、うるものあり、えざるものあるなり。すでにうるはよろこぶべし、いまだえざらんはねがふべし、うべからざらんはかなしむべし。

 大千界の内外に、たゞ佛祖の門下のみに佛衣つたはれること、人天ともに見聞普知せり。佛衣の様子をあきらむることも、たゞ祖門のみなり。餘門にはしらず。これをしらざらんもの、自己をうらみざらんは愚人なり。たとひ八萬四千の三昧陀羅尼をしれりとも、佛祖の衣法を正傳せず、袈裟の正傳をあきらめざらんは、諸佛の正嫡なるべからず。

 佗界の衆生は、いくばくかねがふらん、震旦國に正傳せるがごとく佛衣まさしく正傳せんことを。おのれがくにに正傳せざること、はづるおもひあるらん、かなしむこゝろふかかるらん。

 まことに如來世尊の衣法正傳せる法に値遇する、宿殖般若の大功徳種子によるなり。いま末法惡時世は、おのれが正傳なきことをはぢず、正傳をそねむ魔儻おほし。おのれが所有所住は、眞實のおのれにあらざるなり。たゞ正傳を正傳せん、これ學佛の直道なり。

 およそしるべし、袈裟はこれ佛身なり、佛心なり。また解脱服と稱じ、福田衣と稱ず。忍辱衣と稱じ、無相衣と稱ず。慈悲衣と稱じ、如來衣と稱じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と稱ずるなり。まさにかくのごとく受持すべし。

 いま現在大宋國の律學と名稱するともがら、聲聞酒に醉狂するによりて、おのれが家門にしらぬいへを傳來することを慙愧せず、うらみず、覺知せず。西天より傳來せる袈裟、ひさしく漢唐につたはれることをあらためて、小量にしたがふる、これ小見によりてしかあり。小見のはづべきなり。もしいまなんぢが小量の衣をもちゐるがごときは、佛威儀おほく虧闕することあらん。佛儀を學傳せることのあまねからざるによりて、かくのごとくあり。

 如來の身心、たゞ祖門に正傳して、かれらが家業に流散せざること、あきらかなり。もし萬一も佛儀をしらば、佛衣をやぶるべからず。文なほあきらめず、宗いまだきくべからず。

 又、ひとへに麁布を衣財にさだむ、ふかく佛法にそむく。ことに佛衣をやぶれり、佛弟子きるべきにあらず。ゆゑはいかん。布見を擧して袈裟をやぶれり。あはれむべし、小乘聲聞の見、まさに迂曲かなしむべきことを。なんぢが布見やぶれてのち佛衣見成すべきなり。いふところの絹布の用は、一佛二佛の道にあらず。諸佛の大法として、糞掃を上品清淨の衣財とせるなり。そのなかに、しばらく十種の糞掃をつらぬるに、絹類あり、布類あり、餘帛の類もあり。絹類の糞掃をとるべからざるか、もしかくのごとくならば、佛道に相違す。絹すでにきらはば、布またきらふべし。絹布きらふべき、そのゆゑなににかある。絹糸は殺生より生ぜるときらふ、おほきにわらふべきなり。布は生物の縁にあらざるか。情非情の情、いまだ凡情の情を解脱せず、いかでか佛袈裟をしらん。

 又、化糸の説をきたして亂道することあり。又わらふべし。いづれか化にあらざる。なんぢ化をきくみゝを信ずといへども、化を見る目をうたがふ。目に耳なし、耳に目なきがごとし。いまの耳目、いづれのところにかある。しばらくしるべし、糞掃をひろふなかに、絹ににたるあり、布のごとくなるあらん。これをもちゐんには、絹となづくべからず、布と稱ずべからず。まさに糞掃と稱ずべし。糞掃なるがゆゑに、糞掃にして絹にあらず、布にあらざるなり。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも有情といふべからず、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃となれるありとも非情といふべからず、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、珠玉をはなれたる道理をしるとき、糞掃衣は現成するなり、糞掃衣にはむまれあふなり。絹布の見いまだ零落せざるは、いまだ糞掃を夢也未見なり。たとひ麁布を袈裟として一生受持すとも、布見をおぼえらんは、佛衣正傳にあらざるなり。

 又、數般の袈裟のなかに、布袈裟あり、絹袈裟あり、皮袈裟あり。ともに諸佛のもちゐるところ、佛衣佛功徳なり。正傳せる宗旨あり、いまだ斷絶せず。しかあるを、凡情いまだ解脱せざるともがら、佛法をかろくし佛語を信ぜず、凡情に隨佗去せんと擬する、附佛法の外道といふつべし、壞正法のたぐひなり。

 あるいはいふ、天人のをしへによりて佛衣をあらたむと。しかあらば天佛をねがふべし、又天の流類となれるか。佛弟子は佛法を天人のために宣説すべし、道を天人にとふべからず。あはれむべし、佛法の正傳なきは、かくのごとくなり。

 天衆の見と佛子の見と、大小はるかにことなることあれども、天くだりて法を佛子にとぶらふ。そのゆゑは、佛見と天見と、はるかにことなるがゆゑなり。律家聲聞の小見、すててまなぶことなかれ、小乘なりとしるべし。

 佛言、殺父殺母は懺悔しつべし、謗法は懺悔すべからず。

 おほよそ、小見狐疑の道は佛本意にあらず。佛法の大道は小乘およぶところなきなり。諸佛の大戒を正傳すること、附法藏の祖道のほかには、ありとしれるもなし。

 むかし黄梅の夜半に、佛の衣法すでに六祖の頂上に正傳す。まことにこれ傳法傳衣の正傳なり、五祖の人をしるによりてなり。四果三賢のやから、および十聖等のたぐひ、教家の論師經師等のたぐひは神秀にさづくべし、六祖に正傳すべからず。しかあれども、佛祖の佛祖を選する、凡聖路を超越するがゆゑに、六祖すでに六祖となれるなり。しるべし、佛祖嫡々の知人知己の道理、なほざりに測量すべきところにあらざるなり。

 のちにある僧すなはち六祖にとふ、黄梅の夜半の傳衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、帛なりとやせん、畢竟じてこれなにものとかせん。

 六祖いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず、これ帛にあらず。

 曹谿高祖の道、かくのごとしとしるべし。佛衣は絹にあらず、布にあらず、屈眴にあらざるなり。しかあるを、いたづらに絹と認じ布と認じ、屈眴と認ずるは、謗佛法のたぐひなり。いかにして佛袈裟をしらん。いはんや善來得戒の機縁あり、かれらが所得の袈裟、さらに絹布の論にあらざるは佛道の佛訓なり。

 また商那和修が衣は、在家の時は俗服なり、出家すれば袈裟となる。この道理、しづかに思量功夫すべし。見聞せざるがごとくして、さしおくべきにあらず。いはんや佛々祖々正傳しきたれる宗旨あり。文字かぞふるたぐひ、覺知すべからず、測量すべからず。まことに佛道の千變萬化、いかでか庸流の境界ならん。三昧あり、陀羅尼あり。算砂のともがら、衣裏の寶珠をみるべからず。

 いま佛祖正傳せる袈裟の體色量を、諸佛の袈裟の正本とすべし。その例すでに西天東地、古往今來ひさしきなり。正邪を分別せし人、すでに超證しき。祖道のほかに袈裟を稱ずるありとも、いまだ枝葉とゆるす本祖あらず。いかでか善根の種子をきざさん、いはんや果實あらんや。

 われらいま曠劫以來いまだあはざる佛法を見聞するのみにあらず、佛衣を見聞し佛衣を學習し、佛衣を受持することえたり。すなはちこれまさしく佛をみたてまつるなり。佛音聲をきく、佛光明をはなつ、佛受用を受用す。佛心を單傳するなり、得佛髓なり。

 傳衣

 予、在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣單をみるに、毎曉の開靜のとき、袈裟をさゝげて頂上に安置し、合掌恭敬して、一偈を黙誦す。ときに予、未曾見のおもひをなし、歡喜みにあまり、感涙ひそかにおちて襟をうるほす。阿含經を披閲せしとき、頂戴袈裟文をみるといへども、不分曉なり。いまはまのあたりみる、ちなみにおもはく、あはれむべし、郷土にありしには、をしふる師匠なし、かたる善友にあはず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる、かなしまざらめやは。いまこれ見聞す、宿善よろこぶべし。もしいたづらに本國の諸寺に交肩せば、いかでかまさしく佛衣を著せる僧寶と隣肩なることをえん。悲喜ひとかたにあらず、感涙千萬行。

 ときにひそかに發願す、いかにしてかわれ不肖なりといふとも、佛法の正嫡を正傳して、郷土の衆生をあはれむに、佛々正傳の衣法を見聞せしめん。

 かのときの正信、ひそかに相資することあらば、心願むなしかるべからず。いま受持袈裟の佛子、かならず日夜に頂戴する勤修をはげむべし、實功徳なるべし。一句一偈を見聞することは、若樹若石の因縁もあるべし。袈裟正傳の功徳は、十方に難遇ならん。

 大宋嘉定十七年癸未冬十月中、三韓の僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人はいはく智玄、一人は景雲。この二人、ともにしきりに佛經の義をいひ、あまさへ文學の士なり。しかれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども比丘法なきこと、小國邊地のゆゑなるべし。我朝の比丘形のともがら、佗國にゆかんとき、たゞかの二僧のごとくならん。

 釋迦牟尼佛、すでに十二年中頂戴してさしおきましまさざるなり。その遠孫として、これを學すべし。いたづらに名利のために天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門を、いま佛衣頂戴に廻向せん、よろこぶべき大慶なり。

経豪

  • 大龍仏にもうさく、我欲遁金翅鳥難、故袈裟を我に与え給うべしと。就此所望、仏、龍王に袈裟一帖を給了。爰に大龍重申仏云、龍衆若干也。此の一帖の袈裟を以ては面々の怖畏不可遁と歎申、其時仏被仰日、汝に所与の袈裟を四寸づつに切りて、諸龍に与うべしと。又大龍申日、たとい四寸に切ると云うとも、龍の数は多し、争か引き出すべきと申。仏又被仰云、只先に如云四寸に切りて可与諸龍、更不可尽と云々。就此仏言、切袈裟、諸龍に与うるに、誠(に)若干の龍に与うれども、総此袈裟不尽して、数十万の龍数悉く得此袈裟たりき。四寸の言此本説歟。

 

 袈裟をつくる衣財、かならず清淨なるをもちゐる。清淨といふは、淨信檀那の供養するところの衣財、あるいは市にて買得するもの、あるいは天衆のおくるところ、あるいは龍神の淨施、あるいは鬼神の淨施、かくのごとくの衣財もちゐる。あるいは國王大臣の淨施、あるいは淨皮、これらもちゐるべし。

 また十種の糞掃衣を清淨なりとす。いはゆる十種糞掃衣

  一者牛嚼衣  二者鼠噛衣  三者火燒衣  四者月水衣

  五者産婦衣  六者神廟衣  七者塚間衣  八者求願衣

  九者王職衣  十者往還衣

 この十種を、ことに清淨の衣財とせるなり。世俗には抛捨す、佛道にはもちゐる。世間と佛道と、その家業はかりしるべし。しかあればすなはち、清淨をもとめんときは、この十種をもとむべし。これをえて、淨をしり、不淨を辦肯すべし。心をしり、身を辦肯すべし。この十種をえて、たとひ絹類なりとも、たとひ布類なりとも、その淨不淨を商量すべきなり。

 この糞掃衣をもちゐることは、いたづらに弊衣にやつれたらんがためと學するは至愚なるべし。莊嚴奇麗ならんがために、佛道に用著しきたれるところなり。佛道にやつれたる衣服とならはんことは、錦繍綾羅、金銀珍珠等の衣服の、不淨よりきたれるを、やつれたるとはいふなり。おほよそ此土佗界の佛道に、清淨奇麗をもちゐるには、この十種それなるべし。これ淨不淨の邊際を超越せるのみにあらず、漏無漏の境界にあらず。色心を論ずることなかれ、得失にかゝはれざるなり。たゞ正傳受持するはこれ佛祖なり。佛祖たるとき、正傳稟受するがゆゑに、佛祖としてこれを受持するは、身の現不現によらず、心の擧不擧によらず、正傳せられゆくなり。

 たゞまさにこの日本國には、近來の僧尼、ひさしく袈裟を著せざりつることをかなしむべし、いま受持せんことをよろこぶべし。在家の男女、なほ佛戒を受得せんは、五條七條九條の袈裟を著すべし。いはんや出家人、いかでか著せざらん。はじめ梵王六天より、婬男婬女奴婢にいたるまでも、佛戒をうくべし、袈裟を著すべしといふ、比丘比丘尼これを著せざらんや。畜生なほ佛戒をうくべし、袈裟をかくべしといふ、佛子なにとしてか佛衣を著せざらん。

 しかあれば、佛子とならんは、天上人間、國王百官をとはず、在家出家、奴婢畜生を論ぜず、佛戒を受得し、袈裟を正傳すべし。まさに佛位に正入する直道なり。

経豪

  • 十種何れも主なく、人の繋念なき者を取るなり。

打ち任せては、是等皆不浄なるべし。然而仏道には、是を以て清浄の衣財とするなり。其の故は仏道には、人のよく心を留めたるものを、不浄とす。故に此の右に所挙の十種、皆人の希望なきゆえに、清浄の衣財と云う也。以之諸事可察之者也。

伝衣(終)

 

2022年9月13日(タイ国にて 記)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。