正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第三十四 仏教 註解(聞書・抄)

正法眼蔵 第三十四 仏教 註解(聞書・抄)

 

 諸佛の道現成、これ佛教なり。これ佛祖の佛祖のためにするゆゑに、教の教のために正傳するなり。これ轉法輪なり。この法輪の眼睛裏に、諸佛祖を現成せしめ、諸佛祖を般涅槃せしむ。

詮慧

〇随他意(説三乗教是也)は権教、随自意(説一乗是也)は実教。赴機は権教なり、随自は実教と云う時は、対他たる自にあらず。他あるべからざるゆえに、自他を相対して云わん時は、随自意語も権教なるべし、不可取者也。如此なるゆえに、随他意語、赴機説などとは仏の本意にあらずと下之。今の云う所の「仏教」は、非相対、彼是只仏教のみ也。仏の説法を転法輪と云う、法輪説法也。涅槃なり、仏教教仏也(仏与転法輪、説法と非各別、非二也。故(に)仏教は教仏なり)。

経豪

  • 「諸仏の道現成、これ仏教なり」とあれば、仏は能説の仏、法は所説の法と各別に聞こゆ。打ち任すは仏鹿野園に趣きて、四諦縁生の法を説き御いき、方等、般若、法華等を説き御いしまでを「転法輪」と称す。是は法と仏と、各別に被談、不可然。先の『草子』(「道得」・注)にすでに、「諸仏諸祖は道得也」とあり。然者此の「諸仏」の当体を以て、やがて「仏教」とは談ず也。此道理なるゆえに、「仏祖の仏祖の為にも、教の教の為に正伝する道理」なり。仏の衆生の為に法輪を説くとは不可心得。諸仏諸祖は道得也と云いし同じ心也。
  • 前に如云、打ち任すは仏法輪を転ずとこそ云うに、是は「此の法輪の眼睛裏に、諸仏祖を現成せしめ、諸仏祖を般涅槃せしむ」と云う時に、日来の旧見皆破了。今は以此法輪、諸仏祖と可談也。「現成」と云う詞も、「般涅槃」と云う詞も、只同じ詞なり。仏祖の上の荘厳功徳なり、非相違法。

 

その諸佛祖、かならず一塵の出現あり、一塵の涅槃あり。盡界の出現あり、盡界の涅槃あり。一須臾の出現あり、多劫海の出現あり。しかあれども、一塵一須臾の出現、さらに不具足の功徳なし。盡界多劫海の出現、さらに補虧闕の經営にあらず。このゆゑに朝に成道して夕に涅槃する諸佛、いまだ功徳かけたりといはず。

詮慧

〇「一塵の出現あり、一塵の涅槃あり。尽界の出現あり、尽界の涅槃あり」と云うは、一塵の上仏出現すべきかと聞こゆ。さにはあらざるべし、やがて一塵が出現とも出仏とも謂われ、尽界が出現とも云わるる也。「一塵一須臾の出現さらに不具足の功徳なし」と云う也。

〇大小一塵多劫海の詞、殊(に)勝劣あるべきを、いかなれば仏道には同じ詞に仕うぞ、尤不審也。然而仏功徳の様、如此世間与仏法之替是也。

経豪

  • 「一塵の出現、一塵の涅槃、尽界の出現、尽界の涅槃、一須臾の出現、多劫海の出現」、是等さらに多少浅深等の義にあらざるなり。一塵は少なく、尽界は多く、一須臾は僅かの事、多劫海は広莫也と不可心得。仏祖の上の「一塵、尽界、須臾、多劫海」(は)只一法なるべし。勝劣に滞るべからざるなり、ゆえに「一塵一須臾の出現、不具足の功徳なし。尽界多劫海の出現、さらに補虧闕の経営にあらず」とは被釈也。
  • 此の「朝夕」は尽朝尽夕也。又此の一日諸仏成道の一日なれば、只打ち任せたる一日なるべからず。無辺際の一日也。又今の諸仏を以て、一日とも朝夕とも成道涅槃とも取るべきなり。

 

もし一日は功徳すくなしといはば、人間の八十年ひさしきにあらず。人間の八十年をもて十劫二十劫に比せんとき、一日と八十年とのごとくならん。此佛彼佛の功徳、わきまへがたらん。長劫壽量の所有の功徳と、八十年の功徳とを擧して比量せんとき、疑著するにもおよばざらん。このゆゑに、佛教はすなはち教佛なり、佛祖究盡の功徳なり。

経豪

  • 如文。是は寿命も久しき仏、短き仏などと、分別浅深を立て、談事有之、其れを被嫌也。実(に)十劫廿劫に、八十年を比せん時は、何れと云うにも不及懸隔なるべし。然者釈尊一代の化、僅かに八十年也。如此短き上は、法をも説き残されたりと可云歟、如何。「此仏彼仏」とは、長劫寿量の仏、短促の仏などと立てるを云う也。「仏教」と云えば、仏の法を説いて衆生を化し給うとのみ皆被心得。「此仏」をやがて「教」と談ずる時に、「仏教は則ち教仏也」と云わるるなり。

 

諸佛は高廣にして、法教は狹少なるにあらず。まさにしるべし、佛大なるは教大なり、佛小なるは教小なり。このゆゑにしるべし、佛および教は、大小の量にあらず、善惡無記等の性にあらず、自教教佗のためにあらず。

 ある漢いはく、釋迦老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乘一心の法を摩訶迦葉に正傳す、嫡々相承しきたれり。しかあれば、教は赴機の戲論なり、心は理性の眞實なり。この正傳せる一心を、教外別傳といふ。三乘十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乘なるゆゑに、直指人心、見性成佛なりといふ。

詮慧

〇一塵一劫・大小長短・有無去来・或重頌・法本・因縁・譬喩は、大乗小乗にも共に用いる詞なれども、其の用其の義(は)大いに差別あり。尤可見分なり、一塵一劫も、大小も無差別用之。教は仏の説く所の説、教は是仏の能と取る時こそ、自他差別もあれ。教仏と云う程なれば、赴機の説と思うべからず。随他随自とも云うべからず。「仏大教大、仏小教小」と云う如何、四教の仏皆大小を明かす事新しく、仏大教大と云うべからず。但し是は大小の義を云わんとにはあらず。仏与教の間を説くゆえに、「仏大なれば教も大也、仏小なれば教も小なり」と説く。仏与教無差別故なり。

経豪

  • 文に聞こえたり。仏を教と談ずる上は、実にも「仏大なれば教大なるべし、仏小なれば教小なるべき道理」必然なり。此の大小は多少の義にあらず、仏与教の隔てなき事を現わさん為なり。教は他を化せしめん料にてこそあれと、心得方には尤教他なるべし。又自の為にこそ仏法を修行する上は、自教とも云いぬべし、其れを「あらず、あらず」と被釈之。今の仏教所談の様、自の為に不行、為他不行。只法は法の為に行ず也と云う道理の方より云えば、「自教教他の為にあらざる」べきなり。
  • 如文、此義常人の云う事也。更不可然、おのおのが見解こそ違いたれ、全て仏言に不可有差別浅深。三乗十二分教の外に、祖師の法文と云う事あるべからず。三乗十二分教の上にこそ、専ら祖師の仏法をば談ずれ。釈尊与迦葉、拈優曇華の時刻こそ、麗しき「一心上乗」の最己証なれと思う(は)、是甚僻見也。此の見を被嫌也。已下如文。

 

 この道取、いまだ佛法の家業にあらず。出身の活路なし、通身の威儀あらず。かくのごとくの漢、たとひ數百千年のさきに先達と稱ずとも、恁麼の説話あらば、佛法佛道はあきらめず、通ぜざりけるとしるべし。ゆゑはいかん。佛をしらず、教をしらず、心をしらず、内をしらず、外をしらざるがゆゑに。そのしらざる道理は、かつて佛法をきかざるによりてなり。いま諸佛といふ本末、いかなるとしらず。去來の邊際すべて學せざるは、佛弟子と稱ずるにたらず。たゞ一心を正傳して、佛教を正傳せずといふは、佛法をしらざるなり。佛教の一心をしらず、一心の佛教をきかず。一心のほかに佛教ありといふ、なんぢが一心、いまだ一心ならず。佛教のほかに一心ありといふ、なんぢが佛教いまだ佛教ならざらん。たとひ教外別傳の謬説を相傳すといふとも、なんぢいまだ内外をしらざれば、言理の符合あらざるなり。

経豪

  • 打ち任せて人の心得たるように、三乗十二分教は教文、祖師棄て不可用。釈尊与迦葉破顔微笑して、拈優曇華の姿こそ以心伝心の法なれ。是こそ祖門に可用姿なれとて、三乗十二分教をば不可用、可捨也と思う也。此の僻見を返々被嫌なり。此見を起こす人に対して、仏法を不知也。「仏教の一心を知らず、一心の仏教を聞かず、一心の外に仏教ありと云う」、汝が一心未必一心、「仏教の外に一心有りと云う、汝が仏教未だ仏教ならざらん」とは被嫌也。以今教、一心とも内外とも別伝とも談ぜん、大いに可相違也。仏法を不知なりと避けらるる、尤有其謂事也。

 

 佛正法眼藏を單傳する佛祖、いかでか佛教を單傳せざらん。いはんや釋迦老漢、なにとしてか佛家の家業にあるべからざらん教法を施設することあらん。釋迦老漢すでに單傳の教法をあらしめん、いづれの佛祖かなからしめん。このゆゑに、上乘一心といふは、三乘十二分教これなり、大藏小藏これなり。

詮慧

〇「仏正法眼蔵単伝、并仏教単伝事」、今「仏教」と云うをば、打ち任すは仏能化の仏にて、所説の法を「教」とと名づけたれども、「教仏」とも云うべきなり。仏与教さらに無差別也。「或(ある)漢の説とて、釈迦一代の経典を宣説する外に、上乗一心の法、迦葉正伝す」と云う、教は赴機の戲論なれば、心の理性こそ真実なれ、この正伝の一心を、教外の別伝と云うと立つるを、人は仏法の家業にあらずと被破りて、三乗十二分教を不被棄。この意趣を被述れば、三乗十二分教皆可取にこそ、しからば小乗の見を強為して、この宗門に可入歟。又小乗と等しかるべきか不審也。但し三乗十二分教を取るとは難云。彼が談ずる所にあらざれば、又三乗十二分教の義を、宗門に可談がゆえに、仏与教、教意与祖意、三乗十二分教と祖意と、以之可了見なり。皆別皆同なるべし。所詮十二分教がやがて上乗一心の法と云うべし、教外別伝と云う事あるべからず。

経豪

  • 上乗一心の法よりも劣なる三乗十二分教なるべくは、何として釈尊くれぐれと説き置き給いけるぞと云う。不審雖遁、仏入涅槃の後、迦葉上足として、五百の羅漢等群集して、多羅葉梵本を記されし時の上足迦葉なり。いたづらなるべくは、今の正法眼蔵、附法の迦葉一座して、争か是を知らざるべき道理必然事也。拈優曇華も、只微笑し給う許りにてなし。すでに吾有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉と被仰たる時に、無言にて以心伝心とも難云、是等義難信者也。今又「上乗一心と云うは、三乗十二分教是也」とある上は、弥不可疑勿論事也。

 

 しるべし、佛心といふは、佛の眼睛なり、破木杓なり、諸法なり、三界なるがゆゑに、山海國土、日月星辰なり。佛教といふは、萬像森羅なり。外といふは、這裏なり、這裏來なり。正傳は、自己より自己に正傳するがゆゑに、正傳のなかに自己あるなり。一心より一心に正傳するなり、正傳に一心あるべし。上乘一心は、土石砂礫なり、土石砂礫は一心なるがゆゑに、土石砂礫は土石沙礫なり。もし上乘一心の正傳といはば、かくのごとくあるべし。

経豪

  • 「仏心」を被釈詞なり。「仏心」と云えば、只仏の御胸に御心ありと心得。不可然、以仏体談心なり。故(に)心の外に物なし、「仏の眼睛也」とあり。以仏心とも談ずべし。「破木杓なり」とは、解脱(の)詞なり。諸法也、三界也。是又不及子細、已に三界唯一心と談ずるゆえに、「山海国土、日月星辰」等皆仏心なるべし。
  • 「仏教」と云えば、仏の所談の経を仏教と名づけたり。今は「万像森羅」の体を以て「仏教」と可談也。「外」と云うは、内に対したる外にあらず。然者打ち任せたる人の見解なるべし、此の「万像森羅」の体を指して「外」とは云う也。然者此の「万像森羅を這裏」とは云う也。「来」の詞も去来にあらず、「這裏の来」なるべし。「正伝」と云うも、自他ありて、是が彼に正伝するにてなし、自己より自己に正伝する道理也。ゆえに「正伝の中に自己あるなり」とは、此の正伝が自己なるゆえに、如此云わるるなり。又「一心より一心に正伝する」道理が、「正伝に一心あるべし」と云わる。正伝を以て一心とするゆえに。
  • 「以土石砂礫、上乗一心」とすべし、如文。猶以彼是をと云えば、相対の心地も不失様也。只所落居は、「土石砂礫は土石砂礫」と云わるる道理也。已下如文。

 

 しかあれども、教外別傳を道取する漢、いまだこの意旨をしらず。かるがゆゑに、教外別傳の謬説を信じて、佛教をあやまることなかれ。もしなんぢがいふがごとくならば、教をば心外別傳といふべきか。もし心外別傳といはば、一句半偈つたはるべからざるなり。もし心外別傳といはずは、教外別傳といふべからざるなり。

経豪

  • 御釈分明也。一切の諸法以心為本。然者実(に)「心外別法」と云わん、伝不中用なるべしと聞こゆ。故に「一句半偈不可伝」と云う也。「心外別伝と云う詞なき上は、教外別伝と不可云」とあり、所詮教外別伝と云う事の不可然と云う事を被釈なり。

 

 摩訶迦葉すでに釋尊の嫡子として法藏の教主たり。正法眼藏を正傳して佛道の住持なり。しかありとも、佛教は正傳すべからずといふは、學道の偏局なるべし。しるべし、一句を正傳すれば、一法の正傳せらるゝなり。一句を正傳すれば、山傳水傳あり。不能離卻這裡なり。

 釋尊の正法眼藏無上菩提は、たゞ摩訶迦葉に正傳せしなり。餘子に正傳せず、正傳はかならず摩訶迦葉なり。このゆゑに、古今に佛法の眞實を學する箇々、ともにみな從來の教學を決擇するには、かならず佛祖に參究するなり。決を餘輩にとぶらはず。もし佛祖の正決をえざるは、いまだ正決にあらず。依教の正不を決せんとおもはんは、佛祖に決すべきなり。そのゆゑは、盡法輪の本主は佛祖なるがゆゑに。道有道無、道空道色、たゞ佛祖のみこれをあきらめ、正傳しきたりて、古佛今佛なり。

詮慧

〇「迦葉を仏の嫡子」と云う、弥勒又補処と云う、不審なり。但し弥勒迦葉共に補処と云うべし。弥勒は五十六億七千万歳の後に出世すべし、然者未来の義也。迦葉は現在に正伝すと見ゆ、然而弥勒も迦葉正伝の法を伝うなり。仏、迦葉、弥勒(は)非別也。一の義には仏未成仏、弥勒已成仏と云う事あり。会不会、悟不悟程(の)事也。已成未成無差別也。

〇又弥勒迦葉の外、仏弟子も悟道せざるにあらず。それもただ迦葉の正伝のみなり、非同非別、毎仏大地有情同時成道と云う。今の仏の成道の時、被成道て先仏も成道するなり。

〇「仏心と云うは仏の眼睛也、破木杓也、諸法也、三界なり。ゆえに山海国土、日月星辰なり」、一句を正伝すれば、山伝水伝ありと云うなり。

〇「道有道無、道空道色、仏祖のみこれを明らめ正伝し来たりて、古仏今仏也」

経豪

  • 実(に)正法眼蔵の嫡子として、争か仏教正伝せずと云わん、「一句を正伝すれば、一法正伝せらるる」道理、今に始むべからず。「一句を正伝すれば、山伝水伝あり」とは、只尽界を正伝すと云う心地也。「不能離却這裏」とは、釈尊釈尊に正伝し、迦葉は迦葉に正伝する道理を云うべきなり。物を正伝と云うは、自彼是に正伝するを云うべし。是は只一物の上に置いて正伝と談ず也。此理が「不能離却這裏」とは云う也。
  • 是は無別子細。古よりの教学の輩、真実に仏法を明らめんとする時は、必ず仏祖に参究する姿を被明也。未仏祖の祖門を棄てて、教に訪いたりし輩未聞之。又「有無空色」(の)詞は雖同、祖門に所談の有無空色と、余門に所談の有無空色とは、はるかに異なり。ゆえに「有無空色、只仏祖の明らめ正伝し来たる」とは云わるる也。

 

 巴陵因僧問、祖意教意、是同是別。師云、雞寒上樹、鴨寒入水。

 この道取を參學して、佛道の祖宗を相見し、佛道の教法を見聞すべきなり。いま祖意教意と問取するは、祖意は祖意と是同是別と問取するなり。いま雞寒上樹、鴨寒入水といふは、同別を道取すといへども、同別を見取するともがらの見聞に一任する同別にあらざるべし。しかあればすなはち、同別の論にあらざるがゆゑに、同別と道取しつべきなり。このゆゑに、同別と問取すべからずといふがごとし。

詮慧

〇「巴陵因僧問、祖意教意、是同是別。師云、鷄寒上樹、鴨寒入水」と云う、三界と一心と非同非別。又別也、亦同也。是程の「鷄寒上樹、鴨寒入水」也。

〇赴機の説と、上乗一心の法と、同別の証拠に引此文。但し同也と云わず、別也と云わず。教仏と立つ程の事に成りぬれば、教意祖意の同別も何れと難云。只祖意は祖意と同也や別也やと問う也。水与水同じとは云えども、別とは不知程の事也。如何是仏と問う程の事也。同別の詞(は)不可似世間(の)詞、只鷄の句許りにても可足。鷄句あればとて、不可為二、不可有勝劣也。祖意と祖意との所にも可引此文、教意と教意との所にも、可引此文也。

〇同別の義に付けて、「鷄与鴨」、若しくは「樹与水」を云うにはあらず。今答するには、頗る何となき答えなれども、仏法がやがて是程なる也。「教意と祖意」と同じとも説くべし、世間に談ずる三乗十二分教にあらざるゆえに、又如此云うは、世間の十二分教を総不要の詞の所に解脱すれば、二とは云うまじき也。

衆生の前には仏あれども、仏の上には衆生なし。衆生を解脱するを仏と云うゆえに。

〇今の「鷄寒上樹、鴨寒入水」詞(は)、『坐禅箴』の清水闊空の魚鳥(「大正蔵」八二・一二〇b一六・注)に心得合すべし、不可相違也。

〇凡そは、寒の上に置きて、鷄は上樹、鴨は入水ときに、寒は同じ。されども鷄与鴨、樹与水は別也。然而寒同じければ、教意祖意別なる方もあり、同なる方もあり(と)心得。入門は宗々異なれども、証の位はされば同じ也などと云う輩ままに聞こゆ。これは一向僻見なり、問いも同別の不審にてなし、答えもさらに同也と云わず、別なりと云わぬなり。大悟底人却迷時如何と云う問いに、破鏡不重照落華難上樹(『大悟』「大正蔵」八二・一一四c一〇・注)と答する(は)同心也。但し又十二分教も、三十七品も、大乗至極の法に談ずるとき違う事はなし。いまの三乗も十二分教も、総不要の道理に心得説く時々、聊かも不可違也。ただ同じなるがゆえに、同じからずなどと云う詞にて可了見合すなり。

経豪

  • 此の問答を人の心得たるようは、三乗十二分教と、祖門の仏法と同別を尋ねたる返事に如此あれば、たとえば鷄と鴨とぞの姿異なり。木に上、水に入、上下不同なり。然而寒に木に上、水に入、其意同故、入門こそ各別なるようなれども、教与祖真実には其心同也と多分見んあ心得たり。祖門の所談に水火すべし。
  • 如御釈。教意与祖意の同別を問いしたるにてなし。只「祖意は祖意と是同是別と問取するなり」とは、不審して問いしたるに非ず。祖意と祖意との道理、同とも云うべし。別とも云うべしと云う理を示さるるにてある也。二を相対して同別を非問。「鷄寒上樹、鴨寒入水」と云うも、同別を道取すと云えども、尋常の人の同別を心得たるようなる同別にあらざる也と云う也。
  • 是は打ち任せたる同別ならぬ上は、同別とも云いつべしと云う筋一あるべし。又此の道理の上には、「同別と問取すべからずと云わん」と云う一筋もあるべし。

 

 玄沙因僧問、三乘十二分教即不要、如何是祖師西來意。師云、三乘十二分教總不要。

 いはゆる僧問の三乘十二分教即不要、如何是祖師西來意といふ、よのつねにおもふがごとく、三乘十二分教は條々の岐路なり。そのほか祖師西來意あるべしと問するなり。三乘十二分教これ祖師西來意なりと認ずるにあらず。いはんや八萬四千法門蘊すなはち祖師西來意としらんや。しばらく參究すべし、三乘十二分教、なにとしてか即不要なる。もし要せんときは、いかなる規矩かある。三乘十二分教を不要なるところに、祖師西來意の參學を現成するか。いたづらにこの問の出現するにあらざらん。

詮慧 玄沙段

〇「即不要、総不要」、無差別。「即」の字、今其の物の上に置きて説くと聞こゆ。「総」の字は、物を多く合したるようなれども、只総不要なり、「三乗十二分教」と云う詞に、やがて祖意現るるゆえに不要なり。

〇たとえば、三世不可得と云う程の義なり。三世不住の故に、不可得と云うにはあらず。一心なる上は、何れを得不得ぞと謂われざるなり。又「如何是」と問せんに、総不要は現るべし。如何是仏と問するに、仏あらわるる程の義也。誰か磨塼と見ん、誰か磨磚と見ざらんと云う程の事也。

〇於一仏乗分別説三と説く、総不要也。不断煩悩而入涅槃、これ不可得義也。無明も総不要、一心も総不要、三乗十二分教も総不要、祖師意も総不要なり。

〇「条々岐路也」と云うは、各々の小路ありとなり。

経豪

  • 問答、文に分明也。蹔く僧問の詞、未脱也と聞こゆ。但「祖師問答」の常の習いとして、僧の已脱未脱をば不知。祖師の方よりは、やがて此の詞に付けて法を被直指也と可心得。此の条不始于始于今事也。『仏性』草子にも、尚書の会不会によるべからず(「大正蔵」八二・一〇〇b二一・注)とあり。尤可思合也。
  • 「しばらく可参究」とて、此の僧の詞をやがて取りて被釈なり。彼が会不会によるべからざる道理然也。此の「即不要」の詞がいたずら物にて不可用ゆえに、不要と云うにはあらず。三乗十二分教の道理が、不要と云わるるなり。若し打ち任せて思い付きたるように、不中要なる心地の不要なるべくは、要せん時は如何なるべきぞとあり。不要の時も三乗十二分教、要せん時も三乗十二分教なるべし。三乗十二分教が不要なる道理なるゆえに、「祖師西来意の参学を現成するか」と云う也。ゆえに三乗十二分教と不要と祖師西来意と一体にして、被取り放つべからざるゆえに、実にもかかる道理ある上は、いたづらなる問いの出現にてはあらざるべし。

 

 玄沙いはく、三乘十二分教總不要。

 この道取は、法輪なり。この法輪の轉ずるところ、佛教の佛教に處在することを參究すべきなり。その宗旨は、三乘十二分教は佛祖の法輪なり、有佛祖の時處にも轉ず、無佛祖の時處にも轉ず。祖前祖後、おなじく轉ずるなり。さらに佛祖を轉ずる功徳あり。祖師西來意の正當恁麼時は、この法輪を總不要なり。總不要といふは、もちゐざるにあらず、やぶるにあらず。この法輪、このとき、總不要輪の轉ずるのみなり。三乘十二分教なしといはず、總不要の時節を覰見すべきなり。總不要なるがゆゑに三乘十二分教なり。三乘十二分教なるがゆゑに三乘十二分教にあらず。このゆゑに、三乘十二分教、總不要と道取するなり。

詮慧

〇「総不要なるがゆえに、三乗十二分教なり。三乗十二分教なるがゆえに、三乗十二分教にあらず」と云うは、たとえば春松は有にあらず、無にあらず、作らざる也と、『諸悪莫作』の草子(「大正蔵」八二・四三b一・注)にあるが如し。又大悲菩薩の用許多(『観音』「大正蔵」八二・一五〇b二四・注)とも謂わんが如し。

経豪

  • 「僧は即不要と云う、祖師は総不要」とあり、「総」は今少し広く、「即」は一を差したるように聞こえれども、只同じ詞也。是は只僧の問いがやがて去るべしと被仰たる詞なり。「此の道取は法輪也」とは讃嘆(の)詞也。此の法輪能所転にあらず、「仏教の仏教に所在する」なるべし。
  • 此の「有無」は、打ち任せたる凡夫所念の有無にあらず。只仏祖の上の有無也、有仏無仏の上に仕う有無なるべし。此の仏祖を転と仕う、能転所転の転にあらず。此の「時処」(は)同じ仏祖の当体を指す也。「祖前祖後」と云うも、有仏無仏の有無程の前後なるべし。仏祖より転法輪すると云うべきを、今はすでに「さらに仏祖を転ずる功徳あり」と云う、仏説法、法説仏程の詞なり。
  • 如文。「祖師西来意の時は、此の法輪総不要」の道理あるべき也。如前云、「総不要」と云えば「不用にあらず、破るるにあらず、総不要輪」とあり。総不要は詞かと聞く所を一の現成公案と成りて、「総不要輪」と云いて、此の事んあ則ち転法輪也とあり。能々閑可了見事也。
  • 三乗十二分教を不要と云うにあらず、只「三乗十二分教が総不要」と云わるるなり。ゆえに「総不要なるがゆえに、三乗十二分教也」おは云うなり。又三乗十二分教の道理が至極する時、「三乗十二分教なるがゆえに、三乗十二分教にあらず」とは云わるるなるべし。「このゆえに、三乗十二分教総不要と道取する也」とは云うなり。

 

その三乘十二分教、そこばくあるなかの一隅をあぐるには、すなはちこれあり。

 三 乘

 一者聲聞乘

 四諦によりて得道す。四諦といふは、苦諦集諦滅諦道諦なり。これをきゝ、これを修行するに、生老病死を度脱し、般涅槃を究竟す。この四諦を修行するに、苦集は俗なり、滅道は第一義なりといふは、論師の見解なり。もし佛法によりて修行するがごときは、四諦ともに唯佛與佛なり。四諦ともに法住法位なり。四諦ともに實相なり、四諦ともに佛性なり。このゆゑに、さらに無生無作等の論におよばず、四諦ともに總不要なるがゆゑに。

詮慧

〇修多羅を三に分つ時、修多羅、阿毗(戒也)論、これ三なり。

四諦を呼んで苦集滅道と読む。南都には集の字を濁らかして集と読む。

四諦を一づつ読む時は、集(シツ)と舌をつかせて、諦を引き合せて読む也。

経豪

  • 文に聞こえたり。「般涅槃を究竟す」と云うは、三界の惑いを断じて、無余の化断に帰する所を当分に仰ぎて、「究竟す」とは云うなり。真実の究竟にはあらず。
  • 是又如文。俗とも道とも不可立差別。只「唯仏与仏なるべし」。四教の内猶以三蔵教の四諦、通教の四諦等有浅深。況や仏祖の四諦只総不要なるべし。

 

 二者縁覺乘

 十二因縁によりて般涅槃す。十二因縁といふは、一者無明、二者行、三者識、四者名色、五者六入、六者觸、七者受、八者愛、九者取、十者有、十一者生、十二者老死。

 この十二因縁を修行するに、過去現在未來に因縁せしめて、能觀所觀を論ずといへども、一々の因縁を擧して參究するに、すなはち總不要輪轉なり、總不要因縁なり。しるべし、無明これ一心なれば、行識等も一心なり。無明これ滅なれば、行識等も滅なり。無明これ涅槃なれば、行識等も涅槃なり。生も滅なるがゆゑに、恁麼いふなり。無明も道著の一句なり、識名色等もまたかくのごとし。しるべし、無明行等は、吾有箇斧子、與汝住山なり。無明行識等は、發時蒙和尚許斧子、便請取なり。

詮慧

〇「無明これ一心なれば、行識等も一心なり」と云うは、無明総不要と謂わん同事也。総不要と説く時こそ、十二因縁も祖意なれ。諸法仏法なる時節は、有迷有悟と云う心地也。

〇「十二は皆因縁」なり。因縁と云うまでは、祖意には違うべし。しかるを「一々の因縁を挙して、参究するに総不要、輪転也」と云う時こそ、因縁の詞も祖意にして不要なれ、「吾有箇斧子、与汝住山」と云う。

〇吾有正法眼蔵、附属摩訶迦葉と云う(は)、同事也。「吾に有り」と云う心地は、誰与我二にあらぬ也。「住山」と云う所にて顕然なり。吾亦如是、汝亦如是程の義なり。「吾斧子と汝と住山」と只一なり。「無明、行、識は」今の「斧子」なるべし。都て仏祖皮肉骨髄、又仏祖の物(仏?)具調度と云わんものは、正法眼蔵、多(陀?)羅尼、斧子、拄杖、三昧、吾有と云う上は、勝劣差別あるべからず。同じ義なり。「蒙和尚許斧子、便請取」と云うは、得皮肉骨髄(と)同じかるべし。初祖は汝に与うと云い、二祖は得たりと云う程の通言也。

経豪

  • 過去二因(無明、行)に依りて、現在の五果(識、名色、六入、触、受)を得、現在の三因(愛、取、有)、未来の両果(生、老死)を得る也と談ず也。是を「過去現在未来に因縁せしめて、能観所観を論ず」とは云うなり。「一々の因縁を挙して参究するに」とは、祖門より談ずる道理を被挙也。ゆえに「総不要輪転なり、総不要因縁也」とは云うなり。此の十二因縁一々に現成公案と成りて、無明も、行も、識も、名色等、各々に独立して、一々の現成となるなり。更(に)三世を不可各別、無明も総不要の道理也。行も総不要の道理也。乃至老死等に至るまで、各々に総不要の道理なるべきなり。
  • 如文。所詮十二が引きしろ出であるにてはなし。一々の現成公案となり、ゆえに「無明これ一心なれば、行識等も一心也」と云う也。「無明も道著の一句也」とは、無明独立する時、「道著の一句」となるなり。
  • 此の無明行識のあわいが、「吾有箇斧子与汝住山」と云う程の道理なる也。是は古き詞也、無明行識等の此の詞に当らん事、頗不是信用、何れともなき詞と聞こゆ。但抑も此の詞(は)、吾有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉と被仰たる御詞に、いづく関わるべき、只同心同詞なるべし。我等此理に迷いて、不思入とき、徒なる詞とのみ思う(は)、尤も拙なき事也。以之案之、何となき戯論の雑言も重い入れん時は、皆真如法性の理に同ずべき也。「無明発時蒙和尚許斧子、便請取也」とは、前の詞を領状し、斧子を請け取りぬと云う詞なるべし。是も古き詞、前の詞の答え也。此の詞も迦葉破顔微笑にも当るべき也。

 

參者菩薩乘

 六波羅蜜の教行證によりて、阿耨多羅三藐三菩提を成就す。その成就といふは、造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあらず、久成にあらず、本行にあらず、無爲にあらず。たゞ成就阿耨多羅三藐三菩提なり。

 六波羅蜜といふは、檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禪那波羅蜜般若波羅蜜なり。これはともに無上菩提なり。無生無作の論にあらず。かならずしも檀をはじめとし、般若ををはりとせず。

 經云、利根菩薩、般若爲初、檀爲終。鈍根菩薩、檀爲初、般若爲終。

 しかあれども、羼提もはじめなるべし、禪那もはじめなるべし。三十六波羅蜜の現成あるべし。籮籠より籮籠をうるなり。

 波羅蜜といふは、彼岸到なり。彼岸は古來の相貌蹤跡にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしとおもふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり。この修行、かならず徧界現成の力量を具足するがゆゑに。

詮慧

〇「六波羅蜜の教行証に依りて、阿耨多羅三藐三菩提を成就ぞ、成就は造作にあらず、無作にあらず、始起にあらず、新成にあらず、久成にあらず、本行にあらず、無為にあらず。成就阿耨多羅三藐三菩提なり」と云う、此の事(は)教行証によらば、いかでか造作にてもなからん、いま成就せば、始起にてもなからん、新成にてもなからんと覚ゆ。無為も難用、ただ成就阿耨多羅三藐三菩提なるべき也。

〇「経云、利根菩薩、般若為初、檀為終。鈍根の菩薩、檀為初、般若を為終」(と)云う、但三十六波羅蜜と現成する上は、いづれか始終と難云。「檀」と云うは施行と説くなり。「般若」と云うは智慧也。しからば利根の菩薩智慧あるべければ、如此云う也。然而波羅蜜(は)皆到彼岸なるべし、彼岸到なり。「彼岸修行は、あるがゆえに、修行すれば彼岸に到なり」と云う。

〇「六波羅」と云うは、すでに名目六に分れて、「檀波羅蜜、尸羅波羅蜜、羼提波羅蜜、毘梨耶波羅蜜、禅那波羅蜜般若波羅蜜」とはあれども、終りには皆波羅蜜とあれば、只同事なるべし。「波羅蜜」は梵語、到彼岸と飜す。是又彼岸到也。六波羅蜜をすでに三十六波羅蜜と云い、檀を初め、般若を終り、などと努々(ゆめゆめ)分くべきにあらず。かように談ずる時は、無上菩薩の条勿論也。まことに「無生無作の論あるべからず」。十二分教をも一分教と云う如く、波羅蜜は一波羅蜜也。

経豪

  • 常には、今の六波羅蜜を修行する力に依りて、「阿耨多羅三藐三菩提を成就す」と云えり。是は今の阿耨菩提を以て、六波羅蜜とすべし。別の修行に依りて、阿耨多羅三藐三菩提を成就すとは不可心得也。今の修行を以て、阿耨多羅三藐三菩提とすべし。此の成就の姿、今明かさるるが如く、造作無造作等にあらざるべし。「無作、久成、本行、無為」等は、悪しかるべきにあらず。然而有に対したる無、新に対したる久、末に対したる本なるべくは、不可用と被嫌なり。
  • 如文。此の六波羅蜜、檀の時、余の五波羅蜜は檀に蔵身する也。檀の外に自余不可有、余の波羅蜜も以同前なるべし。実にも必ず(しも)檀は始めなるべからず、いづれも始めなるべし。始終に付けて、浅深軽重に云う義あるべからず。檀波羅蜜に余の五を帰すれば、一波羅蜜に六也、然者六六三十六也。ゆえに「三十六波羅蜜の現成あるべし」とは云う也。「籮籠」とは、打ち任すは繋縛の詞也。打ち破るは解脱の詞也。此の「籮籠より籮籠をうる」と云うは、六波羅蜜より六波羅蜜を得る所を、籮籠より籮籠をうるとは云うなり。然者此の籮籠は繋縛の詞にはあらざるべし。
  • 波羅蜜」は梵語、ここには到彼岸と飜す。此の修行力に答えて、彼岸に到ると思い付けたり。是通慢の義也。是は不爾、ゆえに「彼岸は古来の相貌蹤跡にあらず」と云う。然而到の公案現成するに、「到は現成する也」と云うなり。「修行して彼岸へ到ると思うべからず」とは、此の修行がやがて彼岸なるゆえに、如此談ず也。故(に)「彼岸に修行あるゆえに」とは被釈なり。修行が彼岸なるゆえに、「修行すれば彼岸到也」とは云わるる也。此の修行証を不待、ゆえに「徧界現成の力量を具足す」と云う也。修行独立の道理なるべし。修行徧界に現成せん時、証を待つ時刻、総不可有也。

 

   十二分教

  一者素纜     此云契經

  二者祇夜      此云重頌。

  三者和伽羅那    此云授記。

  四者伽陀      此云諷誦。

  五者憂陀那     此云無問自説。

  六者尼陀那     此云因縁。

  七者波陀那     此云譬喩。

  八者伊帝目多伽   此云本事。

  九者闍陀伽     此云本生。

  十者毘佛略     此云方廣。

  十一者阿浮陀達磨  此云未曾有。

  十二者優婆提舎   此云論議

 如來則爲直説陰界入等假實之法、是名修多羅。或四五六七八九言偈、重頌世界陰入等事、是名祇夜。或直記衆生未來事、乃至記鴿雀成佛等、是名和伽羅那。或孤起偈、記世界陰入等事、是名伽陀。或無人問、自説世界事、是名優陀那。或約世界不善事、而結禁戒、是名尼陀那。或以譬喩説世界事、是名阿波陀那。或説本昔世界事、是名伊帝目多伽。或説本昔受生事、是名闍陀伽。或説世界廣大事、是名毘佛略。或説世界未曾有事、是名阿浮達摩。或問難世界事、是名優婆提舎。此是世界悉檀、爲悦衆生故、起十二部經。

詮慧

〇此の「十二分教」を心得も、仏以一音演説法、衆生随類各得解(『維摩詰所説経』上「大正蔵」一四・五三六a二・注)の義也。十二分教の各々の上に、総不要の字を置くべきなり。

〇「如来則為直説陰界入等仮実之法、是名修多羅」(『妙法蓮華経玄義』第一下「大正蔵」三三・六八八b五・注)と云うは、仏性・真如等の法をこそ、如来は宗と説き給うべきに「陰界入等」許りを挙ぐ。如何、若し「仮実之法」と云えば、「仮」は陰界入等に当りて、実には仏性・真如に当りつるかと覚ゆ。不然、四悉檀義解也。四悉檀と云うは、世界悉檀、為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀(『大智度論』「大正蔵」二五・五九b一九・注)これ四なり。今「陰界」と云うは、五陰世間事也。世界悉檀に当る也。「仮実」も付世界て云う也、一向世界悉檀也、非第一義諦。第一義諦悉檀を説かん時、又「仮実」もあるべし。そのとき仏法なるべし。

経豪

  • 十二分教(修多羅とも云う、十二分教とも云う)。

契経・素呾纜―法本とも、線経とも云う、只経と云う心地なり。大小乗共に経とは云えども説相異也。大乗の義・小乗の義、これ異なるべし。法本の法ぞ、経の義に同じかるべき。末に対したる本の義にてなき也。

重頌・祇夜―長行を重ねて説くを、以偈頌述ぶる也。是無別義。

授記・和伽羅那―教に云うこと義なるべからず。委細見于授記巻直記衆生未来事乃至記鴿雀成仏等、是名和伽羅那。或孤起偈なり。

諷誦・伽陀―記世界陰入等事長行を重ねて説くにてはなし。はじめより以頌説之なり。諷誦の心変わるべし、大方は経に云うがごとし。

無問自説・憂陀那―諸経論皆無問自説也、無能所説が自説なるなり。又仏必ず説き御うと云うべからず。ただ自説なるなり、人無問自説世界事。

因縁・尼陀那―総不要因縁を用いるべし。

譬喩・波陀那―大涅槃と云うは、如雪山と云う。是ぞ譬うべきを喩うるにてはあるべき。世間に云う喩えとは不可心得。

本事・伊帝目多伽―説本昔世界事也。対末たる本にはあらず。

本生・闍陀伽―同説本昔受生事。

方広・毘仏略―説世界広大事、無辺際義也。教にも如此云う、但今の辺際は異なるべし。徹底清水闊空の空の空程の義なるべし。

未曾有・阿浮陀達磨―説世界未曾有事不可得不思議などと云う程の事也。

論議・優婆提舎―問難世界事、此是世界悉檀為悦衆生故、起十二部教、非問難能所、たとい問難の詞有りとも、非自他誹論べし。

  • 十二分教、次第委見于御釈終。「此是世界悉檀、為悦衆生故、起十二部経」文、四悉檀者、世界悉檀、為人悉檀、対治悉檀、第一義悉檀也。已に以三乗十二分教、上乗一心法と談ずるに、今の世界悉檀、為悦衆生とあり。然者非一心上乗法と被嫌、分に聞きたり。然而此の「世界」と者、尽十方界也。「衆生」と者、諸法仏法の上の衆生なく、全不可混凡見なり。

 

 十二部經の名、きくことまれなり。佛法よのなかにひろまれるときこれをきく、佛法すでに滅するときはきかず。佛法いまだひろまらざるとき、またきかず。ひさしく善根をうゑてほとけをみたてまつるべきもの、これをきく。すでにきくものは、ひさしからずして阿耨多羅三藐三菩提をうべきなり。

 この十二、おのおの經と稱ず。十二分教ともいひ、十二部經ともいふなり。十二分教おのおの十二分教を具足せるゆゑに、一百四十四分教なり。十二分教おのおの十二分教を兼含せるゆゑに、たゞ一分教なり。しかあれども、億前億後の數量にあらず。これみな佛祖の眼睛なり、佛祖の骨髓なり、佛祖の家業なり、佛祖の光明なり、佛祖の莊嚴なり、佛祖の國土なり。十二分教をみるは佛祖をみるなり、佛祖を道取するは十二分教を道取するなり。

 しかあればすなはち、青原の垂一足、すなはち三乘十二分教なり。南嶽の説似一物即不中、すなはち三乘十二分教なり。いま玄沙の道取する總不要の意趣、それかくのごとし。この宗旨擧拈するときは、たゞ佛祖のみなり。さらに半人なし、一物なし、一事未起なり。正當恁麼時、如何。いふべし、總不要。

詮慧

〇「十二分教おのおの十二分教を具足せるゆえに、一百四十四分教也。十二分教おのおの十二分教を兼含せるゆえに、一分教なり」と云うは、まづ「具足」と云う詞、何様に可心得ぞ。天台に十界互具と云うは、一界に残りの九界の性を具足するゆえに、十のもの十づつになれば、百界也。これに十如を具足するとき千となり、国土世界と衆生とを、又具足して、三千世間(界?)と云う。ただし今云う所の百四十四分教は、此の義にてはなし、皆各々に成りぬるとこそ心得る時に、いづれを祇夜とも、重頌とも、不被取也。「十二分教互いに兼含すれば、一分教」と云う、この心なり。数量の分際を超越するゆえに、「具足」と云う詞は、十界互いに具足すれども、一界と面立て、九界具足するゆえに、或時は地獄界面と成りて、余の九三界は被具足。惑時は仏界面成りて、余の九界被具足、如此なるを「具足」と仕う。「兼含」と云う詞は、別円の二教を華厳の時ならべて説く。別を本として、これを「兼含」と云う。十二分教互いに兼含するゆえに、一分教となり。十二分教各々の名ある時は、総属別名の義也。

天台に云う所の兼単(但?)対帯(『宗鏡録』十一「大正蔵」四八・四七四c二一・注)の義は、

兼、別円の二教を幷べて説く、是を兼と云う。

単、ただ小乗の義許りを説く、ゆえに単と云う。

対、対四教機説之、勝劣ありと云わず。

帯、畢竟皆空の妙理を説き、通別の両教を帯す、ゆえに帯と云う也。

〇十二分教、九部開合の差別ある事なし、只同事也。百四十四部などと云う時、余る事なく、不足なる義なきなり。

経豪

  • 如御釈、無殊子細。一分教、各十二分教を具足すれば、都合一百四十四分教也。又十二分教に各十二分教を兼含すれば、又返りて一分教と云わるべき也。前の六波羅蜜の兼含すたりつる定めなるべし。
  • 如此云えども、打ち任せたる億千万の数量にあらざる所を、如此云うなり。以之「仏祖の眼睛とも、骨髄とも、光明とも、国土荘厳とも」可談也。
  • 是は人の法を問いせし時、「青原足を垂(おろ)して」被示法事有りき。「南嶽説似一物即不中」の詞、皆「十二分教なるべし」と云う也。「玄沙の総不要の意趣も如此なり」と被釈也。
  • 是は此の理を挙ぐる時は、仏祖の外に又余物なき所を、「半人なし、一物なし」と云う也。只仏祖のみあるべき也。唯仏与仏是也。
  • 此の十二分教の道理の時は、只「総不要」と云わるるなりと云う也。

 

 あるいは九部といふあり。九分教といふべきなり。

  九 部

  一者修多羅  二者伽陀   三者本事

  四者本生   五者未曾有  六者因縁

  七者譬喩   八者祇夜   九者優婆提舎

 この九部、おのおの九部を具足するがゆゑに、八十一部なり。九部おのおの一部を具足するゆゑに九部なり。歸一部の功徳あらずは、九部なるべからず。歸一部の功徳あるがゆゑに、一部歸なり。このゆゑに八十一部なり。此部なり、我部なり、拂子部なり、拄杖部なり、正法眼藏部なり。

詮慧

〇九部事、十二分教の内三を略して、九部と説く。一二の次第替りたれども、其意不可替、ただ如十二分教。

〇一部を具足するがゆえに、九部也と云うは、その理ただ一部なる也。本事一尺なれば、本生一尺也と謂わんが如し。非員数義也。いま云う九部、一部等は「払子部也、拄杖部也、正法眼蔵部也」。

経豪

  • 此の「一部」と云うは、修多羅に自余の八が帰する所を「帰一部」と云うべし。「一部帰一部」と云うは、修多羅に余の八が帰しぬれば、只修多羅の外に物なし。然者修多羅に修多羅が帰したるなり。是を「一部帰一部」と云うべきなり。自余も如此なるべし、修多羅許りに不可限なり。

 

 釋伽牟尼佛言、我此九部法、隨順衆生説。入大乘爲本、以故説是經。

 しるべし、我此は如來なり、面目身心あらはれきたる。この我此すでに九部法なり、九部法すなはち我此なるべし。いまの一句一偈は九部法なり。我此なるがゆゑに隨順衆生説なり。しかあればすなはち、一切衆生の生從這裏生、すなはち説是經なり。死從這裏死は、すなはち説是經なり。乃至造次動容、すなはち説是經なり。化一切衆生、皆令入佛道、すなはち説是經なり。この衆生は、我此九部法の隨順なり。この隨順は、隨佗去なり、隨自去なり、隨衆去なり、隨生去なり、隨我去なり、隨此去なり。その衆生、かならず我此なるがゆゑに、九部法の條々なり。

 入大乘爲本といふは、證大乘といひ、行大乘といひ、聞大乘といひ、説大乘といふ。しかあれば、衆生は天然として得道せりといふにあらず、その一端なり。入は本なり、本は頭正尾正なり。ほとけ法をとく、法ほとけをとく。法ほとけにとかる、ほとけ法にとかる。火焔ほとけをとき、法をとく。ほとけ火焔をとき、法火焔をとく。

 是經すでに説故の良以あり、故説の良以あり。是經とかざらんと擬するに不可なり。このゆゑに以故説是經といふ。故説は亙天なり、亙天は故説なり。此佛彼佛ともに是經と一稱し、自界佗界ともに是經と故説す。このゆゑに説是經なり、是經これ佛教なり。しるべし、恒沙の佛教は竹篦拂子なり。佛教の恒沙は柱杖拳頭なり。

 おほよそしるべし、三乘十二分教等は、佛祖の眼睛なり。これを開眼せざらんもの、いかでか佛祖の兒孫ならん。これを拈來せざらんもの、いかでか佛祖の正眼を單傳せん。正法眼藏を體達せざるは、七佛の法嗣にあらざるなり。

詮慧 釈迦牟尼仏言段

〇我此九部法、随順衆生説。入大乗為本、以故説是経。

「入は本也、本は頭正尾正也」、尤如文可心得也。凡そ此文を如教了見せば、相伝法には可相違歟。如何、「我此」とあるは今の釈尊なるべし。「九部」とあるは今の仏法なるべし。「随順衆生」とあれば、又無子細。我等ごとき衆生歟。仏と法と衆生と、此の三似有差別、然者無彼此、無能所とは如何が云うべき。「入大乗為本」とあれば、まづ「入」と云う字、いづくへ入ると見えず。又「本」とはあれども、如何なるものが本とも見えず、末にも不対。これを嫡々正伝の法に心得は、我と名乗らせ御も、法なるべし。仏法を説き法仏を説くゆえに、衆生とて仏の外にある事なし。生仏一如と談ずるゆえに、仏と法と衆生とは一如なるべし。心外に無別法のゆえに、已に無差別と説く。「以故説是経」とある、「是経」は法華経なるべし。『法華』の心唯一仏乗也、十方仏土中、唯有一乗法(「方便品」「大正蔵」九・八a一七)なるゆえに、ただ「入」をやがて、「本」として大乗と心得なり(心仏及衆生は、一に合するにてはなし。その丈(たけ)一にて心仏衆生々程なりを、無差別と説くなり)。

経豪

  • 「我此」とは、釈尊御事歟。仏為衆生九部法を説き給い、「随順衆生説」とあれば、是は赴機説也、非仏本意。「入大乗為本、以故説是経」と心得たり。文の面又分明なり、但今義非爾。所詮今は「我此を以て九部法」と説くゆえに、能説所説の義にあらず。「今の一句一偈は九部法なるべし」。今の随順衆生説と云わるる「衆生」は、諸法仏法の上に説く衆生也。ゆえに「随順の姿やがて衆生也」。随順が随順に随順し、衆生衆生に随順したる道理なるべし。「説」と云うもやがて随順衆生を説と談ず也。
  • 「一切衆生は生従這裏生」とは、「生」と云うも則ち此の九部法の生なるゆえに、「説是経也」と云う。「死」と云うも此の内よりの死なれば、「則ち説是経也」と云う也。「化一切衆生、皆令入仏道」の詞も、此の衆生は随順衆生衆生なり。皆令入仏道の「入」も我此九部法を「入仏道」と仕う。随順衆生説を「入仏道」と可談也。此の一切衆生と入仏道の「仏道」と、彼此にあらぬ道理が、「化一切衆生とも皆令入仏道」とも云わるるなり、以此理、「説是経」と談ず也。
  • 仏の衆生に随順して、説是経するにてはなし。「此の衆生は我此九部法の随順なり」、この随順の様は、「他にも自にも、衆にも生にも、我にも此にも」随順しもてゆくなり。必ず(しも)九部法許り衆生許りに随順するにてなし。万物皆随順すべき也。ゆえに他も随順なるべし、乃至自衆生我是等、皆随順の道理なるゆえに、是が彼に随順すとは不可心得なり。「此の衆生我此なるゆえに、九部法の条々」なれども、皆随順の姿同じかるべき也。
  • 「入大乗為本」と云うは、大乗を極果に思いて、小より大に入るぞと心得。此の「入」の字は、証とも行とも聞とも説とも云う程の「入」なるべし。得道を至極として云うにはあらず。得道の詞も一端なり、説とも、行とも、聞とも云う詞が得道と云うに、勝劣あるべしと不可心得なり。「入」は浅く「本」は深しと云うべからず。只此の入本は「頭正尾正なり」。
  • 此の詞は「我此と九部法」とのあわい、「以故説是経」のあわいが、如此云わるる也。「我此と九部法」とは、「仏法を説き、法仏を説き、仏法に説かれ、法仏に説かる。仏火焔を説き、法火焔を説く」程の道理なるべしと云うなり。我此は九部法と説き、九部法は我此を説く理なり。随順衆生説のあわいも又如此なるべし。「是経すでに説故の良以なり、故説の良以」とは、我此九部法、随順衆生説、入大乗為本の詞を挙げて、「以故説是経」とは云う也。我此と九部法とのあわい、蹔くも我此九部法ならぬ時刻あるべからず。ゆえに「是経すでに故説の良以あり」と云わるる也。是経ならぬ時刻不可有所を「是経説かざらんと擬するに不可也。此の故に、以故説是経と云う」なりとは被釈也。
  • 是は故説の道理、尽界なる道理を如此云うなり。「此仏彼仏も、自界他界も」、所詮今は是経道理なるべし。只黄紙朱軸の妙文許りを執したりつる心地にて、今は此理に迷なり。能々可了見事也。
  • 「仏教は竹篦払子也」とあれば、立耳様なれども、仏祖所談の竹篦拄杖の姿、不可始于今事也。只所詮三乗十二分教祖師の意にあらず。三乗十二分教の外に上乗一心の法ありと云う事を大いに被嫌なり。始中終三乗十二分教の仏祖の法なる理を釈し表わさるるなり。此帖の本意只可在此事なり。

所詮仏法心得様、大小権実に亘り、機の浅深に依りてと云うは、是等の心得様にて、且可了見事也。其の故は、以我此九部法と談ず。ゆえに我此与九部法只一体也。随順衆生説とは、此の随順衆生説与衆生、全非各別体。以随順衆生とし、以衆生随順とす。此の親切の随順なるべし。入大乗為本と云えば、小乗より大乗に入るとは不可心得。やがて大乗を以て入と仕う也。然者我此も、九部法も、随順も、衆生も、只一物一理也。此道理今は説是経とは名(づく)なり。能説所説の説にあらざるべし。如此心得れば、此文只一理なり、一物也、一同也、一体也。如此談ずるを仏法とは名(づく)なり。而迷此理ゆえに、我此は如来、九部と云うは仏所説の法、雖非仏本意、随順衆生にして説き給う。入大乗を為本して、大乗に入るを為極果、ゆえに此経を説くぞと心得なり。只一理なる法の道理を、仏与法を各別し、衆生を置きて随順の詞を付け、能所所説するように、説是経の詞をも心得、癖なき者に心と癖を付けたるようなる心得様なり。是を則ち名凡見、能々閑可思量分別事也。

仏教(終)

2022年9月27日(タイ国にて 擱筆

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。