正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵伝衣

正法眼蔵第三十二 伝衣

    一

佛々正伝の衣法、まさに震旦に正傳することは、少林の高祖のみなり。高祖はすなはち釋迦牟尼佛より第二十八代の祖師なり。西天二十八代、嫡々あひつたはれ、震旦に六代、まのあたり正傳す。西天東地都盧三十三代なり。第三十三代の祖、大鑑禪師、この衣法を黄梅の夜半に正傳し、生前護持しきたる。いまなほ曹谿寶林寺に安置せり。諸代の帝王あひつぎて内裏に請入して供養す、神物護持せるものなり。唐朝の中宗肅宗代宗、しきりに歸内供養しき。請ずるにもおくるにも、勅使をつかはし、詔をたまふ。すなはちこれおもくする儀なり。代宗皇帝、あるとき佛衣を曹谿山におくる詔にいはく、

今遣鎭國大將軍劉崇景、頂戴而送。朕爲之國寶。卿可於本寺安置、令僧衆親承宗旨者、嚴加守護、勿令遺墜。

しかあればすなはち、數代の帝者、ともにくにの重寶とせり。まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、この佛衣くににたもてるは、ことにすぐれたる大寶なり。卞璧に准ずべからざるものなり。たとひ傳國璽となるとも、いかでか傳佛の奇寶とならん。大唐よりこのかた瞻禮せる緇白、かならず信法の大機なり。宿善のたすくるにあらずよりは、いかでかこの身をもちて、まのあたり佛々正傳の佛衣を瞻禮することあらん。信受する皮肉骨髓はよろこぶべし、信受することあたはざらんは、みづからなりといふとも、うらむべし、佛種子にあらざることを。俗なほいはく、その人の行李をみるは、すなはちその人を見なり。いま佛衣を瞻禮せんは、すなはち佛をみたてまつるなり。百千萬の塔を起立して、この佛衣に供養すべし。天上海中にも、こゝろあらんはおもくすべし。人間にも、轉輪聖王等のまことをしり、すぐれたるをしらんは、おもくすべきなり。あはれむべし、よゝに國主となれるやから、わがくにに重寶のあるをしらざること。まゝに道士の教にまどはされて、佛法を癈せるおほし。その時、袈裟をかけず、圓頂に葉巾をいたゞく。講ずるところは延壽長年の方なり。唐朝にもあり、宋朝にもあり。これらのたぐひは、國主なりといへども國民よりもいやしかるべきなり。しづかに觀察しつべし、わがくにに佛衣とゞまりて現在せり。衣佛國土なるべきかとも思惟すべきなり。舎利等よりもすぐれたるべし。舎利は輪王にもあり、師子にもあり、人にもあり、乃至辟支佛等にもあり。しかあれども、輪王には袈裟なし、師子に袈裟なし、人に袈裟なし。ひとり諸佛のみに袈裟あり、ふかく信受すべし。いまの愚人、おほく舎利はおもくすといへども、袈裟をしらず、護持すべきとしれるもまれなり。これすなはち先來より袈裟のおもきことをきけるものまれなり、佛法正傳いまだきかざるゆゑにしかあるなり。つらつら釋尊在世をおもひやれば、わづかに二千餘年なり。國寶神器のいまにつたはれるも、これよりもすぎてふるくなれるもおほし。この佛法佛衣は、ちかくあらたなり。若田若里に展轉せんこと、たとひ五十轉々なれりとも、その益これ妙なるべし。かれなほ功徳あらたなり。この佛衣、かれとおなじかるべし。かれは正嫡より正傳せず、これは正嫡より正傳せり。

『伝衣』巻と対になるのが『袈裟功徳』巻ですが、奥書によるならば両巻ともに仁治元年(1240)開冬日(十月一日)に、「伝衣」は記され「袈裟功徳」は示衆されたとすると、「伝衣」は草稿本で「袈裟功徳」が清書本と位置づけてみると、「伝衣」は七十五巻本に編入され「袈裟功徳」は十二巻本に配置する周到さを考えると、袈裟に対する信法・信仰が伝わる感がある。

「仏々正伝の衣法、まさに震旦に正伝する事は、少林の高祖のみなり。高祖は則ち釈迦牟尼仏より第二十八代の祖師なり。西天二十八代、嫡々あい伝われ、震旦に六代、まのあたり正伝す。西天東地都盧三十三代なり。第三十三代の祖、大鑑禅師、この衣法を黄梅の夜半に正伝し、生前護持しきたる。今なお曹渓宝林寺に安置せり。諸代の帝王あいつぎて内裏に請入して供養す、神物護持せるものなり」

毎巻の如くに、冒頭にて当巻の主旨が述べられます。

「仏々正伝の衣法」に云われる正伝は本流・傍流に対する正伝ではなく、「正とは無相の義なり」の言の如く、邪に対する正ではないのです。衣法とは袈裟と仏法を唱うるものですが、これは「衣法」で以て熟語とするものです。

「震旦に正伝する事は、少林の高祖のみなり」の震旦はサンスクリット語Cina+sthanaの音写語で〇〇スタンとは印欧語共通の土地を意味する(アフガニスタンウズベキスタンなど)。「少林の高祖」とは河南省にある嵩山少林寺の、菩提達磨が伝えた実践仏教を云う。

「高祖は則ち釈迦牟尼仏より第二十八代の祖師なり」と、達磨は釈迦よりとするが、この場合は釈迦はカウントに入れず魔訶迦葉を第一祖とし、釈迦牟尼仏過去七仏の最後仏とする。

「西天二十八代、嫡々あい伝われ、震旦に六代」の震旦に六代は、菩提達磨を含め慧可・僧璨・道信・弘忍・慧能と続くものです。西天二十八代東地六代とすべて(都盧)三十三代となるとは、菩提達磨を西天二十八祖・震旦初祖と二回カウントするからである。

「第三十三代の祖、大鑑禅師」大鑑禅師は、いわゆる六祖慧能(638―713)で、この慧能の弟子の青原行思(―740)と南嶽懐譲(677―744)から曹洞系と臨済系に分派された事から、両人の師である慧能を三十三代の祖と表現するわけです。

「この衣法を黄梅の夜半に正伝」は師匠の大満弘忍(601―674)から黄梅山(湖北省)にて夜中(半)に衣法の授受が行われた。その衣(袈裟)が今なお曹渓宝林寺(広東省)に安置し、「諸代の帝王」(中宗・粛宗・代宗)が宮中(内裏)に迎え入れ(請入)て、神物護持した。としますが、この文言は『袈裟功徳』とほぼ同文です。

「唐朝の中宗肅宗代宗、しきりに帰内供養しき。請ずるにも送るにも、勅使を遣わし、詔を賜う。即ちこれ重くする儀なり。代宗皇帝、あるとき仏衣を曹渓山に送る詔に云く、今遣鎮国大将軍劉崇景、頂戴而送。朕為之国宝。卿可於本寺安置、令僧衆親承宗旨者、厳加守護、勿令遺墜」

「中宗」(ちゅうそう656―710)は高宗の七男で、唐の第四代皇帝。「肅宗」(しゅくそう711―762)は玄宗の三男で、第七代皇帝。「代宗」(だいそう726―779)は粛宗の長男で、第八代皇帝。

第八代の代宗皇帝の時に、仏袈裟を曹渓山に返却するする詔では、「今鎮(わが)国の大将軍の劉崇景を遣して、頂戴(頭に戴せて)して送らせる。朕(代宗)はこれ(仏衣)を国宝と為す。卿(劉崇景)は本寺(宝林寺)に安置し、僧衆で親しく宗旨を承った者には、厳しく守護を加えて、遺墜すること勿れ」との詔勅であった。

この箇所も『袈裟功徳』に援用されます。

「しかあれば即ち、数代の帝者、ともに国の重宝とせり。まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、この仏衣国に保てるは、殊に勝れたる大宝なり。卞璧に准ずべからざるものなり。たとい伝国璽となるとも、如何でか伝仏の奇宝とならん。大唐よりこのかた瞻礼せる緇白、必ず信法の大機なり。宿善の助くるにあらずよりは、如何でかこの身を持ちて、まのあたり仏々正伝の仏衣を瞻礼することあらん。信受する皮肉骨髄は喜ぶべし、信受すること能わざらんは、みづからなりと云うとも、恨むべし、仏種子にあらざる事を」

「数代の帝者」とは先の中宗・粛宗・代宗の帝者は、仏衣を国の重宝とする事実は、ガンジスの無量の砂粒の如くの三千大千世界(無限世界)を統治するよりも、仏衣(袈裟)を重宝とする方が勝れた事である、と云う価値観の転換を促す処です。

「卞璧(べんぺき)に准ずべからざるものなり」とは、「卞和泣玉」の話が元で「春秋時代の楚で卞和(べんか)又は和氏(かし)と云う正直者が、楚山で宝玉の原石を見つけ、時の厲王(れいおう)に献上したが認められず左足を切断され、次の武王にも献じたが同様で右足を切られたが、三人目の文王には璧である真実が受け入れられ、その玉璞(あらたま)は和氏の璧と呼ばれた」。それが元で完璧の故事の由来となるわけですが、ですから「卞璧に准ずべからざるものなり」とは、真の価値あるもの(仏袈裟)を見過ごしてはならない、ことへの警鐘です。「伝国璽(でんこくじ)とは王位継承のしるしで、日本で云えば三種の神器等に該当し、卞璧は伝国璽になっても、伝仏の奇宝とは為り得ないものである。

「大唐よりこのかた」唐の時代(618年から)よりお袈裟を瞻礼(せんらい)する緇白(黒と白で僧俗)は、必ず信法の大機(器)である。この礼拝するのは、宿善(前世の前業)の助力が有ってのことで、どうして此の身で以て、目の当たりに仏々正伝する仏袈裟を拝見できるだろうか。正伝の仏衣を信受する人間(皮肉骨髄)は喜び、信受できないなら自身を恨むべきであり、それは仏の種子が無いからである。

「俗なお云く、その人の行李を見るは、即ちその人を見なり。いま仏衣を瞻礼せんは、便ち仏を見たてまつるなり。百千万の塔を起立して、この仏衣に供養すべし。天上海中にも、心あらんは重くすべし。人間にも、転輪聖王等のまことを知り、勝れたるを知らんは、重くすべきなり。憐れむべし、代々に国主と為れる輩、わが国に重宝のあるを知らざること。まゝに道士の教に惑わされて、仏法を癈せる多し。その時、袈裟を掛けず、円頂に葉巾を戴く。講ずる処は延寿長年の方なり。唐朝にもあり、宋朝にもあり。これらの類いは、国主なりと云えども国民よりも賤しかるべきなり」

世間でも、その人の生活態度(行李)を見れば、その人自身が見えると。仏道者に於いては、仏衣の瞻礼は即ち見仏であり「百千万の塔を起立して」とは、称徳(孝謙天皇(718―770)時代に法隆寺等に奉納した百万塔陀羅尼を想起してとも考えられますが、只管に坐禅する姿を「百千万塔」と模したとも受け取められ、その坐禅仏衣が供養であるとも考察されます。「天上海中」と何処に在っても、仏衣を重宝する心を重くし、人間であっても転輪聖王という時であっても、仏衣を供養するまこと(真)が重くなるはずである。

「憐れむことに、代々国主と為る連中」には、自分の国に重宝(仏衣)が有るを知らないのある。「往々(まま)に道士(道教)の教えに惑わされ仏法を癈せる多し」とは、会昌(えしょう)の破仏(845年)を指すものです。

その時には仏僧も袈裟は禁止で、円頂(円めた頭頂)には葉巾(冠の類)を著け、その道士の講ずるものは、延寿長年(不老長寿・丹薬・一説には水銀朱の服用)である。このような事例は唐朝・宋朝にもあり、国主(武宗)であっても国民よりも賤しいのである。

「静かに観察しつべし、わが国に仏衣留まりて現在せり。衣仏国土なるべきかとも思惟すべきなり。舎利等よりも勝れたるべし。舎利は輪王にもあり、師子にもあり、人にもあり、乃至辟支仏等にもあり。しかあれども、輪王には袈裟なし、師子に袈裟なし、人に袈裟なし。ひとり諸仏のみに袈裟あり、深く信受すべし」

静かに観察して、自分の国(中国)に仏衣が留まり存在するのは、衣仏国土であるからと思うべきで、仏舎利等よりも勝れた事である。「舎利」は転輪聖王にも獅子(ライオン)にも人にも辟支仏等にも有るが、袈裟は輪王・獅子・人には無く、一人諸仏のみに在ることに深く信仰受用しなさい。

「今の愚人、多く舎利は重くすと云えども、袈裟を知らず、護持すべきと知れるも稀なり。これ即ち先来より袈裟の重き事を聞けるもの稀なり、仏法正伝未だ聞かざる故にしか有るなり。つらつら釈尊在世を思いやれば、僅かに二千余年なり。国宝神器の今に伝われるも、これよりも過ぎて古くなれるも多し。この仏法仏衣は、近く新たなり。若田若里に展転せん事、たとい五十転々なれりとも、その益これ妙なるべし。彼なお功徳あらたなり。この仏衣、かれと同じかるべし。かれは正嫡より正伝せず、これは正嫡より正伝せり」

一般人(愚人)の多くは、遺骨(舎利)は重要と云うが、袈裟は知らず、ましてや護持すべきと知る者は稀である。仏法の聞法を未だ聞かない為の故である。

よくよく(つらつら)釈尊在世を思いやっても僅に二千余年であり、これよりも古い「国宝や神器」が多く伝わっている。「仏法・仏衣」は国宝・神器に較べれば最近のことで、新しい事ではあるが、「若田若里」の場所に展転されても、また五十人の人の間に転々と伝えられても、その袈裟の護持する益は妙なるもので、その仏法の功徳は顕然し、この仏衣の功徳も同様である。かれ(国宝・神器)は正嫡よりは正伝していないが、これ(仏法・仏衣)は正嫡より正伝するものである。

しるべし、四句偈をきくに得道す、一句子をきくに得道す。四句偈および一句子、なにとしてか恁麼の靈験ある。いはゆる佛法なるによりてなり。いま一頂衣九品衣、まさしく佛法より正傳せり。四句偈よりも劣なるべからず、一句法よりも験なかるべからず。このゆゑに、二千餘年よりこのかた、信行法行の諸機ともに隨佛學者、みな袈裟を護持して身心とせるものなり。諸佛の正法にくらきたぐひは袈裟を崇重せざるなり。いま釋提桓因および阿那跋達多龍王等、ともに在家の天主なりといへども、龍王なりといへども、袈裟を護持せり。しかあるに、剃頭のたぐひ、佛子と稱ずるともがら、袈裟におきては、受持すべきものとしらず。いはんや體色量をしらんや、いはんや著用の法をしらんや。いはんやその威儀、ゆめにもいまだみざるところなり。袈裟をばふるくよりいはく、除熱惱服となづく、解脱服となづく。おほよそ功徳はかるべからざるなり。龍鱗の三熱、よく袈裟の功徳より解脱するなり。諸佛成道のとき、かならずこの衣をもちゐるなり。まことに邊地にむまれ末法にあふといへども、相傳あると相傳なきと、たくらぶることあらば、相傳の正嫡なるを信受護持すべし。いづれの家門にか、わが正傳のごとく、まさしく釋尊の衣法ともに正傳せる。ひとり佛道のみにあり。この衣法にあはんとき、たれか恭敬供養をゆるくせん。たとひ一日に無量恒河沙の身命をすてて供養すべし。生々世々の値遇頂戴をも發願すべし。われら佛生國をへだつること十萬餘里の山海のほかにむまれて、邊邦の愚蒙なりといへども、この正法をきゝ、この袈裟を一日一夜なりといへども受持し、一句一偈なりといへども參究する、これたゞ一佛二佛を供養せる福徳のみにはあるべからず、無量百千億のほとけを供養奉覲せる福徳なるべし。たとひ自己なりといへども、たふとぶべし、愛すべし、おもくすべし。祖師傳法の大恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずは、畜類よりも劣なるべし、畜類よりも愚なるべし。この佛衣の功徳、その傳佛正法の祖師にあらざる餘人は、ゆめにもいまだしらざるなり。いはんや體色量をあきらむるにおよばんや。諸佛のあとをしたふべくは、まさにこれをしたふべし。たとひ百千萬代ののちも、この正傳を正傳せん、まさに佛法なるべし。證験これあらたなり。俗なほいはく、先王の服にあらざれば服せず、先王の法にあらざればおこなはず。佛道もまたしかあるなり。先佛の法服にあらざればもちゐるべからず。もし先佛の法服にあらざらんほかは、なにを服してか佛道を修行せん、諸佛に奉覲せん。これを服せざらんは、佛會にいりがたかるべし。後漢の孝明皇帝、永平年中よりこのかた、西天より東地に來到する僧侶くびすをつぎてたえず、震旦より印度におもむく僧侶、まゝにきこゆれども、たれ人にあひて佛法を面授せりけるといはず。たゞいたづらに論師および三藏の學者に習學せる名相のみなり。佛法の正嫡をきかず。このゆゑに、佛衣正傳すべきといひつたへるにもおよばず、佛衣正傳せりける人にあひあふといはず、傳衣の人を見聞すとかたらず。はかりしりぬ、佛家の閫奥にいらざりけるといふことを。これらのたぐひは、ひとへに衣服とのみ認じて、佛法の尊重なりとしらず、まことにあはれむべし。佛法藏相傳の正嫡に、佛衣も相傳相承するなり。法藏正傳の祖師は佛衣を見聞せざるなきむねは、人中天上あまねくしれるところなり。しかあればすなはち、佛袈裟の體色量を正傳しきたり、正見聞しきたり、佛袈裟の大功徳を正傳し、佛袈裟の身心骨髓を正傳せること、たゞまさに正傳の家業のみにあり。もろもろの阿笈摩教の家風には、しらざるところなり。おのおの今案に自立せるは正傳にあらず、正嫡にあらず。

「知るべし、四句偈を聞くに得道す、一句子を聞くに得道す。四句偈及び一句子、何としてか恁麼の霊験ある。いわゆる仏法なるによりてなり。いま一頂衣九品衣、まさしく仏法より正伝せり。四句偈よりも劣なるべからず、一句法よりも験なかるべからず」

「若田若里・若樹若石」などの「四句偈や一句」によって得道の霊験があるが、それは仏法の妙である。「一頂衣・九品衣」は袈裟(仏衣)の象徴として捉え、これらは仏法より正伝し決して「四句偈や一句法」より劣るものではない。

「この故に、二千余年よりこのかた、信行法行の諸機ともに随仏学者、みな袈裟を護持して身心とせるものなり。諸仏の正法に暗き類いは袈裟を崇重せざるなり。いま釈提桓因及び阿那跋達多龍王等、ともに在家の天主なりと云えども、龍王なりと云えども、袈裟を護持せり。しかあるに、剃頭の類い、仏子と称ずる輩、袈裟に於きては、受持すべきものと知らず。いわんや体色量を知らんや、いわんや著用の法を知らんや。いわんやその威儀、夢にも未だ見ざる処なり」

「二千余年よりこのかた」とは、釈尊入滅を周の「穆王五十二年壬申二月十五日也」(「大正蔵」五一・二〇五下)つまり紀元前九四九年と計算すると二一八九年となり「二千余年」が算出されますが、ほかには『仏性』巻・仁治二年(1241)では「二千一百九十年」・『安居』巻・寛元三年(1245)では「二千一百九十四年」と記述されます。

「釈提桓因」は帝釈天を指し、三十三天の主。「阿那跋達多龍王」は阿耨達池龍王とも、無熱悩池とも云う(『見仏』巻に出)

「体・色・量」は袈裟の基本用語で衣財・色・寸法を云うが、衣財については後に詳述される。

「しかあるに、剃頭の類い」以下は、『袈裟功徳』にても言句を変えて記す。

「袈裟をば古くより云く、除熱悩服と名づく、解脱服と名づく。おおよそ功徳測るべからざるなり。龍鱗の三熱、よく袈裟の功徳より解脱するなり。諸仏成道の時、必ずこの衣を用いるなり。まことに辺地に生まれ末法に逢うと云えども、相伝あると相伝なきと、たくらぶる事あらば、相伝の正嫡なるを信受護持すべし」

「除熱悩服」とは煩悩の熱を除く服。「龍鱗の三熱」は、熱風・熱沙・金翅鳥の被害(『仏説海龍王経』四(「大正蔵」十五・一五一上)参照)「たくらぶる」のたは接頭語で意味はなく、比較するの意で、古語である。

『袈裟功徳』では「袈裟は古きより解脱服と称ずー中略―いくそばくの喜びとかせん」と改められる。

いづれの家門にか、わが正伝の如く、まさしく釈尊の衣法ともに正伝せる。ひとり仏道のみにあり。この衣法に遇わん時、たれか恭敬供養をゆるくせん。たとい一日に無量恒河沙の身命を捨てて供養すべし。生々世々の値遇頂戴をも発願すべし。われら仏生国を隔つる事十万余里の山海のほかに生まれて、辺邦の愚蒙なりと云えども、この正法を聞き、この袈裟を一日一夜なりといえども受持し、一句一偈なりといえども参究する、これただ一仏二仏を供養せる福徳のみにはあるべからず、無量百千億のほとけを供養奉覲せる福徳なるべし。たとい自己なりと云えども、尊ぶべし、愛すべし、重くすべし。祖師伝法の大恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩を知らざらん。もし恩を知らずは、畜類よりも劣なるべし、畜類よりも愚なるべし」

同所を『袈裟功徳』前半部は詳細に、後半部は省略する論述になる。趣意は文の如くに任す。

「この仏衣の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざる余人は、夢にも未だ知らざるなり。いわんや体色量を明らむるに及ばんや。諸仏の跡を慕うべくは、まさにこれを慕うべし。たとい百千万代の後も、この正伝を正伝せん、まさに仏法なるべし。証験これ新たなり」

『袈裟功徳』では「この仏衣仏法の功徳、その伝仏正法の祖師にあらざれば、余輩未だ明らめず知らず」とし、「体色量」の文言は略し、代わって「皇太子の即位と乳水」の例言を付言されます。

「俗なお云く、先王の服にあらざれば服せず、先王の法にあらざれば行わず。仏道もまたしかあるなり。先仏の法服にあらざれば用いるべからず。もし先仏の法服にあらざらんほかは、なにを服してか仏道を修行せん、諸仏に奉覲せん。これを服せざらんは、仏会に入り難かるべし」

『袈裟功徳』では「俗なお云く、先王の服にあらざれば服せず。仏子いづくんぞ仏衣にあらざらんを著せん」とのみ記されます。

後漢の孝明皇帝、永平年中よりこのかた、西天より東地に来到する僧侶くびすを継ぎて絶えず、震旦より印度に赴く僧侶、まゝに聞こゆれども、たれ人に遇いて仏法を面授せりけると云わず。ただいたづらに論師及び三蔵の学者に習学せる名相のみなり。仏法の正嫡を聞かず。この故に、仏衣正伝すべきと云い伝えるにも及ばず、仏衣正伝せりける人に相い遇うと云わず、伝衣の人を見聞すと語らず。測り知りぬ、仏家の閫奥に入らざりけると云う事を。これらの類いは、ひとえに衣服とのみ認じて、仏法の尊重なりと知らず、まことに憐れむべし」

『袈裟功徳』では同文を「後漢孝明皇帝十年(67年)よりのち」と永平年中(58年―75年)より具体的に書き改められ、当巻を要略した「仏家の閫奥に入らざりけると云う事を。かくの如きの人、仏祖正伝の旨、明らめざるなり」との文章になります。

「西天より東地」は踝(くびす)を継ぎて絶えず、「震旦より印度」時折(まま)に聞こゆ。と仏教伝来当時は圧倒的に西域からの往来が頻繁であったと。

また「ただいたづらに論師及び三蔵の学者に習学せる名相のみなり。仏法の正嫡を聞かず」と、学問仏教であった事情の説明です。

これらの論師や三蔵学者の類いは、仏衣を単なる衣服(制服)としか認識せず、行ずる仏道を知り得ない事を「まことに憐れむべし」と述べられるは、当巻のみの指摘です。

「仏法蔵相伝の正嫡に、仏衣も相伝相承するなり。法蔵正伝の祖師は仏衣を見聞せざるなき旨は、人中天上あまねく知れる処なり。しかあれば即ち、仏袈裟の体色量を正伝し来たり、正見聞し来たり、仏袈裟の大功徳を正伝し、仏袈裟の身心骨髄を正伝せること、ただまさに正伝の家業のみにあり。諸々の阿笈摩教の家風には、知らざる処なり。おのおの今案に自立せるは正伝にあらず、正嫡にあらず」

「仏法蔵」は仏の正法眼蔵とも云い得、「仏法蔵」も「仏衣」も相伝の対象とは、両者の同質性を言うものです。

この「法蔵・仏衣」を相伝し実際に修証する学人には、「仏袈裟の体(衣財)・色(壊色)・量(大きさ)」も自然に正伝される。との認識ですが、ここに来て始めて仏袈裟の語が使われます。

「阿笈摩教」とは阿含教を云い、原始仏典の阿含経ではなく我執に及ぶ小乗教を指すのであり、それらの家風には仏袈裟の相伝相承する素地はなく、「正伝・正嫡にあらず」と論難されます。この箇所は『袈裟功徳』には無い所ですが、最後部にて「阿含経建仁寺時代に頂戴袈裟の文を見たが、その時分には阿含経の儀則は、わからなかった」と吐露されます。

 

    二

わが大師釋迦牟尼如來、正法眼藏無上菩提を摩訶迦葉に附授するに、佛衣ともに傳附せりしより、嫡々相承して曹谿山大鑑禪師にいたるに三十三代なり。その體色量を親見親傳せること、家門ひさしくつたはれて、受持いまにあらたなり。すなはち五宗の高祖、おのおの受持せる、それ正傳なり。あるいは五十餘代、あるいは四十餘代、おのおの師資みだることなく、先佛の法によりて搭し、先佛の法によりて製することも、唯佛與佛の相傳し證契して、代々をふるに、おなじくあらたなり。嫡々正傳する佛訓にいはくは、

  九條衣     三長一短 或四長一短

  十一條衣    三長一短 或四長一短

  十三條衣    三長一短 或四長一短

  十五條衣    四長一短

  十七條衣    四長一短

  十九條衣    四長一短

  二十一條衣   四長一短

  二十三條衣   四長一短

  二十五條衣   四長一短

  二百五十條衣  四長一短

  八萬四千條衣  八長一短

いま略して擧するなり。このほか諸般の袈裟あるなり。ともにこれ僧伽梨衣なるべし。あるいは在家にしても受持し、あるいは出家にしても受持す。受持するといふは、著用するなり。いたづらにたゝみもたらんずるにあらざるなり。たとひかみひげをそれども、袈裟を受持せず、袈裟をにくみいとひ、袈裟をおそるゝは天魔外道なり。百丈大智禪師いはく、宿殖の善種なきものは袈裟をいむなり、袈裟をいとふなり、正法をおそれいとふなり。

「わが大師釈迦牟尼如来正法眼蔵無上菩提を摩訶迦葉に附授するに、仏衣ともに伝附せりしより、嫡々相承して曹渓山大鑑禅師に至るに三十三代なり。その体色量を親見親伝せること、家門久しく伝われて、受持いまに新たなり」

文意はそのままに解され、『袈裟功徳』に於いてもほぼ同内容が説かれる。

仏法授受の象徴的イベントとして霊鷲山での拈華微笑を取り挙げ、震旦六祖慧能までの嫡々相承を説くものです。

「即ち五宗の高祖、おのおの受持せる、それ正伝なり。或いは五十余代、或いは四十余代、おのおの師資乱る事なく、先仏の法によりて搭し、先仏の法によりて製する事も、唯仏与仏の相伝し証契して、代々を経るに、同じく新たなり」

この部分は『袈裟功徳』には記述されず、当該では「五宗の高祖」つまり禅宗の分派である曹洞・臨済・潙仰・雲門・法眼各宗の正当性を説くものですが、『袈裟功徳』では「青原・南嶽の法孫」を例に挙げ、伝法の正嫡を説かれます。

「嫡々正伝する仏訓に云くは、

  九条衣     三長一短 或四長一短

  十一条衣    三長一短 或四長一短

  十三条衣    三長一短 或四長一短

  十五条衣    四長一短

  十七条衣    四長一短

  十九条衣    四長一短

  二十一条衣   四長一短

  二十三条衣   四長一短

  二十五条衣   四長一短

  二百五十条衣  四長一短

  八万四千条衣  八長一短

いま略して挙するなり。このほか諸般の袈裟あるなり。ともにこれ僧伽梨衣なるべし。或いは在家にしても受持し、或いは出家にしても受持す。受持すると云うは、著用するなり。いたづらに畳み持たらんずるにあらざるなり。たとい髪髭を剃れども、袈裟を受持せず、袈裟を憎み厭い、袈裟を恐るるは天魔外道なり。百丈大智禅師云く、宿殖の善種なき者は袈裟を忌むなり、袈裟を厭うなり、正法を怖れ厭うなり」

ここで「九条衣・三長一短・或四長一短」と典籍を記載しませんが、『袈裟功徳』に於いては『根本説一切有部百一羯磨』十(「大正蔵」二四・四九七上)出典を挙げ、壇隔を「両長一短・三長一短・四長一短」とするが、『法服格正』に於いては「伝衣巻に、九条三長一短、或四長一短と見ゆ。これに依れば、全く他の破文に的中するに似たり。永祖実に多論、九品の明教を聞かざるものとせんや、将た別意ありや」(三八三・二〇頁)と疑問を呈する次第です。「僧伽梨衣」は大衣とも云う。

「百丈大智禅師の宿殖」云々の出典は不明。

佛言、若有衆生、入我法中、或犯重罪、或墮邪見、於一念中、敬心尊重僧伽梨衣、諸佛及我、必於三乘授記。此人當得作佛。若天若龍、若人若鬼、若能恭敬此人袈裟少分功徳、即得三乘不退不轉。若有鬼神及諸衆生、能得袈裟、乃至四寸、飲食充足。若有衆生、共相違反、欲墮邪見、念袈裟力、依袈裟力、尋生悲心、還得清淨。若有人在兵陣、持此袈裟少分、恭敬尊重、當得解脱。しかあればしりぬ、袈裟の功徳、それ無上不可思議なり。これを信受護持するところに、かならず得授記あるべし、得不退あるべし。たゞ釋迦牟尼佛のみにあらず、一切諸佛またかくのごとく宣説しましますなり。しるべし、たゞ諸佛の體相、すなはち袈裟なり。かるがゆゑに、佛言、當墮惡道者、厭惡僧伽梨。しかあればすなはち、袈裟を見聞せんところに、厭惡の念おこらんには、當墮惡道のわがみなるべしと、悲心を生ずべきなり、慙愧懺悔すべきなり。いはんや釋迦牟尼佛、はじめて王宮をいでて山にいらんとせし時、樹神ちなみに僧伽梨衣一條を擧して釋迦牟尼佛にまうす、この衣を頂戴すれば、もろもろの魔嬈をまぬがるゝなり。時に釋迦牟尼佛、この衣をうけて、頂戴して十二年をふるに、しばらくもおかずといふ。これ阿含經等の説なり。あるいはいふ、袈裟はこれ吉祥服なり。これを服用するもの、かならず勝位にいたる。おほよそ世界にこの僧伽梨衣の現前せざる時節なきなり。一時の現前は長劫中事なり。長劫中事は一時來なり。袈裟を得するは佛標幟を得するなり。このゆゑに、諸佛如來の袈裟を受持せざる、いまだあらず。袈裟を受持せしともがらの作佛せざる、あらざるなり。

「仏言、若有衆生、入我法中、或犯重罪、或墮邪見、於一念中、敬心尊重僧伽梨衣、諸仏及我、必於三乗授記。此人当得作仏。若天若龍、若人若鬼、若能恭敬此人袈裟少分功徳、即得三乗不退不転。若有鬼神及諸衆生、能得袈裟、乃至四寸、飲食充足。若有衆生、共相違反、欲堕邪見、念袈裟力、依袈裟力、尋生悲心、還得清浄。若有人在兵陣、持此袈裟少分、恭敬尊重、当得解脱」

「仏言く、若し衆生も有って、我が法の中に入って、或いは重罪を犯し、或いは邪見に墮するに、一念中に於いて、敬心に僧伽梨衣を尊重するに、諸仏及び我れ、必ず三乗(声聞・縁覚・菩薩)に於いて授記(成仏の保証)す。此の人は当に作仏を得る。若し天・若し龍、若し人若し鬼、若し能く此の人の袈裟の少分の功徳を恭敬するは、即ち三乗の不退不転を得る。若し鬼神及び諸衆生有って、能く袈裟、乃至四寸を得るは、飲食充足す。若し衆生有って、共に相違反し、邪見に堕すると欲せんには、袈裟力を念じ、袈裟力に依らば、尋(つ)いで悲心を生じ、還(は)た清浄を得る。若し人有って兵陣に在らんは、此の袈裟少分を持ちて、恭敬尊重するは、当に解脱を得る」

この文言に相当する経文はなく『悲華経』八(「大正蔵」三・二二〇上)からの要約文もしくは『法苑珠林』三五・法服篇第三十(「大正蔵」五三・五五六下)からの文言を参照に創文されたと考えられます。

この引用は『袈裟功徳』には見当たらず当巻独自なものです。

「しかあれば知りぬ、袈裟の功徳、それ無上不可思議なり。これを信受護持する処に、かならず得授記あるべし、得不退あるべし。ただ釈迦牟尼仏のみにあらず、一切諸仏またかくのごとく宣説しましますなり。知るべし、たゞ諸仏の体相、便ち袈裟なり。かるが故に、仏言、当堕悪道者、厭悪僧伽梨」

先の経文での「五事聖功徳」を承けての拈提文です。つまり袈裟の功徳として、得三乗不退不転・飲食充足・尋生悲心・還得清浄・当得解脱の功徳は、無上不可思議と説かれるものですが、此の処で云う不可思議とは日常底を意味するものです。

この日常底なる無上不可思議を信受し護持する処には、必ず授記の功徳つまり成仏の約束が保証され、三乗の不退不転があるのである。その五事聖功徳は釈迦牟尼仏だけが言われるのではなく、一切の諸仏が宣べ説く処です。

ご存知のように、諸仏の体相(姿)は袈裟そのもので、謂う所は諸仏と袈裟の一体なる所に得授記が有るわけですから、逆説的に「仏の言うには、当に悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕する者は、僧伽梨(袈裟)を厭悪するものである、と述べられます。

この箇所も『袈裟功徳』では取り扱われません。

「しかあれば即ち、袈裟を見聞せん処に、厭悪の念起こらんには、当堕悪道の我が身なるべしと、悲心を生ずべきなり、慙愧懺悔すべきなり。いわんや釈迦牟尼仏、始めて王宮を出でて山に入らんとせし時、樹神ちなみに僧伽梨衣一条を挙して釈迦牟尼仏に申す、この衣を頂戴すれば、もろもろの魔嬈を免るるなり。時に釈迦牟尼仏、この衣をうけて、頂戴して十二年を経るに、しばらくも置かずと云う。これ阿含経等の説なり」

ですから、袈裟を見聞きする時に、厭悪の念が起きたと自分で気付いた時には、「当堕悪道」つまり悪道に堕する我が身と認識し、そこには悲心や「慙愧懺悔」する念がおのづと起こるものである。

釈迦牟尼仏、始めて王宮を出でて山に入らんとせし時、樹神ちなみに僧伽梨衣一条を挙して釈迦牟尼仏に申す」云々は、恐らくは文体の構成の流れからして『法苑珠林』三五(「大正蔵」五三・五六一上)からの文章の取意と考えられる。

「この衣を頂戴すれば、もろもろの魔嬈を免るるなり。時に釈迦牟尼仏、この衣をうけて、頂戴して十二年を経るに、しばらくも置かずと云う。これ阿含経等の説なり」と殊に阿含経からの引用とするが、『長阿含経・中阿含経・雑阿含経』等では確認できない。

「或いは云う、袈裟はこれ吉祥服なり。これを服用する者、必ず勝位に至る。おおよそ世界にこの僧伽梨衣の現前せざる時節なきなり。一時の現前は長劫中事なり。長劫中事は一時来なり。袈裟を得するは仏標幟を得するなり。この故に、諸仏如来の袈裟を受持せざる、未だあらず。袈裟を受持せし輩の作仏せざる、あらざるなり」

「袈裟は吉祥服」は後に説かれる「解脱服・福田衣・忍辱衣」等と同等の意で、この吉祥服を服用する者は勝位に至るとは善因善果を説き、袈裟=仏標幟と為るのであり、「諸仏如来の袈裟を受持せざる、袈裟を受持せし輩の作仏せざる、あらざるなり」とは、逆に袈裟を受持し著するは、そのまま作仏に連結するとの、道元禅師の袈裟に対する信行論となります。

 

    三

搭袈裟法

偏袒右肩は常途の法なり、通兩肩搭の法もあり。兩端ともに左の臂肩にかさねかくるに、前頭を表面にかさね、前頭を裏面にかさね、後頭を表面にかさね、後頭を裏面にかさぬる事、佛威儀の一時あり。この儀は、諸聲聞衆の見聞し相傳するところにあらず。諸阿笈摩教の經典に、もらしとくにあらず。おほよそ佛道に袈裟を搭する威儀は、現前せる傳正法の祖師、かならず受持せるところなり。受持かならずこの祖師に受持すべし。佛祖正傳の袈裟はこれすなはち佛々正傳みだりにあらず。先佛後佛の袈裟なり、古佛新佛の袈裟なり。道を化し、佛を化す。過去を化し、現在を化し、未來を化するに、過去より現在に正傳し、現在より未來に正傳し、現在より過去に正傳し、過去より過去に正傳し、現在より現在に正傳し、未來より未來に正傳し、未來より現在に正傳し、未來より過去に正傳して、唯佛與佛の正傳なり。このゆゑに、祖師西來よりこのかた、大唐より大宋にいたる數百歳のあひだ、講經の達者、おのれが業を見徹せるもの、おほく教家律教等のともがら、佛法にいるとき、從來舊巣の弊衣なる袈裟を抛卻して、佛道正傳の袈裟を正受するなり。かの因縁、すなはち傳、廣、續、普燈等録につらなれり。教律局量の小見を解脱して、佛祖正傳の大道をたふとみし、みな佛祖となれり。いまの人も、むかしの祖師をまなぶべし。

これより「搭袈裟法」という袈裟の搭(か)け方を具体的に示し、その威儀次第を述べられます。

「偏袒右肩は常途の法なり、通両肩搭の法もあり。両端ともに左の臂肩に重ね搭くるに、前頭を表面に重ね、前頭を裏面に重ね、後頭を表面に重ね、後頭を裏面に重ぬる事、仏威儀の一時あり。この儀は、諸声聞衆の見聞し相伝する処にあらず。諸阿笈摩教の経典に、洩らし説くにあらず」

「偏袒右肩」は、ひとえ(偏)に右肩をはだぬ(袒)ぐ」となり、これが通常の袈裟の搭け方です。また「通両肩搭」とは両肩を通じて(覆う)搭けるやり方もある。偏袒右肩は常途法ですから礼仏や坐禅をする時、通肩は托鉢など人に接する時と使い分けるのである。

「前頭を表面に重ね、前」は頭を裏面に重ね、後頭を表面に重ね、後頭を裏面に重ぬる」は、「前頭を表面に重ね、後頭を裏面に重ぬる」が正しく思われ、草稿本でのミスか書写時での誤写の可能性もある。『袈裟功徳』に於いても「搭袈裟法」が記されるが、そこでは「前頭は左端の上に搭けて臂外に垂れり」(「正法眼蔵」四・一二六・水野・岩波文庫)とだけ記述されるからである。なお「前頭」は胸前の袈裟を「後頭」は左肩上の袈裟を云う。

「この儀」つまり搭袈裟法は、諸々の声聞衆(一途に阿羅漢を目指す自利のみの学人)の見聞し相伝する処ではなく、阿笈摩教(阿含経)の経典でも取り挙げないものである。

「おおよそ仏道に袈裟を搭する威儀は、現前せる伝正法の祖師、必ず受持せる処なり。受持必ずこの祖師に受持すべし。仏祖正伝の袈裟はこれ即ち仏々正伝乱りにあらず。先仏後仏の袈裟なり、古仏新仏の袈裟なり。道を化し、仏を化す。過去を化し、現在を化し、未来を化するに、過去より現在に正伝し、現在より未来に正伝し、現在より過去に正伝し、過去より過去に正伝し、現在より現在に正伝し、未来より未来に正伝し、未来より現在に正伝し、未来より過去に正伝して、唯仏与仏の正伝なり」

仏道―袈裟―威儀の伝正法の祖師」とは如浄和尚を意識した文言とも窺われるもので、そこでは祖師と祖師との受持が行われ、仏々正伝は乱れる事はないのである。

「先仏後仏の袈裟、古仏新仏の袈裟」の意味する処は、誰が何処で修行しようと袈裟は仏体ですから、永遠性には変わりない事実を言うものです。

「道を化し、仏を化す、過去・現在・未来を化す」とは袈裟と仏道の一味態を、さらに袈裟は三際(過現未)をも包含し、仏の世界と袈裟との一体性を述べるものです。

さらに、過去→現在・現在→未来、現在→過去・過去→過去、現在→現在・未来→未来、未来→現在・未来→過去。と、このように説くのは、時間の概念を払拭する為に初めに「過去より現在・現在より未来」と常識の通理を記し、次には「現在より過去・過去より過去」に正伝と述べられるのは、時間という一方通行の概念を破却し、不連続の連続体なる様態を言わんとするもので、『諸悪莫作』巻での「これ七仏祖宗の通戒として、前仏より後仏に正伝す、後仏は前仏に相嗣せり」(「正法眼蔵」二・二三〇・岩波文庫)にも通底するもので、このような言い回しは「眼蔵」特有の論述法と為ります。つまり、何時いかなる時に於いても、袈裟と共に仏祖正伝が行われ、それを特に「唯仏与仏の正伝」と規定されます。

「この故に、祖師西来よりこのかた、大唐より大宋に至る数百歳の間、講経の達者、おのれが業を見徹せる者、多く教家律教等の輩、仏法に入る時、従来旧巣の弊衣なる袈裟を抛却して、仏道正伝の袈裟を正受するなり。かの因縁、則ち伝、広、続、普灯等録に連なれり。教律局量の小見を解脱して、仏祖正伝の大道を尊(とう)と見し、みな仏祖と為れり。今の人も、昔の祖師を学ぶべし」

ですから、祖師(菩提達磨)が六世紀初め頃南天竺より来て以来、大唐(618年)より大宋(960年)に至る数百歳(400年)の間、講経の達者(永嘉玄覚・665―713)や多くの教家(天台などの顕教)律教(律学)などの輩は、自身の業(あり方)を見徹せるものの、一旦行動が伴なう仏法に入る時は、これまでの修行の姿勢を変え、従来旧巣の弊衣なる袈裟を投げ出し(抛却)、仏道正伝たる袈裟を正受(三昧)するのである。

これらの因縁話は、『景徳伝灯録』(「大正蔵」五一・二一九下1004年)『天聖広灯録』(「続蔵」一三五・六四〇中1036年)『続灯録』(1101年)『嘉泰普灯録』(1204年)などに記載される処である。とするが、「かの因縁話」とは達磨から慧可への袈裟授受を示唆するものと思われますが、実際には「伝灯録」と「広灯録」には説かれ話頭である。

教学や律学の局量(一部分)の小見(自身の考えに執着する)を解脱(開放)すれば、仏祖正伝の大道を尊んだ学人は皆仏祖と為る。今の人も「伝・広・続・普灯」などの灯録で祖師の行李を学ぶべし。と興聖寺に参集する学人に対する問い掛けと共に、不立文字に伴う固着観念を払う為に、祖師行履を学ぶ事の大切さを言う拈提の処段となります。

袈裟を受持すべくは正傳の袈裟を正傳すべし、信受すべし。僞作の袈裟を受持すべからず。その正傳の袈裟といふは、いま少林曹谿より正傳せるは、これ如來より嫡々相承すること、一代も虧闕せざるところなり。このゆゑに、道業まさしく稟受し、佛衣したしく手にいれるによりてなり。佛道は佛道に正傳す、閑人の傳得に一任せざるなり。俗諺にいはく、千聞は一見にしかず、千見は一經にしかず。これをもてかへりみれば、千見萬聞たとひありとも、一得にしかず。佛衣正傳せるにしくべからざるなり。正傳あるをうたがふべくは、正傳をゆめにもみざらんは、いよいようたがふべし。佛經を傳聞せんよりは、佛衣正傳せらんはしたしかるべし。千經萬得ありとも、一證にしかじ。佛祖は證契なり。教律の凡流にならふべからず。おほよそ祖門の袈裟の功徳は、正傳まさしく相承せり、本様まのあたりつたはれり。受持あひ嗣法して、いまにたえず。正受せる人、みなこれ證契傳法の祖師なり。十聖三賢にもすぐる、奉覲恭敬し、禮拝頂戴すべし。ひとたびこの佛衣正傳の道理、この身心に信受せられん、すなはち値佛の兆なり、學佛の道なり。不堪受是法ならん、悲生なるべし。この袈裟をひとたび身體におほはん、決定成菩提の護身符子なりと深肯すべし。一句一偈を信心にそめつれば、長劫の光明にして虧闕せずといふ。一法を身心にそめん、亦復如是なるべし。かの心念も無所住なり、我有にかゝはれずといへども、その功徳すでにしかあり。身體も無所住なりといへどもしかあり。袈裟、無所從來なり、亦無所去なり。我有にあらず、佗有にあらずといへども、所持のところに現住し、受持の人に加す。所得功徳もまたかくのごとくなるべし。

「袈裟を受持すべくは正伝の袈裟を正伝すべし、信受すべし。偽作の袈裟を受持すべからず。その正伝の袈裟と云うは、いま少林曹渓より正伝せるは、これ如来より嫡々相承する事、一代も虧闕せざる処なり。この故に、道業まさしく稟受し、仏衣親しく手に入れるによりてなり」

ここで説かれる「正伝の袈裟」とは律文等で定められた様式で手縫いされた袈裟であろうが、「偽作の袈裟」とは具体的には北宋代に於いて元照により考案された袈裟を云う(仏制比丘六物図「大正蔵」四五・八九六)参照。現代に於いても背面に昇り龍が刺繍してあったりと、一笑する偽袈裟を、堂々と自慢する徒輩には閉口する次第である。

正伝の袈裟の具体例を、達磨→慧可の少林寺から僧璨→道信→弘忍→曹谿の慧能と嫡々相承し、一代も欠ける事なく正しい修行(道業)が受け継がれる(稟受)処に、仏衣(袈裟)も信受される次第である。

仏道仏道に正伝す、閑人の伝得に一任せざるなり。俗諺に云く、千聞は一見にしかず、千見は一経にしかず。これをもて省りみれば、千見万聞たとい有りとも、一得にしかず。仏衣正伝せるに、しくべからざるなり。正伝あるを疑うべくは、正伝を夢にも見ざらんは、いよいよ疑うべし。仏経を伝聞せんよりは、仏衣正伝せらんは親しかるべし。千経万得ありとも、一証にしかじ。仏祖は証契なり。教律の凡流に習うべからず」

仏道仏道に正伝す」とは、この仏道はヒンズーやユダヤに比するレリジョンを云うものではなく、宇宙空間をも含めた尽界を貫く真実底を「仏道」と規定するもので、仏道以外には在り得ませんから「仏道仏道に正伝す」との表現に収まるものです。「閑人」とは暇を持て余す人ですが、ここでは学問仏教学者を揶揄してのもので、そのような人達には「仏道の正伝」は任せられない、との言です。

世間での諺を「千聞は一見にしかず、千見は一経にしかず」と紹介されますが、これは中国大陸のものを述べられるものかも知れません。我々は「百聞は一見に如かず」を常用句としますが、「千見万聞」を導く為の造語とも考えられます。

このような諺を以てしてもわかるように、千見万聞(講経者への揶揄)が有っても一得に勝るものはなく、仏衣を正伝している事実には及ばないのである。正伝を疑い、夢にも見た事のない人には疑いを深めるであろう。

仏の経典を伝え聞くよりは、仏の袈裟を正伝している方が親近感があるものである。

「千経万得ありとも、一証にしかじ」は、先ほどの「千見万聞たとい有りとも、一得にしかず」の対句を為すもので、千の経験や万の所得があったとしても、一つの実証(一証)には及ばないものである。

「仏祖は証契なり」この場合の仏祖は、真実態とも仏道・正伝・学人とも云い得て、証契は袈裟を著して坐禅する姿を「証契」と言うのである。

天台などの教学や律学の研究者のような、学問仏教の人(凡流)を見習ってはならない。と、このように繰り返し正伝の真実性、学問による文字追求ではなく、一得・一証の仏法を参学究明しなさいとの言下となります。

「おおよそ祖門の袈裟の功徳は、正伝まさしく相承せり、本様まのあたり伝われり。受持あい嗣法して、今に絶えず。正受せる人、みなこれ証契伝法の祖師なり。十聖三賢にもすぐる、奉覲恭敬し、礼拝頂戴すべし」

「祖門」は少林の菩提達磨から曹谿の大鑑慧能に至る六代を言い、その「袈裟の功徳」とは、眼前に正伝する仏道が相承する姿が功徳そのものです。「嫡々相承し法を嗣ぎ」とは著衣し今(仁治元年1240)まで絶えた事がない、ことを言う。

本来面目の姿をここでは「正受せる人」と名付け、その正受する人は、皆が著衣坐禅し伝法する祖師と為り、搭袈裟し打坐が祖師たらしめるのである。この事実は三賢(十住・十行・十廻向の三十位)十聖(聖者位)の架空の菩薩よりも勝るもので、「証契伝法の祖師」を「奉覲恭敬し、礼拝頂戴」すべきである、と策励されます。

「ひと度この仏衣正伝の道理、この身心に信受せられん、即ち値仏の兆なり、学仏の道なり。不堪受是法ならん、悲生なるべし。この袈裟をひとたび身体に覆わん、決定成菩提の護身符子なりと深肯すべし。一句一偈を信心に染めつれば、長劫の光明にして虧闕せずと云う。一法を身心に染めん、亦復如是なるべし」

一回でも袈裟正伝の道理を信受できたなら、その時点で仏に出逢う兆候であり、その著衣正伝する打坐が学仏の道である。「不堪受是法」(「大正蔵」九・七下)は『法華経』方便品の一文で、是の法(仏衣正伝・仏衣信受)を堪受できない者は悲しい生まれ。と言わなければならないとの悲嘆の言です。

この袈裟を一度でも身体に覆う事は、「成菩提」が確約(決定)された御守り(護身符子)と深く肯うと自覚し、一句一偈の文言を信心に染めるならば、長劫(永遠)の光明に染まり、信心が欠ける(虧闕)事はなく、「一法を身心に染めん」とは、一句一偈に対する一法で、ここでは正伝の仏衣を体全身(身心)に著衣する事で、長劫の光明に覆われると、語言を変えて再三に渉り説く方途は、釈法の伝統的論述を踏襲するものです。

「かの心念も無所住なり、我有に関われずと云えども、その功徳すでにしかあり。身体も無所住なりと云えどもしかあり。袈裟、無所従来なり、亦無所去なり。我有にあらず、他有にあらずと云えども、所持の処に現住し、受持の人に加す。所得功徳もまたかくの如くなるべし」

「心」や「念」と云われる意識は常時生滅を繰り返し、「無所住」(無常・アニッチャ)であり、我がものではないけれども袈裟を身体に覆う功徳は、護身符子となる功徳が有るのであり、身体も常に細胞が入れ代わり、住する所無しでは有るが、著袈裟の功徳は成菩提である。

袈裟自体にしても、従来する所無く同時に去る所無く、我有・他有には関係ないが、信心が染め著いた袈裟は、所持の処に現住し受持する人を加護するのである。ですから自分の意志で以て所得する処の功徳は、長劫の光明の如くである。

作袈裟の作は、凡聖等の作にあらず。その宗旨、十聖三賢の究盡するところにあらず。宿殖の道種なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといへども、袈裟をみず、袈裟をきかず、袈裟をしらず。いかにいはんや受持することあらんや。ひとたび身體にふるゝ功徳も、うるものあり、えざるものあるなり。すでにうるはよろこぶべし、いまだえざらんはねがふべし、うべからざらんはかなしむべし。大千界の内外に、たゞ佛祖の門下のみに佛衣つたはれること、人天ともに見聞普知せり。佛衣の様子をあきらむることも、たゞ祖門のみなり。餘門にはしらず。これをしらざらんもの、自己をうらみざらんは愚人なり。たとひ八萬四千の三昧陀羅尼をしれりとも、佛祖の衣法を正傳せず、袈裟の正傳をあきらめざらんは、諸佛の正嫡なるべからず。佗界の衆生は、いくばくかねがふらん、震旦國に正傳せるがごとく佛衣まさしく正傳せんことを。おのれがくにに正傳せざること、はづるおもひあるらん、かなしむこゝろふかかるらん。まことに如來世尊の衣法正傳せる法に値遇する、宿殖般若の大功徳種子によるなり。いま末法惡時世は、おのれが正傳なきことをはぢず、正傳をそねむ魔儻おほし。おのれが所有所住は、眞實のおのれにあらざるなり。たゞ正傳を正傳せん、これ學佛の直道なり。

「作袈裟の作は、凡聖等の作にあらず。その宗旨、十聖三賢の究尽する処にあらず。宿殖の道種なき者は、一生二生乃至無量生を経歴すと云えども、袈裟を見ず、袈裟を聞かず、袈裟を知らず。如何に云わんや受持する事あらんや。ひと度身体に触るる功徳も、得る者あり、得ざる者あるなり。すでに得るは喜ぶべし、未だ得ざらんは願うべし、得べからざらんは悲しむべし」

袈裟を作る作用(ハタラキ)というのは、凡人聖人のハタラキではなく、その宗旨は「十聖三賢」と称される学者肌の学人の究尽する処ではない。善徳を宿さない道種が無い者には、「一生・二生・無量生」と永遠に経歴を繰り返しても、仏の袈裟を見ず知らずで、受持する事など有ろうはずもない。

正伝衣を一度でも身体に触れる功徳を、得る者得ない者が居るが、すでに得る者は喜ぶべきで、まだ得ない者は得られるようにと願うべきで、得る縁の無い者は悲しみである。

「大千界の内外に、ただ仏祖の門下のみに仏衣伝われる事、人天ともに見聞普知せり。仏衣の様子を明らむる事も、ただ祖門のみなり。余門にはしらず。これを知らざらん者、自己を恨みざらんは愚人なり。たとい八万四千の三昧陀羅尼を知れりとも、仏祖の衣法を正伝せず、袈裟の正伝を明らめざらんは、諸仏の正嫡なるべからず」

「三千界」は三千大千世界を略した語ですが、須弥山を中軸に六欲天梵天の一団を一世界の単位とし、この世界を千倍したものを小千世界、小千世界を千倍すると中千世界、中千世界を千倍すると大千世界と為ります。つまり娑婆世界を十億倍に拡張すると大千世界が出現しますが、この広大無辺に於いても達磨門下の仏祖のみに仏衣が伝持する事実は、人界・天上界では見聞し普く知る処である。仏袈裟の様子を明らむるは祖門のみで、他の浄土・真言などでは知る由もない。

「これを知らざらん者、自己を恨みざらんは愚人なり」とは奇妙な言い用である。正伝の袈裟の存在を当初から知らないのであるから比較の仕様もなく、自身を恨む道理はないのであるから、ここでは「仏袈裟の正伝を知りながらも、仏衣に関心を抱かない者は愚人なり」と、言うなら理が通るものである。

例えば八万四千(無量)の三昧陀羅尼を知り得ても、「仏祖の衣法・袈裟の正伝」を明らめない学人は、諸仏祖の正式な嫡子ではないのである。と先程から同様な言句を再三再四に渉り説かれる次第です。

現代の学校教育システムでは、一つのトピックに特化した教え方はしませんが、ひと昔前の録音機器もない時代には、小僧時代から口伝えに『法華経』や『金剛般若経』などを習得した為、老境に到っても木魚の音と共に途切れることなく、一字一句間違えることなく読誦できるのであるが、その暗唱法で以て上座仏教の勉強法では、経・律・論の三蔵の膨大な文言を暗唱できる比丘を「八万四千の三昧陀羅尼を知れりとも」に比定できそうである。

「他界の衆生は、いくばくか願うらん、震旦国に正伝せるが如く仏衣まさしく正伝せん事を。おのれが国に正伝せざる事、愧ずる思い有るらん、悲しむ心深かるらん。まことに如来世尊の衣法正伝せる法に値遇する、宿殖般若の大功徳種子によるなり。いま末法悪時世は、おのれが正伝なき事を愧ぢず、正伝をそねむ魔儻多し。おのれが所有所住は、真実の己にあらざるなり。ただ正伝を正伝せん、これ学仏の直道なり」

「他界の衆生」とは別の文化圏に住む人々、との意味合いと考えられますが、ここでの文体にもやや舌足らずの感を禁じ得ない。他界の衆生は、未だに仏袈裟の何たるかを知らず、自身の元にも袈裟に類する神物が具わると見るのが当然ですから、ここは先ずは、彼の国に仏衣を伝来するべく、自身が来訪し功徳を説く事を一大事因縁とするのである。他界の衆生が、

「愧ずる思いや悲しむ心」をと嘆くのは、その後のことである。

世尊からの衣法正伝に値うことは、我々に大功徳の種子が内在するからであるが、かたや「末法悪時世」の世情を嘆かれますが、『辦道話』(寛喜三年1231)では「正像末法分きことなし、修すれば皆得道す」と、末法観を否定し現今の修行の大切さを説き、若き道元の立宗表明文の如き文章ですから勢いがあります。このような「末法」云々の表現は『袈裟功徳』巻に三か所引かれ、他には『嗣書』巻に一か所のみとなります。

しかるに、末法悪時世には「魔儻」多く出現するが、仏弟子は「ただ正伝を正伝する事が、仏道を学ぶ者の直接なる道である」と説かれるものです。

 

    四

およそしるべし、袈裟はこれ佛身なり、佛心なり。また解脱服と稱じ、福田衣と稱ず。忍辱衣と稱じ、無相衣と稱ず。慈悲衣と稱じ、如來衣と稱じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と稱ずるなり。まさにかくのごとく受持すべし。いま現在大宋國の律學と名稱するともがら、聲聞酒に醉狂するによりて、おのれが家門にしらぬいへを傳來することを慙愧せず、うらみず、覺知せず。西天より傳來せる袈裟、ひさしく漢唐につたはれることをあらためて、小量にしたがふる、これ小見によりてしかあり。小見のはづべきなり。もしいまなんぢが小量の衣をもちゐるがごときは、佛威儀おほく虧闕することあらん。佛儀を學傳せることのあまねからざるによりて、かくのごとくあり。如來の身心、たゞ祖門に正傳して、かれらが家業に流散せざること、あきらかなり。もし萬一も佛儀をしらば、佛衣をやぶるべからず。文なほあきらめず、宗いまだきくべからず。又、ひとへに麁布を衣財にさだむ、ふかく佛法にそむく。ことに佛衣をやぶれり、佛弟子きるべきにあらず。ゆゑはいかん。布見を擧して袈裟をやぶれり。あはれむべし、小乘聲聞の見、まさに迂曲かなしむべきことを。なんぢが布見やぶれてのち佛衣見成すべきなり。いふところの絹布の用は、一佛二佛の道にあらず。諸佛の大法として、糞掃を上品清淨の衣財とせるなり。そのなかに、しばらく十種の糞掃をつらぬるに、絹類あり、布類あり、餘帛の類もあり。絹類の糞掃をとるべからざるか、もしかくのごとくならば、佛道に相違す。絹すでにきらはば、布またきらふべし。絹布きらふべき、そのゆゑなににかある。絹糸は殺生より生ぜるときらふ、おほきにわらふべきなり。布は生物の縁にあらざるか。情非情の情、いまだ凡情の情を解脱せず、いかでか佛袈裟をしらん。

「およそ知るべし、袈裟はこれ仏身なり、仏心なり。また解脱服と称じ、福田衣と称ず。忍辱衣と称じ、無相衣と称ず。慈悲衣と称じ、如来衣と称じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と称ずるなり。まさにかくの如く受持すべし」

袈裟の異名として「解脱服・福田衣・忍辱衣・無相衣・慈悲衣・如来衣・阿耨多羅三藐三菩提衣」を掲載されますが、これは搭袈裟偈文の「大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生」からの援用と見られ、または如来の異称と見てもよいものです。この文言は『袈裟功徳』にも同文が引き継がれます。

「いま現在大宋国の律学と名称する輩、声聞酒に醉狂するによりて、おのれが家門に知らぬ家を伝来することを慙愧せず、恨みず、覚知せず。西天より伝来せる袈裟、久しく漢唐に伝われる事をあらためて、小量に従がうる、これ小見によりてしかあり。小見の愧づべきなり」

道元禅師の在宋時代の回想で、南山道宣(596―667)の四分律と名乗り称する輩は、「声聞」という自己陶酔の酒に酔狂することで、自分の家門にはない教え(衣法正伝)が伝来する事にも酒に酔う如くに慙愧(反省)せず、恨みず(残念に思わず)、覚知の意識もないのである。

西天のインドから伝来した袈裟を、長年後漢から唐に伝わる慣習を改変し、小量(五条衣を絡子に改める)の見解に従うことは、小見(度量が小さい)である故であり、小見の愧づべき処である(『仏制比丘六物図』(「大正蔵」四五参照)。

「もし今なんぢが小量の衣を用いるが如きは、仏威儀多く虧闕する事あらん。仏儀を学伝せる事のあまねからざるによりて、かくの如くあり」

現代の道元門下と自認する禿子の漢に聴きたい処であるが、「小量の衣」とは先にも云うように絡子(らくす)を指し、その絡子より更なるミニチュア版とも云うべき「小三衣」と称する御守護(おまもり)をも携行する様子は、「仏儀を学伝せる事のあまねからざる」の実証ではないか、再考すべきである。

如来の身心、ただ祖門に正伝して、かれらが家業に流散せざる事、明らかなり。もし万一も仏儀を知らば、仏衣を破るべからず。文なお明らめず、宗いまだ聞くべからず」

祖門と彼ら律学との相違を強調されます。

「又、ひとえに麁布を衣財に定む、深く仏法に背く。殊に仏衣を破れり、仏弟子着るべきにあらず。故は如何。布見を挙して袈裟を破れり。憐れむべし、小乗声聞の見、まさに迂曲悲しむべき事を。なんぢが布見破れてのち仏衣見成すべきなり。云う処の絹布の用は、一仏二仏の道にあらず」

「麁布」とは粗末な植物繊維の布を云うが、これを袈裟の衣財にするのは「深く仏法に背き」仏衣を破る事になる為、仏弟子は著用すべきではない。との厳しい見解ですが、これは先ほどの道宣が布見に拘泥・執著することへのアンチテーゼとも言えるものです。道元禅師のモットーは次に説かれる「糞掃」に意を傾けるものですから、このような南山の見解は「小乗声聞の見」と排斥され、絹や布に拘わる辦法は「仏道にあらず」と、律学門下の小見を諫められます。

「諸仏の大法として、糞掃を上品清浄の衣財とせるなり。その中に、しばらく十種の糞掃を連ぬるに、絹類あり、布類あり、余帛の類もあり。絹類の糞掃を取るべからざるか、もしかくの如くならば、仏道に相違す。絹すでに嫌わば、布また嫌うべし。絹布嫌うべき、その故何にか有る。絹糸は殺生より生ぜると嫌う、大きに笑うべきなり。布は生物の縁にあらざるか。情非情の情、いまだ凡情の情を解脱せず、いかでか仏袈裟を知らん」

ここで始めて「糞掃(ふんぞう)」の語を拈出し、この誰もが見向きもしない無執着・無価値で以ての袈裟を「上品清浄の衣財」と言い切る処に、独自の仏法観が見いだされます。当『伝衣』巻では十八か所・『袈裟功徳』巻に至っては三十二か所にも言及される「糞掃」の語を以てしても、重要視することばで有るかが理解できます。

「しばらく十種の糞掃を連ぬるに」と記述するにも関わらず、「十種の糞掃衣」は最後部に記するものですが、此処に配置した方が理に合すると思われるが、『袈裟功徳』に於いても同様な配置構文となります。

十種の糞掃の中には、絹や布やその他の織物が含まれるのであり、選りすぐって布は良く絹はダメでは世間での衣装と同様に為り、仏道で云う処の執著から超出できない状況を、彼ら小乗声聞の輩には解会しない旨を述べるものです。

律学衆が拘る理由は、繭玉の中の蚕を殺した材料の絹糸は、不殺生戒に抵触するからであるが、これについて絹は「情」、布は「非情」と言う「凡情の情を解脱していない」から、声聞酒に酔狂して「仏袈裟」を知り得ないのである。

又、化糸の説をきたして亂道することあり。又わらふべし。いづれか化にあらざる。なんぢ化をきくみゝを信ずといへども、化を見る目をうたがふ。目に耳なし、耳に目なきがごとし。いまの耳目、いづれのところにかある。しばらくしるべし、糞掃をひろふなかに、絹ににたるあり、布のごとくなるあらん。これをもちゐんには、絹となづくべからず、布と稱ずべからず。まさに糞掃と稱ずべし。糞掃なるがゆゑに、糞掃にして絹にあらず、布にあらざるなり。たとひ人天の糞掃と生長せるありとも有情といふべからず、糞掃なるべし。たとひ松菊の糞掃となれるありとも非情といふべからず、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、珠玉をはなれたる道理をしるとき、糞掃衣は現成するなり、糞掃衣にはむまれあふなり。絹布の見いまだ零落せざるは、いまだ糞掃を夢也未見なり。たとひ麁布を袈裟として一生受持すとも、布見をおぼえらんは、佛衣正傳にあらざるなり。

「又、化糸の説を来たして乱道する事あり。又笑うべし。いづれか化にあらざる。なんぢ化を聞く耳を信ずと云えども、化を見る目を疑う。目に耳なし、耳に目なきが如し。今の耳目、いづれの処にか有る」

「化糸の説」とは先の蚕を殺して絹糸が生ずるわけですから、自分に免罪符的説明として仮にそういう形を提示する糸である、という云い訳をする者が出るが、笑うべきものである。何を以て「化」とするかと、世の中は全てが化そのものの千変万化である。

なんぢ(律学徒)は「化」を聞く耳は信ずるが、化を見る目は疑う(糞掃の存在)が、例えるならば、「目には耳なく、耳に目が無い」ようなもので、律学を参究する学人の「耳目は何処に有るのか」、との手厳しい叱声です。つまりは、六根の感覚意識だけに頼るのではなく、全体を挙して判断しなさい、との事になります。

「しばらく知るべし、糞掃を拾う中に、絹に似たる有り、布の如くなる有らん。これを用いんには、絹と名づくべからず、布と称ずべからず。まさに糞掃と称ずべし。糞掃なるが故に、糞掃にして絹にあらず、布にあらざるなり」

「糞掃」とは捨てられたボロ布で、世の中では価値の無いものを再利用(リユース)するを糞掃と呼ぶわけですから、捨てられた物は絹に似ても非なる物で、「糞掃」のカテゴリーに収斂されるわけです。

「たとい人天の糞掃と生長せる有りとも有情と云うべからず、糞掃なるべし。たとい松菊の糞掃となれる有りとも非情と云うべからず、糞掃なるべし。糞掃の絹布にあらず、珠玉を離れたる道理を知る時、糞掃衣は現成するなり、糞掃衣には生まれ合うなり。絹布の見いまだ零落せざるは、いまだ糞掃を夢也未見なり。たとひ麁布を袈裟として一生受持すとも、布見を覚えらんは、仏衣正伝にあらざるなり」

たとえば人間界・天上界にて「糞掃」として生長しても糞掃は糞掃であり、生物としての「有情」ではない。ここでの「糞掃」の範囲はボロ布を透脱し、現成する事物・事象を示唆します。同じく「松と菊」を例題にするのは、無生物としての「松菊」を譬えるものですが、同様に「松菊」は「非情」とのカテゴリーではなく「糞掃」に帰属するとの提言で、すべての存在を「糞掃」とする仏法一元論へと導かれます。

「糞掃」の世界には「絹・布・珠玉」といった人間的価値判断の及ばぬ、無分節な状態であることです。分節状態では、見る見られる的な相対視観の世界で常に能所が繰り返されますが、「糞掃に於ける無分節世界」では能所が超脱し、現成公案の世界と為るのです。

ですから、「麁布」を一生護持するにしても、絹に対する布と云う物の見方をしていては、「仏衣正伝にあらざるなり」と言われるわけです。

又、數般の袈裟のなかに、布袈裟あり、絹袈裟あり、皮袈裟あり。ともに諸佛のもちゐるところ、佛衣佛功徳なり。正傳せる宗旨あり、いまだ斷絶せず。しかあるを、凡情いまだ解脱せざるともがら、佛法をかろくし佛語を信ぜず、凡情に隨佗去せんと擬する、附佛法の外道といふつべし、壞正法のたぐひなり。あるいはいふ、天人のをしへによりて佛衣をあらたむと。しかあらば天佛をねがふべし、又天の流類となれるか。佛弟子は佛法を天人のために宣説すべし、道を天人にとふべからず。あはれむべし、佛法の正傳なきは、かくのごとくなり。天衆の見と佛子の見と、大小はるかにことなることあれども、天くだりて法を佛子にとぶらふ。そのゆゑは、佛見と天見と、はるかにことなるがゆゑなり。律家聲聞の小見、すててまなぶことなかれ、小乘なりとしるべし。佛言、殺父殺母は懺悔しつべし、謗法は懺悔すべからず。おほよそ、小見狐疑の道は佛本意にあらず。佛法の大道は小乘およぶところなきなり。諸佛の大戒を正傳すること、附法藏の祖道のほかには、ありとしれるもなし。

「又、数般の袈裟の中に、布袈裟あり、絹袈裟あり、皮袈裟あり。ともに諸仏の用いる処、仏衣仏功徳なり。正伝せる宗旨あり、いまだ断絶せず。しかあるを、凡情いまだ解脱せざるともがら、仏法を軽くし仏語を信ぜず、凡情に随他去せんと擬する、附仏法の外道と云いつべし、壊正法の類いなり」

袈裟と云っても多種多様なバリエーションがあり、袈裟の衣財にはこれというものはなく、色でも壊色といい原色ではないものを選ぶわけですから、上座仏教でも国ごとに差違が生じ、タイでは木蘭系・ミャンマーでは褐色系と、固定した概念はないのであります。

このように布を材料に、絹を衣財に、または極寒の地では皮を袈裟様式に使用も可能で、金銭の授受での購買ではなく、捨弊された財をリユースする処に価値を見い出すわけです。そこには仏衣としての仏功徳が自然に薫習され、正伝する宗旨の断絶はないのである。

断絶はないと云いながらも、そうではあるが「凡情が未だに解脱しない連中」では、仏法を軽く見計らって仏法の語(ことば)は信用せず、凡情(普段の分別判断)に随去するは仏法に似たる外道と云うべきで、正法を破壊する類いの漢である。

「あるいは云う、天人の教えによりて仏衣を改たむと。しかあらば天仏を願うべし、又天の流類となれるか。仏弟子は仏法を天人の為に宣説すべし、道を天人に問うべからず。憐れむべし、仏法の正伝なきは、かくの如くなり」

「天人」の語をキーワードに調べてみると、四分律の南山道宣や元照の『仏制比丘六物図』に於いては天人の語が四回使われ、その中でも「至感通伝天人方示別製」(「大正蔵」四五・八九九上)あたりを「天人の教えによりて仏衣を改む」と評されるものと思われます。因みに『如浄語録』下巻では讃仏祖の項で南山律師道宣の章を設け「優波離後身、韋将軍棒足、布衣真童男、瓦缽天廚食、咦、歴劫戒光秋月明、南山静照煙霜色」との評は、道元が敬慕する師の如浄の一面を垣間見るものです。

そのように、天人の教えを鵜呑みにするのではなく、「仏弟子は仏法を天人の為に宣説すべき」であるが、仏法の正嫡でない連中(南山一門)は、このような次第である。

「天衆の見と仏子の見と、大小はるかに異なる事あれども、天くだりて法を仏子にとぶらう。その故は、仏見と天見と、はるかに異なるが故なり。律家声聞の小見、捨てて学ぶ事なかれ、小乘なりと知るべし」

天衆(子)と仏子との見解の相違は、天と地以上であるが、例えば帝釈天が降下して釈尊に法を請じたように、「天くだりて法を仏子にとぶらう」ことが有るのであるから、律家声聞の小見の教えを捨てて学んではいけない。彼らは自身の益しか及ばない「小乗」である事を知るべきである。

「仏言、殺父殺母は懺悔しつべし、謗法は懺悔すべからず。おおよそ、小見狐疑の道は仏本意にあらず。仏法の大道は小乗及ぶ処なきなり。諸仏の大戒を正伝する事、附法蔵の祖道のほかには、有りと知れるもなし」

「仏言、殺父殺母懺悔、謗法は懺悔」の出典は完全に一致するものではありませんが、『従容録』にて「首座殺父殺母、猶通懺悔謗大般若、誠難懺悔」(「大正蔵」四八・二六七中)を参考されたものかも知れません。

これまでを総合的に云うならば、律家声聞の見解は、狐(畜生)が疑心を持つような人のことば(道)は仏の本意に背くものであり、仏法の大道と云うものは、小乗(自己執着者)には及ぶ処ではなく、諸仏の真の戒法を正伝している者は、「附法蔵の祖道のほかには」居ないのである。

 

    五

むかし黄梅の夜半に、佛の衣法すでに六祖の頂上に正傳す。まことにこれ傳法傳衣の正傳なり、五祖の人をしるによりてなり。四果三賢のやから、および十聖等のたぐひ、教家の論師經師等のたぐひは神秀にさづくべし、六祖に正傳すべからず。しかあれども、佛祖の佛祖を選する、凡聖路を超越するがゆゑに、六祖すでに六祖となれるなり。しるべし、佛祖嫡々の知人知己の道理、なほざりに測量すべきところにあらざるなり。のちにある僧すなはち六祖にとふ、黄梅の夜半の傳衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、帛なりとやせん、畢竟じてこれなにものとかせん。六祖いはく、これ布にあらず、これ絹にあらず、これ帛にあらず。曹谿高祖の道、かくのごとしとしるべし。佛衣は絹にあらず、布にあらず、屈眴にあらざるなり。しかあるを、いたづらに絹と認じ布と認じ、屈眴と認ずるは、謗佛法のたぐひなり。いかにして佛袈裟をしらん。いはんや善來得戒の機縁あり、かれらが所得の袈裟、さらに絹布の論にあらざるは佛道の佛訓なり。また商那和修が衣は、在家の時は俗服なり、出家すれば袈裟となる。この道理、しづかに思量功夫すべし。見聞せざるがごとくして、さしおくべきにあらず。いはんや佛々祖々正傳しきたれる宗旨あり。文字かぞふるたぐひ、覺知すべからず、測量すべからず。まことに佛道の千變萬化、いかでか庸流の境界ならん。三昧あり、陀羅尼あり。算砂のともがら、衣裏の寶珠をみるべからず。いま佛祖正傳せる袈裟の體色量を、諸佛の袈裟の正本とすべし。その例すでに西天東地、古往今來ひさしきなり。正邪を分別せし人、すでに超證しき。祖道のほかに袈裟を稱ずるありとも、いまだ枝葉とゆるす本祖あらず。いかでか善根の種子をきざさん、いはんや果實あらんや。われらいま曠劫以來いまだあはざる佛法を見聞するのみにあらず、佛衣を見聞し佛衣を學習し、佛衣を受持することえたり。すなはちこれまさしく佛をみたてまつるなり。佛音聲をきく、佛光明をはなつ、佛受用を受用す。佛心を單傳するなり、得佛髓なり。

この段で実質提唱の終わりで、最後に六祖慧能と第三祖商那和修に関する袈裟を取り挙げ、さらに全体的まとめとして諸仏の袈裟の正体を説かれます。

「むかし黄梅の夜半に、仏の衣法すでに六祖の頂上に正伝す。まことにこれ伝法伝衣の正伝なり、五祖の人を知るによりてなり。四果三賢のやから、及び十聖等の類い、教家の論師経師等の類いは神秀に授くべし、六祖に正伝すべからず。しかあれども、仏祖の仏祖を選する、凡聖路を超越するが故に、六祖すでに六祖となれるなり。知るべし、仏祖嫡々の知人知己の道理、なおざりに測量すべき処にあらざるなり」

「黄梅の夜半」とは、唐土五祖大満弘忍(601―674)の住する「黄梅の会に投じて八か月、眠らず休まず、昼夜に米を搗き、夜半に衣鉢を正伝す」(「正法眼蔵」㈠・三〇九・岩波文庫)の事情を伝え、これが真実の「伝法伝衣の正伝」であるが、これは六祖の人となりを知り得た五祖弘忍の特質である。

「四果」は阿羅漢果を得る為の聖道に至る四段階。「三賢」は菩薩五十位中の十住・十行・十回向の三十位。「十聖」は菩薩五十位中の四十一位から五十位に至る十地の菩薩階梯を云う。これらの「四果三賢十聖」の教学の論師経師等の類いは「神秀に授くべし」との神秀(606―706)とは五祖門下第一頭でありながら、「身は是れ菩提樹(身是菩提樹)、心は是れ明鏡台の如し(心如明鏡台)、時々に勤めて払拭し(時々勤払拭)、塵埃を惹かしむ勿れ(莫使有塵埃)」の偈は師匠の弘忍からは認可されず、衣鉢は慧能に伝持されたが、これは慧能の弟子である荷沢神会(684―758)により創り上げられたものである事が、敦煌文献などから解明されてきた。道元禅師在世当時には、このような裏工作などは知る由もない事情から、「神秀に六祖を正伝すべからず」と説かれ、慧能の正嫡性を主張されるわけです。

このように慧能が六祖に為り得たことを、「仏祖の仏祖を選し、六祖すでに六祖となれり」と表体し、それは啐啄同時的機縁による「仏祖嫡々の知人知己の道理」が現成したからであり、ほかの他人の察知(測量)すべき処ではないのである。

「後にある僧即ち六祖に問う、黄梅の夜半の伝衣、これ布なりとやせん、絹なりとやせん、帛なりとやせん、畢竟じてこれ何物とかせん。六祖云く、これ布にあらず、これ絹にあらず、これ帛にあらず。曹渓高祖の道、かくの如しと知るべし。仏衣は絹にあらず、布にあらず、屈眴にあらざるなり。しかあるを、いたづらに絹と認じ布と認じ、屈眴と認ずるは、謗仏法の類いなり。いかにして仏袈裟を知らん。いわんや善来得戒の機縁あり、かれらが所得の袈裟、さらに絹布の論にあらざるは仏道の仏訓なり」

この説教は宝林寺での事か法性寺でのものかは判別できませんが、修行僧のなかでは、伝衣の袈裟の衣財が布(木綿)か絹か帛(はく・絹布)かの、いづれかが話題に挙がっていた事が窺い知れ、これに対し六祖は「布・絹・帛にあらず」と切り捨てます。

この問答に対する拈提として、「仏衣は絹にあらず、布にあらず、屈眴にあらず」と断言されます。「屈眴」とは「木綿の花心で織った布」との事ですが、『袈裟功徳』では「初祖相伝の仏袈裟は青黒色なり、西天の屈眴布なり、今曹渓山にあり」(「正法眼蔵」㈣・一五〇・岩波文庫)と屈眴を認めるものですが、当巻では「いたづらに絹と認じ布と認じ、屈眴と認ずるは、謗仏法の類いなり」と矛盾する説き方になりますが、この巻の草稿本的色彩を考慮するならば、文意の流れからして如何様な衣財であれ、固執する非を説かれるものです。

仏袈裟を知るに「善来得戒の機縁あり」の話があり、出家を志求する人に対し釈尊が「善来比丘」と呼び掛けた時点で、「髭髪自除し、袈裟著体」(大正蔵)五一・二〇六上)するとの機縁が生ずるもので、袈裟の財が絹だの布だとの論及は「仏訓」ではないのである。

「また商那和修が衣は、在家の時は俗服なり、出家すれば袈裟となる。この道理、静かに思量功夫すべし。見聞せざるが如くして、差し置くべきにあらず。いわんや仏々祖々正伝し来たれる宗旨あり。文字数うる類い、覚知すべからず、測量すべからず。まことに仏道の千変万化、いかでか庸流の境界ならん。三昧あり、陀羅尼あり。算砂のともがら、衣裏の宝珠を見るべからず」

「商那和修は第三の附法蔵なり」、とは『袈裟功徳』で紹介されるもので、第一祖魔訶迦葉・第二祖阿難陀・第三祖商那和修と嗣続される人物です。『古鏡』巻冒頭に引かれる「第十八祖伽耶舎多尊者はー中略―生まれしより一の浄明の円鑑、おのづから同生せり」と同類の説話のようで、「この道理を静かに思量功夫すべし」と説かれるが、魔訶不可思議な奇妙譚を言おうとするものではなく、法(dhárma)と自己との同時・同態性を表徴する為の表現形態のようです。つまりは、本来自己に帰着した姿を「出家すれば袈裟となる」と言わしめるものです。

「文字を数うる類い」の学者には、このような理屈に合わない点は「覚知・測量」は出来ないであろう。このような仏道の千変万化(糞掃衣の如くの入り乱れた様子)は、どうして黒豆法師(庸流)の境涯であろうか。三昧(samadhi)や陀羅尼(dharani)が挙げられるが、「算砂のともがら」つまりガンジス河の砂粒を算えるような教学の連中には、「衣裏の宝珠」と云った、自身の内奥に在る真実実態が見えないのであろう、との本来面目に気付かない庸流なる文字・算砂学漢に対する叱声と解されます。

「いま仏祖正伝せる袈裟の体色量を、諸仏の袈裟の正本とすべし。その例すでに西天東地、古往今来久しきなり。正邪を分別せし人、すでに超証しき。祖道のほかに袈裟を称ずるありとも、未だ枝葉と許す本祖あらず。いかでか善根の種子をきざさん、いわんや果実あらんや」

現在に伝わる袈裟の三大要素である体(財体)・色・量(寸法)を、諸仏の標準(正本)とすればいいのである。その例示はインド(西天)から唐・宋(東地)と、「古往今来」と久しく伝持されている。

「正邪を分別」できる学人は、すでに正伝か正本かは心得た参学人を「超証しき」と言われます。達磨門下(祖道)の他にも仏袈裟を呼称したとしても、袈裟の体裁を整えていない枝葉末節な袈裟など許す「本祖」(和尚)も居ないであろう。そのような枝葉の袈裟を著する所では、どうして「善根の種子」が有ろうか、いわんや「果実」である仏祖は誕生する事はない。

「我等いま曠劫以来いまだ遇わざる仏法を見聞するのみにあらず、仏衣を見聞し仏衣を学習し、仏衣を受持すること得たり。即ちこれまさしく仏を見たてまつるなり。仏音声を聞く、仏光明を放つ、仏受用を受用す。仏心を単伝するなり、得仏髄なり」

ここで説かれる主旨は、仏衣の機縁により仏法を見、仏音声を聞き、仏光明を放ち、仏受用し、仏心を単伝し、得仏髄なり。と言った仏袈裟による善根種子から、これらの果実が得成するを「得仏髄」と呼ぶものですが、まさに道元袈裟護持宗門とでも云うべきものです。

これほどまでに中国大陸の仏袈裟を仏法の極みと主張されるとなると、建仁寺安居中の袈裟、および渡宋を共にした明全の袈裟は、如何なる財体でのものかなど、比較論及したものが紹介されると、猶さらに説得力のある提唱と思われるのであるが、些か中国大陸での論に及し過ぎ、日本を含めた全体的俯瞰が望ましい処である。

 

    六

予、在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣單をみるに、毎曉の開靜のとき、袈裟をさゝげて頂上に安置し、合掌恭敬して、一偈を黙誦す。ときに予、未曾見のおもひをなし、歡喜みにあまり、感涙ひそかにおちて襟をうるほす。阿含經を披閲せしとき、頂戴袈裟文をみるといへども、不分曉なり。いまはまのあたりみる、ちなみにおもはく、あはれむべし、郷土にありしには、をしふる師匠なし、かたる善友にあはず。いくばくかいたづらにすぐる光陰ををしまざる、かなしまざらめやは。いまこれを見聞す、宿善よろこぶべし。もしいたづらに本國の諸寺に交肩せば、いかでかまさしく佛衣を著せる僧寶と隣肩なることをえん。悲喜ひとかたにあらず、感涙千萬行。ときにひそかに發願す、いかにしてかわれ不肖なりといふとも、佛法の正嫡を正傳して、郷土の衆生をあはれむに、佛々正傳の衣法を見聞せしめん。かのときの正信、ひそかに相資することあらば、心願むなしかるべからず。いま受持袈裟の佛子、かならず日夜に頂戴する勤修をはげむべし、實功徳なるべし。一句一偈を見聞することは、若樹若石の因縁もあるべし。袈裟正傳の功徳は、十方に難遇ならん。

大宋嘉定十七年癸未冬十月中、三韓の僧二人ありて、慶元府にきたれり。一人はいはく智玄、一人は景雲。この二人、ともにしきりに佛經の義をいひ、あまさへ文學の士なり。しかれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人のごとし。あはれむべし、比丘形なりといへども比丘法なきこと、小國邊地のゆゑなるべし。我朝の比丘形のともがら、佗國にゆかんとき、たゞかの二僧のごとくならん。釋迦牟尼佛、すでに十二年中頂戴してさしおきましまさざるなり。その遠孫として、これを學すべし。いたづらに名利のために天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門を、いま佛衣頂戴に廻向せん、よろこぶべき大慶なり。

ここからの文言は、恐らく一旦書き上げたものに、加筆し体裁を整える暇もなく、「七十五巻眼蔵」に供されたと推察される。

「予、在宋のそのかみ、長連牀に功夫せし時、斉肩の隣単を見るに、毎曉の開静の時、袈裟を捧げて頂上に安置し、合掌恭敬して、一偈を黙誦す。時に予、未曾見の思いをなし、歓喜身に余り、感涙ひそかに落ちて襟を潤す。阿含経を披閲せし時、頂戴袈裟文を見ると云えども、不分曉なり」

「予、在宋のそのかみ」とは、貞応二年(宋・嘉定十六年)1223年の七月以降に始めて天童山に掛搭したわけですから、当巻執筆時1240年からは17年前の出来事を述懐するものです。また予は自身を指すものですが、初期(興聖寺時代)の文章に録されるもので、『辦道話』巻二回・『仏性』巻五回・当巻二回・『袈裟功徳』巻二回と使用されます。

「長連牀」は僧堂内に仕切られた五人乃至十人位坐する一牀が四つある。

「斉肩の隣単」とは横で坐禅する人を指し、毎朝(毎曉)坐禅が終了した合図の鐘(開静)の時に、袈裟を捧げ頭頂に安座し、合掌恭敬して、一偈(大哉解脱服)を黙誦とあります。

その時予(道元)未だ見ざるの思いで、歓喜が身体に溢れ、感動の涙が襟元を潤した。との事ですが、感受性豊かな青年の見聞したカルチャーショックの一面でありますが、恐らくは当時を回想し一気に書き上げられたものと考えられます。

ここは『袈裟功徳』にも記載されるものですが、そこでは「一偈を黙誦す」のあとに「大哉解脱服、無相福田衣。被奉如来教、広度諸衆生」を示しますが、筋道としては、『袈裟功徳』の方が理に合ったものです。これを当巻では「頂戴袈裟文」とし、最後部にて先の偈文が記述されます。

猶この頂戴袈裟文は「阿含経を披閲せし時」としますが、正確には諸種の阿含経典には見当たらず、恐らくは『法苑珠林』巻二二(「大正蔵」五三・四四八中)では「大哉解脱服、無相福田衣。被奉如戒行、広度諸衆生」と、「如来教」→「如戒行」となり、『四分律刪繁補闕行事鈔』(「大正蔵」四〇・一五〇中)でも「同文」であり、さらに『勅修百丈清規』(「大正蔵」四八・一一三七中)では「大哉解脱服、無相福田衣。被奉如来戒、広度諸衆生」と各経典により異なります。

「今はまのあたり見る、因みに思わく、憐れむべし、郷土に在りしには、教うる師匠なし、語る善友に会わず。幾許かいたづらに過ぐる光陰を惜しまざる、悲しまざらめやは。今これを見聞す、宿善喜ぶべし。もしいたづらに本国の諸寺に交肩せば、如何でかまさしく仏衣を著せる僧宝と隣肩なることを得ん。悲喜ひとかたにあらず、感涙千万行」

「郷土に在りしには、教うる師匠」とは、良顕法眼・叡山座主公円(1168―1235)僧正・三井寺公胤(1145―1216)・栄西(1141―1215)・明全(1184―1225)等々を指すが、その情況を『辦道話』にて「予、発心求法よりこのかた、わが朝の遍方に知識をとぶらいき。因みに建仁の全公を見る。あいしたがう霜華すみやかに九廻をへたり」(「正法眼蔵」㈠・一二・岩波文庫)と示され、また歴史の事実として「道元の師とされる公円・公胤・栄西の三師は、建保元年(1213)四月二十六日の法勝寺九重塔婆造立供養に於いて、一同に会していた出来事は仏機縁の所業である(『三井寺の公胤について』上・舘隆志著「駒沢大学仏教学部論集第三十七号・ダウンロード可」。

彼らには袈裟の重要性や日課行持としての「頂戴袈裟文」は黙誦されていなかったようです。南宋に赴かなかったならば、日本の寺院では仏衣を著す僧宝とは隣肩できなかったろうが、

「宿善喜ぶべき因縁と、感涙千万行」には、如何に袈裟に対するインパクトが強烈だったかが、窺い知れます。

仏袈裟についての筆者の一言を許されるならば、現今の日本では未嗣法者は黒袈裟、嗣法者は色袈裟を著するが、上座部(タイ)では、沙弥(サーマネーラ)から長老(アーチャン)までが同色の木蘭袈裟を著する姿態は、まさしく釈子に価するもののようです。

「時に密かに発願す、如何にしてか我不肖なりと云うとも、仏法の正嫡を正伝して、郷土の衆生を憐れむに、仏々正伝の衣法を見聞せしめん。かの時の正信、密かに相資する事あらば、心願むなしかるべからず。いま受持袈裟の仏子、必ず日夜に頂戴する勤修を励むべし、実功徳なるべし。一句一偈を見聞する事は、若樹若石の因縁もあるべし。袈裟正伝の功徳は、十方に難遇ならん」

「仏法の正嫡を正伝して、仏々正伝の衣法を見聞せしめん」は、先の『辦道話』での「まのあたり大宋国にして禅林の風規を見聞し、知識の玄旨を稟持せしを、しるしあつめて、参学閑道の人にのこして、仏家の正法をしらしめんとす」(前述同一三)に聯関するものです。

「大宋嘉定十七年癸未冬十月中、三韓の僧二人ありて、慶元府に来たれり。一人は云く智玄、一人は景雲。この二人、共に頻りに仏経の義を云い、あまさへ文学の士なり。しかれども、袈裟なし、鉢盂なし、俗人の如し。憐れむべし、比丘形なりといえども比丘法無きこと、小国辺地の故なるべし。我朝の比丘形の輩、他国に往かん時、ただかの二僧の如くならん」

「大宋嘉定十七年」ならば干支は甲申となるはずですから、恐らくは嘉定十六年(1223)の十月径山からの帰途、慶元府で高麗僧二人を見かけたのであろう(伊藤秀憲著『道元禅研究』一〇一頁参照)。「高麗僧」とは『袈裟功徳』の記す処です。

二人の僧の名前は「智玄」「景雲」と記される処からして、三人はそれぞれに自己紹介をし合ったものと思われますが、彼らとの会話は中国語であったのか、それとも筆談で行われたものなのか。二人の高麗僧は盛んに仏経の義を論じていたようだが、果たして道元禅師は朝鮮語は理解できたのであろうか。

「慶元府」とは南宋時代の呼び名で現在の寧波(ニンポー)に当たりますが、彼らも掛搭・安居の留学僧でしょうから、高麗国には機縁のある「大梅山護聖寺」か「天童山景徳寺」に赴いたことでしょう。

「袈裟なし、鉢盂なし」の二人の高麗僧は、自国からは袈裟や応量器を持参しなかったのは、経典渡宋の目的が経典参究等であったからで、朝鮮半島に於いても、この時代には厳格な行持仏教は衰微していたのかも知れない。

「我朝の比丘形のともがら、他国に往かん時」とは、具体的な人物を指すのか、それとも抽象的な一般論を言うのか。重源(1121―1206)や栄西(1141―1215)は複数回の入宋があり、俊芿(1166―1227)は三十四歳から十三年間にも亘る在宋を続け、また圓爾辯円(1202―1280)は嘉定元年(1235)より仁治元年(1241)の七年間の入宋を経験された人物ですから、これらの僧は高麗僧の如き愚行は伴わなかった事でしょうから、「二僧の如くならん」とは、これから機縁が生じ留学僧となった場合には、高麗僧と称した智玄や景雲のような僧体はするな。と、さらには他国を他方に置き換える事で、常に衣鉢を護持しなさい。をも含意する提唱と思われます。

釈迦牟尼仏、すでに十二年中頂戴して差し置きましまさざるなり。その遠孫として、これを学すべし。いたづらに名利のために天を拝し神を拝し、王を拝し臣を拝する頂門を、いま仏衣頂戴に廻向せん、喜ぶべき大慶なり」

釈迦牟尼仏の十二年」は『山水経』巻では「十二年の修道」、当巻でも「頂戴して十二年」と各所で説かれますが、これは王宮出奔から山中苦行六年+成道六年端坐の計十二年の間、常に袈裟と身体は同体であった事実を、「十二年中頂戴して差し置きましまさざる」と言い、日常では名利の得失の為の拝を、仏衣頂戴に廻向する甚幸を慶びなさい。と結論されます。

原文では「仁治元年(1240)庚子開冬日(十月一日)記于観音導利興聖宝林寺、入宋伝法沙門、道元」と奥書きされますが、さらに書き添えられます。

袈裟をつくる衣財、かならず清淨なるをもちゐる。清淨といふは、淨信檀那の供養するところの衣財、あるいは市にて買得するもの、あるいは天衆のおくるところ、あるいは龍神の淨施、あるいは鬼神の淨施、かくのごとくの衣財もちゐる。あるいは國王大臣の淨施、あるいは淨皮、これらもちゐるべし。また十種の糞掃衣を清淨なりとす。いはゆる十種糞掃衣、一者牛嚼衣、二者鼠噛衣、三者火燒衣、四者月水衣、五者産婦衣、六者神廟衣、七者塚間衣、  八者求願衣、九者王職衣、十者往還衣。この十種を、ことに清淨の衣財とせるなり。世俗には抛捨す、佛道にはもちゐる。世間と佛道と、その家業はかりしるべし。しかあればすなはち、清淨をもとめんときは、この十種をもとむべし。これをえて、淨をしり、不淨を辦肯すべし。心をしり、身を辦肯すべし。この十種をえて、たとひ絹類なりとも、たとひ布類なりとも、その淨不淨を商量すべきなり。この糞掃衣をもちゐることは、いたづらに弊衣にやつれたらんがためと學するは至愚なるべし。莊嚴奇麗ならんがために、佛道に用著しきたれるところなり。佛道にやつれたる衣服とならはんことは、錦繍綾羅、金銀珍珠等の衣服の、不淨よりきたれるを、やつれたるとはいふなり。おほよそ此土佗界の佛道に、清淨奇麗をもちゐるには、この十種それなるべし。これ淨不淨の邊際を超越せるのみにあらず、漏無漏の境界にあらず。色心を論ずることなかれ、得失にかゝはれざるなり。たゞ正傳受持するはこれ佛祖なり。佛祖たるとき、正傳稟受するがゆゑに、佛祖としてこれを受持するは、身の現不現によらず、心の擧不擧によらず、正傳せられゆくなり。たゞまさにこの日本國には、近來の僧尼、ひさしく袈裟を著せざりつることをかなしむべし、いま受持せんことをよろこぶべし。在家の男女、なほ佛戒を受得せんは、五條七條九條の袈裟を著すべし。いはんや出家人、いかでか著せざらん。はじめ梵王六天より、婬男婬女奴婢にいたるまでも、佛戒をうくべし、袈裟を著すべしといふ、比丘比丘尼これを著せざらんや。畜生なほ佛戒をうくべし、袈裟をかくべしといふ、佛子なにとしてか佛衣を著せざらん。しかあれば、佛子とならんは、天上人間、國王百官をとはず、在家出家、奴婢畜生を論ぜず、佛戒を受得し、袈裟を正傳すべし。まさに佛位に正入する直道なり。

袈裟浣濯之時、須用衆末香花和水。灑乾之後、疊収安置高處、以香花而供養之。三拝然後、踞跪頂戴、合掌致信、唱此偈。大哉解脱服、無相福田衣、披奉如來教、廣度諸衆生。三唱。

而後立地、如披奉。

「袈裟を作る衣財、必ず清浄なるを用いる。清浄と云うは、浄信檀那の供養する処の衣財、或いは市にて買得する物、或いは天衆の送る処、或いは龍神の浄施、或いは鬼神の浄施、かくの如くの衣財用いる。或いは国王大臣の浄施、或いは浄皮、これら用いるべし」

袈裟の衣財には、とにかく清浄である事が肝要である。この場合の清浄の具体例を㈠浄信檀那供養衣財・㈡市での買得・㈢天衆の浄施・㈣龍神の浄施・㈤鬼神の浄施・㈥国王大臣の浄施を用いるべきとの例言ですが、この場合の天衆・龍神・鬼神とは思いがけない因縁処からの施物を云う。

「また十種の糞掃衣を清浄なりとす。いわゆる十種糞掃衣、一者牛嚼衣、二者鼠噛衣、三者火焼衣、四者月水衣、五者産婦衣、六者神廟衣、七者塚間衣、八者求願衣、九者王職衣、十者往還衣。この十種を、殊に清浄の衣財とせるなり。世俗には抛捨す、仏道には用いる。世間と仏道と、その家業はかり知るべし。しかあれば則ち、清浄を求めん時は、この十種を求むべし。これを得て、浄を知り、不浄を辦肯すべし。心を知り、身を辦肯すべし。この十種を得て、たとい絹類なりとも、たとい布類なりとも、その浄不浄を商量すべきなり」

清浄に対する考えを、浄は善で不浄は悪の観念に陥らないよう努力し続けることが出家の面目ですから、世俗では不浄として廃棄(抛捨)する衣財を、仏道では再利用する法(ダルマ)は現代社会が唱える地球循環型的な生き方である。

「十種糞掃衣」の出典を見ると『四分律』三九(「大正蔵」二二・八五〇上)「㈠牛嚼衣㈡鼠噛衣㈢焼衣㈣月水衣㈤産婦衣㈥神廟中衣㈦塚間衣㈧求願衣㈨受王職衣㈩往還衣」と一致します。ほかには『五分律』二一(「大正蔵」二二・一四三中)では「㈠王受位時所棄故衣㈡塚間衣㈢覆塚衣㈣巷中衣㈤新嫁女所棄故衣㈥女嫁時顕節操衣㈦産婦衣㈧牛嚼衣㈨鼠咬衣㈩火焼衣」と多少の出入りはありますが、同じく「十種糞掃衣」と認得していたようです。

簡単に説明すると㈠牛が嚼んだ衣㈡鼠が噛んだ衣㈢焼け残った衣㈣月水衣・生理(血)で汚れた衣㈤産婦衣・出産時使用衣㈥神廟中衣・神仏に供奉した衣㈦塚間衣・死者を覆った衣㈧求願衣・願掛けの衣㈨受王職衣・王権交代衣㈩往還衣・死者をくるんだ衣。

この十種の糞掃の中には、世俗に於いては価値が有ったものが忌避されたもの(王職衣)や、世間では汚濁の最たるもの(月水・産婦衣)の中には、絹や布・皮といったものが混在し、無価値から有価値に変転する浄不浄をよくよく考えなさい(商量すべきなり)と、説かれる次第です。

「この糞掃衣を用いる事は、いたづらに弊衣にやつれたらんが為と学するは至愚なるべし。荘厳奇麗ならんが為に、仏道に用著し来たれる処なり。仏道にやつれたる衣服と習わん事は、錦繍綾羅、金銀珍珠等の衣服の、不浄より来たれるを、やつれたるとは云うなり」

「糞掃衣」と云っても「弊衣」ボロではなく、捨てられた衣財から再利用できる箇所を切り取り、体・色・量に見合った袈裟を糞掃衣と称するわけですから、弊衣を糞掃衣・袈裟と云うのは「至愚なるべし」と言い含めるものです。

ですから糞掃の間に合う箇所を切り取り、洗い清め縫い合わせて仏衣に仕立てるわけですから、世間で云う奇麗荘厳とは意味合いが異なります。

仏道に於ける「やつれたる衣服」とは、世の中で云う荘厳な「錦繍綾羅」、奇麗を「金銀珍珠」等で織りあげた衣服を指すのであり、綾羅・金銀などの人間の欲望の対象から作りあげられた衣服を、やつれたると言うのである、との直言であり、娑婆と仏道では真逆の価値観を説くものです。

「おおよそ此土他界の仏道に、清浄奇麗を用いるには、この十種それなるべし。これ浄不浄の辺際を超越せるのみにあらず、漏無漏の境界にあらず。色心を論ずる事なかれ、得失に関われざるなり。ただ正伝受持するはこれ仏祖なり。仏祖たる時、正伝稟受するが故に、仏祖としてこれを受持するは、身の現不現によらず、心の挙不挙によらず、正伝せられゆくなり」

「此土他界のすべての仏道世界」では、先に挙げた十種糞掃衣を「清浄」であり「奇麗」と言うのであり、これらを解会するには「浄不浄」の概念を超越し、「漏無漏」の悟ったとか悟らないの境涯ではなく、「色心」現実界・精神界は論ぜず、「得失」損得に関わる問題ではないのである。

「正伝受持するはこれ仏祖」の正伝とは本来の自己面目を云うのであり、その結果として受持し仏祖と呼ばれるのであり、「正伝稟受」とは身体がどうとか、心の持ちようが如何とかの問題ではなく、正伝に理屈はなく、正伝の所に正伝がある。と、やや突き放すような言い方ですが、一心に只管にと云う提示です。

「ただまさにこの日本国には、近来の僧尼、久しく袈裟を著せざりつる事を悲しむべし、いま受持せん事を喜ぶべし。在家の男女、なお仏戒を受得せんは、五条七条九条の袈裟を著すべし。いわんや出家人、いかでか著せざらん。はじめ梵王六天より、婬男婬女奴婢に至るまでも、仏戒を受くべし、袈裟を著すべしと云う、比丘比丘尼これを著せざらんや。畜生なお仏戒を受くべし、袈裟を著すべしと云う、比丘比丘尼これを著せざらんや。畜生なお仏戒を受くべし、袈裟を掛くべしと云う、仏子なにとしてか仏衣を著せざらん。しかあれば、仏子とならんは、天上人間、国王百官を問わず、在家出家、奴婢畜生を論ぜず、仏戒を受得し、袈裟を正伝すべし。まさに仏位に正入する直道なり」

提唱当時(1240年)の天台や真言の宗門に於ける袈裟は、正伝の仏袈裟ではなく、正伝の糞掃衣を著する機縁の無いことは悲しむべし、との断言です。

この『伝衣』巻の主旨から云うと、自身の学んだ宗門を正伝とするのは理に適う論述ですが、『正法眼蔵』各巻に通底する「現成の真実態」の主意からすると、袈裟を覆う真実人体こそが法身であり、「無分節の実相態」であり「一味態の全機現」である事実からすると、感情論が随伴する論考とも受け取られ兼ねないものです。

「在家の男女も仏戒を受得」し、五条七条九条の袈裟を著せる慣習がある中国大陸での例を参照しての提言とするものと考えられますが、これは直綴の上に袈裟を著けますから、布薩の日には袈裟を掛け仏事を行じ、世事に戻れば袈裟は脱する。との見方は、上座仏教からすると大いに奇異に思われるでしょう。仏戒を受得し袈裟を著ければ仏子になれるも、安易に袈裟は脱着できる仏具ではなく、まさに三衣一鉢を信条とする生活ですから在家・出家の区別はなく、袈裟に触るれば出家人と為る世界を「仏子とならんは、仏戒を受得し、袈裟を正伝し、仏位に正入する直道なり」と言われるものです。

「梵王六天より、婬男婬女奴婢に至るまでも、仏戒を受くべし」は『梵網経』「若受仏戒者、国王・王子・百官宰相・比丘比丘尼・十八梵天六欲天子・庶民黄門・婬男婬女・奴婢八部・鬼神金剛神・畜生乃至変化人、但解法師語、尽受得戒、皆名第一清浄者」(「大正蔵」二四・一〇〇四中)さらに「畜生なお仏戒を受くべし」は同じく『梵網経』「汝等衆生尽応受三帰十戒、若見牛馬猪羊一切畜生、応心念口言。汝是畜生発菩提心」(「大正蔵」二四・一〇〇九上)からの引用で、実に丹念に経典類をご覧になられた様子が窺われます。因みに小拙、昔日先輩からの教えでは、人間以外の生命供養には弾指三打し、「南無畜生発菩提心」と三唱するを教示される。

「袈裟浣濯之時、須用衆末香花和水。灑乾之後、疊収安置高処、以香花而供養之。三拝然後、踞跪頂戴、合掌致信、唱此偈」

袈裟を浣濯の時は、須く衆(もろもろ)の末香や花を水に和して用いるべし。灑乾の後は、疊み収め高処に安置し、香花を以って之を供養すべし。然して三拝の後は、踞跪(左足を立て右膝を地につけて坐る礼法・仏伝図に有り)頂戴し、合掌致信し、此の偈を唱う。

「大哉解脱服、無相福田衣、披奉如来教、広度諸衆生。三唱、而後立地、如披奉。

大いなる哉(かな)解脱服、無相の福田衣、如来の教えを奉りて、広く諸の衆生を度す。三唱して、而して後立地し、披奉すべし。

これにて『伝衣』巻を終了とする。