正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第三十六「阿羅漢」を読み解く

正法眼蔵第三十六「阿羅漢」を読み解く

 

 諸漏已盡、無復煩惱、逮得己利、盡諸有結、心得自在。

 これ大阿羅漢なり、學佛者の極果なり。第四果となづく、佛阿羅漢あり。

 諸漏は没柄破木杓なり。用來すでに多時なりといへども、已盡は木杓の渾身跳出なり。逮得己利は頂寧に出入するなり。盡諸有結は盡十方界不曾藏なり。心得自在の形段、これを高處自高平、低處自低平と參究す。このゆゑに、墻壁瓦礫あり。自在といふは、心也全機現なり。無復煩惱は未生煩惱なり、煩惱被煩惱礙をいふ。

 阿羅漢の神通智恵禪定説法化道放光等、さらに外道天魔等の論にひとしかるべからず。見百佛世界等の論、かならず凡夫の見解に準ずべからず。將謂胡鬚赤、更有赤鬚胡の道理なり。入涅槃は、阿羅漢の入拳頭裡の行業なり。このゆゑに涅槃妙心なり、無廻避處なり。入鼻孔の阿羅漢を眞阿羅漢とす、いまだ鼻孔に出入せざるは、阿羅漢にあらず。

 古云、我等今日、眞阿羅漢、以佛道聲、令一切聞。

 いま令一切聞といふ宗旨は、令一切諸法佛聲なり。あにたゞ諸佛及弟子のみを擧拈せんや。有識有知、有皮有肉、有骨有髓のやから、みなきかしむるを、令一切といふ。有識有知といふは、國土草木、牆壁瓦礫なり。揺落盛衰、生死去來、みな聞著なり。以佛道聲、令一切聞の由來は、渾界を耳根と參學するのみにあらず。

 釋迦牟尼佛言、若我弟子、自謂阿羅漢辟支佛者、不聞不知諸佛如來但教化菩薩事、此非佛弟子、非阿羅漢、非辟支佛。

 佛言の但教化菩薩事は、我及十方佛、乃能知是事なり。唯佛與佛、乃能究盡、諸法實相なり。阿耨多羅三藐三菩提なり。しかあれば、菩薩諸佛の自謂も、自謂阿羅漢辟支佛者に一齊なるべし。そのゆゑはいかん。自謂すなはち聞知諸佛如來、但教化菩薩事なり。

 古云、聲聞經中、稱阿羅漢、名爲佛地。

 いまの道著、これ佛道の證明なり。論師胸臆の説のみにあらず、佛道の通軌あり。阿羅漢を稱じて佛地とする道理をも參學すべし。佛地を稱じて阿羅漢とする道理をも參學すべきなり。阿羅漢果のほかに、一塵一法の剩法あらず、いはんや三藐三菩提あらんや。阿耨多羅三藐三菩提のほかに、さらに一塵一法の剩法あらず。いはんや四向四果あらんや。阿羅漢擔來諸法の正當恁麼時、この諸法、まことに八兩にあらず、半斤にあらず。不是心、不是佛、不是物なり。佛眼也覰不見なり。八萬劫の前後を論ずべからず。抉出眼睛の力量を參學すべし。剩法は渾法剩なり。

 釋迦牟尼佛言、是諸比丘比丘尼、自謂已得阿羅漢、是最後身、究竟涅槃、便不復志求阿耨多羅三藐三菩提。當知、此輩皆是増上慢人。所以者何、若有比丘、實得阿羅漢、若不信此法、無有是處。

 いはゆる阿耨多羅三藐三菩提を能信するを、阿羅漢と證す。必信此法は、附囑此法なり、單傳此法なり、修證此法なり。實得阿羅漢は、是最後身、究竟涅槃にあらず、阿耨多羅三藐三菩提を志求するがゆゑに。志求阿耨多羅三藐三菩提は、弄眼睛なり、壁面打坐なり、兩壁開眼なり。徧界なりといへども、神出鬼没なり。亙時なりといへども、互換投機なり。かくのごとくなるを、志求阿耨多羅三藐三菩提といふ。このゆゑに、志求阿羅漢なり。志求阿羅漢は、粥足飯足なり。

 夾山圜悟禪師云、古人得旨之後、向深山茆茨石室、折脚鐺子煮飯喫十年二十年、大忘人世永謝塵寰。今時不敢望如此、但只韜名晦迹守本分、作箇骨律錐老衲、以自契所證、隨己力量受用。消遣舊業、融通宿習、或有餘力、推以及人、結般若縁、練磨自己脚跟純熟。正如荒草裡撥剔一箇半箇。同知有、共脱生死、轉益未來、以報佛祖深恩。抑不得已、霜露果熟、推將出世、應縁順適、開托人天、終不操心於有求。何況依倚貴勢、作流俗阿師、擧止欺凡罔聖、苟利圖名、作無間業。縱無機縁、只恁度世亦無業果、眞出塵羅漢耶。

 しかあればすなはち、而今本色の衲僧、これ眞出塵阿羅漢なり。阿羅漢の性相をしらんことは、かくのごとくしるべし。西天の論師等のことばを妄計することなかれ。東地の圜悟禪師は、正傳の嫡嗣ある佛祖なり。

 洪州百丈山大智禪師云、眼耳鼻舌身意、各々不貪染一切有無諸法、是名受持四句偈、亦名四果。

 而今の自佗にかゝはれざる眼耳鼻舌身意、その頭正尾正、はかりきはむべからず。このゆゑに、渾身おのれづから不貪染なり、渾一切有無諸法に不貪染なり。受持四句偈、おのれづからの渾々を不貪染といふ、これをまた四果となづく。四果は阿羅漢なり。

 しかあれば、而今現成の眼耳鼻舌身意、すなはち阿羅漢なり。構本宗末、おのづから透脱なるべし。始到牢關なるは受持四句偈なり、すなはち四果なり。透頂透底、全體現成、さらに糸毫の遺漏あらざるなり。畢竟じて道取せん、作麼生道。いはゆる、

 羅漢在凡、諸法教佗罣礙。羅漢在聖、諸法教佗解脱。須知、羅漢與諸法同參也。既證阿羅漢、被阿羅漢礙也。所以空王以前老拳頭也。

 

 正法眼藏阿羅漢第三十六

 

爾時仁治三年壬寅夏五月十五日住于雍州宇治郡觀音導利興聖寶林寺示衆

建治元年六月十六日書冩之 懷弉

 

正法眼蔵を読み解く阿羅漢」(二谷正信著)

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詮慧・経豪による註解書については

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