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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第三十六 阿羅漢 註解(聞書・抄)

正法眼蔵第三十六 阿羅漢 註解(聞書・抄)

 

諸漏盡、無復煩惱、逮得己利、盡諸有結、心得自在。これ大阿羅漢なり、學佛者の極果なり。第四果となづく、佛阿羅漢あり。

詮慧

〇「諸漏已尽」と云えども、声聞縁の「已尽」は、塵砂無明等をば不尽。只三界の理(ことわり)こそ尽す時に、「已尽」の詞も、差別ありと心得べし。仏の上にては、塵砂無明等も「已尽」なり。仏阿羅漢の位にあらざるまでは、無余涅槃を期する許り也。ただ八十八使の見悪(『天台四教儀』「大正蔵」四六・七七七a七・注)、四十一品の思悪を断ずる(『四教義』「大正蔵」四六・七六七a四・注)なり。「仏阿羅漢・大阿羅漢」などと云う(は)、同じ詞なるべし。

〇法華の同聞衆を云う時、声聞をつらぬ。たとい三界の欲を断じて、「諸漏已尽」と云うとも、法華の席には不相応、これ小阿羅漢なるべし。但し教に争か不入と云う義も有りと云々。総て「諸漏已尽」と云うにも、大いに相違あるべし。身心を習うより、小乗権門の様と、今の宗門と習う様有差別れば、「諸漏已尽」も別なるべし。

〇「大阿羅漢」の煩悩は、大海不宿死屍の死屍と可心得。今の木杓も死屍なるべし。「大阿羅漢」と云わん時、諸漏を置きて云うべからず。「大阿羅漢」と云わん時は、已前の三果の沙汰あるべからず。

〇「果」と云う事は、分々皆「極果」と思う。四教に皆仏あり、仏と説く、これ「極果」なるべし。「仏阿羅漢」とは云えども、三蔵経の仏と、四教仏との「果」は、はるかに異なるべし。法華の時、同聞衆はすでに機を一円に調いぬる時に、もとの声聞の徳を挙げて、「諸漏已尽」と云わんは、法華の本意にしてあるべからず。煩悩聊かも残らざらん、「極果」こそ大切なれ。小乗四果の阿羅漢は至極と云いても無詮。

〇「阿羅漢が必ず(しも)仏(に)なるにてはなけれども、仏を阿羅漢とは云うべし。阿羅漢果を証する程にては、小乗にて恥づる事は又あるべからざるか。

経豪

  • 是は『法華』(「序品」「大正蔵」九・一c二〇・注)の文なり。阿羅漢と云う事、我生已尽、梵行已立、所作已辦、不受後有(『起世経』「大正蔵」二四・三六四c一七・他に多載・注)とて、身智ともには入ら出ずとて、総て受くべき生もなし。只如灰なるべしと思え。是小乗己調の心とて煎りたる種、枯れたる木に喩えて、二乗不可成仏と被嫌之。今直指の上、所談の阿羅漢、不加准彼声聞縁覚。「仏阿羅漢なるべし」。此の経文を打ち任せて、人の心得には、諸漏已に尽くして、無復煩悩、逮得己利、尽諸有結、心得自在とて、「煩悩を断尽して、逮得己利、尽諸有結、心得自在」とは、あしかりつる煩悩等皆断じて、身上出火、身下出水、或満虚空中、現大身、何れとも如思、神通自在を得んずるようなるを、「心得自在」と心得たり。今は不可然、奥の御釈に見えたり。

「諸漏」とは煩悩名なり。「逮得己利」とは羅漢を指す歟。「尽諸有結」とは、「有結」も同じ煩悩名なり。「心得自在」とは、所詮声聞縁覚等の小乗の心をば、争か「大阿羅漢とも、又学仏の極果とも、仏阿羅漢」とも名づくべき。今(は)以仏祖所談、羅漢如然名づくべき也。

 

 諸漏は没柄破木杓なり。用來すでに多時なりといへども、已盡は木杓の渾身跳出なり。逮得己利は頂□(寧+頁)に出入するなり。盡諸有結は盡十方界不曾藏なり。心得自在の形段、これを高處自高平、低處自低平と參究す。このゆゑに、墻壁瓦礫あり。自在といふは、心也全機現なり。無復煩惱は未生煩惱なり、煩惱被煩惱礙をいふ。

詮慧

〇「用来すでに多時也と云えども」と云うは、日頃用い来たりつる木杓事也。不可改也。

〇「尽諸有結」と云う、此の「尽」は尽十方界不曾蔵程の「尽」也。

〇「煩悩被煩悩礙と云う、未生煩悩」と云うは、煩悩に拘わらざると也。「無復煩悩は未生煩悩なり」、煩悩をば法性等こそ礙うるに、やがて煩悩を煩悩が礙(さ)うる事は、聞き習わざる也。ただし「高処自高平」の如く、煩悩のみありと談ずる位には、法性が勝りて、煩悩を劣になして、礙うとも破るるとも云うべき様なし。ゆえに「煩悩(が)煩悩を礙うるなり」、礙うると云うも亦世間の「礙」の詞に習わざれ。

経豪

  • 「没柄破木杓」などと云う詞、常に祖門に用い付けたり、解脱の心地也。今の「諸漏」悪しき煩悩を云うかとこそ思う程に、「諸漏は没柄破木杓也」とあり。然者今の「諸漏」と云うは、解脱の詞なるべし。「諸漏已尽」と云う詞、諸悪莫作の詞に聊かも不可違。諸漏の姿を已尽と談ず也。さらに悪しき物を失い尽したる義にはあらざるべし。ゆえに今の「已尽」の姿、解脱なるゆえに、「木杓の渾身跳出」と云わるるなり。
  • 「逮得己利は頂□(寧+頁)に出入する也」とは、前に「已尽は木杓の渾身跳出也」と云う詞に不可違。「已尽と己利と渾身と頂□(寧+頁)と跳出出入」只同詞同心なるべし。「尽諸有結は尽十方界不曾蔵也」とは、是も悪しき貪瞋痴等の煩悩を尽し失いたりと不可心得。「尽諸有結」の姿、更善悪取捨の法に不可拘。「尽十方界不曾蔵なる姿を、尽諸有結」とは談ず也。又「心得自在の形段、高処高平、低処低平と参究す」とは、如前云、心に得自在を、諸の神変等を現ずるを、心得自在と云うにあらず。只「高処自高平、低処自低平」とは、世間に思い習わしたるように、只高下ある所を、すぐに引き慣らしたるようなるを如此云うと心得たり。非爾、高処は高処にて尽し、低処は低処にて尽すを如此云う也。ゆえに「墻壁瓦礫あり」と云う、墻壁瓦礫の姿則ち「心得自在」なるべし。心に仰ぎて得自在とは不可心得。ゆえに「自在と云うは心也、全機現也」と云う(は)、分明に聞こえたり。全機現道理、心得自在なるべし。
  • 「無復煩悩」と云えば、いかにも旧見に猶滞りぬべし。今はすでに「無復煩悩は未生煩悩也」とあり。さわさわと解脱の詞と聞こゆ。如前云、諸悪莫作の理に不可違也。

 

 阿羅漢の神通智恵禪定説法化道放光等、さらに外道天魔等の論にひとしかるべからず。見百佛世界等の論、かならず凡夫の見解に準ずべからず。將謂胡鬚赤、更有赤鬚胡の道理なり。入涅槃は、阿羅漢の入拳頭裡の行業なり。このゆゑに涅槃妙心なり、無廻避處なり。入鼻孔の阿羅漢を眞阿羅漢とす、いまだ鼻孔に出入せざるは、阿羅漢にあらず。

詮慧

〇「見百仏世界」の事、此の詞の出でくる事は、阿羅漢にとりて、差別を表さんが為也。

〇「これ仏神通也、外道不及仏見なり。

〇「従一仏国、至一仏国の義、是れまでは凡夫に可准仏国を境に置いて見るゆえに、「見百仏世界」、凡夫に勝るとも、対境する見を、凡夫は離れずと云う也。

〇又作意の神通と云う事あり。此の神通は「見百仏世界」と云うも、百の世界を極めんずるにてはなし。「百仏世界」に至りても、其の所にて又神通を起こせば、百仏世界に至り至りせんずる時に、際限なきを作意神通とは云うなり。

〇「将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡」の事、此の詞は頭正尾正と云うが如し。他国の人一人来たらんを見ん時は、此の一人の様にぞ、彼の国の人はあるらんと思うべし。然而鬚あるも有るべし、無きもあるべし。此の定めに必ず(しも)胡の鬚赤かるべきにあらず、鬚の赤き胡とも云うべきなり。今胡の鬚の喩えの出でくる事は、日来阿羅漢と聞く上は、また仏阿羅漢と云う事のありて、差別なるを知らざる喩えに引く也。

〇「入涅槃は、阿羅漢の入拳頭裏の行業なり、このゆえに涅槃妙心也」と云う、「行業」と云う詞、今の義には不相応と聞こゆ。しかれども教行証分くる事なきゆえ、証業とも云いつべし。証には又業とは如何、但し煩悩も未生煩悩と取る程の事也。行に付けたる程の業と心得べし。

経豪

  • 羅漢は百仏世界を見ると云う事(は)、論蔵の所談歟。是れは猶能見所見に関わる。今(の)詞は、此の「百仏世界」がやがて羅漢の眼也と談ず也。ゆえに能見所見を離れぬなり。百仏世界と、今の能見の羅漢との各別ならぬ道理が、「将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡」と云わるる也。只同物なるゆえに也。
  • 「涅槃」と云う事、灰身滅智すと心得る小乗心に不可准。已に「阿羅漢の入拳頭裏」とあり。知りぬ「阿羅漢の入拳頭」とは、辺際あるべからず。流転の生死に不可准、ゆえに「涅槃妙心也とも、無廻避処也」とも云うなり。是等を「真阿羅漢」とは云うべきなり。鼻孔眼睛などと云う事(は)、皆仏法の上の詞也。ゆえに「入鼻孔の阿羅漢を真阿羅漢とす」とは云う也。此の道理を得ざれば「阿羅漢に非ず」と被嫌也。

 

 古云、我等今日、眞阿羅漢、以佛道聲、令一切聞。いま令一切聞といふ宗旨は、令一切諸法佛聲なり。あにたゞ諸佛及弟子のみを擧拈せんや。有識有知、有皮有肉、有骨有髓のやから、みなきかしむるを、令一切といふ。有識有知といふは、國土草木、牆壁瓦礫なり。揺落盛衰、生死去來、みな聞著なり。以佛道聲、令一切聞の由來は、渾界を耳根と參學するのみにあらず。

詮慧

〇「我等今日真阿羅漢、以仏道声、令一切聞」、「諸仏及弟子」と云う此の詞の下に、「皮肉骨髄、有識有知、国土、牆壁瓦礫」までを云う。抑も「有識有知」は、有情に限りて云う詞と覚ゆれども、今者「国土牆壁」までを果す也、「令一切聞」なり。「渾界を耳根と参学するのみにあらず」と云う、やがて仏道の声と指す心なり。「以仏道声、令一切聞」と云いて、この由来を尋ぬるに、「渾界」と説く程なるには、「耳根」と取りつめたるは無詮。ゆえに「耳根と参学するのみにあらず」と云う也。牆壁瓦礫仏身と脱落するぞ、令一切聞の至極なるべき。「声聞」と云う名を付くる事は、「以仏道声、令一切聞」のゆえに、「声聞」と付くる也。但し決定性の声聞は、いかでか「令一切聞」の義あるべき。然而これはただ四諦の法の声を聞かしむれば、小声を聞かしめざるにあらず。しかれば猶声聞の名を付くなり。四種とは、決定性、退大、応化(決定退大等にはあらず、自他方来たりて応化する也)、仏道との四なり。今所談の「真阿羅漢」と云うは、無別体、ただ「渾界」なるべし。仏道声なるべし。

経豪

  • 此の経文(『法華玄義』「大正蔵」三三・七三二b二七・注)を、又人の打ち任せて心得には、仏道の声を一切に聞かしむると心得。「声聞」とは声を聞くと書きたり。是は能聞所聞を離れず、今の所談非爾。所詮如今云、一切諸法を令仏声を「令一切聞」とは云うべき也。「諸仏及弟子」とあれば、猶能聞所聞の姿も旧見に帰すべし。ゆえに「有識有知、有皮有肉、有骨有髄の族、皆令聞を、令一切と云う」とはあるなり。只諸法を指して仏声と談ずる「令一切聞」なるべし。
  • 前に有識有知、有皮有肉、乃至有骨有髄などとあるも、猶仰人で談ずれば、此の「聞」の詞も如何にも紛れぬべきを、「有識有知と云うは、国土草木、牆壁瓦礫也、揺落盛衰、生死去来、皆聞著也」と云えば、「令一切聞」の詞、旧見に迷うべからざる道理あきらかに聞くなり。詮は「国土草木、牆壁瓦礫也、揺落盛衰、生死去来」の当体を以て、「仏道声、令一切聞」とは可談なり。
  • 「渾界を耳根」と談ずるも、猶「令一切聞」の詞に、耳根と云う詞出で来ぬれば、旧見に帰るたよりと成りぬべし。又耳根と取り分けて云うべき様にも聞こゆ。「耳根と参学するのみにあらず」とは、耳根の詞を替えて、眼根とも鼻根とも、乃至舌根身根とも云わるべき道理を如此被書なり。

 

 釋迦牟尼佛言、若我弟子、自謂阿羅漢辟支佛者、不聞不知諸佛如來但教化菩薩事、此非佛弟子、非阿羅漢、非辟支佛。

 佛言の但教化菩薩事は、我及十方佛、乃能知是事なり。唯佛與佛、乃能究盡、諸法實相なり。阿耨多羅三藐三菩提なり。しかあれば、菩薩諸佛の自謂も、自謂阿羅漢辟支佛者に一齊なるべし。そのゆゑはいかん。自謂すなはち聞知諸佛如來、但教化菩薩事なり。

詮慧 釈迦牟尼仏言・・非阿羅漢、非辟支仏(段)

〇「諸仏如来但教化菩薩事」と云う、今被釈御詞に、「我及十方仏、乃能知是事也」とあり。「是事」とは、今の法華大乗の法也。但し又法華を心得にも、可有差別、不可取邪見。此の宗門の義を可取、「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相、阿耨多羅三藐三菩提也」。

〇「不聞不知」と云うは、大海不宿死屍の不宿の心に当るべし。「自謂」の詞は、「不聞不知」の義同也。

〇「菩薩諸仏の自謂も、自謂阿羅漢辟支仏者に一斉なるべし」と云う、此の「自謂」は未得已証などと云う義に似たり。さればこそ「自謂阿羅漢、辟支仏者、不聞不知、諸仏如来、但教化菩薩事、非仏弟子」とは被仰。「仏弟子」と謂わんには、争か「不聞不知、但教化菩薩事」ならん。「自謂」とは諸悪莫作の莫作と可心得。「仏の自謂も、自謂阿羅漢辟支佛者一斉」と非云。「自謂」は仏の上に談ずれば、無能所一斉也。ゆえに「自謂則ち、聞知諸仏如来、但教化菩薩事也」と云うなり。

〇仏言には菩薩諸仏の自謂と云う事不見、今の御会釈也。抑も菩薩を菩薩と自謂し、仏を仏と自謂せん。不可為邪見。故に「菩薩并仏の自謂も、自謂阿羅漢辟支仏も一斉なるべし」と、取り寄せらるる也。仏の仏と自謂せんも、三蔵教の仏の自謂せば、通教別教の自謂よりは劣也。謂わんや円教の仏に置いてをや。又菩薩の自謂も、鈍根の菩薩の沈空のみ越えたらん。自謂は難取、但し今の談には仏も阿羅漢も一斉なるべし、無勝劣義也。

〇自謂の詞は不聞不知の詞に具足して捨つべきかと覚えたれども、已前に云う仏の上、菩薩の上に置いて云う時は、自謂がやがて「聞知諸仏如来、但教化菩薩事」に当るなり。

〇「非仏弟子、非阿羅漢、非辟支仏」と云う、この「非」は阿羅漢、辟支仏はあれども、其の中に、非仏弟子もあるべきゆえに、「非」と云うにはあらず。仏弟子と云わん上はいかにもあれ。但し教化の事を不聞不知と云う事はあるべからず。又阿羅漢とも云うべからずと也。しかれば「非」は、物を置いて其れにはあらずと云うにてはなし。是無上菩提の道理なり。無上菩提と云う上は、善悪の二法を超越しぬる時に、「非」の字も不用。又超越と云うも、物を置きて、其れには答えたりと云う様には心得まじ。善悪を不置る超越也。不触事而知なるべし。

経豪

  • 経文に聞きたり。仏は果上の仏、我は劣也と心得は、「但教化菩薩事を不聞不知、非仏弟子、非阿羅漢、非辟支仏」と云う也。奥に委有御釈。
  • 是又如文。「但教化菩薩事」とは、上聖の仏の下位の菩薩を教化し給うように見えたり、非爾。「我及十方仏」とは、「我」と云うは釈尊御事歟。「十方仏」と云う程の但教化菩薩なるべし。「唯仏与仏、乃能究尽、諸法実相」の道理を、「但教化菩薩事」とは可談也。更仏与菩薩不可差別也。ゆえに「諸法実相也、阿耨多羅三藐三菩提也」と被釈也。
  • 是は「菩薩諸仏の自謂と、自謂阿羅漢の自謂と、一斉にして」不可差別と云う也。其の故は、前に「若我弟子、自謂阿羅漢、辟支仏者、不聞不知諸仏如来、但教化菩薩事、此非仏弟子、非阿羅漢、非辟支仏」と云いつる時の「自謂、不聞不知」とて被嫌之詞と聞こゆ。此の「自謂」は阿羅漢、辟支仏を劣也と自謂するゆえに被嫌之。今の「菩薩諸仏の自謂」は、無勝劣・無差別、今の「自謂阿羅漢の自謂」も、無勝劣・無差別ゆえに、「一斉なるべし」とは云うなり。此の「自謂」を以て「聞知諸仏如来、但教化菩薩事也」と可談。ゆえに「菩薩諸仏も、自謂も阿羅漢も、但教化菩薩事も」、非各別、非差別法也。

 

 古云、聲聞經中、稱阿羅漢、名爲佛地。

 いまの道著、これ佛道の證明なり。論師胸臆の説のみにあらず、佛道の通軌あり。阿羅漢を稱じて佛地とする道理をも參學すべし。佛地を稱じて阿羅漢とする道理をも參學すべきなり。阿羅漢果のほかに、一塵一法の剩法あらず、いはんや三藐三菩提あらんや。阿耨多羅三藐三菩提のほかに、さらに一塵一法の剩法あらず。いはんや四向四果あらんや。阿羅漢擔來諸法の正當恁麼時、この諸法、まことに八兩にあらず、半斤にあらず。不是心、不是佛、不是物なり。佛眼也覰不見なり。八萬劫の前後を論ずべからず。抉出眼睛の力量を參學すべし。剩法は渾法剩なり。

詮慧

○「声聞経中、称阿羅漢、名為仏地」、此の「仏地」は仏法の方よりは嫌う所也。声聞の方より仏と称する也。悉註右(自謂所註之)。「阿羅漢を称じて仏地とする道理、仏地を称じて阿羅漢とする道理」と云う、無別義。声聞方にて仏と云うと、仏の方より阿羅漢と云うとの差別なり。見上談也。

○「仏眼覰不見」と云う、阿耨多羅三藐三菩提をば、心とも仏とも物とも定むべきにあらず。ゆえに「覰不見」となり。

経豪

  • 「声聞経」とは、小乗経也。法華・華厳等の経にもあらず。然者今の経の説の「称阿羅漢、名為仏地」と云う仏は、頗る真仏と難取と云う難もありぬべし。但し今の阿羅漢を唯仏与仏の同程に談ずる上は、全く小乗経とも、非真仏とも難嫌事也。随次詞に、「今の道著これ仏道証明也、仏道の通軌也」とあり、非可疑。仰ぎて可信者也。
  • 仏地与阿羅漢、聊かも不可有差別浅深の義上は、実にも如此道理あるべし。顕然事也。
  • 「阿羅漢果の外に実一塵一法の剰法と云う事不可有、あらず、又阿耨多羅三藐三菩提の外に又一塵一法の剰法あるべからず。此の外に四向四果と云う沙汰に不可及」と云う道理也。是則一方を証するとき、一方はくらき道理なるべし。
  • 「阿羅漢擔来する諸法」とは、阿羅漢の上に置きて談ずる諸法の事なるべし。いわゆる十八変等振舞体事なるべし。是は只諸法は諸法と談じてありなん、「八両と云い、半斤と云いて」、無其詮と云う心地なり。例之法の至りて親切なる道理を云う時、「八両とも云わじ、半斤とも云わじ」と云う心也。只一法の究尽する道理、又交わる物のあるまじき心地を指して、如此談ずるなり。是常義、又法の至極する道理なるべし。
  • 是も阿羅漢果の外に、一塵一法の剰法あらんや、謂わんや三藐三菩提あらんやと云いつるように、此の諸法、不是心なる道理、不是仏なる道理、不是物なる道理也。一法独立する時、「不是心、不是仏、不是物」の道理はあるなり。是則説似一物即不中の理なるべし。此理の上に又、心にても、仏にても、物にてもあるべき道理、又勿論事也。「仏眼は覰不見」の理なり。夜間のとき眼にあたる物なき道理なるべし。
  • 二乗は大乗の方より見れば、次第に浅深に随いて、預流果は「八万劫」を経て後生心(心者大乗の心也)、一来果は六万劫を経て後生心、不還果は四万劫を経て生心、阿羅漢は二万劫を経て生心と云う也。今の所詮是等の義に不可同。ゆえに「八万劫の前後と不可論」とは云うなり。「抉出眼睛」とは、眼睛の外に余物なき姿なり。達磨眼睛を抉出してと云いし意也。是程の「丈に可参学」と云う也。
  • 前には一塵一法の剰法なしと云う。ここには「剰法は渾法剰也」とあり、聊か違いたるように聞こゆ。但し如此云えばとて、「剰法」と云う物がありて如此云わるるとは不可心得。たとえば法の外に剰法ありと云わば、其の剰法の姿は如何なる物ぞと問わば、法なるべし、是を「渾剰法」とは云うべし。羅漢の外に渾剰法ありと云わば、羅漢なるべし、此心也。「剰法を法剰」と上下する事は、剰と猶旧見起こりぬべし。「法剰」と云えば、今少し法の理親しく聞くなり。全依依全などと云いし心地也。

 

 釋迦牟尼佛言、是諸比丘比丘尼、自謂已得阿羅漢、是最後身、究竟涅槃、便不復志求阿耨多羅三藐三菩提。當知、此輩皆是増上慢人。所以者何、若有比丘、實得阿羅漢、若不信此法、無有是處。

 いはゆる阿耨多羅三藐三菩提を能信するを、阿羅漢と證す。必信此法は、附囑此法なり、單傳此法なり、修證此法なり。實得阿羅漢は、是最後身、究竟涅槃にあらず、阿耨多羅三藐三菩提を志求するがゆゑに。志求阿耨多羅三藐三菩提は、弄眼睛なり、壁面打坐なり、兩壁開眼なり。徧界なりといへども、神出鬼没なり。亙時なりといへども、互換投機なり。かくのごとくなるを、志求阿耨多羅三藐三菩提といふ。このゆゑに、志求阿羅漢なり。志求阿羅漢は、粥足飯足なり。

詮慧 釈迦牟尼仏言・・若不信此法、無有是処(段)

〇「若不信此法」と云う、阿耨多羅三藐三菩提の事也。「是処」と云う、此の理(ことわり)とは阿耨多羅三藐三菩提の理也。

〇「信」と云う、菩薩の五十二位を立つるにも、「信」は初めに置く。打ち任すは、「信」をば外凡の位にて、いまだ断惑証理せざる位也。「信」は得也、伝也、明也、又水精珠と云う。今の信こそ「阿羅漢と証すれ、必信此法、附属此法、単伝此法、修証なり」、「此法」と云わるるは、阿耨多羅三藐三菩提也。

〇「最後身、究竟涅槃」などと云う、などか阿羅漢を嫌わん。阿耨多羅三藐三菩提にあらざらんとぞ覚えれども、この「最後身」と云うも、菩薩の今度出世成道せんずる最後にあらず。四果に取りて「最後究竟」等なれば不可用、阿耨多羅三藐三菩提に不及。ゆえに小乗の究竟涅槃には止まるべからず。

〇「神出鬼没」と云う、出没の二字は変われども、神与鬼は同事也。只一物と心得べし、実相即出、諸法即没也。

〇「互換投機」と云う、互いに機を取ると云う也。此の上は「弄眼睛、壁面打坐、開眼徧界」などと仕う。無障詞なり。

〇「志求阿耨多羅三藐三菩提と云う、これやがて志求阿羅漢也」、「志求」と云えば猶疎し、しかれども、弄眼睛已下を指す。

〇「志求阿羅漢は、粥足飯足也」と云う、仏法の事を云う時、粥飯茶等をつかう。此門の定まれる習い也。叢林の法、志求阿耨多羅三藐三菩提より外の事あるべからず。粥飯も又叢林の所行なり。「粥足飯足」と仕う、阿耨多羅三藐三菩提也。「足」の字また仏法の足れると也。此の「足」は実相即足也、諸法即足と云う程の詞也。

〇「神出鬼没」と仕う時は、神鬼は同物にて、出没を自由につかう。是は足は一物にて、粥与飯を自由す。是程の事也。

〇「志求」と云えば、大阿羅漢には不相応(に)聞こゆ。但欲得恁麽事、既得恁麽事也。すでに恁麽人なり。何憂恁麽事とも云う。又欲知仏性義と云う事もあり。「志求」と云えばとて、不求得時刻とは云うべからず。大阿羅漢也。

経豪

  • 是は無余の灰断に帰する所を「最後身也、究竟涅槃也」と思う所を、如此被嫌いて、皆是増上慢人也と避けらる。「実得阿羅漢」と云う程にては、いかにも「不信此法」なる事不可有、経文已分明也。ゆえに「阿耨多羅三藐三菩提を能信するを、阿羅漢と証す」と云うなり。
  • 打ち任せて「人の物を信ず」と云うは、彼此相対して、此の人が知識を信ずるとも云い、或(いは)此の人ありて彼(の)法を信ずなどとこそ云え。是は最小分の信なるべし、今は仏祖の全面を以て「信」と談ず也。阿耨菩提の当体をやがて「信」とは云う也。又「附属此法」と云う事も、師資相対して、此法を彼に附属すとこそ思い習わしたるに、今の「必信此法は、附嘱此法なり」とあり。附属すべき師資なし、阿耨多羅三藐三菩提則附属此法也。此理が「単伝此法とも、修証此法とも」云わるべきなり。人ありて修行して証を得るなどとは不談なり。
  • 「実得阿羅漢の上には、最後身究竟涅槃」とぞ云わるべき。但し是は実得阿羅漢の上には、只究竟涅槃とも談ぜし、阿羅漢にてありなんと云う心地なり。其の故は「阿羅漢と究竟涅槃と阿耨多羅三藐三菩提」と更非各別、一体也、一物也。ゆえに如此云う也。
  • 「志求阿耨多羅三藐三菩提」と云えば、人有りて菩提を志求するように聞きたり。何人ありて菩提の外に菩提をば可志求。仏祖所談の眼睛、更無辺際、ゆえに此の「志求阿耨菩提の姿、弄眼睛なり」とは云わるるなり。「壁面打坐」の姿も、坐禅すれば坐仏也、坐断也、不可有辺際。ゆえに如此談ず也。今の「阿耨菩提」をば如此可心得也と云う也。然者可志求人ありて、阿耨菩提を求むと云う旧見は忽ち被破なり。「面壁開眼」も此心なるべし。
  • 「徧界也と云えども、神出鬼没也」とは、阿羅漢と云わん時は、志求阿耨多羅三藐三菩提は、しばし隠れ、志求阿耨菩提と云わん時は、阿羅漢は、しばらく隠るべしと云う心なり。是は圜悟の詞を被引出歟。「互換投機」も只此心なり。今道理を「志求阿耨多羅三藐三菩提」と云う也。
  • 如前云、阿羅漢と志求阿耨多羅三藐三菩提と一物なる上は、「志求阿羅漢」と云う理尤もあるべき也。「粥足飯足」の詞、常(に)祖師(の)仕い付けたる詞也。所詮粥も豊かに飯も豊か也とは、満足円満の心地、解脱の詞なるべし。

 

 夾山圜悟禪師云、古人得旨之後、向深山茆茨石室、折脚鐺子煮飯喫十年二十年、大忘人世永謝塵寰。今時不敢望如此、但只韜名晦迹守本分、作箇骨律錐老衲、以自契所證、隨己力量受用。消遣舊業、融通宿習、或有餘力、推以及人、結般若縁、練磨自己脚跟純熟。正如荒草裡撥剔一箇半箇。同知有、共脱生死、轉益未來、以報佛祖深恩。抑不得已、霜露果熟、推將出世、應縁順適、開托人天、終不操心於有求。何況依倚貴勢、作流俗阿師、擧止欺凡罔聖、苟利圖名、作無間業。縱無機縁、只恁度世亦無業果、眞出塵羅漢耶。

 しかあればすなはち、而今本色の衲僧、これ眞出塵阿羅漢なり。阿羅漢の性相をしらんことは、かくのごとくしるべし。西天の論師等のことばを妄計することなかれ。東地の圜悟禪師は、正傳の嫡嗣ある佛祖なり。

詮慧 夾山圜悟禅師(段)

〇此段は所詮、「本色衲僧を真阿羅漢」と云う証拠を取る許り也。「得旨」と云う(は)、得仏法となり。この詞、已後「真出塵阿羅漢」と云うまでは、道人の振舞を挙ぐる也。

〇「今時不敢望」と云う、いまの人は然らずと、恥しむる詞也。

〇「如此但只韜名晦迹」と云う、名利を捨つる心地なり。「守本分」と云う、僧のあるべき分なり。

〇「作箇骨律錐老衲」と云う、老僧事也。

〇「及人」と云うは化道(導?)なり。

〇「荒草裡撥剔」と云う、取り動かすこころなり。

〇「一箇半箇知有」と云う、「知有」は道人なり。これと同じき友と共に生死を免がると云う也。

〇「霜露果熟をやがて出世応縁」と取る事は、「霜露」あだ(徒)なる物なれども、「果熟」すと云えば、「出世応縁」するなり。

〇「不操心於有求」と云う、求むる事あるは、世間事なり。仍て求むる事なかれとなり。

〇「依倚貴勢、作流俗阿師」、貴人権勢に依る事なかれと也。「流俗」は俗人の事也。「阿師」と云うは、ただ師也、世間人なり。

〇「欺凡」と云う「凡」をも欺(あざむ)くべからずとなり。

〇「罔聖」と云う、「聖」を悪することもせざれと也。

〇「苟利」(此注たがふ歟、苟は、もとむると可読歟)、利を苟(いやしく)せんは、善き事と聞こゆれども、利を求むるゆえに利に従えて、身が卑(いや)しくなる也。是も不貪利の義にはなし。

〇「図名」と云うは、名を求むると也。

〇「無機縁」と云うは、化導すべき人なくば、ただ入山して行ぜよと也。但し化導と云えばとて、導は現る。導と云えば、化は現る。入山も化導なり。人汝を汝と化導する。入山の心地、法界をも化導す。さればとて、又いたづらにて、はてよとにはあらず。

〇「只恁度世亦無業果」と云う、如此とは右に挙ぐる所の「折脚鐺子煮飯、韜名晦迹守本分」等の事也。

経豪

  • 是は詞多いようなれども、無別子細。只祖師の振舞、「茆茨、石室、煮飯、喫十年二十年、乃至及人、結般若縁」などとする姿を、今は「真阿羅漢」と談ずる也。打ち任せて羅漢所談の義には、大いに違いたり。以之可准知事也。此の一段の詮句在之者歟。西天の論師等の見解、いかにも羅漢と云えば、其位分々を置きて談之。ゆえに「西天論師等の詞を妄計する事なかれ」とはある也。

 

 洪州百丈山大智禪師云、眼耳鼻舌身意、各々不貪染一切有無諸法、是名受持四句偈、亦名四果。

 而今の自佗にかゝはれざる眼耳鼻舌身意、その頭正尾正、はかりきはむべからず。このゆゑに、渾身おのれづから不貪染なり、渾一切有無諸法に不貪染なり。受持四句偈、おのれづからの渾々を不貪染といふ、これをまた四果となづく。四果は阿羅漢なり。

 しかあれば、而今現成の眼耳鼻舌身意、すなはち阿羅漢なり。構本宗末、おのづから透脱なるべし。始到牢關なるは受持四句偈なり、すなはち四果なり。透頂透底、全體現成、さらに糸毫の遺漏あらざるなり。畢竟じて道取せん、作麼生道。いはゆる、

 羅漢在凡、諸法教佗罣礙。羅漢在聖、諸法教佗解脱。須知、羅漢與諸法同參也。既證阿羅漢、被阿羅漢礙也。所以空王以前老拳頭也。

詮慧 洪州百丈山大智禅師(段)

〇「受持四句偈阿羅漢也」と云う(此の眼耳已下、自他に関わらぬ心地也、大悲菩薩用許多手眼程なり)。

〇「構本宗末」と云う、頭正尾正程の事なり。頭正尾正と云う時は、龍頭蛇尾と取るなり。

〇「始到牢関」と云う、「始」と云えば終に関わるにてはなし。この「牢関受持四句偈」を「始到牢関」と仕う也。

〇「羅漢在凡・・老拳頭也」、凡聖の羅漢の所在と聞こゆ。不然、諸法をもて為羅漢なり。時刻は分にはあらず。非善悪句参なるなりと云わん、大切ばかり也。

〇「空王以前」と云う、遠き義なり。過去に取りても久遠の義なり。

〇「老拳頭」と云うは、仏法是也。「羅漢と諸法と同参」程の詞なり。

経豪

  • 「眼耳鼻舌身意各々不貪染」と云えば、以眼色法を縁し、乃至耳根にて声塵を開き、如此六根皆境に奪わるるを、今は制伏して此の貪染するを止むるかと被心得ぬべし。今は非其義、抑も祖師の六根と云う物は、いかなるべきぞ。已に談眼時は尽十方界沙門一隻眼と談之、談身時は尽十方界沙門全身と談之。これこそ六根各々不貪染なれ。只両物相対して、是が彼に貪染せざれと、制は聊かの事也。凡夫妄情見を離るべからず。不貪染の至極なれ。されば手眼は夜間にて、眼にあたる物なく、千手は手に取るべき物なき道理を、今は「不貪染」と談ず也。此の道理を「四句偈とも四果とも」可名也。経文の一句一偈を四句偈と名づけ、四向四果の聖者をこそ、「四果とも羅漢とも」云うかと思い習わしたるに、今の所談まことに仏祖の法にあわずは難見聞事也。此の六根の姿、眼が法界を尽し、耳根乃至身意等が尽法界道理を、今は「頭正尾正、はかりきわむべからず」とは云わるる也。
  • 如前云、今六根の不貪染なる理が、「渾身おのれづから不貪染也」と云わるる也。「渾身」とは尽界などと云う心地也。「一切有無諸法」も不貪染の理なり。「渾々不貪染なる道理」をもて、四果とも阿羅漢とも可談也。
  • 是は「本末ともに透脱也」と云う也。「始到牢関なる」とは、竹破節などと云う詞に同じ。所詮解脱の姿を云う也。
  • 是は頂(いただき)をも透し、底をも透す。只是尽十方界などと云う程の無際限(の)心地に仕う歟。「糸毫の遺漏あらず」とは糸筋程も残る物なき心地也。実にも阿羅漢の当体、志求阿耨多羅三藐三菩提の姿、なじかは「糸毫の遺漏」もあるべき勿論の事也。
  • 是は「作麼生道」とあるよりは、故方丈の御詞なり。此の凡聖の詞、罣礙解脱の詞、徳(得?)失あるように聞こえたり。然而全非徳(得?)失浅深、只羅漢の上の凡聖罣礙解脱なるべし。ゆえに「羅漢と諸法と同参也」と被決。「阿羅漢証、被羅漢礙也」とは、阿羅漢をば阿羅漢が礙するなり。さらに別物が阿羅漢を礙すべきにあらざる也。「空王以前の老拳頭」とは、只無始無終などと云う程の詞歟。三世九世に拘わらざる道理を云う也。「老拳頭」の詞、又如剛老の詞(は)、褒むる詞か、無始無終今の道理也と云う心なり。「空王以前」も無辺際の義、「老拳頭」も又一物に拘わらず。解脱の心地なるべし。

阿羅漢(終)

2022年 10月11日 (タイ国にて 記)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。