正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六七 転法輪 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六七 転法輪 註解(聞書・抄)

先師天童古仏上堂挙、世尊道、一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞。師拈云、既是世尊所説、未免尽作奇特商量。天童則不然、一人発真帰源、乞児打破飯椀。

詮慧 先師天童古仏上堂挙。

〇首楞厳経を偽経と疑い、この宗門に引用さる事は、旨と真妄の二法を立つる故なり。然而「世尊すでに一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞の道」あり。これを祖師多(く)拈挙す。先師上堂に被挙方可用、但用いる時の了見は又可違、彼経大意然而似たる所あり。まず「一人」と云う人は誰人ぞ、自与他与不審也。「一人」のの字は不対二、傍観もなき心なるべし。しかあれば「発真」の詞も「帰源」の詞も不中用。又「十方虚空」も人体の上には説き難し。「悉皆消殞」と云う詞も、何と消えおつべきぞなれば、世間に思うが如きあるべからず。―部は筆者(以下同)

〇天童拈挙の詞に、「世尊所説、未免尽作奇特商量」とある。このまぬかれずの御詞は「奇特商量」なりと決定する御詞なり。「天童は不然」とある御詞も奇特の商量也、又決定せらるる也。「悉皆消殞」とある詞を不然と被引替たるにてこそあれ、「乞児打破飯椀」とある許也。「一人」とあるを今は「乞児」と云い「帰源」とある也。更不相違(乞児をば只一人と心得べし、非別人)。

経豪

  • 今の「世尊道の一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」は如文。『首楞厳経』の道也。此れを天童上堂の時、被挙歟。天童の御詞に「天童は不然」とあれば、仏言には違してあらぬ義の、出でむずるかと覚えたり、非爾。仏言の理の響く所を如此被挙也。「世尊道の一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」の御詞は、「一仏成仏観見法界草木国土悉皆成仏」(『渓嵐拾葉集』「大正蔵」七六・五四九下・「中陰経云、一仏成仏観見スルニ法界ヲ草木国土悉ク皆成仏ト」と云う詞に、聊かも不可違なり。「消殞す」とある詞も、消え落つるなどと云えば、悪しく成りたる様に聞こゆ。以悉皆成仏姿(を)消殞すとも云う也。又「乞児打破飯椀」(の)、乞児とは乞食不可説物歟、かたい(?)とも云う歟、返々いやしかるべき姿也。其が飯椀とは、飯(を)入るる器物歟、其を打破したらん、実彌無憑方様に聞こえたり。然而非嫌詞歟。所詮「打破飯椀」は、解脱の理なるべし。

 

五祖山法演和尚道、一人発真帰源、十方虚空、築著磕著。

詮慧

〇「法演和尚の十方虚空、築著磕著」とあるも、悉皆消殞(と)同じ詞なり。

経豪

  • 「築著磕著」の詞、是又非無謂。「一人発真帰源」の道理、十方虚空に築著磕著せん、尤謂あるべし。

 

仏性法泰和尚道、一人発真帰源、十方虚空、只是十方虚空。

詮慧

〇「法泰和尚の十方虚空、只是十方虚空」とある。さわやかに聞こえたり、悉皆消殞の詞これ也。

経豪

  • 「仏性法泰和尚道、十方虚空、只是十方虚空」の詞、是又道理必然なるべし。十方虚空は只是十方虚空の理なるべし。

 

夾山圜悟禅師克勤和尚云、一人発真帰源、十方虚空、錦上添花。

詮慧

〇「圜悟禅師の錦上添花」とあるも、上の十方虚空、只是十方虚空とある同じ詞なるべし。

経豪

  • 「圜悟(の)詞に、「十方虚空、錦上添花」と(の)文、悟上得悟迷中又迷(『現成公案』)とも云いし詞に不可違。「錦上添花」たらん、実(に)殊勝なるべし、讃嘆の詞とも心得んに不可向背也。

 

仏道一人発真帰源、十方虚空、発真帰源。

詮慧

先師の「発真帰源すれば十方虚空、発真帰源す」とあるも、更(に)変わらぬ悉皆消殞なるべし。

経豪

  • 「大仏道、十方虚空、発真帰源」。十方虚空は只是十方虚空也と云う程の御詞歟。発真帰源の道理は、発真帰源なるべし。

 

いま挙するところの一人発真帰源、十方虚空、悉皆消殞は、首楞厳経のなかの道なり。この句、かつて数位の仏祖おなじく挙しきたれり。いまよりこの句、まことに仏祖骨髄なり、仏祖眼睛なり。しかいふこゝろは、首楞厳経一部拾軸、あるいはこれを偽といふ、あるいは偽経にあらずといふ。両説すでに往々よりいまにいたれり。旧訳あり、新訳ありといへども、疑著するところ、神龍年中の訳をうたがふなり。しかあれども、いますでに五祖の演和尚、仏性泰和尚、先師天童古仏、ともにこの句を挙しきたれり。ゆゑにこの句すでに仏祖の法輪に転ぜられたり、仏祖法輪転なり。このゆゑにこの句すでに仏祖を転じ、この句すでに仏祖をとく。仏祖に転ぜられ、仏祖を転ずるがゆゑに、たとひ偽経なりとも、仏祖もし転挙しきたらば真箇の仏経祖経なり、親曾の仏祖法輪なり。たとひ瓦礫なりとも、たとひ黄葉なりとも、たとひ優曇花なりとも、たとひ金襴衣なりとも、仏祖すでに拈来すれば仏法輪なり、仏正法眼蔵なり。しるべし、衆生もし超出成正覚すれば仏祖なり。仏祖の師資なり、仏祖の皮肉骨髄なり。さらに従来の兄弟衆生を兄弟とせず。仏祖これ兄弟なるがごとく、拾軸の文句たとひ偽なりも、而今の句は超出の句なり。仏句祖句なり、余文余句に群すべからず。たとひこの句は超越の句なりとも、一部の文句性相を仏言祖語に擬すべからず、参学眼睛とすべからず。

詮慧

〇「一仏成道観見法界、草木国土悉皆成仏」(『漢光類聚』(「大正蔵」七四・三八〇上)『漢光類聚』は『摩訶止観』に対する注釈書)と云う詞と、今の「悉皆消殞」の詞(は)又不遠、不消殞は脱落の詞也、虚空を捨てんとにはあらず。「一人」と云う各々の衆生の中の一人と指すにはあらず、尽十方界真実人体なり、一人と云うが世間の心地ならば迷妄の詞也。「発真帰源」の詞(は)不相応。「発」という字も「帰す」と云う字も共に非世間詞也。「真」は不対妄、帰の字も源に帰すと云わば、流転の心地也。更不対縁源也と心得べし。

〇教に諸法実相と説くも三界一心と説くも、諸法の悪しき物を実相の甘露と心得なし。我等が心を取りて三界と云うなどと談ずるまでは、善悪に拘わるに似たり。麻三斤を庭前柏樹子ぞなどと説くこそ、今の相伝の義なれとて、何れとも不被心得を祖門と云う(は)可笑、是は所詮この子細に暗き故也。今挙ぐる所の祖師の詞ともに習うべし。或いは全て法文の義を談ずる事不可有、ただ公按を額に懸けて、こそあれ(これぞあれぞ)と教うること当時天下に普ねし、額に懸くべくば、先ず世尊道の「発真帰源、十方虚空、悉皆消殞」とある此の詞を懸くべし。但此の詞は不審なるべからず。流転還滅するを或従知識し、或従経巻して発真帰源すと心得て止みぬべし。額に懸くる詮あるべからず。いま「乞児打破飯椀」とも、「只是十方虚空」とも「錦上添花」とも「発真帰源すれば発真帰源」とも云う。ことこそ(こともあろうに)教に違したる詞なれば、額にも心得ん事をこそ額に懸けて、年序を送るべけれ。すべて詞を以て教うべからず、以文字書き了うべからずと嫌う事は、今の祖師の重々の御詞には違うべきをや。「悉皆消殞」と云う御詞を何時かは何れとも心得まじ事とて、打ち捨つる此等を以て可勘実否。世尊道を開悟する各々面々、如此心得まじき事なり。言句に拘わらん非仏法とは返々不可云也。この挙ぐる所の祖師、皆十方仏と云われ、角立(他に抜きん出る事。又その人・「一顆明珠」)と誉めらる。今の世間に長老と云わるる輩と、已前に挙ぐる祖師と天地懸隔也、不可及詞日論也。この面々の詞(を)以て相違すれども、一言も不可替。仏説法に説仏程の義也。

〇「この句すでに仏祖の法輪に転ぜられたり」、「真箇の仏経祖経也」と云う。是如文。「地にたふる者は、地によりて起く」(「若因地倒、還因地起」(「大正蔵」五一・二〇七中・「恁麽」)などと云う経文の詞にても、仏法は明らむ。牆壁瓦礫にても仏心は顕わす、一茎草にても丈六金身を明らむ。まして偽経也とも仏祖の挙拈の上は正法なるべし。「依経解義三世仏怨、離経一字、如同魔説」(『景徳伝灯録』六・百丈章「大正蔵」五一・二五〇上)を説くなどと云う。真経偽経とは分かず、了見に人によるか、正人邪法を行ずるは邪法かえりて帰正と云う事あり。今の義に驚くべからず、発真帰源の詞すでに仏経なり、祖経也。親曾の法輪也。

〇「たとい瓦礫なりとも、たとい黄葉なりとも、仏正法眼蔵なるべし」と云う。瓦礫黄葉の具足には優曇花も難用。仏拈じて仏法を附属し給します故に、金襴衣又袈裟也。仏衣なり、旁不審也。但右に云うが如く、瓦礫も仏心也、黄葉も丈六体也。優曇華も只輪王の法にて有らんばかりは無詮けれども、仏拈じおわしませば仏法也。金蘭衣なりとも俗眼もしくは世間の財宝ならんまでは、仏法に難取、袈裟に作りぬれば仏衣也。この理を云う也。所詮、仏祖の詞をせめて喩うる故に、瓦礫也とも云う詞も出で来たるなり。取る時は瓦礫・黄葉も取り、捨つる時は優曇華・金蘭衣も捨つべし。善悪の法を相対するとは思うべからず。

〇「従来の兄弟衆生を兄弟とせず、今の句は超出の句也」と云う。是は衆生正覚を成ずれば仏祖也。但又去ればとて一部の文句をば、仏言祖語に擬すべからずとなり。一代の諸教皆是対機随情の説なれば不可取、拈優曇華こそ法文なれなどと云う。篇に入は教にも暗く、拈華の子細にも暗き故也。

〇「発真」と云うは仏道也、発真にあらざらんは妄法妄語也。真と云い難し。

〇「帰源」と云うは、さとりに帰ると云う程の事なり。本覚に帰すなどと云うが如く、一人発真帰源の下には是什麽物恁麽来ともつけ、説似一物即不中ともつけ、修証はなきにあらず染汚すること得じとも云え、すべて祖師の言句いづれを付けて見るとも、其の義ふたつとなるべからず。三界唯一心、心外無別法の詞、悉皆消殞・乞児打破飯椀、築著磕著、只是十方虚空・錦上添華等(の)詞(は)、皆発真帰源なるなり。よくよく参学すべし。有無善悪の詞とのみ嫌いて、只いたづらに両辺の唇を合わせたる声の響きと思う事は、衆生顛倒の惑いにてこそあれ、是を実と解する事なかれ。

 

而今の句を諸句に比論すべからざる道理おほかる、そのなかに一端を挙拈すべし。いはゆる転法輪は、仏祖儀なり。仏祖いまだ不転法輪あらず。その転法輪の様子、あるいは声色を挙拈して声色を打失す。あるいは声色を跳脱して転法輪す。あるいは眼睛を抉出して転法輪す。あるいは拳頭を擧起して転法輪す。あるいは鼻孔をとり、あるいは虚空をとるところに、法輪自転なり。而今の句をとる、いましこれ明星をとり、鼻孔をとり、桃花をとり、虚空をとるすなはちなり。仏祖をとり、法輪をとるすなはちなり。この宗旨、あきらかに転法輪なり。転法輪といふは、功夫参学して一生不離叢林なり、長連床上に請益辦道するをいふ。

経豪

  • 是又分明也。所詮「転法輪」と云う事は、如前云、如来出世して為衆生済度、四弁八音(四弁は四種の自由な智解と弁才、八音は仏の八種の音で仏語を云う。仏の説法は聴者の心を和らげて自づと善道に導く喩え)を以て法を開演し給うを「転法輪」と名づく。今は如御釈「転法輪は、仏祖儀也」とあり、以仏祖当体転法輪とすべし。「仏祖いまだ不転法輪あらず、転法輪の様子」とて一々被挙也、以彼等皆転法輪とすべす。「声色を挙拈して、声色を打失す」とは、声色ならぬ一法なき所が如此云わるる也。又「声色を跳脱して転法輪す」と云えば、声色より猶勝りたる転法輪ありと聞こゆ。非爾、声色の声色なる道理が如此云わるる也。仏向上などと談ぜし程の理なり。所詮、声色・眼睛・拳頭・鼻孔・虚空等を以て、転法輪とは談(ずる)なり。是則法輪自転の道理なるべし。凡そ法輪と云う事は、輪王出世の時、金・銀・銅・鉄の四輪ありて、諸々の悪物を摧破する故に、白地にも如此悪心を帯物なし。今は仏出世し給う時、諸々の天魔・波旬・外道等法輪に被摧破、故に「転法輪」とは云う也。
  • 如文、如前段云。「此の明星の姿、鼻孔・桃花・虚空の当体、皆転法輪なるべし、仏祖をとり法輪をとる則也」とあり。仏祖の姿、法輪なる所を如是被釈也。

転法輪(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。