正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第七五 出家 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第七五 出家 註解(聞書・抄)

禅苑清規云、三世諸仏、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、伝仏心印、尽是沙門。蓋以厳浄毘尼、方能洪範三界。然則、参禅問道、戒律為先。既非離過防非、何以成仏作祖。

受戒之法、応備参衣鉢具並新浄衣物。如無新衣、浣染令浄、入壇受戒。不得借衣鉢。一心専注、愼勿異縁。像仏形儀、具仏戒律、得仏受用、此非小事、豈可軽心。若借衣鉢、雖登壇受戒、並不得戒。若不曾受、一生為無戒之人。濫厠空門、虚受信施。初心入道、法律未諳、師匠不言、陷人於此。今玆苦口、敢望銘心。既受声聞戒、応受菩薩戒。此入法之漸也。

あきらかにしるべし、諸仏諸祖の成道、たゞこれ出家受戒のみなり。諸仏諸祖の命脈、たゞこれ出家受戒のみなり。いまだかつて出家せざるものは、ならびに仏祖にあらざるなり。仏をみ、祖をみるとは、出家受戒するなり。

摩訶迦葉、隨順世尊、志求出家、冀度諸有。仏言善来比丘、鬢髪自落、袈裟著体。ほとけを學して諸有を解脱するとき、みな出家受戒する勝躅、かくのごとし。

般若波羅蜜経第三云、仏世尊言、若菩薩摩訶薩、作是思惟、我於何時、当捨国位、出家之日、即成無上正等菩提、還於是日、転妙法輪。即令無量無数有情、遠塵離垢、生浄法眼、復令無量無数有情、永尽諸漏、心慧解脱、亦令無量無数有情、皆於無上正等菩提、得不退転。菩薩摩訶薩、欲成斯事、応学般若波羅蜜

おほよそ無上菩提は、出家受戒のとき満足するなり。出家の日にあらざれば成満せず。しかあればすなはち、出家之日を拈来して、成無上菩提の日を現成せり。成無上菩提の日を拈出する、出家の日なり。この出家の翻筋斗する、転妙法輪なり。

この出家、すなはち無数有情をして無上菩提を不退転ならしむるなり。しるべし、自利利佗こゝに満足して、阿耨菩提不退不転なるは、出家受戒なり。成無上菩提かへりて出家の日を成菩提するなり。

まさにしるべし、出家の日は、一異を超越せるなり。出家の日のうちに、三阿僧祇劫を修証するなり。出家之日のうちに、住無辺劫海、転妙法輪するなり。出家の日は、謂如食頃にあらず、六十小劫にあらず。三際を超越せり、頂□(寧+頁)を脱落せり。

出家の日は、出家の日を超越せるなり。しかもかくのごとくなりといへども、籮籠打破すれば、出家の日すなはち出家の日なり。成道の日、すなはち成道の日なり。

詮慧

〇「禅苑清規云―此入法之漸也、離過防非」と云うならば、「成仏作祖」には難及戒也。「成仏作祖」の詞、小乗戒にはあるべからず。「離過防非」と云うは大乗の過(とが)を離れ、大乗の非を防ぐと可心得。世間の過・非にて、あるべからず。

〇「成仏作祖」と云う、争か可「受声聞戒」哉、不叶其理。但唐土之法(は)剃髪すれば、必ず「受声聞戒」、次(に)「受菩薩戒」也。

〇六道死生流転の面目なれば、其因に依りて其果置かず。人界の生を受くる、依其業因、但人界(は)同じとも仏道を修行する人あり、罪業を経営する人あり。貧福貴賤さまざま有る中に、仏道を見聞するは勝れたり。人界をば因果を以て決する易し。仏道の方は量り難し、

今(の)出家の功徳も、人天の方にては可知、知家非家捨家出家(『身心学道』『発菩提心』)と云う。

〇「入壇受戒、不得借衣鉢。若借衣鉢、雖登壇受戒。並不得戒」と云う(は)、近代(ちかごろ)は多く借衣鉢して受戒(する)也、又請鉢事これあり。如何但雖非正説、無衣鉢して不受戒よりは、借りても受けんは勝るべし、故に借衣を許す也。且(らく)清規に「若不曾受、一生無戒之人」と見えたり。不便々々(は)日本国こそあれ、宋朝などには衣鉢不持して、出家と云う事あるべからず。

〇抑も酔婆羅門(は)、定んで衣鉢持たざりけん。仏の給いけるか借衣か、尤も不審也。酔い醒めて悔しまむずる者と、知ろしめしながら給うべきか不審也。

〇有為の善悪は向かう事あれば、果は失せぬかと覚えども、悪こそ報いて薄れ、善は猶残りて、成仏得道の時、現前すべし。

万善不行の修因に、この時集まる故に。

〇「師匠不言」と云うは、「濫厠空門、虚受信施」(と)誡むるに、初心入道の者の法律未だ諳んぜざると云わるるは、師匠の今、云い聞かせざるに当たる故に。

〇「陷人於此」と云う「濫厠空門、虚受信施」事を、人を此(ここ)に陷(おと)さんとは云う也。

〇「応受菩薩戒、此入法之漸也」と云う是は、ようよう入法となり。

〇「迦葉志求出家段―袈裟著体、諸有を度」と云う詞、少しも心得難し。打任せては、衆生を度する心地も有るべし。又迦葉の心地も、諸々の有を我度(わた)らんと願うにても有るべし。

〇出家に作法受得「善来比丘」と云う事あり。作法受得は請戒師儲剃手著袈裟なむど(などと・以下同様)する事なり。「善来比丘」とは仏、出家を許して善来比丘と被仰れば自然に鬚髪も落ち、袈裟自然に被著身也。但これを云うに作法受得も善来比丘も只同事と心得る(は)正伝とせり。仏、許さずは不可出家、故に所被免也。出家(も)同之被剃て、鬚髪の落もただ自落するも、鬚髪の落つる事同之、袈裟(も)又、以同之、故に同と云う。此の「自落」の「自」は衆生如教行、自然成仏道(『如法経現修作法』「大正蔵」八四・八九五中)の「自」に心得合わすべし。

〇「大般若経第三段―応学般若波羅蜜、出家日」が、しかしながら諸善は具足するなり。凡夫の方にて量り難し、当時仏法を深く云うと思う人も、ただ出家・在家同じかるべし。仏法を覚了せんとするこそ、詮なれなどと云う、是れ僻見なり。仏法を実に心得ん時は、いかにも仏法(の)方は重く、在家は軽かるべし。栴檀は小さけれども栴檀也。他木には不可准、出家の種は仏種なりと。

〇「翻筋斗」と云う、世間に此の詞を心得るには、凡身を捨てて出家し、入仏道これこそ翻えすにてあれと思うべし。誠に一且この見なかるべきには有らねども、出家の「翻筋斗」と云う。故に無上正等菩提等を、やがて「出家」と云う、これ「翻筋斗」也。打任せては出家の相即具足にてぞ「転妙法輪」はあると、出家を本に置きて具足せざる(は)是不可然となり。出家の面目やがて転妙法輪無上正等菩提也。「出家の日出家を超越す」と云うは、成道が出家を待つにあらず。出家して転妙法輪し後、成仏と三重に云えば始中終に拘わる法と成りぬべし。ただ同時也、一時也。故に「籮籠打破すれば、出家の日すなはち出家」と云い、「成道の日は成道日也」。

〇「出家の日は、一異を超越せるなり」と云う、この「一異」とは非一非二なる道理也。「超越せる」と云う心地は、「無上菩提」ぞ「自利利他満足」ぞ、「阿耨菩提不転、成菩提、三阿僧祇劫を修証する」などと云う、この一々を「超越す」と云う心地を「一異超越」と云うなり。

〇「出家の日は、謂如食頃にあらず、六十小劫にあらず。三際を超越せり、頂□(寧+頁)を脱落せり。出家の日は、出家の日を超越せるなり」と云う、尤(も)有謂一食の程に六十小劫を経るは、仏の説法を凡夫聴法しホレテスクスヲ(?)、仏の見は食事と思えども、六十小劫などと云う。これ可用説にあらず、凡夫出家すれば四姓出家、同(じく)称釈子とて、剃髪すればやがて釈子となる。この釈には四河入海無復本名とあり、「出家の日、成無上菩提」する上は、何の子細か有るべき(歟)。これを返して云う時、「籮籠打破すれば、出家の日則ち出家の日也。成道の日、則ち成道の日也」とあり、出家すれば、やがて釈子と云わるるこそは、「六十小劫」とも「食事」とも云う同義なれ。百千劫を経るとても、争(いか)でか釈子とは云われん。

経豪

  • 出家受戒時、被引清規文なり、具于文。

「衣鉢具」と云わるる「具」とは坐具を云う也。「具仏戒律、得仏受用、此非小事」(と)云うは、今の出家受戒の姿(で)わづかの事なむど(などと)不可思。故に「豈可軽心」やと云う也。「借衣鉢」事(は)、清規文(に)分明也。尤可用心。

  • 又「濫厠空門、虚受信施」とは、無戒の人いたづらに、粥飯等を受くる事を被誡也。「入道」とは道俗男女等、入仏家をば如此可云歟。「初心」の者には、尤可教也。不言は陥入於此(の)条、不便の事なるべし。大国には必ず先ず二百五十戒等の声聞戒を受けて後、菩薩戒を受くる也。日本(では)出家の時の沙弥戒などと云う心地歟。然而、必ずしも吾朝には毎度無此義歟、直(に)受菩薩大戒なり、如此浅き深きに至りて、先(ず)声聞戒を受けて菩薩戒を受くるを、入法の漸とは云うなり。
  • 如文。只「出息受戒」の功徳を明かさるるなり、無別子細。
  • 是又、如文。「仏善来比丘と被仰しかば、鬚髪自落し、袈裟著体しき」、此の「善来比丘」の御詞につけて、自然に髪も落ち、袈裟も著体するなり。
  • 是又、如文。打任せては、出家は今の作業出家之後、仏法をも修行して後、証無上菩提・成等正覚すべしと思い習わしたり。而如今経文は、「出家之日、即成無上菩提、是日転妙法輪」(は)一人に不限、「無量無数の有情」をも利益し、「遠塵離垢、生浄法眼、復令無量無数有情、永尽諸漏、心慧解脱、亦令無量無数有情、皆於無上正等菩提、得不退転」とあり。所詮、出家受戒の日、無量無数の功徳悉成満する也。尤も貴く憑敷事也。「応学般若波羅蜜」と者(は)、今の道理の般若波羅蜜と名(づく)也。
  • 「出家之日を拈来して、成無上菩提の日を現成せり。成無上菩提の日を拈出する、出家の日なり」と云わるる也。出家の日と不各別理が、如此云わるる也。此の道理を「翻筋斗」とは云うべき也。打ち違え上下したる詞を、今は翻筋斗とは(云う)也。
  • 是又、如文。「出息受戒」の功徳を、重ねて被讃嘆也。御釈に聞こえたり。「謂如食頃、六十小劫」(『法華・序品』「大正蔵」九・四上)とは経文也。「謂如食頃」蹔時の事と聞こゆ。「六十小劫」なむど(などと・以下同様)云うも、劫数を定めたるに似たり。今の「出家受戒」の姿、まことに是等に拘わるべきにあらず。「三際を超越せる」上は、不及子細、「三際」と云うは過去・現在・未来を云う也。
  • 是は喩えば何(いづれ)の年の何の日、出家したりと云い、仏の成道は十二月八日にてこそあれなどと、年月日をも論ずべきにあらず。「籮籠打破する上の出家成道」と云わんは、是等の度量に不可滞。「出家の日は只出家の日なるべし、成道の日は則ち成道の日なるべし」。坐禅すれば十方を坐断し、殺仏する程の義なるべし。

 

大論第十三曰、仏在祇洹、有醉婆羅門、来至仏所、欲作比丘。仏勅諸比丘、与剃頭著袈裟。酒醒驚怪見身、変異忽為比丘、即便走去。諸比丘問奉仏、何以聴此醉婆羅門、而作比丘、而今帰去。仏言、此婆羅門、無量劫中、無出家心。今因醉後、暫発微心、為此縁故、後出家。如是種々因縁、出家破戒、猶勝在家持戒。以在家戒不為解脱。仏勅の宗旨あきらかにしりぬ、仏化はたゞ出家それ根本なり。いまだ出家せざるは仏法にあらず。如来在世、もろもろの外道、すでにみづからが邪道をすてて佛法に帰依するとき、かならずまづ出家をこふしなり。

世尊あるいはみづから善来比丘とさづけまします、あるいは諸比丘に勅して剃頭鬚髪、出家受戒せしめましますに、ともに出家受戒の法、たちまちに具足せしなり。しるべし、仏化すでに身心にかうぶらしむるとき、頭髪自落し、袈裟覆体するなり。もし諸仏いまだ聴許しましまさざるには、鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられざるなり。しかあればすなはち、出家受戒は、諸仏如来の親受記なり。

釈迦牟尼仏言、諸善男子、如来見諸衆生楽於小法、徳薄垢重者、為是人説、我少出家、得阿耨多羅三藐三菩提。然我実成仏已来、久遠若斯。但以方便教化衆生、令入仏道、作如是説。

しかあれば、久遠実成は我少出家なり、得阿耨多羅三藐三菩提は我少出家なり。我少出家を挙拈するに、徳薄垢重の楽小法する衆生、ならびに我少出家するなり。我少出家の説法を見聞参学するところに、見仏阿耨多羅三藐三菩提なり。楽小法の衆生を救度するとき、為是人説、我少出家、得阿耨多羅三藐三菩提なり。しかもかくのごとくなりといふとも、畢竟じてとふべし、出家功徳、それいくらばかりなるべきぞ。かれにむかうていふべし、頂□(寧+頁)許なり。

詮慧

〇「釈迦牟尼仏言―作如是説、楽小法」とは小乗法也。世間にも小事などと云わん(が)如し。

〇「我少出家」と云う(は)、今日霊山の仏面我少出家也。今日の八相は仮説なり、さてこそ顕品と云う事もあれ、子弟ともに品を現わす。新成妙覚偏照等と云うも「久遠実成」の仏と云い、諸法と挙ぐれども実相と解説し、或内秘菩薩行、外現是声聞とら云う。しかれば実(際)にも、新成の仏もあるべからず。今の「我少出家」の御詞も、「久遠実成」の御詞に現われぬと云う事なかれ。此の「少」字を若くして読むべき歟。不可違、十九出家又、幼くしてと読むべき歟。然者不可違七歳出家、「我少出家」と云う。「我」の字は余方には付吾我(と)心得、こなたには不然。我依今日出家近しと思う。「久遠実成は我少出家」なるなり。我与大地有情同時成道は、いつと云わず時代不定也。

〇仏対機して説く時、世界は厭うべし。無常転変の法ぞと嫌わせらはしませども、やがて不生不滅と被仰。「我少出家を得阿耨多羅三藐三菩提」と云う上は、新成とも久遠とも不可分。阿耨多羅の詞あるべからず。

〇仏出家事、経々(つねづね)不同、十九出家(『景徳伝灯録』一「大正蔵」五一・二〇五中)二十五出家、是両説也。又は『梵網経』は七歳にして出家(「大正蔵」二四・一〇〇三下)すと仰せらる。

〇「出家功徳、それいくらばかりなるべきぞ。彼に向かいて云うべし、頂□(寧+頁)許なり」と云う無際限心地なり。「出家」と云うは頭剃なり。故に「頂ばかり」と云う詞ありと、計るべからざる処を如此と云う。頂□(寧+頁)・眼睛・鼻孔などと此の門に常に仕い来たれり、無際限事也。

経豪

  • 今の大論(止観輔行伝弘決二之五)の文は、酔婆羅門の事を被出也、御釈分明也。見于文。
  • 如御釈。「或善来比丘」と被仰しかば、「頭髪自落し、袈裟覆体」し、或いは又「剃頭鬚髪、出家受戒」せしめて御事もあり、「共に是れ出家受戒の法、忽ちに具足する也」。「仏化すでに身心に蒙ぶらしむる時、頭髪自落し、袈裟覆体す」。「諸仏いまだ聴許し御さず」、宿習縁なき時は実にも「鬚髪剃除せられず、袈裟覆体せられず、仏戒受得せられぬなり」。此の条(は)証拠顕然の事也、非可疑。故に「出家受戒は、諸仏如来の親受記也」とは被釈也。
  • 是は『寿量品』(の)文也。此の経文の面は、「見諸衆生楽於小法、徳薄垢重者」と云えば、わづかの小法を願い、徳薄垢重なる者の為に、説「我少出家、得阿耨多羅三藐三菩提」とも、我実には「成仏已来、久遠若斯」と被説たるを、『寿量品』の奇模とす。「但以方便教化衆生、令入仏道、作如是説」とあれば、「以今方便教化衆生、令入仏道」被仰たりと見たり、経文分明也。

出家(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。