正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵第五十二 仏祖 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第五十二 仏祖 (聞書・抄)

宗礼。仏祖の現成は、仏祖を挙拈して奉覲するなり。過現当来のみにあらず、仏向上よりも向上なるべし。

詮慧

○「宗礼」という、ただ仮名詞に読むなり。無別儀。「仏祖を挙拈して奉覲する也」という、一代聖教この心なるべし。教行証を仏の上に置きて云うべし。教を因位に置き、証を果位とは思わざれ。ゆえに「仏を挙拈して、仏を奉覲す」となり。たとえば無情説法は、無情得聞とも云え衆生得聞とも云え、その心(は)変わらず。今も衆生を挙拈して、衆生を奉覲すとも云うべし。衆生(は)仏祖なるべきゆえに。

○「仏向上よりも向上なるべし」と云う、仏向上と仕うは上下の心地にはあらず。仏の全面をこそ、仏向上とは仕う時に、無際限を「仏向上」と云うべし。ゆえに先の詞に、際限なき上は、後の向上も、可無際限、ゆえに解脱の詞也。

経豪

  • 仏祖の法を現成せしめん時は、「仏祖を挙拈して奉覲する也」。此の「奉覲」は、仏祖に人ありて奉覲せんずるように聞こゆ、仏祖の仏祖に奉覲する道理也。然者、仏祖の姿を、則ち奉覲と可談なり。此の時の「過現当」の三世(は)、仏祖現成の過現当なるべし。又「仏向上よりも向上なるべし」とあれば、仏向上の上に猶、又物のあるべき様に聞こゆ、無しかは其の儀あるべき。旧見の上下を超越しぬる上は、向上の上の上下なるべし。只仏向上の仏向上なる道理を以て如此仕也。

 

まさに仏祖の面目を保任せるを拈じて、礼拝し相見す。仏祖の功徳を現挙せしめて住持しきたり、体証しきたれり。

経豪

  • 「仏祖の面目を保任せるを拈ず」とは、所詮仏祖の道理を拈じて、「礼拝とも相見とも」談ずる也。「仏祖の功徳を現挙して、住持すとも体証すとも」仕う也。只仏祖究尽の道理が、無尽の詞にも通じ、理にも通じて談ぜらるる也。聊かも無違儀を以て、仏法とも仕い直指法とも談ず也。是以下、五十代祖師名字被列之、如草子。

仏祖(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。