正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六十四 優曇華(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六十四 優曇華(聞書・抄)

霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、我有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉

詮慧 

〇「霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目―我有正法眼蔵涅槃妙心」なり、必ず拈華枝とは思うべからず。

〇今の草子の本意、法譬因縁等にあらず。余門には拈優曇華の義(は)無之。「我有正法眼蔵」とある我有は、茶飯と云わんも、払子拄杖と云わんも可同也。

〇「于時摩訶迦葉、破顔微笑」と云う、所詮、「附嘱摩訶迦葉」なり。如此云う時は、ただ一句とも可心得、又二句とも心得ぬべし。破顔微笑などと云えば、面のありさま許りと覚えたり。しかのみならず『発菩提心』の時、談ぜし所の「心心如木石」とも又「雪山喩大涅槃」とも可心得。

経豪

  • 此文を打ち任せて、人の心得たるようは、「世尊拈優曇華して、百万衆の前にして、我有正法眼蔵涅槃妙心、附嘱摩訶迦葉」と被仰して、百万衆は皆不心得して、迦葉ひとりさとり給う故に、釈尊附嘱摩訶迦葉と、被仰せたりと多分心得たり。実にも文の面はかく見たり、又此の義もなかるべきにあらず。但是は約(おおよそ)時分は、四十余年の説、其内に今の義暫時ありける事と覚えたり。広狭にも拘わりぬべし、時分の遠近もありと聞こゆ。旁非祖門直指理、凡見なるべし。今の釈尊優曇華・百万衆等、努々(ゆめゆめ)各別に不可談、只一体也、一理也。然者釈尊の拈優曇華とや云うべき、優曇華釈尊を拈ずとや云うべき。又釈尊釈尊を拈じ、優曇華優曇華を拈ずともや談ずべき、又百万衆は不会にて、迦葉ひとり会すと不可心得。附嘱摩訶迦葉の時は、百万衆迦葉に蔵身すべし。故に迦葉ひとり会して、百万衆は不会也と云う理とあるべし、百万衆許り会して、迦葉不会と云う道理もあるべき也、能々閑可了見事也。又釈尊ひとり拈優曇華し給うとこそ思いつるを、「七仏諸仏は同じく年華来也」とあり。釈尊与七仏諸仏、全不可別体、差別なき道理あきらけし。

 

七仏諸仏はおなじく拈華来なり、これを向上の拈華と修証現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり。

しかあればすなはち、拈華裏の向上向下、自佗表裡等、ともに渾華拈なり。

詮慧

「七仏諸仏は同じく拈華来也」と云う、如三世諸仏諸法の儀式なれば、仏々相伝無違、法華経をば三世諸仏出世の本懐と云う。これのみならず、大小権実教、仏説都不可替なり。然者拈華来也、この故に拈華より外の法あるべからず。「裂破開明せり」とあるは、これ解脱也。

〇「向上の拈華と修証現成せるなり。向上下、向自他、向表裏、渾華拈」と云う、残る所あるべからず。

〇「直下の拈花と裂破開明せり。拈華裏の向上向下、自他表裡、花量仏量、心量身量也」、已上如此談ずる時に、拈優曇華ならぬ事、不可有。尽十方界真実人体とも、沙門一隻眼ぞ、自己光明ぞと説くも、只是程の事也。

経豪

  • 釈尊拈華の姿則是、「七仏諸仏拈華来」の理なるべし。此の道理を「向上の拈華と修証現成し、直下の拈華と裂破開明せり」とは云わるる也、拈華の向上拈華の直下なるべし。
  • 是は「向上下、向自他、向表裏等」、皆拈華の上の所談なるべし。故に「渾華拈也」と云う、全華拈の理也。「拈華」とあるを「華拈」と打ち返されたり、是は能所なき道理を表わさるるなり、常事也。優曇華優曇華を拈じたる道理か、「渾華拈」とは云わるる也。

 

華量仏量、心量身量なり。いく拈華も面々の嫡々なり、附嘱有在なり。

世尊拈華来、なほ放下著いまだし。拈華世尊来、ときに嗣世尊なり。

詮慧

〇「世尊拈華来、放下著いまだし」と云う、世尊と云えば、必ず拈華瞬目なるが故に、放下著すべからず。故に「いまだし」と仕う。「拈」という詞に付いて、放下著の詞もあり、これいく諸仏も拈来なるべし。仍って放下する事があるまじき所を「放下いまだし」と云う也。しかあれば又「嗣世尊」の条無疑。

〇「拈華世尊来、ときに嗣世尊なり」という、世尊嗣世尊と也。拈華瞬目と別体とは云うまじ、拈華がやがて瞬目なる也。華の華を拈ずるにてはなし、たとえば華拈と華也、世界又拈花なるべし。

経豪

  • 「華量仏量、心量身量」、其皆今は拈華の上の華、仏心身なり。所詮附属摩訶迦葉とあれば、只迦葉一人附属と聞こえたり。今の向上向下、自他表裏等、皆悉附属ならずと云う、理なき所を「面々の嫡也、附嘱有在也」とは云う也。
  • 世尊の拈華し給う御姿は、かかる事の一時ありけるかとこそ覚えたれ。而今は「世尊拈華来、放下著いまだし」とは、此の拈華来いまにたえず、さしおかずと云う心地也。此の理を「拈華世尊来、ときに嗣世尊也」とは云うなり。

 

拈花時すなはち尽時のゆゑに同参世尊なり、同拈華なり

いはゆる拈花といふは、花拈華なり。梅華春花、雪花蓮華等なり。

いはくの梅花の五葉は三百六十余会なり、五千四十八巻なり、三乗十二分教なり、三賢十聖なり。これによりて三賢十聖およばざるなり。

詮慧

〇「拈華時すなわち尽時の故に同三世尊也、同拈華也」と云う、拈華は尽時なり、尽時は拈華なり、是を「同参世尊」とも云う也。

〇「梅華春花、雪華蓮華」、一一に仏となり、過去の七仏を迦葉仏ぞ、尸棄仏ぞなどと数えるが如く、梅春雪蓮等を挙げ連ぬる也。

〇「三賢十聖也、是によりて三賢十聖不及也」という、梅華の方よりは皆被捨、三賢十聖の方よりは不可及也、故に不及という。

経豪

  • 「拈華時すなわち尽時の故に」、放下著いまだしと云いて、嗣世尊なりとも云うなり。「同参世尊なり、同拈華也」とは、世尊と拈華との姿は、各別にこそ思いつるを、今は以世尊称華、以華号世尊上は、同参世尊とも、同拈華とも云わるべき道理顕然也。所詮、世尊(は)世尊と同参し、拈華(が)拈華と同拈華なる理に可落居なり。故に「拈華と云うは、華拈華」と被決也。
  • 文に聞こえたり。「拈華」と云えば、いかにも釈尊と華とは各別に覚ゆる也。今は「華拈華」と談ず如前云。又優曇華は諸仏出世し、輪王出現の時生ずる華、希代珍しき物也。「梅華春華已下蓮華等」は常にあり、目に盛りたり。勝劣異也と思い付けたるを、今の梅華已下の姿をやがて優曇華とは可談也。
  • 如御釈。「三百六十余会なり、五千四十八巻、三乗十二分教、三賢十聖」等を梅華の五華(葉)とは可談なり。三賢十聖(を)打ち任せて心得たる様にては、今の梅華の五華とは難談所を如此被釈也。

 

大蔵あり、奇特あり、これを華開世界起といふ。

詮慧

〇「大蔵あり、奇特あり」と云う、大蔵とは諸教の事也。奇特は点茶来、手巾来程の事を謂う。

経豪

  • 「大蔵」とは経の名也。実(に)今の所談可謂「奇特也」と、又「華開世界起」とは、華は世界の内の一箇の姿、世界は総体と被心得ぬべし。今は此の世界を華開と談ず、故に華開世界起とは云う也。

 

一華開五葉、結果自然成とは、渾身是己掛渾身なり。

桃花をみて眼睛を打失し、翠竹をきくに耳処を不現ならしむる、拈花の而今なり。腰雪断臂、礼拝得髄する、花自開なり。

詮慧

〇「打失」と云うは悟也。霊雲拈桃華、香厳拈竹也。仏の拈優曇華の定なり。仏身優曇華なれば仏身は打失と云うべし、只優曇華ばかりなり。霊雲拈桃花なれば、霊雲は打失と云うべし、香厳拈翠竹なれば、香厳は打失すべき也。「翠竹をきくに耳処を不現ならしむる」と云う、これは眼処聞声方得知の心也。

経豪

  • 是も「華開後果結」と心得えば、常の凡見不珍道理なるべし、華与果全不可各別。是は初祖の偈頌也、此の理は「渾身是己掛渾身なり」。是は如浄禅師の風鈴頌を開山の和して仰せある句歟、御詞を被取出歟。風鈴が別物にて虚空に掛かりたれば、離るとは不可心得、虚空与風鈴、別体にあらず。只渾身が渾身に掛かりたる道理なるべし、仍って此の証に被引なり。
  • 抑も霊雲の桃華を見て悟道せし、只我等が華紅葉を見るようにはあらじ。今の桃華を見る、霊雲の眼睛は、梅華が霊雲を見つけるか、又桃華が桃華を見つけるか、霊雲の霊雲を見つけるか、香厳の翠竹を聞けるも以同前なるべし。以翠竹やがて耳ともやしつらん、翠竹が香厳を聞けるか覚束なし。故に「眼睛を打失し、耳処を不現ならしむる、拈華の而今也」とは云うなり。

 

石碓米白、夜半伝衣する、華已拈なり。これら世尊手裡の命根なり。

経豪

  • 所挙の腰雪断臂已下の姿を、皆拈華の道理也と被釈。又「世尊手裡の命根」とも可談なり。

 

おほよそ拈華は世尊成道より已前にあり、世尊成道と同時なり、世尊成道よりものちにあり。これによりて、華成道なり。拈華はるかにこれらの時節を超越せり。

諸仏諸祖の発心発足、修証保任、ともに拈華の春風を蝶舞するなり。しかあれば、いま瞿曇世尊、はなのなかに身をいれ、空のなかに身をかくせるによりて、鼻孔をとるべし、虚空をとれり、拈華と称ず。拈花は眼睛にて拈ず、心識にて拈ず、鼻孔にて拈ず、華拈にて拈ずるなり。

経豪

  • 世尊の拈優曇華の姿は、如来与華同時也と心得所を成道より已前、成道より後と談ずれば、同時の詞も旧見には不帰也。今の「前後同時」の詞は、仏性の沙汰の時、仏性は成道より後に具足するなりと云いし程の前後なるべし。又世尊の成道とこそ思い習わしたれども、華与世尊、一体の上は非別体上は、尤(も)「華成道」とは云わるべき也。実(に)拈華の上の時節長短等を超越すべき条勿論なり。
  • 是は所詮、今「諸仏諸祖云うも、発心発足と談じ、修証保任」などと重々に云わるれども、只拈華の上の理のあらわるる所を「春風を蝶舞する也」とは云う也。拈華の千変万化する姿を云うべき也。
  • 「瞿曇世尊、華の中に身を入れ」というは、此の華が世尊なる所を如此云也。「空の中に身をかくす」と云うも、此の空を世尊と談ずる故に、空の中に身をかくすとも云う也、此の鼻孔(は)又虚空なるべし。「鼻孔をとる姿(は)又虚空をとる」なるべし。

「拈華」と云う詞に付いては、世尊優曇華を拈じ給いぬると云えば、我等が如扇笏を手に持したらんずるように心得たり、不可然。故に「眼睛にても拈じ、心識若しくは鼻孔にても可拈」とは云う也。実にも強手裏許にて可拈と云う義あるべからず。世尊の拈優曇華の理、眼睛にても心識・鼻孔乃至、行住坐臥、生死去来にても可拈なり。是等の道理が、「華拈にて拈ずる也」とも云わるる也。

 

おほよそこの山河天地、日月風雨、人畜草木のいろいろ、角々拈来せる、すなはちこれ拈優曇花なり。生死去来も、はなのいろいろなり、はなの光明なり。いまわれらが、かくのごとく参学する、拈華来なり。

経豪

  • 御釈に分明也。右に所挙の二つ(の)姿(は)、皆「是優曇華也」とあり、非可貽不審。「今我等が参学するまでも、皆拈華来也」と云うなり。

 

仏言、譬如優曇花、一切皆愛楽。いはくの一切は、現身蔵身の仏祖なり、草木昆虫の自有光明在なり。

皆愛楽とは、面々の皮肉骨髄、いまし活々なり。しかあればすなはち、一切はみな優曇華なり。かるがゆゑに、すなはちこれをまれなりといふ。

詮慧

〇「仏言―一切皆愛楽」、一切皆愛楽など云うは一切を面目とする、これ愛楽なり。極楽世界の楽と云うは、此の三界の楽に対して、猶すぐれたりと説く故に極と云う字はあるべし。但こなたには不可用、極楽とは云えども、法身の極があらん上は只、一且かりの極なるべし。三界唯心こそ極とは云うべけれ、妙覚のさとり、諸法実相なるべし。「希也」と云う詞、優曇華につけたるが、又希と云う詞、世間に云うには可違。三界唯心諸法実相などと云わん、これ希の義なるべし。

〇「活鱍々」(は)愛楽なり。

〇「譬如」の詞は、喩雪山と云いし喩え也。たとえと云えばとて、両物あるにあらず。此の「譬如優曇花、一切皆愛楽」はただ一切衆生悉有仏性、如来常住無有変易と心得るべし。優曇華と云えばとて、華を愛する心にのみ不可染汚。

〇諸法実相と聞く、能観所観を立てて云わば、所観の我は残ると聞こえぬべし、この「一切は現身蔵身」と云い、「面々の皮肉骨髄」と云う。

経豪

  • 法花経文なり。是も常には喩えの詞と聞こゆ。其の故は優曇華(は)有り難き物也。今の法華経も如此遭い難く、難見難聞なる喩えに被引と覚えたり。而今の御釈に「一切皆愛楽、いわくの一切は、現身蔵身の仏祖也、草木昆虫の自有光明在也」とあり、然者愛楽の人、所愛の華と各別なるまじき条顕然也。うどん華の姿を、やがて愛楽とも可談也。
  • 「面々」とは、「現身蔵身仏祖、並びに草木昆虫」等を指す歟。此の上の「皮肉骨髄いまし活鱍々也」とは、此の上の皮肉骨髄まことに、彼是皆可尽界ゆえに、活鱍々と云う也。所詮「一切は皆優曇華也」とあり、分明に聞こえたり。又「希也」とは、たまさか(思いがけない)なる珍事を、我等は希也とは思い習わしたり。今の「希」の詞は、所詮優曇華ならず一法(は)不可有道理を以て希也とは可云也。

 

瞬目とは、樹下に打坐して明星に眼睛を換却せしときなり。

このとき摩訶迦葉、破顔微笑するなり。顔容はやく破して拈華顔に換却せり。

如来瞬目のときに、われらが眼睛はやく打失しきたれり。この如来瞬目、すなはち拈華なり。優曇華こゝろづからひらくるなり。

経豪

  • 是は釈尊明星を見て、成正覚給うと云う。打ち任せての定に心得ば、所見の明星、能見の釈迦乃至以眼睛明星を見と云わば、旁不可離能所。今は不爾、以此明星為釈尊眼睛、此上には更無能見所見。明星則釈尊釈尊則明星也。今の瞬目を世人心得たるは、釈尊目くわしし給うを、余人は不心得。迦葉一人心得て、破顔微笑すと心得所を、明星に眼睛を換却せし時とある上は、旧見の見不見に関わり、能見の釈尊、所見の明星などと思いつる、旧見は忽破するなり。
  • 「迦葉の破顔微笑する、顔容はこのとき破れて、今は迦葉破顔微笑の姿は、打失して拈華顔に換却するなり」、故に迦葉ひとり破顔すとは不心得也。一切皆優曇華ならんには、実(に)迦葉の顔容は尤可破也。
  • 是は「如来瞬目」をば、只釈尊一時の御姿にて、御すと心得常事也。而(しかるに)「如来瞬目」と云う事出でくる時は、瞬目の外又交わるべき物なき故に、「如来瞬目の時、我等が眼睛、はやく打失し来たれり」とは云う也。如来の瞬目の御姿を今は「優曇華の心づから開くる」とは云う也。

 

拈花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切のわれら、ともに一隻の手をのべて、おなじく拈華すること、只今までもいまだやまざるなり。さらに手裡蔵身三昧あるがゆゑに、四大五陰といふなり。

詮慧

〇「手裏蔵身」と云うは、拈花の時節を差(指)すなり。華を拈ずる故に、手裏と云う。華現前すれば、身は蔵身するとなり。

経豪

  • 優曇華の御姿は、釈尊一人の御事と思い習わしたりつるを、今は「拈花の正当恁麼時は、一切の瞿曇、一切の迦葉、一切の衆生、一切の我等共に、一隻の手をのべて、同じく拈華すること只今までも、いまだとどまらざる也」とあれば、旧見に大いに違う。但此の拈華の道理尤如此いわるべき也。此の拈華、始中終に拘わるべからず、尽時なるべき故に。「只今までも未止(いまだやまざるなり)」とは云う也。又如前云、必ずしも手裏許にて不可有、手裏の上には四大五陰も、乃至色声香味触法等もあるべき也。

 

我有は附嘱なり、附嘱は我有なり。附嘱はかならず我有に罣礙せらるるなり。

我有は頂□(寧+頁)なり。その参学は、頂□(寧+頁)量を巴鼻して参学するなり。

我有を拈じて附嘱に換却するとき、保任正法眼蔵なり。祖師西来、これ拈花来なり。拈華を弄精魂といふ。

弄精魂とは、祗管打坐、脱落身心なり。仏となり祖となるを弄精魂といふ、著衣喫飯を弄精魂といふなり。おほよそ仏祖極則事、かならず弄精魂なり。

詮慧

〇「拈華を弄精魂」という、これに世間・出世(の)心得(を)分かつべし。精魂を置いて弄せば「祗管打坐、脱落身心」とは難云を、今仏法に付きては、如此いわるる也。「仏となり祖となるを弄精魂」と云う故に。経豪

  • 此の我有正法眼蔵涅槃妙心、摩訶大迦葉付属の御訓をば、「我」と云うは釈尊也。御已証の法を迦葉一人に被付属と、多分心得たり、此の分も一往なかるべきにはあらず。但如此心得れば、有失先釈尊与迦葉、各別になるべし。又如来の御已証として、甚深法を持ち給うと云えば法与如来、又二途なるべし。非祖門仏法、今日「我有」をやがて「付属」と談(ずる)也。「我有」と云う時は、迦葉あるべからず、故に「我有は付属也、我有也」と云う也。此の道理が「我有に罣礙せらるる」とは云う也。
  • 今の「我有を頂□(寧+頁)」とは指す也。「頂□(寧+頁)量を巴鼻す」とは、無辺際量を以て参学すべしと云う也。我有を頂□(寧+頁)と云う、やがて頂□(寧+頁)量を巴鼻して、参学する姿なるべき。
  • 如前云。釈尊已証の法を以て、迦葉に付属し給うと心得るは、背直指理を如今云い、「我有を拈じて付属に換却する道理を正法眼蔵也」とは被釈なり。「祖師西来の姿を以て、拈花来」と可談。「拈華の姿を又弄精魂」とも可云なり。
  • 「弄精魂」とは、於意識上、思量分別する事を名づく、是凡見なり。今は如御釈、坐禅の姿を以(始め)て仏祖の行住坐臥、動揺進止を弄精魂と可名なり。「仏祖極則の事、必ず弄精魂なるべし」と云う此心なり。

 

仏殿に相見せられ、僧堂を相見する、はなにいろいろいよいよそなはり、いろにひかりますますかさなるなり。

さらに僧堂いま板をとりて雲中に拍し、仏殿いま笙をふくんで水底にふく。

到恁麼のとき、あやまりて梅華引を吹起せり。

詮慧

〇「仏殿に相見せられ、僧堂を相見する」と云う、此の仏殿僧堂は仏面祖面なり。

〇「板を雲中に拍す」と云う「雲中」とは僧を指す、雲衲などと云う故に。「拍す」とは板について云う也。「笙をふくんで水底にふく」と云う、是も僧を雲水と云えば水底と云う也。仏殿伎楽につきて笙と云う許也、別に子細あるべからず。

〇「梅華引を吹起せり」と云う、梅華開五葉の姿を、かく説くなり。

経豪

  • 「仏殿に被相見」と云う詞、争わざる事あるべきぞと覚えたり。是は只我等が、旧来思い習わしたりつる。土木の構(かまえ)を仏殿僧堂などと心得ん時の事なり。是は非仏法理、只仏殿は仏殿に相見し、僧堂は僧堂に被相見道理なるべし。雲門は僧堂仏殿厨庫山門と光明を談ぜし時は被示れき、以之可准知事也。
  • 此のぶ僧堂仏殿等の道理の無尽に表わるる所を、「花に色々そなわり、いろに光ますますかさなる也」とは云う也。
  • 此の詞(は)何事ぞと覚えたり、是も古き詞歟。所詮、「板を取りて雲中に拍するようも、仏殿笙を含んで水底に吹く姿も、不可類凡見。仏殿をや、笙とも談ずべからん。水中に吹く姿も以凡見案ずれば、争わざる事あるべきと覚ゆ、能々可了見事也。
  • 是は前には、優曇華を談ず。今は「あやまりて梅華引を吹起するなり」。「あやまりて」と云えば、悪しく成りたる詞とは不可心得。優曇花の今「梅華を吹起するなり」。其と云うは優曇華はめづらしく、重(たき)物と思い習わし、梅華は常の華、珍らしかるべきにあらずと取捨分別すべきにあらず。優曇華与梅華、無軽重、浅深義。優曇華の道理の響きて、梅華と現るる所をあやまりて、「梅華引を吹起せり」とは云う也。

 

いはゆる先師古仏いはく、瞿曇打失眼睛時、雪裡梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱吹。いま如来の眼睛あやまりて梅花となれり。梅花いま弥綸せる荊棘をなせり。

如来は眼睛に蔵身し、眼睛は梅花に蔵身す、梅花は荊棘に蔵身せり。いまかへりて春風をふく。しかもかくのごとくなりといへども、桃花楽を慶快す。

詮慧 

〇「先師古仏―却笑春風繚乱吹」、仏打失眼睛して、梅華となる、これ発心修行也。僧堂仏殿等(の)相見、これら皆梅華の繚乱なる事を説くなり。

〇「桃華楽を慶快す」と云うは、音楽に付いて出でくる詞也。

経豪

  • 此の天童の御詞、所々に被引之、如前云。「如来の眼睛あやまりて梅華となれり」とあり、梅華の尽界に弥綸する姿を、「荊棘をなせり」とは云う也。
  • 御釈に聞こえたり。「如来は眼睛に蔵身し、眼睛は梅華に蔵身す、梅華は荊棘に蔵身すべ

き也」、是則ち一方に顕わるる時、一方(は)隠るる道理なるべし。梅華は春風に被吹かと

こそ思い付きたれ、今は却りて春風を吹とあり。逆に聞こゆ、只所詮今の春風を梅華と可談

ゆえに、如此云わるる也。又「桃華楽を慶快す」とは、梅華の功徳の千変万化する時、今桃

華と顕わるる姿を如此云也。「慶快」とは円満満足の心地歟。

 

先師天童古仏云、霊雲見処桃花開、天童見処桃花落。しるべし、桃花開は霊雲の見処なり。

直至如今更不疑なり。桃花落は天童の見処なり。桃花のひらくるは春のかぜにもよほされ、

桃花のおつるは春のかぜににくまる。たとひ春風ふかく桃花をにくむとも、桃花おちて身心

脱落せん。

詮慧

〇「天童古仏―桃華落霊雲桃華開」これ拈華瞬目也、開明也。天童の「桃華落」是は脱落の

義なり。「風に被催と云うも、風に憎まると云う」も、皆桃華の上(の)詞なり。仏の上に

成仏と説き、脱落と云う程の事を桃華の開くるとも、落つるとも云う也。又「開与落」の両

字は、有仏性・無仏性の有無ほどの詞なり。

経豪

  • 霊雲は桃華の開くを見て悟道す。今の天童の見処は桃華落とあり、此の「開落」の詞、

雖似不同、桃花の上の開落也。今更得失勝劣の儀あるべからず。「桃華の開所をしばらく春

風に催さる」とは云い、「桃華の落所をしばらく春風に憎まる」とは云う也。然而非得失浅

深。桃華の落つるは、猶開と云うよりも悪しく聞こゆ。是凡見也。非可取所、今の落の字は

如御釈。解脱の姿、身心脱落の道理なるべし。

                                   優曇華(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かな

づかい等は、小拙による改変である事を記す。